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 北部九州の縄文 №34   2020.11.20-1


  塚原歴史民俗資料館  熊本県熊本市南区城南町塚原1924
   0964-28-5962 月休、撮影可

交通 熊本駅周辺に沢山レンタカーがあります。少し高いけれどここで借りていきましょう。
 
 



01熊本駅

 塚原歴史民俗資料館
03復元建物
04塚原古墳公園総合案内
06古代の儀式
07収穫を祝う古代の祭

100資料館入口
101黒橋貝塚断面
110石棺

120旧石器時代
121土に秘められた歴史
122旧石器
125地下に歴史を掘る
127沈目石遺跡
130旧石器時代の宇城地方

140縄文時代の宇城地方
142阿高式土器
143縄文土器
150縄文土器の移り変わり
160自然の恵み
165黒橋貝塚人の一年
167貝類・獣骨
170黒橋貝塚
174黒橋貝塚の骨角器
180御領貝塚の土器


200弥生時代の宇城
203弥生土器
210弥生住居
213弥生土器
220弥生時代の暮らし
222自在鉤
223弥生の石器
226鉄器
230新御堂遺跡の銅製品
233青銅器
235巴形銅器
240台付舟形土器
250稲作の祭り

260葬送
270免田式土器
280原始機
290弥生時代の農具


300琵琶塚古墳模型
305縄文石器
307石組炉
310甕棺墓
315弥生土器
320古墳時代の土器

330古墳時代
330塚原古墳群
333塚原古墳群模型
340古墳時代の宇城
343古墳時代の土器
350塚原古墳群主要古墳
360古墳時代の装束

365石製表飾出土古墳
371器台と壺
373小型石蓋土坑
381宇城地方の主要横穴墓
382横穴墓出土土器
385宇城地方の横穴墓
391古墳時代のムラ跡
392日常土器
393古墳時代の庶民のくらし
395古墳時代の建物
400古墳中期土器
402皮袋形土器

407古代土器
431古代の宇城地方
433沈目遺跡は役人の村跡?
435城南町の古代遺跡
437土器
440瓦の変化
450陳内廃寺
460年表


500塚原古墳群
502三段塚古墳
503大円墳
505丸山2号墳
507塚原古墳群
511花見塚古墳
521りゅうがん塚古墳

 肥後型横穴式石室とは
 
 
 01熊本駅
熊本駅 西熊本駅
無人駅なのにチョーでかい、熊本駅並みです
 


  塚原歴史民俗資料館


 03復元建物
 竪穴住居と高床倉庫
 これらの建物は、熊本市南区城南町塚原に所在する上の原遺跡で見つかった古墳時代の竪穴住居跡と高床倉庫をモデルに復元したものです。
古墳時代の人々は、竪穴住居で生活し、稲や雑穀を栽培し、高床倉庫に保存していました。
上の原遺跡からは、総数450基にも上る竪穴住居跡や数棟の高床倉庫跡が検出されました。
その多くは古墳時代前期から中期(1600から1550年前)の竪穴住居跡で、隣接する塚原古墳群とのつながりが考えられます。

 竪穴住居
モデル:上の原86号竪穴住居
規 模:5.63m×5.49m
出土遺物:土師器=甕・壺・小型丸底壺・高坏
     須恵器=壺・甕
年 代:5世紀中頃 (約1,550年前)

 高床倉庫
モデル:上の原1号掘立柱建物
規 模:43m×49m
出土遺物:須恵器 円面硯、須恵器 突帯付長頸壷
年 代:7世紀初頭 (約1,400年前)

竪穴住居と高床倉庫
上の原遺跡全景 竪穴住居
高床倉庫 竪穴住居 竪穴住居内 高床倉庫



 04塚原古墳公園総合案内
 塚原古墳公園は、史跡・塚原古墳群を保存し、多くの方々に利用いただけるよう整備した史跡公園です。
公園の整備工事は、城南町が国や県の補助を受けて実施しました。
 公園内には、前面に柴が張られ、復元された古墳や、内部観察のできる古墳、模型や説明板などが設置されています。

 また、春には桜やツツジ・サツキが、梅雨時にはアジサイが、秋にはコスモスが咲き揃い、四季折々の花を楽しむことが出来ます。
 さらに県民天文台や大型遊具を設置した遊び場も設けられており、子供たちの学習の場として、家族のいこいの場として、古代をしのびながらご利用いただけます。

塚原古墳公園総合案内
古墳公園全景 北部展示施設天文台等
中部 遊具等 南部 コスモス畑頭 ガイダンス施設

 06古代の儀式
  古代の儀式の様子を石造物で表現しています。詳細は次項07で説明されています。

 07収穫を祝う古代の祭
 古くは樹木や岩を神霊の寄り付く依り代(よりしろ)と考えて、その前で祭が行われていました。
この石像群は、おおよそ1,500年ほど前、神木の前で舞を奉納し、収穫を祝う祀りを行っている場面です。
 全体の雰囲気は、『年中行事絵巻』に見える里神楽や『古事記』のアメノウズメノミコトの舞の記述などに基づいて作り上げました。
 「天宇受売命(あめのうずめのみこと)、天の香山の天の日影を手次に繋(か)けて、天の真析(まき)を縵(かずら)と為(し)て、天の香山(香久山)の小竹葉
を手草に結いて」 『古事記』から (天の石屋)

 舞う巫女を軸に、横笛・太鼓・鼓で囃(はや)す囃子(はやし)、それらを見守る豪族・婦人・若者・長老、警護の武人からなっています。
 ただし、資料館前の展示なので、武器や武具を多くしました。
 楽器は、神楽など日本の祀りで一般的な横笛と太鼓にしました。その形態や演奏法は、埴輪・古代の絵巻物・奄美の八月踊り・関東の三匹獅子舞などを参考にしました。
 衣服・髪形・装身具・武器・武具などは埴輪・古墳出土品・古墳の壁画・南西諸島や本土の祭の使用鏃などに基づいています。

古代では、鶏は時を告げたり、祭祀のために飼育されていました。神様に馬を奉納することも古くから行われており、
収穫後に山に蛙神様の乗り物とする地域もあります。
鶏や馬は古い珪質を残すものとして、熊本県指宿の久連子鶏と鹿児島県指宿のトカラ馬を参考にしました。

収穫を祝う古代の祭
農夫の埴輪 群馬県
 オクマン山古墳7c
大きな髷の女性埴輪
 栃木県牛塚古墳6c
沖縄久高島の
イザイホー
年中行事絵巻
平安時代
奄美大島8月踊りの太鼓
太鼓を打つ男性埴輪
 群馬県境町7-8c

あごひげの男性埴輪
 千葉県姫塚古墳7c
正装した女性埴輪
群馬県伊勢崎氏豊城町横塚7c
短甲 復元模型

方頭大刀
 群馬県藤岡町古墳

環頭大刀
 静岡県船津古墳

挂甲 復元模型図
久連子鶏
騎馬人物像(高句麗)
 

 100塚原歴史民俗資料館入口
 101黒橋貝塚断面
これは平成元年から平成3年まで発掘調査が行われた黒橋貝塚(浜戸川川床地区)の貝層で、縄文時代中期から後期のものです。
貝層の中には多くの縄文土器
・石器の他、イノシシ、シカなどの獣の骨や魚の骨も含まれています。

額の代わりの
剥ぎ取り標本
全てピンボケです
 
 110石棺
 資料館敷地内で発掘された、古墳時代後期(6世紀頃)のもの。 ※古墳群の外にまだ古墳があったということですね。
石棺は大小8枚の凝灰岩の切石を使い、石と石の開いだには粘土を用い、内壁には赤色顔料が塗られています。
 棺の中には男性一人と女性2人が合葬されていましたが、副葬品はありませんでした。
頭を北側に向けられた若い男女2人と南側に向いた中年の女性1人は、どういう関係でなぜ一緒に埋葬されたのか、不明です。

 ※若い王族が死んで、その妾が殉死させられ、中年の下女が殺されて死後の世界で世話を仰せつかったようですね。

石棺
ガラスにさわるな
石棺 人骨出土状況

 須恵器大甕
 この大甕は、塚原古墳群中野丸山3号周溝内より出土しました。
塚原古墳群からは、おびただしい数の土器が出土しましたが、その中で最も大きく、高さ約1m25cm最大幅95cmを測ります。
水甕として利用されたものでしょう。

