|
|
目
次 |
|
01外観
02入口展示
10板状土偶
20赤漆塗り木鉢
30赤漆塗り木鉢残欠
40旧石器時代
41石器
42縄文時代
43縄文草創期
46明前(4)遺跡の石器
50旧石器から縄文時代
52旧石器時代
53縄文時代
55石器
58石冠・石皿
60土器
61早期・前期
65中期
81向田(18)遺跡剥ぎ取り土層
82道具を作る技術
85甕棺 中期
86大木系土器
|
100弥生・奈良・平安
101弥生時代と続縄文時代
102古墳時代と終末期古墳
103奈良・平安時代
115縄文土器 後期
111縄文土器 晩期
117弥生土器
121後北式土器
123錫杖状鉄製品
平安時代の土器
125緑釉陶器
150研究
長者久保・神子柴石器群と旧石器時代から縄文へ
161長者久保遺跡出土品
200角鹿コレクション
203長者久保遺跡出土品
211石槍
215大型石槍
219縄文後期土器
220土器
221小型土製品 |
303加工部材 縄文前期末葉
305平安時代の鉄製品
400呪術具
410土偶
420縄文アクセサリー
430縄文人の食べ物
432キノコ形土製品
433有戸鳥井平4遺跡
435二ッ森貝塚の骨角器
500歴史時代
510野辺地町の古地図
520年表
530古文書
610西村金之丞に関わる資料
621慶応4年 高札
622明治維新と野辺地戦争
623野辺地湊と往来のあった湊
630日本海航路と野辺地湊
631南部盛岡藩の地方行政と野辺地通 |
|
|
01外観
野辺地歴史民俗資料館 |
土偶
|
野辺地町
有戸鳥井平4遺跡出土 |
|
02入口展示
|
|
10シンボル展示
板状土偶 縄文後期 前2000~前1000年 野辺地町野辺地123 有戸鳥井平4遺跡出土
|
胴部が逆三角形に作られた、縄文時代後期に東北地方に盛行する、板状土偶の優品。
頭部は細顔(細面)の逆三角形で表現し、左右の脚は短く湾曲し、つま先と踵を大きく前後に張り出させて、かろうじて自立できています。
胴部全面には、細かな沈線と列点文を幾何学的に描いています。
※この土偶は秋田県北秋田市伊勢堂岱遺跡、北海道札幌市埋蔵文化財センターなどと同じ、北海道・北東北地域に共通する土偶です。
座産を表しているとすると、足を曲げて座っている様子を平面で表現したために、膝がO脚になっています。
平面的に表された顔は、後ろから見ると、正常な立体表現になっており、顔の入れ墨状のペイントは他の遺跡ならば、巫女の仮面といわれるが
この地域では的外れであり、このように頸が飛び出した平面表現で人体の顔面を表す手法のようです。 |
|
|
愛称:縄文くらら
未記述 |
板状土偶
辺地町有戸鳥井平4遺跡出土
上に記述 |
土偶
縄文後期
前2000~前1000年 |
出土状況 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
重要文化財指定書 |
二つにへし折って捨ててあった。首はその後土圧で壊れたものらしい。 |
|
|
20赤漆塗り木鉢(あかうるしぬりもくばち) (木胎漆器)
赤漆塗木鉢 野辺地町字向田296 向田18遺跡出土 縄文前期末~中期前葉 5000~4600年前
|
赤漆塗りの大型木鉢。コナラ節の素材を楕円形に刳り抜き、一対の台形状の突起を作り出しています。その上端面にスガイのような小さな巻貝の蓋を連続して貼り付け、装飾していた痕跡が残っています。のちの螺鈿技法にも似た高度な技術で作られた漆工芸品です。 |
コナラ節(こならせつ)とは 引用wikipedia
|
節とはブナ科→コナラ属→コナラ亜属→コナラ節→と、分類される植物群のことで、その植物名は
ナラガシワ、ミズナラ、コナラ、モンゴリナラ(蒙古柏)、ヨーロッパナラ(イングリッシュオーク、コモンオーク)などがある。 |
木製赤漆塗り 引用文化財オンライン
|
木製赤漆塗り。上面観楕円形で、長軸方向の相対する位置に、台形の把手がつく、内外面全面に赤漆が塗られた大形の木鉢である。
把手の上面、口縁部はいずれも平坦に作られ、胴部は緩…
総高25.0cm、長径46.0cm、短径32.0cm |
|
赤漆塗木鉢 |
|
|
|
重要文化財指定書 |
赤漆塗り木鉢
上に記述 |
出土状況 |
巻貝の蓋を貼り付けた痕跡 |
|
|
|
|
|
30赤漆塗り木鉢残欠 縄文前期末~中期前葉 野辺地町向田18遺跡出土 5000~4600年前
|
|
|
スガイと蓋 |
巻貝の蓋で飾った跡 |
|
|
赤漆塗り木鉢残欠
縄文前期末~中期前葉 野辺地町向田18遺跡
カツラ材 |
黒漆塗り木椀
縄文前期末~中期前葉 野辺地町向田18遺跡
トチノキ
|
|
赤漆塗り木鉢残欠
クリ材 |
赤漆塗り木鉢残欠
縄文前期末~中期前葉 野辺地町向田18遺跡
クリ材 |
|
|
|
40旧石器時代
旧石器時代遺跡
|
41石器
※旧石器時代としてひとくくりにされたためか、別々の時代のものが一様に並んでいます。 引用黒潮圏周辺の先史文化編年
ナイフ形石器文化Ⅰ期(35000年前)→ ナイフ形石器文化期Ⅱ(25000年前)→剥片尖頭器→ 尖頭器→ 台形石器→楔型・半円錐型 細石刃→
→華北型細石刃(九州)→ 神子柴型石器→
|
|
42縄文時代 野辺地の歴史
|
43縄文草創期 |
46明前(4)遺跡 草創期 野辺地町大字有戸
|
|
彫器 明前(4)遺跡
|
|
彫器様の石器
明前(4)遺跡
|
石錘 明前(4)遺跡 |
剣状の尖頭器 明前(4)遺跡
|
|
掻器 明前(4)遺跡 |
|
石鏃 明前(4)遺跡 |
|
剥片
石器作りの破片
|
槍先形尖頭器 明前(4)遺跡
|
尖頭器 槍の先 |
抉入削器 明前(4)遺跡
えぐり入りさくき |
削器 明前(4)遺跡 |
|
楔形石器 明前(4)遺跡
|
|
尖頭器
野辺地町向田(33)遺跡
|
|
|
|
|
|
|
|
50旧石器から縄文時代
|
|
52旧石器時代
|
今からおよそ2万年以上前の日本列島はアジア大陸と何度か陸続きになるときがありました。この陸橋を通って、色々な動物と共に人類も日本列島へと渡って来たと考えられています。
