新潟の縄文 №18 2020.10.01-3
新潟市文化財センター 新潟市西区木場2748-1 025-378-0480 月・祝翌日休館撮影可
企画展「天王山式土器から見た東日本の弥生社会」
-古津八幡山遺跡成立期の動向- 第2会場
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この博物館でも、個々の展示物には番号だけ。あるべき脚注はまとめてどこかにぶら下げてあります。
特に、展示物が密集している347~357あたりはどれがどれだかわからなくなっています。
なぜ、この展示方法をとるのでしょう。この方法が新しいのでしょうか。放送大学の博物館展示論ではこのような方法を推奨しているのですか。
日本最先端の東京国立博物館ではこんな展示はしていません。
展示物を見たときに同時に脚注が目に入れば、観覧しやすい、観客本位な展示です。
キャプションだけをまとめて一ヵ所に貼り付けて手間を省くのは、学芸員の○○にほかなりません。
私には、「どうせ観客なんぞに何がわかるんだ。何も見ちゃいないだろう。見たってわからんだろうが。」と言っているように思えます。。 |
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目
次 |
01外観
02入口展示1
海上がり土器
企画展「天王山式土器から見た
東日本の弥生社会」
12山草荷遺跡
20天王山遺跡
32和泉遺跡
40石動遺跡
41bキメラ土器
42a館ノ内遺跡
42b開津台畑遺跡
42c細田遺跡
43a沖田遺跡
51能登遺跡
常設展示
100収蔵庫
100歴史を伝える出土品の世界
102木簡
103木製品
104土器
105石器
106木柱根 縄文晩期
展示室2
200遺跡が語る新潟市の歴史
220火炎土器と雪国の文化
221大沢谷内遺跡
223秋葉遺跡の王冠型土器
229大沢谷内遺跡の土器
240木製卒塔婆
250砂山遺跡
261四十石遺跡の土層 |
300年代別展示
301旧石器時代
310縄文時代
311b新潟市域の縄文時代
311c集落出土の石器
311d「の」字状垂飾
考察「の」字状垂飾
312縄文遺跡出土遺物
312b秋の活動
312c晩秋~冬の活動
312h春の活動
312i秋
312l晩秋
313a石器
314搬入石器・石材
315a装身具
325土器
331御井戸遺跡
333a掘り起こされた墓
333c近世新潟町遺跡
333d坊ヶ入墳墓
340弥生時代
341弥生時代の始まり
342焼人骨
344緒立遺跡
346a西郷遺跡
347弥生時代の暮らし |
350古墳時代
351古墳の造営
352土師器
354弥生時代の遺跡
355御井戸遺跡
356古墳を造った集落
360飛鳥・奈良・平安
361渟足柵
362大沢谷内遺跡
363緒立遺跡
365律令時代
365a律令政治と地方
365bムラの暮らし
365c駒首潟遺跡
366手工業生産の発展
367草水町2丁目窯跡
380鎌倉・南北朝・室町
381人々のくらし
390安土桃山・江戸
391庶民の暮らしと新潟湊 |
500企画展「天王山式土器から見た
東日本の弥生社会2」
511滝ノ前遺跡
513兵衛遺跡
515王子山遺跡
517五千石遺跡
521五斗田遺跡
523松ノ脇遺跡
551横山遺跡の周辺
553来清東遺跡
555下老子笹川遺跡
590吉田高校グランド遺跡
700移築住居 旧武田家住宅 |
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01外観
新潟市文化財センター
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02入口展示1
角田山沖の海底から縄文土器
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2013年10月に、新潟市西蒲区角田山沖15km、水深150m~170mの日本海の海底から底引き網で引き揚げられた縄文土器です。
現在の鍋や釜の様に煮炊きに使われた深鉢という形です。形や文様から、今から約5000年前の縄文時代中期中頃に作られたものと考えられます。
土器の中に物を入れて運ぶ途中に舟が沈んだり、舟から土器が落ちたりしたのではないかと思われます。
日本海から発見された縄文土器は、県内ではこれを含めて2点しかありません。当時の海上交通や人の動きを具体的に証明する考古資料として大変に重要なものです。 |
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新潟市地図 |
角田山沖の海上がり
縄文土器 |
角田山沖の海底から
縄文土器
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佐渡航路の日本海から見た角田山と弥彦山
佐渡から新潟に向かって、最初に見えるのが角田山と弥彦山です。きっと旧石器時代から目印にされたのでしょう。 |
深鉢
縄文中期中葉
約5000年前
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10入口展示2 |
11海あがりの珠洲焼
再び注目された珠洲焼
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明治34年(1901)年頃に、小林芳一氏が入手した珠洲焼です。新潟市西蒲区角田山沖の日本海から引き上げられたものです。
このことは、明治44(1911)年の新潟新聞の記事になりました。
珠洲焼は能登半島の先端の石川県珠洲市周辺で平安時代から室町時代にかけて生産された焼き物です。
生産地から出荷され、消費地に運ばれる途中で船が沈んだのではないかと思われます。
新潟県内の通称たら場と呼ばれる海域周辺では、20点以上の珠洲焼が陸揚げされています。
甕は約660~690年前、擂鉢は約760~790年前に作られたものと考えられます・ |
縄文~江戸の土器 |
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1縄文土器/深鉢
2土師器/壺/古墳 |
3土師器/壺/古墳
4須恵器/甕/平安 |
5須恵器/甕平安
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6陶器(珠洲)擂鉢鎌倉 |
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7陶器(珠洲)甕/鎌倉-室町
8陶器(唐津)甕/江戸 |
再び注目された珠洲焼 |
9陶器(唐津)甕/江戸
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※お詫び
以下の企画展では説明パネルを文字化していません。
あまりにも高度に専門的で、私を含めて、一般向けではないと思いました。
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企画展
「天王山式土器から見た東日本の弥生社会」
-古津八幡山遺跡成立期の動向- (第2会場)
天王山式土器から見た東日本の弥生社会 -古津八幡山遺跡成立期の動向- 開催にあたって
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古津八幡山遺跡には縄目文様が付けられた弥生土器があります。これらは、おもに東北に分布する「天王山式」と言われる土器で、1950年に福島県白河市天王山遺跡からまとまって出土したことに由来します。
天王山式土器は、その時期・年代や系統・系譜などを解明することが難しく、いまだに揺れ動いているのが実情です。その要因の一つとして、天王山遺跡からは東日本各地域の様々な系統の土器が出土しているために、北海道から東北南部、東関東や北陸・長野など、実に広範囲で研究を行う必要があるからです。
視点を変えれば天王山式土器を研究することによって、当時の人々のダイナミックな動向を垣間見ることが可能になります。
時代は弥生時代後期初め(紀元1世紀)、ちょうど古津八幡山遺跡が成立する頃の事です。
古津八幡山遺跡の高地性集落、天王山遺跡が成立する頃の動向を、土器に浸けられた特徴的な文様に着目して少しだけ迫って見たいと思います。
ここ、第2会場では古津八幡山遺跡成立期前後の新潟県(新潟市域以外)・福島県・富山県・長野県の遺跡を紹介します。 |
※企画展示は玄関ロビーで行われており、外からの太陽光が強く、展示は大変見にくくなっています。
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12山草荷遺跡 新潟県新発田市乙次281番地2
山草荷遺跡の各系統の土器 弥生中期後半
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北陸系(小松式)
長野系(栗林式)
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会津系
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秋田系(宇津ノ台式)
との折衷
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20天王山遺跡 |
21天王山遺跡 (福島県白河市大字久田野字柄山)
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遺跡は阿武隈川と高橋川の間に残丘状にある独立丘陵の頂上に位置する。標高407m、阿武隈川との比高差は約80mである。
1950年に発掘調査が行われ、完形土器が多数出土した。本遺跡出土土器を標識土器として東北南部の弥生時代後期の土器形式「天王山式」が設定されている。
類似する土器は東北南部から北部に広く分布する。天王山式分布範囲の外郭圏としては、北海道南部や北陸にも分布する。天皇山遺跡は、古津八幡
山遺跡と同じ高地性集落であること(遺跡の性格がよくわからないが)、天王山式土器分布圏の太平洋側の南限に近い位置にあるという点である。 |
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企画展趣旨 |
なぜ土器の破片
未記述 |
天王山式土器
天王山遺跡 |
弥生中期後半~
後期後半の主な遺跡 |
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30天王山式土器2 |
31
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石動遺跡のS字状連繋文の系譜と分布
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石動遺跡の口頸部間小連弧文と上胴部山形文の系譜と分布
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六地山遺跡の円台形連結文の系譜と分布
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本州東北部の重菱形文系土器の系譜と分布
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32和泉遺跡 弥生後期前半 福島県会津若松市和泉字原山 |
32a
和泉遺跡 福島県会津若松市和泉字原山 |
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和泉遺跡 |
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壺 |
注口土器 |
甕 |
甕 |
皿 |
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32b
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32c