 ※共献土器が沢山発見されたということは、墓前祭祀が長く続いようです。墓前で使った土器は持ち帰らない。その次来た時に溝に捨てる。
 墓地に水瓶が仮にあったとするなら、何に使ったのか。私は、ただの共献土器だと思います。周囲に水場がない所で、甕に雨水を貯めておくと、
すぐ腐ってしまいます。そんなもの使えないし、何のために水瓶が必要なのか。と思います。
 ただし、中世の墓地には、同様に大きに水瓶が置かれていました。これって何でしょうね。

縄文土器 弥生土器 (免田式)
須恵器
須恵器大甕


 120旧石器時代

 121土に秘められた歴史
 遠い昔、私たちの祖先はどんな暮らしをしていたのでしょうか!そのヒントを与えてくれるのが、土の中から見つかる土器や石器などです。
 この国に私たちの祖先が住み着いたのは、数万年も前のことでした。人々は獣を追い、魚や貝、木の実を求めて生き続け、
長い歴史の中で土器をつくり、米作りを覚え、「ムラ」が生まれ、「クニ」が出来ました。
 私たちの郷土に生きた祖先たちも、この“時”の流れの中を、喜び・悲しみ・怒り・苦しみながらたくましく生き抜きました。
だから土中にねむる土器や石器の一つ一つにも、様々な人の想いが込められ、長い歴史が秘められているのです。

土に秘められた歴史
 122旧石器
旧石器時代~人間生活の始まり~

 
 125地下に歴史を掘る
阿高城(中世)
新御堂遺跡(中世)
軒先瓦(陳内廃寺)
陳内廃寺 古代
今西原(弥生) 塚原古墳群
青銅器(新御堂遺跡)
新御堂遺跡(弥生)
新御堂遺跡 弥生
旧石器
沈目遺跡
沈目遺跡 旧石器
縄文土器 黒橋貝塚 骨角器 黒橋貝塚


 127沈目石遺跡  熊本県最古の旧石器遺跡   3万年以前の遺跡

 新聞記事
注目を集める沈目遺跡(城南町)調査成果
貴重な「石器文化」の発見       木崎康弘

中期旧石器の特徴とどめる
 「捏造」後の空白に手がかり

日本列島にいつ人類が住みついたのかは、日本列島に住む人間としてとても興味深い問題である。ところが、この問題に陰を落とした事件が2年前に起こった。 2000年11月5日発覚の「石器捏造」である。東北旧石器文化研究所の藤村新一氏が関与した石器が研究の対象外となり、関与外の石器であっても不確実なものとされたり、さらには研究者が捏造を見抜けなかったことが批判されたりと、日本各地で旧石器研究の現場が指弾されてきた。

それは9石器捏造の汚染が及んでいない九州においても例外ではない。しばらくの間、九州の関係遺跡についても研究を白紙に戻したり、保留にしたりすることが肝要なのであろう。
こうした状況の中、下益城郡城南町の町教育委員会による沈目遺跡の発掘調査が2000年5月から01年初めにかけて実施された。その調査成果は発掘当時それほど注目されなかったが、実は日本列島の旧石器時代研究にとって、極めて重要な意味を持つものであった。

推定3万2千年前
01年10月筆者は沈目遺跡の石器と初めて対面した。一つ一つの石器をこれまでの経験に照らしながら自分なりに観察。特に目を引いたのは、鋸歯状の刃を持つ石器や次の時代につながりそうな石器など、とても古い印象を覚える。古拙な石器の数々であった。

観察を終えた後、確信に近い思いがあった。それは「確実に中期旧石器がここにありそうだ」と言う思いである。この印象は同年11月8日の観察の中で、さらに確実なものとなった。筆者は、この石器全体を「沈目石器文化」と呼ぶこととし、全国の研究者に発信した。

沈目石器文化は、後期旧石器から中世までの舞原台地にある沈目遺跡(標高29m)の地表下1mの地層中から出土した。出土石器数は373点。年代は同じ時期の石の本八区石器文化の放射性炭素年代から32000年~33,000年前と推定される。これは35,000年前頃と言う中期旧石器から後期旧石器への移行期に近い値である。

注目の類ナイフ状
石器の中で注目したいのは、台形ナイフ・切り出し形ナイフによく似た類ナイフ状石器(台形状・切り出し状)と荒い加工のギザギザの刃を持つ古拙な鋸歯状削器である。

台形状や切り出し状の類ナイフ状石器は次の時期のナイフ形石器の原型となる石器。鋸歯状削器は中期旧石器時代につながるが、後の時代につながらない石器である。つまり、沈目石器文化は、後期旧石器の成立期にありながら、新しい内容の出現以前、つまり中期旧石器の内容を留めている、と言う評価が可能なのである。

そしてこの評価は1989年の論文で、筆者が指摘した予測的見解、「ナイフ型石器文化以前の石器文化と第Ⅰ期とが、直接的な技術的関連を持っている (中略)技術が、九州ナイフ形石器文化成立期における基本的な剥片剥離技術であった」こと、また「第Ⅰ期は(中略)ナイフ形石器文化以前の石器文化にその系譜をたどることができる」ことを証明するものであった。

全国から熱い視線
「石器捏造」以降、日本列島の中期旧石器研究は、20年前の研究状態に立ち戻り、新たな第一歩が求められている。そのためには、ここ20年来の浮き足立った研究姿勢と決別する、地道で確実な研究姿勢が必要である。このことは「後期旧石器成立期の石器の種類や作り方の特徴を詳しくを明らかにすることによって、これまで出土している中期旧石器の石器や今後発見される石器の検証(資料批判)が可能になるのである(中略)。

こうした資料をもとにした、後期旧石器から中期旧石器を照射すると言う地道な研究こそが、今、上高森スキャンダル後の旧石器研究に求めて求められている」と、本紙で指摘た筆者の問題提起につながる。
こうした意味で、今回の沈目石器文化の発見は、画期的かつ貴重であり、全国の研究者から熱い眼差しが向けられているのである。(県教委文化課)

沈目遺跡の石器 捏造後の上高森遺跡
使用痕のある剥片
と接合資料
石核
剥片石器を剥ぎ取った母石
剥片 二次加工のある不定形石器 類ナイフ状石器

ナイフ形石器のたぐい
という意味か
抉入石器抉り入りの加工は柄に装着した時、石器が抜けにくくなるように革紐などを掛けたから 削器
礫器、敲石ハンマー
石器加工の道具
台石
石器加工時の台
これまで石器加工の実験考古学では、手に持ち、鹿皮の上で、石や鹿角で叩くのは見たが、

加工台が有ればもっと便利。初めて見ました。
 

 130旧石器時代の宇城地方
 131
 人類が地上に現れてから、人は火を使ったり、粗末な石器を持つことなど、道具を用いることを覚えました。
人々は数回の氷河期の訪れや、厳しい自然環境の中で生き抜いたのです。この時代のことを考古学では旧石器時代と言います。
そして、今から二百万年前から一万年前ごろまで続きました。

 宇城地方では、宇土市の田平遺跡松橋町の曲野遺跡城南町の上の原遺跡沈目石遺跡などから旧石器時代の遺物が見つかっています。

旧石器時代の宇城地方
 132旧石器
細石器
後田遺跡
旧石器
塚原・上の原遺跡
ナイフ形石器
小国町下城
台形石器 と装着例
尖頭器
小国町下城
石核
小国町下城
 


 140縄文時代の宇城地方

 141
 寒かった氷河期が終わり、温暖化が進むにつれて、地球上の人々の活動は活発になっ行きました。
このことは日本列島においても変わることなく、土器や弓矢という新しい道具を手にすることによって、食生活や狩猟技術の上で大きな進展を見ました。

また温暖画によって生じた内陸部への海の進出(縄文海進)は、魚介類の捕獲に好都合となり、全国に多くの貝塚が造られました。
この時代の土器には、縄目の文様をもったものが多く見られることから、縄文時代と呼ばれ、約13,000年前から1万年以上も続きました。

縄文時代の宇城地方

 142阿高式土器 阿高貝塚:熊本市南区城南町阿高
九州の縄文土器の中で、最も大胆で華やかな文様をもった縄文中期後半の土器です。

 土器の製作とクジラの脊椎板
黒橋貝塚から出土する土器の底を観察すると、凸凹の文様があることに気づきます。
これは、クジラの脊椎板を土器期作りの台として利用しているからです。
 黒橋貝塚の時代は海が近く、時にはクジラが浜に打ち上げられることもあり、これらを捕獲して利用したのでしょう。

