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目次 |
00妻木晩田遺跡とは
01外観
02妻木晩田遺跡
復元住居展示場
10妻木晩田遺跡遺構展示館
13遺構展示館
考察 王の住居に宗教的意味を
考える理由
14建物内の反対側から
15遺跡の保存と展示
17妻木晩田遺跡
研究 妻木晩田遺跡
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30調査研究棟
31遺跡の復元と修理
33貝染めに挑戦
40ミニ企画展
ムラのお墓の種類と大きさ
妻木晩田ムラの盛衰
考察 青谷上寺地と妻木晩田
50妻木晩田ムラの墓地の変遷
51妻木晩田ムラの墓地
52洞ノ原墳丘墓群
53仙谷墳丘墓群
54松尾頭墳丘墓群
60お墓の種類と大きさ
61お墓の種類
62お墓の大きさ
64お墓の大きさ
70松尾頭墳丘墓群出土遺物
80墳丘墓に置かれた土器
90墳丘墓の中 |
100弥生の館むきばんだ
101外観
102国引き神話
103積層地図
104航空写真
105ムラの移り変わり
106首長墓の出現
107ムラの拡大
108最盛期のムラ
109ムラの縮小
120妻木晩田の暮らし
121ムラの四季と自然の恵み
122食べ物
122妻木晩田遺跡の食料調達
123弥生人の食料
124田んぼ
125トリ
126弓矢
127狩猟
128植物の採集
129シカ
130生活
131原始機
132鉄が来た道
資料 たたら製鉄と石炭
資料 日本刀
133暮らしを変えた鉄の道具
134竪穴住居の暮らし
135弥生の建物を復元する
136住居模型
王の住まい
ムラの祭殿
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140弥生のネットワーク
鉄器・鍛冶・石器・玉・土器・祀り
150金属器
151北部九州の有帯袋状鉄斧
151妻木晩田遺跡出土の鋳造タピ
鉄製品・鍛冶具
155弥生時代の石器
156玉類
158各地の土器
160ムラの終わりと古墳の築造
170交易
171大陸との交流
半島との直接交易と遺跡
172海流と交易と遺跡
175潟湖でつながるムラとムラ
177潟湖と遺跡
180洞ノ原地区
200洞ノ原地区の復元遺跡
202洞ノ原1号墳
203洞の原2号墳
205洞ノ原地区西側丘陵
208晩田山古墳群
洞ノ原3号掘立柱建物
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00妻木晩田遺跡とは
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妻木晩田遺跡は防御性高地性集落です。しかし、単なる農村ではなく、麓に(現在では陸化したが)港を持ち、水田稲作の農地を持ち、
しかも、宗教的な意味合いの強い集落として長く営まれた遺跡です。
また、麓には、縄文人集落と、弥生人集落、混血集落があり、文化的に対立しながら現代にまで続いているという特異な環境を持っています。 |
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01外観
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カーナビの誤案内
下図①の淀江インターから降りて「鳥取白鳳高校」の手前で北方向に「妻木晩田遺跡」があると誤案内されて進めず、高校で道を尋ねました。
次に、「淀江白鳳の丘展示館」への道では、なぜか③「白鳳古代の丘公園」へ入ってしまいました。
カーナビとは反対の方向に行くと④「目的地」に行けました。 お気を付け下さい。 |
周辺地図➀~④
カーナビに騙された |
妻木晩田史跡公園
正面:研究棟
左:展示館 |
展示館です |
妻木晩田遺跡の案内図
大変広大な敷地です。行き先を決めておきましょう。 |
妻木晩田遺跡への案内図
(1)弥生のムラ:駐車場から右手に坂道を行くと見えてくる。復元された建物遺構が並んでいる。
(2)遺構展示館:弥生のムラで右を見ると丘の上に体育館風の建物が見える。中に入ると、大きな住居跡が3つある。支配者の住居跡らしい。
(3)洞ノ原地区:四隅突出型墳丘墓などが並ぶ。
その他の遺跡は遠く、片道1時間ほどの歩きも必要。
(仙谷地区) |
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妻木晩田遺跡全体図を参照してください
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02妻木晩田遺跡 復元住居展示場
蘇った「弥生のムラ」
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ここ妻木山地区は、ムラが栄えた弥生時代後期後葉 (約1800年前) の住居跡が最も多く見つかった場所です。
目の前の植樹林を抜けると、現代によみがえった弥生のムラが広がります。ムラの中には、陸稲やマメ類を植えた畑や、建築途中の竪穴住居や埋まりつつある住居跡などが表現され、生きた村のイメージを感じることができます。
建物は実際に見つかった建物跡の位置や大きさに合わせて復元してあり、そのスタイルや部材の形は、他の遺跡で見つかった建築部材などを参考にしています。 |
弥生のムラ(妻木山地区)へ向かう
復元住居展示場入口 |
妻木晩田地区の案内板 |
蘇った弥生の村
上に記述 |
復元施設 |
復元施設シルエット |
高床倉庫 |
高床倉庫(屋根倉風) |
高床倉庫(板倉風) |
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竪穴住居 |
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竪穴住居 |
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廃棄住居 |
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10妻木晩田遺跡 遺構展示館
妻木晩田の支配者の住居跡と考えられる遺構が、高地性集落である一般居住区とは離れた、更に高い丘の上に残されていた。
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11王の住居跡
遺構展示館 遠景
王の住居跡と考えられる |
この場所からは、島根半島東端の美保神社が見渡せ、 |
後ろには孝霊山というピラミッドが聳え、 |
その後ろには、大山が聳えている。古代人の何らかの信仰や意識のよりどころのような場所である。 |
遺跡発掘広場
子供たちに発掘遊びをさせて |
考古学に興味を持たせる場所。 |
床面まで掘り下げた
竪穴住居跡 |
発掘残土 |
排土山
発掘残土を保存 |
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発掘現場を体験しよう「発掘体感広場」
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弥生のムラの右手に広がる丘の上では、発掘現場を再現しています。
竪穴住居跡を掘る様子を見たり、発掘体験遊をしながら発掘現場の雰囲気を感じることができます。 |
発掘体験場
ここで子供たちが見つけた遺物のおもちゃは |
結構、値の張るものが隠されているそうです。 |
鳥取県って
お金持ち? |
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13遺構展示館
考察
王の住居に宗教的意味を考える理由
この王の住居と美保神社を結んだラインを後方に伸ばすと、孝霊山に当たり、さらにその先に大山があります。
王の居館からは孝霊山によって大山が見えず、大山からは孝霊山・美保神社を結んだラインが宗教的意味を持つのではと考えられています。
孝霊山
孝霊山の外観はピラミッドです。孝霊山は近代の名でその前は、「高麗山=からやま」を、かわら山と呼んでいたようです。山の背比べ日韓対決
また、別に、カワラは、高良(コウラ=高麗)とか、香春とか、半島との密接な関りが指摘されています。
孝霊山の参考文献は、孝霊山考三原 - 山陰の古代史 伝説の山“孝霊山”/米子市ホームページ 孝霊山 孝霊山伝説
美保神社・美保関・弓ヶ浜
美保神社は、弥生時代にはその地形から(神社ではなく)何らかの拠点施設であった(港湾)と考えられます。
国引き神話では、大山を杭にして新羅や越の島を引き寄せ、美保の関となり、綱を捨てると弓ヶ浜となった。
美保の関(みほのせき)は御大之御崎(みおのみさき)と呼ばれていました。(大いなる聖なる岬を意味する) 引用
関(せき)は安宅関(あたかのせき)など、「関門、関所」の意味なので、のちに埼が海上の関(所)になったのでしょう。
島根半島は古代の重要な港湾であり、西端に出雲大社となった灯台があり、東端に美保神社となった美保の関にも当然航海の重要な目印が
あったものと思われます。
大山―孝霊山―妻木晩田遺跡―美保神社が直線で結ばれていたことは、「地乗り航法」(陸伝い航法)の航海では、山立てとして
海上での位置決めの方法として大変重要なことです。 大型船舶 - 卑弥呼と魏志倭人伝 - 邪馬台国
つまり、孝霊山と大山の山影が重なるとき、そこが美保の港、美保関である。
大山の背比べは、 参照山の背比べ日韓対決 大山の背比べ 鷲峯山と大山の背比べ
大山の背比べは鷲峰山(じゅうほうざん)ともされているが、孝霊山(高麗山)が通説で、いくつかの神話を重ねると孝霊山と思われます。
13遺構展示館
ここは3回立て直された住居跡遺構です。 |
南から北方向を見る
1期20年といわれますが、もっと長く数十年間も |
使われました。きっと、柱や屋根などだけを取り替えたのでしょう。 |
