感想 この館はとても興味深い研究をされていて、 2014年の特別展「大交流時代ー鹿乗川流域遺跡群と古墳出現前夜の土器交流」の図録では、先史時代の東アジアとの交易や、 国内における物流などを詳細にまとめた素晴らしい冊子でした。 ただ、その「交易地図」の写真が、不鮮明ながら写っています。何かの参考になるかと存じます。 お詫び このページをアップロードした後に、購入していた「常設展示案内」が見つかりました。 内容を見てみますと、撮ってきた写真や、書いてあったキャプションよりも詳しい解説でした。 いい加減な私の意見よりも、館の趣旨をそのまま伝えることのほうが大切と思い、急遽再編集して引用させていただきます。 |
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500安城市歴史博物館 常設展 |
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501入口展示
はじめに 矢作川の流域一帯を西三河といい、この川を挟んで、西三河の地形が形成されています。 矢作川の上流は、加茂の山地を警告を造ってレ加瀬れ、駐留は、額田・碧海の丘陵地帯を貫流して大河となり、下流は、播豆の平野が開けています。 そして、耐えることのない流れは三河湾へと注いでいます。ここが西三河の歴史の舞台となりました。 この地域は古代には東国に位置付けられながら、西 (大和・京) からの文化の影響を受け、しぜんに東西文化の交流地点となりました。 原始・古代には西からの風を受け、中世・近世には東 (鎌倉・江戸) からの風を強く受けることになりました。このようにこの地域が、東西文化の風を どう受け入れ、この地方の暮らしや文化をどう築いていったかを「大地に息づく人々の暮らしと文化」としてまとめることにいたしました。 この主題のもとに、この地域の歴史の流れを10のテーマに分けました。 1大地から歴史を読む (プロローグ) 2山と海の幸に生きる (原始) 3西からの風 (古代) 4東からの風 (中世) 5百姓の世界 (近世) 6村の文化 7暮らしの中のまつりと芸能 8日本デンマーク時代 (近世) 9町から都市へ 10ふるさと安城 (エピローグ) 言うまでもなく安城を中心とした西三河の歴史と文化が、それぞれの時代ごとに展望できるよう構成されています。 この図録は常設展示の理解を助けるために、テーマごとに図説したものです。これを活用していただくことによって、地方史への関心を深めて いただくばかりか、歴史への知的好奇心を満たしていただけるよう期待するものです。 安城市歴史博物館長 転載「安城市歴史博物館 常設展示案内」 |
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502第一章 大地から歴史を読む 日本列島へ渡ってきたものたち 今から2万年前、日本列島はアジア大陸と陸続きでした。このため多くの動物や植物がわたってきました。 当時の地球は、100万年余り続いた氷河期の最後の寒期を迎え、平均気温は今より8℃も低く、海水面は140m下がり、大陸と繋がっていました。 今日、化石で見つかるマンモスゾウやナウマンゾウなども、大陸から渡って来ました。その後、大陸と離れましたが、この時渡って来た 動植物によって、列島の自然環境が出来上がりました。
東海地方、そして これは、地上705km、地表観測衛星ランドサットから見た東海地方の様子です。 緑色の大和、青色の海に囲まれて平野があります。やや赤みを帯びているのは、都市の発展したところです。 ここ安城は、平野のほぼ中央にあり、矢作川が山と海とを結んでいます。
西三河の人々とその足跡 私たちの歴史を振り返ると、人々は、生活様式や様々な条件によって住む場所を変えてきました。 縄文時代の人々は狩猟や漁撈、木の実などの植物採集で生活していました。この為、彼らの生活の跡は、山地や海岸沿いに多く見られます。 当時の海水面は最大で現在よりも5mも高かったので、現在の内陸部の奥深くまで入り江が入り込んでいました。 やがて弥生時代になると、稲作が始まり、矢作川流域をはじめ、水利に適した低地に住むようになりました。 江戸時代には集落が発達し、次第に現在に近くなります。しかし、碧海台地の上は不毛のままでした。 ここが本格的に開かれるようになるのは、明治用水の開通を待たねばなりませんでした。
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510第二章 山と海の幸に生きる (安城の原始) |
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511ヤリから弓矢へ 人々が使用した狩猟具は、木の葉型尖頭器⇒有舌尖頭器⇒石鏃の順に変わってきたことがわかります。これは狩猟技術の進歩と捉えられ、 手に持つヤリ⇒投げヤリ⇒弓矢の矢という変化があったことを表しています。 旧石器時代の狩猟具の中心は、木の葉型尖頭器の手持ちの槍でした。これによる狩猟は獲物に接近しなければならずナウマンゾウなどの場合 危険であり、また、気づかれて逃げられることも多かったでしょう。 旧石器時代終末期、約1万2000ねんまえ頃、木の葉型尖頭器を小型化した有舌尖頭器が工夫され、投げ槍として使われました。 これにより、遠くから獲物を射止めることができるようになりました。 縄文時代になると石鏃を鏃として屋に付け、弓矢による狩りが行われるようになりました。弓は矢を鋭く、早く、遠くへ飛ばすことが過できると共に 獲物の刻々に変わる情勢に合わせた、素早い対応ができます。これにより、鹿や猪などの機敏な獣を獲ることができました。 鏃には毒を塗って効果を高め、猟犬を使って獲物を追い詰めたり、落し穴も利用しました。 猟犬は現在の柴犬に近く、死後は丁寧に埋葬されました。 転載「常設展示案内」
