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 2018特別展の旅03 2018.08.29-2  2018特別展「縄文―1万年の美の鼓動」見学時

  東京国立博物館 東京都台東区上野公園13-9 03-3822-1111月休撮影可


交通 上野駅公園口から徒歩10分
  研究   石積塚を調べました。
  お詫び   私は外見風体が胡散臭いので、展示場の監視員に丁寧に写真を撮らせていただきますと言って撮影を始めたのだが、       
      ずっと付きまとって、または、隠れて見張って文句をたらたら言われて撮影可のものも撮れない状態でした。
私が撮っているのを見て、勝手に撮影を始めた他の人々には、何をとっていようが何も言わず、私だけ邪魔されました。(笑)

胡散臭い風貌というのは、生まれつきだからしょうがないのですが、本当に嫌でした。(*^^)v。 黙って撮影しましよう。
  お詫び   楽しくて、何度も何度も手を入れて書き綴っているので同じ話が何度も出てくると思います。ごめんなさい。

  
 目次

12特別展
 「縄文―1万年の美の鼓動」


入口展示
15常設展示室前
 展示案内

30旧石器時代
31氷河期の日本列島に暮らした人々
―道具作りの始まり―
33貫ノ木遺跡
35石材の産地と分布
36北海道の石器
37細石刃
40新潟の石器
41荒屋遺跡出土の石器 彫器

100縄文時代
110自然環境の変化と定住生活
 土器の出現とその変遷
111石棒
120草創期の土器(関東)
121花見山遺跡
140前期の土器
141円筒下層式土器
150中期の土器(関東)
160後期の土器(関東地方)
170晩期の土器(東北地方)
171亀ヶ岡遺跡の土器

300縄文時代
310縄文時代の生活道具
311工具
313狩りや漁の道具
315磨製石斧と打製石斧
320装身具と祈りの道具
327石の祈りの道具
330土偶

雑念 土偶

332土面・土版・岩版

350続縄文文化
351縄文時代後の北海道
352土器
360道具・装身具

370弥生時代
 突線鈕5式銅鐸
371大陸との交流と稲作の始まり
380前期の土器(九州・近畿)

390中期の土器(九州)

400弥生時代

研究 銅鐸の種類と変遷
401近畿式銅鐸と三遠式銅鐸
 図表からわかったこと
 銅鐸祭祀の消長とその背景


410祭器
411銅鐸の種類
411a流水文銅鐸

412銅鐸・銅矛・銅戈
 日本における青銅器の歴史

論文 武器型青銅器の展開
①論文要旨
 弥生早期・前期・中期
 後期・古墳時代
②論文抜粋
1弥生青銅器の登場  
(2)武器形青銅器登場の階梯
(3)銅鐸登場の階梯

2弥生青銅器の祭器化
(4)地域型青銅器の確立
 1地域型青銅器の分布
 2地域型青銅器と弥生社会
 ③荒神谷遺跡の大量埋納
(6)小結
3青銅器祭祀の終焉
(1)後期の青銅器祭祀
(2)青銅器の行方


413銅戈・銅矛
414弥生時代の祭りの道具
415銅矛・銅剣・銅戈と銅鐸
420朝鮮半島の青銅器 
423巴形銅器
426銅矛・銅剣・銅戈

考察 青銅器祭祀の終焉
おことわり
 吉備・讃岐・阿波の支配者


450弥生時代の生活道具
460装身具と祭りの道具
 
470大陸との交流と稲作の始まり
472小児用甕棺
473船橋遺跡出土の土器
474女方遺跡の土器
475後期の土器(九州・東海)
480旋帯文石
考察 旋帯文石
考察 上古の遺跡と信仰の対象


500古墳時代
510政治的社会の成熟
511-宝器の創出-
512土師器壺
513三世紀の東アジア

研究 朝鮮半島の歴史
  箕子(箕族)の交易活動

517三世紀の墳丘墓の分布と
 列島内交流
518土師器

520古墳時代の宝器
521銅製品

研究
 研究①積石塚
 研究②双方中円墳
 疑問③なぜ高句麗人は讃岐を
 占領出来たか
 研究④猫塚古墳


521銅製品
522柄頭
523腕輪型宝器
525金錯銘花形飾環頭大刀
526石釧
527巴形銅器
530ヤマト(倭)王権の成立
531宝器の生産
 四世紀の東アジア情勢
533国産鏡の展開

541亀山1号墳出土品
542滑石製模造品
543革綴短甲
545鉄製品
 
550巨大古墳の時代
551鉄器生産の増大
560地方豪族の台頭
561倭風化の進展
561文人の装い
562武人の装備
570馬具
571操作用馬具
572装飾用馬具
580さまざまな大刀

590葬送儀礼
591黄泉の国の炊飯具
592石障

600古墳時代終末期
601古代東アジア文化の浸透
605平石古墳群
610終末期古墳

620特集 須恵器の展開
625変わり種の須恵器
640古墳時代の農工具
641櫨山古墳
645武装の変革
650古代の祭祀
651-東国の神マツリ-
652古代の葬送儀礼
660玉生産の展開
670舶載鏡と倭鏡
680埴輪の展開
710新沢千塚126号墳出土品
712宝器
720江田船山古墳銀象嵌銘大刀
721江田船山古墳
730九州独自の古墳文化石人
740江田船山古墳
742王者の装身具
750中国鏡と国産鏡
760武器
770新来の馬具
790須恵器
795特殊扁壺
800埴輪
871陶棺

考察 古墳時代の終焉
1.古墳時代年表
2.古墳の意義と希薄化
3政治制度の変革
4政治的背景
5.大化の改新と中央集権体制の確立
6.その他の理由
 
 10入口展示
 11ロビー展示
 
 12特別展「縄文―1万年の美の鼓動」 2018.7.3~9.2
   訪問時に行われていた大きな展覧会の案内です。縄文時代についての素晴らしい解説です。是非読んでみてください。
2018特別展
「縄文―1万年の美の鼓動」
2018.07.03-09.02
今から約1万3000年前、氷期が終わりに近づいて温暖化が進み、入り江や干潟が生まれ、現在の日本列島の景観が整いました。この頃に日本では土器作りが始まります。縄文時代の幕開けです。
当時の人びとは、自然環境を生かして狩猟や漁撈、採集による生活を営んでいました。彼らが日々の暮らしのなかで作り出した、土器や石器、土偶や装身具などのさまざまな道具は、力強さと神秘的な魅力にあふれています。

躍動感あふれる《火焰型土器》やユニークな姿形をした《遮光器土偶》は、縄文時代の造形美を象徴するものとして広く知られていますが、1万年続いた縄文時代には、まだまだ知られていない多彩な造形が数多くあります。
本展では「縄文の美」をテーマに、縄文時代草創期から晩期まで、日本列島各地で育まれた優品を一堂に集め、その形に込められた人びとの技や思いに迫ります。縄文時代1万年にわたる壮大な「美のうねり」をぜひご覧ください。
  引用特別展「縄文-1万年の美の鼓動」

縄文時代が始まったとされる約1万3000年前。狩猟や漁撈(ぎょろう)、採集を行っていた縄文時代の人びとが、日々の暮らしのなかで工夫を重ねて作り出したさまざまな道具は、力強さと神秘的な魅力にあふれています。本展では「縄文の美」をテーマに、縄文時代草創期から晩期まで、日本列島の多様な地域で育まれた優品を一堂に集め、その形に込められた人びとの技や思いに迫ります。縄文時代1万年にわたる壮大な「美のうねり」をご体感ください。
  引用特別展「縄文―1万年の美の鼓動」 - 東京国立博物館


  入口展示

人面把手
中部高地の出産土器

の装飾。生れ出る胎児
深鉢形土器
東京都あきる野市草花字草花前出土
中部高地中期中葉土器に似て、違うもの
深鉢形土器
長野県伊那市宮ノ前

中部高地の土器は関東地方西部にまで分布圏を広げていました。
東京都の西端、あきる野市の土器は、ほぼ、信州文化圏のようです。
深鉢形土器

東京都あきる野市雨間塚場出土
 
 
 15常設展示室前

 展示案内
展示室では、日本列島に人々が住み始めた、今から4万年程前の旧石器時代から江戸時代までの文化と歴史を、考古資料を使って展示しています。

展示の基本は「通史展示」と「テーマ展示」です。
「通史展示」は、展示室の周囲に巡る壁付きケースを利用して、旧石器時代から江戸時代までを12のセクションに分けて、日本の歴史を概観できるようにしました。
「テーマ展示」は、各時代の特色ある様々なテーマに基づいた展示で、壁付ケース以外のケースを使って行っています。

主な展示品としては、旧石器時代は、生活の道具としての各種の石器、縄文時代は装飾に富んだ縄文土器や土偶、弥生時代は銅鐸をはじめとする青銅器、古墳時代は鏡・装身具・武器・武具・馬具などの古墳の副葬品や古墳に建てられた各種の埴輪、
歴史時代では、律令社会、貴族社会、武家社会の文化を示す焼き物類や、瓦・骨壺・経塚遺物などの仏教関係遺物があります。

これから、地中から彫り出された考古資料による日本の文化の展開をお楽しみください。

 ※今回の取材は、旧石器時代から古墳時代までで、歴史時代以降はまた、次の機会にさせていただきます。

展示室の案内図 常設展示室
展示テーマ 年表
旧石器~奈良
古墳~江戸 鎌倉~平成 展示案内
上に記述
 





 30旧石器時代 (~11,000BC)




人類史は700万年と言われていますが、考古学が対象とするのは石器が作られ始めた260万年前からです。
この時代を旧石器時代と呼び
 前期(約260万年前-約30万年前)、
 中期(約30万年前-3万年前)、
 後期(約3万年前-約1万年前)に分けられています。

しかし、その始まりを330万年前とも、400万年前~20万年前ともいわれることがある。



 31氷河期の日本列島に暮らした人々
  ―道具作りの始まり―
日本列島に人々が住みついたのは、約4万年前です。これ以後、土器が作られるようになる約1万3千年前までを旧石器時代と呼んでいます。
この時期はマンモスやナウマンゾウ、オオツノジカなどの大型哺乳類が生息する寒冷な氷河期で、日本列島はまだ大陸と陸続きでした。人々は石器や骨角器などの道具を使って狩猟や採集を行い、移動しながら暮らしていました。

ここでは台形石器ナイフ形石器尖頭器細石刃など、日本列島の代表的な旧石器からその変遷をたどります。また、一般的に旧石器時代は打製石器のみで、磨製石器が登場するのは新石器時代に入ってからです。しかし、日本列島の旧石器時代には、刃の一部を磨いた局部磨製石斧が使われるという特徴があります。

石器の材料にも注目しましょう。火山列島とも呼ばれる日本列島では、北海道から九州にかけての広い地域で火山岩の一種黒曜石が用いられることが多く、一方、黒曜石の少ない東北地方では珪質頁岩、近畿や瀬戸内地方ではサヌカイト(安山岩)が使われました。


 黒曜石原石 北海道遠軽町出土 旧石器時代(後期) 前18000年(2万年前)
黒曜石はマグマが急速に冷えて固まってできた火山岩です。天然ガラスとも呼ばれ、鋭い割れ口を持っています。火山列島でもある日本では、北海道や長野県を中心に数多くの黒曜石の産地が確認されています。4万年程前から黒曜石は石器の材料として利用されました。
 32
旧石器時代
上に記述
道具の始まり
上に記述
黒曜石原石
上に記述
黒曜石原石

 33貫ノ木遺跡出土の石器 長野県信濃町野尻貫ノ木(後期旧石器時代) 前35,000年前(37,000年前)
  かんのき
貫ノ木遺跡は長野県野尻湖周辺で数多く発見されている旧石器時代の遺跡の代表例です。
野尻湖ではナウマンゾウやオオツノシカといった大型獣の骨が大量に発見されており、当時の人々にとって格好の狩場であったと考えられています。
台形石器とナイフ形石器は、剥片の鋭利な縁を刃とし、その他の部分には刃潰し加工を施して作られ、刃の形状によって両者を呼び分けています。
地域や時代によって、形や製作技法に違いが認められ、狩猟具として刺突や切削に用いられていたと考えられています。

世界史的にみると石器を磨いて作る技術の出現は、新石器時代の指標とされていますが、日本列島では他地域に先駆けて旧石器時代の初頭から登場します。局部磨製石斧は主に木を切るために利用されたと考えられており、硬く割れにくい石材が選ばれています。

 34貫ノ木遺跡
貫ノ木遺跡出土の石器
旧石器時代後期
37000年前
長野県信濃町
貫ノ木遺跡
上に記述
台形石器とナイフ形石器
上に記述
局部磨製石斧
上に記述
  石器製作技法
ナイフ形石器の作り方
 
細石刃の作り方
   
貫ノ木遺跡の石器
局部磨製石斧
ナイフ形石器
ナイフ形石器
ナイフ形石器
台形石器


 35旧石器時代の代表的な石材の産地とその分布
旧石器時代の代表的な石材の山地とその分析 北海道地方(黒曜石)白滝・置戸・十勝三股
赤井川
東北地方(珪質頁岩)
出来島・深浦・男鹿・
月山・花泉
中部高地・関東地方
(黒曜石)
高原山麦草峠
和田峠・霧ヶ峰
柏峠
・畑宿
神津島
東海・近畿・瀬戸内・北部九州地方
 (安山岩・黒曜石)
下呂石=安山岩
九州・沖縄地方
(黒曜石・安山岩)

沖縄・南九州の石材については未調査でした。
沖縄南九州
石材は何だろう
 





 36北海道の石器 旧石器時代(後期)・前18000年(2万年前)

 37細石刃
細石刃
置戸町安住遺跡
細石刃核
遠軽町白滝遺跡
第4・30地点遺跡出土
3尖頭器 遠軽町
 下社名渕遺跡
4彫器 蘭越町立川遺跡

5削器 遠軽町白滝遺跡
6掻器 遠軽町
7 両面調整石器
遠軽町
 下社名渕遺跡

以下8~9は未撮影
きっと撮禁か妨害
 38北海道の石器
北海道の石器 1~2 3~4 5~6 7~8 9細石刃核
遠軽町幌加沢遺跡
細石刃は
右に記述
細石刃はカミソリの替え刃にも似た小型の石刃です。骨や角で作られた槍の側面に溝を彫り、そこに複数の細石刃をはめ込んで使われていたようです。刃こぼれした際には、新しい細石刃と交換できる利点から、旧石器時代末期には急速に日本列島全域に普及しました。

※本当だろうか。はめ込んだ細石刃はアスファルトで固めて外しにくい。無理をすると大けがをする。それよりも、
①小さな刃が刃こぼれしても全体に影響は少なくそのまま使えること。
②乏しい石器石材を節約して使え、過去のごみとされた剥片を再利用して作れること、が重要なのではないでしょうか。

※もう一つ、旧石器末に北海道から南下した細石刃文化人が列島を蹂躙したが、その時列島にはすでに西から伝わった細石刃文化が充満しており、その文化人を消滅させながら南下し、列島に拡がったので、彼らが最初ではないはずだが。
 
 





 40新潟の石器 荒屋遺跡   新潟県長岡市 旧石器時代(後期)(前16,000年)

   荒屋遺跡コトバンク 荒屋型彫刻器 荒屋遺跡 文化財オンライン 荒屋遺跡 荒屋遺跡


 41出土の石器
旧石器時代も末期になると、骨や角で作られた槍先の側面に溝を彫って、石器を埋め込む植刃槍が盛んに使われるようになりました。
荒屋遺跡では、植刃槍を加工する彫器と、刃として用いる細石刃が数多く出土しており、植刃槍の一大生産地であったと考えられています。


 彫器
彫器は動物の骨や角を削るための工具として用いられた石器です。使用によって刃先が鈍くなると、刃先を付け替えて繰り返して使用していました。荒屋型彫器と呼ばれる特徴的な形の彫器は、東日本を中心に北東アジアに広く分布しています。

荒谷遺跡出土石器 1.舟形削片
2.細石刃核
3.細石刃 4.彫器  
5.掻器
6.石錐
7.鏃形石器
荒谷遺跡の石器 荒屋型彫器
上に記述
荒屋型彫器
引用 東京国立博物館
 





 100縄文時代







 110自然環境の変化と定住生活
   ―土器の出現とその変遷―

今から約1万3千年前、氷河期が終わると、海面上昇によって日本列島が出来上がりました。自然環境の変化に合わせて、狩猟には弓矢が使われるようになり、土器が発明され、人々は定住するようになりました。その後約1万年に渡って続く新石器時代の幕開けです。

一般的に新石器時代には農耕や牧畜が始まりますが、日本列島では、主に採集・漁撈・狩猟による暮らしが続けられていました。

この時代の土器は、粘土を器の形にして焼いた素焼きのもので、縄目を使った文様から縄文土器と名付けられました。その名にちなんで。この時代を縄文時代と呼んでいます。煮炊きのできる土器が発明されたことで。食物を消化しやすくなり、殺菌効果も高まって、食生活は大変豊かになりました。

また、縄文土器は儀礼や葬送にも用いられ、当時の社会や文化の中で大きな役割を果たしていました。

ここでは、煮炊きのための深鉢に始まって、盛り付けのための浅鉢や鉢、貯蔵のための壺や注口土器など、縄文土器の種類がふえ、変遷していく様子を見て行きましょう。


 111
 石棒出土地不明 縄文中期 前3000~前2000年

土偶が女性を象徴する縄文時代の祈りの道具である一方で、男性を象徴する祈りの道具が石棒です。
石棒には男性器を写実的に表現したものがあることから、子孫繁栄や豊穣を祈るためのものと考えられています。石棒は前期に作られ始め、中期には大形のものが出現しました。

自然環境の変化と
定住生活
-土器の出現とその変遷-
上に記述
石棒
縄文中期
5000~4000年前
 



 120草創期の土器(関東地方) 草創期(12,000~9,000年前)



 121花見山遺跡出土土器 横浜市都築区川和町 縄文時代草創期 約1万3千~9000年前

花見山遺跡は、多摩丘陵東部に位置する縄文時代草創期を代表する遺跡です。1977-78(昭和52-53)に調査。竪穴状遺構が1基確認された。
数多くの隆起線文土器と共に、槍先形尖頭器有舌尖頭そして片刃石斧などが出土した。

 隆起線文土器   花見山遺跡の土器・石器
   ※下の土器には補修孔のような孔が開いています。詳しい説明はありません。
草創期の土器
(関東地方)

縄文時代草創期
前1100~前7000年
花見山遺跡出土土器

縄文時代草創期
前1100~前7000年
花見山遺跡
上に記述
 
  縄文時代早期(7000~6000年前)がありません。撮禁だったと思います。



 140前期の土器 前期(6,000~5,000年前)


1.2.円筒土器
筒形をなす器型の特徴から、円筒土器と称されています。
前期後半に相当する土器は、円筒下層式土器とも呼ばれ、北海道南西部から東北北部に分布しています。
胎土に繊維を含み、撚った縄を回転さたり、縄の側面や端部を押し当てたりして文様を施す特徴があります。

 141円筒下層式土器 前期後半


1.円筒下層式土器

1.深鉢形土器
青森県津軽市石神遺跡
つがる市森田町床舞石神地内
6000~5000年前
円筒土器
2.円筒下層式土器

2.深鉢形土器
青森県八戸市是川字一王子出土
6000~5000年前
円筒土器

3.深鉢形土器
新潟市布目出土
6000~5000年前
東北地方の円筒土器に対し

中部・関東・北陸の深鉢形土器が
対比されている

4.鉢形土器
神奈川県横浜市港北区下田町出土
6000~5000年前

5深.鉢形土器
長野県中野市出土
6000~5000年前

6深.鉢形土器
横浜市折本貝塚出土
6000~5000年前
火山噴火の影響で、深い火山灰に覆われた地域と、そうでない地域の生活様式の違いが表れている。

多量の水を入れて長時間煮沸して
あく抜きや、干物を戻したりできる機能を持つ円筒下層式土器と

簡単に調理ができる地域。
この違いは何?火山灰がどのような働きをしたのだろう。
前期の土器 1~2 円筒土器
上に記述
3~4 5~6


 150中期の土器(関東地方)中期 (5000~4000年前)


 多喜窪遺跡第1号住居跡出土土器 東京都国分寺市 4000~3000年前
 151撮影禁止でした 撮禁だった遺物はこれ。確かに素晴らしい土器群です。 
中期の土器(関東地方) 多喜窪遺跡
勝坂式土器でした

勝坂式の深鉢浅鉢
ピンボケ


 160後期の土器(関東地方)4000~3000年前


縄文時代後期になると、東北地方を中心に北海道から関東・北陸地方にかけて器種構成の一角を注口土器が占めるようになります。
注口土器は日常だけでなく儀礼や葬送の場でも使われたと考えられます。後期中葉の関東地方では注口土器特有の文様で飾られる例も出現します。

 161
後期の土器 後期の土器
1.深鉢形土器
神奈川県横浜市金沢区称名寺貝
4000~3000年前

2.深鉢形土器
東京都板橋区小豆沢貝塚出土
4000~3000年前

3.深鉢形土器
東京都板橋区小豆沢貝塚出土
4000~3000年前

4.深鉢形土器
茨城県稲敷市福田貝塚出土
4000~3000年前

5.深鉢形土器
東京都文京区東大井出土
4000~3000年前

6~8

6.鉢形土器
千葉県佐倉市江原台出土
4000~3000年前

7.鉢形土器
千葉市花見川区
犢橋貝塚出土
4000~3000年前

8.異形鉢形土器
千葉市花見川区
犢橋貝塚出土
4000~3000年前

9.注口土器
千葉県銚子市余山貝塚出土
4000~3000年前
後期の土器
(関東地方)
上に記述
1~2 3~6 7~9


 170晩期の土器(東北地方の土器) 青森県つがる市木造亀ヶ岡出土 3000~2400年前


縄文時代晩期に、東北地方で盛行する大洞式土器は、美しい文様とともに多彩な器種を伴うことでも著名で、
深鉢・鉢・浅鉢・台付浅鉢・皿・壺・注口土器・香炉形土器で 構成されます。

時期ごとに器種の割合が変化し、台付浅鉢形土器は大洞式土器の後半時期に相当します。

 171青森県つがる市木造亀ヶ岡遺跡の土器 3000~2400年前
晩期の土器
(東北地方の土器)

