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01経路 | |||||||||||||||||
02 | |||||||||||||||||
10道の駅金山 |
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11会津民家 中門造り住宅 (中門造曲家) 旧五十島家 中門造りは、 江戸時代に建てられた、雪国特有のカヤぶき平屋中門造りの家屋。曲がり家構造なので、うまやが中門の内部にあるのが特徴。 屋内には今では目にすることもない生活用品や野道具などがあり、当時の生活がしのばれます。 曲がり屋は、 馬屋と住宅がつながった南部曲がり屋と同じ形式の住居ですが、これは岩手県南部地方の呼び名で、ここでは「中門造り」というようです。 ただしここでは玄関が厩前から入るようになっています。岩手県の曲がり屋では馬屋とは別になっています。 五十島家 中門造り住宅 福島県指定重要文化財 金山町大字沼沢字安良田の五十島家が代々営農に使用した住居の主家です。 住居規模は、桁行九間×梁行3.5間 (16.2m×6.3m)の直屋(すごや)に、間口と出口がそれぞれ2.5間 (4.5m四方) のうまや(中門)が付された ものである。 直屋部分は、中座敷列を加えて四室列となり、規模・室列ともにこの地方の江戸時代の農民層の住居としてはやや大きく変化も見られる。 ※裕福の意味 この住居の特色は、中座敷列を含めて完全に四つ間型 (田の字式) で、馬屋を全て中門に収めた完全な馬屋中門の形態をとっており、また、 茶の間、中の部屋辺りまでは板敷きでなかった可能性も大きく、奥座敷にも床の間を供えないなど、相当に古い形をなしている。 (※茶の間・中の間は板敷・畳敷きでなく土間 で 奥座敷に床の間がない 形式) 建立年代を示す資料はないが、少なくとも十八世紀半ば以前と推定され、会津のうまや中門造りの成立との関連で、この住居の意義は大きい。 (※この家は、1750年代から、昭和53年1978年まで、約200年間、そのままの形で使われていました。) 昭和50年まで、家人は、土間で寝起きしていたということです。驚きです。 それで、大きめのちょっと裕福な家って、、、、 |
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20入口展示 金山町歴史民俗資料館 金山町は福島県西部に位置し、数千年も前から、只見川・野尻川等の川岸や、沼沢湖の周辺をおもに、多くの人々の生活の場になってきた。 この展示室は、山間のしかも豪雪地帯という厳しくも豊かな自然の中で、人々が汗と知恵を出し合って生き抜いてきた暮らしぶりと歴史を、 次世代に受け継いでいくために設けられました。 5400年前、沼沢火山の最後の大噴火が終わり、縄文時代の幕が開け、農耕の始まった弥生時代、山ノ内氏が君臨した戦国の世、そして生活 文化の花開く江戸時代から現在まで、ここでの生活は自然との関わりなしでは成り立たず、自然をあがめ、そして共存共栄の文化を築いてきました。 一つ一つの資料は金山町の宝物であり、それぞれが活躍していた時のことを、私たちに語り掛けてくることでしょう。今をちょっと離れて、それらの 声に耳を傾けてみてください。 |
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21漆ろうを使った和ろうそく作り 蝋絞り器 は、ドウまたは、絞り舟・舟などと呼ばれ、ケヤキなどの堅い木で作られています。 中央の繰り抜かれている所の両側に、カタやヤと呼ばれる山桑の堅い木で作られたものを入れ、その間に蒸した漆の実を詰めた麻袋をはめ(塡める) 掛矢でヤを打ち込みながら蝋を絞りました。 製蝋工程の中で、最も多くの用具と労力と高度の技術が必要とされる作業です。 会津漆器と製蝋 かつて会津では、会津漆器と蝋という二大産業を一本の木から生み出し、歴代の会津領主や藩主は、漆の効用を財政源に生かすため、 漆の木の栽培や、蝋の生産・販売などの保護奨励に努めてきました。 また、会津藩では、漆蝋の生産を年貢として収奪する政策をとってきました。当時の蝋役人を例えて、会津では最初威張りちらし後からこそこそ する人を「蝋役人のようだ」という言葉まであります。 金山町では、昭和30年代後半まで漆の実を原料とした和ろうそくが作られていました。 |
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21n沼沢湖 柳津町から会津只見町に向かう途中の山の上にある神秘的な湖です。水深96m周囲7km、5600年前に生まれたカルデラ湖です。 湖畔には妖精美術館などがあり、四季を通じて楽しめるリゾートでもあります。 湖は、いつも神秘の色を漂わせ、湖面に四季を美しく映しています。 周辺には、ブナ、ミズナラの森が広がり、野鳥が飛び交う自然と触れあう楽しみが沢山あります。 湖畔には、公園・オートキャンプ場・ハイキングコースなどが整備されています。
