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 四国の考古博物館1 06  2019.03.08-1

  さぬき市歴史民俗資料館  香川県さぬき市大川町富田中3286  0879-43-6401 水曜休館 撮影可


交通 レンタカー

 香川県の博物館事情
香川県埋蔵文化財センター 撮影可・掲載禁止 重要遺物の展示無し
さぬき国分寺資料館 撮影可 撮影するものがほぼ無い
高松市埋蔵文化財センター 撮影可 撮影するものが全く無い
高松市歴史資料館 撮影禁止が多い 方形の浅鉢などある
香川県立博物館 全面撮影禁止 撮影禁止の為、何があったか覚え無し

 おことわり
  館内展示では、館長の膨大な文書が掲示されています。さすがに全てを文字化することが出来ません。
  ご自身でお読みいただくようお願い申し上げます。
  館長の丹念な調査と、博識に加え、超人的な努力の跡がよくわかります。

  館長は文献考古学の達人であるとともに、高齢ですが最新科学技術を使いこなす達人でもあります。
 
目次
01徳島駅駅前の交差点
 人工地盤

02さぬき市歴史民俗資料館外観
 入口展示
10讃岐の年表

20古代
21讃岐市の古代寺院

30地方政権
31寒川郡の地方豪族
32律令国家の成立と地方
33寒川郡と郷
 条里制と南海同


40展示
41さぬきのあけぼの
45古代史年表

70旧石器時代
80縄文時代

100弥生時代
116さぬき市主要遺跡
121巴形銅器
122勾玉と石製品

130弥生遺跡
131弥生人の生活と地域間ネットワーク
140弥生墳丘墓
141 Ⅲ弥生人の墓
143円形周溝墓(前方後円墳の基礎)

200古墳時代
210Ⅳ古墳時代社会の統合と大和政権の支配
214古枝古墳
215奥14号墳
216奥3号墳

220Ⅳ古代社会と大和政権
221津田古墳群
222赤山古墳
231中国鏡
233鉄製品
235石枕・埴輪

250大和政権の成立と大陸文化の受容
251四国最大の古墳
260家形埴輪

270Ⅴヤマト政権の確立と大陸文化の受容
400大和政権の確立と大陸文化の受容
411火山石の刳抜式石棺
413陵遺跡の須恵器
424川上古墳
425馬具
426大井七ツ塚4号墳

考察 子持ち壺祭祀

427装飾付須恵器

430川上古墳
431古墳の知識
 名前と埋葬施設
 古墳のある場所
432年表
433甲冑

440Ⅵ古墳文化の変化そして古墳の終末へ
443天王山古墳
446蓑神5号墳

460さぬきの古墳

500古代仏教文化
510古代寺院の瓦
531移動式カマド
532森広遺跡の条里制
535千町遺跡 溝出土物

540民衆の負担と移動・移住
541東北捕囚人の竪穴住居跡

 奈良時代
560民衆の生活
561生活の変化・火葬・経塚

600中世
613さぬき市内の荘園

630中世社会の幕開け
641武士の屋敷と中世の人々の暮らし

660室町時代
 Ⅲ室町幕府の成立と社会
661室町時代の商業の発達
662さぬき市の中世石造物
663Ⅶ戦国の争乱と城郭
665昼寝城跡出土物
667安富氏と寒川氏
671雨滝城跡

700近世
701義民
702火縄銃づくり

 

 01徳島駅駅前の交差点

 徳島市は関空や伊丹空港から沖縄や台湾に向かうとき、また帰るときにしょっちゅう目にしていました。
  吉野川の河口で、吉野川の中にできた中州に発達した都市です
  先日、NHKブラタモリを偶然見かけて、やはり、江戸時代から中州で発達した都市であると確認しました。

 徳島駅前の人工地盤
  私が行ったことのある街では、仙台市・下関市などと同じ、歩道を二階建てにし、中心商業地域の複層構造化を図っています。
  東海・東南海・南海の巨大地震が確実な今日、海抜0mに近いこの地域では、緊急避難場所として有効活用することが出来そうです。

徳島駅前元町交差点

徳島駅方向

徳島駅

駅と反対方向

東方向

西方向

 徳島市が阿波踊りで有名な街だとは、現地に行ってから気が付きました。もっといろいろなイベント関連のものも見られたかもしれません。

 





 02さぬき市歴史民俗資料館 外観

  徳島駅前からニコレンで借りて行きました。親切に、高速経路を外し一般道経路にしてくれたため、2時間掛かりました。
  時短の為、高速をお勧めします

  今日、この後、さぬき市歴史民俗資料館→徳島県埋文徳島県立考古資料館徳島県立博物館を見学しました。


 アクセス注意
  さぬき市歴史民俗資料館は、みろく自然公園の中にあります。ここではカーナビが全くデタラメに案内して、迷って迷って困りました。。
  そのため、この地図経路を頭に入れておいてください。「手打ちうどんまるたけ」の前の進入路を左折し直進、突き当りを右折して駐車場に入る。

歴史民俗資料館
この三棟が展示館です

第1棟には膨大な民具・農具があります。

百年もすれば骨董的価値が出るかと思います。

この棟の右側のほんの一部が考古展示です
考古展示室
館長が必死で確保した空間に見えます。

 この資料館では、沢山の民具が展示場を占拠し、考古展示場は、館長が作った秘密基地か隠し部屋のような場所に展示されています。
  本当に狭いのですが、館長さんが日夜手作りで沢山の掲示資料・パネルやホームページも作っておられます。
  低予算の中での最高の運営をされていました。素晴らしいです。
 

 10讃岐の出来事(年表)
   この年表は、館長がA3プリンターで作られたものです。

 11原始

さぬきの出来事 縄文~弥生時代 東アジア・日本の出来事 さぬきの出来事 縄文晩期の製塩土器

弥生時代
 鴨部・川田遺跡の人面土器
 弥生前期の環濠集落・弥生時代の土偶
 壺棺墓・対人用石鏃
 森広遺跡の円形周溝墓前方後円墳の原型
弥生末~古墳時代 東アジア・日本の出来事
さぬきの出来事
うのぺ山古墳積石塚(朝鮮半島の墓制)
半島人が渡来後、僅かな間に土地を占領し、民を支配し、権力を得て
半島式墳丘墓を築造した。軍隊を率いて来たに違いない。

積石塚の所在地
香川・徳島、長野・甲府盆地、対馬、山口県見島、宮崎・愛知・静岡・群馬
特に福岡県相島積石塚古墳群、長野市大室古墳群、等々が有名。

前期前半の埋葬方向は東西。(望郷の為か)。その後は南北方向
 12古代
東アジア・日本そして 古墳終末期~飛鳥時代
東アジア・日本の出来事
さぬきの出来事
7~8c世紀頃須恵器の窖窯(あながま)
 末1号窯跡
7c末讃岐国が成立

 飛鳥~奈良時代 東アジア・日本の出来事
 
さぬきの出来事8c
 
708年から国司が赴任し、以後480年間、守・介・掾・目によって統治された。
大宝律令によって、国の支配体制と、国衙・郡衙等が整備された。
780年坂本毛人墾田を寄進とあり、これは縄文人のことなのか。
791年牛養とあるのは、この頃、牛が飼育肥培されていたのかな。
奈良時代末~平安時代 日本の出来事
さぬきの出来事
9c-11c
821年空海が満濃池の修築にあたる
886-890菅原道真が讃岐の神に任ぜられる
933年南街道に警護使を置き海賊追補を行う
940年藤原純友ら讃岐国を襲い、国府を焼く

唐風文化と国風文化
天平文化は8世紀中頃までをいう
唐風文化は平安京遷都後9世紀末頃までの文化(平安前期まで)
国風文化は平安中期後期(10世紀初め~11世紀の摂関政治の頃を中心とする文化であり、12世紀の院政文化にも影響を与えた。)
 


 20古代
7世紀後半になると日本では中央集権国家体制が進められました。地方組織として全国を畿内・七道に区分し国・郡・里を置き、国司・郡司・里長を任じて、行政組織を確立しました。民衆は戸籍・計帳に登録され6歳以上の男女に一定の口分田が与えられ、これを基に租・庸・調・雑庸の負担が課せられました。

こうした律令体制は8世紀半ばには人口増加によって口分田が不足するようになり、743(天平15年)に、政府は墾田永年私財法を発し、開墾した田地の私有を永年にわたって保証するようになりました。その結果、貴族・寺院や地方豪族達は私有地拡大を進めることとなりました。
一方、農民は兵役や労役の負担が大きく貧富の差が増大しました。困窮した農民は他国に浮浪したり逃亡したりして地方豪族のもとに身を寄せるものが増えました。

富裕になった農民は10世紀頃になると田地の耕作を請け負うようになり、11世紀には開発領主に発展して所領にかかる税の負担から逃れるために所領を中央の権力者に寄進し(=寄進地系荘園)、負担の免除や国衙の使者の立ち入りを認めない特権を得るようになります。このような荘園が各地に増加し社会が大きく変容していきます。

9世紀末から10世紀にかけて地方政治が大きく変化していく中で、地方豪族や有力農民は勢力を維持・拡大するために武装するようになります。
こうして武士の時代が到来し、次の中世の時代に変遷していきます。
 21讃岐市の古代寺院
古代
7世紀後半の讃岐
上に記述
さぬき市の古代寺院
7世紀後半に讃岐にも寺院が盛んとなる。
さぬき市の古代寺院
豪族の権威を示す大陸風建物だった。
さぬき市内の飛鳥時代建立の寺院
条里制の跡が残る讃岐の地図
近接した場所に4ヶ寺もの寺院が建立。
豪族の勢力範囲が近接して狭かったと言える。

奈良でも、沢山の氏寺が乱立している。それだけ多くの権力者・超富裕層がいたということになる。
 
 23古代寺院1
下り松廃寺
瓦は、7c後半白鳳期~8c奈良時代

重複しています
願興寺
830年創建
石井廃寺
瓦は7c後半白鳳期~13c鎌倉時代
 24古代寺院2
極楽寺跡
8c中期創建後移築
極楽寺跡 鴨部の極楽寺跡 長尾の極楽寺跡
 
