|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
PART 2 テーマ「オホーツク文化と北方の宗教」 資料 69オホーツク文化とは、 3世紀~13世紀 交易の民・北方民族の中の、ニヴフ族が、中国との交易品を求めてアムール川流域からサハリン~北海道~千島に進出・居住し、築いた文化です。 オホーツク文化人とはニヴフ人である。 彼らのY遺伝子ハプログループはC2で東欧からシベリア極東まで広がる。 C2はアルタイ語族であるが、ニヴフ語は系統不明の言語である。 ちなみにアイヌ人のハプログループはD1bの南方系である。これは、琉球人、本土縄文人と同じである。 ニヴフ進出の経過 引用アイヌは北方民族でしょうか
オホーツク文化の消長 引用オホーツク文化
69北海道歴史年表と縄文~中世にかけての文化圏とヒトの形質 引用縄文と古代文明を探求しよう
考察 ニヴフの進出とアイヌ アイヌとの接触とアイヌの変貌 アイヌは縄文人、弥生人、続いて古墳人、そして大和政権 と、長く東北地方太平洋側で交易をしていた。 ・しかし、7c大和政権が交易を独占するため日本海側に交易所を変更すると、 交易に携わっていた古墳人の末裔たる和人は北海道石狩低地に移住し、アイヌと混淆してアイヌ化し、アイヌ側の交易人となった。 和人の移住は7c-9cまで続き、これによって、アイヌは、日本古代の言語・祭祀・儀礼・文物・宗教・建築・生活文化をアイヌ文化に取り込んだ。 この時、2c~3cの寒冷期に南下していたアイヌが、一斉に北海道へ引き上げていった。 ・10c和人と融合して農業技術を獲得すると共に、 鉄器を多く入手し、交易敵(かたき)の、ニヴフを孤立させて鉄器不足にし、 ニヴフを駆逐し始めた。 (和人的好戦的となったアイヌ) ・アイヌはニヴフの北海道・オホーツクへの進出の最大の中継拠点たる稚内付近の北部北海道を制圧した。 中継拠点では、千島・オホーツク沿岸で生産した交易品や、日本海での大和との交易での獲物を、利尻・礼文・稚内を通じて大陸と交易していた。 中継拠点を失ったニヴフはそれぞれの地域で孤立し、鉄の供給を断たれて弱体化した。 アイヌは更に道東に進出し、各地のニヴフを殲滅し、しかし、網走付近では一転して融合・混淆しニヴフ文化を取り込みトビニタイ文化を生む。 ・トビニタイ文化は9c-13c 。擦文土器 (表面をツルツルにした土師器) を真似たオホーツク土器の文化。擦文文化とオホーツク文化の融合。 ・11cニヴフと融合したアイヌは海獣狩猟や北洋の航海術と共にクマ送りの信仰などの高い文化を手に入れた。 (ニヴフ的海獣狩猟の海洋民族となった) この知識の獲得により、サハリン・千島列島に進出し、サハリンアイヌ・千島アイヌとなった。また、 アイヌは、13c沿海州に遠征して沿岸のニヴフの村を荒らしまわり、元帝国への朝貢品を奪うようになった。(海賊行為) 参考 これは、やがてアイヌと元帝国との戦闘となり、結果、山丹交易に加えて元との交易 (朝貢) も行うこととなり、この交易品を大和との交易に使った。 (ニヴフ的交易の民となる) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
69オホーツク式土器の成立過程 ①鈴谷文化 BC600-AD500 北海道北端-利尻・礼文-サハリン南西部に集落。 引用 特徴 ・海上交易の発達 ・三種の遺跡
・出土遺物 土器,石製品,稀に骨,角,稀に鉄製品。サハリンの出土例。鹿角製の柄付きナイフと,住居の床面から出土した鉄製未詳品 鈴谷式土器 器形は丸・尖・平底。頚部に文様なく口縁は広く開く。北部は櫛歯文、南部は櫛目文 引用 ※櫛目文はアルタイ語族の特徴。朝鮮-東欧 十和田式土器 オホーツク文化前期の円形刺突文系土器である。分布はサハリン南西端部〜北海道北端部に限られるが 引用 引用 壺形か鉢形の器型で、口縁部に直径5ミリ 前後の円形の刺突文をめぐらしている。 引用 ②オホーツク式土器と 擦文土器 オホーツク式土器 首が少しすぼんで、胴部は比較的安定した形。細いひも状の粘土で、口縁部から肩あたりまで模様がついています。 この細い粘土ひもはソーメン文などと呼ばれています。全体は比較的厚手で黒っぽい色をしています 擦文土器 いろいろな形があるが、典型的なものは、オホーツク土器に比べほっそりとしていて、色は赤みを帯びていて薄手、 焼き物としてはこちらの方が上質な感じです。字のとおり擦ったような跡や、線刻文様が多いです。 引用 トビニタイ式土器 10c-12c 擦文土器に似ているが、細い粘土ひも文様がついています。擦文文化とオホーツク文化が融合したものです
