|
|
目
次 |
※考察 相島について
朝鮮通信使
積石塚
10シーオーレ新宮 外観
20朝鮮通信使の舞台相島
30朝鮮通信使
32朝鮮通信使船団
34饗応膳
35朝鮮通信使行列
35b朝鮮通信使
36戦国時代
36立花城
37元寇
40相島の文化財年表
50水中遺跡
60新宮町の文化財
64新宮と縄文文化
63新宮と弥生文化
62新宮と古墳文化 |
100弥生時代の土器
100夜臼式土器
110弥生式土器
112韓式系土器
115古代の地域交流
120古墳時代の土器
須恵器と土師器
130三代貝塚
133夜臼遺跡
141骨角器
143石器
145土器
|
150青銅製品
151筒状青銅製品とその鋳型
152青銅製品
155琴柱形石製品
160古墳時代
161五世紀初め頃の土器
170古墳
171人丸古墳
172瓜尾・梅ヶ内古墳群
173新徳古墳
174三代・須川3号墳
175鉄製品 刀
176馬具
177武具
178鏃
179刀 |
200相島
201相島積石塚群
202各地の積石塚
203積石塚の分布
※私の寝言
204相島の1号墳模型
211相島積石塚群
213積石塚出土品
214須恵器
220相島の自然
223漂着した貝類
|
300企画展新宮町の遺跡
「香ノ木古墳群」 6c末
305玉類
308鉄器(サルポ斧状鉄製品)
320須恵器
330香ノ木古墳群
古墳群と須恵器
370横大路家住宅模型
江戸時代 |
|
|
※考察 相島について
朝鮮通信使 (以下編集者記述)
|
当館「シーオーレ新宮歴史資料館」は、朝鮮通信使の資料で有名です。
津島壱岐を経てやってきた一行は、新宮町沖に浮かぶ相島の専用客殿に逗留しました。
朝鮮通信使は、室町時代に始まったものの、中断し、その後江戸幕府の将軍の代替わりごとに祝賀朝貢する使節です。
しかし、当時の日本においては、筆談などを通して進んだ東洋文化にじかに触れられる機会として、学者や、学問を志す人々が、行列の行き帰りにあと追い、文化的接触を図るために、一緒に旅をした記録も多く残っています。何十年に一度、一生のうちに一度有るか無いかの一大イベントだったようです。
交流の一例として、漢詩を交わしたり、漢詩の評価を仰いだり、水墨画の手ほどきを受けたり、という話を聞いたことがあります。
このほかにももっといろいろな交流があったようです。何しろ沢山の学者や文化人を伴って来る使節ですから、それこそ先進文化の塊だったようです。
ただし、この交流はあくまでも日本の庶民の文化レベルにとどまったもので、文系中心の当時の日本文化では、物理化学などは含まれなかったでしょうが、本草綱目的な漢方薬や漢方医療の交流はあったかもしれません。このころの植物学は、医用植物が対象だったのでしょう。
朝鮮通信使一行は、新宮町の沖合の相島(あいのしま)の、この日のために新築された宿泊客殿に逗留します。ここ博多、下関、兵庫の各津などに停泊し、大坂から陸路で江戸に向かいます。 |
|
積石塚
|
この小さな相島には朝鮮式墳墓である積石塚が254基も存在します。古代に朝鮮半島北部からやってきた人々が、おそらく海運などに関わりながら、長く住んで、しかも財を築いていたようです。
日本の積石塚はここから信州長野県や関東群馬県にまで広がります。それは彼らが、騎馬民族である高句麗人であり、従って馬産に従事しながら
その適地を求めて拡散していったからのようです。
254基もの積石塚の存在は、現在の北朝鮮・中国に当たる朝鮮半島北部の人々が、この島を通って列島各地に分散していった様子が伺えます。 |
|
高句麗人とは コトバンク
|
➀複数の歴史書に高句麗は中原から渡ってきた民族ではなく、遼東と朝鮮半島中北部一帯の土着族である濊貊族が建てた国であると記録されている。 この濊貊は、中国の北方で活動していた貊族とは別の存在であり、三韓の韓族と同じ東夷族に属する。
②高句麗地方は古くから北方・西方諸文化受容の窓口であった。紀元前7世紀以降、タガール、スキタイ、オルドスなどの諸文化を受容し、特色ある青銅器文化をつくった。前3世紀の衛氏朝鮮の成立、前108年の漢四郡(朝鮮四郡)の設置により、中国鉄器文化が直接この地域に導入された。前37年ごろから鴨緑江(おうりょくこう)の支流佟佳江(とうかこう)(渾江(こんこう))の流域を中心に、小国が連合して高句麗を建国した。コトバンク
※朝鮮半島北部の小民族が建てた連合国家で、牧畜を行う民族で、乗馬にたけ、騎馬による戦闘が得意であった。 |
|
積石塚は(コトバンク積石塚より)
|
➀土の代りに石を積んで墳丘を造った墳墓をいう。石を用いるのは,礫石が入手しやすく,凍結期にもつくりやすいなどの理由によるものと思われる。世界各地に分布するが,特に北ヨーロッパのバルト海周辺からロシア,シベリア,モンゴルに多い。また中国,朝鮮の石器時代から金属器時代初期の墳墓にもみられ,日本では,香川県石清尾山,長崎県対馬,長野県須坂市大室の古墳群などの積石塚がよく知られている。
②石を積み上げて棺槨(かんかく)をおおった墳墓をいい,礫石(れきせき)を封土の代りに積んだケルンと,切石を規則的に置いた石塚とに分けられる。
ケルンは,バルト海周辺,ヨーロッパロシア,シベリアに多く,
石塚は中国東北,朝鮮半島に数段からなる形式の整ったものが見える。日本では香川県石清尾山古墳群,長野県大室古墳群などが有名。
③石を積み上げて墓室を覆ったもので,(ヨーロッパでは)ケルンcairnとも呼ばれる。墳丘が積石であるのが一般的な地域では,cairn(積石塚)という言葉は,しばしばbarrow(塚)と同義語に使われる。主として,積石用の石材が豊富な海岸とか河川に近いところや,山間部などで築造された。積石塚は,単に土壙や石棺・石室などの埋葬施設を保護する簡単な構造のものから,墓域を構成するものや,さらに壮大な墳丘墓まで,実に多様である。 |
|
高句麗 墓制 五女山城と鴨緑江(位置図)
|
➀…(朱蒙は紀元前37年に五女山城(垣仁付近)を都として高句麗を建国しました。)…五女山城は,通化に通ずる陸路と渾河の水路を扼する交通の要衝にあり,三方が高い山や絶壁で囲われ,二つ以上の谷間をとりこみ,南方だけが緩斜面になっている地形(栲栳峰(こうろほう))に山城を作っている。この地方の高句麗墓は主として積石塚で,シベリアから伝わり,高句麗で発展した墓制である。これらの古墳から出土した土器類には中国土器の影響がみられる。
(コトバンク積石塚) この場合のこうろ峰は枕草子の香炉峰(中国大陸中部)ではありません。(^^)/
②高句麗初期の墓制である積石塚は, 鴨緑江およびその支流の地域に分布している
※今回探しきれなかった文献ですが、四国香川県の石積み塚を調べた時に見つけた論文です。題名と著者名は不明です。記憶していません。
朝鮮半島北部からシベリア、北欧にかけての墓制は石積墓で、種類もありました。「
」に詳細記述。
しかし、この初期高句麗の墓型式は、たまたま王都を置いた五女山城周辺の墓制に習っただけで、高句麗人全ての習俗ではなく、やがて高句麗の王都が南下すると、高句麗人は積石塚(墓)を造らなくなります。