三河の旧石器時代 日本列島で、確実な人類の足跡が確認できるのは、約4万年前以降です。この旧石器時代にはナイフ形石器・尖頭器・細石器などが使われました。 安城市ではこの時代の遺跡は見つかっていませんが、 三河地域では、矢作川・乙川流域(豊田市・岡崎市)や豊川・西古瀬川流域(新城市・豊川市)に、 旧石器時代の遺跡が多く、 特に駒場遺跡 (豊川市)や西牧野遺跡 (岡崎市)などでは、石器が多量に出土しています。
約12,000年前 縄文時代
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520縄文時代 |
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521照葉樹林の恵み 縄文人の食生活は、エネルギーの67%を植物からとり、バランスのとれたものでした。この主食がドングリなどの木の実でした。 西三河には、どんぐりの実が多く採れる照葉樹林が広がっており、毎年秋には恵みの森となっていました。 ドングリを食べるには、煮たり、粉にしてから水にさらしてアクを抜かねばなりませんでした。アクを抜いたドングリは、粥状にするか、 丸めて団子にして調理され、浅鉢に盛り付けて食べられました。 ※粉末を水さらしすると流れて行ってしまう。煮てデンプンが水溶性になると、やはり流れてしまう。、、と、私は思うのですが。 ひき割った状態が水晒しに適当、、、。完璧な布袋がなかった(目の粗いアンギン編のみだ) から流れてしまうでしょうね。 |
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522安城市域の縄文遺跡 縄文前期には温暖化が進み。市域では南東部の沖積地まで海が入り込んでいました。 その後、矢作川が運んだ土砂により、陸地化が進み、晩期には西尾市の市街地付近まで陸地になっていたと推定されています。 また、油ヶ淵周辺でも大きく海が入り込んでおり、内湾を形成していました。 碧海台地の上は照葉樹林に覆われていました。 台地上に位置する安城市域では、縄文草創期から後期までの集落は見つかっていませんが この頃のものと考えられる有舌尖頭器や石鏃が市内各地で見つかっており、狩場として利用されていたと考えられます。 縄文時代中期末には境遺跡で土器が、後期末~晩期初頭にかけては仏供田遺跡 (柿崎町) で土器と石棒が出土しており、 生活の痕跡が見られるようになります。市内で本格的に定住活動が確認できるのは晩期になってからのことです。 ※碧海台地 (洪積台地) 上では水場が少なく枯れやすいため、生活拠点を設けることが困難でした。 |
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石刃の威力 金属器以前、人々は石の刃を使っていました。石刃は、打製のものと磨製のものに分けられます。特に打製の一技法である押圧剥離法によって 作られた刃は、切れ味の点では金属の刃に、決して引けを取りません。黒曜石やサヌカイトは特に優れた材料です。 黒曜石は火成岩の一種の流紋岩の化学組成を持ち、急冷されてできた天然ガラスです。黒曜石の産出地は、長野県和田峠付近、伊豆神津島 箱根など全国でも数か所しかありません。しかし、黒曜石の石器が出土する遺跡(後期旧石器時代以降)は、ほぼ全国に広がっています。 このことは、人々が既に全国規模の交易を行っていたこと、そしていかに良質の石刃を求めたかを表しています。黒曜石が運ばれた石の道を たどると、人々が野山を越えて交流した姿が想像されます。 石器の形態は、 旧石器時代の古い年代では、石のかけら同様のものでした。年代が下がるにつれて、機能分化 (用途に応じて変化する) と定型化 (同じ用途の物 が同じ形になる。) をしていき、縄文時代には、道具として立派な形に整っています。そして、この機能分化と定型化の流れは、現在の私たちの 身の回りの道具にも立派に生きているのです。 転載「常設展示案内」 |
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523様々な石の道具 石器は用途によって様々な形や大きさのものがありました。また、石材も用途によって使い分けられていました。 狩猟用の石鏃などは、鋭利な刃を得やすい薄く割れる石材が、 木の伐採に使われた磨製石斧は打撃の威力が大きく、衝撃に強いように重く割れにくい石材が選ばれました。
石器を作る 石器は用途によって形が違いますが、それだけでなく、選ばれる石材やその製作方法も違います。 ①石鏃を作る 石鏃は、縄文人が動物を獲るための重要な石器で、鋭い刃先が必要なため、石材には黒曜石、チャート、下呂石が用いられました。 まず、図のようにこれらの原石をハンマーでたたき、素材となる剥片を作ります。 次に、この剥片を皮で挟んで持ち、周囲から鹿角の先端を押し当てて押圧剥離で加工します。表面の小さな剥離痕はこの方法で作られました。 ②磨製石斧を作る 磨製石斧も伐採用の斧として縄文人には欠かせない石器で、石材には重く粘りのある玄武岩などが用いられました。 磨製石斧は、石材の表面をコツコツと潰しながら敲く敲打法によって、加工されます。 長い時間を要する作業ですが、最初は大きなハンマーで敲き始め、やがて小さなハンマーに持ち替えて美しい斧の形が作られます。 最後の仕上げには、砥石を用いて鋭い刃を研ぎ出し、更に刃以外の部分も磨かれます。
