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 新潟の縄文 №13 2020.09.29-1

野尻湖ナウマンゾウ博物館 長野県上水内郡信濃町野尻287-5 026-258-2090
休館日は月の末日 撮影可

交通 レンタカー
しなの鉄道「黒姫駅」からタクシー
※タクシーで行くと運転手は帰らずに待っています。それほど高額でした。
見所 ナウマンゾウハンティングをめぐる旧人と新人の遺跡
   ゾウ狩りの尖頭器 旧石器時代 151④
 
 お知らせ
  125のうしろに、資料 最終氷期を、掲載後ですが、追記しました。 2021.12.17

 



01旅程
03野尻湖
05博物館外観
10入口展示
11国内出土の古代象
13象の系統樹
15国立公園野尻湖
17野尻湖の発掘

110A-1ナウマンゾウ
111野尻湖のナウマンゾウ

120A-2ヤベオオツノジカとナウマンゾウ
121ヤベオオツノジカ
122ヘラジカ
123ヘラジカ骨
124ヘラジカ頭骨
125氷河時代・旧石器時代

※考察 過去100万年の気候変動
※資料 最終氷期(2021.12.17追記)
129ナウマンゾウ骨格
130A-3ナウマンゾウの発掘

140A-4ナウマンゾウの歯の化石
141ナウマンゾウの臼歯の特徴
142臼歯からわかる年齢
143左右大臼歯

150A-5狩猟具
151ゾウ狩りの道具
152石器
153野尻湖文化の石器
157骨器
 日本最古の骨器
158象骨器

160A-6野尻湖人の生活風景
161樹層
162植物種子
163昆虫化石
165植物化石
166糞化石
167貝化石
168水草
169野尻湖古地理

170A-7蘇るナウマンゾウ
171ナウマンゾウの進化
172象の頭蓋骨
173腰椎骨
174背骨(胸椎)
176ナウマンゾウの牙化石
177肋骨
178軸椎
179頭骨
 長野県の化石
179a長野県天然記念物

180A-8野尻湖人の祈り

210B-1野尻湖の誕生
211野尻湖の誕生
211a野尻湖の形成
211b池尻川岩屑なだれ堆積物
212野尻湖形成時の古環境
212b氷河時代の植物・昆虫

213体感教材
さわってみよう
ナウマンゾウ・マンモスゾウ
石器石材
214みてみよう
花粉化石・珪藻化石
215やってみよう地球磁場調査

217野尻湖10万年の歴史
 野尻湖層の新区分
219顕微鏡で見た鉱物と化石

220B-2埋もれた歴史
221陸地の地層
223湖底
227湖底堆積物
228ナウマンゾウの足跡
229月と星

230B-3ナウマンゾウ時代の動物

240B-4ゾウ狩りの遺跡
241野尻湖人の暮らし
242キルサイト
243骨器づくり

 旧人の時代
244野尻湖文化

※資料 旧人
※資料 ナウマンゾウハンタ
245割られた骨
※考察 割られた骨
246傷つけられた骨
246a解体痕のある骨
246b礫石器
246c水晶
247野尻湖層の石器
247a下部野尻湖層Ⅲ・下部
247b下部野尻湖層A-B
247c中部野尻湖層の石器
247d上部野尻湖層Ⅰ
247e上部野尻湖層相当

248石器の見方
248b➀石材産地
248d②割られた面の特徴石器

 新人の時代
249貫ノ木遺跡の5号礫群

250B-5ナウマンハンターの末裔
※考察 姶良カルデラの噴火
251野尻湖の周りの遺跡

※疑問 ホモサピエンスの居住遺跡群
252石器の移り変わり

260ナウマンハンターの末裔1
261石器の変遷
 3万年前 黒色帯
※考察 局部磨製石斧
 2.6万年前
 2.0万年前
264杉久保系石器
※杉久保系文化とは
1.5万年前 上部野尻湖層Ⅱ上部
※瀬戸内系石器群
266茂呂型 1.5万年以降
※茂呂系石器群
267尖頭器 
268現代

 ナウマンハンターの末裔2
270杉久保文化
271氷河時代
※資料 旧石器後半の5大文化圏
274杉久保遺跡の石器
275杉久保遺跡A地点

※考察 狩猟用石器の変化と狩猟法
275a狩猟ワナ

280ナウマンハンターの末裔3
282杉久保遺跡の石器
284細石器文化の石器
※細石器文化
285向新田遺跡

※考察 尖頭器
286神子柴文化の石器

 縄文草創期
287草創期の遺物
289縄文時代早期の遺物

310C-1野尻湖の自然と利用
311野尻湖の自然と人々の暮らし
311b野尻湖の水利
312湖周辺地形
313野尻湖の魚 
315空から見た発掘
316丸木舟 平安時代
318漁業
319さわってみよう

320C-2野尻湖発掘の歩み
330C-3広がる発掘の輪
540アンギン編
 五千年前の信濃町で発見

602黒姫童話館
603上越高田駅
606新潟のホテル
 
 
 01旅程 上越妙高アパホテル窯蓋遺跡上新バイパス野尻湖野尻湖周遊道路ナウマンゾウ博物館
窯蓋遺跡から出発

(新潟県上越市上越妙高駅裏から出発)
窯蓋遺跡公園
広大な弥生時代の玉作り集落の遺跡です。
ナウマンゾウ博物館へ  上越市から長野県信濃町へは
有料高速道(上信越自動車道路)と無料バイパス(上新バイパス)が並走している。所要時間はほぼ同じで、高速道路にはパトカーが常時取り締まりをしている。下手をするととても高額の高速料金を取られることになりますね。
写真の道路はバイパスです。ちなみに帰りは高速に乗ってみました。
所要時間は変わりませんでした。お金を払っただけで無意味でした。

 03野尻湖
  随分早く着いたので、開館時刻までに野尻湖周遊道路で一周しようとしたのですが、軽四でも恐怖の細い道で、諦めました。
  この時の写真は撮れませんでした。それどころではなかったのです。
  野尻湖周遊道路は車で走らない方がいい。バイクなら可。マラソンか駅伝かの選手がトレーニングしていました。
周辺観光案内
一年を通して都会人が楽しめる観光地です。

雪解け・若草の芽吹き・春の草花・涼しい夏。

紅葉の秋。紅葉狩りの美しい名所が沢山ある

寒冷な冬のウインタースポーツ

素敵な建物です。
博物館入口 妙高山
 

 05博物館外観
 野尻湖ナウマンゾウ博物館が長い時間をかけてリニューアルしたというので行ってみました。長野県ですが、上越市からは40分ですぐ近くなのです。
 この館にはとてもいい思い出があったのです。前回訪問した時にはとてもやさしい雰囲気で、杖をついている私にも親切にしていただきました。
 この日、火曜日は、上越地域の館は全て休館日です。旅行計画通りこの日までに館を巡り終え、今日は新潟市域に移動します。
 そこで、時間が余るので午前中に、年中ほぼ無休の野尻湖ナウマンゾウ博物館に行くことにしました。

リニューアル以前の外観 入口は二階。一階右側は倉庫。豪雪地帯特有の下駄ばき構造でした。
何メートルもの積雪のある地域では、やむをえない建築です。
リニューアル後の外観 
一階の倉庫が玄関と事務所に改造

玄関となった倉庫入口

あの大階段はそのまま

 2013.05.21の訪問時は杖を突いて重いキャリーバッグを持って正面階段を上がるのが大変でした。外に置いたままにするわけにも行かず、
 帰る時もまた持って降りなければとつらい気持ちでしたが、帰りは荷物用エレベーターで降ろしてもらいました。

 
 リニューアルのあらまし
 入口外観と受付窓口を1階に変更。説明パネルの増設。説明パネルに英語の説明文を追加したこと。が主な改良点です。

 ナウマンゾウ関連博物館は北海道の忠類ナウマン象記念館と2館しかありません。
教育県長野が市民主体の運営を目指した博物館で有名だが、小さな地方の町村が運営する博物館の改装費が低予算であるのは仕方がない。
日本社会が高齢化し、地方が力を失ってくると、博物館のような文化施設が一番最初に攻撃をうける。上越市でも旧村立の館が破壊された。
ここの博物館は、しかし、市民の応援がある限り安全であると考えます。最悪の時はクラウドファンディングでも運営できますね。(^^♪

 
10入口展示

 ※この館は本来「ナウマンゾウ化石」の博物館なのです。にもかかわらず、そこで、私は考古資料の展示を中心に調べようとするので、
 文字化する説明パネルと、文字化しない物が出てきてしまいます。申し訳ありませんが、象に関するものはご自分でお読みください。


 11国内出土の古代象
シンシュウゾウ アケボノゾウ カシマンモス トウヨウゾウ ナウマンゾウ
ケナガマンモス
 

 13象の系統樹
   マストドン系統から始まった象の進化です。人類よりも長い歴史、6000万年も前から続いているんですね。
   700万年前に発生した人類や類人猿が知能を持ったのだが、象は長期間巨体を維持しながらも、文明は持てなかった。何言ってるんだろう私(';')
象の仲間の系統樹
 

 15国立公園野尻湖
野尻湖は長野と新潟の県境に位置し、妙高戸隠連山国立公園に指定されています。
標高657m、水深38.5mの長野県で2番目に大きな湖です。およそ7万年前の黒姫山の大崩壊で堰き止められ、4万年前の噴火による山頂崩壊など、その後の地殻変動で現在の形になりました。
国立公園は、日本を代表する自然の風景地が指定されています。自然環境の保護と利用のバランスを維持することを目的としています。

国立公園野尻湖 妙高戸隠連山国立公園
上に記述
妙高戸隠連山国立公園
長野駅から車で善光寺裏を登って行くと戸隠です。何度か行きました。
ところが、そこから野尻湖がすぐ近くだとは気が付きませんでした。
野尻湖発掘地 発掘風景 冬になると野尻湖の水を使った水力発電がおこなわれるため、水位が2mほど下がり、沖合に向けて200mほど干上がります。この湖底表面からナウマンゾウの化石が見つかりました。
最も水位が下がる3月下旬に発掘が行われます。野尻湖の水は新潟県の水田を潤し、水力発電にも利用されています。

 17野尻湖の発掘

 発掘のきっかけ
1948年10月、野尻湖畔の旅館の御主人が、干上がった湖底で1つの奇妙な「石」を拾いました。これを野尻湖小学校の校長に見せたところ、ゾウの歯の化石ではないかということになり、大学に鑑定してもらったところ、ナウマンゾウの臼歯(上顎第3大臼歯)の化石であることがわかりました。
このナウマンゾウがどのような地層から産出したものであるかを確認するために、「まず掘ってみよう」と始まったのが野尻湖発掘です。

 発掘のグリッド
発掘場所は、野尻湖西岸の「立が鼻」と呼ばれている岬の南側の地域です。ここに4m×4mの区画を作って、東西方向にAからZまで、南北方向に1から34まで番号がつけられています。
例えば「月と星」と呼ばれる立派なオオツノジカの角は、Ⅲ区X-3グリッドから発見されました。これは、Ⅲ区のX列の3番目の区画から見つかったということを意味しています。グリッドの名前は、化石の住所・番地のようなものです。

野尻湖の発掘 発掘のきっかけ
上に記述
発掘のグリッド
上に記述
第21次発掘調査
 
 

 110A-1ナウマンゾウ  肩高2.5~3m小型。牙(切歯):雄は約240cm直径15cm程。雌は約60cm直径6cm程。1 体重4t

今からおよそ4万年前、野尻湖の周りにはたくさんのナウマンゾウがいました。このゾウは太く曲がった牙や頭の形からわかるようにアフリカゾウやアジアゾウとは違った種類の象です。
ナウマンゾウの名は、明治時代の初めに日本に来て、ゾウ化石の研究をしたドイツのナウマン博士にちなんでつけられました。
ナウマンゾウは日本各地を始め、中国大陸や黄海の海底からも見つかっており、大陸から陸続きだった日本に渡って来たとされています。


 111野尻湖のナウマンゾウ
この復元像は、第8次発掘(1981年)までに野尻湖で出土した7000点余りの化石をもとに、野尻湖にかつて住んでいたナウマンゾウを復元したものです。

ナウマンゾウ
上に記述
野尻湖のナウマンゾウ ナウマンゾウの復元骨格
 

 120A-2ヤベオオツノジカとナウマンゾウ

 121ヤベオオツノジカ  肩高1.8m、体長2.6m 体重600-700kg  (ニホンジカ:肩高0.7-1.3m、体長0.9-1.9m 体重50-200kg)
ヤベオオツノシカは、掌をひろげたような大きな角(掌状角ショウジョウカク)と、前に向かって広がる大きな平たい角(眉枝ビシ)を持っている大型のシカです。
オオツノシカは氷河時代に日本や中国、シベリア、ヨーロッパなどにいました。日本産のオオツノシカは野尻湖のほかに20ヵ所近くで化石が発見されています。
中でも野尻湖で見つかった角は最も大きいもので、その角をもとに復元したのがこの復元像です。
ヤベオオツノシカはナウマンゾウと同じ時代の森林に住んでいましたが、今からおよそ1万年前に姿を消しました。

ヤベオオツノシカ ヘラジカ ヤベオオツノシカ ヤベオオツノシカ
上に記述
復元骨格

 122ヘラジカ  肩高1.4-2.3m、体長2.4-3.1m 体重800kg
ヘラジカはシカの仲間では最も大きなシカで、体長が240~310cm、背までの高さが140~260cm、体重が200~800kgあります。
オスは大きな扇を広げたような角を持っていて、広げると左右の開きが2mを超えるものもあります。ヘラジカの特徴を最もよく表しているのが大きな角です。
頭の先から分かれることなく、1本の硬い幹のような角があり、その先に、手のひらを広げたように、扁平に広がった角(角冠カクカンまたは掌状角ショウジョウカク)があることが、ほかの鹿にはない特徴です。オオツノシカには、前の方に延びる枝角エダヅノ(眉枝ビシ)がありますが、ヘラジカにはありません。鼻の先は長くて柔らかいのですが、ここの部分には鼻中隔が発達していて、ヘラジカ特有の顔を形作っています。
現在の地球上で、ヘラジカが住んでいるところは、ヨーロッパの北部やシベリアの東部、中国の北東部、モンゴル、アメリカ合衆国東部、アラスカ、カナダなど緯度の高い針葉樹林にすんでいます。

ヘラジカ
上に記述
ヘラジカの分布

 123ヘラジカ骨
第17次野尻湖発掘()2008年において、野尻湖層の中からヘラジカ化石が発見されました。ヘラジカの化石は、日本では今までに5例の産出記録があります。
岩手県の花泉遺跡風穴洞穴遺跡神奈川県海老名岐阜県熊石洞横浜市の5ヶ所です。
このうち産出年代が推定されているものは、花泉遺跡、熊石洞、風穴洞穴遺跡の3ヶ所です。いずれも1.6万年前から3万年前の年代で、最も寒かった最終氷期の年代に当たります。
今回、野尻湖で見つかった化石は、これよりも古くおよそ4.1万年前の時代もので、最寒冷期に比べると「やや冷涼な気候」の時代です。今後、ヘラジカが本州にいつわたってきたのか、などを考える上で大変貴重な発見です。

