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 東北の縄文1   12  2016.10.16-1

   じょーもぴあ宮畑 (宮畑遺跡史跡公園)  福島市 岡島宮田78  024-573-0015 火曜日休館 撮影可

   URLは市役所管理なのでしょっちゅう変わります。今も、検索サイトに乗っていません。ご注意ください。
     じょーもぴあ宮畑 福島市振興公社  じょーもぴあ宮畑 福島市振興公社

   交通  バス 福島駅東口発 「向鎌田」下車 (平日) (休日)440円

   参考  バス停から館までの地図は事前にご用意ください。バス停付近無人
        館外にも展示施設があり、広大な敷地に復元住居群が建っています。

   時代  縄文時代 中期 後期 晩期 (中期〜晩期2000年間の遺跡)
 

しゃがむ土偶


 
01福島駅
10宮畑遺跡 史跡公園
15敷石住居
18 49号竪穴住居
20露出展示棟
21展示1
24発掘された捨て場・送り場
30外観・入口展示
31建物外観・入口展示
  縄文時代の土木工事跡
33焼却住居跡
34実習室壁面のディスプレイ
36ビデオ案内


40縄文の四季
41四季の広場
45春
46夏
47秋
48冬

50巨大柱から見える縄文社会
  縄文人の建築技術
52シンボルを建てる
53伐採〜製材
54加工具
55建築と葬儀、建築模型
  シンボル建物


57南諏訪原遺跡
  宮畑縄文ムラとの違いは
58a1棟の住居跡から見つかった
  土器

宇輪台遺跡の大型柱建物
59柱穴のはぎ取り標本

70縄文人の送りと祈り
71しゃがむ土偶
73上岡遺跡

 宮畑遺跡
80縄文人の送りと祈り
81送り
83宮畑縄文ムラの謎
84宮畑遺跡の家を焼く
85土器
86なぜまだ使える土器が
88宮畑遺跡の土器

土偶
90祈り
91panel
92祭器
93土隅 縄文中期

100縄文時代の人と地域のつながり
101アスファルト
102縄文人とアスファルト
103 アスファルトの作り方
104アスファルト交易と利用
106アスファルトの利用
108アスファルトの付いた土器
109宮畑遺跡に通じる道

110複式炉を利用した縄文人のムラは
111複式炉
112複式炉を使用した縄文人のムラ
   複式炉の使われ方
   縄文時代の炉
113福島市内の複式炉のムラ
114複式炉の埋設土器
115土器を共有する地域の広がり
117複式炉の埋設土器

120特別展 「和台遺跡」
  はじめに・和台遺跡
  和台遺跡の集落は、
122a複式炉の埋設土器

124U住居の廃棄

125aV人体文土器と狩猟文土器
    和台遺跡の人体文土器
125 狩猟文土器
126子どもの墓


130W巨大集落とは何か
  阿武隈河畔の大規模集落
  高木遺跡の集落
131遺跡の土偶と石器 縄文中期
 01福島駅
福島駅前私はすっかり忘れていたが、残留放射線量が福島 きれいなバス乗り場では切実な問題なのです
果物・米・淡水魚はもちろん海水魚まで。
タクシー乗り場は閑散これはあの♂に全て起因する。 美しく整備された駅前以前、福島産の大きな白桃が大変安く沢山買って食べた。いい産物がある とてもきれいな市街地今回も1個\300位の大きなリンゴを3個500円で買って食べたおいしかった。


 10宮畑遺跡 史跡公園  加曾利B式土器文化圏
  11じょーもぴあ宮畑遺跡公園  競輪場の様な形です。
掘立柱建物1号2号(晩期) 掘立柱の傍に幼児の
土器棺墓が集中
幼児の墓第2群 幼児の墓第2群 幼児の墓第1群
幼児の墓第1群 幼児の墓第3群 幼児の墓第3群 こんなに大きな中央広場の集落は珍しい 掘立柱建物は葬送儀礼に関わるものです 1号掘立柱建物
1号掘立柱建物 2号掘立柱建物 2号掘立柱建物 5号掘立柱建物 5号掘立柱建物 史跡公園案内図
中央広場集落は馬蹄形だったか
円形だったのか
晩期展示ゾーンこんなに大きな中央広場を集落では 幼児の墓第4群一体どのような祭祀をして、この広場を 幼児の墓第4群使っていたのでしょうか。 サッカーや野球が同時に楽しめるほどの広さ そして、ここは平坦地です
多くの縄文集落は見晴らしのよい丘の上などに造られるものです。

  15敷石住居 縄文後期 柄鏡形 7棟 全長9.2m 1棟に650個以上の主に花崗岩石
          縄文後期初頭に関東地方で盛んに作られました。宮畑では祭祀施設と住居の両説があります。
1号敷石住居 柄鏡形敷石住居は、川原石の平坦面を丹念に水平に並べた高度な技術 敲きの土間は長く使うと凹凸が出てきます。不便だったかも知れません。 川原石の間に更に小石を詰めて。これは保温がよかったのでしようか。 敷きわらを多くしないと痛かったでしょう。関東移民が居住を受け入れられ 東北縄文と関東縄文の融合だったのでしょうか。