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525縄文晩期の石材流通ルートと遺跡ごとの石材構成 石材流通ルート ・ 黒曜石はほぼ無く、下呂石の転石が木曽川沿いに持ち込まれ、50%と、ほぼ主流になっていた。 ・サヌカイトが伊勢湾を横断して舟で渥美半島から美濃地方に搬入され、使用石材の半分にもなっていた。 近接した地域でも、使用石材が違う、流通が違う、とは、文化・部族・民族等が違っていたのでしょうか。 石材の流通 石器石材の産地は限られ、西三河の遺跡では、石鏃や磨製石斧の石材の多くは、他地域からもたらされていました。 ①下呂石 堀内貝塚・御用地遺跡などの晩期の遺跡から出土した石鏃の石材には湯ヶ峰(岐阜県)周辺で産出する下呂石が圧倒的に多く使われています。 ②サヌカイト 原石は、産出地近辺で採取された角の取れていない礫(角礫)と、木曽川を流れた下流で採取された礫(円礫)とがありましたが、 堀内貝塚・御用地遺跡では、円礫が使われました。 ③黒曜石 下呂石に次ぐのは二上山(奈良・大阪)産のサヌカイトで、伊勢から海路、渥美半島を経由してもたらされたと考えられています。 黒曜石は霧ヶ峰周辺(長野県)の石材がもたらされていますが、量的にはごくわずかです。 ④塩基性岩類 (玄武岩・ハンレイ岩など、二酸化ケイ素を42%~52%含むもの) 引用塩基性岩コトバンク 磨製石斧の素材は塩基性岩類※が多く、東三河の豊川流域で入手できる岩石です。 麻生田大橋遺跡(豊川市)をはじめとする豊川流域では、 多量の磨製石斧の完成品や未成品が出土しており、磨製石斧の製作が行われていたことがわかっています。 西三河で出土する磨製石斧の未成品は少ないことから、多くは東三河から製品として持ち込まれたと考えられます。 ※塩基性岩類とは、玄武岩、輝緑岩、斑糲岩、蛇紋岩
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526御用地遺跡は、 碧海台地東部に立地する縄文時代晩期から弥生時代前期にかけての集落遺跡です。 複数の土器棺墓を始め、柱穴など多くの掘り込みが見つかりました。また、シカやイノシシの骨やドングリなどが出土しており、 当時の食糧事情の一端を伺うことができます。 堀内貝塚同様、竪穴住居は見つかっていませんが、当時の集落の一部と考えられます。 |
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527御用地遺跡 縄文晩期 |
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530堀内貝塚 晩期 安城市堀内町の堀内貝塚 (縄文時代晩期 2700年前) から見つかっている動物の骨の多くは、鹿と猪です。これら機敏で力のある動物を捕獲 していたということは、彼らの狩猟技術がかなり高かったということを意味します。また、骨の分析から様々な狩猟規制についても分かります。 堀内貝塚の魚や貝の特徴は、海水産だけでなく淡水産も含まれていることです。これは、貝塚形成時の集落は入り江から奥に離れた場所に あったからです。 引用「常設展示案内」 参考資料 安城市/堀内貝塚 堀内貝塚 - 安城市歴史博物館 PDF堀内貝塚 愛知県安城市の縄文遺跡 - Hi-HO |
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531土壙墓(20号と23号)と人骨 20号土壙墓 上顎左右の犬歯2本、下顎切歯4本を抜いています。足を折り曲げて埋葬された20代の女性と推定。 23号土壙墓 2歳程の幼児の埋葬。土壙墓と土器棺墓という埋葬方法の違いは年齢に関係するのかもしれません。 |
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532堀内貝塚 縄文晩期集落の縁辺に位置する内陸部の貝塚です。貝塚は集落南東部の碧海台地の斜面に形成されています。 貝塚北側では多数の土壙墓や土器棺墓などが見つかりました。住居跡は発見されていませんが、墓と同じ場所にあったと考えられます。 桜井式土器 は、西三河における縄文晩期中頃の形式名です。堀内貝塚からの出土土器を基準に提唱されました。 形式は、深鉢を主体として、少数の浅鉢と壺から構成されています。深鉢は外面に巻貝や繊維の束などで整えた条痕が見られるのみで 文様のないのが一般的ですが、口縁部の周辺に細い竹を縦に割った工具で直線文や押引文、刺突文を施すものも見られます。 在地産のもの以外に西日本系や東日本系のものが見られるなど※、他地域との交流を垣間見ることができます。 ※詳細不明だが、西日本系・東日本系の桜井式土器があるのか、単に、東海地域産で東・西の土器を真似た物があるのだろうか。
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533堀内貝塚出土の貝 堀内貝塚航空写真 写真中央上の部分で多くの土壙墓・土器棺墓が見つかりました。右側は緩やかに傾斜していき、右下部分に貝塚が形成されています。
堀内貝塚には、汽水、海水、淡水の貝が混在している。 |
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534堀内貝塚の土壙墓・土器棺墓 縄文晩期~弥生前期 堀内貝塚の墓域 貝塚では、土壙墓20基(内1基は再葬墓)、土器棺墓15基発見されました。 時期は縄文晩期~弥生前期にかけてのものです。 土壙墓は膝を強く曲げた「屈葬」が多かったようですが、晩期末には足を延ばした伸展葬も見られます。 土器棺墓は日常の容器の底部を打ち割って穴に埋設し、この中に遺体を納めました。 縄文晩期の土器棺墓は立てた状態で、 弥生前期の土器棺は横倒しの状態で埋納されています。 東海地方の調査事例などから、4歳前後を境に 4歳以下は土器棺墓、 4歳以上は土壙墓に埋葬されたようです。 再葬墓はいったん埋葬し、骨だけになってから再び埋葬し直した墓です。 堀内貝塚では、3体の遺骨をまとめた再葬墓(16号土壙墓)が見つかっています。 |