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高坏 北陸系
甕 東関東系
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甕
細田遺跡出土土器
細田遺跡に類似土器 |
弥生後期前半
和泉遺跡
会津若松市
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40天王山式土器3 |
41 |
41a
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開津台畑遺跡
キメラ土器
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石動遺跡の各種の口縁部文様
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41bキメラ土器
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41c
石動遺跡(新潟)
大槻3号墳(石川)
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能登跡(福島)
吉田高校グランド遺跡(長野)
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能登遺跡(福島)
舘ノ内遺跡(福島)
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和泉遺跡(福島) |
はりま館遺跡(秋田)
砂山遺跡(村上市
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能登遺跡(福島)
開津台畑遺跡(福島)
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楯遺跡(青森) |
六地山遺跡(新潟市) |
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42 |
42a館ノ内遺跡 会津坂下町 弥生後期前半
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館ノ内遺跡(会津坂下)
弥生後期前半 |
館ノ内遺跡
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キメラ土器
重菱形文(頸部)+
山型文(上胴部)
会津では数少ない
重菱形文
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42b開津台畑遺跡 会津坂下町 弥生後期前半
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壺
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S字状繋文+補助文
文様体の上下は交互刺突文でなく2溝間の鋸歯文 |
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42c細田遺跡 会津坂下町 弥生後期前半
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43 |
43a沖田遺跡 会津美里町 弥生中期後半~後期前半
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43b
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50天王山式土器4
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51能登遺跡 福島県河沼郡会津坂下町大字勝字能登
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能登遺跡 |
後期後半の出現期の
「交互」刺突文の種類 |
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能登遺跡 |
能登遺跡 |
能登遺跡 |
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52 |
52a
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52b
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tip1頸部に施文 |
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前時期の古い要素の土器
狭い口縁部文様帯:肥厚有段部下端に交互刺突文、上向き連弧文を入れる |
注口土器
双頭渦文
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52d
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52e
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52能登遺跡 会津坂下町
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52g
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52h松無塚遺跡 会津坂下町 弥生後期前半
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常設展示
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100収蔵庫
展示室1ではどこかにキャプションがまとめてぶら下げてあったのかもしれません。
が、わかりませんでした。
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100歴史を伝える出土品の世界
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発掘調査では様々な遺物が出土します。土器や陶磁器などは最も多く出土する遺物で、時代や地域によって形や大きさが異なるため、年代の物差しとなったり地域間交流をひも解く鍵となったりします。
石製品や金属製品などの利器からは、当時の生産技術や生業の一端を知ることができます、
また、面積の大半を沖積平野が占める新潟市では、通常残りにくい木製品が数多く出土しています。 |
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101
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102木簡
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103木製品
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104土器
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105石器
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106木柱根 縄文晩期の木柱 御井戸遺跡
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展示室2
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200遺跡が語る新潟市の歴史 |
201展示室全景
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220
信濃川流域の火炎土器と雪国の文化
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5000年前に誕生した火焔型土器は、縄文時代の代表として広く知られています。
火焔型土器を目にした芸術家岡本太郎氏が「なんだ、コレは!」と叫んだという有名な逸話があるほどです。
この火焔型土器は信濃川流域に分布しており、この地域では縄文時代につながる文化や景観が今でも息づいています。
平成28年度、火焔型土器と今に続く雪国文化が文化庁から日本遺産に認定されました。
新潟市では大沢遺跡(西蒲区)・秋葉遺跡(秋葉区)から出土した火焔型土器・王冠型土器や、縄文時代から天然アスファルトを活用していた大沢谷内遺跡(秋葉区)、奈良時代に信濃川を訴状する鮭を捕り加工をした的場遺跡(西区)とその出土品がこの日本遺産を構成する文化財となっています。 |
秋葉遺跡 新潟市秋葉区秋葉1丁目
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秋葉遺跡は、新津丘陵北端の突き出した台地上に立地する縄文中期から後期の集落遺跡です。
秋葉遺跡では、丘陵の斜面を土器捨て場として利用していたようで、非常に多くの土器片が出土しています。
また、平成10(1998)年と11(1999)年の発掘調査では、竪穴住居が見つかっています。
土器は火焔型土器が盛んになる縄文時代中期中頃のものが多く、王冠型土器のほか火焔型土器も数点見つかっています。
展示の王冠型土器は、胴部が火炎土器様式の特徴である隆起線文ではなく縄文が施されているのが特徴です。 |
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221
大沢谷内遺跡 新潟市秋葉区天ヶ沢
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大沢谷内遺跡は、新津丘陵西側の沖積地に位置する集落遺跡です。遺跡は大きく2層に分かれ、飛鳥時代から鎌倉・室町時代にかけての上層と
縄文時代晩期の下層からなります。
ここに展示の資料は、平成21年に遺跡北部の3区4区下層から出土したものです。
時期は縄文晩期中頃で、この調査区からは竪穴住居15棟、掘立柱建物6棟が見つかりました。
出土した遺物の中には、アスファルトを溶融するのに使ったと考えられる土器や石器が見つかり、大沢谷内遺跡がアスファルトの精製や加工を行っていた集落であることが想定されます。 |
アスファルトの利用
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現代では、道路舗装などに利用されているアスファルトですが、原油からガソリンなどを取り出した残滓です。自然界には、湧出した原油から揮発成分が失われた天然アスファルトも存在します。
その利用は古く、新潟県では縄文中期から利用が増加し、縄文後期・晩期にピークを迎えます。主に矢尻の接着や土偶の補修といった接着剤として利用されていました。アスファルトは、塊状や団子状にした上で土器に埋納された状態で出土することがあり、縄文時代の交易品として、各地に流通していたことが伺えます。 |
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信濃川流域の火炎土器と雪国文化
秋葉遺跡 |
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秋葉遺跡 |
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新津丘陵と秋葉遺跡
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大沢谷内遺跡
新潟市秋葉区天ヶ沢
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上空から見た大沢谷内遺跡と新津丘陵
