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 新潟の縄文 №10 2020.09.28-2

  釜蓋遺跡ガイダンス    新潟県上越市大和5丁目6 025-520-7166 火曜休館撮影可
   上越市埋蔵文化財センターの管轄下

交通 北陸新幹線上越妙高駅から徒歩3分
特徴 弥生時代の玉作遺跡
 




01外観
02入口展示
03遺跡写真
04展示室全景

10交流をテーマに
11弥生時代の勾玉工房~吹上遺跡~
12白い土器と赤い土器

20北陸の遺跡から見る
21白い土器 北陸系
22赤い土器 信州系
31年表
32中期吹上遺跡
33白い土器
35赤い土器
50後期土器
 白い土器
60弥生の山城

62釜蓋遺跡-物流の拠点-
63白い土器

70弥生の「都市」か-釜蓋遺跡-
72各地の環濠集落
73洪水と戦った釜蓋の人々
80腐らなかった木の道具
90人と人をつなぐ川
92甕
95竪穴建物の柱根
100焼けていた建物の跡
104竪穴建物
105柱の土台

※考察 木製の土台
107礎板
110千八百年前の米蔵か?
113作った器でご飯を炊いてみると
 調理の道具

115日本の米作りはどこから?
116米どころ高田平野のパイオニア
 石包丁・籾圧痕土器

120釜蓋遺跡でも翡翠の玉づくりか
121ヒスイのふるさと糸魚川
123吹上ブランドの玉
124憧れのヒスイ製品
125勾玉製作資料

130本物を見て作った土製品
140交流を示す土器
143上越は文化の交差点
150謎解きの木
 

※はじめに
 北陸新幹線 上越妙高駅、旧名称信越本線脇野田駅、の西側に広大に広がる釜蓋遺跡公園があります。
本館はこの遺跡出土の遺物の展示館です。

 この館を訪問する前に上越市埋蔵文化財センターに行きました。広大で大きな建物でしたが
ここでは、中世戦国時代の春日山文化、長尾景虎時代の文化を展示されており、
旧石器から古代の遺物は、四角い中庭に面してガラス張りの棚を作り、並べています。太陽の光を受けてガラスがキラキラ輝いていました。
全ての博物館で、「フラッシュ禁止」と言っているが、この館では、フラッシュどころか日光にさらしっぱなしである。(大笑)

 全ての展示室を占拠している長尾景虎時代の展示物にはほとんど価値を見いだせず、
先史・古代の展示物を掲示しようと思ったのですが、全ての写真は「ピカビカに光って、あきれ返るほど見えない」のでやめました。また、

 受付には、館員かバイトか? 中世人の恰好をした女性が3人集まっていた。(なぜ埋文が観光施設を真似ているんだ。研究施設でしょう)
 以前、直江津駅に降りた時、随分斜陽化していると感じました。稼ぎガシラの港湾がさびれ、街はシャッター通り、、観光でと言うのはわかるが、
上越市立歴史博物館も春日山城一辺倒の展示。しかし、そんな戦国武将と言うだけの幅の狭い文化をアピールしたって、人は来ないと思うがなぁ、、

 ということで、上越市埋文の掲載をやめて、「釜蓋遺跡ガイダンス」と言う(名称もヘンだよね)、上越市唯一の考古学施設を掲示します。
と言っても、ここは上越市埋文の管理下にある施設です。小さいですが、上越市の先史時代を知る唯一の博物館です。よろしくお願いします。


※ちなみに、釜蓋遺跡は弥生中期から古墳初期の環濠集落で、環濠の中では、糸魚川などから持ち込んだ翡翠の玉作りを行っていました。
 これも館内では、まとめて最初に書かれていません。
 
 01外観
釜蓋遺跡
新幹線上越妙高駅裏
釜蓋遺跡ガイダンス館
 02入口展示
さあ!歴史のたびに出かけよう!!
上越時空旅行
上越時空旅行
 03遺跡写真
釜蓋遺跡 環濠 周溝状遺構 周溝状遺構の黒色土から遺物がまとまって出土 大型竪穴建物跡
柱穴から壺が出土
大型建物跡 2棟
1棟は隅丸方形か円形
別棟は方形建物跡
大型竪穴建物跡 ↑堂塔の心礎に壺に入れた宝物等を埋納する習慣があるが、
弥生の大型竪穴建物の柱穴からも見つかるとは、とても珍しい。
あきらかに大きな柱を建てる前に壺を埋納している。
立派な建物で、それだけの儀礼をするべき建物、神聖な建物だったのかもしれない。
 04展示室全景
謎解きの木
 

