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 北部九州の縄文 №7  2020.11.12-2

  糸島市 志摩歴史資料館 (末盧国) 福岡県糸島市志摩初1
   092-327-4422 月休・撮影可

   唐津市 菜畑遺跡 (初期水田遺構展示館)
   糸島市 新町遺跡 (支石墓 集団墓地展示館)

交通  自家用orレンタカー
鉄道+コミュニティバス
  備考  

 



10志摩歴史資料館外観
20入口展示
二階の支石墓
はじめに

110入口展示
交流イラスト
御床松原遺跡
113大陸系磨製石器

住居
120古代の住まい
121弥生住居
122古墳時代の土器
123弥生時代の土器
125弥生のカマド
130弥生の暮らし
131イラスト
132石器・土器
138復元した住居
141糸島文化財マップ
 糸島湾絵図
143伊都国

生活
200縄文時代の志摩町
211土器・骨角器・石器
217織物
231絵 糸島の春夏秋
232弥生時代の生活
233須恵器の登場
234弥生の土器・石器

交易
251海を渡って来た物
255縄文の交易
256技術も動く
257活発な交流
260銭貨
270各種の土器
280金属製品
290和船各種

300縄文時代
301縄文の食料
302芥屋天神山貝塚
304縄文後期土器
305縄文時代の貝製品

信仰
311込められた願い
312桜井神社
320日本最古の戸籍

漁業
330海の生業
332漁撈具
337志摩の漁撈イラスト
339古代の浮子

干拓
340埋め立てられた海
350展望室

生産
381海に鉄を求める
383鉄を生み出した人々
385製鉄の方法
386製鉄炉
387フイゴの形
こんな大きな鉄滓も

墓制
401支石墓の中から
支石墓の主の謎
考察 新町遺跡の人骨
支石墓とは

4024四千年前の巫女
405戦いの犠牲者

406お墓は変わる
407権力者の墓 開1号墳
408志摩最大の前方後円墳
410甕棺墓
420支石墓
430石棺墓
431箱式石棺
 四反田古墳群の石室
434巨大な石室古墳
440死者は語る
443芥屋の大門
447久保地古墳群
460甦る一の町遺
480遣隋・遣唐使船
 
 
 
 10志摩歴史資料館外観
志摩歴史資料館 志摩歴史資料館  糸島=伊都国
糸島=伊都国+志摩
 20入口展示
糸島の八十八ヶ所信仰 糸島市巡礼信仰地図  八十八ヶ所信仰は、四国で始まったものですが、日本全国には、無数にご当地八十八ヶ所巡りが設定されています。
2019年に旅行した津軽半島でも、鹿児島でも、この巡礼信仰があり、人を動かすことによって経済の活性化を図りたいと願う人々がいたようです。

 二階踊り場の支石墓
 支石墓 ―新町支石墓軍13号墓―
いくつかの小さな石の上にテーブルのような大きな石を載せて支える形からこの名前が付きました。
弥生時代が始まった頃、稲作とともに朝鮮半島から伝わったお墓です。

二階へ 踊り場対面の展示 支石墓
 
  はじめに
 私は朝鮮半島との交流といえば、博多湾と思い込んでいましたが、実際には北部九州西側地域が主たる交易地域で、船舶の大型化や大和政権の朝鮮半島進出などの利便性から、後に博多湾に移ったようです。
 九州大学教授の貝交易の論文でも、西九州の縄文人と半島人との混血集団が紀元前10世紀にはこの貝交易船の船乗りとして各地に遺骨を残しており、とても早い時期、縄文時代後期から強い頻繁な交流・通婚があったと考えられます。
 また、初期稲作遺構の菜畑遺跡や、魏志倭人伝での水行旅程でも北部九州松浦湾・唐津湾・糸島半島が到着地として上がっています。
この地域の地形はとても大きな湾で、中継地の壱岐島からはとても近く到達しやすかったためと考えられます。
おそらく初期には、この地域に植民した半島人のムラが多数あり、どこの海浜集落に漂着しても十分な交易ができたものと思われます。
もちろんやがてそれらが武力で統一され、交易場所が独占され、冨の集積と権力の増大が起こり、やがて、魏志倭人伝にあるように小国家が出現するのでしょう。
 編集者戯言
 
 糸島市島歴史資料館の常設展示は
  海を展示の大きな柱として、「住居」・「生活」・「交易」・「信仰」・「漁業」・「干拓」・「生産」・「墓制」の8つのテーマに分け展示をしています。

 110入口展示
 展示室入り口の右脇の陳列です。壁には下に掲げる半島との交流・交易を描いた想像図が掲げられ、その下には111に掲示する遺物が展示されています。
残念ながらその壁面写真は撮り忘れです。
 しかし、問題は当館の8つのテーマの最初、「住居」はこの後に看板があるので、それに含まれません。ゆえに「入口展示」としましたが、後続する展示と密接につながっています。
常設展示室入口 右端:入口展示
正面:住居展示

 交流イラスト

伊都国への入港 伊都国に到着 志登の支石墓
潤うるまの集落
姫島・船越久家
立石山小富士
可也山・火山・彦山志登
 
 御床松原遺跡  
弥生中期前半(BC1c前半)の砂丘上に築かれた漁撈活動と海上交流を基盤とした集落遺跡。一枚の貨泉が発見されたことで注目された。
土器のほか太形蛤刃磨製石斧、包丁形磨製石器、石鏃、石槍、石錘、土錘、鉄滓、鉄器破片、須恵器などが出土している。

 111大陸系磨製石器 縄文・弥生の石器
入口展示

太型蛤刃石斧
御床松原遺跡
弥生時代
環状石斧
御床松原遺跡
弥生時代
石鍬
御床松原遺跡
縄文時代
石鎌
御床松原遺跡
弥生時代
大陸系磨製石斧 これらの磨製石斧や石包丁などは、
大陸から稲作文化が流入するのに伴い日本列島にもたらされた、
朝鮮半島に直接的な起源を持つ石器群で、
大陸系磨製石器と呼ばれています。
 113大陸系磨製石器
打製石鏃
御床松原遺跡
縄文時代
打製石鏃
御床松原遺跡
弥生時代
石包丁 石包丁
御床松原遺跡
弥生時代
 114
柱状片刃石斧
御床松原遺跡
弥生時代
柱状片刃石斧
御床松原遺跡
弥生時代
扁平片刃石斧
御床松原遺跡
弥生時代
 


  1.住居 古代の住居

 120古代の住まい
人が生活していくうえで欠かせないのが「衣・食・住」です。いつの時代でも家族が社会の基本になり、家族の物語が進行する舞台は「家」です。
1日の物語は1年、10年と積み重なっていき、それが集合して歴史を作り上げて行きました。
現在の私たちの暮らしは、積み上げられた歴史の最先端にいるのです。
このコーナーでは、私たちの暮らしに繋がる歴史を底から支えたともいえる「住まい」を紹介します。

住居群 竪穴住居を建てる

 121弥生住居 御床松原遺跡
 御床松原遺跡
この遺跡は、弥生時代中期から古墳時代前期(約2000年~1700年前)にかけて栄えた集落跡です。
ここから104軒の住居跡が見つかり、網などに付ける石錘や鉄の釣針、アワビオコシなどの大量の漁撈具や、中国・朝鮮半島のものと同じような土器、
そして「貨銭」・「半両銭」というその頃の中国のお金など、外国との交流があったことを実証する貴重な遺物が出土しています。
海辺の集落ということは、外国との交易には大変有利なことでした。
 御床松原遺跡の住居跡(砂丘上集落)
昔の人は主に竪穴式住居(半地下式住居)で生活していました。これは発掘された古墳時代前期の住居を再現したものです。
約5m四方に砂を掘り下げ柱を4本立てます。そして床と壁の砂が崩れないように叩いて硬くした土を貼っています。
奥の壁には作り付けのカマドがあり、ここで煮炊きなどをして食べ物を調理しました。いったい何人の家族がここに住んでいたのでしょう。
 家の中の生活道具
この遺跡から見つかった住居跡からは、水や食料を蓄える甕や壺、食べ物を盛る高坏といった土器や、
漁をするための網に付ける石錘をはじめ、釣針や捉えた獲物を調理するためのナイフなどが出土しています。
これらの道具の用途や形は今のものとほとんど変わっていないことに気づきます。