 30地方政権
 31寒川郡(さんがわ)の地方豪族
寒川郡の地方豪族 寒川郡の地方豪族
791年頃の国造が
讃岐氏の姓を願う

讃岐氏の史実

中世の讃岐氏
物部は馬借・馬の飼育

渡来人の牛飼い
平安京出土木棺
寒川郡の銘



 32律令国家の成立と地方
7世紀後半になると日本は唐の律令にならいながら、中央集権体制を整えていきました。
701(大宝元年)に大宝律令が完成し、中央と地方の政治の仕組みがほぼ整いました。地方組織は全国が畿内・七道に行政区分され、国・郡・里(後に郷)が置かれ、国司・郡司・里長が任じられました。国司が中央から貴族が派遣されたのに対して郡司は地方豪族が任じられました。郡司は郡の役所である郡家(郡衙)を拠点として郡内を支配しました。

さぬき市内では郡家の位置は確定していませんが、大川町千町遺跡で確認された7c後半から8c前半の総柱建物は正倉の可能性があり、周囲に郡衙遺構が広がっている可能性があります。

10世紀初めの平安中期になると律令制の行き詰まりが明瞭となり、これまで税の徴収・運搬や文書の作成などの実務を行ってきた郡司に変わり、有力農民(田堵)に田地の耕作を請け負わせるようになります。

こうして郡衙は衰退していきますが、寒川町横内遺跡では規則的に配列された10世紀の大型総柱建物2棟と掘立柱建物跡3棟を検出しました。
遺跡の特徴からは官衙遺構が想定されますが年代を考慮すれば社会の変化に伴って出現した新たな施設となる可能性もあります。

律令国家の成立と地方
上に記述
千町遺跡の柱穴 構内遺跡の柱穴 参考・武蔵国都築郡家
長者原遺跡復元模型

上段の木簡写真の解説
右大臣藤原の良相邸より寒川郡難破郷の名のある木簡出土


 33寒川郡と郷

 条里制と南街道
田地は6町四方に区画され、一辺を条他辺を里と呼び田地は何条何里何坪で表示されました。1町は一辺約109mの方形区画になります。
各地に見られる碁盤目状の土地区画は条里制の痕跡であることが多く、香川県内でも発掘調査によって複数個所で7世紀段階での存在が明らかになっています。さぬき市内でも条里制の区画は明瞭に残されています。

次に、律令国家は地方組織として全国を畿内・七道にに擬陽性区分しましたが、香川県は南街道に属します。そして、中央と地方を結ぶ交通制度として官道(駅路)が整備され、約16km毎に駅家(うまや)を設ける駅制が敷かれました。

さぬき市内では官道は東西に直線的に伸びており、近世以降の讃岐往還、長尾街道に一部は継続していったと考えられています。駅家は香川県では東から引田、松本、三谿、河内、甕井、柞田の6駅があり、松本駅はさぬき市あるいは東かがわ市が想定されていますが、未だ特定できていません。



寒川郡と郷 条里制と南街道
上に記述
将基山南東部の条里制・南街道の復元と空中写真 さぬき市内に残る
条理地割
 


 40展示



 41さぬきのあけぼの

 原始コーナー
旧石器時代から古墳時代までを展示しています。

さぬき市に人々が住み着いたのは出土遺物から縄文時代草創期に遡ります。
縄文時代は狩猟・祭祀夕を生活の基礎としました。続く

弥生時代は水稲農耕が大陸から伝わり社会が大きく変化していきます。身分差が生じ支配者が出現しました。
やがて地域同士の争いが頻発し、地域統一が進みます。そして、

古墳時代になるとヤマト政権を中心とした初期国家の誕生に至ります。この間のさぬき市の歴史を遺跡・遺物を通じて見ていきます。

 Ⅰさぬき市のあけぼの
地球上に人類が登場したのは約700万年前と考えられています。日本列島に人類が渡来したのはしばらく後のことで、確実なのは約4万年前頃です。
さぬき市では今のところ旧石器時代の人々の痕跡は発見されておらず、約1万年前の石器が最初の人々の痕跡になります。

縄文時代後晩期になると鴨部南谷遺跡や石仏遺跡などで、土器・石器が出土しており、さぬき市内でも各地で人々の痕跡が窺えるようになります。

弥生時代になると大陸から水稲稲作が伝わり、社会は食料採取から食料生産の段階に入っていきます。
鴨部・川田遺跡は弥生時代前期の環濠集落で、弥生土偶などが発見されています。

弥生時代中期になると、丘陵上に遺跡の分布が目立つようになり、また、石鏃が大型化します。
中国の歴史書に記録されている「倭国大乱」との関りが推測されます。

弥生時代後期になると、再び平野部に遺跡が造られるようになり、遺跡数が著しく増加し社会の発展がみられます。

弥生時代早期 紀元前11世紀~
弥生時代前期 紀元前8世紀~
弥生時代中期 紀元前4世紀~
弥生時代後期 紀元50年~
古墳時代     3世紀後半~   引用弥生時代の主な出来事


原始コーナー
上に記述
Ⅰさぬき市のあけぼの
上に記述
鴨部・川田遺跡環濠集落 弥生土偶
鴨部・川田遺跡
 45弥生~古代
さぬきの古墳年表 弥生~古墳前期
57年奴国王金印拝受
147-189年頃倭国大乱
239卑弥呼魏に遣使
266壱与西晋に遣使

391倭高句麗に敗北

古墳中期 5世紀
413-478倭の5王宋に遣使
巨大古墳の築造
古墳後期~古代
6世紀~7世紀
 
 



 70旧石器時代


 71

木葉形尖頭器
国分台(坂出市)

ナイフ形石器
国分台(坂出市)
 
 



 80縄文時代


 81

土器(晩期)石仏遺跡(大川町)

口縁部に刻目突帯文のある土器

石器(晩期)石仏遺跡(大川町)
サヌカイト片・石鏃未成品・石錐・縦型石匙・ハンマーストーン

東北型縦長石匙がなぜここで作られたのか。

土器(縄文後期)
鴨部南谷遺跡(鴨部)
↑渦巻きの中心に穿孔が意匠され、更にその部分を二次加工で円形にした土製品がある。

①穴を開けた土器
②ちょうどその部分を利用した紡錘車のような加工。山梨県付近の死者の頭に乗せた死に装束か

石鏃 大山(津田町)

石器石鏃 大山(津田町)
 



 100弥生時代


 111

鴨部・川田遺跡環濠集落 弥生土偶
鴨部・川田遺跡
 
 112弥生前期
弥生前期の遺跡
弥生前期後半
陵遺跡(長尾名)

石包丁 弥生時代
鴨部南谷遺跡(鴨部)

弥生前期後半
陵遺跡(長尾名
 113弥生中期
弥生中期後半の遺跡
弥生中期後半
土器・石器
前山遺跡(長尾名)

弥生中期後半
土器・石器
前山遺跡(長尾名

弥生中期後半
土器・石器
前山遺跡(長尾名

弥生中期後半
土器・石器
前山遺跡(長尾名

弥生中期後半
土器・石器
前山遺跡(長尾名
 114弥生後期
弥生後期の遺跡 弥生中期後半
土器石器
石鏃(様々な形あり)
北山山頂遺跡(津田町)
弥生中期後半の土器
北山山頂遺跡(津田町)
 



 116さぬき市主要遺跡
  この巨大なパネルは、館長がA3プリンターとペイントソフトを使って作られたものです。
  一部の古代道路などは、館長自身がGPSを帯同して歩き、そのデータをGooglemapに送って記入してもらい、その上でプリントアウトされています。
 117
さぬき市主要遺跡
 118
 




 120弥生時代




 121巴形銅器
明治44年(1911)森広神社東側から8点が一括して発見されました。スイジガイの形態を模した呪具との意見がありますが詳しい用途は不明です。
古墳からは革盾に装着されていた事例があります。
8点中3点は平成10年(1998)に福岡県春日市九州大学筑紫地区遺跡群で出土した巴形銅器の石製鋳型と同じ鋳型であることが判明しました。

 巴形銅器
明治44年4月、現在の森広天神境内東側を開墾作業中、地下約30cmから8点の巴形銅器が一括して発見されました。
森広遺跡の名前を広く学会に知らせた銅器であります。

巴形銅器はその特異な形態から、スイジ貝を模したものとか太陽を表現したものといった推測がなされていますが、実態は不明です。
弥生時代に属するものは全国でも22点しか発見されていない貴重な遺物であり、その内8個は、本町(ほんちょう)で発見されました。

出土したものは、截頭円錐形の本体に左回りに旋回する7本の脚状の突起をつけたものです。形態的にみて頂部の径が大きく器高の低い3例と、
頂部の径が小さく器高の高い5例の2種類に分類することが出来ます。

出土状況から一括して埋納したものと考えられています。
これらは現在全てが東京国立博物館に所蔵されていますが、寒川町制施行40周年を記念して複製品が作成されました。

巴形銅器の製作地
九州大学筑紫地区遺跡→森広天神遺跡へ
巴形銅器
上に記述
巴形銅器
上に記述
巴形銅器 スイジガイとイモガイ

  九州大学筑紫地区遺跡は奴国の遺跡であり、森広天神遺跡は、その流通範囲に属していた



 122勾玉と石製品
各地から様々な勾玉が出土しています。寒川町布勢遺跡では蛇紋岩製と碧玉製の、大川町寺田遺跡では蛇紋岩製の大型勾玉が発見されています。
お墓からは大川町大井遺跡で土器棺の中から大型の翡翠製が、寒川町極楽寺墳墓群では蛇紋岩製が発見されています。

蛇紋岩やヒスイは地元では採石できず、蛇紋岩の一部は徳島県、ヒスイは新潟県の石材と判断でき、それぞれの地域との交流が指摘できます。

勾玉と石製品
上に記述

勾玉(蛇紋岩)寺田遺跡(大川町寺田)
勾玉(ヒスイ)大井遺跡
(大井町大井)