下北半島の尻屋崎や尻労からナウマン象・オオツノジカ・ビグマ・バイゾンなどの化石。小川原湖畔からナウマンゾウの臼歯、湖底からトラの下顎骨、
七戸町天神林から体高1.2mくらいのアオモリ象と名付けられた化石が発見されています。
日本列島に人類が住み始めてから、土器が使われるようになるまでの時代を旧石器時代といいます。旧石器時代は、前期・中期・後期の三期に区分され、青森県では、今から1万5千年~約2万年前の後期旧石器時代の人が使った石器が発見されています。
この時代の人々は、まだ土器を作らず石を打ち欠いて鋭利な刃を作った石器を主に使っていました。石器には、尖頭器・彫器・掻器・削器や細石刃などがあります。野辺地町では、目ノ越海岸や獅子沢遺跡からこの時代の石器が見つかっています。人々は、獲物を求めて移動を繰り返す生活を送っていたようです。 |
|
旧石器時代
上に記述 |
2万年前以前の
日本列島
|
|
石器の作り方 |
|
|
53縄文時代
|
今から1万3千年前から土器が使われるようになり、人々の生活が大きく変わり始めました。食べ物を土器で煮炊きすることによって食料事情が安定するようになりました。
この頃から気候は次第に温暖化し、ブナやナラなどの広葉樹林が広がりました。その森にある豊富なクリ・ドングリなどの木の実や山菜などの植物、森や川・海に生息する多くの生き物が食料となりました。
縄文時代は、縄目の文様をつけた縄文土器からその名が付いていますが、なかには、木や竹・貝殻・骨などの工具で文様をつけたものもあります。
この時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられ、およそ1万年もの間続きます。豊かな森の恵みと共に、竪穴住居からなる大きなムラもつくられるようになります。
三内丸山遺跡(前期中頃~中期末)、二ッ森貝塚(前期前葉-中期末葉)、富ノ沢(2)遺跡(中期中頃-末葉)、そして当町の槻ノ木(1)遺跡(中期)など、
主に縄文前期・中期に大きなムラが現れます。その後、縄文時代後期になると、小さなムラが数多く点在するようになり、小牧野遺跡(後期前半)、
大師森遺跡(後期前半)、大森勝山遺跡(晩期前半)などで環状列石(ストーンサークル)が築かれます。
晩期になると、亀ヶ岡遺跡(つがる市)、是川遺跡(八戸市)などで亀ヶ岡文化と呼ばれる優れた装飾を施した生活用具が作られます。特に木胎漆器や籃胎漆器などにみられる鮮やかな色彩や文様は、縄文の美を代表するものといえるでしょう。
縄文時代には、土器・石器の他にも様々なものが作られます。
有戸鳥井平(4)遺跡(野辺地町)出土の土偶や動物やキノコを模した土製品類
向田(18)遺跡出土の漆器・木製品・丸木舟、ヒスイやコハクなど形や素材も多種多様な装飾品も作られます。
また、骨格製の釣針や銛などのように現代でも同じような形で使われているものもあります。
ヒスイ、黒曜石、アスファルト、コハク、あるいは南方系の貝など、遠くは数百km先から持ち込まれたものもあります。
本県は三方を海で囲まれ本州の北端にあることから、様々な交易品がもたらされています。
縄文時代の人々は、自然への畏敬や感謝の気持ちを持ちながら、時には祈り、狩猟・漁猟・植物採集の生活をして、たくましく暮らしていたのでしょう。 |
旧石器時代・縄文時代
上に記述 |
縄文時代 |
縄文時代前期のムラ
柴崎(1)遺跡から復元 |
柴崎(1)遺跡のムラの跡 |
低湿地の遺跡
向田(18)遺跡 |
縄文カレンダー
|
縄文時代
上に記述 |
竪穴住居での生活 |
|
|
|
|
|
|
55石器
|
|
石匙
|
石匙
|
石錘
|
石鏃
|
石鏃
|
石斧・半円状扁平打製石器
|
右端:半円打製石器 |
半円状扁平打製石器
柴崎(1)遺跡
縄文前期 |
|
57石器
黒曜石
|
天然のガラスとも言われる黒曜石は縄文時代の人々にとって貴重な石材でした。
黒曜石の産地は、北海道の他、本県西海岸の深浦・出来島などがあります。 |
|
石槍
|
|
石錐(いしきり)
|
|
石錐
|
石錐
錐として使用したため石錐自身が摩耗している |
石錐
|
黒曜石製石器
上に記述 |
石匙・掻器・石槍 |
|
58石冠・石皿
石冠
|
冠形の石器です。何に使われたかについては、食料の加工に使ったとする説や祭の道具とする説などがあります。 |
|
|
60土器 |
61早期土器
|
|
尖底深鉢形土器 |
尖底深鉢形土器
向田(33)遺跡 早期 |
尖底深鉢形土器
向田(36)遺跡 早期 |
円筒下層式土器
下段に記述 |
前期土器
円筒下層式土器
寺ノ沢(1)遺跡 前期 |
円筒下層式土器
向田(18)遺跡 前期 |
|
小型浅鉢土器
向田(18)遺跡 前期末 |
透かし窓付台付土器 向田(18)遺跡 前期末 |
前期に既に
透かし付脚台付小鉢 |
|
65中期土器
|
円筒上層式土器
槻ノ木(Ⅰ)遺跡 中期 |
円筒上層式土器
槻ノ木(Ⅰ)遺跡 中期 |
|
円筒上層式土器 槻ノ木(Ⅰ)遺跡 中期 |
深鉢形土器
柴崎(Ⅰ)遺跡 中期末 |
|
|
81向田(18)遺跡剥ぎ取り土層
|
黒ボク土の上に火山灰土
植物が豊かにした深い土層の上に厚い火山灰土が堆積している |
火山灰の降下
915年十和田a降下火山灰
923年白頭山-苫小牧火山灰
の上に深い黒ボク土 |
|
中掫浮石層(アワズナ)
(約6000年前)の上に縄文土器の遺跡があり、その上に5,500年前の川底が堆積している。 |
|
82道具を作る技術
|
石 器 |
石で石を打割する技術 |
石で石を切る技術 |
骨角器 |
石で角や貝を加工する技術 |
木製品 |
石で木を加工する技術
(弓・矢・斧・槍の柄、丸木舟など) |
|
道具を作る技術 |
押圧剥離 |
石鏃や石槍などの細部の加工を行う
革で被った手に持った石器を、鹿角や骨で作った押圧具で剥ぎ取る |
擦切り技術 |
石鋸で石の片面又は両面を挽き切る