王の住居と考えられており大変広いです。 |
3回の場所替えは、
向こう、手前、中の順です。 |
場所替えの理由は、規模の拡大や縮小のようです。 |
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14建物内の反対側から(北から南を見る)
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ここに露出しているのは、平成9(1997)に発掘調査された弥生時代後期終わり~終末期(2世紀後半~3世紀前半)の竪穴住居跡です。
住居跡が1つに繋がって見えますが、別々の時期に造られた3棟が重なり合っています。 |
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掘された竪穴住居跡 |
遺構展示館地図 |
まとまっておかれた土器
(住居廃棄祭祀か) |
出土した青銅鏡
貴重な破鏡を埋納か
きっと壊れた銅鏡片を住居廃棄祭祀に用いた |
3棟の配置図 |
住居跡断面図と
復元想像図 |
住居の移り変わり
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青銅鏡出土 |
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深く掘り込まれた中央の住居は、過ごしやすかったのかなぁ、、、
現代なら、たちまち水浸しなんだが、、、 |
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15本物の竪穴住居跡を展示するためには 保存と展示の対策が肝要
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17妻木晩田遺跡 弥生時代後期を中心とする弥生中期終わり頃から古墳時代前期初頭の遺跡。 倭国大乱を避けた高地性集落。
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妻木晩田遺跡は、大変見晴らしの良いところにあります。美保神社や孝霊山など、宗教や信仰の山に関連した、宗教都市のような感じもしますが、
この遺跡は、巨大な高地性集落です。普通に見る高地性集落とは比べ物にならないほど広大で、今後何十年にもわたって発掘が続けられる規模
なのです。従って現在も発掘進行中です。
遺跡は、2000年以上松林に覆われていましたが、、数十年前の全国一斉の松枯れ(マツノダイセンチュウによる)によって松が消え去ると、
そのあとには広大な山栗の森が現れました。縄文・弥生の時代から続く豊富な食料の山が、手入れをしなくなって隠されていたのです。
この地域には、3つの地区があり、現在も、縄文系、弥生系、混血系の集落があり、互いに分かれた状態で現在にまで続いているそうです。
弥生時代が始まってから3000年。渡来人と縄文人と、その混血系の対立はなんと現在まで続いているんですね。
そういえば、関東地方でも、毛人の国といわれる地域では対立が激しかったと聞いています。今もある、この対立を知って驚きました。
ちなみに、台地上にある妻木晩田遺跡のふもとには、広大な水田があり、港もあり、大いに栄えたました。
3世紀後半になり倭国大乱が終わると、高地性集落に暮らした人々は、麓に降りて、集落を営んだようです。 |
孝霊山
大山は孝霊山の真後ろになって見えません |
美保神社方向
大山-孝霊山-妻木晩田-美保神社を直線で結ぶ聖なるライン |
栗林
柴栗だが、栗ご飯に入れるのには最適な大きさです。 |
高地性集落が支配した麓の水田地帯 |
竪穴住居と高床倉庫群 |
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村の王の住居跡 |
体験学習
弥生土器を焼く |
妻木新山地区の遺跡へ
仙谷地区の遺跡へ |
弥生の館妻木晩田へ |
柴栗
沢山落ちていました |
柴栗 |
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研究 妻木晩田遺跡 抜粋引用 wikipedia妻木晩田遺跡
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鳥取県西伯郡大山町富岡・妻木・長田および米子市淀江町福岡にある弥生時代の集落遺跡。遺跡の面積は156ha
大山山系・孝霊山から続く丘陵(通称「晩田山」)上に位置し、美保湾(日本海)を一望できる。島根県安来市から、この妻木晩田遺跡までの地域は弥生後期に栄えた古代出雲の中心地であったと考えられる。
標高90-120メートル前後(平野部との比高差100m前後)の尾根上を中心に立地し、面積約170haにおよぶ。これまでの調査で17.2haが調査され、集落関係では竪穴住居395基、掘建柱建物跡502基、墳丘墓(四隅突出型墳丘墓含む)24基、環壕等が検出されている。
一連の集落は弥生時代後期を中心に中期終わり頃から古墳時代前期初頭にわたって営まれている。いわゆる倭国大乱の影響とされる高地性集落であるが、比較的大規模で長期にわたる例は少なく、注目される。
集落は、概ね東側が居住地区、西側の丘陵先端が首長の墓域といった構成で、後期中頃以前には洞ノ原(どうのはら)地区の最西端に環壕が機能していたものと考えられる。
また居住地区は竪穴住居と掘建柱建物各3-4棟の単位によって構成されるものと見られ、弥生時代後期終わり頃以降では鍛冶、玉造り、土器焼成などの活動が認められる。更に最高所に位置する松尾頭地区では、祭殿や首長の住居と推定される建物跡も確認されている。
竪穴住居は、全部で700ぐらいある。その中の大部分は小さくて深く、直径3-6m、深さ1mぐらいで、外から見ると屋根しか見えない。
大きい竪穴住居は浅くて、直径6-8m、深さ0.5-0.7mぐらいで、外から見ても壁が見える。小さい方は土屋根で、大きい方は草葺き屋根であろうと推測出来る。
さらに、大型建物のそばには、先に述べた大きい竪穴住居が必ずといっていいほどある。これこそ有力者の住宅であろうと考えられている。
弥生の終わりの3世紀中頃から4世紀ぐらいまでにかけて、有力者も竪穴住居に居住していたと思われる。
遺物は、土器、石器(調理具・農工具・狩猟具・武器)、鉄器(農工具・武器)、破鏡等が出土している。鉄器は鉇・斧・鑿・穿孔具・鍬先・鎌・鉄鏃等、弥生時代のもののみで197点が出土しており、大陸性のものも確認されている。 |
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30調査研究棟
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31遺跡の復元と修理
調査研究棟入口 |
発掘調査成果展開催中 |
入口展示 |
「弥生時代の建物の復元と修理」のポリシー
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竪穴住居が復元されるまで
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竪穴住居が復元されるまで |
復元のための参考資料 |
妻木晩田遺跡
建物の復元模型 |
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32
復元建物の修理 |
復元建物のいたみ |
完成直後の復元建物
洞ノ原地区西側丘陵 |
復元建物の傷み
鼠返しのシロアリ被害 |
復元する建物の設計図 |
劣化して見えにくい
ですね |
見取り図・概念図 |
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33貝染めに挑戦
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吉野ケ里遺跡の甕棺(弥生中期~後期)から、貝紫により染色されたとみられる絹布片が出土しています。
貝染めとは、アクキ貝科の巻貝の内臓に含まれる分泌液(パープル腺)を取り出して染色する技法です。イボニシ・レイシ・アカニシなどの貝が使われます。 |
※これらの貝は小さく岩に張り付いて外しにくいので、ギリシア時代の染色職人は、糸と叩き石を持って海に行き、貝を見つけると敲いて潰し、
潰れた貝のパープル線に糸にこすり付けて染色したそうです。
※吉野ケ里発見の貝紫染めの絹布片が、国内産か、大陸・半島産かは不明です。養蚕技術の伝承時期は列島各地で異なりますが、
すでにこの時には列島に伝わっていた、安定した生産活動の集落も存在していたのかもしれません。
貝染めに挑戦 |
貝紫で染めた絹糸 |
イボニシ貝ってどんな貝 |
イボニシの生息する岩場
カメノテに張り付くイボニシ |
レイシとイボニシ |
型紙による染め |
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34
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貝染めの手順 |
貝紫染めの作品 |
絹織物を再現する |
4真綿 繭 |
絹糸 |
絹の歴史
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・絹は蚕の繭を糸にしたもので、弥生時代に大陸から養蚕技術と共に伝わったと考えられます。
・魏志倭人伝には、女王卑弥呼が魏の皇帝に「錦」(絹糸を様々な色に染めて織った布)を献上したとあり、弥生人が養蚕や絹織物の製作を
行っていたことがわかります。※中国皇帝に献上できる程高い技術が完成していたということのようです。
・蚕は中国大陸で家畜化された昆虫で、人間が飼育しなければ生きていけません。 |
絹の歴史