 弥生時代の土器
御床松原遺跡 御床松原の住居跡
家の中の生活道具
広口壺
御床松原遺跡
弥生時代
広口壺 広口壺
御床松原遺跡
弥生時代

御床松原遺跡
弥生時代
樽形ハソウ
御床松原遺跡
弥生時代

 122古墳時代の土器
 御床松原遺跡の土器
弥生時代と古墳時代の土器は、種類に大きな違いは出てきませんが、その形や焼き方はかなり変化します。
古墳時代になると弥生式土器に似た「土師器」と朝鮮半島から伝わった「須恵器」が見られるようになります。
住居自体は両方の時代を比べてもほとんど変わりありませんが、生活道具はその時代の特徴を反映しています。

御床松原遺跡の土器 古墳時代の土器
土師器
 123弥生時代の土器
弥生時代の土器 御床松原遺跡 遺跡全景
弥生時代の土器

 125弥生のカマド
カマドの構造 カマド
➀作り付カマドです。
②支脚がないです。
③ハソウの底は
 一穴大穴です。
④竹製スダレが表現されています。他館では決して表現しないものです。

 127正業の道具
臼と杵 漁網
 

 130弥生の暮らし
 131イラスト
クルミ採り、農耕種蒔き 食事・狩猟・黒曜石加工
鳥居・漁撈・井戸・竪杵 井戸掘り、
竪杵(脱穀・蒲鉾作り)
土器作り 竃で蒸調理・干物作り
 132石器・土器
鋳型片(青銅器出土)
御床松原遺跡
弥生時代
 133
スクレイパー
御床松原遺跡
縄文時代
石匙
御床松原遺跡
縄文時代
砥石
御床松原遺跡
弥生時代
紡錘車
御床松原遺跡
弥生時代
 134
投弾
御床松原遺跡
弥生時代
擦石すりいし
御床松原遺跡
弥生時代
台石
御床松原遺跡
弥生時代
箆状骨角器へら
御床松原遺跡
縄文時代

 138復元した住居
発掘された住居址だけではどの様な家だったのかはわかりません。しかし、柱の穴の間隔や床の広さなどから、当時の家を復元することができます。
全国には、家の材料の一部が見つかった遺跡もあるので、それらも参考にしています。
入口から入ると奥にカマドがあっておいしそうなにおいが漂っています。
床には家を支える柱が4本立っていて、家族はその間に集まって1日の出来事などを話し合ったのでしょう。

 141糸島文化財マップ
平地と山岳

 昔の地図で地形を見てみよう
元禄期の領地を描いた古地図
辺田嘉永開潮止図
嘉永三年1850
築後より大坂迄海上絵図
弘化4年1847
   糸島半島マップより拝借

 糸島湾 北九州鉄道沿線名所遊覧図絵
交易港で発達
港湾としてよく整備されています

左上:引津湾
右隣:船越湾
図下:深江浜
博多から糸島湾 糸島湾マップ

 143伊都国 志摩
古代人の生活 伊都国の竪穴住居
住居
家の生い立ちを訪ねる
住居の建築
 


 2.生活


 200縄文時代の志摩町
 201
 
縄文時代の志摩町 糸島の地図
志摩町でも縄文時代の早くから人々が生活していました。
芥屋(けや)の天神山貝塚からは一番古いもので10,000年前の縄文早期の土器が発見されています。
この貝塚では、4,000年前の縄文後期までの6,000年間にわたって人々が生活していた跡が見られます。
また、新町の縄文貝塚岐志の元村貝塚では、4,000年前からの生活の跡が発掘調査などでわかりました。
縄文時代の生活 縄文時代は今から10,000年前に始まりました。現在より暖かい気候の中で、人々は野山に走る動物を獲り、木の実を集め、海の幸をもとめて船を出し、豊かな自然とともに日々を過ごしていました。
このような生活を8,000年にわたり続けていたのです。
縄文時代は食べ物をもとめて次々に移動し、同じところに棲むことはないと思われていましたが、
最近の調査により、長い間同じところで生活していたことがわかりました。
身を飾った古代のアクセサリー    今も昔も、自分をきれいに見せたいという願望に変わりはなく、遺跡を掘ると沢山の装飾品が見つかります。
縄文時代の遺跡からは、貝や獣の骨で作った腕輪やペンダントやかんざしが、
弥生時代の甕棺や古墳からは、勾玉や管玉のネックレス、鉄で作ったイヤリングまで見つかります。

全国の出土例を見てみると、古代の人はことのほか身を飾り立てているようです。
縄文時代の土偶や弥生時代の土器に描かれる人物、古墳に並べられた埴輪などを見ると、アクセサリーを付け、化粧をしています。
中国の古書「魏志倭人伝」にも、弥生時代の日本人はボディペイントをしていたことが書かれています。この体を飾る習慣は、オシャレと同時におまじないの意味も含まれていて、お墓から装飾品が見つかるのはこのためです。
 210

 211縄文時代の土器
日本の縄文土器は、人類が初めて「土を焼くと硬くなって二度と柔らかくならない」という化学反応を利用した容器です。
それまでは打ち欠いた石の道具しか使わない旧石器時代が続いていました。

10,000年前には志摩町でもその縄文土器が使われています。これらの土器の表面は、縄目文様や、その他の様々な文様で飾られています。
土器の種類は鉢や壺、皿、甕などがあって、これを使うことで、人々の生活は、旧石器時代に比べてとても便利になりました。

縄文時代の土器
縄文時代の骨角器
縄文時代の石器
布を織る
縄文時代の土器 縄文時代の土器
磨消縄文土器
天神山貝塚
縄文時代
磨消縄文土器
天神山貝塚

 213縄文時代の骨角器
縄文時代の人々は、土器や石器のほかに動物の骨や歯を利用した道具も使っていました。骨角器と呼ばれるものです。
土や石では作りにくいものを骨を削って作っていたのです。
釣針や、刺突具と呼ばれる穴を開ける生活道具、またはペンダントや髪飾りといった装飾品も、骨や歯を削り出して作りました。
また、土器を作る時に粘土の下に敷く製作台としてクジラの脊椎が使用されることもあります。

糸島の貝塚出土の動物骨
骨角器
骨製刺突具
天神山貝塚・新町貝塚 縄文時代
カメ タヌキ
キツネ イヌ ネコ
既に猫が渡来していた
ニホンザル 縄文人が食べたもの
シカ
イノシシ
 
215縄文時代の石器
縄文時代の遺跡からは、沢山の石器が出土します。石器とは石で作った道具のことで、種類も矢どりや銛、斧、包丁など沢山あります。
これらの石器は丁寧に細かく打ち欠いて作られていて、打製石器と呼ばれています。
石器に使用される石は、黒いガラスのような黒曜石や、安山岩の一種であるサヌカイトが多いです。
志摩町から出土する石器の原料である黒曜石はそのほとんどが佐賀県伊万里市の腰岳周辺から持ってきたものです。
今から10,000年も前から広く交易を行っていたことがわかります。

縄文時代の石器 打製石鏃
新町貝塚
縄文時代
石匙(皮剥ぎ)
天神山貝塚
縄文時代
彫器
天神山貝塚
縄文時代
スクレイパー
天神山貝塚
縄文時代
打製石鏃
天神山貝塚
縄文時代

 217織物
布を織る技術は縄文時代の終り頃からあったようです。志摩町の貝塚からは縄文土器の破片を利用した紡錘車が発見されています。
紡錘車とは、糸を紡ぐための重りとなるもので、棒を差し込んでクルクルと回して使います。
縄文時代では、布を織るといってもスダレやムシロのような目の粗い布しかできなかったようです。(※ここでもアンギン編だったのか)

しかし、弥生時代からあとは織機を使用するようになるので、かなり目の細かい布ができるようになりました。
また、使い方がはっきりしませんが、骨で作った布に穴をあける道具と思われるものも出土していますので、古代の志摩町でも布を織り、着物や生活
用品を作っていたのでしょう。

布を織る 勾玉
御床松原遺跡
弥生時代
石製装身具
四反田古墳群
古墳時代
ガラス製装身具
新町遺跡
御床松原遺跡
古墳時代
紡錘車
御床松原遺跡
弥生時代
撚糸作業
 
 230
 231イラスト 糸島の春夏秋
弥生時代の生活
須恵器の登場




糸島湾

 232弥生時代の生活
今から2300年前のことです。それまで10,000年という長い間にわたって比較的変化のない暮らしを続けてきた縄文人にとって画期的な文化の変動が起こりました。
米作りやそれに伴う木製の農具や金属の道具、スマートな姿の土器、布を織る技術などが中国大陸・朝鮮半島から海を越えてやって来たのです。
それは目にするものすべてが新しいものでした。その新しい文化が初めて日本に上陸したところが、ここ北部九州です。
志摩町も海に囲まれているので、いち早く弥生文化が花開きました。
この文化はあっという間に西から東へと広がっていきました。
縄文人はそれまでのライフスタイルを捨て、この新しい文化を受け入れました。
やがてその新文化を基礎にした「ムラ」が、そして「クニ」が誕生し、時代は目まぐるしく変わっていきます。