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アスファルトの利用
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223秋葉遺跡の王冠型土器
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新潟市秋葉遺跡は、市域の南にある標高20m程の新津丘陵に立地する集落遺跡です。約20年前に新津市(現:新潟市秋葉区)教委が発掘調査し、竪穴住居跡や多くの土器が発見されました。
この王冠型土器葉胴部に縄文が施されており、隆線文だけで埋め尽くされるたの一般的な王冠型土器と比べると、別の様式の特徴を併せ持った土器となっています。 |
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秋葉遺跡の王冠型土器
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火焔型・王冠型土器
各部名称 |
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225
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王冠型土器
山形状把手
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火焔型土器鶏頭冠
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火焔型土器
頸部と胴部
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火焔型土器と同時期の東北系土器 |
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土偶、土製耳飾り |
浅鉢(火焔型併行期の東北土器) |
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227
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アスファルトを溶融した土器 |
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アスファルトの入っていた土器 |
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矢印の所までアスファルトが入っていた |
アスファルトで接着した石槍
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アスファルト付着石
アスファルト付着石鏃
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アスファルトが垂れた土器 |
秋葉遺跡 |
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229大沢谷内遺跡の土器 縄文晩期
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240木製卒塔婆
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Ⅲ層に形成された「整地遺構」と火葬墓の傍らから木製の塔婆が多数見つかりました。これらは墓標と年季供養に伴う簡易塔婆からなり、
大きさや部材にバラエティーが見られます。墓標は長さ3.6m~3.7mの角柱を使用し、先端部が「五輪塔型」に整形されます。
材の太さから15cm角の太型・11cm~12cm角の中型、5cm角の細形に分かれ、太型・中型塔婆は芯持材、小型塔婆は割り材を用います。
大型塔婆は「火燈型」の掘り窪みを施し、(以後略) |
発掘された新潟町 (西堀前通6長善寺地点) 調査2006年 面積251.0㎡
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長善寺は元亀2(1571)年開山の浄土宗寺院で、明暦元(1655)年に西堀通に移転した後、平成4(1992)年に西区小新へ転出するまでの337年間に渡り西堀寺町の主要寺院の一つでした。
発掘調査では盛土層に覆われた地表面下0.7m~1.4mのⅡ層から骨臓器を伴う4基の火葬墓、地下3.0mまでのⅢ層から陶製骨臓器を伴う火葬墓16基・骨臓器を欠く火葬墓2基・土層墓2基が出土しました。墓地の形成年代はⅡ層が18世紀後半、Ⅲ層が17世紀後半~18世紀前半と考えられます。Ⅲ層からは多数の木製塔婆が出土し、近世新潟町における墓石出現以前の墓地の様子がわかる貴重な資料となりました。土層墓は明治6~8(1871~1873)年の「火葬禁止令」の期間に埋葬された可能性が高く、長善寺が小新に移転するまで存在した旧墓地の墓と見られます。 |
左:細形卒塔婆
右:中型卒塔婆 |
木製卒塔婆 |
発掘された新潟町 |
あんまり気持ちよくないから、ちょっとだけ |
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250砂山遺跡 村上市八日市字砂山 |
251
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遺跡は現在の荒川の右岸側にあり、海岸砂丘の内陸側斜面に立地し、旧岩船潟西岸に所在する。標高は14~15mである。(中略)
遺跡は5mの砂層の下から0.3~0.5mの黒砂包含層が確認され、縄文~古墳時代の遺物が出土した。弥生中期後半~後期の遺物が主体である。
弥生土器は砂山1群~5群に細分され、そのうち3群・4群が弥生後期天王山式並行の日本海側地方型式「砂山式」として設定された。
騎手らは、甕・壺・鉢があり、文様の特徴としては、口縁部に連弧文、頸部には重菱形文を主に連弧文に由来する構図も入れられ、地文には縦走するRL縄文が多く見られるが、ハケメを入れるものが一定量あることなどが特徴としてあげられる。また、共伴すると考えられる他鶏頭の土器がある。
土器以外に有茎石鏃・アメリカ式石鏃やメノウ製細形管玉・土製円盤などがある。 |
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253 |
253a砂山遺跡の土器片
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253b砂山遺跡の土器片
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260 |
261四十石遺跡の土層
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四十石遺跡の土層を剥ぎ取ったものです。下に行くほど古い時代の地層になります。遺跡は地表~1m以上深い所にあり、現在までの堆積のようすがわかります。 |
墓の副葬品 四十石遺跡 平安時代(8世紀末~9世紀初頭)
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展示品は、溝が環状に巡る墓から出土したものです。墓は、焼骨が 見られることから火葬墓と考えられますが、上部は破壊されており、遺物がバラバラの状態で出土しました。当時、火葬が一般的ではなかった事、役人が身に着ける帯や刀子の飾り金具が出土していることから、墓に葬られた人物は、公おおやけと何らかの関りを持った有力者と見られます。 |
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四十石遺跡の土器 |
墓の副葬品
四十石遺 |
墓の副葬品 |
周溝をもつ墓
奈良-平安 四十石遺跡
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腰帯金具 |
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刀子の飾り |
短頸壷 |
長頸壷 |
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265四十石遺跡の土層
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300年代別展示
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301旧石器時代
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現在よりも5度ほど寒冷な氷河期で、人々は狩猟をなりわいとしながら移動生活を送っていました。日本では1万か所以上の遺跡が見つかっていますが、県内では314ヶ所、市内では3ヶ所が確認されています。 |
新潟市最初の住人
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この時代の越後平野周辺は地表面が現在よりも遥かに低く、信濃川葉大きな谷となって流れていました。
古津八幡山遺跡・草水町2丁目遺跡とケカチ遺跡では、20000年前から15000年前の人々が使った遺物が出土しています。
「ナイフ形石器」・「尖頭器」・「石刃」と呼ばれる「刺す・切る」道具と考えられる石器とその素材が見つかっています。 |
旧石器時代 |
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旧石器時代
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新潟市最初の住人 |
約2万年前の地形と旧石器時代の遺跡
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石器の出土-草創期
愛宕沢遺跡
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303旧石器遺物 愛宕沢遺跡 御手洗山遺跡 新谷遺跡
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剥片
1~6剥片 |
ナイフ形石器
7ナイフ形石器 |
ナイフ形石器8~10ナイフ形石器 |
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石器
11~16石斧 |
石核
17石核 |
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石斧
18・19石斧 |
尖頭器
20・21尖頭器
22剥片 |
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310縄文時代
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氷河期が終わり、温暖化した日本列島で土器作りが始まります。狩猟に加えて採集による食料の確保がさかんになりました。
次第に住居を構えて定住的な生活へと移行し、狩猟・採集生活は弥生時代が訪れるまで約1万年続きました。 |
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311panel |
311a
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311b新潟市域の縄文時代
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新潟市内に定住的な集落が現れるのは縄文時代前期初めです。以来、その営みは連綿と続き、現在160ヶ所程の遺跡が確認されています。
このうち9割が越後平野に面した丘陵の裾や新潟砂丘上に立地します。砂丘の形状は越後平野に広大な沼地を発達させ、水辺と深い繋がりを持った生活の背景となりました。砂丘の利用は晩期に入り活発化しますが、鳥屋遺跡は代表的なもので、そうした動きは弥生時代へも受け継がれます。 |
