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01外観 |
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02岐阜地域展の遺跡地図 |
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03年表 |
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10六里遺跡 (ろくり) 岐阜市大野町六里・小衣斐 縄文時代晩期 約3,000〜2,300年前 遺跡の概要 揖斐川と根尾川に挟まれた平地に立地し、遺跡の隣には大野町史跡「条理跡」が所在します。 発掘調査は平成26年度に実施し、縄文時代から近世にかけての遺構を検出しました。 調査員の見方 縄文晩期の土器棺 大きい土器が小さい土器に深くかぶる形で見つかりました。また、土器の中からは、石皿状の石製品がともに見つかりました。 このほかにも同様に2つの土器を合わせて埋められた遺構が8カ所見つかっており、他地域の類例を参考にすると、死者の棺として使われた 可能性があります。 |
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20東野遺跡 (ひがしの) 岐阜県坂祝町黒岩・大針 弥生時代後期 約2,000年前 遺跡の概要 東野遺跡が立地する加茂野台地は木曽川によってつくられた河岸段丘で、多くの遺跡が確認されています。 平成24・25年度の調査では、遺跡中央部から南部で、縄文時代から中世の集落跡と、弥生時代から古墳時代初頭などの墓域を確認しました。 調査員の見方 石鏃制作工房 竪穴建物内の南東の隅に近い床の上や埋土から、板状の石や磨製石鏃の未製品、更に石鏃製作の工具がまとまって見つかりました。 これらの出土から磨製石鏃が出来上がるまでの工程がわかると共に、この建物が石鏃製作の工房だったと考えられます。 |
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30蓮野1号墳/杉洞1号墳 岐阜市富加町夕田 弥生時代終末期〜古墳時代初頭 約1,800〜1,750年前 遺跡の概要 蓮野1号墳・杉洞1号墳は濃尾平野の北東端の富加町夕田地区に所在します。以前よりこの地には2基の他に、3世紀中頃の前方後円墳である。 夕田茶臼山古墳が知られており、平成28・29年度に蓮野1号墳/杉洞1号墳の確認調査を行いました。 発掘調査の様子 蓮野1号墳出土の器台は、 2点とも墳丘部の突出部の基礎となる底部でそろって見つかりました。周囲の土からは炭化物が出土し、周囲が熱を受けて 硬化し赤くなっていました。これらの器台は、墳丘を築造する途中火を伴う儀式が行われた時、意図的に埋められたものなのかもしれません。 杉洞1号墳の突出部からは、 一度盛り土をしたあと穴を掘り、高坏を納め、再び埋め戻した跡が見つかりました。 築造に当って地鎮行為あるいは境界を示す何らかの行為をしたと考えられています。 調査員の見方 器台 どちらの墓も丘陵上に主体となる墳丘部分、傾斜面に突出部を造り、盛ることによって墳丘部分の基底に高さを合わせていることや、 築造過程の中で土器を埋めているなど、共通する部分が見られました。 出土した土器から、蓮野1号墳は2世紀後半、杉洞1号墳は3世紀初頭と推定でき、更に近くの夕田茶臼山古墳は3世紀頃と推定されることから 弥生時代後半から古墳時代初頭にかけて造られた、この地域の首長墓群の可能性が高まりました。 |
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40坊の塚古墳 各務原市鵜沼羽場町 古墳時代中期 4世紀末 坊の塚古墳wiki 坊の塚古墳発掘調査 坊の塚古墳 坊の塚古墳の設計 前方後円墳「坊の塚古墳」 坊の塚古墳 坊の塚古墳 遺跡の概要 4世紀末頃、各務原(かがみがはら)台地東部の段丘上に造られた、全長120mの、各務原市最大の前方後円墳です。 平成27年度から5年計画で古墳の保存と活用を目的とした発掘調査が行われています。 くわしくみてみよう 石槨 (竪穴式石室) は、過去に盗掘を受けており、墳頂部にはその時の大きな穴が開いています。平成27年度の調査では盗掘の際に 運び出された石室の蓋石が見つかりました。平成29年度の調査では盗掘の跡から調査し、石槨の規模や向きなどを確認しました。 調査員の見方 盗掘の穴の形状を見ると、公園部の北側から穴を掘り進め、石槨の北壁を破壊したことがわかりました。 石室の壁材となる板石はほとんど引き抜かれ、残った板石は盗掘坑に散乱していました。元の位置にあった石材は少ないことから、 バランスを崩した蓋石が崩落し、残った壁の板石も崩れていったようです。このことからも大規模な盗掘が行われたことが想像されます。 |
