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 北部九州の縄文 №35 2020.11.20-2

  熊本博物館  熊本市中央区古京町3-2
   096-324-3500 月休、撮影可

交通 上熊本駅前から市電健軍行きで「杉塘(すぎども)」下車
左手の丘の上が熊本城。博物館。がある。徒歩五分。市電が一番便利でした。
  バス しろめぐりんバス熊本駅前②乗り場から博物館前⑪下車
 2023.8.13に訂正「神功皇后」について
 
目次

01熊本城下
※熊本地震と博物館展示物
10入口展示
11博物館付近の土地利用の変遷

100常設展示室
103黄金文化へのあこがれ
105御座船

106旧石器時代
107熊本に人がやって来た
110狩りの時代
113石器
120細石刃

130縄文時代
130採集と狩りの時代
131早期土器
133前期ジオラマ
135前期

※私見 縄文前期の半島渡来土器
137中期
140後期
145晩期
149牡蠣殻仮面
150様々な石器
151縄文海進と貝塚
153装身具
160様々な石器
165土製品
167石製装身具
169骨角製品
180祭と葬送
181土偶
182人骨・岩偶

190弥生時代
191稲作の始まり
192弥生時代の墓制
194甕棺
195弥生時代の集落 ジオラマ
200道具の革新
201金属器の伝来
202鉄器・銅鐸の鋳型
203青銅武器の鋳型
205鋳造関連遺物
207威信材である青銅器
221新しい石器の形
222輸入品と模倣品
223外国からやって来た鏡
225管玉製作
231石製品
233ヒスイを求めて
235勾玉のルーツ
240弥生土器

250古墳時代
251古墳が造られた時代
254舟形石棺破片
256豪華な副葬品
257甲冑
258装身具
260火の国とは
263土師器
265円筒埴輪
270古墳の終焉と横穴墓
280三種の神器
282青銅鏡
283刀剣
285玉類

300古代
301律令時代をむかえて
302仏教の伝来と古代寺院
303鞠智城
311大国肥後の繁栄
313八稜鏡
315須恵器
320国指定史跡 池辺寺跡
330商品流通の時代
340武士の台頭と、その社会
342肥後の武士団
343様々な石造物
344祈りのかたち

350近世
350加藤清正
353文禄・慶長の役と清正
370成熟する肥後
380学問の広がり
390躍動する民衆

400近代
400変わる熊本

500熊本の地学
500熊本の大地の生い立ち
510阿蘇カルデラの生い立ち
520火山と渡来動物
525新生代
 金峰山の成り立ち
 巨大カルデラ阿蘇の活動
530熊本平野が海だった頃
540熊本地震
 
 

 01熊本城下(JR上熊本駅から市電健軍行にて杉塘駅下車)
市電乗り場
懐かしい。
市電の運転台。
上熊本駅 熊本城公園
博物館外観 城壁の再現 城跡イメージの再現 熊本博物館 博物館前のディスプレイ
 
  ※熊本地震と博物館展示物
 九州の博物館へのあこがれは随分以前からありました。何度も旅行を計画していました。
関空⇔沖縄、沖縄⇔神戸空港の飛行機がたまに違ったコースを飛ぶことがあるのです。普段は紀伊水道・室戸岬・足摺岬を通るのですが、
宮崎県東沖の日向灘・瀬戸内海を通ることがあります。
 今までに数回しか経験していませんが、窓からは南九州地塊と北九州地塊の境目の大地溝帯・大断層が見え、この大断層から直交して派生する無数の断層帯が見える場所があるのです。
この地溝帯はそれまで言われていたものと全く違う場所にありました。それで大変興味があったのです。
 ※その後、NHKの番組によって九州島の真ん中に大きな断層帯・地溝帯があることが知らされ、かつての知識が塗り替えられました。

 また、景観としては、韓国岳だけをはじめとする沢山の火山の上を飛ぶこともありました。ここをモーターパラグライダーで飛ぶことが出来たらと思い、ショップに色々問い合わせたりしました。

 そんな中、2016.4.14夜に、テレビ画面に熊本の奇妙な大地震の一報がありました。


この日までの地震学者は、本震より大きい余震はないとか言っていましたが、二度の大地震が起きると、いや最初のは前震、後のは本震だ、などとこれまでになかった言葉でごまかしにかかり、やがて、このような言葉は使わないことにすると発表しました。

 そんなことよりも私は、しまったー!! 熊本博物館の展示物が壊れてしまった。
東日本大震災の時、展示物が浸水や破壊の被害を受け、日本中の博物館に送って修理を行ったことから、これは復旧に何年もかかると思いました。

 そこで、入館早々に地震による展示物の安否を館員に尋ねましたところ、ちょうど館の改修工事で展示物が全て片付けられていたとのこと、
被害はほとんどありませんでしたと言われたときには本当に天に感謝したい気持ちでした。
 そのような不幸中の偶然が救った展示物を見せて頂きました。

 ちなみに、「熊本博物館」は旧称「熊本市立博物館」で、現在も市が運営しています。大変立派な博物館です。建物も、展示も大変素晴らしいものです。
 

 10入口展示

 熊本の記憶を辿る発見の旅を始めましょう(視聴のねらい)
 11博物館付近の土地利用の変遷
熊本の記憶を辿る発見の旅を始めましょう
熊本県は九州の中央部に位置し、県西北部に熊本市があります。
熊本市 館周辺の土地利用の変遷

熊本博物館は「古京町」にあります。古来は、この一帯に藤崎八幡宮の門前町として形成された「京町」がありました。加藤清正が、町を名前ごと北側(現在の京町)に移したため、元のところを古京町と呼ぶようになりました。

博物館周辺は、熊本城の北西方面の守りの要にあたるため、重臣の森本義太夫が天然の崖を利用して石垣を築き、三階櫓(森本櫓)を建てました。
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白川などの河川に育まれた平野にある熊本市。この地には、古代の主要道路・西海道が通り、肥後国府が置かれ、九州の北と南を結ぶ中継地として重要な位置にありました。
近世(細川時代) 「二の丸之絵図」明暦年前後(1650年前後)

細川時代を通じて、藩士の居宅が配置されていました。二の丸は一門の「長岡」や家老職の松井(長岡佐渡守)」「米田(長岡監物)」「有吉」がしっかりと固めています。また、細川忠興・忠利(初代肥後藩主)に仕え、島原の乱に従軍した「沢村大学」の屋敷も近くにあります。
「二の丸之絵図」宝暦年後半(1700年代後半)

宝暦5年(1755)には第6代藩主細川重賢が文武の講習場として藩校時修館をつくりました。絵図では「学校」と記されています。明和7年(1770)に古京町は大家に見舞われ、三階櫓(森本櫓)も焼失しました。
二丸御住居向絵図

文政7年(1824)、すでに隠居していた第8代藩主細川斉茲の別荘として、現博物館の北側(細川刑部邸)に「二の丸屋敷」建てられました。屋敷内の西側には花壇や築山、鳥の飼育池などがありました。
二丸庭中之図
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金峰山の東側、阿蘇から流れ広がった火砕流の面影を残す京町台地の南端。茶臼山と言う自然の要塞に熊本城は作られました。

熊本城の北西を守る最前線。かつて肥後藩主家臣が居住した場所に、熊本博物館はあります。
近代・現代 明治4年(1871)の廃藩置県の後、鎮西鎮台(後に熊本鎮台)が設置され、熊本城一帯は軍用地になりました。博物館の近くには野砲兵営、囚獄などがあります。

太平洋戦争後は軍用地から国有地になり、旧軍隊の建物、看護学校校舎
、寄宿舎などがありました。

博物館の移転新築に先立ち、現在地で発掘調査を実施しました。江戸時代の遺構として、二ノ丸屋形後石垣と排水溝が見つかり、現地にて保存公開されています。
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昭和28年(1953)6月26日に発生した大水害(6.26水害)では、熊本市の広い範囲が被害を受けました。熊本城がある京町台地は高台だったので、被害を免れ、西出丸などの広場や古城跡の堀(現県立第一高校横)などには水が引いた後に残った土砂が集められました。

熊本博物館が現地にてオープンしたのは、昭和53年(1978)でした。建築デザインは、黒川紀章氏によるもので、熊本城との調和、融合が図られています。プラネタリウムを併設した総合博物館として、多くの方々をお迎えしてきました。

熊本城は築城後、幾度も地震被害に遭っています。中でも平成28年(2016)熊本地震の影響は大きく、城内13棟の国指定重要文化財全てが被害を受け、石垣の崩落により三の丸地区に通じる道路も塞がれました。

度重なる困難を乗り越えて、熊本博物館はリニューアルし、これからも新たな歴史を刻み続けていくのです。

遠い昔から今この時まで脈々と続いてきた人々の営みとそれらを育んできた豊かな自然。
これから始まる旅が未来への道標となる新たな発見の旅でありますように
 
 20鑑賞の心得
熊本の記憶をより身近なものとして発見、再発見するために

発見のヒントその一
「好きなものをにこだわるべし」
土器や装飾、歴史上の人物や出来事、人々の暮らしや道具、 動物や植物、生態や環境、大地の姿や、その成り立ち・・・
まずは、好きなもの、興味あるものにこだわってみよう!

発見のヒントその弐
「視点や立場を変えてみるべし」
その時代に生き、そこでの出来事や物事に関わっていたら、もしも自分が、その人物やほかの生きものであったとしたら・・・
想像の翼を広げ、視点や立場を変えて見つめてみよう!

発見のヒントその3
「マークを探して記憶を刻むべし」
マークが示したヒト・コト・モノ、その中に潜んでいる意外な事実、思いがけないつながりや関わり、見えなかったものが明らかになる…
そんな記憶を心に刻み、語り伝え、新たな時代の糧にしよう!


