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 南の縄文 第2部 この旅は2014/02/03~02/16まで行いました。途中、春の嵐や二人組の中国人女性と道連れになるなど変化に富んだ旅の続きです。



 縄文を旅する4  南の縄文  沖縄~九州23  2014.02.15(土)

   高千穂町歴史民俗資料館   宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井1515  0982-72-6139 休館日は年末年始だけ


交通 宮崎交通バスで各地から高千穂バスターミナル。向かいの観光案内所でレンタカーを調達。
見所 押形文土器の施文具、南九州の土偶、十字形石器(十字型石器)、免田式土器、複合口縁壺。民俗の紙切り
場所 高千穂町コミュニティーセンターの二階  すこぶるライティングが悪いです。普通に見ても光って見えない。(笑)
立地 先史時代から現代まで、熊本方面との交通の要所です。バスも車も人も必ずここを通ります。
従って先史文化の遺跡も数多い。
が、この辺りは、常に、宮崎文化圏ではなく、熊本文化圏に属しています。宮崎と鹿児島はよく似た文化圏です。


     第1次「南の縄文」はこれで終わりです。ありがとうございました。

 



001高千穂町コミュニティーセンター
01旧石器時代
11縄文時代
12道具
 神子柴型石斧
 異形勾玉
 環状石斧
 横型石匙


13祭祀具 陣内遺跡
 彫刻石棒
 三角板状土製品
 土偶(妊婦土偶)
18縄文 陣内遺跡
 トロトロ石器
 押型文土器

 
23弥生時代
 突帯文土器
 弥生の縄文人
31古墳時代
 騎馬軍団征服説
 八咫烏
41民俗
 複合口縁と二重口縁



 001高千穂町コミュニティーセンター  高千穂町は海抜300m程度のところですが、地形のせいで雪が沢山積っていました。低いのに寒い所ですね。

   高千穂町コミュニティーセンターの中にある歴史民俗資料館

 コミュニティセンターってなに?
 ・地域社会の結合の中心的役割を果たす施設。集会所・公民館・学校・図書館などの類。(大辞林 第三版の解説)
  または、
 ・市民のコミュニティ形成のための活動やボランティア活動等の促進のための拠点となる施設です。 会議や研修等でもご利用できます。(熊谷市)
  ↑言葉の説明の中に説明している言葉が入っているという、さいてーの説明ですね。↑。意味のない言葉のようです。コミュニティセンターは。(笑)

 コミュニティ 共同体と訳されている  communication=伝達・報道・交通・通信・情報・通信文・連絡

高千穂歴史民俗資料館 立派な資料館です
日本一歴史的な町
ですから
宮崎の辺境。過疎地なんて思っていました ご自分たちの町に日本一プライドのある
町民ですから

2億6千万年前の大絶滅の痕跡があったと

4億3千万年前の
サンゴ化石
堆積岩の中に痕跡があるようです

  どのような人々が住みついて、南方系神話を紡ぎ、日本の歴史神話を形成したのだろうか。 

  2016.1.1記述 今思い出しました。朝鮮半島にも天孫降臨を名乗る王族がいました。半島にも南方系神話があったんだ。三足鵜と同じで。





 01旧石器時代


私達人類の直接の祖先が登場してきた時代です。この時代の社会はまだあまりよくわかっていません。
旧石器時代の道具には、木器・骨角器・石器がありますが、石器が最も基本的な道具でした。

当時の人々はナウマンゾウやオオツノジカ、オオカミなどの大型獣を狩猟し、植物を採集して食料としていました。

石器はその主な道具として使われました。食料の貯蔵や保存加工の技術がまだ未熟でしたから、食料を求めていくつかの集団が大型獣を
狩猟するときは集まって、それ以外の時は分散して移動の多い生活をしていたと考えられています。



 旧石器時代の環境と生き物
旧石器時代には4回の氷期が訪れ、凡そ2万年前のウルム氷期には現在よりも海水面が150m程も低くなり、日本と大陸は陸続きになりました。
気温も今より7~8土低く、高千穂地方もカラマツ・籾・ツガなどの亜寒帯の森林に覆われていました。今は絶滅したナウマン象やオオツノ鹿などの大型獣も見られたことでしょう。

 出羽洞穴 西臼杵郡日之影町
出羽洞穴は日当たりのよい南向きに開口し、日之影川にそそぐ沢に面した標高約920mの山腹にあります。
1965-66の調査で、第Ⅱ~Ⅷ層の5つの文化層から縄文時代や先土器時代の遺物が出土しました。

