[戻る][TOP]


 北海道の縄文 №3 2022.06.01-1

  日高町立門別図書館郷土資料館
   北海道沙流郡日高町富川東1丁目3-1 01456-2-3746
   月・祝休館、突然の臨時休館あり HP必ず参照私も失敗しました
   開館時刻10:00~です。
 ※ご注意:北海道に同音異字地名。門別紋別。数百キロ離れています。
  他に江差と枝幸、士別と標津など、、

交通 ・レンタカー、自家用車
バス停「富川大町」下車、徒歩10分
・北海道警札幌方面隊 門別警察署の隣奥
  特徴   メカジキのイオマンテ
近隣の観光地 競走馬の生産地。美しい牧場の風景が延々と続く。
  近隣の博物館   大型トラックの走行が多い。要注意。美しい海岸線と道路。
 
 おわび
 前回の「新ひだか町博物館」掲載の際に「日高町立門別図書館郷土資料館」が撮影可・掲載禁止としていましたが、勘違いでした。
取材旅行前に徹底的に撮禁や掲載禁止の館を調べて、そのような館は訪問しないように、訪問したとしてもわかるようにしていました。
日高地方では、浦河町立郷土資料館 にははっきりと撮影禁止と書かれており、この館は取材しませんでした。(当時)
 ところが、取材していく中で、定休日でないのに休館している館があったり、そこで困って、最初の予定にない館を時間潰しに訪問(芦別市星のふる里百年記念館)したりして、40日近くの旅行の間に訪れないはずの館を訪問したという記憶だけが残ったようです。
 つまり、撮禁・掲載禁止の館は、浦河町立郷土館であり、その館は取材していません。ですから、日高門別郷土館は、掲載禁止ではありませんでした。
日高町役場に問い合わせても、当の郷土館に問い合わせても返答が帰ってこなかったのは、問い合わせの意味がわからなかったのでしょう。
そこで、今回、日高門別郷土館を掲載させていただきます。
 しかし、現在、浦河町郷土博物館のホームページからは撮禁の文字が消えており、私が勘違いするもととなりました。((笑))
 


メカジキの送り 
01外観

10沙流川流域の先史時代
100縄文時代
111石器
130土器・石器
140平玉について
150土器

200旧石器時代
201細石刃石器群
202北海道の遺跡分布
203旧石器時代のお墓
204日高町の遺跡
205門別地区の遺跡

300縄文時代
301縄文カレンダー
302土器石器の作り方・使い方
303発掘された縄文の生活

350日高町門別冨仁家盛土墳墓群復元模型
370漁撈具 回転離頭銛
375イタオマチプ

400メカジキ
410沙流川アイヌの漁撈文化
 日高町におけるアイヌ文化
 シノタイ遺跡

430メカジキの送り場
440展示の全景
450漁の道具
 メカジキ漁
 メカジキ送りの様子
480板綴舟
482タカマジとは 
483銛先
485オンネチカプ
487回転式離頭銛

500和人の進出
510山田文右衛門清富
520場所と場所請負人
530武士の移住を中心として

600水田開発
700製紙工場
720開拓の暮らし
760優俊
 牧場の始まり

800自然
810沙流川流域の動物
820沙流川流域の植物
 

 はじめに
 メカジキの送り (メカジキ漁は400から掲載)
 この館の特徴的な展示は、“メカジキの送り”です(本邦唯一の展示)。送りとはイヨマンテorイオマンテであり、メカジキのイオマンテです。
 全ての有用物は神の贈り物であると考えるアイヌは、始めは本州から仔イノシシを入手して育て、送りをしていました。
やがてヤマト中央政権の意向で入手できなくなると、クマの送りとなり、現代の日本の一般常識として、クマ送りをイオマンテと呼ぶようになりました。

 しかし、色々な動物の送りがあり、本来、生活の糧となる動物や、敬いの対象となる大切な動物を神のもとに送って、感謝と新たな糧をもらえるように祈る儀式でした。例えば、敬いの対象であるシマフクロウなど。
 沙流川河口のこの地域では、巨大なメカジキが漁獲され、それが、神から遣わされた恩恵でした。
そこで、メカジキの送りが行われ、今後も変わらずメカジキが獲れるように祈りました。
 
