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 新潟の縄文 №21 2020.10.02-4

佐渡博物館 新潟県佐渡市八幡20412
0259-52-2447無休 撮影可

交通 レンタカー
特徴 佐渡の地学・考古・生物、朱鷺、民俗・芸能・信仰など
多岐にわたる広い分野を網羅している。
 おことわり
佐渡島最大の総合的な博物館で、展示は、地学、考古、動物、植物、民俗、芸能、信仰など、多岐にわたっています。
大変素晴らしい展示です。特に、日本海に浮かぶ大きな島嶼であり、先史時代から近世まで、特異な地理的歴史的環境にあり、
独特な歴史や文化、自然が育まれ、それらを丁寧に展示の中に組み込まれています。
しかし、ここでは、膨大な展示の中から、考古を中心に掲載を行っています。皆様には機会あれば是非訪問して頂きたいと願っています。
 
目次

01外観
02入口展示朱鷺
03佐渡の自然

10常設展示室
 地学
11デスモスチルス全骨格
100佐渡の地質
102 1大昔の海の時代
110 2火山活動を伴う大陸の時代
113金鉱床のでき方
120岩石標本

130ジオパーク
132a佐渡島の成り立ち➀
133佐渡島の成り立ち②

140 3日本海の誕生
142 4深くなる古日本海
143 5佐渡島の誕生
144 6佐渡島の隆起と段丘の時代
145 7国仲平野の誕生
150岩石標本
155a佐渡島誕生時代の岩石と化石

160生物 貝
166カイダコ

 考古学
200佐渡島の考古学
210旧石器・縄文
211佐渡島の考古学

212旧石器時代
  ―人類上陸―
 ナイフ型石器

213縄文時代
 縄文土器
 石器
 石匙
216祭祀具

230弥生時代
231稲作のはじまり
 -農耕文化の渡来-
233弥生土器
234木製品・炭化米

235a玉器
235b石鏃
236玉作文化


250古墳・奈良・平安
251千種遺跡 -農耕と暮し-

261佐渡の古墳文化
262佐渡式製塩土器
263土師器
271古墳の文化
272土器
274金属器
275鉄器

280小泊窯跡
 -北陸最大の須恵器窯

 製鉄炉
  砂鉄と穴釜※
283須恵器
301藤塚貝塚
303三宮貝塚出土遺物
307堂の貝塚
310年表
320夜着

330古代・中世
331佐渡の歴史
332佐渡国分寺
333国分寺跡出土物
333b人物戯画瓦
333c蔵骨器
333d文字瓦
335佐渡の城館跡
336本屋敷遺跡出土物
338一字一石経

350砂金の採取

360近世
361佐渡の歴史(近世)
363佐渡奉行
364水上輪

390佐渡と芸能
420民俗芸能
430佐渡と民俗信仰
431地蔵信仰


地学・動物学・植物学
450佐渡と海洋・海洋生物
※日本海の潮の満ち引き
451佐渡と海洋・海洋生物学
453佐渡島周辺の海洋生物
460漂着生物
470朱鷺の文化史
472トキと伊勢神宮
480佐渡の動物
482佐渡へ飛来した珍鳥
484佐渡の動物
510佐渡の植物
513佐渡を南・北限とする
    植物
 
 
 01外観
佐渡博物館 佐渡博物館


 02入口展示朱鷺


朱鷺の営巣
これが見られるのは
日本中ではここだけ
それにしては、感動が少ない

 03佐渡の自然
佐渡は、北東から南西に雁行して走る大佐渡と小佐渡の地塁山地と、その間に開けた地溝帯としての国仲平野からなる。
上空から眺めた形を「洋上に浮かぶ蝶」「朝顔の二葉の形」と評する人もいる。
国仲平野は越後の蒲原・頸城平野と並ぶ三大穀倉地帯で、米の大半を島外へ移出する。
 (蒲原平野越後平野頚城平野高田平野)

最高峰は金北山(標高1172m)。中世の日蓮観世元清は「北山」と書いてこの山を仰いだ。
最大河川は国仲平野を南西に向けて流れる国府川(延長21.8km)で古代行政庁の佐渡国府が流域の真野町に置かれていた。

島の周囲には二段ないし三段段丘が発達する。末端部海蝕崖をなし、日本海の激浪にもまれた奇岩ないし絶壁が多い。
段丘は大小の数多い河川によって分断されるため、交通の発達が遅れ、集落の多くは段丘面を避けて海浜に立地する。
最大の湖は、東海岸の加茂湖(周囲約16km)。両津湾の砂州によって塞がれた半塩湖で、現在はカキの養殖湖である。
反対側の真野湾は、湾流や国府川などの砂礫によって八幡砂丘が形成された。島有数の野菜の産地で、佐渡博物館もこの砂丘上に立地する。
 日本の離島は、おおむね「山島」か「平島」に大別されるが、佐渡は山と広大な地溝平野を持っており、地形は大陸的である。

佐渡の自然 佐渡の地形 衛星写真

 佐渡の森林
  1000mの標高差に5つの森林帯
冬の季節風を避けた島の東南面は温暖的であり、丘陵帯はタブ林スダジイ林ウラジロガシ林原植生を今も残している。
磯は、タブのクロモリ(黒森)、海に労つく(いたつく)人々の最初に住み着いた森。日本の磯が失った黒森を佐渡では残していて、
黒森のレリック(遺存種)の島である。タブ・シイ・カシの林はその林床に暖地植物を豊産させる。

冬の季節風に直面する北西海岸側は冷温帯的であり、カシワ林エノキ林エゾイタヤ林クロマツ林などの海岸防衛樹林が発達する。
佐渡の北端の海岸は特に冷温帯的で、ハマナスハマベンケイソウエゾノコギリソウなどの北方・寒地系植物が集中して分布する。

大佐渡山地金北山(海抜1172m)を主峰に海抜1000m前後の峰が起伏し連なる。山頂部は季節風を受け海抜が低いにもかかわらず強い山頂効果が生じて、高山景観をなし、ハクサンシャクナゲゴゼンタチバナサンカヨウムラサキヤシオなどの高山植物が集中分布する。

丘陵地(海抜100m以下)はヤブツバキ帯、山麓(100~400m)はコナラアカマツ帯、山腹(400~10000m)はミズナラ・ブナ帯、
山頂(1000m以上)はミヤマナラ帯と推移する。標高差1000mの狭い中に、大佐渡産地の国仲斜面では
ヤブツバキ帯→コナラ帯→ミズナラ帯→ブナ帯→ミヤマナラ帯と5つの植生(森林)帯が推移する。
海洋に孤立した島の山に起こる垂直分布帯の圧縮された“寸詰まり現象”が、佐渡の森林植生体の特徴である。

佐渡の森林   佐渡の植生(森林)帯の垂直分布・水平分布 垂直分布
水平分布図 佐渡島の植生
 05ミュージアムショップ
売店 2階 常設展示
1階 企画展示
 
 


 10二階 常設展示室

    金とトキの島でたどる3億年の旅と人の暮らし
     自然・考古・歴史・民俗 展示室


 11デスモスチルス全骨格
1923(大正12)年、旧相川町中山トンネル西側入口付近の工事現場で動物の臼歯が発見されました。
柱を何本も束ねたような臼歯の特徴から、束柱類のデスモスチルスと判定されました。展示の全骨格標本は、北海道大学の好意で樺太気屯町雪沢で発見されたデスモスチルスのレプリカです。
しかし、その後の研究で、近い種類のパレオバラドキシアであることがわかりました。いずれも海辺で生活し、絶滅した哺乳類とされています。

デスモスチルス
骨格標本
デスモスチルス全骨格


 パレオバラドキシアの臼歯
地層:下戸層(おりと)
産地:旧山中トンネル西側出口(相川川)


1923年に旧中山トンネルの工事中に発見され、相川郷土博物館に保存されている。これはそのレプリカである。
海苔巻きを束ねたような独特の歯を持っている。この動物はデスモスチルスと近縁で絶滅した大型の哺乳動物である。
しっかりした四肢を持ち、水中生活にも適応した形態で、浜辺に生活していたと考えられる。

パレオバラドキシア 臼歯
パレオバラドキシアの臼歯 パレオバラドキシアの臼歯
 
 100佐渡の地質
佐渡島は、最高峰 1171.9m の金北山きんぽくさんがそびえる北側の大佐渡山地と南側の小佐渡山地、それらの間にある国仲平野からなる。
その面積は875.07㎢で、日本海に存在する大きな島の一つである。

この島の生い立ちの歴史は、日本海の歴史でもあり、島のいたるところにそれらの記録が残されている。
佐渡島の土台を作る岩石は、大佐渡の北部と小佐渡の中部に露出する深成岩中生代古生代の地層で、フズリナウミユリコケムシ放散虫の化石が発見されている。
大佐渡・小佐渡の山地には、新生代の地層が厚く、広く分布している。それらの地層・岩石や含まれる化石の研究によって復元された佐渡島の生い立ちの歴史を次に述べる。

日本海や日本列島ができる以前は、太平洋に面する大陸の東縁部であり、大陸の時代が長く続いていた。
3000~2000万年前から、火山活動をともなう地殻変動が激しくなった。
入川層相川層真更川層金北山層は、この時の火山活動による大量の溶岩や火山灰からなる地層で、一部に相川町関でみられる湖成層を含んでいる。カエデ・ブナの葉化石やコイ類の魚化石が産出する。


 地殻変動はその後も続き、1700~1600万年前には太平洋から現在の日本海側へも海が広く侵入してきた。日本海と日本列島の前身である、
多島海の誕生であった。当時の日本海には北海道まで強い暖流が北上し、熱帯から亜熱帯の気候をもたらした。
下戸層はこの時代の潮間帯から浅海に堆積した地層で、暖流に棲む動物や大型哺乳動物のデスモスチルス類の化石を含んでいる。

誕生したこの海は急速に広くなり深くなり、多島海の多くの島は海底に没してしまった。深海底に静かに堆積した軟泥は鶴子層の頁岩や中山層
珪藻質泥岩として残されている。魚化石、クジラやイルカの化石が含まれている。

 300万年前頃から、それまでとは反対に海底が隆起し始め、海は浅くなり始めた。やがて隆起する海底は海面に現れ、
砂や礫からなる地層(河内層貝立層質場層)が周囲の浅い海底に堆積した。佐渡島の誕生であった。

 100万年前頃から、大佐渡・小佐渡の山地の隆起が一段と活発になり、大きく成長した。この時代は地球の氷河時代で、氷期には海面が降下し、間氷期には上昇した。海岸や国仲平野に見られる段丘地形は佐渡島の隆起と氷河時代の海面変動によって作られた。

 今から2万年前は、最終氷期の最寒冷期で、海面は現在より80~100mも低かったとされている。そのため、国仲平野には大きな谷が刻まれていたが、気候の回復と共に海面が上昇し、入江となった。

人が棲み始めた縄文時代には、八幡砂丘が成長して入江の埋め立ても進み、国仲平野が誕生した。加茂湖は当時の入江の名残をとどめている。



 101佐渡の地質

佐渡の地質
上に記述


 102 1大昔の海の時代
佐渡島に分布する最古の岩石の時代である。

最古の岩石は、古生代後期(3~2億年前)の堆積岩や火成岩で、大佐渡の北部と小佐渡の中部に分布している。
粘板岩、チャート、砂岩、礫岩、石灰岩、結晶質石灰岩(写真1)などが 見られ、ウミユリ、コケムシやフズリナなどの動物化石が含まれている。
変玄武岩の枕状溶岩(写真2)も見られる。

中生代(2億~1億年前)の地層から、放散虫化石が発見されている。

1大昔の海の時代
上に記述
1北鵜島周辺の基盤岩類
白く見える結晶質石灰岩
2変玄武岩の
枕状溶岩

 110 2火山活動を伴う大陸の時代
中生代の終り頃(約1億年前)になると、地下深くで花崗岩(写真3)が 形成された。その後ひろく隆起運動が起こり、中国大陸東縁の一部となった。
隆起する地表はどんどん浸食され、地下深くでできた花崗岩が地表に広くあらわれた。このような大陸の時代が長く続いた。
 111 2火山活動を伴う大陸の時代
2火山活動を伴う大陸の時代

3花崗岩
4花崗岩顕微鏡写真
7溶結凝灰岩
8溶結凝灰岩顕微鏡写真
11溶結凝灰岩の山々
12デイサイト顕微鏡写真
  5相川層の頁岩
6片辺礫岩
9安山岩溶岩
10安山岩顕微鏡写真
13デイサイト凝灰岩の顕微鏡写真

