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 北部九州の縄文 №1  2020.11.10-1

  北九州市立埋蔵文化財センター  093-592-3196 月休・撮影可

交通 バス
      JR小倉駅南口バスセンター①②④乗り場発は全て可。
 乗車時間10分、ソレイユホール下車、建物裏へ徒歩3分
近隣の観光施設 多数
    馬埴輪と猪埴輪
とあります。
猪埴輪とは少し違う。
家畜としての馬、豚
のようにも見えます。
 
 目次


01外観
10入口展示
13城野遺跡 石棺

20速報展 -貫川-
21貫川遺跡13
23縄文・弥生土器
24古墳・古代
25中世
26中世中国陶磁器
27漁具
28石斧

50常設展
50旧石器時代
52狩人達の舞台
60進化の証し旧石器
70旧石器

100縄文時代
101時代の幕開け
102土器
103定住のムラ出現

120弥生時代
123モノづくりの技と知恵
130前期石器
140中期石器・土器
150後期拠点集落

160弥生時代
161弥生時代の集団墓
162共献土器
170お墓に現れる社会の変化
172鉄鏃
173 37号墓 弥生後期
174蒲生石棺群
180農耕の祭りと司祭者の存在
182城野遺跡の玉作工房跡
185青銅製祭祀具
190土器の棺

300古墳時代
301前方後円墳の時代
302土器
307動物埴輪
320北九州市内の古墳
322副葬品
323装身具
326下吉田古墳群
330古墳時代の祈り

350古代
351奈良・平安時代のくらし
352上清水遺跡32号土坑出土土器
353釉薬をかけた土器の登場
355木簡
360須恵器の生産と製塩
363六連式土器

380中世
381躍動する中世
385中世のお墓

400戦国時代
401戦乱の世に築かれた山城
403園田浦城跡
405長野城跡復元模型

420中世都市小倉のはじまり
421室町遺跡
423鋳物
425溶解炉

450城野方形周溝墓
452南棺
453小口石に描かれた線模様画
454北棺
456南棺と北棺の関係
461周溝部分出土弥生後期の土器
467北部九州最大級の方形周溝墓

500近世
502近世の小倉
503豊前の国小倉藩の城造り
531小倉城と城下町の形成
540信仰
550長崎街道
560黒崎銘須恵器
 
 01外観
北九州市立埋蔵文化財センター 何年振りかで見ました
 10入口展示
 11
北九州市遺跡地図文字が小さく元来判読不能 旧石器~江戸時代
主な出来事

旧石器時代 数百万~約1万2000年前
 数100万年前に人類が誕生する。石器を使って狩猟採集生活を行う。(辻田遺跡、城野遺跡)
縄文時代 約1万2000~2500年前
 表面に縄目や押し型などの模様のある土器(縄文土器)が作られる。
 海辺の近くに貝塚がつくられる。(黒崎貝塚、永犬丸貝塚、楠橋貝塚、長野小西田遺跡など)
 山では狩りや採集の生活が営まれる。
 鏃や石斧がつくられる。
弥生時代 紀元前5世紀~紀元後3世紀頃
 米作りが始まる
 金属器の使用が始まる。
 壺や高坏などの新しいタイプの土器(弥生土器)がつくられるようになる。
 各地で争いが置き、集落の周囲に深い堀を巡らす環濠集落がつくられる。
古墳時代 3世紀頃~7世紀
 近畿地方にヤマト政権が成立し、大きな前方後円墳をつくるようになる。
 北九州にも曽根平野に荒神森古墳をはじめ、茶毘志山古墳、上ん山古墳などが築かれる。
 登窯出須恵器を焼くようになる。(天観寺山窯跡、トギバ窯跡など)
 大宰府が置かれ、道路と液を整備する。
 杜埼(今の門司)、到津、独見(今の尾倉)、夜久(今の上津役)などに駅が置かれる。
奈良~平安時代 8世紀~12世紀末
 奈良に都が置かれ、律令政治が始まる。
 藤原広嗣の乱が起こり、板櫃川を挟んで決戦が行われる。
 全国に荘園ができる。(到津荘、貫荘、長野荘など)
 長野城、花尾城、門司城、貫城が築かれる。
鎌倉~室町時代
 鎌倉に武士による幕府が開かれ、全国に守護・地頭が配される。
 小倉には紫川河口西を中心に都市が形成される。
 毛利勢の九州侵攻により、長野氏破れる。
 小倉に城が築かれ、高橋鑑種、毛利勝信などが小倉城主となる。
江戸時代 17世紀~19世紀後半
 細川忠興が小倉に入場し、城下町をつくる。
 栗山大善が堀川をつくり始める。
 小笠原忠真が小倉藩主となる。
 起用穂の基金が起こる。
 大里の賞や石原宗祐による猿喰神殿、曽根新田の完成
 13城野遺跡 石棺
  城野方形周溝墓(1号墓・2号墓)
◎石棺の構築順序
 南棺と北棺は並列して構築されており、お互いの間隔は最小で30cm程しかなく、調査当時、両者は同時期に築かれたと考えられていました。しかし、石棺取り上げの際に土層を再検討した所、まず、南棺が作られ、一定期間を置いて北棺が作られた可能性が高いことが判明しました。

この模型では、こうした南棺と北棺の構築順序を、色を変えることによって表現しています。南棺を据えるためにまず大きめの穴(黄土色)が掘られ、続いて北棺を据えるためにやや小さい穴(茶色)を掘っている様子がわかります。