筋砥石に、金剛砂、石英砂と水で研いだ |
|
擦切り技術で作られた石斧 六ケ所村唐貝地(縄文)
|
製作途中の石斧 |
砥石 野辺地町明前
|
|
|
|
85甕棺 中期
|
86大木系土器
|
|
100弥生・奈良・平安
|
101弥生時代と続縄文時代
|
弥生時代は本格的な水田稲作と金属器の使用が始まった時代です。水稲稲作は九州に始まり、まもなく本州最北端の青森県まで伝わったとされています。砂沢遺跡や垂柳遺跡で水田が発見され、本州北端の寒冷な地域でも水田稲作が行われていたことが明らかになりました。
当町では、向田(29)遺跡でこの時代の住居の炉に埋められた土器の中から炭化米が見つかっています。
本州の弥生時代と同時に、北海道では続縄文時代と呼ばれる文化が縄文時代以後続きます。
青森県は津軽海峡を挟んで本州と北海道の文化の中継地点でもあり、縄文時代から南と北の文化の影響を大きく受けてきました。
続縄文文化の恵山式や後北式と呼ばれる土器が野辺地町の馬門や松ノ木(1)遺跡などでも多数出土しています。 |
|
|
弥生時代と続縄文時代
古墳時代と終末期古墳 |
弥生時代と続縄文時代 |
垂柳遺跡の水田跡と
水田に残された
弥生人の足跡 |
|
|
|
102古墳時代と終末期古墳
|
4世紀から6世紀にかけて各地の豪族は、古墳という大小様々な墓を造りました。この時代を古墳時代といいます。
前方後円墳などの大型の古墳は東北地方南部まで多く造られましたが、青森県ではまだこの時期の古墳は発見されていません。
遺跡も県内ではこの時期のものは少なく、森ヶ沢遺跡、十日市遺跡、細越遺跡、田向冷水遺跡などから出土した土師器・須恵器などです。
また、当町の目ノ越から祭祀に用いられた遺物とされる石製模造品が出土しています。
古墳は平安時代まで作られており、7~9世紀のものを終末期古墳と呼んでいます。青森県で発見されている古墳は終末期のもので、
鹿島沢古墳群(八戸市)、丹後平古墳群(八戸市)、阿光坊・十三森古墳群(おいらせ町)などがあります。古墳の形は、円形周溝墓と呼ばれるものが殆どです。
蕨手刀など様々な副葬品が出土していますが、中でも丹後平古墳から出土した金銅製の獅噛式三塁環頭太刀の柄頭は国内でもまれなもので、朝鮮半島から持ち込まれた可能性も考えられています。 |
古墳時代と終末期古墳
上に記述 |
獅噛式三塁環頭太刀
|
柄頭が出土した丹後平古墳第15号墳
円形周溝墓
|
|
103奈良・平安時代
|
大和朝廷は7世紀前半頃までにほぼ全国の豪族たちを支配し、さらに東北地方にまでその勢力を及ぼそうとしました。
このため東北地方に棲む「蝦夷」と呼ばれた人々と度々争いが起こり、政府は多賀城・秋田城などの城柵(じょうさく)を築きました。
8世紀末から9世紀初めにかけて、坂上田村麻呂や文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)などによる東北遠征が行われましたが、青森県全域に住む人々は政府から直接的な支配を受けることはありませんでした。
この頃、上北地方を中心とする地域は「都母(つも)」と呼ばれていました。人々の生活は、以前の狩猟・採集から農業生産や馬産などへと変化していきました。住居の形態は円形から方形の竪穴住居へと変わり、かまどを備えるようになります。
器は、素焼きの土師器と、窯で焼かれる須恵器があり、この頃からロクロも使われるようになります。甕、壺。鉢、坏、甑、鍋など実用的な様々な生活用具が作られるようになりました。また、鉄製品も使われるようになります。
当町の有戸鳥井平(4)遺跡からは直刀・鋤先・紡錘車、
向田(35)遺跡からは椀形鉄製品・斧・鎌・刀・刀子、
二十平(はたちたいら)遺跡からは錫杖状鉄製品など、いろいろなものが出土しています。
青森県は、旧石器時代から北との文化の交流が見られます。この時代も、北海道で栄えた擦文土器を伴った擦文文化の影響を受けていました。
擦文式土器が出土する地域は、下北半島や津軽地方に多く、上北地方以南ではほとんど見つかっていませんが、近年の調査で
当町の向田(35)遺跡、坊ノ塚(2)遺跡から数点出土しています。
平安時代の東北地方北部は、「をぶちのまき(尾駮の牧)」などに代表されるように馬産地として知られ、(平家物語など)歴史上にもこの地方から産出された多くの馬が登場します。
東北地方や北海道に特有な堀を巡らした集落(館(たて)・環濠集落・防御性集落)がこの時期につくられます。
当町でも、環濠集落の明前(1)遺跡・二十平(1)遺跡・野辺地蟹田(11)遺跡や向田(35)遺跡などの大集落の一部が調査され、少しずつ当時の様子が明らかになってきています。
※馬産農民は、東北南部から来たとされるが、雑穀栽培と馬産は朝鮮半島北部からの渡来民と考えたいが、記録では蝦夷が馬を千頭献上とある。
東北南部にいた縄文系弥生人だったのだろうか。中部・関東地方の馬産農民(半島系)は中央政権から厚遇されている。彼らが新しい馬産地を求めて 東北地方にやって来た途端に蝦夷とされ、以後差別的な処遇を受け続けたのだろうか。
|
奈良・平安時代
上に記述 |
|
|
平安時代のムラ復元図
青森市蛍沢遺跡 |
明前遺跡(野辺地町)
明前館(環濠集落)
|
二十平遺跡の濠跡
環濠
|
平安時代の竪穴住居跡
二十平(1)遺跡
環濠内の平地式住居
|
平安時代の集落跡
向田(35)遺跡
高地性集落(方形住居)
|
古代の城柵・官衙遺跡
8、9世紀までに律令国家に組み込まれた地域 |
|
古代の城柵・官衙遺跡
|
|
|
110土器
|
115縄文土器 後期
|
|
111縄文土器 晩期
|
|
鉢形土器
東北町千曳 晩期 |
鉢形土器
東北町千曳 晩期 |
台付鉢形土器
東北町千曳 晩期 |
台付鉢形土器
東北町千曳 晩期 |
注口土器
陣場川原(2)遺跡 晩期 |
注口土器
陣場川原(2)遺跡 晩期 |
|
113
壺形土器
東北町千曳 晩期 |
壺形土器
東北町千曳 晩期 |
壺形土器
東北町千曳 晩期 |