 
 01外観
日高町立門別図書館郷土資料館

左:図書館ドーム
右:郷土資料館
郷土資料館 老朽化したモニュメント
建設後何十年も経っている館のようです
郷土資料館入口
外観に比べ、質素な扉である
 

 10沙流川流域の先史時代

 旧石器時代から擦文時代まで
 旧石器時代から擦文時代までは、生活に必要な道具を自らが作り、食料は狩猟、漁労、採集などにより自然界から手に入れていました。
 縄文時代に入ると、縄目の文様を施した縄文式土器が作られるようになり、食べ物の煮焚きや貯蔵に利用され、生活に大きな変化が起こりました。
本州が弥生時代へ移行する頃、北海道は気候が寒冷なため稲作文化が伝わらず、縄文時代の伝統が続きました。
この時代を続縄文時代と言います。
その後、擦文時代へと移行します。擦文とはこの時代の土器に、ハケやヘラのようなもので擦ったような痕がみられることによります。
そして、この時代の北海道で土器が使われる最後の時代となります。

沙流川流域の先史時代 沙流川流域の先史時代 旧石器時代から擦文時代まで



考古学の編年表

本州
晩期
後期
中期
前期
縄文早期
草創期
旧石器
~ 約300年前
~約1,000年前
~約2,200年前
~約2,700年前
~約4,100年前
~約7,500年前
~約11,000年前
   北海道
晩期
後期
中期
前期
早期
旧石器
約-500年前~約0年(幣舞式日ノ浜式大洞系亀ヶ岡文化
約-1000年前~(磨消文手稲式系突瘤文堂林式系十腰内系
約-2,000年前~(モコト式北筒式余市式系円筒上層式系
約-4,000年前~(押型文系櫛目文系繊維尖底土器系円筒下層式系
約-7,000年前~(石刃鏃貝殻文系絡条体圧痕文系、組紐縄文系
約-7000年以前(剥片石器群細石刃石器群有舌尖頭器石器群

本州
江戸
室町
鎌倉
平安
奈良
古墳
弥生
縄文晩期
縄文後期
~1867年前
~1602年前
~1333年前
~1192年前
~794年前
~710年前
~約300年前
~約-300年前
~約1,000年前
   北海道


アイヌ


擦文


続縄文


約1300年以降


約0年前~約700


約-1000~約300年



土師器


北大文化
後北文化
恵山文化 江別太式系縄線文系
チャシ
内耳鉄鍋内耳土器


トビニタイ文化
オホーツク文化

下田ノ沢文化
宇津内文化
 


 100縄文時代

 110
 111石器
 113石鏃
石鏃、石槍 石鏃
石槍
 115石錐・ナイフ
石錐、ナイフ類 ナイフ類(石匙) 石錐
石錐
 117石斧・石核・石のみ
石斧、石核、石鑿 石斧
石核
石のみ
 119石冠・砥石・石錘・敲石
石冠(磨石) 砥石
上:石錘
下:敲石
 
 130土器・石器
早期 暁式土器
底にホタテの貝殻痕跡
早期 暁式土器
早期暁式に伴う石器
   ナイフ類か  
穿孔は中央のみ。
左は穿孔の痕跡に見えるも穴無し
右は穿孔痕跡もなし
 ナイフ類科 石鏃   
早期暁式に伴う石器
磨り石と石錘か 磨り石と石皿の破片か 石皿か
琥珀玉

北海道三笠など産地有
樺太にも産地あると聞く

平玉について
 北海道の埋葬跡から平玉と呼ばれる扁平円形の穴あき玉が出土する。肉厚の貝殻何百個に穴をあけ、砥石でこすって円形にしたものだ。
 おそらく死者に持たせた魔除けだったのだと思われる。
掲載のものは琥珀製で、首飾りにしてもおかしくない極上品だ。また、北海道では女性の墓に磨り石や石皿を複葬することが多い。
ただ、ここでは、剥片石器や独鈷石なども展示されているので、
 出土遺跡名もなく、ただ暁式土器期(縄文時代早期前半)の伴出土器・石器としてとらえるべきなようです。


有孔石製品 独鈷石 北海道の独鈷石って
➀独自発達?
②本州持ち込み?
棒も出土してい
独鈷石葉東日本発祥の石器。用途不明。
北海道に持ち込まれたと考えるべきか。
 150前期土器
前期
春日町式土器

