北部九州の縄文 №02 2020.11.10-2
水巻町立図書館内
水巻町歴史資料館 福岡県遠賀郡水巻町古賀3丁目18-1 093-201-0999 月休・撮影可
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交通 |
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鹿児島本線水巻駅下車 |
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タクシー 「図書館下の麓のエレベータまで」と行先支持します。 |
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徒歩 近いので歩けます。 山の上にありますが、麓の道路にエレベーターが設置されていますので、散歩程度の歩きです。
タクシーは図書館のエレベーターまでと言わないと料金が高くなります。 |
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特徴 |
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水巻町は遠賀川のそばにあり、出土する土器は遠賀川式土器です。
しかし、厳密には、遠賀川の西岸と東岸では文化が違うようです。
写真通信の「北九州市立埋蔵文化財センター」のページに記述済。 |
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目
次 |
10外観
20水巻の歴史
30水巻の歴史と文化
33旧石器時代
35縄文時代
37弥生時代
40水巻の歴史
41立屋敷遺跡
42遠賀川式土器
43高床建物の構造物
45立屋敷出土物
47宮尾遺跡B箱式石棺 |
100遠賀川式(系)土器の広がりと
稲作文化
110遠賀川式土器
120立屋敷遺跡の植物
130旧石器時代と縄文時代
140弥生時代の住まい
142竪穴住居
144高床建物
150小形仿製鏡
170四環鈴 |
180弥生時代
182九州の土器編年と暦年代
183弥生後期土器
190立屋敷遺跡の意義
210弥生土器
220古墳時代
221土師器と須恵器
222須恵器編年図
223古墳時代の土器
230中世
231中世の土器
取材後記 |
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はじめに
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水巻町歴史資料館は遠賀川の東岸に位置します。いわば遠賀川式土器の本場です。
しかし、私は遠賀川式土器の正体を知りません。そこで調べてまとめてみました。
遠賀川式土器とは、
①弥生時代前期の土器福岡県遠賀川岸の立屋敷遺跡で最初に発見された。
壺は口辺が発達し,胴が著しく張りだした器形をなし,胴上半部にへらや貝殻により羽状文や鋸歯文・弧線文が施されている。
伊勢湾岸地域以西に多く分布するが,東日本でも出土し,その系統の土器は東北北部にまで及ぶ。(コトバンク)
②西日本に分布する弥生時代前期の土器の総称。九州から西日本に広く分布し、それが初期の水田稲作の西から東への伝播の指標とされ、
西日本の弥生前期土器の総称としてつかわれるようになった。(Wiki)
③遠賀川式土器とは北九州から伊勢湾地域までの広い地域に分布する弥生時代の最初の土器です。
時期/弥生時代前期(約2200~2100年前) 種別/土器(壺・甕・鉢・高坏ほか)(豊橋市美術博物館)
④福岡県の遠賀川の河床で発見された土器は、九州から近畿地方に致る地域でみられる古式の弥生土器の特徴を持つことから、それらを遠賀川式土 器と総称し、弥生時代前期の土器として考えられるようになります。縄文晩期の夜臼式土器に伴って発見された「板付Ⅰ式」と呼ばれる土器が最古の弥 生土器として認定されることになります。(福岡市博物館)
遠賀川式土器の定義
遠賀川式土器とは北九州から伊勢湾地域までの広い地域に分布する弥生時代の最初の土器です。
壺・甕・鉢・高坏といった、縄文時代とは異なった特徴のある形を器が見られます。
遠賀川式土器を使った人々は初めて水田で稲作を行った人々で、
水田で使う木製の農耕具や石包丁・太形蛤刃石斧・柱状片刃石斧といった木工具を使用していま した。(豊橋市美術博物館)
遠賀川式土器の画像
遠賀川式土器と突帯文土器
突帯文土器=弥生早期土器、
遠賀川式土器(板付式土器)=弥生前期土器
遠賀川式土器の種類 器種 壺(つぼ)、甕(かめ)、鉢(はち)、高坏(たかつき)
遠賀川式土器 年代 弥生時代前期
遠賀川式土器 場所 分布図
分布は太平洋側では伊勢湾沿岸まで、日本海側では若狭湾沿岸までの西日本全域に及ぶとされたが、
その後南西諸島や本州北端の青森県までおよんでいることが分かった。Wiki遠賀川式土器
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10外観
水巻町図書館 |
館内に歴史資料館 |
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入口展示 |
特別展
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ごあいさつ |
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20水巻の歴史
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水巻古代史年表
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旧石器~縄文 |
弥生~古墳 |
古墳~奈良 |
奈良~平安 |
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水巻の歴史と文化財 |
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水巻の文化財概要 |
水巻の歴史と文化財
関連位置図 |
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30水巻の歴史と文化 |
31
水巻の歴史と文化財 |
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33旧石器時代
動物の渡来 |
石の道具 |
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台形石器と尖頭器 |
ナイフ形石器 |
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35縄文時代
