[戻る][TOP]

 

 北部九州の縄文 №20  2020.11.15-2

  板付遺跡弥生館  福岡市博多区板付3丁目21-1
   092-592-4936 年末年始休館・撮影可

交通 JR博多駅前
  博多駅交通センター 13番のりばから
  西鉄バス  40番系統「板付団地第二」下車徒歩3分 
 
 
  板付遺跡弥生館について  ※この頁よりもずっと詳しくよくわかる頁がリンクされています。しっかりご覧ください。

 まず最初に、この館は歴史資料館ではなく、米作りの歴史や弥生時代の暮らしを、子供たちが体験する、体験館でした
ですから、農業体験が主な業務なので、復元集落遺跡は縄文終末期そのままですが、館のそばにある水田は現代的な大きさで、形も長方形です。

 放送大学「考古学」の取材では、夜臼式や板付式土器などを取り上げず、木製農具の取り扱いについてだけを聞いていました。
それは、この館の人々には、考古学的見解を求めるのは専門外だからでした。私はそれを、実験考古学の専門家だと思い込んでいました。

 事情を知らない私は、板付を含む北部九州の3ヶ所の最古の水田遺構について電話で質問したところ、一般的見解とは違う答えが帰って来て
首をかしげました。
 『他の遺跡に負けていない。ウチの遺跡も最古の水田なんだ』とアピールするのはある種小さな見栄かなと思っていましたが、
私の考古学に関する質問は、館員にとっては専門外だったのです。
そういえば、私が訪れたとき、館員の女性が『ここは体験館です』を何度も繰り返し、強調していたことを思い出しました。

 しかし、この館で学ぶことは大変多く、夜臼式土器やその発展形である、板付式土器など、これまで見てきた初期水田遺構のある遺跡の土器と
比較検討することができ、また、遺跡から出土し、保存処理をした木製農具とは違って、実用的な木器の大きさを実感するなど、
大変参考になりました。
 ※板付式が夜臼式の発展形なのか、別集団が侵略して型式が変わったのかは、軽々に述べてはならないのかもしれない。
 私には、夜臼式が突然板付式に変わった理由がわからない。
 



01板付遺跡弥生館外観
10復元水田
11弥生中期仕様に復元した水田
13板付遺跡
15環濠集落跡

30弥生館入口展示
32板付遺跡の発見
33弥生のムラ

110夜臼式土器
111夜臼Ⅰ式土器
113夜臼Ⅱa式土器
120教科書を塗り変える大発見
米作りは板付から始まった


130板付式土器
131板付Ⅰ式土器
133板付Ⅱ式土器
140弥生人の足跡

150板付環濠集落
153板付遺跡ジオラマ
160大型壺・大型甕棺
170出土遺物
174弥生時代の石器類
175食物と食器
180農具

210春
214復元農具

220夏
231衣類
233織る
235糸を作る
240弥生時代の布
250農耕祭祀

260秋
264稲の種類

270冬
273農耕具
277弥生人の持ち物


280体験コーナー
281火起こし
283なぜなにノート
285スコップの仲間

300弥生の暮らし
301農作業と食物カレンダー
311弥生の道具
321東南アジアの土器の野焼き
323中国雲南省
 

 01板付遺跡弥生館外観  本来は「板付遺跡弥生(体験)館」と呼ぶべきでしょう。
 訪れた日は、バスから降りると復元住居に直結しており、写真を撮っていると、
大声で声を掛けられ、肝を潰しました。
何も悪いことはしていない。ただ写真を取っているだけだ。質問をすると館に行けと言われた。
館員は点検やらゴミ拾いやらをしていたようです。

 館の方では、朝早くから沢山の大人が集まって何かの作業をしていました。
 大勢の大人たちは地域の奉仕作業か、ムラの出事か、コロナ禍でままならない体験水田の
後片付け、をしていたのかもしれません。
 写真を撮っている私は不審者。館内でのまともな質問には無返答。残念でした。
写真を撮っているだけなのは見ればわかるし、有名な館なので質問するのは当たり前。

 10復元水田
 板付遺跡は、日本で最も古い段階(弥生時代早期)の水田が、最初に発見された遺跡として有名です。
姿を表した日本最古の水田は、予想に反して、水路・井堰・畦畔を備えた、非常に完成度の高いものでした。
米作りの開始当初から、当時の人々が高度な農業・土木技術を駆使していたことがわかります。