 中期土器
  中期
サイベ沢Ⅵ式土器
 
中期
柏木川式土器 
中期
北筒ⅡⅥ式土器 
   

 後・晩期土器
後期
タプコプ式
後期
タプコプ式
後期
御殿山式
晩期
日ノ浜式

 続縄文土器
続縄文
大狩部式
北大式

 擦文土器
擦文式
土師器
擦文式土器
 

 200旧石器時代

旧石器時代の遺跡 北海道の遺跡分布


 201細石刃石器群
細石刃石器群
暁遺跡出土
石刃・細石刃 石刃・石核石器 石刃核

 202北海道の遺跡分布
北海道の遺跡分布 道南 道央・道東 旧石器時代遺跡

 203旧石器時代のお墓
旧石器時代のお墓
湯の里遺跡群
北海道知内町
墓地
副葬品
湯ノ里遺跡群
北海道知内町
知内町郷土資料館

 204日高町の遺跡
日高町の遺跡 日高地区の遺跡

 205門別地区の遺跡
門別地区の遺跡

 300縄文時代
 301縄文カレンダー
縄文時代の
生活カレンダー
春3-5月
山菜採り、熊猟・鹿猟
夏6-9月
沿岸採集(昆布・蟹・貝)
ニシン・マス漁
沖合海獣猟
秋9-10月
秋の果実(山葡萄、ドングリ、胡桃、キノコ、など)
鹿猟、サケ漁
冬(11-3)月
沿岸海獣猟(オットセイ・アザラシ)

 302土器石器の作り方・使い方
土器の作り方
石器の作り方
・石で石器を割る
・鹿の骨等で細長い石片を作る
・石片を鹿の角などを押し当てて割り、整形する
石器の使い方

 303発掘された縄文の生活
発掘された縄文の生活 住居址 土器片
土器片
炉跡
石斧
調査の様子

 350日高町門別冨仁家盛土墳墓群復元模型 縄文晩期~続縄文初頭 日高町富川東5丁目23番地

弓矢


 門別冨仁家盛土墳墓群
縄文晩期から続縄文初頭の墳墓群である。
出土遺物:土器・石器・琥珀玉などの装飾品


 斧・槍



 370漁撈具
銛の仕組み
銛先でメカジキを突き刺す
中柄が抜けて銛先が残ります。
互いの引っ張る力によって、銛先が回転します。
銛先が体に残り、抜けなくなります。

銛先
中柄
索紐

 イタオマチ(板綴船)
 丸木舟の両舷側に板を綴り合せて、容積を大きくした船です。
この船を用いて、アイヌは14~15世紀頃より、大陸のアムール川(黒龍江)下流域にまで出かけて交易を行っていました。
大陸からは、中国製の絹製品やガラス玉などがもたらされ、「蝦夷錦」とか「蝦夷玉」として本州の和人にも珍重されました。
しかし、19世紀に入ると、アイヌの自主的な交易活動は幕府によって規制されました。

イタオマチ
板綴舟
タカマジ
美々8遺跡

美々8遺跡
イタオマチ
板綴船
 




 400メカジキ


 410沙流川アイヌの漁撈文化

日高町におけるアイヌ文化
アイヌの人々が、伝統的な居住地域であるアイヌモシリ(人間の大地)において、独自の民族文化を成立させ、大きな集団組織を形成するのは、およそ14世紀前後と考えられています。
日高町門別地域にも、その頃にはアイヌの人々が居住していたと、考古学的な資料から推測されます。
 町域は元より、沙流地方は、道内においては、積雪量が少なく、比較的温暖な気候条件に恵まれた環境のために、冬季に鹿が群れ集まるなど、獣たちにとっても生息しやすい土地でした。

シノタイ遺跡のメカジキ漁
 アイヌ文化期の遺跡として、代表的なものは、太平洋岸に面したシノタイ遺跡です。ここでは17世紀前後にメカジキ漁が盛んに行われていました。ことに、初めて発掘で明らかになった。メカジキ送り儀礼の場は、アイヌの人々の動物の霊を送ると言う世界観を具体的に知るために重要な遺跡です。