ところが、朝鮮半島の積石塚(墓)分布では北部から南部へと点々と続いています。これは、この墓制を本来習俗とした民族が、時の権力にいて、習俗としての積石墓(塚)を造りながら南へと移動拡散していったようです。彼ら遊牧民の血を引く人々は、乗馬や馬産の技術に長じた人々だったと思われます。 |
朝鮮半島の積石塚
|
積石塚は、日本だけではなく、朝鮮半島にあった古代国家・高句麗の首都・扶余(現在の中華人民共和国東北地方集安県)でも、多くの積石塚が発掘されている。それは、中央アジアにもあり、積石塚は極めて一般的な墓で、その置かれた環境に則した墓制とみられる。それをもって、直ちに積石塚を、遊牧民の墓とするのも肯けない。中国と北朝鮮との間を流れる鴨緑江の流域の集安周辺にたくさんの積石塚があり、数万という数で密集して分布している。さらに、北朝鮮の慈江道にも何万という積石塚が発掘されている。こういう積石塚は鴨緑江周辺だけでなく、朝鮮半島全域に分布していて、最近では韓国の地域の慶尚南道等でも数多くの発掘実績がみられている。
※例えば、中央アジアで民族から慕われた王墓ヘの捧げものは礫で、長年にわたって山の上の墓上に大量の礫が積み上げられ、現代に於いては発掘することが不可能となっている。また、モンゴル王チンギス・ハン(チンギス・カン、ジンギスカン)の墓は未発見であるが、これは大量の礫の積み上げによって(同様の礫の山が多数あるため)特定できず、また、発掘不可能と言われている。
※朝鮮半島の積石塚には、方壇積石墓・方壇階梯積石墓・方壇階梯石室墓・封土石室墓などがある。 |
|
日本の積石塚
日本の石積塚2 (※以下は私の私見です。)
|
※墳丘形態は円墳が多いが、方墳、前方後円墳、双方中円墳もみられる。(コトバンク積石塚とは)
岡山県吉備地方には、突然弥生時代の平穏が破られ、武装集団によって占拠され、ここを拠点として半島人の侵略が始まったことが伺えます。
(この地域には環濠集落も高地性集落もない。ここが武装集団の本拠地だったからだ。
しかし、青銅器祭祀が突如終わり、他の地域に先んじて巨大墳丘墓が造られた。他民族に突然支配されたからだ。と考えます。)
その中で、弥生後期の楯築墳丘墓(2世紀後半~3世紀前半)が最初に作られた大型墳丘墓です。
(吉備だけでなく周辺まで完全制圧して巨大な権力を確保し、社会と農業生産の安定に100年以上かかったようだ。)
この楯築遺跡は双方中円墳で有名ですが、香川県では双方中円墳は石積塚としていくつもあります。なぜかこちらは取り上げられないのですが、
四国の方が形状が整っていて美しい。吉備を支配した武装集団は、香川県の集団と同郷がそれに近く、大変密接な関係を保っていました。
つまり、楯築遺跡の墳丘墓は讃岐と同じ系統で、たまたま周囲に大量の礫がなかったために土盛りとなり(原則は周囲にあるもので造る)、しかも、支配民に造らせたために形状も悪くなったのでしょう。
双方中円墳=三重・奈良・香川・岡山、九州福岡(うきは市西ノ城古墳)
四国讃岐に軍事侵攻した集団と吉備に侵攻した者は同じ集団で、積石塚文化を持った高句麗人か、
高句麗が朝鮮半島北部を侵攻し、占領して都を定めた紀元前37年に、戦で敗れた集団か、
が博多湾に入り、一部は上陸し、その後、軍船で岡山と香川を侵略し、武力のなかった弥生村をたちまち占領し、支配したと思われます。
高松の山中には風化花崗岩などの礫が多く、石積塚が作られ、
湿地、平地を支配した吉備では、土盛の墳丘墓を作った。
ただし、石積塚であるために初期石積塚のように巨石を周囲に建て並べたのでしょう。(吉備・讃岐の支配者は福岡県の集団よりも下位・分家にあたるようだ。
楯築遺跡には九州から呪術的な石造彫刻が魂の鎮め石として送られています。) |
|
馬産を目的とした高句麗人の渡来
|
※五世紀以降の渡来は、大和政権と半島国家で交わされた契約(軍事支援の代わりに先端技術を提供する)をもとに、様々な高度な文化がもたらされ、その中の一つに馬産があり、国内で乗馬が行われるようになり、馬産が一大ブームとなった。
馬産のために、高句麗系民族が大量に渡来し、九州・中国・畿内などで馬産を始め、やがて適地を求めて、信州や北関東などへと移動していきました。
しかし、このように書くと、渡来した高句麗人は、牧畜農耕民であるかのように感じますが、高句麗 騎馬
詳細_重裝騎兵行列2 - 東北亜歴史ネット
このリンク先では、壁画古墳に描かれた重装騎馬兵と鎧馬武士という、鎧兜を着た馬と鎧兜を着た武士が登場し、この重装備の馬が重装備の兵士を載せて戦場を走り回り、戦ったのであるから、どれほど屈強の馬と兵士であったことか。しかも、この馬用の兜も騎兵用鎧兜も群馬県立博物館で展示されており、また、
意外と地味に各地の博物館で馬用兜が展示されていることから、単に馬産農民として渡来したのではなく、騎馬兵として渡来してきた遊牧民であることがことが分かります。
これまでばらばらに各地の博物館で見てきた、馬と、馬産と、乗馬という物事が、だいぶひとつになって見えてきたように思えます。
長野や群馬で馬産を行ったのは、渡来高句麗人。彼らの子孫が東北へ馬産を広げていった。このことに、各地の特徴的な土器や、製鉄や、鍛冶などが繋がり、信州では雪の少ない南部の畑作農耕(牧畜を伴う)と、水田農耕民(豪雪地帯で牧畜をしない)などの違いなどが見えてきました。
ここまで分かるのに、一体何年かかったんだろう。(笑) |
考察終了
|
|
|
|
|
|
10シーオーレ新宮 外観
|
|
|
シーオーレの意味
海seaと、特産物のオレンジorageを合体して、シー+オレと造語しました。
4F:歴史資料館
3F:生活館(研修室、和室、パソコンルーム、展示室など)
2F:図書館
1F:保健所 |
|
20 朝鮮通信使の舞台相島
相島絵地図
寛延元年1748年製作
|
|
朝鮮通信使の舞台
相島
|
|
世界記憶遺産
通信使の記録
|
朝鮮通信使とは |
通信使への
おもてなし |
毎回新築
通信使客館 |
当時の風景を
相島で観る |
|
|
|
|
30朝鮮通信使
|
32朝鮮通信使船団
正使船:通信使の代表者である正使の乗る船で、長さ23間(41.4m)、幅6間(10.8m)、深さ1丈(3m)で、130人が乗り込んでいた。
曳航船団:正使船を直接に曳航する大きな船です。天和2年(1682)では 万歳丸と凰翔丸:いずれも 46人漕ぎ 水夫49人の同じ機能の船
大型曳航船2層が二手に分かれて曳航し、その二層をそれぞれ6艘5人乗りの曳舟で引きました。
|
正使船 |
|
曳航船団(えいこう) |
|
|
|
|
藍島(あいのしま)
下に記述 |
曳舟 |
|
|
藍島(あいのしま)
|
対馬・壱岐を経た一行の次の寄港地は筑前藍島であった。ここは福岡県新宮町から玄界灘の沖合7.5kmに浮かぶ三日月状の小島で、
筑前黒田藩52万石が大藩の面目にかけて、3500人の人夫を投入して宿舎を新設した。
1994~95年の発掘調査によって、大規模な回廊状の掘立柱建物跡が見つかった。
他にそれに付属する前庭と考えられる石敷遺構、排水溝、また別の個所から石敷建物群、井戸跡も見つかった。
朝鮮通信使ゆかりの土地は数多くあるが、発掘調査で実際に検証した初めての事例で、調査地近くの灯籠台跡、、波止場の石積みなども含め当時の様子がしのばれる。 |