定住集落のなりわい
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出土した自然遺物から当時の食生活を知ることができます。
前期の干納遺跡と豊原遺跡(西蒲区)ではクルミやドングリ、
晩期の御井戸遺跡ではアク抜きが 難しいトチの実が多量に出土しており、長期保存ができる木の実を主食としていたことが伺えます。
春~夏にはシジミ採り・イトヨ漁・磯漁、夏の後半~秋には菱の実取り、晩秋にはサケ漁、冬にはシカ猟を行っていました。 |
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新潟市域の縄文時代 |
定住集落の生業
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竪穴住居群-晩期
大沢谷内遺跡 |
初期定住集落の生業カレンダー前期
干納遺跡・豊原遺跡
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トチの殻-晩期
御井戸遺跡
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ニホンジカ-前期
豊原遺跡 |
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311c集落出土の石器
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出土した自然遺物から当時の食生活を知ることができます。前期の干納遺跡と豊原遺跡ではクルミやドングリ、晩期の御井戸遺跡では アク抜きが難しいトチの実が多量に出土しており、長期保存ができる木の実を主食としていたことが伺えます。
春~夏にはシジミ採り、イトヨ漁・磯漁、夏の後半から秋にはヒシの実採り、晩秋にはサケ漁、冬にはシカ猟を行っていました。 |
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集落から出土する石器
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角田山麓に置ける石器の組み合わせ |
まとまって出土した石錘-前期
笹山前遺跡 |
一緒に出土した磨石と石皿-前期
上田遺跡 |
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311d「の」字状垂飾
第二の道具
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生産用具などの日常生活に直接かかわる「第一の道具」と祭祀具や呪術具・装身具のような「第二の道具」が作られます。
第一の道具は定住化が進む前期で基本的な種類が揃い、以後質的に変化は見られませんが、第二の道具は中期以降、質・量ともに発達していきます。これらの道具に見られる異なる動きは、精神生活に重きを置いた縄文時代の特徴を表しています。 |
「の」字状垂飾
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上部に紐かけ用の小さな穴を開けた「の」字形ペンダントです。主として蛇紋岩を用い、
前期の終り頃から中期初めまでの短期間に糸魚川付近を中心にに作られました。全国で20例程が知られ、うち3例が角田山麓から出土しています。
形の由来については南の海に生息するイモガイを模倣したとする説がありますが、この時期の土器に描かれる文様と似ていることから、特別な意味を込めた形であった可能性もあります。
新潟市南赤坂遺跡 南赤佐坂遺跡「の」字状垂飾
※「の」字石器は、縄文時代前期後半から末葉(約6800年前)に突如出現した。八丈島輸遺跡と、長野市松原遺跡からは装身具セットとして出土している。セットの内容は、玦状耳飾り、「の」字状垂飾、棒状垂飾などである。
これらのセットは中国・シベリアでも発見されており、沿海州との関連で考えるべきである。と引用書・論文「縄文玉製品の起源」は述べている。
考察 「の」字状垂飾
※「の」字状石製品が大陸の装身具セットであるとすると、八丈島には難破船などで南から漂着し、(津軽海峡を通ると金華山沖から太平洋に出る)
長野市松代の松原遺跡へは、無事上越沿岸に到着し、陸路松代へ移動したものと思われる。
その他の「の」の字石器は分散しセットでなくなったものを見出して模倣し、各地へ交易されたものと思われる。
出現が最も遅い青森県泉山遺跡の中期前葉は、いくつもの手を経て、最後に交易された後に土に埋もれたものと思われる。
※「の」字石器の周囲は鋭い刃部となっていて、特に抉りの入った玦部は大変鋭く、石器全体の周囲は刃こぼれ状態のギザギザであるという。
※イモガイは縄文後晩期から弥生時代のことで、時代が合わないと考えられている。 |
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八丈島 倉輪遺跡出土
装身具セット
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長野市 松原遺跡出土
装身具セット |
図表引用「縄文時代の渡来文化」 |
縄文土器の組み合わせ
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縄文土器は煮炊きに用いる深鉢を基本とします。
渋くて口にできなかったドングリやトチが土器の使用によってアク抜きができるようになり、食事のメニューは飛躍的に拡大しました。
中期に入るとこね鉢などとして使用される浅鉢が増加します。さらに、
後期になると日用品とは異なる特殊な土器が目立つようになります。
器の組み合わせは遺跡の性格によっても違いがあり、縄文社会のあり方を考える手掛かりになります。 |
縄文土器の組合せ |
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312 |
312縄文遺跡出土遺物 干納遺跡 豊原遺跡 御井戸遺跡
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前期遺跡の自然遺物
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春から夏の活動 6シジミ 7ヒシ
8イトヨ 9クロダイ
10スズキ |
7ヒシの実 |
8イトヨ |
9クロダイ
10スズキ |
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312b秋の活動
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312c晩秋~冬の活動
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312h春の活動
春の活動
晩期遺跡の自然遺物 |
18イトヨ
19コイ類
20ヒシ
21スズキ |
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312i秋
秋の活動
14トチ
15クルミ
16ドングリ類 |
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312l晩秋
晩秋の活動
11サケ
12ニホンジカ
13イノシシ |
11サケ |
12ニホンジカ
13イノシシ |
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313石器 |
313a石器 新谷遺跡 御井戸遺跡
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1・2磨石・敲石
3磨石・敲石類と石皿 |
4石鏃 |
5・6・7石錘 |
8・9石匙
10石錐 |
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11・12・13磨製石斧 |
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313b
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14-16磨石
17磨石・石皿 |
18石鏃 |
21-23石錐 |
24-29磨製石斧 |
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314遠隔地から持ち込まれた石器と石材
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315 |
315a装身具 新谷遺跡 上田遺跡 南赤沢遺跡 大沢遺跡 豊原遺跡 上ン原遺跡 大平遺跡 原遺跡 鳥屋遺跡 大沢谷内遺跡
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315b
1耳飾、2・3垂飾 |
4・5・8土偶 |
9石棒、8土偶、
18石棒・石剣 |
2・3垂飾
10・11・12耳飾 |
8・13・14土偶
15・16・17土偶 |
18・19・20石棒
9石棒、21鈴形
22スタンプ形 |
23勾玉 |
24・25土偶 |
26・27石棒、30石冠
28・29石棒、31石冠 |
32・33竪櫛 |
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325土器 新谷遺跡 豊原遺跡 大沢遺跡 秋葉遺跡 上ン原遺跡 御井戸遺跡 大沢谷内遺跡 鳥屋遺跡
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4有孔鍔付土器 |
後1,2深鉢
中3浅鉢 |
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4有孔鍔付土器
5深鉢 |
6浅鉢
7~13深鉢8 |
8、9、10深鉢 |
9~13深鉢 |
9~14深鉢 |
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326
15甕
16蓋 |
17単孔土器
18香炉
19浅鉢 |
19浅鉢
20深鉢 |
21深鉢
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22深鉢 |
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327
23・24深鉢 |
25・26深鉢 |
27鉢
28台付鉢 |
29浅鉢
30深鉢 |
31深鉢
32壺 |
32壺
33鉢 |
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331御井戸遺跡
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角田山麓の御井戸遺跡では、湿気に富んだ土壌環境に守られて縄文時代晩期の木柱群や貯木場が残っていました。
柱の大半はクリ材で、直径40cm以上の大木です。地中にはクリの花粉が多量に含まれ、縄文人が管理したクリ林が近くにあったことをうかがわせます。貯木場では伐採樹木や製作途中の木製品が窪地に水漬けされた姿で見つかりました。
木製容器は土器とは異なる形をしていて、この時代の木の文化を伝えてくれます。 |
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縄文時代の木の文化
御井戸遺跡
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木製容器未成品-晩期
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漆塗り容器-晩期 |
集落周辺で検出された花粉-後期
御井戸遺跡 |
竪穴住居の柱と壁板列-晩期 |
