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   長野の縄文1 09 2017.05.09-04

   中川村歴史民俗資料館  長野県上伊那郡中川村片桐4725  0265-88-3452火・木開館 9:00-16:00撮影可
                                                       12月-2月冬季閉館

  時代  縄文時代 古代

  見所  土偶

  交通  レンタカー

目次 

00花の季節

01外観
10展示室全景

20縄文時代
21縄文時代の中川村
23土器 中期
26縄文人の生活<食>
28埋甕

29マツリの道具 中期
30土偶
 31土偶・装身具
 33土偶
40石器
 41祭祀具
 42石の道具
50炭化食材
 51上の原遺跡 中期

 
80弥生時代
81稲を作る村

82弥生前期の土器
資料 水神平式土器

83弥生後期の土器
85中村遺跡の中島式土器

90古墳時代
91天伯古墳
91六万部古墳

92天伯遺跡と六万部古墳
 92六万部古墳
 94六万部古墳 副葬品
 95天伯古墳 副葬品
 
98古代
98奈良・平安時代の社会
  東山道の発達
  馬を通してムラを支配
 
 00花の季節
    五月の連休明けの高冷地は、春の花の爛熟期です。2016年の中国山地もそうでした。
    野山や街中に花が咲き乱れ、花を愛する人の手で、街の中は、暮らしの中まで花でいっぱいです。 この時期の旅行が大好きです。

駒ヶ根駅から街を歩くと
南アルプスから流れ下る幾本もの小川の岸に 何代も星霜を重ねた梅の巨木の下に草花が
生き生きと咲いています。
庭先に植えられたサクラソウ。ここまで育つのに何年かかったやら 晩春の厚ぼったい八重桜も重い花を開いています。
これは、ドウダンツツジ
こんな巨木は初めて見ました。
普通は、膝腰程の高さです。何十年もここで育った木ですね。 黄色いつつじ、赤いボタン随分久しぶりです。 自然の少ない生活がもう何年も続いているから。
南アルプスの残雪
河岸段丘と押上断層の近景と、遠景の残雪。
田切地形を登っている時に偶然捉えたこの

写真に写ったのは、見たこともない豪邸。複雑な建築設計。20部屋はある迷路のような屋敷内。
資料館の航空写真、田切・断層・段丘・氾濫原
橋から南行する天竜川はこんなに川幅狭小。
橋の北には広大な氾濫原。漁労・狩猟・採集に適した、変化に富んだ地形です。弥生人には水稲稲作の適地でしょう。
周囲は遺跡の宝庫です
資料館前の藪に咲いていた藤。栽培種の長大な花もいいが、野生もいい 芸:妓の簪を思い出す。
幼少の記憶、藤蜜の味と、香りのかぐわしさ。
 
 01外観
中川村歴史民俗資料館 有名な土偶がアッピールされています 天竜川の漁舟
(りゅうせん)
遡上してくる魚や、雑魚(ざこ)が漁の対象

  原田遺跡復元住居

復元住居もありました
原田遺跡復元住居
弥生時代中期
約2000年前
この復元住居は、昭和56年に、中川村横前の原田遺跡より発見された、
弥生中期初頭(約2千年前)の住居址を復元したものである。

住居規模は長径2.95m短径2.82m深さ60-70cm。柱4本と壁外に母屋柱を巡らし、
床面に地焼炉を配した隅丸方形の竪穴式住居である。

この住居に柱を建て梁を掛け桁を渡し、周囲の母屋柱につなぎを架し、二具(2本)の叉首をかけ
垂木(棰)を置き木舞をかいて小屋組みとした。母屋は茅葺による原始入母屋造りである。

  堅錐1号墳 復元
堅錐1号墳/円墳
横穴式石室/五世紀末
かたぎり1号墳は昭和61年に発見された古墳である。
この古墳は、かなり早い時代に墳丘部が取り去られ、周溝と主体部の凹地を認めることができた。
古墳の規模は、南北18m周溝の幅3m深さ1.2m-1.4mの円墳である。

