縄文を旅する4 南の縄文 沖縄〜九州03 2014.02.05(水)
サキタリ洞 武芸洞 ガンガラーの谷 沖縄県南城市玉城字前川202番地 098-948-4192
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交通 |
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バス 玉泉洞線「玉泉洞前下車」 |
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見所 |
ガンガラーの谷は数十万年前に鍾乳洞・石灰岩洞穴が崩落し、谷状になったところです。 |
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洞穴の一部は洞窟群として残存し、そこに旧石器〜近世までの遺跡が積み重なっています。 |
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年代 |
港川人 |
1万8000年前 |
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サキタリ洞人 |
2万年前 |
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〃 |
1万2000年前 |
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武芸洞人 |
2500年前 |
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00位置 沖縄の洞窟観光やハブショーで昔から知られる玉泉洞、現・おきなわワールドの向かいにあり、同一観光会社が所有しています。
地図右下方です |
ガンガラーの谷・サキタリ洞と武芸洞が現場です |
県道17号線をくぐって「おきなわワールド」に入っていきます。只見ですね。 |
そうならないよう、この地図には、それがない。
観光地点名もわざと方言で記入。
珍珍洞とかだからです
婦女子や子どもにマズイ |
雄樋川(ユヒ)は天然の良港に注ぎ、丸木舟が停泊し、漁労もし易かった。
港川フィッシャーは近隣 |
サキタリ洞と港川人
港川フィッシャーの位置 |
雄樋川と湾は
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天然の良港で、南から丸木舟でやってきた旧石器人も、貝交易の船も、停泊しやすく、水も食料も得られ、嵐をやり過ごすにも、最適の場所だった。
さらに、その上流に大きな洞窟があり、住処としてはこの上ないものだった。(長く洞窟住居が続いた。)
つまり
港川フィッシャーに落ち込んだ1万8千年前の港川人も、サキタリ洞の2万年前の人骨も、1万2千年前の
子供も、サキタリ洞や武芸洞を住処とし、この付近で生活していました。
そして
それ以降も、港と、水と食料と、巨大洞窟の住居のあるこの付近は、2500年前の貝交易の
水夫や商人から、薩摩時代の秘密の武芸鍛錬場や 近代戦の避難壕としても使われたのです。 |
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サキタリ洞付近の遺跡と自然環境 |
サキタリ洞 武芸洞 港川フィッシャーは雄樋川を遡れば繋がってしまう |
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01ガンガラーの谷と遺跡発掘の新聞報道
ガンガラーの谷入口駐車は無料今のところ |
入り口に展示の新聞記事 |
1万2千年前の人骨出土 |
石器と人骨が同時に出土した喜び。
沖縄では人骨だけが出土し文化がわからなかった |
8000年前沖縄最古の土器発見
沖縄の縄文史が塗り替えられた |
押引文土器(おしびき)
の発見南島爪形文土器とは違う文化人の土器であることが重要。
沖縄独自の文化 |
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「空白の時期」とは
18000年前の港川人と
6000年前の南島文化人との間、1万年間を埋める遺跡として
12000年前サキタリ洞人が位置づけられるということ。 |
「県内最古の土器」
南島爪形文土器は、6000年前中九州の曽畑式土器文化人が南下してできた土器文化と言われていたが、
それ以前8000年前に土器文化が存在していた |
この発見は
この発見は僅か8uの場所から発見された。
しかし、その周囲の遺跡はすでに完全に破壊されています。これ以上の展開は今後ないでしょう。 |
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02カフェと発掘現場 サキタリ洞
ガンガラーの谷カフェつい最近このように重機を入れて破壊されました |
調査区U港川フィッシャーに近く大きな自然洞には遺跡があること百も承知だのに |
なぜ沖縄県は遺跡が破壊されるに任せたか。貴重な沖縄史が消滅した |
土層の展示 |
沖縄には同様の洞窟が沢山あるのに、いまも放置状態である。 |
悲しい |
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41ケイブツアーと発掘現場
ツアーの説明 エセ地図と方言地名でなんもわからんよ。(笑) |