特に、第Ⅷ層から主ッドしたチョッパー、チョッピングツールなどの石器は今から2万年以上の人々が使っていた道具で、
現在宮崎県内で最も古い遺物と考えられています。
 
 岩土原遺跡 東臼杵郡北方町
岩土原遺跡は五ヶ瀬川の右岸、標高120mの段丘上に立地しています。
調査の結果、3つの文化層が確認され、
第1文化層からは炉跡や押型文土器、石鏃などの縄文早期の遺構・遺物が発見されました。
第2文化層からは爪型文土器や細石器が、第3文化層ではスクレーパーや剥片などの先土器時代の遺物が出土しました。

特に第2文化層から出土した遺物は土器出現期を考えるうえで重要な資料となっています。
細石器を出土した県内の井堰では、舞野遺跡(延岡市)・船野遺跡(砂土原町)などがありますが、それらの遺跡では土器は共伴していません。
また、
第3文化層の石器は出羽洞穴の第三層の遺物と対比することができます。

先史時代年表
高千穂の多数の遺跡
貝殻文土器がない。※1 旧石器時代
上に記述
人類の進化と化石分布図※2
かつてこんな時代もありました。
旧石器の環境と生き物
上に記述
出羽洞穴 2万年前旧石器が発掘された
岩土原遺跡
上に記述
旧石器の種類と用途 石核  ※1年表の縄文初期に貝殻文土器がない。

 高千穂の縄文人はスンダランドの海洋民族ではなく、半島渡来の後期モンゴロイドだったのか。
 旧石器人は、普段は少人数でくらし、
 大型獣を狩る季節には集まって共同で狩猟したと言われている。
 彼らはその時も血縁集団だったのでしょうか。

 列島に僅か5000人
の旧石器人がいたそうだ

 ※2人類の進化系統樹ではネアンデルタール人が系統から分化するところに明石人と記述されている。

    かつてDNA分析ができなかった頃、古い骨を見つけては原人と名付けていた。
    世界各地に原人が発見され、そこから各地で人類が個別に進化したとされていた。
    中華圏では、現在も学校で漢人は北京原人から進化した特殊な人類であると教育しています。

    日本でも、つい最近まで国内に60万年前の遺跡が次々発掘されたりした。 全て捏造であった。
    結論 明石人は新人であり、何十万年も遡らない。ことが分かっている。




 11縄文時代


旧石器時代のあと、今から1万2千年程前から約2千3百年前までのおよそ1万年程を縄文時代と言います。
旧石器時代に引き続き、狩猟・採集によって成り立つ社会ですが、土器が使用され始めたこと、弓矢が出現したこと、漁撈が始まったことなどが大きな違いとして指摘できます。

中でも、土器の使用は食生活に大きな変化をもたらし、生のままでは食べることができなかった植物が、煮炊きによって食料となりました。

縄文時代の生活は、移動と定住の繰り返しによって維持されましたが、このような新しい食料の開発によって定住の時間が長くなり、集落も大きくなっていきました。



  12道具

 押型文土器施文具
押型文土器は約1万年前から6千年前の縄文時代早期に使われた土器で、棒状の工具に山形、楕円、格子目等を彫刻し、それを器面に回転させて施文しています。
器形は口縁が直線的に開き胴部が丸みを持ち、尖底や乳房状の底部をもつ深鉢形が多く見られます。
高千穂では三田井地区の陣内・川登押方地区の下押方・板屋、岩戸地区の五ヶ村、田原地区の薄糸平・河内西等で出土しています。

石核、細石核、ナイフ形石器、
神子柴型打製石斧
押形文土器
押形文土器施文具 施文道具 押形文土器

※神子柴型打製石斧は、 後期旧石器時代13000年前に北方アムール川流域からやってきた民族の道具である。
      この民族は日本列島を南下し、種子島にまで分布している。



尖頭器、磨石、石包丁用石器
石匙、磨製石斧

陣内遺跡出土 後・晩期
土器片

尖頭器、磨石、
石包丁用石器、石匙
磨製石斧
町内出土の押型文土器

縄文人は土器を手に入れることによって、
生活が変化し、定住可能になったとか。

  ・石包丁用石器   縄文時代後・晩期 陣内遺跡出土 となっています。この時期にすでに石包丁があったのか。



 高千穂の縄文土器
縄文土器は、その形や文様の違いから、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられています。
高千穂では、各時期の土器が出土していますが、陣内遺跡に代表されるように、西平式・三万田式・御領式などと呼ばれる
後期後半から後期末にかけての土器が沢山見られます。

