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 北海道の縄文 №9 2022.06.03-1

   幕別町ふるさと館 北海道中川郡幕別町依田384-3
    0155-56-3117 月・火休 撮影可

交通 タクシー、札内駅から3.2km 山の上なので徒歩は無理
     



02博物館の場所
03外観

50旧石器時代
51幕別町の遺跡
52札内K遺跡と札内N遺跡
61札内N遺跡
67札内K遺跡

100縄文時代
101竪穴住居跡 札内N遺跡
105縄文土器
120縄文晩期 墓 札内N遺跡
125深鉢 縄文中期
131舟形土器と深鉢 墓
133土偶
135土器 札内N遺跡
 舟形土器
138板状土偶
140深鉢浅鉢 縄文晩期
151土偶の出た墓
161ミニチュア土器
162石偶
163異形石器
164土製品
170石製品

210古舞4遺跡
211土器
223石器
225黒曜石 石器

250民俗資料展示

300アイヌ文化期
311先住の人々
312日々の生活
320出土した土器・石器
330出土した貝化石

340開拓期
341林業の道具
343開拓時代の住居
  
 02博物館の場所
帯広周辺の博物館
膨大な数の館がある
幕別町ふるさと館の位置
実は残丘上(丘陵上)なぜワザワザ山上に?
隣にゴルフ場
牧場×2・農地など
ここは依田台地
幕別温泉parkhotel
高校・農産加工場
日帰り温泉・高級hotel
野球場・農場・老人施設
依田台地

射撃場もある
依田台地
山の上のリゾート

平地だらけの北海道なのに、なぜこんな冬には登るのが危険な山の上に、沢山の施設が集まっているのか訳が分からない。
高校の隣に農産物加工場、パークゴルフのレストハウスにParkGolf場、沢山の農場、牧場、温泉施設が3つ、射撃場、老人憩いの家って山の上だぜ
山の上に温泉がでたのでこうなったのか、温泉? とにかくわけがわからん場所です。

ふるさと館の向かいに高級ホテルって、なんでこんな不便な場所に?

それに、館の南に焼肉屋!

 03外観
幕別ふるさと館 十勝幕別グランヴィリオホテル
宿泊プラン
山の上に巨大な温泉ホテル。
ゴルフ場があるからホテル?

その傍にふるさと館があります。
   
 


 50旧石器時代
   館内に入っていきなり旧石器時代展示が始まる。
 51
旧石器・縄文を一堂に
旧石器コーナー

 幕別町の遺跡
 幕別町内に点在する遺跡(埋蔵文化財包含地)の数は、平成23年(2011)の時点では132箇所あることがわかっています。
その内容は約20,000年前の旧石器時代に始まって、縄文、続縄文、擦文時代とシャチ跡で構成されるアイヌ時代に至ることが確認されています。

 これらの遺跡の中で、本格的な発掘調査を実施されたのは、昭和58年(1983)の猿別C遺跡でした。
その後、古舞4札内D・I・K・N、日新F遺跡などが調査されて、考古学上の貴重な資料を提供してきています。
中でも札内N遺跡は、十勝管内で初めてとなった土偶(人形)の発見などがあります。

(忠類村のナウマンゾウについての記述)忠類村のナウマン象は12万年前のもの。6~7万年前北海道からナウマン象がいなくなった。
 今のところ考古学とは結びつきませんが、昭和44年(1969)に忠類で偶然に発見されたナウマン象化石の発掘調査とその要素は、当時の日本中を駆け巡るビッグニュースとなりました。そのナウマン象の再調査が平成19 20年(2007 2008)に実施されると多くの事実がわかってきました。
虫類のナウマン象はオスの40歳以上で約120,000年前以上たっていることがわかりました。
また発掘された歯の中にはマンモス象の臼歯が含まれていたことが判明し、その年代は約43,000年前のものであることが判明しました。
(北海道内のマンモスゾウについての記述)
 道内でのマンモスゾウ発見は、えりも、野付、羅臼、由仁町などで発見されていますが、一番新しいものは約20,000年前後であり、旧石器人がマンモス捕獲の対象としていたかもしれません。