阿高式土器 土器の政策とクジラの脊椎板
脊椎板模様の土器底部

 143縄文土器 縄文時代~狩りと採集の時代~

深鉢
円筒型土器 早期
沈目石遺跡
深鉢
円筒型土器 早期
沈目石遺跡
阿高式土器
押形文土器
早期 約8千年前
中後迫遺跡
南福寺式土器
後期 約4千年前
黒橋貝塚
 
 150縄文土器の移り変わり
 151
早期~晩期 早期~中期 中期~後期 後期~晩期

早期
円筒土器塞ノ神式
早期 轟B式田村式
沈目式
前期 轟C式    
前期 曽畑式 中期 阿高式系
 並木式・阿高式
後期 阿高式系
 南福寺式御手洗A式
後期 鐘ヶ崎式系
鐘ヶ崎式
中期 竹崎式系
竹崎式
後期前半
北久根山式西平式
後期後半
黒色磨研土器
三万田式鳥井原式
御領式
晩期
黒色磨研土器系
天城式古閑式×2
晩期突帯文系
山の寺式

 155縄文土器
 縄文土器は私たちの祖先が最初に手にした土の器です。この器を持つことによって人々は、焼くだけの簡単な調理から、煮る・蒸す・煎るなど
多様な調理が容易にできるようになりました。

 ※しかし、何といっても、暖かい湯が簡単に手に入るようになったことが一番でしょうね。
 以前は、地面のくぼみに鹿皮を引き、水をため、そこに焼石を入れて温水を作っていました。

後晩期の土器 縄文土器 出水式土器
後期 約3900年前
八代郡鏡 宇佐貝塚
古閑(新)式土器
晩期 約2600年前
益城町古閑
山の寺式土器
晩期 約2500年前
下益城郡曲野

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鐘崎式
後期 約3500年前
城南町 阿高貝塚
 
 160自然の恵み
縄文時代の自然の恵み
クヌギ・エビヅル・
イチイガシ・ヤマイモ
ヤマモモ
シカ・イノシシ サルボウ・ハマグリ
・ハイガイ・カキ
イワシ・スズキ・
クロダイ・サメ
磨り石と石皿
塚原遺跡
 
165黒橋貝塚人の一年
 166縄文カレンダー

 167骨角器
獣骨類 阿高貝塚
ヒョウタン
縄文前期 約6千年前
曽畑低湿地遺跡
いのしし・ニホンジカ
 168貝類 阿高・黒橋貝塚
テングニシ・ヤマトシジミ・アサリ・シオフキ ハマグリ
カワニナ・イボニシ
シオフキ・ヤマトシジミ
アサリ・イノシシ牙
 169
イタヤガイ・ハイガイ カキ
 
 170黒橋貝塚
 171
発掘作業 出土人骨

 173黒橋貝塚 くろばし 城南町大字下宮地字能無
 黒橋貝塚はも昭和47年の大洪水によって発見された縄文中期から後期(約4000~4500年前)の貝塚です。その一部は川底に埋没しており、よく保存されています。
発掘調査は浜戸川の河川改修に伴って平成元年から3年にかけて行われ、縄文土器を始め網の重りや石の斧などの石器、獣の骨や角を使った骨角器、編かごなどが多数見つかりました。
また、当時の人々が食べた獣の骨やドングリなども出土し、縄文人の暮らしぶりを知るうえで大きな成果があげられました。

 動物遺体
 黒橋貝塚の人達は、色々な動物を食べていたことかが想像されます。その中の一部が貝塚から殻や骨の状態で発見される動物遺体です。
 動物遺体の中で最も多いのは貝類で、全体の95%を絞めています。この他獣では、シカとイノシシ、魚では、イワシが圧倒的に多いようです。
また、クジラが発見されていることは注目されます。

黒橋貝塚 動物遺体 シカ・イノシシ サル
 174黒橋貝塚の骨角器
 黒橋貝塚から出土する骨角器には、猪の牙や鹿の角、魚の骨などが使われています。
土器などの施文具として使われたヘラ状工具、矢尻や匙の細工用の刺突具、網の製作や修理用の骨針などの工具、
やす・銛などの漁撈具、笄・猪牙製玉・猪牙製腕輪・魚骨製ペンダント、魚骨製耳環などの装身具が見られます。

黒橋貝塚の骨角器 骨格系道具
中期 約4500年前
骨格製道具
中期 約4500年前
 175
噴石
縄文中期 約4500年前
黒橋貝塚
鯨脊椎版
中期 約4500年前
貝面
中期4500年前
大珠
中期4500年前

 貝製仮面
 縄文時代中頃(今から約4500年前) に、九州地方で始まった貝を使った仮面づくりは、やがて九州以外の地域に広がり、土や石を使った仮面が作られるようになります。
これらは縄文時代の人々が思い思いに描いた神や精霊の顔をあらわしていると言われ、祭の道具と考えられています。
 展示品は、イタボガキを加工して作られた貝製の仮面で、全国で最も古い仮面で約4500年前のものと思われます。大正5年発見。

貝製仮面 イタボガキ製仮面 ※イタボガキ貝殻製仮面は 半島系の遺物です。
 

 180御領貝塚の土器 後期
 御領貝塚から出土する御領式土器は、表裏が黒色に研磨されたものが多く、黒色磨研土器と総称されています。
文様はほとんどなく、僅かに口縁部に2~3条の凹線が見られます。器の種類には、、深鉢・鉢・浅鉢・注口土器などがあります。

浅鉢 鳥井原式
後期
深鉢 鳥井原式 深鉢 御領式
後期 御領貝塚
深鉢 御領式
後期 御領貝塚
 185御領貝塚
小児カメ棺 御領貝塚出土
子供用の棺です。縄文時代には、ムラの中にカメ棺が埋められ、その上をまたぐ事によって、再び死んだ子供の魂が宿り、
子供を授かる事ができると信じられていました。

御領貝塚
小児カメ棺
御領貝塚出土
 186
磨石 石錘 磨製石斧
打製石斧 貝輪完成品
貝輪未成品
 
 190貝塚に生きる
 貝塚とは、人々が食べて捨てた貝殻が沢山集まったところで、多くの貝殻の他に、そのころ食べた獣の骨や魚の骨、埋葬人骨も見つかっています。
つまり、貝塚はその当時の生活や自然環境などを知る上で重要な遺跡です。
 遠浅の有明海に接する宇城地方には貝塚が多く見られ、今は海から数キロ離れた城南町も5000年前頃には海岸線が
阿高・隅庄・吉野山付近まで迫っていたことがわかります。

貝塚に生きる 海退現象
 195
 


 200弥生時代の宇城


 
 

 201弥生時代の宇城地方
 縄文時代の終り頃に伝えられた稲作技術は、金属器や新しい石器・土器などを伴って、北海道と沖縄を除くほぼ全国へと広がって行きました。

この時代は弥生時代と呼ばれ。稲作を中心として社会が大きく変化した時代です。
各種の資源や水利権を巡る争いによってムラが統一され、クニが生まれました。
大陸の国との交流が始まり、中国の書物に初めて私たちのクニが紹介されたのもこの時代でした。

 宇城地方にも弥生時代の遺跡は残されています。
城南町の新御堂遺跡や 宇土市の境目遺跡松橋町の古保山打越遺跡小川町の大坪貝塚などはその代表的なものです。

弥生時代の宇城地方 甕棺 今西原遺跡

 203弥生土器
弥生時代
~農耕の始まり~
甕、壺
弥生時代 約2100年前
上の原遺跡

弥生時代 約2100年前
上の原遺跡

弥生時代 約2100年前
上の原遺跡
器台
弥生時代 約2100年前
上の原遺跡
脚台付甕
後期 迎原遺跡

中期 黒木塚遺跡
台付鉢
弥生時代 約2100年前
上の原遺跡
 
 210弥生住居
 211弥生時代の住居
弥生時代の住居 丸い形をした住居跡
小判形をした住居跡
弥生時代の遺構 竪穴住居跡
24号住居
遺物出土状況
25号住居跡
炉の中に落ち込んだ土器
32号住居跡
焼け落ちた垂木
※火を付けたのか