勾玉(蛇紋岩・碧玉)
布勢遺跡(寒川町石田)

管玉・ガラス玉
極楽寺墳墓群
(寒川町石田)

勾玉(蛇紋岩)極楽寺墳墓群(寒川町石田)
勾玉(蛇紋岩)陵遺跡(長尾名)

石包丁(結晶片岩)
石鏃(サヌカイト)
 極楽寺墳墓群
 (寒川町石田)
 



 130弥生遺跡


 131弥生人の生活と地域間ネットワーク
弥生時代の人々は円形や方形に地面を掘った竪穴式住居に住んでいました。
生活には様々な道具が使用されたと思われますが、現在発掘調査等で発見されるのは腐食せずに残されたごく一部の道具で、その主なものが土器と石器です。
土器には食物や水を貯蔵する壺、煮炊き庸の甕、食物を盛る高坏や鉢などがあります。
これらの土器を調べることによって当時の生活スタイルが復元でき、また、その変化を捉えることによって弥生社会の変遷を読み取ることができます。

一方、土器の形や土器に含まれている砂礫、石器の石材からは他地域から搬入されたものを明らかにできます。
また、青銅器は鋳型を使用して製作しますが、鋳型の形と製品の形を比較することで出土地と生産地との関係を明らかにできます。

このような考古学的な研究によってさぬき市の弥生社会では活発な他地域との地域間ネットワークがあったことが判明してきています。

弥生人の生活と地域間ネットワーク
上に記述

 133寺田遺跡 さぬき市大川町富田西  縄文晩期、弥生中期、弥生後期、古墳前期

寺田遺跡では古くから土器の出土が伝えられていました。そして、1971(昭和46)の道路工事に際して4棟の竪穴住居跡が発見され、多数の土器片が出土し、遺跡の性格が明らかになってきました。

平成22(2010)年の調査では、昔の川跡や溝が見つかり、その中から弥生人が捨てた沢山の土器が出土しました。
また、竪穴住居1棟、子供のお墓である土器棺が1基発見されています。出土遺物の中で注目されるのが大型の勾玉です。蛇紋岩製でした。

遺跡から出土した土器からこの場所で人々の生活が最も活発に行われた時代は弥生時代後期であることが明らかになりました。
そして、古墳時代前期になると少しずつ衰退し、津田古墳群が臨海地域の津田湾沿岸に集中して古墳を築造する頃には、ほぼ生活の痕跡がなくなることが明らかになってきました。 

寺田遺跡
上に記述

寺田遺跡
現さぬき南中学校
寺田遺跡出土土器



鉢・高坏・壺

 135大井西遺跡
竪穴式住居跡
大井西遺跡(大川町)
竪穴式住居跡
陵遺跡
 
 137森広遺跡



森広遺跡竪穴住居跡
 


 140弥生墳丘墓




 141Ⅲ弥生人の墓

古墳時代になると各地に前方後円墳を大費用とする古墳が、豪族や王の墓として築造されますが、弥生時代にはすでに大規模な墳丘を持つ墓が出現しています。
さぬき市でも弥生時代後期から各地で弥生墓が発見されていますが、
  家族墓(極楽寺墳墓群)
  支配者の墓(奥10号墓、奥11号墓
  乳幼児の墓(森広遺跡、寺田遺跡)  
など、様々な性格の墓が見られ、また、墓の立地場所は、
  丘陵上に築造されたもの(奥10号墓、奥11号墓)
  平野に築造されたもの(森広遺跡、尾崎西遺跡、陵遺跡)
  墓域を形成するもの(古枝6号遺跡)など様々で
  墓域を形成しないもの(寺田遺跡土器棺墓)
など様々であるのが特徴です。
大規模な墳丘墓を持つ墓は支配者の墓と推測されますが、
  竪穴石室を設けたもの(奥10号墓、奥11号墓)
  前方後円墳の墳丘になっているもの(森広遺跡、尾崎西遺跡)
古墳の葺石のような墳丘斜面に石材を使用しているもの(森広、尾崎西遺跡)
などがあり、次の古墳時代へと発展していく要素をすでに弥生墓の中に見ることが出来ます。


Ⅲ弥生人の墓
上に記述
極楽寺墳墓群
(さぬき市寒川町)
さぬき市の墳墓群
土器棺 土器棺 寺田遺跡
大川町富田西
古枝西遺跡
大川町富田西


 143弥生墳丘墓円形周溝墓
奥10、11号墓は直径約15mの円形の墳丘になっています。墳頂には竪穴石室があり、津田古墳群の首長に繋がるような権力者の墓と考えられる。
竪穴石室を東西に向けている特徴は、奥3号墳、奥14号墳など津田古墳群に継承されていく要素といえます。

墳丘上には葬送儀礼などで使用された土器が出土していますが、集落遺跡では見られない珍しい土器があり、吉備地域との関りが指摘されます。
尚、大川町古枝4号遺跡の弥生墳丘墓からも同様の土器が出土しています。

弥生墳丘墓
上に記述
森広遺跡
寒川町石田東
尾崎西遺跡
長尾東
陵遺跡
長尾名
 

 145奥10号墓 弥生時代後期 さぬき市寒川町神前奥
尾根稜線上に造られた弥生時代のお墓です。は全地形を利用しながら人工の盛り土を加えて墳丘にしています。
形は方形か円形かはっきりしません。墳丘の東側には自然地形から区別するために幅1m深さ0.3mの溝が掘られています。
また、南側にはと字違法声の列石が施されています。ここから墳丘の大きさは1辺14m高さ2.5mと考えられます。

墳丘の頂上には竪穴式石室と土器棺の埋葬施設が見られます。竪穴式石室は東西方向に向いており、石積は上方に向かって外開きしています。
石室に石蓋は見られず、木蓋が使用されていた可能性が指摘されています。

石室の上面には石室の長側面に一致した長さ1.7m幅0.75mの範囲にこぶし大の石が集中していました。そして、その東端には幅50cmの少し大きな平石が置かれ、その上部や周囲から壺・器台・高坏・鉄片などが出土しています。

※一辺14mの墳丘(土盛)に、長辺1.7m幅0.75mの積み石をして、周囲に平石を置いた積石墓だったようです。

奥10号墳
上に記述
奥10号墓
寒川町神前
壺棺・甕棺に高坏で

蓋をしたものです。
この長頸壷はどこかで見ました。

白山市の四隅突出墓からということは、出雲から伝わったものかもしれない。
 

 147古枝6号遺跡 前方後円墳 全長35m 粘土槨 中国製鏡やガラス玉、管玉

古枝6号遺跡
大川町富田中
 

 149奥11号墓 弥生後期 さぬき市寒川町神前奥
奥10号墓から更に上に行った尾根の頂上にあります。ここから西側には広く平野が見渡せます。
墳丘は自然地形を利用し、人工の盛り土はわずかです。墳丘は直径16mの円形で高さ1~2mです。墳丘のすそ付近は浅い溝が巡らされており西側には礫が乱雑にみられ、墳丘の剣斜面に並べられていた可能性が考えられます。

頂上には竪穴式石室2基と土坑が1基、土器棺が1基見られます。2基の竪穴式石室は共に東西を向いています。
竪穴式石室には石蓋がなく、10号墓同様に木蓋が使用されていた可能性が指摘されています。
主ッド遺物は竪穴式石室の上面に見られ、壺、器台、高坏などが発見されています。

奥11号墓
上に記述
奥11号墓 古枝4号遺跡
大川町
奥10号墓、奥11号墓の土器はよく似ており、
古枝6号遺跡の土器はやや新しいように見えます。
 
 





 200古墳時代




 
 
 
 210 Ⅳ古墳時代社会の統合と大和政権の支配

古墳時代になると各地に前方後円墳が豪族の墓として築造されます。
さぬき市でも丸い古墳、億14号墳、うのべ山古墳に古墳出現期の事例が見られます。

古墳時代前期前半段階は各地に同規模の前方後円墳が展開し、古墳の特徴に在地的な性格が色濃く窺えます。

古墳時代前期後半段階になると長塚原古墳群で前方後円墳が築造されなくなり、豪族の墓は津田湾沿岸部の津田古墳群集中するようになります。
墳丘規模は2倍近くになり、権力の増大と地域統合の動きが見て取れます。

津田古墳群では、香川県内の他の地域の古墳に先駆けて在地色を脱し、ヤマト政権と密接なかかわりをもつようになったことが墳丘の特徴や鏡などの副葬品から窺えます。

古墳時代中期に入ると津田古墳群も終焉しますが、それと表裏一体として内陸部に四国最大の前方後円墳である富田茶臼山古墳が出現します。

富田茶臼山古墳は盾形の周濠、三段築成の墳丘、陪塚を伴う点からヤマト政権の中心地である近畿地方の古墳と類似点が多く見らます。
富田茶臼山古墳のシュッ減は、ヤマト政権による地域支配の完成を意味するようです。

 212
Ⅳ古墳時代社会の統合と大和政権の支配
上に記述
丸井古墳 長尾西 うのべ山古墳
津田町鶴羽
 213
三角縁波文帯神獣鏡
是行谷古墳群 長尾東
三角縁波文帯神獣鏡
中国鏡
土器片
稲荷山古墳 長尾西
広口壺の口縁部
うのべ山古墳
津田町鶴羽
鉄鏃・鉄斧
丸井古墳 長尾西
画文帯環状乳神獣鏡
中国鏡
丸井古墳 長尾西
管玉(碧玉)・
小玉(ガラス)
第1石槨出土
丸井古墳 長尾西
管玉(碧玉)・
小玉(ガラス)
第1石槨出土
丸井古墳 長尾西
土器