 10交流をテーマに

 釜蓋遺跡ガイダンスがオープン
吹上斐太釜蓋の3つの遺跡からなる国史跡斐太遺跡群は、北陸地方と長野方面を結ぶルート上にあり、約2200年前からおよそ500年間、この地域の中心であり、また、人が行き来する交流の場でもありました。
それから約1700年の時を経て、平成27年3月に北陸新幹線が開業しました。釜蓋遺跡は、新たな上越の玄関、上越妙高駅の目の前にあります。釜蓋遺跡ガイダンスは、新たな交流の場として期待されます。

交流をテーマに 交流をテーマに
斐太遺跡群の位置図 斐太遺跡群釜蓋遺跡
ヒスイの原石 ヒスイ原石 ヒスイ原石

 11弥生時代の勾玉工房 ~吹上遺跡
吹上遺跡は、弥生中期の今から約2200年前に勾玉や管玉を作る集落として始まりました。玉の材料は、糸魚川産のヒスイなどが使われました。
吹上遺跡の玉作りは長く続かなかったことが わかっています。しかし、集落での生活は、その後約500年間続けられました。

 ※各地の支配者や権力構造がコロコロ替わる時代でしたから、原料の翡翠などの持ち出し搬入が出来なくなったのでしょうか。

弥生時代の勾玉工房
~吹上遺跡~
弥生時代の勾玉工房 吹上遺跡で見つかった玉 吹上遺跡大橋と吹上遺跡・妙高山を望む 上空から見た吹上遺跡

 12白い土器と赤い土器
吹上遺跡からは、北陸系の白い土器信州(長野)系の赤い土器が一緒に出土しました。この二つの土器は、時間の経過によって割合が変化します。
集落がつくられた頃は北陸系の土器が多く、約100年後には信州系の土器が多くなります。さらに200年後にはほとんどが北陸系の土器になります。
土器の割合の変化は、使っていた人たちの暮らしや交流に変化があったのではないかと考えられます。

※玉作り集落を巡って戦争し、奪い合ったのだろうか。玉の生産拠点を支配することは、巨大な経済力の保有を意味する。

白い土器と赤い土器 白い土器…八日市地方(ようかいちじかた)遺跡
石川県小松市
赤い土器…松原遺跡
長野県長野市
吹上遺跡での出来事と
土器の比率
約2200年前 玉作盛ん
北陸系土器70%

約2100年前 玉作衰退
北陸系土器26%
大きな墓が作られる

約1900年前
北陸系土器90%
大きな墓の周りに小さな墓が作られる
 

 20北陸の遺跡から見る

弥生時代中期は、白い土器は北陸の小松式、赤い土器は中期後半から後期にかけての栗林式土器 【信濃の赤い土器
             小松式8割、栗林式2割

弥生時代後期は、白い土器は北陸の法仏式、赤い土器は箱清水式土器です。【信濃川を巡る弥生時代の越後と信濃の交流-新潟市


  弥生時代中期の様相八日市地方遺跡の概要】より
八日市地方遺跡の変遷

中期中葉~中期後葉が最盛期。石川県~新潟まで支配した
各遺跡の並行関係

小松式文化圏が広かった時期、栗林式文化はまだ狭い範囲だった。この後勢力を拡大し、また、北陸文化に負ける。

櫛描文土器人が侵入して集落を形成する。
東海系条痕文土器廃れる。
各地との交流 北陸新幹線ルートの弥生文化を探る
小松式と栗林式の文化圏

白と赤の文化圏

 21白い土器 北陸系 吹上遺跡 弥生中期中頃 約2200年前 (小松式)

白い土器 北陸系
吹上遺跡 弥生中期中頃
約2200年前


高坏 高坏
 22赤い土器 信州系 吹上遺跡 弥生中期中頃 約2200年前 (栗林式)
無頸壷 台付鉢

 
 30
 31年表
紀元前5000年から
紀元後300年
紀元前100年~80年頃0
 32中期吹上遺跡 2100年前 
 33白い土器 北陸系 吹上遺跡 弥生中期末 約2100年前 (小松式)
白い土器 北陸系
吹上遺跡 弥生中期末
約2100年前


