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 万葉の考古学01 05    2019.04.08-3


  奈良万葉文化館  奈良県高市郡明日香村飛鳥10 0744-54-1850 月休撮影可

  明日香村埋蔵文化財展示館  奈良県高市郡明日香村飛鳥225-2 0744-54-5600
                       定休日無し 撮影可

交通   近鉄橿原神宮前駅より3.6km
徒歩40分
・レンタサイクル18分
・明日香村循環バス「カメバス」10分 一日券650円(橿原神宮前駅東口で販売)
見所   ・飛鳥池工房(官営よろず製作所)跡遺跡の直上にあり、出土物が豊富。
・万葉時代の暮らしや文化、歌という文化、について紹介する。
・館内上映の映像のうち二本はプロジェクションマッピングで、後方に座っていると迫力満点。
 
 
 
 
 

 01飛鳥寺へ
 

飛鳥資料館から万葉文化館へ歩く。1.3km
のどかな風景が守られている。

長者の豪邸が田圃の中に。きっと多額の費用で発掘調査したのでしょう。
飛鳥坐神社

おんだ祭が有名
 最奥の大屋根が万葉文化館。屋根下に飛鳥池工房跡があり、この溝は1500年前から工房の排水を流していた。溝の右の田圃はもと飛鳥寺の寺域。


 飛鳥寺
日本書紀によれば、崇峻天皇元年(588)に蘇我馬子は法興寺の建立を計画し、同5年には仏堂(金堂)・歩廊(回廊)が完成、
推古天皇元年(593)には塔を起工し、同4年には一応の建物が完成した。同13年には丈六の仏像を造り、翌14年に安置したとある。

日本最古の本格的な寺院で、その造営に際して多くの博士・工人が朝鮮半島から渡来して当ったことが記されている。

大化の改新や天皇の病気平癒など飛鳥時代を通じて飛鳥における中心的な役割を果たしたが、
建久7年1196)に焼失し、現在に至る。

法興寺・元興寺とも称され、現在は止利仏師の作と伝える重要文化財の金堂丈六物が残る。

昭和31年~継続的な発掘調査の結果、塔を中心三方に金堂を置き、北側に講堂、南側に中門・南門の跡があることが判明した。
寺域は南北290m東西200~250mの規模を持ち、飛鳥では大官大寺とともに最大規模の寺院であった。

飛鳥寺 現在の飛鳥寺
一丈六尺=4.8m
(一丈=3.03m)
(六尺=1.81m)

入りたかったが撮影不可だし丈六仏以外みるとこないと引き返す。

後で、万葉文化館の館長に笑われてしまった。
文化財に対する考え方が私は偏っていると思った。

謙虚に歴史遺産を見る姿勢が必要だ。 

 02飛鳥池工房住居跡

  飛鳥寺から万葉文化館へ向かうと、細い道で万葉文化館への登り道がある。自転車やバスでは気付かない、歩いたものだけの入口。
  そこを上がっていくと、万葉文化館裏の飛鳥池工房の居住地区に出る。ここは、沢山の工人たちの住んでいた住居跡である。

 道路跡
この道路跡は、飛鳥池工房遺跡のある丘陵の北端を東西方向にかすめるように造られています。
同路面には砂利を敷いており、四せゃり磁器の北側には瓦敷やきれいにならんだ石列があり、道路は何度か造り替えられたようです。

飛鳥寺の南限の塀(大垣)と並行に走っていたと考えられます。

道路跡
石敷道路の向こうは飛鳥寺の寺域だった。
道路跡 道路跡
中央:道路、右:飛鳥寺
飛鳥池工房住居跡図 甘樫の丘
手前はもと飛鳥寺寺域


 工人住居跡
工人住居跡
排水溝
樫の木の根元
周囲には万葉時代の植生が再現されている。
樫(カシ)

樫が読まれた万葉歌


 石敷き井戸
この石敷き井戸は、この場所で見つかった石敷き井戸の一部を再現したものです。(実際の遺構は地下約2mに保存されています。)

この井戸は井戸枠の周囲を一段高くして、河原石を敷き詰めています。井戸枠は上端が抜き取られていましたが、下部はよく残っていました。

井戸枠の上半部の板は建物の扉に使用していたもので、閂(かんぬき)を通す鎹(かすがい)やフック状の錠を取り付けた跡が残っていました。
また井戸枠の板には「道」「飯」などの文字や「蓮の華と葉」などの絵の落書きがありました。

井戸底には特別な施設はなく、地山岩盤の地層の間から湧き出す水を縦板のの隙間と底から取水したものと思われます。

石敷き井戸 石敷き井戸 石敷き井戸の構造 流水路(井戸に流れる)
井戸の周囲
井戸は低い位置にある
井戸上端の再現
釣瓶跡がなく、竿先に結んだ桶を沈めて水汲みをしていたようだ。
 ※通常、井戸には汚水が混じらないように、井戸の周囲は高くし、雨水や、洗い水が井戸に逆流しないようにします。
  しかし、飛鳥時代の井戸は、水汲み場より、周囲の方が高くなっており、上の写真④⑤⑥でわかるように、周囲から水が流れ込むようになっています。





 万葉植物園
  周囲には万葉時代の植物が植えられ、この日も花や木の説明会や、それにちなんだ万葉歌の紹介が行われていた。
  また、毎日のように館長がツイッターやフェイスブックで情報を発信しています。
万葉植物園 美しく整備された庭園。
この日も斜面右側では、沢山の植木屋さんが剪定や草刈りをしていました。
 


 05外観


万葉文化館入口 玄関ロビー 案内図
私が来た道は図面右上の細い通路です。
万葉文化館入口
正門から入ったところ
馬酔木(あせび・あしび) 万葉と言えば馬酔木
と私は思いこんでいます。
学生時代、友人たちと奈良の正倉院や大仏殿周辺を歩いた時、この花が咲き乱れていました。
我が背子に我が恋ふらくは奥山の馬酔木の花の今盛りなり