この土器の土器は黒く磨かれた土器(黒色磨研土器)に特徴があり、いろいろな形の浅鉢などバラエティに富んだ器形が現れています。
これらの土器から、当時は宮崎県中・南部よりも熊本県・大分県地方との交流が盛んだったことがわかります。

高千穂の縄文時代
丹塗り小型鉢型土器
大変特異な形です

黒色磨研系深鉢
煤を塗って磨いた土器
縄文時代
上に記述
高千穂の縄文土器

西平式・三万田式・御領式 後期後半~末の土器が多い
黒色磨研土器が特徴
上に記述

丹塗り小型鉢型土器
黒色磨研土器
鉢型土器
貝殻文深鉢型土器

石斧・磨製石斧
異形勾玉・スクレーパー・縄文土器・石匙・打製石鏃・環状石斧打製石斧・子持勾玉
岩戸五ヶ村遺跡出土
荒立神社境内出土

縄文時代となっている

磨製石斧・横型石匙・磨製石斧・スクレーパー・打製石斧・打製石鏃・打製石斧・打製石鏃
下野漆野遺跡

異形勾玉 (子持勾玉) 朝鮮半島から来た祭祀具
・環状石斧は戦闘用武器 東北地方からも出土している。  これらは通常弥生時代なのですが。なぜか縄文となっている。
       
横型石匙って、 打製石斧の草取り道具じゃねーの。 横型石匙ってほんと、聞いたことないっス。
東北地方からは出ているそうです。だとすると、縄文後期の寒冷化で、以後東北人が大量に南下したが、
その一部が熊本にたどり着いたかな。

陣内遺跡 縄文時代 後期・晩期遺跡
岩戸五ヶ村遺跡 縄文時代早期の集石遺構と弥生時代の縦穴住居が出土
荒立神社境内出土 縄文土器が出土 縄文人の猿田彦命(さるたひこのみこと)と、弥生人の天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祭るやしろ。  
       引用wikipedia

  これらの石器は縄文なのか、弥生なのか。 弥生早期なのか。
   おそらく、異形勾玉以外は縄文時代。勾玉は弥生古墳のもの。いろいろな時代のものが混じっているのではないのでしょうか。
   と、思ったのですが、注釈の通り、全て縄文時代でしょう。




 13祭祀具 高千穂町陣内遺跡 縄文後期後葉~晩期中葉

    彫刻石棒や土偶。翡翠製の玉類等装身具。 十字形石器円盤状石器。 妊婦土偶

    縁辺に髯状の羽文を持ち、研磨された三角形の板状土製品。

    土器(西平式土器・三万田式土器・御領式土器)。 トチの実・鳥獣骨・魚骨 も出土。  引用陣内遺跡



 縄文人の精神文化
縄文人の精神文化の具体像を探ることは、容易なことではありません。
しかし、自然の恵みに大きく依存していた彼らが安定していた生活の中にも、時として襲ってくる飢えや病気を恐れていたことは確かです。
土偶や石棒などは、自然の力を恐れ、動植物(食料)の豊な成長を祈った祭りの道具(呪術具)と考えられています。

 縄文カレンダー
日本列島は四季の変化が著しく、狩猟・漁撈・採集といった自然の恵みに依存していた縄文人は、自然の移り変わりに対して正確な知識を持っていました。
春の若芽摘み、夏の漁撈、秋のドングリやクルミなどの木の実採り、冬の狩猟と、縄文人は一年間の生活設計を行い、四季の変化こそが縄文人のカレンダーそのものでした。

 土偶の分布地域
土偶は土を焼いた人形で、ほとんどが妊娠した女性を表しており、また、一部が壊された状態で発見されることが多いことから、
多産豊穣や傷病治癒を願うためのものと考えられています。

土偶は東日本に多く、西日本には少ないのですが、九州には意外に多くの土偶の出土が知られており、
特に、阿蘇外輪山を取り囲む地域に多いことが注目されます。

 幻の釣手土器
この土器片は、平成3年に陣内遺跡の整備工事に伴う調査で出土した土器片です。
関東地方で作っていた吊手土器や香炉形土器に似た土器だったと考えられます。