弥生時代の生活 漁撈・水田農耕のムラ

 233須恵器の登場
弥生時代は海を越えてやって来た新文化と共に栄えました。その海外との交流は絶えず続けられていましたが、今から1600年前の古墳時代には、また一つ大きな波がやってきます。この波に乗って来たのは、ロクロを使って土器を作り、窯で焼くという技術です。

この方法で作られた土器は、色も硬さも弥生時代のものとは全く異なるものでした。これが須恵器です。
それまでの文化はいち早く北部九州にやって来ていましたが、この須恵器の生産が始まったのは関西でした。
大阪府堺市や和泉市周辺で発掘された陶邑古窯跡群(陶邑古窯跡群)というところで日本で一番早く須恵器が作られています。
これは当時、大きな権力を持っていたヤマト政権が須恵器の生産を独占していたものと思われますが、最近では福岡でも陶邑古窯跡群と同程度古い窯跡が見つかっています。
※国内での須恵器生産は、一旦、九州から畿内までの何か所かで始めたのですが、大和政権の命令により、大坂の陶村に集められ、国内生産を開始します。

須恵器の登場 須恵器窯

 234弥生時代の土器
弥生土器は均整のとれた形と、シンプルな文様が特徴となっていて、縄文土器と比べたらその違いははっきりとわかります。
しかし、その作り方や焼き方は縄文時代とあまり変わりません。
最も大きな違いは、縄文土器が食べ物を調理するのに使う形が多かったのに対して、弥生土器は食べ物を蓄える、盛り付ける、お祀りに使うといった目的別の形があったことです。
弥生土器は実用性をもとめた結果、このような形になったのです。
この違いは、食べ物を採って生活していた縄文時代と、食べ物を作った弥生時代の生活様式の違いとも言えます。
人々の暮らしが変化すると、使う道具の形や役目も変化するということができます。

長頸壺
御床松原遺跡
弥生時代
壺形土器
御床松原遺跡
弥生時代
高坏
御床松原遺跡
弥生時代

 235弥生時代の石器
金属器が伝わった弥生時代にも、もちろん石器はあります。しかし、縄文時代で見られた石器とは少し違いがあります。
縄文時代の石器が細かく打ち欠いて作られた打製石器が主だったのに対して、弥生時代の石器は丁寧に磨かれた磨製石器が多いのが特徴です。

また、大陸や朝鮮半島の遺跡から見つかる石でできた剣や矢尻と同じような物もあります。特に、剣などは金属製の物と形が似ています。
このことから磨製石器も金属器同様、海の向こうから伝わって来たことがわかります。

そして弥生時代ならではの石器として、稲の穂を刈るための石包丁があります。
米を食べない縄文時代では見られなかったものです。同じ石器にしても生活習慣が変われば種類が違ってくるよい例です。

弥生時代の石器
稲の収穫
 236
石包丁
一の町遺跡
弥生時代
大型石包丁
伝:親山出土(一の町遺跡?)
弥生時代
朱塗り祭祀用
磨製石斧
御床松原遺跡
弥生時代
扁平片刃石斧
御床松原遺跡
弥生時代
 237
磨製石剣
一の町遺跡
弥生時代
磨製石剣
御床松原遺跡
弥生時代
 238弥生式土器
古墳石室内の須恵器等の出土(坂の下5号)
須恵器 碗
久保地古墳群
古墳時代
須恵器 坏身
久保地古墳群
古墳時代
平瓶
久保地古墳群
古墳時代
提瓶
三十六古墳
古墳時代
陶質土器
御床松原遺跡
古墳時代
 


 250 3.交易 海を渡って来た物

 251海を渡って来た物
一枚の銅貨が志摩町を有名に

 交易 海を渡って来たもの
人が集まるところには文化が生まれます。それは………くるものと地域を越えて広がっていきます。周りを海で囲まれている志摩町は、古代では中国大陸や朝鮮半島といった外国に最も近い場所でした。日本列島に住む古代人が海外との交流を始めた時から、志摩町は新文化の玄関口の役目を担って来たのです。志摩町にやって来た新文化は国内に散って行き、そこに新たな流通の道が生まれました。ここでは、海外で作られ海を渡って伝えられた物を中心に、国内での文化の動きも含めて紹介します。

海を渡って来た物
 253交易

 255縄文時代から交易は始まっていた
人々の交易は縄文時代から盛んに行われています。ムラとムラ、あるいは地域の間で物や技術が動きました。
志摩町の縄文時代の遺跡から黒曜石の鏃がよく見つかります。この黒曜石は志摩町では産しません。これは佐賀県伊万里市の腰岳周辺から持ってきたものです。黒曜石の破片が沢山見つかるので、作られた鏃が来たのではなく、原料となる原石を物々交換で手に入れたたのでしょう。

縄文時代から交易は始まっていた 志摩と伊万里の交易
(海産物と黒曜石)
黒曜石片
新町遺跡周辺表層
縄文・弥生時代
黒曜石原石
佐賀県腰岳採集

256技術も動く
4000年前の新町縄文貝塚を調査したら、沢山の縄文土器とは少し違う土器がいくつか見つかりました。
模様も土器の胎土も、何より手触りが違っています。
熊本県有明海に面した地域では、縄文時代中期に土に滑石を混ぜた土器を作っていました。
それは最初に見つかった遺跡の名前を取って「阿高式土器」と呼んでいます。この土器の作り方が少しずつ北に移動し、北部九州では滑石の代わりに雲母を混ぜて土器を作ったのです。
このことから5000年前に南から北へと、土器を作る技術が伝わったことがわかります。
阿高式土器は、銀色の滑石の粒を混ぜるのが特徴です。北部九州では雲母を混ぜたようですが、目的は土器がキラキラ輝く視覚効果を狙ったものです。関東地方の阿玉台式土器も雲母を混ぜてキラキラ効果を狙いました。
しかし、胎土に滑石や石灰を混ぜることによって焼成後の土器の硬さが向上するとも聞いています。耐熱温度が高くなるだったかな、、、

交易
技術も動く
くり船
弥生時代
前2~3世紀
 257活発な交流
志摩町の遺跡から出土する土器などを調べていると、弥生時代の終り頃から各地の土器が見られるようになります。
特に瀬戸内海付近で作られた土器や、山陰地方が多いようです。これは狭い地域の中だけではなく、海路などを主に使用した交流が盛んに行われていた証拠です。
当時海に囲まれていた志摩町にこのような各地の土器があるということは、大陸との交易だけでなく、国内の流通に関しても、この一帯が文化の玄関口の役目をしていたことがわかります。

瀬戸内系土器
御床松原遺跡
古墳時代
山陰系土器
御床松原遺跡
古墳時代
埴輪の船
西都原古墳
古墳時代6世紀
古墳時代の船 12丁の櫂(じゅうにちょうかい)などという恐ろしく速い舟が実際にあったのでしょうか。弥生時代の壺の線刻画に沢山の飾り羽の漕ぎ手が乗る船が、死者の魂を黄泉の国に送る図が描かれています。
このような高殿に登る死生観は弥生特有かと思っています。

古墳時代には、ハーリー船やペーロン船のような祭や競技用の船でなく、高速艇として、半島と北部九州を、立ち寄る島ごとに漕ぎ手を替えながら繋いでいた特殊船があったのかもしれません。潮流の早い所は全力で、そうでないところは交代で漕いだのでしょう。しかし、12のオールとは驚きです。
 太型凹線文土器
新町貝塚 縄文
         
 

 260銭貨

 261貨泉
大正9年に九州大学医学部教授の中山平次郎先生がこのお金を日本で初めて、御床松原遺跡で発見しました。
そして一緒に見つけた弥生土器を参考にして、それまでわからなかった弥生時代の年代をはっきりさせるという業績を残しました。
御床松原遺跡の「貨泉」はこの偉大な業績の主人公になったお金です。

貨泉 貨泉
新町遺跡・
御床松原遺跡
弥生時代
新町遺跡 御床松原遺跡 御床松原遺跡

 262半両銭
志摩町で見つかった半両線は「両」字の中が人という文字に似ているので「人字半両銭」とも呼ばれています。
半両銭は、作られた時期によって大きさや重さ、書かれた書体が違ってきます。
このことから、この半両銭は前漢の中頃に作られ、弥生時代の中頃から終り頃に志摩町に入って来たものとわかりました。