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
70オホーツク文化の人々 オホーツク文化の特徴 海獣狩猟一軒に20~30人で5-6角形の竪穴住居に住む・ブタの飼育・甕被墓・クマ祭り・交易品のためヒグマなどの陸獣も狩猟する。 舟形土器、船の絵、海上交通に長けた民族、 北の狩人・オホーツク文化の人々 紀元 6,7世紀から10,11世紀にかけて、北海道の北部及び東部の沿岸に海洋資源を求めた人々が、この地域に独特の文化を形成した。 この文化をになった人々は、主にオホーツク文化と呼ぶ。 遺跡などから、湖の人々は、アムール川流域やサハリンから、海峡を越えて南下してきた北方民族であったと考えられています。 オホーツク文化のひろがり 北海道の北部、日本海沿岸、オホーツク海沿岸、根室海峡沿岸、そして、サハリン南部、南千島にかけて広がるこの文化の遺跡は、 オホーツク海の南西に位置する。 この地域は、流氷が押し寄せる南の端でもある。
※1骨製装飾柄の謎 北方民族博物館では、骨製装飾柄とし、マキリ(小刀)の握り手と考えているようです。 しかし、東大常呂では、楽器頂部と考えています。その解説を引用します。 ただし、私は前者の説を支持したい。 (東大の論文は消えていました。2017.4.7) ※2楽器頂部(トンコリの部品か) トンコリとは樺太アイヌの楽器です。五本の弦をもつため五弦琴とも呼ばれるが、実際には楽器というよりはシャーマンが所有する祭具であった。 考古学的にトンコリそのものの出土例はないが、写真のようにその一部であったと考えられる鹿角製品がいくつか見つかっている。 四本の糸巻き穴があるのがわかる。北海道ではオホーツク文化期を中心に、擦文文化期やアイヌ文化期の遺跡からも出土している 栄浦第二遺跡 8-12世紀 長8.4-9.0cm 引用 口絵 マキリの柄 穴に目釘を通して保持するには穴が多すぎて壊れやすく実用的ではない。 トンコリのヘッド部でペグを差し込んで調律するというのもかなり形状が違うため無理があるのでないかと思います。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
80オホーツク式土器の特徴 オホーツク文化期 (7c-13c) 前半期は-刻文土器 -刻み目を連続した文様を主にし, 後半期は-貼付文土器-細い粘土紐を貼りつけた文様を主にしている。 引用世界大百科事典 第2版
オホーツク式土器は 形状: 初期 円形刺突文 (十和田式)、 前期 刻文 、 後期 沈線文とソーメン状貼付文、 の3期にわたって変遷する。 その中で最も特徴的なのが北海道東部から南千島に分布するソーメン状貼付文土器である。 ソーメン状貼付文土器 この土器はソーメン状の細い粘土紐を直線、波状にほどこしたものである。中には海獣、水鳥など動物を表現した貼付文もあるが多くはない。 ソーメン状の粘土紐は一定の幅をもっているので動物・海獣の腸をチューブとして粘土をひねり出した「チューブデコレーション」技法による ものです。 器種: 底部が小さい割りに胴部は丸みをもった広口壼である。 土器の大きさは小型・中形・大形・特大型にわけられる。 用途に応じて使い分けしていていたのであろう。 焼成:あまり良くなく、器面の色調は灰黒褐色である。 引用東大常呂実習施設「北の異界 古代オホーツクと氷民文化 口絵 オホーツク土器」 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
90食糧の獲得 漁労具 冬、雪と氷で閉ざされる厳しい環境のもとで、食料を効果的に確保するためには、優れた道具とそれを使いこなす技術が必要であった。 骨角器や石器などは、クジラやトド、アザラシなど、大型の海獣狩猟や漁労が行われていることを裏付けている。 また、海での活動を助ける船や、それを操る高度な技術も持ち合わせていた。陸上では狩猟・採集と共に、豚や犬(食用)の飼育も行っていた。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
100大型住居 人々は地面を掘り込み、床が半ば地中に埋まった竪穴式の住居に暮らした。平面の形が5or6角形で、床にはコの字形に粘土が貼られる。 広さが100㎡を超える大型住居もあり、そこには、複数の家族で構成される10~20人の居住者が想定される。海獣猟にまとまった人数が必要 だった。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