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536土器棺
考察 ※縄文晩期の大規模な交易路 縄文晩期の大洞式土器は、 日本中に流通し、鳥取県の山中、智頭枕田遺跡や、沖縄県北谷町平安山原B遺跡 (晩期2500年前) からも出土している。 津軽半島十三湖などを中心に、日本海側に大規模な海路を利用した交易が盛んであったことが知られているが、 高知県足摺岬からも出土したという話を (当時それが太平洋側南限でした) 聞いていたので、太平洋側にも航路があったのかもしれない。 もちろん、智頭枕田遺跡のように、日本海側から更に陸路で持ち込まれたものもある。とにかく広い交易路でした。 これだけ長大で大規模な交易には、半島人の交易船が絡んでいたのだろうか。縄文の丸木舟だけでは運べない量の大洞式土器の量だ。 |
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堀内貝塚出土の動物遺体を分析する 堀内貝塚からは内湾の泥底に生息するハイガイ・マガキが非常に多く見つかっており、当時の堀内貝塚に住んでいた人々が、主に油ヶ淵のあった 内湾で貝を採取していたことが伺われます。また、獣骨ではシカとイノシシが圧倒的で、これらが狩猟の対象となっていたことがわかります。 魚骨はコイやフナなどの小型の淡水魚が過半数を占め、付近の河川での漁が盛んであると伴に、堀内貝塚が内陸部の貝塚であることが伺えます。
535堀内貝塚の動物遺体 |
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540縄文の祭祀 縄文時代の社会は、その全てが呪術に支配されていました。縄文人は自然現象から、豊作・豊猟・豊漁、生命の誕生、病苦の治療、習慣や習俗など まで、全て万物に内在する呪術的な力、つまり、それぞれに宿るカミ (精霊) によるものだと信じていたのです。 現代社会に生きる私たちにとって、奇異に感じるかもしれません。しかし、私たちの周りにも、仏滅の結婚式を避けたり、お守りを持ったり、縁起担ぎ の行動は多くあります。ただ、私たちは、このような呪術的な力を超自然的な遠くの存在として捉えるのに対し、縄文人たちは、完全に実在する、 自然で身近なものとしていたのです。 土偶は、豊かな乳房や安産型の体形、明らかに妊婦を表現した物もあることから、生命誕生への期待、多産、豊穣、再生にまつわる呪術に 関係あると考えられています。また、その多くが壊れていることから壊すことに呪術的意味があると考える説もあります。 石棒は、男性器の象徴です。寄って土偶同様に、生命の誕生、豊穣、再生などの呪術に関係したものと考えられています。 また、男の力、威厳、勇壮といったものを表しているとも考えられています。 耳飾りや貝輪 (腕輪) などの装身具は、単なる装飾のためではなく、全てが呪術的な意味を持って身に付けられていました。 多数の埋葬人骨の発掘例から、耳飾りと貝輪に男性の例があるものの、圧倒的に女性に多く見られます。 文と写真引用「常設展示案内」 |
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541縄文人のこころ 縄文人の生活は、常に「まじない」に頼っていました。身の回りの出来事は、物事に宿るそれぞれのカミ(神・精霊)のためだと考えられてました。 女性の体つきを強調した土偶や、男性を象徴した石棒は、生命の誕生に対しての強いあこがれと、豊かな実りへの期待をあらわしています。 耳飾りや腕輪などの装身具は、単なる飾りのためではなく、「まじない」の意味をもって身に着けられました。 |
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543石刀のかたち
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545縄文人のこころ |
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546碧海台地の縄文人 岡崎平野の西部一帯には洪積台地が広がっており、沖積低地との高低差は5~10mで、ほぼ北東から南西に向かって緩やかに高度を下げている。 この台地は、花崗岩・チャートが風化した砂礫・砂・粘土からなり、淡い赤褐色をしています。また、安城付近に産出する粘土を三河粘土といい、 瓦製造の原料になっています。 台地上の、海抜15~20m付近の窪地は、「黒ボク」と呼ばれる黒色土で、小河川の水源となり、または、ため池として利用されました。 利水に乏しい台地は、明治に入るまで長く原野のままでしたが、明治用水の開通によって、田畑となり、開発されるようになりました。 火の起こし方 原始的な発火法には、摩擦法と火打法があります。日本では古くは摩擦法、中でも、もみ切り法によっていました。 それは、錐を使うように、火きり杵を手のひらで回転させ、V字形に切れ込みを入れた火きり臼との間の摩擦によって火を起こす方法です。 材質は火種となる粉末ができやすいスギやヒノキが適当で、硬すぎても柔らかすぎてもうまくいきません。 摩擦により、切れ込みに発火した木の粉末が溜り、これが種火になるからです。 火打石や火打金で火花を飛ばす、火打法が用いられるようになったのは、古墳時代(1500年前)以降のことです。
縄文人の体格 安城の縄文年表
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突然の古墳時代 古墳時代 |