壺形土器
向田(18)遺跡 晩期 |
壺形土器
八戸市大舘 晩期 |
壺形土器
向田(18)遺跡 晩期 |
|
|
|
117弥生土器
弥生式土器
弥生時代
向田(26)遺跡 |
弥生式土器
弥生時代
向田(26)遺跡 |
弥生時代の炭化米と
炭化種子
|
埋設炉内土器の中から検出された |
弥生式土器
弥生後期
六ケ所村平沼 |
弥生後期
六ケ所村平沼 |
弥生時代
向田(26)遺跡 |
弥生時代
向田(26)遺跡 |
|
|
121後北式土器
|
後北式土器
野辺地町馬門
弥生後期 |
製塩土器
二十平(1)遺跡
平安時代 |
土師器甕 二十平(1)遺跡
平安時代 |
|
|
123錫杖状鉄製品
|
シベリア沿海州地域のシャーマンが持つ道具が、平安時代の野辺地町から出土した。意外と列島各地でも見かけるが、この鉄製品はどのようにして持ち込まれたのだろうか。沿海州と盛んに交易をしていたアイヌの三丹貿易で得たものを、和人との交易(三角貿易)によって各地に伝わったのだろうか。
音がするこの鉄製品は、当時の仏教や山岳信仰の道具として用いられていた錫杖に似ているが、きっと、それとして用いたのではなく、単に珍奇な品として交換されたのだろう。とても、シャーマンがやって来たなどとは思っていない。品物だけが流通した。と思います。 |
|
矢羽根状線刻画のある須恵器
二十平(1)遺跡
平安時代 |
|
錫杖状鉄製品 二十平(1)遺跡 平安時代 |
仏教用具錫杖似の鉄製品。本当は、沿海州を |
中心に広がるシャーマンの音響道具。 |
平安時代の土器
土師器高台付坏 向田(35)遺跡
平安時代 |
土師器坏
向田(35)遺跡
平安時代 |
|
|
|
|
|
125緑釉陶器
|
緑色の釉薬が塗られた陶器で、平安時代に作られていた高級な焼き物です。
二十平(1)遺跡で見つかった緑釉陶器は10世紀前半に近江(滋賀県)で作られた碗の一部です。 |
|
|
緑釉陶器
|
緑釉陶器
二十平(1)遺跡
平安時代 |
ガラス玉 |
向田(35)遺跡
平安時代 |
転用硯(猿面硯)
二十平(1)遺跡
平安時代 |
転用硯
向田(35)遺跡
平安時代 |
須恵器長頸壷 向田(35)遺跡
平安時代 |
須恵器長頸壷
中新田(2)遺跡
平安時代 |
|
須恵器長頸壷
向田(35)遺跡
平安時代 |
|
|
|
150研究 長者久保・神子柴石器群と旧石器時代から縄文へ
神子柴・長者久保石器群 神子柴・長者久保文化 |
長者久保遺跡出土物 遺跡住所:青森県上北郡東北町字横沢
|
大平山元遺跡出土の神子柴・長者久保石器群の年代 引用長者久保・神子柴文化期における土器出現の14C年代・較正暦年代 - J-Stage
日本列島東北部を中心に分布する長者久保・神子柴文化に土器が出現する。青森県大平山元Ⅰ遺跡は最古の土器を出土した遺跡の一つである。
ここの土器の表面に付着していた煮炊きのコゲとみられる微量の炭化物を試料として、14C
年代測定を行い12,680±140~13,780±170yrs BPの年代値が得られた、
暦年較正すると15,320~16,540cal BPとなるこれは晩氷期の年代域よりもさらに古い。
土器の出現は後氷期に起こった人類技術革新の一つと説明されてきたが、極東地域では最終氷期の寒冷な環境下ですでに土器の使用が始まっていたことが確実となった。長者久保・神子柴文化期を縄文時代草創期に含めている現在の時代区分は見直しが必要である。 |
神子柴型石器群とは 引用神子柴系石器群
神子柴系石器群は、後期旧石器時代に列島に現れた大型の磨製石斧と石槍を特徴とする石器群をいう。
これらの石器群を最初に発見した長野県の神子柴遺跡に由来し、または神子柴文化とも呼称されている。
概要
この石器群は、シベリアのアムール川流域から沿海州に起源をもつといわれ、北のルートを渡ってきた。その時期は、日本列島が完全に大陸から離れて島国となる直前、約1万3000年前のことである。
この石器群の内容は、
大型で円鑿形をした片刃の磨製石斧と大型で木の葉形をした槍先形尖頭器、、
石刃を素材とするスクレイパーと彫刻刀形石器であり、
そのほかに植刃、断面が三角形の錐、半月系の石器、有茎尖頭器、矢柄研磨器、、石鏃などを伴う。
代表的遺跡に長野県神子柴遺跡、長野県唐沢B遺跡、青森県長者久保遺跡がある。
伴出土器
この石器群では無土器の遺跡と
青森県大平山元Ⅰ遺跡、神奈川県上野遺跡第一地点第Ⅱ文化層、茨城県後野遺跡A地区のように無文土器を伴う場合とがある。
列島内の分布
この石器群・文化は、北海道から東北日本を経て急速に南下し、中部日本を中心に独自の文化として発達し、九州※までにも拡がっている。
九州での分布※
馬渡政所遺跡(大分県)・多久遺跡(佐賀県=木葉形大型石斧の製作跡)から細石刃核・無文土器・打製石斧が伴う。
市ノ久保遺跡(大分県犬飼町大字大寒字市ノ久保)から神子柴型石器が出土した。ここからは韓国スヤンゲ遺跡の打製石斧が出土。
引用「日本列島の南と北で縄文文化の成立」の九州北部
鹿児島県栫ノ原遺跡の丸のみ文化は、南方系の貝斧文化とされてきたが、神子柴文化との関連が検討されている。
※私は同じ「丸ノミ」という名前だが、神子柴の円鑿と栫ノ原の丸ノミとは形状や製作方法、機能が全く異なると思っている。 |
栫ノ原遺跡の丸鑿石斧 抜粋引用神子柴遺跡の謎
稲田孝司の「遊動する旧石器人・・・先史日本を復元する1」では「栫(かこい)ノ原石斧」を次のように説明されている。すなわち、『小田静夫はこの種の石斧を「栫(かこい)ノ原石斧」と呼び、伊豆諸島・南西諸島などの類例とあわせ黒潮との関連を考えた。栫(かこい)ノ原石斧は刃が強く彎曲し基部に突起をもつなど独自の形態を示すけれども、その起源については、丸ノミ形という刃の特徴が共通するから、やはり神子柴型石斧との関連も検討してみる必要があるだろう。』・・・・と。 |
青森県野辺地町長者久保遺跡の発掘 抜粋引用コトバンク「長者久保遺跡」
