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 新潟の縄文 12 2020.09.28-5

  牧歴史民俗資料館 新潟県上越市牧区宮口1483-1 (牧歴史民俗資料館025-533-5117 通常無人)
   (旧牧村) 平日土日祝開館 だが、連絡すると平日でも開館していただける。撮影可
  
  牧歴史民俗資料館は常時無人です。館への連絡はここを管理している
  牧区総合事務所教育・文化グループ、電話025-533-5141に見学を依頼すること。
  電話025-533-5117は牧歴史民俗資料館ですが、平日は無人です。掛けても応答不可です。
  そして、忘れずに、周囲三か所にある古墳群を(館員にお聞きして)撮影すること。

交通 レンタカー
特徴 終末期の多数の古墳群
被葬者の人物について思いをはせたい、膨大な量の古墳群である。なぜここに。なぜこんなに。
 




400国指定史跡古墳群
406周辺の古墳群
401宮口古墳群
405水科古墳群

01資料館入口展示
02上越地方の文化財
03高田平野東部の古墳群
04菅原古墳群出土品
06上越地方の歴史年表

私見 上越地方とナウマンゾウ
08上越考古学
110日本海側北辺の後期群集墳
120菅原古墳群
121panel
123菅原古墳群の出土物
125北方古墳群出土品
140高士古墳群
143高士古墳群の出土品
160水科古墳群
163水科古墳群出土品
165水科古墳群19・24号墳
171水科古墳群21・30号墳
172発掘状況
174水科古墳群出土品

180新潟県内の古墳
181平野西部から平野東部へ
182宮口古墳群3・4号墳
190上越考古学会
200宮口古墳群
202宮口古墳群等の出土品
230古墳公園配置図
 金銅装円頭大刀
233宮口古墳群の石室形態
234アスファルト塗り小玉
237宮口古墳群出土品
250頸城古墳群から越後国府へ
260宮口古墳群第11号墳
262無袖型横穴式石室
270高田平野の古墳群
 

 400国指定史跡古墳群 7世紀 古墳時代後期

※牧歴史民俗資料館について
牧歴史民俗資料館は、高田平野北部に多数あった、合併前の村々が作ったいくつかの資料館のうちの一つです。
その多くは上越市との合併により次々と閉鎖され、収蔵資料も行方不明となっています。
上越市が力を入れているのは、中世春日山の展示。これを売り出そうと大変な力点をおいているようです。

上越市埋蔵文化財センターでは中世武士や女性のふん装をした人が沢山いました。屋内展示は中世春日山関連遺物のみで、
肝心の先史時代考古資料は直射日光のあたる、ひどい環境に置かれています。
多くの博物館でフラッシュを焚くなと言われますが、ここでは収蔵品に日光があたっています。no flashは全くの嘘だとよくわかります。
上越市立博物館は中世武士一辺倒。地方資料の宝庫であるはずの博物館と、発掘の要である埋文がほんのわずかな期間に過ぎない
中世春日山遺跡だけに力を入れ、他の考古資料は日ざらしになっている。

長野県の駒ケ根市の様に、博物館の資料を倉庫に押し込んで、貸会場にしてしまった所もありますから、物の価値がわからない人たちも多い。
これはまるで、岸壁に掘られた摩崖仏の、顔を切り落とし、次にダイナマイトで爆破して喜ぶ、外国の武装組織に似た振る舞いではないか。
こんな所業で文化財保護法の西進は守れるのだろうか。

そのような中で唯一残っている旧牧村立資料館ですから、是非沢山の人に利用していただきたいと深く願わずにはいられません。
多くの訪問者が訪れることが、大切な館を存続させる最も確実な方法だと思います。。

 406周辺の古墳群
一帯は広大な農地が広がる山間地で、典型的な後期古墳、小規模円墳の群集する地域である。よく削平を免れたものや、復元されたものもある。
しかし、すでに消滅してしまった古墳群も沢山あり、それは館内の資料を見ることで明らかとなります。

館周辺の古墳群 宮口古墳群
水科古墳群
菅原古墳
塚之宮古墳
観音平古墳群
天神堂古墳群
万五郎古墳群
宮口古墳群
水科古墳群
菅原古墳
水科古墳群 宮口古墳群 菅原古墳
 

