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 縄文を旅する3 北の縄文 北東北~南北海道旅 28-2  2013.10.12(土)   最終更新2016.04.13

 北海道立北方民族博物館PART2 北海道網走市字潮見309-1 0152-45-3888月休 9:30~16:30

     PART1 PART2  PART3 PART4

交通 網走市内観光地循環バス。1時間に1本。最も便利です。
      1dayパスはJR網走駅観光案内所 網走バスターミナル
       
見所 日本最大の北方民族資料館です。
       
特集 オホーツク文化人  ニヴフ進出の経緯と経過  アイヌとの接触とアイヌの変貌
オホーツク式土器の土器編年

 
 
縄文の鼻曲がり土面そっくり


次 

PART 2 目次
 テーマ「オホーツク文化と宗教」

資料
69オホーツク文化とは
  狩猟交易の民ニヴフ
  ニヴフ進出の経過
69北海道歴史年表と
  各文化圏とヒトの形質
69オホーツク式土器の成立過程

展示
70オホーツク文化の人々
  オホーツク文化の特徴
80オホーツク式土器の特徴
  土器の特徴
90食料の獲得、漁労具
100大型住居
110信仰と儀礼-埋葬-
110牙製彫像の高度な工芸品
130ホーツク文化の土器
132オホーツク文化の謎
  消えたオホーツク文化
132狩猟儀礼 -クマ無祭り-
  北方の精神文化
135仮面
  北方民族の祖先観
  北西海岸インディアン
136冬の儀式
138日常生活と精神世界
139北方の音と儀礼・芸能

PART 1 目次
    テーマ「北方の衣料と暮らし」

01外観 入口展示
02北のクロスロード
  環境に適応した人々
  新大陸への移動

04海洋資源の利用と民族
考察
05言語・民族
  語族
  ハプログループ    
 人類拡散の北方ルートはなかった

10衣類を通してみる民族
11北方民族の衣料
13生活に適した衣料
考察
14皮なめし技術の発達
15腸製衣
17魚皮衣
19樹皮衣
21儀礼用衣装、イヌイットの衣料
23機織り道具・裁縫道具
 30交易 -北太平洋における
       西洋文明の流入-
 40北方民族の食
 50住居
 60火と器
62火
64器 


PART 3 目次
   テーマ「北方の生業」

150北方の生業
151北方の生業
152海獣狩猟文化
153アザラシ狩猟
154捕鯨
155水鳥猟
156漁労文化
157様々な漁法
158陸獣狩猟
159トナカイ飼育文化

160移動具
162橇
164舟
170雪上歩行具

180子どもと遊び
181工芸
182玩具
300網走の観光名所  
 
PART 4 目次
特別展
 「極北の島グリーンランド」

01グリーンランドとは
   中世温暖期の移住
03エスキモー文化

20イヌ橇
30氷海の狩猟 
    -アザラシ猟と捕鯨
40狩猟と漁労
50食べ物
60住居
70衣類
80玩具
90精神世界
 エスキモー文化の近・現代
   文化と観光
100今年度の寄付資料


 PART 2 テーマ「オホーツク文化と北方の宗教」





資料
 69オホーツク文化とは、  3世紀~13世紀



  交易の民・北方民族の中の、ニヴフ族が、中国との交易品を求めてアムール川流域からサハリン~北海道~千島に進出・居住し、築いた文化です。

   オホーツク文化人とはニヴフ人である。

  彼らのY遺伝子ハプログループはC2東欧からシベリア極東まで広がる。 C2はアルタイ語族であるが、ニヴフ語は系統不明の言語である。
  ちなみにアイヌ人のハプログループはD1bの南方系である。これは、琉球人、本土縄文人と同じである。


 ニヴフ進出の経過 引用アイヌは北方民族でしょうか
時期 年代 土器形式   進出した場所
プレ期 2c-3c アムール川下流域からサハリン
初期 3c-4c 土器形式は先行する鈴谷文化を継承 樺太南西端と北海道北端
前期 5c-6c 十和田式土器 刺突文土器 拡大して北海道ではオホーツク海沿岸を覆い、樺太の南半分を占めた
中期 7c-8c 黒竜江下流の靺鞨土器 刻文土器 活動領域はさらに広く、オホーツク文化の痕跡は東は国後島、南は奥尻島、北は樺太全域

後期 9c-10c 土器の様相が各地で異なる (東進したアイヌによって分断・孤立させられ、各地に独自の文化が生まれました。)
終末期 10c-13c 土器の地域的な差違がさらに明確化 (ニヴフは完全に孤立しました。)