引用
万葉文化館入口
 




 渡り廊下デッキより


 07飛鳥池工房遺跡



 飛鳥池工房跡は、館内の渡り廊下から俯瞰する形でみることができる。


 08飛鳥池工房遺跡の主な出土品

 富本銭
天武天皇の代(672~687)に、日本で初めて鋳造された銭貨です。銅とアンチモンの合金でできています。『日本書紀』天武12年(683)に、「今より以後、必ず銅銭をもちいよ。銀銭を用いることなかれ。」という詔が見え、関連が指摘されています。

「富本」の文字は『晋書』という中国の書物に「富国の本、食貨に在り。」とあることから、貨幣の導入によって国や民を富ませようという、貨幣制度の根本的な目的から取ったという説があります。

尚、藤原宮の地鎮具として埋納されていた須恵器の中から、水晶と共に富本銭が見つかりましたが、文字の形の違いから、この富本銭は飛鳥池工房遺跡以外の工房で作られていたと考えられています。

 木簡
木簡とは、木に文字を書いたものを指します。
ここからは天智朝から平安時代までの木簡が出土していますが、多くは天武・持統朝の木簡で占められています。

「天皇」木簡は、天武・持統朝のものと考えられ、天皇号の成立時期を検討する上で極めて重要な史料です。
「飛鳥寺」木棺からは、「飛鳥」の字を「あすか」と訓(よ)むことが7世紀まで溯ることがわかります。

「大伯皇子」木簡は「万葉集」に歌が載る大伯皇女のことであり、弟の大津皇子が謀反の罪で死を賜り、伊勢斎宮の任を解かれて飛鳥に戻ってきた跡の彼女の動向が伺えます。


飛鳥池工房遺跡の主な出土品 富本銭
右:飛鳥池工房出土
右:藤原宮跡出土
木簡

飛鳥寺木簡
天皇木簡
漢詩木簡
大伯皇子木簡


 金属製品

金・銀・銅・鉄製品が造られていました。
ここで発見されている金は純度69.6~99.8%、銀は純度90~99%であり、極めて純度の高い金や銀が用いられており、更に、銀は精錬まで行われていました。

又、鉄製品には、様(ためし)と呼ばれる製品見本の木製品が発注に使用されていたこともわかっています。
飛鳥時代の技術水準や発注・受注システムを知ることができる貴重な資料です。

 玉類
ガラス・琥珀。瑪瑙・水晶などが発見されています。
ガラスはガラス玉だけでなく、鋳型や原料となる石英も見つかっていることから、原料から製品まで一貫したガラス玉作りが行われていたことが分かっています。

金属製品
銀を溶かした坩堝と
金を溶かした坩堝
大きさが格段に違う
玉類 地下一階特別展示室
飛鳥池工房遺跡の出土品を展示する室

 09飛鳥池工房遺跡から発見されたもの
飛鳥池工房遺跡は、万葉文化館を建設する際に発掘された、7世紀後半から8世紀初頭を中心とする遺跡です。
飛鳥時代にはここで日本最古の鋳造銭「富本銭」をはじめ、金・銀・銅・鉄・ガラス・漆器などの様々な製品が造られていました。

ブリッジからご覧いただける炉跡は、遺跡の上に4mの盛り土をして元の通り復元したものです。
このパネルでは、炉跡の他にどのような場所からどのようなものが見つかったのかをご紹介します。

飛鳥池工房遺跡から
発見されたもの
石組方形池
土器・瓦・木製品(鉄鏃の様)・鉄製品・漆壺・漆皿・墨書土器・硯など

大溝:木簡3316。天皇
   漢詩等の木簡

土坑:飛鳥寺木簡
炉跡群
7世紀後半に操業した。
2度作り替え。(3時期)
早い時期には銅製品が、後に鉄製品が作られていた。

柱穴も見つかり、屋根がかかっていたようだ。

瓦や銅の人形などが出土。
石敷き井戸から流出する溝から出土。井戸の位置は一般展示室にあり。
ガラス玉などを製作した場所。
金・銀の製品を製作した場所

富本銭出土土坑・水溜
富本銭出土土坑

富本銭(破片含む)・富本銭の鋳型・鋳棹・鋳張り・溶けた銅・坩堝・鞴羽口などが出土した二つの土坑(ゴミ捨て穴)。元は一つの穴だったと考えられている。
水溜

「大伯皇子宮」と書かれた木簡などが出土。

これらの水溜は工房から排出される汚水を溜め、汚れを沈殿さて順次北方へと流すためのものと考えられている。
 
 
















 10特別展示室  地下一階 飛鳥工房遺跡出土遺物の専用展示室






 11飛鳥池工房遺跡とは

1991年の発掘調査で、近世に築造された飛鳥池に、7世紀後半~8世紀初めにかけての工房の跡が見つかった。

1997~1999年にも調査を行った結果、沢山の炉跡や廃棄物の堆積層(炭層)、建物や塀、井戸などの遺構、遺物が出土した。
炭層から見つかった遺物から、ここでは金、銀、銅、漆、ガラスなどを使って様々な製品が作られていたことが明らかになった。

日本最古の銅銭とみられる富本銭の鋳造も確認されている。
飛鳥寺に接し、飛鳥寺東南禅院の瓦を焼いた窯跡の存在や仏像鋳型の出土などは、仏教と深い関わりがあった、当時の時代背景を示すものとなっている。