木柱群と竪穴住居-晩期
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332御井戸遺跡の木製品
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1皿未成品 |
2皿未成品 |
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3・4容器未成品 |
5・6容器未成品 |
7・8木柱根 |
9~12木柱根 |
13竪穴住居壁板 |
14竪穴住居壁板 |
15竪穴住居壁板 |
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333a掘り起こされた墓
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死にまつわる儀礼・習慣は、墓地遺跡などで見ることができます。市内では、大墓遺跡・坊ヶ入墳墓・沢海藩二代藩主溝口政勝墓が調査されており、その葬法が明らかにされています。江戸時代は土葬と火葬が併存し、江戸周辺は土層が主体ですが、新潟では火葬も少なくありません。火葬の場合、骨は容器に入れて埋めるものがあり、当時流通していた唐津焼の壺・甕が多く使われています。 |
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掘り起こされた墓 |
大名の墓-江戸
埋葬施設-江戸 |
海岸に面した墓地-江戸
埋葬された骨-江戸
(露出した墓穴と埋葬骨
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333b |
333c近世新潟町遺跡出土遺物
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18磁器紅皿 肥前
19磁器紅皿 肥前
20金属製手鏡
21土製品泥めんこ
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22~24土製人形 |
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25・26銭貨 |
28・29煙管雁首・吸口
30磁器水滴 肥前
31硯 |
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32・33磁器 一輪挿し肥前
34磁器 御神酒徳利 肥前
35磁器 仏飯器 肥前
36磁器 香炉 肥前
37磁器 仏花瓶 肥前 |
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333d坊ヶ入墳墓出土遺物
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38陶器甕・蓋 肥前
39・40陶器甕 |
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38
39
40
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41-44陶器・甕 |
43・44陶器・甕 |
44陶器・甕
45陶器甕 越中 |
46陶器壺 信楽
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47-50かわらけ |
51銭貨 |
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340弥生時代
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紀元前500年頃に灌漑を伴う水稲耕作の技術が北部九州に伝えられました。その技術は徐々に東日本にも広がりました。 |
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341弥生時代の始まり
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前期や中期前半には、縄文土器の伝統を残す土器と共に、東北・北陸・中部高地・東海の特徴を持つ土器やその影響を受けて作られた土器が使われていました。
緒立遺跡からは大型の壺や、多量の焼人骨が出土しており、東日本に多く見られた再葬墓と考えられます。周囲からは手足の骨や下顎の骨に穴をあけたもの・切り傷のある焼人骨も出土しています。これらの人骨は大形壺に納めたり、お守りとして身につけたりしていたと考えられています。 |
土坑・大型壺・焼人骨
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1979・80(昭和54・55)年の緒立B遺跡の発掘調査区南側からまとまって見つかった土坑群周辺からは、焼人骨片や大型壺・人面付土器などの遺物が出土しています。
これらは墓に関係するものです。弥生時代前期から中期の再葬墓では、土坑の中から大型壺がまとまって出土することが一般的ですが、緒立遺跡では土坑の中から大型壺が出土するような状況は見られませんでした。出土状況から土坑の上部に大型壺が置かれた可能性が高いものと考えられます。
縄文時代晩期終末の北区鳥屋遺跡3号土壙でも土坑上部に大型壺が置かれており、似た状況を示しています。また、福島県伊達市根古屋遺跡からも焼けた人骨や多数の土坑が検出されてます。再葬墓の埋葬工程やシステムが明確ではないので、はっきりしませんが、再葬墓の埋葬工程の中の一部の可能性が考えられます。
一方、1957・1958(昭和32・33)年の緒立B遺跡の発掘調査では大型壺はほとんど見つかっていません。同じ遺跡の中でも、場所(調査区)によって遺跡の性格が異なることによるものと考えられます。1957・1958(昭和54・55)年の調査区は墓域から居住域にかけて発掘調査を行ったものと推察されます。 |
人骨
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1979-80(昭和54-55)年の発掘調査の際に、砂丘南側斜面の落ち際から1000点以上の骨片がまとまって出土しています。骨は全て焼かれており、歯の
エナメル質が認められないことから700~800℃以上の温度で焼かれたと考えられています。
骨の大部分は人骨ですが、獣骨が小数混じっている可能性もあり、部位判定が可能な骨片ら判断して、少なくとも7個体分の人骨があります。
見つかった顎の骨からは、成長や婚姻の際などに健康な歯を抜いたとされる「抜歯」の風習があったことがわかり、緒立遺跡の場合は、上顎の右側切歯と犬歯、下顎の左右切歯と犬歯の抜歯を行っています。
上顎犬歯2本と下顎切歯4本を抜く抜歯形態は縄文時代の西日本で多く見られるものです。
このことから人々の移動があったのではないかと推測されます。
この他に当時の習俗を示すものとして人骨製垂飾(ペンダント)と人工的な加工のある骨片があります。
手や足の骨(中手骨・中足骨)だけではなく、頭蓋骨(頭蓋冠片・下顎枝片)にも穿孔と思われる加工痕が認められ、また、切痕・溝・小溝状の加工痕がある骨が23点あります。これらは亡くなった先祖の骨を護符(ペンダント)として身につけていたものと考えられています。
※子供の頃見たドキュメンタリー番組で、ニューギニアの山岳民俗の女性が、死亡した夫の右足首から先を切断して、まるでプラカードの様に、首飾りとして首にかけていたことを思い出す。このミイラ化した足首もやがては骨だけとなり、後に誰かに発見されたならば、人骨製ペンダントとなるのかもしれない。ただし、ニューギニアの場合は焼人骨ではなく生ものです。
また、台湾の山岳民族の抜歯は縄文人と全く同じなので、こういった文化は南方からの文化として、縄文後期辺りから拡大伝搬していったものなのかもしれません。この頃の気候の寒冷化は、日本列島だけでなく、広く南北太平洋一帯の地球環境にも大きな気候変動をもたらし人々の大移動を案外起こしていたのかもしれません。 |
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弥生時代の始まりむ |
緒立B遺跡 |
緒立B遺跡 |
緒立B遺跡
斜面の土壙と人骨 |
緒立B遺跡
斜面の土壙と人骨 |
人骨 |
焼人骨出土状況 |
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342焼人骨
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焼人骨
11 12 13 |
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11抜歯痕ある下顎骨
12穿孔加工人骨 |
13勾玉・管玉 |
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344緒立遺跡の弥生土器 |
344a
緒立遺跡の弥生土器 |
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6壺 |
7壺 |
8壺 |
9甕
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10深鉢 |
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344b緒立遺跡の弥生土器
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345pottery
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346 |
346a西郷遺跡
ピンボケ |
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10足形土製品
青森に多いが新潟でも |
15 |
11・12管玉
12の管玉は佐渡産の
細形管玉ではないか |
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13勾玉or玦状耳飾片
14
16 |
17 |
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346b
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18石鏃・尖頭器・石匙
西郷遺跡 |
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19磨製石斧
御井戸遺跡 |
動物骨
御井戸遺跡 |
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骨製刺突具 |
炭化米 |
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347弥生時代の暮らし
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西郷遺跡では、現地表面から3m下で建物の柱と思われる木柱が検出され、前・中期の層から炭化米3890粒や丘陵部や山間部に生息するツキノワグマやニホンジカ等の動物の骨464点が出土しています。
当時は竪穴住居や掘立柱建物に居住し、周囲との交流を積極的に行っていた様子が伺えます。中期後半になると、土器にその影響が見えるように、北陸から水稲耕作の技術が伝わったと考えられますが、市内では水田跡はまだ確認されていません。 |
高地性集落の始まりと終り
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後期になると平地から30m以上の丘陵上に高地性集落が出現します。市内では新津丘陵の古津八幡山遺跡や角田山麓の大沢遺跡などがあります。
周囲を環濠で取り囲んでいるものもあることから『魏志倭人伝』でいう「倭国大乱」と関連付けて、戦いに備えた集落と考えられています。