ヘラジカ
ヘラジカ
上に記述
ヘラジカ下顎骨
ヘラジカ化石 ヘラジカ化石骨 左下顎体 左下顎第2大臼歯 左下顎骨
第2第3大臼歯が植立

 124ヘラジカ頭骨
第17次発掘(2007)で第3大臼歯がついた下あごの化石が発見されました。オオツノシカと角の形の違いを比べてみてください。
ヘラジカの頭骨 ヘラジカの頭骨 ヘラジカの頭骨
明るくすると見やすい
 

 125氷河時代・旧石器時代
地球の歴史の中で、最も新しい時代である新生代第四紀は、今から260万年前に始まりました。第四紀は氷河が大陸を覆う氷河時代です。
氷河時代の中でも、特に寒い時期を「氷期」、暖かい時期を「間氷期」と呼びます。氷期には海水面が下がって、日本列島と大陸が陸続きになりました。
ナウマンゾウやオオツノジカ、ヘラジカなどの大きな動物たちはこのときに日本列島へやって来たと考えられています。

260万年前に始まった人類の道具の歴史
人類の歴史で古い時代は、使っていた道具によって区分されています。
最も古い時代は、石の道具を使っていたので石器時代と呼ばれ、第四紀と同様に、およそ260万年前から始まります。

石器時代は、世界的に、
打ち割っただけの石器(打製石器)を使っていた時代を旧石器時代
磨いた石器(磨製石器)を使うようになった時代を新石器時代と更に区分されています。

日本で新石器時代に当たる縄文時代は、およそ1万6千年前から始まりますので、それ以前の時代が旧石器時代となります。
野尻湖にナウマンゾウがいた6万~3万8千年前は、地球の歴史の中では氷河時代、また人類の歴史の中では旧石器時代に位置づけられます。

氷河時代・旧石器時代 氷河時代・旧石器時代
上に記述
動物の来たルート 温暖期・寒冷期 過去100万年の地球環境の変化
地球の気候は温暖期と寒冷期が周期的(10万年毎)に繰り返しています。
左のグラフは、海底のコアに含まれる過去100万年分の酸素同位体比を分析したものです。

酸素同位体比の値の変化は気候の変化を表しています。

※考察 過去100万年の気候変動
 上記過去100万年の気温グラフは、10万年周期での変動を表したミランコビッチサイクルを説明するためのもので、
9万年の寒冷期と1万年の温暖期を交互に繰り返しています。

 しかし、その10万年間を詳しく見てみると、9万年の寒冷期は気候が大変不安定で、「人類と気候の10万年史」中川毅ブルーバックス(要約)では、
現在の温暖化は100年で5℃が予測されているが、
今から1万6000年前にわずか数年で7℃の温暖化が起きていた。
東京がモスクワになるような10℃も低下した寒冷化の時代が繰り返し起こっていた。
また、人の一生約50年間に例えば鹿児島の気候が札幌の気候に変化したり、その逆もあったり、(放送大学「ダイナミックな地球」)
と、いう超異常気象の時期だったようです
 このような気候下では、人も動物も避気候の安定を求めて移動を余儀なくされたと思います。(参考文献:人類と気候の10万年史)

 
※資料 最終氷期 2021.12.17追記しました

 氷期
かつて「地球には4回氷河期があり」との説は間違いで、何度も何度も氷期と間氷期を繰り返してきた。
リス氷期に続くウルム氷期は約7万年前~1万年前とされる。
ウルム氷期の中でも何度か温暖期(亜間氷期)と寒冷期(亜氷期)を繰り返している。
ウルム氷期のあと、寒の戻りとされるヤンガードリアス期があるが、これは寒の戻り説の他に、隕石衝突による寒冷化説があり、北米の地層からイリジウムなどの隕石関連物質や特異な岩石層が発見されている。

 最終氷期 記述は全て抜粋
期間は約7万年前~1万年前。 最寒冷期 2.1万年前に最も氷床が発達したとされる。 
海水面は120m低下し東南アジアではスンダランドが出現し、ベーリング海峡は干上がりベーリング陸橋が出現した。

日本列島では、北海道・樺太・ユーラシア大陸は陸続きとなり、瀬戸内海や東京湾も陸地となっていた。
東シナ海の大部分は陸地となり、対馬海峡は浅くなって対馬暖流の流入はとまった。
日本列島は現在より寒冷で冬季の降雪量も少なく、北海道では永久凍土やツンドラが形成され、標高の高い山岳には氷河が発達し、針葉樹林は西日本まで南下していた。
氷期は短周期で激しく気候変動しており、最寒冷期は2千年程であったと考えられている。

最終氷期終了後の寒の戻り、ヤンガードリアス期(約1万3000年前)は約10年で7.7℃気温が降下した。
これは、氷期終了に伴う急激な温暖化で北半球の氷床が溶解し、大量の淡水が大西洋に流入し、(海水の表面を覆って氷結し地球規模の海洋循環システムを停止させ、極地方と赤道の熱運搬システムが停止し)極地方が冷え込んだためである。

 最終氷期極大期 記述は全て抜粋
氷床の成長は3万3000年前から始まり、最大になったのは、約2万6500年前頃で、 退氷が始まり海水面が急上昇した2.0~1.9万年前が極大期。
これは英国でディムリントン亜氷期と呼ばれ、3万1000年前から1万6000年前とされてる。
最寒冷期の気温は現在よりも6.1℃低く、海水面は125m低下していたとされる。


 最終氷期の気候変動と日本旧石器時代 安田喜憲 記述は全て抜粋
1.最終氷期の開始期について(約12-7万 年前)
 この時代はネアンデルタール人が大発展を遂げた時代である。

2.最終氷期前半の亜氷期(約6-5万 年前)
 石器の変化
この6~5万年前後の寒冷期を境として,石器の形態にも変化があることも明 らかになってきた。
最終氷期前半の7万 年前後の宮城県北部の馬場壇A遺跡の18~14層の石器,あるいは中峯遺跡のIV層上面の石器は,
いずれも石英安山岩・珪質疑灰岩を主体とする大型の粗製の剥片石器を主体とする。

ところが,ここ6~5万年前後の寒冷期を境として,その上層のおよそ4万 年前後の座散乱木遺跡の13~12層の石器は
珪質頁岩・碧玉な どを素材 としスクレイパー ・尖頭器などの小型剥片石器に変化し、
,7万年前後の安山岩を素材とする粗製の石器とは,明瞭な相違が認められる。
おそ らく6~5万年頃の寒冷期に,北方から新しい文化を持った人々渡来があったものと推定される。

3.最終氷期中期の亜間氷期(約5~3.3万 年前)
この時期の対馬暖流の流入については、海底コアの珪藻試料から5.3~4.3万年前に,暖流系種が多量に出現し,対馬暖流の流入があったことを指摘し、積雪が多かったとされる。5~4.1万年には積雪はあっても著しい氷床の発達があったとは考え難い。

気候は7~800年周期で寒暖・乾湿の変動を繰り返しながら寒冷・乾燥が進行し、約3.3万年前に寒冷・乾燥気候となる。
4.1~3.3万年前の亜氷期へ向かう過程で、氷河形成期となり、日本アルプスの熊沢岳で氷河が発達したことが明らかにされた。

4.最終氷期後半の亜氷期(約3.3~1.5万年前)
3.3万年以降気候は寒冷・乾燥化し、植物相が寒冷地植物に変わる。
3万年前を境に日本海の海水の濃度が薄くなり,日本海表層に淡水が供給され,海水の鉛直混合が衰退し,還元的海底環境が出現し,底生有孔虫などが死滅したことを明らかにした。日本海の海底生物が死滅した。

3.2万年前の鹿沼軽石層に覆われた上部葛生層の大型哺乳動物化石は,ニチキンカモシカ・ニッポンムカシジカ・カズサジカ・ヤベオオツノシカ・トラ・ヒョウ・ヤマネコ・ムカシアナグマなど,その多くは温帯型の森林生活者である。
一方,3.5~3.2万 年前以降の動物相は,小型ウマ・ヘラジカ・オーロクス・バイソンなど,北方の寒冷な草原的環境に適した動物が付け加わる。こうした動物相の変化は,花粉フローラからみた植物相の変化とよくあう。

 石器文化の変容
そ して,この時代,石器の形態にも大きな変化があることが芹沢により指摘されてきた。
芹沢はこの3.5~3万 年前後の時代を,前期旧石器と後期旧石器時代の境界とした。

こうした芹沢による前期旧石器時代と後期旧石器時代の間には,石器の組成に明白な相違があることが,宮城県座散乱木遣跡の発掘や中峯遺跡の発掘でより明らかとなった。

座散乱木遣跡の12層と9層の間,中峯遺跡のIII層上面とIIC層上面のあいだには,明白な石器の材質・構成・製作技術に違いがある。
安山岩を素材とするものはきわめて少くなり珪質頁岩・黒色頁岩を主体とし,あらたに黒曜石をともなう。
そして石刃・スクレイパー・石錐など,縦長の細かな剥片技術をもつ石器が出現してくる。
岡村はこうした石器形態の変化が引き起された時代を,3.3万年前としてい る。

こうした3.3万 年前頃の石器の形態の大きな変化は,すでに述べたこの時代の気候変化による植物相の変化と,それにともなう動物相の変化とが深くかかわっているのであろう。
3.3万年前の変化は,日本列島の最終氷期の一つのエポックメーキングな時代であり,古気候・植物相・動物相それに人類の文化,生活に大きな変化が引き起された時代にあたっている。

5.最終氷期最寒冷期
3.3万年前に確立した寒冷・乾燥気候は1.5万年前まで継続する。しかし、途中2.8~2.5万年前の間は、その前後に比して温暖・湿潤であった。
最寒冷期で顕著な森林帯の変化が起きるのは、中部山岳や北海道では2.5~1.5万年前である。しかし、関東以南の日本列島の低地では2.1万年前~1.5万年前となる。
日本列島全体が広く寒冷気候に覆われる最寒冷期は、2.1~1.8万年前であり、其の中で2.1万年前が特に寒冷であったとされる。

 ナイフ形石器文化の隆盛
この2.1~1.8万年前の最終氷期の最寒冷期に発展をとげるのは,ナイフ型石器文化である。ナイフ型石器は北関東の東京都高井戸東遺跡では,立川ロームのX層から連続的に出現する。

しかし,それが爆発的に増加するのは立川ロームのIV層に入ってからであることが,小 林他(1971)や 鈴木遺跡(鈴木遺跡調査団1978)の調査結果から明らかとなっている。また南関東の相模野においても,
ナイフ型石器は,相模野III期の時代以降,遺跡数が爆発的に増加する。その時代はいずれも2.1万年前頃の最終氷期の最寒冷期に相当している。

こうしたナイフ型石器文化の隆盛は,関東平野のみでなく九州においても類似した傾向がうかがわれる。
2.2~2.1万年前,コナラ亜属を中心とする落葉広葉樹林が,チョウセンゴヨウ・ヒメバラモミ・カラマツなどの針葉樹の疎林と草原に変るなかで,ナイフ型石器文化は発展をとげていく。
 その文化は,安田(1980)が指摘した如く,寒冷な北方の草原的環境に生育する大型哺乳動物を狩猟対象として発展をとげた文化といえよう。
  ※ナイフ形石器文化も北方の文化であると言っている。

 人類と気候の10万年史 (メモ書き)
・氷河期は1万1600年前突然終了した。これ以降は安定。しかし、その時、数年で5~7℃気温が上昇。東京が那覇になる温度である。
・D-Оイベントが4~5000年に一度起こる。1万4700年前のD-Оイベントでは、東京がフィリピンのマニラに、またはモスクワが東京になった。
 極地の氷が大量に溶け出し、約350年間に20mも水位が上昇した。
・1万6千年前最終氷期最寒冷期終了。
・ヤンガードリアス期は1万3千年~1万1600年前。10年の間に7.7℃気温が下降した。

※ここで気温が何度と言っているのは、全て地球全体の平均気温のことだから、物凄く激しい変化ですね。



 日本列島のナウマンゾウ生息期間
日本列島では36万年前~2.8万年前まで。
野尻湖では6万年前~3.8万年前まで。

日本列島の旧石器時代は約4万年前を境に、前期と後期に分けられています。
さらに、後期旧石器時代は約3万年前を境に前半と後半に分けられています。

ナウマンゾウがいた時代 ナウマンゾウ以後の時代
上に記述
※日本列島でのナウマンゾウの生息期間は、
約36万年前~2万8千年前。

※骨器を使っていた旧人型野尻湖人。
石器を多く使い始めた3.5万年前以降の新人。

 129ナウマンゾウ骨格
野尻湖にいたナウマンゾウの中には、足の骨の長さから計算すると、肩の高さが3m近くもある大形のゾウもいたようです。
日本では一体分揃った骨格が北海道十勝の忠類村東京日本橋浜町などで発見されています。しかし野尻湖では沢山の個体の骨が散らばって発掘されていることから、人によって狩られ、解体されたものだと考えられています。

ナウマンゾウの復元骨格 ナウマンゾウの骨格

上に記述
ナウマンゾウの肩甲骨 左切歯2.4m
(側面視)
左切歯(上面視)
ナウマンゾウ化石の産出地 列島全体の各所から見つかっており、生息範囲の広さと、生息時期の長さに驚かされます。

寒冷期は大きな体でなければ、生きていけなかったのかもしれません。
海水面の低かった時代、少なくとも東アジア全体ではものすごい数のナウマンゾウがいたことになります。
冬の狩猟とはいえ、年に一度の旧石器人のfightの季節ですね。
 

 130A-3ナウマンゾウの発掘

この発掘状況は、第6次発掘の現場を復元したものです。ナウマンゾウの肋骨が集まっているのが見られますが、野尻湖のナウマンゾウの化石骨は、このようにばらばらに散らばって発掘され、旧石器時代に野尻湖の周辺にいた人たち(野尻湖人)が狩りをして解体した場所(キル・サイト)であることを示しています。
ナウマンゾウの化石骨の近くからは、狩りに使った道具も見つかっていて、このことを裏付けています。

発掘状況
ナウマンゾウの発掘 第6次発掘 ナウマンゾウの発掘
上に記述
第6次発掘
散らばるナウマンゾウの肋骨
 

 140A-4ナウマンゾウの歯の化石

 141ナウマンゾウの臼歯の特徴
ゾウは沢山の植物を効率よく磨り潰すことのできる臼歯を持っています。ゾウの臼歯は、ヒトの歯のように上下に生え変わるのではなく、奥から前に押し出すように生え変わります。このような歯の生え代わり方を水平交換と言います。上下、左右のあごには臼歯がいつも1~2本ずつ生えているだけです。ゾウの臼歯は板状の咬板が重なってできていて、次の臼歯が押し出てくると、前の臼歯の咬板は少しずつ欠けて抜け落ちてしまいます。ヒトの歯は一生で1回生え変わりますが、ゾウの場合は5回生え変わります。