この地に営まれた工房は、宮殿や寺院の造営などに大きな役割を果たしていたのであろう。

特別展示室 飛鳥池工房遺跡とは 飛鳥池工房遺跡とは 飛鳥池工房遺跡周辺遺跡 飛鳥池工房遺跡
関連ニュース








様々な鉄製品 鍛造 炭層から発見の金と銀 金銀の工房跡 万葉集に歌われた金銀
鉄 鉄製品と鍛冶に関係した遺物 木製の様とそれを元にした鉄製品




 20出土遺物



鉄滓
鍛冶関連遺物
フイゴ羽口
炉断面図
木で作られた製品見本
様(ためし)
鍛造鉄片 鉄床石と鍛造中の鉄製品
刀子・鉄釘・鎹


 30銅
 銅製品に使われた高度な技術
日本には、弥生時代の初めに大陸製の青銅器が伝えられたが、しばらくして国産も始まった。

仏像・銅鏡・建築金具と実に幅広く利用されている。飛鳥池工房遺跡からも、様々な銅製品とそれを造る道具が沢山見つかっている。
その中には水銀を用いた鍍金の技術や、魚々子の技法などがあり、高度な技術が用いられていたことがわかる。

銅の鋳造に関係した遺物
坩堝・鞴羽口・溶銅・炭など
銅製品に使われた高度な技術 様々な銅製品を鋳造した鋳型 作られた銅製品と未製品 いろいろなものに加工された銅
海獣葡萄鏡の鋳型出土


 銅銭
富本銭の鋳型やバリ(鋳造時に型からはみ出た余分な銅)、鋳棹(銭を切り離した後の湯道)などが出土しており、日本最古の鋳造銭であることがわかった。

 魚々子文様の板
金属面を打ち込んで、一面に粟粒を並べたように見せる技法で、長谷寺銅板法華説相図とともに最古の例。


菩薩立像の鋳型
銅製人形
天皇や皇族の祭祀具
銅銭 魚々子文様の板


 海獣葡萄鏡の作り方
  出土した海獣葡萄鏡の鋳型は、復元すると直径20cm以上になると推定される。
鋳型を作る
 
龍氏の細かい真土を用い(真土型まね)、現物を原型にした踏返しの技法による。
銅を溶かす  炉に坩堝をすえ付け、木炭を詰め点火、青銅の原料を入れる。
フイゴで送風し、高温を保つ。
鋳こみ・仕上げ  鋳型に銅を流し込む。
(鋳込み)

製品の仕上げ
ヤスリや砥石で形を整え、鏡面を磨く。


 40

銅を溶かした坩堝・炭
銅を溶かした坩堝・炭 溶銅

海獣葡萄鏡鋳型
銅の切り屑 銅製品
人形・ピンセット・釘
 
 50銅の工房
 51銅の工房
高度な鋳造技術を用いて、仏像や鏡、富本銭などが作られていた。
裏表の鋳型を合わせ、上から溶かした銅を流し込み、冷めるのを待って取り出す。富本銭は、一度に十六枚以上作られていたと考えられる。

鋳型を割ると、枝銭と呼ばれる枝状の富本銭が現れる。枝銭から銭を切り離し、ヤスリや砥石で磨いて仕上げた。

銅の工房 富本銭の鋳造工程
砂型製造

砂型
銅の溶融と鋳込み
仕上げ
製品の出荷
 52

鋳造時の富本銭
無文銀銭
模造

鋳竿と富本銭未製品

和同開珎・開元通宝



 55日本最古の鋳造銭・富本銭
富本銭は、飛鳥池工房遺跡が発掘される前にも、平城京跡や藤原京から五枚見つかっているが、通貨ではなく、まじないなどに使う厭勝銭と考えられてきた。
飛鳥池工房遺跡で富本銭の鋳造が確認されたことは、日本最古の貨幣とされる和同開珎よりも早い時代に銅銭が作られていたことを物語る。

唐にならった律令国家建設を進めていた当時の日本を考える上で、通貨としての機能や価値、流通範囲など、富本銭が投げかける課題は多い。

 富本銭とは
日本書紀には、天武12年(683)に天武天皇が「これからは銅銭を使いなさい、銀銭は使ってはいけない」と命じたと書かれている。
また、持統8(694)と文武3(699)には、貨幣鋳造のための役所を置いた記事も見える。この貨幣が何か、長らく大きな謎だったが、富本銭である可能性が高まった。(使ってはいけないとされた銀銭は、天智天皇の時代の無文銀銭とする説が有力)

 富本の意味は
銅銭の上下にある「富本」とは、「国を富まし、国民を富ませる本」という意味。この言葉は、当時の中国の書物から取られたとみられる。
又、銅銭の左右についている。

 お金の価値は
富本銭の価値がどれ位だったのか分かっていないが、参考までに奈良時代(初期)の和同開珎は一枚(一文)が一日分の労賃であったとされている。
お米が一升二合買えた。
日本最古の鋳造銭・富本銭
日本最古の鋳造銭・富本銭
日本最古の鋳造銭・富本銭
富本銭とは 富本の意味
お金の価値は?

 皇朝十二銭
「和同開珎」~250年余りの間に、日本では12の銅銭が作られた。これを「皇朝十二銭」と呼んでいる。

皇朝十二銭
゛和同開珎708
万年通宝760

神功開宝765
隆平泳宝796

富寿神宝818
承和昌宝835

長年大宝848
鐃益神宝859
貞観泳宝870
寛平大宝890

延喜通宝907
乾元大宝958
 
 60木簡
 61木簡が語る新たに事実
飛鳥池工房から出土した木簡は8千点を超える。その内容からみると、寺院に関するものが最も多く、次に天皇や皇族、宮殿に関わるものが目立ち、工房の性格を探る手掛かりになっている。また「天皇」と書かれた木簡は天皇称号の成立をめぐる議論に新たな資料を提供するものとして注目を集めている。