前期中新世の地形
判別不可の写真
サドムカシケバエ化石

 113金鉱床のでき方
現在の佐渡島には火山はないが、今から約2000万年前には、大変激しい火山活動が起こっていた。今の大佐渡・小佐渡の山々はその時の溶岩や火山噴出物でできている。金や銀は、暗緑色に変質した安山岩(写真18)からなる地域の、断層や岩石の割れ目を充填する石英(石英脈という)の中に入っている。
佐渡鉱山で最大の石英脈は青盤脈と呼ばれ、東西方向に長さ2100m、、平均脈幅6m、深さ500mの規模を持ち、平均で1tあたり金を6g含んでいた。佐渡鉱山(写真17)の駐車場を少し上がったところに見える大岩壁(写真19)は青盤脈を露天掘りした跡である。

普通の岩石中に含まれる金は平均0.001g/1tであるから、金鉱石には、6000~10000倍も多く金が含まれている。

この金が周囲の岩石から移動してきたものとすると、6000~10000倍の濃縮が起こったことになる。それは当時の地下数千mにあったマグマの仕業である。断面図のように地下水や海水がマグマの熱で加熱され、地表まで達するような断層に移動し、そこから地表に噴き出していく。
高温の水(熱水)は岩石と反応し、金・銀・鉄・銅・亜鉛などいろいろな物質を岩石から溶かし出し、浅い所で沈殿させるのである。熱水の影響を受け、
いわば蒸し焼きになった岩石が、暗緑色に変質した安山岩である。

金鉱床のでき方 金鉱床のでき方 金の露天掘り跡
(道遊の割戸)
佐渡の鉱山
⑱暗緑色に変質した
安山岩溶岩
⑲佐渡鉱山最大の鉱脈(青盤脈)の壁 金鉱床

 120岩石標本
 岩石の分類
火成岩
 火山岩・・・マグマが地表近くで急速に冷えてできた岩石。(玄武岩・安山岩・流紋岩など)
 深成岩・・・地下深くで行くりと冷えてできる岩石。
 
堆積岩・・・海底や湖底に堆積した砂や泥などが固まってできたものが多く、化石を含んでいることがあります。
 変成岩・・・一度できた岩石が高温・高圧等の条件に置かれ、違う岩石に変わったものです。佐渡には変成岩はありません。
 121

 123大昔の海の時代の岩石と化石
 125

頁岩
礫岩
サドムカシケバエ
関植物化石
サドムカシケバエ
ハエの化石なんて見たことない。なんて凄い偶然なんだ。
流紋岩 紫水晶 大きな黒曜石 黒曜石
金鉱石
 
 130ジオパーク
 131
ジオパークとは?
 ジオパークは、2004年頃からヨーロッパを中心に始まった活動です。貴重な地質資源を守り、それらの資源を教育、観光、地域振興に役立て、持続的な地域づくりを行う活動を目指しています。日本でのジオパーク活動は2007年頃から始まり、佐渡は2013年に日本ジオパークに認定されました。

日本ジオパークネットワーク
 日本や世界ジオパーク認定を受けた地域と、認定を目指す地域とで構成される組織です。(japaneese Geoparks Network):
現在、ネットワークには40を超えるジオパークが棲明しています。(図1)

ジオパークとは? 日本のジオパーク

 132a佐渡島の成り立ち➀
約2000万年前、大陸の縁が割れ、徐々に離れていきました。(図2)。この割れた縁が、将来日本列島や佐渡島になった分です。
この時、活発な火山活動が起こり、金銀鉱床が作られました(図3)。
尖閣湾の岩石(図4)や、椿尾の石切場立岩(人面岩)などもこの時代の火山活動によってできた岩石です。
   図2、図3、図4
その後、大陸の縁は切り離され、間には海が広がりました(図5)。
約1700万年前の海底に溜まった砂や泥を見ることができる場所が西三川砂金山(図6)。や平根崎です。
平根崎では、当時の海に生息していた生物の化石が残されています。

佐渡島の成り立ち➀
上に記述
図2 約2千万年前の
    日本列島
図3 佐渡金銀山
図4 尖閣湾

上に記述
図5 約1700万年前の
    日本列島
図6 西三川の砂金
図7 平根崎の貝化石
関連地図

 133佐渡島の成り立ち②
1200万年前の日本列島
暖かく浅かった海は、冷たく深い海へと変化していきました。佐渡島の大部分が海底にあったと考えられています(図8)。
小木半島では、海底火山から溶岩が流れだし、黒くごつごつした岩を作りました。
その後、岩は海底から持ち上がり、現在の小木半島の景色を作りました(図9)。
たらい船は、水深が浅く、岩が見え隠れする小木半島の海岸での漁に適した乗り物です(図10)。
  図8~図10
海底にあった台地が持ち上がり、約300万年前には2つの島があったと考えられています(図11)。2つの島から流れ出た土砂は島の間を埋め、現在の国仲平野を形成しました。
長い年月をかけて海底から持ち上がったことで、佐渡は標高1172mの高い山を持つ島となりました(図12)。
山から流れる雪解け水は平野を潤し、弥生時代から稲作が行われており、現在も島内各地で農業が続けられています。


上に記述
図8 約1200万年前の日本列島
図9 小木半島(沢崎)
図10 沢崎のたらい船

上に記述
図11 約400万年前の日本列島
図12 佐渡最高峰金北山
関連地図
 135佐渡島の成り立ち
佐渡島の成立年表
 
 140 3日本海の誕生 1700万年~1600万年前
日本海の誕生の時代である。できたての浅い海に堆積した砂岩や礫岩(写真24)からなる地層は下戸層と呼ばれ、平根崎(写真23)などの海岸でよく観察できる。できたばかりの日本海が、カキ(写真21)などが住む内湾環境から、ホタテ貝(写真22)などの住む浅海環境に変化していく様子が化石の研究で分かっている。
大型哺乳動物のパレオパラドキシアやサメ類・貝類のピカリヤ(ピカイヤ)とイモガイ類・大型有孔虫のミオジプシナオパキュリナ(写真20)などが住んでいた。およそ1700~1600万年前のことである。
 141
3古日本海の誕生 前期~中期中新世 20オパキュリナの化石 21カキの化石
22ホタテ貝の化石
23平根崎海岸(下戸層)
24相川層に重なる下戸層

 142 4深くなる古日本海 中期中新世
 誕生した日本海は、急速に深く広くなり、陸地は深い海にすっかり没してしまった。広い大洋には魚類のほかクジラやイルカなどが泳いでいた。
小木半島では玄武岩の海底火山活動が起こり、見事な枕状溶岩(写真29・30)が残されている。
 海底の時代が 長く続いた。この時期の地層には、近くに陸地がなかったため、陸地から流れて来る砂や礫などの粗粒砕屑物が全く含まれていない。
この海底堆積物は海面近くで繁殖した珪藻の化石(写真28)だけからなる泥岩となって残っている。

これまでの海底で水平に堆積した地層は、この後の隆起運動で傾いたり、断層で切られたりして、大きく変形(写真26)することになった。

4深くなる日本海 中期中新世
25鶴子層
26傾斜する鶴子層
27ピクライトの岩床
28珪藻化石の顕微鏡写真
29枕状溶岩
30立体的な枕状溶岩
31ハイアロクラスタイトの海岸
32同顕微鏡写真

 143 5佐渡島の誕生 後期鮮新世
第4紀の初め(100万年前)頃までに、隆起し続ける海底は海面に現れ、佐渡島の誕生をむかえた。
暖流と寒流の影響を受けた周囲の浅い海には、沢根の崖で見ることのできるような貝類(写真34)やアマモなどの動植物が沢山繁殖していた。
隆起する山地からは粗粒の砕屑物が運び出され、砂や礫からなる地層(写真33)が浅い海の底に再び残るようになった。

5佐渡島の誕生 5佐渡島の誕生 後期鮮新世 33地層 34質場層・貝立層の化石

 144 6佐渡島の隆起と段丘の時代  第四紀
第4紀の中頃から、大佐渡・小佐渡の隆起が更に活発となった。この時代は、氷河時代とも呼ばれ、全地球規模で氷期と間氷期が繰り返された。
隆起を続ける佐渡島と周期的に上下する海面変動が、見事な段丘地形(写真37)を作り上げた。

この時期の佐渡島は、海水面の上昇期に国仲平野に海が入り、大佐渡と小佐渡の二つの島に分かれ(古地理図)、隆起する山地から運び出された礫や砂などの粗粒堆積物が山麓や海岸に堆積した。
海水面の低下期には大佐渡と小佐渡が繋がり、堆積物は浸食され谷が形成された。

段丘地形のほかにも隆起運動の証拠が残っている。
写真35・36は真野町大須鼻の段丘崖に見られる活断層で、左が真野湾がわ、右が小佐渡山地側である。
小佐渡山地側のブロックが水平方向に2m、上下方向に2m移動し、真野湾側のブロックに乗り上げている。つまり、佐渡島が東西方向に圧縮され、
その歪みが限界に達して大きな地震が起こり、水平方向に2m細くなって、小佐渡山地が2m高くなったのである。
このような地震が数千年に一度ずつ(※大地震が)繰り返され佐渡島全体が隆起しているのである。


6佐渡島の隆起と段丘の時代
佐渡島の隆起と段丘 第四紀 35大須鼻海岸の活断層露頭
36断層部の拡大
36断層部の拡大
37二見半島の段丘地形

 145 7国仲平野の誕生
最終氷期(古地理図上、2万年前)が終わると、気候が温暖化し、海水面は急に上昇し始めた。
氷河期に削られた谷は大きな入り江となったが、縄文時代には八幡砂丘が成長しはじめ国仲平野(写真38)の埋め立てもほぼ完了した(古地理図下)。
弥生時代には国仲平野に人が棲めるようになり、農耕が始まった。堆積が遅れた国仲平野の北部には加茂湖(写真39)が入り江として遅くまで残った。
国仲平野の誕生 国仲平野の誕生 佐渡島の地形
最終氷期 縄文時代 38国仲平野
沢根海岸の化石
 
 
 
 150岩石標本
 151古日本海誕生以降 (パネル下の岩石標本に移行)
 152化石を含む岩石
オストリア・グラビテスタ ホタテガイ オストリア・グラビテスタ
貝殻質石灰岩
オストリア・グラビテスタ 貝殻質石灰岩
ピカリア
ピカリエラ
 152b古日本海誕生時の岩石と化石
礫岩 砂岩 石灰質砂岩
 153深くなる古日本海の頃の岩石と化石
ピクライト
ハイアロクラスライト 玄武岩質枕状溶岩
頁岩 ハト科鳥類の化石
サメの歯 カルカロドン
メガロドン6魚化石
魚化石
魚化石 魚化石 クジラの脊椎骨
 154
メバル属の一種 パリオラム・ペッカーミ パリオラム・ペッカーミ
パリオラム・ペッカーミ
パリオラム・ペッカーミ
パリオラム・ペッカーミ
外洋・半深海生の貝化石(パリオラム ペッカーミ)
珪藻質石灰岩
 155
 155a佐渡島誕生時代の岩石と化石
 有孔虫化石
有孔虫は、石灰質、砂質、キチン質などの殻をもつ、大きさは普通1mm以下の単細胞生物です。世界中の海洋や汽水域に広く生息しています。

底生の有孔虫は沿岸から深海まで広く生息しているので、地層の堆積環境を推定するために利用されます(示相化石)、
浮遊性の有孔虫は水深200mまでの表層部に生息し、海流にのって広く分布するので、地層の対比に役立ち、地層の時代決定に有効な化石(示準化石)となります。
佐渡でも河内層かわちから多産する他、下戸層おりと、鶴子層つるし貝立層かいだて質場層しちばからも産します。

 沢根海岸の化石
佐渡市沢田地区の沢根海岸には質場層が見られ、二枚貝・巻貝・ウニ・腕足貝有孔虫・珪藻など、様々な化石が産出します。
これらは第四紀更新世中期(約80万年前~)に生息した生物の化石であり、エゾタマキガイ・ホタテガイ・エゾキンチャクガイなどの左巻き貝類と、
グロビゲリナパキデルマのような寒流系の有孔虫が認められます。


佐渡島探勝の時代の
岩石と化石
有孔虫化石 沢根海岸の化石
 155b
有孔虫化石 エルピデニウム クリスパン
カシルリナ ジャポニカ
ミリアミナ エチゴエンシス
ラゲーナサルカータスピカータ
 155c
沢根海岸の化石 ダイシャカニシキ ベーリングツノオリイレガイ ホタテガイ エゾキンチャクガイ
エゾタマキガイ エキナラクニウス エゾワスレガイ
 