1.鉢形土器

2.鉢形土器

3.浅鉢形土器

4.台付鉢形土器
5.台付浅鉢形土器 6.台付浅鉢形土器
7.壺形土器

8.壺形土器

9.壺形土器

10.注口土器

11.注口土器
晩期の土器(東北地方)
ピンボケですが
上に記述
1~11

詳細情報なし
 


 300縄文時代


 310縄文時代の生活道具


 311工具 縄文時代後・晩期 (4000~2400年前)


1.石錐 秋田県御所野
 晩期3000~2400年前
2.牙製錐 埼玉市真福
 寺貝塚
(後・晩期4千-
 2400年前)

3.骨針 秋田県御所野
 晩期3000~2400年前
4.石匙 秋田県御所野
 晩期3000~2400年前

5.箆状骨器 岩手県
 陸前高田市中浜貝塚
 後・晩期4千-2400年前
6.箆状骨器 岩手県
 陸前高田市中浜貝塚
 後・晩期4千-2400年前

7.磨石 青森県八戸市
 南郷島守字荒谷
 後・晩期4千-2400年前
8.石皿 青森県八戸市
 南郷島守
字荒谷
 後・晩期4千-2400年前
工具
縄文(後~晩期)
前2000~前400年
1~8
 312

9.石鏃
  青森県五戸町
  字古街道長根出土
 後~晩期(4千-2400年前

10.鹿角製鏃
 陸前高田市獺沢貝塚出土
 後-晩期 (4千-2400年前)
獺=かわうそ・ダツ・タツ

11.鹿角製根挟み
 出土地不明
 後-晩期 (4千-2400年前)
12.弭形角器
  茨木県美浦村陸平貝塚
  中-後期 (5千-3千年前)

13.石鋸
 長崎県五島市富江町出土
  後-晩期 (4千-3千年前)
9~13


 313狩りや漁の道具
縄文時代になると温暖になった自然環境の変化に合わせ、食料を入手する方法が変わります。

弓矢が発明され、狩りの対象は鹿や猪などの中・小型動物になりました。
また、海面の上昇により多くの入り江が生まれた結果、漁が活発となり、動物の骨や角で作られた釣針、ヤス、銛頭などの骨角器が盛んに作られるようになりました。

採集したトチやドングリ、クズやワラビなどを加工するために石皿や磨石、凹石や敲石が用いられ、
その他にも木を切るための磨製石斧や土を掘るための打製石斧など、いろいろな道具が作られました。


 狩りや漁の道具

ヤス状刺突具
 東京都大田区下沼部貝塚
 後~晩期・4000~2400年前

銛頭 出土地不明
 中~晩期・5000~2400年前

燕形銛頭
 陸前高田市獺沢貝塚出土
 後-晩期 (4千-2400年前)
縄文時代の生活道具
上に記述
狩りや漁の道具
1~3
 314

4.釣針
 陸前高田市獺沢貝塚出土
 後-晩期 (4千-2400年前)
 獺=かわうそ・ダツ・タツ

5.浮子(ウキ)
 青森県弘前市高杉出土
 後-晩期 (4千-2400年前)

6.土錘
 福島県鏡石町桜町
 旧岩瀬御領地内他出土
 後-晩期 (4千-2400年前)

7.土器片錘
神奈川県横浜市三ツ沢貝
 中期 (5千-4千年前)

8.石錘
神奈川県横浜市三ツ沢貝塚
 後-晩期 (4千-2400年前)
4~6
6~9

9.石鏃 写真なし
きっと撮禁


 315磨製石斧と打製石斧 縄文時代早期~後期 (9000-3000年前)


磨製石斧
北海道函館市出土
縄文早~前期

擦切磨製石斧
  未完成品
 北海道出土
 縄文早~前期
 9000~5000年前

打製石斧
神奈川県横浜市三ツ沢貝塚 縄文後~晩期
4000~2400年前
磨製石斧と打製石斧
縄文早期~後期
前7000~前1000年
9000~3000年前
1~3
 




 320装身具と祈りの道具
縄文時代の人々は実用的な道具のほかにも、装身具や祈りの道具を作りました。

装身具では笄(こうがい)などの髪飾り、耳飾り勾玉などの首飾り腕輪腰飾りがあります。
縄文時代の装身具は、ときに年齢や性別の違いを示し、邪悪なものから身を守る役割も担いました。

土偶とともに縄文時代を代表する祈りの道具が石棒です。石棒は男性を象徴し、子孫繁栄や豊穣を祈るために作られたと考えられています。
その他にも青龍刀形石器御物石器など、いまだ用途がはっきりとしない石製品も出土しています。

 321
縄文の装身具と祈りの
道具
装身具と祈りの道具
上に記述
 323

1. 鹿角製
茨城県土浦市高津貝塚他出土
縄文後~晩期 4000~2400年前

2. 土製耳飾
東京都あきる野市中高瀬他出土
縄文後~晩期 4000~2400年前

3. 土製耳飾り 秋田県
北秋田市沢口藤株他出土
縄文晩期 3000~2400年前
 

4. 玦状耳飾
青森県弘前市高杉他出土
縄文中期 5000~4000年前
 

5.  土製勾玉 青森県 八戸市
南郷区島守字荒谷
他出土
 

6. 石製勾玉 秋田県
由利本荘市
小栗山他出土
縄文後~晩期 4000~2400年前
 
装身具 1~2

縄文前期~後期 
3~6
 
 323

7 石製丸玉 茨城県
八戸市南郷区島守字荒谷他出土
縄文後~晩期
4000~2400年前

8 土製赤彩丸玉 岩手県
陸前高田市獺沢貝塚出土
縄文後~晩期
4000~2400年前

9. 硬玉製大珠 群馬県
高崎市下室田町出土
縄文中期 5千~4千年前

10. 牙製垂飾 茨城県
土浦市高津貝塚
縄文後~晩期
4000~2400年前

11. 環状垂飾
城県石巻市沼津貝塚
縄文後~晩期
4000~2400年前
 
  7~12
 324

12 鹿角製垂飾 宮城県
石巻市沼津貝塚
縄文後~晩期
4000~2400年前

12 鹿角製垂飾 宮城県
石巻市沼津貝塚
縄文後~晩期
4000~2400年前

13 貝輪 千葉県船橋市
古作貝塚
 縄文後期
4000~3000年前
11~12
13


 327石で作られた祈りの道具

 石冠
  冠に似た形から石冠と名付けられました。上部が球状になるものと、山形になるものに、大きく分けられます。
  下部を柄につけて斧や武器とする意見や、上部が石棒と似るものがあることから儀器と考える意見がありますが、後者と考えるのが一般的です。

1.石棒
北海道古平町
縄文後期
4000~3000年前
2.石刀
出土地不明
縄文晩期
3000~2400年前
3.青龍刀形石器
出土地不明
縄文中~後期
5000~3000年前
4.独鈷石
岩手県
奥州市衣川区出土
縄文後~晩期
4000~2400年前
5.石冠
長野県
塩尻市塩尻町他出土
縄文後~晩期
4000~2400年前
ピンボケ1~4
5石冠 秋田県などが中心 北陸・信州の独鈷石が東北で出土した。吃驚 実に変わった石冠
似たものに関西大学
半月形石器
 



 330祈りの道具・土偶 縄文(早~晩期) 9000~2400年前

土偶は縄文時代を代表する祈りの道具で、草創期から作られています。

当初は上半身のみを表現した簡素なものでしたが、
前期には頭や手足を加えた全身を板状に表すようになり、
中期になると立体的な立像となりました。

後期から晩期には北・東日本で盛んに作られました。

土偶は、作られ始めた頃から乳房があることから女性を表したと考えられています。
土偶のふくらんだお腹は妊娠した姿を表すと考えられ、安産や子孫繁栄、そして豊穣を祈るための道具であると言われています。


 雑念 土偶 ―思考でも何でもないただの雑念
➀小学3年生ぐらいの児童に人を描かせると、上半身しか描けない子供がいる。十字土偶・板状土偶の様に人を十字にしか描けない児童もいる。
5年生ぐらいになると、ほぼ立体で人体を造ることが出来るようになる。平面で人や物を造形するのは、1年~2年生までが多い。
縄文後期・晩期の高度な造形は、一挙に高等技術を身に着けた造形職人レベルになる。

人の造形活動での発達段階と、土偶の発達段階は、大変よく似ている。縄文1万年の土偶造形の発達は、人の造形力の成長に似て興味深い。

草創期の、上半身のみ土偶は、なぜ下半身を作れなかったのだろうか。下半身が造形できない児童は、実は下半身を認識していないことがわかる。
従って、ことさらに下半身を見させ、存在を認識させ、表し方を教えると造形・描画が可能となる。
 人間の認識とは、見えていることと、認識していること、とは違うようである。これが板状土偶・十字土偶の段階だと思っています。


②私が若かったころ、よく男子便所に女性器をデフォルメした落書きがあったものだ。最近はあまり見かけない。

下半身がない土偶では女性を乳房でのみで表した。土偶本来の目的である出産や妊娠は表現できなかったのである。
しかし、その後の立体土偶には、誇張なく自然に女性器が表現されており、女性器の落書きのようなものは、この時代にはないように見える。

男根はセックスシンボルとして誇張するが、女性器をセックスシンボルとして誇張しない。少なくとも目にするのはごく自然な造形で表現されている。
考古学者が意図的にそのようなものを隠しているのなら別だが、(エジプトでそんな落書きがあったと記憶)そうでないのなら、
石棒は男性が造形し、土偶は女性が作ったからなのかもしれない。

 331土偶
十字形土偶
1 土偶 茨城県利根市
花輪台貝塚
縄文早期
9000~6000年前
2 十字形土偶 青森県
八戸市南郷島守荒谷
縄文中期
5000~4000年前
3 土偶 東京都 
八王子市楢原町出土縄文時代中期
5000~4000年前
山形土偶
4 山形土偶 茨城県
利根町立木貝塚
縄文後期
4000~3000年前
5 山形土偶 茨城県 
利根町立木貝塚
縄文後期
4000~3000年前
 
みみずく土偶
6 茨城県利根町立木
貝塚
出縄文後期
4000~3000年前
十字形土偶
7 十字形土偶 青森県
津軽市森田町床舞
縄文晩期
3000~2400年前
8 X字形土偶 岩手県
陸前高田市獺沢貝塚
縄文時代晩期
3000~2400年前
X字土偶
祈りの道具土偶
土偶
縄文(早~晩期)
9000~2400年前 
1~2
3~8


 332土面・土版・岩版
土面

松本市波田上波田
縄文後期

4000~3000年前
土面

青森県津軽市木造亀ヶ岡

縄文晩期
3000~2400年前
土版

出土地不明 縄文晩期

3000~2400年前
岩偶

青森県南部町小向

縄文晩期
3000~2400年前
岩板
秋田県美郷町六郷石名館出土
縄文晩期
3000~2400年前
 





 350続縄文文化 紀元前3世紀~紀元後7世紀 



     ※約1000年続きました。弥生中期~古墳末期までです。


続縄文文化 北海道を中心に紀元前3世紀頃から紀元後7世紀(弥生時代から古墳時代)にかけて、擦文文化が現れるまで続いた時代。 縄文時代から引き続く要素が多い。 引用wikipedia
オホーツク文化 3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太、南千島の沿海部に栄えた海洋漁猟民族の文化である 。この文化の遺跡が主としてオホーツク海の沿岸に分布していることから名付けられた。このうち、北海道に分布している遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推定されている。 引用wikipedia 
擦文時代 北海道の歴史のうち、7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて、擦文文化が栄えた時期を範囲とする時代区分。 本州の土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴とする(青苗文化も参照)。 引用wikipedia
 擦文土器 北海道,東北地方北部に分布する鉄器時代土器。 器面全体に擦痕文がみられるのでこの名がある。 発生は8~9世紀とされ,奈良・平安時代における大和朝廷の北進によってもたらされた土師器 (はじき) が土着の続縄文土器と接触したものと考えられる。引用
青苗文化 擦文土器と土師器の折衷型である青苗文化土器が使用された。14-15世紀、渡島半島には渡党と呼ばれる集団がいたが、考古学者の瀬川拓郎は、かれらは青苗文化の担い手の末裔であったと考えている。 引用wikipedia



 351縄文時代後の北海道
寒冷な気候のために水田稲作が定着しなかった北海道では、本州・四国・九州が弥生時代や古墳時代に入ったのちも、漁撈・狩猟・採集を中心とする暮らしが続いていました。これを続縄文時代と呼んでいます。

当時の遺跡の多くは沿岸部や河川の流域に集中し、海獣の骨や牙なども多く出土することから、縄文時代よりも狩猟に比重が置かれていたと考えられています。ソバなどの雑穀の発見例もありますが、食料に占める農産物の割合は低かったと言われています。

続縄文時代には両刃や片刃の磨製石斧の他に、海獣などの解体に用いた石銛や石製ナイフなど多種多様な石器が用いられていました。
また、続縄文文化に特徴的な石器として、魚形石器がありますが、これは疑似餌(ルアー)として使われたと考えられています。

土器は、縄文時代に引き続き豊かな装飾を持つものが作られました。
また、佐渡島産の碧玉を加工した管玉南海産の貝製品、そして鉄器などが出土することから、本州の弥生文化サハリンを経由した大陸文化との交流も行われていたと考えられています。

続縄文文化 縄文時代後の北海道
上に記述
 352土器
 353続縄文文化の土器
壺形土器

北海道根室市弁天島出土
オホーツク文化期
5~6世紀
注口土器

札幌市北海道大学構内
出土
続縄文時代後期
1~3世紀
鉢形土器

小樽市手宮出土
続縄文時代後期
1~3世紀
深鉢形土器

小樽市手宮出土
続縄文時代後期
1~3世紀
壺形土器 注口土器 鉢形土器 深鉢形土器

 355
深鉢形土器

室蘭市絵鞆町出土
続縄文時代前期
前2~前1世紀
深鉢形土器

室蘭市祝津町出土
続縄文時代前期
前2~前1世紀
鉢形土器
小樽市手宮出土
続縄文時代後期
1~3世紀
深鉢形土器 深鉢形土器 鉢形土器
 


 360続縄文文化の道具
 -縄文時代後の北海道-  紀元前3世紀~紀元後7世紀 (弥生時代中期~飛鳥時代 1000年も続いたのか。)

 361続縄文文化の暮らしの道具

縄文時代後の北海道
上に記述
1.石鏃

室蘭市絵鞆町出土

続縄文時代前期

前2~前1世紀
2.鹿角製鏃

札幌市北海道大学元
農学部付属農場
続縄文時代
前2~後3世紀
魚形石器
3~4
出土地不明
続縄文時代
前2~後3世紀
5.石製ナイフ

室蘭市絵鞆町出土
続縄文時代
前2~前1世紀
6.片刃石斧

室蘭市絵鞆町出土
続縄文時代
前2~前1世紀
続縄文文化の
暮らしの道具
1~3
魚形石器使用復元図
5~6

魚形石器は疑似餌Lureです
 363
装身具1~3 1.石製勾玉
2.石製小玉
3.牙製垂飾
 




 370弥生時代




 371大陸との交流と稲作の始まり

  ―農耕社会の土器―
約2400年前、中国や朝鮮半島から水田稲作とともに青銅器や鉄器などの金属器が伝えられ、九州や四国、そして本州に広まりました。
人々は灌漑設備のある水田のそばにムラを作って暮らし始めました。農耕を生業とする弥生時代の始まりです。
その一方で、稲作が定着しなかった北海道では続縄文文化、南西諸島では貝塚時代後期文化と呼ばれる、独自の文化の歩みを始めて行きました。

この時代の土器は弥生土器と呼ばれています。
弥生土器は縄文時代と同じ素焼きの土器ですが、焼き方が異なり、色は明るく薄く硬いという特徴があります。
また、生業の変化は煮炊き用の甕・貯蔵用の壺・盛り付け用の高坏を基本とした用途別の器を生み出しました。

弥生時代前期(前4~前3世紀頃)には西日本一帯で共通した特徴を持つ弥生土器(遠賀川式土器)が作られ、
その影響を受けた土器が東日本や北日本でも出土するなど、文化の広がりを示しています。
  ※遠賀川式土器以降を弥生時代と定義する。それ以前の突帯文土器板付式土器は、大陸系であるが縄文晩期土器とされる。

中期(前2~前1世紀頃)になると回転台を使って形を作るなど新しい技術も見られました。


 突線鈕5式銅鐸
弥生時代 大陸との交流と稲作の始まり ―農耕社会の土器―
上に記述
突線鈕5式銅鐸 突線鈕5式銅鐸 突線鈕5式銅鐸
兵庫県加西市加茂1丁目15出土
弥生時代後期1~3世紀


 380前期の土器(九州・近畿地方) 弥生前期(前4~前3世紀)

縄文時代の土器は多彩な器種で構成されていましたが、弥生時代になると煮炊き用の、貯蔵用の、盛り付け用の高坏といった用途別の器種へと変わります。この変化は食生活の変化を端的に表し、朝鮮半島から伝えられた稲作農耕によって生じたものです。

 381
前期の土器
1.甕 福岡県糸田町宮床八幡神社北裏出土
前4~前3世紀

2.壺 福岡県宗像市上八出土
前4~前3世紀

4,3

3.甕 大阪市平野区瓜破出土
前4~前3世紀

4.壺 大阪市平野区瓜破出土
前4~前3世紀

6,5

5.甕用蓋 大阪市平野区瓜破出土
前4~前3世紀

6.壺用蓋 大阪市平野区瓜破出土
前4~前3世紀
前期の土器
(九州・近畿)
弥生時代前期
前4~前3世紀
1~6


 390中期の土器 弥生中期(前2~前1世紀)


 391東小田七板遺跡出土の土器 弥生中期(前2~前1世紀) 福岡県筑前町

東小田七板遺跡では、弥生時代中期から後期にかけての甕棺墓が数多く発見されました。
共に見つかった祭祀土坑からは埋葬時の祭りで使われた丹塗りの磨研土器と呼ばれる赤い土器が大量に出土しています。

丹塗りの磨研土器は、甕棺墓が盛行した地域の周辺で展開しました

 ※つまり、大きな甕棺墓に葬れなかった中下層民が、二次葬として壺や甕を赤く塗って臓骨器として、集団墓地の端に埋納したということでしょうか。
 丹塗り磨研土器

甕棺

1.甕
甕棺

2蓋付甕
甕棺

3.壺

5,4

角度を変えて

4.蓋付壺

5.高坏

6.筒形器台
中期の土器
弥生中期、前2~前1c
東小田 七板遺跡出土
1~6


 400弥生時代



 
 研究 銅鐸の種類と変遷

 401近畿式銅鐸と三遠式銅鐸

各部の名称
袈裟襷文銅鐸
引用コトバンク
各部の名称
引用邪馬台国大研究
銅鐸の変遷
前期 菱環鈕式
前期 外縁紐式
中期 扁平鈕式
後期 突線鈕式
引用エナガ先生の講義メモ
銅鐸の型式
菱環鈕式
外縁紐式
扁平鈕式
突線鈕Ⅲ式
突線鈕Ⅴ式
引用邪馬台国の会326
銅鐸の編年(鈕の形)
1.菱環鈕式
2.外縁紐式
3.扁平鈕式
4.突線鈕式
引用邪馬台国の会326
参考昭和一桁男B
銅鐸の型式と時代
引用銅鐸新発見
銅鐸の型式変化
参考祭祀の中から見えてくる近畿政権
近畿式銅鐸の成立と変遷
引用銅鐸通信
三遠式・近畿式銅鐸の型式変化
引用マント蛙のブログ
近畿式と三遠式の違い
引用ドリームカムトゥル
三遠式は縦横の太い線が通っている。

 引用図表からわかったこと

 1.銅鐸の名称は、鈕の周囲の形から名付けられた。
 2.聞く銅鐸は、弥生時代前期から始まった。聞く銅鐸も単なる鐘でなく、音を鳴らすことが祭祀だったのだろう。(聞く銅鐸は数百年に及ぶことになる)

 3.見る銅鐸は、弥生後期初頭(1世紀頃)から始まった。(150~200年程続いたわけか)

 4.楯築墳丘墓の築造は2世紀後半から3世紀初頭である。この頃に青銅器祭祀が禁止されたと思える。(卑弥呼がおこなった祭祀の統一)
  青銅器祭祀開始後200年で墳丘墓祭祀が強制されるようになったということか。

 5.各種聞く銅鐸は、各地の青銅器職人がそれぞれ作っていた。見る銅鐸は、近畿と東海の銅鐸工房で集中的に作られた。
  見る銅鐸は、近畿・東海から始まったということのようだ。

 6.近畿式・三遠式はそれぞれ発達し、後期中葉に近畿式に収斂し、近畿5Ⅰ・5Ⅱ式に至る。
 7.卑弥呼の国家の統一、宗教祭祀の共通化によって青銅器祭祀は禁止され、各地で青銅器の破壊や、地中への埋納(秘匿)が行われた。




 銅鐸祭祀の消長とその背景
イネ・土器・青銅器・鉄器・墳墓時系列表
引用「イネ・土器・銅鐸の東伝が語る真実」青松光晴
弥生時代の様々な事象は、ぞれぞれ別々に論じられることが一般的で、なんとなくわけがわかったようでわからない、全体が見えないのが難点でした。
この時系列表では、それらの多くが一覧表に表され、色々な事象の前後関係や背後関係がよくわかります。

注意すべき点は、最初のふたマスは500年刻みになっていること。弥生時代がBC1000年から始まっていること。

国譲りは、出雲だけではなく、九州でも、その他の地域でも起こっていたようです。圧倒的武力を背景に、戦争せずに、示威行動だけで国を盗る。それがさらに進むと、命令一つで、当時の大国出雲を召し上げることが出来たようです。

神武東征
記紀にある神武東征は事実であり、大伴氏はその時付き従い、伴った従者の一族でした。
青谷上寺地事件の様に、富と権力を求めて宮崎から東進し、第1次遠征では敗退し、第2次遠征では、水軍力つまり海人族を使って伊勢湾から侵入して政権を奪取し、前期大和政権を東北へ追いやり、神武党は、都を奪い取って住み着いた。

青谷上寺地と同じである。弥生の集落間戦争は土地や水争いだけだと言われているが決してそうではないだろう。
半島から、列島征服を目的にやって来た武力集団もいただろうし、野盗や殺人集団もいたと、考えてきた私の妄想もも少しは真実に近い部分もあるやも知れません。