110信仰と儀礼 ―埋葬― 死者は、住居のそばや、やや離れた所に葬られた。埋葬にあたっては、手や足の関節を曲げたり、頭の置く方向を一定にするなどの決まりがあった。 死者には生前に愛用していた玉や耳飾りなどの装身具、刀や小刀などの金属製品、土器、石器などが添えられている。 モヨロ貝塚とオホーツク文化 網走市のモヨロ貝塚は、網走川河口にある代表的遺跡である。大型住居址や特異な埋葬形態の墓や貝塚など、極めて豊富な資料が発見された。 様々な彫像 オホーツク文化人は、動物や人間を表現した彫刻を作ることに極めて優れていた。木・骨・角・牙などを素材として作られたこれらの作品から、 彼らの鋭い観察力と表現力が窺われる。 信仰や呪術の対象として、人々の様々な願いや想いが込められているのだろう。 クマを「送る」 クマはオホーツク文化の人々にとって、恐れ敬う特別の対象であった。 竪穴住居の奥まった位置に、陸獣や海獣の骨が積み上げられていることがある。なかでも、クマの頭骨が圧倒的に多い。獲物の再来を託す シンボルとして扱われたのだろうか。しばしば、クマをかたどった彫刻も発見される。 110牙製彫像の高度な工芸品 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
130オホーツク文化の土器 食物の、調理、貯蔵、運搬などの実用品として、あるいは儀式用として欠かせない道具であった。 この文化を特徴付ける土器は、胴が膨らむ甕や壺が主で、形の変化には乏しい。 文様は上半分に限られ、短い刻みや細い紐状の粘土を貼り付けたり 時として鳥や海獣も描かれる。細い粘土紐を巡らした土器は、北海道東部の沿岸域で盛んに用いられた。 器形は胴が膨らむ甕や壷がおもで形の変化に乏しい。 文様は上半部で、前期は短い刻みを入れたり、後期は動物の腸から搾り出した細い粘土紐を貼り付けたり、鳥や海獣を描いたりした。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
132オホーツク文化の謎 日本とロシアに渡って遺跡が分布しているため、文化の全体像を捉え得るまでにはいかず、不明な部分が多く残されている。 中でも、その起源と終末については諸説あり、謎に包まれている。 北方とのつながり 土器や鉄製品、青銅製品などの中に、アムール川流域の遺跡出土品と酷似するものがあり、極東の人々とオホーツク文化人との関係を示している。 北海道に新天地を求めて南下してきた北方民族の起源を探るうえで、貴重な発見がロシアや中国からもたらされている。 消えたオホーツク文化 11世紀頃、オホーツク文化は北海道から消えた。その頃北海道の大部分を占めていた擦文文化人 (アイヌ) に滅ぼされたためであろうか。 オホーツク文化は擦文文化に影響を与え、これと一つになって終末を迎える様子が、この時期の土器や住居形態などから窺うことができる。 ※アイヌは陸上狩猟専門であったが、オホーツク人に海獣狩猟技術や操船技術を教わり、活動範囲を海にまで広げることができた。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
132狩猟儀礼 -クマ祭り- 狩猟民にとって、動物に対する関わりは絶対的な依存関係であり、狩猟は生活そのものである。 食料動物の確保に、狩猟民は動物の霊魂の扱いに、ことのほか関心を払い、様々な狩猟に関する儀礼を発達させた。 それぞれの動物は霊魂を持っていて、それは肉体を離れても永久に存在すると彼らは考えていた。肉体は動物界を支配するぬしからの贈り物 であり、霊魂はぬしのもとに帰すべきものだった。その際、獲物の骨や肉体の一部を正しく取り扱うことで猟の運に逃げられず、再び肉体は戻って くると信じていた。 このことが最も厳格に表れているものの一つに「クマ送り」がある。 クマ送りの型式 熊送りには山で捕えた「狩り熊型」と、捕えた子熊を育てて行う「飼い熊型」の二つがある。 狩り熊型は広くユーラシア、北米に広がっている。 飼い熊型は、狩り熊型から発達したとされており、アイヌ・ニヴフ・ウイルタ・オロチなど、 沿海州からサハリン、北海道にかけての限られた地域に分布している。 クマ送り 北方狩猟民族は、クマを最も崇高な存在とみなしてきた。熊を獲ったときは、その頭骨を高い木の上に安置したり、美しく飾って祭壇の柱に掲げたり 専用の小屋に納めるなどして、丁重な霊送りを行った。