狩猟図
この絵では尖頭器で襲っている。想像図ですから気にしない。
ナウマンゾウの臼歯の特徴

上に記述
ウマンゾウの臼歯の特徴

 142臼歯からわかるナウマンゾウの年齢
野尻湖ではこれまでに約80個のナウマンゾウの臼歯が出土しています。国内で同じ時代の地層から、これほど多くの臼歯の化石が見つかる所は他にありません。象の臼歯は、年齢によって大きさや形が違うので、その特徴を調べることでゾウが死んだおおよその年齢を推定することができます。野尻湖からは最後に生える臼歯(第3大臼歯)が沢山見つかっていて、25歳以上の青年期から老年期のナウマンゾウが多いことがわかります。こうした年齢の偏りも、ヒトがここで狩りをしていた可能性を示す証拠と考えられます。

臼歯からわかるナウマンゾウの年齢
上に記述
ナウマンゾウの
臼歯の種類と年齢

 143左右大臼歯
 ナウマンゾウの歯
ナウマンゾウの歯はとても変わった形をしています。普通は上のあごに2本、下のあごに2本、合計4本生えています。
食べ物をかむ面(咬合面)は細長い部分で、ここで上の歯と下の歯をすり合わせて木の葉や草などを磨り潰します。

左右大臼歯
 左大臼歯   右大臼歯 
左大臼歯
乳歯~第2大臼歯
左第2~第3大臼歯 右乳歯~第2大臼歯 ~第3大臼歯
ナウマンゾウの歯
上に記述
 

 150A-5狩猟具


 151ゾウ狩りの道具
野尻湖人は、湖に水を求めてやってくるナウマンゾウやオオツノシカを待ち伏せて、ワナを仕掛けたり、湖に追い込んだりして集団で狩りをしていたものと考えられます。
ゾウを倒した場所で、石器や骨器などを使って象を解体し、小さく分けてキャンプに運んだのでしょう。肉や血液、内臓、骨髄などは食用にしたほか、皮や脂肪、そして骨まで利用しました。

ゾウ骨の利用 象の解体
絵の都合で背中を解体しているが説明のためです。気にしない。
ゾウ狩りの道具 尖頭器
最古の骨器
骨製尖頭器です
ゾウ狩りの道具 ゾウ狩りの道具
血液=食料.ビタミンCの補給

上に記述
骨製スクレイパー
皮はぎ
骨製クリーヴァ―
解体
骨製ナイフ
肉切り

骨を砕く(骨割り)
骨髄を取り出すため
くさび形石器
骨を割る・加工する
ピエス・エスキーユ
スクレイパー
皮の脂肪かき
脂肪は食料か燃料かクリーム代わりか廃棄か
スクレイパー 錐器(穴あけ)
衣服・テント
楔型石器・彫器 彫器
骨の加工
道具・加工品
骨髄
食料・燃料
 
 

 152石器

      野尻湖層の年代  (.B.Pとは、1950年を起点とする測定年代)
 J列層  11,000-8,000y.B.P.  
上部野尻湖層Ⅱ・Ⅲ 33.000-11.000y.B.P.  
上部野尻湖層Ⅰ 39.000-33,000y.B.P. 野尻湖象絶滅3.8万年前。
以後は大型鹿 
中部野尻湖層 41,000-39,000y.B.P.  
下部野尻湖層ⅢB・A 43,000-4,000y.B.P.  
下部野尻湖層Ⅲ下部・最下部 49,000-43,000y.B.P.  
引用「加速器質量分析計を用いた14C年代測定による野尻湖層の編年

 153野尻湖文化の石器
※以下に野尻湖文化の石器が展示されています。これは、何万年もの野尻湖文化の石器を紹介しているのであってそれらが同時に存在しません。
下部野尻湖層ⅢBと上部野尻湖層Ⅰとの間には、上の表で分かるように数千年の差があります。
出土年代を考えようとすると混乱するので、種類だけ(153~158)。また、これらの堆積地層年代は、新しい編年に置き換わりました。

野尻湖文化の石器
ナイフ形石器(4.3-4.0)
基部加工剥片(ナイフ状石器)
 上部野尻湖Ⅰ(3.9-3.3)
 中部野尻湖Ⅲ(4.1-3.3)
ヘラ型石器(4.9-4.0)
二次加工のある剥片
微細剥離痕のある剥片
微細剥離痕のある剥片
 154
スクレイパー スクレイパー
上部野尻湖層Ⅰ
石核 エンド・スクレイパー
サイド・スクレイパー
中部野尻湖層Ⅰ~Ⅲ
 155
錐器
下部野尻湖層ⅢA・B
中部野尻湖層Ⅰ
彫器
中部野尻湖層Ⅲ
上部野尻湖Ⅰ
クサビ形石器
下部ⅢB・中部Ⅰ・上部Ⅰ

 157骨器
野尻湖文化の骨器 野尻湖に骨器制作工房 野尻湖に骨器制作工房
国内て初の確認
骨製クリーパーの
出土状況
骨製クリーヴァー
(ナタ状骨器)
4組の接合骨器
旧石器時代の骨器制作址

 日本最古の骨器 (下部野尻湖層ⅢB 43000~40000y.B.P.)

最古の骨器 最古の骨器
骨製尖頭器
骨製ナイフ
骨製スクレイパー



中部野尻湖層Ⅰ
4,1000~3,9000y.b.p.
骨製クリーヴァー
ナタ状骨器
骨製基部加工剥片
 (ナイフ状骨器)
二次加工のある骨製剥片


 158象骨器
ナウマンゾウの骨製剥片
下部野尻湖ⅢA・B
(4.3-4.0)
下部野尻湖Ⅲ下部
(4.9-4.3)
スパイラル剥片
上部Ⅰ(3.9-3.3)
野尻湖層
剥ぎ取り標本
(下部ⅢB-上部Ⅰ)
骨器出土地点
(中部ⅠとⅡの境目)
 

 160A-6野尻湖人の生活風景

野尻湖人が、ゾウ狩りやシカ狩りをしていた頃は、最後の氷河期に当たります。野尻湖の周りには、今日では高い山に生えているチョウセンゴヨウコメツガなどの針葉樹やブナなどの広葉樹がまばらに広がっていました。また、湖畔の湿地には草が繁り、寒い所を好む昆虫が住み着いていました。
年平均気温は今より4~6℃低く、現在の北海道北部に似た気候だったと考えられます。

 161樹層
野尻湖人の生活風景

上に記述

オオシラビソ
チョウセンゴヨウ
コメツガ

ブナミズナラ
アカアシクワガタ

シラカバスモモ

スモモ・
オニグルミ
カラマツ

 162植物種子
ハシバミ種子 ブナ種子
野尻湖人のおやつ チョウセンゴヨウ
球果(マツボックリ)・種子
オニグルミ スモモ
果実・種子

 163昆虫化石
氷河時代の野尻湖には多くの昆虫がいました。化石で 見つかっている昆虫は、水生植物につくネクイハムシの仲間、オサムシゴミムシのような食肉性の昆虫、ガムシのような水生昆虫、オオマグソコガネのような糞を食べる昆虫、アカアシクワガタなどが見つかっています。
これらの昆虫化石から、氷河時代の野尻湖がどのような場所だったのか、時代ごとに詳しくわかってきました。

昆虫化石
上に記述
昆虫化石から推定される4.3万年前の古環境
下部野尻湖層Ⅲ最下部
現在よりやや涼しい
アカアシクワガタ
クロオサムシ
オオオサムシ
シロテンハナムグリ
ヒラタネクイハムシ オオミズクサハムシ
オオセンチコガネ
ガムシ
ドロハマキチョッキリ
セマルオオマグソコガネ
トガリシロオビサビカミキリ

 164昆虫化石
昆虫化石
写真撮れてません

アオカタビラオサムシ
ヨモギハムシ

 165植物化石
野尻湖層からは沢山の植物化石が発見されています。スモモの仲間やチョウセンゴヨウ、ツノハシバミ、モミ属、ツガ属、トウヒ属などの植物化石、
イバラモ属やヒルムシロ属などの水草化石も多く見つかっています。これらの植物化石から5万年前から1万年前の氷河時代の古環境が詳しく調べられています。

植物化石
上に記述
コブシ
ハンノキ
オニグルミ

 166糞化石
オオツノシカの糞化石 ヘラジカの糞

 167貝化石
野尻湖産の貝化石
マツカサガイ
マツカサガイ
中部野尻湖層Ⅰ
マツカサガイ
中部野尻湖層Ⅱ
マツカサガイ
中部野尻湖層Ⅲ
ゾウの糞
フチケマグソコガネ
縁毛馬糞黄金
イバラモ ヒメミズニラ マシジミ マツカサガイ マルタニシ

 168水
 ミツガシワ
氷河時代を代表する植物で、今でも関東以北の寒冷な地域や高地の湖沼に生えています。小さな白い花をたくさんつけ、2~3mmの小さな種子を作ります。この種子の化石がナウマンゾウの出る地層から多く産出します。氷河時代に繁栄して今は細々と生き残っているこのような生物のことを遺存種(レリック)と言います。
ミツガシワ
上に記述
ミツガシワ 今から4万年前の
アゼスゲヒラタネクイハムシアカガネオサムシヨシ

 169古地理
今から4万年前の野尻湖の形や周辺の植物を表したものです。太い黒線が当時の野尻湖の湖岸線で、細い黒線が今の野尻湖の湖岸線です。
発掘地は水うもの中に細く伸びた半島の根本にあたり、緑色はヨシなどの植物が生えていた水辺だったことを表しています。
周辺にはトウヒやツガ、ゴヨウマツなどの針葉樹や、ナラやブナ、スモモ、オニグルミなどの広葉樹が混じる林がありました。

野尻湖周辺の古地理図 野尻湖周辺の古地理図

上に記述
凡例
 

 170A-7蘇るナウマンゾウ


 171ナウマンゾウの進化
ナウマンゾウの名前 ナウマンゾウの特徴
ゾウの仲間の進化 ゾウの仲間の進化

 172象の頭蓋骨
外側に下がる形をした骨鼻口(こつびこう 鼻の付け根の穴)や、大きく盛り上がった切歯骨(牙のつく骨)が見られます。どちらもナウマンゾウの頭の大きな特徴です。ナウマンゾウの頭の骨は大変珍しく、野尻湖ではこの他にもう一つ見つかっているだけです。
※頭骨のような大きな骨が見つからないのは、頭蓋骨を割って中の脳みそを食べていたのでしょうね。だから見つかる方が不思議。
頭の骨が泥に沈んでしまったとかでしょうか。

ナウマンゾウ
頭の化石
頭蓋骨
ナウマンゾウの
頭の化石
頭蓋骨

上に記述

 アジアゾウの頭の骨(頭蓋)
アジアゾウ(32歳のメス)の頭の骨です。頭の形は、アジアゾウやアフリカゾウ、ナウマンゾウで違いますので、大変重要です。
ナウマンゾウの頭の化石と比べてみてください。

アジアゾウの頭の化石
頭蓋骨

上に記述
アジアゾウの頭蓋骨 アジアゾウの頭蓋骨

 173腰椎骨
ナウマンゾウの腰椎骨

 174背骨(胸椎)
ナウマンゾウの背骨は長い突起があり、後ろに大きく傾斜しています。これを組み立てると、背中の形がほかの象とは違っていることがわかってきました。

ナウマンゾウの背骨の化石
上に記述
 175
下顎骨

 176ナウマンゾウの牙化石
ゾウの牙には長さや太さのほかにも、曲がり方や尖り方、ねじれぐあいや輪切りにした時の形など、数多くの観察ポイントがあります。
ナウマンゾウの牙にはある程度のねじれが認められますが、その長さや太さはまちまちです。野尻湖からもこのような牙の化石が沢山見つかっています。

 四肢骨の化石
野尻湖ではナウマンゾウの前足の骨(上腕骨)や太ももの骨(大腿骨)がいくつも発見されています。とても重い牙を支えるために前足が大変頑丈です。

ナウマンゾウの牙の化石
上に記述

四肢骨の化石
上に記述
四肢骨
橈骨

 177肋骨
ナウマンゾウは大変大きく曲がった肋骨を持っていました。アフリカゾウは前の方に湾曲しており、アジアゾウは後ろの方に湾曲しています。
ナウマンゾウはこれらのゾウに比べて、前と後ろでその曲がり方に大きな違いはないようです。
※曖昧表現。ナウマンゾウの曲がり方がわからない。意味不明な表現です。
曲がり方に大きな違いはないとは、何と比べてなのか。アジア・アフリカゾウと比べてなのか、だったらどっち。
前と後ろでとは、前曲がりなのか後ろ曲がりなのか、肋骨の前の方と後ろの方なのか。
それともどちらにも曲がっていないという意味なのでしょうか。でも最初に大きく曲がったと書いている。

肋骨の化石
上に記述
肋骨

 178軸椎

 脛骨
ナウマンゾウの頸には人間と同じ7つの骨があります。重い頭を支えるために大変頑丈な頸の骨を持っていたことがわかります。

軸椎
  ナウマンゾウの頸椎
上に記述
 環椎 環椎  頸椎   
左肋骨 左肋骨 右肋骨
上腕骨・膝蓋骨 膝蓋骨・大腿骨 右座骨

 179頭骨
1971年3月に千葉県下総町猿山から発見されたナウマンゾウの頭の化石です。およそ23万年前の地層から産出されました。
日本では野尻湖で2つ、日本橋で1つ見つかっていますが、これほど完全な形で発見されたのは初めてです。実物は国立科学館蔵

※23万年前にはまだ野尻湖はありません。しかし、ナウマンゾウはすでにこの地で日本海側と太平洋側への回遊を行っていたのでしょうね。
そんな中での7万年前の黒姫山の山体崩落による古野尻湖の出現や、4万年前の噴火によって山頂が吹き飛んだりしても回遊は続きました。
しかし、その頃もこの辺りは湿地帯だったのでしょう。茨城~千葉には広大な湿地が広がり迷い込んだ二度と出られないような迷路でした。
黒姫山麓で死んだ象はヒョウやトラなどの肉食動物に食い荒らされても、肉の薄い頭部だけは、食い残され、沼の泥の中に沈んでいったのかもしれません。

 長野県の化石
ナウマンゾウ(主要産地:野尻湖)
ナウマンゾウは約35万年前~3万年前(中期~後期更新世)に日本列島に生息していた日本を代表する長鼻類です。野尻湖は絶滅期におけるナウマンゾウの生態が解明できる場所として注目されます。

ナウマンゾウの頭の化石 千葉県産出 ナウマンゾウの頭の化石
上に記述
正面視
特徴:頭頂隆起
側面視
鼻先が折れて転んでいた
長野県の化石
上に記述

 179a長野県天然記念物
   野尻湖産大型哺乳類化石群(ナウマンゾウ、ヤベオオツノシカ、ヘラジカ)が長野県天然記念物に指定されました。
 指定理由
 1948年に野尻湖湖岸で一つの象の臼歯化石が発見された。これをきっかけとして、野尻湖の動物化石は多くの人々の関心を集め、1962年から野尻湖発掘調査団により市民参加型の発掘が組織された。この発掘は開始から半世紀を経た今日も継続され2014年春には第20次発掘を迎えた。