半両銭
新町遺跡・
御床松原遺跡
弥生時代中期
新町遺跡
御床松原遺跡
 

 270土の器

 271陶質土器
約2000年前の朝鮮半島で使われていた土器です。日本の弥生時代の遺跡からも出土しますが、古墳時代中期(約1600年前)に最も多く作られるようになります。最初は土器そのものが入ってきましたが、
古墳時代になるとこの土器を作る職人が朝鮮半島からやって来て、その技術をもとに日本で作られたのが須恵器です。
志摩町では破片しか見つかっていませんが、よく見ると須恵器と似ています。
 漢式土器
約2000年前の朝鮮半島北部は「楽浪郡」という国が栄えていました。初めは前漢の行政区の一つでしたが、一時期は独立していました。
1800年程前になると三国志で有名な魏の支配下に置かれています。この頃、邪馬台国の卑弥呼が楽浪郡の一部にあった「帯方郡」に使者を送って
、魏の王様から「親魏倭王」の文書や金印などをもらっています。
志摩町から出土した漢式土器はこの頃の魏や楽浪郡で使われていた土器なのです。
※卑弥呼が使いを送ったのは、中国本土でなく、中国に支配された朝鮮半島中西部だったのか。初めて気が付いたよ。

土の器
陶質土器・漢式土器
漢式土器
二丈町井牟田遺跡
 272楽浪系土器
楽浪系土器
一の町遺跡
弥生時代
 273弥生・古墳時代の土器
三韓土器
一の町遺跡
弥生・古墳時代
楽浪土器片
ウスイ遺跡
弥生・古墳時代
楽浪土器
 
 276陶質土器 御床松原遺跡
陶質土器片
御床松原遺跡
古墳時代
陶質土器片
(平行タタキ文)
御床松原遺跡
古墳時代
陶質土器片
御床松原遺跡
古墳時代
陶質土器片
(格子タタキ文)
御床松原遺跡
古墳時代
 

 280金属の品々

 281
金属の品々
鉄の斧
海の向こうの鏡

下に記述

 282銅製品
 海の向こうの鏡「舶載鏡」
御床松原遺跡の古墳時代はじめの住居跡から鏡の破片が2点見つかっています。二つとも鏡の縁だけなので、全体の形はわかりませんが、
これらも大陸からもたらされた可能性があります。このように外国で作られ日本に運ばれた鏡のことを「舶載鏡」と言います。
今では2000年近く経っているので錆びていますが、出来上がった時はピカピカに輝いていました。昔の人は姿を写すものとしてできはく、お祀りや特別な行事の時だけ使ったのでょう。

銅鏃
御床松原遺跡ほか
古墳時代
青銅鏡片
御床松原遺跡
古墳時代
内行花文鏡片
井田原開古墳
古墳時代

 283鉄斧
御床松原遺跡の古墳時代の住居跡からか出土した斧です。
鋳型に溶けた鉄を流し込んで作った斧で、これとよく似たものは2300年前から中国で作られていました。
日本では弥生時代の終りから古墳時代の初め頃の遺跡で見られ、この形をした斧の多くは大陸などからもたらされたと考えられています。
この斧に木で作った柄を付けて木を切ったり削ったりします。

鋳造鉄斧
御床松原遺跡
古墳時代
板状鉄斧
御床松原遺跡
古墳時代

 285海外のお金
御床松原遺跡や新町遺跡の「貨泉」や「半両銭」以外にも外国のお金が志摩町から見つかっています。
時代も様々で、海外との交流が弥生時代以降もずっと続いていたことがわかります。
「治平元宝」と「大観通宝」は900年前の中国「宋」のお金で、「常平通宝」は300年前の李氏朝鮮時代のお金です。
両方とも御床松原遺跡から見つかっています。

海外のお金 皇朝十二銭
隆平永寶 延暦12(796)年発行
富寿神寳 弘仁9(818)年発行
天神前遺跡(志摩芥屋)
平安時代
渡来銭
常平通宝・治平元宝・大観通宝
李朝・北宋・北宋
江戸・平安・平安
御床松原遺跡
 
 

 290和船いろいろ


 291和船いろいろ
和船とは、日本で独自に発達した船です。日本の船の歴史は丸木舟から始まり、時代と共に変化していきます。
これらは、古絵図を参考にして再現されたもので、以前、福岡市立少年科学文化会館に展示していたものです。

 292中世の大型海船 鎌倉時代 13世紀初頭
 293遣明船 室町時代(14c後半~16c前半)
 294朱印船末次船)江戸時代前期 17世紀
 295朱印船荒木舟)江戸時代前期 17世紀
 296将軍御座船天地丸) 江戸時代前期 17世紀
 297大名御座船 江戸時代前期 17世紀
 298千石船 (弁才船) 江戸時代中期 18世紀
 
 


 300縄文時代

 301縄文人は何を食べていたか
貝塚から出土する当時の食べ物ですが、貝や魚は現在の私たちが食べているものとほとんど変わりません。
それどころか、鯛やフグの骨やウニのトゲなどが沢山見つかるので、思いのほかグルメだったようです。

また、近くの山に狩猟に行ったのでしょう。シカやイノシシの骨も見つかりました。
志摩町には新町貝塚のほかに、芥屋天神山貝塚岐志元村貝塚がありますが、どの貝塚からも同じようなものが出土します。
特に貝類をよく調べてみると内湾に棲む種類が多かったので、当時の志摩町は現在より海岸線が内陸に深く入り込んでいたことがわかりました。
 縄文時代の貝製品
道具
貝はその形や色は美しいのですが、道具として使うには非常にもろいものです。
このため、道具として形が残るものは少なく、志摩町でもあまり見られません。
ここに展示しているのは芥屋天神山貝塚から出土した「片口貝製汁器」と呼ばれる物で、破片と作りかけのものが1点ずつ見つかっています。
何に使ったのかよくわかりませんが、生活用品の一つと思われます。

縄文人は何を食べていたか 縄文時代の貝製品 片口貝製汁器
天神山貝塚
縄文時代
 302芥屋天神山貝塚の貝層
芥屋天神山貝塚の貝層 凹んだところにまで貼り付けてありました
 304縄文後期土器
縄文後期土器 深鉢
天神山貝塚
縄文時代
深鉢
天神山貝塚
縄文時代
深鉢
天神山貝塚
縄文時代

 305縄文時代の貝製品
装飾品
貝の中身は食べてしまいますが、後に残る貝殻はその形や色の美しさからアクセサリーとして加工されます。
志摩町の縄文貝塚からは大きな二枚貝を加工した腕輪やペンダント、小さな二枚貝で作ったイヤリングなどが見つかっています。
これらは丁寧に削ったり、穴を開けたりして作られています。細かく観察すると、穴には糸などを通して垂らしていた跡があるので、
実際に装飾品として使われていたことがわかります。

縄文時代の貝製品 鯛の骨、フグの骨
新町遺跡
縄文後期
ウニ剥製
ウニ殻とトゲ 貝製装身具
新町貝塚
縄文時代
貝製腕輪
天神山貝塚
縄文時代
ハマグリ・アサリ・オキシジミ・マテガイ
タマキビ・フトヘナタリ
・スガイ
デングニシ・アカニシ
・サザエ
 


 310 4.信仰 こめられた願い

 311込められた願い
いつの時代でも、誰でも心に願いを持ちます。科学や技術が進んだ現代社会に暮す私達にも言えることです。
昔の人は心の願いを形や行動に変えました。それが文化財や伝統行事として現在の私達にも伝えられ、見ることができるのです。
その形や伝統は、時代によって様々なものがありますが、根底に流れるものは今も昔も変わりません。
ここで形などに変わった人々の願いを見てみましょう。

信仰 込められた願い
込められた願い 信仰
それは古代の科学

 312桜井神社
前略・・・本殿の裏にある「岩戸宮」は、この神社が立てられる前から祀られていましたが、これは、1500年前の古墳の石室です。
 桜井神社本殿の彫刻
省略
桜井神社 桜井神社の彫刻
 313桜井神社の奉納品
省略
寶石
 314雉図
省略
 315奉納品
寶珠ほうじゅ 水晶累珠
馬角ばかく
 

 320日本最古の戸籍 「筑前国嶋郡川辺里戸籍」
奈良東大寺の正倉院に1,300年前、平城京に都が移され奈良時代がはじまる前の戸籍がいくつか残っています。
そのうちの一つに「筑前国嶋郡戸籍川辺里 大寶二年」と書かれたものがありました。
大寶二年は西暦702年になり、これが日本最古の戸籍といえます。
この頃の「嶋郡」は、現在の志摩町・福岡市西区・前原市の一部で、「川辺里」という村は志摩町の馬場・松隈・津和崎から前原市の由比・泊にけてあったのだろうと考えられています。