 18 49号竪穴住居
    縄文中期 1棟に4,5人の居住  クリ材の柱、杉皮の屋根に土の覆土
    隅丸方形の一辺約4mの竪穴住居。 使用後焼かれている。 床面から炭化柱材、大量の焼け土があり、土乗せの住居であった。
    床には大型複式炉があった。
49号竪穴住居 土で覆った住居 土載せ住居が標準的
土載せの耐荷重により 重構造の住居。すごい 中期・後期展示ゾーン こちらが中期・後期ゾーン




 20露出展示棟


 21展示1 縄文後期中頃 (3500年前)
    露出展示棟周辺の斜面は、縄文人の捨て場・送り場です。展示はそのまま、コケ・カビの発生や乾燥ヒビ割れを
    防止ししながら、展示面の音湿度管理、雨量・風速などを観測し、展示環境を保全しています。
露出展示棟は営業時間以外は施錠されます 露出展示棟解説 三内丸山とは違い、とても立派な建物・設備です カビ・コケ昆虫の影響を防止してあります。 ここは、"捨て場"だったようです。
凹み石のようです 甕形土器のような丸みと薄さ 注口土器と大形深鉢 音湿度管理センサー そのモニター画面


 24 発掘された捨て場・送り場 全ての物に魂が宿ると考える縄文人が、使い終わったモノを自然に還す「もの送り」を行った場所です。
捨て場送り場の縄文土器 は、縄文後期中葉 (3500年前)加曾利B式土器です。

発掘された捨て場送り場 発掘された捨て場送り場 宮畑遺跡の全体 捨てられた土器 出土土器 捨て場送り場の縄文土器
縄文時代晩期の土器 深鉢 後期 加曾利B式
約3500年前
台付深鉢 後期   
   加曾利B式
約3500年前
壺型土器 後期
     加曾利B式
約3500年前
縄文晩期の土器 単孔土器 後期
     加曾利B式
約3500年前
注口土器 後期
     加曾利B式
約3500年前
鉢形土器 後期
     加曾利B式
約3500年前
壺形土器 後期
     加曾利B式
約3500年前
葬送儀礼の土器は底が打ち欠いてあります。
これは、埋甕・伏甕でしょう。
 
 30外観・入口展示
 31建物外観・入口展示

  縄文時代の土木工事跡
    現在の遺跡周辺は平地ですが、縄文時代には遺跡の南側は低い湿地が広がっていました。
    縄文時代の初め頃 (4000-3800年前) 縄文人は湿地を埋め立てる工事を行ったことが確認されています。

    疑問 なぜ、湿地のような住みにくい所に、埋め立て工事までして住んだのでしよう。遺跡に、無理をしてまで住んだ理由が見られない。

縄文時代の土木工事跡 土層剥離標本 こんなに巨大なんですよ。
転載ふくつぶ
館のマスコットでしょうか エントランスとても広く、何かの企画展にでも使うのでしょう。

 33焼却住居跡 この遺跡では多くの焼却住居が見つかっています。
39号住居跡 床面全景 複式炉 複式炉 埋め甕でしょうか 柱穴にあった石棒 説明パネル
屋内祭祀 壁際の溝の中に落ちていた土器
赤熱した床
住居焼却後に置かれた埋甕 複式炉 住居見取り図

 34実習室壁面のディスプレイ  手の届くところに、本物がディスプレイされている。

 36ビデオ案内
1つの遺跡に3時期の
遺跡が眠っている
縄文中期 縄文後期 縄文晩期 3時期がかさなる


シンボルを建てる
祈り
縄文人とアスファルト
宮畑遺跡2大ミステリー


@直径90cmの巨大立柱
A焼けた家
@直径90cmの巨大立柱 A焼けた家 館内見取り図縄文の四季
1.人と地域のつながり  
2.送りと祈り        
3.巨大柱から見える縄文社会
 
 40縄文の四季
  41四季の広場
宮畑縄文人の四季の暮らし「生業カレンダー」 三引両の椀
(みつびきりょう)
瓦/古墳時代7世紀 頭椎大刀/古墳時代7c
かぶつちのたち/大和政権からの下賜
この写真がまぎれていました。なんでしょう。(笑)
  45春
草木の芽吹き 鳥のさえずり 新鮮な恵をもたらす 台地の胎動 土置き家屋の断面図 春の縄文ムラ 土器作り 土器の使用/縄文の料理 煮炊き用土器

  土器の使用法 煮る・蓄える。 祭祀具・幼児の棺
  縄文の料理 スープ状料理、クッキー状の石焼料理、燻製

  46夏
太陽の光 緑生い茂る
生きとし生けるものの
命の躍動
漆掻きの様子 夏の縄文ムラ 漆塗り土器・耳飾り/祭祀具縄文晩期/上岡遺跡 漆の作り方なめらかにする/かき混ぜて水分を少なくする 漆の使用接着・塗装
  47秋
木々の紅葉 豊かな実り 命を謳歌し 冬へ備える キノコ形土製品と
クルミとトチ
秋の縄文ムラ近くの川 堅果類の天日干しと
栃のあくぬき
栃のあく抜き 胡桃の加工 石皿と磨石
  48冬
寒風 冬枯れの山々 男らは狩りへ 獲物の命は食料となり 毛皮は暖かく身を包む 動物骨と石鏃猪、鴨、鹿 落とし穴の獲物を獲る 冬の縄文ムラ近くの山 縄文人を支えた保存食