 35赤い土器 信州系 吹上遺跡 弥生中期末 約2100年前 (中島式)
赤い土器 信州系
吹上遺跡 弥生中期末
約2100年前
台付鉢

台付鉢・壺


 50後期土器


 白い土器 吹上遺跡 弥生時代後期後半 約1900年前 (法仏式土器)
高坏・器台・鉢 高坏・器台 高坏

 
 60弥生の山城 ~斐太遺跡
斐太遺跡青田川の扇状地を見下ろす丘の上にある集落跡で、約1900年前からおよそ150年間、人々が生活していました。今でも竪穴建物の跡が完全に埋まりきらずに、浅い窪みとして残っています。 丘の上にあって、空壕の跡もあることから、防御を意識した集落だったと考えられています。
 61
斐太遺跡
弥生の山城
 ~斐太遺跡~
斐太遺跡全体図
妙高市
竪穴建物跡
雪が残っている所
出土した土器
北陸系土器気が多い





 62釜蓋遺跡


 物流の拠点 ~釜蓋遺跡
釜蓋遺跡は、濠と川に囲まれた低地の集落跡で、今から約1800年前のおよそ100年間、人々が生活していました。
濠は古いものと新しいものがあり、新しい濠の時期には2つの区画が造られました。堀之内側では、米が出土した竪穴建物跡などが見つかっています。
川は、各地との物流のために利用されたのではないかと考えられています。

物流の拠点 上空から見た釜蓋遺跡

 63白い土器 北陸系 釜蓋遺跡 弥生時代終末期~古墳時代初頭 約1800年前 (法仏式)




器台 高坏

 70弥生の「都市」か
 71濠と川に囲まれた釜物遺跡
平成17年8月、新幹線駅前の開発に伴う発掘調査で、濠の跡が見つかりました。水田の土を約30cm掘ったところで、土の表面に白い土と線と黒い土の線があらわれました。
この線の正体は濠に埋まった土で、濠は集落を囲んでいました。東側には川もあって釜蓋遺跡が濠と川に囲まれ他集落だったことが明らかになりました。

剥ぎ取り標本 弥生の「都市」か 白い線と黒い線
濠の両端をあらわし、中に溜った泥が白い線となって見えた
1~3番目の濠跡の
剥ぎ取り標本

濠が次第に細く狭く浅くなっていく様子が分かる
黒い線はバクテリアや藻などの死骸が降り積もった炭化物

白い線は流れてきた砂などの石英質など

 72各地の環濠集落
環濠集落とは、濠に囲まれた集落のことを指します。環濠集落には、釜蓋遺跡のように低地のものと、斐太遺跡のように丘の上のものがあります。
低地の代表例が唐古・鍵遺跡(奈良県)や平塚川添遺跡(福岡県)など、丘の上の代表例が吉野ケ里遺跡などです。
いずれも各地の中心的な集落で、中には「国」の中心ではないかと言われる場所もあります。釜蓋遺跡もその可能性があります。

各地の環濠集落 低地の環濠遺跡
約1800年前
釜蓋 新潟・上越市
蔵王 新潟・佐渡市
上荕生田 福井市
室 福井・永平寺町
朝日 愛知・清須市
大塚 滋賀・長浜市
伊勢 滋賀・守山
平等坊・岩室 天理市
唐古・鍵 奈良田原本町
天神 島根・出雲市
古志遺跡群 出雲市
青谷1号 東広島市
野方中原 福岡市
平塚川添 福岡・朝倉市
惣座 佐賀・大和町
岡裏 佐賀・大和町
槙木 佐賀・大和町
原古賀三本木
  佐賀・みやぎ町
原古賀三本木
  佐賀・みやき町
賀来中学校 大分市
下郷H地区 大分市
1.釜蓋遺跡
9.唐古・鍵遺跡
14.平塚川添遺跡

 73洪水と戦った釜蓋の人々
この展示品は、釜蓋遺跡の濠の断面を現地で剥がし取ったものです。断面を見ると、濠の大きさや、どのようにして埋まったかなどを知ることができます。
洪水で土砂が運ばれると白い土が、水が流れていた時は砂が、水が流れないと植物が腐って黒い土が溜まりました。
また、洪水は繰り返し起こったようで、濠は何度も掘り直して使われていました。釜蓋遺跡の人たちにとって、濠はとても大事なものでした。