釣手土器や香炉形土器は、おまつりなど特別な時に使われた土器だと考えられていますが、はっきりとわかっていません。
お香のようなものを焚いていたのでしょうか。
土器の隙間や孔からは、白い煙があやしく立ち上がっていたのでしょうか。

陣内遺跡のこの釣手の一部と考えられるものが、果たしていくつ繋がっていたのかはわかりません。
想像図では4つ繋いでみました。もしかしたら2つか3つかだったのかもしれません。

 壊された土偶
土偶のほとんどは、バラバラに破壊して、場所をかまわず投げ捨てられた状態で発見されます。
土偶は豊かな収穫や生命の再生を願って作られたと考えられていますが、その収穫や再生の力を広い範囲に及ぼすために、
完成した土偶を破壊してばらまいたものと思われます。

亀ヶ岡式土偶=遮光器土偶 は 
この際関係なさそー
縄文人の精神文化自然崇拝と豊穣祈願
土偶・石棒は自然の力を畏怖し恵みの豊穣を祈る祭祀具
縄文カレンダー四季の恵みを味付けなしで食べ、命を繋ぐことに必死だった 土偶の分布地域九州の土偶は熊本県と周辺。熊本文化圏中心 豊穣の杖、石棒
豊穣招来の精霊、土偶
幻の釣り手土器
土偶
これが妊婦土偶か
壊された土偶農耕祭祀でないのに土偶を破壊し散布する意味は 彫刻石棒
これが縁辺に髯状の羽文を持ち、研磨された
三角形の板状土製品
ですね
宮崎県唯一の妊婦土偶 光が邪魔してよく見えん


 ・彫刻石棒三角板状土製品妊婦土偶 これらについての解説や研究が見当たらないので、私の感想を書きます。

  彫刻石棒
   北陸から始まってやがて西へと広まっていった。その途中で一度彫刻を落とし、ただの男根型石棒となっていた。
   熊本県地方には石棒や土偶が数多く出土し、高千穂陣内遺跡も熊本文化の影響とみられます。

   形状としては、彫刻の意味や模様こそ違うが、北陸の原形に立ち返ったような石棒と思えます。

   なぜ後期晩期に東日本の風習が突如広がったのかはわかりませんが、
   この時期、東北人が南下し、それに押し出されるかのように、北陸人が関西・中四国・九州まで大挙移動したからかも知れないと思います。


  三角形の板状土製品がどれだかわかりませんが、
   高千穂からは土偶は一体しか出ていないので、三角形に見えるのは上記しかありません。
   こんな形状のものは見たこともありませんね。一体なんでしょう。何やら模様といい、神の姿を現したのでしょうか。

   と、いえば、どこかで同じようなキャプションを付けたものを見たことがありました。どこだか覚えていない。けど。北海道?だと関係ない。


  土偶 (妊婦土偶) ライティングに問題があって撮れた写真からはほとんど情報が伝わってこなかった。
   高千穂町の写真の方がよく見えます。腹部に横筋の盛り上がりがあり、妊婦ならもっと下腹部全体が膨らんでいようものを、
   これをもって妊婦土偶と高千穂町では言い、そのほかでは、ただ土偶といっている。

   土偶も、熊本が九州のほとんどを出土しており、宮崎県ではこの一体だけです。
   阿蘇山周辺や、熊本の対岸あたりには本州地域と関連のある祭祀を持ち、しかし、それとは違ったニューウェーブな一団が暮らしたようだ。

      引用参照高千穂町の歴史(縄文時代)





 18縄文時代  陣内遺跡 縄文後・晩期の遺跡。

    県内唯一の土偶石棒
    石刀、打製石鎌、石斧、十字形石器、石匙、石錘・装身具などの石器
    三万田式・御領式に相当する、後・晩期の土器が出土

    熊本・大分の文化圏に属していました。 引用高千穂町の縄文時代


 石斧について
縄文時代の始め頃、斧の形をした石器が使われるようになります。先端が磨いてある局部磨製石斧、ドーナツのように丸い形をした環状石斧で、
木を切ったり、土を掘るために使われたと考えられています。

縄文時代後半になると、全体を磨いた磨製石斧や石を割って作った打製石斧が多く使われます。
磨製石斧は木を切るために使われ、打製石斧は芋などの根菜類を掘るための土堀具として使われたと考えられています。