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42副葬品 |
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50洞第2古墳群 岐阜市洞 古墳時代中期〜後期 5世紀〜7世紀 現地見学会資料 洞第2古墳群出土の金属製品 洞第2古墳群 遺跡の概要 岐阜市北西部の御望山南斜面に立地します。濃尾平野の縁辺に当る産地の斜面には6世紀から7世紀にかけての多数の古墳群が立地しており、 当古墳もこうした群集墳の一つと考えられます。 洞北山4号墳の 床には大小様々な礫が敷き詰められていました。遺物の出土状況から、埋葬が複数回行われたようです。 調査で確認した古墳は全て横穴式石室であった中、唯一5号墳のみ木棺直葬と呼ばれる埋葬主体部の形態でした。 他の古墳より古い時期に造られたと言えます。 調査員の見方 古墳副葬品 調査の結果、はじめに穏やかな場所に古墳が造られ、その後、斜面上方の急な場所に向かって古墳が築かれていったようです。 更に終末期には古墳の周囲に小規模な石室を築いていることがわかりました。 古墳が衰退していく過程が、中央と大きな時間差がないことから、洞第2古墳群の被葬者は中央と繋がりを持った人物で、 のちの壬申の乱において活躍した美濃地方の豪族の一員であった可能性も考えられます。 |
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60史跡 美濃国分寺遺跡 大垣市青野町 古代 8世紀〜12世紀 美濃国分寺wiki 美濃国分寺跡歴史公園 美濃国分寺跡・歴史民俗資料館 美濃国分寺跡 美濃国分寺跡 美濃国分寺 美濃国分寺 遺跡の概要 大垣市青墓(あおはか)地区の中央、現在の国分寺の南部一帯にあります。この地は古代から交通の要所であり、律令時代の三関の一つである 不破関が近くにありました。過去の調査で、金堂跡・回廊跡などが発見され、大官大寺式の伽藍配置であるとされています。 発掘調査 土馬は、疫病等を鎮める祭りや雨乞いの祭に使われたと言われています。土坑から2つの破片が出土しましたが、同一の個体とわかりました。 胴部には粘土をつまみあげて鞍が表現され、線刻により手綱も表現されています。 多くの土馬は一部が欠損して見つかりますが、この土馬も頭部、左前脚、左後脚が欠損しています。 調査員の見方 土馬・磚 お尻の部分に開いている穴は、土馬を製作した時の工程を表す跡を示しています。 土馬は、心棒に粘土を巻き付けて胴部を造り、最後に心棒を抜きます。その抜き取った穴がそのまま残りました。 |
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70鵜沼古市場遺跡 各務原市鵜沼南町 奈良時代〜平安時代 8〜12世紀 鵜沼古市場遺跡(A・B地区) (PDFファイル 3.1MB) 鵜沼古市場の発掘調査を終えて 鵜沼古市場遺跡 遺跡の概要 木曽川が各務原台地を浸食し形成された低位段丘面にあり、鵜沼南町一帯に広がっています。 平成26年度から調査が始まり、縄文時代から近世まで、幅広い時代の遺構遺物が出土しています。 調査員の見方 鵜沼古市場遺跡からほどなく西に離れた真名越遺跡からも同様の鉄製紡錘車が見つかりました。 鉄製紡錘車の使用は、平安時代の麻布の献納国との関係を指摘する研究もあることから、遺跡の所在する鵜沼地域が税として納める 上質な布の生産地だったのかもしれません。 |
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72 製塩土器 調査区の北東部からは、奈良・平安時代の須恵器や竪穴建物などがまとまって見つかりました。 この中には、寺院や役所跡などから見つかることの多い、金属器を模した鉄鉢や、畿内系土師器も見つかっているほか、 「郡」と墨書された須恵器も見つかりました。 また、海辺から木曽川を遡ってもたらされたと考えられる製塩土器も多く確認されています。 |