 本物件は、野尻湖産大型哺乳類化石の中から、その性格と特色を体現する物を選抜した化石群である。構成は、ナウマンゾウ63点、ヤベオオツノジカ22点、ヘラジカ3点の計88点からなる。いずれも最終氷期の大型哺乳類の標本で、その量と質において、我が国の当該時期の大型哺乳類の生態を研究する上で貴重な物である。
 野尻湖産のナウマンゾウ化石は、30万年を超えるナウマンゾウの生息期間の内、4.8万~3.8万年前という特定時期のナウマンゾウの特徴を示す資料として学術上重要である。同時に、国内に存在するナウマンゾウ化石全体の中で、複数の頭蓋骨や国内最大の切歯(牙)、成長段階に応じた各種の臼歯が含まれるなど、ナウマンゾウの骨格や個体変異を研究するために欠かすことのできない標本群である。

また、野尻湖では、2万数千年前に絶滅したナウマンゾウと、縄文草創期(1万2千年前頃)の遺跡からも骨が出土しているヤベオオツノシカや現在も海外で生息狩るヘラジカの化石戸が共産していることも重要である。これらのうちヤベオオツノシカの掌状角とナウマンゾウの切歯が並んで発見された「月と星」は、野尻湖発掘を象徴する化石にもなったが、これらの化石の全ては1984年に開館した野尻湖ナウマンゾウ博物館に収蔵されており、その内の多くは常設展示で公開されている。

同館は野尻発掘調査団とは別の組織だが、開館以来積極的に野尻湖発掘に関り、その出土品や調査成果を適切に保存・管理している。同時にこの地域の考古学・歴史学に関する教育・研究センターとしても機能しており、同館に当該化石群が保存され、公開されることは、文化財の公開・活用上も意義深い。
このように当該化石群は、最終氷期の大型哺乳類研究にとって重要な資料であると同時に、現在も野尻湖で続けられている活発で裾野の広い考古学・古生物学研究を象徴するものと位置づけられる。
 当該化石群は、ナウマンゾウの特徴や形態の変化を研究する上で価値が高い。また、ヤベオオツノシカとヘラジカがナウマンゾウと共産することから、最終氷期の大型哺乳類の絶滅やその後の動向を探る上でも学術上重要である。
野尻湖産大型哺乳類化石群が長野県天然記念物に指定。
上に記述
長野県の石 長野県の石
としてナウマンゾウ化石が選ばれました。
黒曜石
和田峠付近で採れる天然ガラスは旧石器時代以降全国に流通した
ザクロ石 ザクロ石
和田峠産ザクロ石は流紋岩の中から産出し、マンガンに富んだ大粒できれいな結晶
ナウマンゾウ化石 ナウマンゾウは約35~3万年前(中期~後期更新世)に日本で生息していた長鼻類です。
野尻湖は絶滅期に於けるナウマンゾウの生息が解明できる場所として注目されています。
 

 180A-8野尻湖人の祈り

野尻湖人は氷河時代の厳しい自然に立ち向かった後期旧石器時代の人たちです。この頃の人類にとっては、食料が沢山取れるようにとか、
子孫が繁栄しますようにとか祈るおまじない(呪術)が生活の中で重要なものでした。
 第6次発掘調査で発見された「象牙の加工品」は、象牙の先端付近を中心部まで削り込んだものです。女性の腹部に似たふくらみやくびれがあることから、ヴィーナス像ではないかという見方もあります。

※皆さんよくご存じのように、象牙と言うのはとても固い素材です。満足な石器もなく、骨器しかない時代にとても硬質な象牙を削り、
 ビーナスを作るという高度で長時間にわたる作業を良くこなしたものです。この時代にもシャマンがいたのか、青年のビーナスへの憧れが成しえたものか、それともただ、偶然にこのような形になったのか。
 シベリアでは、マンモスの象牙に彫られたビーナス像が何体も見つかっています。

野尻湖人の祈り
上に記述
ビーナス?
 
 

 210B-1野尻湖の誕生


 211野尻湖の誕生
野尻湖の自然 琵琶島沖泥炭層 ボーリング調査によって、湖底から約34m掘ったところに泥炭層が見つかりました。
約9~7万年前に堆積したものと考えられます。

※野尻湖の形成以前から泥炭層が形成されていた。付近の黒姫山などの崩落や火砕流、岩屑なだれなどが堰止湖を形成していたものと思われる。

 211a野尻湖の形成

野尻湖の誕生

 ●野尻湖が大きな谷だった時代【約9万年前から7万年前まで】
約7万年前まで、今の野尻湖には大きな谷がありました。斑尾山から西に延びる谷で、その周辺には湿地が広がっていたと考えられています。この湿地に堆積した地層が琵琶島沖泥炭層です。野尻湖の湖底ボーリング調査で初めて明らかになりました。この谷を堰き止めるように、池尻岩屑なだれが流れたのです。
 ●野尻湖誕生の時代【約7万年前】
約7万年前、黒姫山の山腹辺りで大きな山崩れが起こり、信越本線沿いの谷を北へ流れ下りました
この池尻川岩屑なだれが今の野尻湖の位置にあった大きな谷を堰き止め、広い沼が生まれました。
これが野尻湖の誕生です。この沼地に最初にたまった地層が貫ノ木層で、細かい泥(シルト)や砂が堆積しました。
 ●現在の野尻湖ができた頃【約4万年前】
約4万年前には、黒姫火山が盛んに噴火をして火山灰やスコリア(黒い火山礫)をふらせていました。
火山活動に合わせて、貫ノ木から仲町にかけての地域が次第に盛り上がり始め、小高い丘陵ができました。この隆起によって湖は次第に水位をあげながら、いまの野尻湖の形ができてきたと考えられています。

 池尻川低地から野尻湖の地層断面
同一地域の平面図
 211b池尻川岩屑なだれ堆積物
約7万年前この地層が川を堰き止めて野尻湖を形成した。 池尻川岩屑なだれ堆積物
 

 212野尻湖形成時の古環境

野尻湖ができた頃の環境

 ●琵琶島沖泥炭層の時代 【スギが多く次第に寒くなっていった時代】
  9万年前
野尻湖が誕生する前の約9万年前には、泥炭層が堆積する湿地のような環境でした。
この時代の花粉化石を調べると、杉が非常に多いのが特徴で、コナラ属やクルミ属、モミ属などを伴いますが、次第に減ってゆき、氷期に向かって寒くなっていきました。
当時は雪や雨が多かったということが推定されます。

 ●貫ノ木層の時代 【最も寒く、雪も多かった時代】
  7万年前
野尻湖が誕生した約7万年前は貫ノ木層が堆積した時代で、、野尻湖の氷河時代のなかでもひどく寒かった時代です。
トウヒ属やモミ属、ツガ属などの花粉化石が多くなり、かなり寒くなったことが わかります。
このころから亜寒帯針葉樹林が姿をあらわしてきました。
しかし、スギが残っていたことから冬には一面雪に覆われていたことが考えられます。

 ●貫ノ木層から野尻湖層への時代【寒さがやわらいで乾燥していった時代】
  6万年前 (野尻湖にナウマンゾウが現れた時代。これから3万8000年前まで生息した)
6万年前を過ぎるとカラマツ属やカバノキ属の花粉化石が多く見られるようになります。
寒さが次第にやわらいで、冷涼な気候になってきました。
特徴的なのはカラマツが 多くなってくることです。
カラマツは乾燥に強い植物ですので、この時代は雨や雪が少なく次第に乾燥していったことがわかります。
この後、次第に降水量も増え、暖かくなっていくとナウマンゾウや野尻湖人たちが活躍する野尻湖文化の時代に入っていくことになります。
     

 212b氷河時代の植物・昆虫
氷河時代の植物・昆虫 アカアシクワガタ アカアシクワガタ アカガネオサムシ アカガネオサムシ シロテンハナムグリ
シロテンハナムグリ コナラ属 ヒシ属
イバラモ属
チョウセンゴヨウ ハシバミ
カラマツ
ヒメバラモミ
コメツガ
スモモ

 213さわってみよう
 ナウマンゾウ
ナウマンゾウの歯にさわってみましょう。野尻湖の化石はとても壊れやすいので、そっとさわって下さい。表面は堅くデコボコしていますね。手の掌を重ねたような形をしています。この1枚1枚のことを咬板と言います。
ナウマンゾウは何処で食べ物をかんでいるのでしょうか。前に平らなところがありますが、ここで上の歯と下の歯を擦り合わせて噛んでいるのです。
この嚙み合わせる面を咬合面といいます。この形がゾウによって異なっていますのでよく見て下さい。

 マンモスゾウ
これは、オランダから見つかった本物のマンモスゾウ(プリミゲニウスゾウ)の化石です。マンモスゾウはナウマンゾウとは違うゾウで、大きく曲がった牙と長い毛を持っています。シベリアなどでは氷漬けで見つかっています。
この嚙合せる面(咬合面)をナウマンゾウと比べてみてください。どのように違うでしょうか。ナウマンゾウに比べて細かいのがわかりますか。これは食べ物がナウマン象より柔らかい物を食べていたからだといわれいます。


上に記述
ナウマンゾウ
ナウマンゾウ
マンモスゾウ
マンモスゾウ






 石器石材
 石器に使われた石
これは、石器に使われた石で、緻密な溶岩です。無斑晶質安山岩といって、長野と新潟の県境の飯山市から津南町付近にあります。
表面に爪痕のような傷があるのでツメ石とも呼ばれています。
石器は石のハンマーで打ち欠いて作られますので、ガラスのように緻密で均質な岩石が適しています。黒曜石、安山岩、珪質頁岩、チャート
、玉髄(メノウ)などがよく使われた岩石です。
このような岩石は大変珍しく、大昔の人たちは遠くまで取りに行っていました。

石器に使われた石
上に記述
野尻湖に持ち込まれた石材
 珪質頁岩  津南町
 黒色頁岩  八風山
 無斑晶質安山岩  関田山地
 黒曜石  和田峠・霧ヶ峰・八ヶ岳
 蛇紋岩  糸魚川
 玉髄・碧玉  小谷
 松脂岩真珠岩  魚津
 213a
ナウマンゾウ第3大臼歯 上部野尻湖層Ⅰ(約3.3万年前)の本物のナウマンゾウ化石です。上顎第3大臼歯(上あごの奥歯)です。壊れやすいので優しくさわって下さい。噛む面は前にむいている方です。
マンモスゾウ第3大臼歯 オランダの北海海底から産出したものです。横向きにおいてありますが、噛む面は前にむいている方です。
ナウマンゾウと同じ上顎第3大臼歯(うわあごの奥歯)です。噛む面の形をナウマンゾウと比べて見て下さい。
無斑晶質安山岩 無斑晶質安山岩
ガラスの様に鋭く割れるので、石器の材料として旧石器時代にはよく使われた岩石です。割れ目をみると、敲かれた所から貝殻状の模様(リング)と縦の亀裂(フィッシャー)が見られます。

 関田山地産出

 214みてみよう
 花粉化石
ここでみられるのはトウヒ属の花粉化石です。今からおよそ3万年前の野尻湖層から見つかった物です。大きさはおよそ0.1mmあります。
花粉の膜は大変丈夫なため、数万年前の地層の中でも腐らずに残っています。これを地層の中から薬品を使って取り出し、顕微鏡でその花粉の種類や量を調べます。そうすると、今から4万年前にはどのような植物があって、どのような気候だったのかが推定できます。
こうして野尻湖人がどのような気候の中で暮らしていたのかがわかるのです。

 珪藻化石
珪藻とは、水の中に住んでいる0.2~0.01mm位の小さな植物プランクトンです。珪藻の殻はとても硬く、ガラスのようなケイ酸質でできているので、化石で残っているのです。
いろいろな種類があって、水の表面に浮いている種類や,底に沈んでいる種類、また水が流れているところを好む種類やよどんでいるところを好む種類などがあって、その種類を調べることによって、昔の野尻湖の水のようすがわかります。


見てみよう

上に記述
花粉化石
珪藻化石

 215やってみよう
 昔の地球の磁場を調べる
地球は大きな磁石になっていて、方位磁石が北にむくことは知っていますね。ところが今から約6万年前は、磁石の北が今の位置から
大きくずれた場所にあったことがわかってきました。
その頃に堆積した地層を採集してきて、昔の地磁気を調べると北の位置がずれていました。短い期間、地球の磁場に変化が起こることをエクスカーションといい、野尻湖で見つかった物を「野尻湖Ⅰエクスカーション」と言います。こうしてナウマンゾウのいた時代の地層の磁場を調べることによって、昔の地球の磁場の歴史がわかってきました。


昔の地球の磁場を調べる

上に記述
 

 217野尻湖10万年の歴史
    大変重要で、とても効率的にまとめられた図表です。
    これについては、ご自身で是非、御解明をお願いいたします。
野尻湖10万年の歴史


  野尻湖層の新区分
野尻湖ができたときから現在までに野尻湖に溜った地層を野尻湖層と言います。野尻湖層は右の図のように、地層がたまった時代毎に下位から
・貫ノ木シルト部層 (最下部)
・海端砂シルト部層
・立が鼻砂部層 
・芙蓉湖シルト部層 (最上部)
にと、さらに細かく区分されています。
従来、野尻湖層は左図のように下部・中部・上部の3つに区分されていました。
これらの区分は、研究が進み堆積環境などが詳しくわかってきたため、現在使われている区分に改められました。

野尻湖層の新旧区分

上に記述
 
 219顕微鏡で見た鉱物と化石
火山ガラス
長石・石英
かんらん石・磁鉄鉱
シソ輝石・普通輝石
黒雲母・角閃石
 


 220B-2埋もれた歴史

 221陸地の地層
 222陸地と湖底

 223湖底
 223a
 埋もれた歴史
これは実際の野尻湖発掘地層から剥ぎ取って来た本物の地層です。沢山の縞模様が見えます。上の方が新しい時代に堆積した地層で、下の方が古い時代の地層です。
黒姫火山や妙高火山の火山灰層が挟まっていて、その年代が詳しくわかっています。この地層の中からナウマンゾウの化石や野尻湖人の遺物が見つかっています。発掘するときは、地層をよく観察して、掘っている地層が何万年前の地層なのかをしっかり調べながら掘ることが大切です。

 湖底の地層
埋もれた地層
上に記述

 223b湖底地層詳細
アカスコ・ニセノミ ドライカレー ブレッチャーゾーン

 223c陸上地層詳細
ヌカⅠ火山灰AT層
上部野尻湖層
 ナウマンゾウ骨発見
 の上限
 野尻湖文化の終焉
中部野尻湖層
 黒姫火山の火山礫
 赤色なので赤スコ
キルサイトの状況証拠
 ゾウ狩場の証拠発見
下部野尻湖層Ⅲ(砂層)
 化石・遺物多数検出
縞模様はラミナ(葉理)
ナウマンゾウの足痕検出地層
ブレッチャーゾーン
5万年前の黒姫火山のゴルフボール大の焼けた火山礫層
 

 227湖底堆積物
3.9~1万年前

上部野尻湖層
4.1~3.9万年前
中部野尻湖層
4.1~3.9万年前中部野尻湖層 5~4.1万年前
下部野尻湖層Ⅲ
最下部~B・A
3.9~1万年前
上部野尻湖層
トウヒ属トウヒ
ツガ属コメツガ
モミ属モミ
トウヒ属・ツガ属・モミ属などは、針のように細い葉を持つ針葉樹です。現在は北海道に見られます。