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565西三河の古墳時代 古墳時代の集落 安城市域では、古墳時代の集落も弥生時代から引き続き鹿乗川流域で営まれています。 古墳時代中期には朝鮮半島から新しい文化が日本列島にもたらされました。 竪穴住居には炉に替わってカマドが設けられ、U字形の鉄の刃を装着した農具が普及していきます。 また、ロクロ成形・穴窯焼成の須恵器もこの時期にもたらされ、愛知県では東山窯(名古屋市)で生産が始まりました。 須恵器と窯 須恵器はロクロを使って製作され、山の斜面を利用した窯で焼き上げる点で、土師器と異なります。 5世紀(古墳時代中期)に朝鮮半島から伝わり、愛知県では名古屋市東部の東山(千種区、名東区)で生産が開始されました。 須恵器を焼成した窯の基本的な構造は、焚口、燃焼部、焼成部、煙道からなります。 燃焼部から火炎を発生させ、窯内で上昇気流を起こし、焼成部に効率よく熱を運びます。 須恵器は、焼成中に空気が遮断されるため、灰色になり、1000℃以上の高温になるので硬く焼き締まります。
西三河の古墳 西三河では、中期初頭の正法寺古墳(西尾市)をピークに古墳の規模は縮小し、尾張・東三河よりも早く前方後円墳の築造を停止します。 (※中期初頭は4世紀末。中期は4世紀末~5世紀末。古墳後期は6世紀初頭~7世紀半ば。前期は3世紀後半~4世紀末) 6世紀中葉以降は小規模な円墳が主体になります。埋葬施設はいち早く横穴式系の埋葬施設を導入し、その後この地域で生まれた 三河型横穴式石室は、周辺地域に影響を及ぼしました。 様々な古墳の埋葬施設 石室は死者の棺を納める古墳の中心的施設です。 前期の古墳では竪穴式石槨や石を用いない粘土槨が一般的で、長大な棺を納めるのが特徴です。 やがて大陸や朝鮮半島の影響を受けて竪穴系横口石室が作られ始め、 後期の古墳では、横穴式石室が主流になります。こちらは後から追加して棺を納めることができます。 |
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600第三章 西からの風 (安城の古代) 弥生時代 |
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611縄文の顔・弥生の顔 |
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612稲のふるさと 弥生文化のもとになった朝鮮半島南部の農耕文化は、大陸の影響を受けて成立しました。 揚子江下流域では、約7000年も前の稲作文化が確認されています。 稲作は、揚子江上流、雲南・アッサム、三江併流地域の高原地帯から始まり、インド・東南アジアへも広がりました。 弥生時代の始まり 紀元前4~3世紀、朝鮮半島から北部九州地方へ稲作技術などの新しい文化が伝えられ、弥生文化が生まれます。 弥生時代前期の土器(遠賀川式土器)の分布から、弥生文化は、短期間のうちに西日本へ広がり、 三河地方の手前、濃尾平野まで進出したことがわかります。
考察 朝鮮半島の稲作農耕民 朝鮮半島では、 6,000年前頃に陸稲稲作開始。(ただし、証拠なし) 3,000年前頃に無文土器が出現し、この土器と共に水稲稲作文化が開始された 朝鮮半島の水稲稲作民は支石墓文化を持つ O1b2(Y染色体)でした。 朝鮮半島へ3,000年前に稲作を持ち込み、2,500年前には列島に渡って来た。 すると半島での稲作農耕の経験は500年である。 半島農耕祭祀は陸稲稲作文化なのか、支石墓文化人のものか、500年で成立した水稲稲作文化なのか。 ※支石墓文化は5,000年前のイラン(ペルシャ)で生まれ、稲作文化を携えて、3,500年前に朝鮮半島に到達したとされる。 この支石墓文化人は特異な人々で、列島に渡ってきてからも、他の半島人領地とは区画して独自文化を展開しています。 ※最近の発表では、弥生時代の開始は紀元前10世紀 (約3,000年前) と言われ、半島に伝わった稲作は、 間髪入れずに、または、同時に、列島に来たようだ。 |
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613弥生のムラ |
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※突帯文土器と遠賀川式土器 水田稲作の始まりの土器には二種類あり、 最初にやってきたのは突帯文土器。わずか200年で列島を西から紀伊半島まで、籾殻圧痕土器として稲作と密接なかかわりを持って拡大しました。 突帯文土器は、東海地方では条痕文土器となり、更に東へと拡散しました。 次に出現したのが遠賀川式土器で、先触れとなった突帯文土器の次に、風のように列島に広がり、あっという間に下北半島に到達しました。 |
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614二つの土器の広がり 西日本へ普及した弥生文化 (遠賀川式土器の分布) の東には、縄文色の強い文化が広がっていました。 条痕文土器は、この頃の三河地方の土器です。 稲作の始まった濃尾平野の遺跡や、縄文的な東日本の遺跡でも出土し、籾跡の付いたものも知られています。(条痕文土器=プレ弥生土器) このことは、三河の人々が弥生文化を受け入れ、それを東日本へ伝えたことを物語っています。