22沼沢カルデラの形成 東北地方の活火山は、沼沢火山を含めて、1400万年も前から活動を続けています。これは火山として仙人ほどの長生きです。 西日本では10万年~100万年。ところが沼沢火山は400万年ごとに活動するそうで、他の長生き火山も同様でしょう。 東北地方以外ではプレート境界の位置が動いて火山フロントが移動するのですが、東北地方では、超長期間同じ位置に沈み込んでいるようです。 すぐ隣り町の柳津町と会津美里町には、砂子原カルデラ、桧和田カルデラ、少し南の下郷町に塔のへつりカルデラなどあります。 引用カルデラ一覧
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はちじゅうりごえ 23八十里越 -先史時代からの重要街道- ※この街道を通じて東北の土器が火炎土器の成立に影響を与えました。 会津只見町から魚沼市の北端部を経由して新潟県三条市に至る街道(60km)のうちの難所部分、鞍掛峠965m~木の根峠845mである。 旅程の半分である。 八十里越の名の由来は、実際の距離は八里(約31km)でありながら、険しさゆえに急峻かつ長大な山道であることなど、諸説ある。 明治時代後期までは、新潟県中越地方北部と福島県会津地方南部とを結ぶ重要な街道で、新潟から南会津へは塩、魚類や鉄製品などの 生活物資が、南会津から新潟へは繊維の原料や林産物などが運ばれるなどしていた。引用wikipedia八十里越 考察 八十里越 縄文時代 (おそらく旧石器時代) から、重要な交易路で、福島から会津地方を通って、当時高い文化を築いていた中越地方の長岡に通じる 主要道でした。 この踏み分け道を通じて長岡の土器文化に、福島東部の大木式土器文化が影響を与え、また、火焔土器が逆流入してもきました。 現代。車が一般化し、交通網が発達するまでは(昭和40年代まで)、歩いて超える峠道が、近いことを理由に使い続けられました。 私もよく廃道を山歩きしたものです。今では、道は荒れ、それこそ廃道です。先史人の踏み分け道も、獣道程度のものだったのでしょう。 しかし、そこが先史人の重要な交通網の一つで、文化や物や人が交流したあとなのです。 |
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30縄文時代 |
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32寺岡遺跡 縄文中期 (約4500年前) このころの土器は大変豪華なもので、口縁部の渦巻き状の立体装飾は会津地方特有のものです。 |
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35石神平遺跡 縄文中期~後期 (4500~3500) 縄文中期 (約4200年前) 直径約7.3mの住居跡検出。屋内に埋設土器が普通は縦に2個だが、横に2個並んだ特異な複式炉を持つ。 |
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弥生時代 40宮崎遺跡 弥生時代中期 (約2000年前) の再葬墓・祭祀遺跡の墓地遺跡です。 発見されたお墓は、一度遺体をどこかで葬り、骨になった時点で骨を土器の中に入れて再び土中に埋葬する「再葬墓」で、関東地方北部の 葬送儀礼です。 一つの穴に土器棺が2個から10個ほど埋納され、これまでに150個もの土器棺が発見されています。壺が多く、他には筒形、深鉢型、蓋などが あります。 遺構は砂層を掘った穴の中に、再葬用の甕複数と小形土器を集中して埋葬したものと、砂層上に置かれた小形壺や石斧群、硬玉製砕管玉群等から なりたっている 引用 宮崎式弥生土器 以下の写真に紛れている宮崎遺跡の土器は、宮崎式弥生土器の標準土器です。 |
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土器の展示 |
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41寺岡遺跡 縄文中期土器 |
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42石神平遺跡 縄文中期~後期土器 |
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43宮崎遺跡 弥生中期 (約2000年前) 弥生時代中頃のお墓が集中して発見された遺跡です。"こぶし館"の北約500mの只見川に面した金山町大字那珂川字平地内にある。 発見された墓は、一度遺体をどこかで葬り、骨になった時点で骨を土器の中に入れて再び土中に埋葬するという「再葬墓」です。 関東地方北部の葬法です。 一つの墓穴には土器が2個から10個ほど納められていました。 これまでに150個もの土器が発見されていますが、壺が多く、他には筒形のもの、深鉢形のもの、蓋などがあります。 【同一反復ですが】 弥生土器 |
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45石器 独鈷石 宮崎遺跡 仏教道具の独鈷杵(どっこしょ)に形が似ているのでこう呼ばれています。別名、両頭石斧です。 縄文晩期から弥生時代初め頃に多く作られますが、使用目的は不明です。 宮崎遺跡の独鈷石は反り身が大きい特徴から弥生時代のものと考えられています。中央にわずかに丹の赤い色が残っており、 部分的に塗られていたことがわかります。見事な加工技術を駆使して作られたこの独鈷石は、全国的に見ても優品の一つに数えられます。 |