藍島(あいのしま)
|
|
33朝鮮通信使と相島
|
江戸時代は外国との交流をしない「鎖国」政策をとりました。
しかし、朝鮮とは外交があり、将軍の襲職の時などに12回にわたり朝鮮から使節が来日しました。これを朝鮮通信使と言います。
福岡藩では、相島に来日の度に新しく客館を建て、行き届いた接待をしました。
また、相島へ学者や医者を派遣し朝鮮の学者や文化人と交流させました。その意味で相島は唯一の「世界へ開かれた窓」だったといえます。
朝鮮通信使一行は約500名前後で正使船・副使船・従事船の3艘を中心にそれぞれの供船や幕府へ献上する馬や鷹を載せた船など、
合計13艘で来日しました。
福岡藩では船団を組んで出迎え、相島に入港させました。ここに展示している船は、通信使船と福岡藩の曳航船団です。曳航の様子は壁の絵を参照ください。
曳航船団は通信使船1艘につき46人漕ぎの船2艘、4人漕ぎの船12艘を当て、他に連絡船も含め190艘、
1340人の水夫という大掛かりなものでした。 |
朝鮮通信使と相島 |
|
肥前系陶磁器 |
藍島(現相島)
朝鮮通信使客殿跡
客殿の柱列と庭跡 |
朝鮮通信使客館跡
|
以前は山間部にある「有待亭跡」(黄緑の点の所)が通信使を接待した場所だといわれていましたが、古文書や古地図などの調査により疑問が出てきました。そこで平成7年にその古地図をもとに発掘調査を行った結果、海岸に近い所で大きな建物跡や井戸などが見つかりました。
そしてこの調査で見つかった陶磁器からこの建物が江戸時代のものであることが わかり、通信使をもてなした場所は「有待亭」ではなく、ここであることが判りました。
この調査で陶磁器や漆器椀、下駄や桶などの曲げ物類など生活に密着した資料が沢山見つかりました。また、タイ、ブリ、マグロなどの骨も見つかり、このような高級食材でもてなしていたこともわかりました。 |
朝鮮通信使客館跡
|
客館跡
よくまぁ、積石塚を破壊することなく客館が建てられたものだ。きっと偉大な先人の墓所だと言い伝え、敬われ続けていたのでしょう。 |
|
34饗応膳
|
通信使船団之図 |
|
本膳 |
|
|
|
二の膳 |
三の膳 |
|
引而(ひきて) |
|
肴(さかな) |
|
菓子 |
|
曲物底板
客館跡18世紀 |
下駄 客館跡 18c
|
|
35朝鮮通信使行列 |
35a行列図屏風絵
|
朝鮮通信使の行列は、
A. 淸道旗、B. 吹打樂隊、C. 書記、D. 良醫、E. 從事官、F. 小童(随行員)、G. 副使H. 正使、I. 龍亭子、J. 馬上才・別破陣、K. 纛・刑名旗、L. 寫字官、
などの順で行われたようです。 引用:3. 朝鮮通信使行列の理解
音楽を奏でながら行進するとは、パレードですね。 |
|
35b朝鮮通信使
|
江戸時代はいわゆる「鎖国」政策をとり門戸を閉ざし外国との交流を絶ってていた時代です。しかし、完全に交流がなくなったわけではなく、長崎などで交易は行われていました。
徳川幕府成立後、家康は、豊臣秀吉の朝鮮出陣に伴い中断していた朝鮮との外交復興に努力し、慶長12年(1607)第1回目の朝鮮通信使を迎えました。初めの頃は回答使、刷還使と呼ばれていて、秀吉出陣の際、日本へ連れてこられた工人などの送還が目的でした。
親善使節としては、寛永13年(1636)からだと言われています。通信使の仕事は、日本の将軍の代替わりなどの時、朝鮮王国からの国書を持って来て、返書を持ち帰るというものでした。
その後、江戸時代を通じて、全12回の朝鮮通信使が日本を訪れ、このうち11回まで相島に立ち寄っています。 |
|
|
戦国時代
|
36立花城 福岡県糟屋郡新宮町 1330年頃建設
|
戦国時代250年間に亘り、名城と呼ばれ筑前の国の要害として名高い城です。
博多の地を守る要害の地であったため、立花城を巡る攻防戦が何度も行われました。
戦国の世が終り名島城が築かれ、立花城は廃城となりました。 |
金甲
|
1592(文禄元年)と1597年(慶長2年)の2度にわたり豊臣秀吉は朝鮮へ出陣しました。文禄の役、慶長の役です。
この金甲は、立花家の者が朝鮮出陣のおりに使用したとされるものです。
鉄製の本体に内面は黒漆を塗り、外面は金箔を貼り付けています。
400年を超す伝来品であるため金箔や黒漆が浮くなど痛みも目立ちますが、立花家とゆかりある貴重な資料です。 |
立花家伝来
朝鮮通信使使用
金甲 |
金甲 |
金甲 |
杏葉紋 |
|
|
|
|
37元寇 1274年 1281年
|
アジア大陸を手中に収めたたモンゴル帝国は、中国に「元」を建て、日本に服属をもとめてきました
。これを拒否した鎌倉幕府との間で戦が起こりました。文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)で元寇と呼ばれるものです。
二度の侵攻をどうにか退けましたが、日本、元とも得る所が無く、両国とも国力が衰えていきました。
新宮相島で戦闘があったという記録はありませんが、碇石などの遺物が見つかっています。
※考察 元寇
中国「金」を滅ぼしたモンゴル人は、降伏した金軍に朝鮮や東南アジア諸国の攻略を命じました。
朝鮮半島では、長い間、元軍と戦った高麗も遂に降伏し、高麗軍は元の命令によって日本を攻撃することになった。
これをなぜか、蒙古襲来とか、元軍が攻めてきた、と言っているが、朝鮮軍(高麗軍)が攻めてきたのだ。なぜ、真実を言わないのだろうか。
※広大な領土と莫大な税収を得ていた元が、朝鮮人に命じた日本攻略の失敗程度で凋落することはない。元軍となった金軍は東南アジアの海戦でも大敗北している。
本来、元が占領地の降伏軍を新たな地域の攻略にあたらせるのは、捕虜を危険視しこれらに他国を攻めさせて消耗させることが目的であった。
従って、占領地域の軍事力が低下すればそれでよかったのだ。
基本的にモンゴル人のバトゥは皆殺し作戦が当たり前だった。アラブ人は捕虜は皆殺し。戦国時代の日本では占領地域の人間は人買いに売る。
※二度の元軍の攻撃に対して、その経路となる地域では激しい戦闘が起きたとされている。おそらく 皆殺し。そんな中、戦闘以前に船で対馬を逃げ出した一族もいた。それが、津軽の津島家である。おそらく、人々は殺されるのをただじっと待つ者はおらず、いろいろな方法で、経路にあたる島々から逃げ出したものと思われる。相島などはすぐ近くであるから、九州本土へ。大集団だった津島一族は日本海行路を北上しながら植民地を探し、遂に津軽に到達したのだろう。きっと、莫大な財力と人員を投じて新天地を切り開いたに違いない。結局、明治まで名家として存続した。
※さかのぼって、元軍(実際には元に降伏した中国大陸の軍隊)が、朝鮮半島に何十年にも渡って戦争を仕掛け、それに対し最後まで抵抗を続けた部隊は、
三別抄の乱(さんべつしょうのらん)とよばれ、最後に軍船を仕立てて珍島から東シナ海に脱出し、さまよった挙句、沖縄本島北谷に上陸し占拠、高麗式の瓦などの遺物を残し、当時戦国時代だった琉球諸島に介入し、軍事バランスを大きく塗り替える働きをした。
また、占領された高麗国王は、名前に忠義の忠の字を入れて服従をあらわした。子供の名前にこんな字は使いたくないものである。 |