 213弥生土器
弥生土器は縄文土器に比べて焼成温度が高く、器種が豊富で、壺・甕・鉢・高坏など用途によって使い分けが見られます。

脚台付 甕
後期 迎原遺跡

後期 迎原遺跡
弥生土器 後:壺

前:壺 約1800年前
構口遺跡
左:鉢 約1800年前
右:鉢 後期 構口遺跡
高坏 器台 約1900年前
新御堂遺跡
 
 220弥生時代の暮らし
 221
弥生時代生活想像図

 222自在鉤
   自在鉤は、囲炉裏の上で物を吊り下げるために使うものである。この時代に囲炉裏があったのかもしれないし、
   何か別のものを吊り下げるために使ったのかもしれない。例えば動物の肉など
木製自在鉤

 223弥生の石器
扁平片刃石斧
約2千年前上の原遺跡
柱状抉入石斧
約2千年前
蛤刃石斧約1800年前
骨器 後期 囲貝塚

 磨製石剣
 磨製石剣は、鉄剣や銅剣を模したもので、日本では金属器の普及が充分でなかった弥生時代の前期が中期 (約2000~2300年前)にかけて見られます。磨製石剣にはいろいろな種類がありますが、これらは鉄剣形石剣とよばれるもので、北部九州を中心に西日本に広く分布しています。
鉄剣に替わる武器として用いられたものと思われます。
磨製石剣 磨製石剣
磨製石鏃
約1800年前
新御堂遺跡

研磨段階
原石
約1800年前
新御堂遺跡

 224石包丁
石包丁


 砥石
 弥生時代には、金属器 (鉄器・青銅器)が出現します。これらを磨く(研ぐ)道具として、砥石が使われました。鉄器の普及に伴って、
天草砥石などのきめの細かい石が使われるようになりました。

砥石
砥石 約1800年前
新御堂遺跡

 226鉄器
ヤリガンナ 約1800前
新御堂遺跡

ヤリガンナ
西弥護免遺跡
・木材加工用刀子
約1800年前
西弥護免遺跡
・鉄滓1800年前新御堂
・刈鎌1800年前
迎原西遺跡
手鎌
約1700年前
西弥護免遺跡
鉄斧 約1800年前
迎原西遺跡
鉄鏃
約1700年前
西弥護免遺跡
鉄鏃
約1800年前
新御堂遺跡
 

 230新御堂遺跡の銅製品

 231新御堂遺跡の銅製品
小型仿製鏡 中国の鏡を真似た日本製の鏡です。中国のものより小さくて、模様が簡単になっています。

破鏡 中国背す銅鏡の破片です。わざと割られています。磨いて穴を開けたものもあります。

中国製お金 「貨銭」「半両」「大泉五十」と文字があります。特に「大泉五十」は九州の弥生時代遺跡としては2例目で、
         3種類の出土は九州では新御堂だけです。

巴形銅器 県内では3例、国内でも30例ほどしかない銅製品です。太陽のような形ですが、スイジガイというトゲのある貝の形を真似ていると
       考えられます。

銅鏃 銅製の鏃です。数が少なく、実用品だったかはわかりません。銅に比べて鉄製の鏃は沢山出土しています。


 新御堂遺跡の青銅器
 新御堂遺跡からは、複数の青銅器が見つかっています。青銅器は、当時としては貴重なもので、複数見つかる遺跡はその地域の中で、
有力なムラのひとつとして考えることが出来ます。青銅器の中には、中国が「前漢」と呼ばれていた時代や「新」と呼ばれていた時代の鏡やお金も見られ、中国大陸や朝鮮半島と交易があったことを窺い知ることが出来ます。

新御堂遺跡の銅製品 新御堂遺跡の青銅器
 233青銅器
小形仿製鏡
破鏡、内行花文鏡
舶載鏡
昭明鏡、鏡式不明
中国銭
半両、貨泉、大泉五十
 234青銅器 新御堂遺跡
鏡式不明
銅鏃
 235巴形銅器
スイジガイと
巴形銅器

 240台付舟形土器  出土遺跡不明 路傍に置かれていた
 弥生時代後期の土器で、胴部が舟の形に似ていることからこの名があります。
胴部の一方に注ぎ口と思われる穴があり、液体を注ぐために使用されたと推測されます。
器の表面には、波を表すような文様が見られます。波状の文様については、龍を表現しものだという解釈もあります。

特異な形をしており、舟の胴部をはさんで頸部から口縁部と脚部が互い違いになっており、胴部と脚部の間にある空洞には土玉が入っていて、
振るとカラカラと音がします。
 昭和12年頃通勤途中の教師によって発見され、考古学者小林久雄の元に届けられました。その後国指定の重要美術品となり、昭和42年に重要文化財に指定されました。

台付船形土器

 250稲作の祭り
 弥生時代には、豊かな実りを祈り、その美乃利に感謝して種まきの終わった夏と収穫の終わった秋に稲作の祭が行われました。
この祭りは、水田・・・・水田の水口付近で行われたことがわかっています。

稲作の祭り 手づくね土器 ジョッキ型土器
彩文高坏
約2000年前
祇園寺遺跡
〇さん文高坏
2000年前
安幕遺跡

 260葬送
 261死者を送る
 弥生時代には
、人が死ぬと現代と同じように葬送の儀式が行われました。その儀式について『魏志倭人伝』には、「人が死ぬと棺に納め、10日あまり喪に服し、
肉食はせず、喪主は大声で泣き、他の人々はかたわらで、ものを食べながら歌ったり踊ったりする」ことが記されています。

死者を送る

 262儀式用土器
丹塗短頸壷 丹塗長頸壷 丹塗り鉢 弥生中期
約2000年前
迎原西貝塚
丹塗広口壺 丹塗り高坏 中期
宮地 中尾貝塚
丹塗長頸壷
約1800年前
祇園寺遺跡
免田式土器
 

 270土器棚
 免田式土器
 免田式土器は、免田町(現あさぎり町)本目遺跡出土の土器を標識とします。器面に描かれた重弧文と呼ばれる円弧を重ねた紋様が特徴です。
 そろばん玉の形をした胴部に長い首を持つ長頸壷が一般的で、他に複合口縁を持つものや深鉢形、甕形のものなどもあります。

免田式土器を出土する遺跡が多いのは、球磨地方のほか、熊本平野の周辺部が上げられます。遠く沖縄県でも出土が知られていることから、
この地域の人々が、沖縄近海まで出かけていたことを窺い知ることができます。

免田式土器 免田式土器 天神原遺跡 迎原西遺跡
新御堂遺跡 安幕遺跡 新御堂遺跡
迎原西遺跡 コップ形土器
弥生後期 約1800年前
迎原西遺跡
城南町 宮地
囲貝塚 新御堂遺跡

 280原始機
 弥生時代の布つくり
 弥生時代になると、機織の道具を用いて、布作りが始まりました。また、蚕からとれる糸を使った絹も登場してきます。
縄文時代に見られるアンギンとは違い、織布がタテ(経)糸の上糸と下糸の間にヨコ(緯)糸を交叉させることの繰り返しによって布を織り上げていくことです。編み物には上糸下糸とはありません。
弥生時代に使われ始めた織機は原始機と呼ばれています。
原始機の部品は、各地の遺跡から見つかっています。ただ、一組全てが揃ったものはありません。


紡錘車 原始機を使った織物想像図
原始機の道具名と機能
弥生時代の布作り
 290弥生時代の農具
鍬の作り方
諸手鍬

又鍬
踏鋤
 
 
 300琵琶塚古墳模型
琵琶塚古墳 前方後円墳 縄文時代の生活
 305縄文石器
石錘 西天神原遺跡 左:窪み石
右:磨り石

磨石と石皿
宮島貝塚
左:石刀 大明神遺跡
右:石棒東阿高御領貝塚
 306縄文時代の石器
石鏃城南町各地 円盤形石器
城南町
打製石斧
城南町
環状石斧
上の原遺跡
柱状石器 西天神原
のみ状石器 城南町
磨製石斧 城南町

 307石組炉 瀬田浦遺跡
 炉は、石を組み合わせて作り、マキで熱してその上に肉などを置いて、蒸し焼きなどをしたものと思われます。当時の人々は、決まった村をもたずにキャンプしながら移り住み、各地に遺跡を残しました。
 大津町の瀬田浦遺跡からは84基の石組炉が見つかりました。この炉は、その中の一つで、発掘された状態に復元したものです。

瀬田浦遺跡菊池郡大津町、阿蘇外輪山の裾野にある大規模遺跡。縄文時代早期、今から約8000年前。
       遺跡の広さは15000㎡に及び、縄文時代早期の遺跡として国内最大級です。
石組炉 石組炉
 

