2018特別展の旅 05 2018.09.09-2 石川県歴史博物館 石川県金沢市出羽町3-1 076-262-3236 月・祝日の翌日休館 発掘された日本列島2018 地域展 いしかわ歴史発掘2018 交通 JR金沢駅東口 (兼六園口) ⑦番バス乗り場から出る北鉄バス。出羽町下車。徒歩5分 見所 撮影禁止の石川県立歴史博物館の所蔵遺物や、石川県各地の資料館の所蔵物が垣間見られる。 注意 展覧会は終了しています。 |
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00外観
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地域展 |
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10津幡町 北中条遺跡 (きたちゅうじょう) 縄文時代 後期中頃~晩期前半 (約3700~3000年前) 地図 津幡町北中条 河北潟の湖岸の縄文集落
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12北中条遺跡 土壙墓の近くから出土した精緻な文様の精製土器 |
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20小松市 八日市地方遺跡 (ようかいち じかた) 弥生中期 (約2350~2000年前) リンク01 02 小松市八日市町地方 04 05 06 加賀最大の弥生集落 小松駅の東側一帯に広がる弥生中期 (約2350~2000年前) の遺跡です。 面積が15万㎡に及ぶ大規模な遺跡で、交易のセンターになっていた加賀最大の拠点集落です。 中心部に居住域があり、これを囲んで何重にも環濠が巡り、外側は墓域になっていました。 製作途中の管玉が大量に出土し、ここで作られていた管玉は他の地域にも広く流通していました。 平成29年に、集落を流れる川の跡から、木製の柄のついた鉄製ヤリガンナが出土しました。柄が完全に残った弥生時代の鉇は、日本初の発見です。 弥生時代中期前半 (約2300年前) のもにで、日本で鉄器の生産が始まる以前の時期にあたり、大陸からもたらされたとみられます。 ※小松市で「加賀最大」なんて言うと戸惑う。「小松市だのに加賀市?」「なんのこっちゃ?」。範疇を「石川県か加賀地方」にすればいいのに。 地元の人にしかわからない言葉。 加賀国は 金沢市・小松市・加賀市・かほく市(能登国の部分を除く)・白山市・能美市・野々市市・能美郡・河北郡 加賀藩は江戸時代に加賀、能登、越中の3国の大半を領地とした藩 ほらほら、なんのこっちゃわからんやろ。 |
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23柄付き鉄製鉇 (やりがんな) 柄付ヤリガンナ(PDF) 鉇は木材の表面を削って加工する道具。柄はイヌガヤ属の木製で、桜の樹皮のひもを巻きつけている。 |
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24碧玉製管玉の製作工程
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資料 八日市地方遺跡について この遺跡の素晴らしい点は、ヤリガンナだけではないと思います。大変珍しいものが沢山出土しています。 小松市埋文の「重要文化財 八日市地方遺跡」では、弥生中期の出土物に他の遺跡では見たこともないものが多数出土しています。 小松市埋文の↑を右クリック「新しいウィンドウで開く」でopen 小松市埋文の開いた別窓を上から下まで目を通してください ©がついているため写真を載せられません。 重要文化財 八日市地方遺跡を別窓で立ち上げて御覧ください。 特に珍しいものだけを取り上げます。
これらの出土物は、2019.2.23(土)~5.26(日)まで小松市埋蔵文化財センターで公開されます。 小松市埋文へのアクセス
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30金沢市 薬師堂遺跡 弥生時代後期後半~終末期 (約1900~1800年前) 金沢市薬師堂町 戈形木製品が出土