縄文遺跡 |
人骨 |
頃末遺跡A地点 |
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遺跡地点
縄文後・晩期
4~3000年前の貝層 |
出土遺物 |
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37弥生時代
弥生時代の水巻 |
遠賀川下流域の古遠賀湾と縄文・弥生貝塚
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40水巻の歴史 |
41➀立屋敷遺跡(伊佐座・立屋敷)
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遠賀川にある弥生時代(紀元3~3世紀)にわたる集落跡で、弥生時代の研究をすすめるきっかけとなった記念碑的な遺跡。 |
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42➀遠賀川式土器
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弥生時代前期(紀元前3世紀)に、この土器と同じような形や文様のものが、米作りと共に東へ伝わったとされる。
最初に遠賀川で見つかったので、「遠賀川式土器」と言われ、西日本の弥生前期土器を代表する。甕形、壺形、鉢、高坏などの種類がある。
しかし、立屋敷遺跡では、この時期の水田はまだ発見されていない。 |
➀立屋敷遺跡 (1~3世紀)
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この時期の井戸、柱の痕跡、多量の土器、木製品が見つかっていて、集落の全盛期と考えられる。 |
➀遠賀川式土器
(立屋敷遺跡出土) |
遠賀川式土器 |
➀立屋敷遺跡第2次
弥生後期1~3c |
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43高床建物の構造物
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45立屋敷出土物
木製品 |
平鍬、田下駄、
又鍬、ジョッキ型容器
盆、鋤 |
立屋敷3次調査 |
土層 |
発掘調査 |
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ヒョウタン |
クリ、モモ |
貯蔵用土坑 |
イチイガシ |
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47
➀宮尾遺跡B箱式石棺 弥生中期
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標高25mの丘陵上にある弥生時代中期の墓域。板状の石を箱型に組み合わせたもの。付近の宮尾遺跡A地点で竪穴住居跡画発見されている。 |
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100遠賀川式(系)土器の広がりと稲作文化 弥生前期
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九州から本州にかけての弥生時代の遺跡では、水田跡や木製農具、石包丁、炭化米などとともに、遠賀川式土器やその影響を受けた土器が見つかり、遠賀川式土器は各地での米作りと深くかかわっていると考えられるようになりました。
しかし、その後の調査により、日本での米作りは、遠賀川式土器以前の弥生時代の始め(紀元前4世紀頃)北部九州の玄界灘沿岸で始まったことがわかってきました。
現在では、弥生時代前期までに遠賀川式(系)土器や米づくりの文化は、東北地方にまで伝わっていることが各地の発掘調査によって確認されています。
※上記の表現では、水田稲作は、南から北へ、北部九州から東北地方に順次伝播していったかのように受け取られますが、コメ作りが拡がったと単に表現しているだけで、南から北へは拡がれず、南は南で、東北は東北で別々の大陸の地域から伝播しました。
従って、遠賀川式土器も、東北の遠賀川系土器は別系統の伝播経路によって大陸北部からその文化がもたらされました。 |
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遠賀川式(系)土器の広がりと稲作文化
上に記述 |
全国の遠賀川式(系)
土器の分布地図 |
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遠賀川式
佐賀県菜畑遺跡
島根県西川津遺跡
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遠賀川系
青森県松石橋遺跡
八戸市 |
式と系
愛知県西志賀貝塚
群馬県押手遺跡
子持村
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遠賀川式は、
どうしても越せなかった三河湾まで
遠賀川系は、
若狭湾・粉河湾以東の北陸から東日本 |
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110遠賀川式土器 立屋敷遺跡 |
111
遠賀川式土器 |
甕 弥生前期
立屋敷遺跡 |
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小壺 前期
立屋敷遺跡 |
甕 前期
中間市砂山遠賀川採集 |
無頸壺 前期
立屋敷遺跡 |
広鉢 前期
立屋敷遺跡 |
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112遠賀川式土器
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壺 前期
立屋敷遺跡 |
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壺(羽状文) 前期
中間市砂山遠賀川 |
壺(羽状文) 前期
立屋敷遺跡 |
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120立屋敷遺跡の植物 45 190に重複
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木製鋤 後期
立屋敷遺跡 |
立屋敷遺跡出土木製品 |
平鍬、
田下駄、
又鍬、
ジョッキ型容器
盆、
鋤 |
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クリ・モモ 後期
立屋敷遺跡A地点 |
ヒョウタン