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80日焼遺跡 高山市上切町日焼 中世 遺跡の概要 上切寺尾古墳群は鷹山盆地北西端に位置し、高山市域の群集墳の中では基数が最多であることが知られています。 写真は6号墳の上で検出した礎石建物です。古墳の墳丘と背後の斜面を平に整地し、周囲より高くした建物の基壇と、基壇上で建物の柱を支えていた 礎石及び柱穴や石列が確認できます。 調査員の見方 八稜鏡 上切寺尾6号墳の上で検出した礎石建物からは、仏具とされる多口土瓶が出土しており、寺院跡だったと想定されます。 本尊を安置する須弥壇の下に当る位置の土坑から、鏡が表面を上にして出土しました。 鏡は魔除けのために用いられることがありますが、置かれた場所や状況から、この鏡も本尊を守る役割があったと考えられます。 |
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90北方京水遺跡 大垣市北方町 中世 平安時代末期〜鎌倉時代 12世紀後半〜13世紀 北方京水遺跡 北方京水遺跡 北方京水遺跡発掘調査報告 北方京水遺跡現地説明会資料 遺跡の概要 杭瀬川と揖斐川に挟まれた微高地上に、奈良時代から鎌倉時代の遺跡が点在しています。 12世紀後半〜13世紀を中心とした集落遺跡と考えられる遺構や、山茶碗等の遺物が多数出土しており、平成25年度の調査では 中世の集落跡と水田跡、水制遺溝が確認されました。 水田遺構 (灌漑工事の遺構) 水田遺構からは、東西方向の鋤の溝と、それらに伴うように人の足跡が確認されました。更に、近くに牛の足跡も見つかったことから、 例えば鋤を引かせるなど、農作業に牛を利用していた跡と考えられます。 |
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92水田に残された足跡 |
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100興福地遺跡 大垣市興福地町 中世 平安末期〜鎌倉初頭 12世紀末期〜13世紀初頭 興福地遺跡陶器 興福地遺跡発掘調査報告 遺跡の概要 北方京水遺跡からほど近く、付近には奈良時代から鎌倉時代の遺跡が点在しています。 過去の調査で奈良時代と平安時代末から鎌倉時代初頭の掘立柱建物や、須恵器・灰釉陶器・山茶碗等の遺物が出土しました。 平成25年度の調査でもほぼ同時期の遺構や遺物が出土しました。 発掘調査 東地区からは、掘立柱建物2棟の傍から井戸3基を発見し、居住域の一部を確認しました。 井戸のうち1基から、完形の山茶碗32点と、下駄や笊(ざる)、扇子の骨などの木製品が出土しました。 井戸を破棄する際の儀式である埋め井の祭に使用した道具をまとめて埋めたものと考えられます。 調査員の見方 遺跡内を流れていたと思われる河川から、2基の堰を確認しました。 いずれも土と植物を交互に積み重ねて盛り土していく「敷葉工法」という、古代の土木技術からなっていました。 この堰のほぼ底から、祭祀で用いる斎串が出土しました。堰を築き始めるときに使われていた儀式で用いたのでしよう。 |
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103山茶碗 調査員の見方 この井戸から見つかった山茶碗の中には、故意に縁を打ち欠いた小形片口壺がありました。 小形片口壺は一般集落からはあまり出土することがありません。 井戸を使用しているときは、井戸の底にあり、井戸の「まなこ」と呼ばれる神の住まいとしていたのでしょう。 |
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110岐阜城跡 岐阜市千畳敷を含む金華山一帯 中世 戦国時代 16世紀 岐阜城発掘報告 岐阜城発掘報告 岐阜城千畳敷遺跡 岐阜城跡 織田信長公居館発掘調査 遺跡の概要 金華山に築かれた山城で、織田信長の在城時代にポルトガル宣教師ルイス・フロイスが記録に残したことでも知られています。 これまでに巨石列を配置した通路や土塁、山麓部の複数の庭園を含む居館の姿が明らかになり、訪れた人を魅了する演出を施していたことが わかりました。 |