木簡が語る新たな事実
飛鳥寺・天皇・漢詩

漢字の読み
大伯皇女

 62漆文化開花の時代
明日香時代、漆文化は大いに開花した。法隆寺の玉虫の厨子や正倉院宝物などに、その技術水準の高さを知ることができる。
飛鳥池工房でどんな漆製品が作られていたのか具体的に知るすべはない。しかし、次々に寺院が造営された時代、飛鳥池工房の漆工芸技術が仏像・仏具の受容に大いに答えていたことは容易に想像できる。


漆文化開花の時代 漆文化開花の時代 須恵器の壺:
  漆の運搬・保存。
皿:パレット
ハケとヘラ:漆を塗る
漉し布:樹液の漆からゴミを取り除く。麻と絹がある。
塗師の様子

 62a飛鳥寺東南禅院の瓦窯
飛鳥池工房遺跡の中で、瓦窯(登り窯)が一基見つかった。瓦の文様の特徴などから、飛鳥寺の東南炭に道昭(629-700)が建立したという禅院の瓦を焼いたと思われる。


飛鳥寺東南禅院の瓦 飛鳥寺東南禅院の瓦窯
 

 63出土木簡

漢字の読み
大伯皇女木簡

飛鳥寺木簡

天皇木簡
漢詩木簡
 
 70漆工芸
 71漆工房に関わる遺物

漆容器

漆工房に関わる遺物

漉し布

ヘラ

ハケ
 79藤原宮地鎮具出土
 
 80ガラス・宝玉類

 81最先端のガラス技術
飛鳥池工房遺跡で瑪瑙、琥珀、水晶製の玉類と、緑、青、黄、褐色などの華麗な彩(いろどり)をもつガラス手間の鋳型やガラス玉の製品が見つかった。
ガラス小玉の鋳型やガラスを溶かしたルツボ、原料の方鉛鉱や石英なども発見されており、国産ガラスの製造が始まったことを物語っている。

砲弾形のガラスルツボや笠形の蓋は、韓国の扶余や慶州などでよく似たものが出土しており、当時最新の技術が日本へ伝わった経路を示す一例として注目される。

ガラス・宝玉類 ガラス宝玉類
ピンボケ
最先端のガラス技術 ガラスの鋳造に関係した遺物
材料・坩堝・鋳型・ガラス
色とりどりの宝玉
ガラス・水晶・琥珀・瑪瑙



 ガラス小玉の作り方
ガラス玉は当時宝玉の一つだった。工房では大量の玉が鋳型をはじめ様々な方法で作られたとみられる。

  ガラス作り
ルツボに原料の方鉛鉱、石英などを入れて加熱する。 フイゴで風を送り火力を上げる。

  着色
溶けたガラスに色を着ける。 発色剤は主に銅と鉄。 銅からは緑や赤褐色。 鉄からは黄色や褐色が生まれる。

  ガラス玉を作る
鋳型を使う
 窪みの底にある小さな穴に、細い棒を立ててガラス小玉の芯とした。

 ガラス宝玉類の使われ方
貴重な宝玉類は宮廷や貴族の身辺を飾りもしただろうが、仏像の装飾や、ときには、玉枕のような枕にまで使われた。
おびただしい生産量は、仏教が広まり、寺院が増えていった時代を表すかのようだ。

 万葉集に歌われた玉
玉ならば 手にも巻かむを うつせみの 世の人なれば 手に巻き難し 大伴坂上大嬢(おおとものさかのうえのおおいらつめ)  巻四-729

万葉集には、玉を詠み込んだ歌が440首もあり、玉が万葉人に愛されていたことを伺わせる。 

 

 90激動するアジアの中で

 91
七世紀初め、中国では隋に代わって唐が国内を統一した、唐は律令と呼ばれる法律をもとに、役所の仕組みを整え、戸籍を作って人々に土地を割り当て、
税金、兵役を課した。中央集権的な統治で国力を増した唐は、周辺の諸国を征服し大帝国をうちたてた。

日本は遣唐使を送って国交を結ぶと共に、唐の政治制度や文化を取り入れようとした。七世紀半ば、朝鮮半島では政変が相次ぎ、唐の援助を受けた新羅が
百済、高句麗を滅ぼして半島統一に成功した。

唐・新羅連合軍に白村江で敗北した日本の国内にも危機感が高まり、急速に国家の整備を進める必要に迫られた。我が国の律令国家体制の基礎が
ほぼでき上がったのは、壬申の乱を経て天武天皇が即位した七世紀後半のことであった。
飛鳥池の工房が営まれたのは、ちょうどこのころである。



 
 100飛鳥池工房の背景
 101







飛鳥池工房の時代背景年表 文化財の保存と活用 遺跡と共存する総合文化施設を目指して 遺跡と共存する総合文化施設を目指して 管理・研究棟の移転位置説明図 敷地全体図
具体的な保存対策の内容
遺構出土品の活用法
施設パノラマ図   施設パノラマ図        
 
 


























 200一般展示室  万葉文化館の本展  万葉文化についての展示





 201
入口展示 歌とは何だろう
歌は元々声に出し、
節を付けて歌うものだった。
文字により伝えられるるようになり、
「うたう歌」から「よむ歌」へと変化していった。

歌は世につれ 世は歌につれ
歌とは一体何だろう
万葉集って何だろう
さあ通りゃんせ 通りゃんせ
歌のトンネル万華鏡

歌の姿のさまざまを
とんとん尋ねて通りゃんせ
さあくぐりゃんせ くぐりゃんせ
とんとん尋ねて通りゃんせ

  色は匂へど 散りぬるを
わが世誰ぞ つねならむ
うゐの奥山 けふ越えて
浅き夢みし 酔ひもせず 

手を上げて、横断歩道を渡りましょう
火の用心 マッチいっぽん 火事のもと
  耳をすませば 聞こえてくる
   くらしの中の さまざまな歌
歌はどこから きたのだろう
   歌のふるさと どこにある
時の流れを たずねれば
   そのみなもとに 万葉集
 