奥14号墳 寒川町神前

 214古枝古墳

古枝古墳
大川町富田西
鉄鏃 管玉(碧玉)・ガラス玉
斜縁二神二獣鏡
中国製
粘土槨出土
方格T字八鳳鏡
中国鏡

竪穴石核出土

 215奥14号墳 寒川町神前

鉄剣
1号石槨出土
鉄斧・管玉・ガラス玉
画文帯神獣鏡 R12.9cm
古墳前期
画文帯神獣鏡 R14cm
古墳前期
土器片

 216奥3号墳

袋状鉄斧
左:竪穴石核出土
右:箱式石棺出土

鉄剣(布巻)
竪穴石槨出土
三角縁神獣鏡 魏鏡
R22.7cm 古墳前期
奥3号墳出土物
 



 220Ⅳ古代社会と大和政権





 221津田古墳群
海に面した津田湾沿岸と河川・陸路によって山を越えて繋がる内陸部の両地域に築造された12基(現存9基)の首長墓群です。

古墳時代前期初頭から中期初頭まで連綿と古墳が築造され、津田古墳群の古墳築造が終焉した頃に、内陸部に四国最大の古墳富田茶臼山古墳が出現することから、富田茶臼山古墳との密接な関わりが指摘できる古墳群になります。

古墳の展開は前期前半と前期後半とでは変化が見られ、
前半段階は香川県の他地域の古墳に共通する在地色の強い古墳が築造されたのに対し、
前期後半になると在地色を衰退させ、畿内地域の古墳と密接な関りが見られるようになります。

※在地色の強い古墳築造とは石積墓。畿内色の強い古墳とは土盛り(石葺は不明)の古墳という意味でしょう。

また、古墳を築造する場所は沿岸部に集中するようになり、海を介した外部勢力との交流が古墳立地から推測されます。
※海に面して古墳群を形成するのは、大阪府百舌鳥古墳群と同じで、外国勢力に対するデモンストレーション、として造られました。
※古墳の形態が、前期後半から畿内式に変わり、最後に巨大古墳が築造されたのは、交通の要所である津田湾を管轄する首長に、畿内人が派遣されたのか、畿内の古墳文化を古墳築造技能集団が指導したのかもしれません。

この時期の津田古墳群には埋葬施設に火山(ひやま)で採石される凝灰岩(火山石)を使用した刳抜式石棺や蓋石が採用されており、また、火山石製刳抜式石棺は大阪府や岡山県、徳島県など外部地域の首長墓からも確認されており、刳抜式石棺の首長分布からも首長間交流を具体的に知ることが出来ます。


津田古墳群
上に記述
富田茶臼山古墳と
他の古墳との比較
奥3号墳

竪穴式石積石槨

羽立・津田川グループ
鶴羽・相地グループ
赤山古墳
津田町鶴羽
画面左に、石棺が外されて放り出され、中央部に大きな穴があけられて 
盗掘・破壊されています。
一つ山古墳の刳抜式石棺
津田町鶴羽

 222赤山古墳 津田町鶴羽


管玉6
勾玉1
小玉20
石棺片
津田町 相地赤山東石棺
円筒埴輪片

 223赤山古墳

  斜縁二神四獣鏡
  古市古墳群の最初の盟主墳である津堂城山古墳から出土したと伝えられる鏡と同型であることが判明しています。
  斜縁神獣鏡は多くが二神二獣鏡であり、当例のような二神四獣鏡の事例は少ないです。

管玉(碧玉)竪穴石槨
石釧(緑色凝灰岩)
竪穴石槨出土

管玉(碧玉)竪穴石槨
石釧(緑色凝灰岩)
竪穴石槨出土

勾玉(硬玉)・小玉(ガラス)
竪穴石槨出土
斜縁二神四獣鏡
中国鏡
岩崎山4号墳
津田町津田
内行花文鏡
岩崎山5号墳
津田町津田
鉄製刀子
箱式石棺出土
 

 230岩崎山4号墳 全長61.4m
 231
 中国製二神四獣鏡
昭和26(1951)の京都大学による岩崎山4号墳出土の中国製の斜縁二神四獣鏡が発見されました。
三次元計測結果、百舌鳥古墳群の大阪府津堂城山古墳と同型鏡と判明しました。

※津田古墳群は百舌鳥古墳群古墳時代中期に築造された、海外使節向けのアトラクションで、対岸の明石市五色塚古墳(4c末-5c初頭、古墳時代中期、全長194m) も同じ目的のために作られました。すると、これらの古墳の被葬者は、ヤマト政権と深い繋がりのある首長だったと考えられます。
古墳の型式も変化していることから、やはり、在地人ではなく、ヤマト政権の人間がやって来たのかもしれません。


岩崎山4号墳
津田町津田
中国製二神四獣鏡
上に記述
中国製二神四獣鏡
津堂城山古墳
中国製二神四獣鏡
岩崎山4号墳

一つ山古墳
 233鉄製品
鉄鎌
竪穴石槨出土
鉄製刀子
竪穴石槨出土
不明鉄製品
有柄有孔鉄板
竪穴石槨出土

袋状鉄斧×2
板状鉄斧×1
竪穴石槨出土

鉄製ノミ・鉄製キリ
竪穴石槨出土

鉄製ヤリガンナ
竪穴石槨出土

柳葉形銅鏃
竪穴石槨出土

鉄鏃 竪穴石槨出土

鉄製ヤリガンナ
竪穴石槨出土
 235
岩崎山4号墳石枕 岩崎山4号墳石棺 逆凸形穴埴輪出土 逆凸形穴埴輪出土

逆凸形穴と弧帯文
逆凸形穴埴輪
埴輪表面の擦り跡は埴輪の製作年代を知る手掛かりである
逆凸形穴埴輪
甲冑形埴輪 家形埴輪
 237
龍王山古墳竪穴式石室 竜王山古墳の家形古墳
ピース
滑石製斧頭
東日本に多い。瀬戸内海から西出は岡山の金蔵山古墳と当古墳しか出土していない
 
 

 250大和政権の成立と大陸文化の受容

 251四国最大の古墳

 富田茶臼山古墳 前方後円墳 5世紀前半 古墳時代中期前半 全長139m さぬき市富田中

全長139mの前方後円墳です。5世紀初頭の古墳時代中期初頭に築造されました。墳丘3段築成で、墳丘の周囲には盾形の周濠が見られます。
墳丘には円筒埴輪が隙間なく設置され、古墳に巡らしています。前方部の西側からは平成5年(1993)の発掘で方墳の陪塚が3基発見されています。

富田茶臼山古墳は四国最大の古墳で、古墳の特徴には近畿地方の巨大古墳との共通点が多くみられることから、ヤマト政権の大王と関係の深い豪族の墓と考えられます。


四国最大の古墳
富田茶臼山古墳
富田茶臼山古墳
L=139m大川町富田東
富田茶臼山古墳
2号陪塚
富田茶臼山古墳
陪塚群
富田茶臼山古墳
上に記述
さぬき市の墳墓の分布 墳墓の比較 円筒埴輪 富田茶臼山古墳
 253
富田茶臼山古墳
2号陪塚
円筒埴輪
 
 

 260家形埴輪 神前古墳 寒川町神前

男山神社の東200mの津田川に向かって張り出した尾根上に築造されています。直径15m高さ2-3mの円墳ですが周囲が住宅地になったため、残存しているのは墳丘の一部になります。古墳の築造年代は5世紀前半の古墳時代中期と考えられています。

かつて、墳頂に土俵場を造ろうとして多数の埴輪が出土し、更に下部から鉄製品が出土した。副葬品には、甲冑、鉄斧、鉄剣、鉄鉾、鉄鏃があり、埴輪を墳丘に廻らせていた円筒埴輪と頂上に配していた家形埴輪や筒形埴輪、動物埴輪が見られます。
家形埴輪は2個体が復元されています。屋根は切妻造りで1個体には屋根の〇面〇押えを表現した綾杉文が施されています。

 切妻屋根の家形埴輪
神前古墳
 





 270Ⅴヤマト政権の確立と大陸文化の受容





古墳時代前期前半の富田茶臼山古墳の後の社会は大規模な前方後円墳は突如として見られなくなり、急速な社会変化があったことが窺えます。
各地の豪族が大型前方後円墳を築造する時代は終わり、ヤマト政権に服属する新たな社会が確立していったと考えられます。

この頃倭国は朝鮮半島の百済や伽耶から様々な技術を学びまた、多くの渡来人がやってきました。
※実際にはこれらの国々に最先端技術や技術者を提供するように命じていた。

さぬき市内でも尾崎西遺跡や陵遺跡で朝鮮半島の土器に類似した韓式系土器や初期須恵器が出土しています。

古墳時代中期後半になると、古墳の副葬品に朝鮮半島の土器に起源をもつ須恵器が見られるようになります。
また、乗馬の風習も朝鮮半島の文化の影響のもとで古墳時代中頃から普及し馬具の副葬が見られるようになります。

さぬき市内からこの頃の古墳である川上古墳や大井七ツ塚4号墳では竪穴式石室の中から多量の須恵器や馬具の副葬品が発見されています。
鉄製武器や甲冑は古墳時代前期の銅鏡の副葬品などに象徴される司祭者的な性格から古墳時代中期になり、武人的な性格が強まったことを示しています。

Ⅴヤマト政権の確立と大陸文化の受容
上に記述
古墳の変遷 特徴的なさぬきの古墳時代
①墳形が円墳と前方後円墳である。
②埴輪は壺が先で円筒埴輪は数十年後である。
③石室は弥生時代からの伝統のまま。
 刳抜式石棺はほんの数十年間だけの流行だった。
④耳飾りは後期後葉のほんの一時期にのみ副葬された。
⑤馬具や須恵器は同時に導入され、副葬された。
 
 

 400大和政権の確立と大陸文化の受容
 410

 411火山石の刳抜式石棺
臨海域の津田と内陸域の大川の境界にそびえる山が火山(ひやま)です。この山で採取できる白色をした軟質の凝灰岩が火山石で、この石を使って刳抜式石棺が製作されました。古墳時代前期後半、臨海域

この時期の津田古墳群には刳抜式石棺や蓋石が採用されています。
火山石製刳り抜き式石棺は大阪府や岡山県、徳島県など外部地域の首長墓からも確認されており、首長間の交流を知ることができます。