平成2年の移築復元により、横穴式石室の規模は、長さ3.6m幅90cm高さ90cmとした。
築造年代は5世紀末と推定。



 10展示室全景
  11



 20縄文時代


  21縄文時代の中川村
     長い氷河期が終わり、気候が温暖となり始めると中川村一帯も落葉広葉樹に覆われるようになった。
     草創期の土器片が原田遺跡などから出土しており、早い段階から生活の痕跡が認められる。  参考原田遺跡(5.4Mb) 原田遺跡(20.7Mb)

     人々が定住し始めたのは前期頃と思われるが、ムラは小規模で短期間のものであった。
     縄文文化が隆盛を極めた中期には、一気に人口が増加し、沢山のムラが点在していた。

     なかでも溝林遺跡上の原遺跡箕輪田遺跡など広場を有する大規模な集落が出現し、縄文文化のピークを迎える。

     しかし、中期末の小寒冷期の後、遺跡数が激減し、北原遺跡や下の坊遺跡など僅かな遺跡に人々の生活痕跡が残るだけである。
     何が原因で人々が姿を消したのかについては十分に解明されていない。    参考中川村遺跡分布図

縄文時代の中川村 縄文時代の食べ物 ユリ根
クリ
ドングリ
クルミ

ヤマメ
シカ
縄文の年代区分     紀元前
草創期 13,000-9,500
早期 9,500-5,000
前期 5,000-3,500
中期 3,500-2,500
後期 2,500-1,500
晩期 1,300-500
弥生早期 500-
    年前
草創期 15,000-11,500
早期 11,500-7,000
前期 7,000-5,500
中期 5,500-4,500
後期 4,500-3,500
晩期 3,300-2,500
弥生早・後期 2,500-

  縄文人の生活
    縄文時代早期に地球全体の急足な温暖化が始まり、東日本一帯に落葉広葉樹の林が広がった。
    安定した収量を期待できるドングリ類を利用することで、それまでのシカやイノシシなどを追う移動生活から、定住生活へと大きな変化が起きた。

    人々は地面を掘り窪めた住まい(竪穴式住居)にくらし、小さなムラを作って生活していた。
    住居の平面は円形か隅丸方形で、4~6本の柱を建て、屋根はカヤなどの植物で葺いていた。

縄文の住居
塩尻市平出遺跡
縄文人の生活
想像図
立石
広場の中心に立つ
平出遺跡/塩尻市



  23土器 中期
     縄文土器の移り変わり 時代によって形や文様が異なる。装飾が多いのは中期の土器。

・深鉢/上ノ原遺跡11号住/中期
・深鉢/溝林遺跡1号住/中期  

・鉢形土器/溝林遺跡18号住/中期
・深鉢/谷田遺跡/捨場/中期   
・鉢形土器/溝林遺跡1号住/中期
・深鉢/上の原遺跡4号住/中期  

・深鉢/上の原遺跡4号住/中期
・深鉢/村内出土/中期     


  土器 前期・後期


・深鉢/中村遺跡11号住/前期終末

・深鉢/北原遺跡/後期初頭

・深鉢/北原遺跡/後期初頭


  26縄文人の生活 <食>

    縄文時代前期頃から、人々はドングリやクリなどの木の実を主食とするようになった。 特にクリは集落の周囲に植えていた可能性が高い。
    収穫された木の実は磨石や石皿を使って皮をむき、すりつぶして粉にしていた。ドングリやトチが持つ渋味は煮たり、水さらしで除去していた。

    近年の研究で、アワ・キビ・ヒエ・ソバ・緑豆・ウリ・ゴボウ・サトイモなど、様々な植物が食用されていることがわかった。
    合わせて河川での漁労や山野での狩猟など、縄文人は環境に応じて食料を調達していたことが明らかとなり、豊かな食生活であった。

  26縄文土器の形
    深鉢 ― 煮炊き用に使用、ドングリのアク抜き、貯蔵など
    浅鉢 ― 食べ物の盛りつけ

    出土する土器のほとんどは深鉢です。(煮炊き用) このほかに有孔鍔付土器や釣手土器などの特殊な形の土器が見られる。 
  27
縄文人の生活
深鉢-内側にお焦げが残る
上の原遺跡6号住/中期
縄文土器の形
深鉢/中村遺跡19号住/
中期