 210歌とは何だろう

 211歌に興じる男女
市は無多くの人の集まるところであり、
男女の出会いの場でもあり、
歌垣が催された。

歌の形式は掛け合いであり、
挑むように歌い掛けるのに対し、
しっぺ返しをするように返歌する形で、
機知に富んだ歌が好まれた。

名を問うことは球根を意味し、
意中の相手が決まると、
男は女の名を尋ね、女は自分の
本当の名を告げて、求婚に応じた。

 市のようす

 須恵器・土師器を並べた店
最も一般的な須恵器は、筑前の国や
美濃の国などから運ばれ市に並んだ。

釉薬をかけたものや漆塗りのもの、
金属製の食器などは、貴族や高位の僧が
儀式や宴会の際などに用いたと思われる。

庶民のあいだでは、なお古墳時代以来の
土師器も使用されていた。その形態は
壺・皿・杯などさまざまである。 

 市のようす

 野菜・果物を並べた店
野菜・果物を並べた店
当時の商いは物々交換であり、

女性は、染色した糸と野菜・果物を交換しようとしている。

会話の再現テープでは
染色糸が、かなりな安価で取引されていた。

梨は山梨。これは 石のように硬くてどのようにして食べたのだろう。
野菜・果物を並べた店
少し季節感がおかしいが、売られていただろう物を集めてみた。のだろう。
和同開珎は和同元年(708)に発行された貨幣。
畿内においては市での売買にも用いられ、
価格は役所によって管理されていた。

実売価格は東と西の市で異なる場合もあり、
安い方を選んで購入するようにとの命も出された。

大根、青菜、茄子、水葱、瓜、干し柿、栗、
桃、梨、棗(なつめ)など、毎日の食卓に欠かせない
食品から贅沢品まで、幅広い品目が都では商われていた。

 ものを作る職人

 212硝子を作る職人
ガラスは、木製品を溶かすだけでなく、原料からも作られていた。
蓋付きの砲弾形ルツボに鉱物原料を入れて炉で溶かし、発色剤を加えて、色とりどりの玉を作り上げる。
ガラス小玉を作る方法の一つとして、小さな半球形の窪みが並んだ鋳型を用い、大量のガラス玉が作りだされていた。


硝子を作る職人 原料のガラス片 ルツボと鋳型

ルツボに蓋をするのは、酸化防止であろうか。

子供の頃の実験ではそのまでは真っ黒な
ガラスが出来上がってしまった~。

 ものを作る職人

 213富本銭をつくる職人
富本銭は、日本で初めての鋳造による銅銭である。 鋳造とは、溶かした金属を型に流し込んで作る方法。
富本銭には、銅とアンチモンを加えると鋳造しやすく、また、磨滅に強い製品ができる。

飛鳥時代には仏教文化と共に寺院の建築や仏像・工芸品の製作に、朝鮮から技術者を迎えた。
富本銭もまた、、渡来人がもたらした高度な鋳造技術によって作ることができたものであろう。


富本銭をつくる職人 富本銭をつくる職人 鋳型に流し込まれた湯 棹からはずされた銭と
バリや失敗作

型押しされた鋳型両面
タガネで棹からはずす 仕上げした銭の完成品
粘土に型押しして
鋳型を作る

鋳型裏

 石敷き井戸が見つかったところ(写真未撮影)
飛鳥池工房遺跡で、大きな石組の井戸が二つ見つかった。ここは、その一つ、南側の井戸が出土した場所にあたる。
このような石敷井戸は、七、八世紀を通じても、飛鳥浄御原宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)や平城宮内裏など、限られた場所に設けられているにすぎない。
当時の格の高い井戸であったと思われる。  石敷き井戸は現状保存された。


 市のようす

 214穀物・調味料を並べた店
都の役人やその家族たちの主食である白米の他、黒米(玄米)、赤米、糯米(うるちまい、とあるが、これはもち米の漢字。粳米=うるちまい)、大麦、小麦、粟、大豆、小豆なども商われていた。
また、当時の調味料としては、塩、醤(ひしお、醤油の原型)、味醤(みそ=味噌)、酢、酒、糖、さらに贅沢品の胡麻油などがあった。
また、鰹の煮汁も調味料として用いていた。



石敷き井戸が見つかったところ(写真未撮影) 穀物・調味料を並べた店 穀物・調味料を並べた店

小麦・赤米・蘇
小豆・大豆・醤・白米

蓋付甕の二つの商品は読み取れませんでした。
 


 215古代音楽を今によみがえらせる

万葉仮名によって書き記された万葉歌は、どのような旋律や発音で歌われていたのだろうか。
録音技術や楽譜のなかった当時の万葉歌を、現在みられる音楽の形式から可能性を探り、イメージを再現する。

さまざまな歌い方の中で、現代人が万葉歌に一番近いと感じるのはどれだろう。


 無伴奏のうたいもの
古代発音で読む
  現代には失われてしまっている古代の発音で読みあげる。
現代発音で披講する
  現代使われている発音で読み上げる。  

 現代風の歌
ラップ風にうたう
  サンプリングやエレキギターを用い、ヒップホップ風に歌う。
フォークソング風に歌う
  オーソドックスなフォーク調の伴奏に切ないメロディを付けてうたう。  

 伴奏のあるうたいもの
日本古来風の伴奏で歌う
  歌垣をイメージし、素朴な楽器伴奏に同様のような旋律でうたう。
現代の楽器の伴奏でうたう
  竜笛(りゅうてき)、笙(しょう)、笏拍子(しやくびょうし)、和琴などの楽器を用いてうたう。