 陣内遺跡
高千穂町大字三田井字車迫にある縄文時代後・晩期の遺跡で、1956、1960、1980の調査で、
県内唯一の土偶や石棒、、数例しかしない石刀をはじめ、打製石鎌や石斧、十字形石器、石匙、石錐、装身具などの石器や
三万田式・御領式に相当する後・晩期のの土器が多数出土した。

 セベット遺跡
高千穂神社南方の小高い丘陵にあります。昭和18年竪穴住居発見。
昭和58年、縄文晩期前半の竪穴住居一棟を発見し、土器・有舌尖頭・打製石鏃などが出土した。

 梅ノ木遺跡
県道緒方・高千穂線沿いの三田井尾谷地区にあり、昭和59年の調査で
縄文時代後期後半の西平式土器・磨消縄文系三万田式土器や晩期前半の突帯文土器と共に、偏平打製石斧・打製石鏃などが多数出土した。

また、弥生時代の竪穴住居跡も一棟見つかり、後期中頃の甕が出土した。この甕は五ヶ瀬川上流域や大分県の大野川上・中流域に分布するもので、工字突帯文が特徴です。


三万田式 三万田遺跡は宮崎市高岡町
短かく細い沈線が鳥の羽のよ. うに入る「羽状文」と呼ばれる文様
引用磨消縄文
御領式 御領貝塚は熊本市城南町。
黒色磨研土器です
その他に西平式土器
石匙,石鎌,打製石鏃
磨製石斧,石剣
石錐,有舌尖頭器
トロトロ石器※
打製石斧縄文初期から局部磨製石斧・環状石斧を使用
縄文後半には、磨製石斧・打製石斧を使用。
石斧について 陣内遺跡
陣内遺跡セベット遺跡
 高千穂神社南方の丘
 縄文晩期
 竪穴住居一棟
 土器・有舌尖頭器・
 打製石器出土
セベット・梅ノ木遺跡
梅ノ木遺跡
縄文後期後半 西平式土器・磨消縄文系三万田式や晩期前期の突帯文土器と、扁平打製石斧・打製石鏃出土。※  
磨製・打製石斧、石鏃
玉、石錐、黒色磨研土器
西平式土器

黒色磨研土器,西平式土器

石鏃 石錐
打製石斧
セベット遺跡出土品十字形石器、石匙、石棒磨製石斧、
黒色磨研土器
打製石鏃、削器、石錐
十字形石器 石匙
打製石鏃 削器 石錐
十字形(型)石器使途不明。説明不存 縄文の生活 梅ノ木遺跡
 弥生の竪穴住居1棟
 後期中葉の工字突帯文の甕が出土

 工字突帯文土器
弥生時代の山の民=縄文人の土器です


 トロトロ石器 縄文早期中葉の用途不明石器
   押型文土器に伴出する石器

8000年前の長野県大町市山の神遺跡からも出土。異形部分磨製石器

石鏃形だが、先端が丸く、1.8~9.2cm。材質は石鏃では、使われない青灰色のチャートが多い。
形が重視され、特定の色の石材だけで作られていることから、実用品ではなく、祭祀に関係する石器だとも言われています。
また、全体に表面が磨かれた光沢を帯び、まるで、固まった物が溶けて軟らかくなったようにも見えるため、「トロトロ石器」と呼ばれる。
   引用常盤の遺跡 – 長野県埋蔵文化財センター
   参照石器石材としての大川原産珪質岩 - 上野原縄文の森
   日本中から出土 種子島 静岡県 鹿児島県上野原 宮崎県日田市最終頁 新潟県小千谷市(東京国立博物館) 高知県文化財団

トロトロ石器は押型文土器(押し型文土器)を表象 (イメージ) する石器 引用西部押型紋土器文化圏への旅立ち -第二章-
と言っている。トロトロ石器が押型文土器に伴出するなら押し型文土器とは何か


 押し型文土器 縄文早期~前期 回転押型による尖底施文土器。
古いものは草創期の爪形文を継いだ、近畿地方の神宮寺式・大川式、中部地方の立野式。引用日本大百科全書

近畿発祥の押型文は、舟で東北地方に、東北からは沈線文土器が関東に、関東からは撚糸文土器が近畿に伝わった。(人が移動した)
西日本では、近畿中心に東は中部地方。西は北・中九州にまで広がった。  引用縄文土器の変遷 その3 - 縄文と古代文明を探求しよう!