この戸籍には28家族の名前が残っていて、この中に嶋郡大領(しまぐんたいりょう)という嶋郡を治めていた長官の名前がありました。
「肥君猪手」という人が長官で、この一族は妻や子、孫、兄弟の家族などを含め124人もいたことがわかりました。

これは現在残る同じ時代の戸籍の中では最大のものです。そして、彼に与えられた口分田という土地は、13町6段120町歩という広さで、
これは今でいうと約154haという広さになります。
また、郡の長官である彼がいたことから、この辺りに郡衙(郡の役所)があって、嶋郡の中心があったことがわかりました。

六所神社の大楠 日本最古の戸籍 日本最古の戸籍
日本最古の戸籍 日本最古の戸籍

 野北の魚売り
野北の魚売り
 


  5.漁業 海の生業


 330海の生業
海に囲まれ、ごく狭い平野しか持たない志摩町では、古代に伝えられた米作りによる農業より、海に糧を求める漁業に重きを置いていました。
町内の遺跡からは、農耕に使う道具より漁撈具の方が圧倒的に多く出土します。
そして、漁業は現代の志摩町でも盛んに行われています。古来、海から恩恵を受け続けてきた志摩町の姿を見てみましょう
 331
海の生業
海の生業
地の利を生かした仕事
―漁業―
 332いろいろな漁撈具
漁業をするにはいろいろな道具が必要です。御床松原遺跡をはじめ、町内の遺跡からは漁に使う道具が数多く出土しています。
特に御床松原遺跡からは古代の漁村が見つかっていますので、当時の漁業の様子がよくわかります。

網に付ける錘や釣針、銛の他に、大きな石に穴を開けてロープを結んで、沖に船を停める時に使う碇が見つかっています。
鉄でできたアワビオコシは、現代のものと形は変わりません。土を焼いて作った蛸壺もあります。
新町縄文貝塚からは、軽石の浮きが出土しました。4000年も前から素材をうまく生かして道具を作っていることがわかります。
これらの遺物の大きさ、形も現在の漁業で使っている道具とほとんど変わらないというのは驚きです。

飯蛸壺
御床松原遺跡
古墳時代
鉄製アワビオコシ
御床松原遺跡
古墳時代
 333鉄製鮑起し
現代の鮑起し
省略
鉄製アワビオコシ なんと、アワビ起こしの先端の曲がったカギが隠れています。
誰か知らない人がポイと置いたようです。 
 334魚を釣るとき
釣針も時代と共に、その素材や形が変わって行きます。縄文時代から釣針を使って魚を釣っていますが、縄文時代は動物の骨を使い、
弥生時代や古墳時代になると、鉄で作った釣針が使われるようになりました。
それにしても鉄製の物は、釣針としてはかなり大きいものです。これでは海辺にいる小魚の口には合いそうもありません。

御床松原遺跡唐は、マグロ・カツオ・サバといった外洋にいる魚の骨がわずかですが見つかっています。もしかしたら大きな船を作り、この鉄の釣針を持って、遠くの沖の方まで漁に行っていたのかもしれません。

魚を釣るとき 骨針と鉄針 骨製釣針
新町貝塚
縄文時代
鉄製釣針
御床松原遺跡
古墳時代
 335魚を突く
魚を獲るには網や釣針だけではなく、銛も使います。縄文時代から銛は使われ、縄文時代は動物の骨や石を細工しています。
黒曜石の矢尻と鋸(のこぎり)の形をした石器を組み合わせた銛などもあります。
弥生時代以降は鉄の銛が活躍するようになり、御床松原遺跡からは鉄の銛がいくつも出土しています。銛は時代と共にその素材は変わりますが、基本の形は変わりません。4000年以上も前から銛としての形は完成されていたのです。
燕形離頭銛(えんけいりとうもり) or 組み合わせ銛

骨製のヤス
新町遺跡(縄文貝塚)
縄文後期
鉄製のヤス
御床松原遺跡
古墳時代
 336魚を一度に沢山獲るには
御床松原遺跡からは漁業に使う道具が数えきれないほど出土しています。特に魚を獲る網に付ける錘が沢山あり、その形・大きさ・材料も様々です。
石で作った錘は、網の紐をかけるための溝があるもの、穴が開いているもの、溝と穴があるもの、丸い石の両側だけを欠いたものと、その形が四種類に別れます。
これは獲る魚の種類やその獲り方、網の種類が違うためにわざわざ形を変えているものと考えられます。2000年前にどの様な網を使ったのかはわかりませんが、少し昔の漁業の記録などを参考にして、ここに再現してみました。

土錘
御床松原遺跡
弥生時代
有溝有孔石錘
御床松原遺跡
弥生・古墳時代
打欠石錘
御床松原遺跡
弥生・古墳時代
 337獲った魚を調理する
1700年前の今日は大漁でした。漁から戻ってきた人達は獲った魚をムラの皆に分けます。魚をもらった人はそれぞれ自分の家に持ち帰り、夕飯の用意をするために魚を調理します。このようなときに使ったのが刀子です。今のナイフや包丁にあたります。鉄製のため、よく切れたことでしょう。
柄の部分に木でできた握りを付けた刀子は、私たちの家の台所にある包丁と変わりないものだったのでしょう。

潜り漁(海士漁) 釣り・網漁・海運
海運業・漁具・貝塚
調理
刀子
御床松原遺跡
弥生・古墳時代
 339古代の浮子
(要約)魚のアタリがわかる浮子は(省略)は、4000年前から使われています。
志摩町で見つかっている浮きは軽石でできています。木の浮きもあったかもしれません(後略)

古代の浮子 有溝石錘
御床松原遺跡
弥生・古墳時代~
有溝石錘
御床松原遺跡
弥生・古墳時代~
浮子
御床松原遺跡
弥生・古墳時代
 


 340 6.干拓 うめたてられた海  江戸時代

海の幸に恵まれ、それを生活の糧としてきた志摩町も、時代の価値観の変化に対応しようとします。
米が経済の基準となる江戸時代になると、海を埋め立てて狭い平野しかない郷土を改変し、少しでも多く米を作ろうとします。
この思いは土地の人から生まれ、やがてそれは干拓という形で実を結んでくるのです。
ここでは、その努力の跡をたどって行きます。

干拓
埋め立てられた海 現在の志摩町
広大な干拓地
古代から遠浅の海だった
海を埋め立てる
400年前から干拓を開始
元禄の干拓
宝暦の干拓 嘉永の干拓
160年前江戸末期の干拓
江戸時代の大事業
干拓工事のスポンサー
干拓工事絵図 干拓工事絵図
幕末に急激なインフレがあったそうだ。


※江戸期の干拓工事は全国的に行われている。岡山県笠岡市などは藩が主導して行ったと聞いている。
しかし、ここでは「人々の願いによって」としているのは、大金持ちの商人がスポンサーとなり、何十万両とかの資金を拠出して藩に許可を願い出て、行った事業のようです。だいたい願い出て許可を得るだけでも莫大な裏金が必要だったのでしょう。
 完成したあかつきには事業主にも藩にもそれなりの利益があったのですが、失敗するとなぜか厳罰が科せられました。
 武士というのは居丈高で、おかしなことを考えるものです。
 
 350展望室
展望室から 正面
四反田古墳群
最古の戸籍に見える
川邊里(かわのべり)
資料館周辺
 


 380  7.生産 海に鉄を求める


 381海に鉄を求める
志摩の海辺に広がる砂丘。この砂に鉄を作るヒントがありました。古代の人はこの砂に良質の砂鉄が含まれていることを見抜き、鉄を生み出しました。
鉄を作る技術が大陸や朝鮮半島を経て伝わってから、志摩町は豊富にある砂鉄という原料を使い、歴史の中でも重要な位置を占めるようになります。その鉄を作る過程を見ていきましょう。

海に鉄を求める
鉄だけが志摩の特産ではない
 382手押しふいご 最近まで使用されていたもの

小鍛冶・野鍛冶の道具
 383鉄を生み出した人々
志摩町は海岸線が多く、きれいな砂浜が沢山あります。1200年前の人は、この浜辺の砂を使って鉄を作っていたのです。(八熊製鉄遺跡)

志摩町の西貝塚には古代の製鉄所がありました。
八熊製鉄遺跡を発掘してみると、砂鉄を溶かして鉄を作る製鉄炉や、炉の中で砂鉄や木炭を燃やすために空気を送るフイゴの先につける羽口という道具、溶けた鉄が固まったものなどが沢山見つかりました。

同じようなものが、野北の吹切遺跡からも見使っていて、鉄を生み出す人々が志摩町に住んでいたことが判ります。
砂鉄を炉の中で溶かすとき、欠かせないのが木炭です。この木炭を作っていた窯の跡が、芥屋大門の近くにある藤原遺跡から見つかっています。

中世になると、志摩町の一部は太宰府観世音寺の寺領になります。観世音寺はこの土地で産する良質の砂鉄に目を付け、独自の鉄生産を行ったのです。志摩町の鉄は歴史の上でも重要な役割を果たしました。

鉄を生み出した人々 八熊製鉄遺跡全景
 藤原遺跡
藤原遺跡は、当然ながら、半島式竪形製鋼炉がシリーズで並んでいる。
奈良時代以降に各地出行われた製鋼方法です。
新潟県、青森県でもこのような炉跡が出土しています。

中国地方の長方形のたたら製鉄炉は製鉄のたびに破壊しますが、この炉は僅かな修理を施して何度も再使用するのです。
周囲の溝は排水路のようです。  
八熊製鉄遺跡1号炉
円形炉跡でしょうか? 
吹切遺跡全景 
建屋跡と斜面に方形炉?