新宮と元寇 |
|
文永・弘安の役
元軍の進路 |
蒙古襲来絵詞
襲来したのは蒙古人でなく朝鮮人でした |
蒙古船の図
蒙古襲来絵詞
|
朝鮮船の碇
碇の巻上機まで精密に描かれている。船を捕獲したのかも。 |
碇石(木製碇の錘り)
碇石は“本”の5画目
よこ“一”の位置に挟み込みます。 |
|
|
|
|
|
|
|
40相島の文化財年表
年表
|
縄文時代
~BC3c頃まで
弥生時代
~AD4c頃まで
吉野ケ里遺跡
水稲耕作の渡来
BC3c頃~AD4頃
夜臼貝塚
BC2c~AD1c
三代貝塚
BC2c~AD1c
夜臼三代地区遺跡群
BC3c~AD4c |
|
古墳時代
AD4c~AD8c
神木遺跡 AD3c頃
夜臼三代地区遺跡群
OMR-6区AD4c初頭
人丸古墳AD5c初頭
前方後円墳
畿内中心に築造
AD4c~AD8c
香ノ木遺跡群
AD6c後半~末
三代須川3号墳
AD6c後半
新徳古墳 AD6c後半
瓜尾・梅ノ内古墳群
AD6c後半~末 |
|
奈良時代
710~794年
平城京遷都
唐の長安に倣った都
和銅3年(710)
平安時代
794~1192年(1185)
平安京遷都
律令政治の再建
延暦13年(794) |
|
伝教大師最澄
古賀の浜に帰り着く
延暦24(805)年
鎌倉時代 1192-1338
源頼朝 鎌倉幕府開幕
建久3年(1192)
蒙古襲来
文永役(11年1274)
弘安役(04年1281) |
|
室町時代 1338-1573年
足利尊氏 室町幕府開幕
暦応元年(1338)
安土桃山時代
1573-1603年
織田信長上洛
永禄11年(1568)
立花道雪
立花城主となる
1570年頃
|
|
豊臣秀吉 全国統一
天正18年(1590)
徳川家康 関ケ原勝利
慶長5年(1600)
江戸時代(1603-1868)
朝鮮通信使 朝鮮からの
修交使12回来日
慶長12年(1607)
大政奉還慶応3(1867)
明治時代 1868年 |
|
50水中遺跡
水中遺跡 |
水中測量
私もダイビング免許取得講習で水中測量をした。 |
鷹島海底遺跡の
元軍の沈没船 |
沈没船実測図
|
|
|
海揚りの「てつはう」 |
水中考古学 |
音波探査機
|
この二重口縁土器の展示の意味不明。土器棺? |
|
|
|
|
60新宮町の文化財 |
61最澄 最澄が唐から帰朝後初上陸した。逗留した。
|
64新宮と縄文文化
|
約1万年にも及ぶ狩猟生活を中心とした時代です。草創期、前期、中期、後期、晩期に区分されています。
晩期には農耕が始まったのではないかともいわれています。※
町内ではっきりと確認できる縄文時代の遺跡は見つかっていません。しかし、土器資料は数か所の遺跡で見つかっており、将来、縄文遺跡として確認できる遺跡が増えていくものと思われます。
※菜畑遺跡は縄文晩期である。大陸への窓口、北部九州では、紀元前10cには半島人との混血がいたことから、農業が始まっていても当然だろう。 |
新宮と縄文文化 |
|
縄文遺跡 |
|
|
|
遺跡 深鉢 縄文中期
新潟県十日町市笹山
|
土偶 縄文中期
十日町市笹山遺跡 |
十日町市赤羽遺跡
第5号住居跡 前期 |
火焔型土器 中期
十日町市笹山遺跡 |
石棒 縄文中期
十日町市笹山遺跡 |
第25号配石墓 後期
十日町市栗ノ木田遺跡 |
|
63新宮と弥生文化
|
弥生時代は、早期、前期、中期、後期、終末期に大きく区分されています。農耕が始まったじだいで、 いわゆる邪馬台国などの「クニ」が成立していきます。新宮町には弥生時代の開始時期の標識遺跡である夜臼遺跡があります。 |
新宮と弥生文化 |
|
弥生遺跡 |
|
|
|
木製品(杵など) |
槽 |
鏡 |
集落跡(柱穴・排水溝) |
土器出土状況 |
夜臼・三代地区遺跡群 |
|
62新宮と古墳文化
|
ヤマト朝廷と呼ばれる中央集権国家が成立した時代で、全国に(規格化された)古墳が作られています。新宮には数多くの古墳が残っています。
平成5年までに調査した古墳の数は23基で、未調査数は20基程度と確認しています。また、相島には全国的にも珍しい積石塚という古墳が残っています。 |
|
|
弥生時代の土器
|
100夜臼式土器 弥生早期
|
昭和25年森貞次郎の手により夜臼貝塚の調査が行われた。
その時見つかった縄文土器に穀物の籾痕がついており、縄文農耕の問題提起がなされました。
この時見つかった土器に遺跡の名前から「夜臼式土器」と名付けました。
その後、板付遺跡等の調査で夜臼式土器を使用している時代に稲作が行われている事実が確認され、夜臼式土器は縄文時代の最後を飾る
土器として広く認識されるようになりました。
その後研究が進み夜臼式土器を使用した時代は、弥生時代と認識できるあらゆる要素が出そろっているので、弥生時代早期の設定が提唱されています。 |
|
110弥生式土器
弥生式土器
|
|
弥生式土器 |
弥生時代は、今から2,300年程前から1,700年程前の約600年間です。この時期に使われた土器を弥生式土器と言います。
縄文式土器は甕、深鉢、浅鉢などが基本セットでしたが、弥生式土器になると、壺、甕、高坏、鉢というセットになります。
これらの器種の用途は、壺は貯蔵用、甕は煮炊き用、高坏、鉢は食物を盛るためと言われています。
この4つの器種が基本ですが、600年間に様々なバリエーションを見ることができます。
この資料館に展示している弥生式土器は、三代貝塚(みしろ)から見つかった
弥生時代前期(2,300年から2,100年ほど前)の土器、
夜臼・三代地区遺跡群夜臼地区より見つかった弥生後期(1,900~1,700年前)の土器が中心です。 |
夜臼・三代地区遺跡群 |
総面積6万㎡に及ぶ遺跡群です。縄文時代後期から平安時代にまたがる複合遺跡です。
縄文時代の遺物は土器が数点見つかっているだけで、遺構は見つかっていません。
夜臼貝塚の調査も行いましたが、蜜柑園等の開墾のため見つけることができませんでした。
弥生時代になると前期の土器溜りや貯蔵穴等が見つかりました。
又、前期から中期にかけての時期には、三代貝塚があります。
この貝塚も森貞次郎達の手により一度部分的な調査が行われたのですが、今回は全面的に調査を行いました。
良好な状態で残っていて大量の土器、貝、動物遺体等が見つかりました。
この貝塚の断面を剥ぎ取りここに展示しています。 |
夜臼・三代地区遺跡群 |
弥生時代後期になると、環濠ではないかと思われる大きな溝が丘陵を巡っていました。
調査区域外に伸びていたため全容ははっきりしません。
この大溝からは大量の土器が見つかりました。吉野ケ里遺跡や、平塚川添遺跡と大体同じ時期です。
また、小型丸底壺と呼ばれる土器を中心に100個を越す土器、それに滑石製の臼玉が約6400個、有孔円板100枚等、祭祀に関する遺構も見つかっています。
古墳時代の遺構では、住居跡群が見つかりましたが、残りが大変悪いものでした。
しかし、大森6区からは韓国の土器のつくりをしている韓式系土器をはじめとする多量の土器、及び臼、杵、鍬、案(机)、櫂(オール)などが見つかりました。 |
弥生式土器
弥生式土器 |
|
|
|
|
|
甕 三代貝塚
大森地区 弥生前期 |
甕 三代貝塚