越後平野では新津丘陵から長岡市にかけて平野を見下ろす丘陵上に多く発見されています。
これらの集落の大多数は弥生時代終末期には廃絶されます。 |
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350古墳時代
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前方後円墳に代表される大きな古墳が畿内を中心として各地で造られます。これは畿内のヤマト政権と各地の豪族との間の同盟や主従関係を示すと考えられ、古代国家の支配領域が地方へも及んで行きました。 |
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351古墳の造営
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市内では6基の古墳が見つかっています。角田山麓の山谷古墳・菖蒲塚古墳は日本海沿岸における前方後方墳・前方後円墳の分布の北限となっています。
越後平野の古墳の特徴として、大きくて立派な円墳が多い点があげられています。新津丘陵の古津八幡山古墳の規模は菖蒲塚古墳のそれを上回ります。
緒立八幡宮古墳・観音山古墳は斜面に石を葺く手の込んだつくりで、有力な被葬者像が推測されます。 |
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352土師器 古墳時代 緒立八幡宮古墳、緒立遺跡、葛塚遺跡、山谷古墳
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1、2壺 |
3壺 |
3壺 |
4甕 |
5器台 |
6、7器台 |
7器台、8高坏 |
9高坏 |
10高坏 |
11甑 |
12、13蓋 |
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14線刻のある壺 |
線刻人物画像
葛塚遺跡 |
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353
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15壺 |
16壺、17甕 |
18ガラス小玉 |
19管玉 |
20ノミ形鉄製品 |
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354弥生時代の遺跡 |
354a
稲場塚古墳
弥彦村山岸 |
独立した小丘陵、井田丘陵上の標高44mに位置します。
1992年に測量調査が行われ、全長26mの前方後円墳と考えられています。周辺から土器や弾が採集されています。
古墳の形などの検討から、県内で最初期の古墳と考えられています。
未発掘のため詳細は不明ですが、ボーリング調査から、石室が存在する可能性が指摘されています。 |
菖蒲塚古墳
新潟市西蒲区竹野町
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日本海側沿岸部に置ける最北端の前方後円墳です。舌状台地の先端部の標高約26mに位置します。
2002・2003年の確認調査により、墳丘の周囲に濠が巡る全長54mの前方後円墳であることが明らかになりました。
出土した土器から古墳時代前期後半に作られたこともわかりました。隣接してほぼ同時期と考えられる径21mの円墳、隼人塚古墳が存在します。 |
山谷古墳
新潟市西蒲区福井 |
丘陵先端の標高43mに位置しています。1983・1987年に発掘調査が行われました。
全長37mの前方後円墳で、埋葬施設は割竹形木棺(丸太を縦割りし、内部を刳り抜いて蓋と身にした棺)であると考えられています。
この中からは工具のノミのような鉄製品、土器から古墳時代前期中頃に造られたと考えられます。 |
観音山古墳
新潟市西蒲区樋曽 |
丘陵上の標高約40mに位置します。
1983年に測量調査が行われ、直径26mの円墳と考えられています。部分的に周濠があり、県内では珍しい葺石が斜面で確認されています。立地や周辺の古墳との関係などから前期後半から中期前半頃の古墳であると考えられています。
葺石は周辺の石を利用したと考えられ、緒立八幡宮古墳の葺石もこの辺りから運ばれた可能性が考えられます。 |
新潟平野の前期古墳と集落 |
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355 御井戸遺跡 正尺遺跡 東囲遺跡
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1・2壺、3-5甕、6鉢 |
4-5甕、7鉢、8甑 |
9-14器台 |
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16錘、17砥石 |
18・19管玉、20勾玉、21ガラス小玉、22棗玉 |
23桃種実、24炭化米 |
25籾痕のある土器 |
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356古墳を造った集落 御井戸遺跡と緒立遺跡
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古墳に葬られた有力者の多くは近くの集落に棲んでいました。市内では御井戸遺跡と緒立遺跡が知られています。古墳を造るには多くの労力が 必要です。どちらの遺跡でも多量の遺物が出土しており、多くの人々が生活していたものと考えられます。
阿賀野川以北では、砂丘上に正尺遺跡や上黒山遺跡など古墳時代の集落が多数あります、近くに古墳が存在する可能性が十分考えられます。 |
古墳造営以後
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中期になると越後平野では古墳が造られなくなり、集落の多くが衰退していきます。
一方前期の古墳がほとんど見られない魚沼や上越で古墳が数多く造られるようになりました。
このことから、前期と中期の間で社会に大きな変化があったと考えられますが、その背景については明らかではありません。
葛塚遺跡・中田遺跡などの中・後期の遺跡は、遺跡の少ないこの時期の越後平野の社会像を探るうえで注目されます。 |
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古墳を造った集落 |
周溝を持つ建物-前期
正尺遺跡
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周溝内の遺物-全期
正尺遺跡 |
古墳造営以後
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357 御井戸遺跡 笹山前遺跡
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1・2壺、8甕 |
壺2、8甕、7坏 |
3・5・4高坏 |
6勾玉・剣・鏡形 |
10坏、9鉢、11坏 |
12・13坏 |
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360飛鳥・奈良・平安時代
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律令体制が成立し、地方を支配するために各地に役所が置かれました。
ムラが編成され、役所による土器や製鉄・製塩などの生産管理も行われますが、貴族政治や地方勢力の増大により、律令政治は崩壊へと進みます。 |
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361渟足柵ぬたりのさくの時代
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『日本書紀』には大化3年(647)に渟足柵が作られたことが記されています。その場所は不明ですが、信濃川と阿賀野川が合流していた当時の河口付近にあったと推測されます。この時期の遺跡は少なく、状況もよくわかっていませんが、大沢谷内遺跡では遺物がまとまって出土し、水辺での祭祀の痕跡や掘立柱建物・井戸などが発見されました。当時の人々は、おそらく平野の微高地に居住し、河川を通じて他の地域と交流していたと創造されます。 |
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渟足柵ぬたりのさく |
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渟足柵推定地 |
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手工業生産の基地
飛鳥~奈良時代
大沢谷地内遺跡 |
丸木舟を再利用下井戸
飛鳥時代
大沢谷地遺跡 |
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362大沢谷内遺跡の遺物
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1円面硯 |
2有孔円板 |
3櫛 |
4木簡 |
5舟形、6鏃形 |
7紡錘車、8大甕 |
9羽口 |
10挽物未成品 |
11弓、12櫂未成品 |
15坏蓋 |
14無台坏、16坏蓋 |
19高坏 |
21長甕 |
22長頸壷、23平瓶ひらか |
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363緒立遺跡の遺物
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1斎串 |
2斎串、3鏃、4匙or箆
5琴柱 |
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7瓦塔 |
8和同開珎 |
9紡錘車 |
6サイコロ |
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10土錘 |
11石製錘、12土錘 |
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364緒立遺跡
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13提要硯、14無台坏 |
15有台坏、16坏蓋
18高坏の脚 |
17盤(皿) |
21甕、22長胴甕 |
23横瓶 |
24無台坏(赤彩)、25碗 |
20短頸壷
26小甕 |
23横瓶
27人面墨書の長甕 |
28鍋 |
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365律令時代
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365a律令政治と地方
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律令政治は地方に設置された役所を中心に行われました。蒲原郡内の的場遺跡・緒立遺跡は、大形の建物址や井戸などが検出されました。
また、都で見られる律令祭祀の道具や役人が身につける腰帯金具などの装身具、多くの灰釉陶器名とが出土していることから、役所と関りを持ったムラであると考えられています。
律令国家は水上交通の要所に役所や湊、水産加工施設基地などを作り、地方を支配していたと考えられます。 |
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律令政治と地方 |
倉庫群と墓
奈良~平安時代
四十石遺跡 |
和同開珎 奈良時代
的場遺跡 |
漁網?投網
29イメージ復元-
土錘の使用法 |
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365bムラの暮らし