イチイガシ 後期
立屋敷遺跡B地点
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イチイガシ |
ドングリ貯蔵穴 |
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130旧石器時代と縄文時代
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旧石器時代は現在よりも寒くて、マンモスやナウマンゾウなどの大きな動物がいた。人々は、主に狩猟と植物採取によって食料を確保した時代である。
動物を捉える道具(狩猟具)としては、礫を打ち欠いた打製石器があり、動物の肉や毛皮を切るためのナイフ形石器や台形石器、先端を尖らせ柄に取り付けて投げ槍として利用された三稜尖頭器がある。
やがて、
縄文時代には、温暖化が進み、海水面が上昇した。動物もイノシシ・シカ・ウサギなどの小動物が出現して、それらを捉える道具として弓矢が発明された。矢の先端には打製石鏃が使われた。弓矢は、それまでの狩猟に進歩をもたらせたので、縄文時代は新石器時代とも言われる。
石器の材料となる石は、黒曜石やサヌカイトなどの硬い石が使われた。
※鹿児島県種子島で初めて出会った三稜尖頭器ですが、その用途が全く分からなかった。
三稜が投げ槍として使った時に刃部が3つあるので深く刺さりやすかったのかもしれない。 |
縄文時代
打製石鏃
黒曜石製 縄文
苗代谷遺跡包含層 |
打製石鏃
サヌカイト製 縄文
宮尾遺跡A-1地点
包含層
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打製石鏃
黒曜石製 縄文
宮尾遺跡A-1地点
包含層 |
三稜尖頭器 黒曜石
後期旧石器時代
苗代谷遺跡 |
縄文土器片
縄文後期
古遠賀川採集 |
縄文土器片
縄文後期
立屋敷遠賀川採集品 |
旧石器時代
台形石器 黒曜石
後期旧石器時代
苗代谷遺跡包含層 |
ナイフ形石器 黒曜石
後期旧石器時代
苗代谷遺跡包含層 |
イフ形石器 黒曜石
後期旧石器時代
宮尾遺跡A-1地点包含層
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140弥生時代の住まい |
141
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弥生時代の住まいには、竪穴住居と掘立柱建物、高床建物、平屋建物があります。
立屋敷遺跡の住まいは柱の痕跡が発見されているに過ぎず、竪穴住居や高床建物が存在したというのみで規模などは不明です。
そこで、甘木市平塚川添遺跡と大分県安国寺遺跡の例から推測し、模型として住居を再現してみました。
高床建物は通常は倉庫の役目を果たしますが、安国寺遺跡例は低湿地にあるため住居として使用されており、立屋敷遺跡と似た条件であったので参考にしました。高床建物には、地盤沈下を防止するために、(柱穴の)底に板を敷いたり、柱の下部を加工し、横木を組み合わせる方法をとっています。 |
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142竪穴住居
竪穴住居周堤の痕跡
大阪八尾市八尾南遺跡 |
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竪穴住居周堤の痕跡
大阪八尾市八尾南遺跡 |
竪穴住居9、10
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竪穴住居化粧壁の痕跡
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西側ベッド状遺構 |
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144高床建物
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150小形仿製鏡 弥生時代後期 上二貝塚
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国産の青銅製の鏡で、内行花文という花びらを模した文様があります。
一緒に見つかった土器から弥生時代後期のものと推定され、集落内の祭祀に使われたものと考えられます。
※古墳時代の仿製鏡はよく知られているが、弥生時代に既に仿製鏡が造られ、祭祀具となっていたことは、
青銅製武器祭祀以前の青銅鏡儀礼として記憶にとどめたい。 |
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160遺跡の発掘調査と報告書の作成
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遺跡の発掘調査と
報告書の作成 |
古賀城周辺調査と
採集遺物
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古賀城(水巻町古賀) |
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古賀立屋敷遺跡
採集遺物 中世
古賀立屋敷遺跡周辺
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170四環鈴しかんれい 古墳時代 5世紀代、八所神社
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青銅製の鈴で、正徳4年(1714)八所神社の境内を拡張した時に見つかった古墳の副葬品です。
現存する唯一のもので神宝として補完されています。用途は不明です。
※銅剣・銅鐸祭祀を禁じ、集められた青銅器を鋳熔かして、巴形銅器や三環鈴・四環鈴などが作られたと言われている。 |
貨幣 古代~近世
天禧通宝:平安-鎌倉
1017-21年初鋳
上二貝塚6号土坑
元符元寶:平安-鎌倉
1098年初鋳
上二貝塚6号土坑
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唐國通寶:平安-鎌倉
959年初鋳
上二貝塚6号土坑
景徳通寶:平安-鎌倉
1004年初鋳
上二貝塚2号土坑
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乾隆通寶:中国銭
江戸時代1736年初鋳
猪熊4丁目下水工事 |
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弥生時代
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180弥生遺跡の発掘 |
181どうして年代がわかるの?