 160生物 貝
 161made in earth ~私たちのそばにある「ちきゅう」からのおくりもの~
  地球内部から掘り出された金属鉱石は、わたしたちの暮らしの中で 様々なものに利用されています。
  地球に存在する金属の量には限りがあります。杉リアル資源を皆さん歯どの様に使いますか?
made in earth 方鉛鉱
岐阜県神岡鉱山
閃亜鉛鉱
岐阜県神岡鉱山
黄銅鉱
神岡鉱山
金鉱石
佐渡市相川
金鉱石
佐渡市相川
金鉱石には
金や銀、鉛などが含まれている。
金はパソコンの基板等に利用されている。
 162
貝って何? 佐渡の海渡海
岩礁
 163貝類
イガイ オオヘビガイ
シコブシ
ヒラサザエ サザエ
マガキ
クロアワビ
 164
佐渡の海と貝
転石海岸
波打ち際の岩場に張り付く巻貝たち 佐渡の海と貝
砂浜
打ち上げられた二枚貝
 165
オオマテガイ シナイタヤガイ
オニアサリ
ヤツシロガイ
アリソガイ
カガバイ
ツメタガイ
テングニシ

 166カイダコ
不思議な生物
「カイダコ」
海の荒れた翌日に多く打ち寄せられる
カイダコ
アオイガイ
タコブネ
 



 200佐渡島の考古学




 210旧石器・縄文時代


 211佐渡島の考古学
いつ頃佐渡に人類が上陸したか。
後期旧石器時代に属する石器 2例が発見されている。
越後側に近い佐渡南部、小木町長者ヶ原台地遺跡(標高175m)で出土したナイフ形石器と、
羽茂町村山八升ヶ平台地遺跡(標高126m)出土の大型石槍である。
ナイフ形石器文化を持った人類はウルム氷期の最寒冷期(約2万年~1万8千年前)の頃渡海したとみられている。

次いで
縄文草創期時代(約1万2千年~9千5百年前)の石器の出土地として、小木町長者ヶ平台地遺跡出土の有舌尖頭器、
羽茂町村山八升ヶ平台地遺跡出土の木葉形石器、
真野町西三川 小布勢台地遺跡(標高約125m)出土の大型石槍の先端部が挙げられている。

続く縄文文化は、
縄文早期小木町宿根木 岩屋山洞窟出土の早期中葉常世式土器(約8千年前)から、
前期前半の同岩屋山洞窟出土の花積下層式対比土器(約6千年前)を経て、縄文晩期に及んでいる。

農耕文化としての、
弥生文化の渡来は、佐渡では弥生時代中期(約2千余年前)からである。
この島の弥生文化の特色は、農耕文化というより玉作の文化であったと言っても過言ではない。
驚嘆すべきその精巧な製作技術はどこから伝来したものであろうか。

弥生末から古墳時代初頭にかけての農耕遺跡からは、多くの土器、木器、植物製品や骨角製品、卜骨、石器などを出土し、とりわけ
金井町千種遺跡は、当時の農耕民の生活状態を知る貴重な資料を提供し、新潟県における登呂(静岡県)類似遺跡として大きな注目を集めた。

古墳時代の始まり
今から約1千7百年前には弥生文化が終り、土師器文化となり、古墳文化の時代となる
佐渡では約39基の古墳が発見されているが、すべて6世紀から7世紀にかけての後期古墳である。

相川町二見台ヶ鼻古墳は、玄室四隅上部から三角持送り技法構築が見られる特異な古墳である。
 ※断面紡錘形。薄い石板を使った半島式石室のことであろう。玉作職人は半島直接の渡来人、首長も半島人だった。ことになるが。

古代には異国人の来島もある。6世紀中葉の粛慎人の漂着(「日本書紀」)、8世紀中葉頃の渤海国施設の来島(「続日本紀」)等も注目される。
 ※粛慎はツングース系でアムール川から樺太・オホーツク沿岸・アリューシャン列島、奥尻島・佐渡島にも住んでいたことのある海洋狩猟民。
  渤海国は高麗人の大祚栄が作った沿海州の国である。いずれも、アイヌと交流した粛慎と、朝鮮半島を転戦して北方に行った半島人である。

羽茂町小泊小泊窯跡群、奈良時代後半(8世紀後半)から平安時代前半(10世紀後半)頃にわたる古代大須恵器窯跡群であり、
北陸地方では最大規模のものである。

佐渡の考古
 

 212旧石器・縄文時代

 旧石器時代 ―人類上陸―
旧石器時代人はどのような手段方法で佐渡島に渡ったか。
推測されるのは、ウルム氷期の海水面低下によって生じた「佐渡堆」(右図)と言われる島や、大陸棚の陸化した地域づたいに移動渡海した説である。(引用「北陸沿岸の海底地形・地質調査」)

最終氷期の海水準、マイナス140mは世界的な基準として通説となっている。佐渡の沿岸域の最終氷期の最低海水面もマイナス80m程度であったと推定できるとしている。
もし海水面が110m低下すれば「佐渡堆」と言われる島が頭を出し、140mも下がればさらに大きな島が出現する。
海水面から頭出する小木半島と柏崎米山崎の付根の浅瀬も陸続きとなり、柏崎と「佐渡堆」島と小木の距離は約3km、海峡は極端に狭く、飛び石づたいの状況で、本土と島は目と鼻の先ほどの近さであったことが推定される。

後期旧石器時代に丸木舟や筏があったかどうかは明らかでないが、この近さであれば自然の倒木を利用した筏や丸木舟のようなもので渡海することは容易であり、困難なことではなかったと思われる。

 ナイフ型石器
小木町の標高約175mの長者ヶ平台地(遺跡)で発見されたナイフ形石器は、後期旧石器時代(約25000~14000年前)に盛行したナイフ形石器の一種である。
全長8cm、中央部最大幅4.5cm、基部厚さ1cmの乳白色の硬頁岩製のナイフ型石器で、先端が尖り、基部は丸みをおび、全体が幅広い木葉形をなしている。基部の周辺と左側縁の先端まで刃潰しが施され、右側縁は主要剥離のままの刃部となっている。
この石器は系統的には杉久保型ナイフ形石器の範囲に入るものであるが、全体幅の拾い木葉形をした変異形のものである。

旧石器・縄文時代 旧石器時代
-人類上陸-
ナイフ型石器 ナイフ型石器
小木町長者ヶ平台地
(遺跡)


 縄文文化
縄文時代の佐渡は、国仲平野に大きな湖(古国仲湖)があって、シジミ貝などが多く生息していて、縄文中期~後期の人々はその周辺台地に居住し、貝塚を残した。
三宮貝塚・藤塚貝塚・貝塚貝塚(堂の貝塚)などがそれで、これらの遺跡からは埋葬人骨を始め、数多くの遺物が発見され、当時の縄文人の生活をしのばせている。
佐渡の縄文遺跡は全島に100ヶ所余りもある。そのうち、小木半島にある早期中葉(約8000年前)の岩屋洞窟遺跡が最も古く、中期では長者ヶ平遺跡がよく知られている。

縄文文化 佐渡堆

 213縄文時代

 縄文土器
甕、深鉢
長者ヶ平遺跡 (前-後)
小木地区
鉢 長者ヶ平遺跡 小木
鉢 野田遺跡 新穂
鉢×2
野田遺跡 新穂
深鉢 三宮貝塚 畑野
甚兵衛遺跡 羽茂
平城遺跡 赤泊
壺 脚注なし
この沈線文と貼付文は何を表現しているのでしょう


 石器
  石皿
甚兵衛遺跡
石冠 二反田遺跡
石冠 三宮貝塚
 
石剣  石錘 三宮貝塚  独鈷石 大工町遺跡
環状石斧

 石匙 動物の皮剥ぎなどに用いた石の刀
石匙 磨製石斧 石槍
長者ヶ平遺跡

 216祭祀具
土偶
大工町遺跡
人面把手
三宮貝塚
石笛
長者ヶ平遺跡
土錘
二反田遺跡
ヒスイの垂玉
三宮貝塚
大珠
藤塚貝塚
貝輪
三宮貝塚
牙製装身具(髪飾)
三宮貝塚
垂飾
三宮貝塚
勾玉
三宮貝塚
玦状耳飾
二反田遺跡
 


 230弥生時代


 231稲作のはじまり ―農耕文化の渡来―

日本の稲作は、朝鮮半島から新しく弥生文化が伝えられて本格的に始まった。青銅器や鉄器も伝わったが、これらは貴重品で日常の道具はまだ石器が用いられている。次の古墳時代に向けて日本が徐々に治められていく時代である。

弥生時代は大きく前期(約2300年前~2100年前)、中期(約2100~1900年前)、後期(約1900~1700年前)に分けられるが、
佐渡島に弥生文化が伝えられたのは、そのうち、中期の中頃(およそ2000年前)からである。

 櫛目文土器 弥生時代の櫛目文
佐渡の弥生土器は櫛目文を主体としたもので、本州の畿内文化の影響を受け、北陸を経て伝わって来たとみられる。
壺、甕、高坏、甑コシキなどが出土し、新穂村の桂林遺跡(かつらばやし)からは土器の底部に籾の圧痕があるものがあり、炭化米は桂林遺跡のほか、
田野町の下畑遺跡、金井町の千種遺跡 (弥生時代末から古墳時代初頭の遺跡) からも発見された。中でも千種遺跡殻は、数多くの木製農具などが出土している。

佐渡の弥生遺跡は十数か所発見されているが、そのほとんどが国仲平野に集中して分布している。そのほか、二見半島や佐渡の北端鷲崎などの海岸線、それに加茂湖沿い及び小佐渡の羽茂周辺にわずかにみられるだけである。

中でも国仲平野を中心とする人たちは、稲作の他に、佐渡にある赤玉石や碧玉を用いて、盛んに勾玉や管玉などの玉作を行っている。
赤や青の美しい石の装身具である。この玉作を行うことが佐渡の弥生遺跡の大きな特徴である。

玉作は一般の人たちが作れる技術ではなく、弥生時代の佐渡は、国仲平野一円に、専門的な玉作集団がいて、農耕及び漁撈の生活をしながら、玉作を盛んに行ったのであろう。

※玉作工人の渡来
 その意味(専門工人でないと不可能)で、朝鮮半島から直接渡来した玉作集団である。この地に玉素材があることをしり、確認して朝鮮人工人を連れてきた弥生人首長がいたようである。
 すると、弥生時代の日本海航路は、真野湾にも寄港していたようです。季節風と共に運行する史前史時代の交易船にどうやって連絡したのだろうか。
それとも、渡来首長自身が交易人であり、自己の交易船を持っていたのかもしれない。
稲作の始まり
-農耕文化の渡来-
稲作の始まり
下畑玉作遺跡
 233弥生土器 若宮遺跡
壺 若宮遺跡 櫛描文
無文土器
壺 若宮遺跡

 234木製品・炭化米 千種遺跡
土堀子状木器
千種遺跡
朳状木器
えぶりじょうもっき
炭化米 炭化米
炭化米 板状木器
 235
 235a玉器
勾玉 若宮遺跡
二反田遺跡
臼玉
二反田遺跡
小玉
若宮遺跡
 235b石鏃
石鏃
長者ヶ平遺跡
石鏃
佐渡島内各所

 236玉作文化
弥生時代中期の中頃から後期にかけて、佐渡で盛んに玉作が行われた。
玉は勾玉、管玉、平玉、臼玉、切子玉、棗玉などの装身具であるが、また宝器的な祭祀品でもある。
佐渡の玉作は佐渡に産する赤玉石(鉄石英)青玉石(碧玉)を主として用い、細形の管玉を多量に製作し、ヒスイの勾玉や、変わった珍しい四角玉や三角玉と名付けられた角玉も作られている。玉作は、相当高度な特別な技術がないと作れなく、専門的な技術を持った人達が想像できる。

佐渡の国仲平野を中心に、小谷地遺跡桂林遺跡平田遺跡城ノ畠遺跡(以上新穂村、まとめて新穂玉作遺跡)、
若宮遺跡(真野町)、下畑遺跡出崎遺跡三宮遺跡(以上畑野町)、二反田遺跡、城ノ貝塚遺跡、藤津遺跡新保川東遺跡(以上金井町)、八幡田望遺跡(佐和田町)など、10数か所の玉作遺跡が分布し、総称して佐渡玉作遺跡としている。

それらの遺跡からは土器や石器などと共に、玉の未完成品や完成品が数多く出土し、分類研究の結果、管玉の製作工程が明らかにされている。

 玉作行程図
管玉は直径2~3mm、長さ1~2cmぐらいの細形で、その作り方は、
➀原石を打ち割り打面を作る
②石鋸で打面に浅い溝を付ける
③一つの溝にタガネ状工具を当てて半截し、数回繰り返して小さい四角柱を作る
④四角柱の側面の角を押圧剥離する。
⑤円柱に研磨する
⑥穿孔する
⑦仕上げして完成
この製作工程は、佐渡のどの玉作遺跡でも一定にしていて、制作の工具に、扁平な石に包丁のような平らな刃が付いている、石鋸を用いることが特徴である。
最後の行程で孔をあけるという優れた技術で、おおむね円柱の両側の底面から、直径1.5mmくらいの孔をあける。
しかし、どんな鑚(キリ)でどうしてあけたかまだ解明されていない。

