西日本の縄文44 2019.8.2-1
島根県埋蔵文化財センター 島根県松江市 島根県松江市打出町33 0852-36-8608土日祝休・撮影可
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目次
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10外観
12入口展示
13土層剥ぎ取り標本
14縄文時代の配石墓
15出雲大社 巨大宇豆柱
16荒神谷遺跡
17加茂岩倉遺跡
20展示室
入口展示
20a隅っこの年表
22bたたら製鉄可動模型
21たたら製鉄
鉄生産の流れ
22近世たたら製鉄の背景
展示1
埋文センターの業務
展示2
50常設展示
51庵寺古墳群
52庵寺古墳群はどんな遺跡?
53弥生時代の高台のムラ
54石見地方屈指の大古墳群を発見
55バラエティに富む形や棺
56副葬品は語る
古墳と古墳時代
57仁万平野の歴史と庵寺古墳群
出土物の館内展示
59庵寺古墳群出土物
60山持遺跡
62山持遺跡と出雲平野の変遷
64土層は語る
65弥生時代・古墳時代の山持遺跡
弥生時代後期の祭祀場
弥生時代後期の居住域の辺縁部
新たなムラの始まり
山持遺跡の中枢区
山持遺跡の終焉
66弥生時代・古墳時代の遺構
67環日本海の時代
山持遺跡をめぐる対外交流
68弥生時代・古墳時代の遺物
多彩な木製品とその未成品
69玉・水銀朱 |
70古代の山持遺跡
71大型の道路遺構と文字資料
72道路遺構周辺出土遺物
73条里と水田、畠
湿地と巨大卒塔婆群
山持遺跡が語る地域の歴史
弥生~近世
80山持遺跡出土物
83山持遺跡の玉作工房
84交流を示す土器
弥生・古墳時代
85出雲の土器
北部九州系~西部瀬戸内系土器
87交流を示す土器
日本海東部・西部・朝鮮半島
100四隅突出型墳丘墓
101王墓の出現
成立・祭祀・交流
102四隅突出型墳丘墓徹底解剖
墓上祭祀復元
103四隅突出期の土器
古墳時代
105前方後円墳と円墳の登場
古墳分布
106埴輪・副葬品
120古墳文化の新しい動き
121 前方後方墳
122古曽志大谷1号墳と前方後方墳
考察 前方後方墳
125肥後型 横穴式石室
126めんぐろ古墳と
横穴式石室の出現
127資料 肥後型石室
128大甕 屍床
考察
九州の墓制や埋葬方法の浸透
古 代
140古代の山持遺跡
山持遺跡の木簡
143道路状遺構周辺出土
145道路状遺構周辺で出土
147木簡 道路状遺構周辺出土
160島根県の主な遺跡
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展示3
200旧石器時代
202旧石器時代の地域色と交流
203堀田上遺跡の石器
204原田遺跡の石器
210縄文時代
210三瓶山の形成
211三瓶山と火山灰
住まいとお墓
212土器の移り変わり
213縄文早期
214前期・中期
215後期・晩期
216石器・骨角器等
217土器
資料 飯南町 板屋Ⅲ遺跡
下山遺跡の出土物
218下山遺跡の屈折像土偶
219活発な交流の証
感想 縄文人の広範な遊動
220弥生時代
考察
西日本における稲作渡来民の遊動
221弥生ムラ誕生
古浦砂丘遺跡の人骨
222西川津遺跡
タテチョウ遺跡の土笛
223弥生土器の移り変わり
230西川津遺跡
232松江平野の変遷
西川津遺跡の変遷
233縄文時代の道具
234弥生時代の西川津遺跡
235弥生時代前期
遺跡の生産物
236弥生時代中期
生産と祭祀
237弥生時代後期
238西川津の弥生集落 |
古墳時代~古代
239その後の西川津遺跡
中世・近世
その後の西河津遺跡
250古墳時代
251前期の古墳分布
中小首長の墳墓
252出雲は日本最大の玉生産地
253華麗な横穴墓の世界
254玉製品
256前期の土器
257中期・後期の土器
258須恵器
270奈良・平安時代
272土器の移り変わり
275役所に関係する遺物
276寺院・祭祀に関係する遺物
290平安後期・室町時代
293各地の土器
294平安後期~鎌倉の土器
295食膳具食器
296中世の湿地跡から発見された
巨大卒塔婆群
300縄文時代の棺
302古屋敷遺跡遺跡
303縄文時代
306弥生時代
309現地説明会資料
311弥生時代の食物
330土層・大甕
350江戸時代
富田城跡・富田川河床遺跡
352江戸時代の陶器・日用品
353富田城跡・富田川河床遺跡
古代しまね
~いにしえのしらべ~
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10外観
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12入口展示
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13土層剥ぎ取り標本 中野美保遺跡 弥生中期 四隅突出型墳丘墓 島根県出雲市中野町660
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14縄文時代の配石墓 飯石郡飯南町 貝谷遺跡 飯南町の遺跡
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貝谷遺跡は志津見ダム建設に伴い1999-2001年に発掘調査を行う。
遺跡からは、縄文時代後期(約4000年前)の竪穴住居跡2棟、土坑(素掘りの穴)11基等が見つかりました。
この剥ぎ取り模型は、その土坑の一つです。長さ1.5m幅1.1mの長方形の土坑の側面に沿って、大きな角礫が並べられています。
形や大きさから、縄文時代の配石墓と考えられます。
貝谷遺跡では縄文時代の竪穴住居跡と墓がセットで見つかっており、当時の景観を復元できる貴重な資料です。 |
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15出雲大社 巨大宇豆柱(うずばしら)
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16荒神谷遺跡
荒神谷遺跡
銅剣・銅矛の出土
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銅剣・銅矛発掘 |
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17加茂岩倉遺跡
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※銅鐸は、初期は各地で製作され、後に大阪で作られ、初期は石製鋳型で、のちに土製鋳型でした。これらの銅鐸はどこで作られたたのでしょう。
紐に人面の落書きをできるほど、ファンキーな祭祀具だったのでしょうか。それとも、誰か、特定の個人を敬うための落書きだったのでしょうか。
いずれにしても鋳型製作者は、砂で鋳型を作った後に描いています。確信犯ですね。 |
銅鐸出土状況模型 |
加茂岩倉遺跡銅鐸出土状況模型 |
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加茂岩倉遺跡遠景 |
発掘時写真 |
一括写真 |
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加茂岩倉遺跡 - Wikipedia 加茂岩倉遺跡|観る|うんなん旅ネット【島根県雲南市の観光サイト】 加茂岩倉遺跡ガイダンス 加茂岩倉遺跡 | 雲南市ホームページ
島根県:加茂岩倉遺跡・荒神谷遺跡(トップ / くらし / 文化・スポーツ ... 加茂岩倉遺跡 - 山陰観光
荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡見学
こんな山中から!?考古学の常識を覆した島根・加茂岩倉遺跡 | 島根 ...
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20展示室
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入口展示
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20a隅に追いやられた年表
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入口展示も、展示室入口にも、かなり多額の費用を投入した展示物が、ぎっしりです。年表の前にも物が置かれ、よく見えません。残念です。 |
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22bたたら製鉄の可動模型
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室内は雑然としていますが、↓の展示物はたたら製鉄の精巧な模型です。小さいですが。
照明の反射で光り、下手な写真でよく見えませんが、スイッチONで、建物が真ん中から両側に開き、中で動く人や炎、などが精巧に動きます。
夏休みの工作にこれを真似て作ると、きっと、県段階くらいまで出品されて、優秀賞くらいはもらえると思います。よ。 |
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21たたら製鉄
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島根県は江戸時代後半から明治時代初めにかけて国内で最も盛んに鉄生産が行われた地域です。
「たたら」と呼ばれたその生産技術は、土で築いた箱形製鉄炉の中で、木炭を燃料として砂鉄を溶かし、鉄を作る日本固有の製鉄法です。
祖形となった製鉄炉は古代に遡りますが、製鉄炉や防湿施設である地下構造などに様々な技術改良が積み重ねられて大形化し、完成された姿が「たたら」製鉄であるといえるでしょう。
鉄の生産は、➀原料から鉄を生産する製鉄、
鉄の生産は、②鉄の成分調整を行い鉄素材を作る精錬鍛冶(大鍛冶)
鉄の生産は、③鉄素材を加工して道具を作る鍛錬鍛冶(小鍛冶)など、、いくつかの工程に分かれます。
タタラ山第1遺跡は室町時代の製鉄炉で、砂鉄を原料として鋼や銑鉄など硬さや粘りの違う多様な鉄が生産されていたことがわかっています。
また、中原遺跡は江戸時代の大鍛冶場跡で、たたらで生産された銑(ずく=銑鉄)・歩鉧(ぶげら=不純物の多い鋼)の成分を調整し鉄素材となる
包丁鉄を作っていたことが明らかになりました。
※包丁鉄は、脱炭をさらに進め、低炭素の柔らかい出荷用鉄素材のこと。
※鉄の炭素量が多い=粗悪製品。固くもろい。 低炭素=脱炭を行った製品。柔らかい。粘りがある。 |
県内の土層剥取標本
7~8万年前から |
島根県の製鉄遺跡 |
島根県の製鉄遺跡 |
たたら製鉄
上に記述 |
鉄生産の流れ
下に記述 |
大槙鈩跡1号炉の
地下構造
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鉄生産の流れ
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製鉄(製錬)
木炭と砂鉄を製鉄炉で
溶かし鉄を作ります。
高殿たたら
製鉄炉
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➡ |
精錬鍛冶
精錬された鉄の成分を
調整し鉄素材を作ります。
大鍛冶場
下げ場・本場(鍛冶炉)
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➡ |
鍛錬鍛冶
鉄素材を赤熱と打撃加工で
道具を作ります。
小鍛冶 |
たたら製鉄で粗鋼を生産 |
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赤熱で脱炭、鍛錬で不純物を絞り出し、精錬(高純度化)する |
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高純度化した原素材で鉄製品(道具)を作る |
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22近世たたら製鉄の背景
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たたら製鉄の祖形となった古代の製鉄炉は、吉備地方(現:岡山県・広島県東部)を中心に分布していました。
これに大きな変化が起きるのは平安時代の終り頃のことで、磁鉄鉱に富む砂鉄が多く産出する島根県や広島県西部がその中心となります。
特に島根県は中世の製鉄遺跡が多いのが特徴で、調査された遺跡の約7割が集中しています。
新たに鉄生産の中心地となった島根県から広島県西部地域では、製鉄炉の地下構造を大型化・複雑化し、製鉄炉の保温性・防湿性を高めることで、その大型化を果たしたました。また、大型製鉄炉で生産される多様な性質を持った鉄の成分調整が行えるよう精錬鍛冶炉が登場しました。
これらはいずれも近世たたらへとつながるものであり、中世の中国山地で行われた不断の技術改良が生み出した製鉄技術が「たたら」であるといえます。 |
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タタラ山第1遺跡製鉄炉の地下構造 |
本床状遺構の底面には炉壁が敷かれ、
その両側に小舟状遺構がある。 |
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近世たたら製鉄の背景
上に記述 |
製鉄関連遺跡分布図
古墳時代~平安前半
平安後半~室町時代
江戸時代~大正時代 |
古墳~平安時代前半
兵庫西部-岡山東部
岡山南部
広島-島根 |
平安後期~室町時代
島根県南部山間部
広島県 |
江戸~大正時代
島根県南部山間部
広島県北部 |
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展示1 埋文センターの業務
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23埋蔵文化財センター業務の説明展示
埋蔵文化財とは
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島根県は豊かな自然に恵まれ、古代からの特色ある文化財が数多くあります。 |
埋蔵文化財とは |
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埋蔵文化財 |
建設工事設計図 |
遺跡の発掘手順 |
遺跡の発掘手順 |
①予備調査
②トレンチ調査 |
③表土剥ぎ取り
④遺構・遺物の撮影 |
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25七つ道具
測量機材 |
カメラ・トランシット |
道具箱 |
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野道具 |
記録用具 |
石垣の黒くの様子 |
作図用具 |
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27整理報告の手順
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①水洗
②実測・トレース |
③注記 ④撮影 |
⑤復元・接合
⑥原稿執筆 |
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41埋文救命室 ~瀕死の文化財を救え~
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1.洗浄 1.事前調査 |
2.PEG含浸 2.クリーニング、脱脂、脱塩
3.水洗 3.樹脂含浸 |
4.接合、復元
5.無事退院 |
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43埋文センターヒストリー
センター設立以前 |
センター設立後 |
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45埋蔵文化財調査の進め方
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埋蔵文化財調査の進め方
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埋文センターヒストリー |
1992~1993 |
1994~1995 |
1996 |
1996 |
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47
201-1999
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2001 |
2000 |
2000 |
1999 |
1997-1998 |
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50常設展示コーナー 展示2
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庵寺古墳群をパンフレットで紹介します。 出雲国の西、石見国の遺跡です。弥生時代の高地性集落で、後に古墳造りが行われました。
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初めに、
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庵寺古墳群については、あとの58~の掲載する展示でしたが、当館が出版するパンフレット型遺跡案内には大変重要な史実が記されていました。
もしこれに出会っていなかったら、ただなんでもない遺跡の一つとして記憶しなかったでしょうし場所も見なかったでしょう。
島根県では、遺跡の多くが東部の出雲地域に偏っていて、西部の石見地方が知られるのは、中世以降の石見銀山でした。
ところがここに、弥生後期の船乗りのムラ、高地性集落とその後の古墳群の築造。他地域の葬送文化を採り入れた墳墓群。が見えてきました。
石見地域には遺跡が乏しいと考えていたのは間違いでした。この事実に出会うことができたことに感謝するとともに、これを転載して、御覧の皆様に
その事実を伝えることをお許しいただきたいと思います。
転載 「庵寺古墳群. 日本海を望む高台のムラと古墳」 島根県教育庁埋蔵文化財調査センター
「シリーズ島根の遺跡発掘調査パンフレット」は、発掘調査を行った島根県内の遺跡について最新の調.査成果を明快に紹介するものです。 |
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51庵寺古墳群 島根県大田市仁摩町大国 引用転載庵寺古墳群
日本海を望む高台のムラと古墳
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52庵寺古墳群はどんな遺跡?
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庵寺古墳群は、島根県太田市仁摩大国で見つかった遺跡です。井堰のある場所の道路工事で平成20-24(2008-2012)に発掘調査が行われた。
発掘調査では、標高60-80mの小高い山の上で、今から約1700-1300年前の古墳時代に作られた古墳24基や、更に時代を遡った約2000年前の弥生時代のムラの跡が発見されました。 |
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庵寺古墳群の位置
石見銀山の手前にある
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山上の古墳群と麓に広がる遺跡群 |
航空写真
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庵寺古墳群 |
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53弥生時代の高台のムラ
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発掘調査では、今から約2000年前の弥生時代後期のムラ跡が見つかりました。
急な山の斜面を造成して、小さな平坦地(加工段)を幾つも造り出し、そこに竪穴建物や掘立柱建物を建て、住まいや倉庫としました。
この高台のムラの眺望は大変良く、眼下に広がる平野はもちろん、遠くは日本海の沖までを一望できます。この立地から、このムラは見張り場のような役割を持っていたと想像できます。
しかし、僅かな期間でこのムラの営みは途絶え、古墳時代に入ると、次々と古墳がつくられる墓域へと姿を変えたのです。 |
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竪穴建物跡 |
土器出土 |
弥生土器 |
柱跡のない加工段 |
掘立柱建物跡の加工段 |
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54石見地方屈指の大古墳群を発見
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庵寺古墳群では、山の尾根筋において、
約1700年~1500年前の古墳時代前期~中期に造られた古墳19と、
約1400年~1300年前の古墳時代後期~終末期の古墳5基がみつかりました。
石見地方東部においては屈指の規模を誇る大古墳群です。庵寺古墳群の大きな特徴の一つは、丘の上の狭い範囲に、それぞれが個性的で、バラエティに富んだ古墳が集まって作られていることです。
古墳の形も様々ならば、遺体を納めた棺の形も様々。この理由を探ってみると、はるか昔、庵寺古墳群に葬られた人々が西へ東へ、日本海を舞台に活躍した壮大なストーリーが浮かび上がってくるのです。 |
古墳造りは計画的に?