 水田の遺構は、たび重なる洪水のために、表面を粗い砂で覆われ、何層にも重なって存在していました。
発掘調査の際、水で砂を洗い落としながら作業を行うと、写真のように、弥生時代の水田面から無数の足跡を確認することができました。

 目の前にある水田は、早期に比べてさらに規模の大きくなった弥生時代前期の水田をモデルとして復元しています。
この水田では、地域や学校の皆様と一緒に、田植えや稲刈りを行っており、現在も活躍しています。 
  平成26年3月 福岡市

 11弥生中期仕様に復元した水田

復元水田 復元水田(弥生中期) 水路 土橋
弥生前期の水田
 13板付遺跡
板付遺跡は、縄文時代晩期から弥生時代にかけて営まれた集落遺跡です。
台地上に二重の環濠に囲まれた集落と、その周囲に広がる土砂が堆積してできた土壌(沖積地)に営まれた水田跡で形成されます。
水田は畦で長方形に区画され、集落のある台地の外側には用水路と井堰を設置して水田に水を送り込みました。
水田からは人の足痕も発見され、遺跡から出土した土器によって日本最古の稲作集落であったことが分かりました。
昭和51年に国史跡に指定されています。

板付遺跡 弥生環濠集落
水路
復元水田

板付遺跡 板付遺跡は、昭和25年(1950)に発見されました。
翌年から行われた発掘調査で、日本最初の米作りがここで始まったこと、台地上にムラがあり、深い溝で囲まれていたことなどが分かりました。

弥生時代初め頃のムラの様子や、米作りの歴史がよくわかることから、昭和51年に国史跡に指定されました。
平成元年から環境整備を始め、平成7年に板付弥生のムラが誕生しました。
板付遺跡弥生館 館内では遺跡の大型模型や映像を使って、弥生時代や板付遺跡を紹介しています。
また、発掘で出土した土器や石器などの他に、農具や火起こし具などの道具を復元しています。

実際に使って、弥生人の暮らしや知恵を確かめてみましょう。
 水田  ムラ人達は、力を合わせて用水路を掘り、水を引いていました。沢山の木杭を打ち込んで、水を堰き止め、
水田への水量を調整しています。
 鍬や鋤などの農具は、堅い樫で作られていますが、今と変わらないような農業技術と農耕具を持っていました。

竪穴住居 ムラ人たちは、地面を円形や方形に掘り下げ、屋根で覆った竪穴住居に住んでいました。
板付遺跡では、弥生時代の初め頃の竪穴住居は発見されていないので、市内や周辺の遺跡を参考にして復元しました。
竪穴住居の中を覗いて、弥生人たちがどんな道具を持っていたのか、どんな暮らしぶりだったのか、調べてみましょう。
貯蔵穴 貯蔵穴は、米やマメ類などの食料を保存した穴です。
竪穴住居の近くの貯蔵穴には、1年分の食料や来年用の大事な種籾を保存したのでしょう。

他の遺跡では、湿気やネズミから食料を守るために、床を地面から高くした高床式の倉庫も発掘されています。
ムラの墓地  ムラの墓地は、これまで数ヶ所発掘されています。
ムラ人の多くは板付北小学校付近の共同墓地に埋葬されました。
環濠のすぐそばには、子供たちの墓があります。かわいい子供たちの死を悲しんで、ムラの近くに埋葬したのでしょう。

これらとは別に、環濠の南東側には小高く土盛りした墓地がありました。
数基の甕棺から、朝鮮製の銅剣や銅矛が副葬されていたことから、ムラのリーダーだったムラ長たちが葬られたと考えられます。


 15環濠集落跡

看板は禁止事項の宣告

初期集落だが大きな環濠が二重に構築された

復元住居と畑

朝鮮半島から持ち込んだ野菜が植えられたのでしょう
各住居前に置かれた水瓶。発掘では出ていない

各住居前の甕は、児童が水の確保法を質問するのでこの展示となったそうだ

広大な土地を削平して集落や水田を開いた
 


 30弥生館入口展示

 31
板付遺跡の四季の移り変わり
教科書の挿絵らしい
児童画

 32板付遺跡の発見 発見者中原志外顕(なかはらしげあき)のインタビュー録

 二つの土器を追って ~板付遺跡の発見~
その日は昭和25年の正月休みの15日だった。板付の中牟田義住さんの畑に行ったら、土器の欠片や石斧やらがこづんで(積み上げて)あるっちゃん。