大森地区 弥生前期
|
壺片 力町遺跡
弥生中期 |
長頸壷
夜臼・三代地区遺跡群
夜臼地区 大溝 後期 |
壷
夜臼・三代地区遺跡群
夜臼地区 大溝 後期
|
壷
夜臼・三代地区遺跡群
夜臼地区 大溝 後期
|
|
112韓式系土器 夜臼・三代地区遺跡群 大森地区 古墳時代前期
|
朝鮮半島から直接もたらされたものではなく、その影響を受けて渡来人もしくは在地の者が日本で製作し半島の土器の特徴を色濃く持っているものを韓式系土器と呼んでいます。この土器が見つかったことで古墳時代に韓半島との交流があったことがわかるのです。 |
把手付甕 夜臼・三代地区遺跡群 三代貝塚 弥生前期
|
今のところ、日本で確実に把手付甕として確認できる資料は僅かに10点程しかなく、その内3点は新宮町三代貝塚から見つかっています。
吊り下げる鍋のような使い方等が考えられますが、資料が少ないためわからないことが多すぎる土器です。
しかし、韓半島や大陸との繋がりが考えられる土器で、弥生時代に大陸との交流があったことを窺い知ることができる貴重な資料です。 |
把手付甕
夜臼・三代地区遺跡群
三代貝塚 弥生前期 |
把手付甕 |
|
|
内面朱付着鉢形土器 夜臼・三代地区遺跡群 大溝 弥生後期
内面朱付着鉢形土器
夜臼・三代地区遺跡群
大溝 弥生後期 |
|
|
|
|
|
115古代の地域交流
|
ここに展示している土器は、岡山や瀬戸内地方など九州以外で作られた弥生時代後期の「外来系土器」です。
夜臼・三代地区遺跡群からは、このような中国地方、瀬戸内地方、豊前地方等の外来系土器が沢山見つかっています。
これらの土器が見つかったことにより、約1800年ほど前に地域間交流が盛んに行われていたことを窺い知ることができるのです。
※豊前地方:福岡県東部+大分県北部 |
|
古代の地域交流 |
器台 弥生後期 大溝
夜臼地区第1区
|
|
壺 上東式土器 倉敷
|
上東式(じょうとうしき)と呼ばれる弥生後期の土器です。岡山を中心として中国地方、瀬戸内地方に分布しています。
壺にははっきりとはわかりませんが、抽象的な絵が描いてあります。 |
壺 大溝 弥生後期 夜臼地区第1区
|
口縁部の形や凹戦文など九州以外の地域の特徴を持っている土器です。 |
|
|
120古墳時代の土器
須恵器と土師器
|
古墳時代には、須恵器と土師器という2種類の土器が使われていました。
須恵器は古墳時代になり作り方が大陸から伝えられました。窯で焼くためとても硬い器です。
土師器は弥生土器の流れを汲むもので、須恵器と比べればもろく耐久性は全く違います。
須恵器は鼠色をしたもの、土師器は茶色をしたものがほとんどです。 |
|
|
|
小型丸底壺
夜臼・三代地区遺跡群 |
ハソウ
夜臼・三代地区遺跡群
夜臼地区 古墳時代 |
ハソウ
夜臼・三代地区遺跡群 夜臼地区 古墳時代
|
ハソウ
瓜尾・梅ケ内古墳群
16号墳 |
短頸壷 新徳古墳 |
壺新徳古墳
|
脚付壺
瓜尾・梅ヶ内古墳群
23号墳
|
脚付壺
三代・須川3号墳
|
|
|
122古墳時代の土器2
|
古墳時代に伝えられた須恵器のつくり方は、瞬く間に全国に広まり、各所に須恵器窯が造られました。そして、沢山の器種が作られるようになります。
ここに展示しているものは、新宮町の古墳から副葬品として見つかったものですが、ほんの一部の器種に過ぎません。
須恵器は古墳や住居跡などの遺構の時期決定に最も有力な資料です。そのため全国的にも研究が盛んな資料で、かなり詳しい年代がわかってきています。 |
|
古墳時代の土器 |
|
提瓶 三代 須川3号墳
平瓶 新徳古墳 |
|
高坏
瓜尾・梅ヶ内古墳群
15号墳
高坏 新徳古墳 |
坏蓋 新徳古墳 |
坏蓋(内側)
三代・須川3号墳 |
坏身・坏蓋
瓜尾・梅ヶ内古墳群
16号墳 |
|
|
|
|
|
130三代貝塚(みしろかいづか) 弥生時代
|
昭和25年頃、森貞次郎により調査が行われ、「立花貝塚」として知られるようになりました。
ここに展示しているのは平成3年の調査で取り上げた貝塚の断面です。
この貝塚は、弥生前期~中期(紀元前200年前後~紀元0年前後頃)にかけてのものです。
貝殻嶽でなく、黒曜石や動物の骨、土器が混じっています。 |
|
131
|
三代貝塚 |
|
|
|
|
弥生時代中期土器 |
カキ・あさり・黒曜石
獣骨 |
弥生時代前期土器
|
黒曜石・獣骨・あさり |
弥生前期土器 |
巻貝 |
|
133夜臼遺跡 弥生時代中期(西暦0年頃)を中心とする貝塚
|
|
|
甕
大溝 夜臼地区第1区
高坏
祭祀土坑 夜臼地区第1区
|
甕
大溝 夜臼地区第1区 |
|
135
小型丸底壺
祭祀土坑 夜臼4区 |
高坏
祭祀土坑 夜臼4区 |
|
手づくね土器
祭祀土坑 夜臼地4区 |
|
手づくね土器 |
|
137夜臼遺跡
台付壺・高坏・壺 |
碗・鉢・台付壺・高坏
・鉢
|
壺・台付碗
|
壺・高坏 |
|
138
|
壺・碗・甕 |
壺
包含層 夜臼地区第4区
|
甕
包含層 夜臼地区第4区
|
壺 大溝 夜臼地区第4区
碗 前田・中島地区 |
碗
前田・中島地区
|
器台
大溝 夜臼地区第4区 |
|
|
|
|
|
|
139
|
台付碗・高坏・
沓型器台 |
台付碗 夜臼地区 第1区
大溝 弥生後期
|
高坏 夜臼地区 第1区
大溝 弥生後期
|
沓型器台 夜臼地区 第1区
大溝 弥生後期
|
|
|
ジョッキ型土器 夜臼地区 第1区
大溝 弥生後期
|
壺
夜臼地区 第1区
大溝 弥生後期
|
甑
夜臼地区 第1区
大溝 弥生後期
|
|
|
|
|
140三代貝塚 |
141骨角器 三代貝塚 大森地区
|
143石器 三代貝塚 大森地区
|
磨製石斧
第3層
|
扁平片刃石斧 |
紡錘車
包含層 |
磨製石斧未成品
石錘 第3層
|
砥石 第3層
|
|
145土器 三代貝塚第3層 大森地区
|
147 三代貝塚第3層 大森地区
|
148三代貝塚 大森地区
壺・甕・鉢 |
壺
第2層
|
壺・甕
第1層
|
甕・鉢
第5層 |
|
149甕 三代貝塚包含層 大森地区
|
|
150青銅製品
|
151筒状青銅製品とその鋳型
|
筒状青銅製品は、新宮町「夜臼・三代地区遺跡群」から平成3年に見つかったものです。鋳型は平成11年5月に春日市で見つかりました。形が似ていたので合わせたところ、ピッタリと合うことがわかりました。そのため、春日市(奴国推定地)の鋳型で作られたものが、新宮町に運ばれた可能性が非常に高くなりました。
このように鋳型と製品が合う例はほとんどなく、弥生時代のクニグニの交流を考えることができる大変貴重な結果となりました。
残念ながらこのような青銅製品は他に見つかっていないので、どの様な使い方をされていたのかはわかっていません。 |
青銅製品 |
|
|
|
|
|
筒状青銅製品と鋳型 |
|
筒状青銅製品と
その鋳型 |
筒状青銅製品
夜臼・三代地区遺跡群
弥生時代後期 |
|
|
琴柱形石製品 |
琴柱形石製品
人丸古墳 5世紀前半 |
|
|
人丸古墳:王家の墓と呼ばれていた |
|
|
152青銅製品
銅鋤片
夜臼・三代地区遺跡群
弥生時代
|
|
銅鏡 四獣鏡?