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古墳の築造順を検討した結果、古墳時代前期(4世紀半ば)にまず北側丘陵部において古墳造りを始めたことが分かりました。その後、尾根上までの約150年間続きました。
古墳時代後期に入った頃、一旦途絶えますが、古墳時代の終わり頃(6世紀末~7世紀初)には再び墓作りが再開されました。 |
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尾根筋に古墳が並ぶ北側丘陵部
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西側・南側丘陵部の古墳配置図 |
古墳造りは計画的に? |
庵寺古墳群の築造順 |
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55バラエティに富む形や棺
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庵寺古墳群で見つかった古墳は、形が明らかになったものは、葺石や埴輪などがない10m前後の比較的小さな方墳か円墳でした。
遺体を納めた棺は、木製の板材を組み合わせた箱型の木棺や、これを丁寧にまねて作られた石製の棺、丸太を刳り抜いた3mを超える長大な木棺、
復元すると1m近くある大型の壺を用いた土器棺など、大きさも構造も材質もバラエティに富む内容でした。この古墳群の大きな特徴です。
また、棺の底に円礫を敷く構造の箱式石棺は、島根半島沿岸部等の小型古墳からなる古墳群で類例が多く見られることから、当時、遠く離れた地域の葬送の習俗がこの地に伝えられたものと考えられます。
※船で日本海航路を航海した船乗りの村だったのか。 |
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上に記述 |
古墳一覧表
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22号墳 |
割竹形木棺 丸太を刳り抜いた3mの木棺
古墳群中最長 |
9号墳 |
箱式木棺 古墳群最初の墓。板材を組み合わせ、内側は朱塗り |
1-B号墳 |
石棺、組み合わせ式木棺を真似た島根県内唯一の石棺 |
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9号墳 |
土器棺:9号墳第3主体部 墳頂に木棺墓2基と並んで土坑に横倒しになった壺形土器。
壺の口は木製蓋などがっあったと思われる。 |
1A号墳 |
横穴式石室
※棺がなく直葬したのかも |
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56副葬品は語る
被葬者ゆかりの品
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埋葬にあたって死者が生前身に着けていた装飾品や日用品、時には弔いの儀式に用いた道具が棺に添えられることがありました。
庵寺古墳群では、11の埋葬施設から、中国製の青銅鏡をはじめ、鉄器、玉類、土器等が見つかりました。 |
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被葬者ゆかりの品
上に記述 |
中国鏡と碧玉製管玉 |
1-B号墳棺内から出土した青銅鏡(八禽鏡)と碧玉製管玉
青銅鏡は背面の図柄から紀元前1世紀頃、漢代の中国製で、九州北部等を経由して庵寺古墳群の被葬者が入手したと考えられます。
わざと壊されて遺体の頭の脇に副葬されていました。直径9.6cm |
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17号墳
滑石製印玉
5号・15号墳
ガラス製小玉
23号墳
滑石製勾玉 |
土器枕 |
4号墳第2石棺内出土の土器枕に使われた器台形土器
頭が置けるようにわざと土器の一部を欠いている |
わざと壊した?折り曲げた?
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副葬された鉄器には、剣や鏃などの武器の他、鎌や刀子(小型ナイフ)といった農具や工具がありました。注目されるのは副葬の際にわざと折り曲げたものが多かったこと。類例は松江市・鳥取市・京都府北部等の日本海沿岸の古墳群で見つかっています。
また、土器を枕に使う例は鳥取県東部で見つかっています。こうしたことから、庵寺古墳群の被葬者は、生前これらの地域の有力者と何らかの交流を持っていたと考えられます。(※葬儀の作法の共通化が図られたということでしょうか。) |
わざと壊した?折り曲げた?
上に記述 |
庵寺古墳群出土品
鉄器にはわざと折り曲げたものがある |
古墳と古墳時代
下に記述 |
古墳と古墳時代
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3世紀後半から7世紀前半までの約400年間は日本列島の各地で沢山の古墳が造られたことから古墳時代と呼ばれます。
古墳は濠や溝に囲まれていて、葺石や埴輪などの外表施設を持った盛土(墳丘)内に、石室の埋葬施設を設け、様々な副葬品と共に死者を手厚く埋葬した墓です。
この400年間は、埋葬施設や副葬品、古墳の形の変化を目安に、前期・中期・後期・終末期と区分して時期や地域ごとの特徴を比較することが出来ます。 |
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57仁万平野の歴史と庵寺古墳群
庵寺古墳群は弥生時代後期の集落跡に古墳を築いた。弥生後期に高地性集落が発達したのは、度重なる海賊行為から逃れるためでしょう。
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庵寺古墳群の調査により、弥生時代後期のムラの跡が見つかりました。でもなぜ生活に不便な山の上でムラが営まれたのでしょうか?
この答えを探るのは簡単ではありませんが、仁万平野周辺では他にも安養寺古墳群(17)でも庵寺古墳群の弥生のムラと同じ時期の竪穴建物が見つかっています。さらに石見地域の沿岸部でも同じ時期のムラが山の上や高台でいくつか見つかっていることから、この時期に広い範囲で、平野部を見下ろす丘陵上の開発が始まった様子が明らかとなりました。※
また、庵寺古墳群では、古墳時代前期~終末期にかけての古墳が24基も発見されました。これらの古墳のうち
古墳時代前~中期のものは小型の方墳が多く、木棺や石棺、土器棺などバラエティに富んだ埋葬施設を持ち、少量の副葬品を納め、尾根筋に階段状に連続して築造されたという特徴があります。一方、
古墳時代後期後半になると、尾根筋の最高所に横穴式石室をもち、多数の副葬品を治めた1-A号墳が単独で築造され、仁万平野一帯を治めた首長の存在も伺えます。
仁万平野周辺では、他にも安養寺古墳群や楡ノ木谷横穴墓群(15)、大規模な横穴式石室や家形石棺を持つ明神古墳(34)などの多数の古墳が知られており、庵寺古墳群との関連が注目されます。この他、清石遺跡(12)では古墳時代中期の土器が多数出土しており、平野部には庵寺古墳群に埋葬された人物が暮らした集落があった可能性も浮かび上がってきました。
庵寺古墳群や今後の発掘調査によって、古代における仁万平野一帯の歴史がますます明らかになっていくことを期待したいと思います。 |
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出土物の館内展示
59庵寺古墳群
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庵寺古墳群は、石見地方屈指の大古墳群です。
前期・中期古墳(約1700~1500年前)19基、後期古墳(約1400~1300年前)5基の、合計24基で構成されています。
庵寺1号墳は前期古墳(1-B号墳)の上に、後期古墳(1-A号墳)が造られた珍しい古墳です。
前期1-B号墳は、一辺12mの方墳で、箱式石棺など3つの埋葬施設(主体部)があり、そのうち箱式石棺内からは、鏡や管玉が副葬されていました。
後期1-A号墳は、直径15mの円墳で、横穴式石室が作られていました。石室の奥には土器や刀などの鉄製品が副葬されていました。
※前期と後期の副葬品の違いがよくわかる。 |
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古い古墳の上に築かれた横穴式石室
庵寺1号墳 大田市仁摩町大国
庵寺古墳群
庵寺古墳群と仁摩のトンボ 邪馬台国と大和朝廷を推理する
庵寺古墳群Ⅱ・大迫ツリ遺跡・小釜野遺跡 - 全国遺跡報告総覧 大田市・庵寺古墳群 古墳時代前期の古墳が13基見つかる |
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庵寺古墳群 |
庵寺1号墳
古い古墳の上に築かれた横穴式石室 |
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1-A号墳出土品 |
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鏃・刀子 耳環
管玉(消失)・小玉・刀・剣 |
須恵器・耳環
A-1出土 |
1-B号墳出土品 管玉・鏡(消滅) |
管玉 |
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山持遺跡パンフレットで紹介します。 出雲国の西端、の遺跡です。出雲の中心部の地学的形成や、独特な遺跡の消長が興味深い。
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60山持遺跡 転載「山持遺跡」(ざんもち) 島根県教育庁埋蔵文化財調査センター
「シリーズしまねの遺跡発掘調査パンフレット」は、
発掘調査を行った島根県内の遺跡について最新の調. 査成果をわかりやすく紹介するものです。
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61山持遺跡の位置と環境
遺跡の概要
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山持遺跡(島根県出雲市西林木町、矢尾町、日下町)は出雲平野の北、北山山系の南麓にあります。遺跡は、斐伊川の流れによって形成された自然堤防の上にあり、その範囲は、南北約0.5km東西2kmに広がると考えられます。
発掘調査では、縄文時代から江戸時代までの遺構や遺物が発見されており、ここが縄文時代以来、人々の暮らしの場として開発され、様々な形で利用されてきた様子が窺えます。中でも、弥生時代と古墳時代には、沢山の人々が居住する大規模な集落が営まれました。
また、平安時代には、大規模な土木工事によって築かれた道路が敷かれており、人々が行き来する主要道路があったと考えられています。 |
出雲平野の弥生時代遺跡
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縄文時代後期~晩期、出雲平野を貫流する神戸川と斐伊川は、上流から下流へと大量の土砂や三瓶山の火山噴出物を押し流しました。これらは下流に広がっていた湿地や内湾を埋め、出雲平野が形成されました。
出雲平野で発見されている大規模な弥生時代集落の多くは、斐伊川と神戸川の河川堆積物の上に形成された自然堤防を利用して営まれています。
また、弥生時代の斐伊川の本流は西流し、日本海につながる内湾へと注いでいました。こうした環境のもと、山持遺跡には人々が暮らし始め、やがて大規模な弥生集落が営まれるようになりました。 |
※弥生時代の斐伊川は宍道湖には流れていず、日本海へ直接流れていました。
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62山持遺跡と出雲平野の変遷
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ここでは、過去2万年間の出雲平野の変遷と、どのような場所に山持遺跡があったかを説明します。 |
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旧石器時代
2万年前 |
この時代は最終氷期にあたります。
海面は現在よりも約140m低かったと考えられています。
海岸線は大きく後退し、隠岐へと続く陸橋がありました。
出雲平野の東西には東西へ延びる谷があり、西へ向かって川が流れていました。 |
縄文時代前期
約6千年前 |
約1万年前から始まった温暖化により海面は上昇し、大社湾から東へ向かって古宍道碗が形成されました。
この時代には鹿児島県の南の海中で噴火した鬼界カルデラの噴火によって「アカホヤ火山灰」が出雲平野にも降下しました。 |
弥生時代~奈良時代
約2000~1300年前 |
縄文海進は縄文時代後期(約3500年前)には海退へと移り、
弥生時代や古墳時代には斐伊川や神戸川によって運ばれた土砂が次第に堆積し、陸地が広がります。
奈良時代には小海進によって神門水海が広がりました。 |
現在の出雲平野 |
神門水海へ注いでいた斐伊川は、寛永16年(1639) の洪水以降は東へと流れを変え、直接宍道湖に流れるようになります。
そして17世紀以降盛んに行われた鉄穴流しによって大量の土砂が斐伊川に流れ、三角州を成長させ宍道湖西部は急速に平野化していき、現在の出雲平野ができてきました。
斐伊川は氾濫のたびに流路を変えましたが、流路に沿って微高地ができ、集落を営む場もできました。 |
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63山持遺跡の調査歴
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山持遺跡の発見は、昭和37(1962)年に郷土史家によって土器が採集されたことに遡ります。(以降略) |
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山持遺跡調査歴 |
山持遺跡調査区配置図 |
第1次調査 1980 学校建設
中略
第12次調査 2010 道路建設
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64土層は語る
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遺跡に堆積した土や砂礫には、その場所が過去にどのような環境にあったのか、どのような災害に見舞われたのか、また、人々がどのように土地を開発してきたのかといったことを知る手掛かりが残されていることがあります。
平成14(2000)年~平成22(2010)年まで島根県教育委員会が行った山持遺跡の発掘調査では、東西1kmに及んだ長い調査区の全てにおいて、
古代~中世の厚い腐食土層が確認され、この時期、一帯には広い湿地が広がっていたことが分かります。また、
江戸時代に斐伊川の洪水が何度も押し寄せた痕跡や、古代には水田耕作が行われた痕跡などもわかります。 |
噴砂(液状化現象)の痕跡
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噴砂(液状化)とは、地震の衝撃で砂の地盤が流動化する現象のことです。地震の規模が大きいと、液状化のため建物が被害を受け、砂が地上に噴出し、噴砂となることがあります。この写真は、山持遺跡6区の土層断面に現れた墳砂の様子で、弥生時代以前の堆積層(13層)中の噴砂です。 |
土層は語る
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土層は語る
上に記述 |
各調査区間の土層 |
土層の実際
弥生後期中頃以前は砂
それ以後は泥、が堆積
海と河口の違い。
陸化が進んだ。(海退) |
噴砂の痕跡
上に記述 |
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65弥生時代・古墳時代の山持遺跡
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山持遺跡は東から西へ流れる山持川沿いに広域に展開する大規模な集落跡です。これまでの調査で遺跡の変遷がおおよそ分かってきました。
弥生時代中期~後期の山持遺跡は、現在の出雲北稜高校の東側に居住域があり、東側のやや上流に祭祀場又は墓域があったと推定されます。
2世紀初め頃には、遺跡の南側を流れる斐伊川が大洪水を起こし、集落の西側は洪水砂で埋没してしまいます。しかし、その直後に集落は洪水砂の上に再建され、2世紀後半から3世紀前半にかけて集落は最盛期を迎え、朝鮮半島をはじめとする各地の物資が集まる交易拠点として繁栄しました。
また、この時期に集落の一角では、木製品や玉作り、水銀朱、漆などの各種の手工業生産工房もあったようです。
古墳時代前期には、集落の中心は出雲北稜高校の西側に移動します。古墳時代になっても盛んに建物は作られますが、外来系遺物は乏しく、出雲平野の対外交流窓口としての機能は、神戸川流域の古志本郷遺跡などにその座を譲ったものと思われます。 |
弥生時代後期の祭祀場 1区
1区出土土器群 |
特殊土器出土状況 |
1区では、自然河道中に一括して投棄された大量の土器や木製品が見つかりました。土器の中には吉備から運ばれた特殊土器と呼ばれる墳墓祭祀専用土器やその模倣品が多数見つかっています。
また、護岸付近には集石や建築部材が一括して投棄されている所もあり、この付近が水辺の祭祀場であった可能性も考えられます。
吉備の特殊土器は通常は墳墓祭祀に使用される土器であることから、付近には墓域があった可能性も想定されます。 |
弥生時代後期の居住域の辺縁部 3区
3区 |
土器出土・堰
3区位置図
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3区では弥生時代の山持川と想定される自然河道や溝、土壙などが検出されています。河道中からは弥生中期後葉~後期後葉(紀元前1世紀~紀元2世紀)の土器が大量に出土しています。これらの土器は1区の祭祀用が乏しいことから、集落で使用した土器を順次廃棄していったものと考えられます。
土器群は河道南側辺縁部に集中することから、当時の居住域は3区の南側に広がっていたものと想定されます。このほか、河道中からは小規模な堰状の施設も見つかっており、集落での取水に用いられたものと想定されます。
大量に投棄された土器の中には、九州北部系のほか、勒島式(朝鮮半島の無文)土器が比較的まとまって出土しました。勒島式は九州周辺以外ではほとんど出土例がなく、楽浪土器と共に当遺跡の性格を端的に物語っています。 |
新たなムラの始まり 4区
4区 |
4区古墳時代前期
集落跡
大溝 |
弥生後期から古墳前期の集落跡 |
4区は、6区の西側に位置する調査区で、山持川沿いの微高地上に位置しています。遺構遺物の大半は古墳前期から中期のものです。古墳前期には大溝が掘削され、中からは大量の土器が出土しました。
掘立柱建物も大半は古墳前期のもので、山持遺跡の中枢域はこの時期に4区へ移動したと推定されます。
続く古墳時代中期には井戸や土坑が存在しますが、古墳時代前期ほどの密度はなく、集落は衰退へと向かいます。 |
山持遺跡の中枢区 6区
6区 |
布掘建物跡
ジョッキ形容器出土 |
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6区では、弥生後期中頃の斐伊川大洪水により一時壊滅的な被害をこうむりますが、直後に復旧し、山持遺跡の中枢域として多種の遺構・遺物が確認されています。
遺構としては5棟の建物跡が検出されており、その内3棟は布掘建物(ぬのぼり)と呼ばれる、特殊な建築です。布掘建物は弥生時代後期から古墳時代初頭にほぼ限定される掘立柱建物で、柱を立てる際に溝状の掘方を持つものです。
山持遺跡の布掘建物は軟弱な地盤に造られたため、建物が沈下しないよう柱の下に沈下防止の礎板や枕木が敷かれている珍しい例です。 |
山持遺跡の終焉 7区
7区 |
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7区は山持遺跡の西端に位置します。
弥生後期の遺構・遺物もありますが、6区に比べるとまばらで、古墳時代中期の遺物が目立ちます。
特に古式須恵器は比較的まとまった量が出土しており、出雲平野の遺跡では稀少な資料です。しかし、4区の古墳時代前期のような大量の土器群や密集した建物跡は認められず、集落は一気に衰退へと向かったようです。
続く古墳時代後期の遺構・遺物は極めて乏しく、600年以上続いた山持遺跡の集落は一旦その幕を閉じることになります。 |
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66弥生時代・古墳時代の遺構
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山持遺跡の膨大な量の遺物と比べれば、調査条件の制約もあって、遺構はあまり見つかっていません。その代わり、地下水位が高いということから、通常の集落では見つからない柱材や建物の基礎構造を構成する部材などが良く残っており、この時期の建物を検討する上で貴重な資料を提供しました。
建物跡は現状では掘立柱建物のみで、通常の集落に見られる竪穴建物は見つかっておらず、水辺に立地する当集落の特徴を端的に物語っています。
※竪穴建物は、地下水位が高く水が染み出すから作れない。と言っている。 |
布掘建物跡 6区(ぬのぼりたてもの)
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布掘建物とは、掘立柱建物の一種で、柱を立てる穴を溝状に一度に掘り込むものです。SB01は地盤沈下を防ぐための基礎板や枕木が良く残っており、弥生時代の建築技法を知る上で一級の資料です。SB01は、西側柱が傾いていたにも関わらず他の柱は直立していたことから、
通柱式(とおし)ではなく束柱式(つか)建物と考えられ、重量に耐える倉庫として利用されたと推測されます。
また、柱を立てる穴では赤色顔料が付着した石が出土し、祭祀行為が行われたことが推定される点、礎板や枕木など地下構造が入念な作りの点、柱材が全てカヤ属の材を使用している点などから、特別な性格の建物であった可能性も想定されます。 |
弥生・古墳期の遺構 |
布掘建物跡 6区 |
6区