 オホーツク文化の消長 引用オホーツク文化
9c 北海道北部では 擦文文化の影響が強まり、オホーツク文化は消滅した。(擦文文化のアイヌに滅ぼされた)
    北海道東部では オホーツク文化を継承しながら擦文文化の影響を受けたトビニタイ文化が成立。(アイヌとニヴフが融合混淆した)
    樺太サハリンではオホーツク文化がなお続き、アイヌ人の進出によって融合・消滅した。  




  69北海道歴史年表と縄文~中世にかけての文化圏とヒトの形質 引用縄文と古代文明を探求しよう 
北海道歴史年表
出典不明
縄文晩期
北海道は幣舞式
縄文文化
続縄文前期
(弥生中~後)
縄線文・微隆起線文
続縄文後期
(古墳時代)
ニヴフがサハリンから宗谷岬・利尻・礼文を中継拠点に置いた
擦文文化成立期
(7c-9c飛鳥~奈良)

北海道オホーツク海側をニヴフが占領
擦文文化確立期
(10c-12c平安中-鎌倉)

アイヌ擦文文化が北海道を支配。ニヴフと融合してトビニタイ文化誕生
アイヌ文化成立期
(13c鎌倉後期)

海洋進出したアイヌサハリン~千島列島に進出。ラッコ獲得

考察

 ニヴフの進出とアイヌ

 アイヌとの接触とアイヌの変貌
  アイヌは縄文人、弥生人、続いて古墳人、そして大和政権 と、長く東北地方太平洋側で交易をしていた。

  ・しかし、7c大和政権が交易を独占するため日本海側に交易所を変更すると、
   交易に携わっていた古墳人の末裔たる和人は北海道石狩低地に移住し、アイヌと混淆してアイヌ化し、アイヌ側の交易人となった。

   和人の移住は7c-9cまで続き、これによって、アイヌは、日本古代の言語・祭祀・儀礼・文物・宗教・建築・生活文化をアイヌ文化に取り込んだ。
   この時、2c~3cの寒冷期に南下していたアイヌが、一斉に北海道へ引き上げていった。

  ・10c和人と融合して農業技術を獲得すると共に、 鉄器を多く入手し、交易敵(かたき)の、ニヴフを孤立させて鉄器不足にし、
   ニヴフを駆逐し始めた
    (和人的好戦的となったアイヌ)

  ・アイヌはニヴフの北海道・オホーツクへの進出の最大の中継拠点たる稚内付近の北部北海道を制圧した。
   中継拠点では、千島・オホーツク沿岸で生産した交易品や、日本海での大和との交易での獲物を、利尻・礼文・稚内を通じて大陸と交易していた。

   中継拠点を失ったニヴフはそれぞれの地域で孤立し、鉄の供給を断たれて弱体化した。
   アイヌは更に道東に進出し、各地のニヴフを殲滅し、しかし、網走付近では一転して融合・混淆しニヴフ文化を取り込みトビニタイ文化を生む。

  ・トビニタイ文化は9c-13c 。擦文土器 (表面をツルツルにした土師器) を真似たオホーツク土器の文化。擦文文化とオホーツク文化の融合

  ・11cニヴフと融合したアイヌは海獣狩猟や北洋の航海術と共にクマ送りの信仰などの高い文化を手に入れた。
    (ニヴフ的海獣狩猟の海洋民族となった)
   この知識の獲得により、サハリン・千島列島に進出し、サハリンアイヌ・千島アイヌとなった。また、

  アイヌは、13c沿海州に遠征して沿岸のニヴフの村を荒らしまわり、元帝国への朝貢品を奪うようになった。(海賊行為) 参考

  これは、やがてアイヌと元帝国との戦闘となり、結果、山丹交易に加えて元との交易 (朝貢) も行うこととなり、この交易品を大和との交易に使った。
   (ニヴフ的交易の民となる)



 69オホーツク式土器の成立過程

 鈴谷文化    BC600-AD500 北海道北端-利尻・礼文-サハリン南西部に集落。  引用
   特徴
    ・海上交易の発達

    ・三種の遺跡
集落跡 ①貝塚を含めたキャンプサイト,
    ②近づきにくい立地にある人工・自然地形を組合わせた避難所である。
③本拠地の集落面積は150-200㎡であり,5-6角形の半地下式住居数軒からなっていた。