 50巨大柱から見える縄文社会
   縄文人の建築技術
  51巨大立柱
直径90cmのクリの柱100年生の3tもの材 巨大な柱穴の発見 巨大な柱穴の発見 1号掘立柱建物 掘立柱建物と幼児の墓 直径904cmの柱穴
  52シンボルを建てる
   53伐採〜製材
シンボル シンボルを建てる(晩期)シンボルの掘立柱建物は直径90cmの巨大柱の建物。たの建物の約3倍もの太い柱が使われ、全国でも最大級です。 なぜ巨大柱建物を建てたのか

復元されたシンボルの
掘立柱建物
伐採

柱材は磨製石斧で伐採
52.4cmの杉は13000回の打ち込みが必要でした。
90cmの栗材は2倍以上
運搬
縄文時代の柱には縄をかける穴や溝を確認。重量数トンの直径90cmの木材も縄を穴や溝にかけて運んだと考えられる。
製材・加工
大小の磨製石斧を使って、柱を組み合わせる穴を開けました。道具は楔を打ち込んで木を割ることも行われました。
柱穴掘り
柱穴は2m×2m掘り棒や打製石斧で掘った。建築棟梁がいたようです。
現代の伐採・運搬チェーンソーと重機による伐採運搬 巨大建築材 製材加工チェーンソーで加工、
ノミで加工(これは一緒)
   54加工具
柱材 木材加工具 磨製石斧下ノ平D遺跡
引手原遺跡
磨製石斧復元品 磨製石斧と彫器 板材 縄文晩期/宮畑遺跡
板材切断面 打製石斧と復元品

  55建築と葬儀、建築模型
縄文人の建築技術 柱立て・組み上げ
組み立て縄を使い皆で数トンの柱を立てた。
立柱後、柱と桁・梁を組んで屋根の土台を作る
棟上げ復元した柱の高さは4mです。一番高いところは7.5mです。 現代技術人力建ての実験
クレーンで吊り上げる
桁や梁を組んで
周囲に足場を組んで組み上げ作業をする
幼児の葬儀
シンボル建物
1号掘立柱建物/切妻/晩期 2号掘立柱建物/切妻/晩期 5号掘立柱建物/晩期 10号掘立柱建物/晩期 49号竪穴住居/中期

 シンボル建物
   広場を囲んで並ぶ建物の近くには、多くの幼児が埋葬され、祭りの道具も発見されている。建物は幼児の葬送祭祀の施設。
   巨大柱建物は、祭りのシンボル的な施設であり、多くの人の力を結集して建てられた。壁の内建物として復元してあります。

   一方で、家として利用したという説もあります。





 57南諏訪原遺跡  福島市松川町字南諏訪原・木曽内 縄文時代晩期 約2500年前 大洞式土器文化

  宮畑縄文ムラとの違いは
   宮畑遺跡の建物群と同時期のムラですが、柵列の内側から、建物と竪穴住居が発見されていますが建物の近くに幼児の墓はなく、
   巨大柱もありません。

   58
南諏訪原縄文ムラ 宮畑縄文ムラとの違いは 南諏訪原遺跡位置図 掘立柱・竪穴住居跡
家や倉庫でした
遺構図


 58a1棟の住居跡から見つかった土器

  大洞式土器の詳しい解説  福島の亀ケ岡式土器

  宮畑遺跡は加曾利B式でしたが、ここ 「南諏訪原遺跡」 は大洞式です。住んでいた人の文化が全く違っていたようです。

  位置的には、南諏訪原遺跡は、宮原遺跡よりも南にありますが、北方文化の大洞式は南諏訪原遺跡。南の加曾利式が北側の宮畑遺跡です。
  小集団が移動・放浪しながら定着したために、異文化の混住が起こったのでしょう。

それにしてもなんと大量の土器が

一棟に収められていたことか。




  宇輪台遺跡の大型柱建物 福島県福島市松川町水原字右輪台・遠谷地 縄文前期 大木2式土器文化圏です

  59柱穴のはぎ取り標本

大型住居/11mを超える宇輪台遺跡/前期
共同施設か
松川町水原
直径70cmの柱穴1号掘立柱建物の柱穴 はぎ取り地層標本 宇輪台遺跡は、
 縄文前期(5500年前)と中期(4000年前)の住居跡遺跡。 
 前期の竪穴住居27棟は、通常型(4m×3m)や大型住居(10m×4m)でした。
  




 70縄文人の送りと祈り


 71しゃがむ土偶・蹲踞土偶 (そんきょ)うずくまる土偶  縄文時代後期 上岡遺跡 座産か祈りの姿勢という。

上岡遺跡 所在福島市飯町東湯野字上岡・宮西 縄文後期・晩期(4000〜2500年前)
竪穴住居、木の実の水さらし場の木組み遺構。2次調査で、亀ヶ岡系土器、石器、漆塗り耳飾り、土偶を検出。
しゃがむ土偶 乳房、妊婦様腹部、立て膝座り、腕を組んだ様子から、子どもをあやす姿とも言われています。引用

