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 吉野ヶ里遺跡 圧倒的な半島文化との出会い。  2013.03.05-10
                     佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843 吉野ケ里歴史公園 0952-55-9333

   弥生時代とは何かを学びに来ました。

   【行き方】 最も効率的な旅程は一日一便だけ吉野ヶ里公園駅に停車する博多発特急「ハウステンボス」を利用することです。
   【便利情報】 吉野ヶ里公園駅北口観光案内所無料貸自転車があります。ぜひお借りしましょう。


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 吉野ヶ里遺跡は邪馬台国だったと仮定して、三世紀後半の最盛期を再現しています。              
 吉野ヶ里略年表

紀元前5c 大陸が春秋戦国時代に突入し広範囲に殺戮と混乱が拡大
     4c 中国・朝鮮半島からの渡来人が増え、稲作始まる。
     4c 吉野ヶ里に村ができはじめる
     3c 吉野ヶ里丘陵南部に環濠が形成される。
     2c 甕棺墓列ができる。戦闘激化
     1c 青銅器の鋳造始まる。武器の進歩で政情安定。
       副葬品が豊かになった。 以降ムラの拡大と繁栄顕著

紀元2c  倭国のクニはまとまって大きくなり力を持ち始めた

紀元3c中期 すでに各地に前方後円墳が造られる。
紀元3c後期~4c前期に吉野ヶ里消滅 

 吉野ヶ里歴史公園マップ
吉野ヶ里公園詳細地図
歴史公園センター入口
憧れの吉野ヶ里遺跡縄文・弥生時代の吉野ヶ里は海に近く、海上交通が便利でした。
吉野ヶ里遺跡展示室
弥生以前の吉野ヶ里孔列文土器は弥生時代初期の南朝鮮の土器

阿高系土器は九州南部に分布する縄文土器です
 弥生時代の特徴を見る少量の南朝鮮土器が出土後、大量の最先端土器が出土する。
最初iに来た渡来人が、更に大量の武力集団を連れてきたことがわかる。
弥生という戦争の時代
朝鮮式武器と鋳型
渡来人は金属器で武装し、
縄文人は石器で戦った。

初期甕棺の無残な人骨は、初期征服戦争の困難さを物語っている。
 甕棺墓誰でも異郷の地、未開地に死にたくない。いつかは故郷に。当初は洗骨後の入れ物だった甕に、葬られたかったかもしれない。 弥生文化とは 何世代か過ぎて支配者となり、未開地に朝鮮文化を咲かせた。しかし、馬具の出土は不安な予感。植物繊維はカラムシです。  奈良時代弥生後期に出土した馬具。
金属製武器で時代を開いたように、次の変革と混乱の時代を暗示するかのようだ。
吉野ヶ里は古墳時代初期に消滅
中世の吉野ヶ里
鎌倉~南北朝
 中心都市吉野ヶ里に古墳が三基。奈良時代に役所や寺院が。中世にも寺院が。その後は忘れ去られた。
弥生人の食べ物 豊かな自然の中でしか味わえないものばかりです。
01 02 03
 南内郭 01 02
発掘時大量の武器が出土した為に王の居所と判断。
北内郭  01
祭祀の遺物が出土し、祭祀場とされた。司祭巫女祈祷師呪術師。今も韓国で盛ん
甕棺墓列 墓地大王に仕えた高級武人達の名誉の墓地でしょう 北墳丘墓 墓道 御柱 祀堂 弥生=朝鮮の祭祀文化は古墳時代も同じ半島系です。 中のムラ
 祭祀用品作る職人のムラ
今もこの種の職人は別格
 倉と市(交易)
物々交換では何かのレートがあったのでしょう。
奴隷から半島の物品まで交易したのでしょう。
 南のムラ

農具の出土により農業者の居所とされる。
金印
倭の小国が渇望した大国の庇護の属国の証
金印受領の記録は三つほどあったと思う
 内郭とは
 周囲を囲む柵を外郭。
その内側で、さらに柵で囲む区域をさす。
 云わば、特別警戒区域

 植生について
 吉野ヶ里歴史公園では
すべての植物が古代植物に植え換えられています。

 公園職員は現代植物を雑草。古代植物を有用植物として草取りしています。
 弥生と神社神道
神道は稲作農耕の神です。
 伊勢神宮の神殿は、弥生時代の高床式稲倉だと聞いたが、真実は、最高司祭者の高床式住居ですね。

 で、それでよいのです。
 神社神道の神は弥生と同じ祖霊信仰ですから、祖霊の住んでいたのは高床式建物だからです。
 神道は朝鮮の土俗信仰と同じ。後に山口県長府の忌宮神社でもそう聞きました。 
 