石棺移築展示台内
 


 20速報展 -貫川-

 21貫川遺跡13
貫川遺跡13は小倉南区下貫四丁目にあり、貫川の南岸域に位置しています。調査で自然流路とその川岸が確認されました。
自然流路は古い時期の貫川だと考えられ、水の流れによって運ばれてきた砂や粘土などの土砂によって完全に埋没していました。この土砂の中からは縄文時代~中世の遺物が多く確認され、特に中世の遺物が多く出土しています。これらの遺物の中には当時は高級品であった中国製の陶器の墓などが含まれており、本遺跡の周辺にこれらの優品を持つことができる階層の人々がいたことを示しています。
また、自然流路では杭列も確認され、川の水を利用するために護岸や水の流れを調整していたと考えられます。

一方、川岸では径が約2~3mの大型土坑が4基確認され、また、中州部分では沢山のドングリが入れられた土坑も見つかりました。これらは食物の貯蔵や保存などのために作られた可能性が高く、当時の人々の食生活の一端を垣間見ることができる例です。

貫川遺跡13 床面に炭層が堆積する大型土坑 ドングリの水さらし遺構 川岸に沿って打ち込まれた杭列
 22
縄文~中世展示
 23縄文・弥生土器
ミニチュア注口土器
縄文後期
メンコ形土製品 縄文
ススの付いた土器
縄文晩期
鉢形土器
縄文後期

 弥生土器片 前期~後期
甕・甑
前期~後期
鉢 終末期
 
 24古墳・古代
土師器・須恵器片
古墳後期
土師器・須恵器片
飛鳥~平安
 
 25中世
土師器皿 12世紀
土師器坏 12世紀

 土師器碗
この土器の埦はなぜか高台部分に別の色の粘土を貼り付けて作られています。このようなものは珍しく、どの様な意味があるのかはわかりませんが、何らかの特別な意味を持つものである可能性があります。

土師器 埦
12世紀
土師器 坏
13世紀
地面に残された人間の足跡 中世か
外来系土器 瓦質土器すり鉢13c
備前焼すり鉢 中世
土師質土器鍋13c
瓦質土器こね鉢13c
瓦質土器羽釜12c
東播系須恵器鉢13c
 
 26中世中国陶磁器
中世の中国産陶磁器は、当時は高級品でした。これらの品々を持つことができるのは、ある程度の有力者であったと考えられます。


・褐釉陶器 壺
 11c後半~12c前半
・竜泉窯系青磁 碗
 13c
・竜泉窯系青磁 小碗
 12c
・白磁 皿、碗 16c
・白磁 碗
 12c中頃~後半
・竜泉窯系青磁 碗
 14c
 
 27漁具
タコは海底の岩間など、狭い場所に隠れる習性があり、蛸壺はこれを利用した漁具です。縄を付けた蛸壺を海に沈めて、この中に入り込んだタコを捕まえます。
現在の貫地区は海から2.5km程内陸にありますが、古くは海に近い集落であったと考えられます。周辺に海での漁業に従事していた人々もいたと思われます。
蛸壺 男里遺跡
大阪府泉南市
弥生中期
蛸壺 弥生~古墳
土錘 中世

 石錘
石錘は漁網などに用いる錘です。平らな石の側面を、2ヶ所又は4ヶ所打ち欠いて、紐が引っ掛けられるようにし、網に固定していたと考えられます。
当時の人々は貫川を泳ぐ魚などを狙って、漁をしていたのでしょう。

石錘
縄文~弥生時代
大形石錘
縄文~弥生か
 28石斧
石斧
縄文時代
扁平片刃石斧
弥生時代
石斧
弥生時代
石斧未成品
弥生時代
 
 


 50常設展

 


 50旧石器時代

 51
ヘラジカ
オオツノジカ
ニホンムカシジカ
日本の旧石器時代の植物
 52狩人達の舞台
人類は数百万年前にアフリカで誕生したといわれますが、ここ北九州市に人々が住んでいた痕跡は、今から2~3万年前までたどることができます。
縄文時代が始まる約1万2千年前までの長い長い時代を旧石器時代と呼んでいます。

人々は尖頭器や削器、礫器、ナイフなどを主な道具として狩りや採集で食料を獲得しながら移動生活を送っていました。
彼らの獲物は、現在の日本では絶滅してしまったナウマンゾウ、オオツノジカ、ヒョウなどの大型動物でした。

狩人達の舞台

 旧石器時代人の顔
日本人の祖先 縄文人
旧石器時代人
港川人
礫器
骨を割る様子
 ※旧石器人の複顔は珍しいと思います。
 
 60進化の証し旧石器
人々は、土器も金属もない長い時代を、自然に産する石を利用することで、様々な道具を発明してきました。
それらは旧石器と呼ばれ、投げ槍の先につける尖頭器、動物の皮を剥いだり木や骨を削る掻器や削器、
動物の皮や肉を切るナイフ形石器、木に溝を彫り込む彫器、叩いたりつぶしたりする礫器などがあり、
時代と共に大きさや形、石の材質が変化していきます。
ものを加工する知恵の始まりは旧石器にあるのです。

進化の証し旧石器
ナイフ状石器 肉を切る 彫刻刀石器
鹿角に溝を彫る
旧石器時代の槍 削器(スクレイパー)
皮を切る
 
 70旧石器
 71
たたき切る 片刃礫器
木を叩き切る
礫器(チョッパー)
礫器(チョッパー)
重住遺跡・城野遺跡
たたく 握斧(クリーパー)
備後守屋鋪南側土塁跡
円盤状石器
重住遺跡・重留遺跡
 72
尖頭状礫器(ピック)
植物の根を掘っている
尖頭状礫器(ピック)
重住遺跡
握斧(ハンドアックス)
備後守屋鋪南側土塁跡
あける
錐(ドリル)
城野遺跡
長野角屋敷遺跡
辻田遺跡
彫刻刀(グレーバー)
重住遺跡・城野遺跡
長野角屋敷遺跡
錐(ドリル)
重住遺跡・重留遺跡
 73
木を切る 石斧 石斧
高槻遺跡・城野遺跡
基部調整剥片石器
重住遺跡・城野遺跡
ナイフ状石器
城野遺跡
長野角屋敷遺跡
 74