また、野尻湖雌雄片では、黒姫山の標高1700mより高井所で見られます。
発掘地点の当時の地層からこれらの花粉が見つかると言うことは、
当時の野尻湖周辺が寒く厳しい気候だったと言うことを物語っています。
 4.1~3.9万年前
中部野尻湖層

マツ属五葉松類
 ゴヨウマツ
ナビクラ属
フラギラリア
写真はNaviculaはナビキュラ・ジエネフェルディーと言う珪藻です。
 あまり水の流れのない所に住みます。

写真はフラギラリア・ブレヴィストリアと言う珪藻です。
 広くて水深の深い所に住みます。
 4.1~3.9万年前
中部野尻湖層
コナラ亜属コナラ
クルミ属オニグルミ
コナラ属やクルミ属などは、広い葉を持ち、冬になると葉が落ちる落葉広葉樹の仲間で、冷涼な地域に見られます。
現在は東北地方から中部地方に掛けて分布し、また、また、黒姫山の標高1200m~1600mの所にも見られます。
これらの花粉が見つかることから、当時の野尻湖が現在よりやや寒い気候だったと推定できます。
 5~4.1万年前
下部野尻湖層Ⅲ
最下部~B・A
キクロテラ
タベラリア
エピテミア
・キクロテア・オセラータという珪藻です。湖の岸から近い所に住みます。
・タベラリア・フェネストラータと言う珪藻です。この珪藻が沢山見つかると当時の野尻湖葉小さくて浅い池や沼のような状態だったことが分かります。
・エピテミア・ソレークスと言う珪藻です。水野流れが少ない所に住みます。

 228ナウマンゾウの足跡 4万5000年前
第11次発掘で、世界で初めてナウマンゾウの足跡化石が確認されました。爪の形もはっきりわかります。この化石は、およそ4.5万年前に野尻湖の湖岸を歩いていたようすを生き生きと復元できる貴重な資料です。

ナウマンゾウの足跡 粉アズキ火山灰層上面の窪み(象の足痕)
象の歩き方
ナウマンゾウの
足跡化石
 

 229月と星
この三日月のようなナウマンゾウの牙(切歯)と手のひらを広げたようなオオツノシカの掌状角は、第5次発掘で寄り添った状態で発見されたものです。
その形と美しい並びかたから、「月と星」と呼ばれるようになりました。ところで掌状角の一辺は直線的に断ち切られたような形をしていることからも、これらの化石は「野尻湖人」がなにかの願いを込めて並べたものではないかと考えられています。

月と星
 

 230B-3ナウマンゾウ時代の動物

野尻湖以外では、見つかった地層の時代は様々ですが、
ニホンザルオオカミタヌキツキノワグマアナグマの仲間、ヒョウトラヘラジカバイソンオーロックスといった動物の化石がナウマンゾウと一緒に発見されています。
 (※この時代にはまだこれらの動物が生存しており、ナウマンゾウ同様、野尻湖人の狩猟対象だったようです。)

これらの動物たちはいつどのように日本列島に来たのでしょうか。ナウマンゾウと同じく、いくつかの動物は次第に日本から姿を消していきましたが、この理由についてもまだわかっていません。野尻湖で是非この謎を解明したいですね。


 231ナウマンゾウ時代の動物
ナウマンゾウ時代の
動物
ネズミ・モグラの仲間

アズマモグラ
ニホンモグラジネズミ、 シントウトガリネズミ、
ニホンムカシヤチネズミ、 ニホンムカシハタネズミ
ヤマネ、 アカネズミ
ウシ・シカの仲間

シベリアジャコウジカ、 ヤベオオツノシカ、 ヘラジカ、 ニホンムカシジカ
オーロックス、 ステップバイソン
サル・ウサギ・イヌの仲間

ニホンザル、 ノウサギ
タヌキ、 オオカミ、 
ヒグマ、 ツキノワグマ、 クズウアナグマ
ヒョウ、 トラ


 ヤベオオツノシカの化石
ヤベオオツノシカの化石は、野尻湖ではナウマンゾウの次に多く産出します。大きな角とそれを支える太い枝角(角幹かくかん)が特徴です。角の根本がどのくらい離れているかが重要な所で、それがわかる化石が第9次発掘(1984)で発見され、それをもとにAコーナーの復元がされました。

ヤベオオツノシカの化石 掌状角破片 左眉枝
左右前頭骨+角幹

 ノウサギの仲間の化石
第9次発掘の時に、中部野尻湖層Ⅱ(約4万年前)から産出されました。左足のスネの骨(脛骨)の化石です。日本からはノウサギの仲間の化石が、中期更新世(約10万年前)の地層から見つかっています。皆さんがよく見るイエウサギより耳がやや小さく、足が長いのが特徴です。

ノウサギ
左脛骨
ノウサギの仲間の化石

 232オオツノシカの化石
右角幹+角座骨+角座
右掌状角
オオツノシカの化石 下顎骨

 233ニホンジカの化石骨
野尻湖からは、オオツノシカの他にニホンジカの化石も見つかっています。角の化石のほかに、臼歯や足首の化石も見つかりました。ニホンジカは、今でも日本にいますが、中国や朝鮮半島、台湾などにも生息しています。エゾシカやホンシュウジカ、ツシマジカ、ヤクシカなどはみんなニホンジカの仲間です。

ニホンジカの化石

 ヒグマの化石
第5次発掘(1973)のおり、ヒグマの腰骨(寛骨)が発見されました。下部野尻湖層Ⅲ(約4.3万年前)から産出しました。大きさから19歳前後の雄のヒグマで、体長は2m位あったと考えられています。ヒグマは現在、日本では北海道にしか生息していませんが、氷河時代には本州にもいたことがわかっています。

ヒグマの化石

 234鳥類

 235顕微鏡で見た化石
 ナウマンゾウの化石
ナウマンゾウの化石を薄く切って、顕微鏡で観察してみると、大変面白い模様が見られます。
歯の中でもっとも硬い処をエナメル質と言います。最近の研究でこのエナメル質の基本構造である柱状のエナメル小柱(幅7ミクロンくらい)の断面の形が、ゾウの種類によって違うことがわかってきました。
ナウマンゾウの場合は下の写真にあるような、細かいイチョウのような葉の形をしています。アフリカゾウの場合は大きくアーチのような形をしています。これはおそらく歯の発達状態が異なることとゾウによって食べ物が違うことなどが関連しているものと考えられています。

 ヒシクイの化石
第5次発掘の時に、中部野尻湖層(約4万年前)の地層から発見されました。大型のガンやカモの仲間の足首の骨だと推定され、その大きさからヒシクイと考えられています。ヒシクイはユーラシア大陸北部の寒い地域で繁殖し、冬に日本に渡ってきます。もしかすると、氷河時代の野尻湖でヒシクイが群をなして繁殖していたかもしれません。

 カワウの化石
第7次発掘の時に中部野尻湖層(約4万年前)の地層から発見されました。カワウの上腕骨で、比較的若いカワウであろうと推定されています。
カワウはユーラシア大陸やアメリカなどで繁殖し、本州でも一部繁殖しているところが残っています。水かきを使い、水に潜って長いくちばしで魚を獲ります。湖の近くの木の上で集団で巣を作ります。野尻湖の周りにもかつてはカワウの集団が繁殖していたのでしょうか。

 ヤマドリの化石
第7次発掘の時に発見されました。地層は不明です。左り腕の骨(尺骨)の化石で、今いるヤマドリよりやや曲がっていて、、細いという特徴があります。ヤマドリは、日本列島の特産腫で、キジの仲間です。黒姫山麓の林には今もすんでおり、地面に降りて餌を食べます。雄には立派な尾がとても目立ちます。

顕微鏡で見た化石
ヒシクイの化石 カワウの化石 ヤマドリの化石

 236げっ歯類の化石
ネズミの化石としては、野尻湖からはハタネズミの仲間とヒメネズミの化石が発見されています。このうちヒメネズミの化石は、第9次発掘の時に上部野尻湖層Ⅰ(約3.3万年前)の地層から発見されました。時代が明らかな地層から見つかったネズミの化石としては初めての物です。ヒメネズミは森林を好む動物です。
ネズミの仲間の化石


 トリの足跡
火山灰層の上に水かきのあるトリの足跡化石が発見されました。昔の生き物が生活していた跡の化石を生痕化石と言います。
トリの足の化石
 


 240B-4ゾウ狩りの遺跡


 241野尻湖人の暮らし
野尻湖は、氷河時代の人々がゾウ狩りをしていた場所であったことが、大勢の人たちによる発掘で明らかになりました。
野尻湖人は、どんな暮らしをしていたのでしょうか。

ゾウ狩りの遺跡

 242キルサイト
野尻湖の底には、大量の動物化石が埋もれています。それらの骨は、ばらばら状態ですが、中にはナウマンゾウの肋骨や足の骨など、1頭分の骨が集中しているところもあります。これらに混じって、人間の作った道具が発見されています。
肋骨群や頭骨の周りは、ナウマンゾウ狩りをして、解体した所だと考えられています。このような遺跡を、キルサイト(kill site)と言いますが、日本では大変珍しいものです。

キルサイト 中部野尻湖層Ⅰにおける化石と遺物の分布 キルサイトの出土物
骨製基部加工剥片
ナイフ状骨器
ナウマンゾウ頭骨と
木質遺物
ナウマンゾウ肋骨群

 243骨器づくり 約4万年前
 Ⅰ区B・C-8・9グリッド付近には、沢山のナウマンゾウの肋骨と一緒に、ゾウの骨を打ち砕いて作った骨器や剥片が発見されました。この中に破片同士が接合するものが含まれていました。これを調べた結果、解体した象の骨を材料として、この場所で骨器を作っていたことがわかりました。これらは中部野尻湖層Ⅰの上部に含まれていたので、約四万年前の物と考えられます。

※ナウマンゾウを解体しながら、その場で、必要となった道具を、解体中のゾウ骨から作って使用していたようです。すごい。臨機応変。
 3.5万年以降の新人は、沢山の石器をあらかじめ用意して、解体現場でいろんな道具を使ったようですが、これは大変ですね。よほど暇でなければ。
 その場にある新鮮な骨で、その場に応じて作れば、削器だ、掻器だ、と区別しなくても、必要な形を作って使い、その場で捨てれば清潔である。 

骨器づくり 骨器ができるまで  ※下の画像を表示する時には、
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ナウマンゾウの解体
解体の際に、肋骨の根元部分を礫で叩いて割ったと見られる骨。

骨の剥離

骨髄を食べたり、骨器を作るために割られた骨です。割れ目が螺旋状に入ることからスパイラル剥片の名が付きました。

骨器の製作

大きな骨の剥片を材料に鋭い剥片が割られています。骨器を作る素材と成るだけでなく、このままナイフのように使った物もあります。

完成した骨器

骨の剥片を材料にまわりを加工して、骨角器が仕上げられました。
骨製クリーヴァー
第10次発掘で出土したこの骨角器は、動物の解体など、に使われたナタ状の道具です。
周りは丁寧な加工で形を整え、刃先は平らで尖っていました。。
G9グリッド周辺の接合資料
 
 

 244野尻湖文化 約5~3万年前 旧人の文化

ナウマンゾウの骨を加工した立派な骨器や小型の石器に特徴付けられる文化を、野尻湖文化とよんでいます。
野尻湖文化は約5~3万年前頃の中期旧石器時代の末期にあたり、ネアンデルタール人(旧人)の終り頃と考えられています。
野尻湖(文化に)は石器だけでなく、骨や木の遺物が多くあり、当時の人々の生活のようすを復元することができる日本では稀な遺跡です。

野尻湖文化 野尻湖文化 野尻湖底から出土した主な石器と骨器

 ※表によると、野尻湖文化は5万年前~3.3万年前の骨角器と小型の少数の石器を使用した、旧人・ネアンデルタール人の文化である。
  気候は寒さがやや緩み、ヤベオオツノシカやナウマンゾウがいた頃である。
  3.3万年前、ナイフ形石器文化の新人ホモサピエンスが野尻湖ナウマンゾウランドに押し寄せ、一気に象や鹿の食用動物を絶滅させ、
  その狩猟に頼っていた旧人も絶滅させた。 ように見える。

  ※野尻湖にナウマンゾウがいたのは3.8万年前まで。私は誤解している箇所があるかもしれません。

 

※資料 旧人 「日本の歴史一列島創世記」松木武彦 によると、
「東南アジアや東アジアには、ホモ・エレクトゥス直径のジャワ原人や北京原人の流れを引き、典型的な握り斧を持たない別系統の旧人たちがいたらしい。」という。これらが「アフリカ・ヨーロッパ・アジア各地でそれぞれに進化したのが約25~15万年前」と言っている。
また、この頃の旧人は、アジアでもルヴァロワ技法を用いて石器を製作する技術を獲得していた。

ヒトが日本列島に上陸したのは、「一つは25~10万年前」に旧人が北可能性。
 「もう一つは、おそらく5万年よりも後、西から来たホモサピエンスがアジア系旧人を圧倒しながら広がり、初めて列島に達した可能性だ。」

※旧人がアジアに拡散し各地で独自の進化を遂げた時代に列島にも達した可能性を指摘している。
これは、岩手県金取遺跡(8-9万年前)を意識してのことである。金取り遺跡ではハンドアックスが出土している。 
群馬県岩宿遺跡は日本で最初に名乗りをあげた旧石器時代遺跡として有名だが3万年前の遺跡。新人による旧石器遺跡である。
従って、ホモ・エレクトゥス以来の握槌・握斧は、単に似たものとしてのハンドアックス石器が出土している。

しかし、後から来たホモサピエンスが、先住民の「アジア系旧人を圧倒しながら広が」ったというくだりは、縄文時代末期に縄文人を、それこそ圧倒しながら侵攻してきた朝鮮半島人の様相と同じである。また、いうならば、旧石器時代末期にシベリアから細石刃文化人が南下し、北海道西海岸には上陸できず、本州日本海側を南下しながら、各地に植民して太平洋側へ進出していったとき、それまでいた在来の旧石器人を駆逐しながら拡散していった事とよく似ている。

※資料 ナウマンゾウハンター
 「日本の歴史一列島創世記」松木武彦 によると、
「野尻湖立ヶ鼻湖底のナウマンゾウ・オオツノジカの骨は約4万~3万3千年前の人々が湿地に追い込んで殺したものと言われている。」
「この時代のこの季節に人々が求めた、最大の食料源だった。ナウマンゾウ一頭の重さは4~5t。シカやイノシシならば何十頭分にもあたる。
延べ数千人分にもわたる膨大な食料は多くの人々に分けられ、干し肉に加工されただろう。(抜粋)」

 ※これだけのゾウ肉だけで一年を暮せるのか?と思ってしまうが、エスキモーの暮らしを思い起こせば、四季折々の食料獲得があり、
  大型獣の季節が終わると、人々は大量の干し肉を背負ってそれぞれのキャンプサイトへ帰って行ったことでしょう。
  狩猟採集生活では近接して暮らすと食料の奪い合いになるので離れて暮していたことでしょう。