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40加賀市 八日市遺跡 古墳時代前期 (3世紀後半~4世紀) リンク01 02 03 04 加賀市動橋町ナ 06 07 08 青銅器を作った工房 江沼平野にある古墳時代前期 (3世紀後半~4世紀) の集落遺跡です。 多くの建物が発掘され、2棟の竪穴建物から青銅器の鋳造に使用されたとみられる炉の跡が見つかりました。 竪穴建物の床面には炉の底が残り、高温の熱を受けた跡が確認されました。また、製作途中の銅鏃、湯口ばり (鋳型の入口で固まった銅の塊)、 炉に空気を送るフイゴの羽口 (送風口)、仕上げに用いる砥石も出土しました。古墳時代の青銅器の工房は、日本初の発見となります。 加賀市には古墳が多く、この遺跡でも板塀で特別に囲まれた建物が見つかり、有力な首長が住んでいたとみられます。 青銅器の生産は、この首長のもとで行われていた可能性があります。 |
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秋常山古墳 50能美市 秋常山2号墳 古墳時代前期末~中期初頭 (4世紀末) 石川県能美市秋常町ヨ リンク01 02 03 04 05 06 史跡 能見古墳群 能美市 古墳群 県内屈指の大古墳群
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52秋常山2号墳
能美市 和田山23号墳 |
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60加賀市 三木5号墳 加賀市三木町 古墳時代後期前半 (6世紀前半) 南加賀独特の埋葬施設 三木古墳群 石川県で最も西側にある古墳群で、大聖寺川沿いの丘陵で5基の小規模な古墳が見つかっています。 発掘調査された三木5号墳は、径12mで古墳時代後期前半 (6世紀前半) に築かれました。 古墳の中心部には、横穴式木室が設けられていました。横穴式木室は、木材を使って墓室を造り、それを粘土で覆った埋葬施設です。 この古墳の木室の特徴は、墓室の壁の一部に石室が使用されていたことです。木室の中には、須恵器などが副葬されていました。 横穴式木室は、北陸地方では、南加賀にしかありません。石材が使われた木室は、この古墳が初めての発見です。 石を積んで造られた石室の影響けて、石室と木室の中間的な形になったようです。 |
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70野々市市 末松廃寺跡 飛鳥時代後葉 (7世紀後葉) 野々市市末松2丁目地内 県内最古の古代寺院 飛鳥時代後葉 (7世紀後葉) 建立の寺院で、手取川扇状地の中央部にあります。昭和41-42年の発掘調査で、東側に塔、西側に金堂が並ぶ伽藍配置が 明らかになっています。 近年、史跡の再整備の為に発掘調査が行われました。 これまで塔や金堂は塀に囲まれていると推定されてきましたが、調査の結果、塀の跡は確認されませんでした。 塔の東側で見つかった2つの柱穴は、儀式の際に仏堂を飾る、幢幡 (どうばん=旗) をつるす、幢竿支柱(どうかんしちゅう)の跡とみられます。 新たに、創建時に使われた竪穴建物や、再建時 (奈良時代) の門とみられる遺構も見つかりました。 北陸最古級の寺の構造を明らかにすることで、仏教がこの地に広がった歴史的背景に迫れると期待されます。 |
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80能美市 湯屋B支群1号窯跡 能美市湯屋町カ52 飛鳥時代後半 (7世紀後半-8世紀初頭) 末松廃寺の瓦を焼いた窯 湯屋窯跡群
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90金沢市 大友E遺跡 奈良~平安時代 金沢市大友 墨書土器が多数出土 金沢平野の西部にある遺跡で、標高2.5m程の低地に立地しています。奈良~平安時代の掘立柱建物や井戸などが見つかり、 川の跡から須恵器に文字が書かれた墨書土器や漆紙文書が付着した土器などが出土しました。 墨書土器は、1000点以上出土しました。最も多い墨書は、魔除けの 「♯」 (どーまん)です。稲の穀霊の依代 (よりしろ) を示すとみられる「稲依」や 吉祥句の「大」の墨書も多く、文書を司る役職「案主」(あんじゅ)や農耕に関わる「田舎」(でんしゃ)の墨書もあります。 |