 幕別町の遺跡  虫類ナウマン象
発見地
    虫類のナウマン象   
 
 52札内K遺跡と札内N遺跡
 札内KNの2遺跡が所在するのは、幕別町北西部を南北に延びる依田台地の丘陵部に位置します。

 札内K遺跡は、札内神社と札内墓地の西側にあります。平成2年から始まった発掘調査では、
旧石器時代(約13,000年前)
縄文時代(約6500~2500年前)の遺跡が発見されました。
旧石器人と縄文人が作って使用した道具(石器、土器、土製品、石錘その他)が発掘されています。
中でも舟をかたどった注口付舟形土器など珍しいものもあります。(※舟形土器

 札内N遺跡はK遺跡から西へ約400m離れた依田台地東側の丘陵部に位置します。平成5年から11年の7年間にわたる調査では、
旧石器時代(約20,000~13,000年前)
縄文時代(約6500~2500年前)の竪穴住居跡、墓と石器、土器、装飾品などのいろいろなものが発見されています。
特に注目されるのが、縄文晩期(約2500年前)に作られた多数の墓です。
札内K遺跡と札内ℕ遺跡 K遺跡とN遺跡地図 札内N遺跡
札内川側から撮影。一段高い依田台地。遺跡はこの台地上にあります。
旧石器
札内N遺跡

1.2万年前の石器発見状況

 60

 61旧石器 札内N遺跡 約2万年前
台形石器とは
書いてない
札内N遺跡
約2万年前
 63旧石器 札内N遺跡 約1万3千年前
札内N遺跡
尖頭器(槍)
1万3000年前
石槍
 64
石錐
石斧
 65
削器

旧石器時代
 66
掻器
旧石器時代
 

 67旧石器 札内K遺跡 約1.3万年前
礫器 旧石器
札内K遺跡
約1.3万年前
舟底形石器
 68接合資料(旧石器)
  旧石器人が、石器を作るときにたたき割ったもので、調査できたものを合わせたものです。
 


 100縄文時代


 101竪穴住居跡 札内N遺跡 縄文晩期 約2500年前
 地面に円形に掘った家の跡ですが、もともとは深く掘られていましたが、削られてわずかに残ったものです。
家の中からは土器や石器が発見されました。右のパネルは竪穴住居を復元したものです。

 竪穴住居(推定復元図)
札内N遺跡では、竪穴住居跡(地面を掘り下げ、柱、棟、屋根からなる住居)は 3軒が発見されていますが、残念なことに柱、棟、屋根等の建造物は全て腐ってしまい残っていませんでした。そこで、図上で復元してみました。
この住居は地面を円形に掘り下げたもので、広さは約8畳位でしょうか。住居の中央には炉があり、床にはクマやオオカミの毛皮が敷かれ、屋根にはヨシなどで覆っていたと考えられます。
 炉を狼囲んでお父さんは弓、矢、槍などを作り、お母さんは食事の準備をしている様子です。

※竪穴住居跡は、畑の開墾のために開削・削平されていて、竪穴の側壁が無くなっていました。そのために、復元図には側壁がない竪穴住居復元図が描かれています。しかし、実際は、1.5~2m近くの深さがあったのではないかと考えられます。(垣ノ島遺跡の例)
それは、そのような耐寒構造でなければ、過ごせなかったと考えられます。

縄文の竪穴住居の屋根は土で覆われていたそうです。近世~現代建築では野地板の上に土を置きますが、縄文では柴や笹を葺いた上に土を置き、草を生やして保温と防水をしたようです。更にその上に木の皮を葺いた物もあったようです。
 日本の復元住居では最初期に茅葺をしたため、それ以降、屋根は茅葺と定説化してしまったのだそうです。実際、鹿児島県では高所作業車がなければ作れないような復元住居が作られたり、束ねた茅の株元を鉄製の押切機で綺麗に切り揃えてずらりと並べた、装飾的な屋根が覆っていたり、必ずしも実際に近い実用的な住居ではあり得ないものが沢山見受けられます。

 忘れておりましたが、エスキモーの住居も土で上部を覆った構造になっています。ネットを探すと冬の狩り用の氷雪の家、夏の狩り用の動物の毛皮のテントしか出て来ないのですが((笑))、超寒冷気候に耐えられる土を被せた木造の住居があるのです。