途中まで穿孔した管玉の孔の形は、孔の底が平らか中心が突起していて、鑚の形は管鑚クダギリが考えられる。
孔の壁面に横位に筋がいっぱいついていることから、鑚を回転させて穿孔している。鑚が何でできているかはわからないが、舞鑚マイギリのようなものを用いて穿孔したらしい。

玉作文化 玉作遺跡 管玉・原石
玄武岩製石針
石鋸・原石
(石英粗面岩)
玉作行程図 玉作行程図
 237
石鋸 柱状砥石 佐渡の管玉
管玉製作工程
玉作遺跡
 


 250古墳時代~奈良・平安時代


 251千種遺跡 -農耕とくらし-
千種遺跡は佐渡の国仲平野の中央部を南西に流れて真野湾に注ぐ国府川が、その支流の大野川、新保川、中津川と合流する付近の水田から発見された遺跡である。
おびただしい量の土器や木器類が、洪水などによって散乱したように発見され、弥生時代末から古墳時代初頭期にかけて(3世紀末~4世紀初頭)の低湿地遺跡として全国的に知られるようになった。

出土品は、薄手で赤みがかった甕、壺、高坏、器台、甑などの土器で、丹を塗ったものもある。

中でも種類、量とともに豊富なのは木器で、たも網枠、櫂、舟形木器、丸木弓、朳エブリ、竪杵、土堀子、板木状木器(鳴子と思われる)
などの漁具や狩猟具や農具である。

 朳(エブリ)は耕作して水を入れた田の高低を押しならし、水がまんべんなく張られるようにする道具。
 竪杵は籾を臼に入れて搗(つ)く道具。土堀子フグシは畑の土堀に使われた。織機の一部や竹で編んだザルもある。
それに柱や板などの建築用材や矢板など。また、ナイフのような鉄製品。
シカの肩胛骨の中ほどを灼き、何かことをなすときに吉凶を占った卜骨という珍しいものも見つかった。

また、土器の内側に炭化して付着した米粒の塊も出た。マクワウリ、ユウガオ、ヒョウタン、カボチャ、モモなどの種子は、
畑を作り栽培していたことを伺われる。

古墳~奈良・平安
千種遺跡
-農耕とくらし-
千種遺跡の農耕 発掘 出土物
板と共に土器出土。
棚に土器を置いていたのだろうか
加茂湖から離れた
千種遺跡に櫂を発見?
竹製の編み物
 253千種遺跡 出土物
壺 千種遺跡
甕 千種遺跡
 255
丹塗り壺
千種遺跡
脚注が入れ替わっています
丹塗り盌(マリ)
千種遺跡
器台
千種遺跡
 257
オニグルミ種子
佐渡シジミとカワニナ
千種遺跡
卜骨 舟形木器
たも網の枠 ザルの一部
 


 260古墳時代~奈良・平安時代

 261佐渡の古墳文化
佐渡の古墳は7世紀が中心で、横穴式円墳形式の後期古墳で、3つの群にそれぞれ集まっている。
有名なものに県史跡の相川町二見の台ヶ鼻灯台の海岸にある台ヶ鼻古墳がある。まわりに製塩・製鉄・須恵器窯などがあり、まつりに使った馬歯も出ている。古墳からは、直刀・須恵器壺・金環・人骨が出ている。近くの橘古墳の出土品は、人骨・管玉・ガラス玉・直刀・鉄鏃・鍔・鎌・鍬だった。

真野湾の西には、県指定の真野古墳群があり、エゾ塚と呼ばれることが多く、直径10m程の円墳である。
積石塚のようなもの、金環を小壺須恵器に入れて三組出土した古墳もある。

背ノ沢古墳では、製塩遺跡とかかわりが深く、古墳の入口の羨道の床は、礫と軽石・貝殻・炭・灰・アワビ・サザエが敷かれており、床上には、
佐渡式製塩土器片と、土師器が敷き詰めてあった。
むろん、古墳の周りは製塩遺跡で、出土品は、須恵器壺・皿と土師器のマリ・壺片、人骨・金環・鉋・紡錘車・製塩土器片である。

古墳~奈良・平安 佐渡の古墳文化 古墳分布図  古墳は真野湾(両津港の反対側)に集中しています。本土に近い小木半島側が栄えていたようです。
 この地域に渡海するには直江津港付近から出航する必要がある。当時湿地帯であった古加茂湾は砂丘上であり、水田の開墾は大変だったようです。

 台ヶ鼻古墳

 262佐渡式製塩土器  ※画像拝借「勉強ノート 製塩土器
製塩土器は、朝鮮半島から伝えられた技術が、岡山県の瀬戸内沿岸(備讃瀬戸)に伝えられ、それが各地に伝えられたものと考えられます。
 引用「製塩の歴史」 

永遠土器の歴史
縄文の製塩土器は茨城県付近から宮城岩手青森に伝播した。

弥生時代にはBC300頃備讃瀬戸から始まり畿内を始め全国に伝播した。
製塩土器の流布 wineglass型の製塩土器は若狭湾でバケツ型となり、新潟・青森へ、
一方富山県へは別経路で原初のままで伝わった。
製塩土器の発達 製塩土器の発達は、
それぞれの地域の気候や天候に合わせ、
製塩労働者の技術にもよるところが多いのでしょう。
バケツで作れる所。
ワイングラスが適したところ。

 ※引用させてもらっています「勉強ノート製塩土器」は大変素晴らしいページです。ぜひご覧ください。

 263
 土師器
土師器は薄橙色(うすだいだい)をした柔らかい素焼きの土器で、弥生土器の流れを受けて、3世紀(古墳時代初頭)から12世紀(平安時代末)頃までの長い間使用されました。
土師器は基本的に在地の粘土で作られ、野焼き(覆い焼き)の比較的低い温度(700~800℃)で焼成されます。
煮炊きなどの調理用の甕、貯蔵用の壺、食べ物を盛るときなどに使う高坏・埦・鉢などがあり、用途により使い分けがされました。

古墳時代中頃から住居にカマドが設けられるようになり、甕はカマドに設置するように胴長になります。甕の底がない形の「こしき」が出現し
すのこを敷いて米を入れ、水を入れた甕と重ねて米を蒸して食べるようになります。
発掘調査で出土する土師器の甕の内面には、黒い炭化物(おこげ)が観察できるものもあります。

土師器
土師器 カマド若宮遺跡 三足土器
浜田遺跡

太屋山遺跡
 265
甑 与六淵遺跡 高坏
太屋山遺跡

大石遺跡
 
 270
 271古墳の文化
古墳の文化
 272土器
壺 縁塚古墳 盌と壺
まり(=わん)と つぼ
背ノ沢古墳
蓋 、長頸壷
背ノ沢古墳

 274金属器
 銅鏃 浜田遺跡
銅、特に銅とスズの合金による青銅を材料とした鏃。柳葉形や定角形といった形式のものが多く、柄のついているものが一般的です。実用としては儀式やお祭りの道具として使用されていたようです。
佐渡では、この浜田遺跡の他に、藍川町鹿伏山から一点が報告されています。

須恵器 蓋
住吉古墳
直刀
住吉古墳
銅鏃 浜田遺跡
 275鉄器 住吉古墳
鉄器 住吉古墳 馬具片 刀子 耳環
 

 280小泊窯跡 -北陸最大の須恵器窯- 奈良時代後期~平安時代前期 8世紀後半~10世紀後葉 佐渡市羽茂小泊

 281小泊窯跡
小泊窯は北陸で最も大きく、奈良時代後期(8世紀後半)から平安時代前半(10世紀後葉)頃までのものとみられている。
およそ100基の窯が一帯にあっただろうという。
須恵器は古墳時代、5世紀になって朝鮮半島から我が国に伝えられた焼き物で、ロクロで成形し、1200℃ぐらいの高温で燻べ焼(くすべやき還元炎焼成)
するので、鼡色で硬い。
『日本書紀』雄略天皇7年に茅漢陶部高貴(いまきのあやのすえつくりべのこうき)という工人が、綿部、鞍部の工人らとともに、百済から来朝したことが記されている。

初めは古墳の祭器や副葬品であったが、優れた性能から次第に広まり、地方でも量産されるようになり、弥生式土器の流れをくむ土師器と共に使用された。
小泊の窯跡は高畑、栗の木沢、カメ畑、下口沢、岩花、江の下、ふすべ、奥田など、24か所にわたる数十ヘクタールに及ぶ範囲に広がり、甕、壺、坏、蓋、埦、平瓶、横瓶などの(原文:瓮は誤植。意味は口の広い甕)焼き物とともに、陶硯(風字硯、円面硯)、布目瓦、瓦塔(がとう、七重塔)などか出土している。
小泊窯で焼かれた須恵器や布目瓦は、小泊台地上の各窯から小泊のま(氵閒)に集められ。真野にあった佐渡国衙や佐渡国分寺を始め、雑太郡衙(さわだぐんが)、羽茂郡衙、加茂郡衙などの官衙へ船で運ばれたと思われる。

また、小泊窯の須恵器は、島内の需要を満たすためだけではなく、越後一円の9世紀後半以降の諸遺跡からも出土し、
遠くは富山県や青森県の遺跡、更に北海道の苫小牧の遺跡出土の須恵器にも、小泊産の須恵器があるといわれており、
9世紀から10世紀にかけて、日本海交易圏の広がりが知れる。

※北陸最大の須恵器窯跡で100もの窯跡があるという。狭い佐渡島の松を伐りつくしても足りない燃料ではないかと思うが、どうしたのだろう。
しかし、その後の銀・金の採掘や、膨大な人口の増加にもはげ山になることもなく島が続いたということは、上手な森林再生の輪廻があったのだろう。

小泊窯跡 小泊窯-北陸最大の須恵器窯- 小泊窯跡

上に記述


 製鉄炉

 砂鉄と穴釜 (須恵器窯の窖窯ではなく砂鉄製錬炉です。 製錬炉=砂鉄から銑鉄を取り出す炉。この後、精錬炉で純度を高めます。)
奈良時代から平安時代にかけて、穴釜と呼ぶ製鉄炉と思われるものが現れる。
穴釜の遺跡は、鍛冶が沢穴釜安養寺穴釜(以上金井町)、野坂穴釜(佐和田町)、加茂河内穴釜、穴釜山穴釜(以上両津市)等で、金北山を主峰とする大佐渡の山中や山麓一帯に分布し、釜前面からは多量の鉄滓や木炭および木炭粉が堆積している。

穴釜遺構は、山間の傾斜地をうがって釜(炉)を築く。
釜の前後に焚口又は送風行があり、釜の中心部をなす奥部天井に一孔があって、火見孔か、または木炭を補助投入して砂鉄を溶かしたらしい、
釜の最奥壁には傾斜する地上に抜けて煙突となる孔がある。
釜の前後左右側壁にも縦に溝又は孔が地上に抜けていて、これも煙突の作用をすると思われる。

  穴窯跡…穴窯は円形の底面を持つ、円筒炉(朝鮮の起源を持つ。滋賀県から東に多く分布している。平安時代以降)

砂鉄と穴窯
上に記述

 ※穴釜による製鉄方法について、ネット上にはも図面も論文もない。方形のたたら製鉄ではなく、半島人の縦型形円筒炉のようです。
 製鉄原料の砂鉄と木炭はどこから、入手したのかも文献資料がない。

 283
 須恵器
須恵器は、5世紀頃、朝鮮半島から日本に伝えられた焼き物です。窖窯で、1000℃以上の高温で焼かれるので鼠色をしていて硬く、縄文・弥生・土師器などの土器のような吸水性がありません。土師器と共に使用され、後期の古墳・国衙や郡衙推定地、国分寺跡・祭祀遺跡・当時の集落跡などの遺跡から出土しています。
佐渡へは6世紀頃に伝えられましたが、多量に焼かれたのは平安時代初頭からで、県史跡の小泊窯跡群(羽茂)があります。

 
奈良時代、平安時代の硯は、焼き物で、のちに石硯に変わって行った。焼き物の硯には「風」という字のような形をした「風字硯」と円形の「円面硯」に分けられる。これらは小泊の須恵器窯で焼かれた。

