|
||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||
00花の季節 五月の連休明けの高冷地は、春の花の爛熟期です。2016年の中国山地もそうでした。 野山や街中に花が咲き乱れ、花を愛する人の手で、街の中は、暮らしの中まで花でいっぱいです。 この時期の旅行が大好きです。
|
||||||||||||||||||
01外観
原田遺跡復元住居
堅錐1号墳 復元
|
||||||||||||||||||
10展示室全景 |
||||||||||||||||||
11 |
||||||||||||||||||
20縄文時代 |
||||||||||||||||||
21縄文時代の中川村 長い氷河期が終わり、気候が温暖となり始めると中川村一帯も落葉広葉樹に覆われるようになった。 草創期の土器片が原田遺跡などから出土しており、早い段階から生活の痕跡が認められる。 参考原田遺跡(5.4Mb) 原田遺跡(20.7Mb) 人々が定住し始めたのは前期頃と思われるが、ムラは小規模で短期間のものであった。 縄文文化が隆盛を極めた中期には、一気に人口が増加し、沢山のムラが点在していた。 なかでも溝林遺跡、上の原遺跡、箕輪田遺跡など広場を有する大規模な集落が出現し、縄文文化のピークを迎える。 しかし、中期末の小寒冷期の後、遺跡数が激減し、北原遺跡や下の坊遺跡など僅かな遺跡に人々の生活痕跡が残るだけである。 何が原因で人々が姿を消したのかについては十分に解明されていない。 参考中川村遺跡分布図 縄文人の生活 縄文時代早期に地球全体の急足な温暖化が始まり、東日本一帯に落葉広葉樹の林が広がった。 安定した収量を期待できるドングリ類を利用することで、それまでのシカやイノシシなどを追う移動生活から、定住生活へと大きな変化が起きた。 人々は地面を掘り窪めた住まい(竪穴式住居)にくらし、小さなムラを作って生活していた。 住居の平面は円形か隅丸方形で、4~6本の柱を建て、屋根はカヤなどの植物で葺いていた。
|
||||||||||||||||||
23土器 中期 縄文土器の移り変わり 時代によって形や文様が異なる。装飾が多いのは中期の土器。
|
||||||||||||||||||
土器 前期・後期
|
||||||||||||||||||
26縄文人の生活 <食> 縄文時代前期頃から、人々はドングリやクリなどの木の実を主食とするようになった。 特にクリは集落の周囲に植えていた可能性が高い。 収穫された木の実は磨石や石皿を使って皮をむき、すりつぶして粉にしていた。ドングリやトチが持つ渋味は煮たり、水さらしで除去していた。 近年の研究で、アワ・キビ・ヒエ・ソバ・緑豆・ウリ・ゴボウ・サトイモなど、様々な植物が食用されていることがわかった。 合わせて河川での漁労や山野での狩猟など、縄文人は環境に応じて食料を調達していたことが明らかとなり、豊かな食生活であった。 26縄文土器の形 深鉢 ― 煮炊き用に使用、ドングリのアク抜き、貯蔵など 浅鉢 ― 食べ物の盛りつけ 出土する土器のほとんどは深鉢です。(煮炊き用) このほかに有孔鍔付土器や釣手土器などの特殊な形の土器が見られる。 |
||||||||||||||||||
27 |
||||||||||||||||||
28埋甕 穴があけられた土器 底に穴が開けられた深鉢は「埋甕」と呼ばれ、縄文時代中期以降の遺跡で多く確認されている。 住居祉の出入り口に埋められているものが多いことから、民俗例との対比より出産時の後産を収めて埋め、 その上を踏むことで誕生した子の健やかな成長を願ったと言われている。 また、乳児の死亡率が高かったことから、死んだ子の再生を願って埋めたとも考えられている。 |
||||||||||||||||||
60祭祀具 |
||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||
33刈谷原遺跡の土偶 中期後葉、伊那谷独自の「有脚尻張り立像土偶」 苅谷原遺跡から出土した。 左腕を欠いているが、その他は完全で、ミス・ジョウモンを思わせる逸品である。 翼状に広げられた両手、突き出された逆ハート形の尻などの特徴ある形。 隆線結節状沈線などの文様は、縄文中期(4000~5000年前)における、 勝坂式初期の文様要素との繋がりが多く認められるので、この時期の所産と思われる。高さ26cm顔径6cmである。