 72

  73上岡遺跡 縄文後期〜晩期  しゃがむ土偶・漆塗り土偶・祭祀土器を検出
上岡遺跡 上岡遺跡周辺には
沢山の遺跡が集中
土偶が見つかった調査区

昭和27年発見
平成23年重文指定




  宮畑遺跡  中期は 大木式土器文化圏



 80縄文人の送りと祈り


 81送り
   縄文人も死者を穴や土器に入れてあの世に送りました。道具も使い終わるとカミに送り返す儀式を行いました。

 なぜ幼児は土器に埋葬されたのか
   幼児が死ぬと土器に入れ、家の中や近くに埋め、あの世に送りました。再び母体に宿ることを願いました。

 大人の墓
   大人は地面に穴を掘ってあの世に送りました。宮畑遺跡では、中期・後期・晩期のいずれの時代からも大人の墓はまだ見つかっていません。
   宮畑では大人の墓は生活の場から離れた場所にあったようです。

 子どもの墓
   晩期の幼児の墓は、あの世に送るための施設・掘立柱建物群の近くに造られました。十数基のまとまりが数か所見つかっています。
    家族単位などで埋葬する場所が決まっていたのかもしれません。

 送り
   縄文人は、自らも自然の一員として、世の中の全ての物、土器・石器などの道具や、住まいである竪穴住居、にもカミが宿ると信じていました。
   人間や道具の命や役割が終わると、ムラの中やはずれの「送り場」でシャマンを中心に、カミのもとに返す「送り」の儀式を行いました。



晩期
なぜ幼児は土器に埋葬されたのか 幼児が死ぬと土器に入れ、家の中や近くに埋め、あの世に送りました。再び母体に宿ることを願いました。 大人の墓 子どもの墓 子どもの土器棺発掘状況
遺跡全景 掘立柱近くの幼児の墓 土器棺発掘状況 送り

  82幼児の土器棺
宮畑遺跡の土器は
大木9式〜10式期
中期末葉






  83宮畑縄文ムラの謎

 84宮畑遺跡の家を焼く

 中期の家
屋根に土を乗せていました。土屋根の家は燃えにくく、燃やすためには屋内の燃料に火を付けた後、屋根に穴を開けて空気を入れ、燃料を追加し
火の勢いを保つことが必要です。中期のムラでは、燃えにくい土屋根家屋の約半数を燃やしています。家を燃やし、カミに返す「家送り」が
行われたと考えられます。

燃やす家が選ばれた理由と、なぜ宮畑遺跡の中期のムラだけ多くの家を燃やす「家送り」が行われたのかは謎です。

家を焼く
宮畑縄文ムラの謎 なぜ半数の家を焼いて送ったのだろうか 家を焼く 焼いた家の分布 焼土検出状況
炭検出状況



 85土器
  宇輪台遺跡の、焼けた家で見つかった土器/縄文中期
  煮炊き用土器、注口土器、祭り用器台などがあり、村の中の特別な家だったのかもしれない。

焼けた家で見つかった土器/縄文中期 器台

 宇輪台遺跡
  宇輪台遺跡は、福島市南部の松川町にある、約5500年前(縄文時代前期)と約4000年前(縄文時代中期)の大きなむらです。
  むらは、日当たりのよい小高い丘にあり、北側を水原川が流れ、むらの後ろには緑豊かな山々が広がっています。

  むらでは、大きな家 (長さ10m幅4m) と、小さな家が27棟見つかりました。
  家は長方形で、小さな家は縄文人のすまい、大きな家はむらの人達が集まって集会や共同作業をおこなうところと考えられています。





 86なぜまだ使える土器が屋外で沢山発見されるのだろうか
   後期のムラの東外れから、煮炊き用土器、祭祀用土器、土偶などを検出。土器は破片の他、まだ使える土器も発見されました。
   ここは、使い終わった土器などの道具をカミに送る儀式を行った場所だと考えられます。

 土器をカミに送る儀式は、
   ムラの外れの緩やかな斜面で、仮面を付けたシャマンにより行われたと考えられます。

   以前にカミに送った土器の周りには草が生え始めています。じょーもぴあ宮畑にある露出展示棟は、同じ時期にむらの西はずれの阿武隈川に
   面した斜面で行われた土器の送り場です。

     
   87
なぜまだ使える土器が屋外で沢山発見されるのだろうか 出土物の平面図 土器をカミに送る儀式 土器をカミに送る儀式


   88宮畑遺跡の土器
焼けた土/中期屋根土の焼土 送りの場で見つかった道具/後期 煮炊き・祭祀用注口・小型壺形土器・土偶 赤塗土器・注口土器・刺突文の土偶 ハート形土偶 赤塗り注口土器 底を抜いた土器
送りの場で見つかった道具/後期 注口土器 注口土器 注口土器 土面/後期/天神平遺跡




  土偶

 90祈り
   縄文人が作り続けた土製の人形「土偶」。縄文人は土偶に様々な祈りを込め、まつりに用いました。

 土偶に込められた縄文人の心
   最古の土偶に顔の表現はありませんが、乳房は表現されています。 土偶は、縄文時代の終わりまでの約1万年間、安産・子の成長・禍のない
   暮らしなど願いを込めて、女性を表現して作り続けられました。

 いろいろな表情の土偶
   女性を表現した土偶ですが、女性的な顔に出会うことはありません。目や口が腫れていたり、頭に穴があいていたりします。
   祭りを行うシャマンの仮面を被っている様子や、頭に羽根を付けている様子が表現されていると考えられます。