特徴的な円鑿(まるのみ)をはじめとして、石斧、小形打製石斧、石槍、彫器、削器など約50点が、川沿いの谷筋の低い粘土層より出土。
その上面を洪積層の軽石流堆積物が覆っているため旧石器時代と思われるが、調査者は、円鑿は磨製石器であるから新石器時代とする。
石器の出土量は少なく、しかも低湿地にあるため、流された可能性もある。 |
長者久保遺跡の石器群 抜粋引用「長者久保遺跡」
長者久保遺跡出土の石器群は、局部磨製石斧(円鑿)、打製石斧、石槍からなり、各種の彫器・掻器を伴い、石刃技法が顕著であるという特色をもっている。(※石刃技法とは石器剥離技術)
また、同じ組み合わせの石器群が長野県神子柴遺跡でも発見され、その特殊性から神子柴・長者久保文化(神子柴・長者久保系石器群)とよばれるようになった。
現在、これらの石器群に土器が伴出する例が増加し、神子柴・長者久保系石器群は、日本最古の土器群に伴う石器群として重要視されている。
野辺地町立歴史民俗資料館に所蔵されている28点の石器には、円鑿・打製石斧・石槍をはじめ主要な石器がすべて含まれており、
現在でも神子柴・長者久保文化の標式資料として極めて重要な位置を占めている。時期:<紀元前1万3千~4千年と推定> |
|
|
神子柴形石器文化と有舌尖頭器文化 抜粋引用二 架け橋の時代 - ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム
縄文時代の遺物は赤土(旧石器時代の地層)の上に堆積している黒土(縄文時代以降の土層)の中に含まれている。その最下部、つまり赤土の時代から黒土の時代へ移り変った直後の時期に(旧石器と縄文の境目に)
神子柴・長者久保文化が登場し、続いて
有舌尖頭器が出現する。
この二つの石器文化は縄文草創期の時代に重なるが、地域差があり、旧石器の系譜をひく石器をもっている。
神子柴・長者久保文化は、中部地方以東の東日本に広がり、シベリア起源とされる大型で縦長の局部磨製石斧と大型で薄身の槍先形尖頭器を主体とした異色の文化で、その存続は短期間だったらしい。
有舌尖頭器は、中型で薄手の石槍で、基部に舌を突き出したような突出部をつくり出しているところからこの名がある。突出部は柄に刺し込む中茎で、投げ槍ないし矢の用途で使われたようだ。細身で長いものから短く菱形状のものまで各形態があるが、次第に石鏃へ移行していくとされる。
矢の祖形である。
この二つの文化は、草創期の隆起線文・爪形文土器文化と併存するが、土器を伴わずに発見されることも少くない。旧石器文化の遺風をひきずりつつ、まだ縄文文化に移りきっていない文化といえる。いま、この段階を旧石器から縄文への過渡期と捉え、「架け橋の時代」と呼ぼう。 |
|
|
神子柴文化人の遊動 抜粋引用『長者久保文化』の時代
長者久保石器 東北町字横沢
赤平(1)遺跡 七戸町赤平(現東北町、旧上北町)
幸畑(7)遺跡 六ケ所村大字鷹架字道ノ上797
『長者久保文化』の時代、基礎的な石器製作技術に石刃があり,彫器や掻器が主要な器種となっている点では旧石器的であり、
土器や石鏃を保有するという点で縄文草創期的でもある、過渡期の時代だった。
かれらは、年間を通じて獣を追って狩を続ける旧石器的生活から、およそ一万年前の地球の温暖化とともに社会環境が変動をきたしたために、
定置漁具を使い、越冬食料を貯蔵のために出現した定住社会への変わり目にあたっていた。
赤平(1)遺跡は、長者久保遺跡(東北町)の南へ約16km、七戸川の右岸(南岸)段丘上にある。2006年の発掘調査で
神子柴・長者久保文化期の石器群577点、円鑿、打製石斧、片面尖頭器、彫器、掻器などの出土と、
石器製作跡を示す破片集中部2箇所が確認された。また、出土した黒曜石製石器1点は、深浦町六角沢または八森山産であると判定された。
同時に無文の土器細片6点も出土したが、同時期の石器と同伴したものか判断が困難で判定は保留された。
2013年に再調査を実施したが、期待された土器は出土せず遺跡範囲も広がりを見せず、赤平(Ⅰ)遺跡はー台地の頂部を中心とした限定的な範囲での活動により遺跡が形成されていると推定されたことから、長者久保遺跡とよく似た石器製作の場としての遺跡形態だとおもわれる。
六ヶ所村幸畑(7)遺跡は、長者久保遺跡の北約18kmにあり、円鑿、打製石斧、片面尖頭器、彫器、掻器など、長者久保遺跡や赤平(1)遺跡同様の遺物が出土した。
これらは、石器組成的にも層位的にも神子柴・長者久保文化期のものと考えられ、長者久保遺跡を中心に南北にほぼ同距離・同時期の遺跡があったことになる。
三つの遺跡の特徴
上記3遺跡は、長者久保遺跡が小川原湖に注ぐ土場川支流の岩渡(がんと)沢上流部の舌状台地上に、赤平(1)遺跡もまた小川原湖に注ぐ七戸川の支流にはさまれた台地上に、更に幸畑(7)遺跡は太平洋に流れる鷹架(たかほこ)川の下流右岸の台地上に、と共通して台地縁辺部に立地している。
定住社会となる以前は、狩猟が中心で獲物を追って移動していたと言われるが、ある程度決まったルートを周回していたらしく、ある場所には定期的に人々が集合するベースキャンプのような居住跡があったという。そこでは、黒曜石などの生業に深くかかわる石材の産地や、各地域の情報などを交換していたとおもわれる。
ベースキャンプの周回
また、その周回の範囲は時代の流れとともに小さくなり、長い時をへてすこしづつ定住する生活になっていく。
30kmあまりの上記3か所の遺跡の距離感は、紀元前14,000年から9,000年にわたるといわれる、旧石器から縄文草創期へのゆるやかに長い移行期の時代のなかで周回したベースキャンプの跡なのかもしれない。
<長者久保遺跡と赤平(1)遺跡図/赤平(1)遺跡報告書から> |
旧石器時代から縄文時代へ 抜粋引用旧石器時代から縄文時代へ
自然環境の変化、大形獣の絶滅と人類の狩猟活動との関連、縄文時代の始まりの問題を論じるには、加速器質量分析(AMS)法の導入により精度が高くなった14C年代測定値を較正して、自然環境の変化と考古学的資料とを共通の年代枠でつきあわせて議論すべきである.