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100津幡町 加茂遺跡 奈良~平安時代 河北郡津幡町舟橋い 古代の「お触書」発見 河北潟の北東岸の平野に立地する遺跡です。奈良~平安時代の道路が見つかり、加賀国から能登国へ向かう北陸道にあたります。 道路と直交して、河北潟の方向へ大きな溝が延び、陸路と水路が交差する交通の要所になっていました。 この大溝から加賀郡牓示札が出土しました。 この牓示札は、嘉祥年間(848-851年)に出された8ヶ条の命令を伝える札です。農民へ農業に励むことを勧める命令は、加賀国から加賀郡を通じて、 この地にあった深見村に伝えられました。 平安時代前期 (9世紀) には、農民の税が (律令) の原則通りに収められず、さらに基金や疫病が多発していました。 牓示札からは、農民の生活や律令制が変化した様子が伺えます。 |
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109展示室 後部 |
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110羽咋市 寺家遺跡 奈良~平安時代 羽咋市柳田町シャコデ 01 02 03 04 05 06 羽咋市 シャコデ廃寺跡 01 02 砂丘上の祭祀遺跡
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113羽咋市 シャコデ廃寺跡 |
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120能登国府の関連遺跡群 七尾市 古府・能登国府遺跡 01 七尾市 古府ヒノバンデニバン遺跡 01 02 七尾市 千野林田野遺跡 能登国の中心地を発掘
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130珠洲市 野々江本江寺遺跡 (ののえボンこうじ) 平安~鎌倉時代 地図 中世墓の第一級資料 能登半島先端部の珠洲市南部にある遺跡です。平安時代末期~鎌倉時代初期 (11世紀末~12世紀) の木製の板碑と笠塔婆が出土しました。 これらは死後の冥福を祈る供養塔で、墓地に立建てられるのが一般的です。この遺跡では川沿いの湿地に廃棄されたため、木製品が腐らずに残り、 奇跡的な発見になりました。 板碑や笠塔婆は、石製の物が数多く残っていますが、木製の物も古くから存在し、木製から石製に変化したと考えられていました。 この出土品はそれを裏付けるものです。 平安時代の「餓鬼草子」に見える板碑・笠塔婆と同じ形をしていて、描かれた墓地の風景が実在していたことが明らかになりました。 |
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140白山市 宮保館遺跡 宮保B遺跡 鎌倉~室町時代 白山市宮保町 01 二重の堀が巡る中世の館 手取川扇状地にある中世の館の遺跡で、館は二重の堀に囲まれていました。中心にある内郭は、幅40m、周囲を幅5m深さ1mの内堀が巡ります。 内部は一部しか調査されていませんが、大型の掘立柱建物が見つかっています。 幅4mの外堀に囲まれた外郭は、1町 (約109m) 四方の敷地になるようです。外堀の外側にも屋敷が広がり、館の西側の屋敷地では木棺を納めた墓が 見つかりました。この墓には、烏帽子や鉄刀などが副葬されていました。 「宮保」の地名は中世にさかのぼり、在地領主の笠間氏がこの付近にあった京都南禅寺の荘園 (笠間東保) の地頭をつとめたこともありました。 館の主はこの笠間氏とみる説があります。 |
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143木棺墓の副葬品 |
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150七尾市 七尾城跡 戦国時代 16世紀 七尾市古城町古屋敷町竹町入会字大塚14番124・125番地 北陸最大級の中世山城 七尾市の中心部から南東約4kmにある戦国時代 (16世紀) の山城です。 能登国の守護、畠山氏の居城として築かれましたが、1577 (天正5) 年に上杉謙信によって攻め落とされました。 標高300mにある本間跡を中心に、南北約2.5km東西約1kmに及ぶ広大な城です。 北西側の山麓には穏やかな斜面が広がり、ここに城下町がありました。 発掘調査で、城へ向かう砂利敷きの道路「大手道」や道に並ぶ屋敷跡が見つかりました。 また、外側の防御施設にあたる惣構の堀と切岸(人口の急斜面)も確認されました。 惣構の外側には、町屋の跡が広がっていました。城下町に金工や鍛冶などの職人がいたことを示す出土品が発見されています。 |