上に記述 |
絹織物を復元する |
原始機風の展示 |
美しい桜の皮つきの枠木に原始機の模型が作り付けられています。
これが原理です。実際はも少し手が込んでいますが。 |
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40ミニ企画展
ムラのお墓の種類と大きさ
はじめに
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妻木晩田遺跡の墳丘墓の発掘調査と研究からわかってきたことについて紹介します。
妻木晩田ムラの首長の「弔い方」について、墳丘墓を通して見ていきましょう。 |
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41
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はじめに
発掘調査の目的 |
発掘調査の目的 |
現在までの発掘調査 |
中心より左側の地域が発掘調査されてきましたが、
右側の山稜にも広大な遺跡が広がっています。
今後の調査に期待されます。 |
妻木晩田ムラの盛衰
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妻木晩田遺跡の広がりは約170万㎡に及ぶと考えられ、約20万㎡が発掘されました。その結果、約450棟の竪穴住居跡、約510棟の掘立柱建物跡、39基の墳丘墓などが発見されました。
弥生時代中期後葉から集落の造営が始まり、墳丘墓は後期前葉から洞ノ原丘陵で築造が確認されています。その後、居住域の拡大と共に墳丘墓が造られる場所も移り変わり、古墳時代前期中葉以降は、丘陵全体が墓地として利用され、古墳が造られました。 |
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50妻木晩田ムラの墓地の変遷
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妻木晩田に人が住み始めるのは、弥生中期後葉(紀元前1世紀~紀元後1世紀前半頃)からですが、その頃の墓地は発見されていません。
遺跡全体に住居が広がる後期前葉(1世紀後半中葉頃)に、洞ノ原地区で墳丘墓の築造が始まります。(四隅突出型墳丘墓)
後期中葉(2世紀前半頃)には、仙谷地区でも墳丘墓が造られます。
後期後葉(2世紀後半頃)には、仙谷地区でのみ続けられますが、
弥生終末期(2世紀末~3世紀初め頃)には、松尾頭地区で墳丘墓の築造が始まります。
古墳時代に入ると、再び仙谷地区で墳丘墓が造られますが、石を組んで作られた石棺を採用し、円形の墳丘であることなど、弥生時代とは違う要素を取り入れています。
弥生時代の墳丘を持つ墓は、妻木晩田のムラを治める立場にあった有力者一族が築造したと考えています。
一方で墳丘を持たない一般の人々の墓地は、集落が存続した全ての時期を通して、まだ発見されていません。
(環濠の外へ、高地性集落の麓、つまり、本来の居住域の村で葬送をし、本来の墓地へ埋葬したようです。村から2km程離れたどこか。) |
弥生時代のお墓とは
〇墳丘墓
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墳丘を持つ墓。「墳」には「土を高く盛り上げた墓」の意味があります。弥生時代の墳丘墓を弥生墳丘墓と呼びますが、ここでは墳丘墓と省略して呼んでいます。
墳丘墓が一定の範囲に複数ある場合、墳丘墓群と呼びます。墳丘の造り方は、土を盛ったものや山(丘陵)を削りだしたものなど様々あります。 |
〇墳丘を持たない墓
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山陰地域の弥生時代の墳丘を持たない墓は、棺を埋めただけというものがほとんどでした。
木を組んだ木棺墓が主流でしたが、
石を組んだ「石棺墓」や
普段使いの土器を棺とした「土器棺墓」があります。
また、棺の痕跡が見つからないものは、「土壙墓」と呼んでいます。
それらの棺を埋めた上に、墓標として石を並べたものもあり、それらは「配石墓」と呼んでいます。 |
〇墓域
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人が住む住居などがある住居域に対して、お墓が集中する範囲のこと。ここでは墓地と言い換えています。 |
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51妻木晩田ムラの墓地
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妻木晩田ムラの墓地 |
ムラの墓地の変遷
上に記述 |
弥生時代のお墓とは
上に記述 |
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ムラの盛衰と墓域の
移動 |
妻木晩田遺跡の墓地分布 |
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52洞ノ原墳丘墓群(四隅突出型墳丘墓)
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洞ノ原墳丘墓群は、現在見つかっている妻木晩田遺跡の墳丘墓群のうち、一番古い有力者の墓地です。
弥生時代後期前葉(1世紀後半頃)から後期中葉(2世紀前半頃)にかけて、25基の埋葬施設が造られました。
墳丘墓は、斜面を石で飾る「貼石」があり、方形の墳丘の隅が突き出た「四隅突出型墳丘墓」が主体で、なかには突出部のない「方形貼石墓」もみられます。
墳丘墓群の特徴は、大型で最初に造られた2号墓と大きさが近い1号墓を中心に、次の世代で大きさが近い7号墓と8号墓や、一人用・「子ども」用とみられる小型の墳丘墓が配置され、お墓の位置や大きさに決まりがあったようです。
しかし、棺など墳丘内部の調査はほとんど行われないまま地下に保存されているため、どのように葬られたのか、全体像はわかっていません。 |
洞ノ原墳丘墳丘墓群
上に記述 |
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洞ノ原墳丘墓群 |
妻木晩田遺跡年表 |
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洞ノ原墳丘墓群 |
洞ノ原墳丘墓群平面図 |
洞ノ原墳丘墓群 |
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53仙谷墳丘墓群
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仙谷墳丘墓群は、妻木晩田遺跡の北西端に位置し、北側(日本海側)に延びた2つの丘陵上にあります。
東側丘陵には6基の墳丘墓があり、弥生時代後期中葉(2世紀前半頃)に3号墓が築かれた後、
後期後葉~終末期前半(2C後半~3Cはじめ)にかけて尾根の高所へ連なるように2・5・7・6・4号墳が造られました。
西側丘陵には3基の墳丘墓があり、1号墓は後期中葉に築かれた、妻木晩田遺跡最大の四隅突出型墳丘墓、
8・9号墳は、集落終焉期の古墳時代前期前葉(3世紀後半)に築かれました。
仙谷墳丘墓群の特徴は、妻木晩田遺跡のほかの墳丘墓群に比べて墳丘墓の種類や埋葬者数の違いがよく表れている点です。
終末期後半に一度途切れるものの、墓地としての存続期間が長く、お墓の作りが変化していく様子がわかります。 |
仙谷墳丘墓群 |
仙谷墳丘墓群 |
妻木晩田遺跡年表 |
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仙谷2・3・5号墓 |
仙谷3号墓・仙谷墳丘墓群 |
仙谷8号墓・仙谷墳丘墓群 |
仙谷5号墓出土 |
仙谷1号墓 |
仙谷墳丘墓群平面図 |
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54松尾頭墳丘墓群
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松尾頭墳丘墓群は、妻木山地区の南側丘陵上に位置し、現在の県道を挟んで東側には、1・2号墓、西側には3~5号墓があります。
近年の調査により、
3号墓は弥生時代終末期前半(2世紀末~3世紀初め頃)に築造され、3号墓より小さい4・5号墓もほぼ同時期の墳丘墓であることがわかり、
1・2号墓は続く終末期後半(3世紀前半)に造られました。
松尾頭墳丘墓群の特徴は、すべての墳丘墓が貼り石を持たず、四角い墳丘の周囲を溝で囲った「方形周溝墓」である点です。
一つの墳丘墓に埋葬される人数も少なく、限られた人が埋葬されたことがわかります。
1号墓からは、底に青灰色の砂を敷いた木棺や、柄の部分を意図的に折り曲げたヤリガンナが副葬され、古墳時代に引き継がれる新しい埋葬方法が取り入れられています。 |
松尾頭墳丘墓群 |
松尾頭墳丘墓群 |
年表 |
松尾頭墳丘墓群
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松尾頭1号墓 |
松尾頭2号墓 |
松尾頭墳丘墓群 |
松尾頭3号墓 |
松尾頭墳丘墓群配置図 |
松尾頭墳丘墓群平面図 |
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60お墓の種類と大きさ
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妻木晩田遺跡にある墳丘墓は、造られた時期によって、異なる形を採用しています。
最初に築造が始まった洞ノ原墳丘墓群では、方形貼石墓と四隅突出型墳丘墓が採用されています。