このようにしてトロトロ石器が九州島にまで広く分布したのである。

  ※注意 上野原縄文の森では、
  「押型文土器は中部地方で発生し、東北地方南部から九州にいたる日本の東西へ分布圏を拡大した、超広域な土器型式である (中略)
  九州へ伝播した押型文土器は,本州では見られなかった平底の土器となって,しばらく存続」といっている

いずれにせよ、長野・新潟や宮崎県から同系統の土器・石器が出土したことは、そのような文化と祭祀を持った人々が日本中を移動した証である。

  ※静岡ではトロトロ石器を皮なめし道具としていました。あまり皮なめしを調べないひとの考えかと思いました。(笑)
    いずれにしても鏑矢のような不思議な石器。矢柄に付けて飛ばしてみたらどうでしょう。不思議な音がすれば祭祀具でしょう。

  しかし、ここでは、トロトロ石器が、縄文時代後・晩期の遺跡から出土しているのである。
  上の記述はなんの論証にも説明にもなっていない。
  時代を超越して存在するオーパーツと言うべきである。






  23弥生時代



紀元前2~3世紀~紀元3世紀までの凡そ5百年間を弥生時代といいます。(※紀元前10世紀から始まりました。)
この時代は狩猟・採集で生活していた旧石器・縄文時代と異なり、大陸から伝わった稲作技術を中心とした食料生産が始まりました。

ほぼ同時期に伝わってきた鉄・銅といった金属器の生産など新しい技術の導入により人々の日常の生活はもちろん、社会のしくみが根底から変革され、やがて地域社会は政治的に統合されてゆきます。



 稲作文化の来た道
紀元前3世紀頃、水稲稲作技術が金属器・磨製石器・織物の技術などと一緒に我が国に伝えられまず、北部杞憂州に根付きました。
(※稲作伝来は、もっと以前、金属器はもっとあとです。)
稲の伝わったルートはいくつか考えられますが、中国華南地方から朝鮮半島を経由する道が有力となっています。

 稲作のひろがり
まず、北部九州に定着した稲作技術は、その後急速に東に広がり、瞬く間に東海地方西部まで伝わりました。(※近畿地方東部です)
そして、紀元後1~2世紀頃には北海道や沖縄を除く全土に稲作農耕を基盤とする社会が成立しました。
宮崎には、前期の中頃、平野部に伝わりましたが、高千穂地方では中期の後半頃になるようです。

 弥生の道具(石包丁)
石包丁は弥生時代の穂刈具だと言われています。阿蘇山周辺や大野川上流域に転々とみられる石包丁は、いっけん稲のできそうもない地方にも、水稲稲作の文化が伝わったことを示すものかもしれません。
高津保地方でも、岩戸神社・高千穂高校・岩戸黒原・神殿・御塩井などの石放置用の出土が知られています。


  免田式土器
   熊本県を中心とする南九州に分布する
   免田式土器(重孤文土器)は熊襲の土器ともいわれるが、朝鮮式板積石室から発見される。


稲作文化
稲作文化の来た道
稲作のひろがり

朝鮮半島経由と判明
稲作の道具
弥生時代

稲耕作不適地に石鎌出土は、陸稲の栽培地かも
町内出土土器
壺形土器、工字突帯文 下城式、櫛描波状文
安国寺式の土器

壺形土器

壺形土器、
工字突帯文 下城式、
櫛描波状文 安国寺式

石包丁、石剣、
磨製石鏃、磨製石斧


 ムラとムラとの交流
弥生時代後期、高千穂では二つの特徴的な土器が知られててます。一つは、薄糸平遺跡などに見られる"工字"突帯甕で大分県大野川上流域のものとよく似ています。
もう一つは、"免田式"長頸壺(重弧文長頸壺)で、熊本県の阿蘇地方や人吉盆地などに同種の土器が分布しています。
ムラとムラ、更には地方と地方の交流をこれらの土器は教えてくれます。

  ムラとムラの交流
熊本文化と大分文化

高千穂は交通の要所。
全ての文化の通り道。
熊本文化-免田式土器
大分文化-工字突帯文
 
免田式土器
 
 工字突帯文
  

 薄糸平遺跡
1977年、国鉄高千穂線の延長工事により調査された。(現在全て廃線)
遺跡の性格ははっきりとはつかめませんでしたが、弥生時代後期を中心とした土器や石器が出土しています。

工字突帯甕や下城式甕から豊後地方と、黒髪式系の土器や免田式土器からは肥後地方との交流が想定されます。
また、落葉広葉樹の炭化材から当時の高千穂の気候が多少寒かったということなど、貴重な成果が得られました。