  ―耕すのに邪魔になるからでしょう。―

それまでその辺りはちょいちょい行っていたから顔馴染みでね。ばあちゃんがいい人でね。畑に入っても怒らんでくさ。
その畑はゴボウ畑で、正月用のゴボウを深く掘っとんしゃったと。じゃけん、一緒んくたりに弥生前期の土器も夜臼式土器も引っ張り出してしもうとんしゃったい。
  ―夜臼式土器の名は後で呼ぶようになるわけですけど、
   森貞次郎先生に聞いていた縄文時代の夜臼式土器と弥生時代の遠賀川式土器が一緒に出たわけですねー

そうそうもう夢中で一つ残らず拾ってくさ、ハンカチか何かでくるんでからくさ、ポケットに入れてね。
あの頃は今みたいにカバン持ってカメラ提げてと言うような恰好するわけじゃないし、まるでルンペンみたいな格好だよ。

  ―その日も竹下の家から歩いていかれたのですか―

そう、歩いてね。足は不自由だけど「板付を見るんだ」と言う一念でね。目的と言うか狙いはそれだけ(二つの土器を一緒に見つけること)だったからね。

※平成3年9月に板付遺跡の発見者、中原志外顕さんに考古学を始めた動機や、板付遺跡発見のようすなどについて語っていただきました。
中原さんは、翌日岡崎敬先生宅へ土器を持参し、昭和26年から29年の本格調査につながりました。

 板付遺跡の発見
「やったー、ついに見つけたぞ!!」
昭和25年1月、福岡平野のほぼ中央にある板付の小高い台地の畑で、中原青年が感激の声を上げました。
長い間捜し回っていた時代の違う二つの土器が一緒に出ているの発見したのです。
その二つの土器は後に、夜臼式土器(縄文時代晩期)と板付式土器(弥生時代前期)と呼ばれるようになりますが、
一緒に出ると言う事は、この板付遺跡こそ縄文時代最後の遺跡であり、弥生時代最初の遺跡であることがわかったからです。

二つの土器を追って 中原志外顕 二つの土器を追って
板付遺跡の発見
石包丁
磨製片刃石斧
土製紡錘車
甕 板付Ⅰ式
弥生前期
小壺 板付Ⅰ式
弥生前期

 33弥生のムラ 板付遺跡
遺跡の内容
ここ板付遺跡は、日本で最も古い水田が開かれた土地であり、環濠と呼ばれる大きな溝で囲まれたムラ(環濠集落)が見つかった遺跡です。
日本最古の水田は、縄文時代の終り頃と言われていた地層から発見され、川から水を引き込む水路、水の量を調節するための井堰、田圃を区切った畦畔などが整備されたものでした。これは稲作と共に高度な土木技術も朝鮮半島から伝わったことを示しており、

日本の水田稲作の開始を考え直すきっかけになりました。
また、環濠集落とその周りで見つかった墓地、沢山の土器や石器、木器、植物遺体などは弥生時代の人々の生活や社会を総合的に解明するのに、大きな役割を果たしています。

遺跡の発見から今日まで
1867(慶応3年):通津寺境内より銅矛5本出土
1916(大正5年):板付田端の甕棺墓地(墳丘墓)より銅剣、銅矛出土。
1950(昭和25年):中原志外顕氏縄文土器(夜臼式)と弥生土器の共伴を確認。
1951~1969(s26-s44):日本考古学界の発掘調査
1971(s46):板付団地建設に伴う行政発掘開始
1976(s51):国史跡に指定
1978(s53):縄文水田発見
1992(h4):復元水田と、弥生館オープン
1995(h7):環濠と竪穴住居の復元オープン

弥生のムラ
板付遺跡
姿を表した環濠集落
ってどこだ?
縄文水田の発見
写真のアングルが…
これでは見えない

 夜臼式土器の年代と変化
夜臼式土器の器種と
器形の変化
弥生早期~弥生前期
夜臼式土器は縄文土器ではなく、弥生早期土器と位置付けられている。
 ※半島から既に完成した技術と、用途に対する器型が持ち込まれたので、既に完成形である。
・弥生早期に、夜臼Ⅱa式に地域変化する。