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貴族が政治の実験を握り、律令による支配が弱まる平安時代は、地方の力が増大する時代でもありました。
9世紀後半になると市内でも遺跡が爆発的に増え、小丸山遺跡・駒首潟遺跡や沖ノ羽遺跡といった有力者が居住する集落が出現します。
その多くが沖積低地の微高地に立地し、河川や潟を利用した水上交通を活かして生活していました。
中央の権力者や地方役人と繋がりを持った有力者もみられます。 |
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ムラのくらし |
水辺の集落
平安時代
駒首潟遺跡 |
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調査区全体写真
平安時代
駒首潟遺跡 |
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365c駒首潟遺跡
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23 |
溝と塀に囲まれた建物 平安時代
駒首潟遺跡
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14仏鉢
1柄杓、2斧、3刀子
4斎串 |
4斎串、5分銅、6砥石
11無台碗 |
7無台坏、8有台坏
9坏蓋 |
10有台皿 |
11無台碗、12有台皿
13無台碗 |
14仏鉢 |
15平瓶、16長頸壷
20小甕 |
17長頸壷、18短頸壷
19長胴甕 |
20小甕 |
21長甕 |
22鍋 |
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366手工業生産の発展
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奈良平安時代の新潟市域では、新津丘陵や角田山麓を中心に、須恵器や土師器などの 焼き物の生産や製鉄が行われていました。
特に新津丘陵には草水町2丁目窯跡・七本松窯跡や金津丘陵製鉄遺跡群などがあり、蒲原郡の手工業の中心地であったと考えられます。
また、海岸部では製塩が行われており、出山遺跡、大藪遺跡などで塩を煮詰めるのに使った製塩土器が出土しています。 |
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手工業生産の発展 |
飛鳥~平安時代の
主要遺跡 |
製塩土器の出土
平安時代
大藪遺跡 |
ピンボケ |
1鉄滓 |
2鉄滓 |
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4鑓やり |
3刀子 |
小鍛冶の図 |
5・6砥石 |
7・8製塩土器 |
9・10羽口 |
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367草水町2丁目窯跡
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竪型炉の製鉄 |
製錬炉と木炭窯 |
竪型炉と踏みフイゴ
平安時代
大入C遺跡 |
土師器焼成土坑
平安時代
草水町2丁目窯跡 |
須恵器
平安時代 草水町2丁目窯跡
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1壺
2・3壺蓋 |
3・4壺蓋 |
5横瓶 |
6壺、7壺蓋 |
8・9壺 |
9・10壺 |
11-13無台坏
14坏蓋
15焼台 |
16分銅、17風字硯 |
19粘土塊、18切りくず |
20須恵器 鳥形製品 |
21 |
22須恵器甕 |
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380鎌倉・南北朝・室町時代
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武士による支配、戦乱などにより社会の仕組みは大きく変わります。手工業や農業が発達し、国内の商業活動は盛んになりました。
中国からも銭貨や陶磁器などが輸入され、海運や河川交通を利用して広域に流通していました。 |
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381人々のくらし
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食器の主体は土器から漆器になり、煮炊きには鉄鍋が使われるようになりました。擂鉢や石臼で穀物などを粉にする調理法も現れ、食生活にも変化が見られました。これらの道具は各地で商品として生産された物が多く、北日本や中国・朝鮮を結ぶ環日本海交易で運び込まれました。また、大陸から輸入された銭貨や陶磁器が一般集落遺跡でも出土しており、流通が盛んであったことが伺えます。 |
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382
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30 |
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1~9かわらけ
馬場屋敷遺跡
山木戸遺跡
下前川原遺跡 |
10・11漆器椀
12瀬戸卸皿、
14瀬戸合子
沖ノ羽遺跡
内野遺跡
和納館遺跡 |
15瀬戸瓶子
森下古銭出土地
29八角皿(中国)
内野遺跡 |
16鉄鍋
内野遺跡
17擂鉢(珠洲)
間瀬沖遺跡 |
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383
18珠洲-壺
19珠洲-甕 |
20珠洲-壺 |
21~28土器片
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31銭貨 |
32釣針 |
34~37 |
33鉛製錘
38炭化麦
39籾殻
40硯 |
40~44 |
40硯
4~44砥石
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45茶臼
46粉挽臼 |
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390安土桃山・江戸時代
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武士による天下統一が進みます。江戸時代では幕府の鎖国政策により独自の文化・経済が発達しました。各地で生まれた陶磁器・漆器・織物などの特産物は商品として、街道・行路を通って流通していきました。 |
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391庶民の暮らしと新潟湊
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近世になると、衣・食・住の道具は多様化し、化粧道具や玩具・喫煙具・園芸品といった生活を楽しむための道具も普及しました。
発掘調査では、町屋や農村集落綛口紅を入れる紅皿矢整髪油を入れる油壷、人形・泥面子・煙管などが出土しており、
武家社会と変わらない物資の豊かさを感じさせます。これらの商品は、海路によって全国から運び込まれた物が多く、新潟湊はその集散地となって
賑わいました。 |
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庶民の暮らしと新潟湊 |
近世新潟町の範囲 |
新潟湊
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湊町の調査
江戸時代
近世新潟町跡
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建物の土台
江戸時代
近世新潟町遺跡 |
砂地・湿地であるため柱の下に横木を敷いて建物を建てる。縄文時代からの建築方法。 |
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392
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2.5碗
1.3.4皿 |
5.碗 8.鉢
4.6.皿 7碗 |
10擂鉢 |
9捏鉢 |
14.15蓋
13蓋
11.皿 12台付鉢 |
16焙烙ほうらく |
17火鉢 |
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500 |
企画展「天王山式土器から見た東日本の弥生社会」
500天王山式土器2
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510 |
511滝ノ前遺跡 村上市岩ヶ崎
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遺跡は日本海に臨む三面川河口の右岸に形成された段丘上に立地し、標高は42mである。
県道村上温海線建設に伴い遺跡が発見され、発掘調査は村上市教委によって1971に行われた。調査により縄文~古墳時代の遺構・遺物が確認されている。
弥生後期後半の竪穴住居が3棟確認されており、いずれも平面形は円形で壁溝があり規模は直径5~5.5m程度である。
弥生土器は、中期中葉の宮城系(桝形囲式)、中期後半の北陸系(小松式)、長野系(栗林式の折衷)も若干あるが、後期(後期後半)が主体である。展示遺物は後期後半の遺物を抽出したものである。
後期の土器は、東北系が主体ではあるものの、阿賀野川以北の弥生時代後期の遺跡の中では突出して北陸系土器の比率が高く、ランドマークのような場所に立地した遺跡の特性をよく示しているといえる。
土器のほかにもアメリカ式石鏃などの石器、土錘などの土製品がある。 |
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滝ノ前遺跡
村上市岩ヶ崎
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弥生後期前半 |
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口縁部下端の
交点刺突下向連弧文
の変遷 |
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513兵衛遺跡 胎内市宮川字兵の衛
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兵衛遺跡は胎内川左岸から南に約7kmに位置し、砂丘内陸側の張り出し部分に立地する。
標高3.5m前後である。発掘調査は圃場整備関連の堪水防除事業に伴い、旧中条町教委により1996年に行われた。弥生時代後期の東北系土器(天王山式系列土器)と共に北海道~東北北部に由来する続縄文土器(後北C1式~C2・D式)が出土している点が注目される。
弥生土器は、少量の中期後半と、東北系(天王山式系列)、続縄文土器がある。
天王山式系列土器群には、頸部に小連弧文を入れたり、頸部に重菱形文、体部上半に大型山形文を入れたりする所謂キメラ土器、
台形状の交互刺突文など古相を呈するものが目立つ。
現状では続縄文土器が新潟県内で最も多く出土している遺跡である。
続縄文土器には時期幅があるが、太平洋側で出土例の少ない後北C1段階(鷲ノ木式)が一定量出土していることは注目される。太平洋側よりも古い後期前半段階から北海道南部から直接的・間接的に往来があったことを示す遺物として重要である。 |
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兵衛遺跡
胎内市宮川字兵の衛 |
石動遺跡 |
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弥生後期前半 |