浅鉢-溝林遺跡3号住/中期
浅鉢-溝林遺跡3号住/中期
深鉢/溝林遺跡21号住居/中期

深鉢/富士塚出土深鉢/
中期後葉


  28埋甕

    穴があけられた土器
      底に穴が開けられた深鉢は「埋甕」と呼ばれ、縄文時代中期以降の遺跡で多く確認されている。

      住居祉の出入り口に埋められているものが多いことから、民俗例との対比より出産時の後産を収めて埋め、
      その上を踏むことで誕生した子の健やかな成長を願ったと言われている。

      また、乳児の死亡率が高かったことから、死んだ子の再生を願って埋めたとも考えられている。

穴が開けられた土器
埋甕
箕輪田遺跡3号住
中村遺跡28号住/中期

深鉢/溝林遺跡5号住
中期

深鉢/
谷田遺跡1号土坑
後期

深鉢/
上の原遺跡6号住 
上の原遺跡10号住
中期

埋甕出土状況

深鉢/上の原5号住
溝林3号住/中期

深鉢/横前/中期後葉
 




 60祭祀具

  61土偶

    中川村の土偶で古いものは箕輪田遺跡から出土した縄文時代中期中葉カッパ形と呼ばれる土偶である。

    中期後葉には伊那谷独自の「有脚尻張り立像土偶」と呼ばれる土偶の出土量が激増するが、
    後期になると土偶が減少し、太子原遺跡出土の1点が知られるだけである。

    土偶の多くは壊れた状態で出土していることから、土偶を壊すことにより「マツリ」が行われたと考えられている。
カッパ形土偶
引用箕輪田遺跡
土偶と装身具
箕輪田・中村・沖田
・太子原の各遺跡
土偶

箕輪田/中期後葉
中村/中期後葉 

土偶破片
沖田遺跡・太子原遺跡
  装身具

土製耳飾り
針ヶ平遺跡

・玦状耳飾(滑石)/早期
・有孔珠/前期/苅谷原遺跡
 



  33刈谷原遺跡の土偶  中期後葉、伊那谷独自の「有脚尻張り立像土偶

        苅谷原遺跡から出土した。 左腕を欠いているが、その他は完全で、ミス・ジョウモンを思わせる逸品である。
        翼状に広げられた両手、突き出された逆ハート形の尻などの特徴ある形。

        隆線結節状沈線などの文様は、縄文中期(4000~5000年前)における、
        勝坂式初期の文様要素との繋がりが多く認められるので、この時期の所産と思われる。高さ26cm顔径6cmである。

土偶/苅谷原遺跡/中期

隆線結節沈線文?

隆線結節沈線文?

 隆線結節沈線文て、何だろう。
  隆線 (浮き出た線) 結節 (結び目) 沈線文 (木,竹,貝などを引きずった線、又は押捺した線) て何だろう。足や腰に見られる線かなぁ。

  勝坂式土器  勝坂式土器編年小林謙一 - 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ
 


  62マツリの道具 中期

    縄文時代の人々はムラを単位とした共同体で生活をしていた。家を建てる時やドングリの収穫など共同で行う作業が多かったことから、
    様々なマツリを通して絆が強く結ばれていった。

    約4200年前の中期末に小寒冷期が訪れたことにより、恵みをもたらしてきたドングリやクリの林が壊滅的な打撃を受け、食料資源が枯渇し、
    ムラの存続が危うくなった。

    この頃からミニチュア土器や土偶、石棒などマツリに関係すると思われる道具の種類や数が増加している。
    人々は自然の脅威の前に様々なマツリを行い、ムラの絆を強め難局を乗り切ろうとしたのではないかと考えられている。

マツリの道具
祭祀具
祭祀具

・有孔鍔付土器/溝林遺跡14号住居/中期
     酒造甕ともいう
・器台/上の原遺跡1号住/中期
・釣手土器/横山堤出土/中期後葉
     何かの儀式に用いられた照明器具
ミニチュア土器