・弥生前期に、夜臼Ⅱb式と板付Ⅰ式が発生する。
 ※この大きな変化はなぜ起こったのだろう。それまでの夜臼Ⅱa式文化に大きな変化を生じさせ、
 夜臼式が消滅する原因は、、
 それは環濠集落であるということと、博多湾に近いということが原因かもしれない。
 ※外からの大きな文化的変動があったか、侵略を受けて別の稲作集団に乗ったられたかであろう。
 

   夜臼式土器・・・縄文晩期終末
   板付式土器・・・弥生早期という記述
   夜臼式土器は突帯文土器である。(※突帯文土器はつい最近まで縄文晩期とされていた。)

   福岡市博物館   夜臼Ⅰ式土器 縄文時代晩期


 110夜臼式土器 (縄文晩期終末期? 突帯文土器?)


 111夜臼Ⅰ式土器 は弥生早期
 …口縁部の太い刻み目突帯胴部の条痕文上げ底の底部が特徴  (突帯文土器)
夜臼Ⅰ式土器
浅鉢 深鉢

 113夜臼ⅡaとⅡb式土器 竪穴式住居出土土器  (突帯がなくなっている)
夜臼ⅡaとⅡb式土器
夜臼Ⅱaとbは随分発展した土器。まるで別物


 夜臼Ⅱa式土器 弥生早期
夜臼Ⅱa式土器



 夜臼Ⅱb式土器 弥生前期
夜臼Ⅱb式土器

大型壺
 

 120教科書を塗り変える大発見
昭和40年後半から台地周辺の低地でも発掘調査が行われるようになり、水田や木製農耕具が発見され、米作りの様子が次第に明らかになりました。
G-7a区では弥生時代始めの水田の下にさらに古い水田が見つかりました。
なんと縄文時代最後の土器と考えられていた夜臼式土器と一緒に炭化米や石包丁が出てきたので、“縄文水田発見”と大ニュースになりました。

現在ではこの時期を「弥生時代早期」と呼ぶ研究者が増えています。つまり米作りは、従来の学説以上に早くから始まっていたのです。
  ※米作りは弥生時代からというこだわりから、無理やりこの時期を弥生早期としたのかな。

教科書を塗り変える
大発見
板付遺跡に見る一年の農作業



 米作りは板付から始まった
中原さんの発見の翌年から、日本考古学協会を中心にして本格的な発掘調査が始まりました。
4年間の調査によって、台地に沿って弓型にめぐる深い溝や貯蔵穴、井戸などが発見されました。
溝からは稲の穂を摘み取る石包丁や炭化した日本種の米粒などが見つかり、弥生時代の最初から米作りをしていたことが確認されました。

米作りは板付から始まった
作りは板付から始まった 板付水田の移り変わり
弥生早期の水田構造 前期初頭の水田構造
 

 130板付式土器 
 ※板付Ⅰ・Ⅱ式は発展形だが、夜臼式と板付式は発展形とは感じられない。

 131板付Ⅰ式土器 弥生時代初め頃の土器 (※夜臼Ⅱbとは全く発想を異にした土器。発展ではなく別種の土器を持った集団ではないかとさえ思う)
板付式土器 板付Ⅰ式土器
環濠出土の土器類
弥生前期
板付式土器
弥生時代初め頃の土器
 
 板付Ⅰ式土器 弥生前期前葉
環濠出土の土器
弥生前期
小型壺
彩色で羽状文を描画
板付Ⅰ式土器
弥生前期前半


 133板付Ⅱ式土器 弥生前期後半
甕・中型壺×2・大型壺

甕、中型壺、忠型壺

やや広がる口縁部の細かな刻み目・胴部のハケ目文・平底が特徴。
底部には後にあけられた孔が見える
中型壺
頸~胴部にヘラ描きの羽状文をめぐらす
中型壺 壺の底についた籾痕跡 大型壺
収穫した穀物を貯蔵して保存する
 

 140弥生人の足跡
   約2300年前の水田に残されていた弥生人の足痕です。
弥生人の足跡
ふつうは足の指を伸ばして歩くが、足痕は指を立てて歩いている。

だから足の指が短く見える。ひどく緊張して歩いた様子らしい。

復元された足裏はまるで幼児の葦のように見える
遺跡の発掘
 

 150板付環濠集落
台地全体の様子を明らかにするために、昭和43年に発掘調査が再開されました。
その結果、弓型に延びている深い溝は、長径110m×短径80mの楕円形にムラを取り囲んでいることが分かりました。
日本で最初の米作りのムラは、環濠集落だったのです。
米作りを始めたことによって、おそらく土地や水を巡ってムラ同士が争うようになり、ムラの周りに深い溝を掘ってムラを守ったのでしょう。