 鉄滓 八熊製鉄遺跡
鉄滓とは、木炭の燃焼熱と還元作用によって砂鉄を製錬する時に、炉の壁自体も溶けて砂鉄と反応してできる不純物のことをいいます。
鉄滓は製鉄炉の下に設けられた湯地穴から流し出され、廃棄されます。
ここに展示している鉄滓は、八熊製鉄遺跡から出土したものの一部です。製鉄の過程では大量の鉄滓ができることがわかります。

鉄床(かなとこ) 鉄鉗(てっかん)ひばさみ

ヤットコですね
鉄滓
八熊製鉄遺跡
 384鉄を生み出した人々
長方形製鉄炉
1次製鉄はたたら製法
2次製鋼は筒形炉
古代の製鉄炉
※箱形製鉄炉
朝鮮式円形竪型炉ではない

2人が足ふみフイゴ

1人が砂鉄を投入
1人が木炭を投入

鉄滓を湯地穴から排出
ジオラマと絵図は模式的に描かれ・作られたものでした。

 385製鉄の方法(箱型製鉄炉)

砂鉄を手に入れる 鉄を作るには、原料に鉄鉱石か砂鉄を使います。
志摩町にある製鉄遺跡を調べると海砂に混じっている砂鉄を使っていることがわかりました。
どの様にして砂から砂鉄だけを取り出したのかはわかりませんが、
流れる水に砂を流して底に沈んだ重たい砂鉄を手に入れたと考えられています。
製鉄炉を作る 八熊遺跡の製鉄炉は、土を少し掘って、その周りに土の壁を箱型に設けます。
その中で砂鉄を溶かすのです。
最初に掘る土の中が湿っていたら思うように砂鉄が溶けないので、
まず、土を掘った後で日を焚いて土を乾燥させています。
砂鉄を溶かして鉄を作る
いよいよ本番です。
木炭と砂鉄を交互に入れながら日を絶やさないように燃やし続けます。
この時重要なのは炉の中に空気を送ることです。空気が無ければ火は燃えません。

そのため、フイゴという装置を使います。島根県に今も残る伝統的な製鉄では、三日三晩燃やし続けるそうです。
鉄の出来上がり 完全に砂鉄が溶けました。それが冷めるまで待って箱型の炉を壊します。
すると、底にはケラと呼ばれる鉄の原型ができているのです。
実はこのケラそのものが鉄ではなく、これをもう一度溶かして純度の高い鉄を手に入れるのです。

 386製鉄炉
製鉄炉とフイゴの羽口 底に溜まったケラ 羽口と炉壁
 387フイゴの形
古代のフイゴはその形状・構造ともに、資料の少なさから確実な姿がわかりません。日本では、中世以降の絵などにその姿が表れてきます。
ここに挙げた3点のイラストで、製鉄や小鍛冶などで使われていたフイゴを紹介します。
圧力で空気を炉内に送り込むという基本的な構造は時代・場所を問わず同じですが、その形や大きさは様々なものがあります。
古代のフイゴはどの様な形をしていたのか、皆さんも想像してみてください。

フイゴの形 中国のフイゴ 中世フイゴ 近世タタラの
「天秤フイゴ」
 388炉道具
須恵器蓋
八熊製鉄遺跡
奈良時代
送風管(被熱なし) 砂鉄
(なぜか脚注なし)

 こんな大きな鉄滓も 八熊製鉄遺跡出土
 これは八熊遺跡3号炉から出土した鉄滓で、箱型炉の炉底のコーナー(隅っこ)付近で固まったようになって出土したものです。
よく見ると隅の方が炉の立底面と側面が一部残っています。
 鉄滓は、大きさや不純物の混ざり具合などの観察と分類によって、
炉内滓や炉外滓、炉壁滓など、当時の製鉄炉のどの部分にあたるかなどを推定することができます。
※箱型炉にはこのような鉄と炉壁・炉底が溶けて固まったものが溜まり、炉を壊してこれらを取り出して細かく砕いて分類し、もう一度小鍛冶場で溶かして精錬します。この鉄滓は、何らかの理由で取り出せなかった鉄滓ではないでしょうか。土砂崩れや戦乱、その他があると思われます。

こんな大きな鉄滓も
 


 400  8.墓制 

 401支石墓の中から
天井に開けられた、支石墓内から見上げた様子

 支石墓の主の謎―新町遺跡―
昔から、畑に大きな石があることで知られていた新町遺跡が初めて調査されたのは、昭和61年のことです。

発掘調査によりここは2300年前のお墓の跡ということがわかりました。ちょうど縄文時代から弥生時代に移り変るころです。
この遺跡で見つかったお墓は大きな石を使った支石墓というお墓です。畑にあった大きな石とは支石墓の石だったのです。
発掘調査を続けると支石墓の下から人骨が出土しました。2300年前の人骨の出土例は他になく、日本で最初のものとなりました。

しかし、この人骨が大変な疑問を投げかけたのです。
一般的に弥生時代のお墓から見つかる人骨と、縄文時代のお墓から見つかる人骨を比べてみると、大きな違いがあります。
縄文人はがっしりとした体に彫の深い顔が多く、弥生人は背が高く顔も面長という特徴を持っています。
これは、早くからお米を食べ、広い範囲で交流を続けていた大陸の人と、長い間狭い日本列島の中だけで動物や木の実などだけを食べていた縄文人の違いなのです。※1
新町遺跡の支石墓は、海を越えてやって来た文化の一つですから、当然ほかの弥生時代のお墓から見つかるような、大陸の人の特徴を持った人骨が出土するものと思われました。

ところが、新町遺跡の人骨を詳しく調べてみると、縄文人の特徴が強い※2ことがわかったのです。
このことにより、今まで大陸や朝鮮半島の人が文化を持ってきたものとばかり思われていたことを、もう一度考え直さなければならなくなりました。
もしかしたら縄文人が積極的に海を渡って、外国の文化を持って帰って来たのかもしれません。
 支石墓の主は何も言いませんが、2300年前の文化の動きの謎を語りかけてきます。

※1民族の違いですよね。食べ物や行動だけのせいじゃない。(^^♪)
※2「強い」とはどういうことだろう。縄文人の骨だと言ってるのか、混血人骨で、縄文人骨の中に半島人的要素が混じる、母親が縄文人の骨だろうか。
 表現がまねく曖昧さで、実態がよくわからない。せっかく長文で書かれた解説なのに、曖昧表現のために真実が解説されていない。


考察 新町遺跡の埋葬人骨 「人類学のススメ 日本の人骨発見史7.新町遺跡(弥生時代):埋葬形態と被葬者の形質が異なる人骨」抜粋
弥生時代早期及び前期の支石墓や甕棺墓等57基が発見され、人骨は14体が検出されています。
14体中、男性6体・女性2体・不明6体、死亡年齢は幼年1体・少年~若年1体・成年~成人9体・熟年3体。保存状態が良い9号人骨は、支石墓に埋葬。
9号墓の熟年男性は、頭は前後に長く(長頭)・顔面部は低顔性・低眼窩・鼻根部の陥凹という、在来系(縄文系)の形質を持っていた。男性3体の身長は、平均で157.1cmと低く、この点でも在来系の特徴を示している。
何故、渡来系の埋葬形態・支石墓に、在来系(縄文系が埋葬されていたかは不明だかが、縄文時代から弥生時代への移行期に、元々いた在来系が何らかの貢献をしたことが推定されます。