    ・出土遺物 土器,石製品,稀に骨,角,稀に鉄製品。サハリンの出土例。鹿角製の柄付きナイフと,住居の床面から出土した鉄製未詳品

   鈴谷式土器
     器形は丸・尖・平底。頚部に文様なく口縁は広く開く。北部は櫛歯文、南部は櫛目文  引用 ※櫛目文はアルタイ語族の特徴。朝鮮-東欧

   十和田式土器
     オホーツク文化前期の円形刺突文系土器である。分布はサハリン南西端部〜北海道北端部に限られるが 引用 引用
     壺形か鉢形の器型で、口縁部に直径5ミリ 前後の円形の刺突文をめぐらしている。 引用


 ②オホーツク式土器と 擦文土器

   オホーツク式土器
     首が少しすぼんで、胴部は比較的安定した形。細いひも状の粘土で、口縁部から肩あたりまで模様がついています。
     この細い粘土ひもはソーメン文などと呼ばれています。全体は比較的厚手で黒っぽい色をしています

   擦文土器
     いろいろな形があるが、典型的なものは、オホーツク土器に比べほっそりとしていて、色は赤みを帯びていて薄手、
     焼き物としてはこちらの方が上質な感じです。字のとおり擦ったような跡や、線刻文様が多いです。 引用

   トビニタイ式土器 10c-12c
     擦文土器に似ているが、細い粘土ひも文様がついています。擦文文化とオホーツク文化が融合したものです

鈴谷式土器 (ススヤ)引用オホーツク海北岸地域とサハリンの交通路: 櫛目文土器の出 十和田式土器音標ゴメ島遺跡分布調査報告 - 枝幸町 オホーツク文化以北の文化 ・引用オホーツク海北岸地域とサハリンの交通路: 櫛目文土器の出

・オホーツク文化よりも更に極寒の極北にも
 数多くの北方文化が存在し、
 ニヴフやその後 のアイヌが進出したとき、
 これらの文化人と競争しながら拡散した。
(決して無人の土地に進出したわけではない)  






 70オホーツク文化の人々

  オホーツク文化の特徴
    海獣狩猟一軒に20~30人で5-6角形の竪穴住居に住む・ブタの飼育・甕被墓・クマ祭り・交易品のためヒグマなどの陸獣も狩猟する。
    舟形土器、船の絵、海上交通に長けた民族、


  北の狩人・オホーツク文化の人々
    紀元 6,7世紀から10,11世紀にかけて、北海道の北部及び東部の沿岸に海洋資源を求めた人々が、この地域に独特の文化を形成した。
    この文化をになった人々は、主にオホーツク文化と呼ぶ。

    遺跡などから、湖の人々は、アムール川流域やサハリンから、海峡を越えて南下してきた北方民族であったと考えられています。

  オホーツク文化のひろがり
    北海道の北部、日本海沿岸、オホーツク海沿岸、根室海峡沿岸、そして、サハリン南部、南千島にかけて広がるこの文化の遺跡は、
    オホーツク海の南西に位置する。 この地域は、流氷が押し寄せる南の端でもある。

北の狩人・オホーツク
文化の人々6c,7c~10c,11cに北海道北部~東部沿岸~千島海洋資源を求めて移住
オホーツク文化の広がりオホーツク文化前期の遺跡は道北に集中している道東の遺跡群は多くが後期のものである。 北の狩人・オホーツク
文化の人々
北海道北部~日本海、
北海道東部オホーツク海沿岸~根室海峡沿岸
サハリン南部、南千島
オホーツク海の南西端
流氷接岸の南限まで
サハリンでのサハリン中北部には
ウィルタ人が住んでおり、この時代からオホーツク人は彼らの地には進出していない
北海道での日本海側では奥尻島を占領して佐渡島まで南下交易をした。交易品の海獣の毛皮を入手するため流氷地帯に拡大していた 骨製装飾柄
骨製垂飾 牙製海獣像
骨製垂飾 牙製海獣像 骨製装飾柄(博物館)※1
 楽器頂部(トンコリの部品か)(東大常呂)※2
装飾のあるイヌの上腕骨
ペット使役動物だが食用
ブタの骨 食用に飼育
耳飾/沿海州産
軟玉製環玉/中国産
青銅製帯飾り 青銅製鈴
青銅鐸

 ※1骨製装飾柄の謎

  北方民族博物館では、骨製装飾柄とし、マキリ(小刀)の握り手と考えているようです。
  しかし、東大常呂では、楽器頂部と考えています。その解説を引用します。 ただし、私は前者の説を支持したい。
    (東大の論文は消えていました。2017.4.7)