※この論法だと、付近には沢山の弥生早・前期集落があり、戦いながら米作をしていたことになる。ならば、武器や戦死者の墓もあるはず。
 戦死者は一等高い地位に葬られるはずだが、、
 それがなければ、野盗からの防衛施設となるのかもしれない、、どっちだ?
 151
ムラを守る深い溝 環濠 環濠の地図表記 環濠集落の全景
白い2本線が環濠
 

 153板付遺跡ジオラマ(弥生前期)復元模型 縮尺1:100
板付遺跡ジオラマ 中心集落
台地辺縁部に水田が取り巻いている。 二重環濠というのは、田圃と台地の間の水路が環濠➀で、集落を囲む大溝が環濠②のようだ。 内側環濠の外には墓地がなあったのだろうが、復元されていないのか、写っていないか、
である。
 155
水田遺跡は団地や宅地になっている。 中心集落
 
 160大型壺・大型甕棺
大型壺
大型壺 弥生前期
大型甕棺 弥生前期
 ※この地域では弥生前期から大型甕棺が使われていた。
 
 170出土遺物  板付田端墳丘墓 弥生中期
 171
出土遺物 線刻画
盾を持つ人物
銅剣と銅矛
板付田端出土
東京国立博物館蔵

チョット黒め
 172

収穫具・石包丁
穂摘み具
石鎌
稲などを刈り取る
打製石鏃

黒曜石を打ち掻いて作った矢じり
磨製石鏃
左岸・粘板岩などを磨いて作った矢じり
投弾

相手に投げつける武器。土製。
 173
銅剣銅矛
環状石斧
石戈
銅剣・銅矛
田端墳丘墓
銅剣・銅矛

 174弥生時代の石器類


木材を伐り倒したり、削ったり、物を潰したりする道具
太型蛤刃石斧
 大きな木材を伐り倒す斧。砂岩・玄武岩製
有段石斧
木材を削る斧。砂岩製
柱状片刃石斧
木材を削り、穴をあける斧
粘板岩製
叩石

物を叩く。花崗岩製
磨石

物を磨り潰す。
花崗岩製
 
柱状片刃石斧 
木を削る。穴開けの斧 粘板岩製
扁平片刃石斧 
木を削る斧。粘板岩製
穿孔石器

石器に穴を開ける
砂岩製
   
 175食物と食器
炭化米
袋状貯蔵穴から出土
獣骨と貝
環濠内の小貝塚から出土

 176
勾玉
不明土製品
祭祀具
広形銅矛(鋳型)
土錘、紡錘車
 
 
 180農具
二又鍬 フォーク状木器
遺物と複製
 
 210春 弥生時代
 211

弥生時代
田植えの準備
江戸時代
現代

※井堰と代掻き(しろかき)の絵しかありませんが、稲作は最初から手で苗を並べ植える「田植」の方法で入ってきたとされています。
 長く中国で稲作が行われ、効率の良い栽培法が培われ、やがて半島に伝播して500年後に列島に伝わったとされています。
 半島では完成した稲作技術が普及しており、それが田植えであったようです。

 完成したのは、農業技術・農耕具・稲作を基盤とした農村生活、祭祀などであるが、稲籾の餞別だけは未完成だった。

 この時期の稲は早生(わせ)も奥手も中手も、いろんな品種が混ざっており、結実時期がバラバラであったことはよく知られており、
 これを収穫するためには株間を開けておかなければならない。また、株間をあけることによって稲の分けつが進み収量が増えることも利点である。

 東南アジアで近代まで行われた粗放農業と言われる熱帯ジャポニカの籾を直播する方法は、この品種はそれに向いた品種である。
 また、このような農業はその土地の風土や気候にあった栽培方法なのです。
 アメリカで行われている米栽培も広大な水田に空から温帯ジャポニカの籾をばらまいている。田植えなどしておれないからでしょう。
 212
弥生時代の主な水田遺跡 泥除けの付いた鍬
福岡市君休遺跡