須恵器 瓦塔片
小泊須恵器窯跡
風字倹×2
小泊須恵器窯跡
円面硯残片×2
小泊須恵器窯跡
大甕 大願寺
椀と蓋
甕畑窯址

小泊須恵器窯跡
円面硯 大甕
大願寺
 285
長頸壷
亀畑窯址 羽茂地区
海揚りの長頸壷
佐渡島 両津沖
 

 301藤塚貝塚 縄文中期
昭和41年、砂取り作業中に遺物が発見され、真野町教育委員会(当時)によって発掘調査が行われました。
縄文時代中期の遺跡で、藤塚貝塚式土器や石器、装飾品、骨片などが出土しました。また、レプリカにした壮年期女性の埋葬人骨のほかに、
20個体という多数の人骨が見つかっています。

藤塚貝塚 壮年期女性の複顔
藤塚貝塚出土人骨
 302三宮貝塚
 303三宮貝塚出土遺物
 303a
石皿、磨石
三宮貝塚
敲石 磨製石斧
 303b
石鏃 石錐 石棒
 303c
骨角製刺突具 垂飾 石剣
大珠 垂飾
骨格製品
貝輪 貝輪
サルボウ貝製
 305三宮貝塚 縄文後期前葉 約4000年前
蓋形土器
縄文後期前葉
約4000年前
蓋形土器
縄文後期前葉
約4000年前
台付土器
縄文後期前葉
約4000年前
台付土器
縄文後期前葉
約4000年前

 307堂の貝塚 出土品
深鉢形土器
縄文時代中期
約5000~4000年前
深鉢形土器
縄文時代中期前葉
約5000~4000年前
 
 310年表
旧石器~縄文 弥生~古墳 飛鳥・白鳳・奈良 奈良・平安 平安・鎌倉・室町
室町・桃山・江戸 江戸 明治・大正・昭和
佐渡に流された人々
奈良~平安時代 平安時代 鎌倉時代 室町~江戸時代
 320夜着
家紋の夜着 家紋を染めた夜着
三ツ巴紋


 330古代・中世


 331佐渡の歴史 (古代中世
佐渡の中世は、支配者の交代で幕をあけた。平安時代末期より、鎌倉時代初期には、近江日枝神社の新穂荘という一つの荘園を除いて、他は国衙領であり、国衙在庁官人らによる支配がなされていた。
承久の変(1221)を機に、佐渡は関東武士の支配を受けることになる。他国と違ってそれだけ中世の始まりが遅れた。

承久の乱により佐渡に御遷流の順徳上皇の警護と監視のため、相模の国の本間氏が幕府から派遣されることになる。
本間氏は佐渡守護となった北条市一門の大仏氏被官であり、佐渡守護代という立場であった。

この本間氏と共に、同じく相模の国の藍原氏、渋谷氏、土屋氏らの一族が入国、土着して領主支配を展開する。
以後、天正17年(1589)までのおよそ370年間は、これら関東武士の子孫たちの手によって佐渡の中世は動いていくことになる。

この間(奈良時代以降)、日蓮や京極為兼日野資朝、更には観世元清(世阿弥)など日本歴史の上で注目すべき人々が配流となるが、これら流人を預かったのも本間氏であった。
鎌倉幕府滅亡は、佐渡の本間惣領家(佐渡守護代)の権威を衰えさせた。

島内の各郷や荘で代官的役目を荷なっていた庶子家達は自己の預かり地で独立の動きを表し、足利幕府より改めて地頭職を安堵されることになり、島内に多くの郷地頭たちが生まれる。
この頃、農村においては名(みょう)連合(惣的結合)によって新しい村が組織されるようになってくる。そして、この惣村の代表者(名主=みょうしゅ)達は、新しいムラの中で地位を築き武士化していく。

彼らは地頭たちの元に掌握され、地頭代官として村を統率し、やがては地頭たちと共に戦国の戦乱の中に巻き込まれていく。
武士化した名主たちは農民から村殿様(むらどのさま)と呼ばれた。戦国期は小さい佐渡の中でも地頭相互に領地の維持、拡張が繰り広げられる。
こうした頃、金銀山の開発も盛んになり、金銀山地帯を領有する村殿たちの力は大きくなり、やがては主家に反抗し、対等かそれ以上の勢力を持つ者も現れてくる。また、彼らは金銀の売却を通じて、越後上杉氏との結びつきも強くなっていった。

佐渡では戦国の争いの中で、島を統一し戦国大名化する勢力はついに生まれなかった。

※沖縄諸島と同じで、狭い地域でも権力と領地の奪い合いが起こり、戦乱が繰り返された。
しかし、彼らの戦力は非常に脆弱で、戦術にもたけておらず、唯のコップの中の争いにすぎなかった。

佐渡の古代・中世 京都~佐渡行路図
(公道)


 国分寺と国分寺瓦
旧真野町、国仲平野が広がる台地上佐渡国分寺跡はあります。
昭和2(1927)年から発掘調査が行われ、金堂・回廊・新堂・南大門・塔の跡が発見されました。

国分寺は天平13(741)年に聖武天皇の詔によって、全国に建設されました。佐渡もその1つであり、天平宝字8(764)年頃には完成していたと考えられています。国分寺周辺では多くの遺跡が発見されているため、この辺りは古代佐渡国の中心地だったことが伺えます。
しかし律令体制の衰退と災害により佐渡国分寺は姿を消してしまいました。

国分寺境内からは多くの瓦が出土しています。国分寺瓦と言いますが、裏一面に布目模様があることから、布目瓦、天平年間のものなので天平瓦とも言います。菊花文・柳葉文・剣頭文の軒丸瓦、唐草文の軒平瓦などが見つかっており、これらは島内の窯で焼かれたもののようです。
※佐渡国分寺は国仲平野の西側、真野湾側にありました。

国分寺瓦 国分寺と国分寺瓦 佐渡国分寺瓦 丸瓦(国分寺瓦)

 332佐渡国分寺
赤松と杉木立の中の柔らかな芝生に点々と安山岩の基礎が散らばる。礎石の配置から、中央に金銅が、その東方に七重塔。
金堂を取り巻いて回廊、中門、南大門、新堂などがあった。千二百年程前の天平期には、荘重な朱塗りの七堂伽藍が、陽に輝いていた。
天平13(741)年に聖武天皇の詔勅で造営された佐渡国分寺の跡である。

建物は正安3年(1301)に七重塔が雷火で焼け、本堂は享禄2年(1529)に焼失してしまった。
しかし瑠璃堂に安置されている木造薬師如来坐像(重要文化財)は昔のままである。
目は閉じているのか開いているのか(半跏思惟)、やさしい顔立ちで、上野公園の西郷さんみたいに、体格がいい。
平安時代前期のこの本尊だけが焼失をまぬがれて千二百年を生き続ける。

国分寺跡の総敷地はおよそ200m四方。草群の下から柳葉文・菊花文・唐草文や山形文様の屋根瓦のかけらが沢山出土して、古代工芸美の粋を凝らした当時の建物の美しさがしのばれる。林の間を時折ホトトギスやウグイスがかけぬけていく。

真野町は古く、佐渡国府があり、この島の文化・宗教の中心地だった。
承久の変(1221)の順徳院、立正安国論(1260)の日蓮、正中の変(1324)の日野資朝など、鎌倉時代の討幕史をいろどる流人の影も、この辺りに濃い。
順徳院も、しばらくここ国分寺を仮宮とされたという。

 人物絵瓦
国指定史跡となっている佐渡国分寺跡から、丸瓦の一部にヘラ書きした人物像と人命が刻まれた瓦の断片が出土した。人物は頭巾をかぶり、
官人のようで朝服を着て、両手で笏をかかげているとみられる。
人物の脇には「三国真人」(みくにのまひと)と描かれていることから、785年に流された同名の人と考えられている。

佐渡国分寺 佐渡国分寺跡地
佐渡国分寺跡 佐渡国分寺伽藍配置 国分寺瓦 人物絵瓦 人物絵瓦
 333国分寺跡出土物
 333a鉄鉢形 鉢 (真野町 史跡国分寺跡隣接地出土)
仏器の鉄鉢を象った丸底碗形の土器。焼成も堅く、緻密で丁寧に作られている。
鉄鉢は僧侶が托鉢の時に使用するものでこの鉢は国分寺に関わる僧侶が修行時に用いたものであろうか。
丸底の器形から8世紀後半の時代が想定でき、佐渡で唯一の出土例である。の

鉄鉢形 鉢 鉄鉢形 鉢
 333b人物戯画瓦 国分寺跡
この丸瓦は、佐渡国分寺跡の史跡公園整備作業中に偶然発見されました。瓦破片は縦約16cm、横約16cm、厚さ約2cm程で、凸面は縦方向に丁寧なヘラ調整が施され、人物が像と「三國真人」の文字が箆描きされています。人物が像は東部ふの一部と腰部以下を欠失しており、左肩から腕にかけては、小口に掛かるので恥じるから描かれていませんでした。
頭部に頭巾をかぶり、衣服は詰襟の盤領、袖は筒袖の袍(うへのきぬ)を着用し、両手で笏を捧げています。

三國氏は越前国坂井郡の三国付近の豪族で、「真人」は八色の姓の一つです。新潟県と関係のある人物では、延暦4年(785年)に佐渡国に配流となった能登守三國真人広見がいます。

人物戯画瓦
和同開珎 和同開珎
 333c蔵骨器 横瓶 駒坂墳墓
火葬骨
 333d文字瓦
 335佐渡の城館跡
佐渡には中世の城郭がおよそ170ヶ所残る。承久の変 (1221) 以後、佐渡支配のために相模から入国した本間、渋谷、藍原、土屋などの地頭と庶子家、
その代官である村殿たちの城館で、越後の大名上杉景勝が佐渡を攻略、上杉氏番城となった2、3をのぞき、ことごとく滅亡し廃城となった。海岸線の先端部や、平野に面した独立の山丘など、防禦に適した地点に築かれ、形態から平山城(高館城)や山城(要害)などに分かれる。

高所にある山城は室町時代後半、戦国期のものが大半で、山下に日常の居館として平城をともなう。国仲平野などに見る村殿の城館は、水堀を巡らせた単郭単濠型式を持つ。

※170もの土地支配者がいたとすると、本当に狭い土地を支配して威張っていた、、お山の大将みたいですね。

上杉景勝佐渡攻略以前の佐渡の城主表
佐渡の城館跡
竹田城跡
吉井城跡
河原田城跡
羽茂城跡
新穂城跡
久知城跡

 336本屋敷遺跡出土物 奈良~平安
金井町千種地内、中津川左岸の奈良~平安時代の遺跡。丘陵斜面と水田から沢山の須恵器が出土した。墨書土器も多い

 鎌鑓と白磁皿
河原田や羽茂の城が落城したのは、天正17年(1573年)6月のことでした。
三千騎ともいわれる上杉景勝の佐渡討伐隊によってわずか一日で佐渡は敗れました。
ここに挙げる2点の遺物は、河原田城址出土のもので、明治330年(1897年)、佐渡中学校(現:佐渡高等学校)建設の際に掘り出されました。

鎌鑓かまやり
鑓は南北朝頃より使用され始めたといわれ、戦国期に非常に盛行した武器です。この鑓は「鎌鑓」と言われる形式で、穂(刃部)の長さ約20cm、なかご(柄に差し込む部分)の長さは約31cmです。

白磁皿
明(中国)製の白磁皿で、陶磁作品として完成されている貴重なものです。佐渡の城址からは、城主の財力を示す中国製の青磁や白磁、染付などの碗や皿が出土します。

下段

本屋敷遺跡
中段
鎌鑓と白磁皿 鎌鑓かまやり 上段
壺と片口
壺と片口
 338
 338a制札
制札せいさつ
天正17(1589)年6月上杉の佐渡征圧の際、島内の寺社に下された
久知殿
くじどのかぶと
 338b
朱を塗った須恵器 皇朝十二銭
承和昌寶
承和2年(835)鋳造
延喜通寶
延喜7(907)鋳造
 338c
 一字一石経
経典を平たい小石に一字ないしは数字ずつ書いて埋納したもので南北朝頃に起こり江戸時代には全国的に盛んになった。
佐渡で確認されている一字一石経は次の7ヶ所である。
大石中浜 (羽茂町大字大石字中浜)
冬居上の山 (羽茂町大字大箸字山ノ上)
西方峰岸 (羽茂町大字大橋)
天 沢 (羽茂町羽茂本郷字天沢)
井 坪 (小木町大字井坪)
椿尾高野 (真野町大字椿尾字高野)
徳和登立 赤泊村大字徳和字鍛冶屋)