 310甕棺墓
 大型甕棺
 弥生時代 (1700~2300年前) の成人用甕棺で、 全長2mに及ぶものもあります。
九州北部から中部にかけて広く分布し、ここ宇城地方がその南限とされています。
小型甕棺と同じように合口棺と単棺の2種があり、通常1棺に1体を埋葬しています。
中には副葬品として鏡・銅剣・貝輪などを納めた例もあります。 

大型甕棺 大型甕棺 小型甕棺 小型甕棺 中期
宮島 山の上遺跡
小児用甕棺 大型甕棺

 315器台
瀬戸内地方から移入された土器。瀬戸内海から豊後水道、宮崎・鹿児島の沖を通って有明海から熊本に入ったと思われます。複数確認されています。

円形透孔器台
えんけいすかしあな
瀬戸内系
瀬戸内からの
器台の伝播
 
 320土器棚

丹塗高坏
約1550年前
塚原58号方形周溝墓
丹塗高坏
約1550年前
塚原58号方形周溝墓
丹塗高坏
約1550年前
塚原三段塚古墳
丹塗壺
約1550年前
塚原三段塚古墳
丹塗壺
約1550年前
塚原三段塚古墳
丹塗壺
約1550年前
塚原三段塚古墳
底部穿孔土器
約1550年前
塚原49号方形周溝墓
底部穿孔土器
約1550年前
塚原58号方形周溝墓
底部穿孔土器
約1550年前
塚原49号方形周溝墓
 


 古墳時代


 330塚原古墳群
 331
発掘が始まった頃 発掘前の古墳群 出土した多量の土器 保存が叫ばれ始めた頃の塚原古墳群S48 延べ1万人が参加した発掘
古墳群を報道する新聞 保存が決まった頃S50-52
顔を出した
古墳や周溝墓
護られた古墳群 整備された塚原古墳群
九州縦貫道トンネル上部の整備
花見塚古墳周辺整備 整備された塚原古墳群
琵琶塚古墳・三段塚古墳整備 塚原古墳公園ほぼ完成

 333塚原古墳群発掘模型
 


 340古墳時代の宇城

 341古墳時代の宇城
弥生時代に伝えられた鉄器が普及するに連れて、人々の暮らしは豊かになっていきました。ところが、その冨を独占しようとする「豪族」が現れました。
彼らは、力の象徴として競って古墳を築きました。4世紀初めから約300年間続いたこの時代の文化を古墳文化と読んでいます。

 宇城地方にも古墳文化は栄え、多くの古墳が築かれました。これらの古墳の中には、石棺に屍を入れてそのまま葬るものの他に、
竪穴式石室・横穴式石と呼ばれる石の部屋を設けるものや装飾を施したものも見られます。

 宇土地方で良く知られた古墳に、城南町の塚原古墳群、宇土市の向野田古墳・国越古墳、不知火町の弁天山古墳、松橋町の宇賀岳古墳、三角町の小田良古墳などがあります。

 宇城地方の古墳時代主要遺跡
 宇城地方は県北の菊池川中流域と並んで、熊本を代表する古墳時代遺跡の豊庫です。
特に宇土半島の付け根やその周辺域には、多くの古墳群や大集落、山城、熊本最古の須恵器窯跡などが分布します。
一方不知火海や有明海に面した地域では製塩遺跡が見られ、製塩を生産の基盤とする集団のあったことをうかがえます。

古墳時代の宇城地方
宇城地方の古墳時代主要遺跡
 343古墳時代の土器
 土師器は弥生土器の系譜を引くもので、3世紀後半に出現し、古墳と共に、全国に広がっていきました。
塚原古墳から出土する最も古い土師器は、4世紀終り頃のもので、古墳の築造がその時期に始まったことを示しています。
甕・壺・小型丸底壺。台付小型壺・高坏・盌などがあり、特殊なものとして、鼓型器台(山陰型器台)なども見られます。

 これらの多くは、方形周溝墓や円墳・前方後円墳などの周溝墓から出土します。
葬式や墓前のまつりに使われたものでしょう。またこれらの中には、底部をわざと打ち欠いたものや割ったものを埋納した例もありました。

古墳時代
~大王の時代~
土師器 ・小型丸底壺 塚原
・台付鉢 塚原3号方形周溝墓
古墳中期約1550年前
盌 塚原丸山3号1500
壺塚原丸山37号1450
高坏塚原丸山37号1450
台付小型壺 中期
器台
漆塗り台付小型壺
丹塗小型丸底壺
鼓形器台
高坏
甕 広口壺 右:複合口縁園壺

 350塚原古墳群主要古墳 ※写真不鮮明のため、主要古墳名が不明です。リンクを参照
 351須恵器
 5世紀の前半に須恵器の技術が日本に入って来ると、やがて全国の古墳で須恵器の埋納が 始まります。
塚原古墳群では、円墳(円形周溝墓)から5世紀後半の須恵器が見つかっています。
この時期の須恵器は、大阪府の陶邑窯で焼かれたもので、製品そのものが移入されたことを窺い知ることが出来ます。
6世紀に入り熊本にも須恵器の窯が作られることとなり、塚原古墳群の須恵器もこれらの窯から供給されることになります。

塚原古墳群内主要古墳


坏 須恵器 後期
丸山37号
壺 後期
丸山4号
短頸壷
約1500年前 丸山32号
壺 約1450年前
ハソウ 後期
1450年前
横瓶 提瓶 器台
1500年前 丸山4号
 
 

 355塚原古墳群
江戸時代の書物『肥後国誌』に、「塚原に九十九塚あり」と書かれるように、塚原台地には、おびただしい数の古墳が眠っていることが推測されます。
4度にわたって行われた発掘調査で約380,000㎡の範囲にその広がりが見られることが確認されました。
 特に昭和47年から3か年に渡る、九州縦貫自動車道建設のための発掘調査では、大小103基の方形周溝墓や円墳などが発見され、
考古学上の貴重な資料を提出しました。
墳墓数の多いことはもちろんのこと、同じ台地上でその移り変わりの様子を捉えることが出来たことは、最大の収穫と言えるでしょう。
 塚原古墳群は、昭和51年に国の指定史跡となり、保存されることになりました。

 古墳時代の鉄器
 鉄は古墳時代には貴重なもので、鉄を所有することが権威の証でもありました。
塚原古墳でも石棺や石室、周溝から複数の鉄器が出土しています。
剣・刀・やじり・矛・短甲などの武具化最も多く、他に鋤先・鎌などの農具、鉄などの鍛冶道具、刀子などが見られます。
中でも将軍塚古墳(丸山6号墳)からはまとまって出土しており、この古墳の被葬者は首長から武器の管理責任と軍事的な職務を任された
人物だったことが推測されます。

 将軍塚古墳(丸山6号墳)の鉄器
 将軍塚古墳は、塚原古墳群のうち、前半期の古墳(4世紀末から5世紀前半)が集中する丘陵北半部の一群に属しています。
盛り土の部分は、開墾によって壊されてしまいましたが、石室の内部に埋納されていた遺物は、小林久雄氏によって収集されました。
ここに展示した鉄器もその一部で、鎧(革綴じ)・やじり・鋤先・矛・剣・刀などがあります。

塚原古墳群 古墳時代の鉄器 短甲片・鉾
鉾・直刀・剣
刀子 将軍塚古墳
(丸山6号墳)の鉄器
鉄鏃
丸山6号墳

 360巫女の衣装

古墳時代の人々の装い
古墳時代の人々の装いは、古事記や日本書紀、中国の史書である宋書や梁書に見られる記述から伺い知ることができます。
また、人物埴輪には、髪型や衣服、装身具などが表現されています。

実際、当時の人々が使用した装身具は、古墳内部に納められた石棺や木棺などから多く出土します。
これらの中には、前の時代(縄文時代・弥生時代)の伝統を引き継いだ玉類(勾玉、小玉、管玉など)のほか、朝鮮半島からもたらされた、金や金銅製の耳輪などがあります。

古墳時代の装身具 首飾(ガラス製)
古墳時代約1500年前
塚原古墳群
腕輪 (イモガイ製)
古墳時代約1500年前
岸甲古墳
管玉(碧玉製)
約1500年前
塚原古墳群
小玉(ガラス製)
約1500年前
塚原古墳群
古墳時代の人々の装い 耳環(金銅製)
1500年前
塚原古墳群
子持勾玉
約1500年前
松橋町 久具石棺
神獣鏡 (仿製鏡)
1550年前
秋只古墳
秋只石棺郡