ちなみに、東北へ逃れた前期大和政権の、神社での秘儀や祝詞と、後期大和政権のそれとは現在も同じなので、
本来同根だったのか、神官などの一部は、残ったか、捕まったかして、同じ文化が継承されているそうです。

天孫降臨とは、神話とは別の事態を言っていると思っています。
 



 410祭器






 411銅鐸の種類





 突線鈕5式銅鐸  滋賀賀県野洲市小篠原字大岩山出土 弥生時代後期 1~3世紀
本例は高さ134.7cm重さ45.47kgと、現存する日本の銅鐸としては最大です。
近畿を中心に分布する大形で優美な銅鐸は近畿式銅鐸とも呼ばれ、銅鐸としては一番新しい段階 (突線鈕式) のものです。
これらは古墳出現前夜には地中に埋納され、祭器としての役割を終えました。


 扁平鈕式銅鐸 岡山市北区足守出土 弥生時代中期 前2~前1世紀
銅鐸には病気や災厄を避けるために眼や顔を表現したものがあり、これを邪視文銅鐸と呼んでいます。
初例が広島市東区福田(木の宗山)から発見されたことから「福田型銅鐸」とも呼ばれていますが、
近年同じ鋳型で作られた銅鐸の関係から九州の佐賀地域で作られたものと考えられています。


 外縁付鈕2式銅鐸  兵庫県豊岡市気比字溝谷出土 弥生時代中期 前2~前1世紀
大正元年(1912)年、砕石作業中に岩陰から偶然に発見された4個の銅鐸の内の一つです。
鐸身は繊細な流水文で飾られ、鈕(ちゅう・吊り手)にはシカが巧みに描かれています。
本例は島根県雲南市加茂岩倉遺跡出土5号銅鐸と同じ鋳型で作られたと考えられる同笵銅鐸です。

突線鈕5式銅鐸
突線鈕5式銅鐸
滋賀県野洲市小篠原
字大岩山出土
弥生時代後期
1~3世紀
扁平鈕式銅鐸 扁平鈕式銅鐸
伝岡山市北区足守出土
弥生時代中期
前2~前1世紀
外縁付鈕2式銅鐸
外縁付鈕2式銅鐸

兵庫県豊岡市気比字溝谷出土
弥生時代中期
前2~前1世紀
菱環鈕式銅鐸 菱環鈕式銅鐸
出土地不明
弥生時代中期
前4~前2世紀
 


 411a流水文銅鐸
  外縁付鈕2式銅鐸 銅鐸としては後期に属し、流水文が 有名な銅鐸である。

  ※美しい流水文が鋳込めるのに、なぜ、銅鐸絵画はあんなに幼稚なんだろうと思っていました。
    単純な絵画でないとうまく鋳込めないのかもしれない。
外縁付鈕2式銅鐸
兵庫県豊岡市気比字溝谷出土
弥生中期 前2~前1世紀

美しく流麗な流水文と
矢羽や△文を描画
 
 




 412銅鐸・銅矛・銅戈





 日本における青銅器の歴史 引用wiki青銅器


 縄文時代
三崎山遺跡山形県飽海郡遊佐町)から約3000年前の大陸製の青銅刀子が出土している。

 弥生時代
列島への金属器の導入は紀元前2世紀で、生産もその後すぐに行われたようだ。
主な青銅器は矛・剣・戈と鏡、銅鐸、鉇(やりがんな)等である。武器類は、初めは実戦用だったが、ほぼ同時期に鉄器や製鉄技術も伝来し、武器や実用道具は性能に優れた鉄器にとって代えられた。従って、青銅器は威信財や祭器として使われるようになった。


 
研究 武器型青銅器の展開 抜粋引用「弥生青銅器祭祀の展開と特質」 国立歴史民俗博物館 2014.2 吉田 広

 ①論文要旨
弥生早期・前期には、
武器型青銅器をまねた石剣等と、青銅器の破片を転用した利器が出現するが、中期初頭武器形青銅器が登場する。

中期前葉
北部九州で小銅鐸が、近畿で銅鐸が登場する。
近畿地方では自らの意思で祭祀具としての武器形青銅器を選ばなかった。

銅鐸は音響機器で儀礼的性格であり、祭器となるのに対し、武器型青銅器は実用性と武威の威儀具としての二面性を持つ。
しかし、北部九州周辺から始まった、武器型青銅器の模倣品による祭祀化が進行し、やがて威儀具と祭器となる。

中期末葉には、
多様な青銅器を保有する北部九州では、中広形銅矛を中心とした青銅器体系が作り上げる。
中四国以東では、各地で特定の器種に特化した、地域型の青銅器が成立する。
しかし、本来の機能を失い大型化した武器形は金属光沢を放つ武威の強調。銅鐸は、音響や光沢よりも文様造形の重視と、性格が異なっていった。

弥生後期には、
青銅器祭祀を停止する地域が広がり、青銅祭器は小型青銅器へと変化し(鋳潰して別の青銅製品に再生し)、新たな古墳祭祀に交替して弥生青銅器の終焉を迎える。

古墳時代には、
金属光沢と文様造形が統合された、中国王朝の威信をおびた銅鏡が、古墳祭祀の新たな祭器として継承されていく。

 ②論文(抜粋)
1弥生青銅器の登場
弥生早期・前期には青銅器が出土しないが、存在した痕跡は、遼寧式銅剣を再加工した銅鏃や利器が、福岡県今川遺跡、山口県井ノ山遺跡から出土している。また、比恵遺跡出土銅剣形木製品、遼寧式銅剣を二次加工したとみられる三沢北中尾遺跡出土銅斧などが出土している。

(2)武器形青銅器登場の階梯
刃部横断面菱形の武器形品が最初に登場するのは、磨製石剣と磨 製石鏃である。菜畑形跡など縄文晩期(弥生早期)の遺跡から広く出土する。
列島における武器形青銅製品の存在は、弥生前期を遡り縄文晩期に至ると言える。青銅器に先行する模倣品の時代は500年も続く。

2完品武器形青銅器の登場
完品の武器形青銅器の登場は弥生中期初頭の金海式甕棺の副葬品である。である。(※小氷期後の温暖期渡来民が激増)
細形の銅剣・銅戈・銅矛や銅鏡である。

(3)銅鐸登場の階梯
中期前葉には銅鐸が存在したとみられ、愛知県朝日遺跡から最古の菱環鈕1式の鋳型が出土している。近畿では20cm以上で定型化する。
九州でも同時期に小型銅鐸が出土している。
初期菱環鈕式の出土地は、出雲・播磨・淡路・越前・伊勢・美濃・尾張であり、次期の外縁紐式でも畿内や説内側には少ない。


2弥生青銅器の祭器化
完品武器形青銅の登場後、中期前半には青銅器生産も始まる。その中で葬送に見た目の大型化が起こり、中細形が中期前葉に成立する。

 2銅剣の関部双孔
中期中葉頃から中四国以東へもたらされた銅剣には、九州ではほぼ無い関部双孔がある。これは使用方法の違いであると考えられる。
※論文中の図11参照

(4)地域型青銅器の確立
青銅器が列島で広がる中で、各地に多様なあるいは特定の青銅器が広がり、在地化する意味で、各種青銅器模倣が行われた。
このような中で中期末葉に は、特定地域を分布域とする地域形青銅器が登場する。

 1地域型青銅器の分布
中期末葉には西日本を中心に地域を分割するように青銅器分布圏が割拠する。
中広形銅矛・中広形銅戈・中細形C類銅剣・平形銅剣・東部瀬戸内系平形銅剣・近畿型銅戈Ⅱ・Ⅲ 式、そして扁平鈕式銅鐸の青銅器分布である。

まず、中細形C類銅剣(出雲)、平形銅剣(瀬戸内南岸=四国北岸)、平形銅剣の東には東部瀬戸内系平形銅剣と近畿型銅戈が分布する。
平形銅剣の西側、北部九州では福岡県春日丘陵に大規模な青銅器生産拠点があり、生産された中広形銅矛が北部九州から広がりを見せる。


2地域型青銅器と弥生社会
①北部九州における青銅器の分節化
同じ鋳型から作られた銅矛を研ぎで成形し分けた、
中広形銅矛が「奉祭の剣」(最高権威の剣)、中細形銅矛「威儀の剣」(次の位)としてこれらは館内に副葬し、
中細形銅剣「佩用の剣」(最下位)として棺外に副葬されました。論文中図18参照。このような青銅器の役割分化を分節化という。

このような分節化の頂点にあるのは、武器形青銅器ではなく、中国王朝の威信観念を纏った(まとった)大型前漢鏡が占めていた。

②平形銅剣と文京遺跡 (松山市文京町
中四国以東では、1機種の青銅器に特化する。瀬戸内南岸地域(四国北海岸地域)は平形銅剣である。扁平鈕式銅鐸との共伴例もあるが、
松山道後城北地域の文京遺跡では、中期末葉に、平形銅剣が、局所的に銅鐸を排して独立的に分布する。

この弥生集落遺跡では、銅鏡や鋳造鉄斧などの舶載品をはじめとした多用な交流を窺わせる 出土品をもち、青銅器生産も考えられる。
埋納地は大型建物から500m程の地点で、銅剣祭祀が地域生産の中に組み込まれていたと考えられる。

③荒神谷遺跡の大量埋納
一括埋納された358本もの中細形C類銅剣は,剣身長50㎝前後で規格化された鋳型石材を用いて一括制作され、その状態を保ったまま短時間のうちに一括埋納されたと考えられる。同じ中細形C類銅剣が出雲から宝器追記にかけて分布し、出雲で作られた地域型銅剣と考えられる。

島根県田和山遺跡は、三重環濠の中の山頂に「柵を伴った9本柱遺構のみが存在」するという特異な景観をなし、
つまり、特殊な遺構配置をもつ田和山の地で祭祀が執行されたとき、荒神谷に大量埋納される中細形C類銅剣を象った銅剣形石剣が用いられた情景を復元でき、出雲における中細形C類銅剣祭祀の浸透、それも青銅器 と青銅器模倣品という重層化を遂げた様子を指摘することができる。

(6)小結
青銅器を受容し選択した各地で青銅器文化の在地化が進行する。
中期末葉には、北部九州では多種の青銅器を使い分ける分節化を達成し、中四国以東では特定の1機種を地域社会の祭祀の中核とした。
武器形は金属光沢を、銅鐸は文様の造形性を重視するようになった。


3弥生青銅器祭祀の終焉
弥生後期になると青銅器祭祀は終焉に向けた動きを加速させていく。
何より、銅剣の多くや近畿型銅戈が中期で製作を停止する。
後期には、中期末葉の青銅器を一部残す一方で、中期以来の系譜を引く大型青銅器は,武器形青銅器で広形銅矛と広形銅戈、
そして深樋式銅剣、これに近畿式と三遠式が並ぶ突線鈕式銅鐸となり、ほかに各種小型青銅器が現れる。

(1)後期の青銅器祭祀
 1.青銅器の分布
九州の広形銅矛と近畿の突線鈕式銅鐸は、中期末葉の分布圏を継承し、それぞれ分布圏を広げる。東海地域には三遠式銅鐸の分布圏が広がる。
しかし、瀬戸内沿岸と山陰から北陸の日本海沿岸に、大型青銅器空白地域が広がることが後期の特徴である。

(2)青銅器の行方
後期になって出現・出土数が増大する小型青銅器である。
銅鏡(舶載鏡・小型倣製鏡)、小銅鐸、銅釧、巴形銅器、銅鋤先、銅鏃、筒形銅器、銅貨と多種に及び、九州から関東まで広がり、大型青銅器退潮の一方で小型青銅器盛行を予想させるに十分である。

岡山県足守川流域では、紀元後の後期になって丘陵部から低地へ進出し、広域に居住行きを展開させ、一帯を統括する政治勢力、楯築墳丘墓に結び付いていく。 (※つまり、この地域は、弥生後期になって大規模開発した。それが北部九州から来た渡来人集団の指揮下で行われたということ。)
岡山県百間川周辺で同じである。(ここも同様に同時期に開発された。)

香川県高松市練兵場遺跡も、同様に同時期に開発された。(※ここは、やはり同時期に高句麗人の指揮下で行われた。)

※どうやら、高価な輸入品である青銅器は、その信仰心を無視して、権力により鋳潰して、小型銅器や銅鏃・銅鏡などとして再生されたようです。
 それを嫌った銅鐸祭祀の弥生人は、山や海岸や、集落の物陰や、岩陰に隠したのでしょう。
 銅鐸祭祀が早々と消えた前出の地域には、同時期にそのような武力集団による統一支配が及んだのでしょう。讃岐・吉備・出雲・北陸など。


   抜粋「弥生青銅器祭祀の展開と特質」歴博 吉田広

 お詫び
  この論文はこのページ編集の最後に遭遇し、引用抜粋しました。しかし、下の521石積塚の項目で、研究と称して様々な推論を巡らせています。
  そこの疑問は、ここの結論が解決しています。従って、答えが先で、疑問が後になっています。順序が逆ですが、このままご覧ください。
  



 銅鐸・銅矛・銅戈の分布


銅鐸・銅矛・銅戈の分布 銅鐸が近畿式と三遠式に収斂していく中で、
銅剣・銅矛・銅戈はいまだ各地の青銅器工房で独自に作られていた。

武器型青銅器祭祀には、特に地域性が強く、地域特有の祭祀があったのかもしれない。



413銅戈・銅矛

 中細形   弥生時代中期 前2~前1世紀

弥生時代の矛の多くは青銅で作られます。本例は鉛を主成分とした極めて稀なものです。鉛は青銅よりも融点が低く、加工し易いという特性を持つものの、実践用の武器としては不向きな素材のため、鉛矛は当初から祭器として作られたと考えられています。

中広形銅戈
佐賀県唐津市久里小学校敷地出土
弥生時代中期
前2~前1世紀
中広形銅戈 中細形鉛矛
佐賀県唐津市久里小学校敷地出土
弥生時代中期
前2~前1世紀
中細形鉛矛
上に記述
 



 414弥生時代の祭りの道具
 ―銅矛・銅剣・銅戈と銅鐸―


 415銅矛・銅剣・銅戈と銅鐸
ここでは、銅矛・銅剣・銅戈や銅鐸などの金属器を中心に弥生時代の祭りの道具をご覧いただきます。
弥生時代になると、まず朝鮮半島から北部九州へ青銅器や鉄器が伝えられ、弥生時代前期末から中期初頭には生産が始まり、ほどなく瀬戸内を経て近畿地方へも広がりを見せます。

弥生時代前期(前4~前3世紀頃)に北部九州に出現した銅剣・銅矛・銅戈の青銅製武器は、当初は朝鮮半島から伝来した細形の実用品でした。
まもなく日本でも作られるようになり、、国産化が進みます。やがて大型で偏平な祭祀のための道具へと変化していきます。

 ※大型扁平ということは、キラキラ光る部分が多い、現在の神輿のような感覚でしょうか。


銅鐸は、ほとんどが近畿地方で発見されています。その起源は中国の銅鈴(どうれい)や朝鮮半島の小銅鐸にたどることができると言われていますが、当初から銅鈴や小銅鐸よりも大きく、表面を文様で飾るなど日本独自の特徴を持つものです。20cm前後の大きさの「かね」として誕生した銅鐸は、徐々に大型化し、音を奏でることのない極めて装飾的なものへと変化していきます。これらの祭器は豊作や集落の繁栄を祈るために使われたものと考えられています。

銅矛・銅剣・銅戈
弥生時代の祭りの道具 銅矛・銅剣・銅戈と銅鐸
上に記述
 


 420朝鮮半島の青銅器 長崎県対馬市三根サカドウ出土 弥生時代後期 1~3世紀
 421
朝鮮半島の青銅器 朝鮮半島の青銅器 朝鮮半島製の青銅器
1~7
長崎県対馬市三根サカドウ出土
弥生時代後期
1~3世紀
朝鮮半島の青銅器 朝鮮半島の青銅器
1.平環へいかん
4.笠頭形銅器
かさがしら

2.有孔十字形銅器
5.双頭環状銅器

3.角形銅器つのがた
6.雑金具ざつかなぐ
触角式柄頭銅剣
しょっかくしき
つかがしら どうけん
7.触角式柄頭銅剣
弥生中期 前2~前1c
7.触角式柄頭銅剣
佐賀県唐津市柏崎字川頭出土
弥生中期
 前2~前1世紀
触角式柄頭銅剣
佐賀県唐津市柏崎字川頭出土
弥生中期 前2~前1c
 422鋳型
銅戈鋳型佐賀県久保泉町上和泉出土 弥生時代中期
前2~前1世紀
鉄戈・鉄剣
右に記述
銅戈鋳型
佐賀県久保泉町上和泉出土 弥生時代中期
前2~前1世紀
鉄戈
福岡県筑前町吹田出土
弥生中期
前2~前1世紀
鉄剣
佐賀県鳥栖市柚比町字安永田出土
弥生時代中期
前2~前1世紀
 423巴形銅器
巴形銅器

楯につける飾り
と言われている
弥生後期 1~3世紀
巴形銅器

香川県さぬき市寒川町石田東出土
弥生後期 1~3世紀
 

 426銅矛・銅剣・銅戈

 ※弥生前期の実用型銅剣・矛・戈が、中期・後期と次第に幅広となる銅製武器。光り輝く強いものを神の化身に祭り上げたのだろうか。
 427銅矛
銅矛・銅剣 銅矛
1.細形銅矛
2.中細形銅矛

3.中広形銅矛
4.広形銅矛

1.細形銅矛
福岡市博多区板付田端出土 弥生前期
前4~前3世紀

2.中細形銅矛
熊本県菊池市玉祥寺出土 弥生中期
 前2~前1世紀

3.中広形銅矛
福岡県うきは市浮羽町小塩出 弥生中期
前2~前1世紀

4.広形銅矛
長崎県対馬市上県佐護クビル出土
弥生後期1~3世紀
 428銅剣
銅剣

1.細形銅剣
2.中細形銅剣

3.中広形銅剣
4.平形銅剣

1.細形銅剣
岡山市南区飽浦出土
弥生前期 前4~前3世紀

2.中細形銅剣
香川県善通寺市善通寺町瓦谷出土
弥生中期 前2~前1世紀

3.中広形銅剣
香川県善通寺市善通寺町瓦谷出土
弥生中期 前2~前1世紀

4.平形銅剣
香川県善通寺市善通寺町瓦谷出土
弥生後期 1~3世紀
 429銅戈
1.細形銅戈
佐賀県鳥栖市比町字安永田出土
弥生中期
前2~前1世紀
2.中細形銅戈
佐賀県唐津市浜玉町谷口出土
弥生中期
前2~前1世紀
3.中広形銅戈
福岡県糸田町宮山出土
弥生中期
前2~前1世紀
銅戈 1~3
弥生中期 前2~前1c
 
 考察 青銅器祭祀の終焉

倭国大乱の歴史的意義として、卑弥呼を中心とした新たな政治体制が再編成されたことが挙げられる。近畿地方・中国地方などで2世紀まで盛んに創られた銅鐸が3世紀になってから急速に作られなくなっており、倭国大乱と3世紀前半の卑弥呼による新政治体制は文化面でも大きな影響を与えた可能性がある。  引用wikipedia倭国大乱の意義

何百年も続いてきた青銅器祭祀の御神体は権力者によって提出するよう命じられ、
あるいは、目前で火にくべられ赤熱したものに水をかけ、打ち壊されて投げ捨てられたり、
あるいは、鋳潰されて巴形銅器や鏃のようなものに作り替えられた。

自分たちが何百年も信奉してきた神聖な神様 (銅器=神器) がひどい扱いを受けることに怒りを持った人たちは、これを山中に隠し、嵐がおさまり、この、他所者の征服者たちの横暴がなくなる日を待ち望んだことでしょう。

土着の豪族も、卑弥呼の命令とはいえ、自分たちの神様を冒涜することは、いくら地域ボスとはいってもできるはずはない。これらの行為は、青銅器祭祀とは無縁な地域から来た、新しい支配者、弥生時代の開墾の歴史を担ってき地域指導者ではなく、弥生後期にどこかからやって来た、別の武力支配者によって行われた仕業だと思います。
土着豪族が命令されたら、きっとどこかに埋納して再び掘り出せる時を待ったことでしょう。

 おことわり (倭国大乱:2世紀末、70-80年間、146年-189年、桓帝霊帝の間、といわれる。)
倭国大乱頃の半島 桓帝と霊帝の末(146年-189年)、韓と濊が強勢となり、郡県では制御できず、多くの民が韓国に流入した。
... 初平元年(190年)、遼東郡太守の公孫度は中原の大混乱に乗じて、遼東地方に独立政権を立て、 朝鮮半島の西北部をもその支配下に入れた。

半島では大規模な戦乱が起こっていました。


私は、自分勝手に、思い込んでいることがあります。
以前、列島への渡来人、流民、亡命半島人などを調べ、青谷上寺地遺跡での、弥生農耕民の犯行とは思えない残虐な殺戮行為を見ました。
また、日本各地に残る、例えば石積塚などの渡来人や騎馬民族の文化を知り、また、吉備の弥生後期のムラの変遷などを知りました。

半島で戦乱が起こるたびに多くの流民が列島にやって来る。敗北した国や軍隊(半島には沢山の都市国家があった)が、行き場を求めて流れて来たことだろうし、また、豊かな列島を支配しようと野望を持った武装集団や、国家、野盗などが、次々と流入してくる半島人の中には、そのような者達もいただろうと思います。開拓期のアメリカと同じです。
石積塚墓制が西播磨にあるというので、竜野市の学芸員に尋ねたところ、きっと何も知らなかったようで、私から聞き出した遼寧省の石積墓がなんでこんなとこまで来るんじゃ。大体時期が違うやろが。そんなもん、こっちは別に発生して発達したもんや。関係あるかい!などと叱責された。
私は、吉備を占領した集団と讃岐を占領した集団は、それ以前は、北部九州に存在し、同時期に協調的に瀬戸内海を押渡り、
 (当時瀬戸内海は海賊のや地方豪族の収奪の場となっており安全航行は困難だった。安全な航路が開けたのは神功皇后の遠征からだ)
そうして福岡県相島巨大石積塚を200以上も作っていた遼寧人武装集団が四国へ、福岡県内にいた武装集団が吉備へ入り、襲撃して土着弥生人を支配したと考えている。
 (古代から米軍の沖縄占領まで戦略は同じ。まず、付近の島を占領して皆殺しにし、基地を築いてから目的地を攻撃する。相島もそれだったかも)