人丸古墳
古墳時代 |
|
銅鏡 仿製鏡
夜臼・三代地区遺跡群
弥生時代 |
|
土製模造鏡
夜臼・三代地区遺跡群
弥生時代 |
|
石剣
三代貝塚
弥生時代 |
|
貝輪
三代貝塚
弥生時代 |
|
|
155琴柱形石製品
|
一部に6世紀代のものもありますが、4~5世紀にかけて盛んに作られた石製品です。
琴柱形石製品の名称は、琴の弦を張る琴柱に似ているために名付けられました。
琴柱形石製品は川柳型、松林山型、恵解山型、石上型、円山型、、宮山型、茶臼山型、本村型の8型式に分けられています。
全国的には40遺跡以上120例以上が見つかっています。特に関西地方に多い遺物で、九州地方からは8遺跡15例しか見つかっていません。
このうち3遺跡6例は粕谷地区から見つかっています。その他は福岡県内から2遺跡2例、佐賀県24遺跡5例、熊本県1遺跡2例となっています。
地区内のものは、新宮町の人丸古墳、古賀市の花見古墳、志免町の七夕池古墳から見つかっていて、全て恵解山型です。
使い方は装飾品やまじない的な護符であると言われていますが、はっきりとしてことはわかっていません。 |
|
|
160古墳時代
|
161五世紀初め頃の土器
夜臼・三代地区遺跡群 大森地区 第6区
|
ここに展示している土器は、夜臼・三代地区遺跡群の「大森地区第6区」から見つかった土器群のほんの一部です。
大森地区第6区からは1,000個を遥かに超える大量の土器と、臼や杵、船のオール(櫂)など70点以上の木製品が見つかりました。
見つかった土器の中には多くの外来系土器や、韓半島の土器の特徴を持っているため「韓式系土器」と呼ばれる基貴重な資料もありました。
これらの外来系・韓式系土器が見つかったことにより、古墳時代の新宮と日本各地、また、海外との交流を考えることができるのです。 |
|
162大森地区第6区
|
164
|
韓式系土器 |
韓式系土器 |
no caption |
外来系かも知れない |
|
|
165壺
|
166五世紀初め頃の土器
|
|
170古墳 |
171人丸古墳 4世紀後半 直径約20mの円墳で、主体部は長さが2.1m、巾が0.6mの箱式石棺でした。未盗掘で、銅鏡、鉄剣、鉄刀、琴柱形石製品出土
|
宅地造成に伴い見つかった未盗掘の古墳です。標高18mの丘陵上に立地し、径20m程の円墳で、主体部は組み合わせ式の箱式石棺でした。
主体部の中には土砂が詰まっていましたが、良好な状態で残っていました。大きさは、2.1m.×0.6mでした。
遺物は銅鏡1枚、鉄剣1本、鉄刀3本、鉄鏃30数本、刀子2本、針、琴柱形石製品2個、臼玉41個、櫛5個が見つかりました。琴柱形石製品は、県内4例目の発見となった大変貴重なものです。 |
|
人丸古墳 |
|
|
|
新宮町の古墳分布図 |
|
竪穴式石室
|
蓋石 |
銅鏡 |
人丸古墳の築造年代が書かれていないが、
古墳の形態から、古墳時代前期のようです。 |
|
|
172瓜尾・梅ヶ内古墳群 6世紀後半~末頃と思われる30基を超える古墳群
|
宅地開発に伴い調査した古墳です。標高42m前後の気有料にあります。尾根続きで古賀町の方にも続いており、総数で30基を超える古墳群です。
調査した古墳は8基(15~22号墳)で、多くのガラス玉や、水晶の切子玉が見つかりました。
18号墳はほぼ完全に残っており、古墳のつくりがよくわかりました。全て6世紀終り頃の円墳です。 |
|
173新徳古墳 6世紀後半代 直径11m程の円墳
|
宅地造成に伴い調査を行いました。墳丘は削られてほとんど残っていませんでした。標高32m前後に位置し、直径15m程の円墳です。
主体部は3.4m×2.3mです。追葬が行われており、遺物は一ヵ所にまとめてありました。遺物は主体部から刀6本、刀子3本、鏃20数本、馬具3点、ガラス玉25個、黒玉70個。管玉8個、耳環3個、須恵器12点等が見つかりました。また、墓道から須恵器が約10点見つかっています。6世紀後半のものと思われます。 |
|
174三代・須川(みしろ・すごう)3号墳 6世紀後半
|
土取りのため調査した古墳です。標高19mの丘陵上に所在していた、径13m程の円墳です。墳丘は開墾のため
ほとんど残っていませんでしたが、多量の遺物が見つかりました。
主体部は2.9m×2.3mでした。
遺物は鉄剣2本、鉄刀2本、刀子6本、鉄鏃30数本、ガラス玉150個、管玉9個、メノウ玉3個、水晶切子玉3個、勾玉2個、須恵器5個等が見つかりました。 |
|
新宮町の古墳から見つかったいろいろな鉄製品
|
175鉄製品 刀
|
|
鉄剣 大森古墳群7号
鉄剣 三代須川1号墳
鉄刀 人丸古墳
鉄刀 三代須川1号墳 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
176馬具
|
177武具
|
鍔 三代須川3号 玄室
鍔 新徳古墳 玄室
鍔 瓜尾・梅ヶ内15号
玄室 |
|
鍔 三代須川3号 玄室
鍔 新徳古墳 玄室 |
|
|
三葉環式環頭柄頭
大森1号墳 6c頃 |
鉄刀 新徳古墳 |
|
|
|
|
|
|
178鏃
|
鉄鏃 玄室
三代須川3号墳 |
鉄鏃 主体部
人丸古墳 |
刀子 玄室
三代須川1号墳 |
|
179刀
鉄刀 玄室
三代須川3号 |
|
|
200相島
|
201相島積石塚群
|
古墳時代には日本各地で死んだ人を埋葬するため、いろいろな形の古墳が造られていました。
その中に、墳丘を石だけで造ったり、石と土を混ぜ合わせて造ってある古墳があります。それが「積石塚」と呼ばれる古墳です。
平成6年から調査を行った結果、これまでに254基の積石塚が見つかりました。
また、積石塚が作られた4世紀末(西暦300年代末)から6世紀後半(西暦500年代後半)ということが判ってきました。
積石塚の形も円墳や方墳、主体部は竪穴式石室、竪穴形横口式石室、横穴式石室と、バラエティに富んでいて、古墳を研究する上で貴重な遺跡となっています。
このように遺跡の重要性が認められ、平成13年8月7日付で「国指定史跡 相島積石塚群」として指定を受けるに至りました。このように調査は進んだ
のですが、あいにく誰が造ったものかなどについては、まだはっきりとは判っていません。
遺跡の見学は自由にできますが、石だけで造ってあるため、壊れやすい遺跡です。新宮町はもとより、全国的にみても貴重な遺跡なので、見学される際は遺跡保護に御協力をお願いいたします。また、石だけの海岸線で歩きにくいため足元には十分ご注意ください。