 新町遺跡の縄文人
弥生早期・前期の人骨は、上記の通り、混血でもなく、抜歯の跡もあり、純粋な縄文人であることが分かった。資料の読み飛ばしがありました。
人骨の中には、磨製石鏃を後ろから打ち込まれた人骨があったことと、成人人骨があり、足元に敵の子供の頭骨を納めた埋葬墓もあったことである。
磨製石鏃は大陸系石器であり、半島の埋葬文化を持つ新町遺跡の縄文人は、渡来した半島人から攻撃されたことになる。
また、縄文社会に戦闘は稀有。ましてや首狩りの風習などなく、大陸の、戦闘に伴い生じた首取り報復、を行ったことは別次元の縄文人である。
結論として、全く大陸人化した縄文形質の新町人であったといえる。

   支石墓の主の謎  新町遺跡全景 24号墓  42号墓の支石
蓋石が撤去されていた
44号墓
蓋石が揃っている 

 支石墓とは
支石墓とは、その名の通りで、四つ以上の石でテーブルのような大きな石を支えている形のお墓のことを言います。
上に乗っている石は大きなものになると1t以上になることもあります。この石は墓標のようなもので、死者を葬る所は土の下にあります。

新町遺跡では、木で作った木棺と甕を利用した甕棺の二種類がありますが、木棺は2000年以上もの時間の中で腐ってしまい、今は残っていません。
ここでは他の遺跡の木棺などを参考に復元してみました。
もともとこの支石墓は、中国大陸や朝鮮半島で造られていたものです。それが米作りや金属などどいった新文化と共に日本に伝わったのです。
この支石墓を造る文化が最初に上陸したのが志摩町で、この形のお墓は北部九州を中心に広がって行きました。

木棺に葬られた 支石墓とは 江華島冨近里支石墓
背の高い支石墓
※支石墓には二種類ある。
上石を高く持ち上げた型式と、
新町遺跡のように低い台石の上に置いたものがあ。
支石墓の構造  以前読んだ記録に高知県にも支石墓があり、
テーブル状の大石と支えの台石があり、上石の下にはきれいな丸い石が沢山入っていた。
 しかし、やがて丸い石は少しずつ持ち去られ、ついには上石もなくなってしまったそうだ。
 山中にテーブル石とその下に川原の丸石は確実に支石墓だ。また、そこは海の見える場所で、傍に大きな光を反射する鏡石があり、海からよく見えたそうである。

 402腕輪をした女性
新町縄文貝塚遺跡から、ほぼ全身の骨が残る葬られた人が見つかりました。
体をまっすぐに伸ばし、膝を少し曲げ、手は腰の辺りで組まれている状態で埋葬されています。
頭のすぐ上には縄文土器の鉢が添えられています。そして両手に貝で作った腕輪を沢山つけていたのです。
4000年の間に壊れたりして埋葬されたときの数はわかりませんが、発掘されたときは右手に7点、左手に14点の二枚貝を加工した腕輪をしていました。骨を詳しく調べると、大人の女性ということと、この女性が小さい時から腕輪をしていたことが判りました。

腕輪をした女性
 404四千年前の巫女
縄文時代の生活の中で、両手に壊れやすい貝の腕輪を長い間付けておくことができるのでしょうか。
この時代は食べ物を自然の恵みに頼っていて、男の人も女の人も狩りや漁、木の実集めなど忙しい毎日を送っていました。

小さい時から貝の腕輪をしていたこの女の人は、ムラの中でも特別な仕事を持っていたようです。
一日の仕事を終えたあとの感謝の祀りや、狩りや漁に行く場所を占ったりといった、ムラ全体の祀りごとをしていたのでしょう。
現在でも南方の国々ではこのような祀りごとを職業とする人がいます。

また、この女の人のお墓に添えられていた鉢の裏側には木の葉の形が押されています。(※時々ある木の葉の土器底は特別仕様だったのかも知れない)
ほかにも沢山の土器があるのですが、このようなものはたった一つだけでした。
ムラの人々がこの女の人に特別な思いを寄せていた証拠です。4000年前の巫女。これがこの女の人に合う言葉かもしれません。

四千年前の巫女 甕形土器(木葉文)
新町貝塚 縄文時代
405戦いの犠牲者
支石墓の一つに葬られていた大人の男の人の骨を詳しく調べると、左足の太もものつけねに、後ろから打ち込まれた矢の先が残っていました。
そのため、この人は戦死したことがわかりました。
2300年も前から人々は争いをしていたのです。理由ははっきりしませんが、おそらくほかの部族との縄張り争いがあったのでしょう。

不思議なことに、このこの戦死した男の人の下には頭の大きさくらいの穴があって、その中から少年の歯が出てきました、
少年が葬られたとしては少し様子が変です。
どうやら少年の首だけを埋めたらしく、争った相手の部族の、まだ、戦い方も知らない小さな子の首を切って来て、戦死した人の弔いとしたと考えられます。各地の弥生時代のお墓から首のない人骨が見つかるケースが増えてきていますが、このような理由からだと思われます。
弥生時代になると人々は海を渡って来た「武器」というものを知ります。

戦いの犠牲者 戦いの犠牲者

 刺さった矢じり
石の矢じりが刺さった骨をレントゲンで撮った物です。突き刺さった時に矢じりの先が折れたことがわかります。
鏃の刺さった寛骨の
レントゲン撮影

 磨製石鏃片 新町遺跡 弥生時代
石を磨いて作った矢の先
※非常に大きく長い石鏃です。これが成人男性に刺さって戦死し、相手の子供を殺して報復したみなもとですね。
磨製石鏃片
 
 

 406お墓は変わる
死者に対する思いは変わらなくても、死者を葬る形は変わって行きます。
縄文時代は死者をそのまま土に埋葬しています。
弥生時代は木棺や甕棺を直接土の下に埋めるのが主にみられる埋葬の仕方です。
支石墓のように、これらの上に墓標として大きな石を使ったり、板のような石を組み合わせて石の棺を造ることもありました。

弥生時代も終りに近づくと、近畿地方を中心とした強大な政権ができるようになります。
この勢力が徐々に全国に広がるにつれ各地に前方後円墳などが作られるようになり、古墳時代が幕を開けます。

山を削り、土を何段にも盛り上げ、その表面を石で覆って古墳を造るのは大変な土木作業です。
権力者は自分の力を見せつけるために多くの人を使いました。
古墳の形も様々で、前方後円墳のほかに丸い円墳や四角い方墳、前方後円墳の形が変化したような前方後方墳などがあります。

やがて仏教や、政治に中国の法律などを参考にした律令が取り入れられるようになると、法律で古墳を造ることが禁止され、死者も火葬されるようになります。お墓を調べると、時代の様子を反映しているのがよくわかります。

お墓は変わる
 407権力者の墓 開1号墳
井田原にこんもりとした山がありますが、実は山ではなく一つの古墳です。
長さが90m近くもあるので、道路から見ても形もはっきりしませんが、空から見下ろすと前方後円墳であることがわかります。
この古墳は糸島地方で二番目に大きな物です。現在は木が繁っていますが、1600年前に造られた時は、表面は石で覆われ、埴輪という素焼きの土器が段の周りに整然と並んでいました。
また、後円部の頂上付近から鏡の破片が見つかっているので、死者を埋葬した所が想像できます。

当時の豪族は治めていたところを見張らせる、あるいは自分の権力を示すことができる場所に、自分のお墓を造っていました。
前方後円墳のような巨大古墳は、開1号墳の他に稲葉1号墳・2号墳や津和崎権現古墳があって、これらは全て当時内湾に面していた所に集中して造られています。このため、この辺りの豪族は港を持っていて、盛んに交易をしていたと思われています。

権力者の墓 開1号墳 開1号墳空撮 稲場1号墳

 408志摩最大の前方後円墳 井田原開古墳
井田原開古墳は、全長93mを測り、5世紀初頭に築かれた志摩地域で最大の前方後円墳です。
墳丘の平面形は、前方部が細長く、幅の狭い柄鏡形をしています。これまで副葬品の一部である内行花文鏡1面分と鉄器数点、墳丘全体を囲んでいた円筒埴輪片のほか、多数の形象埴輪片等が出土しており、埴輪の中には主に九州での出土が極めて珍しい「鰭付」円筒埴輪が含まれていました。
古墳の被葬者は初川下流域の集落を造営母体とした県主クラスの首長であったと考えられます。

 井田原開古墳出土の円筒埴輪
開古墳の円筒埴輪 志摩最大の前方後円墳
井田原開古墳
3段築成前方後円墳
内行花文鏡 ※内行花文鏡は権威のある銅鏡で、卑弥呼の三角縁神獣鏡よりも価値が高かった。
 