  91panel
いのり/縄文後・晩期 土偶に込められた縄文人の心 土偶のはじまり
土偶は女性がモデル
いろいろな表情の土偶
  92祭器
祭祀具 石剣・石刀/晩期 動物形土製品猪/後期〜晩期
海獣/晩期
岩版/晩期
イモガイ形石製品/後期
土冠/晩期
海獣像もイモガイ模型も
太平洋側のこの地の

広範な交易活動に依るのか、

 北方海獣狩猟民や、伊豆諸島などの海洋民が、やってきたのでしょうか。
 
 石剣・石刀
   剣や刀をまねた道具ですが、武器ではなくまつりに用いられた道具です。

   まねたということは、当時、剣や刀があったということですが、間違いです。ありません。現代人が見て刀剣に見えるのでそう名付けました。
   では何なのか、わかりません。ただ、石剣石刀石棒共に男根を表していると考える人も多いようです。

 海獣形土製品
   北海道を中心に見つかるカメやアザラシなどの動物をモデルにした土製品で、中は空洞になっています。

 イノシシ形土製品
   縄文人は多産の猪の土製品を作り、ムラの繁栄を祈るまつりをしました。

 岩 版
   体の中心線、正中線が描かれ、土偶と同じように人の表現がされています。

 イモガイ形石製品
   イモガイは暖かい地域に生息する巻貝で、石を、イモガイを輪切りにした形に加工したものです。

 土 冠
   まつりに用いられる土製の道具です





 93土隅 縄文中期
    小さな土偶から、全長40cmを超える大型の土偶まで様々なサイズがあります。
    大きさにより、個人の祈り、家族の祈り、ムラの祈りと、まつりの対象が異なると考えられています。

  福島市内最古の土偶 縄文時代前期 宇輪台遺跡
    顔は省略されていますが、乳房の表現があり、女性であることがわかります。

土偶/縄文中期
宮畑遺跡
福島市内最古の土偶縄文前期/宇輪台遺跡 福島市内最古の土偶縄文前期 宇輪台遺跡  粘土細工の発達段階としては、
縄文前期の土偶は
 幼稚園〜小学校低学年
縄文中期は
 小学校中〜高学年

 ぐらいのレベルです。
現代人と同じ脳量で、思考・創造力も変わらないと思いますから、

あの精緻な弥生の工芸力がありながら、

銅鐸の稚拙な表現があり、
縄文・弥生時代には、
ある物を表現するには
このような表現という、
定式化されたものがあったのかもしれません。

 それが祭祀・儀礼というものかと思います。




 


 100縄文時代の人と地域のつながり
 101アスファルト
 102縄文人とアスファルト
       
アスファルト/縄文後期/宮畑遺跡 縄文時代にアスファルト? 縄文人とアスファルト 東北地方には沢山の油田が点在していた 石油原産地の地図
南北海道-北東北 宮畑周辺の産油地周辺には沢山の産油地があった 駒形油田オイルサンド採掘地
岩の割れ目から染み出すアスファルト
豊川油田 のアスファルトの採掘風景 黒川油田油壺では原油が湧き出している 豊川油田現代の採掘跡
染み出すアスファルト
金津油田天然アスファルトの堆積
沢では原油が湧き出している

 103アスファルトの作り方

  大沢谷地遺跡(新潟県)では、内側にアスファルトが付着した土器と塊が発見されました。採取した原油を土器であたためてアスファルトを
  精製していました。

アスファルト製造実験 作り方 アスファルト付着土器 アスファルト製造実験  原油を温め、砂礫を沈殿させ、
上澄みを小分けする

 104アスファルト交易と利用
奥羽山脈を越えた
物流ネットワークがあった
北海道のアスファルト 東北の油田 アスファルト 実験で作ったアスファルト
   


 106アスファルトの利用
  アスファルトは、土器などの容器に入れて運ばれています。ムラの中では、家の囲炉裏などで少しずつ溶かして利用しました。
  宮畑遺跡では、アスファルトが付いた石鏃・石匙が発見されています。石鏃を矢に付けたり、石匙に結んだ紐を固めたりするのに利用されています。

  他の縄文ムラでは、土器を直す接着剤や土偶の目を描く絵具として使われた例もあります。
 107
アスファルトの利用 接着剤・補強材 目を描く、補修する
 108アスファルトの付いた土器
アスファルトの付いた道具 把手にアスファルトが付いた石匙
鏃の舌に付着。
土偶の目にアスファルト
アスファルトの付いた
石匙・石鏃石匙に紐を結んで切れないように接着した
石鏃を矢柄に固定するために瀝青を使い、紐で結びつけた。 目を描いた土偶・磨製石斧/和台遺跡


 109宮畑遺跡に通じる道

  宮畑遺跡からはアスファルトの他に、伊豆・箱根、山形県、新潟県産の黒曜石、山形県産頁岩製の石器が発見されました。
  縄文時代には生活に必要な物を、同じ土器を使用する地域の中で補完・共助するネットワークがありました。ネットワークの拠点となる
  「物が集まるムラ」が存在したと考えられます。

  新潟県糸魚川市のヒスイが青森県や北海道で見つかっており、同じ土器を使用した地域のネットワークを越えての物の流通も確認されています。
  縄文人は川・谷・尾根などの目印を辿って拠点のムラに行ったのでしょう。

宮畑縄文村に通じる道は?