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頸部重菱形文+上胴部山形文のキメラ土器 |
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515王子山遺跡 新発田市小川
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遺跡は日本海沿岸から内陸に4.5km程砂丘上(新砂丘Ⅰ-1)に立地する。標高5.2m~5.8mである。同一砂丘上にある山草荷遺跡の北東1kmに位置する。発掘調査は紫雲寺地区の圃場整備事業に伴い、新発田市教委が2005に行った。
砂丘上は削平され、遺構は検出されなかったが、斜面から縄文時代~中世の遺物や古墳時代・古代・中世の遺構が見つかった。
弥生時代の遺物は、前期~中期初頭、中期後半~後期の土器があるが、中期中葉はないようだ。
中期後半の土器には北陸系(小松式)、会津系(川原町口式)、秋田系(宇津ノ台式)、折衷式などがあり、近接する山草荷遺跡とよく似た状況を示している。
山草荷遺跡では後期まで続かないが、本遺跡では後期前半の天王山式系列土器が一定量出土している。
重菱形文の構図や磨消縄文が少ないこと、2本単位の沈線で連弧文を入れたものや、撚糸文(R)が一定量あることなどが特徴である。
石器には、石鏃・石錐・楔形石器・磨製石斧・多頭石斧などがある。 |
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517五千石遺跡 長岡市寺泊敦ヶ曽根、燕市五千石
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遺跡は日本海から内陸へ約4km、信濃川・西川・島崎川の合理有する交通の要衝に位置し、北西から南東方向に延びる幅40~60mの自然堤防上に位置する。標高12m。発掘調査は大河津可動堰改築に伴い長岡市教委(2006-7)、燕市教委(2006・2007)に行った。
弥生時代から古墳時代前期の遺構が見つかっている。全国で数例しか発見されていない、古墳時代前期の鍛冶場遺構も検出され、注目される。
弥生時代の遺構は、周溝をもつ建物1基、方形周溝墓1基、土坑2基などで、所属時期は出土土器から中期後半と考えられている。
遺物は中期・後期の土器と石器などがあり、中期後半は北陸系と長野系、後期は北陸系・東北系の折衷系と近江系・長野系土器がある。
明瞭なまとまりはないが、後期前半の北陸系土器と共に東北系(天王山式系列土器)が多く出土している。日本海や河川に近い立地や、北陸系・東北系・折衷土器などが共に出土しており、六地山遺跡と近似した様相を呈している遺跡の一つである。 |
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五千石遺跡
長岡市寺泊敦ヶ曽根
燕市五千石 |
北陸系も出土するが展示資料は東北系及び折衷土器
弥生後期前半 |
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520 |
521五斗田遺跡 長岡市 弥生時代後期前半
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523松ノ脇遺跡 長岡市三瀬ヶ谷字松の脇
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遺跡は島崎川右岸の丘陵上に立地し、標高25~35mを測る。島崎川左岸丘陵上にも奈良崎遺跡や大武遺跡などの弥生時代の遺跡が所在する。
この島崎川流域から南の別山川流域にかけては、新潟県内で弥生時代の遺跡がもっとも濃密に分布する地域の一つとして注目される。
発掘調査は旧和島村教委によって1997に行われ、弥生中期後半から後期の良好な遺物が出土した。
弥生時代の中期後半は、秋田系(宇津ノ台式)・会津系(川原町口式)・北陸系(小松式・戸水B式)・長野系(百瀬式・栗林式)土器や各系統の折衷土器など複雑な様相をしている。
後期前半には、頸部に重菱形文に由来する文様を入れた東北南部系(天王山式系列)が出土しているが、県内の同時期の遺跡のように北陸系土器は見つかっていないようだ。
石器には、石鏃や耕作に使用したと考えられる石鍬などの石器が出土している。
遺跡としては一見継続しているように見えるが、各系統の土器群からなる中期後半と、東北南部系土器群に統一される後期の間には大きな画期があったと考えられる。 |
松ノ脇遺跡
長岡市三瀬ヶ谷字松ノ脇 |
弥生後期前半 |
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弥生中期後半 |
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550 |
551横山遺跡の周辺 (長岡市と見附市の市境周辺)
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横山遺跡の周辺の猿橋川流域には、弥生時代から古墳時代の大規模な遺跡が見られる。
いずれも東山丘陵から派生した丘陵や、突き出た尾根周辺に立地しており、1km内外の近接した距離に分布している。
弥生時代後期から古墳時代早期にかけての環濠集落と墳墓からなる横山遺跡を中心に見ると、北側に弥生時代中期・後期と古墳時代早期・前期を主体とする五斗田遺跡と弥生時代後期の集落と墳墓が見つかった藤ケ森遺跡、そして横山遺跡の南側には弥生時代中期から後期にかけての環溝集落と推定される原山遺跡が存在する。
一方、見附市側では弥生時代中期から後期の環濠集落である高稲葉遺跡や、同時期の高地性集落の岩沢遺跡がある。
標高が高く平野部との比高差のある高地性集落と、比較的標高の低い丘陵にある環濠集落、さらには沖積地に立地する集落がある。
沖積地の集落も見られるが、防禦的集落が集中している地域と言える。
新潟県内で弥生時代から古墳時代への移行期の集落がこれだけまとまっている地域は少なく、十分な調査がなされないまま多くの遺跡が壊滅してしまったことは遺憾である。 |
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横山遺跡の周辺
長岡市と見附市の市境周辺 |
横山遺跡雌雄片の弥生中期~古墳初頭の遺跡分布
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553来清東遺跡 南魚沼市塩沢字来清他
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遺跡は上越線塩沢駅より南西に400m程の場所にあり、魚沼丘陵を源とする鎌倉沢川による扇状地の扇端部に立地する。標高187m。発掘調査は塩沢町教委によって1998・1999年に行われた。
竪穴住居1棟・掘立柱建物1棟・土坑などの遺構が検出されている。
竪穴住居は平面形は円形または楕円形と考えられ、規模は長軸約5.5mで、柱穴2基と炉跡が検出された。
床面上から弥生中期後半の長野系(栗林式)土器のみが出土している。
弥生土器は、中期後半の長野系(栗林式)土器のほかには、後期前半の東北南部系(天王山式系列土器)が一定量見つかっており注目される。
1998年に出土した2点の大型壺は、1点は頸部の短い器形で能登遺跡に類例が多く、もう1点は撚糸文(R)を地文に鋸歯文を入れた壺形土器である。一緒に出土した甕形土器と共に天王山式系列土器の古い様相を残している。重菱形文や鋸歯文を施文した土器、結節縄文を施文した土器なども同時期であろう。 |
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555下老子笹川遺跡 富山県高岡市福岡町
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遺跡は小矢部川の支流である荒又川と祖父川に挟まれた佐野台地上に立地し、標高は約14~18mを測る。
弥生時代後期には、南北250m×東西150mの範囲に集落が広がり、周溝をもつ竪穴住居15棟、竪穴住居8棟、周溝をもつ平地式建物4棟、掘立柱建物や周溝遺構・道路・溝・土坑などが見つかっている。
これまでの調査で、130点以上の東北系(天王山式系列土器)、アメリカ式石鏃等の東北系の遺物が出土しているが、在地北陸系土器に伴う場合と、北陸系土器を交えずに単独で出土する場合がある。
能越自動車道地点B7地区Sl19竪穴住居からは後期前半の在地系土器に伴って、天王山式土器が出土しており、古津八幡山遺跡同様に、両者の並行関係が検証されている。
また、約200m西の旧福岡町調査地点では、在地系土器を混じえずに東北系(天王山式系列土器)だけが出土し、長野系の吉田式土器が伴う。
旧福岡町調査地点及び新幹線調査地点では、重菱形文系天王山式土器が多く、注目される。 |
下老子笹川遺跡
富山県高岡市福岡町 |
富山県出土の重菱形文系天王山式土器 |
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弥生後期前半 |
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加納谷内遺跡(富山) |
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590吉田高校グランド遺跡 長野市吉田
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遺跡は飯縄山を水源とする浅川によって形成された扇状地の扇央に立地し、標高は約390m。1970年の発掘調査で集落遺跡が発見された。
調査では多量の土器が出土し、弥生時代後期初頭の土器形式「吉田式」が設定された。その後も数回の発掘調査が長野市教委により行われ、これまでに竪穴住居30棟以上見つかっている。
これまでに吉田式土器と共に東北系土器 (天王山式系列土器) 18点とアメリカ式石鏃6点が出土している。吉田式との折衷土器が多く、地元で作られた土器が大半である。
これらの東北系土器の搬入ルートは、重菱形文系列土器を根拠に考えると、類似する土器が多く出土している北陸経由の可能性が高いと考えられる。富山県高岡市下老子笹川遺跡(福岡町調査地点)で多数の重菱形文系土器に伴って吉田式土器が出土しており、双方向の人の移動があったことを示している。 |
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吉田高校グランド遺跡
長野市吉田 |
石川県出土の重菱形文系天王山式土器 |
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吉田高校グランド遺跡 |
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700移築住居 旧武田家住宅
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この建物は、木場の武田家が住宅として使用していたものです。
旧黒埼村が同家から寄贈をうけ。昭和46年に緒立に移築したものを、平成23年、現在の地へ移築しました。
武田家は、曽根村の肝煎りとして新田開発に尽力した高橋源助の子孫であると伝わっています。
この建物が最初に建てられたのは、18世紀前半と推定され、市内で最も古い民家と考えられます。土間には独立柱が立ち、差鴨居などにチョウナ仕上げの痕跡が残るなど、古い建築の手法が見られます。その後、時代と共に改造を受け、屋根の形状も変更され、現在の形になりました。
明治期には「裏中門」が付け足されました。「ダイドコロ」と「小間」の奥には床高をあげて中二階建てとした「寝間」が二室あります。
この地域(西蒲原郡の低湿地)では、信濃川・中ノ口川の破提により、たびたび水害に見舞われました。「裏中門」には、洪水に備えた防災の知恵がよく表れています。 |
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