【つながり解説】
 いろいろな学問、研究分野の隙間に面白い話題が詰まっているよ。それを教えてくれる「つながりさん」です。
【発見マーク】
 熊本博物館からのとっておきオススメポイント。
【発見スポット】
「発見マーク」がどこにあるかこのスポットに来れば見つかるよ。
 


 100常設展示室


 101未来へつなぐ熊本の記憶
    ―集める・伝える・創造する―
 熊本の大地に息づく自然と
人々が生みだし つかってきたもの
さまざまなモノ・コトに宿る“記憶”を
一つひとつ集め 未来へと伝える場
 それが熊本博物館です。
熊本の自然にひそむ魅力と不思議に気づく
熊本の歴史と文化の由来を探る
一人ひとりの“熊本の記憶”をたどる体験が
未来につながることを目指します

 肥後の見張り番 しゃちぺえ
熊本博物館のマスコットキャラクター『しゃちべえ』は熊本城店主の鯱瓦をモデルに誕生しました。
鯱瓦とは、建物を雷や火事などの災害から守るためのおまじないとして設置されたもので、昔のお城の屋根だけでなく、現在の日本家屋の屋根などにも見られます。
「しゃちべえ」のモデルとなった鯱瓦(宝暦13年銘鯱瓦)は常設展示室1階のどこかに展示してありますので、ぜひ探してみてください!


しゃちべえ人相書
 常設展示室には、鯱瓦が2体あります。 「鯱違いにはご用心!

  鼻の上からおでこまで連なるシワ
  欠けたお月様のような耳
  ギョロっと丸い目玉と上向きにカーブしたキバ
  口もとの3本のヒゲ

肥後の見張り番
しゃちぺえ
未来へつなぐ熊本の記憶
集める・伝える・創造する


 熊本の大地と水の記憶
古くは「火の国」
   阿蘇火山、
 八代海の不知火など
     いわれは諸説あり
    火の国から「肥の国」の名になったとも

 古くは「隅本」
 隈は、川によってできた
平野を指す言葉に由来するとも

「熊本」としたのは加藤清正と言われる
  大地と水を制した武者が形づくった
その国の現在・過去・未来

熊本の大地と水の記憶

 103黄金文化へのあこがれ
金・銀を本と為て、目之炎輝く、種々の珍しき宝、多に其の国にあり』お隣の韓国では金製品が多く造られており、人々はその美しさに魅了されました。
王たちは黄金色に輝く大刀や装身具を身にまとい、もう一つの権威の象徴であった馬を飾る馬具にも鍍金し、より一層きらびやかに飾り立てました。
熊本の才園古墳でも豪華な鍍金鏡や金銅製馬具が発見され、人吉盆地の有力者と大和政権との密接な関係が考えられています。

黄金文化へのあこがれ

金・銀を本と為て、目之炎輝く、種々の珍しき宝、多に其の国にあり
オキナガタラシヒメ(後の神功皇后)は、
省略西に国がある)金銀をはじめ、目の輝くような数々の珍しい宝が、その国にはある。(私がその国を与えよう省略)といった。
 
お隣の韓国では金製品が多く造られており、人々はその美しさに魅了されました。
王たちは黄金色に輝く大刀や装身具を身にまとい、もう一つの権威の象徴であった馬を飾る馬具にも鍍金し、より一層きらびやかに飾り立てました。
熊本の才園古墳(さいぞんこふん)でも豪華な鍍金鏡や金銅製馬具が発見され、人吉盆地の有力者と大和政権との密接な関係が考えられています。

 2023.8.13訂正
※古事記に記された神功皇后に語らせる言葉は、「三韓征伐」という半島への侵略を意図し、「征伐」という語で正当化するものです。が、
 神功皇后や仲哀天皇は架空の人物です。

 105御座船(撮影禁止)

 波奈之丸(なみなしまる) 国指定重要文化財 細川家舟屋形
 御座船「波奈之丸」は、藩主細川家の参勤交代のために造られた船です。
大藩の海御座船の船屋形としては国内で唯一現存しており、「細川家船屋形」として重要文化財に指定されています。
船名の「波奈之丸」とは、「波、これをいかにせん」どんな波にも負けない)という意味を込めて、5代藩主細川綱利が命名しました。
平成28~30年(2016~18)に船屋形天井画の本格修理と合わせて、熊本城天守閣内より熊本博物館へと移築を行いました。

波奈之丸
 


  旧石器時代

 107熊本に人がやって来た
旧石器時代に人類が海を渡って初めて日本列島にやってきました。
旧石器時代は最終氷期にあたり、今より遥かに寒冷な環境でした。
人々は過酷な環境の中で獲物を追い求め、たくましく生き抜きました。

 
 110狩りの時代
 111
 112狩りの時代
 熊本には、旧石器時代に人間が住み始めました。遺跡から出土する石器にはナイフ形石器や剥片石器などがあります。
旧石器時代の遺跡は阿蘇山周辺にも存在するのでこの頃には阿蘇山の噴火も鎮まって、人間が住める環境になっていたようです。

狩りの時代 旧石器時代
(最終氷期)の環境
凡例
 113石器
人類がつくった最初の石器は石の端を打ち欠くだけでした。数百万年も昔のことです。
その後、意識して打ち割り取った素材用の剥片から石器をつくるようになり、剥片石器が登場します。
特に連続して同規格の石刃を量産する技法は石刃技法と言います。

このケースの石器は、約30,000年前~約15,000年前のもので、全て剥片石器です。
左側ケースとの大きな違いは、ここはナイフ形石器=「単体で使う石器」、左側は細石刃=「組み合わせて使う石器」ということです。

 欠けたら新たに作り直すナイフ形石器から、掛けた部分だけを補えば良い細石刃ヘ
作り方が非常に効率的になりました。人間の知恵の進歩を示す資料と言えます。

※細石刃は4万年前に登場したが、石器材料産地から遠くへ旅立っても生活必需品の石器材料に困らないための、原材料節約のための工夫だといわれています。この技術の獲得によって、人類は広範囲に拡散できるようになったともいわれている。

石槍 石槍
旧石器時代 沖遺跡
 114旧石器
二次加工のある剥片
大観峰A遺跡 阿蘇市
ナイフ形石器
阿蘇市ほか
剥片尖頭器
川原第6遺跡
阿蘇郡西原村

 117:県内の旧石器時代遺跡分布
県内旧石器遺跡分布
 
 120細石刃

 121細石刃 旧石器時代 松島遺跡 菊池市七城町
 細石刃は約15,000年前のもので、世界中(アジア・アフリカ・アメリカ大陸など)で見られます。
細石刃をつくるには精密な作業が必要で、打撃ではなく加圧によって剥ぎ取る押圧剥離技術が生まれました。

 細石刃の製作技術では、少ない石材からより多くの石刃を作り出すことができるようになりました。
また。細石刃は狩猟する動物に合わせて組み替えることもできるなど、応用も利きます。

 細石核 旧石器時代 松島遺跡 菊池市七城町
 押圧剥離技術は細かい調整ができるので、縄文時代の石鏃の作り方にもつながります。
なお、縄文時代の始まりは、国内で初期の土器が確認され始める今から約15,000年前とするのが、現在、最も有力な考え方です。

細石核 細石刃 細石刃装着
 123細石刃核
 124細石刃

 125道具をつくる
 旧石器時代も終り頃になると、様々な工夫を施した石器が製作されるようになります。
細石刃は、規格的に割り取った小さな刃をいくつか組み合わせて使用する狩猟具です。
また細石刃核(製作で残った方の石)を観察すると、剥ぎ取ったあとがよくわかります。
道具をつくる
細石刃核
菊池市七城町
松島遺跡
 


 130縄文時代

 130採集と狩りの時代
 縄文文化の時代は長く、約1万年以上も続きました。食料となる植物の採集や動物の狩猟、海の恵みの魚介類などで生活していたようです。
この時代に初めて土器が造られ、煮炊きによって人々の食生活は大いに改善しました。

採集と狩りの時代 熊本の縄文土器編年

早期~晩期
早期
ジオラマ
早期・前期
前期・中期・後期 後期
晩期

 131早期
早期
押形文 鉢
縄文早期
城南町 阿高貝塚
撚糸文 鉢
縄文早期
菊池郡大津町
無田原遺跡

 133前期ジオラマ
 133アカホヤ火砕流の分布
 火山活動と縄文土器
 縄文土器の形や文様は、時期によって大きく変化します。
発掘調査を行い、縄文土器が発見される土層の順番を調べることで、その新旧がわかります。
特に大規模な火山の噴火による層はその時期を決める重要な情報となり、縄文土器研究に欠かせません。

火山活動と縄文土器 アカホヤ火砕流の分布 アカホヤ火山灰層
 134ジオラマ
 
 縄文土器

 135前期
 曽畑式土器
熊本県宇土市の曽畑貝塚出土土器を標式とする。縄文前期(鬼界カルデラ大噴火後)の標式土器であり、九州や沖縄から見つかっている。
朝鮮半島の櫛目文土器とは表面の模様のみならず、粘土に滑石を混ぜるという点も共通しており、櫛目文土器の影響を直接受けたものと考えられている。
しかしその作り手はおそらく北方系の櫛目文土器の担い手ではなく、轟B式土器の分布の範囲で、曽畑式土器が作られるようになることから、轟B式土器の担い手が、櫛目文土器の造り手との接触により、影響を受けたものと考えられる。引用Wikipedia