掘立柱建物跡SB03
布掘建物の地下構造SB01
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大量の土器溜り
弥生後期の貯木施設
6区 |
大量の土器溜り:各調査区では土器溜りが数多く検出され、中には完成品が一括投棄されたものが多く、祭祀によるものも含まれる。
弥生後期の貯木施設 :6区では溝から制作途中の木製品がまとまって出土し、未成品を水漬けして一時保管する施設と考えられます。このような施設は県内では弥生前期の例が比較的多く見つかっていますが、後期の例は稀です。 |
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67環日本海の時代 山持遺跡をめぐる対外交流
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山持遺跡からは、朝鮮半島から西部日本海沿岸地域の土器が多数出土しています。特に、朝鮮半島系土器がこれだけまとまっている遺跡は九州以外ではほとんどありません。日本海沿岸地域は、島嶼部や入り江が多い瀬戸内と異なり、船の構造や気象条件さえ整えば、比較的遠隔地同士の交流が可能でした。
鉄器など他の遺物を見ても、弥生時代後期の日本列島と朝鮮半島との交流の中心は日本海沿岸地域にあり、山持遺跡は、このような弥生時代後期の日本列島における表玄関の一つとしての役割を担っていたのです。
※ここに、九州同様、出雲が国内流通の鉄を牛耳り、そのためにのちにヤマト王権に国を奪われる「国譲り」の原因があったのです。 |
環日本海の時代 山持遺跡を巡る対外交流
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➀楽浪土器
②三韓土器
③三韓土器
④丹後但馬系土器 |
➀楽浪系土器
(弥生中期末~後期中葉)
底面に糸切痕がある。楽浪土器の完形品は九州を含めても極めて稀です。この他壺の小片が約10点出土している。 |
②三韓土器(弥生後期末)
楽浪土器を模倣して朝鮮半島南部で製作された土器です。器形や把手の方向から馬韓系の壺と考えられます。 |
③三韓系土器
(弥生後期末~古墳前期)
左と同じく朝鮮半島南部で製作された土器ですが、把手や穿孔の特徴から辰韓系の壺と考えられます。 |
④丹後但馬系土器
(弥生後期末)
山持遺跡からは丹後・但馬系土器の資料は極わずかでここで示したものも可能性のある資料に過ぎません。
その点で、当地の土器がまとまって出土している青谷上寺地遺跡とは対照的な在り方を示しています。 |
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⑤勒島式土器
⑥北部九州系土器
⑦吉備系土器
⑧近江系土器 |
⑤勒島式土器
(弥生中期末~後期)
勒島土器とは、朝鮮半島の無文土器の一形式名です。これは胎土から見て朝鮮半島からの搬入品の可能性が高いと考えられます。他の朝鮮半島土器がほぼ壺に限られるのに対し、これは煮炊き用の甕である点が注目されます。もしかすると朝鮮半島からの移住者が山持遺跡に居住していたかもしれません。 |
⑥北部九州系土器
(弥生中期末~後期中葉)
北部九州系土器は、山持遺跡では中期末に出現し、後期中葉にピークを迎え、後期末にはほとんど見られなくなります。
その大半は中型の壺で、内容物を入れるコンテナとして使用された可能性が高いと考えられます。 |
⑦吉備系土器
(弥生後期)
吉備系土器は、1区自然河道から小型特殊器台とその模倣品が一括投棄された状態で出土したほか、2区自然河道でも長頸壷や大型の壺が出土しています。
吉備系土器は通常の煮炊き用の甕はごくわずかで、その大半は祭祀用の壺や器台である点に大きな特徴があり、当時の出雲と吉備との特殊な関係が伺えます。 |
⑧近江系土器
(弥生中期末~後期)
近江地方(滋賀県)で製作された受け口状口縁の甕です。近江系土器は西日本では非常に珍しいですが、朝鮮半島の勒島遺跡からも出土しています。
日本海交易網に於いて当地が担った役割を考えるうえで興味深い資料です。 |
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68弥生時代・古墳時代の遺物
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山持遺跡の出土品は、弥生時代から古墳時代のものが最も多く、内容も多彩です。
弥生土器や土師器などの土器、ジョッキや杓子などの木製品、玉類、朱や漆の精製に関する土製容器などがあります。 |
多彩な木製品とその未成品
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山持遺跡は、水が常時湧くような環境であったため、他の遺跡では乾いて無くなってしまう木製品がそのままの形で見つかりました。
木製品には溝や水田で使う鍬や鋤、椀や桶形の容器、椅子のような調度品、建物の部材などが見つかっています。
また、鋤や杓子の作りかけの出土品もあり、山持遺跡の中で木製品の生産が行われていたことが分かります。 |
弥生時代・古墳時代の遺物
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弥生後期の土器
古墳前期の土師器 |
弥生後期の土器
甕や壺の口縁に
段があります
古墳前期の土師器
大溝から沢山の土器が完全な形でみつかりました。 |
ジョッキ形容器
杓子未成品・腰掛
鍬未成品・栓 |
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69玉類など
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古墳時代の玉類 |
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山持遺跡では、古墳時代前期から中期(3~5世紀)の玉類が見つかりました。勾玉の他に管玉、ガラス小玉があります。管玉は松江市玉湯町で採れる碧玉を用いており、この未成品が出土したことから山持遺跡でも、玉作が行われていたことが分かりました。
また、赤褐色のガラス小玉は、南インドから東南アジアにかけての地域で作られたものであり、当時の山持遺跡の人々がどのような経緯で入手したのか、興味の湧くところです。 |
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水銀朱精製用土器石器 |
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表面を赤く塗っている土器がありました。これは分析の結果、水銀朱(HgS)であることが分かりました。また、土器の内側や石器にも水銀朱が付いているものがありました。これらは土器に塗布するために水銀朱を石器で砕くなど調整した痕跡であるものと考えられます。 |
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漆採取用の容器 |
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山持遺跡からはコップのような形をした土製品が見つかりました。
中に黒い塗料のようなものがついていました。この黒いものは漆であり、この土製品は漆の採集容器であることが分かりました。
出雲市内の他の遺跡からもこの漆容器が見つかっています。
漆は容器や武器の表面に塗料として使われていました。 |
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70古代の山持遺跡
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71大型の道路遺構と出土した文字資料
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古代の山持遺跡では道路遺構や条里に基づく水田の畔や畠などが見つかっています。その内でも6区では大型の道路遺構が見つかりました。
この道路遺構は、東西方向に流れる古墳時代以降の川を渡るように南北に構築されたもので、土橋状の部分は幅3~3.5m高さ1mに作られており、
調査区内で確認された全長は46mになります。
この道路をつくるために付近から人頭大の石や土砂が集められ、道路を造る材料とされました。また、建物に使われた建築材を再利用した杭を何列も打ち込んで作っているなど、頑丈にするために様々な工夫が施されていました。 |
古代の山持遺跡 |
道路遺構土橋部分
道路遺構下部の石材と杭
道路遺構全体図
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道路法面に貼られた石材
道路遺構 |
道路遺構下部に置かれた石材と杭
道路周辺出土土器
道路遺構に使われた建築部材
(垂木)
※廃寺の垂木かな |
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72道路遺構周辺出土遺物
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道路遺構の周辺からは8世紀後半~9世紀初頭と思われる4点の人物を墨書した板絵が発見されました。これらは全国的にも類例のないもので、その詳細な性格は未だ明らかではありません。4号板絵は、女性であることや「頭光」から「吉祥天」を描いた可能性があるものです。そうであれば仏教祭祀に深く関わるものであった可能性が高く、仏教が地方に浸透する様子を知る上で重要な資料であると考えられます。 |
発見された文字資料
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道路遺構周辺からは木棺や墨書された土器が見つかっています。これらのうち1号木簡や墨書土器は道路遺構と深い関係がある可能性がある物です。これらには、当時の人々の名前や地名が多く記されています。 |
出土した4点の板絵 |
道路遺構出土品
紡錘車・鑿のみ・短刀
木製皿・曲げ物
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出土した4点の板絵
仏画
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道路遺構周辺出土遺物 |
発見された文字資料
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木簡
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73古代の山持遺跡 条里と水田、畠
条里と水田、畠 |
遺跡からは古代の条里の痕跡が確認されています。6区と7区では南北方向に水田の畔が確認されており、その間隔を測ると約110mと規則的なものでした。これはほぼ当時の1町(109m)に相当することから古代の都市計画(条里地割)に基づいたものと考えられます。
また、東西方向に見られる畔も確認されており、南北方向の畔と直角に交わることから、これも条里地割に基づいたものと思われます。これらの規則的な畔は古代末頃のものと考えられ、一部は現在の地割にも引き継がれています。
古代の遺跡周辺は4区で確認されているように畠であったり、各調査区の堆積層から想定される水田であったりと耕作が行われる場所であったと考えられます。 |
古代から近世の山持遺跡 湿地と巨大卒塔婆群
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遺跡周辺は古代末頃から湿地に変わったと考えられます。調査では厚く堆積した腐植土(通称「オモカス層)が全域でみられることから、広い範囲. で湿地化したものと考えられます。湿地化した後、近世には水田に利用され、そこに伊努谷川が流れている現在に近い景観になったものと考えられます。
中世には一部狭い川も流れていたようで、2区では川の跡やそこに設けられた堰が見つかっています。また、1区や2区では近世の水田跡やそれを覆う洪水による砂礫が見つかっています。これらは近世の文書に見られる幾度かの大規模な洪水の痕跡である可能性が高いものです。 |
山持遺跡が語る地域の歴史
山持遺跡遺跡が語る地域の歴史
下に記述 |
山持遺跡関連年表 |
山持遺跡が語る地域の歴史
弥生時代・古墳時代
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弥生時代中期(紀元前1世紀頃)に人々が暮らし始めたこの集落は、幾度も斐伊川の水害に遭いながらそのたび再建され、古墳時代中期(5世紀)までの約600年間以上に渡り続きました。弥生時代中期末~古墳時代初め(2世紀後半~3世紀前半)には、出雲平野を代表する対外交易拠点の集落として、日本列島はもとより朝鮮半島の各地とも交流を持ち、最盛期を迎えました。 |
■ |
建物は掘立柱建物しか見つかっていないことや、建物の基礎に沈下防止の工夫が凝らされていることなど、水辺のムラに暮らす人々の工夫がありました。 |
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膨大な出土品の中には、木製品や漆、朱、玉類の未成品があり、ここで生産加工が行われていました。
また、多くの種類の木製品とその未成品が出土し、当時の木材利用の在り方や木工技術の高さを知る手掛かりとなりました。 |
古代[奈良時代・平安時代]
■ |
奈良時代の後半には東西方向に流れる小川を横断するように大型の道路が造られ、これと相前後して大型道路の東側にも波板状凸凹面による道路が数時期に渡り造られています。これらの道路は当時の神門郡と出雲郡を 往来する主要な南北道であった可能性が高いものです。 |
■ |
大型の道路の周囲からは板絵4点、木簡3点をはじめとして墨書土器を含む須恵器・土師器、曲物・皿等の木製品が過出土しています。
特に板絵4点は仏教祭祀に関わるものと考えられ、当時の仏教の浸透を窺い知ることが出来る重要な資料となりました。 |
■ |
道路遺構の周辺からは集落遺構が見つからないことから、当時は水田や畠が広がっていたと考えられます。
10~11世紀代には、古代都市計画である条里に基づいて1町(109m)単位で大きく水田が区画されていることが明らかとなりました。 |
中世~近世[鎌倉・室町・江戸時代]
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古代末~中世はじめには、一帯は広大に湿地になりました。湿地の川岸では、柱状の卒塔婆を立て並べ死者への供養が行われていました。
遺跡からは日本最大級の柱状卒塔婆が見つかっています。 |
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中世後半になると湿地は水田として開発されました。発掘された水田跡は、斐伊川の洪水による砂礫に幾度か覆われたことが確認され、当時の文献に見られる斐伊川の洪水の様子が具体的に明らかとなりました。 |
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山持遺跡出土物の館内展示物
80山持遺跡
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81山持遺跡 弥生時代後期末~平安中期(2世紀~11世紀)
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遺跡は出雲平野の北側に位置し、現在は水田が広がる場所です。22年度の調査では、
弥生時代後期末(約1800年前)の掘立柱建物跡や溝のほか、土器や木器が大量に見つかっています。
土器の中には朝鮮半島で作られたものも含まれており、当時の交流の様子を知る手掛かりが得られました。
建物跡には、柱の沈下を防ぐための木材も残っており、、建物の構造や建築技術を知るうえで重要な発見となりました。
※コトバンク引用山持遺跡
出雲大社の東約7キロにある、2〜11世紀の集落や田畑の跡。これまでに東南アジア産と見られる古墳時代のガラス玉、奈良〜平安時代の道路状の遺構(幅約3メートル、長さ約30メートル)や「益」「西家」と書かれた墨書土器などが出土しており、祭祀(さいし)が営まれていた可能性もある。2006年に、8世紀から9世紀初頭のものと見られる唐風の衣装を着た女性を墨で描いた板絵が出土した。
※考察 山持遺跡の人々はどこから来た
紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけての楽浪土器が出土
紀元頃を前後として、200年近くもの間の土器が出土しているということは、楽浪郡とかかわりの深い人々が暮らしていたり、楽浪郡との交易が
特に頻繁だったからなのか。っていうより、楽浪人の集落ではないか。
山持遺跡の成立年代の紀元前100年頃は、紀元前108年に前漢が衛氏朝鮮を滅ぼして占領し、楽浪郡・帯方郡など4郡を設置した。
当然、半島人住民は惨殺されるか、農奴として連行されたでしょう。
つまり、捕囚を逃れ出雲に逃亡した人々が住み着いた場所として、物凄い湿地の山持。そこを開拓して、やがて半島と交易する一大拠点へと
発展させたのは、亡命衛氏朝鮮の貴族・王族とお抱えの楽浪商人等元々交易に長けた人々のなせる業だったのではないでしょうか。 |
3世紀初め頃の楽浪郡推定地
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弥生時代後半頃、山持遺跡をはじめとする出雲平野の遺跡からは、朝鮮半島や北部九州・西部瀬戸など、他地域の遺物が多数見つかっています。
この地域の人々が直接あるいは間接にこうした地域と交流を行っていたと考えられ、その様子は山陰の中でも際立っていると言えるでしょう。
※魏志倭人伝に、「楽浪から船出した先に倭国あり」と言われるほど、大陸の港町だった楽浪である。半島や大陸の商団が日本海航路を持っていたことは明白で、山持遺跡は0世紀頃にはそうした寄港地の一つだったのかもしれない。
その後、大陸や半島の政治情勢により、こういった航路から外れることもあったり(衰退)、その後別の商団によって再開されたりしたのかもしれない。 |
館内展示
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83ここにも玉作工房があった 山持遺跡 弥生時代・古墳時代
※原始的な生活環境から豊かな都会的生活をしようとすると、必要なものは作らなければ手に入らない。水銀朱も、漆も、玉製装身具も。
これが現代のコンビニ文化と違うところだ。これによって文化と職人が育ったのでしょう。
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装飾品 |
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漆も採っていた
右:漆付着の漆採集容器
左:水銀朱精製用の土器
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朱を精製した道具
朱を磨り潰した石杵
弥生・古墳時代 |
管玉未成品
火仙山産碧玉 |
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84交流を示す土器 弥生・古墳時代
どうしても手に入らないものや珍しいものは、交易船に頼るしかない。 |
85出雲の土器
出雲の土器 |
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高坏・山陰型器台 |
左:出雲の土器
右:他所の土器 |
交流を示す土器
北部九州系~西部瀬戸内系土器
交流を示す土器 |
交流を示す土器
北部九州~西部瀬戸内系土器
山持遺跡出土
弥生時代・古墳時代の山持遺跡 |
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87交流を示す土器
日本海東部地方からの土器
日本海西部地方からの土器
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北部九州系土器 |
西部瀬戸内系土器西部瀬戸内系土器も海路で運ばれた |
舶載土器(半島製土器)
※半島系土器とは、半島の土器を国内で真似たり国内の胎土で作ったもの。この場合は半島土器というべきではないでしょうか。
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100四隅突出型墳丘墓
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101王墓の出現
四隅突出型墳丘墓の完成
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弥生中期末に中国地方山間部を中心に発生した四隅突出型墳丘墓は、弥生時代の後半期になると、一定の様式を持った墓として完成され、
隠岐や北陸地方にも広まっていく。
また、クニをまとめた王の墓とみられる非常に大型の四隅突出型墳丘墓もこの時代に現れるが、安来市荒島・出雲市大津に集中している。 |
墓上の祭祀
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四隅突出型墳丘墓では、棺を埋めた後、その上で参列者が王を偲んで一緒に食事をする。
西谷3号墓では、その時に使った土器が大量に出土した。この土器を調べるとクニとクニの交流が見えてくる。 |
四隅突出型墳丘墓にみる交流
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墳丘から出土した土器や、副葬品の玉からは、葬られた王と吉備や北陸~丹後との交流が窺える。
島根に他の国からもたらされたものがある一方で、この時代には、隠岐や北陸にも四隅突出型墳丘墓が広まっていく。 |
西谷3号墓第4主体直上出土 出雲弥生の森博物館 参照
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四隅突出型墳丘墓の完成
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弥生時代後期後半の
四隅の分布
上に記述 |
四隅の墓上祭祀
上に記述 |
西谷3号墓第4主体直上
土器出土状況 |
西谷3号墓第4主体直上出土