「動物資源も豊かだったが、冷温帯の森で採れるクルミやハシバミ(ヘーゼルナッツ類)などの堅果類、ヤマブドウなどの果実もあったに違いない。」
※それに山菜類を採っては干して乾燥させていたのかもしれません。

 黒澤明監督の「デルスウザーラ」と言う映画がある。シベリアでの猟師と将校の探検物語だが、寒冷地における生活の一端を想起させる。


 245割られた骨

※考察 割られた骨
 骨を割るのは骨髄を取り出して食べるため。割って得た骨片を道具に利用するため。
後に炉のような石を並べた跡が見えるので、肉は干し肉にしていたのでしょう。燻製跡は見つからない。アラスカでは凍結乾燥が主流。
食べる時には干し肉を石で叩いて、小川の水に何日も晒していたか、焼いて食べたのでしょう。
解体場キルサイトで解体と同時に骨を打ち割るのは生で骨髄を食したからなのかもしれない。
骨髄を干すと、棒ゼラチンやニカワのようになって、叩いても、焼いても食べられなかったと思います。

イスラエルテルアビブ大学の調査と研究で、骨髄は骨の中に入ったままで、約9週間保存できたとあります。
寒冷地の野尻湖ではもっと長く保存できたでしょうが、重い骨を遠方まで持ち帰ることは出来ないので、狩猟の季節が終わるまでの冬の食糧だったと思います。
※長野県北相木村立博物館の資料では、縄文時代初期の岩陰遺跡の調査結果では、獣肉を焼いた痕跡は少なく、ほとんどが生食されていたようです。私は盛んに「焼いて」を使っていますが、これは正しくないかもしれません。しかし、新潟県村上市では、干した鮭肉を、金づちで叩いて柔らかくして、更に熱を通さないとなかなかそのままでは食べられないのです。また、北海道では鮭を細長く切った干物を酒のツマミに売っていますが、そのままでは歯が立ちません。焼くと食べられます。旧石器人はどんな工夫をして食べたのでしょう。仮に無理をして木のような干し肉をかじっていたとすると、歯の健康寿命は短く、早死にしたでしょう。

人為的に割られたナウマンゾウの骨
下部野尻湖層ⅢB4・Ⅲ
スパイラル剥片
下部ⅢB
骨を割ると自然にスパイラルに割れる。人為的な行為の証拠
人為的に割られたヤベオオツノシカの骨
左:中部野尻湖層
右:上部野尻湖層Ⅰ

同一反復
スパイラル剥片
オオツノシカ
下部ⅢB
スパイラル剥片
ナウマン右第9肋骨
中部Ⅰ

 246傷つけられた骨

 246a解体痕のある骨
    ※動物を解体し、骨から肉をはずす時にはどうしても刃物で骨をこすってしまいます。
人為的な傷のある骨 解体痕のある骨 線条痕と切断痕のある掌状角
下部ⅢB1

頭骨と分離するために角を切断。脳髄は食したか。
解体痕のある骨
下部ⅢB3

肋骨下部に鋭い切削痕

 246b礫石器 約5~3万年前の道具

骨製剥片(骨角器か)
骨のコアと剥片の接合資料
(骨格から作り出した道具か)
スパイラル剥片 (ただの割れた骨)

中部Ⅰ
オオツノシカ角製剥片
二次加工のある骨製剥片
※剥片は骨・角製のナイフだったのか
上246aの解体痕のナイフ状の傷を付けた道具は何だったのか

下部B1、中部Ⅰ
ハンマーストーン
(骨の加工に使用)
石製道具
槍状木器
中部野尻湖層Ⅰ
(刺突具か)

 246c水晶・礫石器 (中部Ⅰ?、下部Ⅲ最下部、下部ⅢB1)
野尻湖層からは稀に水晶が出土しています。これらが自然の条件で野尻湖に紛れ込んだのか、あるいは人類が目的を持って持ち込んだものなのか、まだ解明されていません。
  
水晶  ※長い年月に渡って持ち込まれ続けていた。が、小さな水晶粒なので、珍しいものとして持ち込んだのだろうか。

産地はどこだろう
 北相木村竜王第2鉱山とあるが、
 先史時代に川上村から産出していてと記憶している

 礫石器
礫器or 礫片
下部層下部
礫器
立が鼻 表面採集
礫器or 礫片
仲町遺跡 下部Ⅲ
 



 247野尻湖層の石器 旧人段階


 247a下部野尻湖層Ⅲ・下部 約4.8万~4.3万年前
スクレイパー
彫器
・微細剥離痕のある剥片
 (使用された剥片)
・剥片

 247b下部野尻湖層A-B 約4.3~4.1万年前

スクレイパー、彫器 剥片、石核

 247c中部野尻湖層の石器 約4.1万年~3.9万年前  ※3.9万年前までナウマンゾウがいた
クサビ形石器 二次加工のある剥片 錐器
    スクレイパー  微細剥離痕のある剥片
(使用された剥片)
 
縦長剥片  石核 
剥片 彫器

 247d上部野尻湖層Ⅰ 約3.9~3.3万年前  ※この時代からは大型鹿が生き残っていた
スクレイパー 縦長剥片
微細剥離痕のある剥片 剥片 石核

 247e上部野尻湖層相当 約3.0万年前 仲町遺跡・スコリア質砂礫層から出土した剥片石器
    ※この時期周囲の火山が噴火したことがわかる。縦に並んだ火山妙高山黒姫山飯綱山
石核
基部加工剥片(ナイフ状石器)
へら形石器
スクレイパー
 
 
 
 


 248石器の見方


 248a石器の見方
金属の刃物が使われる前、人々は石の刃物(石器)を使っていました。石器と石ころにはどんな違いがあるのでしょう。石器の見方をご紹介します。

 石器を見るポイントは2つ
  ➀材料の石材
石器は刃物ですので、鋭く割れるガラスのような性質の石が材料になります。このような石が採れる場所は少なく、旧石器時代の人々は良質の石を求め、産地へ採りに行ったと考えられています。路ばたに落ちている石を石材に石器を造ることは難しいのです。

  ②割られた面の特徴
石器作りでは、川原の石や鹿の角などのハンマーで素材の石を割りますが、その割れ口に人が割った特徴が残されています。

石器の見方 石器の見方 石器を見るポイント

 248b➀材料の石器 石材の産地と野尻湖
石器の材料(石材)は、鋭く割れるガラスのような性質の石が採れる場所(産地)から使われる場所(消費地)へ運ばれました。
野尻湖の周辺からは石器の材料になる石(石材)が採れるところはありません。ここで見つかる石器は遠くの石材産地から運ばれてきているのです。

➀材料の石 石材の産地と野尻湖
珪質頁岩  津南町・関川村
黒色頁岩  八風山・鏑川上流
無斑晶質安山岩  関田山地
黒曜石  和田峠・霧ヶ峰・八ヶ岳
下呂石  下呂湯ヶ峯

関連213

 248c石器石材
黒曜石
光沢を持ったガラス質の火山岩で、溶岩や火山の噴出物が冷えて固まってできた天然ガラスでの岩石。
黒色のものが多いが、灰色や赤色のものもあり、薄い所は透き通って見える。
  無斑晶質安山岩  安山岩はドロドロに溶けたマグマが火山活動で噴き出すなどして、
地表近くで固まって出来た火山外の一種。

通常は斜長石や角閃石などの鉱物が大きな粒(斑晶)として含まれるが、
斑晶をほとんど含まないもの(無斑晶質安山岩)は全体にガラス質。
本来は黒色だが、風化すると灰色になる。
  下呂石
 
デイサイトは主に石英と斜長石からなる火山岩であるが、
デイサイト:マグマが急速に冷えてできた岩石のうち、やや白っぽい石。
シリカをやや多く含み、鉄やマグネシウムはやや少ないという 特徴がある。
流理と呼ばれる縞模様が見られることがある。 )

下呂石は鉱物の大きな粒(斑晶)を含まず、全体にガラス質。
岐阜県下呂地方でのみ産出する。
本来は黒色だが、風化すると鈍い光沢をもつ灰色になる。 
  珪質頁岩
 
頁岩は、泥やシルトなどの細かい粒子が積もって固まった堆積岩で、
特にシリカ(SiO2)に富むものを珪質頁岩という。
チョコレート色や黄土色をしたものが多い。
  チャート
 
シリカ(SiO2)の殻を持った放散虫(動物プランクトン)の死骸か海底に溜るなどしてできた堆積岩。
含まれる不純物により、灰色、青色、緑色、赤色、黒色などに見える。
玉髄
石英の非常に細かい結晶が網目状(繊維状)に集まった鉱物。
黄色や茶色で半透明のものが多い。
特に縞模様のあるものがメノウ。

 248d②割られた面の特徴
  遺跡名:吹野原A遺跡 長野県上水内郡信濃町大字古間字吹野
  石材 :黒曜石
  時代 :旧石器時代

人が石を割る場合、ハンマーを叩きつけた場所(打点)に点的な強い力が加わります。打点から伝わった衝撃の広がりは波紋のような模様(リング)
になり、また、石の縁からは打点に向かう線(フィッシャー)ができます。打点のすぐ下には膨らみ(バルブ)ができます。
リング、フィッシャー、バルブなどが みられるのが石器の特徴と言えます。

②割られた面の特徴 解説模式図と実物

 いろいろな石器
ナイフ形石器 尖頭器
掻器 スクレイパー 彫器
錐器
   剥片を素材とし、剥片の鋭い縁辺を刃部として用い、ほかの部分は細かい加工をして整形し、一端を尖らせた石器。
切る、又は、刺す道具。
 素材の全周を加工して、先端を尖らせた石器。左右対称のものが多く、木葉形をしているものが多い。
ヤリの先端として使われた道具。
 剥片を素材とし、その末端に急角度の加工で弧状の分厚い刃部を作り出した石器。
獣皮の脂肪を掻き取る道具
彫刻刀ともいう。
剥片を素材とし、その末端部に溝状の刃(彫刻刀面)をもつ石器。
骨や木に溝を彫る道具。 
剥片を素材とし、その一部に短く尖らせる加工をした石器。
穴をあける道具
 
 


  ホモサピエンスの時代 新人の時代


 249貫ノ木遺跡の5号礫群 (およそ17,000~15,000年前)
この礫群は、こぶし大の大きさの20個の石が、円形に並んでいます。この中には、焼けて赤くなった石や黒色のシミが付いた石があります。
割れている赤い石は、焚火の中で熱を受けて割れたものと思われます。焼いた石を使って、肉などの石や木料理をしていたのではないでしょうか。
この礫群は、一般的なものと違い、円形に置かれたように見えることから、炉の跡だった可能性もあります。

貫ノ木遺跡の礫群 5号礫群
 


 250B-5ナウマンハンターの末裔Ⅰ
 3万年前以降の遺跡群の発生
約3万年前より新しくなると、野尻湖の周りには大変多くの遺跡が遺され、大量の石器が見つかっています。
日本各地の旧石器文化との関わりもわかってきました。
ナウマンゾウがいなくなった後も、ここは全国から人々が集まる重要な場所であったようです。


※考察 姶良カルデラの噴火 2.9万年前
 気候が2万年前の最寒冷期に向かっていく矢先、2.9万年前に鹿児島湾の海底火山、姶良カルデラが大噴火を起し、九州から東日本にかけての広範囲に大規模な被害を与えた。野尻湖における被害の程度は不明だが、南・中九州、四国では絶滅。北部~中国地方では降灰のため生活が困難となったことでしょう。自然環境の回復には、数百年時間を要したことでしょう。

 このような時期に、大型獣を絶滅させた旧石器人たちが、分散して生活するはずだのに、野尻湖の周囲に集まり、沢山の遺跡が発生し、独自の文化が築かれたのには、何らかの理由があったのだろう。それがAT火山灰の降下であったかどうかはわからない。
 もしAT火山灰の降下が原因なら、西日本から大量の人々が東を目指して移住し、一次的に分散する地域がなくなったのかもしれません。


B-5ナウマンハンターの末裔Ⅰ

 251野尻湖の周りの遺跡
野尻湖の北西岸から南方の丘陵地帯には、南北7km東西5kmの中に、旧石器時代から縄文時代草創期までの41か所の遺跡が分布しています。
これらを総称して野尻湖遺跡群と呼んでいます。近年高速道路建設などに伴う発掘調査が増え、この遺跡群の研究は全国的な注目を集めています。
野尻湖周辺では、縄文時代の中頃以降、遺跡数が著しく減りますが、平安時代から後になると、また遺跡が多くなります。

野尻湖周辺の遺跡分布図
 251a
北西部 松ヶ崎
姥帰りB
琵琶島
川久保
杉久保
立が鼻
海端
神山北
神山B
小丸山
向神殿
清明台
仲町
狐久保
砂間
南西部 神山A
神山C
照月台
貫ノ木
西岡A
西岡B
水穂A
大久保南
上ノ原
緑ヶ丘
小丸山公園
東裏
南部
伊勢見山
裏の山
大平B
大平A
日向林B
七つ栗
柳原
陣場
清水東
吹野原A
吹野原B
丸谷地
大道下
星光山荘
 
引用
URBAN KUBOTA35-05


※疑問 ホモサピエンスの居住遺跡群
大型動物が消え、食料獲得に何の魅力もなくなったはずの野尻湖周辺に多数、というか、当時としては膨大な数の遺跡群が点在することは、
大型獣に代わる食料獲得の重要な資源なければならないと思います。
しかし、特に交換材としての石器石材の産地でもなく、寒冷な湖には冬場に飛来する鳥類以外には漁業資源も少なく、
仮にいつの日にか現れるかもしれないという「伝説のナウマンゾウ」を期待して何世代にもわたって人々が住み続けられるはずもなく、
なぜこの地に多くの新人型旧石器人が住み続けられたのかは想像もつかない。

 

 252石器の移り変わり 新人段階
旧石器時代は、おもな道具が 石器だったので、石器の種類や形の変化によって、時代や文化の内容が調べられています。
後期旧石器時代の石器を代表するのはナイフ形石器です。

約3万年前から2万5千年頃には、刃先の一部を磨いた局部磨製石斧と台形の形をしたナイフ形石器(台形様石器)が多く使われ、
約1万5千年前から1万年頃には槍先の尖頭器が多く使われました。
野尻湖遺跡群は、1ヶ所で中期旧石器時代から後期旧石器時代の石器の移り変わりを調べることができる重要な地域です。

石器の移り変わり
旧石器時代の主な石器の変遷
縄文草創期文化↑ (1.2~1.0万年前) 石鏃・尖頭器
・後期旧石器時代 (1.3~1.2万年前) 神子柴文化
・後期旧石器時代 (1.4~1.2万年前) 細石刃 
・後期旧石器時代 (2~0.8万年前) 尖頭器
・後期旧石器時代 (3~1.4万年前) ナイフ形石器 
・後期旧石器時代  (3~2.4万年前) 局部磨製石斧 
ナイフ形石器文化↑
・中期旧石器時代  (~約3万年前) 両面加工石器 
野尻湖文化↓ 

10~3.3万年前 4.0~2.4万年前 3.3~1.4万年前 2.0~1.0万年前 1.4万年前~現代
1.4万年前~現代
 
 