弥生時代は板の泥除けで重かった
現在の泥除け具って
見えんやろ
山形県田麦俣
東北では板は重いので竹で編んである
北まで伝わった稲作
青森県垂柳遺跡
北回りで青森に伝わった早生品種の稲。
水田と井堰
君休遺跡
日本最古の水田
板付遺跡
整備された水路
静岡県登呂遺跡
佐賀県菜畑遺跡
高知県田村遺跡
鳥取県目久美遺跡
岡山県百間川遺跡
兵庫県美乃利遺跡
滋賀県服部遺跡
群馬県日高遺跡
宮城県富沢遺跡
青森県砂沢遺跡
静岡県登呂遺跡
福岡県君休遺跡
福岡県板付遺跡
 214復元農具
泥除け付き鍬 木製泥除けは、普通の鍬の二倍の重さとなるため、
後世には
泥除け部分を竹を編んで軽くしている。
重い泥除け鍬で半島から持ち込まれ、そのまま使われていた。
みんな、
身体強健なマッチョだったようです。
 215
狭鍬
君休遺跡
さらい
これは筵の上に穀物を均等に広げる時に使うものでしょう。
似た道具にえぶりがある。幅が広く、代掻き後の田を均す道具です。
いや、どちらも土をならす。穀物の実をかき集めるとなっている。
多又鍬
木器の鍬で固い地面を掘り起こすことは不可能で、あらかじめ鋤で起こしておいて平鍬で砕き、その後に又鍬を入れないと、壊れてしまうだろう。

君休遺跡
拾六町ツイジ遺跡
平鍬、泥除け具
山形県田麦俣

板付遺跡
君休遺跡
ここに挙げられた農具は、現在も同じような物が使われています。
 
 220

弥生時代これは田の水路を表している 江戸時代
虫取り、草取りの様子
夜に畦で火を焚いて虫を集めて退治。
現代
防除。むかしは農薬を蒔く姿がよく見られた。
 230
 231衣類 環頭衣 カラムシ
環頭衣は布の中央に丸い穴があるという既成概念から、複雑に布を裁断して繋ぎ合わせると、当時の布は結合が弱くたちまち崩れてしまうだろう。二本の布を繋ぎ合わせるのが正しいだろう。
 233織る
環頭衣
麻布

栃木県
佐賀県三郷村

カラムシ
 234
糸車(撚糸具)
紡錘車・紡輪 芭蕉・山繭

 235糸を作る
弥生時代には、カラムシ、麻、カイコ(繭)などから繊維をとり、機織をしました。
糸を作るには、紡錘車という道具を使って撚りをかけます。ビデオを見ながら糸作りに挑戦しましょう。

原始機で織る
(体験学習メニュー)
体験学習感想文 原始機
 
 240弥生時代の布
 241
絹を巻いた銅剣
比恵遺跡・博多区
絹の織り目 カイコ カラムシ 大麻
麻の織物
 245体験学習
環頭衣を織る カラムシ クズ
糸つくり
染色
絹(野蚕)
絹(家蚕)
もじり織り 原初的な機台 原始機
 
 250農耕祭祀模型
田んぼの水入れは桜ケ丘銅鐸の絵にある光景
手に持ち尻もちを突いているのが水門を開けた様子。鮒が流れ込んでいる
鳥竿の鳥のようです スズメ脅しのタカのような展示ですが、腹に穴があり、下から支えたものです。
鳥竿
宗教道具です
 
 260
 261
収穫のようす
弥生時代
江戸時代の収穫
全刈収穫

学芸員さんの演技のようですね。
 262
臼と杵と稲穂 石包丁の使い方
 263
かけや、竪杵
 264稲の種類
 270
 271

弥生時代 江戸時代 現代
 273
なぜ形が違う
木槌
 275
掘り出された竪穴住居
板付遺跡
遺跡に再利用した建築材
君休遺跡
復元竪穴住居
兵庫県田能遺跡
家形土器
岡山県女男岩遺跡

 277弥生人の持ち物

君休遺跡
弥生時代の遺跡から発見された
綱・とび玉・カゴ・たも網
土笛
 
 280体験コーナー
 281火起こし
ヒモギリ式 ユミギリ式 マイギリ式
 283なぜなにノート
ピンボケ なぜ板付弥生のムラは、深い溝で取り囲まれているの?