四国地方の刳抜式石棺では、国分寺町鷲ノ山産出の鷲ノ山石 (石英安山岩質凝灰岩) と津田町火山の火山石(非晶質凝灰岩)石材の2種類が採用されています。
また九州の阿蘇熔結凝灰岩製の刳抜式石棺も4例知られています。これらの刳抜式石棺は割竹形木棺を原型に創出されたといわれ、その典型が先の石清尾山積石塚群に存在する石船塚古墳の割竹形石棺です。

積石塚群に刳抜式石棺の初期のものが採用されていることは、その成立に積石塚を築いた石材加工技術に長けた技術者集団が関与していたことが十分考えられます。鷲ノ山や火山石は、四国以外にも運ばれており、鷲ノ山では大阪府柏原市の松岳山古墳の長持型石棺材や、勝福寺に保存されている割竹型石棺で用いられています。

ここで注目されるのは松岳山古墳の周辺に積石塚古墳が分布することで、この石材と積石塚古墳との関連性を強く示唆するものとして注目されます。また火山石製の刳抜式石棺は四国の東部に分布中心を持ち、最近は徳島県鳴門市の大代古墳から出土し注目されました。

この火山石も四国以外の地に搬出されていて、岡山県鶴山丸山古墳、大阪府和泉市の乳の岡古墳で確認されています。また奈良県奈良市の佐紀陵山古墳で過去に確認された石棺の蓋石状石材もこの火山石製であるとの見解も示されていて、巨大古墳の造営と火山石との関係もまた非常に興味あることです。




火山石の刳り抜き式石棺
 413陵遺跡の須恵器

見事なとびかんなの跡です

脚付蓋付坏
蓋付坏

浅鉢
 
 420


 424川上古墳 5世紀後半、古墳時代中期 さぬき市昭和

尾根の先端に築造された直径20~22mの円墳です。1982(昭57)に発掘調査で竪穴式石室が発見され、多量の副葬品が出土しました。
古墳の築造年代は5世紀後半、古墳時代中期と考えられています。

竪穴式石室は川原石積で長さ3.65m幅1.3~1.1m深さ0.74mになります。副葬品は鉄刀・鉄剣・鉄槍・鉄鏃などの鉄製葺と甲冑の鉄製武具、刀子、鉄斧、ヤリガンナなどの鉄製工具、轡などの馬具が出土しています。また、須恵器と土師器が出土しています。



蓋付坏
 425川上古墳の馬具、武器
馬具

轡・鏡板・締具・辻金具
鉄刀

鉄鏃

鉄鏃・槍先・鉄斧等

鉄刀

鉄刀
馬具の名称
 


 426大井七ツ塚4号墳 5世紀後半 古墳時代中期

寒川町と大川町の境の丘陵尾根上には沢山の古墳があり、大井七ツ塚古墳群と呼ばれています。
4号墳は直径22m高さ2.9mの円墳で、西側に突出部が付く可能性もあります。
1964(昭39)の発掘調査で4基の埋葬施設と多くの副葬品が出土しました。古墳築造は5世紀後半、古墳時代中期と考えられています。

墳丘の外側には周溝が見られ墳丘のすそ近くに円筒埴輪が巡らされていました。
4基の竪穴式石室は頂上部の地表面から30cm下の浅い位置に3基が並列して構築され(1~3号石室)、残り1基は更に約1m下に東西方向に構築(4号石室)されていました。

副葬品は1号石室からコハク製勾玉と鉄刀、2号石室からガラス玉、金銅製品の破片、鉄製品、3号石室からガラス玉、金製耳飾り、鉄鏃が出土した。

4号石室からは、
碧玉製管玉、〇〇製切子玉、材質不明の切子玉の装身具、鉄刀、鉄槍、鉄鏃の鉄製葺、鉄斧、鉄ヤリガンナ等の鉄製工具が出土しました。
また。東小口の蓋石外側の板状の石材上に須恵器や土師器が、竪穴式石室の蓋上には轡、鏡板などの馬具が置かれていました。




考察 棺埋納祭祀と装飾付き須恵器(子持壺) 古墳時代中期
  子持ち壺祭祀

※4号石室では、石室を組んで遺体を埋納し蓋石を置いた後、土をかける前に、
 入り口前に板石を敷いて土師器や須恵器(装飾付き土師器、装飾付器台や子持壺など)を置き、石室の蓋石の上には轡や鏡板などの馬具を置き、
 これから土をかけて埋納するという祭祀を行った後、そのまま土を盛り上げて覆ったようです。

 これは棺の埋納祭祀であり、現在では行われなくなったが、昭和30年頃の土葬でも、このような祭祀を行った後、一斉に土をかけて穴を閉じてた。
 こういった祭祀が埋葬の原点であり、その後、墳丘墓の石室周囲に埴輪を立て並べて装飾するようになったのではないでしょうか。

 とにかく、讃岐では5世紀後半には子持壺を用いた子持壺祭祀が始まっていたことになります。ここに並べられた装飾付き須恵器は畿内型と思われ、
 畿内では少なくとも5世紀後半以前から埋葬祭祀で子持壺祭祀が、覆土儀礼として、古墳を築造終盤の祭祀として行われたものと思われます。

 島根県米子市の八雲立つ風土記土器の丘周辺で行われた、山陰型子持壺を用いた祭祀は古墳時代後期の6世紀後半から7世紀なので、
 畿内や瀬戸内でおこなわれていたものとは少し違うのかもしれません。

 ※多くの博物館で、子持ち壺が展示されていても、ほとんど何も脚注がありません。
  しかし、さぬき市歴史民俗資料館では祭祀の様子がわかるよう、出土状態が説明され、年代も古墳時代中期とはっきりしいます。
  次回、八雲立つ風土記の丘資料館の頁でもう一度触れたいと思います。

※大井七ツ塚と川上古墳1号石棺は、ほぼ同時期の古墳で、規模も副葬品もよく似ており、在地系豪族の墓と思われます。
 この両者は敵対関係にあったのだろうか、友好関係にあったのだろうか。それとも係累だろうか。

 この時期には、装身具が極端に少なく、鉄製武器武具が増加するので、鉄製品の大量流通により、各地での戦闘が増加したと思われます。


大井七ツ塚4号墳

現在の大井七ツ塚古墳
大井七ツ塚4号墳
上に記述


 川上古墳 さぬき市昭和
尾根の先端に築造された直径20~224mの円墳です。昭和57(1982)に発掘調査が実施され、竪穴式石室が発見され、多量の副葬品が出土しました。
古墳の築造年代は5世紀後半の古墳時代中期と考えられています。

竪穴式石室は河原石積みで長さ3.65m幅1.3~1.1m深さ0.74mになります。副葬品は鉄刀・鉄剣・鉄鏃などの鉄製武器と甲冑の鉄製武具、刀子・鉄斧・ヤリガンナ・鑿などの鉄製工具、轡などの馬具が出土しています。また、土器として須恵器と土師器が出土しています。

川上古墳
現在の川上古墳
川上古墳

上に記述

 427装飾付須恵器 大井七ツ塚4号墳 5世紀後半 古墳時代中期

  埋葬祭祀の共献土器

器台
 

 430川上古墳

 431古墳の知識

 古墳の名前
古墳の名前 ①地名・山などにちなむ
地名:乙井・緑ヶ丘・古枝
山:天王山・将基山・竜王山
②古墳の形や色、出土物から名付けた。

赤山:埋葬施設が朱塗り
八剣:剣が出土
土釜:盗掘後が土釜に似た
③前方後円墳は
茶臼山・車塚・双子塚などと呼ばれる


 埋葬施設
 埋葬施設
竪穴式石室
 
 古墳の頂部に縦穴を掘り、石を石垣状に積んだ埋葬施設。
前方後円墳などの首長墓の埋葬施設に多い。
古墳時代前期から中期に多い。
箱式石棺
 
竪穴を掘り、板状の石を並べて造った埋葬施設。

竪穴式石室を簡略化したもので、円墳や墳丘を持たないものなど、

竪穴式石室に比べてランクが劣る場合が多い。
 
土壙・粘土槨
縦に掘られた穴のみで、石室を造らない。

直接、木棺や埋葬者を安置する。底面や周囲を粘土でかためたものを粘土槨という。

また、蓋だけ石を使用したものを石蓋土壙という。
竪穴式石室
洞窟様に入口が横にある石室。複数人が埋葬でき、家族墓の性格を持つ。

さぬき市では古墳時代後期(6世紀後半~7世紀)の事例が多い。.


 古墳のある場所
古墳のある場所  ①山の上
 
②平野
 
③山裾
 
①山の上
 山の尾根上や山頂にあり、麓の集落や交通の要所からよく見え
 山の上からも見通せる場所が選ばれる。前期に多い。
②平野
 低い場所に造られたもの。交通の要所が選ばれることが多い。
 古墳時代中期に多い。
③山裾
 山裾や斜面に造られたもの。古墳後期の横穴式石室を持つ
 円墳の事例が多い。複数の古墳が集中するのが一般的。
 432年表
弥生~古墳前期 古墳前期~古墳中期 古墳中期~古墳後期 古墳後期~飛鳥時代
 433甲冑
甲冑 川上古墳
衝角付冑 横矧板鋲留短甲
 


 440Ⅵ古墳文化の変化そして古墳の終末へ
6世紀の古墳時代後期に入るとさぬき市内の古墳は事例が少なく実体が不明瞭になります。

そして6世紀後半頃から従来の竪穴式の埋葬施設に代わって横穴式石室が一般化し、新しい埋葬儀礼が展開します。
横穴式石室は死者を納める玄室と墳丘外部とを結ぶ羨道とからなり、追葬を行う家族墓としての性格が窺えます。

また、小型古墳の爆発的な増加が見られ、亀島古墳群のような群集墳が数多く営まれるようになります。これは支配者層のみならず有力農民層までもが古墳をつくるようになったことを意味します。
6世紀後半はさぬき市の各地に横穴式石室を埋葬施設に持つ小古墳が見られ、7世紀前半頃まで追葬と古墳築造が継続します