竪穴住居跡
札内N遺跡
縄文晩期
竪穴住居
図では側壁が無い
竪穴住居推定復元
開削で側壁が消滅。
ために描けなかった。
実際は、1~1.5mの深さがあり、耐寒用構造だったと想定される。
復元想像図

 105縄文土器
 
 深鉢土器 縄文早期 (約11500~7000年前) 引用北見市
深鉢はバケツ形や筒形をしたものを呼びます。 用途は現在のナベ、カマです。、煮たり、また、水を入れていたものです。
 縄文早期   深鉢
縄文早期
 
     

 深鉢 縄文前期 (約7000~5500年前)
深鉢
縄文前期
 

 120縄文晩期  札内N遺跡 (約2500年前)



石斧が2個重ねて副葬されたものです。
葬られた人が作っていたものでしょうか。


黒曜石の破片を入れた墓
縄文晩期 約2500年前


土器と敲石を入れた墓です。
葬られた人が生前に使用していたものでしょうか。


石のみ(only)を副葬品とした墓です。
札内川の河原から運んできたものでしょうか。

※蛇紋岩とか有用の石材があるようだョ
これは「石だけ」でなく、石器石材ですね。石斧に手ごろなものばかりです。生前は石器製作の達人だったかも。
 

 125深鉢 縄文中期(土器型式の解説はありませんでした) (約5500~4400年前)
深鉢
縄文中期
 
 130

 131舟形土器と深鉢

舟形土器と深鉢
墓に副葬されていた舟型土器と深鉢です。
土器は割れずに発見される事はほとんどありません。ジグソーパズルのようにつないでいきます。
土器を取り除くと右のパネルです。壁に穴の開いた石が貼ってありました
舟形土器と深鉢


左(※上に記述の「舟形土器と深鉢」)のパネルと同じ墓です。
上にかぶさっていた舟形土器を取りのけると、土壁に、穴の開いた石、を張り付けた状態で、出てきました。
このような類例はなく、また何を意図したか全くわかっていません。

※この穿孔された石製品て装身具の製作過程じゃないのかい。角を落としたら、立派な玉石になるようですよ。


 土偶
 縄文時代の約一万年間に渡って、縄文人が粘土を人の形に作って焼いたものです。
古いものは小型で簡素なものでしたが、徐々に新しくなるにつれて、大型で顔・髪型・衣服なども写実的に表現したものも作られます。

 逆に人を表現したとは思えない抽象的なものがあります。
その形状から中空、ミミズク、ハート形、筒形、遮光、板状土偶などと呼ばれています。

 土偶のほとんどが女性を表現したもので、使用目的にはいろいろな説がありますが、子孫繁栄・再生などを願って作られたと考えられます。
 幕別町の札内N遺跡では縄文晩期(約2500年前)の板状土偶が10点も見つかっています。うち、2点は(右パネルの)お墓の中から見つかっています。
この墓に埋葬された死者の「再生」を願って入れられた可能性があります。

※写真パネルは4枚しかなく、4枚目の右側は壁です。左側の間違いです。

土偶  

 133土偶
 縄文時代(約一万年)間にわたって作られた土製の人形です。自然界に生息する生物の精霊を表現したものもありますが、人間の女性を模したものが多数を占めます。
 幕別町の札内神社西側に位置する札内N遺跡の発掘調査で、12点の道具が発見されています、うち、2点は縄文晩期(約2700年前)の『墓』から出てきました。
土偶が墓から発見されることは少なく、また縄文時代の終わりに作られた土偶として、大変貴重なものです。
 下の写真は昨年に北海道開拓記念館で開催された『北の土偶』展に札内N遺跡出土の道具4点を出品したときの解説文です。

「土偶精霊説」は、令和4~5年頃に新説として聞き始めましたが、昭和58年にボーリング場を改造して造られた博物館に既にパネルに記載してあったとは大変驚きました。
 133