後期更新世の動物を代表する大型動物のうち、ナウマンゾウやヤベオオツノジカの狩猟と関連すると推定される考古資料は、一時的に大勢の人たちが集合した跡とみられる大型環状ブロック(集落)と、大型動物解体用の磨製石斧である。これらは、姶良Tn火山灰(AT)が降下する頃まで(29000-26000)は顕著にその痕跡を残しているが、その後は途切れてしまう。
AT後の狩猟
AT後は大型動物の狩りは減少し、それらは15,000~13,000年前に最終的に絶滅したとみられる。その一方、ニホンジカ・イノシシは縄文時代になって狩猟するようになったとする意見が多いが、ニホンジカの祖先にあたるカトウキヨマサジカが中期更新世以来日本列島に棲んでいたし、イノシシ捕獲用とみられる落とし穴が後期更新世にすでに普及しているので、後期更新世末にはニホンジカ及びイノシシの祖先種を既に狩っていた可能性は高い。
縄文草創期の始まりは、東日本では約16,000年前まで遡ることになり、確実に後期更新世末までくいこんでおり、最古ドリアス期よりも早く土器、石鏃、丸ノミ形磨製石斧に代表される神子柴文化が存在する。同様の状況はアムール川流域でも認められている。
南九州の草創期
また、南九州でも、ほぼ同じ時期に土器、石鏃、丸ノミ形磨製石斧(栫ノ原型)に加えて石臼・磨石の普及がみられ、竪穴住居跡の存在とあわせ定住生活の萌芽と評価されている。豊富な植物質食料に依存して、縄文時代型の生活がいち早く始まったのであろう。しかし、
まとめ
東も西も草創期・早期を経て約7,000年前に、本格的な環状集落と墓地をもつ定住生活に入る。更新世末に用意された新しい道具は、完新世の安定した温暖な環境下で日本型の新石器文化を開花させたのである。 |
|
|
|
161長者久保遺跡出土品 写真引用「ふるさとづくり推進ポータルサイト 長者久保遺跡出土品」 引用時点でⒸはついていませんでした。
|
|
|
|
長者久保・神子柴文化期における土器出現の年代・較正暦年代
『長者久保文化』の時代: アラ・ハバキの「道の奥」廻り
長者久保・神子柴
|
|
|
200角鹿コレクション
|
201角鹿コレクション
|
角鹿(つのか)コレクションは、角鹿扇三氏が蒐集した考古遺物です。その中に東北町の長者久保遺跡の出土物五十数点が含まれていました。
野辺地町歴史民俗資料館は、そのうちの28点の寄贈を受けました。 |
|
|
鹿角コレクションを |
大平山元遺跡に神子柴形石器群が現れたのは1万6000年前である。
長者久保遺跡の神子柴型石器は1万3000年前である。 |
|
|
203長者久保遺跡出土品 縄文時代草創期(約13,000年前) 東北町長者久保遺跡
|
|
掻器 長者久保遺跡
草創期
|
掻器 長者久保遺跡
草創期
|
掻器 長者久保遺跡
草創期
|
彫掻器、錐 長者久保遺跡
草創期
|
|
上北考古会誌1
昭和35年発行
|
彫器 長者久保遺跡
草創期
|
削器 長者久保遺跡
草創期
|
円形掻器 長者久保遺跡
草創期
|
剥片 長者久保遺跡
草創期
|
|
|
210長者久保遺跡 |
211石槍
石槍
長者久保遺跡
草創期
草創期 |
|
|
213
|
彫器 長者久保遺跡
草創期
|
剥片
長者久保遺跡
草創期
|
剥片 長者久保遺跡
草創期
|
|
|
|
215大型石槍 寺ノ沢遺跡 縄文時代前期
寺ノ沢遺跡出土土器は縄文前期の円筒式土器
|
|
|
|
219縄文後期土器
|
|
把手付土器
野辺地町上与太川遺跡
縄文後期
|
|
鉢形土器
東北町横沢遺跡
縄文後期 |
|
蓋付土器
野辺地町浜掛
縄文後期 |
|
|
|
|
|
|
|
220土器 |
221小型土製品
|
鐸形土製品 |
鐸形土製品
小川原湖西岸 後期
鐸形土製品
野辺地町雑吉沢 後期
鐸形土製品
野辺地町上与田川 後期 |
小型土器 |
小型土器(尖底)
六ケ所村唐貝地 早期?