板付弥生のムラの周りには、深い溝が巡っています。
空から見ると、〇形です。長い方の長径は約108m、短い方は約80mあります。
溝が一か所切れている場所があります。ここがムラの入口だったのでしょう。溝の断面はV字形で、深さは3m、幅は6mあります。
簡単に乗り越えることはできないし、落ちたら大変です。

剥ぎ取った土層をよく観察しましょう。
溝の状態から土が少しずつ埋まった様子がわかりますか?
両側に硬い土がありますが、これは溝を掘り上げたた土と々です。
このことから溝の周囲には、掘り上げた土が盛り上げてあったと考えられています。

溝で廻りを囲まれたムラを環濠集落と呼んでいます。
こんなに深い溝を掘るのは大変だったでしょう。
どんな道具を使ったのでしょうか?
完成するまで何日かかったのでしょうか。
何人のムラ人が働いたのでしょうか?
そしてもなぜ深い溝が必要だったのでしょうか?

敵から守るため、区画をするため、・・・いろんな考えがありますがまだよくわかっていません。

 計算
 溝から掘り出された土の量は、約2,763㎥。大人が一日に掘り上げる土の量を1㎥とすると、10人で9ヶ月もかかります。
弥生人も靴を履いていたの?

板付遺跡のすぐそばにある那賀君休遺跡(現在の弥生小学校)の遺跡から、こんな変な形の木製品が発見されました。
井堰は、幅30mの川を横切ってたくさんの杭と横木を組み合わせて作ってあります。川の流れを堰き止めて水位を上げ、水田に水を送るのです。
この井堰は、杭の間から一緒に出てきた土器や木器などから、今から約1800年前の弥生時代の終わり頃に作られたことがわかりました。
さてこの変な木製品は一体何なんでしょうか?
よく見ると、クツの形によく似ています。両側には小さな穴が開いていて、紐を通した痕跡があります。裏側には、滑らないように凹凸があります。
弥生人は、こんなクツを履いて歩いていたのでしょうか?
でも、この頃の日本(倭)のことを書いた「魏志倭人伝」には、倭人は素足だったと記録されています。
それにいつもこんな靴を履いていたとすれば、もっとたくさん発見されるはずですが、まだ佐賀県と福岡県で4例しか発見されていません。
(現在は弥生時代の終わり頃から古墳時代初めにかけての九州から千葉県にかけての遺跡で、約50例ほどが見られます。)
広島県の「日本はきもの博物館」には、いろんな靴や下駄が集められています。
この博物館に長野県で使われていた同じ形の靴が保存されています。また、滋賀県の琵琶湖の周辺では、葦を刈り取るときに足を守るためにこのような靴を履くのだそうです。

那賀君休遺跡では、ワラやよしずを編む道具も発見されていますので、もしかしたらこの靴を履いて川辺の葦を刈りとっていたのかもしれません。
皆さんもこの靴を履いて歩いてみてください。うまく歩けますか?
こんな鍬、見たことないな!

板付弥生の村の北、約500mにある那賀君休遺跡(現在の弥生小学校)から、弥生時代の終わりの頃の鍬や鋤がたくさん発見されました。それらの中に柄がついたままの鍬がありました。鍬に柄がついたまま一緒に発見されるのは、大変珍しいことです。
こ柄は、ピンを外すことによって鍬が外せるようになっています。農作業によって鍬の種類を使い分けていたのでしょうか?

それに柄には、不思議な薄い板が取り付けられていました。どこかで同じようなものを見たことがありませんか?そうです!自転車の車輪の泥除けによく似ているでしょう。

江戸時代の記録には、泥田で土を耕すときに竹で長方形に編んだものを絵に取り付けると仕事がしやすいと書いてあります。
弥生時代なものとは形が違いますが、おそらく同じ道具と思われます。

このようなものは九州ではもう見かけることはできませんが、静岡県、福井県、石川県、新潟県、山形県、青森県では、ごく最近まで使われていました。展示している泥除けは、山形県田麦俣と言う山間の村で譲ってもらったものです。

この例のように、弥生人の発明や工夫、そして米作りの努力が現代の農業を築き上げてきました。
しかし、現代人が既に忘れてしまった知恵や道具もきっと多いことでしょう。

それにしても、鍬が自由に取り替えられる事は、そんなに便のことなのかな?
水田への祈り、丑祭り

米作りは、季節ごとに決められた農作業をきちんとしなければいけません。
しかし、台風や水害、そして、虫や鳥などで収穫がないこともあったことでしょう。
板付弥生ムラの人々は、秋の豊かな収穫を願って、どんな祈りやお祭りをしていたのでしょう?