 365石製表飾出土古墳分布図

  石製表飾(石製埴輪)
石製表飾は、阿蘇溶結凝灰岩(通称灰石)と呼ばれる柔らかい石を使って造られ、阿蘇溶結凝灰岩の分布する北部九州特に西北九州に多く分布します。一般に石人・石馬と呼ばれ、人物や・動物・家などの形象埴輪や木製の葬具をモデルに製作され、古墳の墳丘上や墳丘周囲に立てられました。
石製埴輪などと言い換えることも出来ますが、古墳を飾る意味から「石製表飾」と呼ばれています。

石製表飾出土古墳分布図 石製表飾 石製表飾出土古墳一覧


 石製表飾「盾」
 阿蘇溶結凝灰岩製で、矢などを防ぐ盾をかたどったもので、被葬者を護るために入口付近の墳丘上に立てられていたものと思われます。
表面には、ベンガラが塗られていたことを確認することが出来ます。

 埴輪と石製表飾
 古墳時代に古墳の墳丘や周溝に立て並べられるものに、埴輪があります。
埴輪は土で形を作り素焼きにしたもので、埴輪には、人物や動物、家、盾、などをかたどった器材埴輪と円筒形をした円筒埴輪があります。
また加工しやすい阿蘇溶結凝灰岩(通称灰石)が分布する九州では、器材埴輪は少なく、埴輪同様の器材をかたどった石製表飾が多く見られます。
 塚原古墳群では、器材埴輪は見つかっていませんが、石製表飾2点が見つかっています。

 円筒埴輪
 小型の円筒埴輪で一般の円筒埴輪に比べて器璧が薄く、三角と丸の透かし穴を組み合わせる特異埴輪ということができるかもしれません。
周溝の底からわれた状態で見つかっていることから、墳丘に立ててあったものが、落ちたものでしょう。

石製表飾「盾」
石製「盾」
約1450年前
塚原 北原1号墳
埴輪と石製表飾
円筒埴輪
円筒埴輪
約1500年前
塚原 琵琶塚古墳
 
 370

 371器台と壺(須恵器) ―塚原古墳群―
器台と壺は、もともと別々に作られたものですが、焼成の段階で癒着してしまったようです。
須恵器は、1100℃前後の高温で焼かれるために、土器にかかった灰が自然の釉薬となって溶け出し、接着材の役目を果たしたものと思われます。
死者への共献用として作られたものでしょう。

器台と壺

 373小型石蓋土坑
 小形であるところから、小児用の棺と考えられます。
小型石蓋土坑
小児用土坑墓
 

 380土器棚 古墳時代
 381宇城地方の主要横穴墓
宇城地方の主要横穴墓 尾上横穴墓群(宇土市)
小田部横穴墓群(宇土)
天ノ平横穴墓群(城南町)
鶴横穴墓群(城南町)
飛尾横穴墓群(城南町)
櫨野横穴墓群(城南町)
ハゼノ
 382横穴墓出土土器
坏身 約1450年前
出水居屋敷横穴墓群
蓋付坏(須恵器)
奈良時代
東阿高 ウシクビ横穴墓群
長頸壷 約1400年前
古墳時代
阿弥陀尾横穴墓群
高坏 約1450年前
古墳時代
出水居屋敷横穴墓群
長頸壷 約1450年前
古墳時代
阿弥陀尾横穴墓群

 385宇城地方の横穴墓
 古墳時代後期 (6世紀頃)になると、切り立った山の斜面に横穴を掘って墓室を築く横穴墓が盛んに作られました。
宇城地方にも数多くの横穴墓が見られますが、その多くが城南町に集中します。その理由の一つとして、このあたりには、横穴墓を築くのに都合の良い凝灰岩の崖が多いことが挙げられます。

ただ、城南町の周辺には、これに代わるような墓制も余り見受けられないことから、宇城地方の中心が、城南町付近にあったと推察することもできます。
このことは8世紀になって、城南町陳内に肥後最古の寺院が築かれることからもうなづけます。

 横穴墓の装飾文様
 横穴墓の中には、入口(羨門)付近や閉塞石(扉)に装飾文様を描くものがみられます。
紋様には幾何学文様や人物、器材(盾・弓矢・鞆・靫)などがあり、これらは単に装飾のみを意味するものではなく、死者への鎮魂、墓室の平安を図り
邪悪なものを排除しようとする意味があったものと思われます。

 この閉塞石に描かれた文様は、弓矢を入れる靫と思われ、墓室を護る意味で描かれたものでしょう。

宇土地方の横穴墓
閉塞石(線刻)
古墳時代 約1400年前
ウシクビ横穴墓群
亀甲羅 古墳時代
ウシクビ横穴墓群
横穴墓の装飾文様
上に記述
 
 390

 391古墳時代のムラ跡 向井原西遺跡

 392日常土器
 古墳時代には須恵器と土師器の2種類の土器が製作され、それぞれの用途に応じて使われました。
須恵器は別名 祝部土器 と呼ばれるように、おもに古墳への埋納品として使われ、日常生活には、土師器が使われました。
壺・甕・高坏・碗などがあり、煮炊きに使用されたものには、器表面にススが付着するものもあります。

日常土器 ・焼成粘土塊 1550年前
迎原西遺跡
・鉢 土師器 中期
沈目18号住居
小型丸底壺 中期
沈目27号住居
上の原遺跡

右端no caption
高坏 中期 上の原
片口壺 沈目28号
鉢、壺 中期
上の原
甕、壺 中期
上の原
壺 中期 上の原
複合口縁壺
約1550年前
上の原遺跡

 393古墳時代の庶民のくらし
 全長400m超える大古墳が築かれた背景には、それを支えた庶民のくらしがあったことを忘れることは出来ません。
 人々は弥生時代同様、田畑を耕し、竪穴住居で生活しました。宇城地方にも生活の根拠地となる「ムラ」の跡が、数か所でみつかっています。
特に城南町塚原の上遺跡では、400軒もの竪穴住居から、おびただしい数の土器や鉄器、装身具が出土しました。
 この「ムラ」は、同一台地上に発見された塚原古墳群との関連が考えられています。

古墳時代の庶民のくらし


 熊本県最古の造付カマドを持つ竪穴住居出土
  土師器各種 古墳時代 約1550年前 迎原西遺跡
盌・小型丸底壺×2
高坏×3 甕・壺
 

 395古墳時代の建物
古墳時代の建物 竪穴住居跡 迎原西遺跡
竪穴住居跡出土土器
カマドのある竪穴住居跡
迎原西遺跡
カマドと土器 迎原西遺跡
高床建物跡 舞原西遺跡
高床建物の柱 舞原西遺跡

 396手づくね土器
手づくね土器は、輪積み法で製作される日常土器とは違い、粘土の塊を指先でこねて作られており、お祭りや御祈りの時の道具として使われました。
日本の神様が人間と同じ姿をされ、同じものを召し上がると考えられていることから、日常生活で使われる土器と同じものが作られたと考えられます。

手づくね土器 土師器
中期
沈目遺跡
てづくね土器
不正形小玉(石製)
古墳時代 約1550年前
上の原遺跡
勾玉 (滑石製)
古墳時代 約1550年前
上の原遺跡
 
 400土器棚 古墳中期
 401
高坏 (陶質土器)
古墳中期 1500年前
塚原古墳群
※とても高度な技術です。木製高坏を真似たものか

 402皮袋形土器
 北アジアの遊牧民などが馬上等で使った皮袋を模して作った酒器が皮袋形土器と思われている。
細い線は縫い目を、丸い穴は毛穴を表現していると言われる。

※弥生時代の信州や関東で出土する皮袋形土器とは形状が異なり、東日本に来た遊牧系民族はことなることがうかがえる。
 信州では動物の胃袋に水を入れた形が主流です。

 
皮袋形土器 古墳時代
約1500年前
塚原古墳群
 403
赤色軟質土器(朝鮮式)
古墳中期 約1500年前
塚原古墳群
高坏(須恵器)

後期 約1450年前
塚原古墳群丸山4号墳
坏(須恵器) 後期
塚原古墳群上原3号墳
横瓶 後期
約1500年前
塚原古墳群
盌 中期
約1500年前
塚原古墳群
 404小型丸底壺 古墳時代 約1500年前 塚原古墳群
※展示の仕方がよくわからないが、
  三つの憧憬土器を底を合わせて展示しているのか、
  焼成時に偶然か、意図的にか、底が溶着したものなのか
 不明です。