小型土器
寺ノ沢遺跡 前期
小型土器(壺)
東北町長者久保 後期 |
|
223土器
|
円筒下層式土器
寺ノ沢遺跡 前期
|
鉢形土器
六ケ所村八森遺跡
中期
|
深鉢形土器
六ケ所村唐貝地
中期
|
焼塩壺
野辺地町目ノ越
江戸時代
|
|
225
|
|
|
300 |
301展示室全景
|
303加工部材 縄文前期末葉 約5500年前 向田(18)遺跡
約5,500年前、前期末の加工部材 向田(18)遺跡
|
平成14年度の発掘調査で、休耕田面の地下約2mの砂層中から出土しました。更にその下から、同様の加工を施した材が、同方向に重なるように出土しています。
ログハウスなどの工法に見られる半円状のノッチが施され、住居の梁などに載せたり、他の材と組ませたものと考えられます。
遺物の出土状況や層序から、今から約5,500年前の縄文時代前期末の頃のものと考えられます。樹種はニレ科エノキ属です。 |
木材 |
およそ5,500年前の加工部材
加工材の製作工程
|
加工材の製作工程 |
➀磨製石斧などの石器で、木材の組み合わせ場所を削ります。
②組み合わせたり、載せる部分の形に合わせて、削ります。
③削って、加工した面を下にして組み合わせます。 |
およそ5,500年前の加工部材
向田(18)遺跡 |
木を割った梁部材 |
加工痕 |
加工痕(拡大)
|
加工した痕
|
|
|
305平安時代の鉄製品 有戸鳥井平(4)遺跡 平安時代
平安時代の鉄製品 ―有戸鳥井平(4)遺跡出土品―
|
有戸鳥井平(4)遺跡の発掘調査では、平安時代の火災に遭った家の跡が3軒見つかっています。
このうち1軒の家の床には、直刀・小刀・刀子(ナイフ)・鋤先などの鉄製品が残されていました。 |
|
|
火災に遭った家の跡 |
刀の出土状況
鍬先の出土状況 |
直刀・刀子
有戸鳥井平(4)遺跡
平安時代
|
刀子
有戸鳥井平(4)遺跡
平安時代
|
鋤先
有戸鳥井平(4)遺跡
平安時代
|
紡錘車
有戸鳥井平(4)遺跡
平安時代
|
|
|
|
400呪術具 |
410縄文土偶
|
|
土偶
木明(1)遺跡
縄文晩期
|
遮光器土偶
亀ヶ岡式土偶 |
板状土偶 天間林村二ッ森貝塚
縄文時代
|
|
板状土偶
野辺地町松ノ木平
縄文時代
|
|
板状土偶
縄文時代
|
板状土偶
天間林村二ッ森貝塚
縄文時代
|
|
|
|
420縄文人のアクセサリー 縄文人はおしゃれだった
縄文人のアクセサリー |
垂れ飾り
槻ノ木(1)遺跡
縄文時代中期 |
|
|
|
耳飾り、垂れ飾り |
左:耳飾り、前期
向田(18)遺跡
右:垂飾り、縄文時代 |
|
垂れ飾り |
上:垂飾、縄文時代
下:垂飾、晩期
向田(18)遺跡
内側を赤く塗装
|
|
|
|
ヒスイの勾玉
有戸鳥井平(7)遺跡
縄文晩期 |
ヒスイの垂れ飾り
天間林村二ッ森貝塚
縄文時代 |
コハクの装飾品
向田(18)遺跡 前期 |
垂れ飾り
縄文時代 |
|
|
430縄文人の食べ物 ―主食はドングリ・トチ・クルミだった―
|
431 向田(18)遺跡 縄文前期 約5,500年前
|
432キノコ形土製品 有戸鳥井平(4)遺跡 縄文後期
|
433有戸鳥井平4遺跡 縄文中期 青森県上北郡野辺地町字有戸鳥井平174ほか
|
板状立脚土偶が有名ですが、北東北特有のキノコ形土製品が出土しています。 |
ボールの形をした土製品 槻ノ木(1)遺跡
縄文時代中期 |
|
|
|
434土製品 寄贈品により出土地不明
有孔土製品・縄文時代 |
環状土製品・縄文時代 |
|
435二ッ森貝塚 天間林村 縄文前期前葉~中期末葉(5,500~4,000年前) 青森県上北郡七戸町字貝塚家ノ前 (町村合併により七戸町となる)
|
小川原湖の西岸にあり、縄文前期前葉から中期末葉(5,500~4,000年前)の大規模貝塚遺跡である。
七戸町は北海道・北東北の縄文遺跡群に参加していながら非公開・撮影禁止で展示館もなく、貴重な出土物は秘匿状態。
2020年度に世界遺産登録されるのに、こんな状態で参加して何をするのでしょう。
大変有名な鹿角を用いたかんざしは世界遺産登録運動では必ず出てくる美しい遺物である。 |
二ッ森貝塚の骨角器
|
|
|
|
500 |
510野辺地町の古地図
|
野辺地町之図
十和田湖町所蔵
|
鬼柳より田名部迄
道中図絵より
安政5年(1858)
|
北郡野辺地通之図
万延元年(1860) |
|
520年表
|
~古墳時代
|
古墳~安土桃山
|
安土桃山~江戸
|
江戸~明治
|
江戸~明治
|
明治~昭和ピンボケ
|
大正~平成
|
|
|
|
|
530古文書
最上徳内と野辺地
|
|
|
600 |
601
|
610西村金之丞に関わる資料
|
|
620明治 |
621慶応4年 高札
|
622明治維新と野辺地戦争 明治時代
|
慶応3年(1867)江戸幕府の徳川慶喜は将軍をやめ政治を朝廷に返します。ところが翌年の1月に京都の鳥羽・伏見で旧幕府軍と朝廷側の新政府軍との間で戦いが始まり、やがて戦場は北へと移っていきました。
東北地方の各藩もどちらに着くのか迷いましたが、最終的に盛岡藩は旧幕府支持、弘前藩は新政府支持の立場をとり、このため、弘前藩は新政府から盛岡藩攻撃を命令されました。
明治元年(1868)9月10日、新政府軍の佐賀藩中牟田倉之助率いる軍艦加賀丸が野辺地沖に現れ、砲撃を開始しました。町内は大混乱になりましたが、盛岡藩は台場(大砲を置いた陣地)から反撃し、砲撃を受けた加賀丸は退却しました。
そして、12日後の9月22日夜、ついに弘前藩は野辺地に向け進軍しました。藩兵180人を三隊に分け、※馬門村に火を放って進み、守りを固めていた盛岡藩兵八戸藩兵と戦いました。戦いは夜明けまで続き、弘前藩は多くの死傷者を出して退却しました。
|