サキタリ洞調査区Tこんな狭所で1.2万年前と2万年前の人骨が出土 |
破壊された遺跡全体ならどれほど貴重なものが出ただろうか。 |
つらら石の崩落も多く、いつか事故が起こるだろう |
洞窟の奥から数十万年前の崩落谷の上に出た。埋設された洞窟の上。 |
崩落した山体の上が稜線状になっている。 |
足元が崩落山体、川は昔の洞窟河川で雄樋川、左右の崖は元の洞窟壁 |
男洞(珍珍洞)
母洞は進入禁止で省略。何があるかわかるよね。 |
洞窟壁は河川で浸食
石灰岩に不整合面が見える |
拝所 (種之子御嶽) で性的な祭祀や行為があったのかもしれない |
これがご本尊。ってこんなの拝んで子どもが生まれるかね。 |
ガイドの説明は周囲数名対象で他は無視。高額を払ったのに悪質だ。 |
それにしても拝所がランプ置場とは。
礼拝所不敬罪だ(笑) |
谷を登っていくと |
大岩が出てくる。全体像がとらえきれないが山体崩落時の山の一部です |
こんな巨大な崩落を起こした鍾乳洞は沖縄には沢山あるそうです |
天井が崩落した洞窟跡です |
小さな鍾乳洞が残り |
大主ガジュマル岩が引っかかってブリッジとなっている天然橋 |
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ガジュマルの
巨大な空中根(気根) |
この根は岩の割れ目から地下深く水脈まで伸びていきます |
500年ほど前の墓か拝所の一部です。確認電話繋がらずそのままに |
上原家の門柱墓
近代です |
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沖縄は地下洞窟だらけ。家の下に巨大地下空間を持つ家もある |
ツリーテラス展望台 |
樹上ではなくて下には石灰岩の崖があります |
内地人とウチナーのカップル。次の武芸洞へ続く |
武芸洞へ薩摩時代隠れて棒術や空手の鍛錬した場所 |
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51武芸洞 武芸洞
調査区W3m×2.4m箱式石棺墓の 標石と蓋石の下から人骨が出土 |
石棺の内部は海砂を運んで埋設していた。 |
石棺の下には以前埋葬された骨が二体分あった |
調査区X6000年前の爪形文土器や大量のイノシシ骨が出土 |
伏臥伸展で左腕から4oの貝珠12個、頚下からカサガイの胸飾り、腰部にシャコガイがあった |
左足付近にもカサガイ
これらは骨に直接触れておらず、後から置かれた供献品であった |
箱式石棺墓の石か崩落したつらら石 |
調査区X |
調査区VとU |
大量の崩落石の下から人骨が出土(風葬)し、その下に箱式石棺墓の蓋石が発見された。 |
別の調査地点からは
大量の崩落石の下から風葬以前の人骨出土
その下から
4800BPの面縄式土器
6000BPの爪形文土器 が、次々と発見された |
引用 南城市武芸洞遺跡発掘調査の概要 |
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ガンガラーの谷発掘事業は
ガンガラーの谷の入口にあたるサキタリ洞と出口にあたる武芸洞で行われています。
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条痕文土器とそれに伴う遺物 縄文時代前期 約5000年前
4800年前層の出土物 |
条痕文土器とそれに伴う遺物 |
条痕文土器状態の良い写真がなく、唯一これだけ発見しました。 |
ツノガイのビーズ
犬の下顎骨
シレナシジミ
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砂岩の打製石器
チャートの打製石器 |
犬の下顎骨と
ツノガイのビーズ写真引用「サキタリ洞遺跡見学会資料」 |
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63縄文早期
(押引文土器 8000年前)発見。1個分の胴部の破片が約20点見つかった。復元すると約30センチの鉢になるそう。
押引文土器は、表面に強弱をつけながら、へら状の道具を押し付けた文様をつける
この発見により、沖縄発見の土器と年代 (南島爪形文土器 6000年前) を遡った。
※押引文土器の下層から無文厚手土器が発見されているが年代の確定はまだ。縄文早期か
引用南城市サキタリ洞遺跡の発掘調査写真と図 サキタリ洞見学会資料
写真・文引用は 01琉球沖縄ロマン 02押引文土器 03条痕文土器 04土器文様 05近江の条痕文土器
※なぜか8000年前の土層からは押引文土器の出土しか発表されていません。
調査区Uの土層 |
押引文土器見学会では丸だし展示 |
手で運んで並べたようだ
樹脂で補強したのかな |
土器形状と部位 |
更に古い無文厚手土器 |
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サキタリ洞 調査区T
661万2000年前
子供の上顎乳犬歯1点長さ約2p(乳歯)と 石英製の剥片石器(石英)3点発見。
暦年更正1万5000年前で縄文草創期。旧石器時代と呼べない 。が、旧石器時代と呼んでいる。土器未発見のため旧石器なのかも。
写真・文引用 01「石器と人骨・・・」 02「新発見!12000年前の・・下」 03「新発見!12000年前の・・上」
初期に発表された石器 |
初期発表の乳歯1本を5方向から撮影 |