古代音楽を今によみがえらせる
古代音楽を今によみがえらせる
古代音楽を今によみがえらせる


 216日本とアジアの歌

万葉歌や『風土記』などにみられる歌垣の風習は、現代日本では、僅かに民俗芸能や舞台芸能として、その名残をとどめるだけとなっている。
中国の少数民族の中には、今なお原型的な歌垣が生きる地域もあるが、徐々に、見せる芸能へと変わりつつある。

日本とアジアの歌 日本とアジアの歌 日本とアジアの歌
雲南省石宝山での歌垣
侗族の玩山歌(貴州省)
  最初はなぞなぞ問答のような歌の掛け合いで、相手の人格や学識などを判断し、意中の人が決まると誓いの歌となる。

苗族(貴州省)
  マンドン村の丘の上での歌の掛け合いは集団合唱によるもので、民俗芸能化している可能性が大きい

白族(雲南省)
  石宝山に、結婚相手を求める原型的な歌垣が残っている。
  男女が数時間にわたって情熱的な速記用の歌を交わす実例が報告されている。
  金沢八幡宮掛け歌行事(秋田県横手市)
  ステージの二人が、清宇都民謡『仙北荷方節』のメロディーに乗せて即興の歌詞を応酬し競う。


壬生の華田植(広島県山県郡北広島町)
  さんばいという進行係の男性が親歌を歌うと、早乙女は小唄を合唱し田植えをする。周囲で男達が笛太鼓の田学を奏する。
  平施まんかい(鹿児島県大島郡龍郷町)
  夕刻、海岸にある二つの大岩に、神役の男女が数人登り、向かい合って、招くような手振りをしながら交互に歌を交わす。


とぅばらーま(沖縄県石垣島)
  元々は畑仕事や牛を追う労働歌で、野良から帰る男女が即興で歌掛けをしたものだといわれる。


 217古代の文房具



古代の文房具
文房四宝
筆・硯・紙・墨

木印・銅印・刀子
・脚付円面硯
 217a

歌の書かれた木簡
習字木簡
文字を書く仕事 写経生の仕事
経師 経典を書き写す
↓構成
手実(作業報告書) 請暇不参解
(休暇・欠勤届)
充紙筆墨帳
文具支給記録
校帳(校正の記録) 充本帳
手本経典貸出記録
落書き大皿 落書き大皿 硯の下に敷いた皿に下級役人が落書きしたもの


 218万葉人の筆跡
万葉の歌人たちの文字が、正倉院古文書などに残っている。
筆跡にその人の性格や心理が知られるとすれば、残された歌と共に、千数百年の時を越えて、その人柄を偲ぶこともできよう。


万葉人の筆跡
聖武天皇・光明皇后
大伴四綱・智努王
久米広縄

光明皇后・孝謙天皇
淳仁天皇・久米広縄
内蔵縄麻呂・藤原仲麻呂

淳仁天皇・橘諸兄
藤原仲麻呂・高橋虫麻呂

橘諸兄・市原王
高橋虫麻呂
大伴家持

 219様々な万葉集
万葉集はおよそ千年もの長きにわたり、人の手から手へと書き写されて伝えられた。それ故誤写や脱字も生じ、写本に系統が生じることともなった。
やがて江戸時代初期に至って、印刷技術の発達により版本が作られて流布し、広く人々に読まれた。

桂本
 現存するもっとも古い断簡で平安中期の書写
 巻四の一部が現存する
 金銀の花鳥草木を描いた七色の継色紙を用いる。 
元暦校本
 奥書きに元暦元年(1184)校合完了とあるところからこの名がある。
墨・朱・赭・緑の色分けにより、他本と校合している。
  天治本
平安後期の書写。
巻13の全部と巻2,10,14,
15の断簡が残る。

数人の手によって移された寄合書。
  藍紙本
平安中期の書写。
巻9の119首が現存する。

藍色の地に銀砂子を散らした料紙を用いたことからこの名がある。
金沢本
平安後期の書写。

藍紙本に次ぐ古写本で、巻2の大部分と巻3,4,6の断簡が現存する。

加賀の前田家旧蔵。
 
尼崎本
書写年代は平安末期、
もしくは鎌倉初期と見られる。

巻12の断片と、仙覚系以外では唯一の巻16とが現存する。
類聚古集
平安末期、
藤原敦隆が題材に従い分類したもの。

次点本系統の本文を伝える資料として重要。
書も流麗である。
伝壬生隆祐筆本
鎌倉中期の写本で、壬生隆祐自筆と伝える。

巻9の前半、85首が残る。
もと綴本であるが、改装して巻子本にした。
  紀州本
前半は次点本系で鎌倉末期の書写。

後半は仙覚文永本系統で室町頃の補写かとされる。
もとは神田本と呼ばれた。
 嘉略伝承本
嘉略三年(1328)に伝承されたことからこの名。
巻11の大部分が現存、
付訓は定家仮名遣いに似る。
西本願寺本
鎌倉後期の書写で、全20巻そろった完本として現存最古のもの。
仙覚本の一つ。

但し巻12のみは、別系統とされる。
現代のほとんどのできすとの底本である。
  寛永本
寛永20年(1643)に出版された、木版活字本。江戸時代の流布本である。
『校本万葉集』の底本である。

 219a古点・次点・新点について 「点」とは訓読のこと

 古点
  天暦5年(951)に詔が下り、宮中の梨壺で、清原元輔・紀時文・大中臣能宣・坂上望城・源順の5人が万葉集を読み説いた。これを古点という。
 次点
  古点より後、仙覚が新点をつけるまでの点を次点という。
  藤原道長・大江佐国・大江匤房・惟宗孝言・源国信・源師頼・藤原基俊・藤原敦隆・藤原清輔・藤原長惟忠・藤原顕昭などの人々によって行われた。
 新点
  鎌倉中期に沿う仙覚がそれまで無訓であった歌にあらたに訓を加え、仙覚自ら新点と称した。
  ここに全ての歌に訓がつけられた。この新点による本が仙覚本である。