ミニチュア土器
・上ノ原遺跡
・中村遺跡
・溝林遺跡
・中川村出土


  独鈷石・石剣・石棒

    独鈷石  縄文後期・晩期
      形態が仏具の独鈷に似ていることから、独鈷石と呼ぶ。両頭が刃になっていることから両頭石斧とも言う

独鈷石・石剣
石棒 石剣

横前宮北遺跡/縄文時代
小和田遺跡/後期~晩期
独鈷石
縄文後期・晩期
独鈷石
小和田遺跡
後期~晩期
  64

石鏃・石匙・石錘

黒曜石/和田峠産

・石匙 (横型西日本系)
・小型磨製石斧/苅谷原
・磨製石斧

石錘/刺し網の錘
  65

・大型石器(土掘具)/縄文中期/
上の原遺跡/溝状遺構
  上の原遺跡/2号住居址 

打製石斧(土堀具)

・大型打製石斧
(分銅型)(土堀具)
縄文後期/
 中川村各地

・打製石斧(ヘラ型)(土掘り具)
縄文後期/2000年前
中川村各地

・刀型石器/縄文時代/出土地不明

  弥生時代の土器・石器
・石製紡錘車/弥生時代/
    中組住宅上
・土板/弥生中期初頭/
    原田遺跡
・動物型土製品/苅谷原
  猪か犬を模った。
  用途不明
土面/苅谷原遺跡 
・環状石斧 (武器)/
  弥生時代 (約1700年前)
  中川村各地出土

  66炭化食材

 上の原遺跡 縄文中期
越冬食
 縄文人たちは、越冬食料として、栗・どんぐり・トチの実などを住居の中、
 または別の竪穴へ貯蔵した。

 これは上の原遺跡第1号竪穴より栗の実が炭化して出土したものである。
炭化物/西ヶ原遺跡
炭化物4500±200年
栗/溝状遺構から
栗/床面
栗/上床面 
栗/床面
 









 80弥生時代





  81稲を作る村 ―弥生時代のくらし―

   今から2300~1700年前の弥生時代は、陸耕や水稲を中心とした農業が始まった時代である。
   東海地方より天竜川に沿って遡り、伊那の盆地に伝わった弥生文化は、約2100年前、最初に中川村苅谷原・原田や下伊那林里に集落を作った。

   初めて鉄器で多くの道具を作り、高床の倉に米を蓄えるほど生産性を上げた弥生人は、鉄器の供給地畿内との関わりを持ち、
   新しいムラを広げていった。

  中川村遺跡分布図
   縄文、弥生時代を通じて、遺跡は天竜川周辺と、天竜川西岸に集中しています。
   木曽山脈裾野の段丘地形がなだらかで、農耕が比較的にしやすかったようです。

中川村遺跡分布図 弥生時代想像図 稲を作る村 弥生時代の年表 弥生時代の遺跡分布


  82弥生前期の土器

    水神平式土器
     深鉢形土器
       この土器は、昭和27年横前苅谷原遺跡より発見された弥生式土器である。
       1ヶ所から5点発見されるのは珍しく、弥生時代前期末を代表する水神平式土器である。

甕形土器/苅谷原遺跡
弥生前期

甕形土器

甕形土器
深鉢形土器 土器棺墓1 土器棺墓2

 資料
  水神平遺跡
   愛知県豊川市上長山町字西水神平・東水神平にある遺跡。豊川右岸の標高40mの段丘上に立地する。
    3か所の集落跡と5か所の甕棺墓が知られている。 引用水神平遺跡(すいじんびらいせき)とは - コトバンク

  水神平式土器  東海系土器
   主な分布範囲は愛知、長野、静岡、山梨県。 型式内容を3時期に細分している。
   壺、甕、鉢、椀などの器形がみられ、土器全面に粗い条痕がつき、壺の口縁や肩には凸帯をつけるのが特徴である。