 410甕棺墓 弥生時代
 411甕を利用した棺
甕を利用した棺は「甕棺」と呼ばれ、地域によっては縄文時代の早くから見られます。この頃は子供を埋葬した小さな甕棺が多いのですが、
縄文時代の終り頃から大人も埋葬するようになります。
この甕棺は弥生時代から古墳時代にかけて九州を中心に多く見られるようになり、志摩町で見つかっている甕棺はほとんどが弥生時代のものです。

甕棺は二つの口を合わせた「合わせ口甕棺」という形が一般的で、大きな物になると、二つの甕を合わせて1m以上になるものもあります。
他に、専用の蓋をしたものもあります。
新町遺跡からは、古墳時代はじめの甕棺も見つかっています。

甕を利用した棺 御床松原遺跡
1号甕棺墓
弥生時代中期
新町遺跡 1号甕棺
古墳時代前期
久米遺跡23号甕棺
細形銅戈出土甕棺
久米遺跡23号甕棺
 

 420支石墓 弥生時代

 421支石墓甕棺

 新町支石墓群
新町支石墓群は、引津湾に面した海岸砂丘上にある弥生時代開始期の墳墓群で大正時代からその存在が知られる著名な遺跡でした。
昭和61年に行われた発掘調査で57基に及ぶ、弥生時代早・前期の支石墓を主体とした墓域の存在が明らかとなり、
加えて、当時全国的に例をみなかった弥生時代早期の埋葬人骨が良好な保存状態のまま出土したことから、大きな注目を集めました。

我が国における弥生文化の成立状況を知るうえで重要な資料として、平成12年に国史跡に指定されました。

新町支石墓群

 新町支石墓群出土の甕棺 弥生時代開始期の甕棺と副葬小壺
支石墓群に伴って出土した土器として甕棺と副葬小壺があります。
小児を埋葬したと見られる甕棺は支石墓の下から出土、副葬小壺は支石墓の脇に添えるような形で置かれていたものです。

弥生時代開始期の甕棺は、甕というより壺の形をしており、表面が丁寧に磨かれており光沢があります。
この時期の土器資料は全国的にも類例が少なく、また保存状態も良好で、わが国の稲作開始期の考古資料としては第一級の物といえます。

新町支石墓群出土の甕棺
甕棺 新町支石墓群 弥生時代  被葬者は縄文人のようですが、
土器は弥生的です。

ミスマッチですね

 422支石墓群
新町遺跡墓域復元
新町遺跡5号支石墓 新町遺跡9号支石墓 新町遺跡11号支石墓

 423副葬壺 新町遺跡墓群 弥生早期~前期 支石墓一基に一つの壺が共献されていたものです。
籾殻圧痕付

 424支石墓下の甕棺
新町遺跡の調査では、57個のお墓が見つかっています。上の石がなくなっているものが多かったのですが、ほとんどが支石墓だったようです。
その内の三つが甕棺墓でした。この甕棺の上には何もなかったのですが、おそらく上にはこのような支石があったと思われます。
大半のお墓がこのコーナーの最初に展示していたような木棺の支石墓でしたが、甕棺の支石墓もあるのです。

この甕棺は上甕と下甕からなっていて、下甕は赤く塗られています。上甕は現在は剥げていますが、黒く塗られていたようです。

支石墓下の甕棺
    新町遺跡Ⅱ-052号甕棺墓
新町遺跡25号甕棺墓  新町遺跡Ⅱ-101号甕棺墓   
甕棺墓の支石墓 甕棺
御床松原遺跡
弥生時代
 

 430石棺墓 古墳時代


 431箱式石棺
熊添遺跡可也山の北側の小高い丘の上にありました。この遺跡は1600年前の古墳ですが、ほかの古墳と違って高く盛り上がっていません。
ここから板のような石を組み合わせ、箱のような形をした棺が見つかりました。その形から「箱式石棺」と呼ばれています。
箱式石棺は古墳時代独特のものではなく、弥生時代からあります。形も熊添遺跡のものとほとんど変わりません。
この遺跡からは七つの石棺が見つかっていて、展示しているのはその中でも一番大きなものです。この上に石の蓋をして、死者を葬ります。

箱の形をした石の棺 新町遺跡Ⅲ7号石棺墓
新町遺跡調査風景
熊添遺跡の箱式石棺
古墳時代前期の墳墓群
 432変わった石の棺
この歴史資料館のすぐ横にある四反田古墳群熊添遺跡と同じ時代の遺跡です。
六つの円墳が小高い丘の上にあって、一番大きい円墳の頂上からここに展示されているような棺が二つ見つかりました。
この棺は平らな石を沢山積み上げて、人が一人入るくらいの空間を作っています。
この空間の広さは熊添遺跡の箱式石棺と似たような物ですが、作り方が少し変わっているので、石棺とは区別されています。
この中から琴柱形石製品という一風変わった装飾品が見つかりました。使い方はよくわかりませんが、髪飾りあるいは耳飾りと思われます。
この古墳と似たような物が野北の向畑古墳でも見つかっています。
四反田古墳群

 四反田古墳群の石室 古墳時代前期
四反田古墳群は、志摩歴史資料館の丘陵上に築造された古墳時代前期の古墳群です。
古墳の埋葬主体は、石棺系の竪穴式石室で珍しい構造をしています。

変わった石の棺
四反田古墳群の石室 四反田古墳群の石室
 434巨大な石の部屋
津和崎の後口古墳(うしろぐち)は、1500年前に造られていました。この古墳の死者を葬る所は巨大な石を幾つも使った大きな部屋になっています。
ここに入るには横に開いた入り口から狭い通路を通らなければなりません。
このことから、このような部屋と通路を持つ施設のことを「横穴式石室」といい、この石室は志摩町で最大のものです。
この中に死者を納めた棺を入れ、石で入口を塞ぎました。この入口の石を除くと、追葬(後から二人目を埋葬すること)ができます。

規模は様々ですが、横穴式石室を持つ古墳は町内にいくつもあり、地元ではこの石室のことを「オニグラ」と呼んでいます。とても人が運んだとは思えないような巨大な石を使っているので、まるで鬼が造ったように感じたのでしょう。
また、この石室の巨大な石は全て可也山の花崗岩を使っています。

巨大な石の部屋 浜口古墳石室 大上戸古墳石室

 後口古墳の横穴式石室(うしろぐち)
後口古墳は、津和崎若宮神社の境内地にある古墳時代終末期の古墳です。石材に巨大な花崗岩を使った終末期古墳特有の構築技術が見られます。

 

 440死者は語る
人は生まれ、そしていつか必ず死にます。残された者の悲しみや死者に対する想い、そして死者を丁寧に葬ることは今も昔も変わりません。
しかし、お墓の形は時代によりその姿を変えていきます。その中に眠る者は口こそ開きませんが、様々なことを現代の私達に語りかけてきます。
ここでは、歴史を構築してきた人々が最後に行きついた場所を紹介して行きます。

死者は語る
永遠の眠りもう一つの家

 443芥屋の大門(けや) 福岡県糸島市志摩芥屋の海岸にある海食洞
勇壮な姿を玄界灘の荒海に突き出している芥屋の大門は、志摩町の観光名所になっています。
大門は五角形あるいは六角形の柱のような玄武岩が集まってできた一つの岩山で、海に面しているところには洞窟があります。

これは、はるか昔に火山活動によって溶岩が押し上げられ固まったもので、玄界灘の荒波が少しずつ岩を削り、現在みられるような姿を作りました。
その特異な姿は、兵庫県城崎の玄武洞と佐賀県七つ釜とともに日本三大玄武洞の一つに数えられています。

洞窟は奥行90m、高さ17m幅3mもあって、船で中に入ると蜂の巣の中にいるような感じがします。
珍しい形のため、昭和41年に国の天然記念物に指定されました。

芥屋の大門の洞窟内 芥屋の大門
  447久保地古墳群  糸島市志摩芥屋
 445久保地古墳群の装飾品
ガラス玉、土玉

久保地古墳群
古墳時代
耳環
久保地古墳群
古墳時代
 446久保地古墳群の鉄製品 古墳時代
鉄製銛、鉄鏃 刀子
鉄刀 鉄刀、鉄斧 鉄斧
 

 460甦る一の町遺


 461一の町遺跡
一の町遺跡は弥生時代中期の一大集落で、数回にわたる調査により、多くの大型建物が整然と立ち並んでいたことがわかった。
出土遺物は祭祀に使用された物から、農具、戦闘に関わるものまで多岐にわたり、この可也山麓に営まれた拠点集落の性格を物語っている

 
 
 463烏帽子灯台の日時計 140年前
 470烏帽子灯台
 
 480遣隋・遣唐使船