吉備地方には環濠集落も高地性集落もない。なぜか。彼ら吉備人が他地域に征服戦争を仕掛けに行っていたからです。
それも、大軍団で一挙に支配するのではなく、少ない武力で少しずつかなりの時間をかけて次第に勢力を広げていったため、周辺地域では防御性集落を構築する時間があったのです。つまり、最初に吉備を占拠した武装集団は少なかったということです。
 防御性集落の構築は2世紀後半から約100年間

四国でも同様のことが起こり、ただし、四国遼寧人は、その後、海を渡って吉備の隣、播磨南部の海岸線から内部に侵入し支配地を広げています。
四国が狭く、吉備のような広大な農地がないことがわかったためかもしれません。従ってこの地域には江戸時代まで丸亀藩の領地がありました。
これを竜野市では、そんなもん、先に竜野に来たんじゃ!それから四国に行ったんじゃ!とおっしゃいました。どんな根拠だったのでしょう。

倭国大乱の前に、半島情勢が流動化し、はじき出され行き場を失った敗残の軍隊が、行き場を求めて列島各地を襲い、それがまた引き金となって全国に波及していったのではないかと考えています。こうして列島内が流動化し、結局多くの弥生人が、他の半島人の支配を受ける結果になり、多くの地域で新しい支配者出現したのでしょう。

もちろん、土地争い・水争いもあったことでしょう。山賊・海賊泥棒強盗集団も横行したことでしょう。しかし、それ以上に、半島の戦乱によって流れて来た敗残兵たちは、たちまち強盗・殺人集団となって自分たちの居場所や食料を確保しようとしたからでしょう。

私はこのように考えていて、倭国大乱の前後の急激な社会の変貌は、このような渡来人武装集団による征服があったからだと妄想しています。
従ってそのような考え方で、以下の考察を書いていますので、偏狭な考えと思われる方は読まないでください。(笑)  (o*。_。)oペコッ 
 







 450弥生時代の生活道具





弥生時代になると、中国や朝鮮半島から水田稲作とともに大陸系磨製石器金属器が伝えられます。
大陸系磨製石器には稲の穂を刈り取る石包丁、木を伐る太型蛤刃石斧、加工する柱状片刃石斧や扁平片刃石斧、武器となる磨製石鏃などがあります。
木製農耕具を作るために磨製石斧が用いられました。これらの道具は後に鉄で作られるようになります。

タコ壺などの様に弥生時代になって独自に生まれた道具もあります。これらの道具による生産活動の変化は、人々の生活や社会を大きく変化させました。

 451
弥生時代の生活道具
上に記述
田下駄 田下駄静岡市葵区瀬名遺跡
弥生中~後期
前2~後3世紀
有肩扇状石器
塩尻市塩尻町
弥生中期 前2-前1世紀
銅鋤先
福岡県春日市小倉立石
弥生後期 1~3世紀
太型蛤刃石斧
左:香川県多度津町奥
右:山形市青野お花山

香川県多度津町奥白方
弥生後期1~3世紀

・山形市青野お花山
弥生後期1~3世紀
柱状片刃石斧
鉄斧

・柱状片刃石斧
香川県多度津町奥白方
弥生中期前2~前1世紀

・鉄斧 長野県篠ノ井
 光林寺裏山
出土
 前2~前1世紀
 455
石包丁
福井県坂井市坂井町長屋出土 弥生中期
前2~前1世紀
石包丁
左に同じ
石包丁
福岡市博多区竹下
弥生前~中期
前4~前1世紀
貝包丁
神奈川県三浦市毘沙門C洞窟 弥生後期
1~3世紀
 456
蛸壺・石錘 ・蛸壺 大阪府堺市
 堺区田出井

 弥生中~後期
 前2~後3世紀

・石錘 香川県多度津町奥白方出土
 弥生後期
 1~3世紀
石製紡錘車
土製紡錘車 
・石製紡錘車 
 香川県多度津町
 奥白方出土
 弥生後期
 1~3世紀

・土製紡錘車 神奈川県
 横浜市都筑区折本町
 弥生中期
 前2~前1世紀
 457
銅鏃未完成品

滋賀県
弥生後期 1~3世紀
銅鏃

大阪府柏原市・藤井寺市
船橋遺跡 弥生後期
1~3世紀
鉄鏃
ピンボケ見えない

鳥取市浜坂出土
弥生後期 1~3世紀
磨製石鏃

大分県 弥生前~中期
磨製石鏃

弥生後期1~3世紀
ヤス状刺突具
逆刺形製品
・ヤス状刺突具
福井県坂井市観音洞窟遺跡出土 弥生後期 1~3世紀

・逆刺形製品(かえりがた)
福井県坂井市観音洞窟遺跡出土 弥生後期 1~3世紀
 
 



 460弥生時代の装身具と祭りの道具


 461装身具と祭りの道具
縄文時代には、粘土や石、木や骨・角・牙など、様々な素材で装身具や祭りの道具が作られました。
弥生時代になると新たに青銅製の銅釧と呼ばれる腕輪、ガラス製の勾玉や管玉などの首飾りが登場します。
ガラス製装身具の製作技術は、金属の鋳造技術をもとに作られたものです。

一方、金属製の武器を模倣した磨製石剣や磨製石戈なども作られます。これらの石器は、副葬品や祭りの道具として使われたと考えられています。
また、動物の骨で作られた占い用の卜骨や楽器も出土しました。

装身具と祭りの道具 装身具と祭りの道具
上に記述
装身具 硬玉勾玉

福岡県糸島市二丈石崎
弥生中期前2~前1世紀
管玉 ・管玉  福岡県糸島市
 前原東
(二子塚)出土
 弥生中期
 前2~前1世紀

・管玉 佐賀県唐津市
 久里小学校
敷地出土
 弥生中期
 前2~前1世紀
装身具 勾玉・管玉
福岡県糸島市二丈石崎
(甕棺内)出土

弥生中期
前2~前1世紀
ガラス玉・ガラス小玉 福岡県糸島市
 前原東(二子塚)出土
 弥生後期 1~3世紀
 装身具  
貝製垂飾(タカラガイ)
銅釧
・貝製垂飾(タカラガイ)
神奈川県三浦市南下浦町毘沙門C遺跡出土
弥生後期1~3世紀

・銅釧 福井県鯖江市
西山町 西山公園
出土
弥生後期 1~3世紀
牙製腕輪(イノシシ)   神奈川県三浦市南下浦町毘沙門C遺跡出土
弥生後期1~3世紀
 
貝輪 貝輪
 福岡県朝倉市平塚
 字栗山出土
 弥生後期 1~3世紀
貝輪
神奈川県三浦市南下浦町毘沙門C遺跡出土
弥生後期1~3世紀
鹿角製飾棒
神奈川県三浦市南下浦町毘沙門C遺跡出土
弥生後期1~3世紀

 465祭の道具
磨製石剣

京都府福知山市観音寺
弥生中期 前2~前1世
磨製石剣

三重県玉城町原出土
弥生中期 前2~前1世
有角石斧

東京都北区浮間出土
弥生中~後期
前2~後3世紀
有角石斧コトバンク
有角石斧愛川町
有角石斧画像
有角石斧船橋市
有角石斧旭市
有角石斧千葉市
有角石斧千葉市埋文
有角石斧房総風土記


実用品とも祭祀具とも言われている
卜骨

神奈川県三浦市毘沙門C洞窟出土 弥生後期 1~3世紀
磨製石戈
磨製石戈

福岡県糸田町中糸田松ヶ迫出土
弥生中~後期 前2~後3世紀
磨製石戈

群馬県富岡市富岡鏑川川床
弥生中期 前2~前1世紀
 

 ※私が疑問に思うのは、武器型青銅器は祭祀用。木製や石製の剣・矛・戈は模擬戦闘に使ったと言われるのだが、
  木製模造武器は、作りやすく、扱いやすく、琉球空手などでも使われている。

  しかし、石製模造武器は、製作に大変な時間がかかり、重く、柄に装着して振り回すだけで、柄から外れてしまう。
  青銅製のものは、軽く、壊れても溶かしてすぐに作り直せる。とても扱いやすい。

  なぜ、石製なんだろう。金属製が入手できない人が、あこがれで作ったのだろうか。

 




 470
 3 大陸との交流と稲作の始まり 231赤漆高坏の隣 

   前2世紀~前1世の土器




 472小児用甕棺 佐賀県 弥生中期 前2~前1世紀

土器を棺として用いたものを甕棺と総称する。弥生時代の北部九州では、前期始めに小児用壺館から始まり、前期末には成人用の大型甕棺が登場した。地域の有力者の甕棺には、中国鏡や青銅製武器などが副葬されることがあります。

小児用甕棺 小児用甕棺
佐賀県出土
弥生中期 前2~前1世紀


 473船橋遺跡出土の土器 大阪府柏原市・藤井寺市 弥生中期 前2~前1世紀

船橋遺跡は、河内平野を水害から守るために付け替えが 行われた大和川の流水によって川床から瓦などが露出したことで発見されました。
弥生時代には大規模な集落が営まれ、出土した大量の土器は、当該地域の縄文時代から弥生時代にわたる土器研究を大きく進展させました。

1.甕
2.高坏
3.台付鉢
4.壺
5.水差し
6.無頸壺 船橋遺跡出土の土器
大阪府柏原市・藤井寺市弥生中期 前2~前1世紀
1~6


 474女方遺跡の土器おざかた いせき) 茨城県筑西市

 再葬墓
弥生時代の東日本では、一度遺体を埋めて白骨化した骨を取り出し、これを壺形土器などに納めて葬る「再葬墓」と呼ばれる葬法が盛行しました。
この瓢型の土器はこうした墓から出土したもので、瓢形壺とも呼ばれる独特の器形は東関東地域に特徴的なものである。


1.深鉢形土器

2.壺形土器
 

3.壺形土器

4.瓢形土器
再葬墓の臓骨器
女方遺跡の土器
茨城県筑西市
弥生中期
前2~前1世紀
再葬墓 女方遺跡の人面付壺
 引用東京国立博物館
各地から出土する
土偶付壺であるが、
これらは全て臓骨器
であり、二次葬で用いられたものである。
 



 475後期の土器 (九州・東海地方) 弥生後期 1~3世紀


 476九州の土器

福岡県古賀市鹿部出土
弥生後期 1~3世紀
壺と甕
壺か甕
甕か壺
後期の土器
(九州・東海地方)
壺 福岡県古賀市
鹿部出土
弥生後期 1~3世紀

甕 福岡県古賀市
鹿部出土
弥生後期 1~3世紀

 477東海・九州の土器


壺 名古屋市瑞穂区
瑞穂町出土
弥生後期 1~3世紀

甕 福岡県久留米市
荒木町白口出土
弥生後期1~3世紀

 478東海の土器 名古屋市瑞穂区瑞穂町出土 弥生後期 1~3世紀
弥生時代後期の伊勢湾沿岸では、白味を帯びた器面に繊細な櫛描文が施され、赤く塗り分けられた華やかな土器が盛行しました。
これらの土器はクレタ島の宮廷跡から出土するギリシャ陶器に匹敵する美しさを持つことから、パレス式土器パレス・スタイル土器とも 呼ばれています。


名古屋市瑞穂区瑞穂町出土 弥生後期
 1~3世紀


名古屋市瑞穂区瑞穂町出土 弥生後期
 1~3世紀
高坏

名古屋市瑞穂区瑞穂町出土 弥生後期
 1~3世紀


名古屋市瑞穂区瑞穂町出土 弥生後期
 1~3世紀

名古屋市瑞穂区瑞穂町出土 弥生後期 1~3世紀
高坏・甕
 
 


 480旋帯文石 岡山県倉敷市楯築神社 弥生時代(終末期) 3世紀

 481

考察 旋帯文石

  ※旋帯文石は、その表面に刻まれた複雑な文様によって死者の呪力を封じ込めるための呪文の石です。
   のちに円筒埴輪に施され、呪力を発揮するよう、古墳の周囲に立て並べました。

  ※私はこの旋帯文が数学的天才、3Dを自在にイメージできる(こういう人は、立体建築の細部を想像で設計できる)人だと考えてました。しかし、
  この文様の目的は、呪術模様によって霊魂を閉じ込めること、つまり、だということから、最近、あることに思い至りました。

  台所の水切り籠は、プラスチックから、食洗器、乾燥機に変わりましたが、60年前は竹製でした。しかし、実家では、笹を使った籠でした。
  旋帯文石に施された彫刻は、、この笹籠の編み目紋様そっくりだったのを思い出しました。(写真より複雑で精緻)

  大きな砂岩に墨さしを数本まとめたもので笹籠を手本にケガキ線を描き、帯を立体交差させ、精緻に彫刻し、側面には閉じ込められた霊魂の主、
  墓の主の顔まで描いて籠目を表現した。のではないだろうかと思い至りました。

  つまり、笹籠を手本にすると、意外と簡単に立体図形を描けることがわかりました。

旋帯文石
岡山県倉敷市楯築神社

右端に人面が彫られている

 考察 上古の遺跡と信仰の対象

  楯築遺跡は、弥生時代終末期の墳丘墓であり、おそらくは、早くから入植して水田を切り開いた弥生人のところへ、北九州からやって来た武力集団が
  支配し、墳丘墓の築造を強制し、銅鐸祭祀を禁止して支配者の墳墓崇拝を強制したものと思われる。

  北部九州や半島人にとっては、ピカピカ光るものを拝む信仰なんて、ちゃんちゃらおかしかったでしょう。(銅剣・銅鐸祭祀)
  そんな子供だましを拝むより、イワシの頭か、征服者の墓でも拝んどけと、、言いたくなるよね。

  どんな経緯であれ、それが暴君の墓であっても信仰の対象となって、後に神社神道の中に組み入れられて後世にまで残されることになった。
  そんな原始・古代の信仰物には、縄文の巨石信仰や滝信仰、狩猟祭祀までもが組み入れられている。

  古墳の中にも、神社や塚として、信仰の対象として残ったものもあれば、口伝えで、「あれは昔の人のお墓」として保存されたものもある。
  支配者の墳墓崇拝が、千数百年もそのような形で残っていたのだ。信仰の形は変わっても、畏敬(おそれ)の念をもって残された。

  一方、耕地を広げるために削平されたものも多くあり、中には、明治の廃仏毀釈の時期に盗掘にあったものもある。(畏敬の念の消滅)
  現代では単なる不動産。"土地"として破壊、開発されている。

   何れにしても、神道や仏教のかたち、あるいは道祖神などとして保存されてきたことに感謝したい。
 
 






 500古墳時代







 510政治的社会の成熟



 511-宝器の創出

弥生時代の終わり頃3世紀前半)には、関東・東海地方から九州各地に、地域ごとに独自の形を持つ大規模な墳丘が出現しました

ムラからクニが生まれ、さらにそれを総合する勢力が生まれていたことが分かります。239・240年には、邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを送ったことが中国の歴史書「魏志倭人伝」に記されています。

やがて古墳時代初頭3世紀後半、奈良盆地を中心とした畿内地方にそれまでの墳丘墓とは全く異なる規模と構造を持つ前方後円墳が登場し、古墳には宝器即ち鏡や装身具など、被葬者の権威を表す器物が副葬されました。これは、政治的社会が成熟して、より強大な力を持つヤマト(倭)王権が生まれたことを示し、以後、古墳が盛んに造られた7世紀までを古墳時代と呼びます。

朝鮮半島では、馬韓・弁韓・辰韓の三韓時代(前108年~4世紀)、中国では魏・呉・蜀の三国時代(221~280年)から西晋(280~316年)へと移行する時期でした。

この時代の土器は土師器と呼ばれ、弥生土器に比べ文様などの地域性を失うことが特徴で、全国的に共通の器種も作られました。

ここでは、土師器と、古墳に副葬された中国製神獣鏡により、古墳時代の幕開けを見てゆきましょう。

政治的社会の成熟 -宝器の創出-
上に記述
斜縁二神二獣鏡 斜縁二神二獣鏡
奈良県河合町佐味田宝塚古墳出土
古墳時代4~5世紀
中国製2~3世紀
土師器 壺 土師器 壺

香川県高松市
岩清尾山猫塚古墳
古墳時代3~4世紀

 512土師器壺
土師器 壺
1~4
土師器壺 1.土師器 壺
千葉県市原市菊間出土
4世紀
2.土師器 壺

東京都あきる野市草花字羽ヶ田出土
4世紀
3.土師器 壺

大阪府豊中市庄内遺跡
3世紀
4.土師器 壺
福岡県宗像市上八出土
3~4世紀






 513三世紀の東アジア(中国:三国時代、朝鮮:国時代)



朝鮮 原三国時代(げんさんごく紀元前108~4世紀中葉)漢四郡設置から百済・新羅の成立まで。漢四郡・高句麗・濊(わい)・馬韓・弁韓・辰韓
中国: 三国時代(184黄巾の乱、220後漢滅亡-280西晋による再統一、222三国の鼎立~263蜀漢の滅亡) 魏・呉・蜀

朝鮮半島の歴史を知らない私には、この地図は驚きでした。
扶余の位置。楽浪の位置。三韓の位置など、ハハハ。

三韓とは、言語習慣で大雑把に分けた分類で、内実は沢山の小国家に分かれていた。(1世紀~5世紀)

高句麗は大陸の内陸にいた民族が、やがて南下してきたことがわかった。
この時代からやがて、高句麗・百済・新羅にまとまっていくことになる。

小国家の乱立は同時期の倭国だけでなく、半島も同じだったんです。
 


研究 朝鮮半島の歴史 引用東アジアの古代年表
   詳しい内容は、リンク東アジアの古代年表を開いて読んでください。 

   箕子朝鮮の前に神話に基づく檀君朝鮮前2333-前1112)→箕子朝鮮→衛氏朝鮮前195-前108

    箕子 (箕族)は紀元前10世紀から交易活動を行ってきた一族です。彼らが商団を作り船を所有して東アジア一帯で経済活動を行っていました。

箕子朝鮮(きし)
紀元前12c~紀元前194年
箕子の考古学
箕子の歴史的背景
中国古代の殷・周金属文化圏では、紀元前10世紀以後、山東省の斉箕族が、殷周の権威のもとで、朝鮮西部に接する遼寧で活動していた。(交易活動、商団、殷=商から、交易活動をする人を商人という。)

燕・斉人の東来は古くから存在した。北京市順義県、河北省東部、遼西大凌で其や箕侯という銘の西周初の箕子時代の青銅器が多数発掘され、箕子と関連付けて捉える意見がある。

※この時代(紀元前10世紀以後)に活動していた南方航路の貝交易船は、箕子一族だったのか。
 その後の日本海航路の米交易船や、大量の移民を運んだのも彼らだったのかもしれない。
漢四郡
元前107年~後313年
前漢の武帝が紀元前108年に設置した楽浪郡・真番郡・臨屯郡、や、
前107年設置の玄菟郡を指す。

中国王朝は313年まで約400年間朝鮮半島中部・北部を郡県により直接支配し、
また、半島南部に間接統制を行った。


 2世紀頃(三韓時代)
 三韓時代
馬韓(後の百済)52ヵ国
弁韓(後の伽耶)12ヵ国
辰韓(後の新羅)12ヵ国
4世紀頃(三韓時代)

 
高句麗が政治的成長を果たし、 
国をまとめ、国力を増大させてきた。
紀元前1世紀~3・4世紀の
朝鮮半島の変容

下に記述
➀漢の4郡(前1世紀)
朝鮮の存在が中国に知られるようになるのは戦国時代のことで、(紀元前5世紀~紀元前221秦の統一まで)
戦国七雄のうち、燕や秦は、朝鮮を服属させようと圧迫を加えた。
燕や新への服属は緩やかだった。
漢の武帝による漢4郡の設置(前108-後313)は郡県制による直接支配を意図していたが、
在地の政治勢力の抵抗も大きく、楽浪郡を除いて、その直接支配は短命に終わった。
②高句麗と三韓
(前2~後1世紀)
 
後の(朝鮮半島)三国(時代)のうち、最も早く政治的に成長した高句麗は、前75年には漢4郡の一つ玄菟郡を攻撃してこれを現在の遼寧省地域に移動させた。
 ※これは、この地の民族を北方に連れ去って農奴にしたという意味のようです。

そして紀元前後頃には王を中心とした政治連合を形成するまでになった。
 ※高句麗の旗は三足烏(三本足のカラスです)

この頃、朝鮮半島中南部では韓族が小国を形成しつつあり、地域ごとに馬韓・弁韓・辰韓と呼ばれていた。
 ※言語や習慣に応じて三つに分類されたという。

 ※北の方には韓族とは別の民族がいた。高句麗は別の民族だったことになる。
③三国時代
(3~4世紀)
小国分立状態にあった山間地域では、4世紀には百済と新羅が台頭し、周辺の小国を統合していった。
高句麗も313年には楽浪郡を征服して南下。ここに三国時代の幕が開かれた。三国は互いに抗争しつつ、
中国南北朝や日本列島の倭とも複雑な関係を結び、激動の時代となった。

広開土王碑文はこの時代の一級資料。
伽耶地域近隣の遺跡
紀元前後から6世紀初頭
慶尚南北道・全羅道付近は、最後まで統一をまぬがれ、小国が分立したままだった。
この付近から沢山の渡来人や、工人が、高い文化を持って渡来してきた。

製鉄、須恵器、などもこの付近からでした。

三国時代 5世紀末頃 伽耶国は3世紀から6世紀中頃の国である。

伽耶と百済が新羅に滅ぼされたとき、両国から多数の難民と王族がやって来た。

戦争は土地と、民と、財物を奪うもの。
民は奴隷や農奴にする。日本に逃げ延びられたのは幸いだったのかもしれない。
8世紀、9世紀頃の
東アジア
7世紀中期(663)白村江の戦いに勝利し、新羅が唐と結んで半島を統一した時代。
国を奪われた旧高句麗人は、
沿海州に渤海国建国した。 

 まとめ
これまでは朝鮮半島の歴史や国家の消長にまで考えを及ぼすことはなかった。
倭国大乱などと、列島だけが小国分立で政治意識や国家観念を知らない人々だと思っていましたが、それは私の誤解でした。