前者と思いますが、それにしては不安定な展示です。
 405
壺 約1500年前
塚原古墳群
高坏
中期 約1550年前
塚原古墳群
複合口縁壺
中期 約1550年前
塚原古墳群
絵画土器
中期 約1550年前
塚原古墳群
土師式土器 壺
 (線刻)


熊本県下益城郡城南町大字塚原丸山7号墳出土
古墳時代前期
 
 

 407古代土器

 熊本市城南の蔵骨器
 西暦700年頃に始まった下層の風習は、8~9世紀には全国に広がり、火葬された骨は、蔵骨器(土器=土師器・須恵器)に入れて埋葬されました。
 ここ熊本市城南町域殻も多数の蔵骨器が見つかっています。中でも一の字山遺跡や山ノ神遺跡殻は複数がまとまって見つかっており、その被葬者として、高僧・官人・豪族などが推測されています。

 ※庶民や貧民の遺体は河原や町の辻なんかに捨てられていたのでしょうね。

蔵骨器 平安時代
約1200年前
城南町 山の神遺跡
蔵骨器 平安時代
約1200年前
城南町 山の神遺跡
蔵骨器 平安時代
約1200年前
城南町 阿高東台地
蔵骨器 平安時代
約1200年前
城南町一の字山遺跡
蔵骨器 平安時代
約1200年前
城南町一の字山遺跡
蔵骨器 平安時代
約1200年前
城南町一の字山遺跡
蔵骨器 平安時代
約1200年前
城南町一の字山遺跡
熊本市城南の蔵骨器 蔵骨器 平安時代
約1200年前
城南町一の字山遺跡
蔵骨器 平安時代
約1200年前
城南町一の字山遺跡
蔵骨器 平安時代
約1200年前
城南町一の字山遺跡
蔵骨器 平安時代
約1200年前
城南町一の字山遺跡
蔵骨器 平安時代
約1200年前
城南町一の字山遺跡
蔵骨器 平安時代
約1200年前
城南町一の字山遺跡
 
 430古代の宇城
 431古代の宇城地方
 古墳時代に出来た古代国家は、中国大陸や朝鮮半島の文化を吸収して天皇を中心とした律令国家として成長しました。
 この時代には各種の役所が作られ、国には国府、郡には郡家ぐうけが作られ、各地に軍隊も配置されました。
また交通路も整備され、 約16kmごとに駅家が置かれたり、条里制と言われる区画整理も実施されました。

 城南町の舞原台地には肥後国最古の国府が、鰐瀬わにせの宮原に益城郡の郡家があったと言われ、宮地には「球磨」と呼ばれる駅家があったと考えられます。
現在の城南町「碇いかり」は古くは「生河里いかり」と書かれ、条里制の名残を残しています。

古代の宇城地方
沈目遺跡他出土土器 土師器
平安時代
約1100~1200年前
沈目遺跡
平底坏 高台碗、丹塗平底坏
鍔付甕
奈良時代 約1300年
城南町 小木遺跡
※鍔付甕って羽釜?
カマドに直接かけられるように鍔がついている。
湯沸し用の羽釜じゃないの。
黒色土器 平安時代
約1100~1200年前
沈目遺跡
須恵器 平安時代
約1100~1200年前
沈目遺跡
坏蓋・甕

 433沈目遺跡は役人の村跡?
 沈目遺跡は、9世紀後半から10世紀終りにかけて造られた村です。
この遺跡から見つかる土器には、墨書土器や越州窯青磁など一般の集落遺跡からは出土例の少ないものが複数見つかっています。
隣接する沈目立山遺跡や狐塚遺跡からも墨書土器や円面硯と呼ばれる須恵器の硯なども出土していることから、
沈目遺跡周辺には、文字の読み書きができる人物がいたことが推測されます。

また近くに公的な施設があったことを窺がわせるもので、ここ沈目遺跡は、もしかしたら役人が住む村だったのかもしれません。
 ちなみに9世紀中頃から11世紀はじめに肥後の国府がここ城南町の宮地付近にあったと推定する人もいます。

沈目遺跡は役人の村? 土錘 網の重り
平安時代
約1100~1200年前
沈目遺跡

 435城南町の古代遺跡
 436


城南町の古代遺跡 肥後最後の寺院-陳内廃寺-
陳内廃寺の河原を焼いた窯
陳内瓦窯跡
平安時代の村の跡-沈目遺跡
庶民の住まい竪穴住居跡
-舞原西遺跡-
古代西海道の一部-新御堂遺跡
複数発掘された骨臓器-
一の字山遺跡

 437土器
 墨書土器
 墨書土器には、役所名や職名、地名、人名など所属・所有を示すもののほかに、用途を記したもの、「福饒ふくじょう」「平安」など吉祥文字と考えられるものがあります。そのほかに公文書の下書きや手習い、ざれ書きなどもあります。
いずれにせよ、文字の知識のある人が書いたことに間違いありません。
墨書土器 平安時代
約1100~1200年前
沈目立山遺跡
墨書土器 平安時代
約1100~1200年前
沈目立山遺跡
墨書土器 平安時代
約1100~1200年前
沈目遺跡
墨書土器
墨書土器

 越州窯
 中国漢代末期(3世紀)から宋代(12世紀)まで浙江省の越州地方で青磁を焼いた窯です。
六朝時代から隋代にかけて「古越磁」と呼ばれる、「むらはある」が緑色をした青磁が焼かれた越州窯は中国のの青磁生産の中心地となりました。

 唐代の終り頃から五代の時期(10世紀頃)は越州窯の最盛期で、日本にも多くの越州窯青磁が輸入されました。沈目遺跡出土のものもこの時期のものです。

越州窯青磁(坏)
五大時代(中国)
約1100年前
沈目遺跡
越州窯
 
 440瓦の変化
 441
 この表は古代の郡ごとに肥後国内出土の鬼瓦・軒丸瓦・軒平瓦について、年代別に並べたものです。
それぞれの先後関係と時期については、発掘報告書や先達の論考・河原研究に拠っています。
瓦と瓦をつなぐ横の赤線は、同じ范で製作されたもの(同范)や范は異なるが文様が 同じもの(同文)、あるいは文様の細部は異なるが極めて類似するものを結んでいます。

※ ここでは肥後国内の瓦のみを掲載していますが、実際には大宰府政庁の影響を受けたり、あるいは薩摩国分寺へ強い英起用を与えていたりと、肥後国以外の瓦とも相互に深い関係にあります。


 443古代の瓦
 紀元1世紀頃中国に始まった瓦作りは、飛鳥時代になって日本へ伝えられました。
ただ、古代に於いては、瓦の供給量が少ないこともあって、瓦を使った建物は、役所や寺院に限られました。

古代の瓦 軒先瓦(鴻臚館式)
奈良時代 約1250前
陳内廃寺
軒先瓦(老司式)
奈良時代 約1250前
陳内廃寺
銘入瓦
珍内廃寺
軒先瓦(百済系
白鳳末期 約1300前
陳内廃寺
 450
 451陳内廃寺伽藍配置
珍内廃寺伽藍配置
1/1300
周囲の田畑は、寺院の所領のようです。
○○     鐘楼
講堂
西僧房
食堂・五重塔
東僧房
中門 回廊
 
 
 455
 

 460年表

 九州考古学の父・小林久雄
ここ城南町には、考古学上貴重な遺跡が多く、このことは小林久雄先生が考古学に情熱を燃やすされるきっかけとなりました。
先生は、考古学者として縄文土器の編年などを手がけられ、九州における縄文文化研究の基礎を築かれました。

現在活躍している考古学者の中には、先生の門を叩かれた人も多く、その研究や資料が高く評価されていたことが伺えます。また、城南町初代町長として在任中に着手された「城南町史」は、町史として最高の書物と言われています。
先生が生涯をかけて研究された資料は、「小林コレクション」と呼ばれ、現在当資料館に寄託され、その一部を展示しています。

 未来への道しるべ
今、私達は「タイムトンネル」を通って、様々な遺物に触れ、彼らの生き方や考え方を学びました。このことは、私たちが生きていくいく上にどんな意味を持っているのでしょう。

これから先私達は、目まぐるしく変わる社会の中を生き抜いて行かなく今日はなりません。しかし、目先のことばかりにとらわれ、過去を振り返ることを忘れたら、本当の意味での進歩はないでしょう。ときには、自分の歩いてきた道を振り返り、過去の遺物に触れることも重要なことなのです。遺物は、祖先が残してくれた「未来への道しるべ」なのです。