その後、この文化は突帯文土器と伴に瞬く間に西へ分布を広げた。 が、鈴鹿山脈を越えられずにいた。 条痕文土器の発生 突帯文土器が伊勢湾沿岸で変化したのが貝殻条痕文土器である。この変化に100~200年要し、その後、東海地方に条痕文土器が普及した。 弥生文化の先触れである突帯文土器文化人は、鈴鹿山脈を百年も越えられなかった。しかし、海の文化、貝殻条痕文が進出を許した。 この間に何があったのだろう。そして、貝殻条痕文文化人とは、どんな人々だったのだろうか。 混血集団の東海新出 東海地方に進出した弥生人は、海からやってきた突帯文土器文化人で、そうでなければ持ち得ない大きな貝殻を (海洋文化をあらわす) 器面調整に使い、おそらく高度な漁労技術を持った人々が、紀伊半島を南回りで辿りつき、食糧不足に悩む縄文人たちに大きな影響を与えた のではないだろうか。(東海地方の洞窟から混血弥生人の子供の埋葬骨が出土している。) 突帯文土器が貝殻条痕文土器に変化したのは、西三河である。その時、突帯文人は、まだ、鈴鹿山中で、尾張地方の縄文人に阻まれていた。 つまり、縄文人の国を飛び越えて、その東に突然突帯文人が出現した。これは「通り抜けフープ」か「船」以外に行きようがない。 九州西部では紀元前10cから大規模な貝交易が始まっており、船団が瀬戸内海を西進し、串本を回って東海に達しても不思議ではない。 貝殻条痕文土器の成立 これによって突帯文土器を母体とする条痕文土器が東海地域に成立し、鈴鹿山脈に停滞していたプレ稲作文化人である突帯文土器文化人も、 東海に広がることができたのかもしれない。 この東海地方の条痕文土器文化人は、 すると、最初は南回りの半島人と、のちに鈴鹿山脈越えの半島人と、東海縄文人との混血集団や、混合集団ではなかったのか。 混血・混合集団だから受け入れられたのではないだろうか。 条痕文土器文化の拡散 東日本では、異質な混血文化集団が東海地方で出来上がり、この文化勢力は東海に充満し、やがて、各地の縄文社会へと拡散していった。 それが、上図④「条痕文土器の分布と拡散」の意味するところではないかと考える。 ※(骨格が残っていれば検証可能)、(混血集団だから、各地の縄文人に受け入れられたのかもしれない。) 遠賀川式土器文化は水稲稲作文化の普及 遠賀川式土器文化人は、突帯文土器文化人のあとにやって来た人々である。彼らは西濃地域までは進出したがそれ以上は進めなかった。 やはり強い縄文勢力があったのである。 こうして、東海地方に水稲稲作が始まったのは紀元前2~3世紀である。随分遅れることとなった。 |
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弥生のムラのくらし
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621鹿乗川流域遺跡群 遺跡は、碧海台地の東の縁辺を南北に流れる鹿乗川と西鹿乗川沿いの南北約5kmに渡って連綿と連なる遺跡です。(下パネル写真③) 調査により、特に弥生時代から古墳時代にかけて西三河を代表する集落が営まれていたことが明らかとなっています。 北群と南群 遺跡群は大きく南群と北群に分かれており、北群が比較的断続的に営まれているのに対し、南群は時期により密度にかなりの差が見られます。 北群は、遺跡範囲と当時の集落の範囲が一致しないため、現在では当時の集落範囲をもとに8つの区に分けています。 遺跡群の中で最も早く集落が営まれるのが、弥生時代後半の中狭間地区です。 中期前半には竹ノ花・野辺・上橋下・下橋下の各遺跡からなる上橋下・下橋下地区にも集落が拡大します。 そして、終末期~古墳時代前期にかけて、多くの遺跡・地区で最盛期を迎えます。 特に中挟間地区と上橋下・下橋下地区は、弥生時代から古墳時代にかけて鹿乗川流域遺跡群の中核を荷う集落でした。 弥生時代の集落 弥生時代には集落の周囲を溝で囲む環濠集落がつくられるようになります。(下写真⑤) 市域では、本神遺跡(古井町)で環濠が見つかっています。住居は平面が方形の竪穴住居が一般的でした。 墓は、中期になると方形周溝墓が作られるようになります。 市域では、神ノ木遺跡(古井・安城町)で後期の方形周溝墓が5基見つかっています。 斧や鏃などは、後期になると石から青銅や鉄に置き換わります。 沖積地の遺跡からは農耕具や紡織具、建築部材、装身具などの多様な木製品が出土しています。 |
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622木製品 短甲(木製) 釈迦山遺跡出土例は肩部の破片です。縦に2列の穴が並んであけられており、紐を通していたと考えられます。 下懸遺跡出土例は胴部の破片と考えられます。外面に黒漆が塗られ、内面は赤彩されています。 いずれも実用品ではなく、祭祀用の可能性があります。 ※西日本各地からは、彩色された木製の短甲が沢山出土しています。実戦品と考えられています。 緯越具 (よここしぐ) 織機の部品。経糸 (たていと) の間に緯糸 (よこいと) を通す道具です。 |
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623弥生中期の土器 写真はパネルの竪穴住居から出土した中期中頃の瓜郷式土器です。 主な器種には、平底の甕や大型の鉢、尾張の貝田町式土器に系譜を持つ細頸壺。前期から続く条痕文系の太頸壺があります。 外面の調整や施文 (文様や装飾を加えること) には、伝統的な貝殻条痕文に変わり、先の細い棒を束ねた櫛状文が施されるようになります。
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624弥生時代後期の土器 下橋下遺跡 後期 竪穴住居から出土した後期初頭の八王子古宮式土器です。八王子古宮式は、滋賀県南部の影響を受けて尾張で成立した土器形式で、 三河にも波及しました。主な器種には、台付甕や高坏、壺などがあります。