№75
●土偶
●幕別町札内N遺跡
●縄文時代晩期
●幕別町指定文化財
●高さ(13.6)×幅5.4×厚さ1.7
●幕別町教育委員会

 土偶とは思えないほど抽象化された板状の土偶。頭や腕、足の表現がない。肩に横方向の貫通孔があり、女性器の表現が見られる。
全身に縄文が施され、赤色顔料が塗られている。当時は鮮やかな土偶であった。墓から発見され、埋葬の呪術や儀礼と関連した重要な資料である。

№75


№76
●土偶
●幕別町札内N遺跡
●縄文時代晩期
●幕別町指定文化財
●高さ8.7×幅4.3×厚さ0.9
●幕別町教育委員会

 抽象化された板状の土偶。顔や胸の表現はない。体の下に切り込みがあり、女性器を表現している。正面には線と点による文様で衣服が表現され、背面には線による幾何学的な模様が施されている。赤色顔料が塗られ埋葬の呪術や儀礼と関連した重要な資料である。

№76


№77
●土偶
●幕別町札内N遺跡
●縄文時代晩期
●幕別町指定文化財
●高さ8.0×幅7.5×厚さ2.3
●幕別町教育委員会

 抽象化された板状の土偶の上半身。頭はあるが、顔や胸の表現は無い。全体の形状は不明であるが、棒状の工具で突いた列点と沈線が施されている。
人間離れした造形から、守護神や精霊を表現したものであろう。北海道の縄文時代晩期末になると、土偶は抽象化が進み祈りの形が変化した。

№77



№78
●土偶
●幕別町札内N遺跡
●縄文時代晩期
●幕別町指定文化財
●高さ7.5×幅5.6×厚さ1.5
●幕別町教育委員会

 抽象化された板状の土偶の下半身。全体の形状は不明であるが、足の表現は簡略化されている。沈線によるV字状の文様が施されている。
抽象化された精霊の姿を模したものであり、祈りの形の変化がうかがわれる。

№78

 135土器 札内N遺跡

浅鉢と考えられるが
no caption 晩期土器


 舟形土器
舟の形を模したものです。日常に使用したものではなく、祭事などに使われたと考えられます。

舟形土器
舟のようにも見える土器

先端は何を表現?
舟には見えないが、、

 儀式仕様の土器 (特異な装飾や、赤色顔料の塗布) これが舟形注口土器です
       
 儀式用赤色塗装土器
   


 鉢形土器
鉢形土器
縄文晩期

 138板状土偶
 140深鉢 縄文晩期
深鉢 縄文晩期 深鉢 晩期


 浅鉢土器
 皿に近いものです。食材などを盛ったりしたものでしょう。
浅鉢土器
 150
 151土偶の出た墓
土偶が2個発見された墓(札内N遺跡)の実測図です。
上は平面図、下は断面図です。

 土偶
札内N遺跡から発見された土偶たちです。
右上は人の形をしています。
下の真ん中の2個には赤い色が塗られています。

土偶が2個出た墓
平面図と断面図
土偶


 土器
墓から発掘された土器たちです。(土偶と一緒に出土した土器です)。舟形、皿形、深鉢などです。
下段の中央の土器には人工衛星か、意味の分からない模様が描かれています。

土器
 152
石鏃
矢の先端部に付け弓で飛ばして動物・魚などを採った道具です。トリカブトの毒を塗って殺傷力を高めたとも考えられています

石槍
長い槍の先端分につけ、投げたり、つついたりして動物・魚などを採った道具です。
られています
 
削器
切ったり、削ったりする道具です。現在の包丁・ナイフ類です。ツマミを持つものは紐をつけ、携帯していたと考えられます。

石錐
ものに穴をあける道具です。現在のキリと同じです。
 
擦石(北海道式石冠)
この石を横から見ると冠のように見えることから石冠と呼ばれています。
石皿の上でクルミ・トチノミ・ドングリなどの殻を叩き、実をすりつぶして製粉する道具です。
粉は肉などを混ぜて焼いた縄文クッキーなどにして食べていました。
 