 401宮口古墳群
新潟県南部、頸城平野の東縁にあたる牧村宮口地内、八幡堂丘陵上とその北東に展開する扇状地上に営まれて31基の後期古墳である。
これらの古墳に比較的規模の近似した墳丘、石室からなり、石室は川原石積みの側室を持ち、床面の敷石や羨道閉塞の状態をよく保存している。
この古墳群は墳丘の規模、石室の規模、形態、更に出土した副葬品から7世紀頃に造営されたものと考えられる。
日本海沿岸北部に於ける顕著な古墳時代後期の群集墳として極めて重要なものである。

 405史跡水科古墳群
頸城平野の東端に所在する飯田川の東岸扇状地上に営まれた後期古墳群である。約1haに34基の横穴式石室古墳が群集している。
全て墳丘上部が削平されていたが、大部分が円墳であったことが確認されている。
横穴式の石室は川原石を積んで作られており、規模は
大規模(全長8.6m幅0.9m)のもの、
中規模(全長3.5m幅0.8〜0.9m)、
小規模(全長1〜1.3m幅0.3m〜0.5m)のものと三群に分けることができる。

本古墳群は墳丘基底部の構造をよくとどめており、石室床面の敷石、羨道の閉塞などの実際をよく伝え、日本海沿岸北部の重要な古墳群というばかりでなく、その群の構造内容からは、この地域の動向を具体的に伺うことができる貴重なものである。

史跡水科古墳群
水科古墳群の整備

 水科第30号墳
 この古墳の石室は、長さ1.06m、幅0.3mで、横穴式の極めて小さいものですが、石室の石の積み方や床石の敷き方などは、他の大きな古墳と全く同じです。しかし、遺物は全く見つかっていません。
 このような小さな古墳は全国的にも群馬県や兵庫県に2・3基発見されているだけでの貴重なものです。
 なお現在の墳丘は石室を観察できるように規模を大形にしたものです。

第30号墳
 
 
 
 
 
 
 01資料館入口展示
牧歴史民俗資料館 館内全景 入口展示 宇津の俣関跡の柱根 宇津の俣関跡の柱根
詳細不明
宇津の俣は旧牧村宇津の俣温泉の所在地で、こんなところに関所が何のためにあったのか、脚注なしのため不明です。
 02上越地方の文化財
 03高田平野東部の古墳群
宇津の俣関所跡の柱根掘立柱で傾き防止に土埋部の横穴に横木を通している。こんな山深い所で通行・逃散を監視していたのか。何があったのだろうか。 上越市の古墳群
高田平野南東山裾に小円墳群が沢山あったようですが、現在では多くが破壊消滅したようです
高田平野東部の古墳群
水吉古墳水科古墳群宮口古墳群・北方古墳群・高士古墳群菅原古墳群大塚古墳
宮口・水科古墳群
牧歴史民俗資料館周辺

北方古墳群は破壊
菅原古墳群
旧清里村
清里歴史民俗資料館付近

林に覆われて温存
牧歴史民俗資料館・旧清里歴史民俗資料館付近の遺跡地図
引用googlemap
 04菅原古墳群出土品
斎藤秀平と上越考古学会 菅原古墳群の報告
昭和5年
菅原古墳
右:矢鏃竹が付着セル跡
右:鏑矢
鏃(鉄鏃) 鏑矢
 
 06上越地方の歴史年表
   ※頸城:頸城郡のこと。古代奈良時代から続く。西は糸魚川市・南は妙高市・東は上越市、柏崎市、十日町市を含む広範な地域を指す。
   明治時代初期に分割され、中頸城郡となるも3町771村の所属する広大な地域を指した。
旧石器・縄文・弥生 弥生・古墳・飛鳥 飛鳥〜戦国 室町〜江戸

私見 上越地方とナウマンゾウ
 後期旧石器時代初期に生息したナウマンゾウは、上越地方の高田平野野尻湖付近を通って南へ回遊していたと考えられるようで、
 頸城地方には旧石器も見られ、ボトルネックの野尻湖ではナウマンゾウハンターが棲んでいた。
 しかし、3万5千年前に新人型旧石器人が突如登場し、それまでの骨角器を使っていた旧人型旧石器人にとって代わり、多種多様な石器文化が花開き、
 ナウマンゾウ・オオツノシカはたちまち絶滅した。

 
 08上越考古学
上越考古学会の文献
斐太古墳群
観音平古墳群
天神堂古墳群の記述
(消滅古墳群)
菅原古墳群報告書
古墳の見取り図
菅原古墳群の
古墳分布図
上越地域に多くの考古学者が訪れた訳-
それは鉄道の開通
 