※相島積石塚群までは、JR新宮中央駅or西鉄新宮駅→コミュニティバスで新宮漁港、相島フェリー、時刻表→港より徒歩20分
相島では年一回、子供たちが観光客を英語で島内を案内し、石積み古墳群も解説してくれる、ということでしたが、一昨年終了しました。 |
|
202各地の積石塚
|
|
|
韓半島の積石塚
九州の積石塚
中国地方の積石塚
四国地方の積石塚
中部地方の積石塚 |
|
|
積石塚とは |
積石塚は古墳時代に造られた古墳です。古墳は「高塚」と呼ばれることがあるように、石や木などで主体部(死者を埋葬する所)を造り、その上に土を小高く盛って墳丘を造るのが一般的な作り方です。
しかし、積石塚は、基本的に主体部も墳丘も全て石で造られています。このような造りのものは韓半島に多いため、それが日本に伝わったという意見や、たまたまそこに石があったので石で造ったなどとも言われていますが、詳細はわかっていません。
日本全国で約20万基の古墳があると言われていますが、積石塚はその内僅か2000基程度であろうと言われており、古墳の中でも特殊なものです。 |
韓半島の積石塚 |
韓半島の積石塚は、紀元前1000年以上前(紀元前10世紀)から造られていますが、
紀元1世紀頃に建国された高句麗の発展と共に3世紀頃まで盛んに造られました。その後、7世紀くらいまで造られていたようです。この墓制が日本に伝わったという意見がありますが、まだはっきりとしたことはわかっていません。
当時の高句麗の範囲だけで約7000基を超える積石塚が現存していると言われています。 |
九州の積石塚 |
九州の積石塚は、ほとんど全ての遺跡が海岸部にあり、ある程度の群集墳をなしています。また、積石塚を作るための石材が豊富な場所に多いのも特徴です。
相島や対馬の積石塚の中には4~5世紀代のものもありますが、6世紀代のものが多く見られます。 |
中国地方の積石塚
|
中国地方の積石塚は、九州と同様に海岸部に所在するグループと、山間部など高地に造られているグループを見ることができます。
時期は6世紀以降のものが多く、見島のジーコンボ古墳群(山口県萩市見島)は8~10世紀にかけてのものです。 |
四国地方の積石塚
|
四国地方の積石塚は、比較的、石材が豊富な山間部の高地に造られているものが多く見受けられています。
そして、前方後円墳の積石塚が多く、古墳の発生時期(4世紀頃)のものが多いのが特徴です。
また、前方部は土で造り、後円部は石で積むという独特な造りのものもあります。
香川県高松市 石清尾山古墳群など |
中部地方の積石塚 |
長野県や山梨県がある中部地方は、海に面していない県が多いですが、国内で最も多くの積石塚が確認されています。
山間部や河川沿いの、石材が豊富な場所に造られています。
単独の大型積石塚もありますが、群衆墳をなしているものが多く、渡来人との関りが深いとされています。
時期は5~7世紀代にかけてのものが見受けられます。 大室古墳群などが有名です。 |
|
203積石塚の分布
日本と韓半島に於ける主な積石塚の分布状況 |
|
朝鮮半島 |
対馬海峡の積石塚 |
九州・四国・中国の
積石塚
|
|
中部地方の積石塚 |
|
|
|
|
|
|
※
|
朝鮮半島北部の積石塚文化を持った集団が次第に南下し、釜山を経て日本各地に渡来し、島や、地域を占領して何十年かを経て自らの葬送儀礼である積石塚を築いた。そこからまた各地に、時流と共に流出・移民・植民を繰り返していった。
相島の254基もの積石塚は、何百年にもわたって棲み続け、ここが根拠地となっていたのだろう。
北部九州にいた2つの半島人集団が、同時期に香川県と対岸の岡山県に侵略を開始した。二つの集団は親密な関係にあったが別々の文化集団だった。
四国に侵攻したのは積石塚文化の集団だ。彼らはやがて海を渡って兵庫県西部の揖保川河口に進出を始め、その地に積石塚を残している。
この情報をもとめて、兵庫県竜野市の資料館に行ったが、この地域の最高権威の学芸員からボロクソに言われて何もわからなかった。((笑))
彼の主張➀時期が違う。朝鮮半島の石積塚はもっと前や。②四国から来たのではない。竜野から四国に行ったんや。③四国の積石塚と半島の積石塚は形が違う。全く関係がない。
齢70の私に50代程の昼間から真っ赤な顔をした男が、出鱈目なことを言いながら根拠もなく私を罵倒する。
「おぇ!(おい!と私に向かって言う。)おまえなぁ!などと、とてもまともな常識のある人間の物言いとは思えない言葉。」
以前にもありましたね。岡山県の蒜山郷土館で、館長に撮影許可をもらって訪問日を約束して行ったら、学芸員らしき50代の男がいきなり怒鳴り散らして入ってきて、意味不明ことを言いながら罵倒する。
どちらもお偉いつもりで、天狗になって、ご自分のやっていることもわからなくなっている。(考古学をやるとこんな馬鹿な人間になり下がるようだ。)
皆さん。兵庫県竜野市と岡山県蒜山町では、決して質問してはいけません。理由もなく罵倒されますよ。(笑)ではなく(怒)です。
※讃岐の集団がなぜ、争いもなく吉備の地に入り込んで行けたか。四国の集団は岡山の集団の作った鉄の運搬に携わっていたのではないかという疑問については、赤穂市の博物館等で取材しましたのでまた、改めてご報告します。 |
|
204 相島の1号墳模型
1号墳模型1/5
方墳、横穴式石室
墳径約8m |
|
主体部(玄室)
奥壁、腰石 |
框石(境石)※・側壁
・羨道 |
|
|
※ 框石(かまちいし)と漢字表記して、 しきみいし( 閾石)とフリガナを打っている。
しきみいしは扉を設けるための石であり、かまちいしは床に敷く石。
この場合、羨道と玄室を分ける石なので境石である。さて、境石は扉を設けるためのしきみ(閾)石であり、羨道の床の端なのでかまち(框)石なのかもしれない。
フフフ!読み仮名の間違いで、どっちなんだかわからないですね。(笑)どっちでもいいや。
|
|
210 |
211相島積石塚群
|
|
1966年撮影 |
2017撮影
|
2017撮影北半分 |
同地のgooglemap |
2017南半分 |
同地のgooglemap |
|
|
|
|
相島積石塚群120号墳
|
120号墳は前方後方墳の積石塚で、相島積石塚群の中では最も大きな積石塚です。後方部は2段築成の墳丘で、長さ約2.7mを測る大きな主体部を持っています。120号墳は大きく壊れていたので、発掘調査を行い、復元整備を実施しました。 |