隆線結節沈線文て、何だろう。 隆線 (浮き出た線) 結節 (結び目) 沈線文 (木,竹,貝などを引きずった線、又は押捺した線) て何だろう。足や腰に見られる線かなぁ。 勝坂式土器 勝坂式土器編年小林謙一 - 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ |
||||||||||||||||||
62マツリの道具 中期 縄文時代の人々はムラを単位とした共同体で生活をしていた。家を建てる時やドングリの収穫など共同で行う作業が多かったことから、 様々なマツリを通して絆が強く結ばれていった。 約4200年前の中期末に小寒冷期が訪れたことにより、恵みをもたらしてきたドングリやクリの林が壊滅的な打撃を受け、食料資源が枯渇し、 ムラの存続が危うくなった。 この頃からミニチュア土器や土偶、石棒などマツリに関係すると思われる道具の種類や数が増加している。 人々は自然の脅威の前に様々なマツリを行い、ムラの絆を強め難局を乗り切ろうとしたのではないかと考えられている。 |
||||||||||||||||||
64 |
||||||||||||||||||
65 |
||||||||||||||||||
66炭化食材 上の原遺跡 縄文中期 |
||||||||||||||||||
80弥生時代 |
||||||||||||||||||
81稲を作る村 ―弥生時代のくらし― 今から2300~1700年前の弥生時代は、陸耕や水稲を中心とした農業が始まった時代である。 東海地方より天竜川に沿って遡り、伊那の盆地に伝わった弥生文化は、約2100年前、最初に中川村苅谷原・原田や下伊那林里に集落を作った。 初めて鉄器で多くの道具を作り、高床の倉に米を蓄えるほど生産性を上げた弥生人は、鉄器の供給地畿内との関わりを持ち、 新しいムラを広げていった。 中川村遺跡分布図 縄文、弥生時代を通じて、遺跡は天竜川周辺と、天竜川西岸に集中しています。 木曽山脈裾野の段丘地形がなだらかで、農耕が比較的にしやすかったようです。 |
||||||||||||||||||
82弥生前期の土器 水神平式土器 深鉢形土器 この土器は、昭和27年横前苅谷原遺跡より発見された弥生式土器である。 1ヶ所から5点発見されるのは珍しく、弥生時代前期末を代表する水神平式土器である。 資料 水神平遺跡 愛知県豊川市上長山町字西水神平・東水神平にある遺跡。豊川右岸の標高40mの段丘上に立地する。 3か所の集落跡と5か所の甕棺墓が知られている。 引用水神平遺跡(すいじんびらいせき)とは - コトバンク 水神平式土器 東海系土器 主な分布範囲は愛知、長野、静岡、山梨県。 型式内容を3時期に細分している。 壺、甕、鉢、椀などの器形がみられ、土器全面に粗い条痕がつき、壺の口縁や肩には凸帯をつけるのが特徴である。 少量の遠賀川式土器や大洞A'式風の土器が伴存することから、編年的には弥生前期並行期に位置づけられている。 石器のなかには環状石斧、多頭石斧、独鈷石、有柄石剣、石冠など、多様なものが含まれている。 中部地方南半部の、縄文文化から弥生文化移行過程を知るために、きわめて重要な遺跡の一つである。引用水神平遺跡とは - コトバンク 参考資料浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ |
||||||||||||||||||
83弥生後期の土器 |
||||||||||||||||||
84弥生遺跡の発掘 |
||||||||||||||||||
85中村遺跡の中島式土器 座光寺中島遺跡を標準とする土器。 弥生時代後期後半から終末期まで 中島式土器 - 全国遺跡報告総覧 |
||||||||||||||||||
100古墳時代 |
||||||||||||||||||
101天伯古墳 中川村天伯、前沢川が天竜川に合流する標高500m地点にある、横穴式石室を持つ古墳時代後期の円墳である。径19m高さ4メートル周溝を持つ。 ※古墳は既に盗掘されていて、調査後埋め戻された。副葬品の出土は少ない。 |