ところが7世紀後半になると急速に事例が減少します。この頃、日本は中央集権国家を目指して政治改革を行いました。
この大化の改新によって地方社会も大きく変容していきます。

その一つが古墳築造の終焉でした。豪族たちは権威を示すものを古墳造営から寺院建立に移行させていきます。

 441
Ⅵ古墳文化の変化そして古墳の終末へ
上に記述
市ノ瀬古墳
大川町南川
平砕古墳
大川町富田西
柴谷古墳
大川町富田中
八剣古墳
大川町富田東
 443天王山古墳
天王山古墳 蓋坏付 高坏
 446蓑神5号墳 寒川町石田東

蓑神5号墳
寒川町石田東

ガラス玉・切子玉・勾玉

耳環

鉄鏃
 447北山八坂古墳 造田

子持ち高坏

北山八坂古墳

坏蓋・坏身、壺、鉄刀

鉄鏃、装飾品、勾玉
提瓶
雲珠・耳環・勾玉・切子玉

坏身・坏蓋
提瓶
 448中尾古墳
 
 
 
 
 460讃岐の古墳
 461
 462大石北谷古墳 7世紀前半頃
大石北谷古墳 坏・坏蓋
 463末1号窯跡
末1号窯跡出土物 陰浦古墳出土物
 





 500古代仏教文化




 510古代寺院の瓦
 511

奈良県法隆寺金堂

鬼瓦・軒平瓦・軒丸瓦

石井廃寺出土鴟尾
奈良東大寺大仏殿鴟尾
 513
願興寺
蓮華文軒丸瓦
四重弧文軒平瓦(飛鳥)
均整唐草文軒平瓦(奈良)

七葉素弁蓮華文軒丸瓦
(平安時代)
鴟尾(飛鳥時代)

素弁蓮華文軒平瓦
(平安時代)
鴟尾(飛鳥時代)
極楽寺跡十二葉細単弁蓮華文軒丸瓦(飛鳥)
十二葉細単弁蓮華文軒丸瓦
十一葉細単弁蓮華文軒丸瓦
十一葉細単弁蓮華文軒丸瓦
重弧文軒平瓦(飛鳥)

細単弁蓮華文軒丸瓦(奈良)
二十葉細単弁蓮華文軒丸瓦(平安)
八葉単弁蓮華文軒丸瓦
(奈良時代)
極楽寺跡
十二葉細単弁蓮華文軒丸瓦
重弧文軒平瓦
十一葉細単弁蓮華文軒丸瓦
重弧文軒平瓦
十一葉細単弁蓮華文軒丸瓦
石井廃寺
八葉複弁蓮華文軒丸瓦
八葉複弁蓮華文軒丸瓦
七葉複弁蓮華文軒丸瓦
四重弧文軒平瓦
四重弧文軒平瓦
飛鳥時代

七葉素弁蓮華文軒丸瓦
(飛鳥時代)
扁行唐草文軒平瓦
扁行忍冬唐草文軒平瓦
飛鳥時代

七葉素弁蓮華文軒丸瓦
(奈良時代)
八葉複弁蓮華文軒丸瓦
(鎌倉時代)
均整唐草文軒平瓦
鎌倉時代
下り松廃寺
細単弁蓮華文軒丸瓦
六葉素弁蓮華文軒丸瓦
飛鳥時代

十一葉細素弁蓮華文軒丸瓦
七葉複弁蓮華文軒丸瓦
八葉単弁蓮華文軒丸瓦
 
 530
 531移動式カマドの使い方
移動式かまどの使い方 カマド形土器
 前面にたき口、上に穴があいたドーム形の土器です。

こしきの使い方
 かまど形土器の上に水を入れた甕を載せ、その上に、前もって吸水させた米を入れた甑を載せて、
 コメを蒸しました。

古墳時代のかまど形土器・かめ・こしき
 かまど形土器は、初めは移動式で、野外でも使われていました。
 しかし、次第に家の中で使われるようになり、かまどへと変化しました。

 532森広遺跡の条里制
古代の官道は道幅9~12mの直線道であったと考えられています。三木町白山からさぬき市大川町富田西までは今も直線道路が見られ、古代南街道が推定されます。ところが富田西から火が都にかけては直線道が残されていません。近世の幹線道である讃岐往還は南に曲がっています。南街道を一直線として復元すると東は八剣池付近になり、途中には千町遺跡があります。


 森広遺跡で 発見された条理の条境
森広遺跡では南北に延びる溝を3条検出しました。この地点は条理の条境で、条境付近の水路と道である可能性があります。
溝の中からは9世紀前半の土偽果出土しています。


 千町遺跡
三木町白山からさぬき市富田西へと続く直線道をそのまま東に延長すると千町遺跡の近くを通ることになります。
千町遺跡では東西方向の溝が検出されており、溝の中からは7世紀後半の須恵器・土師器が出土しています。
南街道を直線道として考えるならば南街道に関連する遺構があるのかもしれません。


 千町遺跡の
森広遺跡の条里制
上に記述
森広遺跡の条境 森広遺跡の条境 森広遺跡の条境 南街道推定地 千町遺跡
千町遺跡
上に記述
森広遺跡の条境
 535千町遺跡 溝出土物

 



 540民衆の負担と移動・移住

律令体制では民衆に租・庸・調・雑庸の負担が課せられました。このうち調・庸は絹・布・糸や各地の特産物を中央政府に納めるもので、成人男子はそれらを都まで運ぶ運脚の義務がありました。一方、兵役は成人男子3~4人に一人の割合で兵士が調達されました。その一部は宮城の警備にあたる衛士や九州の沿岸を守る防人になり、防人は東国の兵士があてられました。

東北は中央政府の支配領域の拡大に伴い、軍事的圧政が進められました。彼らは蝦夷と呼ばれ、服属した後は俘囚と呼ばれました。そして、中央政府は蝦夷・俘囚の勢力を削ぐために強制移配し労役させました。森広遺跡では東北地方の土器と共通点のある8世紀前半の黒色土器が出土しており、蝦夷・俘囚の移配等に伴う人の移動があった可能性が指摘されています。

同じ森広遺跡に近い本村遺跡からは丘陵上で8世紀後半の竪穴住居跡が1棟確認されました。8世紀後半は香川県では一般的に竪穴住居は見られなくなる時期です。
竪穴住居跡の北側には土師器甕を入子状に組み合わせてカマドの煙道にしていました。こうした事例は今のところ香川県では確認されておらず、神奈川県西部で複数認められます。

更には竪穴住居内からは黒色土器の杯が複数出土しました。このように、本村遺跡の竪穴住居も関東以西の人々の移住を物語っており、尾根上に1棟のみ見られることを
考慮すれば何かしらの生業活動のために丘陵上での生活を余儀なくされた移住者の住居跡であったのかもしれません。

 541本村遺跡
民衆の負担と移動・移住

上に記述
本村遺跡 本村遺跡

 本村遺跡竪穴住居跡 さぬき市寒川町石田東
尾根上の東側縁辺部で、1棟のみが単独で発見されました。竪穴住居跡は南北3.5m東西2.85mの南北にやや長い方形に掘り込まれています。
北辺にはかまどが設けられており、煙を外に出す煙道が長さ1.9mと長いのが特徴です。そして煙道の内部には土師器甕5個体を組み合わせてトンネルにしています。こうした構造は香川県では他に例がなく、全国的にみると神奈川県西部に類例が見られます。

本村遺跡の竪穴住居址 排煙装置これは固定式カマドか
オンドルの後か
固定式カマド

 545本村遺跡竪穴住居出土遺物

 本村遺跡の竪穴住居内から出土した杯・皿
  本村遺跡の竪穴式住居跡からは須恵器・土師器・黒色土器の杯・皿が出土しました。


土器煙道使用の土師器甕

坏・皿
黒色土器・坏・皿 排煙装置に転用の
土師器甕
 




 奈良時代



 560民衆の生活
 561
 生活の変化
奈良時代になると生活では竪穴式に代わって平地式住居が普及しました。
森広遺跡では7世紀前半の竪穴住居を掘り込んで7世紀後半から8世紀の掘立て柱建物を建てている状況が見て取れます。

複数ある方形の掘り込みが竪穴住居跡です。北側にはカマドがついています。左隅は何度も建替えた様子が分かります。
写真中央上方には2間×3間の掘立柱建物跡が竪穴住居跡を掘り込んで建てられており、竪穴住居廃棄後に立てられたと判断できます。

 火葬墓
わが国で最初に仮装にされたのは僧道昭で700年のことでした。その後歴代天皇では初めて持統天皇が703(大宝3)年に、文武(707)、元明(721)、元正(748)と天皇の火葬が続きました。火葬は奈良時代になると律令国家の官僚であった貴族にも採用され、奈良時代後半になると地方にも浸透していきます。地方で火葬を採用したのは、郡司などを担った地方豪族になります。

火葬墓で臓骨器に使用されたのは主として薬壺形を↓須恵器の短頸壷でした。讃岐市でも臓骨器と思われる土器が出土しています。この時期の火葬墓は山の斜面に単独で発見される傾向にあります。

 経塚
経塚とは経典を経筒に納めて埋納したものです。末法思想を背景に11~12世紀に盛んに造営されます。末法の到来に際して経典が使用滅する危機意識があり、それを埋納して後世に伝えることを意識していたようです。

讃岐市で大川町谷経塚で銅製経筒・石製外容器・合子、津田町石清水神社裏で土師器製外容器が出土しています。
また、寒川町蓑神では大稔彦神社北側丘陵の東斜面で中国産白磁四耳壷が出土しています。これは臓骨器の可能性もあります。

他にさぬき市郷土館では中国産陶製経筒を模倣したような須恵器壺が保管されています。出土地は不明ですが経塚遺物であった可能性があります。
これらの遺物の年代は12世紀頃と考えられます。