本来、渡来人は半島が戦乱で乱れ、危険であったため逃れてきたのであって、だれよりも、戦乱と安定した統一国家を意識した人々だったと思います。

朝鮮半島のこの混乱ぶりは、大変なものです。国を立てても100年もたず、小国分立のまま統一されない地域もあり、列島よりもはるかに混乱していたと思います。そのような半島へ、ヤマト政権としてまとまっていた列島から、隋や唐の様に、自らの出身地の支配権を求めて兵を送るのは、まさに里帰りの意識だったのでしょう。半島は8~9世紀まで混乱を続けていたようです。日本列島が統一国家となった以後も、戦国時代だったようです。

そういえば、韓ドラの歴史ものは、戦争と、胸が悪くなりそうな性悪王女の話ばかりでした。
 

 517三世紀の墳丘墓の分布と列島内交流
近畿系土器の分布圏 庄内式甕、讃岐に前方後円墳、吉備に双方中円墳、博多に方形台状墓

東海系土器の分布圏 S字状口縁台付甕(近畿にも流通)、愛知・千葉の前方後方墳、千葉の前方後円墳

山陰系土器の分布圏 葺石を伴う四隅突出型墳丘墓(山口・北陸に影響)

北陸系土器の分布圏 葺石を伴わない四隅突出型墳丘墓(福井県・新潟に影響)
 
 514土師器 高坏
土師器 高坏
奥:1 、手前:2
1.熊本県 4c

2.神奈川県 4c

3.大阪府船橋遺跡 3c

手前:4.豊中市庄内遺跡 3c
奥:5福岡県春日市3~4c
土師器 高坏
ピンボケ
3~5


 518土師器 小型器種

1.小型坩
仙台市南小泉遺跡
4~5世紀
2.小型器台
仙台市南小泉遺跡
4~5世紀
3.小型坩

あきる野市小宮
4世紀
4.小型器台

茨城県土浦市
4世紀
5.小型器台

名古屋市南区桜台
3~4世紀
.6.小型坩

大阪府柏原市船橋遺跡
3~4世紀
7.小型器台

阪府柏原市船橋遺跡
3~4世紀
8.小型坩

島根県安来市大成古墳
4世紀
土師器 小型器種
1~2
3~64 7~8
 
 



 520古墳時代の宝器

 


 521銅製品 石清尾山猫塚古墳(高松市) (いわせおやま ねこづか古墳の青銅器)


     研究①積石塚
     研究②双方中円墳
     疑問③なぜ高句麗人は讃岐を占領出来たのか
     研究④猫塚古墳


     上記リンクでは銅製品は半島のものと無関係とあるが、以下の研究で決して無縁ではなく、半島の情勢と連動したものであると確信しました。



研究 ①積石塚(古墳)

 石清尾山古墳群は、
香川県高松市峰山町室町宮脇町西春日町鶴市町西宝町にわたる石清尾山塊上に所在する積石塚を特色とする古墳群。引用Wiki石清


 積石塚(つみいしづか)とは  引用「放送大学 考古学 第13章」早乙女雅

 1.朝鮮半島の積石塚
三国時代 (前1c~後7c、高句麗・百済・新羅)、の高句麗で盛行した墓制。高句麗は3世紀初頭吉林省集安に王都を置き、集安の伝統的墓制である積石塚墓制を高句麗の墓制として採用することによって、多く造られた。
川原石や山の割石で、外面を平滑にした切り石を積み上げたもので、墳丘内部にも石が詰まっている。(土を用いない。全て石だけ。)
  ※チンギスハンの墓もこのようにして造られたと言われている。(北方民族の墓制のようだ。)(北方騎馬民族の墓制のようだ。ともいえる)
  ※高句麗人はウラル系民族フィン・ウゴル系民族である遼河文明の担い手で朝鮮半島に櫛目文土器をもたらした。古来からの民族。

積石塚の種類・変遷 (下図)
 ①基壇を設けずに石を積み、墳丘上部に石槨を設けたもので、平面は方形や円形である。紀元前後に出現
 ②平面方形に一段の基壇を設け、その上に石を積み石槨を設けた。
 ③平面方形に数段の基壇を設け、その上に石を積み石槨を設けた。
 ④平面方形に数段の基壇を設け、上部に横穴式石室を設けた。最下段の基壇に立石を立て掛けるものが多く、一辺70mのものもある。

最初に出現した①以外は全て方形である。①→④の順に発達し、
①は紀元前後に出現し、5世紀前半まで続く。
④は3世紀末から4世紀初頭に出現し5世紀前後まで続く。
④の墳丘から軒丸瓦が出土し、4世紀初頭に高句麗王権が発達したことを示し(積石塚の上に屋根を設けた)
①から④は階層差を示している。

積石塚の墓制は吉林省集安での墓制であって、427年に高句麗の王都が平壌に移動すると、平壌の墓制、封土墳が行われ、積石塚はしなくなる。

石清尾山塊の古墳群
石清尾山古墳群
googleマップ
高松市峰山公園
石清尾山古墳群の中心
google地図
①積石塚
紀元前後に出現
②方壇積石塚 ③方壇階梯積石塚
引用「放送大学 考古学 第13章」早乙女雅
④方壇階梯石室墓
3c末~4c初に出現



 2.日本列島の積石塚引用wiki積石塚
古墳時代に石積塚が存在する地域は、香川県から徳島県の一部の地域と長野県、山梨県の甲府盆地北縁など一部の地域に顕著に見られる。
また、長崎県対馬、山口県見島、宮崎県・愛知県・静岡県・群馬県などにもみられる。

なかでも
 福岡県の相島(4c後半-6c中頃)、全長100メートルの海浜部に254基もの積石塚が拡がる
 長野市松(5~6世紀、合掌形石室という横穴式石室を持つ)、
 香川県高松市石清尾山古墳群(3~4世紀)、
 山口県萩市の見島ジーコン群(※銅碗・人骨出土、新しい7世紀後半の渡来民築造)などが著名である。

香川・徳島のものは古墳時代前期(3~4世紀)を中心とし、香川の石清尾山古墳群では積石塚の前方後円墳9基・双方中円墳1基・円墳30数基がある。
長野・山梨のものは中期後半から後期(5~6世紀)にかけて形成された群集墳にみられる。
長野市松代町所在の約500基からなる大室古墳群は、日本最大の積石塚古墳群で、大部分が積石塚であり、埋葬施設の多くが横穴式石室である。

長野県史跡の積石塚古墳群の八丁鎧塚古墳(長野県須坂市八町)は、第1~5号墳まであり、出土品として鏡・碧玉製勾玉・貝釧などがある。
第1号墳は直径25.5m高さ2.5m4世紀後半、2号墳は5世紀後半・直径25.5m高3.5m、6号墳は6世紀中頃・土盛葺石塚である。 引用wiki積石塚


 ※まとめ
3世紀初頭に高句麗が朝鮮半島北部の吉林省集安を王都にし、集安の墓制積石塚が盛んに造られた。その頃の高句麗集安からの移住者が大挙して列島に渡来し、3世紀には四国讃岐地方を支配した。4世紀半ばには日本海側の上越経由で須坂に入り、
高句麗が平壌に遷都した5世紀には中部高地松代付近に多く入植して横穴式積石塚(合掌石室)を造った。


 ※疑問 高句麗人は、なぜ騎馬を帯同しなかったか
岡山県総社市埋文で、騎馬民族征服説はあり得ない。馬具は半島南部の、伽耶とその近辺のものや、それを真似た国内産だと聞いていた。
しかし、対岸の讃岐を支配したのは騎馬の本場、高句麗渡来民であり、半島北部の集安からはその後も続々と流民がやってきて、列島各地に集安文化を残している。なぜ騎馬で来なかったのか。

古墳時代の亡命者たちは、朝鮮半島の西側から馬を捨てて身一つで船に乗ったのでしょう。馬の輸入はまた、別の交易手段によるようだ。
この頃、米交易の日本海航路が盛んで、それが難民ルートとなったのでしょう。きっと列島の日本海側でのコメ生産量が高まっていたのだ。
だとすると、米運搬船に馬は載せられない。さりとて、危険を冒して運行するのに、利益のない空舟運行はしない。それに、空船運行は軽いので危険だから、バラスト代わりに人を乗せて運んだのでしょう。

半島との交易路は、半島南部と最短の北部九州を考えていたが、弥生時代から、長野県や北関東から北方騎馬民族系の土器が出土しており、
中国から遼東半島、朝鮮半島の西側の多島海を通って半島南部に至り、そこから対馬・壱岐を経て北部九州に至り、
当初は日本海回りで津軽半島までの航路を運航していたのではないでしょうか。

 瀬戸内海航路は、その後、神功皇后の征伐行動により、瀬戸内海沿岸がヤマト政権によって制圧されて開かれた考えられる。4世紀のことである。

こうして、高句麗からは日本海経路で何度も、多くの流民がやって来た。中には、瀬戸内から大阪平野に上陸して地名を残す集団もいた。
この頃の瀬戸内海は海賊横行の時代だから、武装船団でやって来たのかもしれない。

馬の本格的な輸入は別のルートであり、それ以降列島各地で馬の飼育が盛んになった。ただし、この馬は、ペット用じゃなかったのかな。
今日の愛犬家が犬を飾るように、馬を飾り立てたのでしょう。半島での騎馬戦はもっと大きな馬だったのではないでしょうか。しらんけど。(笑)
中国の墓地で、二頭立ての戦車を馬ごと生き埋めにした発掘写真を見た。大変大きな骨だったと記憶。ポニーじゃなかった。

 

研究 ②双方中円墳

 双方中円墳
石清尾山古墳群中の猫塚古墳・鏡塚古墳古墳時代前半、共に4世紀前半)は、奈良県天理市櫛山古墳と共に、双方中円墳で知られている。弥生時代後期に各地に作られた巨大墳丘墓が、円や方形の墳丘に、一方又は前後双方に方形台状の突出部を設けた例があり、前方後円墳も双方中円墳もそれらを定型化したものと理解されている。 引用コトバンク

近年、鏡塚古墳は双方中方墳といわれている。墳形をご覧下さい。猫塚古墳 鏡塚古墳。ネット上の多くの文献がまだ、中円墳としている。
双方中方墳の例は三重県明合古墳、5世紀前半の1件がある。が、時代、築造方法、墳形ともに違っている。

渡来人の大勢力が讃岐で石積塚古墳を築く中で、弥生終末期の吉備を代表する楯築墳丘墓と同じ双方中円墳が造られたのはなぜでしょう。

古墳の種類と造営時期  引用コトバンク古墳参考BESTTIMES
古墳の種類 初期 前期  中期 後期  終末期 
3世紀  4世紀 5世紀  6世紀  7世紀
円墳・方墳 〇  〇 
前方後円墳 〇  〇   
前方後方墳 〇     
双方中円墳・双方中方墳      
帆立貝式前方後円墳   〇   
双円墳   〇   
上円下方墳・八角形墳     〇 

引用コトバンク古墳

 表より、楯築墳丘墓から50年も間を置かず、双方中円墳が、身分差として築造された時期が明らかになりました。
 また、資料より、双方中方墳は、双方中円墳と同じ、4世紀前半から5世紀前半にかけて造られたようです。
 楯築遺跡の系譜との関係はわかりませんでした。

 しかし、高句麗人はなぜ墓に石を積んだのでしょう。墓泥棒対策かな。それとも、北方騎馬民族だった昔の誇りなのでしょうか。 

 



疑問 ③なぜ高句麗人は讃岐を占領できたのか

西日本の古代を調べたとき、讃岐からは吉備と共通する遺物が多く出土し、また、吉備王の係累が讃岐王となった例もあり、吉備の支配下にあるものと信じていた。しかし、讃岐が高句麗人に占領されたのは大変新しく、弥生終末期の3世紀のことであったと思われます。

弥生時代の終わり頃には列島の多くの地域は開墾が進んでいた。当然讃岐もそのような豊穣の土地になっていたでしょう。
そこに渡来高句麗人が入り込んで、なぜ支配者になれたのでしょう。

弥生時代の戦争は、一般に、弥生人が入植して百年後に、起こったと言われている。その原因は水争い、土地争いであり、収穫物を狙ったものではないと言われている。しかし、弥生時代後期末葉 AD150年頃の、

青谷上寺地遺跡は海岸に面した停泊港であり、土地も水も争わない小さな港に大虐殺が起こり、住民を皆殺しにして、元住民が作った水路に死体や燃やした家財を投げ入れ、なんとそこに住み着いたのである。これを縄文人の仕業だというが、鋭い金属器による殺傷痕からあり得ない話だ。

これは、そのような強盗・殺人集団が船でやってきてある日、突如襲撃したのだ。思春期の少女が顔の正面から眉間に刀を突き立てられた頭蓋もあり、縛り上げたうえで残虐に、幼児から大人までの全ての住民を惨殺して占拠したのだ。

讃岐を支配した高句麗人はどのようにしたのか。吉備の目前で、吉備の影響下にあった讃岐を、武装集団が襲撃したのだろうか。
しかし、吉備の大勢力と戦って占領した様子は見られず、第一それほどの大集団が船を仕立てて、やってくれば、北九州を通過するときにわかってしまう。
それだけではない。交通の要衝である瀬戸内海の讃岐地方には、通行税を取ったり、海を支配する海人族であったり、様々な力関係が働いていたところである。

武力ではなく、吉備と政治的な協調関係を築いて支配権をえたのであろうか。ただ、その方法はわからない。

彼らは、吉備の支配と文化を受け入れながら、自分たちの独自の伝統は守っていた。この奇妙な関係は何だろう。弥生終末期の吉備王は、高句麗からの渡来人を大量に受け入れ、対岸の讃岐に入植させ、支配下に置いたのだろうか。だとするとやって来たのは、王族クラスで、高い技術や文化を持っていたのかもしれない。 

 
研究猫塚古墳

 猫塚古墳 参考「高松の積石塚、双方中円墳、方格規矩四神鏡、行花文精白鏡
石清尾山古墳群は、サヌカイトの山の上にあり、朝鮮半島の影響を受けた積石塚が作られている。

鶴尾神社4号墳は、庄内式併行期の土器(弥生終末期~古墳出現期)が出土し、讃岐地方最古の3世紀前半の全長40m、積石塚の前方後円墳である。
3世紀中期から畿内や瀬戸内地方で盛行する前方後円墳の祖型であるとされる。
副葬品には後漢時代(25-220年)の鏡が出土し、この地の首長に100から200年程伝承されたうえで、古墳築造時に埋納されたと考えられる。

猫塚古墳は、4世紀初頭、全長96m、古墳群中最大の積石塚による双方中円墳である。副葬品は、鏡5面(中国鏡4面、日本製1面)、小銅剣20前後、石釧1、筒形銅器3、銅鏃9、鉄斧1、鉄剣4、鉄刀1、鉄のみ1、鉄やりがんな1、鉄鏃4、土師器2等が出土した。

中国鏡、内行花文精白鏡は、前漢時代(前202~後8年)の鏡で、北九州地方の弥生墳墓から多く出土するが、古墳からの出土は猫塚だけである。
※この鏡はもっと長く歴代の首長に伝承されたうえで4世紀初頭に副葬された。
猫塚古墳は、北九州弥生人の習慣を受け継いだ人物の墓のようで、特異な存在である。以上参考「高松の積石塚、双方中円墳、方格規矩四神鏡、行花文精白鏡

また、論文は、讃岐・阿波・西播磨にこのような積石塚文化圏があったと伝えている。
 ※讃岐・阿波では当然既知だが、西播磨では学芸員は何も知らず、恥隠しに偉そうにぼろくそに言われました。なんということでしょう。

何れにしても、双方中円墳は吉備と共通する文化であり、北部九州の弥生文化とも共通している。
つまり、吉備も讃岐も敵対関係ではなく、共に北部九州の弥生文化を継承し、協調関係にある集団が、それぞれ讃岐と吉備を支配したようである。
楯築遺跡の旋帯文石が北部九州の砂岩製であったり、石室内の巨大な石が北部九州から運ばれるのは、このような歴史があったからである。

すると、紀元前後に始まった積石塚墓制は初期は円や方形。その後は方形。それが讃岐では双方中円、双方中方、前方後円、円、方などに変化する。
讃岐の積石塚は初期の文化を変化させながら継承して発展させたものではないかと考えられる。

 
 
 

 521銅製品
 石清尾山猫塚古墳 高松市

銅槍先 銅槍先
高松市石清尾山猫塚古墳 3~4世紀
筒形銅器 筒形銅器
高松市石清尾山猫塚古墳 3~4世紀
銅鏃 銅鏃高松市岩清尾山猫塚古墳 3~4世紀

 その他の銅製品、特に前漢時代の鏡内行花文精白鏡

 
 
  


 522柄頭

   前方後円墳 全長140m 古墳時代前期中葉 4世紀後半頃    奈良県天理市櫟本町(いちのもと)

奈良盆地中東部にある墳長約130mの前方後円墳です。
墳丘には円筒埴輪を2段に廻らし、後円部墳頂の墓壙に長さ7m余りの木棺を据え、粘土で覆っていました。
棺の内側・外側からは、花形環頭飾金象嵌銘大刀をはじめ、質、量ともに豊かな副葬品が出土しました。

家形飾環頭柄頭 家形飾環頭柄頭
天理市東大寺山古墳
4世紀
中国の素環頭大刀をモデルにした日本列島独自の青銅製環頭です。
切妻造伏屋建物(竪穴住居)は、家屋文鏡子持家形埴輪以外には例がない独創的な造形です。

通常の竪穴住居とは異なる重要な建物であり、集会所や喪屋であるという説もあります。
 
 523腕輪型宝器
腕輪型宝器の分布

 524鍬形石
3.鍬形石 1.貝釧路
静岡県磐田市松林山古墳
3.鍬形石
上:鍬形石
下:金錯銘花形飾
     環頭大刀

 525金錯銘花形飾環頭大刀(きんさくめい はながたかざり)
日本最古の出土銘文刀剣としてよく知られ、刀身部は中国製で環頭部は日本製です。(※柄部分だけ日本で作り付けたのか、作り直したのか)
一部を欠失しますが、刀身背部に金象嵌で24文字が刻まれていたとみられます。
「中平」(184~189)は後漢・霊帝時代の年号で、後漢書東夷伝に倭国大乱があったとされる時期です。
金錯銘花形飾環頭大刀
奈良県天理市東大寺山古墳
金錯銘花形飾環頭大刀
古墳時代4世紀
刀身:中国製2世紀
金錯銘花形飾環頭大刀
 526石釧
2.車輪石 4.石製坩 5.石製台付坩
6.筒形石製品
1~6
1.石釧
2.車輪石
3.鍬形石
4.石製坩
5.石製台付坩
6.筒形石製品


 527巴形銅器 古墳時代 4~5世紀

1.貝釧
静岡県磐田市
2.車輪石形青銅器
岡山県津山市
田邑丸山1号古墳
4.巴形銅器
大阪府和泉市
和泉黄金塚古墳
5.巴形銅器
山口市赤妻町赤妻古墳
6.巴形銅器
奈良県河合町
佐味田宝塚古墳

8.鍬形石

岐阜県可児市
身隠古墳
9~12 9.車輪石 大阪府河内長野市
  大師山古墳

10.車輪石 京都府京田辺市
  飯岡車塚古墳

11.石釧 神戸市
  ヘボソ塚古墳

12.石釧 京都府与謝郡
 与謝野町作山古墳
13~15 13.石釧 京都府京田辺市
  飯岡車塚古墳

14.石釧 群馬県太田市
  矢場薬師柄古墳

15.石釧 群馬県前橋市
  稲荷山古墳

巴形銅器
3~5
3~6

3.未撮影
7.撮影禁止
11~15
1,2,7 8~10
 貝製・銅製・石製の椀飾類
1、2、7
 



 530ヤマト(倭)王権の成立 4世紀


 531宝器の生産

 四世紀の東アジア情勢
4世紀になると、中国製の鏡を真似たり、日本列島独自の文様を表現した精巧な大型鏡が作られました。
これは、倭人にとって鏡に特別な意味があったことを物語ります。

また、弥生時代に珍重された南海産の貝の腕輪を写した碧玉製の鍬形石をはじめ、様々な器物を写した青銅・石製品なども作られ、
ヤマト(倭)王権は政治的・祭祀的な権威を表すための宝器を自ら生み出すようになります。

このうち、碧玉製品などは地方豪族の協力を得て生産されたことが分かっています。
鍬形石などの宝器や竪穴式石室を伴う古墳は、近畿地方を中心に、東海・中部地方以西に分布します。

各地の豪族(有力者)が倭王権と政治的な紐帯関係を結んだ証として、自己の威信を表現するためにこれらの宝器を共有したと考えられています。

中国では西晋(265-316)が滅び、北方民族の諸王朝が盛衰する五胡十六国時代(316~420年)に入り、
朝鮮半島では313年に北部の高句麗が楽浪・帯方郡を併合し、南部の百済・新羅も周辺地域の統合を始めていました。

倭王権の成立と拡大も、このような東アジアの動静に深く関わっていたとみられます。

ヤマト(倭)王権の成立 ヤマト(倭)王権の成立 宝器の生産
上に記述
三角縁神獣鏡出土古墳の分布
 533国産鏡の展開 古墳時代4~5世紀
変形方格規矩獣文鏡
碧玉製四脚付盤
変形方格規矩獣文鏡
奈良県河合町

古墳時代4~5世紀
碧玉製四脚付盤
岐阜県垂井町
親ヶ谷古墳
古墳時代4~5世紀
大型国産鏡
1~3
3.鼉龍鏡
山口県柳井市
柳井茶臼山古墳
 534
国産鏡の展開 1.変形内行花文鏡 2.変形方格規矩鏡 3.変形四禽鏡 4.盤龍形鏡 5.鼉龍鏡
6.変形四神四獣鏡 7.変形五獣鏡 8.変形三神三獣鏡 国産鏡の展開
1~8
1.変形内行花文鏡
2.変形方格規矩鏡
3.変形四禽鏡
4.盤龍形鏡
5.鼉龍鏡
6.変形四神四獣鏡
7.変形五獣鏡
8.変形三神三獣鏡
 
 
 540


 541亀山1号墳出土品 円墳 5世紀中葉 兵庫県加西市笹倉町亀山
   



 542滑石製模造品  5世紀初頭  東京都世田谷区 野毛大塚古墳出土品 毛野大塚古墳
1.滑石製刀子 1.滑石製刀子
2.滑石製鎌
3.滑石製斧
滑石製模造品
野毛大塚古墳出土品
東京都世田谷区毛野大塚古墳
5世紀初頭