九州地方を中心に朝鮮半島南海岸~沖縄、西中国にまで分布した、縄文前期中頃の土器型式。曽畑式・轟式は1935(昭和10)に設定された。器種は砲弾形の深鉢が主ですが、この時期の西日本では異例の壺形やボウル形浅鉢も少量みられます。外面に数条を単位とする鋸歯文や羽状文、三角組合文、X字状文などが底部まで施されます。引用山口県立山口博物館

 特徴
宇土市街地の東方に曽畑貝塚、西方に轟貝塚がある。
 轟貝塚は縄文前期(約6000年前)に形成されている。轟式土器は貝殻条痕文が特徴ではあるが、時代によって大きく変わり、
轟A式・B式・C式・D式と細分化して区別されている。
 曽畑貝塚は轟貝塚にやや遅れて形成されている。曽畑式土器は平行沈線文が特徴で、朝鮮半島と共通する。

 曽畑式・轟式土器が沖縄から出土
※鬼界カルデラの噴火後、半島からやって来た人々は、西周りで九州八代海に入り、広く拡散して縄文前期文化を築いた。轟式・曽畑式土器文化である。
しかし、彼らはその後南下し、琉球列島に進出し、沖縄貝塚文化人と混血し、同化した。

 沖縄から出土する曽畑式土器は、琉球新報によると、
「縄文前期(沖縄前II期相当)。丸底の深鉢形、浅鉢形があり、深鉢形は口縁部がやや外反。口縁部内面から外面へ連続的に幾何学文様を配す。底部は蜘蛛の巣状の文様が特徴。」引用琉球新報
 ここでは触れられていないが、胎土に滑石を混ぜた土器もあると沖縄博物館で聞いた記憶がある。

 ※私見 縄文前期の半島渡来土器
➀ 鳥取県智頭町歴史資料館には枕田遺跡出土の縄文前期の大深鉢(口径66.4cm器高56.8cm)があります。
同時期同規模の深鉢が破片として岡山県、島根県にあるが再現不能の小破片とされている。
また、兵庫県立考古博物館には同時期の少し小ぶりではあるが大型深鉢がある。
 この土器について後日東日本の博物館・資料館で同様のものの存在を尋ねましたが不存在。前期の大鉢なんて復元の間違いだろうと一蹴されました。
しかし、兵庫県県立考古博物館にもあることがわかり、存在は確実である。ただ、両館ともお互いが所蔵していることを知らないようです。

② 北白川下層式土器は縄文前期に登場する。かなり広範囲に分布し、また、土器の編年も長きにわたっている。
この土器を調べようとしたのだが京都大学が情報を持っており、撮影などが不可であったため実現できなかった。(大学博物館内)
 しかし、この土器は突然前期に出現し、当時では先進的な土器であり、器厚も薄く飛びぬけている。更にその後周囲の土器に大きな影響を与え広範囲に分布した。

③ 私は、縄文前期に朝鮮半島南部から、何らかの理由で大量の渡来民が漂着したのではないかと考えている。
それは、九州北西部から、日本海沿岸、山口・島根・鳥取・兵庫・京都府・福井など、である。
鬼界カルデラの火砕流や火山灰の堆積による壊滅から自然が回復し、動植物が繁茂し、しかもほぼ無人の新天地となった列島を目指したか、
気候変動による人々の移動か、いずれかはわからないが、朝鮮半島南部の文化が大挙してもたらされた。
彼らは安定した九州から、絶海の孤島を辿りながら危険を犯して未知の南海の島まで移住した。安住を捨て死の危険をかえりみず南の孤島に何を求めたのだろうか。
やがて、沖縄から東日本にまで拡がる文化の刷新が起きたのではないかと想像する。

④結合式釣り針は朝鮮半島南部が発祥であるが、九州北西部には縄文前期から出現している。
さらに、この釣針は、縄文早期後半の青森県八戸市の長七谷地貝塚からも出土している。
明らかに大量の半島人が九州から日本海航路を航海し、対馬暖流に乗って終点の八戸まで移動しています。
轟式土器も、曽畑式土器も半島由来の土器であり、幾度も半島からの渡来の波が押し寄せたように思えます。

⑤そういえば、鬼界カルデラの大噴火前後をテーマとしたNHKの番組を見た記憶がある。火砕流の下になった地域は絶滅したが、広範囲に降灰したため、人も動物も棲めなくなり、四国・九州北部・朝鮮半島南部からは丸木舟で太平洋岸や日本海沿岸を潮に任せて漕ぎだした無数の人々が描かれていた。
もちろん中国・近畿も同じであり、飢えて死ぬか、被害の少ない土地を捜して逃げ出すしかなかったのでしょう。
この時、すでに日本海航路が開かれ、太平洋航路はそれ以前から知られていたのでしょう。
 旧石器・縄文の人々の海洋航海術は、現代の私達には想像もできないほど卓越した技術と知識をもっていたようで、
鬼界カルデラの大絶滅以後もおそらく半島南部からしばしば列島へやってきては、自然の回復を様子見していたのではないでしょうか。

 話は変わるのだけれど、武田真治氏がNHKの番組で青森県から渡島半島へ丸木舟で渡る企画をしたときに、なぜか、漁師に津軽半島から渡ってはいけない。と言われ、鯵ヶ沢から船出して失敗した。あばれる君のバラエティ番組ではなく、考古学の番組であるから、縄文~アイヌ時代は渡島から外ヶ浜を目指してくるのだから、外ヶ浜から漕ぎだせばよいものを、それが考古学上の常識であるのに、あえて失敗するようなコースを選んで企画を実行したのはNHKディレクター愚かとしか言いようがない。
 津軽海峡には旧石器からアイヌ時代までの長きにわたって使われていた航路があり、物資や文化が伝播していったのだと思う。

曽畑式深鉢
縄文前期
阿蘇郡西原村
桑鶴遺跡
[現在地名]西原村小森 土橋
阿蘇南外輪山、俵山西麓の標高230mの「お池さん」とよばれる湧水地の近くにある。昭和38年(1963)・53年・54年に発掘調査が行われ先土器時代の細石刃・細石核を最下層に、縄文前期の曾畑・轟式土器、後―晩期の御領・西平山の寺式土器および各時期の石器が検出された。
引用コトバンク

 西原村の位置は八代湾側。縄文前期の航路は八代海だったようだ。

※旧石器末期の細石刃文化人の定住後、
縄文早期末6400年(7300年)前の鬼界カルデラの火砕流で消滅後、
縄文前期(6000~5000または7000~5500)年前には半島系土器である曽畑式・轟式土器の文化人が定着した。
巨大火災流後3~400年後には自然が回復し、火山噴出物による豊かな土地になっていたようだ。
 

 137中期 縄文中~後期の遺跡 貝面や阿高式土器
 阿高・黒橋貝塚と呼ばれるゆえんは、現在は貝塚の中央が河川によって分断され、阿高地点・黒橋地点にわかれているため。引用Wikipedia
阿高式 鉢 中期
城南町 阿高貝塚
阿高式土器 中期
約4500年前
城南町 阿高貝塚
阿高貝塚
熊本県下益城郡城南町阿高にある縄文時代の貝塚。熊本平野南部の貝塚群の一つで,木原山よりのびた台地端にあり,緑川支流浜戸川に面する。
1916年に発見調査され,多数の人骨が検出された。77年に,貝層と遺跡の範囲確認の調査が行われ,隅丸方形の竪穴住居址らしい遺構の一部を検出した。
貝塚はマガキを主体とし,ヤマトシジミがそれに次ぐ。ほかにアゲマキ,ハマグリが目立つ内湾性貝塚で,東方約300mにある御領貝塚の主体がヤマトシジミ(90%以上)であるのと対照的である。 引用コトバンク

出土遺物は,縄文時代中期の太形凹線による入組文・凹点文等を施文する阿高式土器を中心とし,前期から後期中葉の土器群まで存在する。
磨製石斧,打製石斧,石錘,搔器等の石器のほかに,骨製やす,カキ殻製貝面,貝輪,大理石製大珠,猪形土製品などが出土している。引用コトバンク

阿高式土器
縄文時代中期の太形凹線による曲線や直線を組み合わせた、入組文・凹点文等を、指先で土器の上半部に、施文するが、器全体に描くものもある。
深鉢を中心とするが、浅鉢もある。前期から後期中葉の土器群まで存在する。 引用コトバンク
 

 140後期

 鐘ヶ崎式土器
縄文時代中期末から後期初頭の土器。近畿・瀬戸内地方で発達した磨消縄文土器が、
後期中頃の約3500年前頃に九州へ波及したものを、
小池原上層式、鐘崎式、平城式などに細分して呼ばれている。 参照山口博物館

 縄文時代の高坏
縄文中期に浅鉢に透かしのある太く短い台付きの土器の高坏が現れ、弥生(やよい)時代には木製高杯が現れた。引用コトバンク
高坏形の土器は縄文時代晩期に一般化し,弥生時代になると不可欠な食器の器形として定着
縄文土器では,台付土器と呼ぶ。

 台付土器
※上記の「縄文中期の透かしのある台付土器」は確認できなかったが、出現は縄文後晩期で特に晩期が多い。
曽畑貝塚の鐘ヶ崎式高坏は、透かしのある弥生時代の木製高坏を模したような素晴らしい出来上がりで、これが近畿・瀬戸内から伝わった年したら、
近畿~九州の間に沢山分布しているはずだが、このような土器はネット検索でもヒットしない。
まるで弥生土器を見ているような完成度である。

鐘ヶ崎式 高坏 後期
宇土市 曽畑貝塚
鐘ヶ崎式 深鉢 後期
熊本市 渡鹿貝塚

 
南福寺式土器
 中九州を中心に分布する、南福寺式・出水式土器を、阿高式土器に後続する土器としている。
中津式土器
 岡山県中津貝塚を標式遺跡とした、瀬戸内・近畿地方を中心に分布する縄文時代後期初頭の土器型式
辛川式土器
 磨り消し縄文系土器