縄文ネットワーク内を旅するには、地図もなく、複雑に入り組んだ他の文化圏の村が分布する中で、記憶だけに頼って歩き、食料はその辺の草を食べて済ませた。

野宿にも大した装備はなく、雨に降られればズブ濡れになり、時に体調を崩して死んだり。困難な中で交易品を運び、何がメリットだったんだろうか。
縄文人は、大変記憶力がよい。 サバイバル能力に長けている。 異文化人との遭遇にも耐えられる、海兵隊のような勇猛さである。





 110複式炉を利用した縄文人のムラは

 111複式炉
 112複式炉を使用した縄文人のムラ

複式炉は縄文中期の東北地方南部を中心に流行した炉で、全国的に見ても非常に大型で、埋甕炉、と、石囲炉、を組み合わせたものです。
宮畑遺跡では家を焼いたムラの時期に使われています。中期中頃に出現し、中期終わり頃まで流行し、後期には忽然と姿を消し使われなくなりました。

 複式炉の使われ方
縄文人は炉で調理したり、暖房や明かりの代わりにしていました。複式炉は焼き肉、パンやクッキーの調理、灰の保存に使われたと考えられていますが、実は正確な使われ方は明らかになっておらず、縄文時代のとなっています。

 縄文時代の炉
縄文時代の炉には様々な形があり、中期の初め頃土器埋設石囲炉中期の終わり頃には複式炉後期には石囲い炉が使われています。

宮畑遺跡の複式炉 複式炉を使用した村 複式炉 発見と命名 復元住居 複式炉の使われ方 縄文時代の炉



 113福島市内の複式炉のムラ

 和台遺跡(福島市飯野町明治字南和台)
縄文中期のムラ。広場を中心に掘立柱建物、外側に竪穴住居や貯蔵穴、落とし穴などが広がっていました。
複式炉のある竪穴住居は県内238棟。県指定重文の人体文土器狩猟文土器も見つかっています。

 月崎A遺跡(福島市飯坂町中野字月崎)
縄文中期のムラでは約120棟の竪穴住居と様々な形の炉が見つかり、各時期の炉の移り変わりが確認されています。
市内で最大級の複式炉も見つかっています。

福島市内の複式炉のムラ 市内中期の多数のムラでも複式炉が見つかっています。が、家を焼く宮畑のような風習はない村もあったようです。 和台遺跡(飯野町) 複式炉・人体文土器・土偶・狩猟文土器 月崎A遺跡(飯野町) 中期初めの地床炉
中期中頃土器埋設石囲炉
中期終わり頃の複式炉
後期の石囲炉
宇輪台遺跡(松川町)宇輪台遺跡の複式炉
まつりに使われた土器
愛宕原遺跡(新井)/中期愛宕原遺跡の複式炉
壁から突き出た石棒

   114複式炉の埋設土器 大木7〜8式土器  縄文中期中葉
月崎A遺跡 月崎A遺跡 宮畑遺跡 宮畑遺跡 宮畑遺跡/愛宕原遺跡





 115土器を共有する地域の広がり  大木式土器文化圏の広がり
 116panel
  東北地方南部には「大木式土器」と呼ばれる形式の土器が広がっています。
  共通した土器の文様を持つ地域は、住居構造や祭の風習を共有したり、人と人のつながりが強かった地域と考えられます。
土器を共有する地域 地域の広がり 東日本の土器圏円筒上層式・大木式・
曽利式・加曾利式
大木式土器圏と複式炉の分布
円筒上層式土器
大木式土器
加曾利E式土器
曽利式土器
南北海道〜北東北
東北中〜南部
関東
東海

同一土器圏は同一文化・交流圏・同一部族でしょう
山形県の複式炉
/小坂遺跡
東北北部の複式炉
/御所野遺跡・岩手県
東北南部の複式炉
/和台遺跡・福島県
北陸の複式炉
/沖ノ原遺跡・新潟県
炉にはカミが宿ると考えられており、
同一炉形式は、同一宗教圏と考えられます。

すると、同じ大木式土器文化圏の中に、
複式炉方言とか、埋甕炉方言、石囲い炉方言とか、
それぞれ、分化・発展・残留していたのかもしれません。

 117複式炉の埋設土器 (大木式土器)








 120特別展 「和台遺跡」 福島市飯野町明治字南和台1番地6  参考和台遺跡 - うつくしま電子事典  和台遺跡 - Wikipedia





 はじめに・和台遺跡
飯野町の和台遺跡は阿武隈川を臨む高台にある縄文中期後半(約4000年前)の集落です。
238棟の竪穴住居跡掘立柱建物跡貯蔵穴が発見され人体文土器狩猟文土器も見つかりました。遺跡は約200年存続しました。
ここでは集落の構造や祭祀などから、巨大集落に迫ります。


 和台遺跡の集落は、
中心に広場を持ち、広場を囲む形で掘立柱建物が、その外側に竪穴住居が分布します。貯蔵穴群は集落の北東側に集中分布し、
集落の周縁にあたる段丘辺縁部には捨て場が形成されています。
竪穴住居や掘立柱建物の建設などの土地利用は集落内の一定ルールの下で行われていた可能性も考えられます。
集落の変遷を見ると、集落の形成期 (大木9式期) は竪穴住居が小規模な広場を囲んでいますが、住居数が増加するピーク時(大木10式期)には
集落が拡大し、広場も拡大していきます。
和台遺跡の集落内のルールは、このように集落が拡大発展する過程でも守られ続けていたことが分かります。