沙流川アイヌの
妓楼文化
沙流川アイヌの
漁撈文化


 シノタイ遺跡  北海道沙流郡門別町字富浜
シノタイ遺跡、
 遺跡はシノタイ岬の砂丘上及び背後の海岸段丘上に形成されたアイヌ文化期を中心とする時期のものです。
 この遺跡の考古学的調査は、扇谷昌康によって 1951年から数回にわたって行われ、類例のない多量のメカジキの吻端骨を始め、鹿の角や骨などが出土しました。また隅丸方形をした竪穴住居跡が発掘されて注目されました。

 1980年に大塚和義らは、メカジキを主体とした送り場址を発掘調査しました。
ことに、メカジキの吻端骨は個体数で推測すると、およそ100頭分以上が出土しました。しかも、一部の地点では、地面に吻端骨が突き刺さったままの状態で発掘され、初めて具体的にメカジキの霊送りの存在が明らかにされました。
 叙事詩ユカラにも、メカジキ漁の様子やその霊送りに関する描写が数多くあります。しかし、実際には1940年代以前に伝統的なアイヌのメカジキ漁は衰退し、発掘時点では、既に失われた儀礼となっていました。

 アイヌの霊送りとは、人間世界を訪れた獣や大型魚類などに対して、霊にするための手続きを行い、霊の宿る頭部などを屋外の祭祀の場に安置して、その霊を神の世界に還すものであります。この儀礼を丁重に行うことによって、再生した動物の霊が再び人間世界を訪れるようになると言う信仰に基づくもので、人間が神と共存して、とどこおりなく食料を確保するために欠かせないものとされました。メカジキの象徴的な吻端骨を地面に突き立てて霊送りした光景を、発掘の状況をもとに考察を加え、一部を再現したものが、展示してある実物大の模型です。

 シノタイ遺跡の「送り場」は、アイヌの伝統を踏まえて、遺跡の東の位置に設けられておりました。
「送り場」には、メカジキをはじめ、歯クジラやイルカなどの大型魚類や海棲哺乳類の象徴的な部分が多数残されていました。また、エゾシカの骨製品や半製品などが数多く出土しています。メカジキの吻端骨を加工したシカ笛と見られるものも出土しています。
 これらは、エゾシカ猟も盛んに行われたことを物語るものです。

 さらに、遺跡からは本州製とみられる船釘や鉄鍋の破片などの鉄製品も発見されています。また、サスマと呼ぶ鹿角製品も見つかっていますが、これは海産物などを包んだ俵の中身を点検する道具です。これらから、遺跡は和人との交易拠点であった可能性もあります。

シノタイ遺跡 蝦夷島奇観 遺跡と周辺の地形 シノタイ岬周辺 遺跡模式図
発掘調査
メカジキ送り場址 発掘調査 メカジキ吻端骨 送り場に刺さった吻骨

 430メカジキの送り場
  遺跡は、岬背後の砂丘の中から出てきました。
送り場の再現 メカジキの吻骨

 440展示の全景
展示の全景 メカジキ漁想像復元図
 450漁の道具
カナクギ
フナクギ

骨角器と鉄製品 銛先
鹿角製銛先に切れをよくするために石鏃を装着した様子 
 鉄製品・フナクギ
 刀子

 
平釘
  
 角釘
 
   

 メカジキ漁
銛を使った漁
メカジキ漁 クジラの下顎骨

 メカジキ送りの様子
送り場の発掘状況
発掘を元にした再現図
クジラの脊椎
クジラの椎骨
クジラの背骨
金属による切断痕

メカジキの椎骨
メカジキの送り
メカジキ頭部 メカジキのカムイノミ
想像復元図
鹿角の根元 シカの角座
 470
 480板綴舟
  メカジキ漁には板綴舟が欠かせませんでした。丸木舟は不安定で、転覆の危険がありました。
 
 481
櫂(模刻)
美沢8遺跡
櫂 模造品
メカジキの線刻画

 482タカマジとは 
アイヌの船(チプ)であれば,カンジ(車擢)をつけるタカマジが突起状に舷の上についている。とあるので、
車櫂を取り付ける、舷の上に突き出た突起のこと、、らしい