 ※2楽器頂部(トンコリの部品か)

  トンコリとは樺太アイヌの楽器です。五本の弦をもつため五弦琴とも呼ばれるが、実際には楽器というよりはシャーマンが所有する祭具であった。
  考古学的にトンコリそのものの出土例はないが、写真のようにその一部であったと考えられる鹿角製品がいくつか見つかっている。
  四本の糸巻き穴があるのがわかる。北海道ではオホーツク文化期を中心に、擦文文化期やアイヌ文化期の遺跡からも出土している

  栄浦第二遺跡 8-12世紀 長8.4-9.0cm   引用 口絵


  マキリの柄 穴に目釘を通して保持するには穴が多すぎて壊れやすく実用的ではない。
  トンコリヘッド部でペグを差し込んで調律するというのもかなり形状が違うため無理があるのでないかと思います。







  80オホーツク式土器の特徴 オホーツク文化期 (7c-13c)
                前半期は-刻文土器  -刻み目を連続した文様を主にし,
                後半期は-貼付文土器-細い粘土紐を貼りつけた文様を主にしている。 引用世界大百科事典 第2版
オホーツク式土器の特徴はソーメン文と言われる貼付文 ソーメン文は後半期の土器 貼付文注口土器 クマのモチーフ 刻文+水鳥文 水鳥文土器は前半期から作られていた 刻文とは細紐を貼付け、それに刻文した

 オホーツク式土器

 形状
   初期 円形刺突文 (十和田式)、 
   前期 刻文 、 
   後期 沈線文とソーメン状貼付文、 の3期にわたって変遷する。

   その中で最も特徴的なのが北海道東部から南千島に分布するソーメン状貼付文土器である。

  ソーメン状貼付文土器
   この土器はソーメン状の細い粘土紐を直線、波状にほどこしたものである。中には海獣、水鳥など動物を表現した貼付文もあるが多くはない。
   ソーメン状の粘土紐は一定の幅をもっているので動物・海獣の腸をチューブとして粘土をひねり出した「チューブデコレーション」技法による
   ものです。

 器種
    底部が小さい割りに胴部は丸みをもった広口壼である。
    土器の大きさは小型・中形・大形・特大型にわけられる。 用途に応じて使い分けしていていたのであろう。

 焼成:あまり良くなく、器面の色調は灰黒褐色である。

   引用東大常呂実習施設「北の異界 古代オホーツクと氷民文化 口絵 オホーツク土器



 90食糧の獲得 漁労具
   冬、雪と氷で閉ざされる厳しい環境のもとで、食料を効果的に確保するためには、優れた道具とそれを使いこなす技術が必要であった。
   骨角器や石器などは、クジラやトド、アザラシなど、大型の海獣狩猟や漁労が行われていることを裏付けている。

   また、海での活動を助ける船や、それを操る高度な技術も持ち合わせていた。陸上では狩猟・採集と共に、豚や犬(食用)の飼育も行っていた。

食料の獲得 骨族と骨針モヨロ貝塚 回転式離頭銛先モヨロ貝塚
銛の種類と使用法
回転式離頭銛先モヨロ貝塚 回転式離頭銛先/
かえり式離頭銛先

モヨロ貝塚
黒曜石の組み合わせ銛頭部に黒曜石を用いた組み合わせ式の
かえり式離頭銛先と回転式離頭銛/モヨロ貝塚
大陸式結合式釣針
巨大なオヒョウなどのため20cmを超えるものも
骨製針入れ
アホウドリの上腕骨製
狩猟文や部族の文様が刻文されている 引用
舟形土製品礼文町 海獣線刻文土器 アザラシの線刻文利尻町/亦稚貝塚
生活カレンダー 魚網用と釣用の石錘/
珍しい形は釣方による。
イヌの下顎骨/豚下顎骨
ブタの飼育小屋が見つからず。住居内で飼育か
 豚もイヌも食用に飼育した。引用オホーツク文化

 豚の飼育は豚便所ではなかったか。飼料の草などが手に入らないため。
 熊信仰は続縄文時代に成立したもので、ニヴフの靺鞨文化は豚祭りの文化だったという意見もある

 引用クマ祭り(飼育を伴うクマの霊送り)の研究 - 名古屋大学
釣用石錘の使用法




 100大型住居

  人々は地面を掘り込み、床が半ば地中に埋まった竪穴式の住居に暮らした。平面の形が5or6角形で、床にはコの字形に粘土が貼られる。
  広さが100㎡を超える大型住居もあり、そこには、複数の家族で構成される10~20人の居住者が想定される。海獣猟にまとまった人数が必要
  だった。