 110日本海側北辺の後期群集墳 古墳時代後期
今から約1400〜1300年前、飯田川櫛池川が作り出した扇状地とその周辺には、宮口・水科・菅原・高士古墳群など、横穴式石室をもつ古墳からなる群集墳が形成されました。総数は200基以上に及びます。
日本海側で最北の位置にある古墳時代後期の群集墳は何故この地に形成されたのか。その謎に迫ってみましょう。

 コラム 古墳て何だろう
古墳とは何か。この問いについて、長い間議論が続けられています。
従来は、「盛り土や積み石による墳丘があり、遺骸や副葬品を納めた棺や石棺などを持つ墓」が古墳だとされていました。
ところが発掘調査の増加によって弥生時代にもこれに当てはまる墓の存在が知られるようになりました。これらの墓も含めて古墳と呼ぶのかどうかは、学界で未だ結論が出ていません。

日本海側北辺の
後期群集墳
上に記述
コラム 古墳て何だろう
上に記述
平野部にあった中島廻り1号墳 黒保遺跡(旧清里村)
調査風景

 120菅原古墳群(清里区岡野町ほか)

清里区の総合事務所から菅原神社にかけての岡嶺台地にある古墳群です。明治40年代に梅山寿三郎らによって調査され、昭和初期には108基の古墳があったと伝えられています。
菅原神社境内にある菅原古墳(県史跡)は、高田平野東部で唯一の前方後円墳です。また、平成11年に調査した16号墳は、総合事務所北の1号墳と並ぶように移築復元されました。
 121panel
菅原古墳群 菅原古墳群 菅原古墳群
上に記述
古墳の見取り図
菅原古墳(県史跡)
高田平野東部唯一の
前方後円墳
1号墳(奥)と移築した
16号墳(手前)
移築前の菅原16号墳の調査 石室の記録を獲りました 復元作業中 移築復元作業完了
 123菅原古墳群の出土物 古墳時代後期 約1300年前
金環 銀環
古墳時代後期
アスファルト塗り玉 玉類
管玉・切子玉(水晶)
・小玉(ガラス)
小玉(ガラス)・臼玉 管玉
切子玉(水晶)
須恵器(平瓶)
菅原16号墳
玉類
勾玉・切子玉(水晶)・
臼玉・管玉・ルリ玉(ガラス)

 125北方古墳群出土品 高士村大字北方清水田 
梅山寿三郎と坪井正五郎 森成コレクション 北方古墳群出土品
森成古墳群
刀装具
刀の破片、石が錆に付着
北方古墳群
 

 140高士古墳群 (上越市大字北方・南方)

櫛池川飯田川にはさまれた扇状地に広がる古墳群で、昭和初期には約20基ありました。小松芳春の記録によれば、大正15年と昭和7年に南方の古墳、昭和5年に北方の古墳が調査されています。昭和33年、最後に残っていた大字南方の1号墳が、小松芳男・桜井清彦らにより調査されました。横穴式石室からは直刀や鉄鏃、玉類などが出土しました。
 141panel
高士古墳群 高士古墳群
上に記述
高士古墳群 高士1号墳の調査風景 高士1号墳発掘風景
 143高士古墳群の出土品 古墳時代後期 約1300年前
高士1号墳出土物 直刀
勾玉(琥珀)・鉄鏃 玉類
切子玉(水晶)・小玉(ガラス)
玉類 金環 須恵器 堤瓶
水科11号墳
 

 160水科古墳群 (三和区水科)

水科古墳群は、飯田川により形作られた扇状地を開拓した人々の墓で、7世紀頃に作られたと考えられています。古墳は、石で作った死者を埋葬する部屋「横穴式石室」に土をかぶせて丸い山を築いた「円墳」と呼ばれる形のもので、これまでの調査で34基あったことが確認されています。
 161panel
水科古墳群
上に記述
ボーリング調査で地中の石室を探す 田んぼの下から石室が見つかった 石室の掘り方を学ぶ 使用月光のテントを借りて調査開始
見学に来た小学生に
古墳の話
発掘調査員の記念撮影
 163水科古墳群出土品 水科古墳群11号墳 ふんじだい 後期 約1300年前
棗玉(琥珀)
刀子 須恵器 蓋
須恵器 坩 須恵器 坏
 164
金環 玉類
勾玉(翡翠・碧玉・瑪瑙)
切子玉(水晶)・小玉(硝子)
 