さす
ナイフ形石器
日吉神社遺跡

城野遺跡・
金山遺跡Ⅵ区・
辻田遺跡・
長野コイトヲ遺跡・
高槻遺跡
こさぎとる なめす
掻器(スクレイパー)

重住遺跡・高槻遺跡
寺町遺跡・城野遺跡
けずる
削器(スクレイパー)
 城野遺跡・重住遺跡
備後守屋鋪南側土塁跡
けずる
削器(スクレイパー)

重住遺跡・城野遺跡
鋸歯縁石器
きょしえん

城野遺跡・重住遺跡
高槻遺跡
 
 75
台形様石器
日吉神社・城野・重住
台形様石器

紙横代遺跡・城野遺跡
細石刃(マイクロリス)
中畑・日吉神社
城野・金山Ⅵ区
 
原石 日吉神社遺跡 石核(コア)
城野・日吉神社
つく
尖頭器(ポイント)
上清水遺跡
城野遺跡
長野角屋敷遺跡
 
 
 


 100縄文時代


 101縄文時代の幕開け
今から約1万2千年前、長い氷河期が終わると、人々の暮らしは大きく変化しました。
土器が発明され、植物の実や根、茎を煮て食べることができるようになりました。また、弓矢が出現して、狩りによる獲物の種類が増えました。

1万年間続いた縄文時代は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期に分けられ、北九州市内では、
小倉南区下吉田遺跡、貫川遺跡、長行遺跡、八幡西区黒崎貝塚、永犬丸貝塚など、後期・晩期の遺跡が数多く見つかっています。

縄文時代の幕開け 縄文時代の土器
 102縄文時代の土器
土器は縄文時代になって使用されるようになりました。
主な器種としては深鉢と浅鉢があり、深鉢には火にかけて使用した痕跡であるススが付着するものがあります。
木や動植物の皮など有機質で作られた器では火にかけることができませんでしたが、土器の登場によって煮炊きができるようになり、
人々の食生活に大きな変化をもたらしました。

深鉢 貫川遺跡
草創期
深鉢 深鉢 早期
貫川遺跡
深鉢 前期
刺突文土器 深鉢
長野角屋敷遺跡
早期
押型文土器
丸ノ内遺跡
早期
押型文土器
貫川遺跡
早期

 103定住のムラ出現
人々は季節に応じて、近くの山や川、海で植物や動物、魚をとって食料としてきました。それらを安定的に確保するため、一年間の活動カレンダーが出来上がっていたのです。
食物を保存し蓄えることで、長期間同じ場所に住み続けることができるようになり、ムラが作られました。
小倉南区下吉田遺跡では縄文時代後期の竪穴住居跡が2軒見つかり、深鉢や浅鉢などの土器と共に石斧や磨石、石皿、石錘など定住生活に欠かせない道具類が多数出土しています。
定住のムラ出現 下吉田遺跡A区
1号住居跡

 内陸部の貝塚
八幡西区の金山川のすぐ西の微高地にある永犬丸貝塚は、縄文後期(約3500年前)を主体とした遺跡です。
現在の海からは3kmも内陸部にあり、当時、海が深く入り込んで湾を形成していたことがわかりました。
下のパネルは1991年に発掘調査した際に見つかった、実際の貝層を剥ぎ取って来たものです。土層の中にはカキ、ヤノトシジミ
、ハイガイ、ウミニナなどの貝殻が沢山見つかり、当時の人々の食生活の一端が明らかになりました。
内陸部の貝塚
 104
石皿・磨石
晩期
黒曜石原石
勝円C遺跡 後期
深鉢
門川遺跡・古田遺跡
中期
深鉢 黒崎城跡
前期
 105
石匙 後~晩期 貫川、勝円C、葛原AB
石錘
貫川、長野小西田、カキ
晩期
十字型石器

カキ、諏訪
後期
石鏃 後~晩期

カキ、永犬丸、貫川
勝円C
環状石斧
貫川遺跡 早期
磨製石斧
扁平打製石斧
 貫川遺跡 晩期
 105a
磨消縄文 鉢
勝円C 後期

貫川 後期
磨消縄文 鉢
貫川 後期

貫川 後期
深鉢
下吉田遺跡 後期
脚台付深鉢
貫川 後期
深鉢
貫川 後期
 105b
脚付浅鉢
下吉田遺跡 後期

貫川遺跡 後期
深鉢
貫川遺跡 後期
 
 106
石棒
貫川遺跡 晩期
ヒスイ製垂飾
土製耳飾り
勝円C 後期
ヒスイ製勾玉
カキ遺跡 縄文時代

土製装身具
貫・井手ケ本 晩期
 107
浅鉢 晩期
貫・井手ケ本遺跡
蓋形土器 晩期
貫・井手ケ本遺跡
深鉢 晩期
貫川遺跡
注口土器
貫川遺跡 晩期
 107b
深鉢
貫川遺跡 晩期
深鉢
貫川遺跡 晩期
深鉢
カキ遺跡 晩期
 