南福寺式 浅鉢
中~後期
天草市五和町
沖ノ原遺跡
中津式 鉢
後期
阿蘇市波野
糀原遺跡

後期中葉
葦北郡芦北町
大野遺跡
辛川式 鉢 後期
宇土市 轟貝塚
 
 141後期
鐘ヶ崎式 浅鉢 後期
熊本市渡鹿貝塚
北久根山式 鉢 後期
原古閑遺跡
辛川式 鉢 後期
辛川遺跡
北久根山式 深鉢 後期
北久根山遺跡
鳥井原式 鉢 後期
熊本市 水源地遺跡
三万田式 鉢 後期
太郎迫遺跡
御領式 深鉢 後期
上ノ原遺跡
鳥井原式 鉢 後期
水源地遺跡
鳥井原式 浅鉢 後期
菊池市 町畑遺跡
三万田式 鉢 後期
太郎迫遺跡
 142後期
三万田式 鉢 後期
四方寄遺跡
鳥井原式 浅鉢 後期
太郎迫遺跡
三万田式 鉢 後期
渡鹿遺跡
鳥井原式 浅鉢 後期
太郎迫遺跡
鳥井原式 注口土器
後期
南部遺跡C地点
三万田式 鉢 後期
三万田遺跡
 
 145晩期
黒川式 浅鉢 晩期
水源地遺跡
黒川式 壺 晩期
真木前原遺跡
夜臼式 壺 晩期
水ノ山遺跡
埦 晩期初頭
上ノ原遺跡
 

 149牡蠣殻仮面 縄文中~後期 阿高・黒橋貝塚出土 大型イタボガキ製
  ※貝面は朝鮮半島で多く見つかっており、半島人の渡来が多かったのではないかと考えられている。
貝面
(阿高黒橋貝塚)
貝面 縄文時代
阿高貝塚
 
 150様々な石器
 縄文時代になると、多種多様な石器が使用されるようになります。
狩猟、採集、漁撈、農耕など、その目的によって石器を使い分けていました。
石器に使用する石材の選択や加工の仕方などにも、縄文時代の人々の知恵と工夫が感じられます。

磨製石斧-伐採用
石鏃-弓矢の矢尻
石錘-漁網の錘
打製石斧-土堀具
石匙-肉切り・皮なめし
 151縄文海進と貝塚
 縄文時代中期には温暖化の影響で極地の氷が溶け、海水面が上昇しました。
これを縄文海進といい、海岸線が現在よりもかなり内陸まで入り込んでいました。熊本平野も、当時は広い範囲が海でした。
貝塚のある場所は、縄文時代には海の近くだったことがわかります。

縄文海進と貝塚 縄文海進期の地層と
貝塚の分布
 153装身具
 縄文時代の遺跡からは貴重な石材を使用した大珠や勾玉、貝製の腕輪、動物の牙製の垂飾や骨製の笄、簪など、様々な種類の装身具が発見されています。当時の人々にとって装身具は単なるアクセサリーではなく、もっと儀礼的、呪術的な意味を持っていたと考えられます。

装身具
 
 160様々な石器
 161石鏃
石鏃 縄文時代
熊本市
no caption
トロトロ石器
 162
石匙 縄文時代
熊本市
十字形石器
縄文時代 熊本市
 163
打製石斧 縄文時代
熊本市
磨製石斧 縄文時代
熊本市
円盤状石器
縄文時代 熊本市
石錘 縄文時代
熊本市
 164
Ⅰ.原石
二子山遺跡
石器製作工程
縄文時代 合志市
Ⅱ.荒割り
Ⅲ.調整
Ⅳ.仕上げ
 165土製品
土製品
熊本市出土
 166土製品
土製品
上南部遺跡
 167石製装身具
勾玉・管玉・丸玉
上南部遺跡

鳥井原遺跡
大珠
阿高貝塚
 169骨角製品
貝輪 縄文時代
熊本市 阿高貝塚
骨角器
貝殻(カキ・ハマグリ等) 縄文時代
阿高貝塚
獣骨 縄文時代
熊本市
 
 180祭と葬送
 181土偶
土偶とは縄文時代の土製の人形で、熊本では多く発見されています。乳房や大きな腹部など、妊娠した女性を表したものでしょう。
完全な状態での発見は稀で、頭・胴・腕・脚などが意図的に割られた状態のものが多く、何らかのまつりに使われたものと考えられます。

祭と葬送
土偶
 182人骨・岩偶
縄文時代の人骨
天岩戸 岩陰遺跡
山鹿市菊鹿町
岩偶
荒尾市
 183土偶 縄文時代 熊本市ほか 縄文後期
三万田遺跡 三万田遺跡 上南部遺跡 上南部遺跡
太郎迫遺跡 太郎迫遺跡
 187土偶表裏
 


 190弥生時代

 191稲作の始まり
中国大陸や朝鮮半島から、再び多くの人々が日本列島にやってきました。
新来の人々は新しい道具や稲作文化を伝え、次第に縄文の人々と同化していきました。
人々の生活は大きく変化し、一方では力を独占かる人も現れました。

稲作の始まり
 192弥生時代の墓制
弥生時代の墓には土を掘って死者を埋めた土壙墓、 土器に入れて葬った甕棺墓、 墓の上に大きな石を乗せた支石墓 などの
種類があります。
甕棺墓は福岡、佐賀、熊本県北部に多く、熊本市内では特に神水遺跡(くわみず)白藤遺跡で、150基以上が群集した状態で発見されています。

 轟今古閑遺跡(とどろきいまこがいせき) 弥生中期
甕棺出土状況
轟今古閑遺跡 中期
熊本市
土壙墓 甕棺墓
木棺墓
箱式石棺墓
 194甕棺
甕棺墓 蓋 甕棺墓 身

 195弥生時代の集落 ジオラマ
 弥生時代の食べ物

陸棲動物  シカ・カモシカ・イノシシ・タヌキ
   山菜・木の実 キノコ・ドングリ・トチ・ゼンマイ
   作物  イネ
   浜辺 アサリ・ハマグリ・マカキ・サザエ・ワカメ
   海洋動物 ボラ・スズキ・マダイ・サメ

 とてもよく作られた表です。あえて付け加えるとするならば、
  弥生時代らしく、雑穀(アワ・ヒエ・キビ・コムギなど)の栽培、川漁(鮭・鮎)の獲物も追加すればもっと楽しいかもしれません。
  また、イネ科植物の栽培に伴う、昆虫類(イナゴ)などもそれらしいできですね。素晴らしい。

弥生時代の食べ物
 

 200道具の革新

 201金属器の伝来
金属器の出現と水稲農耕は、弥生時代の大きな特徴です。稲作技術と共に、金属器も日本列島に伝わりました。
鉄器はおもに農耕具の加工など、実用面で使用されたようです。一方、青銅器は、主に祭りの道具として用いられました。

稲作伝来図 板付伝来が水稲稲作
菜畑は陸稲焼畑農耕

ではないかと、
私だけが思っているのかも。
青銅器の渡来
銅剣復元図
細形銅剣赤漆塗柄部
熊本市西区上代町遺跡出土
 202鉄器・銅鐸の鋳型
鉄斧 弥生時代
斎藤山貝塚 玉名市
鉄鎌 弥生時代
木瀬遺跡 合志市
 
小銅鐸鋳型
弥生中期
八ノ坪遺跡 熊本市
小銅鐸レプリカ 小銅鐸鋳型に粘土を押し当てて作成しました。

鋳型の下部は欠損しており、小銅鐸下部の情報は残っていません。
※奴国の丘資料館でも小銅鐸鋳型が、熊本博物館でも小銅鐸鋳型が出土し、九州で銅鐸が造られていたことは明らかです。 
 これは、ベルとしての銅鐸であるようです。

 銅鐸信仰の銅鐸は、畿内地方で発達し、最終的には大阪で量産され、更に東海地方にも信仰としての銅鐸生産が伝わったのでしょう。
 203青銅武器の鋳型
銅戈鋳型 中期
八ノ坪遺跡 熊本市
銅戈鋳型裏面 鋳型部分

 銅矛・銅剣鋳型
武器型青銅器鋳型
中期
熊本市白藤遺跡
銅剣・銅矛鋳型
中期
八ノ坪遺跡

 205鋳造関連遺物
 青銅器をつくる
 鋳造のための道具が八ノ坪遺跡から出土しました。ひとつは“とりべ”で、溶かした銅を鋳型に注ぐ道具です。
銅滓が付着していた里、高熱を受けて胎土がボロボロになった利しています。
また、ふいごの送風管も発見され、これは先端付近に突起があります。中国には馬のたてがみを持つ送風管あり、これはその名残と考えられます。

※とりべ=取鍋:溶融した金属をすくうひしゃく。

鋳造関連遺物
弥生中期
熊本市八ノ坪遺跡
青銅器を作る 鋳造関連遺物
弥生時代中期
熊本市八ノ坪遺跡
銅滓付着とりべ
and
とりべ
送風管 青銅器生産の様子 ←青銅器生産の様子。溶かした銅を取鍋から鋳型に移し、(右側の二人)できた青銅器を研磨(左側)。 銅戈 弥生時代
熊本市
小形銅矛
弥生時代 熊本市

 207威信材である青銅器
 弥生時代、農耕生活を営む中で首長という、権力を持った立場の人々が台頭してきます。その中でも、九州北部の首長達はいち早く朝鮮半島との交流を始めました。彼の地からもたらされた青銅器は、首長の権力を誇示するための“威信材”としての役割を果たしたのです。