用水路(外環濠)や水田の発掘で夜臼式土器(縄文晩期)と板付式土器(弥生初期)が発見されました。
また、水田に水を引き込む水口に数本の杭が組み合わさって発見されたことがあります。

米作りと一緒に祈りやお祭りも大陸から伝わってきたと思われます。
現在行われているお祭りは、ほとんどが米作りに関係してると言われています。
例えば二月と十一月の初丑に行われる丑祭りも、その行事の一つです。
二月は田の神様を田に送り秋の豊作をお願いします。十一月は豊かな収穫をもたらしてくれた他の神様を迎えます。その時、カマドや臼の上に箕を置いて餅や食べ物を供えます。板付弥生遺跡弥生館の受付に置いてある臼は、これを再現したものです。

残念ながら、福岡市では丑祭りをあまり見かけることができなくなりました。
弥生時代に同じようなお祭りがあったかどうかはわかりませんが、農民の願いは昔も変わらなかったでしょう。
教科書を塗り換えた縄文水田の発見!

米作りは弥生時代からではなかった。
1978年(昭和53年)、弥生遺跡Aゾーンのそばを通る県道505号線の南側で、縄文時代の水田が発見されたのです。(遺構は、板付弥生館から県道へ2~3分歩いて行ったところ)

まず県道505号線をまたぐように弥生時代の水田が板付式土器(弥生初期)とともに発見され、県道の北側からは井堰が、南側からは水田に水を自由に引いたり、出したりすることができる取排水溝(溝)も発見されました。

この事は、弥生時代から高度な米作りが行われていたことを意味します。
また、弥生人の足跡も無数に見つかり、裸足で米作りをしていたこともわかりました。
板付遺跡弥生館に展示されている足跡は、その1つです。
では、なぜ足跡がきれいに残っていたのでしょうか?

さらに驚いたことに、その弥生水田の下に古い水田があることもわかったのです。
同じ地層から出てくる土器は夜臼式土器(縄文晩期)が多く、それに炭化した米粒や稲穂を摘みとっていた石包丁まで発見されたのです。
このことから、縄文時代晩期には、もう米作りが行われていたことになります。
それからの板付人は、洪水との戦いの連続でしたが、決して諦めませんでした。
縄文・弥生時代の水田が重なっていたこと、そして弥生人の足跡がそれを物語ってくれます。

その後、縄文水田は西日本を中心にどんどん発見されています。福岡市では、南区野多目遺跡、最も古い水田跡としては、佐賀県唐津市の菜畑遺跡がありますが、ここ板付の地が日本の米作りの発祥の地の一つである事は間違いありません。

また縄文水田が多く見つかっていることから、弥生時代の始まりをさらに遡らせるべきだという考えも強まってきています。
 
 285スコップの仲間
 
 

 300弥生の暮らし


 301農作業と食物カレンダー

 311弥生の道具
漁具 弥生人はどうやって土器を造ったのかな

 321東南アジアの土器の野焼き
➀地面に木片などを敷き詰め乾かした土器を積み上げる
②藁を被せて土器を覆う
③藁の上に、水で溶かした赤土を全面に塗る
④数か所に空気穴を明け、
火をつける
翌朝、見事に焼き上がった土器を取り出す。
集落南側の神域『聖林』に
建つ神殿の鞘堂
墓地へ通じる「出棺口」
しめ縄や「鬼の目」が掛けられている
出棺口の裏門から続く斜面に築かれた墓地。土葬の墓が点在する
 323中国雲南省
伝統的な高床住居がた立ち並ぶ中国雲南省の集落
農繁期に利用される出作り小屋。高床式で床面に炉を設けている。
高床式住居の内部。床面を切って炉が設けられている。
伝統的な民族衣装に耳飾り・耳環・腕輪をした女性
高床住居下での餅つき。餅をつくのは女性の役割。

竪杵で餅つき
調査団が実測調査を行った、原初的な構造の高床住居
民族衣装に着飾ってのムラの踊り「打過舞」
露台での籾干し