仙谷墳丘墓群では、妻木晩田遺跡最大の規模である仙谷1号墓が四隅突出型墳丘墓、3号墓が方形貼石墓、5号墓墓以降は貼石持たず、
溝で墳丘の周囲を区画した方形周溝墓や一部を区画した区画墓になります。
松尾頭墳丘墓群は、ほぼ全周する溝を持ちながら四隅は陸橋状に墳丘外とつながる形の方形周溝墓のみ採用されています。
弥生時代の妻木晩田遺跡の墳丘墓は、いずれも方形をベースに、貼石を持つもの、持たないもの、四隅を突出されるもの、溝で墳丘の範囲を区画するものがあります。
弥生後期から終末期の間には、四隅突出型で貼り石のあるものから、貼り石を持たず溝で区画するものへと変化していったことがわかります。 |
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61お墓の種類
お墓の種類と大きさ |
お墓の種類
上に記述 |
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四隅突出型墳丘墓 |
方形貼石墓 |
方形周溝墓 |
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62お墓の大きさ
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妻木晩田遺跡の墳丘墓には、大小様々な大きさがあります。大きな墳丘墓を造るためには、一人や一家族の力だけでは困難で、ある程度の人数で掛からなければならなかったはずです。大きさには被葬者の持つ人を集約する力が表れていると考えられています。
妻木晩田遺跡で確認している最大の墳丘墓は、四隅突出型墳丘墓である仙谷1号墓です。墳丘墓群ごとに比べると、洞ノ原墳丘墓群よりも、新しい時期の仙谷墳丘墓群のほうが全体的に大きくなっています。
一方で、、同じ墳丘墓群の中でも、墳丘の大きさは異なります。
洞ノ原墳丘墓群では、四隅突出型墳丘墓の洞ノ原1号墓と方形貼石墓の洞ノ原号墓が最も大きく(大型)、そのほかは、一回り小さい洞ノ原3・47・8号墓(中型)と小型のものに分けられます。
大型の墳丘墓は群の中でも最も古いため、集団の祖となった人、墳丘墓群造営のきっかけとなった人の墓と考えられます。※
そしてそれを取り巻くように、血縁者や子孫たちが中・小型の墓を造ったと考えられます。
このように、墳丘墓の大きさからは、埋葬された人々の権力の変化や集団の構造の変化を読み取ることができるのです。
※これとよく似たことが島根半島鹿島町の「堀部第1遺跡」(鹿島歴史民俗資料館)でも起こっています。 |
お墓の大きさ |
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鳥取県内における弥生時代のお墓が発見された主な遺跡 |
妻木晩田遺跡 |
宮内第1遺跡 |
後ロ谷墳丘墓群 |
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64お墓の大きさ
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四隅突出型墳丘墓 |
方形貼石墓 |
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方形周溝墓 |
方形区画墓 |
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70松岡頭墳丘墓群出土遺物 |
71
松岡頭墳丘墓群出土遺物
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松岡頭墳丘墓群出土遺物 |
松尾頭地区
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松尾頭1号墓出土土器
弥生時代終末期後半
約1750年前 |
甕・器台 |
壺 |
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73
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壺 |
壺
松尾頭2号墓出土
弥生終末期後半
約1750年前 |
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高坏・壺・器台 |
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80墳丘墓に置かれた土器は特別な土器か
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松尾頭3号墓から見つかった土器には、地元土器には見られない特徴を持つものがありました。
それは、周溝などから見つかった壺で、口縁部の形や、胎土は地元と同じですが、頸部が八の字に広がり、外面をハケ状工具で整えた後、横方向の線をたくさん引いている点が違います。
外見上は、吉備北部地域の土器と似ていますが、細かいつくりは異なり、吉備北部の土器を真似てつくった可能性があります。
松尾3号墓からはこのような土器がまとまって複数個体見つかっていますが、普通の住居跡からの出土例はありません。お墓に供えるために造られた特別な土器かもしれません。
さらに、墳丘墓の可能性のあるマウンド状地形Aからは、吉備南部地域から持ち込まれた可能性の高い土器片も見つかっています。
墳丘墓から出土した土器からは、妻木晩田ムラの有力者が外部の人々と交流する様子も見えてきます。 |
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81
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墳丘墓に置かれた土器は特別な土器か |
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松尾頭3号墓出土の
特徴的な土器 |
小坂向遺跡出土土器 |
ヒロダン・小坂向遺跡出土土器 岡山県真庭郡湯原町見明戸518-1ほか
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この遺跡は、吉備から伯耆へ抜ける往来(道)を見下ろす丘陵上にあり、弥生後期後葉をピークに、弥生時代後期中葉から古墳時代前期前葉まで続いた集落跡です。吉備南部や山陰からの搬入品など様々な土器が 出土したことから、 人々の交流がわかる重要な遺跡です。
※こりゃ、中継地点ではなく、通行税として、いろいろなものを奪ったり、取り上げたりしていた集落に違いないでしょう。
だから、古墳時代になって滅ぼされたのでしょう。 いわば、山賊や強盗に近い集落だったのでしょう。 |
遺跡位置図 |
ヒロダン・小坂向遺跡
出土土器 |
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82松尾頭地区の出土物
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弥生土器破片マウンド状地形A出土
弥生後期後葉~終末期
約1850~1800年前 |
土器片
これら全て共献土器
特殊な作りがどこかにある。 |
松尾頭1地区マウンド状地形A出土の特徴的な土器
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鉄鏃
松尾頭3号墓
弥生終末期前半
約1800年前 |
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83松尾頭〇号墓出土土器 弥生時代終末期前半 約1800年前
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90墳丘墓の中
仙谷8号墓の被葬者 古墳時代前期(約1700年前)
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妻木晩田遺跡の墳丘墓の中で、埋葬施設として石棺を持つ仙谷8号墓は、古墳時代前期(約1700年前)の有力者のお墓です。
石棺は分厚い板状の石を側面に用いて、遺体が入るように頭側は幅広く、足側は狭く造られています。
遺体を納めた後に大きく扁平な石で蓋をし、隙間をこぶし大から人頭大の石で埋めていました。蓋石は、最大で約120kgの重さがありました。
棺内の調査では、副葬品は見つかりませんでしたが、棺の北端で被葬者の頭蓋骨の一部が残っていました。被葬者は男性の可能性がありますが、骨の残存状態が悪く断定できません。
頭蓋骨の形を平均的な縄文人の情報と比較したところ、縄文人の直系の子孫ではなく、渡来系(朝鮮半島など大陸系)ないしは混血した集団の子孫であった可能性があります。 |
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91
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仙谷8号墓の被葬者
上に記述 |
棺に蓋がされた状態 |
蓋を外した状態 |
蓋を半分外した |
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100弥生の館むきばんだ
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101外観
弥生の館むきばんだ |
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102国引き神話
山の背比べ |
説話「山の背比べ」 |
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昔々、韓の国の神様は、大山と背比べをしようと、自慢の韓山をはるばる海を越えて運んできました。