竪穴住居
掘立柱住居
火葬墓・経塚の分布 生活の変化
森広遺跡の竪穴住居跡と掘立柱建物跡
上に記述
火葬墓
岩崎山古墓(津田町)
上に記述
経塚
大川町谷経塚経筒
青白磁合子
上に記述
 563臓骨器
臓骨器
臓骨器
臓骨器
津田町岩崎山の古墓
左の甕を横倒しにし、
右の鉢を上に被せた。
臓骨器の中に火葬骨は残っていなかった。
岩崎山の斜面に1基が単独で発見されました。
穴に土師器甕を倒置させ、その上に鉢を被せていました。

臓骨器の可能性がありますが、火葬骨は見られませんでした。
 565臓骨器・経筒
臓骨器・経筒
山の神臓骨器
大川町富田中
奈良時代

大川町黍谷の火葬墓
平安時代 臓骨器
猿投産灰釉陶器

蓑神白磁四耳壷
平安時代12世紀
大蓑神社北側丘陵出土中国製白磁四耳壷
臓骨器の可能性あり

石清水八幡宮の
経筒外容器
平安時代12世紀


須恵器壺
平安時代12世紀
経塚遺物
 





 600中世





11世紀後半になると退位した天皇(上皇)が政治の実権を握る院政が開始されます。院政期には私的に土地所有が展開して大寺社、武士が独自の権力を形成して
広く権力が分散していくこととなり、社会を実力で動かそうとする中世社会が始まります。

大寺社は多くの荘園を所有し下級僧侶を僧兵として組織するようになります。一方朝廷は大寺社の圧力に抵抗することが出来ず、武士を用いて警護や鎮圧にあたらせるようになります。
こうして武士が中央政界へ進出するようになります。

1156(保元元年)には皇位継承や摂関家継承の対立から動員された武士同士の合戦(保元の乱)となり、続く1159(平治元年)に平治の乱が勃発します。

この二つの乱によって武家の棟梁としての地位と権力を急速に高めたのが平清盛でした。
平清盛は太政大臣となり兵士が全盛を迎えるようになりますが、こうした権力の独占はかえって院・貴族・寺社・源氏などの反対勢力の結束を促し、平氏は没落します。

平氏政権の後に政権を握ったのは反平氏勢力として東国武士団を結集させた源頼朝でした。

源頼朝は鎌倉を根拠地として荘園や公領に地頭を任命する権利や兵糧米を徴収する権利、諸国の在庁官人を支配する権利を獲得し、武家政権としての鎌倉幕府が確立しましす。こうして鎌倉時代が始まりました。

鎌倉時代になると国司の支配にあった国衙の任務は守護を通じて幕府に吸収されていきますが、京都の朝廷や貴族・大寺社を中心とする荘園領主の力もまだ強く、二次元的な支配が展開していきます。
幕府政治は源頼朝の死後、御家人中心の政治を求める動きが強まります。有力な御家人の間で政治の主導権を握る激しい争いが続き、こうした中で
権力を手中にしたのが執権を世襲した北条氏でした。

北条氏は1232(貞永元年)に御成敗式目を制定して執権政治を行います。そして13世紀後半になると全国の守護の半分以上は北条一門が占めるようになりました。しかし、この頃から北条氏の権力に衰えが見え始めました。

13世紀後半の2回にわたる元軍襲来(元寇)に対して幕府は御家人に十分な恩賞を与えられず、また、御家人の分割相続による細分化、貨幣経済の発達によって御家人は窮乏化していきます。
一方、この時期の経済情勢の展開をうまくつかんで勢力を拡大した信仰武士(悪党)が各地に広がっていきました。

14世紀になると、北条氏の専制政治に対する御家人の反発が高まり、1333(元弘3)に北条氏は滅ぼされ、鎌倉幕府は滅亡します。
鎌倉幕府滅亡後は後醍醐天皇が親政を行いますが数年で挫折し、その後は幕府の再建を目指していた足利尊氏によって京都に室町幕府が開かれます。
室町幕府は3代足利義満の時に最盛期を迎えますが、15世紀に入ると6代義教が殺害され、将軍の権力は大きく揺らいでいきます。

15世紀後半には有力守護や将軍に遭いついで内紛が起こり、1467(応仁元年)に戦国時代の幕開けとなる応仁の乱が始まります

この頃地方では在国の守護代や有力国人が力を伸ばし、日本全国が騒乱状態となりました。こうした戦乱の世を平定し、全国統一を完成させていったのが織田信長、豊臣秀吉、徳川家康でした。

こうして広く権力が分散していた中世の時代は終焉を迎えることとなります。

 610
 611
中世
中世
上に記述

 613さぬき市内の荘園

安楽寿院領富田荘荘園
摩崖仏 12世紀頃
最勝光院領志度荘
12c後半~13c前半
石清水八幡宮領鴨部荘
12c後半~13c前半
平安時代の地名
荘園化で名前が変わる
承平年間 10世紀
(931~938)
和名類聚抄の地名
13世紀中頃の
荘園名と郷名

左の地図は承平年間(931~938) 10世紀に成立した和名類聚抄に記載された郷名、右の地図は13世紀中頃の荘園名と郷名です。
難波郷が富田荘に、多和郷が鶴羽荘に大きく名称を変え、神崎、鴨部、造田、長尾が郷から荘になっています。

また、志度の名はこの頃から見られるようになりました。

 



 630中世社会の幕開け

11世紀は各地で荘園が増加し公領(国衙領)を圧迫しました。そこで後三条天皇は1069(延久元年)に延久の荘園整理を出してかなりの成果を上げました。この荘園整理によって貴族や寺社の支配する公領とが明確になり、貴族・寺社による荘園整備、国司による国内の再編成が進みました。

こうして一国の編成は律令制度のもとでの国・郡・里(郷)の上下区分から荘・郡・郷などが並立する体制(荘園公領制)に変化していきました。

1129(大治4)からの鳥羽上皇の院政期になると荘園整理政策が凍結され、上皇や女院を荘園領主とする院領荘園が目立つようになります。

さぬき市内では1134(長承3)に鳥羽上皇の御願寺である安楽寿院へ寄進させた富田荘が立荘され、鳥羽上皇皇女の八条院暲子内親王の御願寺である仁和寺蓮華心院に寄進された鶴羽壮(1176年初出)が見られるようになります。

また、後白河天皇の女御の健春門院平慈子の御願寺である最勝光院(1173創建)の荘園として志度荘が見られます。(1181初出)

一方、寺社領荘園としては石清水八幡宮領として鴨部荘が見られます。(1137初出)
続く鎌倉時代に鳴門興福寺三面僧坊の荘園として神崎壮(1233初出)南北朝時代の1340(暦応3)には、二位家法華堂領造田荘が足利尊氏より隋心院門跡経厳に寄進されています。

また、これより先1208(承元2)には後鳥羽治用公の御願寺である最勝四天王院の寺領に長尾荘・造田荘の長見られます。長尾荘は興善院や二位家法華堂の終焉としてもその名が見られます。

このようにさぬき市内のほとんどは12世紀~13世紀前半にかけて荘園になっており、唯一石田郷のみが公領として存続することとなりました。


中世社会の幕開け
上に記述
花池尻中遺跡出土物 花池尻中遺跡から出土した遺物
黒色土器

土師質土器

砥石・東播磨系土器
瓦器

東播磨系土器は兵庫県姫路市と神戸市の間の、高砂・加古川・明石市

短刀・鉄鏃
鉄鏃5本と毛抜き1本が固着していました。
鉄鏃は雁又式4本と柳葉式1本です。
 
 640

 641武士の屋敷と中世の人々の暮らし

武家は開発領主の系譜をひき、先祖以来の地に住み着いて館を構えました。周囲には堀・溝や塀を巡らして住んでいました。
さぬき市では館と判断できる遺跡は発見されていませんが、

花池尻中遺跡(志度)では仏堂と推測される建物、主屋、副屋からなる建物群が発見されています。

建物の近くから1基の墓が見つかっており、墓の中からは短刀、鉄鏃、毛抜きが埋納されていました。このことから被葬者は社会集団内の上位者である武士の可能性が考えられ、関連する建物群も武士の屋敷である可能性があります。

出土土器の年代は10世紀から14世紀です。11世紀後半~12世紀頃に増加し14世紀初頭まで一定量見られます。出土遺物の年代は屋敷の形成から終焉の年代と考えられます。また、土器の中には和泉型瓦器碗や東播系須恵器の破片が見られ当時の流通の実態を知ることが出来ます。

武士の屋敷と中世の人々の暮らし 千町遺跡
13世紀前後
千町遺跡付近遺跡図


文字化せず
花池尻中遺跡
10~14世紀

文字化せず
仏堂跡と墓穴
 642千町遺跡出土遺物
土師質土器
皿・坏・埦

江戸時代の小型和牛骨

小型和牛骨

小型和牛骨
 
 





 660室町時代




 Ⅲ室町幕府の成立と社会
1333(元弘3)鎌倉幕府が滅び後醍醐天皇による建武の新政が開始されますが僅か3年で崩壊します。
その後に権力を掌握したのが足利尊氏でした。尊氏は1336(建武3)に京都を制圧し1338(暦応元年)に征夷大将軍に任ぜられ室町幕府が成立します。
室町幕府の地方支配は守護に委任しました。

細川家が讃岐守護に任命された頃の1337(建武4)に造田新太夫長守による是弘名の年貢抑留の記録があり、続く1344(康永3)には大井紀四郎高綱、寒川七郎、造田新太夫、柞原孫二郎、佐竹侍従房行慶、庄十郎四郎、佐藤治郎左衛門尉が造田荘を押妨しようとしているとの記録があります。

南北朝時代は守護・国人による公領・荘園の侵略が増大します。これと関連して各地の荘園の記録は14世紀後半には少なくなります。
守護は侵略した荘園・公領を武士たちに分け与えて、彼らを統制下に繰り入れて行きました。
守護は国衙の機能をも吸収して一国全体に及ぶ地域的支配権を確立し、14世紀の動乱が終息すると、次第に任国も世襲されるようになります。こうして守護は守護大名に成長していきました。