台付甕は、食べ物の煮炊きに使われました。中期中頃の瓜郷式まで見られた外面の櫛条痕は、中期後半の古井式の頃に、板による調整に 変わります。 また、台付甕も古井式の頃に成立します。 瓜郷遺跡 高坏は、食べ物を盛る器です。中期終わり頃の長床式の時期に西日本の影響を受けて成立します。 壺は、水や食料の貯蔵に使われました。中期の壺に比べ、頸部の屈折がはっきりし、胴部中央に最大径がきます。 三河の弥生土器の型式
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625なぜか土器が撮影禁止 でも、他のHPで公開中 |
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640碧海台地の遺跡 |
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641宮下遺跡の竪穴住居 4×5mの弥生時代中期の竪穴住居です。全体に炭化物が多く出土しており、火災に遭った住居だと考えられます。 柱穴は後世の溝で壊されていますが、本来4本あったと思われます。 中央手前の穴からは焼土が見つかっているので、炉の可能性があります。土器は1か所にまとめて置かれていました。 ※下の記述もある。一旦途切れて、再度成立した時のことでしょう。 宮下遺跡は鹿乗川と西鹿乗川の合流地点の沖積地にあり、古墳中期~奈良時代 (約1500~1300年前) にかけての遺構です。 竪穴住居址は約1500年前のもので、住居内から粘土の入った穴が検出されました。 3棟見つかった掘立柱建物の年代は不明で、1棟は総柱建物で倉庫だったようです。 |
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642本神遺跡の環濠 本神遺跡は碧海台地の東縁辺に造られた弥生終末期の環濠集落です。濠は、深さ・幅ともに2m以上の断面逆三角形の環濠が各所で見つかり、 周囲を囲んでいたと推定されます。環濠からは多量の欠山式土器が出土しています。環濠の内側からは複数の竪穴住居が見つかりました。
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643神ノ木遺跡の方形周溝墓 弥生時代後期 周囲を方形の溝で区画して内側に土を盛り、遺体を埋葬した墓です。現在の大阪地域から伝えられた墓制で、三河では中期から見られます。 ※大阪地域からやってきた人々でしょうね。 神ノ木遺跡では、後期の方形周溝墓が5基まとまって見つかりました。 1つの溝からは、鳥を描いた線刻土器などが見つかりました。お墓にお供えしてあったようです この方形周溝墓は、中世の溝によって大きく壊されて内側の盛り土部分がなくなり、周囲を巡る溝が残るだけとなっています。 |
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645木製品 |
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考察 ※木製品から見る他地域との交流 鹿乗川流域遺跡群では多数の木製品が出土しています。未成品も多く見つかっており、木製品の生産も行っていたと考えられています。 土堀道具の鍬は、地域によって形が異なることがわかっています。 鹿乗川流域遺跡群では、鍬身の肩が丸みを帯びた伊勢系やそれが角ばった尾張系、なすびを縦に切ったような畿内系といった、 他地域の曲柄鍬が出土しています。 ※いろいろな地域から農民がやってきた。なぜだろう。浮浪民ではなく、農奴を売り買いしたのだろうか。 それとも、各遺跡は、いろいろな地域の勢力がモザイク状態に入植したのだろうか。 各地の農民がモザイク状に入植している理由はわからない。 しかし、農具はその土地の土質に適合したものが使われる。他地域の鍬は、きっと使いにくかったでしょう。 |
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650大交易 |
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651事前資料 岐阜・愛知の地域名 | |||||||||||||||||||||||||
652西三河の交流拠点 弥生後期から古墳前期にかけて、西三河の中心的な大集落であった鹿乗川流域遺跡群では、 近畿・北陸・関東地方など他地域の土器が多く見つかっています。 このことから、鹿乗川流域遺跡群では、遠隔地との交流が行われていたことが伺えます。 こうした交流は、この時期の列島各地でみられ、鹿乗川流域遺跡群は、西三河の交流拠点としての役割を担っていたことがわかっています。 ※他地域の土器が交流・交易で持ち込まれたという一時滞在による土器の滞留ということもあるのかもしれない。 しかし、先に見た、他地域の農具も出土するということは、農民は一時滞在ではなく、そこに骨を埋めたということです。 日本中の半島人の植民地から、列島各地へと、再入植が盛んでした。東北地方へも再入植しています。 ※鹿乗川流域にはなぜこんなに遺跡が集まっているんだろう。 地図を見れば、一級河川矢作川が流れるそばの、ほんの小さな川筋の流域に多数の人々が集まって狭い所で暮らしたんだろう。 山奥からの物資の交易なら矢作川で行うし、海から小舟で上がるには便利だが、魚屋さんが行商に来るわけでもないはずだ。 大河と乾燥台地に挟まれた僅かな湿地帯。どんな良好な条件があったんでしょう。
鹿乗川流域遺跡群の外来系土器出土地点