ところが雲の間から姿を現した大山の雄姿に驚いて、韓山を置き去りにして帰ってしまいました。
この韓山は、今でも大山の麓にあり、孝霊山(高麗山)と呼ばれて、地元の人たちに親しまれています。 |
国引き神話 |
国引き神話 |
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昔々、出雲の国を治めていた八束水臣津野命は、高志の都都岬(北陸地方)の余っているところに太い綱を結んで引き寄せて、美保の岬(美の保関)を造りました。
この時に使われた綱が夜見の島(弓ヶ浜)、綱を結び付けていた杭が火の神岳(大山)になったといわれています。 |
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103積層地図
妻木晩田遺跡からは大山が見えません。代わりに孝霊山がピラミッド状にみえます。 |
実は大山-孝霊山-妻木晩田-を結ぶ延長線上に美保神社があるのです。 |
妻木晩田からは孝霊山と大山がぴったり重なります。山の名からも歴史的な地であり、両山の山頂でたいまつを焚くと、美保神社と重なるということは |
弥生時代の自然崇拝と、古代の信仰。海上交通や安全の祈願など、興味深い歴史がありそうです。 |
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104妻木晩田遺跡 航空写真
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妻木晩田遺跡を
他の遺跡と比べよう |
妻木晩田遺跡 |
所在:米子市西伯郡大山町
概要:
約1000棟の建物跡や多量の鉄器が出土した弥生集落。遺跡の広さは約170haにも及び国内最大級 |
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仙谷地区
洞ノ原・妻木新山
現在地
妻木山
松尾頭地区
松尾池
松尾城地区 |
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仙谷地区
洞ノ原・妻木新山
現在地
妻木山
松尾頭地区 |
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105ムラの移り変わり
ムラのはじまりは、 弥生中期中葉~中期後葉 (紀元前1世紀~紀元1世紀前半)
松尾頭地区に家が建てられて人々が暮らし始めました。それ以外の地区では、貯蔵穴などがつくられました。
※海から遠くて見えにくい丘陵の陰に集落を移動した。その他の地区では、強奪に遭わないように、山の上の貯蔵穴に食料を隠したのか。
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106首長墓の出現 弥生後期前葉 1世紀後半
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松尾頭地区・妻木新山地区・妻木山地区に家が建てられ、ムラが広がり始めます。
この時期は、妻木新山地区画家中心的な居住域だったようです。また、洞ノ原地区の先端には、環濠という溝が掘られ、見晴らしの良い背後の丘には首長のお墓がつくられました。 |
首長墓の出現
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後漢・三韓時代 |
同時代の遺跡 |
弥生後期前葉1世紀後半の遺跡
⓪妻木晩田遺跡
➀青谷上寺地遺跡 鳥取市
②登呂遺跡 静岡市
③唐古・鍵遺跡 奈良・田原本町
④吉野ケ里遺跡 佐賀・吉野ケ里町
⑤桜馬場遺跡 唐津市
⑥平原1号墓 糸島市 |
首長墓の出現
臨海部を見渡せる地域に住居群を建設
見張りを目的としたか |
右:洞ノ原1号墓
(方形貼石墓)
左:洞ノ原2号墓
(四隅突出型墳丘墓) |
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107ムラの拡大 弥生後期中葉 2世紀前半
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妻木新山地区、妻木山地区、松尾頭の3地区を中心にムラがさらに大きくなり、家の数も前の時期の2倍に増えました。
首長のお墓は、洞ノ原から仙谷地区に移り、妻木晩田遺跡で一番大きな仙谷1号墓がつくられました。 |
ムラの拡大
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後漢・三韓時代 |
同時代の遺跡 |
弥生後期中葉 2世紀前半の遺跡
⓪妻木晩田遺跡
➀青谷上寺地遺跡 鳥取市
②登呂遺跡 静岡市
③伊勢遺跡 滋賀県守山市
④唐古・鍵遺跡 奈良・田原本町
⑤吉野ケ里遺跡 佐賀・吉野ケ里町 |
ムラの拡大
丘陵全体に集落拡大し大きな力を持ったか |
仙谷1号墓 |
仙谷1号墓 |
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108最盛期のムラ 弥生後期後葉 2世紀後半
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丘の上全体にムラが広がり、最盛期を迎えます。この時期の中心的な居住域は妻木山地区です。全体のおよそ半分にあたる70棟の家が密集して建てられました。
しかし、この時期の首長のお墓はまだ見つかっていません。妻木晩田遺跡の外に造られたのかもしません。 |
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109ムラの縮小 弥生終末期 3世紀前半
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家の数が少なくなり、ムラは小さくなりますが、妻木山地区と 松尾頭地区ではまとまって家が建てられました。
引き続き中心的な居住地域として利用されていたようです。この時期は、仙谷地区と松尾頭地区で首長のお墓がつくられます。 |
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120妻木晩田の暮らし
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121ムラの四季と自然の恵み
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稲作が始まった弥生時代。弥生人はお米だけを食べていたわけではありません。自然と向き合い、季節ごとに変化する自然の恵みをうまく暮らしに取り入れていたのです。
※弥生人はお米を食べてはいなかったのでしょう。特権階級を除いて。一般の弥生人は、江戸、明治、大正、昭和までの小作農と同じで、
雑穀を主食にしていました。そのために二毛作があった。(二毛作は半島人が持ち込みました。五穀の栽培は殷で 始まりました。)
コメは商品作物で、日本海航路の半島人商人が交易しました。だからその対価として、様々な大陸・半島の品々がもたらされたのです。 |
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ムラの四季と自然の恵み
高橋浩二2006「概説弥生人の生業と暮らし」
鳥取県埋文編 |
「鳥取の考古学第2巻」弥生人の生業カレンダーを改変・再トレース |
春~初夏
3月~6月
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夏
4月~9月
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秋~冬
8月~2月 |
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122食べ物 |
122妻木晩田遺跡の食料調達
貝・ウニ 利用法のいろいろ
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貝は、腕輪などのアクセサリーや、土器の表面に文様をつける道具として使われました。特にアワビは、食べておいしいだけでなく、真珠を採ることもでき、一石二鳥の貝だったようです。また、ウニの棘は、縫い針として利用されました。
※縫い針ってほんと?折れやすいゾ。竹串の方が便利。以下にどうも筆者の勝手な想像のような信用できない記述がありますが、原文のまま。 |
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貝・ウニ
上に記述 |
釣り針 青谷上寺地遺跡
石錘 妻木晩田遺跡
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潜り漁のジオラマ |
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123弥生人の食料
アサリ クロダイ |
サルボウガイ
ヤマトシジミ |
アカガエル |
マグロ |
※マグロ漁は高速で泳ぐ魚を、船を帆で高速走行させながら、
疑似餌または、生餌を飲ませ釣りする、
しかも強烈な引きに耐えられる釣り糸が必要で、高度な釣りだった。 |
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※エビを付けた繊細な釣り針を、40mもの深さに一気に沈め、独特な誘いを行って釣る、高度な技術が必要だった。 |
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真鯉 |
フナ |
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124田んぼ 利用法のいろいろ