※(笑)上越妙高駅周辺の水災のハザードマップを調べようとしたが、なかなか出てこない。奥へ奥へ隠してしまって、、、なぜこんなことをするの?
 上越市付近は南部の山岳地帯から流れ下る河川の堆積作用でできた氾濫原で、江戸時代から繁栄していた都市、旧上越高田市に比べ、
 水田の中に造られた上越妙高駅周辺つまり釜蓋遺跡周辺は、低湿地で、将来の大水害の可能性があるのかもしれない。
 長野新幹線は未利用地を積極的に安く利用しているので、長野市赤沼の長野新幹線車両基地がハザードマップでは何メートルもの水没地域であるにもかかわらず、ただ、安いと言うだけで何編成もの新幹線を水没させた。脇野田地域が水田だったのも、水没可能性地域だったのかもしれない。

洪水と戦った釜蓋の人々
濠の土層標本を剥いでいる様子 濠の断面図
 
 80腐らなかった木の道具
濠に埋まった土の中からは、木製品が出土しました。木は、そのまま放っておくと腐ってしまうものですが、濠の中では幸運にも水と土にパックされ、埋まった当時の状態で残っていました。
濠には、木が並べられていた場所や、当時の人たちが不用になって捨てた木の道具など、当時の生活を知る手掛かりが腐らずに残されていました。

腐らなかった木の道具 濠から出土した木製品 濠の底から見つかった
木組み
濠から出土したもの
杉板
釜蓋遺跡

弥生終末~古墳前期
約1800年前
家屋が押し流されるほどの大水害が
起こり続けていたようだ。
しかし、廃村になるほどではなく、微妙な災害レベルだったようだ。

 90人と人をつなぐ川
集落の東側には、かわが 流れていました。かわとほりが 繋がっていた地点は確かめられていませんが、今の地表から約3.5m下の砂の中から、当時の人々が使っていた土器が出土しました。
釜蓋遺跡の人たちが、川のそばを生活の場所に選んだ理由は、川を利用して交流するためだったと考えられます。
 91
人と人をつなぐ川 調査風景 川の位置と調査地点
 92

 
 95竪穴建物の柱根
土台がなく柱だけを建てたもの
掘立柱建物
 96
竪穴建物の柱根

釜蓋遺跡
弥生終末~古墳初頭
今から約1800年前
竪穴建物の柱と土台

掘立柱建物の基礎
 
 100焼けていた建物の跡
釜蓋遺跡の西側の区画では、2棟の竪穴建物跡が調査されました。
左下の写真の建物は、一辺が約10mあって、炭になった木材、焼けた土が出土しました。そのために屋根の上に土を乗せた建物で、火事にあったことがわかりました。後で紹介する、米が出土した建物はこの建物です。
もう1棟の建物は洪水で運ばれたと考えられる白い土が入っていました。
 101
焼けていた建物の跡 2棟の竪穴建物跡 焼けた建物跡
炭になった木材と焼けた土が見えます
焼けていなかった建物
 102
竪穴建物の柱根 クリ材
釜蓋遺跡
弥生終末~古墳初頭
約1800年前
 
 104竪穴建物
竪穴建物 弥生時代
 105柱の土台 釜蓋遺跡 弥生時代終末~古墳時代初頭 約1800年前
木組み材

※考察 木製の土台
※この柱の木製土台は面白いと思います。掘立柱建物は単に土の穴に木の柱を埋め込んだものと思っていましたが、
現在の建物同様に柱を横に寝かした木材の上に木組みして建てていたようです。つまり、この木組みの下に石を置けば、礎石建物になるようですし、
木組みの下に根太(ねだ)を入れて全体を持ち上げて礎石の上に置けば、現代と変わらない建物構造になるということではないでしょうか。

※柱の下の横木はきっと、低湿地のため、地面に直接柱を建てた場合、柱が別々に沈んで建物が歪むからこのような方法をとったのでしょうね。
縄文時代の能登半島では柱の下に板を敷いて沈み込みを軽減していました。
 
 107礎板
洪水で運ばれてきた土が確認された竪穴建物跡 礎板ソバン 礎板(そばん)とは、礎(いしづえ)となる板材のことであり、建造物の土台となって、柱などを支える木の板のことをいう。 板材は腐食しやすいため、普通は礎石すなわち石材が基礎となることが一般的であるが、石材の得られにくい地域などでは基礎に板を用いることがある。 このような建物を礎板建物と称することがある。
 Googleサーチ Wikipedia
 108
竪穴建物の柱と礎板
 