考察 弥生社会の流動性・不安定化 遺跡から多地域の土器が出土することを、旅による通過。交易のための一時立ち寄りだと思っていました。 超古代社会は閉鎖的で、一集落は一部族や一権力者によって支配され、商業的交易は行うものの、基本排他的であるという、 江戸時代の封建集落を念頭にしていました。 本当のことは、安城市歴史博物館の研究者にご教授頂くか、そのような人がいなければ類推するしかない。真相は解明不能となるが、 鹿乗川流域遺跡群は、こんな狭い地域に多数の異なる他地域出身者たちの集落が隣接するのはなぜだろう。 普通なら、一族一集団で広い地域を占有して開墾し、農業生産をし、集落を経営していく。豊かな土地であればあるほど独占的・排他的である。 すると、この地域は一族のものとなる。 だが、狭い地域に、列島各地から多数の農民が移住するのは、当時の社会が大変流動的であり、不安定であったからではないか。 開拓の失敗、自然災害、飢饉、襲撃。様々な要因で土地を失い、生活不能となった人々、あるいは新天地を求めた人々。このような流浪民。 東北地方で見た、各地の大きな勢力が計画的に列島各地に自分たちの農民を移住させるという入植。結局は社会が流動状態であったのだろう。 (このような不安定な状況下から、やがて環濠集落などの防御施設を持った集落へと発達していったのかもしれない。)否、始めから防御的だった。 その意味で、既出のタイトル「西三河の交流拠点」は、交易ではなく交流、人々が流れ来る、という意味だと、今、おもいます。 |
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653土器に見る他地域との交流 土器の形は同じでも、地域ごとに特徴があり、形からどこの地域の土器であるか見分けることができます。 鹿乗川流域の遺跡では、尾張・駿河・伊勢など比較的近い地域の土器から、近畿・北陸・関東地方といった遠隔地の土器まで出土しています。 これらの土器は其々の地域から持ち運ばれたのではなく、地元 (鹿乗川流域) の粘土を使って作られました。※ 弥生時代後期には、他地域の形をした土器が多量に出土する遺跡は、日本各地で見つかっていることから、 関東以西では、各地域の拠点的な集落同士の交流が活発に行われていたと考えられます。 ※なぜ、先史時代に人々が集団であちこちのコロニー(入植地)を移動・移住できたのだろうか。そのようなシステムがあったのだろうか。 基本的に、農奴は権力者の所有物であり、自由意思で移動することはできないはずです。 各地の族長が意図して、戦略的にこの地域へ進出してきたものと思われます。それなりのメリットがあったのかもしれません。 もう一つ、平和的に、領地を分け合って入植したのか、戦闘を伴ったのかです。 一部にはあるものの、全てが環濠集落ではなく、その後の各集落の独自性から見ると、互いに不可侵だったように思えます。 環濠集落が見つかったのは、本神遺跡だけが報告されています。 各地を結ぶ交易路網 |
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655各地の土器
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654各地の拠点的集落と交易網 |
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656ハケ目とタタキ目 弥生時代終末期から古墳時代前期にかけては、地域間の交流が盛んになります。それを具体的に示してくれるのが土器です。 でも、土器を見てなぜ地域間交流がわかるのでしょうか。 土器は時代によって形が変化していきますが、同じ時代でも地域ごとに形や作り方が違っていました。 このため、土器の形や製作技法を観察することによって、その土器がどの地域のものであるのか、ある程度推測できるのです。 三河の甕 (煮炊き用の鍋、通称台付甕) は、底部に台が付いています。 一方、近畿地方の甕 (通称タタキ甕) には台がありません。 さらに胴部を観察すると、三河の甕の胴部には細い筋が数多くついているのに対して、 近畿地方の甕には太い筋が付いています。 これらの筋は模様ではなく、土器をつくるときの調整の痕跡で、使う工具の違いによってできるものです。 三河の台付甕は、器面を滑らかにする際に、薄い板 (木口) 等を使いますが、(ハケ目) 近畿のタタキ甕は、内面に手を当てて、羽子板状の「タタキ板」で叩くことで形を整えていきます。(タタキ目)
弥生時代終末期の土器 溝から出土した終末期の欠山式土器です。主な器種には、壺、甕、高坏、鉢、などがあります。鹿乗川流域遺跡群では、 当該時期の土器が大量に出土し、集落が最盛期を迎えたと考えられています。他地域の土器 (外来系土器) も多数出土しています。
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657鹿乗川流域遺跡群の外来系土器
近畿系土器 出土する土器の大半は甕(鍋)です。台はなく、胴部にタタキ目と呼ばれる横方向の太い筋が見られるのが特徴です。 タタキ目は土器の形を作る際に使われる羽子板状の工具の痕跡です。 三河系土器 底に台が付き、表面にはまるでハケでなでたような跡が見られるのが特徴です。 このハケでなでたような跡は、木の板で土器の形や表面を整えた時につくものです。 駿河・遠江系土器 壺の口縁部・胴部の破片です。口縁部内面と端部、胴部外面に縄文が施されています。
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658北陸系土器 出土する土器の多くは甕 (鍋) です。台はなく、幅広の口縁部に太い線 (疑凹線) が巡るのが特徴です。 東海地方では、三重県貝蔵遺跡と並んで東海地方では最多の出土数です。 |
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安城市歴史博物館 常設展1 を終わります |