このようなクマの霊送りは、北方ユーラシアから北アメリカにかけての多くの民族に共通した 共同体の重要な儀礼となっている。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北方の精神世界 狩猟・漁労・採集・トナカイ飼育など、自然に頼った生活の中で、起こるさまざまな事象から、自然の森羅万象・一木一草にいたるまで霊魂を持ち、 それを支配する主ぬしとの間に友好な関係を保つことで、飢えることのない生活を送ることができると考えていた。 このアニミズム信仰のもとに、動物の肉体は仮のものであり、霊魂を帰すことを大切と考え、儀式を行なった。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
135仮面 北方民族の生活の中で、仮面は重要な役割を担っている。その目的や機能は使われる場面により様々である。 狩猟者は、獲物に忍び寄るために動物の頭皮や毛皮をまとい、獲物になりすました。これは狩猟民の世界に広くみられ、仮面の原始的な形態と される。 仮面によって、人は自己を越えた別の存在にもなれる。シャマンは仮面を付けることにより、それのあらわす対象そのものになる。また、自分たち の祖先であると信じられている動物の仮面を彫刻したり、ある集団に属するものにのみ許される仮面を持つことにより、他の集団から自ら区別 している。 北方民族の祖先観 人はその祖先が自然界の精霊や神であったりすると考え、ヒグマやワタリガラスなどそれぞれの部族の神とする仮面を作って被った。 トーテミズム トーテム(英語:totem)とは、特定の集団や人物、「部族」や「血縁(血統)」に宗教的に結び付けられた野生の動物や植物などの象徴のこと。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北西海岸インディアン 北アメリカの北西沿岸地域には、トリンギット、クワキウトル、ハイダといった一般に北西海岸インディアンと呼ばれる部族が住んでいる。 彼らは、食料の大部分を海洋資源、特に鮭に頼っている。また、家、カヌー、トーテムポールや衣類、マットなど生活用品の多くが「シーダー」と 呼ばれる。 アメリカ産ヒノキの常緑針葉樹の木や樹皮で作られている。 「冬の儀式」やそれに伴う祭りや、「ポトラッチ」などの儀礼が、冬の間に集中して行われることが、これらの部族の特徴となっている。 136冬の儀式 夏の間、人々は集落を離れ、分散して生活しているが、冬には一つの集落に集まり、「冬の儀式」を行う。これは11月~2月にかけて催され、 北西海岸インディアンの各部族に共通している。 「冬の儀式」は秘密の入会式を伴う集団(秘密結社)によって行われ、そこでは各部族に語り継がれている神話が劇として上演される。 クワキトウルの秘密結社は「アザラシ」と「スズメ」の二つの集団に別れている。「アザラシ」の集団は格付けされた数多くの結社から成り立ってい て、その最高位である「ハマツァ」結社は、仮面をつけた踊り手などから構成されている。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
138日常生活と精神世界 生活のほとんどを自然に依存して暮らしている北方民族は、様々な生業活動を通して、食料をはじめ生活に必要なものを得て来た。 このような人々の暮らしの中に、動物界全体、あるいは特定の動物を支配する「主(ぬし)」の観念が発達した。このことはね北方地域に広く分布 している クマ送りなどの儀礼やシャマニズムに見られる。 シャマン 自然を支配している超自然的な世界と、日常の世界との間を行き来し、直接、神霊や精霊と接触することが出来る人々をシャマンという。 シャマンは特別な石陽を身につけ、太鼓を叩くなどして我を忘れた(トランス)状態になる。その過程で狩猟のための予言や病人の治療などをした シャマンは広く世界中で見られるが、なかでも顕著なのは、北アジアや中央アジアの諸民族、イヌイト、北アメリカインディアンといった民族であ る。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
139北方の音と儀礼・芸能 北方地域のシャマンが超自然的な世界の神霊や精霊と接触するために、我を忘れたトランス状態になるには、太鼓が不可欠である。 また、一方で、家の中に閉じこもりがちな長い冬の間、人々が健康的に生活するための心理的要素として、音楽は見逃せない。 |