 編集後記
吉野ヶ里遺跡から見えたもの 

弥生という時代

 台湾の先史時代に突然甕棺葬が始まります。 
 そして、海洋民族の活動によって東南アジアに拡大します。

 そこで、吉野ヶ里遺跡の甕棺墓のルーツを探りに来たのです。
 しかし、そこで見たものは、圧倒的な朝鮮半島文化でした。

 旧石器、縄文の、お粗末な遺物から、
 突如、超立派な、完成された文化に移行する。

 縄文人が大陸文化の影響を受けて稲作を始め、やがて、
 指導者ができ、富の不公平が起こり、権力者が生まれ、
 戦争が起こり、
 弥生時代の権力、支配構造に変わったような表現を
 教科書に書いてあった。

 これはおとぎ話ですね。やさしい日本人的感性です。

 大陸や半島から、戦乱で逃げてきた権力者と武装集団が
 列島に来て縄文人を駆逐し、捕えて奴隷にしながら、支配し、
 生活の場を築いたのだ。

 貧富や、身分、高い技術は初めから存在したのだ。
 嘘というなら、縄文人の顔や体格が稲作を始めたら
 弥生人の体格顔つきに変化しますか。
 (驚いたことにそんな学説があるんですね(笑))


 弥生時代とは朝鮮の文化が日本に花開いた時代である。
 突如始まる高度な弥生文化は、
 文明人が大量に移住してきたからだ。

 現在の通説ではわずか100年で列島を占領した。
 激しい殺戮があったことを意味する。

 甕棺墓も、当然、朝鮮式土器の延長線上にあります。
 九州北部に来た朝鮮文化の中から出たものです。

  このようなことがよくわかりました。


 弥生人は大陸の揚子江南部から来た少数民族との説が浮上。
 あふれる朝鮮式土器の中に江南人て、どうおもう。

 吉野ヶ里出土人骨のDNA調査の結果が全ての真実です。
ヤマト政権の誕生

 弥生時代は大陸の戦乱の拡大と持続によって始まった。
戦乱と共に敗者・逃亡者が列島を目指し、初期は大陸から、
後に半島から、押し寄せた。

 彼らの上陸は、それは九州北部や日本海側だけでなく、
およそ上陸できる所があれば列島のどこでも。

 もし、先住者が居れば殺して自分たちの領地を奪取した。
 平和的な移住ではなく侵略である。
戦う相手は、土着の縄文人や
先に来ていた、叉、後から来る渡来人である。

 彼らの流入によって朝鮮文化が列島に根付き、
後に弥生文化と称され、
以後、日本の精神文化の根幹を形作った。

 渡来人は稲作など穀物農業や製陶技術、金属加工技術や、
呪術的宗教や身分制度、朝鮮の政治体制、王権思想などを導入。
 つまり朝鮮のコピー王国が出来上がったのだ。

 日本の各地で稲の伝来年代について議論があるが、
渡来人が来たそれぞれの地域と時期によって栽培年代が違う。
養蚕の伝来も各地まちまちなのと同じである。


 ヤマト政権の拡大

 忌宮神社の縁起その他の文献によると西暦192年に仲哀天皇は
九州の熊襲征伐を行ったとある。
 これは、弥生時代後期の二世紀末にはヤマト政権は確立し、
その勢力をすでに九州まで伸ばしていた証しである。
服属か、戦争かを要求することによって拡大したようです。

 するとこの集団は1世紀から2世紀前半までには
ヤマトでクニを作ったことになる。

 この頃、このような建国圧力に対抗して自国の独立を求め、
盛んに中国へ属国と引き換えに庇護を求めて使いを送っている。
金印をもらったクニは記録では3つだったかな(記憶定かならず)。

 しかし、この頃の墳墓は墳丘墓で、
石室を持った古墳文化には、もう一つ別の文明勢力の登場が必要。
 
 古墳時代の吉野ヶ里

 古墳時代の政権

 古墳時代は、弥生時代とは比較にならない高度な文化です。

非常に短期間で日本列島を掌握した集団による文化です。

 弥生時代に形成されつつあったクニを一瞬にして隷属させ、
中国、朝鮮式の高度な造墳技術と宗教観を持った文化で、
その他の科学技術や知識は、

 新たな支配者集団。武力集団が大挙して渡来した
以外に考えられない。

 3c中期までに各地に大陸式古墳が築造される事から、
2c後半か3c前半にはヤマト、淡路などを支配し定住。
その後、大規模古墳を築造した。


 吉野ヶ里の消滅 三世紀後半から四世紀前半

 自分たちと同系統でありながら、しかもより進んだ武力集団が、
ヤマト地方から新しい文明圧力を起こし、
九州北部にも及んで、非文明人となった吉野ヶ里の支配者は、

 意味のなくなった環濠や、海から遠く離れてしまった地を
捨てて移住せざるを得なくなったのかもしれない。

社会も経済も支配体制も劇的な変化を遂げたようです。