敲石
形状は棒状・円形(円筒形)・方形(四角柱)・球形など様々です。現在のカナヅチです。

石錘
石の両端を打ち除いた石器で、主に魚を取る魚網のオモリです。

浮子
網の上部に取り付け、水中の網を支えます。釣りのウキと似たものです。軽石などで作られていました。
 160
 161ミニチュア土器 縄文晩期
ミニチュア土器

 162石偶

各地で出土した石偶
黒曜石偶
 続縄文初頭
 江別市高砂遺跡

黒曜石偶
 続縄文初頭
 江別市

黒曜石偶・頁岩石偶
 弥生時代前期
 青森県大畑町
  二枚橋遺跡
石偶は
全く同時期、続縄文初頭=弥生前期

北海道や下北半島海峡側で出土する。
津軽海峡を挟んで大流行の呪具だったようです。
北海道の流行が青森に運ばれたのかもね。

 札内N遺跡出土石偶
石偶
札内N遺跡

 163異形石器 縄文時代 使用目的不明土器。
 164土製品
装飾品
晩期 札内N遺跡

装飾品 縄文晩期 札内N遺跡
土製焼成品。
中央に貫通孔。
首飾り、腰飾りに用いられたものであろう。

動物形土製品
縄文・札内N遺跡
動物形土製品 縄文時代 札内N遺跡

後部を欠損しており、明確な動物名は言及できないが、
カエル・海獣(トド・アザラシ)などを模したと思える。

土製有孔円板
縄文時代
日新F遺跡
 土製有孔円板 縄文時代 日新F遺跡
糸や網(あみ)、や釣り糸などに「撚り」を掛ける紡錘車と考えられます。

※本州以南で紡錘車が出現するのは縄文晩期から弥生時代だが、北方文化の流入が激しかった北海道では、縄文時代に紡錘車が出現してもおかしくはない。とは思う。
 縄文の生活ではヒモやイトは大変重要だそうである。(by週末縄文人)
 確かに、衣服や、網(アミ)や弓などで糸を作るときに、1万年間もずっと手で(ねじ)って糸を作っていたのは、あまりにも変だ。発展がなさすぎる。当時の人々と現代人の脳量は同じ。紡錘車に行き付かない方がおかしい。かもね。あれほど石器が発達しているのにね。

ペンダント 石材の種類が不明。
なぜ、垂直に垂らした時に見てくれよく、左右対称になるように、穴を開けなかったのだろう。
 

 170石製品
 171石鏃
石鏃
 172削器
削器
 173石槍
石槍
 174石錐
石錐
 175
矢柄研磨器 石錘
 176
敲石
石斧
 177擦石
擦石(石冠)
 
 200


 210古舞4遺跡 北海道中川郡幕別町字古舞466/明倫9

  縄文早期末の住居跡

 幕別町字古舞に位置する。昭和58年(1983)に発掘調査が実施された。2つの竪穴住居とその住居内からは多量の土器・石器などが発見されました。
土器・石器は縄文時代(誤記)終わり頃の約6500年前と考えられています。(※訂正すると)
土器・石器は旧石器時代終わり頃の約6500年前と考えられています。
左(211の2段目➀②③の写真)の大型の土器に施されている文様はあまり見られないものです。

誤記訂正について
 (※北海道では縄文時代の始りを6000年前頃とする向きが多い。
 (※青森から1.4万年前に来た縄文人に対して、北海道在来人は6000年前まで旧石器生活を続けていたようです。激しい対立もあったらしい)
 (※広大な北海道にわずかな人口しかいなかったため、二つの文化がひっそりと続いていたのかもしれません。)
 (※ちなみに、6,500年前は縄文海進がピークに達したころで、温暖な時期でした。

 211土器 古舞4遺跡
古舞4遺跡

なんだろう。粘土塊?
 213古舞4遺跡の土器
輪積み土器は使用すると結合の弱かったところから、ある時突然
パッカンと
剥がれちゃうんです。
側面を板づくりで貼り付けると、耐久性はよいが底がはずれる。
全てを、かたまり粘土からひねり出しても同じこと、どこか弱いところを見つけて壊れてしまう。
だが、その前に
縄文人には平たい工作台がなかったようだ。
 