 543革綴短甲

革綴短甲
甲府市大丸山古墳
4世紀
革綴短甲
甲府市大丸山古墳
4世紀
革綴短甲
高崎市長瀞西古墳
5世紀
革綴短甲
高崎市長瀞西古墳
5世紀
鋲留短甲

広島県三次市
三玉大塚古墳 5世紀
鋲留式甲冑

広島県三次市
三玉大塚古墳
5世紀
鋲留短甲

福岡県うきは市吉井町
塚堂古墳 5世紀
鋲留短甲

福岡県うきは市吉井町
塚堂古墳 5世紀
 


 545鉄製品

 
 544鉄斧
鉄斧
大阪府堺市百舌鳥
カトンボ山古墳 5世紀
鉄斧
大阪府堺市百舌鳥
カトンボ山古墳 5世紀
鉄斧
大阪府堺市百舌鳥
カトンボ山古墳 5世紀
鉄製工具
古墳時代4~5世紀
大阪府堺市百舌鳥
カトンボ山古墳 5世紀
鉄製工具
 546鉄製武器
前方後円墳の分布 前期古墳
宮城県雷神山古墳
京都府銚子山古墳
奈良県渋谷向山古墳
中期古墳
岩手県角塚古墳
群馬県天神山古墳
大阪府大仙古墳
和歌山県下里古墳
岡山県造山古墳
宮崎県女狭穂塚古墳
鹿児島県横瀬古墳
後期古墳
愛知県断夫山古墳
奈良県見瀬丸山古墳
長崎県双六古墳
花光寺山古墳出土品

岡山県瀬戸内市長船町
4~5世紀
1.素環頭大刀
2.直刀
鉄製武器
岡山県瀬戸内市長船町
4~5世紀


 547一本松古墳出土品  前方後円墳 岡山市北区法界院3 5世紀中葉

  ※全長65mもの前方後円墳で、鉄鍛冶の一族で、これほど大きな古墳を許されるとは、物凄い鉄製品の工房を持っていたのでしょうか。
  刀を作っていたのかなぁ。備前長船の先祖かなぁ(笑)
一本松古墳出土品
岡山市北区法界院3
 5世紀
鉄製の鍛冶具 5世紀 1.鉄鉗(かなはし) 2.鉄鎚(かなづち) 鉄鋌(てつてい)
 




 550巨大古墳の時代 4世紀末頃





 551鉄器生産の増大

4世紀末頃には、大阪平野と奈良盆地を中心に各地に巨大な前方後円墳が出現しました。
墳丘には家形埴輪・器財埴輪を中心とした埴輪がたてられ、葬送儀礼を通じて強大な王権が示されました。

一方で、鉄製の武器武具が納められた中小古墳が増加しました。
これは地方豪族と王権との結びつきがより軍事的なものに変化し、中小の豪族にまで拡大したことを示しています。
一方、鉄鋌と呼ばれる鉄の原料の大量埋納例などから、鉄器の生産が飛躍的に増大したことが窺われます。

朝鮮半島では4世紀中頃に南部の鉄資源を背景に百済・新羅と伽耶の王権が成長し、鉄や貴金属製品の生産が拡大しました。
中国では南部に宋が興り北部は北魏が統一して、南北朝時代(420~589年)が始まりました。
中国の文献には、「倭の五王」が度々南朝に朝貢(421年~)し、日本列島と朝鮮半島における軍事的称号を要求したことが記されています。

朝鮮半島伝来の須恵器の生産開始や、鉄製の武器・武具の大量生産は、中国を中心とした国際秩序にヤマト(倭)王権が参入したことを示すと考えられます。

巨大古墳の時代 鉄器生産の増大
上に記述
5世紀の東アジア
 







 560地方豪族の台頭 5~6世






 561倭風化の進展

5世紀末頃には、朝鮮半島伝来の馬具や武器武具・金属製装身具の国産化が始まりました。
金銀を多用する朝鮮半島に対し、日本列島では金銅板を主に用いるなどの特色があり、6世紀中頃からは独自の装飾大刀なども発達しました。
これらはヤマト(倭)王権の権威の証として、各地の豪族(有力者)と共有して相互の結びつきを示したと考えられます。

古墳では、家族を合葬することが出来る横穴式石室が、九州から東北地方まで急速に広がりました。
また、小規模な古墳が密集する群集墳が増え、古墳を造営できる階層が拡大したことを示しています。
さらに、須恵器などを用いた新しい葬送儀礼が整えられ、墳丘上には新たに人物や動物をかたどった埴輪が登場します。


朝鮮半島では、鉄資源・土器製作技術などで倭と関係が深かった南部の伽耶諸国を新羅が圧迫し始め、王権は仏教などの新しい文化を受け入れて百済との政治的関係を深めました。しかし、ついに伽耶は562年に滅亡し、倭は半島での足掛かりを失います金属器に見る倭風化はこのような国際関係を背景に進展したと考えられます。

倭風化とは、半島に足掛かりを失った大和政権が、最新文化に触れられず、やむなく作り出したガラパゴス的なものである。
 のちに、遣新羅使や遣唐使を派遣する。国際関係の改善を誰かがはかったものと見られる。
 遣唐使は、ヤマト政権が船や資金を用意し、新羅商人に貸し与え、そこに載せてもらう形で行われた。そうしてでもガラパゴス化は避けたかった。
 

地方豪族の台頭 倭風化の進展
上に記述
五鈴鏡群馬県昭和村森下出土 五鈴鏡



 文人の装い 6世紀
 

文人の装い
1~3
古墳時代 6世紀
 
群馬県前橋市
金冠塚古墳出土
1.模造 金銅製冠
2.金銅製大帯 3.金銅製魚佩
千葉県木更津市
松面古墳出土



 562武人の装備 5~6世紀


3.挂甲
倉敷市真備町
天狗山古墳
武人の装備
1~3
5~6世紀
 


 570馬具

 571操作用馬具 6~7世紀
装飾馬具の埴輪 馬具の名称 操作用の馬具
1~3
古墳時代 6~7世紀
1.楕円形鏡板付轡福岡県春日市
日拝塚古墳
2.心葉形鏡板付轡
静岡県島田市
御小屋原古墳
3.長方形鏡板付轡
三重県伊勢市
塚山古墳

 572装飾用馬具1  5~6世紀

装飾用の馬具1
5~6世紀
1~6 7~9 2~1 1.馬鐸
茨城県筑西市
上野古墳
2.馬鐸
千葉県香取市
塚越古墳
1、3 4、3 3.剣菱形杏葉

倉敷市真備町
天狗山古墳
4.剣菱形杏葉

岡山県真庭郡蒜山
四ツ塚1号墳
5.
5.鐘形杏葉
岡山県倉敷市庄新町
王墓山古墳
6,7 6.鈴付剣菱形杏葉

栃木県宇都宮市
牛塚古墳
7.鈴杏葉

栃木県宇都宮市
宮下古墳
8.
棘葉形杏葉
群馬県藤岡市
白石二子古墳
9.変形剣菱形杏葉
岡山県瀬戸市邑久町山田庄
 
 577

 578鞍金具

1.締具 2.鞍金具 3.飾鋲 鞍金具
神奈川県横浜市磯子区
室ノ木古墳 6世紀

 579装飾用馬具2

1.飾金具
 横浜市磯子区
 室ノ木古墳
2.飾り金具 島根県
 安来市荒島町
 仏山古墳
3.辻金具
群馬県藤岡市
白石二子塚古墳
4.金銅装雲珠
群馬県藤岡市
白石二子塚古墳
5.馬鈴

山口県長門市
糘塚古墳(すくも)
6.馬鈴
三重県鈴鹿市保子里
車塚古墳
装飾用馬具2
三繋:面繋・胸繋・尻繋
1~6
5~6世紀 繋=つなぐ
 
 


 580さまざまな大刀 古墳時代 6~7世紀

 581
大刀の種類と
各部の名称

3.方頭大刀 ほうとう
2.頭椎大刀 かぶつち
1.双龍環頭大刀 そうりゅうかんとう
様々な大刀
1~3
6~7世紀

 582①双龍環頭大刀 蘇我氏の配布した刀剣 千葉県木更津市 松面古墳 古墳時代 6~7世紀
 

 583②頭椎大刀 茨木県かすみがうら市笄ヶ崎出土 古墳時代 6~7世紀
 584③方頭大刀 愛媛県西条市 大日山古墳 古墳時代 6~7世紀


 585柄頭

  倭風の柄頭
1.銀象嵌円頭柄頭

群馬県藤岡市本郷
2.銀象嵌頭椎柄頭
富山県高岡市
日本列島(倭)風の柄頭
1~2
6世紀

 586半島風の柄頭

4~1

5~1
半島風の柄頭
1~5
6世紀
 587
1.双龍環頭柄頭

滋賀県高島市
鴨稲荷古墳
2.双龍環頭柄頭

岡山県真庭市冨尾
3.単龍環頭柄頭

三重県鈴鹿市保子里
車塚古墳
4.単鳳環頭柄頭

三重県鈴鹿市
南町古墳
5.獅噛環頭柄頭

静岡県周智郡森町
院内古墳


 589戦闘用馬具

1.模造 馬冑

和歌山市 大谷古墳
5~6世紀
1.模造
 鈴付f字形鏡板付轡

 和歌山市大谷古墳
 5~6世紀
2.模造
 鈴付剣菱形杏葉

 和歌山市大谷古墳
  5~6世紀
1.
戦闘用の馬具
1~2
5~6世紀
特殊な馬具
1~2
5~6世紀
 588蛇行鉄器
2.蛇行状鉄器
奈良県田原本町
團栗山古墳
希少な「蛇行鉄器」馬の鞍の後ろにつけて、旗を差すための金具。

なぜ蛇行しているのかと言えば、
疾走時、馬の上下動に伴って、旗竿が騎手頭を痛打するのを防ぐための上下動減衰装置と言うハイテク

 引用装飾古墳今昔紀行
 
 
 
 


 590葬送儀礼


 591黄泉の国の炊飯具
黄泉の国の炊飯具
1~4
奈良県葛城市笛吹遊ヶ岡
3.小型鉢
1.小型置カマド
2.小型羽釜
4.小型甑

※移動式カマド、ミニチュアカマドは滋賀県ではたくさん出ています。
 奈良県まで行くと少なくなりますが、渡来系の集落から出ています。

 592石障
群集墳の副葬品
溝又高地所在古墳出土品

愛媛県四国中央市
6世紀

溝又高地の土器
石障
石障

熊本県八代市日奈久大坪町
長迫古墳 6世紀
 593葬送儀礼の土器
葬送儀礼の土器
6世紀
群集墳の副葬品
溝又高地所在古墳出土品
愛媛県四国中央市
6世紀

須恵器 提瓶

須恵器 蓋坏

須恵器 短頸壷

須恵器 高坏

須恵器 高坏

須恵器 脚付長頸壷

須恵器 子持脚付壺

須恵器 高坏

須恵器 ハソウ

須恵器 坩
 
 
 
 
 
 
 



 600古墳時代終末期



 601古代東アジア文化の浸透 
6世紀末に前方後円墳が姿を消し、有力者は大型方墳・円墳を営むようになり、7世紀中頃には新たな大王墓として八角形墳が現れます。
また、畿内の飛鳥と河内地域に横口式石槨墳が成立します。

奥室が著しく小型で次第に前室・羨道が退化することが特徴で、伝統的な葬送儀礼が大きく変化したことを示しています。
これらは終末期古墳と呼ばれ、墳丘を土で突き固める版築工法や切石積・漆塗棺 (以後、未撮影)

※横口式石槨 横口式石槨(画像) 横口式石槨
  ①は遺体を入れるもの ②は棺を覆い保護するもの ③石室は棺又は、槨に覆われた棺を安置するもの。このことから、
  石槨を石室代わりに使った埋葬形式。又は、棺の安置だけのための小型石室。墳丘墓の小型化=石室の小型化によって生まれたようです。

  ネット検索をすると小型石室=横口式石槨の中の、特に変わったものだけを取り上げて説明する傾向があり、本来の趣旨を逸脱しています。

  特徴としては、自然石でなく、切石を用いて精巧な墓室を作っている。埋葬は、木棺か、乾漆棺などを使用する。これも、小型軽量化。


終末期の古墳 海獣葡萄鏡
奈良県高取町大字真津山字呑谷 松山古墳
7世紀
海獣葡萄鏡
7-8世紀に盛行した中国鏡
7世紀の東アジア 気候の安定、温暖化と共に、東アジアも安定し、大陸は巨大な唐帝国に一元化され、

半島は唐の属国となった統一新羅が領土を半分に減らして支配した。

沿海州には北方民族の靺鞨 (モンゴロイド・エベンキ人) がユーラシア東岸を支配した。


 605平石古墳群 7世紀
 606
1.ガラス管玉
2.ガラス小玉
装身具
1~6
大阪府河南町平石
塚廻古墳
古墳(飛鳥時代)7世
5.金糸残片
6.銀糸残片
4.螺旋状金線 3.飾り金具 武器 1、2
大阪府河南町
平石塚廻古墳
古墳(飛鳥時代)7世紀
1.金象嵌鉄刀残片 2.鉄刀残片
 607
台石・扉石残片
大阪府河南町
平石塚廻古墳
古墳(飛鳥時代)7世
台石 扉石残片 ピンボケ
扉石・台石の位置を示す
漆喰残片
大阪府河南町
平石塚廻古墳
古墳(飛鳥時代)7世
漆喰残片
 608
平石古墳群周辺地形図
奈良県南部の古墳分布
敷石
大阪府河南町
平石塚廻古墳
古墳(飛鳥時代)7世
敷石 緑釉棺台残片
大阪府河南町
平石塚廻古墳
古墳(飛鳥時代)7世
緑釉棺台残片
漆塗の棺材
1~2
大阪府河南町平石
塚廻古墳
古墳(飛鳥時代)7世
漆塗棺材
1.夾紵棺残片
漆塗棺材
2.漆塗り籠棺残片
 





 610終末期古墳  7世紀




  古墳時代末期から飛鳥時代にかけての、6世紀末から7世紀世紀頃の古墳を指す。
  6世紀末に前方後円墳築造の時代が終焉し(古墳時代末期)、それ以降律令制に向かう段階で造営されたのが終末期古墳である。

古墳名:  終末期古墳として、千葉県栄町の龍角寺岩屋古墳や山武市の駄ノ塚古墳、奈良県明日香村のキトラ古墳や高松塚古墳など。
墳 形:  円墳・方墳・八角墳・上円下方墳などがある。 
  引用wiki終末期古墳
 
 611
終末期古墳(横口式石槨墳)の分布  


 須恵器 古墳(飛鳥)時代 7世紀
須恵器 1~4
古墳(飛鳥)時代
1.高台付碗
倉敷市王墓山古墳
古墳(飛鳥)時代7世紀
2.蓋坏
倉敷市王墓山古墳
古墳(飛鳥)時代7世紀
3.フラスコ形長頸壷

横浜市市ヶ尾横穴古墳
古墳(飛鳥)時代7世紀
4.短頸壷

千葉県木更津市
瑠璃光塚古墳
古墳(飛鳥)時代7世紀

 612アカハゲ古墳出土品 7世紀
アカハゲ古墳出土品
1~3大阪府河南町平石
古墳(飛鳥)時代7世紀
1.ガラス管玉
2.漆塗り籠棺残片
3.黄褐釉有蓋円面硯
残片


6世紀には、仏教が朝鮮半島の百済から日本列島に伝わりました。仏教文化の浸透とともに仏具としての銅鋺は普及し、7世紀に入ると数が多くなります。
本作品が出土した小見真観寺古墳は、行田市で最後に築造された前方後円墳で、古墳から寺院への移行期にあたります。

銅鋺
埼玉県行田市
小見真観寺古墳
古墳時代6~7世紀
銅鋺 蓋付有脚銅鋺 蓋付有脚銅鋺
埼玉県行田市
小見真観寺古墳
古墳時代6~7世紀

 613小型陶棺
6世紀以降に陶棺は岡山県東部と近畿地方中央部を中心に作られるようになり、九州地方中部から東北地方南部にかけて分布します。
この陶棺は、通有の陶棺よりも小型であり、遺骸をそのまま納めたのではなく、臓骨器として使われた可能性が高いです。

小型陶棺
群馬県太田市大田字亀山
古墳(飛鳥)~奈良時代
7~8世紀
小型陶棺 陶棺栓 陶棺栓
岡山県勝央町平
五反逧古墳
古墳(飛鳥時代 7世紀
陶棺栓

 ※陶棺栓 お風呂の水抜きの様に、棺にも水抜きの孔があり、その栓もあったのでしょうか。そういえば、陶棺の中を見せた展示はなかったですね。

   
 
 
 




 620特集 須恵器の展開


古墳時代の土器には、弥生土器の伝統を引き継いだ、野焼きで赤褐色の土師器と共に、新たな技術で作られた須恵器があります。
いずれも平安時代の土器の名称にちなんだ用語です。

須恵器の器形は、貯蔵などに用いる容器の甕・壺・提瓶・供膳用の坏・高坏・ハソウ・脚付壺等の他、装飾須恵器等の特殊な器種も作られました。
須恵器は斜面に設けた窖窯(あながま)で、千度以上の高温で焼かれ、窯を密閉することによって還元焼きされ硬く青灰色に焼き上げられました。

その技術は中国の灰陶に由来し、朝鮮では三国時代に陶質土器として発達しました。
4世紀末以降、朝鮮と日本の交流によって陶質土器がもたらされ、5世紀には日本でも製作されるようになりました。

特に大阪府の陶邑窯跡群では平安時代まで数多くの窯が営まれました。
5世紀末以降、日本の各地に須恵器の窯が設けられ、古墳の副葬品として盛んに用いられました。

古墳が作られなくなっても、須恵器は奈良・平安時代の役所や寺院で用いられ、須恵器の技術を基にして灰釉陶器も作られました。
その後、須恵器の技術は中世陶器へと受け継がれました。

 621
特集須恵器の展開 須恵器の展開
上に記述
 622 5世紀の須恵器
甕と把手付き短頸壷
出土地不明 5世紀
把手付広口壷
把手付短頸壷

対馬市
大将軍山古墳出土
把手付広口壷 把手付短頸壷

 朝鮮半島に最も近い対馬で、箱式石棺から出土した土器です。胴体の底を叩いて丸く作り上げています。
  叩き板の文様や、耳の形などから、朝鮮半島で生産されて対馬にもたらされた土器であった可能性もあります。

 623
有蓋高坏 有蓋高坏
京都府亀岡市曽我部町
5世紀
坏蓋・坏身 坏蓋・坏身
京都市西京区
穀塚古墳 5世紀
樽形ハソウ
樽形ハソウ
岡県粕屋町大字江辻字榎町 6世紀
ハソウ ハソウ
岡山県赤磐郡東軽部
5~6世紀
ハソウ
香川県丸亀市
岡田万塚古墳5~6世紀


 625変わり種の須恵器
   6世紀頃から子持ち付きなどの変わり種の土器が出現し始める。
鳥形装飾付器台 鳥形装飾付器台福岡県春日市
日拝塚古墳 6世紀
双把手付埦 双把手付埦 石川県加賀市
上皇古墳 5世紀

 角杯
動物の角の形をした器です。もともとアジア北方の騎馬文化に由来し、人が馬に乗る際に持ち運び、盟約の儀式などに用いたと考えられています。
朝鮮半島各地との交流の中で日本でも作られましたが、出土例は多くなく、本来の使い方がなされたかは不明です。

  6世紀前葉に騎馬民族由来の土器、角杯・革袋形提瓶が出土している。この頃に、騎馬民族の一斉渡来があったのだろうか。
角杯

福井県美浜町
獅子塚古墳6世紀前葉
角杯
角杯

福井県美浜町
獅子塚古墳 6世紀
 631
筒形器台
福井県美浜町
獅子塚古墳 6世紀
筒形器台 革袋形提瓶
奈良県天理市柳本町
6世紀
革袋形提瓶 鉢形器台
三重県鈴鹿市
保子里車塚古墳 6世紀
鉢形器台
鉢形器台
 633
 子持高坏 6世紀
器台に5つの坏を載せた形で作られています。古墳で執り行われた祭りのための道具でしょう。
こうした日本各地で作られるようになった須恵器は、次第に古墳でのまつりに合わせて独自の装飾的須恵器として発展していきました。

子持高坏長野県茅野市
疱瘡塚古 6世紀
子持高坏 子持脚付壺
京都府福知山市牧
6世紀
子持脚付壺
坏付瓶
奈良県桜井市外山字大谷 古墳時代6~7世紀
坏付瓶 子持平瓶広島県三原市
御年代古墳 6世紀
子持平瓶


 635
 環状提瓶
胴体が環のようになった形の提瓶で、このような須恵器は広島県で多く見つかっています。朝鮮半島では北方の高句麗や南西部の百済に似た形の土器がありますが、口の向きが違っています。日本のものは環を建てて使いますが、朝鮮のものは横倒しにします。

三脚付坩
岡県うきは市吉井町西谷 6世紀
三脚付坩
環状提瓶

広島県安芸高田市奥田山出土 6世紀
環状提瓶
高坏

埼玉県行田市
将軍山古墳
 6世紀
高坏
提瓶
提瓶
静岡県森町 院内古墳
6世紀
蓋坏
京都府京丹後市
峰山町五箇府岡山
古墳時代7世紀
蓋坏


 細頸瓶 7世紀

7世紀には仏教が入り、隋や唐の高度な文化が伝来する過程で、銅埦水瓶など各種金属製容器が日本列島内で普及します。
この細頸瓶はその金属製容器を模倣した須恵器で、金属の質感を高度な成形により再現しています。

細頸瓶
京都市右京区常盤
古墳時代 7世紀
細頸瓶
平瓶

静岡県袋井市堀越
古墳時代7世紀
平瓶


 638
 
日本では6世紀末頃に須恵器の硯が登場します。7世紀までは様々な形の硯がありますが、この硯は内部を空洞にして、中にお湯を入れ、寒い季節でも墨液が凍らないようになっています。古墳に副葬された珍しい例の一つです。