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墳丘から出土した土器や、副葬品の玉からは、葬られた王と岡山や北陸~丹後との交流が窺える。島根県に他のクニからもたらされたものがある一方で、この時代には、隠岐や北陸にも四隅突出型墳丘墓が広まっていった。 |
四隅墳丘墓の交流
上に記述 |
西谷王墓の墓上祭祀には、同盟国吉備から特殊器台・特殊壺が送られ、
支配地域である北陸(正確な場所が不明なため北陸~丹後とされている)地方からの祭祀土器、
北陸北部から碧玉製装身具が寄せられ、
各地方代表が、葬送と権力移譲の祭祀に立ち会った。
北陸の四隅突出型墳丘墓
石杵を使うなど墓上祭祀は類似する。
築造時に貼り石はない。 |
特殊器台・特殊壺
吉備地方から
西谷3号墓第4主体直上出土 |
碧玉製管玉(中央)
原石は北陸産の可能性大
西谷3号墓第4主体出土 |
北陸~丹後の影響を受けた土器
西谷3号墓第4主体出土 |
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102四隅突出型墳丘墓徹底解剖
独自の発展を遂げた、出雲の王たちの墓
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見事に定型化した四隅突出型墳丘墓は、来るべき古墳の先駆けといってよいだろう。弥生時代唯一の定型化した墳墓、四隅突出型墳丘墓を解明してみよう。 |
四隅墳丘墓徹底解剖 |
副葬品
玉類のほかに、鉄器などを副葬するものもある。 |
中心主体部
死者を葬る場所。通常、木棺を用いる。丁寧なものは、その周りに更に木の板で覆い、朱を敷き詰める。 |
墓上祭祀
木棺を埋めた後、土器を供える。 |
突出部コーナーは放射状に突出し、貼石と列石が周囲を巡る。 |
貼石と列石
斜面に石を貼り、裾には丁寧なものは2列に石を立て、間に犬走り状の平坦面を造る。 |
西谷3号墓で行われた墓上祭祀復元
西谷3号墓で行われた
墓上祭祀復元 |
上に記述 |
西谷3号墳第4主体上で
検出された巨大な柱穴と
中央に置かれた丸い石 |
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103四隅突出期の土器
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105前方後円墳と円墳の登場
古墳分布
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古墳時代前期終末期(4世紀後半)になると、それ以前の大型古墳があった場所とは違った場所に新たに大型古墳が造られる。
それらの古墳の多くは前方後円墳や円墳で、しかも、墳丘に埴輪が立てられるなど、島根の古墳が持っていた独自の要素は失われ、近畿地方の古墳に近くなる。 |
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前方後円墳と円墳の登場 |
古墳分布
上に記述 |
五反田1号墳
安来市
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安来市 古墳時代前期末 (4世紀後半)
直径25mの円墳。
竪穴式石室を持ち、埴輪を立て巡らす。
石室からは重圏文鏡・管玉などが出土した。 |
上野1号墳
宍道町 |
宍道町 古墳時代前期末(4世紀後半)
長:径40mの楕円形をした大型墳。
遺体を葬ったのは長さ7mの木棺を粘土で覆った
粘土槨で、銅鏡や武器・多数の玉が副葬されていた。
墳丘上では、近畿地方の影響を受けた土器が出土。 |
上野遺跡の埴輪転用棺 宍道町 |
上野1号墳周辺では、古墳に立ててあった埴輪を転用した棺が6基出土している。
埴輪上部の穴は壺の破片で蓋をしている。
小児用と考えられる。 |
古墳の移り変わり |
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106埴輪・副葬品
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120古墳文化の新しい動き
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121 前方後方墳
古曽志大谷1号墳 島根県松江市古曽志町562-1(古墳の丘古曽志公園内) 島根県埋文近く
全長:45.5m 、後方部(主体部):一辺25m、高4.8m 前方部(バチ状部):先端幅25m、高さ4.5m
築造年代:5世紀末 引用古曽志大谷1号墳
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122古曽志大谷1号墳と前方後方墳 松江市 古墳時代中期末(5世紀末) 全長45.7m 島根県松江市古曽志町大谷の丘陵頂
(こそしおおたに)
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前方後方墳は、全国的には古墳時代の前期にみられるが、松江を中心とした出雲東部では、5世紀末頃から再び築造され始める。
これは、6世紀以降の出雲の東西での大古墳の築造に繋がる、新しい政治の動きの一つである。 |
古墳文化の新しい動き
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古墳文化の新しい動き
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古曽志大谷1号墳と
前方後方墳
上に記述 |
古曽志大谷1号墳
2段築造の前方後方墳
埋葬施設は流出してしまった。 |
石で覆われた木棺 前方部からは石で覆われた木棺が見つかった。中からは1m近い大刀や鉄鏃が出土した。 |
埴輪 墳丘には400本の円筒埴輪が巡らされていた |
考察 前方後方墳
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前方後方墳
弥生時代後期に東海地方で前方後方型墳丘墓が発展する。
古墳時代前期前半には、東日本で多く造られた。その分布は、東海・関東・信州・東北地方である。
畿内の初期古墳は前方後円墳であり、その形は、円墳に三角形が組み合わされた形であり、前方後方墳は、方墳に三角形が連なっている。
初期ヤマト王権の墳墓は前方後円墳であり、畿内から吉備・四国東部にも見られる。両者は似て非なるものであり、何らかの意図がある。
ヤマト政権以前には、大陸の政権との朝貢関係を背景に鉄を独占していた北部九州と、半島と結んで日本海航路の鉄を押さえていた出雲があった。
やがて大陸の国家が滅亡し、これらの地域が政治的背景を失うと、若狭経由で鉄を入手していたヤマトが軍事的恫喝を掛け、西日本各地の豪族を支配又は屈服させていった。
その後の政治的支配は苛烈であり、出雲には前方後円墳はあまり作られなかったし、前方後方墳もまばらである。
初期ヤマト政権が未支配地域で、おそらく同盟関係を結んだだけの東海地方以東の、当時蛮族と呼んでいただろう人々に与えた墓制と同じく、
出雲地方の土着豪族には前方後方墳しか作らせなかったのだろう。
つまり、その地位を他地域よりも低く落とされていたということでしょう。後に造られる前方後円墳も明らかに大和政権から派遣された者の墓である。
出雲の前方後方墳
出雲地方最古の前方後方墳といわれるのは、雲南市三刀屋町古城にある6基の松本古墳群の松本1・3号墳である。
1号墳は古墳時代前期後半頃とされる。3号墳はそれ以前の古墳時代前期初頭とされる。
前方後方墳は、全国的には古墳時代の前期にみられるが、松江を中心とした出雲東部では、5世紀末頃から再び築造され始める。
これは、6世紀以降の出雲の東西での大古墳の築造に繋がる、新しい政治の動きの一つである。
全国の前方後円墳 引用【出雲古代史探訪】
ヤマト政権が巨大前方後円墳の築造許可を出した地域には、関東と北部九州がある。関東は東北地方への備えとして重要な地であり、
北部九州は大陸や半島への窓口として重要な地域であった。ために、このようにヤマト政権と同列に近い扱いをしたようである。
出雲はこの時、すでに西の関門ではなく、単なる通過点として、逆賊の国としての制裁から、反逆の北部九州とは異なる扱いを続けたのでしょう。 |
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125肥後型 横穴式石室
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126めんぐろ古墳と横穴式石室の出現 円墳 6世紀後半
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浜田市には、県内最古の横穴式石室を持つ「めんぐろ古墳」が築かれる。墳丘や石室は破壊されたが、遺物から6世紀前半の古墳と考えられている。
島根で最初の横穴石室は、熊本県周辺にみられる肥後型横穴式石室の影響を強く受けている。 |
めんぐろ古墳と横穴式石室の出現 上に記述 |
典型的な肥後型横穴式石室 |
肥後型横穴石室とめんぐろ古墳との共通点 |
熊本県宮ノ尾1号墳
実測図
肥後型石室の説明 |
埴輪 墳丘には円筒埴輪が巡らされていた。 全体では400本以上になる |
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127資料 肥後型石室 引用
肥後型石室と畿内型石室の違い
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肥後型は、玄室内に室があったり、玄室が閉鎖石で密封され、更に羨道や各部に仕切り石があったりする。最後に入口に大石を置いて閉鎖するが、
これを真似て作った畿内型は、入口の石を外すと、中は玄室まで丸見えでがらぁ~ン!としている。バストイレ台所なしの安アパートみたいである。
肥後型は、四国、山陰に多く見られる。 |
横穴式石室の特徴と各部の名称
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横穴式石室は「九州型」と「畿内型」に大きく分けられる。
「九州型」は4世紀末頃から福岡・佐賀県沿岸部を中心に前方後円墳の埋葬施設として築造され、その後5世紀には九州各地へ拡がっていく。
普及する過程で「肥後型(熊本県)」や「地下式横穴(宮崎県)」などに変化し、地域色がみられるようになる。
九州外へもわずかに拡散するが、肥後型石室の構造をよく残しているのは岡山市の千足古墳である。
「畿内型」は5世紀終わり頃に出現するが6世紀はじめに前方後円墳に採用されて、その後各地へ普及していく。
※吉備地方にある大きな古墳の中で千足古墳だけが九州型ということは、被葬者は九州から来た人かもしれない。千足古墳の造られた時代 |
横穴式石室の構造 引用「考古学基礎講座 横穴式石室について」
「畿内型」石室の構造と各部名称 |
「肥後型」石室の構造と各部名称(単室) |
「肥後型」石室の構造と各部名称(写室) |
古墳外観
左:畿内型
右:肥後型 |
「九州型」石室構造と
各部名称 |
畿内型・九州型の特徴
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128大甕 屍床
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脚注がありませんが、大きな甕の破片がほぼすべてそろっていることから、
この甕は、屍床として、打ち壊されて、石室の床に敷かれたものだったのでしょう。 |
考察 九州の墓制や埋葬方法の浸透
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「沖縄写真通信 善通寺市立郷土館」で
玄門部閉塞石 がありました。これは、九州式横穴式石室の特徴である、各室を区切って閉鎖する墓室の築造方法であると思います。
また、「沖縄写真通信 上淀白鳳の丘展示館(鳥取県)」でも、閉塞石や6世紀後半に須恵器大甕を割った破片を床に敷いて棺や遺体を載せる
埋葬方法も屍床に通ずる 九州式の埋葬方法のように思えます。善通寺でも墓室内から完全に復元できる須恵器大甕が出土しています。
これは、「上淀白鳳の丘展示館」脇の石馬谷古墳(6世紀後半)から出土した本州唯一の「石馬」と関連する。
石人石馬は北部九州で5世紀~6世紀初めに福岡・大分・熊本で作られたものです。これは大陸との朝貢関係を背景に北部九州を支配した
磐井一族の文化であり、527年(6世紀初め)の磐井の乱によって滅亡したが、なぜ、その文化が6世紀後半の出雲で出現したのだろうか。
ヤマト政権は軍事制圧した地域住民を列島各地に分散する政策を行っていた。東北人は九州へ、筑紫人は畿内(竹細工生業)へと分散して、本拠地に再結集できないようにした。
その一環で、九州人を伯耆と出雲の境界地域である出雲東部の玉生産地域がある玉湯町付近にも移住させたのではないか。
しかし、その文化の高さから周囲一帯に大きな文化的影響力を持ち、現代には墳墓形式として磐井文化の石室築造や石馬製作などの造形物が残ったのではないだろうか。
地図引用「別館画廊musica古代(略) その18 野見宿禰と埴輪と出雲国風土記の巻。」 |
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古 代
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140古代の山持遺跡
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141古代の山持遺跡
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弥生時代から続いた大集落は、古墳時代後期にはその幕を閉じました。再びこの地が開発されるのは、奈良時代になってからでした。
※古墳後期に大洪水に見舞われて泥の下に埋もれてしまったのでしょう。元々斐伊川や神戸川の氾濫原で洪水に襲われ安い地域である。
Ⅵ区で発見された道路状遺構は(下の写真④)、奈良時代後期に神門郡と出雲郡とをつなぐ主要道路の一つとして造られました。
また、平安時代の水田は、古代の条理に基づき区画されていました。
大型道路状遺構の周辺では、板絵4点、木簡3点をはじめ、墨書のある須恵器や土師器、鉄器、木器など数多くの遺物が出土しました。
※きっと道路周辺に人家や役所などがあったのでしょう。 |
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古代の山持遺跡
上に記述 |
持遺跡遺跡Ⅵ区
道路状遺構
奈良~平安時代 |
上空より撮影 |
山持遺跡の木簡
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1号木簡は、
沢山の人名が書かれた木簡です。おそらく、労働に参加した人々を管理するためのいわゆる出勤簿のような木棺と考えられます。
書き出しに「部領」とありますが、部領は人を率いたりまとめたりする意味があります。
この木簡には、何らかの共同で行う作業に参加した「部領倉長殿」に率いられた「吉野」さん達や「馬道部殿」に率いられた「福丸」さん達の2グループが記録されています。
2号木簡と3号木簡は、
遺跡周辺の古代の地名と人名が書かれた木簡になります。出雲国出雲郡の北側の郷である「伊努郷 (いぬごう)」と「神戸郷kando」が記されている。
これらの木簡や板絵の発見から、遺跡の周辺には、木簡を使って記録・管理を行っていた重要な公的施設が存在している可能性が考えられます。 |
山持遺跡の木簡
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発掘区と出土位置
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板絵
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木簡
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板絵・木簡の出土位置
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古代の地理
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143道路状遺構周辺出土 山持遺跡
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墨書のある土器
道路状遺構の周辺出土 |
墨書土器
須恵器・土師器
山持遺跡 |
集落衰退期の土器 |
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145道路状遺構周辺で出土
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土師器と須恵器
道路周辺に民家か茶店があったのでしょうか。 |
シビや隅瓦に見えるから寺院があったのだろうか |
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147木簡 道路状遺構周辺出土
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① 1号板絵-人物の腰のあたりが描かれているものです。
② 2号板絵-髷(マゲ)を結った唐風の服装の一般女性の全身像が描かれています。
③ 3号板絵-女性か若い男性と思われる像が描かれています。
④ 4号板絵-吉祥天女(キチジョウテンニョ)と考えられる像が描かれ、仏教的な板絵になります。
⑤ 墨書土器(墨で「国益」「益」「西家」「華?」「×」と書かれています。) 引用山持遺跡6区現地説明会資料 |
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160島根県の主な遺跡
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展示3
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200旧石器時代
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201 |
202旧石器時代の地域色と交流
2万5千年前に始まる地域色と交流
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今からおよそ2万5千年前から、石器に地域色がみられるようになる。
島根県の周辺は、、縦に長い剥片をとる技術が主流で、ほぼ今の日本海沿岸の、東西の諸地域と同様な特徴を持っていた可能性が高い。
縦長剥片石器:横長剥片の瀬戸内技法の以外は、全て縦長剥片技法である。
一方瀬戸内地方で発展する、横に長い剥片を連続して剥ぎ取る技術(瀬戸内技法)で作られた石器も出土している。中国山地を超えて交流があったことがわかる。このことは、隠岐産の黒曜石が瀬戸内へ、香川県産の安山岩が山陰へ流通していることからも明らかである。 |
旧石器時代末期の交流
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およそ1万4千年前頃、細石器の時代になると、人々の壮大な交流の証が見つかる。
その一例が、玉湯町杉谷遺跡から出土した細石刃を取る過程で出てきた小さな石片である。
これは、東北から北海道に特徴的な「湧別技法」によるもので、はるか東北方面との交流を物語っている。(湧別技法細石器人が大挙やって来た)
小さな石器から、人々の大きな動きが窺える興味深い資料である。 |
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旧石器時代の地域色と交流
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2万5千年に始まる
地域色と交流 |
約1万4千年前の東北地方からの人の動き
湧別技法と頁岩の動き |
約2万年前の瀬戸内地方との交流
旧石器時代末期の交流
1万4千年前の湧別技法細石器人の南下 |
北海道から南下した細石刃文化人については、
「西日本の縄文」の中で詳しく取り上げました。
鏡野郷土博物館 参照 |
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203狩人の足跡
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ヒトの祖先が登場したのは約400万年前のアフリカです。
日本では約4~5万年前には、原人たちの活動が知られ、その後、土器が使われ始める約1万2千年前までを旧石器時代と呼びます。
島根県では約3万年前から1万2千年前頃(後期旧石器時代後期)の石器が見つかっています。
当時は氷河期で海水面は今よりもずいぶん低く、宍道湖・中海は大きな谷でした。
厳しい気候の中、人々はナウマン象などの野生動物を追って、山野を駆け巡っていたのでしょう。
彼らの残した石器から生活の一端と狩人の足跡をたどることができます。 |
堀田上遺跡 旧石器時代 島根県邑智郡瑞穂町市木
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2万年以上前の旧石器時代の石器や、県内最古の縄文早期(約8千年前)の竪穴住居が出土した。
出土した石器・竪穴住居跡は現在、最古のもの。 |
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上に記述 |
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台形様石器
堀田上遺跡
邑智郡瑞穂町市木
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ナイフ形石器
石台遺跡
松江市東津田町石台
剥片 |
削器、石核、剥片 堀田上遺跡
邑智郡瑞穂町市木 |
台形様石器
堀田上遺跡
邑智郡瑞穂町市木 |
ナイフ形石器
石台遺跡
松江市東津田町石台
剥片 |
削器、石核、剥片 堀田上遺跡
邑智郡瑞穂町市木 |
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204原田遺跡 旧石器時代 引用「わたちの三瓶山」大田ふるさと学習、原田遺跡-日本旧石器学会 島根県仁多郡奥出雲町佐白948,949,950