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111千畳敷 岐阜市千畳敷を含む金華山一帯 千畳敷は、岐阜城の麓、現:岐阜公園に位置し、僅かに起伏のある平坦地で、信長の居館が置かれ、庭園が広がっていた。 以下の記述は、その千畳敷庭園の発掘に伴う調査資料である。
千畳敷遺跡 (信長居館) の庭園遺跡
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113千畳敷遺跡 (信長居館) の庭園遺跡
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120牟田洞・大萱古窯跡 可児市 (かにし) 久々利(くくり) 中世〜近世 戦国〜江戸時代前期 16〜17世紀 牟田洞・窯下古窯現地説明 大萱 牟田洞 牟田洞古窯 大萱窯跡群 大萱古窯群 大萱古窯群現地説明 大萱古窯跡 美濃焼の古里 大萱古窯跡における探査と発掘の連携 美濃桃山陶の聖地・可児市 窯下古窯発掘調査 美濃桃山陶の聖地 六古窯 遺跡の概要 大萱古窯跡群は大萱地区の南側山ろくに築窯されています。安土桃山時代〜江戸時代の初頭にかけて 主に志野 (牟田洞古窯跡)、黄瀬戸 (窯下古窯跡)、弥七田織部 (弥七田古窯跡) が生産され、当時の文化・芸術を支えた重要な場所と言えます。 |
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123窯道具 調査員の見方 平成24〜28年度にかけて、牟田洞古窯跡、窯下古窯跡、弥七田窯跡の3カ所の発掘調査を行いました。 調査の際、匣鉢 (こうばち=陶磁器の素地を火災などから守るための容器) などの窯道具が多数出土しました。 中にはいろいろな窯記号が見つかりました。これらは各職人たちが持つマークで、彼らが各窯を共用していたことを物語っています。 |
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130加納城跡 岐阜市加納丸の内 近世 江戸時代 17〜19世紀 加納城跡 加納城跡 加納城跡 加納城跡 加納城跡 加納城跡 遺跡の概要 現在の加納城跡は、関ヶ原合戦後の徳川家康が現地を見聞し、中世に存在した加納城の場所に築かれたと言われています。 昭和50年度以来、断続的に発掘調査が行われ、多くの成果がありました。 平成25年度に行われた調査からは、二ノ丸御殿に伴う大名家の生活の一部が伺えました。 扇形やひようたん型、円などの形に掘った穴の漆喰で塗り固めた池や、志野・織部・金箔付のかわらけなど豊富な出土品が見られました。 |
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140大垣城・城下町遺跡 大垣市丸の内 近世〜近代 江戸時代〜明治時代 17〜19世紀 大垣城跡・城下町 - 全国遺跡報告総覧 城百科:大垣城 大垣城 遺跡の概要 揖斐川が運ぶ土砂によって形成された扇状地にある、中世から近世にかけての城館です。 平成26年度の調査は、明治時代の戸田家別邸に当る、現在の大垣城跡店主から西へ200mの場所で行われ、中世から近代にかけての 遺構・遺物を確認しました。 大溝の確認 近代の大溝の北面に、最大5段、高さ約1mの石積みが部分的に残っていました。 また、石積みが沈まないように胴木と呼ばれる丸太が据えられていることがわかります。更に、胴木の両端には枕木が一本ずつ置かれ、 胴木が倒れないよう留杭が打ち込まれていました。 調査員の見方 大溝の中から、神奈川県の駅名である「国府津」と書かれた汽車土瓶が出土しました。汽車土瓶は使い捨てのお茶用器で、明治時代に登場しました。 また、底部に炭化物が付着しており、旅人が国府津駅で買ったお茶を飲み終わった後、煙草の灰皿代わりに使用したのかもしれません。 |
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200菊花展と岐阜城 |
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