一方、荘園や公領の領主は年貢徴収を代官に請け負わせる代官請が鎌倉時代後期以降に一般化しました。寒川郡では1353(観応3)に長尾荘を請け負った長尾右衛門尉保守、1396(応永3)造田荘の領家職を預かった安芸守盛家の事例があります。

 661
 室町時代の商業の発達
室町時代は地方の産業が盛んになり、各地の特色を生かした様々な特産物が生産されるようになりました。特産品の売却や年貢の銭納に必要な貨幣獲得のため地方の市場も数と市日の回数を増やしていきました。

志度寺には市が立っており、1473(文明5)細川政国禁制らは寺内での押買博変、伯楽市(牛馬市)が禁止されています。また、中尾西には「市」、富田中六車城跡の対岸には「市場」の地名が残されています。

貨幣は中国銭が使用されました。平安時代から使用されていた宋銭と共に新たに永楽通宝などの明銭が使用されるようになりました。需要の増大と共に粗悪な私鋳銭も流通するようになり、取引では良質の銭を選ぶ撰銭が行われて円滑な流通が阻害されました。そこで、室町幕府・戦国大名らはしばしば撰銭令を発布して悪銭と精銭の比率の調整等を実施しました。

地方産業が盛んになると遠隔地取引も活発になりました。海・川・陸の交通路が発達し廻船の往来も頻繁になりました。

1445(文安2)1年間に兵庫湊に出入りした船をチェックし船籍地、積荷品目と数量、通行税の納入年月日、船頭・船主名、荷受け先である兵庫の問屋名などを記録した帳面である「兵庫北関入船納帳」には寒川郡内の船籍地として「鶴箸」、「志度」が見られます。鶴箸は津田町鶴羽と考えられます。

室町時代の商業の発達
上に記述
Ⅲ室町幕府の成立と社会
上に記述
長福寺出土備蓄銭
14世紀後半
文字化せず
中国銭と木簡 大串石切り場跡の瓦器

中谷埋納銭


 662さぬき市の中世石造物
鎌倉時代になると供養塔として五輪塔や宝篋印塔などの石造物が造立されるようになります。一般的に鎌倉から南北朝時代は大型ですが、室町時代になると小型化し数が増大する傾向があります。
その背景には供養塔を造立する階層が広がったこと、墓石としての供養塔の使用が増大したことが考えられます。

さぬき市でも各所に見られますが、他地域に比べてが多いのが特徴になります。
また、香川県の場合、中世段階の石造物の石材はその多くが軟質の凝灰岩を使用していましたが、さぬき市内では火山(ひやま)で採石される火山石(凝灰岩)が著名です。

さぬき市の中世石造物
さぬき市の中世石造物

上に記述
筒野の笠仏
長尾寺経幢西塔
西教寺六面石幢
川東の五輪塔
西岡の石仏
西教寺奥院摩崖仏破片
北峰神社石仏

五輪塔部材

五輪塔拓本
北峰神社石仏
文字化せず

敷茄子

北峰神社の石仏
 

 663Ⅶ戦国の争乱と城郭(抜粋)
1467(応仁元)に始まる応仁の乱から、日本各地が騒乱状態になりました。讃岐でも1479(文明11)三谷兵庫頭景久寒川氏の居館を襲っています。
翌1480には寒川氏が三谷氏の池田城・王佐城を攻めました。

1493年にはさぬき13群のうち7群は安富氏所管だが、所領の大きな国衆が多く、香西氏など安富氏に従わないものが多いことが記録されている。
2年後1495(明王4)には讃岐国蜂起が生じています。内衆の牟礼父子が攻め殺され守護代安富氏が細川政元に下向を願い出ています。
更に1505(永正2)には安富・香西氏の両守護代と細川氏の一門が讃岐に進発しますが数百人を討たれて退いています。
1507(永正4)には管領で讃岐国守護の細川政元が殺害され混乱に拍車がかかります。

この事件をきっかけに都の讃岐勢力が滅亡し細川京兆家を継いだ細川清元とそれを補佐する阿波三好家の勢力が増大します。そして讃岐国にも三好家の勢力が及ぶようになります。


寒川郡では寒川氏と安富氏が対立していました。1523(大永3)には安富氏は寒川方の城を攻めて合戦になりました。また寒川氏は十河氏とも対立しており、1526には津柳で合戦が行われました。この時十河氏は阿波三好家に援軍を頼んでいます。続いて十河家を継いだ三好長慶の弟十河一存(婿養子、実質乗っ取られた)が1532寒川氏を攻めています。

寒川氏は三好氏に救援を求め安富氏は兵を引き、三好氏は安富氏の雨滝城を攻め滅ぼします。これによって讃岐の十河家と寒川家は三好氏の支配下に入ります。三好氏支配下の讃岐は、東部を十河氏、西部を三好氏の重臣篠原長房が支配しました。

1573(天正元)讃岐の各家は三好氏に離反し始めます。1574に三好長治は讃岐へ出陣し各城を攻めるが失敗し、三好長治は家臣に殺され十河氏が三好の家督を引き継ぎます。

このような混乱の中、土佐から長宗我部が進行してきました。1578長宗我部は阿波を経て讃岐侵攻を開始します。
次々と讃岐を侵攻して1584長宗我部元親は四国統一を成し遂げますが豊臣秀吉によって四国遠征軍が送り出され、講和の結果、長宗我部は
土佐に退くことになりました。その後紆余曲折を経て1587に生駒親正が高松城を拠点として讃岐の争乱は終焉しました。


 昼寝城跡
国人領主寒川氏の居城です。築城ねんだいは不明ですが、1506(永正3)に細川政元に大窪越の警備強化が命じられていることからこの頃に築城された可能性はあります。16世紀になると阿波細川氏、安富氏、三好氏によって昼寝城は責められており、「南海通記」には昼寝城の記載が数多く見られます。

石垣や礎石が発見され、中国産陶磁器や土師器皿・鍋、中国銭、鉄製品等が見られます。


 石田城跡 寒川町石田東
現在の光明寺の境内が主郭と考えられています。近世の記録によると城主は細川氏で16世紀に安富氏によって落城したとあります。
「秋山家文書」や「長元物語」によると長曾我部氏は石田城攻めを実施しており、1582~1583年頃に落城している可能性があります。

石田城は未調査ですが、周辺の本村遺跡や本村南遺跡の調査から、石田城との関連を推測させる遺構・遺物が出土しています。
本村遺跡で発見された17世紀前後頃の3間×9間の大型掘立柱建物からは長曾我部氏侵攻後も石田城が重要地点であった可能性を推測させます。

古城城郭跡 昼寝城跡
昼寝城

上に記述
石田城跡

石田城址・本村遺跡・本村南遺跡
石田城柱穴
石田城跡

上に記述
Ⅶ戦国の争乱と城郭

上に記述
城郭跡分布

 665昼寝城跡出土物
昼寝城跡出土物
中国製陶磁器

土師質土器

中国銭・碁石

金属製品・砥石

 667安富氏と寒川氏

 安富氏
安富氏の出自は下総国と云われ応安年間(1368-75)頃讃岐に来たようです。讃岐国の守護は細川京兆家ですが、細川京兆家は代々管領として
幕府の運営にあたっていたので領国は守護代に統治させていました。讃岐国の場合は東西にそれぞれ守護代を設置しており14世紀後半以降は東方を安富氏、西方を香川氏が担っていました。

安富氏の守護代として安芸守盛家、筑後入道智安、筑後守元家が見られます。安富氏の本城が雨滝城になります。

 寒川氏
寒川氏は寒川郡を本拠としていた国人です。国人とは地方在住の武士のことで地頭などの領主になっていました。
寒川氏の出自は讃岐郡司系譜説もありますが明確ではありません。寒川氏の初出は1344(康永3)「寒川七郎」になります。そして1399(応永6)には長尾荘の代官としてその名を現します。

一時期官職を罷免されますがその後は領主化を進めていきます。一方で細川氏の内衆として活躍しており、山城の国上久世荘では1454には舞田氏を追い落とし公文職の認定を東寺から受けています。

戦国時代になると寒川・大内郡の国人領主として発展を遂げ、安富氏と領域をめぐる争いを展開するようになります。寒川氏の本城が昼寝城になります。

安富氏と寒川氏
上に記述
本村遺跡出土物
丸瓦・唐津焼
六車城址出土物
火鉢・土師質土器
中国陶磁器・備前焼
 

 671雨滝城跡抜粋
雨滝城は海抜253mの頂上に長禄年間(1458頃)安富山城守盛長が城を構え、天正11(1583)長曾我部元親の侵攻により落城した。
安富氏は応仁の乱に武将として出陣。乱後は西讃の香川氏とともに細川氏の守護代として讃岐を二分して東讃を管轄した。

15世紀中頃に安富盛長によって築造されたといわれる。1583(天正11)長曾我部元親により落城した。
発掘調査によると礎石と瓦が発見された。土器・陶磁器などの出土遺物は16世紀後半のものであり、天正期(1573-1592)に大改修されたらしい。

雨滝城跡
雨滝城跡

上に記述
雨滝城跡
雨滝城跡出土物 雨滝城跡軒瓦

るつぼ

短刀・鉄鏃・包丁・小柄・鎌・キセル吸い口

中国銭(六文銭か?)

中国陶磁器

碁石・砥石

ニシ貝・備前焼
土師質土器×3
美濃焼・中国産白磁皿

すり鉢

 ※長禄年間(1457年~1460年)に安富盛長が築いた城。
  室町時代(1336-1573)の中~後期にかかる時期で各地の豪族が独自で中国貿易に乗り出した時代。

 ※瀬戸内海に面した地の利を生かして、交易によって大陸製品が入って来たようです。

 




 700近世



 701義民 残虐な話です
義民
二人の義民の墓


 702火縄銃づくり 銃技家 多田小七郎(経徳)

火縄銃づくり
文字化せず
火縄銃づくり 弾薬箱
弾薬箱 火縄銃
火縄銃ケース
甲冑
甲冑
絵巻

だったようです