その後石器は3点に |
右上の乳歯の犬歯 |
打撃痕のある石英と自然破壊の石英比較 |
矢印が打撃痕 |
1万2000年前の乳歯と石器が出土した土層 |
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12000年前の石器と人骨が共伴したことは大変な発見だ。
これを、旧石器時代と呼ぶか、新石器時代と呼ぶかは専門家任せです。 |
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しかし、乳歯ほどの大きさの石器って、
これで、何ができたのだろうか。
どんな道具なんだろう |
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67 2万年前(旧石器時代) 放射性炭素年代から1万9000〜1万6000年前(実年代2万3000〜2万年前)
人骨と貝器、炭化物、食物残渣が出土
人骨は、 大人の臼歯(2p)と足舟状骨(4〜5p)
貝器は、 二枚貝を整形して削器としていた
装身具は筒状のツノガイの破片でヒモを通すビーズ状製品
炭化物は木炭
食物残渣は、獣骨、大量の超大型モクズガニ(淡水産)の爪やカワニナ(淡水産貝)の化石
この発見により、沖縄の旧石器時代には貝器が利用されたことがわかった。
写真・文引用 01「旧石器時代:沖縄で貝器出土」 02「後期旧石器時代の貝器」 03「「サキタリ洞遺跡が歴史をつなぐ」」
人骨 大人の臼歯と
足舟状骨 |
貝器 |
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ツノガイ製ビーズクジャクガイ製貝器→ |
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食物残渣 カワニナの貝殻と巨大モクズガニ爪 |
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現代では考えられない巨大なモクズガニがいた。
巨大な物ばかり出土し、現代の物とは稚ガニと成体ほどの差。 |
雄樋川から採取して食用にした淡水産蟹貝は、超巨大だった。 |
石灰岩台地を流れる川は貧栄養だと思っていましたが、
超富栄養だったことになる。 |
この河川が流れ込む湾も超富栄養で、魚介類が豊富で巨大だったということなのでしょうか。 |
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71講演会 ―サキタリ洞遺跡の3万年― から引用
調査区Tの土層2万年前のU層(灰色)から、炭化物、大量のモクズガニの爪やカワニナのほか貝器が出土した。
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貝器の作り方サキタリ洞出土の海産貝には、道具として加工・使用されたものがある。
右下の写真が貝器
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沖縄の旧石器時代は漁労採集生活だった。(シカやキョンは、2万年前絶滅。イノシシを除く)
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猛毒動物の多い中を北部中部に石材を獲りに行き、持ち帰るのも大変だったでしょう。
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陸棲動物の解体は少なく、石材に乏しく、魚介調理には貝器で十分間に合った。
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沖縄ではイノーを生活の場に、貝器文化が盛んだった。
中国では竹器文化があったといわれている。 |
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75貝器 ―沖縄の貝器文化を探る― から引用
沖縄では旧石器時代人骨に石器が伴わなかった。しかし、石器ではなく貝器であることがわかり、
これまでの発掘を検証しなおし、貝器の可能性を探ることで解決されるかもしれない。
野尻湖では、旧石器人が、手に入れやすく加工が簡単な骨器を多用したのと理屈は同じである。
身近なもので代用する。最も便利で合理的である。
いろいろな貝器猟漁具-貝鏃
工具-貝刃 削器 ナイフ
刺突具 叩き具
漁具-釣針 貝錘
装飾品-貝玉 ビーズ
容器-貝皿 貝匙
象徴品-有孔製品
獣形貝製品(龍)
(獣形垂飾品) |
マルスダレガイの工具
削器、ナイフ
硬い石の得られなかった沖縄南部では、道具として貝器が使用されました。 |
クジャクガイの工具
ナイフ
貝の腕輪やビーズ。貝鏃、各種加工具。釣針、網のおもり。容器。
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ツノガイや二枚貝の
装飾品
装身具や魔除けの呪術具など、
貝殻はあらゆる生活用品に利用された。
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二枚貝の一端を打ち欠いた加工痕。
この扇形の部分を刃器として使用した |
クジャクガイの使用痕
もともとナイフとして使いやすい形ですね。
小学生の頃、子供会で海水浴に行き、砂を掘っていたところ、貝殻ですっぱり指を切ったことを思い出す。