 車櫂とは

タカマジの突起に射し込む穴を持った櫂

タカマジ
美沢8遺跡
タカマジ
メカジキ線刻画
 483銛先
銛先(複製)
(マキリの)さや
 485オンネチカプ(大きな鳥)
オンネチカプ
あほうどり
 487回転式離頭銛
回転式離頭銛
 489板綴舟
イタオマチ
 
 500和人の進出
 510山田文右衛門清富 文政3(1820)~明治16(1883)年
 祖先は石川県出身。養父の跡を継ぎ、勇払場所、沙流場所、厚岸場所の場所請負人となりました。
10代清富はその才能と努力によりいろいろな事業を行い、山田家は家業の最盛期を迎えました。

 清富は投石(※昆布の付着し、生育する足場作り)による昆布養殖ばかりでなく、それまで刺し網で行われていた漁法を建網などへ切り替え、漁獲量を揚げたり、幕府の命令を受けて資材を投入し、千歳市美々から勇払までの道路の開削や、樺太(サハリン)での漁場の新規開拓なども行いました。
 信仰にも厚く、各場所に神社・仏閣を建立したり寄進も行いました。しかし、明治2年に場所請負制度が廃止されると、単なる場所持ちとなり家運は次第に傾きました。

※昆布の生育場所:昆布は岩の上に付着します。従って、海底に岩を投入して岩場を作り、昆布を根付かせます。
 利尻島・礼文島はすぐ近所にある島です。リシリコンブとは言いますが、礼文昆布とは言いません。利尻島は火山島で、丁度富士山が海底に沈んだような形をしています。つまり、島の周囲のほとんどが溶岩でできた海底なのです。従って利尻島の海岸は昆布だらけです。港も昆布だらけです。
礼文島にも昆布は採れるのですが、利尻島が断然メジャーです。私も取材で小さな漁港に降りた時、みなと中が昆布畑だったのにびっくりしました。海水のなかに何か巨大なものが果てしなくうねっていたら、そりゃ、びっくりしました。

松前蝦夷地場所分布図
場所分布図
道南 日高・十勝 釧路・根室・知床・網走 枝幸・稚内・留萌・ 樺太
 515山田家関係文書
山田家の系譜

 520場所と場所請負人
 江戸時代、北海道ではまだ米が獲れませんでした。このため、松前藩では、米が獲れる知行地のかわりに、特定の地域に行ってアイヌと交易する権利を知行として家臣に与えました。
この特定の地域のことを商場といいます。しかし、武士では交易に失敗したり、手数がかかるため、商人から一定の運上金をもらい、知行地の経営を任せるようになりました。この任された知行地を『場所』といい、場所を経営する商人のことを場所請負人と言います。
 場所請負人は運上屋などを現地に置き、場所を経営する傍ら支配を強め、アイヌを安価な労働力として隷属するようになりました。

沙流場所
場所と場所請負人
沙流場所
絵馬でしょうね
疱瘡除けのまじないかも知れない
沙流場所付近の港湾写真 沙流場所のジオラマ

向かいが映り込んで見えず

 530武士の移住を中心として
 戊辰戦争の戦いに敗れた仙台藩は、新政府の命令により、藩地62万石を28万石に減付されました。
このため仙台藩は、武士の生活を立て直すために新天地を北海道に求めました。
新政府は、北海道の開拓と北方警備を兼ねることとして明治2年、
仙台藩に対して択捉島紗那郷と沙流郡西半部を、
彦根藩に対して択捉島択捉郡と沙流郡東半部の支配を命じました。

 これを受けて
仙台藩は、翌3年に三好清篤が仙台藩の開拓掛となり、高野長之助以下146名(平民を含む)が佐瑠太(現 富川)に移住しました。
彦根藩も同年に、大×××正寿、小×山口正武以下141名(平民を含む)が現在の豊郷と清畠に移住しました。