一字一石経
火縄銃の弾丸 火縄銃
 


 350砂金の採取

砂金の採集

 砂金採取工程
  ➀つるはしで土砂を採取する。
②土砂を「ねこだ」を敷いた樋に入れる。
③樋に川の水を入れ、粒の荒い石を洗い流す。
  ④ねこだに残った細かい砂を桶に移す。
⑤砂を桶から「ゆり板」に移す。
  ⑥ゆり板を川に入れ、「砂金流し」をする。
⑦ていねいに砂を洗い流す。
  ⑧細かな砂金があらわれる。


 砂金採取の道具
カッチャ
つるはし
竹めけ ねこだ
西三川砂金山 たらい ておけ
ゆりいた
 


 360近世



 361佐渡の歴史(近世)


17世紀

 近世の佐渡は石高十三万石、260町村・人口90,000人をもって成り立つ。慶長の初め相川に大鉱山が出現したことが原因で、家康は領主上杉景勝を会津に移封し佐渡を直轄地(天領)とし、大久保長安を配して鉱山と地方(ぢかた)を支配させた。
 相川から家康に送られた銀は年間一万貫(米にして六十万石)に達したがその総生産額は銀の世界産額の25%に達したという。まさに世界の金銀島であった。
 鉱山都市相川には諸国から人がむらがり、人口4~5万人を擁する一大鉱山都市が出現した。陣屋(奉行所)を中心に京町など他国商人の町・職人町・金掘町が形成され、繁栄は町の人々に国元へ帰ることを忘れ去らせたという。

島の玄関口小木湊は人・物資・金銀の出入り港として栄え、対岸越後の寺泊直江津は佐渡への渡海場としてにぎわった。
17世紀初頭、佐渡は北陸沿岸諸国の商品流通市場の中心となったのである。
しかし、寛永期にいたり度重なる洪水と坑道の延長に伴い金銀山に衰退期がおとずれる。銀産額の減少と銀の海外流出を抑えるため幕府は鎖国に踏み切る。10年ほどの間に相川の人口は1万人に急減し、寛文期には佐渡の年貢米が江戸商人によって買い付けられることになった。河村瑞賢が西回り海運を開いたのはこの時である。

18世紀
 金銀資源の生産島として繁栄した島は、金銀生産が衰えると売るべき資源を失い進むべき方向を失った。
18世紀をむかえ、元禄期の奉行荻原重秀は二十五万両を投じて南沢に疎水坑を作って鉱山の再生に努め、享保期の奉行荻原源左衛門は農民に茶・タバコ・薬草などの生産をすすめ宝暦元年(1751)には輸出入禁止を解禁した。しかし、出るものは少なく入るモノのみ多かったから、貨幣の流出がすすみ消費の増大は貧富の差を拡大した。ここに島人は金銀資源に頼らず自らの手でみちを切り開くことになった。
 その中で、特質すべきは他国稼ぎである。竹細工・わら細工・串柿・味噌を作って江差や松前に小舟で渡り自国を自らの目で眺めた。
幕末から近代にかけて多くの開明思想家達を輩出した土壌がここにある。

19世紀
文政の初め地役人田中葵園は国産会所(広恵倉こうえいそう) を作って専売制度を開始したが、天保9年の百姓一揆でその構想は崩れ去った。
そのことが契機となって民間から新しい運動が起きた。羽茂本郷村の農具鍛冶、氏江氏(うじえし)が、出雲から鋼を買い求め工場を作って、年6000台の千歯扱きを製造して広く他藩に売却するなど、幕末には島人の目はもう全国を見渡す視野を持っていたのである。佐渡は日本の縮図のような島である。


佐渡の歴史(近世) 江戸~佐渡行路図
(公道)
 362
砂金山 鉱山模型
銭ます
これ最近まで使われていた。よく知っている。まだ、使っているところもありそうです。
佐字銭
相川産寛永通宝

 363佐渡奉行
佐渡は徳川幕府の直轄地(天領)で、佐渡奉行によって支配された。遠国奉行の一つで、派遣されたぶぎようは102人を数え、初期は大名、その後は袂から多く選ばれた。役高は1000石、役料は1500俵、役扶持は100人扶持、江戸城内での詰め所は芙蓉の間である。
在職中に免職者8人、佐渡で病死した者9人、親子二代任命者が5組いる。大久保長安、荻原重秀、ばくまつの川路聖謨など、日本史を彩る逸材も多い。
主な任務は、佐渡13万石(一国天領では飛騨の44000石、隠岐の12000石をしのいだ)の民政支配、年貢の収納、金銀山の管理で、幕末には海岸防備、外国船の監視が加わった。

 天正の佐渡平定
秀吉の天下統一が進んでいた天正14(1586)、越後平定の目安がほぼついた上杉景勝は、上洛して秀吉に謁し、佐渡討伐を命じられる。
天正17年(1589)6月、景勝は佐渡討伐の準備のため家臣富永備中を派遣し、河原田城を攻め、僅か1日で落城、城主は猛火に包まれた城中で切腹した。援軍の各城主たちも河原田と共に敗退した。景勝軍は16日、羽茂城を攻め、これも1日で落城。こうして佐渡の城主たちは滅亡した。6月24日、景勝は秀吉に佐渡平定を報告、秀吉寄りの返書は7月16日に届く。

佐渡奉行 天正の佐渡平定 天正の佐渡平定 古文書
関ケ原前後、一国天領の幕開け
家康船舶諸役免許状
家康朱印状
家康判物
佐渡渡海禁止状

 364佐渡の遺物
 懸硯 かけすずり 船箪笥のことである
懸硯は、江戸期から大正期にかけて北前船(日本海廻船)で用いられ、重要書類や貴重品などを保管した。
外側は厚手のケヤキ材、中は桐材。正面には図案化された丈夫な金具が付く。
船箪笥の総称で呼ばれるが、形状により懸硯、帳箱、半櫃などの名称ある。
福井県三国、佐渡小国、山形県酒田の三港で特に優れたものが作られていた。

 水上輪 すいしょうりん
承応2年(1653)、佐渡金銀山に導入された坑内排水(揚水)ポンプで、ギリシャのアルキメデスが考案したアルキメデス・ポンプが租型とされている。のちには農家に払い下げられて、「樋」又は「蛇腹樋」と呼ばれて、田畑の灌漑用として用いられた。
通常九尺(約270cm)が長さの標準で、農家に払い下げられてからは長短いろいろに作られ、使用された。

千石船(五百石船) 地球儀の容器
船徳利
舟絵馬 懸硯 懸硯
水上輪
水上輪すいしょうりん 水を引き上げるために螺旋状の板が付けられている。 水上輪
 365佐渡奉行一覧
佐渡奉行一覧

 佐渡の千枚田
佐渡は隠岐の島、飛騨と並ぶ一国天領の地として知られる。徳川家康が天領に定める以前のこの島の水田面積は、ほぼ4800haで、
およそ100年後の元禄6年(1693)には9800haとほぼ倍増し、現在に近い水田開発された。
川水や湧水に頼っていた中世的な灌漑法から、台地に長い水路を引き、河川や谷あいに掛樋(かけどい)を渡すなどの新しい灌漑法が、
主として鉱山の排水や測量技術の応用によって導入された。水不便だった洪積台地や海岸段丘に、続々と新田が開かれた。

畑野町小倉の千枚田は、傾斜30度近い山間地の斜面に、寛文10年(1670)頃、切り開かれたもので、佐渡で最も規模が大きい。
瀬戸内海地方でよく言われる「耕して天に至る」美しい景観を今も残している。
このような佐渡の新田開発ブームは、鉱山が衰えかけた寛文期(17世紀)以降から始まった。
鉱山中心から米の増産へと、天領経営が大きく転換していく時期に千枚田は誕生した。
一枚の田は、小さい短冊状で、海抜500m近い山上まで伸びている。

佐渡の千枚田 佐渡の千枚田 佐渡の千枚田 農耕牛の絵馬
牛の絵だのに絵馬って
(笑)
 
 
 380佐渡の民俗芸能
佐渡の民俗芸能
 390佐渡と芸能
 391
佐渡の芸能史
世阿弥の「金島書」
金春禅竹宛書状
 392
世阿弥 配流図
(京都~佐渡)
世阿弥佐渡山越路図
 393薪能と能面
薪能と能面
 
 410佐渡の能舞台
 411
世阿弥の残した「能」の本質は、現在では、佐渡に見られるかもしれない。
佐渡はその当時のままの姿を残した「能」が日常の中に根付き、人々と共に育っている。かつて、能舞台は200以上もあったとされるが、現在では35を数えるものとなった。
しかし、そのどれもが民衆の生活と深く結びついて、過去の建築だけにとどまっていない、というのが佐渡の能の最も大きな特長であろう。
能舞台は、演者それを鑑賞する人々との生活そのものの交流の場となっている。

佐渡の能舞台 過去の能舞台分布図 能舞台図面
能舞台

 413世阿弥資料




木彫世阿弥望憶 木彫世阿弥望憶
謡本 (うたいぼん) 謡本
 
 420佐渡の民俗 (芸能)
 421
 江戸時代に島では金・銀・銅を産出する鉱山が相次いで開かれた。中でも相川は本土から集まった鉱山関係者や幕府役人らによって数万人を超える都市が形成された。そのため、奈良期以来、流人たちがもたらした上方文化に加えて、本土各地からの地方文化が重ね上げられ、芸能や生活の上に各種の花を開いたのである。
 例えば、鎌倉中期の近江猿楽師で面打ちであった赤鶴吉成(一透)や、室町期の観世元清(世阿弥)の流刑で播かれた能楽ネタは、江戸期になって自らも猿楽師であった初代佐渡奉行、大久保長安(石見守)の着任で結実した。能狂言が勢いを弱めた明治期にも佐渡はその伝承と保存の上で一役を担って来たのである。
 「ドサ廻り」は「サド廻り」の逆さ詞(ことば)だといわれている。事実、芸人たちのなかには相川で旗揚げ公演をしたり、島に来て活力を取り戻した者もあった。出雲の阿国なども佐渡に来た形跡がある。相川の繁栄は、やがて衰退期を迎えるが、折よく日本海を往来する北前船が寄港することになり、農村や漁村の産物を上方や松前方面に向けて大量に出荷するようになった。この海運の隆盛で、島は再び活気を得る。

 佐渡おけさの源流は、九州のハイヤ節で、秋田・津軽のアイヤ節と同形の民謡と見られている。
多くが陽気な騒ぎ唄であるのに対して、佐渡おけさは、小木-国仲-相川と伝えられる過程で独特な哀調をおびた佐渡的性格に変容して、美しい民謡となった。本土から伝来してのちに島的性格を強めた芸能は他にもある。
春駒は相川の芸人たちによって蚕の予祝的性格から離れて、娯楽性を持つようになった。
人形芝居(説教・文弥)の幕間狂言的なノロマ人形のセリフは、全て地元の方言で語られている。
また、舞楽的な神事芸であった鬼太鼓のある芸能は、能大夫によって仕舞の振付が取り入れられ、獅子舞が合流して今の形になった。
伴奏の裏太鼓には、祇園太鼓諏訪太鼓の音律が加えられている。

 こうした芸能に見られる成立の過程は、有形・無形の民俗文化の上にも同じように影響した。しかし、芸態の多くが相川で生まれて在郷の村々に伝播するという形式をとったのに対して、衣食住・生業・振興・口承・年中行事などに現れる村ごとの個々の民俗の特色は、島のそれぞれのムラの特性を反映して多様であり、北部海岸・国仲・南佐渡・前浜・東浜などといくつかの小文化圏に分けることができるのである。とはいえ、全島に共通する佐渡的民俗もまた少なくない。
柱や梁に巨木を用い、戸柱に漆を塗った民家、木綿を再生した裂き織り、石仏・石塔などの野仏、島の風土に合った農具や民具などはその著しい例である。

佐渡の民俗(芸能)
上に記述

上に記述



 佐渡の年中行事 芸能絵巻
 「相川年中行事」という絵巻に、佐渡の様々な芸能が登場する。19世紀(天保年間)に石井文海という絵師が描いた。
2月は家々を門付けして歩く「春駒」が見える。
4月は春日明神の「猿楽」で、ここは17世紀(正保年間)に佐渡で始めて能舞台が寄進された社である。
5月は塩釜神社の祭礼。境内に舞台が見え「野呂間人形のあやつりあり。近松なにがしの作れる浄瑠璃を、説教とかいう、ふしにて語る」とある。
7月は「盆踊り」。服装に上方まがいの様々な風流がこらされ、老いも若きも「夜もすがらたわむれあり来ぬ」と記される。
8月は八幡明神の祭礼で、「流鏑馬」。「射手は百姓をやとい、馬もそれが蓄る(飼う)」とある。
9月は善知鳥神社のお祭り(現:相川祭り)で「鬼太鼓」と神輿の行列。銀山の大工が「かね穿りの所作に似せて太鼓を打つ」とある。
 今日の鬼太鼓の祖形で、鉱山でにぎわう相川は、島最大の芸能のメッカだった。