 221土器片 no caption
土器片
no caption
 223石器
 225黒曜石 石器
 
 
 250民俗資料展示
 251
 


 300アイヌ文化期

 310
 311先住の人々
 私たちの住んでいる北海道は明治2年1873年)まで、「蝦夷地」と呼ばれていました。蝦夷と言うのは、その頃住んでいた人々のことで、アイヌ民族の古い呼び名です。
 アイヌの人たちは、本州から北海道へ渡ってきた開拓者よりも、ずっと以前から住付き、シカやサケ、コクワやヒシなどを食料にして暮らしていました。
 安政2年(1855年)の記録によると千歳に住んでいたアイヌの人たちの数は1321人で、幕別には何とかそのうちの1割にあたる132人くらいが、住んでいたそうです。

先住の人々

上に記述

 十勝川のほとりで
 幕別に住んでいたアイヌの人たちにとって十勝川は、毎日の生活に欠かすことのできない川でした。
川の水を飲みに来るシカを弓矢で狩ることができ、秋には川を遡るサケをマレックと呼ぶ銛で捕らえることもできました。
 また、丸木舟に乗って、小魚や木の実を採るにも、川は便利な交通路でありました。
自然を恵の神とし、十勝平野にたくましく、生きぬいていました。

十勝川の ほとりで
熊猟
鹿猟

 312日々の生活
自然を恵の神として、日々の生活をしていたアイヌの人たちは、オヒョウやアカダモなどの樹皮を織って作ったアッシや、獣の皮で作った衣服を着ていました。
食料は、魚や獣の肉、野山に自生する草や果実などでした。冬は貯蔵した食料を主として過ごしました。
住居は、自然の丸太を利用し、笹や(※フキと記述)などで屋根を覆った構造で、中央に爐(炉)が作られていました。(※この場合樹皮ではないか)
アイヌの人たちの生活も、本州からの移住者が、住みつくようになると、変化をし始めるようになりました。
明治16年(1883年)には、サケの漁が禁止され、農耕せざるをえなくなり、生活の様子も和人と似るようになりました。

※「鮭漁禁止」はアイヌへ嫌がらせではなく、場所請負商人によってアイヌを強制労働させ、鮭や動物を乱獲し、漁獲量激減・枯渇の危機にあった。
しかし、これによってアイヌの生業が失われ、大打撃を受けたことには間違いない。

木製鍬で耕す ※木の又を利用した鍬の使い方は、踏み鍬だった。
週末縄文人は狭鍬として使ったので壊れた。
アイヌの食生活
 315神への祈り
 アイヌの人たちは、自然界にあるすべてのものに神が宿ると言う信仰を持っています。
 家を建てるにも、1本1本の木にお祈りをして、切ったり削ったりします。
 神のお使いをする役目は、ヒグマがすると言われています。
 アイヌの人たちにとって、川は大切な自然でした。食料としてサケを捕らえることのできるのも川でありました。
 自然に対しての感謝や願いは、必ず神に通じると信じ、生活を守ってくれるように祈りました。

鷹猟 ウバユリ採り コクワブドウ採り ウバユリ澱粉を採る
クマ送り
 
 320出土した土器・石器
 321土器
出土した土器 アイヌ文化期の土器は珍しい。
鍋は鉄鍋に代わり、木のお椀を使っていた。
 323石器
石斧
石斧
 325石鏃
石鏃
 327掻器
掻器
 
 330出土した貝化石
ホタテガイ化石
 333化石が埋まっている石(ノジュール)
クジラの骨
 

 和人の進出
 340 開拓期


 340林業
 341林業の道具
伐採具・運搬具・加工具

 343開拓時代の住居
  未撮影のため、リンクをご覧ください。リンク先をご覧ください


クマザサで屋根を葺いている。
週末縄文人もカヤでなくクマザサで屋根を葺いた。

寒冷地では、常識だったのかもしれない。ただ、釧路市北斗遺跡では茅の芯で屋根を葺いていた。

クマザサは耐久性が低く、応急の材料だったのかもしれない。

多くの道具が揃った
入植の成功者か
 終わりに
  この博物館は、昭和53年にそれまて゛町営ボーリング場として使われていた建物を、廃業して転用したものです。
従って、展示や、パネルは当時のもののままと考えてよいようです。