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田んぼは稲作のためだけではなく、漁・猟の場としても利用されました。水をはった田んぼではコイ、フナ、ナマズなどの魚、タニシやシジミなどの貝がとれました。また、それらを食べに来た鳥や、稲穂を食べる獣を狩ることもありました。 |
狩猟・漁撈具 |
田んぼの水路でフナを捕まえる |
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田んぼ |
ゼンマイ・ワラビ
春の山で採取 |
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125トリ 利用法のいろいろ
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鳥は、食料として利用する他に羽根は、頭飾りや矢羽根としても利用していたかもしれません。骨は、ヤスなどの漁撈具、針を入れる容器としても利用していました。 |
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126弓矢
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※英語なら
Arrowhead
矢頭(やがしら)なのに
日本語では
先頭にあるのに なぜ 矢尻(やじり)
なんだろう。
銛先、槍先って言うのにね。 |
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127狩猟
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石鏃 妻木晩田遺跡 |
弥生の石鏃
狩猟用 |
※弥生の石鏃は、大きくて重い対人用が多いが、
これらは、まだ狩猟用の小さめらしい。 |
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128植物の採集
スモモ |
ヤマグワ |
ナワシロイチゴ |
サクランボ |
なり物を採集 |
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129シカ 利用法のいろいろ
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シカは、重要な食肉であると同時に、角・皮・骨も様々な道具の素材として欠くことのできないものでした。
また、角と稲の成長のサイクルが似ていることから神聖視され、血は稲を育てる力があると考えられていたようです。 |
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130生活
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131原始機
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132鉄が来た道
鉄が来た道 |
たたら製鉄
朝鮮半島の製鉄炉
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たたら製鉄炉は、
大陸や半島では円筒形で背の高い炉でした。
列島で最初にたたら製鉄が始まったのは吉備。
吉備から伝わった炉は箱型で背の低い炉が用いられました。 参照「たたら製鉄とは何か」
※朝鮮半島のたたら製鉄炉の図はネット上に見当たりません。おそらくこれだけです。貴重な図です。 |
鉄丁の輸入
伽耶などを通じて鉄素材がもたらされた |
鉄器素材 鉄丁 |
資料 たたら製鉄と石炭
中国では漢代にたたら製鉄で作りだした粗鋼を、石炭を使用したパドル製鋼法(掻き混ぜて脱炭)が行われたが、参照「中国古代製鉄法」
たたら製鉄の段階でも石炭を用いていたのかは不明である。(石炭は木炭より高温度が得られた。) 朝鮮半島での石炭使用は不明である。
列島では鞴(フイゴ)と木炭を用いて砕いた鉄鉱石、後に砂鉄から鉄を還元していた。鉄鉱石や砂鉄にも低温溶融や高温溶融などの種類があった。
木炭の燃焼温度1000℃ 純鉄の融点1538℃だが、鞴を使い、融点の低い銑鉄などが溶融流出し、融点の高い鋼は脱炭・還元されて炉内に残る。
次の工程の、大鍛冶場では、鉄滓と分離した炭素量が高く硬くてもろい銑鉄は、鍛錬(鍛造)によって脱炭と不純物が取り除かれた。
(上述:この工程を、中国ではより簡単にパドル製法でかき混ぜて脱炭した。)
炉内に残った、融点が高くて溶けずに残った、炭素量が低く柔らかい鋼は取り出され、細かく砕きながら、純度や性質によって細かく分別され、
その内の中心部である玉鋼(たまはがね)は日本刀の材料として用いられた。
日本刀の製作工程
引用ねとらぼ |
日本刀製作手順図
引用第134話日本刀の作り方 |
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左の二つの資料は大変よくまとめられたものです。
たたら製鉄ではとかく専門用語が多く、その意味不明な名詞で
説明するので、何を言っているのか何度もフィードバックしなければ
容易に理解できません。
しかし、2枚の漫画にまとめて誰にでもわかるようにしてあります。
感謝です。 |
資料 日本刀
たたら製鉄で有名なのは日本刀の玉鋼(たまはがね)。これが融点が高く柔らかい高純度の鉄です。
日本刀は、玉鋼から作った柔らかい心鉄を、硬い皮鉄で挟んで作ったものです。
皮鉄は炭素量の多い鉄で、古刀の反りが大きいのは、皮鉄の炭素含有量が高いからです。 (芯鉄ではなく心鉄です)
炭素量が多い=硬い=低温溶融=最初に流れ出てくる=銑鉄=皮鉄(包丁鉄=一般的な用途に使う。錬鉄ともいう鍛錬した鉄の意味)
炭素量が少い=軟い=高温溶融=最後まで溶けず残る=鋼鉄=心鉄(たまはがね=刀剣用)
日本刀というと、3人ほどで鍛錬(鍛造、トン・テン・カン)している場面が浮かびますが、あれは単に皮鉄から不純物を取り除く作業に過ぎず、
いったん心鉄を挟んだら長く伸ばすだけの作業で面白くないし、真剣な仕上げ作業だから見せなかったのね。
古代の直刀は二重構造にせず、ただ鋼をまっすぐに伸ばして刃をつけた刀。(突き刺しに適し、切るには鋭角ができず不適)
中世の日本刀は、二重構造にして折れにくくなったが、使用する鋼材の品質から反りが大きくなった。(切るに適した)
近世の日本刀は、皮鉄・心鉄の炭素含有量が近くなり、品質の差による製造反りが少なくなった。(わざと反りをつけて製造した。)
ますます無関係なこと。
私の兄は「金属工学」だったが、鉄の難しさが少しわかってきた。
旋盤で金属を削るとしよう。削る刃物(バイト)は固くないと削れない。固いバイトは炭素含有量が多い。炭素が多いと溶けやすい。もろい。
すると、高炭素の炭素鋼バイトはもろくてチョコレートの様に溶けやすく、削れない。
だが、低炭素鋼は、高温でも溶けないが、柔らかくて削れない。その丁度良い配合を求めて金属材料工学があるんだと、今わかりました。
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133暮らしを変えた鉄の道具
暮らしを変えた鉄の道具 |
石の道具に比べて刃の鋭い鉄の道具を使うことにより、堅い木でも加工しやすくなり、
細かい細工なども可能となった。
また、少々の刃こぼれなら研ぎ直して何度でも使うことができた。 |
鉄の道具を作る
鉄の道具を作る |
弥生時代は石の道具を使って鉄の道具を作りました。
木炭の中で素材となる鉄を赤くなるまで熱し、金床石の上で、石で叩き伸ばし、折り曲げたり、タガネで切ったりしました。
この小鍛冶or野鍛冶は、材料鉄をハンドルの上に載せ赤熱して鍛造しながら叩いて加工・整形しています。 |
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134竪穴住居の暮らし
竪穴住居の屋根
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竪穴住居の屋根にはススキなどを葺いた茅葺き屋根と、その上にさらに土で覆った土屋根がありました。
※樹皮葺きの屋根などもありました。 |
ムラの姿
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ある一時期のムラの姿を復元すると、3棟から5棟の竪穴住居がひとまとまりになって建っていたことがわかります。
このまとまりは、「家族」とも呼べるまとまりで、家長世帯とその近親者の世帯が暮らしていました。
妻木晩田のムラは、このような「家族」が30近く集まってできた大きなムラです。 |
家族と住まい
弥生人は5人家族?
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一世帯は一般的に5人程度と考えられていて、その根拠にはいくつかの説があります。
1竪穴住居内に残された個人用の食器の数が5人分だったから。
2「後漢書」「郡国志」に記された中国(2世紀)の1戸当たりの人数が5人だから。
3一人あたりに必要な面積を3㎡と考え、炉などのスペースを3㎡をひいて計算すると5人程度になるから。
(20㎡/床面積-3㎡/炉)÷3㎡/人=5.6人
※これはあくまで推計用の平均的家族構成を求めといるのであって、実際とは異なります。現代の家族数を考えればよくわかります。 |
家の大きさは12畳?
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妻木晩田の家の大きさは、小さいものは8㎡(約5畳)、大きいものでは50㎡(約30畳)を超えるものまであります。平均は20㎡(約12畳)ほどです。 |
最盛期のムラの人口は200人?