 165水科古墳群19・24号墳 古墳時代後期 約1300年前
直刀 19号墳 須恵器 壺 19号墳 須恵器 横瓶 24号墳
 

 171水科古墳群 
 21号墳
水科古墳群の中で、最も高い位置にある古墳で、長さ8.6mという最も大きな石室が作られています。古墳の前面に石が葺いてある特徴的で、水科古墳群に埋葬された人々のリーダーの墓であると考えられています。
石室からは刀や装飾品、須恵器の器が出土しました。2個で1対の耳飾り(金環・銀環)が3個出土したことから、2人以上の人が埋葬された可能性が考えられています。

 30号墳
石室の長さが約0.7mの超小型古墳です。水科古墳群では石室の長さが1m前後の古墳が6基作られていたことがか確認されています。そのうち発掘調査を行った30号墳と33号墳の石室からはなにも出土しておらず、どのような性格の古墳であったのかはよくわかっていません。

21号墳
上に記述
古墳の位置と石室の
開口方向
30号墳
上に記述
 172発掘状況
・石室の検出作業
・古墳の周りに石を貼った21号墳
・古墳の記録
・7号墳で検出された横穴式石室
・石室の記録作業
・30号墳のミニ石室
・出土した須恵器を持って 整備された
水科古墳群(手前)と
宮口古墳群(奥)
水科古墳群
桜の季節かな
 174水科古墳群出土品 水科古墳群21号墳 古墳時代後期 約1300年前
玉類
滑石製勾玉・小玉

埋葬用の模造品ですね
ミニチュア土器同様
直刀 鍔
金環・銀環 須恵器 台付碗 刀子×2
直刀×2
 175
 


 180新潟県内の古墳

古墳時代は、日本列島の各地で古墳が盛んに造られた時代です。新潟県内では600基以上の古墳が確認されており、その役半数が上越市と妙高市に集中しています。
時期ごとの古墳の分布は、
古墳時代前期越後平野周辺に多く、
古墳時代中期高田平野西部と六日町盆地
古墳時代後期が宮口・水科古墳群をはじめとする高田平野東部に集中する傾向が見られます。

 181平野西部から平野東部へ
弥生時代から古墳時代中期まで、斐太遺跡群のある高田平野西部が地域の中心地であったと考えられます。
平野西部の青田川は、平野東部の飯田川櫛池川と比べて距離が短く、平野に至るまでの集水面積が狭いことから、扇状地の形成が早かったのでしょう。
飯田川や櫛池川の扇状地で安定した水田が営まれるのは、古墳群が造られた古墳時代後期になってからです。


新潟県内の古墳
上に記述
平野西部から東部へ
上に記述
新潟県の古墳分布図


 新潟県の代表的な古墳
新潟県の代表的な古墳
天神堂古墳群(新井市) 観音平古墳(新井市)
菅原古墳群
(中頸城郡清里村)
水科古墳群
(中頸城郡三和村)
宮口古墳群
東頸城郡牧村

 182宮口古墳群 3・4号墳ほか 古墳時代後期 約1300年前
宮口古墳群 3・4号墳 玉類
小玉(ガラス)・臼玉(滑石)宮口3号墳
玉類
切子玉(水晶)・管玉・小玉(ガラス)宮口3・4号墳
宮口3号墳の実測図 須恵器 横瓶
宮口4号墳
 
 190上越考古学会
 191panel
上越考古学会 上越考古学草創期メンバー
 

 200宮口古墳群

牧村宮口地区にある宮口古墳群は、飯田川が頸城平野に流れる扇状地の右岸と、それに隣り合った丘陵の上にあります。対岸には北方古墳群、下流に水科古墳群を見ることができる県下でも有数の古墳地帯です。
昭和49年に調査が行われるまでは水田耕作のために上を覆っている土の削られた古墳が大部分でしたが、全部で31基の円墳で構成されていることがわかりました。
土の下からは石室と呼ばれる死者を葬った室が発見され、そこから死者と一緒に入れられた刀や馬具、、勾玉などの装飾品、土器が見つかりました。これらの品々から宮口古墳群は古墳時代の終り頃に造られたのではないかと推定されます。
 201panel
宮口古墳群
 202宮口古墳群等の出土品 宮口古墳群4・26・29号墳ほか、今清水遺跡 
  古墳時代前期・後期、平安時代 今から約900〜1700年前
土師器 坏
宮口26、宮口29
内黒土器 坏 宮口4 内黒土器 坏 宮口4
須恵器台付壺 宮口 内黒土器 高坏 宮口4
今清水遺跡の土師器壺
 