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原田遺跡では、AT火山灰の下の7層、AT火山灰と三瓶浮布火山灰に挟まれた5層、三瓶浮布火山灰の上の2~3層より、旧石器時代の遺物や遺構が見つかった。さらに7層は上下2層に分かれる。
7層の下層からは、台形様石器や局部磨製石斧、石斧製作用の砥石などが出土している。隠岐産黒曜石を多用しているのも特徴である。
また、石器の集中部が(ブロック)が環状にめぐる部分もある。後期旧石器時代でも、古い時期の石器群と考えられる。
5層は角錐状石器を中心とした石器群で、礫群や炭が集中した部分が多く見られるのも特徴である。
2~3層は、安山岩製の多くのスクレイパーに少量の小型ナイフ形石器が伴うのが特徴である。
火山灰に挟まれて、新古のはっきりわかる石器群が4群に分かれて出てきており、中国地方の後期旧石器時代の石器の移り変わりを知るために重要な資料である。また、土抗、礫群、炭集中部など、人間の行動の痕跡が調査されており、当時の人間活動を知る重要な遺跡でもある。
引用日本旧石器学会 |
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210縄文時代
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210三瓶山の形成 引用「三瓶山」松江地方気象台 住所:島根県大田市三瓶町志学
三瓶山の地形と景観(引用)
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三瓶山の山体は溶岩流と砕屑岩の累層からできています。粘性のある溶岩を放出し、トロイデ型(鐘状)火山となりました。
裾野は凝灰角礫岩の層が積み重なった緩やかな裾野を形成しています。 |
男三瓶山
トロイデ型の山容
引用三瓶山 |
第1、第2活動期
引用三瓶山 |
10万年前、昭和新山のように平地から活動が始まった。
7万年前、直径5kmのカルデラ噴火を起こす
(直径5kmの噴火が起こった) |
第3、第4活動期
第5活動期は1万年前 |
4万年前、軽石噴火を起こす。
1.6万年前~現在トロイデ型山体を形成する
トロイデ型=鐘状
=溶岩円頂丘
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第6活動期
ゆっくりとした溶岩噴出で複数のドームを形成。
4千年前、小豆原埋没林形成 |
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211三瓶山と火山灰
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今は美しい山容の三瓶山だが、実はおよそ10万年前から活動を始めた火山である。
地下の土層から縄文時代に少なくとも三度の噴火があったことがわかる。火山灰層に挟まれた黒色土層から多量の遺物が発見されている。 |
頓原町の土層剥ぎ取り標本
頓原町 遺跡土層 |
➀人の大きさが示されている。約170cm。その赤土は三瓶山形成以前、10万年前以前のもの。
②噴火による山体成長のため地面が隆起し、地層が屈曲している。
③1万~6300年前の火山灰は浸食で薄くなっている。
④6300~4700年前は安定した植物生育の痕跡、腐植土の堆積、第3黒色土(黒ボク)が堆積。
⑤4700、3600年前の三瓶山の噴火。
⑥大山火山帯の大山は13万年前と4.7万年前の噴火が確認されている。以後の活動歴はなく、
火山帯地下のマグマが新しい出口を見つけたのが三瓶山かな。 |
三瓶山と火山灰
上に記述 |
住まいとお墓 縄文後期
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写真上は、縄文後期頃の竪穴住居跡。壁際に石を並べる特殊なものである。写真中・下は、坑の中に石を立てたり横にした立石や集石の見られる土坑群である。縄文後期頃のお墓か、マツリに関するものと推定されている。 |
住まいとお墓 |
住まいとお墓 |
頓原町貝谷遺跡の竪穴住居跡
壁際に石を並べる特殊な建物
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頓原町下山遺跡の
集石土坑群
祭祀か墓か
東北の土偶が出土
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福島県の屈折像土偶が出土した。
福島から高速で島根の山中までやって来た。
福島から持ってきたのか、こちらの胎土で作ったのか、わからないが、福島の土偶とあまり変化のない、オリジナルに近い土偶である。
また、この地からは、青森県白神山地の西目屋村の陰嚢装飾のある注口土器が出土している。
これはオリジナルである。(古代出雲歴史博物館展示) |
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212縄文土器の移り変わり
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213縄文早期
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214前期・中期
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215後期
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後期
磨消縄文(郷路橋遺跡)
西川津遺跡 |
この時期、津軽平野の磨消縄文土器は、日本海航路を通じて列島各地に運ばれた。
鳥取県東部の山中。
智頭枕田遺跡でも展示されています。 |
晩期
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216石器・骨角器等
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217土器
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初期半島土器(無文)が山深い山中から出土している。➀②③
先弥生土器といえる突帯文土器が海浜部から出土している。④ 朝鮮半島の二つの文化が住み分けをしている。これは、
半島からやって来た人々が、初めから異なっていたのだ。
最初にやって来たのは、
山中で狩猟・焼畑農耕(雑穀栽培)をする陸稲稲作民で、板付式土器、刻目突帯文土器を使う人々と、
水田稲作用籾を携え、灌漑工事を行い、湿地で農耕をする遠賀川式土器の人々、 との違いがあったのだろう。 |
飯南町 板屋Ⅲ遺跡・下山遺跡の出土物 引用飯南町の歴史と文化
➀表裏条痕文土器
約1万年前 草創期末
板屋Ⅲ遺跡
©のため画像削除
参照 |
②押型文土器
約9千~7千年前
下山遺跡
©のため画像削除
参照 |
③磨消縄文土器
約4千年前
下山遺跡
©のため画像削除
参照 |
④屈折像土偶
下山遺跡(飯南町角井)
縄文時代後期
©のため画像削除
参照 |
⑤イネ科植物の
プラントオパール
板屋Ⅲ遺跡
縄文早期~前期
©のため画像削除
参照 |
⑥稲モミの圧痕が残る縄文土器
板屋Ⅲ遺跡
縄文晩期後葉
©のため画像削除
参照 |
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218④下山遺跡の屈折像土偶 (写真は下に) 下山遺跡 飯南町角井
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土偶の出自
下山遺跡出土の土偶は東北地方で作られ、この地域に持ち込まれたました。
胴体の部分が出土しましたが、もとは両脚を折り曲げて座り、腕を組んでいた福島市ジョーモピア宮畑展示の「しゃがむ土偶」と思われます。
青森県八戸市是川縄文館の合掌土偶も南下しているがこちらは移動に何世代もかけており、オリジナルが分からないほど簡略化されている。
これらは、東北地方との交流を示す貴重な資料となっています。
土偶南下理由の推理
縄文後期に寒冷化が始まり、東北地方の太平洋側から沢山の座産土偶文化人が南下しました。青森県内でも移住に世代を重ね、簡略化された土偶が各地で出土しています。
しかし、飯南町の土偶は福島県から島根県の山中まで、途中の変化がなく来たので、現物を持ち込んだようです。1年程でたどり着いたようです。
常識的にこんな壊れやすいものを持って、よくあてのない、決死の長旅ができたと思う。とても大切に運んだと思われる。大抵は粉々になってしまう。
もしかすると、ムラを出るときから妊婦だったのかもしれない。
土偶の形態
この土偶は、屈折像土偶といわれる体を折り曲げた土偶で、座産(座った姿勢での出産)を表した、安産のお守りの土偶とされる。
妊婦がりきむ(いきむ)姿を、合掌土偶、しゃがむ土偶、などと(名前のないのもある)名付けていたが、正しくは座産を表した屈折像土偶である。
時代的背景
縄文中期後葉の寒冷化開始頃から作り始められ、同じような土偶のバリエーションが東北には多数ある。国立歴史民俗博物館(18全国の土偶)の
中にも、製作地から離れ、オリジナルからはずれていく土偶が展示されている。
寒冷化の時期に作り始められたこの土偶は、ヤマセの吹く東北地方太平洋側から、多くは世代を重ねながら、西へ、南へと移動を繰り返した。
しかし、1000km以上もの長旅を四脚を欠いただけで山陰の山中にまで、短期間で運ばれたのは、本当に奇跡だと思われる。 |
古代出雲歴史博物館展示の下山遺跡の土偶(追補)沖縄写真通信 古代出雲歴史博物館より
古代出雲歴博に展示の土偶 |
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土偶
左:下山遺跡の土偶
右:復元した土偶 |
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写真⑤
注:青森県白神山地の縄文後期の注口土器
下山遺跡出土の陰嚢表現がオリジナル |
写真⑥ |
※写真⑤⑥は同じく飯南町出土の縄文後期土器だが、注口土器の注ぎ口周囲に陰嚢の表現がある。
これは全国で唯一、青森県西目屋村の、 白神山地東麓遺跡群の土器であり、青森県でも最近発見されたものである。
西目屋村は大変豊かな村で、縄文早期から晩期まで途切れることなく続いた遺跡である。その遺跡から西目屋人が出雲まで来ていたとは
驚愕の事実である。
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飯南町の歴史写真⑤⑥シコクビエなどの穀物栽培が行われる(板屋Ⅲ遺跡など) 飯南町志津見
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縄文早期~前期の土壌からイネ科植物のプラントオパールが出土し、晩期には稲の籾殻圧痕のある土器が出土した。
縄文早期には既にイネ科植物が食べられていたのだろうか。(おそらく陸稲の栽培)
板屋Ⅲ遺跡(飯南町志津見)から出土した縄文時代晩期(およそ3000年前)の土器からシコクビエのプラントオパールが検出されました。
弥生時代を待たずにシコクビエなどの穀物栽培が始められていたのではないかと考えられています。(雑穀の栽培)
このほかに稲モミの跡のついた縄文土器や、イネ、キビのプラントオパールなども検出され、縄文時代の早い時期からの穀物栽培をうかがわせる資料として注目されています。(キビ=トウモロコシも雑穀、五穀の一つである。五穀は中国は商=殷で始まった農業技術・栽培技術である。) |
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219活発な交流の証 ヒトが動くモノが動く
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縄文時代の三瓶山麓の遺跡からは、
石器素材としての黒曜石や安山岩、遠く東北地方と共通する屈折像土偶、関東や九州地方の影響を受けた縄文土器、朝鮮半島系の土器類など、
他地域との広範な交流を物語る特徴的な遺物が出土する。これらは、ヒト・モノ・情報を媒介にした縄文人たちの活発な交易、行動力の証といえる。
縄文時代にも、我々の想像を超えてヒトが動きモノが動いていたのである。 |
感想 縄文人の広範な遊動
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旧石器時代には人々の遊動が激しく、人々が頻繁に遭遇していたので、列島に石器の地域性が少なく、方言も少なかったと考えられる。
縄文の定住開始以後、閉鎖的となり、各地に方言ができて言葉が通じなくなり、土器石器も地域性が大きくなった。
そのような中でも、新潟(北陸)+東北=火炎土器、長野→関東←伊豆神津島=黒曜石、東海→信州=薄型土器のように、ある程度の流動性があった。
しかし、縄文後期・晩期のような、掘立柱建物・平地式住居の東北縄文人が日本海側や太平洋側を通って近畿、中国地方、更には九州にまで移動して九州に土偶や石棒文化を持ち込んだり、更に、その土地のオリジナル土器を持ってもう一度里帰りするという、地図も道路もない時代に、想像もつかないようなことが起こっている。(これは以前、どこかの館で遭遇した事実である。九州だったか東北だったか。)
病気にケガに飢餓。地図も道路も橋もない完全サバイバルで何を頼りに旅が出来たのか、本当に超人的な人々であったと思う。 |
各地からの大量の移住者
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活発な交流の証
ヒトが動くモノが動く |
活発な交流の証
ヒトが動くモノが動く |
※轟式・曽畑式は半島系土器(渡来民)である。 |
四国・九州から
縄文前期
約6千年~5千年前 轟式・曽畑式土器
(九州系、半島系渡来民)
大分県姫島産黒曜石
香川県産安山岩 |
東北・関東から
縄文後・晩期
約3300・3000年前 後期中葉 屈折像土偶
約3300年前
(青森県から移住民)
晩期初頭 安行式土器
関東系 約3000年前
(関東から移住民) |
朝鮮半島から
縄文晩期中葉
約2700年前 朝鮮半島系孔列文土器
半島系 約2700年前
(半島から移住民) |
三瓶山麓の森と縄文人
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人々が土器を使い始め、植物の採集や野生動物の狩り、漁撈で生活していたとされる縄文時代。
三瓶山麓周辺では、この時代の遺跡が沢山見つかっています。
住居や墓の跡、様々な道具類から森と川の幸に恵まれた、人々の豊かな生活と広範な交流の実態を想像できます。
一方で、三瓶山の噴火と人間生活の葛藤があったことも、遺跡における火山灰の厚い堆積から窺い知ることができます。
ここでは、大自然の営みと共生し、時に克服しながらもたくましく暮らし続けた森の縄文人の生活に思いをはせてみましょう。 |
三瓶山の形成と先史時代
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三瓶山の地学的な形成は、出雲ばかりでなく広く山陰・山陽地方の先史時代の形成に大きな影響を与えています。
その理解のための資料はⒸマークのため転載できませんので、以下のページを開いて御覧ください。他にもあります。
私たちの三瓶山 大昔の人々と三瓶山
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三瓶山麓の森と縄文人 |
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西川津式土器
縄文前期
西川津遺跡:松江市 |
押形文土器(黄島式)
堀田上遺跡
邑智郡瑞穂町市木 |
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220弥生時代
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考察 西日本における稲作渡来民の遊動
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他地域の稲作の伝播
以前、山形県での稲作文化の浸透を見たとき、弥生文化は日本海側の最上川河口に到着し、そこから川を遡りながら広がっていった。しかし、
弥生人の痕跡は河口付近だったが、稲作は縄文人の手によって広がり、縄文集落に田んぼが作られて行った。(稲作民は海から来た)
中国地方での伝播
しかし、中国地方の場合は全く違うのだ。弥生文化がいきなり中国山地の奥深くから始まる。と、同時に海岸部からも始まる。
これを解釈すると、稲作民は船でやって来て河口付近に湿地帯があるのに、いきなり山奥に分け入ったように見える。なぜこんなことを。
旧石器人の高速道路
以前、岡山県の遺跡を調べたときに取り上げた「旧石器人の遊動と植民 稲田考司著」では、道路も港もなかった時代、旧石器人の遊動路は山頂であった。山地・山脈の山頂(ピーク)を辿っていくとそこは通行が簡単で、一本道であり、概ね道に迷うこともなく、たとえ道を外したとしてもやがてどこかで合流してしまう。中国地方には陸の中心を東西に走るこのような横断路があり、そこに南北の縦断路があり、これは河川を遡る険しい道で、その先には海の道としての日本海沿いの道や、瀬戸内沿いの海岸路があった。海岸路は崖や断崖が多く、山の道以上にたどりにくいものである。
縄文時代の山頂道路
この道路が、定住生活の縄文時代にすたれたと思っていたのは間違いだった。この道は高速道路であり、猟師の道である。西日本は、東日本ほど縄文1万年間の活動が活発ではなかったとはいえ、やはり人々がいて活動すれば、便利な道は繋がり続けたのだろう。
この道の東の入口は兵庫県の氷ノ山付近であり、西に行けば広島県の冠山に到達する。その先はどこまで続いていたのかは知らない。
二つの稲作文化
菜畑遺跡と板付遺跡は初期の稲作遺跡といわれる。が、二つの性格は異なり、菜畑は水田稲作で、板付は陸稲稲作といわれる。
水田稲作は、河口付近の低湿地を探して海路を日本海や瀬戸内にとって東進し、(稲作漁撈と、灌漑技術の集団である)広がったと考えられる。
陸稲稲作文化の進展
陸稲稲作民は、焼き畑や狩猟を文化とし、山の中へ踏み込んで行っただろう。どちらも困難で危険な生きざまではあるが、そんな文化の人々だった。
彼ら陸稲文化人が、縄文時代まで使われ続けた中国山地の山の道を知れば、(といっても狩猟民ならいずれは見つける道である)、山の人の拡散は早い。ましてや、中国山地の頂上部分は平坦地が多く、一種桃源郷のように穏やかで、狩猟や焼き畑、雑穀農耕には最適の土地であり、山菜も豊富である。ここに、山の弥生文化が生まれても不思議ではない。それが、やがて四隅突出型墳丘墓などの弥生文化となり、いち早く、勢力を伸ばした集団であった。と、私は考えるのだ。
この記述の理由
下に「弥生ムラ誕生」での「海の道・山の道」の説明。下図⑤のオレンジ色の「海・山」の道の「山の道」の説明でした。 |
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221弥生ムラ誕生
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紀元前3~4世紀頃、私達の祖先の暮らしや社会に画期的な変化が起こりました。
それは、コメ作りの開始とやがて伝わる金属器(鉄器・青銅器)の普及による本格的な農耕社会の成立です。
米作りとそれに伴う様々な文化は、まず、アジア大陸を源流に朝鮮半島を経由し、北部九州へ伝来します。
その後、日本海沿岸の「海の道」と、中国山地の「山の道」と呼ぶべき主なルートを通じて、島根の沿岸部に近い平野や山間の盆地へと伝わって行きました。
米という安定した食料を獲得したことで、弥生のムラが各地に誕生しました。 |
稲作を伝えた民
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稲作を伝えた最初の民は、海流に乗り、又は山野を超えて西方からやってきた。
その中には大陸系の磨製石斧や朝鮮系無文土器、やや遅れて土笛など、大陸や朝鮮半島の影響を受けた文物を携えた渡来人もいた。
彼らは農耕や土木の技術、斬新な木器・石器・金属器などの道具とその製作技術、信仰や習慣などあらゆる面にわたって新風を吹き込んだ。
縄文文化の担い手たちも婚姻などを通じて徐々にその文化を受け入れ、独自の弥生文化を形成していったと思われる。 |
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弥生ムラ誕生 |
稲作を伝えた民 |
稲作を伝えた民 |
⑤県内の主な弥生前期遺跡
下のオレンジの道は山頂の道 |
西川津ムラ |
朝酌川遺跡群(松江市)
朝酌川の河床付近に位置し、多種多量の遺物が 出土している。
稲作が最初に定着した「弥生ムラ」の豊かな暮らしを思わせる |
稲作を伝えた民の墓
堀部第1遺跡
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稲作を伝えた民の墓 堀部第1遺跡 (松江市鹿島町) (鹿島歴史民俗資料館)
(弥生時代前期の化石砂丘の中から)弥生前期後半頃の配石墓が57基発見された。墓は地元で「長者の墓」と呼ばれる小丘陵を取り巻くように縦列に並んで出土した。墓上から土笛や土器、館内から碧玉製勾玉、石鏃などが出土した。
(山口県土井が浜の、砂に埋葬された大量の遺体を思い出す。数百年の時間差はあるが、望郷の念は同じようだ。)
配石墓:死者を木簡に納め、その上に石を多数並べて手厚く葬る。
鹿島町の遺跡 |
古浦砂丘遺跡
渡来人の素顔 |
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渡来人の素顔 古浦砂丘遺跡(鹿島町)弥生前期 鹿島歴史民俗資料館 古浦砂丘遺跡
弥生前期頃、日本海に面する砂丘上に築かれた共同墓地で、約60体の人骨が 発掘されている。
高身長で、面長、彫りの浅い顔を持つ渡来系弥生人が含まれ、この人物(左)もそのうちの成年男性とされる。
額や頭の一部の緑青色は、青銅の飾り具をつけていた証か。(ティアラ) |
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222西川津遺跡 松江市西川津町字海崎・大内谷・宮尾坪内・原ノ前
西川津遺跡 |
弥生時代中期の骨角器 |
骨角器、釣り針 |
ヤス・針・かんざし |