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妻木晩田遺跡の最盛期(2世紀後半)には、同時期に45棟程度の竪穴住居が建っていたと考えられます。
1棟に5人とするとムラには225人が棲んでいたことになります。 |
竪穴住居の屋根 |
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竪穴住居の構造
(鍛冶場) |
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ムラの姿
上に記述 |
家族と住まい
上に記述 |
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135弥生の建物を復元する 復元工程魔記述
弥生の建物を復元する |
素材の検討
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竪穴住居・焼失住居・
出土建築部材
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模型を作る
・設計図を描く
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復元住居の模型 |
復元作業
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1.部材加工
(切り出した木材は加工され、手斧で木肌を美しく整えます)
2.組み上げ
(曲がった自然木をうまく組み合わせる)
3.屋根葺き
(ススキやヨシ)
4.完成 |
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136住居模型
王の住まい
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この建物は、ひさし付の平屋建物から北東に40m程離れて建てられた大型の竪穴住居(第45竪穴住居)です。この家は、住居の中に主柱がなく、壁に沿って小さな柱を7本立てて、壁で屋根を支えるつくりとなっていました。
住居の中からは中国製銅鏡の破片が出土しています。割れた破片をペンダントとして再利用したものです。出土品や住居の作りから、ムラを治めた人(王)の住まいではないかと考えられています。 |
王の住まい |
松尾頭地区
大型壁立住居跡 |
王の住まい
上に記述 |
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ムラの祭殿
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この建物は松尾頭地区で見つかった大型建物(第41号掘立柱建物跡)を復元したものです。
建物の作りは、長辺の柱が5本、短辺の柱が4本の平屋建てで、母屋の両側に「ひさし」を持ち、屋根は四方に傾斜がある寄棟式です。
母屋の広さは20畳程あります。模型の格子窓は、青谷上寺地遺跡から出土したものを参考に復元しました。
この建物の近くには、このムラを治めた人の住まいとされる大型の竪穴住居があり、このひさし付きの建物はムラのマツリを行った祭殿と考えられています。 |
ムラの祭殿
上に記述 |
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松尾頭地区
庇付掘立柱建物跡 |
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140弥生のネットワーク
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弥生のネットワーク
妻木晩田の交易活動 |
日本海を東西に結ぶ交易では、潟湖(せきこ)と言う天然の港が 重要でした。
潟湖に面した青谷上寺地遺跡のような場所は寄港地として重要な役割を果たし、妻木晩田遺跡のような潟湖を見下ろす山上の集落は居住の本拠地であり、これらが一体となって交易活動を行っていました。
また、鏡や鉄器などの貴重な物資の入手は、各集落の首長によるネットワークを通じて行われていました。 |
日本海沿岸に広がる鉄器
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鉄器が出土した主な集落遺跡 |
林・藤島遺跡 福井県福井市
南山畑遺跡 豊田市広川町
奈具岡遺跡 京丹後市
垣内遺跡 淡路市黒谷
青谷上寺地遺跡 鳥取市青谷
百間川原尾島遺跡 岡山県
妻木晩田遺跡
平所遺跡 東出雲町
西分増井遺跡 高知県春野町
野多目遺跡 福岡市南区 |
日本海沿岸地域には、鉄器が多く出土する遺跡が多数あります。
中でも妻木晩田遺跡からは、小型の工具(ヤリガンナ、穿孔具、袋状鉄斧など)を中心に300点以上の鉄器が出土し、1つの遺跡から出土する点数としては、国内屈指の点数です。
朝鮮半島から直接もたらされたと考えるタピや北部九州製と考えられる鉄斧などがあり、これらの地域との交流があったことがわかります。
タピ:朝鮮半島の踏み鋤 |
妻木晩田遺跡の鍛冶
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主な鍛冶関連遺跡の分布 |
奥原峠遺跡 七尾市奥原町
南山畑遺跡 豊田市陣中町
奈具岡遺跡 京丹後市
垣内遺跡 淡路市黒谷
夏栗遺跡 岡山市西花尻
妻木晩田遺跡
上野Ⅱ遺跡 島根県八束郡
平田遺跡 島根県大原郡木次町
和田原D遺跡 広島県庄原市
西分増井遺跡 高知県春野町
赤井手遺跡 福岡春日市小倉
二子塚遺跡 熊本県上益城郡嘉島町大字甘木 |
鉄器と共に鍛冶の技術や知識も北部九州から伝わりました。
鍛冶をおこなったと考えられてる竪穴住居の床面には、赤く焼けた炉の跡が見つかっています。
錆が付いたり、被熱により赤くなった金床石や敲石、板状の鉄器素材やタガネで切断された鉄器片などが出土しています。 |
石器を通した交流
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石器材料の産地 |
グリーンタフ地帯
〈緑色凝灰岩〉
隠岐諸島(島後)
〈黒曜石〉
花仙山〈碧玉〉
金山〈サヌカイト〉
北部九州〈石錘〉 |
妻木晩田遺跡には、緑色凝灰岩や碧玉を使った玉製品以外にも交流を示す石の道具があります。
鏃の材料には、島根県隠岐諸島(島後)の黒曜石や香川県金山のサヌカイト(安山岩)が使われています。
また、漁に使う錘は、北部九州のものに形が似ており、同じような漁の方法が伝わったと考えられます。※半島南部の漁民が直接やって来た |
妻木晩田遺跡の玉作り
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玉の生産地 |
塚崎遺跡 金沢市塚崎町
林・藤島遺跡 福井市和泉田町
青谷上寺地遺跡
西高江遺跡 鳥取県東伯郡大栄町
妻木晩田遺跡
平所遺跡 東出雲町
潤地頭給遺跡 糸島市潤3 |
妻木晩田遺跡では、青色や紺色のガラス製の小玉や管玉が出土しています。
ガラス玉は、
北部九州や北近畿から多く出土しており、これらの地域と交易によりもたらされたのでしょう。
また、山陰から北陸には、緑色凝灰岩や碧玉、水晶などの石材で玉作りを行った集落が多くあります。玉類は交易品として重要な特産品だったと考えられています。 |
交流を語る土器
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西日本の土器 |
北近畿
因幡
東伯耆
妻木晩田遺跡
備後
西武瀬戸内 |
妻木晩田遺跡から出土した土器の中には、北近畿、因幡、東伯耆、備後、西武瀬戸内あたりの特徴を持った土器があります。
また、妻木晩田遺跡のある伯耆の土器が因幡で出土する例もあります。土器そのものが交易品の場合や、
土器の内容物が交易品の場合、
土器を使った儀礼が目的の場合などが考えられています。 |
交流を語る祀り
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日本海沿岸に広がる四隅突出型墳丘墓 |
北陸 杉谷・一塚・小庭山
因幡 糸谷・西桂見・宮内・
・阿弥大寺・
伯耆
妻木晩田(仙谷・洞ノ原)
伯耆
尾高浅山・仲仙寺・宮山
・安養寺・塩津山
青木・西谷
安芸 殿山・矢谷 |
日本海沿岸地域には、四隅突出型墳丘墓という特徴的な形をしたお墓があります。
共通する形のお墓に首長を葬り、祀るという葬送儀礼によって、地域社会がつながっていたと考えられています。 |
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150金属器
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151北部九州の金属器
北部九州製の有帯袋状鉄斧
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妻木晩田遺跡からは、北部九州製と考えられている有帯袋状鉄斧が出土しています。斧の柄を差し込む袋部の端を、外側に折り返していることが特徴です。 |
破鏡 妻木晩田遺跡 |
内行花文鏡 |
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北部九州製の
有帯袋状鉄斧 |
有帯袋状鉄斧
左:出土品
右:復元品 |
北部九州製の有帯袋状鉄斧 |
151妻木晩田遺跡出土の鋳造タピ
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妻木晩田遺跡出土の鋳造タピは、大平遺跡出土品を参考に復元しています。
タピとは、朝鮮半島で作られた踏み鋤(土堀具)です。 |
鋳造タピ・鍛造タピ |
鋳造タピ・鍛造タピ |
鋳造タピ
溶けた鉄を型に流して製造 |
鍛造タピ
材料鉄を赤熱して敲いて成形した |
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152
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ヤリガンナ
出土品 復元品 |
鉄鏃 |
裁断断片 |
袋状鉄斧
複製 出土品 |
刀子 |
鉄器作りと裁断断片
三角形や叉状などの形をした鉄片は、鉄器をつくる過程で、タガネで切断された端切れです。
鉄器作りと裁断断片 |
鉄器作りと裁断断片 |
タガネと端切れ |
鉄製品
鍛冶具
鍛冶具 |
砥石・鉄素材 |
叩き石・台石 |
※焼けた鉄をこの上に置いて
あの杵のような敲き石を
素手で持って叩いたんだ。
どんな手をしていたんだ。
たちまち大火傷だ。 |
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155弥生時代の石器
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有溝石錘 |
有溝石錘は、
半島特有の漁具です |
石鏃(黒曜石)
隠岐諸島の黒曜石原石
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金山のサヌカイト原石
サヌカイト製石鏃 |
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156玉類
碧玉の玉作り |
緑色凝灰岩の玉作り
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玉作り完形遺物
碧玉・砥石・緑色凝灰岩 |
碧玉原石・緑色凝灰岩原石 |
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158各地の土器
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壺 西部瀬戸内産
台付き鉢 備後産 |
器台 東伯耆 |
洞ノ原墳丘墓群出土土器 |
洞ノ原墳丘墓群出土土器 |
仙谷墳墓群出土 |
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160ムラの終わりと古墳の築造