   少量の遠賀川式土器や大洞A'式風の土器が伴存することから、編年的には弥生前期並行期に位置づけられている。

   石器のなかには環状石斧、多頭石斧、独鈷石、有柄石剣、石冠など、多様なものが含まれている。
   中部地方南半部の、縄文文化から弥生文化移行過程を知るために、きわめて重要な遺跡の一つである。引用水神平遺跡とは - コトバンク

 参考資料浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ



  83弥生後期の土器

甕型土器/
西ヶ原遺跡
台付土器
出土地:中学
・壺形土器・甕型土器茶堂遺跡1号住
・甕型土器/北原遺跡
甕型土器/中村遺跡 甕型土器/
針ヶ平遺跡
中学№16
  84弥生遺跡の発掘

苅谷原遺跡

1号住居址 埋甕炉

西ヶ原遺跡1号住址
弥生後期


  85中村遺跡中島式土器
    座光寺中島遺跡を標準とする土器。 弥生時代後期後半から終末期まで   中島式土器 - 全国遺跡報告総覧


壺/中村遺跡22号住/弥生後期/中島式土器
底が抜かれ炉に転用されていた

・壺/中村遺跡18号住/弥生後期/中島式土器
・小型壺/東海系/中村遺跡1号住//弥生末







 100古墳時代

 

 101天伯古墳
   中川村天伯、前沢川が天竜川に合流する標高500m地点にある、横穴式石室を持つ古墳時代後期の円墳である。径19m高さ4メートル周溝を持つ。
     ※古墳は既に盗掘されていて、調査後埋め戻された。副葬品の出土は少ない。
  102
古墳時代 天伯古墳
天伯古墳
古墳床上亀張
  103天伯古墳
天伯古墳平面図 古墳石室内構造図
古墳時代の遺跡分布図 天伯古墳の須恵器
提瓶・短頸坩


  104
   圭頭とは、大刀は柄頭の形状によって環頭円頭圭頭方頭頭椎鶏冠頭、と区別する。圭は三角の玉器を意味する。引用コトバンク


碗 坏 歯牙※

管玉・銀環・金環・ガラス玉

金具・圭頭※・刀子 鉄族

 ※沢山の人の歯の副葬は何でしょう。縄文人のように、抜歯して副葬したのでしょうか。

   被葬人骨が溶けているのに歯牙のみ残るのは、よほど炭酸カルシウム豊富な元気な若者の歯か、特別な方法で保存された歯なのでしょうか。
   ただ、以前、どこかの埋葬施設から、人の歯が沢山見つかったことがあったのを覚えています。埋葬儀礼だったのでしょうか。

  105

提瓶・甕
蓋・小型壺・ハソウ・
提瓶

砥石・坏



 110六万部古墳 東塚
   矢村沢川右岸の緩やかに傾斜した段丘上にある。地元では経塚と呼び墳丘に六万部供養塔が建てられていた。

    ※天伯古墳・六万部古墳は、ともに天竜川の屈曲した辺りにあった近接の古墳です。

  111
  古墳時代の人々の暮らし
   水田や畑に近い所にムラを作り、カマドを持った竪穴住居に住んだ古墳時代の人々は、
   天竜川・前沢川・小渋川などの度々の洪水で、水田や畑が流される災害に遭ったであろう。

    しかし、鉄器の普及で農耕具の性能が上がり、開墾や耕作がしやすくなり、農業の生産性が上がった。
    また、古墳時代の人々は、素焼きの土師器のほかに、新しい技法による須恵器も使い始めた。

六万部古墳 東塚 六万部古墳 石室 古墳造営想像図 古墳時代の人々の暮らし
古墳時代年表

  112   六万部古墳
   高さ3m直径13.5mの墳丘をほぼ保っている円墳で、古墳時代後期のものである。
   古代社会において、この地方の農耕文化を推し進め、やがて、この地方に東山道堅錐駅が置かれるような基盤を育ててきた、
   歴史的価値の高い古墳である。