  260B-5ナウマンハンターの末裔1

 261 石器の変遷 3万年以降、ホモサピエンスの時代

※野尻湖では3.3万年前に、新人型旧石器人が流入し、進んだ石器で大型哺乳類を狩りつくして絶滅させ、よって旧人による野尻湖文化は終焉した。
ここでは、新人型旧石器人(ホモサピエンス)の石器文化の変遷をたどる。

展示全景 3万~1.5万年前


  3万年前 黒色帯
   ※黒色土は腐敗植物を含む地層で、野尻湖ではやがて黄褐色土(火山由来の土壌かと)が混じる地層となる。
ナイフ形石器
貫ノ木遺跡
ナイフ形石器・石刃
仲町遺跡
3~3.5万年前
ナイフ形石器
西岡B遺跡
局部磨製石斧 上ノ原遺跡の
砥石と石斧未成品
仲町・西岡B

 ※縄文時代の貫ノ木遺跡からは、15,500年前の土器を発見したとあります。(長く継続していたという意味です。)
 
※考察 局部磨製石斧
 3万年前のこの時期、新人の到来とともに現れる局部磨製石斧(4-3万年前)について考古学者松木武彦は(日本の歴史1列島創世記)の中で、
<大意>
従来から考古学者を悩ませた説明のつかない石斧で、やむなく動物解体で使った手斧だろうと言うことになっているが、大型動物の絶滅前に消滅する。その時期は最終氷期の前であり、大型動物の絶滅以前である。この「解体用斧」説は現実と乖離している。

 そこで、この局部磨製石斧の本来の使用目的は農耕具ではなかったのかと考える。
小規模な農耕や根菜の採集に使っていたが、最終氷期を前に気候の激しい温暖化・寒冷化などの不安定化が繰り返して進み、農耕が不可能となり、やむなく、旧石器人は狩猟のみに生命を預けたのではないかという。


 262 2.6万年前 上部野尻湖層Ⅱ最下部
石刃(清明台)
ナイフ形石
清明台遺跡・貫ノ木遺跡
上ノ原遺跡

 263 2.0万年前 上部野尻湖層Ⅱ下部
ナイフ形石器 照月台
貫ノ木遺跡
石核、彫器
ラウンド・スクレイパー
スクレイパー


 264久保系石器 2.0~1.5万年前  杉久保遺跡は野尻湖北岸にある杉久保型ナイフ形石器の標識遺跡である。
   ※最寒冷期
上ノ原遺跡
杉久保型ナイフ形石器
ナイフ形石器
上ノ原
ナイフ形石器
上ノ原
石刃
上ノ原
彫器
上ノ原遺跡
神山型彫器
2.0~1.5万年前
上ノ原遺跡は
杉久保系文化

 杉久保系文化=杉久保系石器群とは、
杉久保型ナイフ形石器と神山型彫器と言う定型石器が共伴する石器群を指す。 神山型彫器(文化財オンライン)
          ※神山遺跡(新潟県津南町下船渡甲23000年前)
  杉久保石器群は ➀杉久保型ナイフ形石器を持つ、②神山型彫器をもつ、③中形の刃器(石刃)を持つ、
④杉久保型ナイフ形石器・神山型彫器は刃器を素材とする。と定義されている。 
  引用

杉久保系石器群の広がり 佐 藤 悠 登 - 早稲田大学リポジトリ



 265 1.5万年前 上部野尻湖層Ⅱ上部 瀬戸内系石器群
ナイフ形石器
仲町・東裏・上ノ原
スクレイパー(上ノ原)

 ※瀬戸内系石器群とは瀬戸内技法による国府型ナイフ形石器である。
   瀬戸内地方では2.5~2.0万年頃の横長剥片素材のナイフ形石器である。

 瀬戸内型石器群   資料引用 第Ⅳ章国府型石器群の伝播形成過程
瀬戸内技法
国府型石器の製作
国府型ナイフ形石器と
国府系ナイフ形石器

 瀬戸内系石器群の分布  資料引用 第Ⅳ章国府型石器群の伝播形成過程 1.5万年前
  横長剥片石器の東進分布は、瀬戸内の後期旧石器人が東へ南へと移動していった様子をあからさまに伝えています。
国府系石器群の分布 北陸~東北
日本海側
関東~東海
太平洋側
近畿・中四国 九州

 266茂呂型 1.5万年以降 茂呂系石器群  茂呂遺跡東京都板橋区小茂根5-17

 茂呂型ナイフ形石器(縦型石刃の側縁と反対側基部への刃潰し加工-主に関東、中部地方南部、東海に分布wikipedia
 ※九州型と同じである。南方系の石器である。(九州よりはるか南から丸木舟で来た海洋民が、九州・東海・関東に漂着)
ナイフ形石器・石刃
仲町、伊勢見山
仲町・ナイフ形石器
伊勢見山・ナイフ形 石刃
仲町、伊勢見山
彫器
仲町、伊勢見山
スクレイパー
仲町、伊勢見山

 267尖頭器(旧石器時代~弥生時代) 

上ノ原遺跡
尖頭器
スクレイパー
 268現代
刃器
彫器
削器
 
 
 
 ナウマンハンターの末裔2

 

 270杉久保文化 杉久保遺跡 長野県上水内郡信濃町野尻37−2

杉久保遺跡は、野尻湖北岸の町営駐車場の下にある遺跡です。地元の故池田寅之助氏が、戦前から湖底で採集していた石器を、1953年に現地を訪れた芹沢長介氏と麻生優氏が杉久保型ナイフ形石器と名付け、旧石器時代のものであることを明らかにしました。
これと同じタイプの石器は、東北日本の日本海側に分布しています。
約2万年前の後期旧石器時代の後半になると、全国で5地域の文化圏ができました。

杉久保文化

 271氷河時代 最寒冷期約2.1万年~1.7万年前、最終氷期の終了約1万年前


※資料 旧石器時代後半の5つの文化圏 引用「日本の歴史1列島創世記」松木武彦
<要約>
 氷河期で隔絶され、道具に地方差が生まれたが「機能の差」ではなく、「形や技法の違い」の発生が重要である。
地方色発生の原因は、複雑で熟練を要する石器製作工程が、地方毎に枝分かれして行き、集団が交流する中で、世代を経て伝承されたものである。
この集団の交流範囲が、北海道、東北~中部地方北部、関東、近畿~瀬戸内、九州であった。これらの地方では石器・木器・骨器なども共通であったろうし、また、言葉や習慣、身振り、様々な生活技術も共通していたのだろうと考えられる。このようにして地方文化が形成されそれを共有する仲間意識が育成された。

旧石器時代後半の
5つの文化圏
北海道
東北・北陸の日本海側
関東・東海の太平洋側
瀬戸内
九州


 氷河時代
約3万年前の上部野尻湖層の上半部には、モミ属、ツガ属、トウヒ属の花粉化石が大変多く含まれ、落葉広葉樹の花粉はほとんど姿を消しています。
このことから、コメツガやヒメバラモミなどの現在では高い山に生える木が、この地域に広がっていたと推定されます。
この時代は、今よりはるかに寒く野尻湖の歴史の中で最も寒い気候だった様です。その後、気候は次第に暖かくなっていきました。


氷河時代 氷河時代 高度による植生の変化 約2万年前同様の植生 現在の植生 垂直移動と水平移動

 274杉久保遺跡の石器

 275杉久保遺跡A地点緊急発掘の石器 町営駐車場
1966年の駐車場建設に伴う発掘では、主に杉久保A式Ⅰ群に属する大形~中型の石刃や彫器などが多くまとまって発見されました。
杉久保文化はナイフ形石器の数倍の量の彫器(彫刻刀)が伴うこと、スクレイパーが極めて少ないことなどが、この文化の特徴となっています。
この特徴は、この発掘によって明らかになりました。

杉久保遺跡A地点緊急発掘の石器
杉久保遺跡の発掘

彫器 ナイフ形石器
館の方も名付けに困っておられるのかもしれません。 石刃
ナイフ形石器
 276杉久保遺跡の石器
1962、63年の第1次、代2次発掘で、杉久保の石器が3段階に分かれることが明らかになりました。ここにある石器は、それまでに実測図が公表されていたもので、1984年7月、博物館開館時に森島稔先生より町に寄贈されたものです。

彫器 彫器 神山型彫器 ナイフ形石器
杉久保型ナイフ形石器は3点のみ
 
※考察 狩猟用石器の変化と狩猟法
疑問
杉久保文化では、なぜ、獲物を仕留め、肉を切り取るナイフ形石器と、生皮から脂肪を掻き取るスクレイパーの需要が減ったのだろう。
逆に、彫器の需要が高まったのはなぜだろう、何に使ったんだろう。

最寒冷期の到来
杉久保文化の2万~1.5万年は最終氷期の最も寒冷な時期であった。人も動物も食べ物がなくなり、暖かい南へ移動していった時期だろう。
にもかかわらず、極寒の地域に頑張り続ける野尻湖人にとっては大変なピンチであっただろう。
巨獣が消えた後の獲物は小型動物であったため、大きな刃器は不要となり、大きな動物の皮剥ぎや脂肪掻きは減ったので掻器も需要が減った。
するとどうなる?

小動物の捕獲
小型動物はワナでしか捕らえられないから、彫器で木を削って仕掛け罠を多数作って仕掛けたため、石器の数と種類に変化があったのではないだろうか。
仕掛け罠は北方民族の伝統的な猟法で(「北方狩猟民族の考古学」佐藤宏之)、日本でもオソウッチョウの名で知られている。
これは現代の仕掛け罠とよく似ている。違うところは、上に多量の石を乗せておき、中に入った動物が仕掛けに触れるとワナが崩れて石の重みで圧死するようになっている。新潟県村上市三面では、クマオソという名で近代まで使われていたし、その他の地域でも使われていた。

このような仕掛けは捕獲したい動物の大きさに応じて規模が異なり、また、魚釣りで言う「向こう合わせ」、動物が気まぐれで入ってくれるのを待つ猟であるため、沢山作って、気長に、、何カ月も、年をまたいでも待たねばならないため、多数の仕掛けが作られただろう。
そして罠にかかった獲物は、仕掛けの特性により、圧死するので、ナウマンハンターのような勇敢な猟師はいらず、死んで凍った獲物をさばくだけの小型の刃物と、小動物の少ない脂は大きなスクレイパーを用いずとも楽に落とせただろう。
小型動物は手足の防寒具にはちょうど良いが、肉は、、、臭い。
 
最寒冷期の杉久保遺跡では、気候と生物環境に合わせた生活が繰り広げられ、厳しい寒さを生き抜いたのではないかと想像します。


 三面の博物館は、次回か次々回に揚げられると思っています。ご期待ください。


 275a狩猟ワナ    図・写真引用「北方狩猟民族の考古学」佐藤宏之 北方新書(北海道出版企画センター)
 ※佐藤宏之氏は考古学者でロシア・シベリアに留学し、北方民族の調査研究を行いました。
  その中で、日本の狩猟ワナと共通するものがあり、本書の中で紹介されています。

秋田阿仁ウッチョウ

三面のクマオソと似た構造ですが、阿仁マタギの呼び名と異なり、伝播の系統が違うのかと思います。
秋田阿仁のヒラオトシ

平落としは和語で和人の命名のようです
三面 のクマオソ

三面博物館の展示物より複雑で大仕掛けです。カモシカ用アオオソやムジナオソ、など多種多様だった。
アキビラの構造
ヒラは秋田阿仁マタギの呼び名。小動物捕獲用ワナ。冬のウサギ用はフユビラ
沢内村では 阿仁などの旅マタギがよく宿をとっでい ... 罠猟(アキビラ)は沿海州の先住民、ウデヘ族のドゥイにそっくりらしいで
リンク

罠猟
アキビラ(復元)

現代の狩猟ワナはセンサーとスマホで監視して、動物が入れば映像が届き、猟師が良いタイミングでスマホから電動で扉を落とすが、
この頃は、動物の動作によってワナが崩れ、圧死するタイプなので、仕掛けが作動し重石が落ちるまでの時間差が捕獲の成功率を挙げるコツでした。
ですから、仕掛けの天井の高さが低ければ捕獲率が上がり、高ければ、より大型動物が捕獲できるようです。

すると、多様な仕掛けを野山に無数に仕掛け、ヒトのにおいが残らないよう日程の間隔をあけて見回る必要があり、自然に落下したり、
動物が小型過ぎて逃げられたりしたものなどは、頻繁に作り直すと言うメンテナンスの必要があったでしょう。
こうなると必然的に道具は切ったり削ったりするものが増え、捕まるのは小動物のため、獣肉が多く手に入らず、必然的に罠が多数必要となり、
刃の欠けやすい石器では、ますます木材加工具としての彫器が増えることになったでしょう。

ただし、これは最寒冷期の寒冷地では、大型動物が少ないという前提です。もし餌もない深い雪の中に、沢山の動物が走り回っていたのならこれは間違いです。
 
 

 280B-5ナウマンハンターの末裔3

 281
ナウマンハンターの
末裔
日本旧石器時代
芹沢長介
野尻湖発見のナイフ 北信野尻湖底の
無土器文化
 

 282杉久保遺跡の石器(寄贈品)
杉久保型ナイフ形石器の特徴
杉久保型ナイフはスラリとした縦長剝片の鋭い両側縁を生かし、両端を尖らせた石器、
茂呂型ナイフは、縦長剝片を中途で斜めに折り、鋭い一側縁を生かし三辺を刃潰して整形した石器
国府型ナイフは、素材のサヌカイトの特性で〝横剝ぎ〟による翼状剝片を整形した石器
  引用高根沢頂図書館/高根沢町史

杉久保型ナイフ形石器 石刃 石刃
彫器 スクレイパー 尖頭器 杉久保遺跡の石器
 283杉久保遺跡の石器 (寄贈品)
石刃
ナイフ形石器 スクレイパー
ナイフ形石器
 


 284細石器文化の石器 仲町遺跡
    細石刃文化と共に尖頭器も製作・使用されていた。
  引用「日本の歴史1列島創世記松木武彦」
※細石器文化
…1万7、8000年に近づいてくると、最小の石材から出来る限りの道具を作り出そうとする、細石刃と言う新しい石器作りの技法が各地に現れる…
幅1cmにも満たない微小な石の刃を木の柄に彫った溝に植え込んで使った…、柄の形と並べ方次第でナイフにも槍にもなる大変便利な組み合わせ道具だ。その道具作りの合理性と究極までに洗練された技術にはホモサピエンスの物質文化の真髄を見る思いがする。
寒冷化によって四季の獲物や植物の恵みを追って頻繁に居を移す遊動性の高い生活が一般化した…
機動性と柔軟性とを最大限に追求した細石刃の手法は、遊動の多い生活に適応して発達してきた技術とみられる。
この細石刃文化人は青森県産の黒曜石製石器を携えて数百㎞南の岡山県恩原遺跡までやって来た。

※しかし、彼らはそれ以前にシベリアから千キロもの道のりを遊動してきたのだ。

石核
樅ヶ崎遺跡
旧石器時代末
細石核
仲町遺跡
尖頭器 細石器の使用例と実験的に製作された細石刃と細石核 植刃器
スクレイパー
 285向新田遺跡
細石核 細石刃 尖頭器
スクレイパー
石刃