弥生土器の甕形土器 薄糸平遺跡

薄糸平遺跡山の民縄文人の突帯工字文土器
家の周りの垣根は
ほんとうか?
複合口縁壺、長頚壺、
壺形土器、甕形土器
複合口縁壺、長頚壺、
壺形土器、甕形土器
壺形土器
甕形土器甕型土器・壺型土器は焼成後に穿孔し、方形周溝墓への供献用
工字突帯文土器
 亀ヶ岡式土器の文様で縄文晩期に九州でも流行
 弥生時代になっては、

山の民(土着縄文人)の使用する土器となった。

平地の民(外来弥生人)は免田式を使っていたよう
弥生の縄文人
日向 (宮崎) では-5世紀の弥生から+5世紀の千年たっても
 山の民縄文人が存在し平地の民弥生人とも、古墳人とも交わらない、大きく三種類か四種類かの身分に分かれた人々がいたようだ
高千穂の薄糸平遺跡は縄文人が山の民として居住していたことを証明している。
 つまり高千穂は縄文人と深い結びつきがあった




  31古墳時代



弥生時代後期に各地で地域的な統合が進み、その首長の墓として地域色豊かな墳丘墓が出現しました。
3世紀後半になると、これら墳丘墓を母体として、画一的で巨大な前方後円墳が、 西日本各地に造られました。この地域の有力者層の間に、
畿内を中心とした連合体が形成されたためと考えられています。

前方後円墳が作られた3世紀後半から6世紀までを古墳時代と言います。
7世紀になると前方後円墳が姿を消し、古代国家が成立します。

 古墳の出現と展開
3世紀後半、西日本各地に出現した古墳は瀬戸内海地方を中心に分布しており、九州では大分県の赤塚古墳や福岡県の石塚古墳がその代表的なものです。次の時期になると、古墳の分布は急速に拡大し、
4世紀後半には東北地方南部から南九州にまで展開するようになります。

宮崎県では4世紀後半に位置づけられる西都原13号墳が一番古く、この時期までには宮崎県南部の首長層も、畿内を中心とした政権に加わったことを示しています。
高千穂ではこの時代の様子は、6世紀にならないとわかりません。

 横穴墓
宮崎県では高千穂地方にしか見られない特殊な形をした横穴墓があります。
今狩・河内・吾平原・北平・南平55-1・2号横穴墓がそれで、玄室に屍床をもち、石枕を造り付けるといった特徴が見られます。
この特徴を肥後型といい古墳時代6世紀の高千穂と肥後地方の交流を物語っています。

古墳時代 横穴墓からの出土品
武器と男物装身具
鉄剣 鉄鏃 鉄斧 刀子土器は葬送儀礼に使われたもののようだ 須恵器 玉類このような観点から
被葬者は男性の武人
古墳の出現と展開 横穴墓横穴墓は高句麗人傭兵の将軍クラスの墓だろうと聞いている
刀子 鉄剣 鉄環 耳環 切子玉、小玉 須恵器 直刀 子持勾玉or異形勾玉龍を


 馬具について
  馬具の名称と具体的な機能についての記述はこの館だけです。貴重です。

 一本木横穴墓
一本木横穴墓は吾平原横穴墓群に属しており、しようわ32年の台風被害で発見・調査された。
この横穴墓は玄室の両側に一段高い屍床を造りだし、石枕を持っています。
玄室の大きさは、奥行き2.2m幅3m高さ1.15mで、南東側の屍床で人骨一体と、鉄刀1・鐘形杏葉4・雲珠4・飾り金具2が出土した。
鐘形杏葉は、県内でも持田古墳群で出土しているだけの珍しいものです。
この古墳は副葬品から6世紀後半に造られたと考えられます。

 馬具について
一本木横穴墓

吉野ヶ里では終末期に僅かな馬具が出土する。交易で入手したようだ。

半島から小型馬を大量に投入し、電撃的な征服をもくろんだ軍団だった?

鉄製武器と鎧。大量の軍船と兵士。 

ここにはもう縄文人は奴隷として消え、
半島からの移住者とそれを征服しようとする、 

半島人同士の戦争。
朝鮮半島での戦乱を列島にまで持ち込まれただけの話だった 
 
征服者は朝鮮半島と同じように華麗な装飾の馬に乗って練り歩いたようだ。

 西都原考古博物館では
  今は廃れた騎馬軍団征服説を紹介している。だが、出土する馬具は百済・新羅製で、これらの国が列島を征服したようだ。
  では三足烏はどこから?