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南会津のドライブ |
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50沼沢湖 |
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51行程 | |||||||||||||||||
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会津三島町の特産は桐のタンスです。「尾瀬街道みしま宿」の二階には桐タンスの展示館がありました。 |
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53妖精美術館と沼沢湖 妖精美術館は、深山の山頂に、静謐で神秘的な湖が広がり、その湖岸に立つ可愛らしい美術館です。 ここまで来たのなら見ていくのが自然です。 館内には北欧の妖精グッズがたくさんありました。特に二階のマイセン陶器の妖精像には驚かされました。ぜひ寄ってみてください。撮影禁止です。 |
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56沼沢村 沼沢火山の頂上には村があり、ずいぶん沢山の人が住んでいます。とっても不思議です。 多人数を養う耕地もなく、山林も、動物資源もなく、、、仕事がない土地になぜ村が成立しているのか。不思議です。 (カルデラ火口に、狭い火口丘があるのがわかりました。そこが住民たちの生活の場であったようです。) 家屋の建築様式は、前出の「中門造り」ではなく、冬用玄関のついた普通の民家でした。つまり、どの家も馬を飼っていなかったのです。 「馬」という交通運搬手段もなく、山の上の寒冷で、風雨の激しい土地で、何を生業にしているのでしょうか。わけがわからない。頭を抱えます。 |
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60只見町 |
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62長谷部家住宅 叶津番所 桁行14.35m梁間10.15mうまや中門付き寄棟造、かや葺 規模の大きい上層家屋 (裕福階級)で、うまや中門をつけた曲がり屋である。棟も高く、棟裏には小天井を張り、せがい造で、会津の通例として 外縁は備えず、座敷回りに内縁を付けている。もと座敷前面にあった乗り込みは近年撤去され、内部は現在のカッテ全体まで板敷であるが、 元は一部が土間であった。 カッテと居間境の柱の太さは33~35cm、今回りは23cmと一般に太く、居間境、刺し鴨居丈51cmと、共に雄大なものである。柱仕上げは何れも 鉋掛け面取りで、天井は大引き天井の居間を除いて、上段・座敷・中座敷とも、さお縁を用いている。 また、これらの部屋には何れも面皮なげしを回すなど上等な仕上げである。 建造年代を示す記録はないが、土間中二階の存在、中引と桁ととを等間隔に通した二重梁構造など、造作状況等からみて江戸後期と推定される。 尚、この長谷部家は旧叶津村の名主を務め、八十里越の番所と制札所があった所で、現在でも「御番所」の名称が残っている。 福島県教育委員会
訪問当日は開館日でしたが、入口に鎖を張って締め出していました。只見町役場に行くと、管理者が勝手に旧館にしているんです。行って下さい。 というが再訪するも返事もなく、裏に回ると三人の男女がワイワイ遊んでいた。何のための管理人かと、田舎にありがちなことなのでしょう。 あきらめました ド真ん前に駐車しているのは管理人です。観光施設を何だと思っているのでしよう。町の管理がダメだ。 |
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63只見町
中秋から晩秋にかけての、山のある地方への旅行には、細心の注意が必要です。 それは、カメムシです。 この超、強烈に、臭くて、、、、どこにでも潜り込んでくる、恐ろしい虫。 超恐怖です。 只見地方では、群れをなしてというが、群れではない。 もう、空気中に漂う気体分子のように、どこにでも、常に、大量に飛んでいる。 止まっていたら当然。 歩いていても、それこそ、何十キロで走っている車にでも何匹も取り付き、うっかりすると車を降りたとたんに 飛びついて来る始末。 あせって、払おうものなら、猛烈なにおいを残して飛んでいく。 脱いだ靴には潜り込み、足を入れると潰れてたまらない匂いを発し続け、靴は捨てなければ悪臭は取れず、足は洗っても洗ってもくさい。 この虫は日本全国の内陸部に生息しています。彼らは屋内で冬眠し、暖房すると集まってきて、匂いを発し、春に飛び立つまでは要注意です。 死んだものを踏んでもにおいます。ほんと、どうしようもない。皆さん、これからの紅葉見物には、ほんと、気を付けて下さい。 |