 120弥生時代
 121稲作の開始と農村の誕生
弥生時代のはじめ(約2500年前)に、朝鮮半島から稲作が伝わり、各地に農村(ムラ)が誕生しました。
人々は水田を耕し、木や石の道具と共に鉄の道具も使うようになります。コ
メが蓄えられたことで、次第に貧富の差がうまれ、周辺のムラとの争いも起こりました。
指導者が出現し、そのお墓には武器である銅剣や銅矛、銅戈、また銅鏡、装身具の勾玉や具他玉などが副葬されます。
ムラはさらに発展し、やがてクニができ始めます。
稲作の開始と農村の誕生 弥生時代の土器
 123モノづくりの技と知恵
弥生時代の道具類は、おもに土、石、木、鉄や銅などの金属でつくりますが、貝殻や動物の骨、角、また朝鮮半島産のガラス素材なども利用します。
土器や石器、鉄器、青銅器歯ムラの中で製作され、一部は周辺のムラへも供給されています。

小倉南区長野小西田遺跡や金山遺跡、上清水遺跡では大量の木製品、高津尾遺跡や八幡東区高槻遺跡では、石斧や石包丁、八幡西区辻田遺跡では石剣、石戈を製作しています。

モノづくりの技と知恵
 
 130前期石器
 131弥生時代の土器
弥生時代には、様々なモノや情報が朝鮮半島や中国大陸からもたらされ、土器の形もその影響を受けて変化しました。
貯蔵のための器である壺、器を乗せるための器台、食物を盛り付けるための高坏など、鉢が主体の縄文土器には見られなかった新しい器種が出現します。

蛤刃石斧
高津尾遺跡
弥生前期
柱状片刃石斧
能行、貫川
弥生前期~中期
扁平片刃石斧
高津尾遺跡
前期~中期
 135

壺 前期
備後守屋鋪南側土塁跡
蓋 高槻遺跡 全期 蓋 高槻遺跡 前期
甕 前期
甕 前期
備後守屋鋪南側土塁跡

高津尾遺跡 前期
 
 140中期石器・土器
 141
大型石包丁
貫川遺跡 弥生時代
長野フンデ遺跡 中期
石包丁
伊崎遺跡 後期
棒状敲打具
ハンマー(敲打具)
高槻遺跡 前期

 祭祀具
祭祀具 石戈 馬場山 中期
石鏃 重留 中期
石剣 重留 中期
石剣 城野 弥生時代
石矛 高槻 前期
石剣 重留 中期
 143

重留遺跡 中期

重留遺跡 中期
高坏
重留遺跡 中期

光照寺遺跡 中期

高槻遺跡 前期

重留遺跡 中期

重留遺跡 中期

重留遺跡 中期
 
 150後期拠点集落
 151拠点集落の出現
弥生時代が始まって間もなくすると、人々は自分たちの集落を溝や柵で囲み、石や青銅で作った剣や戈などの武器を準備するなど、
攻撃から自分たちのムラを守る工夫をします。
小倉南区寺町遺跡では、巡らせた環濠のそばに沢山のつぶて石(投石用手のひら大の石)が用意されており、同じく重留遺跡では、
環濠の斜面に逆茂木(侵入を防ぐ杭)が立てられていました。
大きなムラを守るには、戦争に備える必要があったのです。

拠点集落の出現 重留遺跡の逆茂木
 153
壺 後期
長野フンデ遺跡
器台 後期
長野フンデ遺跡

脚注なしだが、

線刻・描画痕が見える

のかな?
壺 後期
長野フンデ遺跡
支脚 後期
祇園町遺跡
器台 後期
伊崎遺跡
鉢 後期
祇園町遺跡
鉢 後期
祇園町遺跡
把手付鉢 後期
長野尾登遺跡
 155
高坏 後期
長野フンデ遺跡
高坏 後期
長野フンデ遺跡
脚付無頸壺 後期
長野小西田遺跡
高坏 後期
上清水遺跡
壺 後期
祇園町遺跡
 157
甕 中期
重留遺跡
 
甕 後期
長野フンデ遺跡
壺 後期
長野フンデ遺跡
鉢 後期
祇園町遺跡
甕 後期
上徳力遺跡
 


 160弥生時代

 161弥生時代の集団墓
弥生時代の人々は、石棺墓や石蓋土壙墓、土壙墓、甕棺墓などに葬られました。
これらの墓は特定の集団ごとに一定の範囲内に集中して築かれ、集団墓を形成しました。
その規模は数基程度のものから、数百基に及ぶものまで様々です。

北九州市では小倉北区の二ノ丸家老屋敷跡、小倉南区の高津尾遺跡、蒲生石棺群、八幡西区の馬場山遺跡、光照寺遺跡などで見つかっています。集団内での墓の配置や副葬品の優劣などは、当時の社会構造を反映していると考えられます。

弥生時代の集団墓 小倉城二ノ丸
家老屋敷跡
1号石棺墓
高津尾遺跡の集団墓
 162共献土器
共献土器
前期末~中期初頭
器台 弥生後期
 163
青銅製細形銅剣
碧玉・凝灰岩製管玉
1号石棺墓
前期末~中期初頭
碧玉製管玉
1号土器棺墓
弥生前期末
ヒスイ製勾玉
メノウ製小玉
碧玉製管玉
3号石棺墓
前期末~中期初頭 
    1号集積墓
前期末~中期初頭
ヒスイ製勾玉  碧玉・凝灰岩性管玉 
二ノ丸家老屋敷跡
小倉北区
碧玉製管玉
砂層からの出土遺物
 166
高津尾遺跡 小倉南区 小形仿製鏡 後期 ヤリガンナ 刀子 斧 凝灰岩製管玉
ガラ製小玉
 