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182九州の土器編年と暦年代
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183弥生後期土器
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甕 弥生後期
上二貝塚包含層 |
器台 弥生後期
上二貝塚包含層 |
壺 弥生後期
上二貝塚包含層 |
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190立屋敷遺跡の意義 弥生時代後期
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立屋敷遺跡は九州で初めて発見された弥生時代前期の土器発祥地として、研究史上重要な遺跡です。
過去3度の調査では高床式の建物跡と考えられる柱穴や、おびただしい量の土器から、弥生時代後期の一大集落跡であることがわかりました。
水田跡はまだ見つかっていませんが、石包丁や木製農具の出土により、米作りをしていたこともわかっています。
その傍らでヒョウタンを栽培したり、ドングリやクリ、モモの実なども採集していたのでしょう。当時の食生活の一部を知ることができます。
集落の全体像はまだよくわかっていません。今後は遺跡周辺で米作りを始めた頃の集落跡や水田跡の発見が期待できます。 |
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立屋敷遺跡の意義 |
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立屋敷遺跡
稲作文化発祥の地 |
遺跡の建てられた看板 |
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立屋敷遺跡出土の植物遺物
立屋敷遺跡出土の植物遺物 |
木製鋤 弥生後期
立屋敷遺跡 |
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立屋敷遺跡出土木製品 |
平鍬、又鍬、盆 |
田下駄、ジョッキ型容器 鋤 |
クリ、モモ、ヒョウタン
イチイガシ
弥生後期
立屋敷遺跡A・B地点 |
イチイガシ
(ドングリ) |
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200 |
210弥生土器 紀元前3世紀~3世紀 (弥生前期~後期)
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1884(明治17)年、東京本郷弥生町の向ヶ岡貝塚出それまでの縄文土器のような華やかな文様を持たない壺が見つかり、地名をとって弥生土器と名付けられました。
ひも状にした粘土を積み上げて、ヘラなどで形を整えてから乾燥させ、800℃くらいの温度で野焼きにしたものです。
主に、蓄えようの壺、煮炊き用の甕、食べ物の盛り付け用の鉢や高坏などがあります。 |
弥生後期
甕 後期
包含層 |
直口壺 後期
上二貝塚 |
高坏、鉢 後期
立屋敷遺跡A地点採集 |
弥生中期
甕 弥生中期
苗代谷遺跡1号大溝 |
甕底部 中期 苗代谷遺跡1号大溝 |
弥生中期 丹塗り |
中期
立屋敷遺跡採集 |
弥生時代の時期区分 |
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220古墳時代
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221土師器と須恵器(3世紀~7世紀)
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土師器とは弥生土器とほぼ同じもので赤みがかった素焼きの土器のことを言います。高坏、甕、碗などがあります。
須恵器は5世紀前半に朝鮮半島から伝わり、それ以前にはなかった登り窯の技術を使ったもので、1000℃以上で焼かれています。そのためとても丈夫で、はじくと金属のような音がします。
灰色がかった色味が特徴です。群単位で生産されたと考えられ、遠賀郡では岡垣町の野間窯跡(6世紀)があります。 |
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土師器と須恵器 |
登り窯の様子
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須恵器編年図
5~9世紀 |
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222須恵器編年図 5~9世紀
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223古墳時代の土器
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土師器小型丸底壺
古墳時代(5世紀)
苗代谷遺跡6号竪穴住居跡
手づくね土器
古墳時代(5~6世紀)
宮尾A-1地点Ⅱ区包含層
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土師器鉢、埦
古墳時代(5世紀)
苗代谷遺跡6号竪穴住居跡
土師器高坏
古墳時代(5世紀)
苗代谷遺跡包含層
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須恵器大甕(口縁部)
古墳時代(6世紀)
頃末遺跡A地点
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224甑 古墳時代(6世紀) 頃末遺跡A地点