オホーツク人の竪穴住居7c-11cにかけて、海に近い台地や河口に住んだ 大型の住居初期は大型の長方形
8c-9cの隆盛期には亀甲状5or6角形長軸15mを超える大型住居。漁労に大人数が必要で2-3家族20人ほどで暮らした
常呂町栄浦第二遺跡8号やがてアイヌの擦文文化との接触によって次第に小型化し、精神的側面を持つ骨塚は見られなくなる。 栄浦第二遺跡4号アイヌによる道北の交通の要を占領されたために、通行ができなくなり、交易品の狩猟はなくなり
海獣・ヒグマ・ラッコの
網走市二ツ岩遺跡3号狩猟が減少し、自給自足と、アイヌとの戦争や略奪に怯える日々ではなかったか。そして信仰も廃れて行ったようだ。 常呂町TK-73遺跡15号だか、網走付近では異質な両者の文化が接触・融合し、トビニタイ文化として受け継がれていった。
骨斧/モヨロ貝塚 骨鍬/モヨロ貝塚 オホーツク文化の骨斧骨箆・骨鍬などと呼ばれる器種は、突起・抉り・窓などの柄を装着するための加工をもち、一端ないし両端に刃を作った板状の製品である。 形態と厚さで分類されているが、その区別は必ずしも厳密ではない。上の2点も含め、これらの大半は機能的には土掘り具であったと考えられる。
海に生きたオホーツク人
オホーツク人は
豚飼育と共に雑穀栽培を行なっていた。
主な栽培種は
  アワ・キビ・豆類など
大陸から伝播してきた栽培植物





 110信仰と儀礼 ―埋葬―

  死者は、住居のそばや、やや離れた所に葬られた。埋葬にあたっては、手や足の関節を曲げたり、頭の置く方向を一定にするなどの決まりがあった。
  死者には生前に愛用していた玉や耳飾りなどの装身具、刀や小刀などの金属製品、土器、石器などが添えられている。

 モヨロ貝塚とオホーツク文化
  網走市のモヨロ貝塚は、網走川河口にある代表的遺跡である。大型住居址や特異な埋葬形態の墓や貝塚など、極めて豊富な資料が発見された。

 様々な彫像
  オホーツク文化人は、動物や人間を表現した彫刻を作ることに極めて優れていた。木・骨・角・牙などを素材として作られたこれらの作品から、
  彼らの鋭い観察力と表現力が窺われる。
  信仰や呪術の対象として、人々の様々な願いや想いが込められているのだろう。

 クマを「送る」
  クマはオホーツク文化の人々にとって、恐れ敬う特別の対象であった。

  竪穴住居の奥まった位置に、陸獣や海獣の骨が積み上げられていることがある。なかでも、クマの頭骨が圧倒的に多い。獲物の再来を託す
  シンボルとして扱われたのだろうか。しばしば、クマをかたどった彫刻も発見される。


  110牙製彫像の高度な工芸品

信仰と儀礼-埋葬-住居やそのそばに埋葬し
手足を折り曲げる屈葬
被甕葬
日常の生活品を副葬した
頭に甕を被せる儀礼
鉄製品モヨロ貝塚副葬品
蕨手刀/鉄製鉾/鉄斧
鉄製品は和人との交易で入手した
モヨロ貝塚とオホーツク文化在野の米村喜男衛氏によって注目を浴びた遺跡
住居址・被甕葬墓・貝塚きわめて豊富な資料が発見された
モヨロ貝塚モヨロ貝塚保存地区と
モヨロ貝塚館
様々な彫像北方民族の骨偶は旧石器時代から。動物や人間への鋭い観察・表現力
牙製女性像モロヨ貝塚 牙製女性像礼文島 これらの作品は、全て硬質の牙に石器で見事な彫刻を施しています。 まるで土製品かと思うような複雑な彫刻を、細部まで写実的に仕上げています。 たとえ、鉄の彫刻刀であっても、滑って深く指を切るでしょう。
すばらしい作品です。