武士の移住を中心として
分領支配  日高国の支配地         
移住初期の北海道と
佐瑠太村
分領支配図 分領支配図
移住後の佐瑠太村
 


 600水田開発 互野留作
 奥州気仙沼郡日頃市村(現 岩手県大船渡市日頃市)の出身。
安政2年(1855年)、幕府から蝦夷地警備を命じられた仙台藩士に従属する農夫として来道し、明治3年に仙台藩士と一緒に佐瑠太(現 富川)に移住したと言われています。
 その後、平賀に7万坪の土地の貸し付けを受け。開墾する傍ら、現在の恵庭市島松で稲作を成功させた中山久蔵から種籾を分けてもらい、稲作を試み、明治11年ころには成功したと言われています。
やがて小作人を使い、50町歩余りもの水田を拓いたと言われています。この稲作の成功をきっかけに、日高の各地で米作りが行われるようになりました。

米作の先駆者
開墾の様子
 
         
互野留作の業績


 700製紙工場

 710
 流送
 明治43年、苫小牧に王子製紙の工場ができると、その原材料を確保するため沙流川流域から沢山の木材か切り出されるようになりました。
 この木材の搬出方法は次の通りです。まず冬山に入り、木を切り馬を使って(玉橇など)川の近くまで運びます(藪出し)。
河に築堤を設け水を塞き止め(網羽あば)、集めた木材を春先の雪解け水と一緒に下流に流しました。この川を利用する方法を流送といいます。
河口では流れ着いた木材を苫小牧軽便鉄道左瑠太駅(現 富川駅)から王子製紙の工場まで運びました。後に河口からはしけを使い、沖に待っている汽船などにも積み込みました。

流送
木挽き道具
田の草取り
稲刈り器
野道具
 720開拓の暮らし
馬橇・馬鋤・ 風力選別機 麦刈り機
 730
歴史年表
消防組織 手押しポンプ
 740近代化
教育
 750

 760優俊
 牧場の始まり
 明治15年、新冠御料牧場に奉職していた岩根静一が、門別村波恵(旧門別町豊郷)に8万5千坪の土地の貸付けを受け、牧場を開いたのが日高町門別地区の牧場の始まりといわれています。
 当時の馬の飼育や繁殖は自然任せで、春から秋にかけて使った馬を冬は山に放し、また春に集めて使役したり、売買していました。
岩根静一は厩舎を建て、馬約700頭を飼育し洋種馬を導入しながら品種の改良を図り組織的な生産を始めました。
この後、明治20年に約32万坪、明治31年には約67万坪の土地の貸し付けを受け、大規模な牧場経営者となり、門別郵便局長や沙流購買販売組合長も勤めました。

岩根牧場
明治末年 波恵
現在の豊郷 岩根牧場生産馬
牧場の始まり
 770ビデオ教材
競走馬の一生
牧場の一日
 2023.12.17
取材から1.5年経っているが、
この馬は本物の馬の剥製だったと記憶しています。
つまり、下側に縫い目があったと思います。
凄い技術だと感心したと記憶しています。
 
 800自然
 810沙流川流域の動物

 820沙流川流域の植物
 沙流川の流域図
 沙流川は、日高山脈北部の日勝峠近く(熊見山)に源を発し、日高町(日高地区・紋別地区)・平取町を経る途中、千露呂川や額平川をはじめ、大小126本の支流と合流して太平洋に注ぐ延長103.8kmの一級河川である。
 そして、この川の上流域は、ハイマツ群落やお花畑(高山植物群落)やエゾマツ・トドマツの原生林(国の天然記念物:沙流川原流原始林)で覆われ、中流域はカタクリ群落やスズラン群落、ヒダカエンレイソウを伴ったミズナラ・コナラの
天然林で覆われ、下流域はサクラソウ群落やアツモリソウやイタチササゲやエンビセンノウなどの貴重な植物を伴ったカシワの天然林で覆われていて、日高管内では自然が最も豊かなところでである。

日高町の立体地形図 沙流川と自然 沙流川流域の植物1
沙流川流域の植物 オオバナノエンレイソウ
サクラソウ
ヒオウギアヤメ
ツリバナ
シラオイエンレイソウ
エンビセンノウ
ベニバナヤマシャクナゲ
クロウメモドキ
沙流川流域の植物2 エゾノシモツケソウ
カシワ
ノイバラ
ハマヒルガオ
イソスミレ
イタチササゲ
カワラナデシコ
サクラスミレソウ
マイヅルソウ
ホザキシモツケソウ 図書館中庭 向かいは図書館です 頁をめくるというモニュメント
巨大鉄板の制作と曲げに莫大な費用が掛かる