古点・次点・新点について 古点・次点・新点について



 万葉集の基礎知識
万世まで伝われという意で名付けたとも、多数の歌を集めたという意で名付けたとも言われる、我が国現存最古の詞華集。

仁徳天皇の皇后の磐姫の歌から天平宝字3年(759)正月一日り大伴家持の歌まで、400余年間にわたる全20巻、約4500首の歌から成る。
編纂は数回にわたって行われ、最終的な整理を加え、いま見るような形態にした者が大伴家持であるとされる。

長歌・短歌・旋頭歌・仏足石歌体歌・連歌などの歌々の他、漢文の序・書簡・詩などを収録する。
作者としては、天皇・皇后・皇子女たち、官人、僧侶、東国の農民などが挙げられ、また作者未詳の歌も見える。
万葉集の基礎知識 万葉集の基礎知識




 万葉仮名について
固有の文字をもたなかった古代の日本人は、中国から移入した漢字で歌を表した。
その方法には、表意文字としての用法と、表音文字としての用法があり、漢字の音を借りた表音文字である万葉仮名は、後の平仮名や片仮名のもとになった。

また、表意文字としての用法の中には、戯書と呼ばれる本来の字の意味によらない連想による特殊な訓も見える。

  表意文字としての用法
●国語の意味に相当する漢字を用いたもの 吾恋君(あがこうきみ)  春霞(はるがすみ)
●漢字をそのまま用いたもの 法師 餓鬼 
 
  表音文字としての用法
●漢字の音を借りたもの 伎弥尓故布流 安伎可是 (きみにこうる あきかぜ)
●漢字の訓を借りたもの 八間跡(大和) 五十日太(筏)


 戯書
●文字の上の戯れ  山上復有山(出)
●擬声語によるもの 追馬喚犬 馬声蜂音石花蜘蛛 (そも いぶせくも  鬱)
●数の遊戯 十六(しし 獣)  八十一里(くくり 括)
●義訓の複雑なもの(偽訓の誤りか)
  金風(あきかぜ) 白風(あきかぜ)  (五行思想で、秋は金、色彩としては白)
  切木四之泣(かりがね) (雁音…樗蒲(かりうち)という古代の遊戯に使う四枚の木片の采の名前を雁にあてた)
  恋水(なみだ 涙…恋の苦しみにつきもの)
  義之(てし 王義之葉書道の是正<手師>だから)
万葉仮名について




 雑歌・相聞歌・挽歌とは

 雑歌ぞうか 宮廷の行事・儀礼や旅の歌、宴会の歌
春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天香具山 持統天皇


 相聞歌 男女の恋の歌
小竹(ささ)の葉はみ山もさやに乱(さや)げどもわれは妹思ふ別れ来(き)ぬれば 柿本人麻呂


 挽歌 人の死に関する歌
うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)とわが見む  大伯皇女 巻2-165
雑歌・相聞歌・挽歌とは
ピンボケ
 
  


 220石神遺跡出土木簡 現存長295mm 現存幅29mm 厚さ4mm 明日香村石神遺跡出土7世紀後半

この木簡の表面には「奈尓波ツ尓・・・」と書かれています。この歌は『古今和歌集』(10世紀初頭成立)の仮名序に「難波津の歌」として紹介されています。

それによれば、この歌は「帝の御初めなり(みかどのおんはじめ)」と記され、天皇の歌の始まりとされています。
また、安積山の歌と並んで「歌の父母」ともあり、手習いとして最初にならう歌であるとも書かれています。

この歌は万葉集には収録されていませんが、この歌が書かれた木簡が7世紀の複数の遺跡から発見されたことから、飛鳥時代にはすでに広く知られていたことがわかるようになりました。

「奈尓波ツ」木簡出土位置図
石神遺跡出土木簡 難波津に  咲くやこの花  冬ごもり  今は春べと  咲くやこの花 古今和歌集 仮名序
難波津の歌


 221石に刻まれた万葉時代の歌
薬師寺には、仏足石歌碑という天平勝宝5年(753)以後に刻まれたと推定される万葉仮名の歌碑が残る。
歌は五七五七七七という特殊な歌体であり、仏足石歌体と呼ぶが、同様の歌体の歌が万葉集にも巻き16-3884に1首だけ残っている。

 万葉集 御足跡作る 石の響きは 天に至り 父母がために 諸人のために (仏足石歌碑 第一歌)

 釈迦の御足跡 石に移し置き 行き廻り 敬ひまつり 我が世は終へむ (仏足石歌碑 第十四歌)


 万葉集に残っている仏足石歌体の歌
伊夜彦神の麓に 今日らもか 鹿の伏すらむ 皮服着て角付きながら 作者未詳



石に刻まれた万葉時代の歌
石に刻まれた万葉時代の歌
万葉集に残っている仏足石
歌体の歌
仏足石 国宝
 

 市のようす
 223魚・海産物を並べた店

魚・海産物は全国各地から干物や酢漬け、鮨(すし)佃煮などに加工され運ばれた。
万葉人も好んだ鯛は筑前・隠岐・伊予・若狭・志摩・三河などから もたらされた。市には牡蠣をはじめとすめ貝類・若布(わかめ)などの海藻、ナマコ、イカ、タコ、ウニ、エビ・クラゲなど諸国の海の幸が、所狭しと並べられていた。


 万葉時代の芸能人
都市の発達と共に、歌は多様化し、洗練され、高度な技芸をもった専門芸能人を生むことにもなった。

万葉集巻16に残された歌には、神事芸能としての鹿踊りに関する歌や、蟹や鹿の様態を模した所作を伴って祝言を述べたと考えられる芸能としての歌も見られる。日本古来の芸能に加えて、新羅や百済の楽、仮面音楽劇で大仏開眼供養にも行われた呉の伎楽など、中国・朝鮮諸国の楽舞も伝来し、様々な芸能が行われていた。
魚・海産物を並べた店
伊加・海鼠・干鮑
?・?・鮎
万葉時代の芸能人 仮面音楽劇