佐渡の年中行事芸能絵巻
上に記述
2月「春駒図」
4月「演能図」
5月「人形芝居図
7月「盆踊り図」」
8月「流鏑馬図」
10月「相川祭図」

 423たかみ獅子
 新町大神宮祭(真野)に出る大獅子の頭。たかみ(籐箕とうみ) 3枚を組み合わせ、目、鼻、口、耳と、麻の毛取り付けて作ります。
長さ11mの麻織りの胴体が着き、1頭に30~40人が入った獅子を2頭立てで町内を練り歩きます。
たかみで作った獅子頭は祭が終わると焼かれ、毎年新調されます。

たかみ獅子
上に記述

 424春駒
 春駒は、民間では養蚕の予祝のための祝福芸でした。
「女駒」「夏駒」などと言われ、小形な手駒を持ち、おどけた表情の白面を付けた土俗的雰囲気があります。
 一方で、相川で生まれた「男駒」は、鉱山師として繁栄した味方但馬(みかたたじま)を模した黒褐色の面を使います。
大型の馬の頭を舞い手の首から下げ、腰に馬の尻をつけた乗馬の姿で、装束も武家風できらびやかです。
ただし、演目は両者とも差がなくなり、地方(じかた=歌い手)は、どちらとも組めるほど共通しています。舞方も似ており、、地方の合間にアドリブで 滑稽な台詞(せりふ)をいれ、掛け合いをします。双方の差が無くなったのは、女駒のほうが長らく中断していた時期があり、忘れられていたことによると考えられます。
 いま、春駒は、戸ごとに門着けする習慣はなくなり、職業的な芸人は見られません。春駒の伝承者は趣味的に習い覚えていて、時に春駒大会で共演されたりして好評を得ています。

春駒の衣装 春駒
春駒
春駒 白面
春駒面
万歳面
稲荷面

 425鬼太鼓(オンデコ)
 島の方言で、オンデコあるいはオンデェコと呼ぶ神事芸は、「鬼太鼓」と書くが、相川では「御太鼓」の文字を当てている。
その起源を奈良時代の伎楽や舞楽のたぐいとみる説があったが、それを確証するものはない。
島内の文献で舞楽の記録が見えるのは、観応2年(1351)が最初である。それも今の鬼太鼓に繋がるかどうかはわからない。

 鬼太鼓の文字が見え始めるのは18世紀中葉からのことである。ところが延享2年(1745)の佐渡絵巻に描かれた図によるとまだ現在の形にはなっていない。つまりこの出し物は太鼓の音を出すだけなのである。そして、その叩き手が鬼面をつけているために鬼太鼓の名称は用いられたが、鬼そのものは別の出し物の中に豆蒔翁の追儺のために登場はしても、踊りも舞もしないし、まして獅子とのからみなどはない。
 ただ、京都では、既に16世紀に声聞師(しょうもじし)の祝福芸として「隠太鼓おにだいこ」というものがあったのでそれとの関連があったかどうかにかかっている。鬼太鼓の音は、天保11年に川路聖謨が書いた『島根のすさみ』によると「拍子というものなし」とあるので、その頃まだシダラ打ち(リズムのある叩き方)ではなかったことがわかる。
 鬼舞いは、佐渡宝生流家元本間清房が、享保年間に仕舞の様式を取り入れたと伝えられている。これも伝承上のことである。シダラ打ちの始まりは安政年間に潟上村の関口六助(明治27年死去)から以後のことである。

鬼太鼓

上に記述
鬼舞
 426鬼太鼓面
鬼太鼓面 豆蒔翁面 豆蒔翁面

 427佐渡の人形芝居
 佐渡の人形芝居には「説教人形」、「のろま人形」、「文弥人形」と呼ばれる3つがあります。
 「説教人形」は、佐渡で最も古く説教語りと三味線を用いた浄瑠璃です。享保年間(1716~1735)に新穂村瓜生屋の須田五郎左衛門が上方より人形を持ち帰ったことが始まりだと言われています。「太田合戦」、「浜松合戦」などの合戦ものが代表演目です。
 「のろま人形」は、人形浄瑠璃のあいだの間狂言として、盛んに遣われていました。遣い手が生の佐渡弁で、即興的な台詞のやり取りをします。
滑稽劇であり、「生地蔵」などの演目があります。
 「文弥人形」は、明治3年(1870)沢根の文弥語りの伊藤常磐一と、小木の人形遣い大崎屋松之助が提携して成立したと言われています。
説教人形は腰串に首がくっついているため「デッツク人形」と呼ばれているのに対し、文弥人形は首が上下に動くため「ガクガク人形」と呼ばれています。
 当時の島民にとって、人形芝居はかけがえのない娯楽の一つだったのです。

説教人形
のろま人形
文弥人形

上に記述
半四郎人形頭
 
 430佐渡と民俗信仰 一部のみ掲載
 431地蔵信仰
佐渡に売られてめしいになった母に、守り本尊の地蔵菩薩を当てたら目が明いたという「山椒大夫」の物語は、地蔵信仰の説話として遠く室町時代に生まれた。
佐渡の道端や辻には、沢山の石地蔵が祀られている。真野町の「梨の木地蔵」のように何千、何万体の小地蔵が現世と来世に救いを求めた人たちの思いを込めて奉納され、風雨にさらされている。村々を歩くと「身代わり地蔵」「寝小便小僧」「イボ落とし地蔵」「目洗い地蔵」「波よけ地蔵」などがあって、島人たちの願いは様々であった。石材にも恵まれたこの島は、沢山のかわいい石ぼとけたちを自前で生産できた島であった。

室町時代、佐渡へ来た能の世阿弥は「かようなあらたかな国に、かりそめながら身を置くことは、どうした他生の緑であろうか」(金島書)と書いて、佐渡を仏の島に見立てている。

戦国期の終り頃、作仏聖と言われた木喰弾誓聖人が渡ってきた。
壇特山で苦行し、岩谷口(相川町)の岩窟に6年間もこもって悟りを開いた。天元元年(1781)に、この弾誓の苦行の跡を訪ねて木喰行道が渡ってきた。
五穀を断って火食をしないという木食戒の厳しい修行生活を4年間過ごし、民衆済度を願って沢山の木仏(微笑仏)を刻み、光明仏の再来かと、島人に慕われた。

 キリシタン時代
キリシタン迫害が 厳しかった江戸初期には、ジェロニモ・デ・アンデリス神父やジョワン・マウテス。アダミ神父など、殉教史に残る名高い外国人宣教師たちが佐渡へ渡った。
島原の乱があった官営14年(1637)に、信者100人が処刑されたという「キリシタン塚」が、鉱山があった相川の山中に残っている。
島南部の羽茂町には、子供を抱いた白磁製のマリア観音がある。沢山の隠れキリシタンがこの島でも迫害に耐えていた。

熊野信仰
熊野(和歌山県)の山岳信仰が栄えた頃、熊野三山への喜捨を集め、信仰を説いて諸国を歩いた熊野比丘尼と呼ばれる女性たちがいた。
「熊野観心十戒曼荼羅」や「那智参詣曼荼羅」は、彼女たちが佐渡で絵解きをして布教に持ち歩いていたもので、地獄極楽の様子や熊野大社の社景が極彩色で描いてある。

柄杓比丘尼
相川の山奥には「柄杓町ひしゃく」という町が残っているが、柄杓を作る街ではなく、絵解き比丘尼たちがかたまって住んだ町であった。
西鶴が「」熊野の比丘尼が、身の上の一大事の地獄・極楽の絵図を拝ませ、又は息の根の続くほど、はやり歌をうたひ勧進すれども、腰にさしたる一升柄杓に、一盃はもらいかねける」(世間胸算用)と書いたのは、そうした漂泊比丘尼達の姿であった。
いろいろな遊行僧、遊芸人たちが、この島に信仰の根を張った。

※いみが よくわからないが、当時、伊勢・熊野もうでに出る路銀(旅費)を、柄杓を差し出してカンパしてもらっていた。熊野比丘尼も熊野大社への勧進(奉納金)を集める際に、柄杓を差し出して受け取っていた。柄杓町というのは、柄杓で物乞いをする人たちという意味のようだ。

佐渡と民俗信仰
上に記述

上に記述
 432
狛犬 梨ノ木地像
身代地蔵
地蔵菩薩
聖観音
馬頭観音
青面金剛
 433那智参詣曼荼羅
 434
木造阿弥陀如来立像
常学院の懸仏 三途の川と閻魔大王

 435木喰明満 (1717-1810)
佐和田町青野
小杉家と観音堂
観音像
九品堂 木喰文書
木喰明満
(1717~1810)
木喰上人年表
木喰聖人と佐渡
 
 
 
 440阿弥陀三尊像
阿弥陀三尊像
 


 450佐渡と海洋・海洋生物

 ※日本海の潮の満ち引き
 私は瀬戸内側に住んでいます。潮汐の差は2m程(1.8m)です。太平洋でも通常の干満の差は2m程、ただし、有明海では6mもあります。
ところが、島根県松江市に行くと、ほぼこのような干満の差を考慮しない街の設計になっており、京都府伊根の舟屋ではほぼほぼ海水面すれすれに家屋が建築されて何百年も経っています。このことは長年大変不思議に思っていました。
 最近になって日本海の干満の差は0.4~0.5mであることを知りました。日本海では、月の引力による干満が小さいそうです。
この理由は、太平洋と日本海の間には狭い海峡があるだけで、一気に太平洋から海水が流れ込まないためだそうです。
そういえば、港湾施設で、湾の入り口に防波堤を湾と水平に、塞ぐように設置しているのは、激しい海面変動を減少させるためだったようです。


 451佐渡と海洋・海洋生物学
日本海を流れる唯一の暖流である対馬暖流は、黒潮の分流で、黒潮のエネルギー量の1/20、流速も1/4しかない。対馬海峡から流入すると、暖流の勢力の強い年は平行に、弱い年は蛇行して、本州西海岸よりに北上していく。平行型の際は、大佐渡沖合のほか、佐渡海峡へも流れ込む。
そして、落差のため、一方的に津軽海峡より太平洋へ出て、大半は本州三陸岸沿いに南下し、一部は北海島沿岸を北上する。

ところが、日本海を北上してサハリンにまで達した対馬暖流先端は、タターリ(間宮)海峡より極東沿海州沿岸に沿って南下していくが、その時に冷やされてリマン寒流となり、末端は北朝鮮寒流となる。(※つまり対馬海流が日本海の中を反時計回りにまわっている)
また、一部は沿海州より日本海中央へ浸出し、日本海中央寒流と呼ばれるが、佐渡島へは達しない。(※佐渡島周辺は暖流が北上する)

日本海は冬季に表面が冷やされるので、これが対流によって次第に深層へ溜まり、海底まで冷たい日本海固有水で占められてしまった。この固有水は、水温が1℃以下で、塩分は低く(34.1‰以下)、酸素や栄養塩類は豊富である。
一方暖流は深さ250mまでに限られ、高温で塩度も高いが、酸素量や栄養分は少ない。しかし、夏には中国大陸の大河影響で、低塩度となる。

満差は大潮の時でも30cmほどにすぎず、潮間帯は発達しない。冬季は高気圧のため、夏より海水面が低く、春先と夏では36cm も差がある。また、冬季には、北西~北の季節風が卓越し、波浪は高く、この卓越風に対する応力として右廻り45°の方向に吹送流(エクマン輸送)が発達し、漂泳物を沿岸に打ち上げる。

歴史の浅い日本海には、奇怪な形をした一次(真正)深海魚は見られず、カジカ類、ビクニン類、ゲンゲ類など、オホーツク海から移り住んだ二次深海魚(底魚)や、無脊椎動物に種分化が起こり、日本海固有になったものがある。沿岸には、内湾性の魚類や無脊椎動物が生活している。
また、産卵や索餌のために、特定の季節に回遊してくる浮魚(うきうお)が見られ、いずれも重要な食用魚となっている。

真の外洋性魚類のメバチやビンナガといったマグロ類、メカジキとか、哺乳類ではシロナガスクジラ、マッコウクジラ、イワシクジラは、日本海へ入らない。
その一方、熱帯サンゴ礁に住む魚が暖流に乗って長距離輸送されることがあるが、繁殖はしないので、無効分散という。
ハリセンボン、アミモンガラ、サザナミトサカハギ、ナンヨウキンメなどである。人魚伝説の主のリュウグウノツカイやサケガシラ、ウミガメ類やセグロウミヘビなども、死滅回遊の道をたどり、沿岸へ漂着するのである。

佐渡と海洋・海洋生物
 452
対馬暖流の行くえ 日本海の海水構造
 453佐渡島周辺の海洋生物
 

 460漂着生物

 グンバイヒルガオ 漂着生物の典型
グンバイヒルガオ(ヒルガオ科)は亜熱帯から熱帯にかけての海岸に育つもので、日本で花が見られるのは、四国・九州の南部と琉球列島だけである。
葉は厚くツヤがありも葉が相撲の軍配に似ているのでこの名がある。
花は直径5~6㎝、紅色で大変美しく、砂浜で大群生する。昭和57年(1982)に、二見半島の高瀬の猫岩の浜で発見された。汀線から5mの礫海岸。
50㎝の蔓を8本伸ばし、長さ7㎝くらいの葉を100枚付けていたが越冬できず、花を咲かせないまま姿を消した。
その後、再び平成3年(1991)7月8日、相川町達者の新潟大学臨海実験所の海岸で採集された。鉢植え2株、葉2枚のものと、4枚のものが佐渡博物館に運ばれた。
10月中旬には2葉が120葉となった。11月に入り館内に入れ、翌年の5月上旬より館外に出した。9月中旬、花芽18ヶの着生確認された。
開花は9月4日に1花、9月15日に1花、9月19日に1花と館外のグンバイヒルガオは3花をつけた。※これ何の話?