※そのうち60名が藩境にある盛岡領の野辺地馬門村に進入し、一斉に放火を開始した。たちまち馬門村の全戸、民家64戸と寺院1件に火が燃え上がり、虚をつかれた盛岡・八戸藩の守備兵は逃走する。しかし、あまりの猛火は弘前・黒石藩側にとっても弊害となり、深夜の行動にも関わらず燃え盛る炎に部隊の所在が明らかにされ、盛岡藩の野辺地守備の根拠地である野辺地軍事局への道も閉ざされ、大回りして向かわねばならなかった[18]。一方で盛岡・八戸藩の軍事行動の責任者である総督栃内与兵衛は迎撃自体に反対し、6小隊とともに後方へと退いていた[18]。その動きに乗じ、弘前・黒石藩は困難な渡河も果たして野辺地軍事局まであと250メートルの位置に接近。野辺地制圧が目前となったところで、駆けつけた盛岡藩安宅正路の七戸隊の襲撃を受けた。折りしも日の出の時刻であり、西から攻めて逆光となった弘前・黒石藩は視界を塞がれ[18]、一方的な射撃を受けて壊乱状態となり、隊長の小島左近[19]・半隊司令士谷口永吉が戦死。弘前藩は撤退し、野辺地戦争は終結した。
引用野辺地戦争wikipedia |
この頃、旧幕府を支持した東北地方の藩のほとんどは新政府軍に降伏しており、盛岡藩も9月25日に降伏しました。
この戦いは本州における新政府軍と旧幕府軍の最後の戦いとなり、後に「野辺地戦争」と呼ばれます。翌年鳥井平の地に弘前藩の戦死者のうち27人の名が刻まれた墓石4基が建てられました。 |
五榜の掲示(要約)
|
慶応4年(1868)3月15日、明治新政府が、太政官名の5枚の高札。1~3は永久の法。4・5は一時的な法。
第1札:儒教道徳の五倫を進め、悪行を禁止。
第2札:徒党、強訴、逃散など民衆の抵抗の禁止と、その密告の奨励。
第3札:キリスト教、邪宗門の禁止とこれらの密告の奨励。
第4札:外国と交際することと外国人の殺害禁止。
第5札:藩や県からの脱走禁止と太政官への建言の許可。
高札の内容は、幕府の政策と変わりないが、幕府の高札を撤去し太政官の高札を立てることは、
➀領主が新政府に服従することを領民に示す意味があった。 また、太政官の高札が盛岡藩領内に建てられたことは、
②当初は盛岡藩が反新政府の立場ではなかったことを意味する。 |
明治維新と野辺地戦争
上に記述 |
野辺地戦争略図 |
野辺地戦争の図 |
野辺地戦争戦死者の墓所 |
五榜の掲示
上に記述 |
|
|
623野辺地湊と往来のあった湊
野辺地湊と往来のあった湊 |
日本海航路の船舶 |
北国船
江戸時代の中頃まで日本海で活躍した船です。風が弱い時は櫂を漕いで進みました。
羽賀瀬船
北国船同様日本海で活躍した船です。北国船より小さい中小型の船です。
風が弱い時は櫓をこいで進みました。
弁財船
18世紀以降、日本海海運の主力となった船です。
北国船や羽賀瀬船が櫓や櫂も使ったのに対し、弁財船は帆だけで進みます。
このため、乗組員が少なくで済みました。 |
青森県
|
秋田・新潟
|
北陸・京都 |
中国・四国・近畿・九州 |
北前船、千石船、と言われる、25m前後の廻船は実は五百石船だった。
一回の公開が成功すれば、往復で大変なもうけを出すことができた。
列島各地に停泊港があった。 |
|
630日本海航路と野辺地湊
|
江戸時代になり、世の中が平和になると、各地の産物が、盛んに船で運ばれるようになります。下北半島や野辺地に木材(ヒバ)を求めて北陸などから多くの船が訪れるようになりました。木材のほか野辺地湊からは正保4年(1647)に松前へ五戸産の米300俵が送られ、その後も野辺地と松前の間を米や大豆を積んだ船が行き来するようになりました。
寛文12年(1672)日本海側の湊や船の航路が整備され、東北や北陸の米や特産物が日本海と瀬戸内海を通って直接大坂に運ばれるようになる。
延宝4年(1676)には盛岡城下の商人たちが盛岡藩の役人に、今後は秋田湊に変わり野辺地湊から商品を取り寄せたいと願い出ています。※
※尾去沢鉱山の銅はこの陳情によって野辺地港経由で搬出することになった。
大坂と松前を結ぶ日本海航路の湊から北前船によって塩・木綿・茶・紙・大豆・銅・イワシの〆粕(肥料)・材木などが積み出されました。
野辺地港から積み出された銅は、幕府によって長崎から中国・オランダに輸出されていました。正徳5年(1715)、幕府は銅を大阪に運ぶよう盛岡藩に命じました。藩では銅をおもに秋田能代、仙台領石巻から積み出していましたが、明和3年(1766)からはおもに南部領野辺地から積み出すようになりました。
尾去沢銅山(秋田県鹿角市)の銅は、牛の背に乗せられ34里(136km)の道程を野辺地湊まで運ばれました。
野辺地では、船を持つ商人もあらわれます。四国や北陸出身の船乗りを船頭(船長)として雇い、日本海や瀬戸内海を公開し各地の湊で商品を売買しました。このような和船による航海は、鉄道が開通する明治時代の中頃まで続きました。 |
|
|
日本海航路と野辺地湊
上に記述 |
江戸時代の野辺地湊
銅蔵の記述 |
銅の道 |
秋田県鹿角市
旧尾去沢銅山の銅は
秋田湊に変わり、野辺地湊から積み出されるようになった。
秋田湊が利権関係で不便だったようだ。 |
|
|
|
631
南部盛岡藩の地方行政と野辺地通
|
江戸時代後期、南部盛岡藩では、領内を10郡(こおり)33通(とおり)に分け地方行政を行いました。
野辺地通は七戸通・田名部通・五戸通の一部とともに北郡(こおり)に属し、その範囲は現在の野辺地町と横浜町にあたります。
野辺地通には代官所が置かれ、2人の代官が1人ずつ交代で盛岡から派遣され勤務していました。 |
|
633野辺地代官所
野辺地代官所
代官所の業務を記述 |
藩境塚(県史跡) |
野辺地代官所 |
南部盛岡藩の地方行政と野辺地通 |
盛岡藩の地方行政 |
33通と名称 |
|
634南部家にちなむ品々
|
|
|