 青銅器の変貌
青銅器は当初、朝鮮半島から輸入するものでしたが、次第に列島内でも生産を行うようになります。
また、列島で見られる初期の青銅器は実用品に近い形をしていますが、徐々に大型化や各所のデフォルメが進み、
使うための青銅器から見るため・見せるための青銅器へと性格が変わっていきます。

銅剣 弥生時代
球磨郡多良木町
大久保ヤリカケ松遺跡
威信財である青銅器
青銅器の変貌

 赤漆塗木製剣柄
 木製の剣の柄には前面に赤い漆が塗られ、柄縁には絹糸が巻かれていました。全体の復元が可能な優品で、状態も良好です。
この柄の類例は朝鮮半島のみで確認されており、赤漆塗木製剣柄は当時の熊本のみならず、列島における権力者の実像に迫ることのできる非常に貴重な資料と言えます。

赤漆塗木製剣柄 各部名称 赤漆塗木製剣柄
弥生中期
熊本市 上代町遺跡群
 208金属器を真似る
 弥生時代の磨製石剣は、金属製の剣を模倣したものと言われています。
 磨製石剣が人骨の右胸部から出土した例が八ノ坪遺跡にあり、これは武器として使用された可能性も指摘されています。
磨製石剣の使用方法を検討する上で、重要な例と言えるでしょう。

磨製石剣
早期~前期並行期
朝鮮半島南部
金属器を真似る 金属器を真似る 磨製石剣が胸部刺物として出土

八ノ坪遺跡
一番左の石器が人骨共伴
上代町遺跡

 磨製石剣は実用品だった。
 
 220
 221新しい石器の形
 渡来人によって日本列島に伝えられたのは、稲作技術や金属器だけではありません。
石包丁のほかにも大きくて重い磨製の太型蛤刃や磨製石鏃など、それまでの縄文時代の遺跡からは発見されなかったような形の石器が
新たに登場します。 磨製石鏃は狩猟具ではなく、戦いの道具かもしれません。

新しい石器のかたち 石包丁 磨製石鏃  磨製石鏃は、縄文時代と違い
磨いてあります

 222輸入品と模倣品
 朝鮮半島や中国から輸入した鏡を舶載鏡、中国の鏡を模倣して我が国で製作した鏡を仿製鏡と呼びます。
鏡を求める声の増加に輸入量が追いつかず、仿製鏡の製作が開始されました。

仿製鏡
輸入品と模倣品 仿製鏡
戸坂遺跡
仿製鏡
長峯遺跡
仿製鏡
五丁中原遺跡

 223外国からやって来た鏡
 弥生時代半ば(約1700年前)に、朝鮮半島から我が国に初めて鏡がもたらされました。
それと同時に、鏡が権力者の所有物であり、権威の象徴であるという思想も伝わってきます。
思想的な裏付けはもちろん、貴重な輸入品を所有すること時代が、当時の人々にとっても権力を誇示する有効な手段でした。

 弥生時代の権力者像
 弥生時代、鏡は墓からも集落からも出土します。墓で発見されたのは、副葬品として亡骸と共に埋納されたものです。
一方集落から出土したものは、日常生活の中で行われている祭祀行為で実際に使用されたと考えられます。
弥生時代にはこのような貴重品を用いて祭祀を行う人物が権力を掌握していたのでしょう。

 割られた鏡
 鏡の供給不足に対応するために破鏡が誕生します。これは、分割した鏡の割れ口を研磨して整え、破片をもって1枚の鏡として分配しました。
破鏡の中には孔があけられたものがあり、これは紐を通して首から下げるなどの意図があったと推測されます。

外国からやって来た鏡
弥生時代の権力者像
割られた鏡 舶載鏡(破鏡)
弥生時代
上高橋高田遺跡 平田町遺跡
清水町遺跡
 

 225管玉製作
 弥生時代の管玉工房跡を発見
 管玉の製作工房跡が熊本でも発見されています。上代町遺跡群の発掘調査において、1軒の竪穴建物跡から管玉と筋砥石が出土しました。
筋砥石という工具の出土によって、この建物跡で管玉が製作されていたことが明らかになりました。
 225切断
擦切り砥石 中期
八ノ坪遺跡
擦切り砥石で石材に溝を切り、割ります
 226調整
(原石) 切断
擦切り砥石で石材に溝を切り、割ります⇒
(長さ)調整
管玉1個分の長さに割ります。⇒

上に記述
研磨
砥石で磨く。砥石は
筋状に窪む⇒
 ⇒孔を開けて完成
 227研磨
筋砥石 中期
熊本市上代町遺跡群
 228穿孔
 管玉の穿孔技法とその変化
 管玉の断面を見てみると、上下の両端から孔を開けて行った様子がわかります。
左側2つは穴の形が円柱形で、右端のものは円錐形です。これは穿孔に使用する工具が違うことを示しています。
展示している円柱形の管玉は弥生時代中期のもので、円錐形の管玉は弥生時代後期~古墳時代のものです。

 ※管玉の横にあるのは、穿孔部分に流し込んで型を取ったシリコンです

管玉の穿孔技法とその変化
左2本は弥生中期
右1本は弥生後期~
管玉
 
 230
 231石製品
石包丁 磨製石鏃 磨製石鏃
磨製石斧の使い方 縦斧(まさかり型)
横斧(ちょうな型)
磨製石斧
 
 233ヒスイを求めて
 勾玉に好んで使用される石材は翡翠で、これは新潟県糸魚川で採れます。
弥生時代の熊本の人々にとって、遠い距離を隔て、交易により入手する翡翠製の勾玉は一部の権力者のみが所有できる貴重品でした。

ヒスイを求めて 翡翠
硬度6.5~7
勾玉 翡翠製 中期
熊本市白藤遺跡

 235勾玉のルーツ
 と聞いて多くの人がまず思い浮かべるのは、勾玉ではないでしょうか。
この不思議な形は、縄文時代の遺跡から発見される、動物の牙に孔を開けた装飾品が由来ではないかと考えられています。
剣や鏡が国外から入ってきたものであるのに対し、勾玉とそれにまつわる習俗は我が国由来のものと言えます。

 縄文時代の勾玉製作遺跡
 健軍神社周辺遺跡の発掘調査により、縄文時代後晩期(約4500~2800年前)に当地で玉の製作が行われていたことが明らかになりました。
加工途中の勾玉や管玉が発見され、これらの石材は含クロム白雲母岩でした。

縄文時代の玉製作遺跡
玉類
縄文後期~晩期
熊本市健軍神社周辺遺跡
勾玉 管玉 勾玉未成品
管玉未成品
勾玉未成品

 236含クロム白雲母岩

含クロム白雲母岩
硬度2.5~3
健軍神社周辺遺跡
勾玉のルーツ
上に記述
 

 240弥生土器

 241弥生土器
弥生土器は、縄文土器のように表面に文様を付けることは少なく、形も簡素です。
煮炊き用の土器以外にも、埋葬用の甕棺や脚が付いた高坏、赤く塗られた土器など、以前にはあまり見かけなかった土器が増えてきます。

 242
壺×2 弥生前期
益城町秋水遺跡
熊本市白石遺跡
壺 弥生後期
熊本市楢山遺跡
異形鉢 後期
益城町秋水遺跡
台付鉢 後期
嘉島町二子塚遺跡
赤彩壺 後期
 243
ジョッキ型土器 後期
菊池市小野崎遺跡
壺 中期
熊本市黒髪町遺跡
長頸壷 後期 菊池市旧北合志村出土
器台 後期 合志市合志町 木瀬遺跡
鉢 後期 合志市合志町 合志原
 244
高坏 後期
高坏 後期・甕 後期
壺 中期
壺 中期
背後の甕 台付壺 後期
菊池市 後迫遺跡
甕棺 中期
熊本市 〇園中遺跡
壺 後期
熊本市長嶺遺跡
長頸壷 後期
下益城郡美里町中郡
 


 250古墳時代



 251古墳が造られた時代
古墳時代は墓に価値を見出す時代で、大きな古墳は墓であるとともに、権力者の象徴でした。
豪華な副葬品を持つものもありますが、質素な古墳の方が数は多いのです
。熊本では菊池川、白川、緑川、球磨川など河川の流域に古墳は造られています。

古墳が造られた時代
 252灰石の利用
古墳の中には死者を納めた石棺や石室があります。
石棺には箱式石棺、舟形石棺、家形石棺などの種類があります。石材は熊本に広く分布する阿蘇溶結凝灰岩で「灰石」とも呼ばれます。
灰石は加工しやすく、古墳時代には多く利用されました。

 馬門石石切場から出土した土師器
馬門石(まかどいし)とは阿蘇溶結凝灰岩の熊本県宇土地方での呼び名です。
写真の土師器甕は古墳時代中期頃のもので、この場所で石切り工人達が煮炊きをしながら作業をしていたことを示す重要な資料です。
ピンク色の馬門石は古墳時代の畿内有力氏族の石棺に使用されたことがわかっており、その石切り場が特定できたことも重要です。
周辺では石屑も多量に出土していることから、この場所で荒加工し、重量を軽くして運び出していたと考えられます。

灰石の利用 灰石の利用
馬門石石切場から出土した土師器 馬門石石切場跡
土師器出土状況
清辻(清辻)露頭の石切り場跡

清辻露頭は地元で使用された白っぽい馬門石の産地
 253阿蘇溶結凝灰岩
土師器甕 後期
益城町 秋永遺跡
阿蘇溶結凝灰岩
馬門石石切場跡
馬門石切丁場跡 野添石切丁場跡
清辻石切丁場跡
 254舟形石棺破片
舟形石棺片
古墳時代 熊本市