静岡県沼津市
宮原1号古墳 7世紀

静岡県沼津市
宮原1号古墳 7世紀
平瓶
奈良県北永井町小字西山出土
奈良時代 8世紀
平瓶奈良県北永井町小字西山出土
奈良時代 8世紀
 
  6世紀にはいると突然、須恵器のデザインが革新される。5世紀の渡来難民の激増がもたらしたものか、(高度な技術・技能を持った匠の渡来)
  6世紀に渡来した人々が持っていた大陸の新しい文化だったのだろうか。
 




 640古墳時代の農工具

5世紀は、高度な鍛冶技術が朝鮮半島から日本列島に伝わり、農工具の先端に装着する鉄製刃先も形が大きく変わりました。

鍬や鋤の先端にU字形の刃先を装着することで、固い土を掘ることが出来るようになりました。
鎌も直刃から曲刃へと変化し、より効率的に稲などを刈ったと考えられます。
斧も袋部が密着することで強固になり、よりよく木を伐採し、加工することが出来ました。

機能性の高い農耕具の普及によって、林業や農業などの各種生産が発展し、古墳時代社会に大きな影響を及ぼしました。

 641櫨山古墳 5~6世紀 福岡県飯塚市
古墳時代の農工具
上に記述
鉄斧 鉄斧
福岡県飯塚市
櫨山古墳(はぜやま)
5~6世紀
鉄鎌 鉄鎌福岡県飯塚市
櫨山古墳(はぜやま)
5~6世紀
鉄鍬 鉄鍬
福岡県飯塚市
櫨山古墳(はぜやま)
5~6世紀



 645武装の変革
環頭柄頭は、大刀の柄の先端を飾るものであり、時期によって形状が変化し、持ち手(所有者)の出自所属する階層を示すこともありました。
環頭柄頭は4~5世紀の日本列島で普及せず、花形や家形の飾りを持つものは奈良県東大寺山古墳出土品が唯一の例です。

環頭柄頭が盛行する6世紀になると、朝鮮半島の百済や伽耶より環の内部に龍や鳳凰、獅子を配すもの、新羅からは三葉文やC字が山形に連なる三塁文の環頭柄頭が伝わりました。

時期が新しくなるにつれて大量生産が進み、龍や鳳凰が肉厚で精巧なものから、薄く板状になり、粗雑な作りのものへと変化しました。

 646
武装の変革
上に記述
花形飾環頭柄頭 花形飾環頭柄頭
天理市東大寺山古墳
古墳時代 4世紀
単龍環頭柄頭

大阪府茨木市
海北塚古 6世紀
単鳳環頭柄頭
←と似ているが別物
単鳳環頭柄頭
茨城県境町
八龍神塚古墳
6世紀末~7世紀
三葉環頭柄頭
埼玉県行田市
将軍山古 6-7世紀
獅噛環頭柄頭
静岡県焼津市
高崎古墳群 6世紀
三塁環頭柄頭
愛知県岡崎市井田町大字大明神56出土
古墳時代6世紀
双龍環頭柄頭
石川県中能登町
曽爾1号墳6-7世紀
 




 650古代の祭祀





 651-東国の神マツリ-
古墳時代の神マツリは、重要な交通路や日常生活から離れた丘陵上や小島など神が宿ると考えられた場所で土製・石製・鉄製の多様な道具を使って行われました。
5~6世紀の東日本では、鏡を模したであろう有孔円板や、剣、勾玉・臼玉などを滑石で模した滑石模造品が数多く作られました。また、石よりも玉類や小型容器を模した加工しやすい土製模造品もあります。

こうした祭祀遺物は、首長が葬られた古墳の副葬品であまり見かけることが出来ないことから、ムラの人々が主体的に、神マツリの際に神へ捧げたものであることが窺えます。

※滑石製模造品は、古墳の副葬品ではなく、墓前祭祀に庶民が捧げたもの。


 猪ノ子遺跡出土品 茨城県坂東市弓田

古代の祭祀
東国の神マツリ
上に記述

手捏土器
てづくね

土師器 坩

滑石製双孔円盤

滑石製勾玉 土製勾玉
滑石臼玉 剣先状石製品
滑石製有孔円盤

土師器 埦



 652古代の葬送儀礼

古墳時代では畿内地域で生み出された埋葬施設や葬具が列島内で分布しますが、その一方で地方においても独自な施設や葬具が現れます。

中でも古墳時代中期(5世紀)の東日本では、滑石製模造品などの各種葬具が発達し、特に立花と呼ばれる滑石製品を組み合わせて用いる
常総型石枕はその典型です。

立花は逆さまにした勾玉2個の又は4個を背中合わせに紐で結び付けた形と考えられており、群馬県や霞ケ浦沿岸及び利根川水系地域に拡がり、一部は東海地方にも分布します。また、関東地方東部では、滑石製石枕を中心とした独自性の高い葬送儀礼が展開します。

 653
古墳時代の葬送儀礼
上に記述

・石製剣 ・石製勾玉
 千葉県成田市
 高倉所在古墳出土
 5~6世紀

石製有孔円板
千葉県成田市
 高倉所在古墳出土
 5~6世紀
石製立花
 千葉県香取市神崎町
 小松出土 5~6世紀

石製立花
 伝群馬県藤岡市
 神大塚出土
 5~6世紀
石製立花
石枕
千葉県成田市
高倉所在古墳出土
5~6世紀
石枕 石枕
群馬県前橋市
稲荷山古 5世紀
石枕
 



 660玉生産の展開

古墳時代の玉類は、種類と材質が多様です。勾玉・管玉をはじめ、丸玉・小玉・棗玉(なつめ)・切子玉などがあり、特殊な大型品もあります。
時期ごとにも複雑な変遷があり、身に付ける人物の性格や祭祀などの用途によって、様々な組み合わせがありました。

最も一般域な石製の玉類は縄文時代以来の伝統的な技術で製作され、日本列島でしか産出しない硬玉や、碧玉・水晶・瑪瑙・滑石などで作られました。
古墳時代の前半期は山陰・北陸地方が製作の中心で、後半期は近畿地方でも大量に製作されました。
このほか、大陸伝来のガラス製や金属製の玉類も作られました。

 661
玉生産の展開
上に記述
碧玉勾玉

大阪府和泉市
和泉黄金塚古墳出土
4~6世紀
瑪瑙勾玉

岐阜県本巣市
船来山24号墳
4~5世紀
硬玉勾玉

佐賀県唐津市
 4~5世紀
水晶勾玉

山口県下関市
上ノ山古墳 6世紀
硬玉棗玉

大阪府和泉市
和泉黄金塚古墳出土
4~6世紀
水晶切子玉
水晶切子玉

大阪府和泉市
和泉黄金塚古墳出土
4~6世紀
碧玉管玉
岐阜県本巣市
舟木山24号墳
4~5世紀
碧玉管玉
岐阜県本巣市
舟木山24号墳
4~5世紀
碧玉管玉
岐阜県本巣市
舟木山24号墳
4~5世紀
滑石勾玉
岐阜県本巣市
舟木山24号墳
4~5世紀
滑石勾玉
岐阜県本巣市
舟木山24号墳4~5世紀
碧玉製異形管玉
大阪府和泉市
和泉黄金塚古墳4-5世紀
碧玉製異形管玉
大阪府和泉市
和泉黄金塚古墳4-5世紀
碧玉管玉
山口県下関市
上ノ山古墳6世紀
ガラス小玉 ガラス小玉
京都府与謝野町
 作山古墳 4世紀

ガラス小玉
 和歌山県御坊市
 湯川町富安出土
 4~5世紀
 



 670舶載鏡と倭鏡

弥生時代から古墳時代の鏡には、主に中国製の舶載鏡と日本列島製の倭鏡とがあります。

舶載鏡はいわゆる漢式鏡で、弥生時代中期の前漢鏡や多鈕細文鏡以外は、後漢代(25~220)以降のものです。
漢式鏡には同じ鋳型で作られ同笵鏡が多く、基本的に化粧用で、直径20cm以下が殆どです。

一方、倭鏡は漢式鏡の文様や文字を模倣することで作られました。
倭独自のデザインを持ち、10cmに満たない小型鏡が多く、最大40cmの大型鏡があることも特徴です。

東日本に多い鈴鏡は、大陸における用途とは異なり、呪術的な性格が強いと考えられています。

 671
舶載鏡と倭鏡
上に記述
内行花文鏡
京都府長岡京市
長法寺南原古墳
古墳時代 2~3世紀
画文帯環状乳神獣鏡
大阪府和泉市
和泉黄金塚古墳
古墳時代4世紀
中国製3世紀
夔鳳鏡

栃木県那賀川町
那須八幡塚古墳
古墳時代4世紀
中国製3世紀
画文帯物獣鏡
岡山県倉敷市
王墓山古墳
古墳時代6世紀
中国製6世紀
捩文鏡
山口市赤妻古墳5世紀
変形四獣鏡

佐賀県唐津市
谷口古墳4世紀
乳文鏡
群馬県太田市強戸
5世紀
珠文鏡
広島県三次市
三玉大塚古墳
5~6世紀
六鈴鏡
群馬県太田市兵庫塚古墳 5~6世紀
狩猟文鏡
伝群馬県高崎市
八幡原町 4~5世紀
狩猟文鏡 外区には10人の人物がいて、9人は片手に楯を持ち、刀や剣を振りかざしています。
内区には4人の人物と4頭のシカを描き、壺を持つ人物もいます。

シカがいるので狩猟文鏡と読んでいますが、舞踊の光景を表したとする説もあります。

※構図から見ると狩猟には思えず、なぜ壺を持った人物がいるのか。
壺ではなく太鼓か鼓ならば舞踊に見えるのかもしれないが、何とも✖✖✖な解釈。狩猟文鏡
 



 680埴輪の展開

埴輪は古墳の上や周囲にたてられた素焼きの焼き物です。弥生時代末頃(3世紀頃)に 墳丘墓で用いられた特殊器台形土器などが変化して、3世紀後半の前方後円墳の成立と共に円筒埴輪・壺形埴輪が誕生しました。

埴輪は当初、古墳の墳頂や前方部に配列されました。やがて家や蓋(きぬがさ)・甲冑・盾・靫、鶏・舟などを表す形象埴輪が加わります。
中でも4世紀中頃に最も早く出現した家形埴輪は、他の形象埴輪と異なり、中央部に置かれ、常に形象埴輪の中心的役割を担っていたと考えられます。

4世紀末頃には前方後円墳のくびれた部分に壇(造出部)を儲け、そこに並べられることもありました。
5世紀中頃からは、新たに巫女・馬などに続いて、武人や水鳥・猪・犬などの人物動物形象埴輪が登場し、古墳の周囲などに配列され、
物語性を持つ群構成が成立しました。これらは王権を象徴する儀礼などを背景にしていたと考えられます。

このように、埴輪は円筒埴輪を基本にして様々な形の形象埴輪が、時代と共に次々に加わったことが特色で、葬送儀礼において重要な役割を果たしたと考えられています。

 681
埴輪の展開 形象埴輪
埴輪の展開
形象埴輪

上に記述
家形埴輪

祭殿(入母屋造)
住居(切妻造)
高床倉庫(寄棟造)
器財形埴輪

蓋・盾・甲冑・靫・舟
動物埴輪
動物埴輪
鶏・水鳥・犬・馬
人物埴輪
男子・女子・巫女・農夫
 
 
 700


 710新沢千塚126号墳出土品 古墳時代5世紀 奈良県橿原市川西町
第126号古墳では、漆盤、銅製柄付皿、鏡、玉、龍文唐草透彫方形金板、銀製空玉、垂下式金製耳飾り、ガラス皿、ガラス壺、金製指輪や帯金具など、大陸的な色彩の強い副葬品が出土。奈良県下における最大級の古墳群で、その内容、構造ともに重要な歴史的意味をもつ。引用コトバンク

 711
新沢千塚126号墳出土 ガラス小玉
硬玉勾玉 ガラス丸玉
銀製空玉・金製空玉 滑石勾玉 滑石臼玉 ガラス碗 金製螺旋状耳飾
金製螺旋状指輪 銀製指輪 金銅製帯金具残片 金製指輪 金製歩揺

 712宝器
  ※画像は最悪ですので、リンク画像をご覧ください

1~4 1.金製垂飾付耳飾

滋賀県高島市
稲荷山古墳出土
古墳時代5~6世紀
1.金製垂飾付耳飾
滋賀県高島市
稲荷山古墳出土
古墳時代5~6世紀
1.金製垂飾付耳飾
滋賀県高島市
稲荷山古墳出土
古墳時代5~6世紀
2.銀製釧・銀製釧
滋賀県大津市上羽栗町
古墳時代6世紀
3.蜻蛉玉

香川県多度津町奥白方出土
古墳時代5~6世紀
4.

香川県多度津町奥白方出土
古墳時代5~6世紀
雁木玉と蜻蛉玉

小さい方が雁木玉
大きい方が蜻蛉玉

雁木とは、雁の編隊飛行の様にギザギザになっている様子を表す。

東北地方の雪の雁木も整然と連ならず、でこぼこがあったのでしょう。
 



 720古代東アジア銘文刀剣の世界
    江田船山古墳銀象嵌銘刀― 5世紀末から6世紀初頭 熊本県玉名郡和水町 前方後円墳

75文字の長大な銘文を持つ大刀で、5世紀の政治・社会や世界観を伝える日本古代史上の第一級の文字資料です。

古代東アジアの有銘刀剣には、中国製と朝鮮半島・日本列島製があります。
中国後漢時代以降の銅鏡や鉄製刀剣の銘文は、基本的に「紀年」及び「吉祥句・常套句」を中心に構成されます。
その後、3~5世紀頃には僻邪除災を願う四神思想を軸とした世界観を表現するようになります。

これに対し、5~7世紀に日本列島で製作された有銘刀剣は、人名を古代日本語で表記していることや製作の事情を述べた内容が含まれるなどの
独自性が認められます。また、「治天下~」の表現は中国の影響を受けた世界観を示すものとして注目されます。

一方、大陸では銘文を記す対象は石碑のような大型のいわゆる記念物であることが多いのに対して、
日本列島では身に付けて持ち運ぶことが出来る鉄製刀剣であることも大きな特徴です。

日本列島で鉄製刀剣が弥生時代以降も重視され、東アジアの中で特異なまでに発達することと、古墳時代の有銘刀剣の盛行は深く関係すると考えられます。


 721江田船山古墳・銀象嵌銘大刀
朝鮮半島や日本列島では、中国・後漢(AD8~200)で成立した銘文様式を踏襲しながら、各地域の言語表現を採り入れて、新しい銘文様式を生み出しています。本銘文は、文中に独自の歴史的記述と古代日本語による人名表現を含み、5世紀の世界観や社会の様子が窺えて重要です。

古代東アジア銘文刀剣の世界
江田船山古墳・銀象嵌銘大刀

上に記述
銘文の解説
銀象嵌の文字と絵 銀象嵌銘大刀
古墳時代 5~6世紀

上に記述
銀象嵌銘大刀

 722大刀銘文
銘文の解説 大刀銘文拡大図
銘文1 銘文2 銘文3 銘文4
銘文5 銘文の構成と特徴
記述していません
釈文と書き下し文
記述していません
現代語訳
下に記述

 江田船山古墳 大刀銘文の口語訳
ワカタケル大王(雄略天皇)が天下を治めておられた時代に、文書を司る役所に仕えた人、その名はムリテが、八月に、精錬用の鉄釜を用いて、
4尺(約1m余り)の立派な大刀を製作した。

八十回、九十回に至るほどに丹念に打ち、また、鍛えたこの上もなく上質の大刀である。この大刀を身に着ける者は、長寿を得て子孫が繁栄し、
恩恵を受けることが出来、その支配地を失うこともない。
命じられて大刀を製作した者の名はイタワで、銘文を書き記したものは張安である。
 



 730九州独自の古墳文化 石人 岩戸山古墳 古墳時代後期6世紀前半 福岡県八女市吉田 前方後円墳

石人は埴輪と共に古墳に並べられた石製品です。他に器財・人物・動物形などがあり、種類も基本的に埴輪と同じ構成を持つ形象埴輪の一種です。
熊本県阿蘇山のいわゆる阿蘇石(阿蘇溶結凝灰岩)が用いられ、鳥取県の一例を除いて全てが九州地方に分布する独自の古墳文化です。

鳥取県淀江町 石馬谷古墳 淀江町歴史民俗資料館
※九州の豪族「磐井」の影響下の地域に置かれた石人石馬が、鳥取にあるのは、ここにも磐井の勢力が及んでいたのだろうか。
 石人石馬の広場は、裁判に使用されたと言われている。

石人は、福岡・熊本・大分県を中心に30例余りが知られ、小型品も含みますが大半は埴輪より大型品が多いことに特徴があります。
4世紀末頃から6世紀前半にかけて制作され、始めは武器・武具形だけでしたが、5世紀後半以降には様々な種類が出現しました。
中でも、北九州最大の前方後円墳・福岡県岩戸山古墳からは、もっとも多様で多数の石製品群が出土しています。

奈良時代の「筑後国風土記」逸文に記された石人・石盾などの様々な石製品群は江戸時代から注目され、18世紀から調査・検討されてきました。

 石人石馬の解説
  破壊された石人石馬の謎 石人石馬wiki 石人石馬map 石人石馬goo 石人石馬画像 石人石馬と岩戸山古墳 石人石馬は大切に 石人石馬コトバンク

 731九州独自の古墳文化
九州独自の古墳文化 石製表飾の分布 九州独自の古墳文化
上に記述
石人
石人

福岡県八女市吉田
岩戸山古墳 6世紀
石人
 



 740江田船山古墳
   ―九州地方豪族の先進性―

江田船山古墳は有明海にそそぐ熊本県菊池川流域に所在する5世紀後半から6世紀初頭の前方後円墳(全長約77m)です。

教科書でも必ず取り上げられている銀象嵌銘のある大刀をはじめ、金・銀・金銅製の装身具、大陸から輸入された舶載鏡を中心とした銅鏡、馬具や武器など多数の出土品は、我が国を代表する古墳と出土遺物として、昭和40(1965)年5月に一括して国宝に指定されました。

金・銀製装身具は朝鮮半島とほぼ同一の高い水準の製品で、金銅製冠・冠帽は朝鮮半島における官位制に関わるものと考えられます
特に、金銅製の二山式冠や飾履は6世紀後半まで日本列島で発達しながら盛んに造られた製品の祖型となるもので、6世紀の金属製装身具を着用する風習の先駆けと言えます。

また馬具は、朝鮮半島から日本に伝わった乗馬の技術がいち早く習得されていたことを示します。

一方、畿内地方で生産された典型的な日本列島独自の甲冑は、中央勢力(ヤマト王権)との強い結びつきを物語ります。
これらの出土品は、百済をはじめとした朝鮮半島の王権とも交流した地方豪族(有力者)の活動と先進性を多角的に伝えています。

 741
江田船山古墳
九州地方豪族の先進性
九州地方豪族の先進性
上に記述
金銅製沓
熊本県和水町
江田船山古墳
金銅製沓
5~6世紀


 742王者の装身具 江田船山古墳 古墳時代 5~6世紀

王者の装身具
古墳時代5~6世紀
熊本県玉名郡和水町
江田船山古墳
1.金銅製冠帽 2.金銅製冠 3.金銅製冠
5.金製耳飾
3.金銅製冠
4.金製耳飾
5.金製耳飾 6.金銅製飾金具 6.金銅製飾金具 7.金環
 743王者の装身具Ⅱ 江田船山古墳 古墳時代 5~6世紀

1.ガラス勾玉
2.硬玉勾玉
3滑石勾玉
4.碧玉管玉
4.碧玉勾玉
5.水晶丸玉
6.銀製空玉

7.ガラス丸玉
王者の装身具2
古墳時代 5~6世紀
1~7
古墳時代5~6世紀
熊本県玉名郡和水町
江田船山古墳
 
 
 
 
 750中国鏡と国産鏡 江田船山古墳 5~6世紀 
 751
中国鏡と国産鏡
1~6
古墳時代5~6世紀
熊本県玉名郡和水町
江田船山古墳
1.画文帯同向式神獣鏡
(中国産)三国時代3c
2.画文帯対置式神獣鏡
(中国産)5-6c
3.画文帯環状乳神獣鏡
(中国産)三国時代3c
4.画像鏡(中国産)
後漢~六朝時代
後漢(25-220) 六朝時代(222-589)
5.浮彫式獣帯鏡
(中国産)後漢1c
6.四獣鏡(国産鏡)4c

  多くの鏡が製造から随分時間をおいて入手し、入手後かなり時間をおいてから埋納されているようです。
  ピカピカの鏡でなく、使い物にならなくなった鏡を埋納したのかもしれない。破鏡で出土するものは、破鏡となったので埋納したのかもしれない。
  


 
 
 760武器 
 761
1.鉄剣 2.鉄矛 3.鉄刀
銀装素環頭大刀

古墳時代5~6世紀
熊本県玉名郡和水町
江田船山古墳
武器1~3
古墳時代5~6世紀
熊本県玉名郡和水町
江田船山古墳
銀装素環頭大刀
古墳時代5~6世紀
熊本県玉名郡和水町
江田船山古墳


 762鉄剣 江田船山古墳 5~6世紀


鉄剣
古墳時代5~6世紀
熊本県玉名郡和水町
江田船山古墳
鉄剣

 763帯金式甲冑 江田船山古墳

帯金式甲冑
古墳時代5~6世紀
熊本県玉名郡和水町
江田船山古墳
帯金式甲冑 1.衝角付冑
  しょうかくつきかぶと

2.頸甲 あかべよろい

3.横矧板鋲留短甲
  よこはぎいたびょうどめたんこう
   竜文素環頭大刀
古墳時代5~6世紀
熊本県玉名郡和水町
江田船山古墳
   


 764王者の武装 江田船山古墳

王者の武装
横矧板革綴短甲
横矧板革綴短甲古墳時代5~6世紀
熊本県玉名郡和水町
江田船山古墳
4世紀初めから中頃まで「方形板革綴短甲」普及していた。
4世紀末から5世紀には「横矧板鋲留短甲」が盛行する。

「横矧板革綴短甲」はそれに続くものであり、歩兵用の鋲留めに比べて革綴じであるため、フレキシブルで乗馬による自由な動きを邪魔しない利点がある。
   引用短甲Wikiwand