 170お墓に現れる社会の変化
高津尾遺跡では、青銅鏡や鉄器、玉などの貴重品が副葬される有力者の墓が、何も副葬されない一般成員の墓と混在しており、集団の中での配置に大きな区別はありません。
一方の蒲生石棺群では、貴重品を有する墓は石棺群のある山の山頂付近に集中し、立石で四角形に囲まれて他の墓と区別されていました。
このような墓は「特定集団墓」と呼ばれ、有力者が集団の中から突出し、社会が階層化していく状況を示していると考えられます。
 171

蒲生石棺墓群の
集団墓地群全景
5基の特定集団墓 お墓に現れる社会の変化
 172鉄鏃
鉄鏃
左:72号墓 後期
右:76号墓 後期
 17337号墓 弥生後期
ガラス製勾玉
37号墓 後期
内行花文鏡 ヒスイ製勾玉
ガラス製小玉
碧玉製・凝灰岩製管玉
 174蒲生石棺群 小倉南区
内行花文鏡
蒲生石棺群 小倉南区
ヤリガンナ
69号墓 弥生後期
 175
34号墓 後期
凝灰岩性管玉
ガラス製小玉
素環頭刀子
34号墓 晩期
素環頭刀子
32号墓 後期 凝灰岩性管玉
ガラス製小玉
ヒスイ製勾玉
27号墓 後期
ヒスイ製勾玉
 177
30号墓 後期 貝製腕輪
オオツタノハガイ
刀子 オオツタノハガイ
現生種
 
 180農耕の祭りと司祭者の存在
小倉南区重留遺跡では、竪穴住居内に掘られた穴の中に、埋められた状態のままで広形銅矛が見つかりました。
ムラの有力者が集まって、農耕に関する取り決めやお祀りを行う際に取り出して、終われば埋める行為を繰り返していたようです。
この住居は、生活するための炉跡や土器も出土していることから、お祀りを取り仕切る司祭者が住んて゛いたものと考えられます。
 181
銅矛の刃刃斜めに立てて埋められていた
重留遺跡
農耕の祭りと司祭者の存在 1水晶製玉未成品
0号工房出土
勾玉と鉄の工具
19号土坑
 182城野遺跡の玉作工房跡
城野遺跡からは、九州で2例目となる玉作工房跡が確認されました。工房内からは未完成品や失敗品、石材を加工する過程で出る水晶や碧玉の小破片などが大量に出土しました。

また、孔を開けるため鉄製錐や玉を磨くための筋砥石といった玉作に欠かせない工具類も見つかっています。
このことは、原石の荒割りから仕上げまでの一連の工程がここで行われていたことを示しています。
玉作の高度な技術を保有することのできた有力集団がここにはいたのです。

 城野遺跡で行われていた祭祀
19号土坑からはヒスイ製勾玉と碧玉製管玉、木製容器に納められた鉄製の錐が埋められた状態で出土しました。鉄の錐は玉作で穴を開けるために欠かせない道具です。玉作りに関係する工具セットで(、これを地中に)納めて玉作りに関連する祭祀を行ったのでしょう。

1243号柱穴では、入れ子状に重ねられた鉢が土器片に覆われた状態で埋められていました。また、鉢の中には粘土塊が納められていました。
これは地鎮祭のような祭祀の痕跡と考えられます。
何かを穴に埋めて祭祀を行うことは、弥生時代には広く見られる習俗ですが、この城野遺跡でも同様の行為が行われていたことがわかります。

城野遺跡の玉作工房跡 鉄錐
城野遺跡 後期
筋砥石 後期
城野遺跡玉作工房
19号土坑
ヒスイ製勾玉
碧玉製管玉
凝灰岩性管玉
木製容器に入った錐 城野遺跡 後期
1243号柱穴一括出土遺物
城野遺跡で行われた祭祀
 183
玉作工房から見つかった玉類 碧玉・水晶加工工程 
城野遺跡 弥生後期
水晶加工工程   算盤玉の破損品
城野玉作工房
  チップ(水晶剥片) 
碧玉加工工程 ガラス製管玉
ガラス製小玉
製作工房の様子
 185青銅製祭祀具
光照寺遺跡 馬場山遺跡
馬場山遺跡
伊崎遺跡4 長野フンデ遺跡
長野尾登遺跡 広形銅矛
重留遺跡
 
 190土器の棺
弥生時代には、日用品である大型の壺や甕を転用して子供の棺に使用することがありました。これを土器棺と呼びます。
土器棺には、同じ種類の甕を合わせ口にするものや、壺と甕を組み合わせるもの、それらを単体で使用するものなどいくつかのパターンがあります。

なお、成人埋葬専用棺である甕棺は、中期を中心として遠賀川以西の西北部九州で主に使用されましたが、北九州市を含む遠賀川以東地域ではほとんど用いられませんでした。
 191
土器の棺 土器棺墓と共献壺 土器棺墓
 193土器棺墓
2号土器棺墓
加用遺跡 中期
1号土器棺墓の共献壺
二ノ丸家老屋敷跡
弥生前期
1号土器棺墓
二ノ丸家老屋敷跡
弥生前期
 


 300古墳時代

 301前方後円墳の時代
3世紀後半(約1750年前)から300年間を前方後円墳の時代と言います。曽根平野では、12基の前方後円墳が築かれ、家・馬・人物埴輪が立て並べられていました。
古墳には三種の神器(鏡・玉・剣)などが副葬され、首長の権威を表していました。
古墳時代後期(6世紀頃)になると、各集落の中小首長層が横穴式石室をもつ古墳を複数以上作るようになりました。