   123
はじめに 和台遺跡
遺跡航空写真 和台遺跡の集落 集落構造 和台遺跡の変遷 航空写真に表した土地利用

 集落構造
  中央の広場を囲んでいるのは掘立柱建物で、物を蓄えるための倉庫であったと考えられます。その外側には竪穴住居がつくられています。
  集落の前半期 (水色の住居) から後半期 (赤色の住居) になるに従い、規模が大きくなり、新たにもう一つの広場が出現した可能性があります。

  ゴミ捨て場や貯蔵穴群は集落の縁に存在し、広場を中心に倉庫群、住居群、その他の施設が同心円状に分布しています。
  和台遺跡では、集落を営むのに計画的に区割りが行われ、そのルールが徹底されていたことが分かります。



   122a複式炉の埋設土器

複式炉埋設土器 鉢形土器/大木10式
炉埋設土器/大木9式

炉埋設土器/大木10式

炉埋設土器/大木10式
   122b
小形有孔土器(大木9式)/
注口土器(大木10式)
/壺形土器(大木9式)
鉢形土器(大木9式) 吊手付注口土器
(大木10式)
吊手付注口土器
(大木10式)
複式炉埋設土器
(大木10式)





 124U住居の廃棄
  宮畑遺跡では独特の風習で、住居を焼いて廃棄します。
  和台遺跡では@炉の石を抜き取るA炉に土器をかぶせる。どちらも住居を再使用不可にしたものと考えられます。

  飯坂町の邸下遺跡では複式炉を石で覆った住居が見つかっており、同じ意味だと考えられます。
  また、和台遺跡からは64sもの炭化したクリや850sの獣骨片が出土した住居も見つかっており、これも住居廃棄の儀礼と考えられます。

 曽利式土器
  和台遺跡からは他の地方で流行した土器を真似た文様の付けられた土器が見つかっています。
  もとになったのは中部〜関東地方で使われていた曽利式土器で、棒状の工具により、縦方向に密に沈線を引く点が特徴です。

  県内出土例はおよそ10例ですが、和台遺跡同様に阿武隈河畔に立地する本宮市の高木遺跡からは、複式炉の埋設土器として見つかっています。

  和台遺跡も高木遺跡も、曽利式土器を真似たもので、中部地方から運ばれたものではありませんが、
  阿武隈川をルートとした中部・関東との交流があったのかも知れません。

住居の廃棄 高木遺跡の複式炉 焼土となった埋甕周囲 再建築された住居 曽利式土器

複式炉埋設土器
曽利式似の深鉢
曽利式似の複式炉土器
複式炉埋設土器/大木9式
注口土器/大木9式 注口土器/大木9式 複式炉の上に置かれていた、
大木10式の鉢形土器
   124maron
大量のクリが見つかった廃住居 立派な一級品のクリ64kgの炭化クリ クリの炭化物  大切な主食の、それも、小さな柴栗 (しばぐり) ではなく、大きな一級品の大栗を、64sもの焼き栗を
廃棄する住居に入れるなんて、

 住居廃棄と共に栗の送り、「栗のイヨマンテ」が
行われたのでしょうか。




 125aV人体文土器狩猟文土器 

   和台遺跡からは人形の意匠を持った「人体文土器」や、弓矢や四足獣のモチーフを描いた「狩猟文土器」が見つかっています。
   どちらもし縄文時代中期末に位置づけられるものですが、この時期に於いては、他に出土例のない資料です。

   これらの土器は極めて丁寧に作られており、狩猟文土器は朱が塗られているため、集落全体に関わる重要な祭祀に使用されたと考えられます。
   人体文土器は複式炉に埋められた状態で狩猟文土器は住居内の堆積土中から破片の状態でそれぞれ見つかっていることから、
   祭祀後に転用・廃棄されたのでしょう。

   また、住居内に子どものお墓を作る例が、住居の1割にあたる24棟で見つかっています。
   こちらは子どもの再生を願う祭祀が、家庭内で行われていたものと思われます。

 和台遺跡の人体文土器


   和台遺跡の人体文土器はその文様から、和台遺跡の集落が最も栄えていた、縄文時代中期末に作られたものと考えられます。
   粘土の貼り付けによって人の全身 (頭、体、手足) が描かれていますが、全体的な文様の中に人体文が無理なく配置されたその構成は、
   極めて完成度の高い芸術性を持つものです。

 縄文時代中期の人体文土器は、福島県内では和台遺跡以外には南相馬市 (旧鹿島町) 上栃窪遺跡の1例だけであり、限られた集落だけが持って
   いたものと考えられ、集落全体の祭祀に使われていたものと考えられます。

絵画土器 人体文土器と狩猟文土器
和台遺跡の人体文土器 上栃窪遺跡の人体文土器 和台遺跡の人体文土器
縄文時代中期/福島市飯野町
人体文土器 この人体文土器余りにも 鮮やか過ぎです。 レプリカでしょうか。 土器の側面に人の形が貼り付けられた土器です。人体文土器としては国内でも古い例です。



 125 狩猟文土器 大木10式

  狩猟文土器とは一般に、縄文土器の表面に動物や弓矢などの模様を立体的に表現し、文字通り狩りの様子を描いた土器のことで、
  樹木や落とし穴、人物などが配置される事もあります。