牙製海獣像/湧別町川西遺跡
牙製女性像
オンネモト
牙製海獣像
礼文町香深井A遺跡
牙製海獣像オンネモト かわいいゴマちゃんです 実に写実的です
熊の骨塚住居内最奥
クマを送るクマ信仰は北方に広がる文化 ブタの骨塚?これは豚の骨かな 骨製クマ像礼文町 牙製クマ像礼文町
牙製クマ頭部クマ像 牙製クマ頭部/モヨロ 牙製クマ像/湧別町 土製クマ頭部/
骨製クマ頭部
土製クマ頭部/斜里町
ウトロシャチコツ
骨製クマ頭部/根室市
オンネモト遺跡
土製クマ頭部/
土製クマ坐像
土製クマ頭部/枝幸町ホロベツ砂丘遺跡 土製クマ坐像/幸町ホロベツ砂丘遺跡 縄文人と違い、
大変な描写力です。

 きっと高い知能を
  持っていたのでしょう


  130オホーツク文化の土器
    食物の、調理、貯蔵、運搬などの実用品として、あるいは儀式用として欠かせない道具であった。
    この文化を特徴付ける土器は、胴が膨らむ甕や壺が主で、形の変化には乏しい。

    文様は上半分に限られ、短い刻みや細い紐状の粘土を貼り付けたり
    時として鳥や海獣も描かれる。細い粘土紐を巡らした土器は、北海道東部の沿岸域で盛んに用いられた。

    器形は胴が膨らむ甕や壷がおもで形の変化に乏しい。
    文様は上半部で、前期は短い刻みを入れたり、後期は動物の腸から搾り出した細い粘土紐を貼り付けたり、鳥や海獣を描いたりした。

土器 多様な土器文様と変化 オホーツク文化の土器文様
モヨロ貝塚出土土器 様々な文様が、次第に 発達している様に見える のは、私だけか
櫛目文は 鈴谷式
刺突文は 十和田式
刻文は
前期
オホーツク文化
貼付文は
後期
オホーツク文化
鈴谷式はオホーツク文化に先行する文化

十和田式は初期オホーツク文化
水鳥文・海獣文は前期後期共に使用した




 132オホーツク文化の謎
  日本とロシアに渡って遺跡が分布しているため、文化の全体像を捉え得るまでにはいかず、不明な部分が多く残されている。
  中でも、その起源と終末については諸説あり、謎に包まれている。

 北方とのつながり
  土器や鉄製品、青銅製品などの中に、アムール川流域の遺跡出土品と酷似するものがあり、極東の人々とオホーツク文化人との関係を示している。
  北海道に新天地を求めて南下してきた北方民族の起源を探るうえで、貴重な発見がロシアや中国からもたらされている。

オホーツク文化の謎日本における北方民族研究は1980年代に始まり研究の浅い学問である。 北方とのつながりアムール川流域民族が中国との交易品を求めて樺太・北海道・千島に拡大し、沿海州と交易を行っていた。 アムール川流域の遺跡と出土品 靺鞨・女真文化から交易した青銅などの製品土器/ナイフェリド
青銅製鈴/ナテジンスコエ
青銅製小鈴/青銅製装飾品
トロイツコエ
鉾/土器
トロイツコエ
青銅製帯飾金具
コルサコヴォ

トビニタイ土器
羅臼町トビニタイ遺跡
擦文土器土師器を真似て器面を棒でこすってツルツルにした トビニタイ土器擦文土器風に土器表面を擦り、オホーツク土器風に貼付文を施した 二つの文化の折衷土器
消えたオホーツク文化11世紀オホーツク文化は消滅し、最終的にアイヌ擦文人と融合した トビニタイ土器に伴う石器
(彼らは鉄器不足だった)
石錘/石斧
アイヌに交流拠点を
占領さ.れ、物資不足となり、千年も前の生活を余儀なくされていた

 消えたオホーツク文化
   11世紀頃、オホーツク文化は北海道から消えた。その頃北海道の大部分を占めていた擦文文化人 (アイヌ) に滅ぼされたためであろうか。
   オホーツク文化は擦文文化に影響を与え、これと一つになって終末を迎える様子が、この時期の土器や住居形態などから窺うことができる。

  ※アイヌは陸上狩猟専門であったが、オホーツク人に海獣狩猟技術や操船技術を教わり、活動範囲を海にまで広げることができた。


 132狩猟儀礼 -クマ祭り-

  狩猟民にとって、動物に対する関わりは絶対的な依存関係であり、狩猟は生活そのものである。
  食料動物の確保に、狩猟民は動物の霊魂の扱いに、ことのほか関心を払い、様々な狩猟に関する儀礼を発達させた。