前方後円墳の時代 古墳時代の土器 荒神森古墳周堤帯
人物埴輪
円光寺古墳
 302古墳時代の土器
古墳時代に使われた土器には土師器と須恵器の2種類があります。
土師器がそれまでの伝統的な技術で作られたのに対して須恵器は朝鮮半島から伝わった新しい技術で作られました。
窖窯という斜面に築かれたトンネル状の窯で焼かれる須恵器は灰色で硬く、茶系の色調で須恵器に比して軟質の土師器とは大きく特徴が異なっています。

人物埴輪 髷は実物、顔は復元 人物埴輪 古墳後期
荒神森古墳
土師器壺・甕・壺
古墳前期
土師器鉢
土師器小形丸底鉢
古墳前期 竪町遺跡
 303
土師器
諏訪遺跡 八幡西区
鉢 中期
小型丸底壺 前期
小型器台 前期
土師器 中期
小型壺×3
高坏
 304
須恵器 中期
高坏、蓋付坏
須恵器 高坏 後期  後期 須恵器
高坏・蓋坏
土師器高坏
後期蓋坏 土師器
埦、壺 後期
 305
須恵器壺
長野A遺跡 中期
須恵器 中期
高坏、蓋坏
長野A遺跡
須恵器 堤瓶
長野A遺跡 後期
土師器 甑
土師器 長胴甕
長野A遺跡
これがカマドが使用された証拠の土器か
 306
円筒埴輪
荒神森古墳 後期
朝顔形埴輪
荒神森古墳 後期
円筒埴輪
荒神森古墳 後期
円筒埴輪
円光寺古墳 後期
朝顔形埴輪
円光寺古墳 後期
円筒埴輪
円光寺古墳 後期
 ※(笑) 今まで気が付かになったけれど、朝顔形埴輪って、植物のアサガオの花ではなくて、男物の小便器のことですね。

 307動物埴輪
イノシシ形埴輪
円光寺古墳 後期
馬形埴輪
円光寺古墳 後期
 
 320北九州市内の古墳
古墳時代に入ると、弥生時代の箱式石棺や石蓋土壙墓に代わり権力のある人々は古墳を作るようになります。古墳にはその形によって円墳、方墳、前方後円墳などがあります。
北九州市内では、周防灘沿岸域、紫川流域、板櫃川流域、遠賀川流域、洞海湾地域、響灘海域などに集中して古墳が築かれ、
特に前方後円墳は周防灘沿岸の曽根平野にしか見られないのが特徴です。

古墳には土器などと共に、耳環や勾玉などの装身具、鏡、剣や鏃などの武器類が死者と一緒に納められます。

古墳時代後期に入ると、大きな古墳は見られなくなり、小さな円墳を幾つも作る群集墳へと変化します。
小倉南区にある下吉田古墳群では合計61基もの小円墳が築かれています。
 321
北九州市内の古墳 大畠1号墳 大畠4号墳
下吉田32号墳 下吉田39号墳
 322副葬品
 碧玉製丁字勾玉
丁字刃、熱帯常緑高木で、その実の形を連想させるところから名付けられた。

碧玉製丁字勾玉
蒲生寺中古墳
ガラス製小玉
滑石製臼玉
蒲生寺中古墳
青銅製釧
蒲生寺中古墳
四乳鋸歯文鏡
蒲生寺中古墳
鉄鋌 蒲生寺中古墳
 鉄鋌:両端辺を撥形に広げた長方形の鉄の薄板。鉄の地金。苔を加工して甲冑や刀をつくる。

 323装身具
 耳環
環状の金属製耳飾り。金・銀・錫・銅・金銅製・鉄地金箔貼りなどがある。
耳たぶの上部の細身のところから挟み、下部の厚身の方へ下げて外れないように垂下する。

大畠4号墳 耳環、勾玉と玉類
大畠4号墳 7世紀
耳環 大畠1号墳 1号墳 7世紀
 須恵器壺、土師器碗
 土師器高坏

 須恵器 平瓶


 
 326下吉田古墳群
下吉田古墳群 32号墳 32号墳 鑷
古墳後期
刀子 鉄鏃
39号墳 7世紀 瑪瑙製勾玉
碧玉製管玉
 327下吉田古墳群
39号墳 須恵器 蓋・埦 土師器 坏 土師器高坏・平瓶
 
 330古墳時代の祈り
古墳時代には、巨大な岩屋木の陰、水辺、道の辻、水田の水口、屋内など様々な場所で祭祀行為が行われました。
祭祀には鏡や武器などの金属器、玉類、滑石製模造品、土器や土製模造品などが用いられ、その場所に大量に集積する傾向があります。

若松区にあるあまずみ(蜑住)古立遺跡からは土器やミニチュアの土製模造品、滑石製品が集積する中期頃の祭祀遺構が発見されました。
ここにいた人々は何に祈りを捧げたのでしょうか。
 331
蜑住古立遺跡
あまずみふるたち
祭祀遺構
古墳時代の祈り
 333祭祀遺構一括出土物 古墳時代中期 蜑住古立遺跡 若松区
 
壺、甕、鉢、高坏、 ミニチュア土製品
滑石製品、琥珀製品
 335
琥珀製小玉 滑石製有孔円板
滑石製有孔方板
滑石製臼玉
 


 350古代


 351古代(奈良・平安時代)のくらし
奈良時代以降、律令制度のもとに各地方は、国-郡-里という行政区分に編成され、それぞれ国司、郡司、里長によって納められました。
各役所の間では、墨で板に文字を書いた木簡を使って情報通信を行っていました。国・郡の役所や駅などの公的機関と寺院の建物の屋根には、瓦が葺かれました。
土地は国家のものとされ、農民たちは平地住居や竪穴住居を住まいとし、与えられた口分田を耕して暮らし、農産物や手工業製品の一部を税として国家に納めました。