 市のようす
 布・糸類を並べた店
平城京の市では、全国各地から税の一部として運ばれた布(調布・庸布)も売買されていた。

万葉集の東歌に「筑波嶺〔つくばね〕に雪かも降らる否〔いな〕をかも かなしき児〔こ〕ろが布〔にの〕乾(は)さろかも」 とあるような、降る雪に見立てられた
白い布は、農家の女たちの厳しい有働の成果として都に届けられたのであろう。また、高級な布地や色とりどりの布地も扱われていたという。

布・糸類を並べた店
衣(きぬ) 衣(きぬ)
 


 231万葉人の系譜 万葉萌芽期の皇族歌人
万葉の時代は天智・天武の父である舒明天皇の代から始まるといってよい。
萌芽期とも言えるそれ以前の、磐姫皇合・難波天皇の妹(八田皇女)・軽皇子・軽太郎女・雄略天皇・聖徳太子などの歌は、後の時代の歌が仮託されたもので、
それぞれの実作とは認められていない。この頃の歌は、伝説に伴う伝誦歌的要素をもち歌謡性を残している。

万葉人の系譜
万葉人の系譜
万葉人の系譜
応神天皇の系譜




 万葉人の系譜 万葉時代の皇族歌人
舒明天皇から壬申の乱平定(672)に至る初期の万葉の時代は、古代国家の基礎が固められてゆく波乱に富んだ時代で、大陸文化の○激をいち早く受け入れやすく、個の自覚が進んでいた皇族に華人が輩出した。

壬申の乱以後、天武朝の専制王権の確立期を経て、平城京遷都(710)に至る時代は、安定と繁栄とが享受された活力溢れる充実の時代で、皇統の中心である天武系に優れた歌人が多い。

また、宮廷歌人と呼ばれる柿本人麻呂の登場により、天武系皇族を讃美する讃歌や挽歌が多く作られた。
古事記・日本書紀の編纂・律令の整備が行われた平城京遷都後の時代は、湖西の開花した時代と言われ、聖武天皇を中心とした讃嘆が山部赤人・笠金村・車持千年ら独自の歌風をもった宮廷歌人によって作られた。

天智系の皇統の中では、志貴皇子の系統に清冽な歌風の伝統が受け継がれ、湯原王は写実的な詠風の中に淡雅な抒情味を漂わせ、市原王は平淡いで孤影をもつ歌を詠んでいる。春日王と、その子の安貴王には艶麗な歌が見られる。


壬申の乱 藤原京遷都 藤原京遷都 舒明天皇・茅渟王の系譜
万葉人の系譜
万葉時代の皇族歌人

遣唐使船

大仏建立


 万葉人の系譜 藤原氏の歌人 大伴氏の歌人

   藤原氏の歌人
  大化の改新(乙巳の変)に功績のあった鎌足から不比等へと、常に権力の中枢にいた藤原氏の歌風は、鎌足の雄〇な
戦いぶりが、孫の但馬の皇女の情熱的な歌に受け継がれ、またおおらかな歌風は、房前から水手・八束の歌へと流れている。

五百重姫の機知に富んだ天武の心に寄り添った応答は、施薬院・悲田院を設置し飢餓の者を救った光明皇后の
やさしい歌の流れにつながる。不比等とその子の房前・宇合・麻呂は『懐風藻』の作者としても知られている。


   大伴氏の華人
  天皇を警護する「伴」として、伝統ある武の家柄であり、歌の家柄でもあった大伴氏の万葉での歌は、
壬申の乱平定の後の功臣大伴御行の、天皇を神と讃えた歌を最初とする。この誇り高き「伴」の意識は、

旅人を経て家持へと、流れている。晩年に太宰帥として赴任し、妻を亡くした優悲を切々と歌い、
また漢籍の教養を基に山上憶良とともに風流の創作世界に遊んだ旅人。万葉の女流歌人として

最多の歌数を残した坂上郎女。万葉集の編纂者とされ、優艶な美や繊細な憂愁など多彩な歌を詠じた家持。
後期万葉は大伴氏とともにあるといってよい。

万葉人の系譜 藤原氏の歌人 大伴氏の歌人 万葉人の系譜 藤原氏の歌人 大伴氏の歌人 藤原氏と大伴氏





 233万葉年表 第1期(629-672)    第2期(672-710)    第3期(710-733山上憶良など)
舒明天皇の629~644 第一期
640~
第二期
679~694
688~702
第二期(~710) 第三期(~733)


 234平安時代の娯楽
  
平城京出土の
ゲーム盤面
奈良の都すごろくの皿 韓流すごろくの皿 奈良の娯楽

打毬・双六・蹴鞠

蹴鞠

投壺と矢

投壺と矢

打毬(ホッケー)
独楽(コマ)

独楽

双六盤とサイコロ


 役人の暮らし
万葉時代の役人は、日の出に出勤して、お昼には仕事が終わった。しかし、超過勤務もあった。
上級役人と下級役人とでは暮らしぶりが大きく違い、下級役人には借金に苦しむ者もいた。勤務評定があり、働きに応じて四年もしくは六年ごとに昇進があった。


 采女の暮らし
後宮の女官である采女は、地方豪族の娘から形容端正なものが選ばれ、采女の司に監督されて出仕し、天皇の飲食の給仕をしたり、寝所の世話をした。
また、役所の命令の伝達についての走り使いなども職務であった。


役人の暮らし
竹トンボ
采女の暮らし

 235万葉劇場
三本の映像が上演される。からくり人形が出てきたり、プロジェクションマッピングなど、
後方の座席に座っていると、素晴らしい体験をすることができます。