  それぞれの動物は霊魂を持っていて、それは肉体を離れても永久に存在すると彼らは考えていた。肉体は動物界を支配するぬしからの贈り物
  であり、霊魂はぬしのもとに帰すべきものだった。その際、獲物の骨や肉体の一部を正しく取り扱うことで猟の運に逃げられず、再び肉体は戻って
  くると信じていた。

  このことが最も厳格に表れているものの一つに「クマ送り」がある。

 クマ送りの型式
  熊送りには山で捕えた「狩り熊型」と、捕えた子熊を育てて行う「飼い熊型」の二つがある。
  狩り熊型は広くユーラシア、北米に広がっている。 飼い熊型は、狩り熊型から発達したとされており、アイヌ・ニヴフ・ウイルタ・オロチなど、
  沿海州からサハリン、北海道にかけての限られた地域に分布している。

 クマ送り
  北方狩猟民族は、クマを最も崇高な存在とみなしてきた。熊を獲ったときは、その頭骨を高い木の上に安置したり、美しく飾って祭壇の柱に掲げたり
  専用の小屋に納めるなどして、丁重な霊送りを行った。このようなクマの霊送りは、北方ユーラシアから北アメリカにかけての多くの民族に共通した
  共同体の重要な儀礼となっている。


食料動物を期待して、動物霊魂に様々な儀礼を行なった 動物は自然界のぬしの贈り物であり丁寧に霊魂を送り返して次の恵みを得たいと儀礼をする 狩クマ型・飼クマ型クマ送りとがある。後者は沿海州~北海道の民の儀礼である。 クマを崇高な獣とし、頭骨を高い木の上や装飾して柱にや、専用の小屋に安置した。 熊送りの分布広く北方民族が持つ儀礼である。 飼クマ儀礼の分布
2オホーツク氷民文化
「クマ祀り」の世界
飼いクマ型クマ送り 大きな祭壇 祭壇の前での祈り ヌサ (祭壇) 檻から出された仔熊を引き回す コタンの長老がクマに花矢を射る(遊ばせる)
丸太で挟んで絞め殺した
霊送りされたクマ
祭壇の前に安置された熊 伝統舞踊 リムセ  ガマ製ゴザと
鮭の飾り
儀礼道具
片口/行器(ほかい・食べ物いれ)/ツノの付いた漆鉢
酒杯・高台
耳だらい
酒棒イクパスイ イクパスイ イナウ 御幣
画像を横に倒しています

 北方の精神世界
  狩猟・漁労・採集・トナカイ飼育など、自然に頼った生活の中で、起こるさまざまな事象から、自然の森羅万象・一木一草にいたるまで霊魂を持ち、
  それを支配する主ぬしとの間に友好な関係を保つことで、飢えることのない生活を送ることができると考えていた。

  このアニミズム信仰のもとに、動物の肉体は仮のものであり、霊魂を帰すことを大切と考え、儀式を行なった。




 135仮面

  北方民族の生活の中で、仮面は重要な役割を担っている。その目的や機能は使われる場面により様々である。
  狩猟者は、獲物に忍び寄るために動物の頭皮や毛皮をまとい、獲物になりすました。これは狩猟民の世界に広くみられ、仮面の原始的な形態と
  される。

  仮面によって、人は自己を越えた別の存在にもなれる。シャマンは仮面を付けることにより、それのあらわす対象そのものになる。また、自分たち
  の祖先であると信じられている動物の仮面を彫刻したり、ある集団に属するものにのみ許される仮面を持つことにより、他の集団から自ら区別
  している。

 北方民族の祖先観
  人はその祖先が自然界の精霊や神であったりすると考え、ヒグマやワタリガラスなどそれぞれの部族の神とする仮面を作って被った。
  トーテミズム

   トーテム(英語:totem)とは、特定の集団や人物、「部族」や「血縁血統)」に宗教的に結び付けられた野生の動物や植物などの象徴のこと。

狩猟者の仮面は獲物に近づくための偽装。これは仮面の原始的形態 仮面によって自分が自分以上の他の存在になれる。 シャマンは仮面を被ることによって仮面の主人公になれる。

ここから始まる三枚の写真の仮面は、縄文時代に
北海道や東北から発見された土面と酷似している
やはり、北方系民族が多く居住していたのではないでしょうか。
鼻曲がり土面
ママチ遺跡の土面
真脇遺跡の土面etc