古代の暮らし 上清水遺跡Ⅴ区
32号土坑
 352上清水遺跡32号土坑出土土器
32号土坑出土土器 土師器坏・鉢
須恵器皿・坏・蓋・埦
土師器鉢・甕
須恵器鉢・埦
土師器甕
 353釉薬をかけた土器の登場
古代の遺跡から出土する在地産の土器には、一般的な土器(土師器・須恵器)と、釉薬(うわぐすり)をかけて焼いた土器(緑釉陶器・灰釉陶器)の2種類があります。
土師器と須恵器には、食器(坏、皿など)と、貯蔵容器(甕、壺)があります。緑釉陶器などには埦、皿、壺などがあります。
施釉された土器や中国産の陶磁器は、主に国や郡の役所や寺院、鉄製品の生産遺跡などから出土するので、儀式・儀礼などで使用された特殊な土器と考えられます。

釉薬をかけた土器の登場 門司銘の瓦 緑釉陶器皿・埦 内黒土器
寺田遺跡
瓦製品 鬼瓦 軒丸瓦 軒平瓦、鬼瓦 北浦廃寺跡
平瓦・丸瓦
内黒土器は東北の土器。持ち込まれた物か。生産された物か。
 355木簡
 
 360須恵器の生産と製塩
 361
農民や沿岸部に暮らす半農半漁の民衆は、田畑を耕作するとともに、土器の生産や製塩などの手工業生産を行い、その生産物を税の一部として国家に納めました。
薪に適した松の森林があり、良質な粘土が採掘できる地域の丘陵部では、専門の工人によって登り窯で須恵器が焼かれました。
各地の海辺では、塩作りが行われました。鉢形で器壁の薄い製塩土器で海水を煮詰めた後に、焼塩土器に移し替えて蒸し焼きにして、固まった状態の塩を作りました。

※海水から塩をつくると、塩化マグネシウム(にがり)が出てきます。私も子供の頃、菰(こも)に入った塩を覚えています。やがて菰の下から液体が流れ出ます。このにがりを採るためにわざわざ菰包みの塩を買っていたようです。
この塩を高温で焼くと、塩化マグネシウムが酸化してさらさらした塩になるそうです。そういえば、最近の各地で作った塩は湿った感じ、こともの頃の塩です。現在使用する塩は、全て焼き塩ということになりますね。

 洗子窯跡出土瓦塔
洗子窯跡は奈良時代後半~平安時代初頭の須恵器生産遺跡で、小倉南区朽網くさみの山中にあります。
発掘調査では蓋、埦、皿、高坏、壺、甕など、日常的に使用する食器や容器が多く出土するとともに、瓦塔の部品も見つかりました。

瓦塔とは五重塔などの模造製品で、仏教に関わるものです。
屋根や相輪などの部品を須恵器に焼成し、それらを組み上げることによって完成させます。
地元の有力者(豪族)が寺に寄進するために特別注文して焼かせたものでしょう。

須恵器の生産と塩作り 洗子窯跡出土瓦塔
あらいごかまあと
洗子窯跡発掘 瓦塔
 363六連式土器
奈良時代(8世紀)の焼き塩用の土器です。長さ20~25cmの筒形で、底部が円い砲弾型をしています。1958年に下関市六連島の音二郎遺跡で発見されたことから名付けられました。
一定量の塩を焼き固めるための土器で、そのまま運搬容器となりました。型木の上に布を当て、その上から粘土を被せて製作したため、内面に布目跡があります。
六連式土器の分布は関門海峡を中心に内陸部まで及んでおり、北九州市周辺で作られた塩の流通を物語っています。

六連式土器
むつれしき
浜田遺跡
奈良・平安時代
製塩土器 洗子窯跡
奈良時代後半~平安時代初頭
融着した坏蓋、
 365
墨書のある須恵器
水町遺跡
長野A遺跡
洗った食器は下を向けて乾かしていたから底面に墨書した。 円面硯
西池ノ内遺跡
石帯
高野遺跡、潤崎遺跡

寺田遺跡
 


 380中世

 381躍動する中世
中世は、鎌倉時代から室町時代までの約400年間を指します。
古代の律令国家が崩れていくなかで武士が台頭し、貴族に変わって政治の重要な位置を占めます。
武士たちは館を構え、在地領主として地域に支配を及ぼしていきます。
鎌倉時代の後半になると民衆が経済や文化の一翼を担うようになり、流通、商業、金融、交通などが発展を遂げ、日本各地に津や泊とまり、宿、市などの都市的な場が続々と登場します。
戦乱が続く時代にあっても、活気にあふれた時代を作り上げました。

躍動する中世 陶器 大甕(常滑焼)
愛宕遺跡 13c前半
この時期の各地から愛知県常滑焼が出土する。
これは、海上交通が著しく発達し、船舶や操船技術などが向上したからでしょう。
瓦質土器 瓦質土器 鍋
井上遺跡2区
16世紀前半
陶器すり鉢 備前焼
16世紀
調理の様子
 383
軒平瓦・軒丸瓦
蒲生大畔遺跡 14c
 土師器埦(愛宕遺跡12c)、瓦器埦(長野D 14c前半)、
瓦質土器釜(長野D遺跡14c前半)