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225
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須恵器 坏蓋、ハソウ
古墳時代(5世紀)
宮尾遺跡A-1地点包含層
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土師器高坏
古墳時代(6世紀)
頃末遺跡A地点 |
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226
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須恵器坏蓋坏身
古墳時代
吉田・桧ヶ谷採集
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須恵器脚付壺
古墳時代(6c後半) 吉田・桧ヶ谷採集
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須恵器堤瓶
古墳時代(6世紀)
遠賀川採集 |
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230中世
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231中世の土器 11世紀~16世紀
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平安時代から室町時代に使われた食器には、盛り付け用に土師器の皿や坏があり、煮炊き用には瓦質土器の鍋、釜などがありました。
これらは遺跡周辺で作られ流通していたと考えられます。
その他、蓄え用の器には、備前産(岡山県)の備前焼や亀山焼の壺や甕、、播磨産(兵庫県東部)の東播系の須恵器、、愛知県産の常滑焼、、
長崎県西彼杵産の滑石製の石鍋など、全国各地で生産された器が見つかっています。
さらに博多での貿易の結果、中国産の青磁や白磁などの輸入陶磁器がもたらされました。 |
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中世の土器
11世紀~16世紀 |
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232
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土師器小皿
鎌倉時代12~13c
立屋敷丸ノ内遺跡 |
土師器坏
鎌倉~南北朝13-14c 立屋敷丸ノ内遺跡
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233
白磁皿(平安-鎌倉)11-12c
立屋敷丸ノ内遺跡
白磁碗(平安-鎌倉)12-13c
鯉口遺跡包含層
白磁碗(平安-鎌倉)11-12c
頃末遺跡A
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青磁埦(平安-鎌倉)12-13c
苗代谷遺跡13号土坑
青磁碗(平安-鎌倉)12-13c
鯉口遺跡包含層 |
青磁碗(鎌倉時代)13c
上二貝塚包含層
青磁坏(平安~鎌倉)12-13c
上二貝塚16号土坑
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234
瓦器埦(平安-鎌倉)12-13c 上二貝塚包含層
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滑石製石鍋(鎌倉13c)
立屋敷丸ノ内遺跡
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亀山焼甕(鎌倉13c)
上二貝塚11号土坑 |
瓦質土器すり鉢(鎌倉13c)上二貝塚
陶器壺(備前焼)15-16c立屋敷丸ノ内遺跡
染付連子碗(中国、室町16c立屋敷丸ノ内遺跡)
陶器甕(常滑焼)南北朝-室町14-15c立屋敷丸ノ内遺跡
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取材後記
間違った期待を抱いて訪問しました。遠賀川河畔の資料館なので、遠賀川式土器文化についての資料が盛りだくさんだろうと考えていました。
バカな考えですね。
「成人用甕棺は、弥生中期を中心に遠賀川以西で用いられたが、以東ではほとんど用いられなかった。」ので、明らかに支配者・支配民族の文化が異なり、大河遠賀川は国境の川となり、文化の分け目となっていたのです。
遠賀川式土器とは、「1931年(昭和6年)福岡県遠賀川下流の川床で多量の弥生土器が採集された。1937年(昭和17年)九州から近畿地方まで広く分布する共通した特徴を持つ土器に小林行雄が遠賀川式と名付けた。」by wiki その 「遠賀川式土器発見地」は水巻町立屋敷遺跡by wikiとあるので、
この土器は遠賀川の両岸に分布しています。
遠賀川式土器は半島人の北部九州渡来以前の、朝鮮半島で広く共通した土器文化であり、遠賀川以東の箱式石棺文化や以西の甕棺墓文化・支石墓文化以前の北部九州共通の文化であり、その後これらの埋葬文化をもつ支配者が渡来して地域を支配したためにこのような地域差が生まれたようにおもえます。
「立屋敷遺跡」を水巻町は「稲作文化発祥の地」としていますが、これは「遠賀川式土器発見の地」と改めるべきでしょうし、その方が意味がわかります。 |
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