 256豪華な副葬品
副葬品とは古墳の主が生前に持っていた物や身に付けいていたものであり、遺体と共に埋葬されました。
前期には鏡や玉、水銀朱などがあり、
中期から武器、武具などが目立ってきます。
後期に横穴式石室が普及すると、金銀の装身具、馬具、武器や食べ物を入れた土器などが多くなります。

  青銅鏡
豪華な副葬品 方格規矩鏡
玉名市
  獣首鏡
上益城郡御船町 
    鳥文鏡
熊本市北岡古墳 
 
方格規矩鏡
熊本市高城3号墳
半肉彫獣帯鏡
飯岡市
乳文鏡
阿蘇市中通古墳群
 257甲冑
脛当すねあて
玉名市伝左山古墳
短甲
玉名市伝左山古墳
 258装身具
玉の原石 水晶、瑪瑙 碧玉 緑色凝灰岩
貝釧 古墳時代
玉名市伝左山古墳
刀装具(漆塗木製)
古墳時代 熊本市
上高橋高田遺跡
刀装具 (鹿角製)
古墳時代 熊本市
上高橋高田遺跡
 

 260火の国
 火の国とは
熊本県は古墳時代には、阿蘇山にちなんで「火の国」と呼ばれていたと言われています。
これが後の時代になって「肥の国」になり、更に前後に分けられ。畿内から地階佐賀県と長崎県が「肥前国」遠い熊本が「肥後」になりました。

 261火の国のムラ
一部の豪族たちが築いた大きな古墳や。豪華な副葬品につい目を奪われがちですが、やはり多くの人々が暮した村の存在を忘れてはいけません。
大きな権力を支えていた背景には、稲作技術道具の改良による生産力の増大、集落の拡大があったと考えられます。

火の国とは 古墳時代のムラ
新南部遺跡群(中央区)
カマド 村の姿 川のすぐ近くまでムラが造られました。
 262装身具 古墳時代 小磧橋際横穴群 熊本市
装身具 古墳時代
小磧橋際横穴群
熊本市
 263土師器・須恵器 古墳時代 小磧橋際横穴群 熊本市
 265円筒埴輪 古墳時代 臼塚古墳 山鹿市
 
 270古墳の終焉と横穴墓
 古墳時代の墓の種類は、盛り土を伴う古墳だけではありません。自然の崖面に穴を掘って中に遺体を埋葬する横穴は、古墳時代の後期に多く見られる墓の形態で、共同墓地と考えられます。横穴群は熊本県内各地に分布し、古墳時代を特徴づける墓の一つです。

 横穴式石室
盛り土のある古墳の埋葬施設の一つで、合葬を前庭とした石室です。横から入口を蓋石で塞ぐことで、順次追葬することが容易になりました。
鉄製の武器や武具、勾玉やガラス玉などが出土します。古墳時代中期から竪穴式石室に代わって造られました。

古墳の終焉と横穴墓 横穴式石室 横穴 横穴 鬼迫古横穴群
熊本市北区植木町
四十八塚古墳群
4号石棺
装飾古墳四十八塚古墳群4号石棺
下益城郡美里町

 280三種の神器

 281装飾文様の「鏡・玉・剣」
装飾古墳の文様として、鏡・玉・剣を表現したものは多くはありません。鏡と剣や大刀はありますが、勾玉の形をした装飾文様は、現在のところ確認されていないようです。
古墳の副葬品としてはよく出土する三者ですが、装飾文様では扱いが異なることが考えられます。それは何故でしょうか。答えが出るまでにはしばらく時間がかかりそうです。

⇒呪力、財力、交易力
・素材 青銅 輸入品=舶載鏡、国産品=仿製鏡
・色彩 金色
・他地域との交渉を示す代表的なものです。

⇒呪力、財力
・素材 石、ガラス、金、銀、銅、輸入品も多い
・色彩赤色、橙色、茶色、黄色、緑色、水色、青色、紫色、白色、透明など
・呪力や権威をあらわすものとして、身に付けたといわれています。

⇒武力、財力
・素材 弥生時代=青銅、古墳時代=鉄 韓国からの輸入品は多い (※韓国なんて国はなかったよ。朝鮮半島だろうよ。)
・色彩 青銅製は金色、手させては銀色、鞘は玉纏の大刀など豪華なものもあります。
・鉄製の武器武具類は古墳時代に急増します。

 キラキラ ヒカリモノ
「鏡・玉・剣」に共通すること。見た目が華やかで。昼は太陽の光、夜は月明り、かがり火などを反射して、きらきらと美しく光り輝くものであること。
その煌めきは、それを持っている人をも見栄えよく偉大に見せ、永遠に続くものとして、当時の人々を魅了していたことでしょう。
 しかし、絢爛豪華だったものも今では泥にまみれ、錆びて朽ち果て、昔の輝きは失われています。

 被葬者の地位
「鏡・玉・剣」の各々の所有比率と量によって、被葬者 の社会的地位や性格が推定できると考えられています。
古墳であれば、墳丘規模は相対的な力の大きさを示し、副葬品はその質を示す、ということが出来そうです。

 職掌
 武的職掌と文的職掌の相違が副葬品に現れる事例もあることのことなので、主にを以って仕えるか、を以って仕えるか、交易を以って仕えるか。これらの職掌分離が推定できれば、昔の社会の一端を解明するための手段に成りえますし、熊本の先史時代の姿を豊かに復元出来るかもしれません。

 282青銅鏡
 283刀剣
鉄剣
古墳時代
熊本市楢崎山1号墳
箱式石棺
鉄刀 古墳時代
楢崎山1号箱式石棺
鉄剣 古墳時代
楢崎山1号 箱式石棺
 284剣
鉄刀 後期
熊本市 稲荷山古墳
鉄刀 後期
熊本市 稲荷山古墳
鉄刀 後期
熊本市 稲荷山古墳

 285玉類
 渡来系の瑪瑙製丸玉
 玉の紐通し孔が、同径で細いのが特徴です。片方が大きく一方は小さい円錐形の出雲系のものとは異なります。
北部九州を中心に出土し、韓国にも多いようです。製作地は南アジアやロシア沿海地方で、韓国経由で持ち込まれたと考えられています。

この玉を持つことが出来る人物は、北部九州の有力者とつながりがあるか、韓国と直接交渉できる、地域首長の中でも上位の人物かもしれません。

 ※韓国ではない。朝鮮半島のどこかの国、ですね。

熊本市北区
石川山7号・8号墳
瑪瑙製丸玉(渡来系)
熊本市北区打越町
稲荷山古墳
熊本市北区
石川山7号・8号墳
 287
熊本市
山口横穴群10号
 


 300古代

 300
 301律令時代をむかえて
各地の有力者が土地と人々を直接支配していた時代から、律令という法律を基にして朝廷が中心となって政治を行う中央集権の時代になりました。
九州は「西海道」と呼ばれ、肥後国など9か国が置かれ、福岡の大宰府が中心でした。


 302仏教の伝来と古代寺院
6世紀半ばに日本に伝わった仏教は全国へと広がり、各地の豪族によって寺院の建立が進められました。
熊本県内では7世紀に造られた軒瓦が数か所で発見され、その多くが仏教寺院のものと考えられます。
さらに奈良時代(8世紀)にはいると国分寺や国分尼寺が建てられました。

仏教の伝来と古代寺院
立願寺廃寺(玉名市)
伝大道寺(飽田郡)
県内の主な古代寺院と軒瓦
県中心部 大江遺跡群
陣内廃寺
法道寺跡
興善寺廃寺
 
 303鞠智城跡きくちじょう
鞠智城は、東アジア情勢が緊迫した7世紀後半に、大和朝廷が築いた山城です。
663年の「白村江の戦い」で唐・新羅の連合軍に大敗した大和朝廷が、日本列島への侵攻に備え、西日本に築いた城の一つです。
九州を統治していた大宰府やそれを守るための大野城・基肄城(きいじょう)に、武器・食料を補給する支援基地でした。
「続日本紀」など、国の歴史書にも記載のある重要遺跡として、平成16年(2004)に国史跡に指定されました。

7世紀後半の朝鮮半島と鞠智城 鞠智城出土
百済菩薩立像


『続日本紀』文武天皇二年五月
「令 大宰府 繕治 大野、基肄、鞠智 三城」
 (国が)大宰府に命じて、大野・基肄・鞠智の三城を修理させた。
 
鞠智城跡
八角形鼓楼と米蔵
         

 305瓦と炭化米

軒平瓦 奈良時代
熊本市国分寺跡
軒丸瓦
飛鳥・白鳳時代
渡鹿A遺跡 熊本市
軒丸瓦
奈良・平安時代
熊本市伝大道寺


 鞠智城米蔵の火災
 平安時代の歴史書『日本文徳天皇実録』によると、天安2(858)年に鞠智城の米蔵11棟が焼失したとの記録があります。
それを裏付けるように、米蔵と考えられる礎石建物の周囲から、炭化米が多量に出土し、焼け跡のある礎石も発見されています。

炭化米 平安時代
鞠智城跡 山鹿市

米原長者伝説


 米原長者伝説(よなばる)
昔、米原着米原長者と言う大金持ちが住んでいました。
何千頭もの牛や馬、何千人もの使用人を使い、菊池から山鹿にかけて三千町歩の田を作って、田植えを一日で済ませることをたいそう自慢にしていました。
ところがある年、半分も植え終わらないのに太陽が西の山に沈もうとしていました。それを見た米原長者は、金の扇で招き返しながら、「沈むな!戻れえ、戻れえ」と大声で叫びました。
すると不思議にも、太陽は後戻りしたのです。それでも田植えは終わらず、太陽は沈んでしまいました。どうしても1日で終わらせたい米原長者は、日の岡山に三千樽の油をまき、火をつけ、その灯りで田植えを終えることができました。