管玉の製作過程を示す未成品 |
管玉の製作過程模式図
管玉の制作工房跡 |
弥生時代の石器
西川津遺跡:松江市 |
石製武器 |
石斧 石包丁 |
舟形土製品
分銅型土製品 |
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タテチョウ遺跡の土笛
土笛(陶塤)
タテチョウ遺跡
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「弥生前期(約2300年前)に、西日本の日本海沿岸地方でよく使われた土製の笛」 とされる。
この笛は、見える大きな穴を口の前で水平にし、穴の断面に対して水平に、丁度瓶の口を吹いて音を出すように、息を吹く。
容器中の空気が回転・振動し、その周波数に応じた音階が出るというのだが、この巨大な穴で音が出たのだろうか。
また、周囲の小穴で音階の変化が起きたのだろうか。
通常はもっと吹き口の穴を狭くし、高い音が出るようにする。オカリナとは違う。動画の吹き口は小さく本体は大きい。
この動画は二重奏をしている。音と映像とは別物のようだ。不信。本当に音が出たのかな。山口県立博物館でも同じ疑問。 |
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223弥生土器の移り変わり
最初の弥生土器 -遠賀川式土器-
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弥生土器は、縄文時代以来の土器づくりの技術の上に、米作りと共に朝鮮半島から伝わった土器の影響が加わって生まれた土器です。
本格的な農耕を営むようになった人々の手による最初の土器は、北部九州で生まれました。
この土器によく似たものは、本州北端までの各地で見つかっています。これらは、遠賀川式土器と呼ばれて、
広島市では東区中山東の中山貝塚、佐伯区利松の和田1号遺跡などで発見されています。
各地の遠賀川式土器は、形や文様に大きな変化が見られないことから、短期間のうちに伝わった弥生文化の指標となっています。 |
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前期
紀元前3~紀元前2世紀
遠賀川式土器 |
中期 紀元前2世紀~
紀元後1世紀頃 |
中期 |
中期 |
後期 紀元後1世紀~紀元後3世紀 |
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遠賀川式土器
引用弥生ムラ誕生 |
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※土器形式の詳細は不明でした。
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西川津遺跡をパンフレットで紹介します。 出雲国の東端、因幡との境にある遺跡です。
その土地の形成も、また、とても狭い範囲に遺跡が重なり合い、特に弥生時代以降におもしろい展開を見せるようです。
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230西川津遺跡 引用「西川津遺跡 山陰最大の級の弥生拠点集落」島根県埋蔵文化財調査センター
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231西川津遺跡 松江市西川津町字海崎・大内谷・宮尾坪内・原ノ前
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松江市西川津町に所在する西川津遺跡は朝酌川の堆積によって形成された松江平野の北部に位置し、縄文時代から現代に至るまでの長期間にわたる遺跡です。遺跡が所在する朝酌川流域には、前の原遺跡、タテチョウ遺跡といった大規模な遺跡が広がり、3つの遺跡を合わせて、「朝酌川遺跡群」と呼称しています。
低湿地に立地する環境から、普段は残らない木製品等の有機質の遺物が良好な状態で発見され、人々の暮しに関わる全てが残されています。
更に、多くの自然遺物や、河川の堆積土砂等の検討から当時の自然環境を復元することが出来ました。 |
はじめに
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西川津遺跡
松江市西川津町字
海崎・大内谷・宮尾坪内・原ノ前 |
はじめに
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はじめに
上に抜粋 |
朝酌川遺跡群 |
朝酌川遺跡群 |
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232西川津遺跡と松江平野の変遷
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西川津遺跡のある朝酌川周辺の古環境は、時代によって大きく変わっています。
今から1万年前(縄文早期)は、現代の地形とは大きく異なり、朝酌川が谷を形成しながら宍道湖から出雲平野の方へ流れていました。
その後、今から7,000年前(縄文時代早期末~前期初頭)は、今よりも温暖な気候で、海水面が急速に上昇する「縄文海進」の時代にあたります。
海が遺跡周辺の山裾まで広がり、「古宍道湖」と呼ばれる内湾ができます。この内湾の汀線が丁度遺跡の北端辺りになると考えられます。
また、内湾の底に堆積した泥層には約7,300年前に降灰した鬼界アカホヤ火山灰の堆積が確認されています。
海水面の上昇がピークを過ぎ、下降するようになると、河が運んだ土砂が内湾を埋め立て、平野が形成されていきます。この河川堆積によって形成された微高地に、弥生時代以降になると人々は集落を営み周辺の湿地を水田として利用していくことになります。 |
西川津遺跡と松江平野の変遷
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松江平野の変遷
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内湾時代に堆積した泥層(下部の縞状層はアカホヤ火山灰)
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松江平野の変遷
1万年前、4000年前
7千年前、2500年前 |
西川津遺跡の変遷
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・1万年前(縄文早期) |
・7千年前(早期末~前期初頭) |
・2500年前(弥生前期) |
・1200年前(奈良時代) |
・現代 |
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松江平野の変遷
10,000年前 |
1万年前(縄文早期)朝酌川が谷を形成しながら宍道湖から出雲平野の方へ西流していました。
(朝酌川は西に流れていた。今とは逆) |
7,000年前
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7千年前(縄文早期末~前期初頭)縄文海進の時期で、遺跡付近は水没し「古宍道湖」と呼ばれる内湾ができます。
この内湾の汀線が遺跡の北端にあたります。
内湾に堆積した泥層には約7300年前の鬼界アカホヤ火山灰の堆積が確認されています。 |
4,000年前 |
海水面の上昇がピークを過ぎ、下降するようになると、河が運んだ土砂が内湾を埋め立てて、平野が形成されていきます。 |
2,500年前 |
この河川堆積によって形成された微高地に、弥生時代以降になると人々は集落を営み、周辺の湿地を水田として利用していくことになります。 |
西川津遺跡の変遷
1万年前 縄文早期 |
約1万年前(縄文早期)の人々の生活の痕跡が確認され、
海崎地区では、縄文海進以前の谷地形から、押型文土器や木製品等が発見されました。 |
7,000年前
早期末~前期初頭 |
約7千年前にピークとなった海水面の上昇により遺跡は水没し内湾となり、上流側の海崎地区が沙付近となりました。
この渚付近では土坑や多くの土器が確認されており、内湾周辺での人々の生活の様子がわかります。
当時は鹿や猪を狩り、食料や骨角器の材料として利用しました。
約5千年には出土遺物が減少して人々の生活はなかった可能性があります。 |
2,500年前
弥生前期 |
その後海水面が下降していく縄文後期から晩期にかけては、河川堆積の影響を強く受け、朝酌川の河口はより南に移動していきます。
この河川堆積によって形成された微高地や低湿地が、その後の弥生人の生活拠点となりました。 |
1,200年前 奈良時代 |
現代 |
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233縄文時代の道具
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西川津遺跡では今から約1万年前頃の縄文時代早期人々の生活の痕跡が確認されています。
海崎地区(C区)では、縄文海進による海水準がピークを迎える前の谷地形が確認され、そこからは押型文が施された縄文土器、石器、木製品等が発見されました。
その後の約7千年前頃にピークを迎える海水面の急速な上昇によって遺跡の大部分は水没し内湾となり、上流側の海崎地区付近が汀線付近になりました。この汀線付近では土坑や多くの土器が確認されており、内湾周辺での人々の暮しの様子が具体的にわかります。
当時はシカやイノシシを狩り、食料としてだけでなく、角や骨も加工して様々な骨角器が作られました。
約5千年前頃はその前後と比べて出土遺物が減少しており、遺跡周辺は人々の生活の場ではなかった可能性があります。その後の海水面が下降していく後期から晩期にかけては、河川堆積の影響を強く受ける場所になり、朝酌川の河口はより南側の下流に移動していくことになります。
この河川堆積によって形成された微高地や低湿地が、その後の弥生時代の人々の生活拠点として積極的に利用されていくことになります。 |
縄文時代 |
縄文早期の土器・石器
海崎地区 |
縄文海進(前期)の道具
海崎地区
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骨角器と獣骨類(鹿猪)
縄文前期 海崎地区 |
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・縄文海進時(前期)の汀線付近に掘られた土坑 海崎地区
・縄文時代に川岸に打たれた杭列
杭列は漁撈のための施設と考え
られる |
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234弥生時代の西川津遺跡
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縄文後・晩期の河川堆積によって形成された微高地に(下図)、弥生時代になると積極的に人々が進出し、大規模で拠点的な集落が出現しました。
弥生時代の集落の居住域は上流部の鶴場地区や海崎地区等に想定されます。
正確な規模は不明ですが、両地区の上流部にある微高地(0.2km×0.4km)程の範囲に広がるものと想像されます。
ここに暮らした人々が営んだ水田跡や墓の跡は未だ不明ですが、居住域の周辺部に存在している可能性が高いと思われます。 |
解明され始めた西川津遺跡の集落
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2009年鶴場地区では、弥生時代前期と後期の環濠の可能性のある大溝が発見され、集落居住域の場所がわかりました。
大溝は、前期のものが少なくとも3条、後期のものが1条存在し、規模は幅2-3m、深1m前後と大規模なものです。 |
弥生時代の西川津遺跡
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集落の位置 |
弥生前期の西川津遺跡
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弥生前期の人々の暮しは、海崎地区や鶴場地区の調査から窺えます。
前期前半には二重の大溝が、後半には1重の大溝が掘られていた。これらは自然河道に並行するように掘られています。
また、海崎地区では木製品の製作に関わる貯木場が3基、貝塚(貝層)が4か所発見されています。 |
弥生前期の西川津遺跡
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集落の防御
大溝、杭列、鮭獲り罠
貯木場
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※川の中に円形に打ち込まれた杭は生簀として、現在も、カナダ・アラスカで行われている鮭の追い込み漁で使われています。
河道の端にいけすを作っておいて、そこに鮭を追い込んで、三本の銛を束ねた道具で鮭を挟んで捉えます。他の日本海側の遺跡からも同様の遺跡や道具が多く出土しています。 |
食生活
食生活
栃の実、炭化米
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海崎地区で発見された貝塚からは、猪、鹿などの獣骨やクロダイ、スズキ、サメなど魚骨、ヤマトシジミを中心とする貝類が多数出土しています。
また、鶴場地区からは大量の炭化米や栃の実が発見されています。
当時の人々が米作りをする一方で、自然界にあるものを食料として活用していたことが明らかとなりました。 |
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235出土遺物
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西川津遺跡は低湿地に存在する環境によって、土器や石器の他に、木器、骨角器、貝輪など様々な材質のものが良好に残っていました。
特に前期の出土遺物は膨大であり、当時の人々の様子を詳しく知ることが出来ます。 |
出土物
出土遺物 |
弥生土器、土笛、貝輪 |
弥生土器:大溝出土の弥生土器(鶴場地区)
土笛:宮尾・坪内地区出土
九州から山陰にかけての日本海側を中心に出土する特徴的な遺物です。
全国で100点余り出土し、西川津遺跡を含めた朝酌川遺跡群からはその半数以上が出土。
稲作と共に持ち込まれたものと思われます。
貝輪:海崎地区出土
南海産のアツソデ貝から作られた腕輪です。西川津遺跡で暮した人々の非常に幅広い交流を
伺うことが出来ます。
アツソデ貝:紀伊半島・奄美大島・沖縄県、水深30m |
稲作開始期の石器群 |
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稲作開始期の石器群(海崎地区出土):
縄文時代には見られなかった磨製の石斧や石包丁が見られる様になります。
ヒョウタン製容器(海崎地区出土):
ヒョウタン製容器は海崎地区から2個発見されています。
いずれも文様を焼きゴテによって描いており、非常に珍しいものです。
写真左のものは幾何学的な文様を組み合わせて描かれています。 |
前期の骨角器 |
前期の骨角器 |
前期の骨角器(海崎地区):
鹿角や猪の牙から作った釣針、鹿角や芸骨からできたアワビオコシが見つかっています。
先の尖った道具は鹿角やエイの棘尾を利用しています。
また、右の写真になるような小型品も見られ、矢筈といった弓の部品、魚骨のピアス、牙玉
かんざしといった装飾品も出土しています。 |
生産
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弥生時代前期の集落では、木製品(鍬や斧柄など)や石器(石斧や石包丁など)といった農耕具をはじめ、漆製品、骨角器、玉類(管玉などの装飾品)の様に様々な材質の道具を生産していたことが分かっています。また、これらの生産に伴う未成品などの出土品が膨大な量であることから、西川津遺跡の集落の中で使うものだけでなく、周辺のムラにも供給されていると考えられます。西川津遺跡の集落は生産と流通の拠点であったといえます。 |
生産
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生産
上に記述 |
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・斧柄と未成品(鶴場・海崎地区)
斧柄には石斧をセットする孔が開いた直柄と膝柄があります。
斧柄の多くはアカガシ製です。
・鍬と泥除け未成品
鍬は絵を差し込む部分が舟形に隆起しているものが多く、泥除けを
固定するための段が設けられています。鍬は硬いアカガシ製で、
泥除けはニガキやムクロジなどを利用しています。
・壺形容器の未成品
クスノキの瘤を利用して製作。胴部にはまだ樹皮が残っている。
壺形の容器は全国的にも珍しい。頸部には把手が付けられていたと
思われる。 |
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・管玉とその未成品・原石(海崎地区)
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山陰でもいち早く弥生の玉作りが行われた。軟らかい岩石を原材料にして薄い板を造り、それに溝を掘って切り取り、
管玉の材料になる棒状の石材にしていました。写真は前期から中期の玉作関連出土品 |
・漆製品と漆容器・ウルシ材(鶴場・海崎地区)
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遺跡では赤漆を塗った櫛等の装飾品が多く出土しています。これらは漆液を入れた小型壺や掻き傷のあるウルシ材の
出土によって、遺跡内で製作された可能性があります。漆容器内の漆のC14測定結果はBC520~390年です。 |
・掻き傷のあるウルシ材
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ウルシ材には漆を採取した掻き傷が見られます。弥生時代のものでは最古級の事例になります。
C14ではBC550-400となっています。 |
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236弥生時代中期の西川津遺跡
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前期の大溝(環濠)が確認された鶴場地区では弥生中期の出土土器は少なく、明確な遺構は確認されていません。おそらくこの地区は水田等に使用されたものと思われます。その一方で、海崎地区では 23基の貯木場や貝塚(貝層)が見られるなど、前期に引き続き木製品などの生産拠点として機能していたと考えられます。更に前期には確認されていない4棟の掘立柱建物が発見されています。 |
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掘立柱建物
柱穴の底に板材が礎板として敷設されていた
貯木場
貯木施設の多くは1㎡前後で小規模。大型は2.5m×1.5m。
施設周辺からは木製品の未成品や板材が大量に検出 |
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中期の弥生土器
中期になるとクシ描きで装飾した壺などが見られ、器種も豊富になります |
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土坑
長2.7×15m深0.7mの規模で、底に堆積した層からは多量のヒョウタンの種子が発見されており、覆屋のあるヒョウタン貯蔵庫の可能性があります。
弥生土器の出土状況 |
生産と祭祀
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前期に引き続き木製品、石器等の道具や漆製品、骨角器、玉類等の生産拠点であったと考えられます。その中で、黒漆でコーティングした漆塗り土器がこの時期から見られるようになり注目されます。 |
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・漆塗り土器と櫛
黒漆によってコーティングされた弥生土器は西川津遺跡をはじめ松江市内の遺跡から全国
の半数以上が発見されています。
・赤漆櫛の出土状況
旧河道の堆積層から赤漆塗櫛が発見されています。このような竹製の櫛歯を糸で綴じた
規格的な方形の櫛は西川津遺跡やタテチョウ遺跡で出土しています。
・分銅形土製品
遺跡の上流域に集中して9点の分銅形土製品が出土しています。
祭祀に使用されたものと考えられています。 |
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流水文銅鐸と銅鐸片
弥生時代後期の河道の堆積層から銅鐸が出土しています。その後同一の銅鐸の可能性がある小片が出土しています。
この小片も後期の河道から出土しています。出雲では銅鐸が埋納されている事例が多い中で、このような出土状況は注目
されています。
絵画土器
自然河道(旧朝酌川)の堆積層出土の土器片です。中期後葉~後期前葉頃の壺の胴部で、細い線で絵画が刻まれています。
絵画は「S」字状のものを2~3つ連続して描いており、ヘビや龍を表現している可能性があります。 |
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237弥生時代後期の西川津遺跡
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弥生時代後期には、鶴場地区で環濠と思われる大溝が確認されています。大溝は前期のものとは方向が異なり、ほぼ南北方向に近いものです。
おそらく海崎地区及びその周辺の調査区で確認されている自然河道(旧朝酌川)を意識し併行するように掘られた可能性が考えられます。
後期の大溝からは、大量の土器と共に木製品、漆製品(漆塗り蓋)、ガラス勾玉等が発見されています。 |
弥生後期の西川津遺跡
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後期大溝出土土器 |
器種:壺・甕・器台・高坏・堤脚坏など
産地:在地土器以外に西部瀬戸内地方や近畿地方の影響を受けた土器もある。
時期:後期前葉と後期末葉の二時期に分かれる。 |
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後期大溝