||||||||||||||||||
102 |
||||||||||||||||||
103天伯古墳 |
||||||||||||||||||
104 ※圭頭とは、大刀は柄頭の形状によって環頭・円頭・圭頭・方頭・頭椎・鶏冠頭、と区別する。圭は三角の玉器を意味する。引用コトバンク |
||||||||||||||||||
105 |
||||||||||||||||||
110六万部古墳 東塚 矢村沢川右岸の緩やかに傾斜した段丘上にある。地元では経塚と呼び墳丘に六万部供養塔が建てられていた。 ※天伯古墳・六万部古墳は、ともに天竜川の屈曲した辺りにあった近接の古墳です。 |
||||||||||||||||||
111 古墳時代の人々の暮らし 水田や畑に近い所にムラを作り、カマドを持った竪穴住居に住んだ古墳時代の人々は、 天竜川・前沢川・小渋川などの度々の洪水で、水田や畑が流される災害に遭ったであろう。 しかし、鉄器の普及で農耕具の性能が上がり、開墾や耕作がしやすくなり、農業の生産性が上がった。 また、古墳時代の人々は、素焼きの土師器のほかに、新しい技法による須恵器も使い始めた。 |
||||||||||||||||||
112 六万部古墳 高さ3m直径13.5mの墳丘をほぼ保っている円墳で、古墳時代後期のものである。 古代社会において、この地方の農耕文化を推し進め、やがて、この地方に東山道堅錐駅が置かれるような基盤を育ててきた、 歴史的価値の高い古墳である。 |
||||||||||||||||||
113副葬品 |
||||||||||||||||||
114馬具等 |
||||||||||||||||||
115 |
||||||||||||||||||
130古代 馬の飼育繁殖と、馬運によって繁栄した |
||||||||||||||||||
98奈良・平安時代の社会 中央集権国家ができ、地方には諸官衙・駅家などができるようになると、高床倉庫も見られる一方、重い税や役人など、人々が課せられた負担は 相当重いものであった。 平安時代になると、奈良時代に制定された公地公民の律令体制は次第に崩れ、土地の私有化と荘園化が進み、農民の生活はますます苦しくなって 行きました。住まいの区域は広がっていったが、家は全般に小さく、生活用具も簡単なものになっていきました。 この時代は文字が普及し、鍛冶の技術も一段と進歩した。また、須恵器も多く使用されるようになりました。 堅錐駅と馬の放牧地「牧ヶ原」 (かたぎり) 奈良・平安時代に入ると、京から出羽国(秋田県)、陸奥国(青森・岩手県)まで東山道が通るようになる。 30里毎に駅が置かれ、駅には乗り継ぎ用の馬が備えられた。 堅錐(中村か田島辺り)の駅には常時10頭の馬が用意されたが、駅制を維持するために多くの馬が必要となった。 そうした馬を産み育てる場所が「牧ヶ原」一帯 (※歴史民俗資料館の周辺 現:中川村片桐) であったと考えられる。 東山道の発達 東山道は、平安京と東北を結ぶ街道でした。東北蝦夷(えみし)の存在は朝廷の北方経営の最大の問題でした。 従って、兵士の移動や物資の運搬が盛んで、交通量も多く、荷駄の運搬や宿泊といった仕事により繁栄したと思われます。 下伊那地方の馬は、これらの仕事に大いに役立ち、馬運を生業とする者も多かったことでしょう。
馬を通して村を支配 片桐の地域が一つのムラとしてまとまるのは今から約1500年前である。ムラを治めた人物(古墳の主)は 大陸から新しく入ってきた馬を所有し、扱うことで、ムラ人を引きつけた。 馬を通して大和政権と関係を保ち、中央の進んだ文化や技術、品々を取り入れた。 ※中川村片桐の古墳(ムラを納めた人物) 中川村堅切1号墳は、歴史民俗資料館に移築保存されている。冒頭に出てきた古墳である。 その他の古墳、辰野町・箕輪町・駒ヶ根市・中川村・宮田村・松川町・豊丘村
|
||||||||||||||||||
140中世 |
||||||||||||||||||
141 |
||||||||||||||||||
150近世 |
||||||||||||||||||
151江戸時代 |
||||||||||||||||||
154 |