トーテム
自分たちの集団の
祖先とする象徴の動物
儀式の仮面


 北西海岸インディアン

  北アメリカの北西沿岸地域には、トリンギット、クワキウトル、ハイダといった一般に北西海岸インディアンと呼ばれる部族が住んでいる。
  彼らは、食料の大部分を海洋資源、特に鮭に頼っている。また、家、カヌー、トーテムポールや衣類、マットなど生活用品の多くが「シーダー」と
  呼ばれる。

  アメリカ産ヒノキの常緑針葉樹の木や樹皮で作られている。
  「冬の儀式」やそれに伴う祭りや、「ポトラッチ」などの儀礼が、冬の間に集中して行われることが、これらの部族の特徴となっている。


 136冬の儀式

  夏の間、人々は集落を離れ、分散して生活しているが、冬には一つの集落に集まり、「冬の儀式」を行う。これは11月~2月にかけて催され、
  北西海岸インディアンの各部族に共通している。

  「冬の儀式」は秘密の入会式を伴う集団(秘密結社)によって行われ、そこでは各部族に語り継がれている神話が劇として上演される。

  クワキトウルの秘密結社は「アザラシ」と「スズメ」の二つの集団に別れている。「アザラシ」の集団は格付けされた数多くの結社から成り立ってい
  て、その最高位である「ハマツァ」結社は、仮面をつけた踊り手などから構成されている。

北西海岸インディアンの分布 北西海岸インディアン北西海岸インディアン 冬の儀式冬の儀式は秘密結社 秘密結社の仮面
ハマツァの衣装
アザラシの精霊
秘密結社とも言われる
リンク  
儀礼用板と儀礼用食器 儀礼用板 演技用指揮棒
儀礼用かい/トリンギット/北アメリカ北西海岸 山羊角製さじ 蒸曲木箱 周囲の装飾が素晴らしい
装飾はトーテムです
食料を入れる箱


 138日常生活と精神世界
   生活のほとんどを自然に依存して暮らしている北方民族は、様々な生業活動を通して、食料をはじめ生活に必要なものを得て来た。

   このような人々の暮らしの中に、動物界全体、あるいは特定の動物を支配する「主(ぬし)」の観念が発達した。このことはね北方地域に広く分布
   している
   クマ送りなどの儀礼やシャマニズムに見られる。

 シャマン
   自然を支配している超自然的な世界と、日常の世界との間を行き来し、直接、神霊や精霊と接触することが出来る人々をシャマンという。
   シャマンは特別な石陽を身につけ、太鼓を叩くなどして我を忘れた(トランス)状態になる。その過程で狩猟のための予言や病人の治療などをした

   シャマンは広く世界中で見られるが、なかでも顕著なのは、北アジアや中央アジアの諸民族、イヌイト、北アメリカインディアンといった民族であ
   る。

日常生活と精神世界狩猟に頼る生活から、動物界や特定動物を支配する主ぬし観念が発達した。北方に広く分布する熊送りの儀礼やシャマニズムに見られる。 ワタリガラスの仮面
ワタリガラス伝説/
ワタリガラスのトーテムはハイダ鏃でしたか。
この世に光をもたらした人に変身した神的ワタリガラスの物語/
シャマンの衣装と太鼓
陶酔状態で予言や病気治療を行なう巫。中央アジア~北・東アジア~南北アメリカの先住民 シャマンの象形文字/
礼冠/腰飾り
太鼓のバチ 衣装や太鼓に鳥・動物のモチーフが施されている シャマンの宗教行為と狩猟の関係を物語っている 木偶 木隅 木偶/ウイルタ
木偶/まじない具 木偶 木偶 まじない具/護符 木隅は
 まじないや、護符、呪詛などに使われた。



 139北方の音と儀礼・芸能
   北方地域のシャマンが超自然的な世界の神霊や精霊と接触するために、我を忘れたトランス状態になるには、太鼓が不可欠である。
   また、一方で、家の中に閉じこもりがちな長い冬の間、人々が健康的に生活するための心理的要素として、音楽は見逃せない。


太鼓はシャマンが神霊精霊に触れトランス状態になる道具。音楽は長い冬を健康的に過ごす要素 弦楽器/五弦琴/太鼓琴や弦楽器は中央アジア発祥と聴いていますが、 馬頭琴/弦楽器/一弦琴弓も中央アジアです。
発明家が多かったのかな
太鼓木枠/太鼓/打楽器
太鼓や口琴は世界中に分布している楽器です。
口琴しかし、日本の縄文遺跡からの出土記録は知らない 金属製口琴土中に残らなかったのか、なかったのか、、