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前期の溝と交差するように掘られ
幅3.1m深1m程です。
出土土器の時期から、後期始め頃に掘られ、
後期の終わり頃には埋没していたと考えられます。 |
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ガラス勾玉
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形状が全国的にも類例がない
「J字形」のガラ勾玉が出土しています。
一見縄文時代の石製勾玉に見られる形状の一種に類似しています。 |
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後期大溝出土木器
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大溝からは、組み合わせ式の槽、鋤、四脚付台、鍬、漆塗蓋などが出土しています。
このうち槽は大型の杉板製で、年輪年代測定の結果、
最外周の年代は紀元前71年の結果が得られている。 |
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大溝の出土状況 |
木製の槽をはじめとする木製品は、溝の底に堆積した粘土層から発見されています。 |
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238西川津遺跡の弥生集落
西川津遺跡の弥生集落は次の様になります
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➀集落は大規模なもので、環濠を伴っている可能性が高く、弥生前期から後期までの約800年間もの長期間に渡って継続し営まれている。
②集落では弥生前期から木製品、石器、骨角器、漆製品、玉類の生産が大規模に行われ、製品は周辺の集落にも供給されていた。
③集落からは土笛、分銅形土製品、鳥形木製品、人面付土器、銅鐸等の祭祀遺物が出土し、特に土笛や分銅形土製品は同時期の他集落より
大量に出土している。
④集落内には南海産の貝輪やガラス勾玉といった特殊品を入手できた有力者(首長)の存在が想定される。
以上の特徴から西川津遺跡の弥生集落は生産、交流、祭祀において周辺集落の中核的な役割を担っていた「拠点集落」であったと考えられる。 |
1弥生集落の出現
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西川津遺跡の弥生集落は、今から2500年前頃の弥生前期には出現していたと考えられます。山陰の弥生前期の主要な遺跡は西川津遺跡同様、日本海沿岸部の低地に多く見られる特徴があります。出雲地方では前期の大規模集落として矢野遺跡(出雲市)があり、拠点的な性格が窺える遺跡です。 |
2前期の西川津遺跡の玉生産
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遺跡では様々なモノ作りが行われていましたが、管玉の生産は山陰でもいち早く行っていました。山陰の管玉生産の最古級の事例は長瀬高浜遺跡(鳥取県)ですが、技法が少し異なります。両者の技法を比較すると西川津遺跡の技法が大量生産に向いており、中期以降の玉作技術に継承されていくことになります。 |
3前期の西川津遺跡の環濠
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遺跡で確認された大溝は環濠の可能性がありますが、周辺の遺跡で弥生前期の環濠がよくわかる遺跡には田和山遺跡があります。これは丘陵上に所在し、環濠内に居住域がない特殊なもので西川津遺跡のような低地に立地する物とは性格が異なっていまます。
山陰では弥生前期の環濠を持ち、その中に居住域が確認されている確実な遺跡は現段階では確認されていません。
※何だろう。環濠の外に住居を作って中に住んでいない。環濠はおとりで、攻められたら籠らずに、バラバラで山の中に隠れるのかな。 |
4前期の西川津集落の墓地
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県内の弥生時代前期の墓地は、堀部第1遺跡(松江市)、原山遺跡(出雲市)鰐石遺跡(浜田市)といった日本海沿岸部や、山間部の板屋Ⅲ遺跡(飯南町)、沖丈遺跡(邑南町)で発見され手います。この時期の墓地はまとまって存在しているようであり、西河津遺跡の墓地も周辺のどこかにまとまって発見される可能性が考えられます。 |
5西河津遺跡の水田
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前期の大溝の中に残る当時の花粉を調べると、大溝の近辺で水田を行っている可能性は少ないので、やや離れた所にあったと思われます。
また、県内では弥生前期の水田は未確認で、中期になると布田遺跡(松江市)や浜寄・地方遺跡(益田市)で確認されています。 |
6後期の西河津遺跡の集落と墓地
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後期の集落は、大溝の存在、木製品等の未成品、ガラス勾玉や他地域の土器の出土から、拠点的な性格を持った集落が継続していた可能性がありますがよくわかっていません。
この時期の墓地は、山陰を中心に造られた四隅突出型墳丘墓が有名で、出雲地方で西谷墳墓群(出雲市)等で確認されています。
遺跡周辺では、北東へ2kmの丘陵に所在する沢下遺跡で確認されており、西河津集落に関わる墓地である可能性も考えられます。 |
7西河津遺跡の終焉
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発見されている大溝は、後期の終わり頃には確実に埋没しています。その後の古墳時代の様相は出土遺物から断片的にしか判りません。弥生時代に拠点集落として存在していた西河津遺跡は古墳時代という日本列島規模の変化の中で、大きく変貌を遂げた可能性が考えられます。 |
西河津の弥生集落
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西河津弥生集落の
想定範囲 |
山陰の主な弥生遺跡
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弥生土器・土製品
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西河津の弥生集落 |
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古墳時代~古代
239その後の西川津遺跡 古墳時代から古代
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古墳時代の集落の場所はまだ確認されていませんが、海崎地区では石組遺構が発見されており、朝酌川に関わった人々の痕跡が見られます。そのほかに、河川によって堆積した砂礫層などから、土器や木器の他に周辺で行われた祭祀に関わる卜骨が出土しています。 |
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250古墳時代
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251古墳時代の到来
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3世紀後半になると、近畿地方を中心として、九州南部や東北以北を除いた日本列島に広く及ぶ政治体制が生まれました。
この政治体制は、共通のシンボルとして前方後円墳という墓とそのまつりを生み出し、ここに古墳時代が始まりました。
ほどなくして、この動きに連動して、島根でも古墳が造られ始めます。
しかし、この時代に島根で作られた古墳は、大型の方墳を中心とした弥生時代からの伝統を強く受け継ぐものでした。
新しい政治体制の象徴である前方後円墳や円墳、埴輪などが登場するのは、更に後の4世紀後半のことになります。 |
古墳時代前期(前期末を除)の古墳分布
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島根の古墳時代前期の大型古墳は、弥生時代の
出雲東部の中心地であった安来市荒島周辺に集中する。
一方、西部の出雲市周辺には目立った古墳はなく、古墳時代の始まりと共に出雲地域で大きな政治的変動が生じたとみられる。
これらの大型古墳は弥生時代の四隅突出型墳丘墓の伝統をひく方墳で、埴輪はなく独自の祭祀土器を使うなど、
前方後円墳が主流となる全国的な様相の中で異彩を放っている。(不明瞭な表現:前方後円墳はないと言っている。) |
安来市荒島 |
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古墳時代の到来 |
古墳時代の到来
上に記述 |
古墳時代の到来
上に記述 |
古墳時代前期(前期末を除)の古墳分布
古墳時代の到来
上に記述 |
古墳時代前期(前期末を除)の古墳分布
大型は出雲東部に集中 |
中小首長の墓
加茂町 土井・砂1号墳
古墳前期前半
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1辺約10mの方墳。
造られた場所は神原神社古墳に近い。
木棺を直接土中に埋め、弥生時代から当地に伝わっていたとみられる中国製の鏡片が出土した |
卑弥呼の鏡を出した古墳 |
神原神社古墳 加茂町 古墳時代前期前半
一辺約30mの方墳で、県内でも最古級の古墳。
竪穴式石室からは「卑弥呼の鏡」とされる景初三年銘三角縁神獣鏡が出土した。
古墳の形や出土土器は地元の伝統的なものであるが、
石室や副葬品には近畿地方の強い影響が窺える。
※反ヤマトの出雲で、ヤマトから派遣された人か、
ヤマトと結んだ者か |
埋納坑中の土師器出土状況 |
石室の外に接して、祭祀に使った土器を納めた穴が見つかった。
このような土器は石室上からも発見されている。
※会食用の土器か |
土器棺の出土状況
土井・砂遺跡
雲南市加茂町神原
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土器棺は弥生時代終末~古墳時代中期にかけての墓制で、
古墳周辺からよく発見される。
埋納場所や大きさから首長一族のこどもを納めたとみられる。
※殉死や陪塚ではないのかな。 |
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252出雲は日本最大規模の玉生産地 (花仙山周辺)
出雲の玉作遺跡の分布
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出雲は全国でも有数の玉の生産地である。弥生時代から平安時代までの長期間にわたって玉作遺跡が認められているのは、出雲だけである。
良質の碧玉原石を産出する花仙山周辺には、玉湯町の史跡出雲玉作跡を中心として40遺跡以上が集中し、盛んに玉作が行われていました。 |
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出雲の玉作遺跡の分布
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出雲の玉作遺跡の分布
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「出雲の国風土記」引用
下に記述 |
忌部神戸。郡家の正西二十一里二百六十歩なり。国造。神吉詞奏しに、朝廷に参向う時の御沐の忌玉を作る。故、忌部と云う。
「出雲の国風土記」より
又、天富命をして、齋部の諸氏を率いて、種々の神宝、鏡・玉・矛・盾・木綿・麻等を作らしむ。櫛明玉命が孫は、
御祈玉(古語に、美保伎玉といふ。言ふこころは祈祷なり。)を造るその裔、今出雲国に在り。年毎に調物と共に其の玉を貢進る。
「古語拾遺」
凡出雲國の進る所の御富岐玉六十連は、(三時の大殿祭の料に州六連、臨時に廿四連)毎年十月以前に意宇郡の神戸の玉作氏をして
造り備へしめ、使いを差して進上せしめよ。
「延喜式」
玉作山。郡家の西南二十二里なり。(社あり)「出雲の国風土記」より |
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253
華麗な横穴墓の世界 6世紀後半以降
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6世紀後半以降、島根では山の斜面に穴をあけて造った、横穴墓と呼ばれる墓が数多く造られる。中でも伊出雲の横穴墓は、他の地域では主に古墳から出土する大刀が出土したり、石棺を持つものが多いうえ、横穴墓の上に墳丘を築くなど、特徴を持っている。 |
華麗な横穴墓の世界
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華麗な横穴墓の世界
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特徴1 飾り大刀や馬具を出土する横穴墓が多い。
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横穴墓の被葬者にはかなりの有力者も含んでいたらしい。
鷺の湯病院跡横穴墓は、大首長クラスの副葬品を持っている。 |
特徴2
横穴墓が墳丘を持っている
上塩冶横穴墓群 |
横穴墓が墳丘を持っている
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特徴3
家形石棺を持つ横穴墓が多い。
島田池1号横穴墓
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特徴4
出雲を三分する横穴墓の形態。
石棺式石室を模倣した横穴墓
石棺式石室(向山1号墳) |
横穴墓の形態は、東部と西部、山間部とでは、異なっている。
特に東部では、首長墓のシンボル、石棺式石室を模倣している。 |
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254玉製品
古墳時代の瑪瑙製勾玉の製作工程
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古墳時代の玉の製作は、大まかに、➀原石を割って形を整える ②粗く磨く ③穴を開ける ④仕上げ の段階を経てつくられる。
ただし、穴をあける段階は定まった工程の中に組み込まれていない。
荒割りには河原石のハンマー、 磨くためには各種の砥石、 穴あけには鉄製錐が使われた。
玉作工房から各段階で出来た石の破片や失敗作が大量に出土するが、出来上がった製品はほとんど出土しない。 |
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古墳時代の瑪瑙製勾玉の製作工程
瑪瑙原石(盗難) |
展示品の瑪瑙原石が盗まれて展示にならない。
嘆かわしい。 |
古墳時代の碧玉製管玉の製作工程
碧玉原石(盗難)
これも盗まれている |
鳥取県埋文でも同じことが起こっていた。
他地域では見ない現象。 |
鉄製品・馬具
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古墳時代の土器
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256前期
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前期 |
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257中期・後期
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258須恵器
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須恵器Ⅰ期 5世紀後半頃
須恵器Ⅱ期 6世紀前半頃 |
須恵器Ⅲ期(6世紀後半頃)
須恵器Ⅳ期(7世紀頃)紀頃
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270奈良・平安時代
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271奈良~平安時代前期 7世紀末~10世紀末
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7世紀の終わりから8世紀の初め頃、日本で最初の本格的な統一国家が成立し、律令という法律によって国を治める律令体制が確立します。
この体制は、摂関政治の始まる10世紀の終り頃まで続きました。
この時代は国ごとに国庁が置かれ、中央政府から派遣された国司が、国内の政治を行いました。
島根県には出雲国・石見国・隠岐国の3国がありました。国はさらに郡・里(郷)に分けられ、郡司・里長が国司の指揮のもと、政治を行う仕組みでした。
豪族の間には仏教が広まり、寺院の建立が活発になります。
8世紀中頃には聖武天皇の命令で、国ごとに国分寺・国分尼寺を建立する大事業も始まり、国家仏教が強力に推し進められていきました。 |
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272土器の移り変わり
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7世紀頃 |
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出雲国分寺創建期瓦
鬼瓦
中竹矢遺跡:松江市 |
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273
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274
9世紀以降 |
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275役所に関係する遺物
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大中小3サイズの土製分銅
風字硯
(江津市半田浜西遺跡)
円面硯
(松江市福富Ⅰ遺跡) |
役人の腰帯飾り 巡方・丸鞆
地位によって腰帯が定められていた
奈良三彩:江津市半田浜西遺跡 |
墨書土器
安来市石田遺跡 |
ヘラ書き土器 「吉」 |
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276寺院・祭祀に関係する遺物
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燈明皿・須恵器の皿 |
瓦塔・鉄鉢形土器
京都府篠窯産(亀岡市)の緑釉陶器
安来市才ノ神遺跡出土
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平安時代に重い焼き物を背負って京都府亀岡町から安来市まで売りに行った。こけたら終わりの危うい商い。儲からんなぁ。
私の子供の頃、60年以上前、一つがドラム缶二個分もあるブリキ製の米保存容器を二個背負って毎年売りに来るおじさんとか、煮干しや昆布を行商する人がいたなぁ。
この商いでどれだけの利益が出ただろう。日本中が貧しい時代。 |
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290平安後期・室町時代
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291平安後期~室町時代 約900~400年前
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11世紀末から12世紀半ば頃、院政が行われ、上皇が国の政治を動かしました。
一方、地方では武士が荘園開発を通じて力を蓄え、都の貴族や大寺社が国々に所有する荘園(領地)の荘官(管理人)を務めていました。
やがて武士は貴族の政治に不満を持つようになり、12世紀終わりには、武士を中心とした鎌倉幕府をつくりました。
鎌倉幕府の下では国ごとに守護が置かれ、当初はその警備にあたりました。しかし、次第に彼らは一国全体を支配するようになり、
室町時代には守護大名と呼ばれて室町幕府の全国支配を支えました。
また、守護に統率され、荘園の管理人として置かれた地頭も鎌倉時代の終り頃には荘園を奪い、室町時代には自らの領地を独自に支配するようになっていきました。
応仁の乱(1467年)以降、守護大名の多くは、家来によって次々と倒されていきました。
そして、守護大名に代わった新しい支配者は、戦国大名として成長していきました。 |
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293土器
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294平安後期~鎌倉時代
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白磁(宋代)
天満谷・大屋敷・中竹矢
遺跡 |
青木遺跡
出雲市東林木町
木碗・瓦 |
足が付いた鍋
備前すり鉢
硯 |
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295
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青磁(宋~元代)
土師質土器 |
白磁 青磁 |
すり鉢・こね鉢・瓦質土器 |
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296中世の湿地跡から発見された巨大卒塔婆群 山持遺跡
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遺跡からは死者の供養のために造られた卒塔婆が発見されています。
それらのほとんどは丸太の一部を平らにして墨書した柱状卒塔婆です。3区からは全長4.2mと国内でも最大規模の卒塔婆が出土し、年代も県内最古級です。これらの卒塔婆は湿地の周辺部や川のほとりに立て並べられていたものと考えられます。
卒塔婆の出土状況.