 
 110千八百年前の米蔵か? 約2kgの米が焼けた竪穴建物跡から
平成21年12月、部分的に掘った建物の土の中に黒い粒があり、調べたところ約1800年前の米だとわかりました。
その2年後に建物全体を調査すると、米はおよそ26万つぶ(約3升2合6勺)ありました。
出土した米には、粒が並んだような状態の部分もあり、穂のまま保管されていた可能性があります。次の田植え用の種もみとして保管したと考えられます。
 111
1800年前の米蔵か 並んだような状態で米が出土しました 調査風景 数えてみたら
米 釜蓋遺跡
弥生終末~古墳初頭
約1800年前

 113作った器でご飯を炊いてみると
吹上・釜蓋遺跡応援団では、本物を真似た土器を作り、実際にご飯を炊いてみました。昔の人たちがどのようにしてご飯を食べたのかという実験です。
本物の土器についていた黒いススは、実験で作った土器にもきつきました。少し吹きこぼれましたが、うまく炊くことができ、おいしく食べられました。作った器についたおこげも、水を入れるときれいにはがれました。今後も楽しい謎解きに挑戦したいと思います。
なんで黒い米なんですか
釜蓋遺跡で見つかった米
作った器でご飯を炊いてみると
本物の土器と作った土器

釜蓋遺跡では、底に孔が開いた土器が出土しています。→
ご飯を炊くことができた

→この土器は鍋と組み合わせて、蒸し器として使われたという説があります。

 調理の道具 釜蓋遺跡  弥生終末~古墳初頭 約1800年前
調理の道具 内側におこげが付いた土器 底に穴があいた土器
内側に焦げが付いた土器
甕・蓋
底に穴があいた土器

※なぜか、展示には、大切なことが書かれていません。これは、きっと、学芸員が(ここの場合は館長一人ですが)説明する余地を残すために
わざと書かれていないのではないでしょうか。
 上掲の底に穴があいた土器は誰が考えても蒸し器(甑)でしょう。また、単に白い土器、赤い土器とだけしか書かないのも、各所で、ひとこと足りないのもそのせいではないでしょうか。


 115日本の米作りはどこから?
野生のイネは、日本列島にはありません。米作りが始まったのは、今から約7000年前の中国長江中・下流域と考えられています。そこから日本へ伝わったルートには、5つの説があります。約2500年前に九州地方に受け入れられた米作りは、およそ200年で青森県まで広がりました。日本の風土が米作りに適していたことを示しています。

日本の米作りはどこから
5つのルート説


116米どころ高田平野のパイオニア
 現在、高田平野は一面に水田が広がっていますが、弥生時代の平野の大半は湿地で、米作りに適さなかったようです。
 高田平野で今のところ最も古い米作りの道具は、吹上遺跡で出土しています。
 遺跡周辺は、なだらかな傾斜があり、水の管理がしやすいので、米作りに適したようです。
 北陸地方と長野を結ぶルート上だったことも理由の一つでしょう。

米どころ高田平野の
パイオニア
上空から見た青田川の扇状地
斐太・吹上・釜蓋遺跡
石包丁の利用


 石包丁 吹上遺跡 弥生中期 約2200年前
石包丁
吹上遺跡
弥生中期頃
 約2200年前
粘板岩 安山岩 安山岩
石包丁レプリカ
籾跡の付いた壺
吹上遺跡
弥生中期 約2200年前
 


 120釜蓋遺跡でも翡翠の玉づくりか


 121ヒスイのふるさと 糸魚川
ヒスイは非常に硬い岩石で、日本では約10ヶ所の産地が知られています。
その内、宝石としての価値が高いのは糸魚川産だけと言われ、日本各地の遺跡から出土したヒスイ製品で分析されたものは、全て糸魚川産とされています。
糸魚川市にある小滝川青海川上流のヒスイ産地は、国の天然記念物に指定されています。


釜蓋遺跡でも翡翠の玉づくりか
出土したヒスイの塊 穴の中から
加工跡のある翡翠出土
ヒスイのふるさと糸魚川 小滝川滝川のヒスイ ヒスイ産地と斐太遺跡群の位置
 

 123吹上ブランド ~勾玉と管玉~
吹上遺跡で盛んに造られていた玉は、ヒスイ製の勾玉と、緑色凝灰岩鉄石英製の管玉でした。
玉の材料になる岩石は、ヒスイが糸魚川産、緑色凝灰岩が佐渡市石川県小松市産でした。鉄石英は佐渡市産の「赤玉石」ではないかと考えられます。北陸地方の各地から集められた原石から、「吹上ブランド」の勾玉や管玉が作られました。