  狩猟文土器は縄文文化では唯一の絵画的な表現で、狩猟の場面や狩猟に関わる祭りを物語っていると考えられ、狩猟に関わる祭祀に用いられたと
  考えられます。

  狩猟文土器は北日本特有の土器ですが、縄文中期末に位置づけられる和台遺跡の物は、狩猟文土器の中でも最古級の物であるとともに、
  最南端での出土でもあります。

狩猟文土器 弓矢、動物、人の手足 狩猟文土器
復元された狩猟文土器




 126子どもの墓

縄文時代には、子供が死ぬと生まれ変わりを願って、土器の中に納め、地面に埋める埋甕の風習がありました。
和台遺跡では、縄文中期後半の238棟の住居中24棟で埋甕が見つかりました。家族が暮らす家の中に埋葬することで、子供の魂が再び母親の胎内に
戻ってくるとを期待したのかもしれません。

宮畑遺跡からも縄文晩期の多数の埋甕が見つかっていますが、いずれも屋外で、掘立柱建物の近くにまとまっています。
晩期になると、子供のお墓を作る行為は共同体全体に関わる祭祀に変わったのかもしれません。


 もう一つの祈り -住居廃棄の儀礼-
縄文時代の東北地方では、硬質でち密な頁岩が石器の材料として好まれました。山形県や秋田県など日本海側で産出するものが太平洋側の集落にも流通していますが、特に縄文時代中期以降は頁岩の流通量が減少し、頁岩は貴重なものだったと考えられます。

和台遺跡や本宮町の高木遺跡では、頁岩の剥片が一か所からまとまって見つかっています。これらは住居内の小さな窪み(ピット)や壁際の溝から見つかっていますが、石器材料にはやや小さく、穴や溝がある程度埋まった段階でその場に置かれている場合もあり、忘れものではなくわざと置いたと考えられます。

これらも、住居を廃棄する際の儀礼かもしれません。

子どものお墓 子どもの火葬 もう一つの祈り 火葬された子どもの骨/
和台遺跡縄文に火葬の風習は少なく、特別な何かがあったようです
子どもの土器棺/
大木10式/和台遺跡
埋甕/大木10式/和台遺跡 埋甕/大木9式/和台

  ここでは、宮畑遺跡と和台遺跡の違いを明らかにしようとしています。




 高木遺跡 福島県安達郡本宮町


 130W巨大集落とは何か
和台遺跡からは約238棟の住居跡が検出され、最盛期には最大30棟程の住居が存在する東北地方では最大級の集落でした。
集落内では、人体文土器や狩猟文土器を使った集落全体にかかわる祭祀の他、子供の埋葬に関わる世帯ごとの祭祀も行われていたようです。

同じ祈りであっても、世帯毎の祭祀は子孫繁栄のためのもので、共同体全体での祭祀は集落の永続を願うものと捉えることができ、
和台遺跡の巨大集落では、小規模集落では見られない祭祀の二重構造を見ることができます。

和台遺跡の集落は、阿武隈川や阿武隈高地を舞台とした生業に支えられる一方で、そうした「祈りにも支えられていたということもできます。


 阿武隈河畔の大規模集落
阿武隈川河畔には宮畑遺跡(福島市岡島)、和台遺跡(福島市飯野町)、高木遺跡(本宮町高木)の「複式炉」という文化を共有する大規模な集落がありますが立地にそれぞれ特徴があります。

和台遺跡は阿武隈川から約35mの比高差のある台地上に立地しているのに対し、宮畑遺跡は阿武隈川からの比高差5〜6m程の段丘上に、高木遺跡は同じく4mほどの比高差の自然堤防上に立地しています。

また、阿武隈川が地域間交流・物流の主要なルートであったと考えられ、ヒスイ黒曜石アスファルトなどの流通も、阿武隈川がその一端を担っていたと考えられます。

その一方で、例えば打製石斧については宮畑遺跡や高木遺跡では阿武隈川流域で容易に入手することのできる安山岩系の石材を多用しているのに対し、和台遺跡では相馬〜鹿島地域で産出する結晶片岩など遠隔地の石材を利用しており、交流・流通についても遺跡それぞれに特徴がみられます


 高木遺跡の集落
本宮町高木遺跡は、阿武隈川の自然堤防の上に立地する縄文中期後半〜後期前葉の、117棟の竪穴住居中67棟が複式炉を有する遺跡です。

竪穴住居の形態や複式炉の構造など、住居は和台遺跡や宮畑遺跡と共通していますが、集落は自然堤防上に営まれているため、
和台遺跡のように環状にはなりません。 また、子供のお墓(埋甕)も住居内ではなく集落の中にまとめて作られている点も和台遺跡と異なります。

同じ阿武隈川沿いの集落でも、その立地や成り立ちによって集落の在り方が変わるものと考えられます。


W巨大集落とは何か 阿武隈河畔の大規模集落 阿武隈河畔の集落位置 高木遺跡の集落 高木遺跡から阿武隈川臨
243号住居跡全景・複式炉



   131遺跡の土偶と石器 縄文中期
土偶と石斧 土偶/和台遺跡 土偶/高木遺跡 剥片/和台遺跡/頁岩 剥片/高木遺跡/頁岩
打製石斧 打製石斧/高木遺跡/
輝石安山岩
打製石斧/和台遺跡/
結晶片岩
     ここでは、よく似た立地の、二つの遺跡の、共通点と相違点を、明らかにしようとしています。