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160加賀市 九谷磁器窯跡 江戸時代 加賀市山中温泉九谷町 石川を代表する焼物、九谷焼の窯 江戸時代に九谷焼を生産した窯の遺跡で、大聖寺川の上流部にあります。昭和45-46年調査で、1・2号窯跡が江戸時代前期(17世紀)と判明しました。 また、江戸寺だ前期の絵付窯跡や、江戸時代後期(19世紀)の吉田屋窯跡も確認されています。 近年の調査で、窯の南側で作業場とみられる造成地と溝が見つかりました。石を組んで丁寧に作られた溝から、磁器の原料となる陶石や絵付けの 顔料となる朱石が多量に出土しました。ここで水を使いながら陶石や朱石を砕いて、素材を精製したようです。 長年に渡る調査の結果、素材の準備から窯での焼成まで、遺跡の中で磁器生産の様子が具体的にわかるようになりました。 |
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170小松市 大川遺跡 江戸時代 小松市大川町2丁目45 小松城下の町屋を発掘 小松城下の北東側にある遺跡で、すぐ北側に梯川 (かけはしがわ) が流れています。この辺りはかつて泥町と呼ばれ、洪水の被害を受けやすい場所 でしたが、梯川の舟運と城下町の中継地になっていました。 小松で初めて城下町の遺構が広範囲に確認されました。見つかったのは、北国街道の路面、城下町の外周を巡る堀(新町掘)、堀に掛る橋(小橋)、 10軒以上の町屋です。 2万点以上出土した陶磁器の中に、江戸時代前期(17世紀)の九谷焼の磁器37点が含まれていました。北国街道に沿って並ぶ町屋の内、1軒の屋敷跡から 九谷焼を含む陶磁器が集中して出土しました。ここに焼き物の商店があり、九谷焼も販売されていたようです。 171
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172九谷焼破片 |
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180金沢市 金沢城下町遺跡 (東兼六町5番地区) 加賀藩士が眠る墓地
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190金沢市 史跡金沢城跡(玉泉院丸庭園・鼠多門) 江戸時代金沢市丸の内1-1 加賀藩主前田家の居城 金沢城は、1583(天正11)年に前田利家が城主になってから明治まで、前田家の居城になっていました。 平成9年から公園整備のための発掘調査が行われ、その成果に基づいて櫓やぐら・門・堀・庭園などの復元が進められています。 玉泉院は、城の西側にある曲輪です。1634(寛永11)年に藩主の前田利常が京都から庭師を招き、ここに大規模な庭園を造りました。 発掘調査で、池や滝石組など、庭園の遺構が確認されました。 鼠多門は、玉泉院丸の北西側にあった城門です。明治17年に焼失しましたが、近年の調査で、門の礎石や門から上がる坂道、 門の外に架けられていた橋(鼠多門橋)の跡が発掘されました。 門の上にあった櫓の海鼠壁 (なまこ) に貼られていた漆喰や腰瓦が出土しています。 |
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200金沢市 宝町遺跡 江戸時代 金沢市宝町 加賀藩士の与力の屋敷跡 金沢大学の宝町キャンパスと付属病院の地下にある遺跡です。 この辺りはかつて与力町と呼ばれ、江戸時代には加賀藩士の与力(有力武士に従属する中級藩士)が集住していました。 この遺跡では、江戸時代の与力の屋敷跡や小立野寺院群の経王寺・如来寺の寺域を囲む溝などが見つかりました。 江戸時代に日常生活で使われた様々な道具が出土しています。 多量に出土した陶磁器には、九谷焼も多数確認されました。江戸時代後期の再興九谷は、加賀藩の殖産興業として、1807(文化4)年に 金沢の卯辰山の春日山窯で焼かれました。この春日山窯や小松の若杉窯の製品が出土しています。 |
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