吹上ブランド
~勾玉と管玉~
~勾玉と管玉~ 吹上遺跡と石材の産地 緑色凝灰岩 小松市
 (八日市地方遺跡)

ヒスイ 糸魚川市

緑色凝灰岩 佐渡市
 (新穂玉作遺跡)
※石材産地には必ず玉作り遺跡があるのに、なぜか、糸魚川のヒスイ産地には玉作遺跡がなく、翡翠は各地へと運ばれ放題だった。
このような利権のある場所は必ず支配するものがたはずだが、産出場所が余りにも広範囲で支配しきれなかったのだろうか。



124憧れのヒスイ製品
「吹上ブランド」のヒスイ製勾玉は、ドーナツを半分に割ったような形をしています。北陸地方や長野県内でも作られましたが、弥生時代の遺跡の中で、吹上遺跡のヒスイ出土量は全国有数です。
「吹上ブランド」の勾玉は、東北地方南部から近畿地方、九州地方北部に分布し、中でも長野県に多く出土しています。各地の人たちが求めたこの勾玉は、あこがれの存在だったのかもしれません。

憧れのヒスイ 吹上遺跡の勾玉製作資料 八日市地方遺跡(石川県)の勾玉 松原遺跡(長野県)の
勾玉
 
 125勾玉製作資料

ヒスイ原石
加工途中のもの
勾玉・管玉
原石、勾玉・管玉 勾玉 管玉
加工途中のヒスイ ヒスイ原石
 

 130本物を見て作った土製品 吹上遺跡  モデルは柳沢遺跡の出土品(長野県中野市
銅鐸は青銅製のベルで、銅戈は青銅製の武器です。近畿地方や山陰地方、九州地方などに分布し、まつりの道具ではないかと言われています。銅鐸と銅戈が一緒に出土した柳沢遺跡(長野県中野市)は、最北端の出土地で照す。
吹上遺跡の出土品には、銅鐸と銅戈を真似て作った土製品と石製品があり、土製品には本物に似た紋様が刻まれています。作者は、柳沢遺跡の本物の青銅器を見て作った可能性があります。
 131
本物を見て作った土製品
柳沢遺跡発見の銅戈 柳沢遺跡発見の銅鐸 柳沢遺跡
長野県中野市

長野県最北部発見の
銅戈・銅鐸は大変貴重
柳沢遺跡の青銅器出土状況 銅戈出土状況 斐太遺跡群と柳沢遺跡の位置

 132本物を見て作った土製品 吹上遺跡
 展示している土製品は、本物の銅鐸・銅戈のの部分と考えられます。

銅戈形土製品
吹上遺跡 弥生時代
銅戈形土製品
銅鐸形土製品
銅鐸型石製品
吹上遺跡 弥生時代
 


 140交流を示す土器 吹上遺跡

 142

交流を示す土器
 壺 瀬戸内   佐渡の石材
打製石鏃
緑色凝灰岩 
打製石鏃
鉄石英 
 
長野方面の石材

打製石鏃 黒曜石
磨製石鏃 粘板岩
磨製石剣 粘板岩
磨製石斧 閃緑岩
磨製石鏃 粘板岩
交流を示す出土品
吹上遺跡
弥生中期
約2200~2100年前
近畿北部系 東海西部系 東北南部系
 140

 143上越は文化の交差点 ~時空を超えた交流の場所~
吹上遺跡では、出土した土器の特徴から、北陸地方や長野方面を始め、各地との交流が盛んだったことがわかります。
この地域は北陸地方と長野方面を結ぶルート上にあり、今も昔も変わらず文化の交差点であったと考えられます。

上越は文化の交差点 現在の上越市周辺の交通路 吹上遺跡出土の各地の土器



 交流を示す土器 釜蓋遺跡  弥生終末~古墳初頭 約1800年前
    甕 山陰系  台付壺 東海・近畿系  甕 東北南部
 
 
交流を示す土器
釜蓋遺跡
弥生終末~古墳初頭
約1800年前

北陸南西部
台付甕 信州系
 

 150謎解きの木