 211宮口古墳群
 
 220宮口古墳群出土品 3・45・26・29号墳 古墳時代こうき 約1300年前
太田市塚廻古墳(群馬)馬丁埴輪と装飾馬形埴輪 鉄鏃 宮口3 刀子×2 宮口3
辻金具 宮口26 小玉(ガラス) 宮口4 小玉(滑石) 宮口4
小玉(ガラス) 宮口29
鉄鏃 宮口11 小玉(ガラス) 宮口4
 
 230古墳公園配置図 牧歴史民俗資料館周辺
古墳公園配置図 宮口古墳群の出土品

 231宮口古墳群の出土品 宮口11号墳 古墳時代後期 約1300年前

 直刀 宮口11


 金銅装円頭大刀

柄に点刻で渦巻状の唐草文をあらわしているが、これは7世紀に造営された千葉県木更津市金鈴塚出土の頭椎大刀の文様と同じものである。
大刀各部の装具や金銅装薄板を蒔く作り方などは7世紀代日本の技法そのものである。

金銅装円頭大刀
太田市塚廻古墳(群馬)
 233宮口古墳群の石室形態
8号墳 9号墳 10号墳 12号墳
27号墳 28号墳
29号墳 30号墳
 234アスファルト塗り小玉
棗玉型をしたこの土玉は装飾に用いられたもので、表面にアスファルトが塗られている。このことから古墳時代後期には飯田川流域で石油の副産物であるアスファルトが利用されて板のではないかと考えられる。
アスファルト塗り小玉
 
 235遺物出土状況
8号墳 8号墳 11号墳 29・30号墳

 237宮口古墳群出土品 11・26号墳 古墳後期 約1300年前
須恵器 堤瓶 宮口11 刀子 宮口11 直刀 宮口26 直刀 宮口11
金環 宮口11 切子玉(水晶) 勾玉(瑪瑙) 丸玉 土製 玉類 宮口11
小玉(ガラス)・丸玉(ガラス)・丸玉(土玉)
 

 250頸城古墳群から越後国府へ
 251頸城古墳群から越後国府へ
多くの古墳を残した人々が、何処に住んでいたのかは、まだわかっていません。
和銅5年(712)に国域が確定した越後国の国府は、古墳群から近い三郷地区周辺に置かれたと考えられています。
その後、越後の中心は中世の府中(直江津)と春日山城、近世の福島城、高田城へと移りました。
群衆糞を作った人々は、越後の中心となる基礎を築く、中心的な役割を果たしたのではないでしょうか。

頸城古墳群から越後国府へ
越後中心地の変遷
弥生時代〜古代 弥生時代からの中心地
窯蓋遺跡などの斐太遺跡群
古墳時代後期の中心地
扇状地の稲作地開発は平地の開発以後に入植した、古墳文化を持った人々でした。
古代〜近世の中心地
この頃まで陸上交通中心であったのが、乾燥化により、河川による交通が発達した様子で、河の合流点に国分寺や国府が作られる。
中世の中心地
中世海洋交通の発達とともに海岸部に都市が移動し、戦略的拠点として山城を付近に築いた。
近世の中心地
徳川幕府による対外貿易が禁止されると福島城は廃城となり、政治的安定に撚り内陸に安定基盤を移せるようになった。
 
 260第11号墳
第11号墳の石室は、全長6.62mの無袖型横穴式石室の形をしています。
玄室は全長4.52m、玄室の奥壁部幅1.08m、玄室中央部幅1.05m、玄室前部幅0.86mで、奥壁から羨道に向かうに従って幅が狭くなっています。
奥壁は床面敷石からの高さ0.93m、幅1.04mの巨礫で側壁との間に間詰めの礫が見られます。

玄室の東西側壁は最下段の根石が巨礫で構築され、2段目からは小口積みとし、床面敷石から最も高い部分の西側側壁で、1.12mあります。
玄室内からは、本古墳群の代表的な出土遺物である金銅装円頭大刀や刀子、玉類が検出されました。また、羨道部から提瓶などが出土しました。
 261
第11号墳(縮尺1/3)
上に記述
 262無袖型横穴式石室
 262a石室全景


提瓶
 262b
奥壁 玄室
刀子・勾玉・直刀・
金銅装円頭大刀
敷石
金銅装円頭大刀・金環
側壁
 
 270高田平野の古墳群