旧石器-縄文 縄文-弥生
弥生-飛鳥
飛鳥-平安
平安-室町
室町-江戸 江戸-昭和 大正-昭和
 
 480全景
 
 

 国指定史跡
 500塚原古墳群 資料館のすぐ上にあります。公園内を道路が通っていて、車で走れます。駐車場もあります。(現在閉鎖中)

 塚原古墳群は、熊本県内最大規模、全国でも有数の古墳群です。
その存在は古くから知られており、江戸時代後期に著された「肥後国誌」や「古今肥後見聞雑記」には既に登場しています。
 遺跡群内には4~6世紀に築かれた方形周溝墓、円墳、前方後円墳、周溝墓などの古墳が見られ、その移り変わりを一つの丘陵上で確認することができる特徴を持っています。

 この遺跡は九州縦貫自動車道建設によって消滅する運命にありましたが、学術上の価値が極めて高いことから、道路は遺跡の下をトンネルで通すことにより保存することが実現できました。このような保存は全国的にも極めて珍しいことです。

 現在約10万㎡の史跡公園野中に、発掘された古墳のうち77基が復元されています。
公園は春は桜やツツジ・サツキ、夏はアジサイ、秋はコスモスなどの四季の花が咲き、地域住民の憩いの場として、歴史学習の場として利用されることを願っています。
 501
案内板 公園地図
 502三段塚古墳
 三段塚古墳は、その規模が琵琶塚・花見塚の両前方後円墳に次ぐ、塚原古墳群最大の円墳です。
出土した土器から5世紀の半ばに築かれたと思われます。戦前は、その名の通り墳丘上に3つの段が見られていたようですが、
戦争中に畑として利用されたこともあって、変形されてしまいました。ここに復元した古墳は、平成2年の調査結果を基にしたもので、右に描いたものがその復元図です。
 内部に納められている棺の大きさや種類については未発掘のためよくわかりません。ただ、古墳の規模や昭和62年に行われた地中探査レーダーによる調査結果から、隣接するクヌギ塚古墳や丸山6号墳などと同じように、横穴式石室を採用していることが考えられます。

三段塚古墳 三段塚古墳周溝
出土土器
発掘時の三段塚古墳
平成2年
発掘前の三段塚古墳
昭和59年
三段塚古墳復元図
 
 503大円墳
 方形周溝墓が最盛期を迎えた5世紀前半頃、くぬぎ塚古墳・三段塚古墳・丸山6号墳(将軍塚古墳)など、直径30mを超える大型の円墳が築かれました。
 これらの古墳は、方形周溝墓の規模を遥かに超えた周濠や墳丘を持っており、墓域には板石や川原石を使った死体安置のための石室が設けられました。
 遺跡は、石室内から鉄剣や刀・鎧・鏃、青銅鏡、勾玉・管玉など、周濠内から壺・甕・高坏を主とする土師器が見つかっています。
大円墳 発掘された大円墳 石室内出土の鉄鏃 大円墳構造図 大円墳復元断面図
 504大円墳
 505丸山2号墳
 丸山2号墳は、塚原古墳群の中で唯一封土を残す方墳で、周辺の状況や形態などから、5世紀の中頃に築かれたと思われます。
内部はかなり壊されていましたが、県内では最大級の家形石棺が納められていたことが確認されました。
この古墳は、塚原古墳群の移り変わりや熊本の古墳文化を考える上で、貴重なものと言えます。

丸山2号墳 調査前の丸山2号墳
昭和41年
発掘中の丸山2号 石棺
観察窓
 
 507塚原古墳群
 
 511花見塚古墳
 512花見塚古墳
 花見塚古墳は日本最大の前方後円墳である大山古墳(仁徳天皇陵)の約1/100の大きさにすぎませんが、塚原古墳群では、琵琶塚古墳と並ぶ最大の前方後円墳です。 古墳の中では最も遅く、6世紀の終り頃築かれ、出土する土器から7世紀初め頃まで利用されたことが窺えます。

 この古墳は、二重の周濠(溝)や周濠を共有する円墳を伴っており、地方の小規模前方後円墳としては、極めて珍しい特徴を持っています。
 内部には家形石棺が納められていたと思われますが、大正4年に心無い人たちによって壊されてしまいました。
その時、鉄剣・鏃・鎧・耳環・玉類など出土したといわれます。

花見塚古墳
全景 花見塚古墳と熊本の
前方後円墳

花見塚は陪塚をもつ
発掘風景 南側くびれ部付近の
内濠(深さ2.7m)
家形石棺埋設推定図
南隅から残存部

 花見塚古墳の築造
 前方後円墳を築くためにはいろいろな制約がありました。誰でもどこにでも築けるものではなく、身分によって大きさが制限され、地形や周囲の状況にも影響されたと思われます。
 花見塚古墳も、これらの条件にかなった設計図が描かれ、築造工事には延べ1万人程が携わったことが推定されます。

花見塚古墳の平面図 築造想像図
 519
 
 521りゅうがん塚古墳
※塚原台地の麓の資料館からさらに下へ下ったところにありました。
 付近には住宅地がありました。この一帯は全て広大な墓地で、住宅地も道路も資料館さえも、その墓地を壊して造られたものと思われます。


 522りゅうがん塚古墳
 りゅうがん塚古墳は丘陵先端部の斜面に造られた円墳です。
以前は1m程度の墳丘を見ることが出来ましたが耕作地や墓地として利用されたため、視界から消えてしまいました。
その後調査によって石室や封土の一部が残っていることが確認され、再び注目されることとなりました。

、この古墳の特徴は、内部主体として採用されている肥後型横穴式石室に見ることが出来ます。
石室は既に3分の2が失われていますが、片袖式の羨道を持つことや、石室を囲む根固め石が設けられるなど、他の肥後型石室にはない構造が見られます。 また石積みの基礎を良く残しており、石室の構築状況を観察する上では、貴重な古墳でもあります。

肥後型石室は、5世紀前半期に熊本(旧肥後国)で成立・発展したとされますが、本古墳は、出土した土器や石室の形態などからこの時期にあたり、同種石室のルーツや発展過程を探る上では極めて重要な古墳と言えます。


りゅうがん塚古墳
石室各部の名称 作り方
斜面を整地

石障を立て玄室から構築していく
玄室や内部の内装をする

切石を積んで石室を造る

持ち送りで天井部をつくる

高い天井をつくる

天井石を乗せる

約2mの盛り土をする
完成

 肥後型横穴式石室とは
 ドーム型天井や玄室の周壁下に安山岩・凝灰岩・砂岩などの板石を(石障)をめぐらし、その内部に区画した死床を配することなど特異な構造を持つ横穴式石室です。
熊本県(旧肥後国)で成立し発展したことから、肥後型の名で呼ばれています。5世紀前半から6世紀前半まで約一世紀に渡って造られ、この間に熊本県中南部を中心に北九州や遠く岡山県までその広がりを見ました。 ※四国にもとても多い。

肥後型横穴式石室 肥後型石室(県中北部) 肥後型石室(県南部)
 
  ※塚原歴史資料館に行くために、西熊本のニコレンを使いました。
 車は社長という若い男が乗って現れました。この男、2千数百円のレンタル料金なのに4000円の保険に入れとしつこく言うのです。
 仕方がないので、2000円の保険に入ってやることにしました。いざ乗ろうとすると、ハンドルは手あかが分厚く付着していて、気持ち悪い手触り。超不潔。
 持っていた濡れ雑巾でこすってもこすっても、いつまでたっても奇麗になりませんでした。

 大体、この車は社長が乗って現れたのであり、ガソリンが満タンである保証がありません。そのことを強く言いましたが、うそぶくばかりでした。
 うんざりする男だと思いながら目的地に向かいましたが、フロントガラスの内側がものすごく汚れていることに気が付きました。
 持ってきた雑巾はハンドルをこすってドロドロだし、うかつに汚いガラスをはんかちなんかでこすって手を出したら、余計のこと見にくくなると思ったので
 そのまま塚原館までだけ行って他の処は中止しました。

 返却場所は運転が結構複雑な場所で、一回周りを回って通り越し、やっと帰着しました。もし、夕方や夜になってこの車に乗ったら、
 フロントガラスの汚れのために運転は大変しづらく、事故につながったかも知れないと思いました。