土師器坏(愛宕遺12c前半)、土師器坏(中村遺)、土師器小皿(中村遺)
瓦器小皿(愛宕遺跡12c後半~13c前半)
 385中世のお墓
中世における埋葬方法には、土葬や火葬、風葬などがあります。
鎌倉時代前期の人々は、一般に共同墓地を持たず、空き地を墓地にして埋葬することが多かったようです。
そのなかで、先ノ下遺跡(小倉南区)や金丸遺跡(八幡西区)などでは、単独で営まれた土壙墓が見つかっています。
一方鎌倉時代後期以降には、集石墓を主体とした大規模な共同墓地が営まれ、市内では、白岩西遺跡(八幡西区)や椎の木山遺跡(若松区)などの墓地が調査されています。また、宗林寺墓地跡(小倉南区)は中世末の朽網氏の墓地と考えられています。

中世のお墓 共同墓地
(白岩西遺跡)
共同墓地
『餓鬼草紙』
 387
先ノ下遺跡1号土壙墓
13世紀
先ノ下遺跡1号土坑墓 枕石(玄武岩製) 鉄製品小刀 土師器皿5枚 青磁 埦 中国産
椎木山遺跡 蔵骨器
鎌倉時代

陶器 褐釉水注
15号墓中国産
須恵質双耳壷 15号墓
 


 400戦国時代

 401戦乱の世に築かれた山城
我が国で築かれた城は、4万と言われています。
そのほとんどが山城です。山頂部を平らにして本郭を築き、尾根伝いに二の郭、三の郭などの区画を設けています。

特に南北朝時代になると数多く築かれ、戦国期には国人領主の山城を中心に大規模なものが見られます。
北九州市域でも80余りの中世山城が見られますが、展示では日本有数の山城である長野城(小倉南)と、筑前東部の国人領主麻生氏の城である園田浦城(八幡西区)を紹介します。

戦乱の世に築かれた山城 園田浦城跡北郭
 403園田浦城跡 南北朝~室町時代
中国陶器
青磁 酒会壺蓋、埦
青磁 酒会壺、香炉
白磁 皿、埦
土師器 坏 壺 (瀬戸焼)
長胴壷(中国産)
すり鉢、甕(備前焼)

 405長野城跡復元模型 戦国時代 1500年代中期
※最近赤色立体地図で山城を見せてくれる番組あるが、こんなに徹底的に山を要塞化した山城というのは見たことがない。お見事!
長野城跡復元模型
 
 420中世都市小倉のはじまり
 421室町遺跡 14c~16c

中世都市小倉の始まり
室町遺跡
室町遺跡
14c~16c
灰釉皿瀬戸・美濃
粉青沙器埦李朝
灰釉折縁深皿瀬戸
青磁碗・白磁皿中国
青花皿・埦中国
小倉城二ノ丸家老屋敷跡3層
13c後半~14c前半
土師器小皿、
青磁盤・埦中国、白磁皿中国
青白磁合子中国
 423鋳物
 丹生忍冬斎画:芦屋釜をつくっている様子
 丹生忍冬斎は1910-2002の現代の画家

 中世の絵ではなく、中世風に描いた現代の絵で、内容は想像です。


 425溶解炉 室町遺跡 14c~16c

 
 
 450城野方形周溝墓
 451


 452南棺
 453小口石に描かれた線模様画
 454北棺
 456南棺と北棺の関係
 
 461周溝部分から出土した弥生後期の土器
高坏
 463
鉄製長柄刀子
城野方形周溝墓
南棺出土
ヤリガンナ
城野方形周溝墓
北棺出土
短頸直口壷
城野方形周溝墓
南棺出土

城野方形周溝墓
南棺出土
 465小口石の文様 南棺 
 467城野方形周溝墓 ~北部九州最大級の方形周溝墓~
状の方形周溝墓とは 城野遺跡の築かれた歴史的環境
➀城野遺跡
弥生中期~後半
③重住遺跡
弥生中期~後期
②重留遺跡
弥生中期~後半
④北方遺跡
弥生前期~中期後半
 


 500近世

 501近世
 502近世の小倉
近世の小倉と黒崎と
木屋瀬
小倉城築城 地鎮祭用陶磁器
 503豊前の国小倉藩の城造り
豊前の国小倉藩の城造り
墨書石垣 細川家家紋 白磁 村上家家紋
 
 510
 
 520
菜園場窯 焼成室 菜園場窯出土陶磁器

 菜園場窯跡出土陶磁器・窯道具
菜園場窯跡出土陶磁器・窯道具 碗・埦・皿
皿・瓶・皿
皿・蓋・埦
・トチン・サヤ

 小笠原家家紋瓦
小笠原家家紋瓦
 530小倉
 531小倉城と城下町の形成
小倉城と城下町の形成
小倉城三ノ丸跡
 532
2次的な火を受けた
元朝の高級陶磁器
2次的な火を受けた
清朝官窯の高級陶磁器
 533
火縄銃各部の名称 火縄銃部品 火縄銃部品 火縄銃鉛玉
小柄の目釘
 紋のある小柄
 
 540信仰
 541様々な祈りの道具
様々な祈りの道具 小笠原定の墓誌
 542メダル
府内型メダイとは? メダイ
キリスト、マリア 土瓶転用の胞衣壺
 
 544
宗玄寺跡遺物

木製入れ歯
六道銭、念仏銭 念仏銭
玩具
 
 550長崎街道
長崎への道 常盤橋西勢溜り跡 北西部九州の主要街道
飴壺 常盤橋西勢溜り跡
小倉北区
 
 560黒崎銘須恵器
 561
長崎街道 本陣出土の
黒崎銘須恵焼
伊能忠敬の手伝い人
与助画宿泊した藤野屋
 562ふじのや、黒崎出土遺物
 565
木屋瀬本陣 筑前国福岡藩
黒崎と木屋瀬