細石刃の文化圏
 ・クサビ形細石刃核荒屋型彫器を伴う・・・・北関東+新潟以北(北海道を含む)
 ・半円錐形細石刃核・・・・・関東+北陸+中部+近畿+中四国・九州
 ・クサビ形細石刃核荒屋型彫器を伴わない・・・・・九州+四国と山口県の西端部+朝鮮半島
   引用「日本人の源流を探して
 

※考察 尖頭器 
尖頭器の出現
 4万年前の旧人段階では盛んにナウマンゾウを捕獲殺傷している。しかし、使われた道具は粗末な骨器である。
本ベージ最上部にあげた尖頭器はずっと後の時代のものである。当時の石を投げればナウマンゾウに当たる的な状況の中では、狙った成人象を大声や投石などで脅して沼地に追い込み身動きが採れない状態にしておいて、弱ったところで骨器の鋭利な部分で仕留めていたのかもしれない。
いや、それほど深く心臓まで突き刺さる刃物はなかったのだろう。衰弱死、を待っていたのかもしれない。

 3.5万年前の新人の登場で、新人特有の道具と知恵で、大型獣(鹿)は効率的に殺され、数は激減し、確実に仕留める必要が出てくると、
殺傷専用具、尖頭器が出現する。

尖頭器の進化
 上の写真284④の尖頭器は実に粗末な作りである。285④になると、少し形が向上し、殺傷力も高まったのかもしれない。
 そして、下写真286⑤「神子柴型尖頭器」では見事に美しい形を持つことになる。
 
 人類の進化と石器  引用参考文献「日本の歴史一列島創世記」松木武彦
これについて松木武彦氏は
260万年前にアフリカで初期の握斧オルドワン石器が出現し、
60万年前アシューレ(リ)アン石器がアフリカ・ヨーロッパ・西アジアに広がった。これは特に精製された、左右対称形の美しい握斧が含まれ、人類の美意識や「凝り」が芽生え、個性的な表現が見て取れる。しかし、これは実用の要の程度を越え「認知的誘因性を追求した産物」であるという。

25~15万年前、握り斧にかわり、ヨーロッパで良く発見される尖頭器が登場する。複雑な過程を踏んで作られるルヴァロワ技法の尖頭器
ネアンデルタール人やアジア系原人の末裔にも受け継がれた。このような複雑な情報を共有することは旧人段階での大きな進歩である。

15万年前にホモ・ハイデルベルゲンシスから出たホモ・サピエンスは、旧人よりも更に緻密な道具を作り、科学と経験的知識を織り込んだ高度な物づくりを行い、美の物質的表現も更に顕著になった。

ホモサピエンスの物質文化の最大の特徴と言われるのが、「象徴的器物」であり、偶像や絵画・装身具など実用性を持たないものの創造であり、架空の存在や超自然の力(紙や精霊)を信じることである。
 

 美しい尖頭器
    お詫び。うまく抜粋できないので、私が参考文献を勝手にまとめて書いています。私見が一部入っているかもしれません。
2万年前以降になると中部・関東・東北に木の葉形の尖頭器が出現する。従来のナイフ形石器は狩猟・解体・加工の万能型だが、尖頭器は柄を付けて突き刺すだけの狩猟に特化した石器だ。これは減少する狩猟動物を確実に仕留めるための技術革新だ。やがて万能型石器は小型化し消滅する。

更に、尖頭器の中には細かい調整剥離を繰り返し、左右対象の大型の精製品が登場する。機能よりも視覚に訴える、何らかの社会的メッセージを発信した人工物だ。これは減少する大型獣を捕える行為が特別視され、その狩猟を象徴する狩猟具さえも特別な、象徴的なものとして精製の尖頭器が作られたのではないだろうか。(※尖頭器の象徴化。大きく美しい、神がかった尖頭器が大型獣の狩猟を守護するもの、守り神のような…)
 
 旧石器人の移動
旧石器人は食糧動物を追っての移動生活と言われている。それは、片道百数十キロに及ぶ定期的遊動説もあれば、狭い領域内を巡回する説もある。
細石刃文化は少量の資源を合理的・有効に使う、機動性・柔軟性に富んだ寒冷地適応した人々で、1万7、8千年に近づく頃に温暖化によって日々の糧を得るために遊動性の高い生活が一般化したのだろう。
 

 神子柴形石器
1万7、8000~1万5、6000年前、温暖化はさらに加速し、列島の森には落葉樹林が広がり、海水面が上昇し、対馬海峡から暖流が流れ込み、黒潮も勢いを増し、瀬戸内海が誕生し、旧石器人の生活環境は大きく変わった。

石斧と石槍は、(1万7、8千年前~1万5、6千年前)に列島の広い範囲で見られるようになる。
石斧は局部磨製石斧だが、
石槍は細かい打ち欠きによる、驚くほど薄く大きく左右対称に仕上げられていて、究極の精製品である。神子柴形石器長者久保・神子柴型石器
東日本を中心に分布するが西日本では鹿児島県帖地遺跡からも出土している。国立九州博物館でも大型のものを展示していました。

神子柴型石器は、先に見た精製品の尖頭器同様、特別な意味を込めて作られたものだろうが、遂に実用性を越え、壊れやすい、見るためだけのものになってしまった。そして、これらは、一ヵ所に集めて埋納された。まるで、大型動物の狩猟に神がかり的な象徴として登場していたものが、遂に大型獣が絶滅すると、大地の神に捧げる埋納儀式を行って、埋め置かれた、神聖なもののように見える。
青森県長者久保遺跡でも、山間に大量の神子柴形石器が埋納されていた。

 再び旧石器人の移動
神子柴形石器を出土する遺跡には無土器と有土器の遺跡がある。これは、有土器の神子柴文化人が遊動した痕跡である。旅程1日程の距離にいくつかのキャンプ地を持っていて、ベースキャンプの食料資源が少なくなると、次のキャンプ地に移動して資源の復活を待つのだ。これによって土器の破片が出るベースキャンプとそうでないキャンプが出現する。
精製型の尖頭器を作るには大きな石材を何種類も用意し、長い時間を掛けて作らなければならず、長い距離を移動することはできない。
従って、石斧・尖頭器文化の人々は近距離の巡回型移動で、細石刃文化の人々は、長距離の移動を主としたようだ。
 

 286神子柴文化の石器 1.3~1.2万年前


撮影失敗
読み取り不能
重要な資料だった
神子柴型尖頭器
海端遺跡
石斧
立が鼻遺跡
小丸山遺跡
旧石器時代末
砂間遺 旧石器末
七ツ栗遺跡 1.3万年前
砂間遺跡 旧石器末 局部磨製石斧
砂間遺跡
スクレイパー
砂間遺跡
スクレイパー
砂間遺跡
尖頭器、石刃
砂間遺跡
旧石器時代末
七ツ栗遺跡の石器
神子柴型石器
1.3万年前
 
 
 


  縄文時代草創期

 287草創期の遺物
スクレイパー
局部磨製石斧
狐窪遺跡
旧石器末
剥片、石核
尖頭器
狐窪遺跡
旧石器末
縄文時代草創期
隆起線文土器
仲町遺跡
 288仲町遺跡1号2号土壙
有茎尖頭器
尖頭器
石鏃・彫器・爪形文土器
スクレイパー 矢柄研磨器
有溝と砥石


 289縄文時代早期の遺物 琵琶島遺跡  琵琶島遺跡wiki

石斧、石鏃
押型文土器 押型文土器
 
 
 


 310C-1野尻湖の自然と利用


 311野尻湖の自然と人々の暮らし
 311a
野尻湖は岬が多く、形が芙蓉の葉に似ていることから芙蓉湖とも呼ばれている美しい湖です。人間がゾウ狩りの場として利用した氷河時代から現在までの長い歴史があります。周りにはクリやコナラなどの落葉広葉樹林が分布し、多雪地帯に特徴的な植物や野鳥なども見られ、豊かな自然を残しています。そのため、大正時代からは外国人の避暑地としても利用されてきました。

野尻湖の自然と人々の暮らし 野尻湖周辺の様子
植物
ユキツバキ
カタクリ
ショウジョウバカマ
動物 イタチ・タヌキ
ノウサギ
アナグマ
ムササビ
キツネ
リス・テン
カヤネズミ
ヒミズ
ツキノワグマ
  昔の様子
明治末~大正初期 
 大正時代の穴釣り      

 311b野尻湖の水利
野尻湖の水は、江戸時代に新潟の高田平野まで、中江用水が引かれ、今も灌漑用水として使われています。
1934(昭和9)年には日本で初めての季節的な揚水式発電所が作られ、発電にも利用されるようになりました。
このため、冬は水位が3m近くも下がり、湖岸が干上がるので野尻湖の発掘ができるのです。また、長野市民の飲料水としても利用されています。

野尻湖の水利 夏の野尻湖 冬の野尻湖 冬には水面が約3m低下する
 

 312湖周辺地形

堰止湖となったのは郵便局+博物館の辺りですね。そして、遺跡も豊富

旧石器時代終末期に湖南岸に次々と新しい文化を持った集団が住み着くようになる。何故

日本で最後まで大型獣がいた噂がいつまでも人々を呼び込んだのか

何が新人ホモサピエンスを惹き付けたのかわからない。
湖周辺の名山
地図左下は長野市

 313野尻湖の魚 
   野尻湖はコクチバスとソウギョの密放流により、大変な被害を受けています。
カラスガイ・イシガイ ワカサギ コクチバス
在来種を食べ尽す魚だが、臭くて食用不可
日本で最初に放流したのは平成天皇
ソウギョ
この外来種のために水草がなくなり、在来魚の産卵場所がなくなった
中華材料だが臭い。
野尻湖のソウギョを釣り上げると高額の報奨金が頂けるそうです。
 315空から見た発掘
 

 316丸木舟 平安時代
  ※近現代まで日本各地で、淡水・海水の両域で一木造りの丸木舟が使われており、縄文時代(旧石器時代からか)の技術が続いていた。

 317出土丸木舟
一本の大木の内部を刳り抜いて作られた舟を丸木舟と言います。展示の丸木舟は、1927(昭和2)年に野尻湖の東岸で見つかりました。
年代測定で平安時代中頃の約1000年前の結果が出ました。
野尻湖の仲町遺跡では、平安時代の住居跡が見つかり、そこでは、網につけるおもり(土錘)が8点出土しています。
平安時代の人々は丸木舟に乗り、網で魚を取っていたのでしょうか。

 仲町遺跡の土錘
漁撈をする網に付けた土製のおもりを土錘と言います。仲町遺跡では地面を掘り窪めて造られた竪穴住居址から、溝の付いたものと管状のものの2種類が出ました。当時野尻湖にいたと考えられるウグイ、フナなどを採っていたのではないでしょうか。

野尻湖出土の丸木舟
上に記述
遺跡分布 仲町遺跡の土錘
上に記述
仲町遺跡の土錘
平安時代の住居跡 土師器のお椀と土錘 第6回陸上発掘の様子

 318漁業
野尻湖の漁業は明治時代から発達しました。天然の魚類が少なかったため、マス・コイ・ウナギなどを放流しました。更にヒメマス・ワカサギなどを放流して漁獲量を増やしました。 このコイはきっと外来魚、中国原産でしょうかな。


野尻湖の漁業

上に記述
採卵の様子 投網 つづ
(多数の方言名あり)
 319さわってみよう
本物の臼歯です
 

 320C-2野尻湖発掘の歩み

 321
 322発掘の歴史を語る化石・遺物
化石発見第1号
大腿骨
最初に発見されたナウマンゾウ臼歯 初めて見つかった石器
旧石器の破片
 323野尻湖関連の書籍、教科書
 324楽しい野尻湖発掘
 

 330C-3広がる発掘の輪

 331
4万年前の野尻湖の復元 野尻湖友の会 発掘は2年に一度
 332博物館の学習会
博物館の学習会
 333石器作り
石器づくり
 336野尻湖友の会の活動
北関東野尻湖友の会 実験製作の石器 会報
静岡野尻湖友の会
会報
土器の製作
野尻湖人
静岡友の会
 
 

 540五千年前の信濃町で発見
縄文前期土器の底部からアンギンの圧痕が見つかった。
 541アンギン
5000年前の布
静岡で発見
県内最古の布跡 編布圧痕土器の特徴

圧痕を型押しした粘土
編布圧痕土器 市道遺跡
縄文前期諸磯b式併行
信濃町大井字市道
大変珍しい縄文の布
博物館機関紙
 542縄文衣をつくってみよう
縄文衣をつくってみよう 実験製作の案郡
 543アンギン圧痕土器の底部
アンギン圧痕の土器底部 製作のアンギン
 
 600その他
 601ミュージアムショップ
かつての倉庫はミュージアムショップになっていました。間仕切りの向こうには、館長が誰かとずっと世間話をしていました。
絵は大変な力作です。

立が鼻遺跡周辺と 発掘の成果を描いた 間仕切りでした。 大変凄い力作です 感心しました。
玄関も整えられました
 
 

 602黒姫童話館
せっかく来たので近所の観光施設をと尋ねたら、黒姫童話館と一茶記念館をご案内いただき、奇麗だというので童話館を訪ねました。
長野県は教育県。こんな不便で遠い山の上の童話館にも、女性が一杯。うちの近所だったら三日で閉館するでしょう。さすが長野だと思いました。

長い旅行に来て、景色も見ずに遺物の写真ばかりを撮っていたので、本当にすがすがしい気分になりました。黒姫・妙高などなど色々見えました

 
 

 603上越高田駅
 上越妙高から新潟市へ行くのに、直通特急列車をは凄く高い。 バスだと2000円程で、更に交通系ICカードを使うと1700円程になったと記憶。
所要時間はなんと同じなのです。
えっ?特急を使わなかったらどうかって?。ここは私鉄とJRを乗り継がないと行けないので、膨大な時間を消費します。

新潟県は新潟駅を拠点とする高速バス網が発達しています。新潟市と地方を結ぶ路線に限られます。(例:長岡と地方は結んでいない。)

 旧脇野田駅が新幹線の駅となって田圃の中に出来た上越妙高駅は上越市の中心街ではなく、江戸時代から続く高田市が拠点都市であり、
経済・交通・政治の中心でもあります。新潟市へは高田駅からバスが出ます

高田平野の中心都市
高田駅前

とってもいい感じの街です。

ただし、新幹線の駅のために拠点機能を喪失しすでに斜陽です。

駅前は新しくよく整備されているが、古い駅舎や狭い駅前広場の昔をしのばせるデザインです。

 606新潟のホテル Hotelジュラクステイ新潟 025-249-8100
goto travelで一日3000円程で3・4日泊まりました。洗濯機も電子レンジも空気清浄機もズボンプレッサーも、なんでも揃った凄い部屋でした。
感激しました。

ツインをsingle料金で ここは新潟のホテル街ラブホから高級まで密集している テレビもおっきい 第一、部屋が広~い 普段は壁に引っ掛けるだけの衣服も引き戸に大きな姿見まで
バスも広い 洗濯機と電子レンジ付 空気清浄機にズボンプレッサーもある 快適なホテルライフで
極楽でした。