しかし、太陽を呼び返した天罰が下り、その夜、火の玉が出て、米原長者の屋敷も倉もすべてのものが焼き尽くされてしまったのです。

その時から、日の岡山は焼けこげ、草も木も生えなくなり、長者の倉跡からは、今でも焼き焦げたお米が出てくるそうです。

米原長者伝説
 
 310
 311大国肥後の繁栄
肥後国は西海道随一の米の生産力を誇り、平安時代には「大国たいこく」に昇格します。
国内には玉名、山鹿、菊池、合志、阿蘇、飽田、託麻、益城、宇土、八代、天草、葦北、球磨と、後に分立した山元の14郡がありました。
肥後国府の有力候補地である熊本市の二本木遺跡群(飽田郡)からは当時の貴重な品々が出土しています。

大国肥後の繁栄 肥後国行政区分
と駅路
古代の行政区分と
交通網
西海道
中四国~東海・関東 近畿~東北 関東~東北

 313八稜鏡
※完全ピンボケでタイトル名も不明です。
熊本県出土の八稜鏡は、八代市古麓町御内の御内古墳(横穴式石室)の瑞花双鳳八稜鏡のみです。参照熊本県の遺跡・古墳 八代博物館所蔵

 瑞花双鳳八稜鏡
※同名の八稜鏡にはいろいろなデザインがあり、ここではとてもシンプルなデザインのようです。
 東京国立博物館蔵(出土地無記名)  高知県立歴史民俗資料館(出土地記述なし)

完全ピンボケ 瑞花双鳳八稜鏡


 ボンボニエール「八稜鏡形梅樹文」 学習院大学所蔵
日本のボンボニエール(菓子器)は、明治以降の皇族の饗宴の際の記念品として制作され、八稜鏡のデザインが採用されたものもあります。
写真は『企画展古墳文化の珠玉』図録 島根県立古代出雲歴史博物館より引用

 高御座と御帳台

高御座と御帳台(たかみくらとみちょうだい)
高御座は朝廷で重要な儀式が行われる時の天皇の御座で、御帳台には皇后が登られます。
資格の台上に八角形の段を重ね、柱を立てて、天蓋を支えています。
写真は『御代替わり』神社本庁より引用

 なぜ八角形なの?
諸説ありますが、古来、八と言う数字は、豊かの意味に多く用いられ、字形が末広がりで縁起が良いと言われています。熟語としても、四方八方、口八丁手八丁、八方美人などを背景には、あらゆる様々という意味もあります。
八角形には、全体を統治する権力者にふさわしいとか、中国の影響を強く受けたもの等の考えがあるようです。
古墳の形が八角形の八角墳は7世紀からあり、天皇など中央・地方の最有力者の古墳として築かれたようです。古代の瓦の模様には、蓮華文は 八花弁のものがあります。
八角形の建物は、熊本山鹿市の鞠智城(きくちじょう)に7世紀末から8世紀初め頃と推定される鼓楼が復元されています。他に奈良時代創建の法隆寺夢殿、室町時代では、長野県の安楽寺の八角三重塔があります。角柱の角を取った大面取り柱も断面八角形でお寺などにあります。

全国には八角形の建物や古墳、鏡などが点在していますので、八角形巡りを楽しんでみてはいかがでしょうか。

※いろいろ苦しいこじつけですが、八角形は中国皇帝の御座の真似ですね。

ボンボニエール
「八稜鏡形梅樹文」
高御座と御帳台
 315須恵器
須恵器 有蓋壺
(地鎮具)
奈良・平安
二本木遺跡
浄瓶じょうへい
奈良・平安
二本木遺跡
長頸壷
愛知県猿投窯
奈良・平安
二本木遺跡
 317二本木遺跡出土物 奈良・平安時代 
獣脚円面硯
奈良・平安
二本木遺跡
引用硯 朱墨
須恵器埦
奈良・平安
二本木遺跡
朱墨書土器
奈良・平安
二本木遺跡
円面硯ヘラ書き
「肥後国」
奈良・平安
二本木遺跡
転用硯 須恵器蓋 ヘラ書き土師器
大領、市殿
石製巡方
奈良・平安
二本木遺跡
銅印
奈良・平安
二本木遺跡
 

 320国指定史跡 池辺寺跡
池辺寺は、熊本市西区池上町にあった山岳寺院です。
奈良時代の創建と伝えられ、繁栄と荒廃を繰り返しながら明治時代の始めまで存続していました。
1000年以上の長い歴史があった池辺寺を現在に伝えるものが二つあります。池辺寺縁起絵巻と金子塔です。
周辺の山中にも関連遺跡が広がっています。 ※廃仏毀釈で破壊されたのかな。

 321百基の石塔
一辺2.4m程の石塔が10列×10列で宋代に並ぶ百塔です。しかし、何のために造られたのかは未だに謎に包まれています。
広い斜面にある百塔は全国的にも例がなく、独自性も高いことから平成9(1997)年に国指定史跡になりました。

池辺寺 百塚地区を望む
斜面に池辺寺・百塚
百基の石塔
百塔と池辺寺

 322池辺寺の伝説と由来

池辺寺縁起絵巻
池辺寺にまつわる7つの不思議な物語が描かれています。江戸時代に作られたもので、現在も大切に伝えられています。
山の麓にある味生池(あじうのいけ)に棲む龍を沈めるために池辺寺が建てられたことや、今に伝わる宝物、独鈷や鈴が天から落ちてきた物語などが描かれています。

金子塔
池辺寺跡・百塚の山の尾根にある笠塔婆です。
建立は建武4年(1337)で、碑文には池辺寺の由来などが刻まれています。
碑文にある「百塔」が、古代の池辺寺の位置特定の大きなヒントになりました。

池辺寺縁起 金子塔
 325瓦 国史跡池辺寺跡
軒丸瓦 軒平瓦 鬼瓦
 327須恵器・土師器
石製品
奈良・平安時代
国史跡池辺寺跡
須恵器・土師器
 
 330商品流通の時代
 331
平安時代頃から中国との貿易を中心とした海上交通が活発となり、国内でも輸入した銅銭の使用が広まって貨幣経済が発達していきました。
肥後でも港が栄え、中国から輸入した陶磁器や国内の焼き物などの大量の品物が行きかい、大変賑わいました。

商品流通の時代
博多から陸路持ち込まれたことになっている
 333磁器
青磁・白磁
鎌倉時代
二本木遺跡 井戸出土
 335埋納銭一括 室町時代
中国銭と備前焼壺
備前焼壺
南阿蘇村 河陽
 337礫石経 中世~江戸時代 熊本市戸上遺跡
 小石1点に1文字ないし数も自分の経典を書写した「経塚遺跡」。経典埋納供養の一形態で、一字一石経ともいう。
一遺跡に納められた経石は5~6満点が一般的で、10満点という経塚もある。場所は寺院や神社の境内などが主である。

 最古は13世紀前半とされ、礫石経の埋納は地鎮、鎮魂を目的とし、積善業、功徳業として「極楽往生」「五穀豊穣」「追善供養」「」逆修供養
などの様々な願意~、経典の呪力を期待して行われたと思われる。
礫石経
 

 340武士の台頭と、その社会

古代の律令体制が次第に崩壊する中で、荘園から武士が台頭してきます。
彼らは地縁と血縁に結ばれて大小の武士団を作り上げ、国内で勢力を延ばし、更に海外との交易も推し進めました。
やがて武士団による戦乱が広がる中で、人々は神仏に祈り、救いを求めました。
 341
茶臼山 隈本之絵図
 342
 肥後の武士団
平安時代以降、武力もって貴族に支えた「兵」「侍」などの一団は、やがて武士身分として確立していきます。
地方においても中央朝廷による支配のもと、各地の豪族は武士団化していきます。

九州では太宰府に使える府官系武士団と呼ばれる勢力が有力となりますが、肥後の菊池氏もその一つでした。
菊池氏は、菊池郡を中心に勢力を伸ばし、肥後を代表する武士団となります。

古代以来、阿蘇の神を祀る阿蘇氏も次第に武士団化し、阿蘇社の本社・末社関係を中心として、菊池氏と並ぶ勢力となりました。

肥後の武士団 肥後の武士団
平安末の九州武士団の分布


 菊池氏
菊池郡、合志郡、山鹿郡を本拠として菊地氏は、11世紀前半頃より有力な肥後国の武士団としてその名が見られるられるようになります。その影響力は肥後中央部から、球磨、天草にも及びました。
国衙や荘園関係を通じて鳥羽院と結びつきを強め、平安末期には、菊池氏が肥後国の一国棟梁的存在となるに至ります。

 九州南朝方の隆盛
南北朝期において菊池氏は一貫して南朝方として活動します。貞和4年(1348)に肥後へ入国した懐良親王(後醍醐天皇の皇子/征西大将軍)を菊池氏は迎え入れ、延文4・天正14 (1359)には菊池武光・懐良親王ら南朝勢が北朝勢の小弐頼尚を破りました。(筑後川の戦い)。
この勝利により南朝勢はよく翌年に大宰府を奪取、九州は10年余り南朝勢力下となりました。

菊池氏 九州南朝方の隆盛

 阿蘇氏
阿蘇氏は阿蘇の神を祀る国造阿蘇君の系譜を引く有力豪族で、11世紀後半より12世紀にかけて成立した阿蘇荘が活動の基盤となりました。
12世紀半ばには健軍社(けんぐんしゃ託麻郡)、郡浦社(こうりのうらしゃ宇土郡)、甲佐社(こうさしゃ益城郡)が、阿蘇社の末社となり、阿蘇氏の勢力圏は、阿蘇から飽田・託麻、宇土、八代と、肥後の国の東西に広がりました。