120号墳 |
相島積石塚群120号墳 |
|
213積石塚出土品
|
|
|
耳環、水晶製切子玉
積石塚1号墳 |
|
鉄製品 |
刀子 124号墳 |
1号墳出土鉄器 |
|
|
|
214須恵器
|
須恵器 104号墳 |
伽耶系須恵器
93号 5世紀中頃
110号 5世紀後半
|
伽耶系須恵器
93号 5世紀中頃 |
伽耶系須恵器
110号 5世紀後半
|
※積石塚文化人は半島北部人です。朝鮮半島の積み石塚も少しずつ南下しています。変化しにくい葬送儀礼を堅持したまま、生活文化は周囲に合わせながら南下し、ついに相島に到達。さらに列島に拡散しました。従って伽耶人ではありません。 |
|
215
|
須恵器(縄蓆文)
186号墳
) |
須恵器(縄蓆文)
119号墳 |
|
須恵器 134号墳
6世紀中頃 |
布留系土師器
203号 4世紀末 |
|
216須恵器
|
須恵器 134号墳
5世紀末 |
須恵器 224号墳
5世紀中頃 |
須恵器 108号墳
6世紀中頃
|
須恵器 23号墳
8世紀
|
|
|
220相島の自然
|
221
|
223漂着した貝類 (名前をあげるのは勘弁してください。)
|
225
|
240 |
241発掘調査員のデスクワークディスプレイ
|
|
300企画展 新宮町の遺跡「香ノ木古墳群」 6c末
|
301香ノ木古墳企画展案内
|
香ノ木古墳群は的野に所在する古墳群です。平成4年に調査を行い、須恵器(古墳時代の焼き物)、玉類などの装身具、県内では出土例が少ない「サルポ」という鉄器などの発見がありました。シーオーレ新宮4階の歴史資料館では展示期間中に香ノ木古墳群から発見されたサルポや須恵器などを展示しています。ぜひご覧ください。 |
|
303香ノ木古墳群
|
新宮町は東西に細長い形をしており、西側に玄界灘を望み、東には犬鳴山系が迫っています。
香ノ木古墳群は、的野に所在し、犬鳴山系から派生する標高50m前後の丘陵上に位置しています。調査は1~3号墳について実施しました。
調査の結果、須恵器、ガラス玉、紡錘車、鉄器などの遺物が出土しました。
1号墳については、出土した須恵器などから7世紀前後(約1400年前)には造られており、2回程度の追葬が行われて、7世紀末頃まで利用されたと考えられます。
2号墳については、遺物が出土されなかったので詳しいことは不明です。
3号墳については、出土した2点の坏蓋などから7世紀代に造られたと考えられます。ここに展示している遺物は香ノ木古墳群から出土したもので、形がはっきりしているものを中心に展示をしています。 |
|
305玉類
|
ガラス玉は径が2mm前後のいわゆるビーズ玉サイズのものが60個です。色調はモスグリーンのものとくすんだエメラルドグリーンをしたものがあります。
3~4mm程度のガラス玉は68個で色調は藍色のものがほとんどです。黒玉は27個出土しました。 |
|
|
|
|
|
黒玉
ガラス玉
(約2mm前後)
ガラス玉
(約3-4mm前後) |
|
306須恵器(坏身底破片)
|
坏身の底部片です。底部内側に「日」とも「B」ともみてとれるようなヘラ記号があります。ヘラ記号とは、焼成前にヘラなどで付けた記号です。
米印の部分にヘラ記号があります。右はヘラ記号を拓本したものです。 |
紡錘車 径4.8cm 厚さ1.5cm
|
紡錘車は綿などから糸を紡ぐ祭に使用されていた道具と考えられています。
中心に穿った孔に棒を通し、そこに繊維を装着して全体をコマのように回転させながら撚りをかけ、できた糸を巻き取って行きます。
下は、夜臼・三代地区遺跡群から出土した紡錘車とその使用方法です。 |
紡錘車 |
|
|
|
|
|
|
307紡錘車 夜臼・三代地区遺跡群
|
紡錘車
夜臼三代地区遺跡群
五世紀前半 |
紡錘車の利用方法
夜臼三代地区遺跡群
古墳時代
|
紡錘車 夜臼三代地区遺跡群
5世紀前半
|
|
紡錘車の検出状況 |
|
308鉄器(サルポ、斧状鉄製品) 残存長:14.5cm 最大幅7.8cm 厚さ0.4cm
|
香ノ木古墳群3号墳から見つかりました。中国・朝鮮半島に起源を持つ農具で、田んぼの畔(あぜ)造りなどに使われていたと考えられています。
「サルポ」とは韓国語で、日本語では「斧状鉄製品」と呼ばれています。国内での発見例は非常に少ない鉄器の一つです。 |
|
320須恵器
|
321須恵器 坏
須恵器 坏 |
|
|
須恵器
高台付きの坏身(左) 口径:13.5cm 高台径:8.5cm 器台4.2cm 全体的に回転ナデにより調整を行っています。
焼成、胎土ともに良好で、色調は灰紫色をしています。
坏蓋(右) 口径15.0cm つまみ径2.2cm 器高2.7cm
外面は回転ヘラ削りからナデ、内面は回転ヘラ削り、口縁部は回転ナデによる調整を行っています。
焼成は良好、胎土は径3mm未満の小礫保多く含み、色調は灰青色をしています。 |
|
須恵器
高台付きの坏身(左) 口径:14.2cm 高台径:8.8cm 器台6.0cm 内面から外面にかけてはナデにより調整を行っています。
焼成は良好で、胎土は小礫を含んでいます。色調は灰色をしています。
坏蓋(右) 口径15.0cm つまみ径2.1cm 器高2.2cm
全体の2/3程しか残っていませんが、外面は回転ヘラ削りによる調整が見られます。
焼成は良好、胎土は小礫を含み、色調は灰色をしています。 |
|
須恵器
高台付きの坏身(左) 口径:15.7cm 高台径:10.2cm 器高4.2cm 内面から外面にかけてはナデにより調整を行っています。
焼成は良好で、胎土は2mm未満の小礫を含んでいます。色調は灰色をしています。
坏蓋(右) 口径15.6cm つまみ径2.0cm 器高3.5cm
外面は、つまみ接地部から口縁端部に向かって中ほどまでカキ目が見られ、内面はナデ調整を行ています。
焼成は良好、胎土は3mm未満の小礫を含み、色調は灰青色をしています。 |
|
323須恵器 坏身・蓋
|
|
330香ノ木古墳群 |
3311号墳
|
1号墳墓道確認時 |
1号墳主体部
|
遺物検出状況
|
平瓶出土
|
|
333 2~3号墳
|
2号墳調査後 |
3号墳主体部 |
3号墳主体部全景
|
3号墳遺物検出 |
|
335
|
337
|
|
340 |
341
|
343
|
345須恵器壺
|
|
370横大路家住宅模型
|
|
|