1.金銅龍文帯金具 2.金製品残片 3.刀装具 3.刀装具
古墳時代5~6世紀
熊本県玉名郡和水町
江田船山古墳
 
 
 770新来の馬具 江田船山古墳
 771



5~6世紀の朝鮮半島南部と倭


 新来の馬具 江田船山古墳

新来の馬具
1~6
古墳時代5~6世紀
熊本県玉名郡和水町
江田船山古墳
1.金銅製字形鏡板付轡 2.素環鏡板付轡 3.輪鐙 4.三環鈴 5.辻金具
6.金銅装吊金具残玦 
 772江田船山古墳
鉄鏃
古墳時代5~6世紀
熊本県玉名郡和水町
江田船山古墳
鉄鏃塊
古墳時代5~6世紀
熊本県玉名郡和水町
江田船山古墳
鉄鏃
古墳時代5~6世紀
熊本県玉名郡和水町
江田船山古墳
鉄鏃塊
古墳時代5~6世紀
熊本県玉名郡和水町
江田船山古墳
新来の土器
古墳時代5~6世紀
熊本県玉名郡和水町
江田船山古墳
1.須恵器 蓋坏

ピンボケ
2. 須恵器 提瓶残玦
(未撮影)

 ※5~6世紀の列島には、大陸や半島から、一時に(いっときに)いろいろなものが流れ込んできたようです。
   この時期にあった大量の難民の流入と無関係ではないようです。

   この頃、新羅などと結んだ、最新の技術を持った職人を倭国に差し出すようにという条約が、急激な最新技術の流入を促しのかもしれません。
 
 
 
 
 790

 791平瓶線刻) 6~7世紀  岡山県新見市唐松

線刻で絵画を描く、珍しい須恵器です。絵画は3種類あり、
 ①馬に乗って手綱を取る司祭者とみられる人物、
 ②樹枝状の屋根飾りがある祭殿とみられる建物、
 ③聖域を示すとみられる高い柱に掲げられた吹き流し状の旗があります。
古墳時代の特別な出来事や場面を示しています。

平瓶
岡山県新見市唐松
古墳時代6~7世紀

②樹枝状の屋根飾りがある祭殿とみられる建物

①馬に乗って手綱を握る司祭

③聖域を示すとみられる高い柱に掲げられた吹き流し状の旗


 795特殊扁壺(へんこ) 5世紀 滋賀県高島市勝野

扁球形の胴に大きな窓が開いた飾り壺で、口縁は欠損しています。頸部に竹のような節がある一方、首から胴にかけてと、
底にあたる部分には花弁様の彫刻がみられます。
円形の押捺文を多用するなど、文様構成に新羅土器の強い影響を見て取ることが出来ます。。

 ※高島市は若狭と都を結ぶ要衝にあり、街道沿いには渡来人の集落が沢山連なっていて、遺跡や群集墳の数も膨大であり、近辺の豪族から天皇や
  皇后も数多く出ています。鴨稲荷山古墳の出土物は有名です。

特殊扁壺
滋賀県高島市勝野
5世紀

円形押捺文

首の竹の節
首から胴への花弁状紋様
いろいろな特殊扁壺
wikipedia
 
 
 
 





 800埴輪



 811

 841埴輪鶏

 842家形埴輪 
上屋根部が切妻、下屋根部が寄棟となった入母屋造と呼ばれる屋根の家です。切妻部には棟覆(押縁)を線刻で表現し、妻には破風板をつけ、寄棟部には四面それぞれに線刻で区画を施しています。建物の壁には入口ないし窓の表現があります。


 843蓋きぬがさ
埴輪 蓋

ピンボケ
奈良県磯城郡三宅町石見出土 古墳時代
5~6世紀

 844円筒埴輪
円筒埴輪
石川県加賀市二子塚町
二子塚古墳 5~6世紀
円筒埴輪
奈良県磯城郡三宅町石見出土 古墳時代
5~6世

 845木製蓋(きぬがさ)
木製蓋 木製蓋
大阪府羽曳野市誉田6
応神陵古墳 5世紀
木製蓋
大阪府羽曳野市
伝応神陵古墳 5世紀

 846円筒埴輪
円筒埴輪
静岡県湖西市利木
5~6世紀
円筒埴輪
島根県安来
造山1号墳 4世紀

 847埴輪 短甲
古墳時代中期に特徴的な胴鎧(短甲)を形象した埴輪です。三角形の地板をはじめ鉄板の形状、鉄板の端に巻いた覆輪の様子や鉄板綴じ合わせた皮紐など、細かい特徴がよく表現されています。下部にはスカート状の防具である草摺を装着しています。

埴輪 短甲群馬県藤岡市
白石稲荷山古墳

 848寄棟造高床倉庫
寄棟造高床倉庫
群馬県藤岡市
白石稲荷山古墳 5世紀

 849腰掛る巫女
 

 851胡座の男子
胡座(あぐら)の男子
栃木県真岡市亀山
6世紀
胡座の男子 琴を弾く男子
胡座の男子 腰掛ける巫女 琴を弾く男子

 852動物埴輪
動物埴輪 6世紀 1.埴輪 猪
群馬県伊勢崎市大字鏡上武士字天神山
6世紀
2.埴輪 鹿
つくば市下横場字塚原
6世紀
2.埴輪 鹿

 853円筒埴輪
円筒埴輪→
群馬県伊勢崎市東小保方町 6世紀
←円筒埴輪
群馬県伊勢崎市下触町 6世紀
朝顔形円筒埴輪
群馬県伊勢崎市豊城町権現下 6世紀
朝顔形円筒埴輪


 854馬
5世紀後半から6世紀にかけて、馬の普及と共に、馬形埴輪も作られました。この馬形埴輪は、6個の鈴をつけた鏡板を伴う轡を付け、
胸繋むながい)には4つの馬鐸をさげ、尻繋には3方向に三鈴杏葉をつけています。古墳時代の飾り馬の様子を知ることが出来る貴重な資料です。

埴輪 馬
埼玉県熊谷市上中条
日向島
出土 6世紀

 855正装の男子
埴輪 正装の男子栃木県下都賀郡壬生町
ナナシ塚古墳 6世紀

 856切妻家屋
埴輪 切妻造家
群馬県桐生市新里町
6世紀

 857人物埴輪
埴輪 盾持人
群馬県太田市薮塚町
若水塚古墳 6世紀
埴輪 盾持人
茨城県つくば市下横場字塚原出土 6世紀
埴輪 太鼓を叩く男子
群馬県伊勢崎市境上武士出土 6世紀
埴輪 大刀を佩く男子茨城県境町大字百戸字マイゴオ出土 6世紀 被り物をつけた男子
茨城県境町大字百戸字マイゴオ出土 6世紀

 858埴輪 翳(さしば)
埴輪 翳
伝群馬県藤岡市本郷
別所出土 6世紀
※翳(さしば)って日除けのことでしょう。戦国時代の武将は武人や足軽といった戦闘担当以外に、
 自分の身の回りの世話をする下男をも引き連れて戦場に出たそうで、

 その中に長い棒の先に日除けのついた、さしば係もいて、馬で戦場を走り回る主人の顔に
 これを差し掛けるために、弓矢、槍、刀から身を守ることよりも、鎧も着ずにただひたすら
 さしばを持って走り回ったそうです。

 なんて、おかしな戦争だったのでしょう。死亡率も高かったのではないか。
  って、第一、それって命を懸けた戦場ですることなのか。鷹狩にでも来たのかな。

871陶棺 本坊山古墳 方墳(一辺10m) 古墳(飛鳥)時代 7世紀後半 瀬戸内市長船町東須恵
  リンク:古墳マップ 古跡探訪録 陶棺コトバンク


 参考資料:平福陶棺 岡山県美作市平福


 装飾付陶棺 引用抜粋「瀬戸内発見」 岡山県長船町
長船平野の南に位置する桂山の頂上から東へ下った標高50mの斜面に所在する本坊山古墳から、明治16年に陶棺と須恵器の坏が出土しました。

陶棺は切妻形で須恵質。蓋の全長176幅56身を含めた総高さ85。身・蓋共に中央で二分割され、身には3列8個計24個の脚が付く。
身の短編の一方には軒丸瓦に見られる複弁蓮華文が横に2個押されている。
このような蓮華文の装飾付陶棺や石棺は、真庭市下落合の下一色古墳の家形陶棺と、奈良県御所市水泥古墳の家形石棺しかなく重要である。

蓮華文を棺に飾るということは、被葬者や製作者が仏教に知識があり、信仰していた可能性があります。
また、当時先進の仏教文化が地方へ浸透する様子を推測できる貴重な資料です。 引用抜粋「瀬戸内発見」 岡山県長船町

陶棺
岡山県瀬戸内市長船町東須恵 本坊山古墳
古墳(飛鳥)時代 7世紀

長166幅54.5高81.8

十六弁菊花文

 参考資料
 吉備の飛鳥古墳 亀山行雄 斧柄元規
  蓮華文を伴う陶棺 P147
  仏教思想の浸透P148
  須恵廃寺P48

  飛鳥時代 592-710(102) 飛鳥京592 
  白鳳時代 645-710(40) 645大化の改新
  奈良時代 710-794(85) 平城京遷都710 平安京遷都794
  この後、別室で平安以降の展示がありました。また、次回の訪問時に撮影させていただきます。
 


 考察 古墳時代の終焉


  古墳時代がなぜ終わったのか。葬送儀礼の古墳祭祀が仏教祭祀に置き換わったからだ、ともいえる。
  先日、「BS161歴史鑑定「古代史ミステリー・古墳とはいったい何だったのか」2019.6.10放送」で、それこそミステリアスな理由を述べていた。
  そこで、少し調べてみました。

目次

1.古墳時代年表

2.古墳の意義
  古墳築造の意義
  古墳築造の意義が薄れる
   仏教の興隆
  それでも続く古墳の築造

3.政治制度の変革

4.政治的背景
  乙巳の変、とは何か
   蘇我氏と物部氏との仏教をめぐる対立が続
   連合政権の打破と中央集権制の確立

5.大化の改新と中央集権体制の確立

6.その他
  国際情勢
  大型古墳建設適地の減少
  公共工事の増加(インフラ整備)

 
 

  1.古墳時代年表  引用古墳時代年表

世紀 西暦   出来事  朝鮮半島
 古墳時代~    3世紀中期~7世紀末 6世紀末までは前方後円墳の時代 原三国時代~
3世紀中期  266  倭の女王(卑弥呼の後継者台与=臺與=壱与=壹与)西晋に遣使する  
3世紀中期 前方後円墳の初期型が造られる  
3世紀後期 古墳前期~ 初期前方後円墳が造られ始める  
4世紀前半 巨大な前方後円墳が数多く造られる  
 4世紀中期     ~原三国時代
4世紀末 391 倭、高句麗と戦う 三国時代~
5世紀 古墳中期~
413
倭国、東晋に遣使する。 倭、この頃から半島に進出する 三国時代
6世紀 古墳後期~
507
古墳後期~終末期にかけて群集墳が全国で作られる。
武烈天皇、後継を指名せずに死去。ために、北陸から継体天皇を迎える。
 
527 筑紫の国造磐井が反乱を起こし、物部麁鹿火(あらかい)によって鎮圧される  
538 百済の聖明王が仏像・経典を29欽明天皇に贈る。仏教伝来  
6世紀中期 552 仏教を巡り、蘇我氏と物部氏の間で崇仏論争が起こる。  
仏像は蘇我馬子の私邸に預けられ、娘が得度して寺院となす。
播磨にいた高句麗の還俗僧恵便を師とした。
 
583 物部守屋、蘇我氏の私邸の仏殿を焼き、仏像を捨てる。  
6世紀末 587 丁未の乱(ていび)蘇我馬子、崇峻天皇、厩戸皇子らと共に物部守屋を滅ぼす  
6世紀末 588 飛鳥寺の造営が始まる。蘇我馬子発願。 仏教寺院の建立が盛んになる。  
飛鳥時代~   592
崇峻5
蘇我馬子崇峻天皇を殺害する。
飛鳥時代の始まり~710
 
6世紀末 593 聖徳太子、推古天皇の摂政となる。
難波四天王寺建立、厩戸王発願
 
594 仏教(三宝)興隆の詔が出される。  
6世紀末 596 飛鳥寺建立             西日本での前方後円墳の造営停止  
 7世紀 古墳終末期 603 墳形は円墳・方墳・八角墳・上円下方墳、例:高松塚古墳キトラ古墳
冠位十二階制定広隆寺建立 秦河勝
 
7世紀 607 小野妹子が遣隋使に派遣される
斑鳩寺(法隆寺)、用明天皇発願
 
 7世紀初頭   7世紀初頭から7世紀中頃まで全国で古代道路の建設が行われた  
622 聖徳太子死去  
630 遣唐使第1回派遣       東日本での前方後円墳の造営停止(7c前半)  
638 山背大兄王、鵤に法起寺建立  
639 百済大寺造営開始、欽明天皇発願  
643 蘇我入鹿、山背大兄王と一族を滅ぼす  
白鳳時代~ 645 乙巳の変、中大兄皇子、中臣鎌足らと蘇我入鹿を暗殺し、蘇我本宗家を滅ぼす
白鳳時代710(美術史上の区分)
 
646 大化の改新の詔が発布される。薄葬令発布  
  652  班田収授法施工           7世紀後半群集墳造営停止  
  660  唐の建国・新羅と唐の同盟 羅唐同盟
  663 白村江の戦で、唐・新羅軍に大敗する   
672 壬申の乱勃発大海人皇子が大友皇子に勝利する  
673 天武天皇即位  
  676  新羅、朝鮮半島を統一 ~三国時代
統一新羅~
684 八色の制定
8世紀 700 日本初の火葬が行われる(僧 道昭)、702年持統天皇  
701 大宝律令完成=律令体制の確立=中央集権体制の確立  
奈良時代~ 710 平城京遷都  
 




 2.古墳の意義

 
 古墳築造の意義

 3世紀末から築造されてきた巨大古墳は、ヤマト政権の巨大な権力や武威を見せつけ、連合政権の政治的統合を圧倒的な建造物で明示し、
 他を屈従させるためのシンボルでした。
 
 地方にあっては、古墳は権力者が膨大な数の支配民を多年にわたって使役して造らせる、支配被支配の身分関係を明確にし、
 墳丘上に立てた聖域、円筒埴輪の前で行われる権力譲渡の儀式によって、王権が移譲されることを演出して支配者一族の優越性を示し、
 さらにその墳墓を崇拝させることによって、支配民に支配者一族を神の様に崇めさせた。

 このような支配と被支配の関係を作り上げるための装置だった。


 古墳築造の意義が薄れる
  古墳は竪穴式石室で一人用でした。しかし、時代を経ると一墳墓に対して追葬が繰り返され、次々と巨大墳墓を造lり続けることへの負担が
  高まってきたと考えられます。

   竪穴式石室 3世紀後半~5世紀後半に盛行
   横穴式石室 6世紀~7世紀に盛行

  6世紀にはいると横穴式石室墓が登場し、何度でも比較的簡単に追葬ができるようになると、新規古墳の築造は減少した。

  この横穴式石室の普及にともない、6世紀には王権(首長)の継承儀礼が古墳の墳頂ではなく、殯(もがり)宮や宮殿で行われるように
  なった。これにともない外部表象としての埴輪祭祀が衰退した。

  全国的に6世紀の末までに前方後円墳が造られなくなり、方墳や円墳、八角墳がもっぱら築造されるようになる。 古墳時代 前方後円墳

 仏教の興隆
  6世紀末になると畿内では広大な敷地の壮麗な仏教寺院が相次いで建立され、その荘厳さは古墳などに比べようもなく、
  華麗で華美で巨大で、他のなにものをも圧倒するものでした。

  このため、300年続いた古墳には権力の象徴としての新鮮味や威圧感が薄れ、有力な中央・地方の豪族は競って氏寺の建立に奔走し、
  大規模古墳は作られなくなった。


  ※この時点で、作られた寺院(豪族の氏寺)は経済的基盤は豪族にあり、豪族が倒れると寺院も消滅した。
   また、急速な寺院築造に伴い、寺院で仏教祭祀を行う僧侶が不足し、100年もかかって作った華麗・壮麗・豪壮な寺院は無住が多かった。
   こりゃ、まるで、豪族の個人用テーマパークのようですね。檀家制度がなかったため、沢山の寺院がやがて廃寺となった。

 
 それでも続く古墳の築造
  しかし、にもかかわらず7世紀後半まで、また、それ以降も古墳が作り続けられます。
  この頃台頭してきた地方の富裕者や小権力者などが、その権力を誇示するために、古墳造りの技術者集団の末裔に築造をさせ続けたのでしょう。

  薄葬令の発布で墳墓の規模や造ることのできる身分。副葬できる品々まで規定され、やがて群集墳も消えていきました。
  民衆と仏教が身近なものとなり、民衆が寺院を建設したり、支えたりするようになるには、まだまだ長い時間が必要でした。

 

 3政治制度の変革

 大和政権によって地方に役所が置かれ、地方豪族は、中央から任命される国造となり、権力を保証されました。
 やがて、中央が、それまでの国の規模を小さく分け始めた。すなわち、地方豪族の財政基盤や権力基盤が縮小され、
 かつてのような財力や良民を支配する力を失った。

 大和政権によって氏族に対しての身分階級が定められ(姓)、権力の世襲が制度化されると、巨大古墳で権力を誇示する必要も薄れる。
 むしろ「文化的な支配」が大切になる。
 こうして古墳は作られなくなる。平安時代初期まで古墳は作られているが、奈良時代以後はほとんど巨大古墳は作られていない。
 古墳時代の始まりと終わり

 
 4政治的背景
 乙巳の変(645年)、とは何か、

  中大兄皇子は舒明天皇の子。蘇我馬子は次期天皇の古人大兄皇子を暗殺し別の皇統の皇子を天皇に担ごうとしていた。
  中大兄皇子は、別皇統に行ってしまうと天皇になる機会を永遠に失う。天皇になりたい、権力欲の強い性格で、後には係累を殺しまくっている。

  中臣鎌足は、日本古来の祭祀(神道)を司る役所を管轄する家柄でした。仏教伝来の時、物部氏と伴に排仏派に組した。
  丁末の乱(ていびのらん、587年)で、排仏派の物部氏が敗北し、中臣氏は凋落した。その家名復権を望んでいた。

 蘇我氏と物部氏との仏教をめぐる対立が続く。
  538or 552年に百済の聖明王より天皇に贈られた仏像、仏教の信仰をめぐって、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が対立し、
  様々な事件があり、585年物部氏が蘇我氏の私邸の仏殿を焼き払い百済仏を川に投げ捨てた。

  587年丁未の乱では、排仏派が新たな天皇を擁立しようとクーデターを計画し、時の天皇の命によりこれを蘇我馬子が撃つ。
  物部氏は滅び、中臣氏は凋落する。蘇我氏と厩戸皇子らは大きな権力を得た。
  
 連合政権の打破と中央集権制の確立
  長く大和政権の大王は、有力豪族の間で決められてきた。天皇が次期天皇を指名したり、豪族間の策動によって決められたりした。
  中大兄皇子は、厩戸皇子亡き後、朝廷最大の実力者となった蘇我氏が推す皇子を排して皇位を得ようとし、

  天皇就任は、皇統の血脈に従うとして暗殺を謀った。最大の豪族をなくせば、朝廷政治は連合政治から脱し、中央集権制となり、
  自己の皇位の系統が頂点に立ち、豪族の干渉や圧力を排除することが出来るからである。

  即ち、乙巳の変とは、中大兄皇子が、天皇になりたいがために起こしたクーデターである。当時、このようなクーデターは日常茶飯事であった。

 
  5.大化の改新と中央集権体制の確立 (引用wiki大化の改新)

  中央集権制の確立には、身分制度の確立が必要不可欠であった。そこで、天皇を頂点とする身分制度を確立し連合政治を排した。

  八省百官の制定によって官僚制に移行し、特定の豪族による特定の役職の世襲を排した。
  天皇を頂点とする序列をつけるため、官位制度の中に、大臣や大連などを輩出する有力氏族を組み込んだ。官位12階→官位26階
  職位・官位に応じた衣冠束帯を制定し、衣服や礼法を定めた。無冠の良民は白い衣を着用するとされ白丁と呼んだ。

  改新の詔第1条で、公地公民制を宣言し、班田収授法によって租税を役所に納入させ、富裕豪族の財政基盤を取り除こうとした。
  薄葬令は、天皇家を頂点とする身分による墓制である。事実上一部の特権階級以外は古墳は造営できなくなり古墳時代は終焉した。

  古墳時代の終焉は、結果的には薄葬令によるが、その原因は中央集権制の確立のためであった。

 6. その他

  国際情勢

  大陸・半島の政治情勢と豪族
   5世紀に半島に進出し、南部の百済・伽耶・新羅に朝貢をさせていたが、半島統一の動きが激しくなり、半島での利権を失い始めた。

 
 大型古墳建設適地の減少
  列島の開墾も進み、人口も増加し、農業の生産性向上が求められる中で、農地を潰して巨大古墳を作ることが出来なくなり、適地を失った。

 
 公共工事の増加(インフラ整備)

 3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に見ることができる。当時、対馬や九州北部を訪れた魏の使者によると、道路は「けものみち」に等しく、
 生い茂った草木によって前方を歩く者すら見ることができなかったという。

 この頃は水運中心で、丁度アマゾンの奥地に行くのに船を利用するのと同じで、陸上の道路は、ぬかるんで身動きが取れなかった。
 古墳の副葬品に武器と共に農耕具が出土するのは、兵を動かすには、まず、道路を造る必要があったからだ。
 神功皇后が西へ行くにも、物部守屋が磐井を攻めるにも道路を造ることから始めなければならなかったのである。

 逆に言えば、道路がないことで、各地の豪族はその独立性を担保できていたのである。

 5世紀後半ごろから“方画地割”が施工され、水田と居住地の分離、溜め池や水路建設による大規模灌漑、交通路や交易市整備などに関連する
 土木事業が増えた。地域としてはこれらに労役を振り向けざるを得ず、古墳造営に人手を注げなくなった。

 7世紀中期、天智-天武期に国内7本の幹線道路が建設された。東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道である。

 
 ※この項目を作るのにかなり時間を費やしました。 特に、年表にはいろいろな物事を織り込みましたが、織り込み過ぎて、わかりにくいです。(笑)
  それと、物部氏と蘇我氏の対立あたりが少し間違いがあるのではないかと思います。時間切れで、このままで、すみません。