そうとうな鋭さだった |
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サキタリ洞は、
洞内の遺跡はほとんど破壊されています。広い洞内のほとんとどが掘削されて観光地となっており、
遺跡はほんの少し残った本来の地盤の中から発掘されました。
言い換えるなら、大半の貴重な遺跡が××活動のために破壊され、琉球弧の旧石器時代を知る手がかりを永遠に失いました。
これは、琉球人にとって悔やんでも悔やみきれない悲しみです。 |
81武芸洞
薩摩藩の支配下にあった時代、隠れて棒術や空手の鍛錬をした洞窟だった。 引用
なんか、カポエイラみたいですね。
踊りだったらアイルランドの足踏みだけの踊り(ステップダンス)みたいですね。 |
武芸洞内の発掘地図 |
拡大図 |
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引用南城市武芸洞遺跡発掘調査の概要 引用01縄文人の左腕に貝ブレスレット
武芸洞の発掘1
大量の崩落石の |
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下から人骨が集中的に含まれる層があり、 |
その下から |
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縄文時代中期(約4000年前)の面縄前庭式土器を含む炉跡・焼け土や灰を含む層が出土。 |
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更に |
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縄文時代前期(約6000年前)の南島爪形文土器を含む層に到達。沖縄南部では初めて。沢山のイノシシ骨を伴出。 |
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石斧や砥石の破片も発見され、ここは6000年前から人々の生活の場であった。 |
大量の崩落石の下に人骨 |
面縄前庭式土器
4000年前
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炉跡 4000年前 |
南島爪形文土器
6000年前 |
石斧 6000年前 |
すみません
2番と4番の写真が出典不明です |
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武芸洞の発掘2
別地点では、
縄文時代晩期(約2500年前)の箱式石棺墓が出土。伏臥無傷の水死or病死の40代の小柄な男性。左腕に巻貝製ビーズ12個の腕輪。
腰にシャコガイ。頚と左足付近からカサガイの有孔製品。宇佐浜式〜仲原式頃の土器片。シャコガイは副葬品で魔除けです。
この墓は、
「貝交易の語る琉球史 木下尚子教授」に登場する貝交易の西九州の縄文人型弥生人の墓です。
水死か病死か。伏臥姿での埋葬は仰臥できなかった。死後硬直か腐敗が進んでいたか。ですね。たぶん後者。手足指が散らかっていた。
※埋葬下から二体分の人骨が脇に寄せられて置いてあった。墓を作るとき偶然出て来たのか、それとも以前死んだなかまなのか。
海岸線から離れた山中の洞穴に埋葬したのは、近くに彼らの村があったのか、洞穴が住居だったか、舟から運んできたかですね。
※石棺墓の下から見つかった二体を保存処理後港川人と比較する計画がある。旧石器人の人骨なのか。 引用
93ガンガラーの谷
発掘のようす発掘のようす |
腰付近に置かれた
シャコガイ
魔除け、まじないとして
置かれていた |
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写真引用
ガンガラーの谷 など |
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94
人骨の発掘
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貝玉人骨と接していず、後から供えたものである |
貝玉の腕輪直径4oで12枚 |
石棺の下に二体の骨
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有孔カサガイ装飾品 |
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95
石棺墓の状態左腕の骨 |
石棺墓の状態2 |
石棺出土の土器片 |
石斧 調査区V |
貝玉 |
見学会 |
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武芸洞遺跡の石棺墓と沖縄先史時代の葬墓制
武芸洞の箱式石棺墓から見つかった人骨の下に、二体分の人骨が脇に寄せられて見つかったことについて。
石棺下部が埋葬に使われた段階と、石棺上部が使われた段階とがあった。従って、重層構造となった。
九州や台湾では同じ石棺が何度も使われた例がある。徳之島や読谷村木綿原遺跡では重層構造の石棺墓が見つかった。
ただし、これらの箱式石棺墓は、貝交易に従事する、西九州の縄文型弥生人か水夫の南島人かの墓です。
彼ら独特の強い絆が生み出した埋葬方法かもしれません。
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