 八咫烏(やたがらす)は三本足の烏のことで高句麗の紋章。
 記紀に書かれた第二次大和政権の東進の神でした。彼らは何処の何者だったのでしょう




  41民俗 



  二重口縁壺 口の部分に二重の段が作られた壺の口の部分です。櫛のような道具で波状の文様を付けています

 複合口縁壺
(弥生時代後期:河内奥鶴遺跡出土)
長めの二重口縁に櫛描波状文を2段に施し、胴部最大径に1条の断面方形の突帯を巡らせている。胴部は細長の卵倒形で、丸底の底部を呈している。
大野川流域に見られる土器と類似しており、祖母傾山系北麓との関係を知る貴重な資料である。

複合口縁壺
パーツを作り生乾きで貼り合せ、
装飾を施した。
甕棺。円孔がある
弥生後期~古墳初期

能登半島羽咋市でも円窓付き土器として大量に発見されている

高千穂のものは形状がよく発達している
複合口縁壺

複合口縁⇔二重口縁壺
祭祀具などに使

複合口縁と二重口縁について  引用Yahoo知恵袋 丸写ししています。


 弥生土器などで、「複合口縁壺」と「二重口縁壺」という語が出てきます。 が、この二つを分ける明確な違いが、よくわかりません。
 それぞれの形状を判別する注目点や、地域性などを教えてください!


 ご質問の件、混乱されるのはよくわかります。

 実は、その2つの用語に対して研究者間で何を二重口縁とし、何を複合口縁とするのか用語の統一をしていないのです。
 ですから、瀬戸内周辺で複合口縁と呼んでいる土器と、関東地方で複合口縁と呼んでいる土器は特徴が全然違います。

 瀬戸内周辺での複合口縁とは、後述する二重口縁の作り方に近く、粘土の積み上げを口縁端部で急激に変化させたものです。
 グーグルで「複合口縁」と検索し、263というPDFファイルを見てください。
 図版から具体的な作り方がわかるかと思います。

 一方、関東地方における複合口縁という用語はもっと混乱しています。
 お手数ではございますが、まず市原市埋文報告・年報・紀要にて「市原市長平台遺跡」のPDFを開いてください。

 多くの研究者は、この長平台遺跡の第96図5の壺の口縁を複合口縁とすることが多いかと思います。
 つまり、口縁端部に粘土紐をさらに張り合わせて厚みを持たせたものですね。
 一方、第96図6のような口縁を立ち上がらせたものを複合口縁とし、第96図5を折り返し口縁と呼ぶ研究者もいます。

 二重口縁壺については、ほとんどの研究者が同じく長平台遺跡の第105図1
  (もうちょっと良い例があるかもしれませんが、すぐに思いつきませんでした。すみません) のようなものを想定していると思います。

 ですので、複合口縁ほどの混乱はないと思います。
 作り方の特徴としては、粘土を積み上げていく段階で急激な屈曲部を二ヵ所作ることにあります。
 時代的な特徴としては、この二重口縁を持つ壺は前方後円墳出現以後に墳墓などで多数出土するようになったため、古墳祭祀との関連性が
 指摘されています。


 高千穂地方の民俗 えりもの(彫り物)
  高度な紙切り細工です。


高千穂夜神楽彫り物
(えりもの)

神庭の注連に飾られている切り紙が「彫物」です
木火土金水などの文字や干支、鳥居などの絵柄が刻まれています。これもまた、祭りに合わせて里人たちが手作業で作り上げます。 彫物 夜神楽面 彫り物の型紙


 博物館外

  箱式石棺は、弥生以降の遺跡によくある。私の現住地にも山の斜面全体に累々と横たわっている。朱塗りや装飾が見えるものもある。

箱式石棺は、千枚岩や自然の板石を組み合わせて、箱状の空間を作り出す墓制で、弥生時代~古墳時代まで(約2300~1400年前)用いられた。
子の石棺は昭和62年8月河内奥鶴の丸山古墳群で発見された2号石棺で、5~6世紀の頃に造られたものと推定されます。

箱式石棺 弥生古墳の一般的墓。
もっと低身分は土壙墓
石の内側に朱塗り装飾
大型台湾プユマ族
(卑南族Pyuma族)の棺