 漂着植物
佐渡の南からは、暖流である黒潮(日本海流)から分離した対馬海流が、日本海側を北に向かって流れています。
佐渡の北からは、リマン海流の氷水塊が日本海側を南に向かって流れています。佐渡は暖・寒両流に洗われる漂着植物の島です。
昭和10年頃、入川海岸にヤシの実が400個ほど漂着しました。また、同じく漂着したグンバイヒルガオの種子は発芽し、100埋もの葉をつけました。

 漂着動物
日本海沿岸では、大しけの後、思わぬ漂着物を拾えることがあります。佐渡は江戸幕府直轄の奉行所が置かれたこともあって、
クジラ類や鰭脚類(ききゃく=アシカ等)、ウミガメ類の漂着記録がよく残されています。
冬、新潟県沿岸に最初に漂着するのはカツオノエボシなどの刺胞動物やサルパ類、次いでアオイガイやタコブネ、更にセグロウミヘビやソデイカと、
11月~翌年2月頃まで続きます。
厳冬期である2月~4月にかけては、サケガシラやウバザメ、アザラシ類が打ち上がり、最後にクジラが寄ってきます。
大形のクジラは集落を潤したため、漁の後は手厚く葬りました。無これがクジラ塚として、佐渡海峡の両岸を中心に残っています。、

グンバイヒルガオ グンバイヒルガオ 漂着生物の典型 グンバイヒルガオ 漂着植物・漂着動物
モダマ モダマは長さ1mもの鞘に入ったエンドウのような形の実をつける。 ゴバンノアシ
南方系常緑中木
サガリバナ科19824年漂着果実
ヤシ(漂着) ヤシ(ココヤシ)
南方系常緑高木
ヤシ科漂着果実
1983年相川町下戸
 


 470朱鷺の文化史

『日本書紀』(巻4)に「桜田鳥田丘上陵(つきたのおかのみささぎ)」という記事がある。
奈良県橿原市辺りにあった陵墓で、この「桜花(つき)鳥」の地名がトキ(朱鷺)をさし、桜の花に似た薄桃色のトキ色を想像させる美しい呼び名である。

『古今和歌集』によく詠われる「稲負鳥(いなおおせどり)」も「稲負」がトキの方言「タウ」とも読めるところからトキを詠んだ歌とする説が強い。

13世紀の『明月記』(藤原定家)や『古今著聞集』(日本最古の仏教説話集)にもトキの記述が出ており、
幕末の紀行家・菅江真澄は秋田で、また『東海道中膝栗毛』の十返舎一九は江戸と越後を結ぶ三國街道で、
それぞれ、トキの話や実際にトキを目撃したことを綴っている。

古来トキは鴇・豆木・豆岐・朱鷺などの漢字が当てられ、全国にそれが地名や苗字となって残っているところが多く、
唐鳥・赤羽・美人鳥・端鶴・紅鷺などと沢山の呼び名で親しまれていた。
佐渡や秋田地方には、トキに関するのどかな民話(昔話)がいくつか残っている。
 471
朱鷺の文化史 朱鷺の文化史 鳥追い唄
トキ文化史年表
 472トキと伊勢神宮
三重県の伊勢神宮では、20年ごとに式年遷宮の儀式がある。
白木の神殿が造り替えられ、神宝や装束も新調されて奉納される。皇室の先祖をまつるやしろである。

天照大神を祀る「内宮」に奉納される須賀利(スガリ)御太刀は、全長が115.1㎝。その柄の部分にトキの尾羽2枚を赤い絹糸で持ってまといつける。
太刀造りにトキの羽根を用いる例は他にはなく、1200年も前から続くしきたりである。

遠く奈良時代の人たちは、「飛び翔(かけ)る。すがるの如き腰細に(「万葉集」巻16)」と詠った。
「腰細の、すがる娘(おとめ)の、その姿の瑞々(キラキラ)しきに、花の如」(万葉集、巻9)とも詠っている。

古い書物には「須賀流」とも書かれていて「すがる」は腰の細い地蜂、又は、鹿の異名で、しなやか、うるわしいなどの意味に使われていた。

佐渡の野生のトキを観察した報告によると、離塒と就塒の時刻が、日の出と日の入りの時刻にほぼ一致する。
そうした集成をこの鳥は持っていて、大阪外語大の金思燁教授によると、古代朝鮮語で「トキ」と言えば「都祈」と表記して日の出を意味したという。鶏がトキを告げる場合の「トキ」もそこからきている。

日の出と言えば太陽だが、伊勢神宮に祀られているアマテラスは、古代から「太陽神」で通っている。トキの習性、太陽の色にも似た羽彩が、そうした大昔の民族説話とどこかで関係するらしく、太刀造りにトキの羽をまとうのは、飛翔の姿や羽根の美しさだけに由来するのではなさそうである。

トキと伊勢神宮 日本でトキが 絶滅したあと、なぜか、皇室がロシアに頭をさげてトキをもらい受けたのは、
皇室行事に必要なトキの羽を入手するためだったのか。

中国からコウノトリを入手したのも同じかもしれない。
 473トキと伊勢神宮
須賀利(スガリ)御太刀
 474
風切羽や尾羽の裏側が美しいトキ色をした親羽は、1月の終り頃になると水浴びをした後、頭頸部の皮膚の下から黒い脂分(色素)が染み出し、
これを体に塗り付け灰色羽になって繁殖期を迎える。世界にはこのようにして色がわりする鳥はほかにいない。
かつて日本の各地に棲んでいたが、乱獲や環境の変化によって数を減らし、昭和46年3月13日、石川県で捕獲し飼育されていた最後の1羽が死亡して、本土から姿を消した。

佐渡でも各地に沢山棲んでいた。主として山あいの水田や渓谷・沢などに棲み、冬になって奥山に雪が積もると、人里まで餌を探しに出てくる。
3月にはマツ、クリなどの大木に巣を作り、3個から4個の卵を産み、約30日後ヒナが誕生する。
餌は動物質でタニシ、ドジョウ、カエル類、昆虫、小型魚類、沢蟹などを好む。

トキの羽根 トキの生態
 
 480佐渡の動物
 481
※解説によると佐渡の動物は、ほぼ本土並みである。
2000万年前大陸のフチが割れて日本海の拡大と共に南下してきた列島と日本海の島々であるが、おそらく長い間隔絶していたと思われます。
にもかかわらず、佐渡固有種がおらず、本土並ということは、2万年前の氷河期の最低海水準の時期に列島側から移っていったものと思われます。
もしかするとその時に佐渡島固有種は絶滅し、列島並となったのではないかと思います。
 同様に分離した沖縄島ですが、ここでは、大陸と同じ固有種の水生生物が生き残っていました。現在はもう絶滅したかもしれませんが。
佐渡の動物 佐渡の動物
 482佐渡へ飛来した珍鳥
コウノトリ カサツラガン マナヅル ヤツガシラ コウライアイサ
ハクガン ミヤマガラス ハイイロガン アオツラカツオドリ ムラサキサギ ヤマショウビン
タンチョウ フラミンゴ ナベツル コクガン
 484佐渡の動物
 484a
マガン ゴイサギ サンカノゴイ ウミネコ
キジバト オオコノハズク ヤマセミ ケアシノスリ ハイタカ
ノスリ
オオワシ ウミネコ
マガン・サンカノゴイ
ヤマセミ
 484b
マガモ マガモ・ヒメウ
オオミズナギドリ
クロサギ・オオタカ
コジュケイ・サドカケス
トラツグミ
キタキジ・ケアシノスリ アカツクシガモ ウトウ・オシドリ
オオミズナギドリ
オオミズナギドリ
トラツグミ・オオタカ
バン・ウミスズメ
ヤツガシラ
サドノウサギ
サドモグラ ホンドタヌキ ホンドイタチ 色変わりのタヌキ
近親交配が起こったか
ホンドテン
 
 
 510佐渡の植物
佐渡は南北の植物の境界線である北緯38度線が中央を通過しているため、寒暖両系の植物がすみ分け、そのコントラストは鮮烈である。
シダ類以上の植物の種類数も1700種と豊かである。
対馬暖流がぶつかる岸には、人々が最初に住み着いたタブの黒森があり、ツバキ、トベラ、ツワブキの花が咲き、南国の椰子の実・モダマの種子が漂着する。
リマン海流がぶつかる海辺にはトビシマカンゾウ・ハマナス・ハマベンケイソウの寒地の花が咲く。島の北端の二ッ亀の海にはトド島、大トド瀬があり、北の海獣トドが漂着する。
暖地植物北限(15種)の島、寒地植物南限(3種)の島であり、岩礁海岸の塩生地のシオマツバ(南限)、日本特産のヤマトグサ(北限)、
ハマナスとノイバラの交雑種の幻の花コハマナスなどは越後に分布せず、佐渡にのみ分布する隔絶種でもある。

大佐渡山地の峰は1000m程度で低いが、海岸に孤立した島のため、山頂効果が強まり、峰々は亜高山景観となる。
ハクサンシャクナゲ、ムラサキヤシオ、サンカヨウ、ゴゼンタチバナなどの高山植物の花が彩る島である。

日本海側の名うての天然杉の島、舟木伐る山をもつ“舟木の島”でもあった。大佐渡山地の舟山(南片辺)、小杉立(関)は天然杉の森。
木杉立には樹高40m、幹周7.3mの杉の巨木がある。
小佐渡山中川茂の太郎杉の切株は幹周14m余(樹齢2000年)屋久島の縄文杉に匹敵する杉の巨木である。
杉池(コナラ林)、乙和池(ミズナラ・ブナ林)・北岳(ブナ林)は美しい自然林。大佐渡の仏峠には全国4位、県内最大のブナの大樹(幹周5.4m)がある。巨木の育つ島、巨木を育てた島である。

佐渡の景観を代表するタタラ峰(通称ドンデン)の広大なシバ草原は、亜高山気候(年平均気温摂氏6℃)という条件と1000年以上にわたる牛の放牧という生物条件によって成立した。「純度と均質度の極めて高い典型的なシバ草原」と生態学者は称賛する。この草原にはハクサンシャクナゲ、レンゲツツジ等の美しい花をつける低木が見られるが、有毒になるがゆえに牛に食べられず純群落となりえた。タタラ峰には放牧と植物たちの関わった長く壮大なドラマがある。

 511
佐渡の植物 佐渡の植物
佐渡の民族
花の自然暦

精霊花
釈迦花 雛の節句の花迎え 深浦のヨメナカセ 漁告花ヨーラメ 山入りを告げる花
 

 
 513佐渡を南・北限とする植物
佐渡を南・北限とする植物 1.北方植物南限の島
(南限3種)
2.暖地植物北限の島
(北限15種)

 1.北方植物南限の島 (南限3種)
エゾノコギリソウ キク科
エゾツルキンバイ バラ科
シオマツバ サクラソウ科

 2.暖地植物北限の島 (北限15種)
クリハラン  ウラボシ科
 ゴンズイ ミツバウツギ科
コモチシダ シシガシラ科
ヒロハノヤブソテツ オシダ科
ヤマトグサ ヤマサグサ科
スダジイ ブナ科
マメズダ ウラボシ科
ツワブキ キク科
ムベ アケビ科
トベラ トベラ科
ヒメウズ キンポウゲ科
ヤマザクラ ヤマザクラ科
シキミ モクレン科
アカガシ ブナ科
ネコノシタ キク科