調査前の遺跡は水田で、大型の卒塔婆群は現地表から約1.5m掘り下げたところで、ほぼ水平の状態で出土しました。
※なぜ、建てられたのか。と、考えてみた。
①中世は世界的な気候寒冷化にあり、たくさんの餓死者を出したことは、都でも僧侶や貴族が建物を打ち壊して売り歩いたと文献にある。
この時代、死者は野ざらしにされることが多く、湿地などに打ち捨てられ、これに対して仏教寺院が巨大卒塔婆を立てて供養したのかもしれない。
②島根県地方では水葬が多く、まず、国譲り後の出雲大社の最高権威者は、何代にもわたって池に水葬されたという。
一般庶民も、昔からの風習で、湿地や沼地など、農業に不適な土地 (洪水で田畑が流される土地) などに水葬されたか、
それとも水葬された遺体が流され、集まってきたか、のところに供養塔を立てたのかもしれない。
③この頃、この地方で大規模な戦闘があり、その戦場に弔いのための卒塔婆を立てたのかもしれない。 |
中世の湿地から発見された巨大卒塔婆 |
柱状卒塔婆の出土状況 |
出土品では日本最大
木製卒塔婆 |
出土品では日本最大
木製卒塔婆
山持遺跡
古代末から近世の山持遺跡 |
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300縄文時代の棺
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301縄文時代の木棺墓 太田市仁摩町大国 古屋敷遺跡
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古屋敷遺跡は静間・仁摩道路の建設に伴い、2013年から発掘調査を行っています。
遺跡から、縄文時代後期(約4,000年前)から弥生時代前期(約2,500年前)の遺跡面が8面確認され、多数の遺物が出土しました。
この木棺墓は中国地方で2遺跡目となる珍しいもので、縄文時代の終わり頃の墓制を知る上で重要です。 |
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以下に「石見国」の古屋敷遺跡をパンフレットで紹介します。
「出雲国」に比べて「石見」は地方政治の中心なることもなく、遺跡が少ない地域で、石見銀山が唯一知られるところですが、
しかし、どこにも平等に独特な遺跡がありました。
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302古屋敷遺跡遺跡 引用しまねの遺跡 発掘調査パンフレット7 島根県大田市仁摩町大国 遺跡の位置を確認ください
縄文後期~弥生前期
古屋敷遺跡とは
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島根県大田市仁摩町大国にある古屋敷遺跡は、縄文後期から弥生前期の遺跡です。平成25~27年(2013-2015)に発掘調査されました。 |
古屋敷遺跡地下の様子
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遺跡は日本海に注ぐ潮川に面した仁摩平野最奥部にあります。一面の水田の広がるその下には、縄文から弥生時代にかけて人々が暮らした痕跡が、幾重にも積み重なっていました。
当時は山裾に沿って潮川から分岐した小川が流れており、人々は小川と潮川に挟まれた平地を水田や居住地として利用しながら生活していたようです。遺跡からは、彼らが生活に使用していた土器や石器などの様々な道具類が出土しました。また、木の実を貯蔵した水さらし場や建物跡、墓地なども見つかりました。 |
古屋敷遺跡は堆積物の多い、頻繁に洪水と土砂堆積に見舞われていた洪水常襲の遺跡でした。物凄い量の土砂に埋まっている。
山陰日本海側は、縄文時代から現代にいたるまで常に大規模災害が起こる地域でした。
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303縄文時代の古屋敷遺跡
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古屋敷遺跡では、縄文時代後期から弥生時代に至るまで、人々が暮らしていた痕跡が見つかりました。
縄文人たちは、簡単な建物を建てて住まいとし、様々な道具を駆使して生活していました。
遺跡からは狩猟・漁労・植物の採取に使われたと考えられる道具類や、それらを加工・調理するのに用いられた石器類、水辺に保管されたトチやクルミの実、魚骨など、彼らの生活を彷彿とさせる遺物が出土しています。 |
縄文時代の古屋敷遺跡 |
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305
落し穴の利用と動物の捕獲 |
栗の採集と貯蔵穴 |
マジカルアイテム? |
古屋敷遺跡では、表面に線や刻み目を入れたり、表面をつるつるに磨いたりしたナゾの石が幾つも出土しています。
丸いものや四角いものなど形は様々で、小さいものは直径2cm程、大きいものでは拳くらいのものまであります。
遺跡の周辺ではあまり見られない、白色の凝灰岩を選んで加工しているようです。
これらの使い方はよくわかりませんが、まじないの道具やお守りなどだったのかもしれません。 |
木製の棺を使った墓 |
古屋敷遺跡では、木の板と杭を組んで作られた棺が見つかりました。
木材を薄い板に加工するためには高い技術が必要で、西日本では弥生時代以降の墓に採用される例が増えます。
この木棺は全長1mにも満たない小さなもので、大人の墓としては窮屈です。成人していない若者のお墓だったかもしれません。
丁寧に作られた棺に埋葬されたこの人物は、どんな人だったのでしょうか。 |
注目出土品1 |
東日本の流行を取り入れた彩文土器 東日本からの移民が来た
黒色に焼き上げた土器の表面に赤色顔料を塗って、文様(Cと逆C)を描いています。
西日本の縄文晩期に一般的な浅鉢ですが、文様は東日本で多用されるモチーフで、島根県内では2例目です。
縄文晩期における東西交流を示す資料です。
縄文の日本海航路によって運ばれた人とモノ。 |
注目出土品2 |
漆塗り櫛・土製耳飾り
古屋敷遺跡からは、島根県初の発見となる縄文時代の漆塗り櫛が2点見つかりました。1つは美しい赤漆で塗られたもの。
もう一つは黒漆でちょっと地味な櫛ですが、半分以上が残っており、特徴的な角状の装飾を持つ櫛であることが分かりました。
X線CT検査で、マッチ棒ほどの太さの棒を組み合わせて骨組みを作り、漆液を塗り固めて作られていました。
この他、耳栓と呼ばれる耳飾りも出土しており、縄文人の好んだお洒落アイテムが明らかになりました。
※細ヒゴの芯材以外は漆を固めて作った豪華な櫛。現代でも高価なものです。
今でいえばレジンで固めたタマムシの櫛みたいな。 |
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306弥生時代の古屋敷遺跡 本格的な米作りの時代がやって来た
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古屋敷遺跡では遺跡の東西を貫く幅1m程の水路が発見されています。この水路は、遺跡の東側を流れる潮川から引いた灌漑用水路だと思われます。更に、遺跡の北西部では不整形ながら、畔(あぜ)の痕跡を検出しました。
これらの水路や畔が造られた時代は弥生時代前期。古屋敷遺跡でも、本格的に稲作が行われる時代に突入したようです。
稲作は日本では北部九州から始まり、縄文土器とは異なるデザインを持つ弥生土器、穂摘み具などに用いる新型の石器、そして灌漑技術がセットになって、列島各地へ伝えられていくようです。特に弥生土器の壺は、稲籾を運んだ道具と考える説もあり、以前に旧仁摩町が実施した発掘調査では、炭化米も出土している事から注目されます。 |
畔の検出
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古屋敷遺跡北西部では、畔を発見。水田跡と考えられています。
畔は幅約50cm高さ約10cm程で、一辺3~5m程の長方形の区画を作り出しています。この区画がそれぞれ一枚の水田です。
南側には、同じ時期の灌漑用の水路が通っています。 |
真上から見た古屋敷遺跡
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写真上が北です。北東側から流れて来た川が、遺跡をまわり込むように、南から西に向かっています。また、東側から水を引いて、遺跡の中ほどを貫くように灌漑水路が造られていました。
畔が残る水田跡が見つかったのは、遺跡北西部です。おそらく、水路よりも北側には水田が広がっていたのでしょう。
また、この水路を挟んだ南側には、墓と思われる穴や、土器を焼いた可能性のある炭の詰まった土坑が見つかっています。
水路を境として、南北で異なる土地利用が行われていたかもしれません。 |
弥生時代の土器と石器
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縄文時代にはあまり見られなかった、丸い胴部と細い首を備えた壺形土器。肩の部分には、文様も描かれています。
手前は弥生時代になって使われ始めた新型の石器。古屋敷遺跡では、穂摘み具や新しい形の斧等の縄文時代にはなかった道具が発見されました。 |
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309古屋敷遺跡 引用古屋敷遺跡現地説明会
古屋敷遺跡現地説明会
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古屋敷遺跡平面図
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土層と水路跡
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検出遺構
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木棺墓
約2600~2500年前
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★土坑の規模:長さ約130cm、幅約80cm、深さ30cm
★木棺の規模:長さ約110cm、幅約50cm、高さ30cm
縄文晩期の木棺で、側板や底板などの板材が良好に残存している。側板や小口板は要所に打ち込まれた杭により固定されています。
縄文時代の木棺は御堂遺跡(山口県)に次いで2遺跡目です。(古屋敷では昨年の1基と合わせて2基目) |
配石遺構 |
長さ約2m、幅約1.1mにわたって石がまとめて並べられた遺構です。南端に位置する1石のみが立てて据えられています。
配石の下に土坑はなく(墓地でない)、その用途は不明ですが、祭祀等の特別な目的があったものと考えられます。
県下では他に32遺跡で検出されていますが、益田市匹見町や奥出雲町などの山間部に多く、古屋敷遺跡のような沿岸部では多くは知られていません。 |
水さらし場遺構
約2900~2800年前 |
自然流路の岸辺に、丸太を50cm×70cmの枠状に組んで作られており、新鮮な水を供給する水路が附属しています。
木枠内からはトチやクルミの実が出土しており、これらを水漬けにして、アク抜きや種皮をふやかすための施設と考えられます。 |
地床炉 |
焼土や済が出注する、火を焚いた痕跡です。今年度の調査だけでも100箇所を超える地床炉が検出されており、調査区全体に点在しています。
縄文晩期の土層内に幾重にも重なって検出されることから、この地に断続的に集落が営まれていたことがわかります。 |
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311弥生時代の食物 西川津遺跡
弥生時代のタイムカプセル
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このコーナーには西川津遺跡から出土した自然遺物を展示しています。
西川津遺跡は松江市郊外にある弥生時代の低湿地遺跡で、動植物魚介類の依存体がよく残っていました。
展示資料は弥生前期から中期のものの中から50点を選んだものです。
低湿地遺跡は普通では朽ちてしまう遺物もそのまま残るので、多量の情報を得ることができます。
これらの遺物から弥生時代は農耕のほかに狩猟や漁労も重要な生業であったことがわかります。 |
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313食物残渣
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トチ
コナラ
アカガシ
ブドウ
クルミ |
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サンショウウ
マクワウリ
ヒョウタン |
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アワビ
コシダカガンガラ
イガイ
イボニシ
ウニ |
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レイシ
アカニシ
マガキ
チョウセンハマグリ
サザエ |
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カワニナ
マツカサガイ
ヤマトシジミ
サルボウ
サトウガイ |
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315魚
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魚種と残存部位 |
考古学には、人体への解剖学的知見もさることながら、小動物に対するそれも必要ですね。 |
魚種同定の部位 |
小動物の骨 弥生前期
西川津遺跡 |
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316動物骨 西川津遺跡 弥生時代前期
シカ骨
西川津遺跡
弥生前期 |
解体された角と落角 |
1.鹿角
シカの角は、毎年春に生え変わります。自然の落角は角座が平坦ですが、
狩猟によって解体された角には頭骨の一部が付いています。 |
シカの骨
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2.頭蓋骨
シカの頭蓋骨は丸みがあります。この頭蓋骨は鹿角が切り取られています。
5.肩甲骨
外面中央にある突起が非常に発達しているのが特徴です。
9.中手骨
人の手・足の甲にあたり共に2本の指骨が癒合して1本になっています。
中手骨や中足骨は骨角器の素材に使われます。
4.下顎骨、6上腕骨 |
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330土層・大甕
飯石郡頓原町板屋Ⅲ遺跡の土層
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第1ハイカ(火山灰)層
三瓶大平火山灰層(3600年前)
第2黒色土層
船元式土器含有層
標高266m
第2ハイカ(火山灰)層 ※ハイカ=火山灰の方言 |
備前焼大甕
富田川川床遺跡
1石入り
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350江戸時代 約400~130年前
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351江戸時代 約400~130年前
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16世紀の終り頃、戦乱の社会を平定して全国統一を進めた豊臣政権は、全国の農地の面積を測り、耕作責任者を明確にして年貢を掛ける基本台帳を作りました。(検地帳)
これは土地制度・税制を整えるだけでなく、武士と農民の身分上の区別を明らかにするという意味も持っていました。
17世紀の初め、徳川幕府は豊臣政権に代わって全国支配権を引き継ぎ、ここに江戸幕府が始まります。
徳川幕府は士農工商の身分制度を作り、全国を二百数十の藩に分けて支配を行いました。
この頃、出雲国には松江藩(隠岐は幕府から松江藩に預けられた)・広瀬藩など、石見国には浜田藩・津和野藩のほか幕府直轄領大森銀山などが成立しました。
また、幕府は、対外的には貿易独占とキリスト教禁止のためオランダ・中国・朝鮮とのみ貿易を行いました。
以後、19世紀の明治維新に至る約260年の間安定した社会が続きます。 |
富田城跡・富田川河床遺跡 安来市広瀬町
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富田城は飯梨川(旧名:富田川)を見下ろす月山に築かれた山城です。戦国大名尼子氏の居城で、江戸時代の初めに松江城ができて廃城になりました。
富田川河床遺跡(安来市広瀬町富田、広瀬)は、富田城の城下町として栄え、1666年の洪水により、川の下に埋もれてしまいました。
発掘調査により、道路に面した街並みや生活道具が見つかりました。 |
江戸時代
約400~130年前
上に記述 |
富田城跡・富田川河床遺跡
上に記述 |
富田城跡
戦国時代の山城跡 |
富田川河床遺跡
江戸時代の街並み |
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352江戸時代の陶器・日用品
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353富田城跡・富田川河床遺跡 安来市広瀬町
富田城跡
・富田川河床遺跡 |
富田城は飯梨川(旧:富田川)を見下ろす月山に築かれた山城です。
戦国大名尼子氏の居城で、江戸時代の初めに松江城ができて廃城になりました。
富田川河床遺跡は、富田城の城下町として栄え、1666年の洪水により、河の下に埋もれてしまいました。
発掘調査により、道路に面した町並みや生活道具が見つかりました。 |
古代しまね ~いにしえのしらべ~島根県
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「古代文化の宝庫」といわれる島根県には、青銅器が発見された荒神谷遺跡や、加茂岩倉遺跡、独特の形をした四隅突出型墳丘墓など、
特色のある貴重な文化財が数多く存在しています。
この文化財の中には、公共事業に先立つ調査で発見されたものや工事施行中、偶然発見されたものが多く、道路建設をはじめとする島根県の公共事業を促進していく上で大変関わり合いの深いものであり、今後も教育庁をはじめとする関係機関との連携を十分に図っていくことが必要です。
今回はこうした公共事業に伴い発見及び調査された文化財を中心に全国的に注目を集めた貴重な文化財をいくつがご紹介します。
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