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古墳時代になると、ムラは縮小し、次第に居住地として使われなくなりました。
その後は。妻木山古墳群、番田山古墳群、晩田山古墳群、松尾頭古墳群という、この地域を治めた有力者のお墓がつくられました。 |
ムラの終わりと古墳の築造
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ムラの終わりと古墳の築造
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5世紀頃
東アジアの中の日本列島
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周辺古墳群
妻木山古墳群
晩田山古墳群
番田山古墳群
松尾頭古墳群 |
晩田山3号墳
前方後円墳
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170交易
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171大陸との交流 -海流にのって-
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大陸からもたらされた鏡、鉄斧や鉄刀、ガラス製品などは、権威の象徴となる貴重な品物です。
これらの品物には、鏡のように北部九州を経由してもたらされたものもありますが、
朝鮮半島製のタピや有肩鉄斧などの様に、多量の鉄器が出土する北部九州で出土しないものもあり、
対馬海流に乗った船団が直接日本海沿岸地域に交易に訪れたことを示す資料と考えられます。 |
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大陸との交流
-海流にのって- |
大陸との交流
-海流にのって- |
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大陸との交易 |
北部九州を経ず、直接半島から日本海航路でもたらされた交易品
鉄刀・鉄剣 |
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宮内第1遺跡 |
素環頭刀子 |
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青谷上寺地遺跡 |
ガラス製異形勾玉等 |
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西谷3号墳 |
ガラス釧 |
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大風呂南1号墳 |
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172列島を取り巻く海流と交易
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175潟湖でつながるムラとムラ
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潟湖は、砂州などが湾口に発達するなどして、外海と隔てられ、できた浅い湖です。波が穏やかで舟を係留し安いことから、日本海を東西に結ぶ港として最適な場所でした。
交流の証として、作り方やデザインが同じ鉄器や漁撈具、玉製品、木製品などが日本海沿岸の遺跡から出土しています。
また、潟湖に注ぐ河川を遡れば、内陸のムラとも交流できます。サヌカイトや分銅型土製品といった祭祀具は、中国山地をこえて流通した代表的なものです。 |
潟湖でつながるムラとムラ |
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石錘
妻木晩田遺跡
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土笛
西川津遺跡
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結合式釣り針
青谷上寺地遺跡
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有帯袋状鉄斧・鉄器素材
妻木晩田遺跡
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水晶の玉作り
平所遺跡
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分銅型土製品
妻木晩田遺跡
目久美遺跡
新山山田遺跡
宗像前田遺跡 |
石器素材サヌカイト
青谷上寺地遺跡
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177
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花弁高坏
青谷上寺地遺跡
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ヒスイの勾玉
青谷上寺地遺跡
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玉作り資料
林・藤島遺跡
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ヒスイの勾玉
青谷上寺地遺跡 |
日本海沿岸の主な潟湖及び潟湖跡 |
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180洞ノ原地区
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洞ノ原地区には、弥生時代後期初頭(1世紀中頃)に環濠やムラの有力者とその家族を葬った墳墓がつくられました。
その後、弥生時代後期後葉(2世紀後半)になると、新たなお墓は造られなくなり、環濠もほとんど埋まっていました。
この頃「妻木晩田ムラ」は最盛期を迎え、洞ノ原地区も日常生活の場へと変わっていきました。
現在、洞ノ原地区はこの時期(2世紀後半)の姿を復元しています。ここにある建物は発掘調査の成果をもとに、できるだけ当時の方法を使って復元したものです。 |
鳥取県観光マップ |
洞ノ原地区へ |
洞ノ原地区 |
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洞ノ原地区 |
妻木晩田遺跡
各地区 |
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200洞ノ原地区の復元遺跡
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201
8月1日、夏の盛りの
山陰は、涼しいと思っていた |
夏は太平洋から南風が吹き、中国山地を越した風は |
フェーン現象を引き起こし、断熱膨張で大変な高温となりました。 |
気温38℃以上
頭の先から足の先まで |
ウツギの花
高校生までめでた花 |
あつい |
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202洞ノ原墳墓群 1世紀中頃~2世紀前半
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洞ノ原地区には1世紀中頃から2世紀前半にかけて、25基のお墓が造られました。
このうち11基は、その形状から「四隅突出型墳丘墓」と呼ばれる山陰地方の有力者が好んで作ったお墓です。
また、大きなお墓の周りに1辺1~2mの小さなお墓がいくつもあります。大きなお墓に眠る有力者の子供のお墓でしょうか。
※なんで子供の墓が小さいの? 子供も大人になれば大きな墓を欲しがる。子供は小さいうちにみんな死んだのかい。きっと陪塚だよ。
このほか、妻木晩田遺跡には仙谷地区、松尾頭地区に墳墓群がありますが、この洞ノ原墳墓群はこれらのうち最も古いものです。
ここには「妻木晩田のムラ」を築いた人たちが眠っているのかもしれません。 |
洞ノ原1号墳
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妻木晩田遺跡で最初に作られた四隅突出型墳丘墓です。墳丘の裾及び斜面には、丁寧に石を貼り付けています。北側の突出部がやや長く、
踏み石を並べて墓道として使われたと考えられます。墳丘上には壺・甕・高坏等が供えられているのが発掘されました。
時期:弥生時代後期初頭 約2000年前
規模:長辺6.5m短辺5.4m
突出部を含めた長辺8.9m |
洞ノ原1号墳
北側突出部 |
洞ノ原1号墳 |
洞ノ原1号墳 |
発掘時の様子
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洞ノ原1号墳
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203
洞ノ原2号墳
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1号墓より早く、妻木晩田遺跡で最初に作られた方形墳丘墓です。墳丘の裾には大きめの石を立て並べています。斜面には石を貼り付け、東済には大きな石が置かれていました。
墳丘上には壺・甕・脚付鉢等の土器が共献されているのが発見されました。
時期:弥生時代中期末~後期初頭
規模:長辺8.4m短辺6.9m高さ0.5m |
洞ノ原25号墳 |
洞ノ原7号墳
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方形区画墓 |
洞ノ原2号墳 |
洞ノ原2号墳
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洞ノ原2号墳 |
洞ノ原2号墳 |
洞ノ原2号墳発掘時 |
四隅に置かれた石 |
小さな
四隅突出型墳丘墓 |
配石墓 |
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205洞ノ原地区西側丘陵 2世紀以降 最盛期
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洞ノ原西側丘陵は、妻木晩田遺跡が最盛期を迎える2世紀以降、竪穴住居が造られ、人々の生活の場となっていきます。
現在、竪穴住居と倉庫を2棟ずつ復元しています。
背景には豊かな平野と穏やかな美保湾が広がり、弓ヶ浜、島根半島を望むことが出来ます。
向かいにある壺甕山の裾から東に長く伸びる淀江の町並みは、かつての砂州に沿っており、弥生時代にはその南側が湖沼となっていました。
「山島に依りて国邑を為す」と中国の史書に記された、弥生時代の集落景観を彷彿とさせる情景です。 |
洞ノ原地区西側丘陵 |
ノ原地区西側丘陵
丘陵突端の環濠集落 |
土屋根竪穴住居 |
高床倉庫 |
草屋根竪穴住居 |
島根半島
弓ヶ浜・美保湾・
島根半島 |
米子の街と弓ヶ浜
遠くに島根半島 |
環濠の内側 |
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208晩田山古墳群
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弥生時代後期後葉(2世紀後半)に最も栄えた妻木晩田遺跡も、3世紀になると次第に衰えていきます。古墳時代になると建物がほとんどなくなり、
古墳が造られました。
この洞ノ原地区にも30基余りの古墳があり、「晩田山古墳群」と呼ばれています。ここから環壕地区を見下ろすと小山が点々と見えますが、その一つ一つが古墳なのです。
洞ノ原地区には弥生時代の墳墓群もあります。弥生時代の有力者も古墳時代の有力者も、この眺めの良い場所で安らかに眠りたいと思ったのでしょう。 |
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