六万部古墳 六万部東塚遺物出土状況 六万部古墳の須恵器
高坏・ハソウ
短頸瓶・坏身・坏蓋

壺(土師器)・平瓶
蓋付坏・坏
  113副葬品
六万部古墳
石棺の台石が
石室内には棺を置いた台石が二対あることから、最低2回の埋葬(1回の追葬)が考えられる。

金銅装円頭形柄頭大刀、直刀、鉄鏃、ガラス玉、馬具、土器類などが副葬品として納められた。
金銅装円頭大刀
こんどうごしらえ
えんとうのたち
柄頭の先頭に丸みを帯びた金具が取り付けられているもので、金銅装になっている。
  114馬具
六万部古墳の鉄製馬具
刀子 鉄族

馬具 鉸具 留金具

馬具・鉸具・留金具

 鉄片・玉類・鋲

銅環・歯牙
  115

蓋・蓋付杯(蓋付坏?)

直刀
杯(土師器)
   
 






 130古代      馬の飼育繁殖と、馬運によって繁栄した




 98奈良・平安時代の社会
   中央集権国家ができ、地方には諸官衙駅家などができるようになると、高床倉庫も見られる一方、重い税や役人など、人々が課せられた負担は
   相当重いものであった。

   平安時代になると、奈良時代に制定された公地公民の律令体制は次第に崩れ、土地の私有化と荘園化が進み、農民の生活はますます苦しくなって
   行きました。住まいの区域は広がっていったが、家は全般に小さく、生活用具も簡単なものになっていきました。

   この時代は文字が普及し、鍛冶の技術も一段と進歩した。また、須恵器も多く使用されるようになりました。


  堅錐駅と馬の放牧地「牧ヶ原」
  (かたぎり)
   奈良・平安時代に入ると、京から出羽国(秋田県)、陸奥国(青森・岩手県)まで東山道が通るようになる。
   30里毎に駅が置かれ、駅には乗り継ぎ用の馬が備えられた。

   堅錐(中村か田島辺り)の駅には常時10頭の馬が用意されたが、駅制を維持するために多くの馬が必要となった。
   そうした馬を産み育てる場所が「牧ヶ原」一帯 (※歴史民俗資料館の周辺 現:中川村片桐) であったと考えられる。

奈良・平安年表 奈良・平安時代の社会 堅錐駅と馬の放牧地
「牧ヶ原」


  東山道の発達
   東山道は、平安京と東北を結ぶ街道でした。東北蝦夷(えみし)の存在は朝廷の北方経営の最大の問題でした。
   従って、兵士の移動や物資の運搬が盛んで、交通量も多く、荷駄の運搬や宿泊といった仕事により繁栄したと思われます。

   下伊那地方の馬は、これらの仕事に大いに役立ち、馬運を生業とする者も多かったことでしょう。
全国に張り巡らされた道路網 伊那谷の道路網 五畿七道
引用五畿七道



  馬を通して村を支配
   片桐の地域が一つのムラとしてまとまるのは今から約1500年前である。ムラを治めた人物(古墳の主)
   大陸から新しく入ってきた馬を所有し、扱うことで、ムラ人を引きつけた。

   馬を通して大和政権と関係を保ち、中央の進んだ文化や技術、品々を取り入れた。

   ※中川村片桐の古墳(ムラを納めた人物)
     中川村堅切1号墳は、歴史民俗資料館に移築保存されている。冒頭に出てきた古墳である。

     その他の古墳、辰野町・箕輪町・駒ヶ根市・中川村・宮田村・松川町・豊丘村

馬を通して村を支配

長頸瓶 坏

土師器/平安時代
箕輪田遺跡1号住

箱膳と食器
※食槽から手づかみで食べていた食事から、個人用の焼き物の食器を使う文化が、畿内から持ち込まれました。



 


 140中世
  141
天目茶碗等 砥石、皿等
銭甕
四耳壺


 150近世
  151江戸時代
江戸の灯り
村絵図、柄鏡、馬鞍
獣医の道具、加護

獣医の道具

旅の道具
  154
灌漑用水路
木樋による水路作りは
理兵衛堤防
江戸城下町に張り巡らされた水路が有名ですね
灌漑用水路
船大工の防水技術が可能にした水路ですね