 南北朝と阿蘇氏
南北朝期において、阿蘇氏は一族内で北朝・南朝両方に分裂し、以後阿蘇家の内紛は戦国時代に至るまでもつれました。
左の文章は北朝に敵対して九州に下向してきた足利直冬と、これを迎えた河尻幸俊が阿蘇社へ捧げた願文です。
大宮司としての麻生氏の個性を示すとともに、各勢力が阿蘇氏の協力を期待していた様子が伺えます。

阿蘇氏


 相良氏
相良氏は、平安時代に遠江相良荘(現静岡県牧之原市)を本拠としたらことから「相良」を名乗りとしたもので、鎌倉時代に球磨郡多良木荘など、肥後国南部・北部へ移り住んできたといわれる武士の一族です。
14世紀以降、球磨郡の相良氏は一族間での激しい争いを経て郡内を統一し16代相良義滋、17代晴広、18代義陽の治世時には球磨、葦北、八代三郡の支配体制を充実させ、薩摩・大隅両国北部に影響及ぼす戦国領主として自立するにいたりました。

 一族内での争いと、戦国領主への道のり
南北朝期以来、相良氏は多良木の上相良と、人吉の下相良の対立が続いていましたが、やがて下相良一族の永富長続が人吉郡を統一します。その後、長続の三男為続とその子長毎、その養子晴広(実父は上村頼興)の三代が戦国領収相良氏の成立時代に当たります。

相良氏

 託麻原合戦図
熊本出身の画家甲斐青萍によって描かれた託麻原合戦の想像図です。
天授4・永和4(1378)年9月25日、九州探題今川了俊によって圧倒されつつあった菊池武朝、良成親王率いる南朝方は、菊池氏一族を中心とする少ない兵力で、了俊率いる大軍の北朝方と託麻原(現在の大江、安田窪本町、帯山一体)で戦いました。

南朝方は一時苦戦を強いられ、武朝、親王ともに負傷する激戦となりましたが、その後苦境を打開して、奇跡的な大勝利を収めました。
しかしとこの戦いが南朝方にとっては最後の勝利となりました。

託麻原合戦の図
 343様々な石造物

層塔(花畑公園、熊本市中央区)

石造供養塔の中では最も古く、飛鳥時代が初現とされ、五輪塔や宝篋印塔などの基になりました。
五重塔、七重塔など奇数に作られ、死者の菩提を弔い、祈願し、舎利、経典、仏像を対象に供養しました。
  五輪塔(厳島神社、熊本市北区)

上から宝珠、半月、三角、円、方の形を重ねて塔にし、密教で言う「万物は空・風・火・水・地の5要素で構成される」ことを表しました。
鎌倉時代以降、全国的に流行し、供養塔や墓塔として用いられました。
  板碑(池亀八幡宮、熊本市西区)

板状の石を用いた卒塔婆の一種の供養塔で、中世に最も多く作られました。
主尊は阿弥陀如来が多く、浄土往生を祈願した信仰の広がりを示しています。
戦国期以降になると急速に廃れます。
  宝塔(大慈禅寺、熊本市南区)

円筒形の塔身に、平面方形の笠の上に相輪を立てた一重の石塔です。
多宝如来のシンボル塔で、正式には多宝塔と呼ばれます。
木造塔から発達して平安時代から作られるようになりました。
  宝篋印塔(大慈禅寺、熊本市南区)

笠部四隅の飾突起や、階段状の笠石が特徴です。
「宝筐院陀羅尼経」を納めた供養塔で、過去・現在・未来にわたる諸仏の悟りと仏陀の遺骨の功徳を集めた篋(はこ)という意味です。鎌倉時代から多く作られました。

 344祈りのかたち
いつの時代も、人々の信仰を形に表した様々なものが作られてきました。
特に仏教の教義や信仰を後世の人々に伝えたいと言う願いを込めた、石造物は、長年の風にも耐えて守られてきたものが残っています。これらは、当時の人々の祈りの形を現在の私たちに伝えています。

 雙圓性海塔(そうえんしょうかいとう)
鎌倉時代、
出土地:円台寺

雙圓性海塔とは、大日真言の梵字を正字と鏡文字を組み合わせて彫り込んだものです。
多くは板碑に刻まれ、他に崖面に刻まれたものがあります。本塔は石造五輪塔では、全国唯一で大変貴重なものです。
円台寺は、中世寺院跡で、鎌倉時代初期の創建と伝わり、現在でも寺域内には、鎌倉時代初期の笠塔婆やまっすぐの道が残り当時の面影を伝えています。

祈りのかたち 雙圓性海塔 雙圓性海塔
鎌倉時代
 


 350近世


 350加藤清正
 351加藤清正肥後へ
豊臣秀吉による天下統一の後、肥後には佐々木成正が、領主として入りました。成正が肥後の国衆による反乱(国衆一揆)によって失脚すると、肥後には小西行長とともに若くして大名に大抜擢された加藤清正がやってきました。

清正は長らく争いの地となっていた肥後の復興と安定を目指します。
関ヶ原合戦の後、肥後一国の大名となった清正は、熊本城を完成させ、城下町の整備も行います。現在の熊本市にもつながる基礎が、この時に形づくられたのです。

 戦国武将加藤清正
加藤清正は、永禄5年(1562)、尾張国中村(愛知県名古屋市中村区)に生まれたと伝えられ、幼い頃から羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕えました。天正11年(1583)「賤ヶ岳の戦い」で、清正は功を立て、次第にその名が知られるようになります。

豊臣秀吉が天下を平定すると、天正14年(1586)、清正は27歳の若さで肥後半国19万石余りの大名に出世します。清正は肥後の領主となった後も、国内外の合戦などで多忙な日々を過ごしますが、一方で領国統治でもその手腕を発揮しました。

加藤清正、肥後へ
 353文禄・慶長の役と清正
文禄・慶長の役と清正
天正19年(1591)豊臣秀吉は「唐入り」 (中国・明への出兵)を正式に表明します。
先鋒に任じられた加藤清正は1万人を率いて出陣することとなりました。日本軍は当初破竹の勢いで進軍し、清正も朝鮮半島北部まで攻め入りました。しかし明からの援兵、朝鮮各地での抵抗激化により戦況は次第に膠着化します。(文禄の役)。

一度は和議を結ぶことになりましたが、交渉決裂により慶長2年(1597)に日本軍は再征します。(慶長の役)。
この戦いの中で清正は蔚山城籠城戦と言う危機を経験しました。7年に及んだ戦いは慶長3年(1598) 8月秀吉の死去により集結しました。

文禄・慶長の役と清正
蔚山城攻城図 明・朝鮮連合軍に包囲された蔚山城
文禄の役の加藤清正・小西行長軍の進路図
慶長の役の加藤清正・小西行長軍の進路図

 360庶民の英雄・清正公
熊本では、加藤清正は「せいしょこさん」と呼ばれ親しまれています。
清正の死後、その功績は、様々な物語や絵を通して庶民の間に広がりました。清正を神格化し信仰対象とした「清正公信仰」も、人々の間に浸透していきました。商売繁盛や病除け、武運長久、さらには芸事の上達まで様々な願いを「清正公」に託してたのです。

庶民の英雄 清正
 
 370成熟する肥後
徳川家康によって江戸幕府が開かれると国内は次第に安定し、江戸時代という長い大平の世が訪れます。清正亡き後、跡を継いだ加藤忠弘が改易され、肥後の大名は細川氏へと交代しました。以後、細川氏による治世のもと、肥後藩領内は成熟していきます。

大名 細川氏
細川氏は中世以来の有力な武家でしたが、近世細川氏の祖となった細川藤孝(幽斎)や、藤孝の息子、忠興(三斎)は、戦国武将としてだけではなく、華道・茶道に通じた一流の文化人としても知られています。

細川藤孝・忠興は、織田信長、豊臣秀吉らに仕えて武功を立てますが、関ヶ原の戦い以降は徳川方の大名として行動しました。
同戦での軍功により忠興は豊前小倉に39万石余を与えられます。
寛永9年(19632)、加藤氏改易を受けて、細川3代目の忠利が肥後熊本54万石を領するにいたりました。

以後、明治維新を迎えるまでの230年余り、個性豊かな細川家歴代当主の下で肥後は治められることになったのです。

大名細川氏


 熊本と刀 ―延寿と同田貫―
熊本を代表する刀の流派として、「延寿」と「同田貫」があります。延寿派は山城の国(現在の京都府)で活躍した来派の刀工・来国行の親族(孫あるいは婿力)とされる国村が肥後の国、菊池郡隈府(現在の熊本県菊池市隈府)に移住し、作刀を開始したことに始まると言われています。
その後、延寿派は菊池氏のお抱え刀工として活躍し、特に集団戦を想定した「菊池千本槍」の考案・生産が有名です。

菊池氏の滅亡後、延寿派は衰退しましたが、その分派として起こったのが同田貫派です。加藤清正の肥後を受け、熊本城常備刀としても用いられました。加藤家改易後は一時衰退しますが、その後、9代・正勝の代になって細川家に召し抱えられ再び多くの刀を生産しました。

大身槍名称
大身槍は穂先が大体30cm以上の槍のこと。茎部分は柄に入り、目釘穴に目釘を入れて固定します。柄を含めると全長2mを超えることもあります。一突きで相手に大きなダメージを与えることができ、殺傷能力の高い武器です。

熊本と刀
 
 380学問の広がり
8代目藩主細川重賢が進めた「宝暦の改革」によって、宝暦4年(1754)、熊本城二の丸に藩校時習館が開かれました。
時習館では儒学を中心に初等教育から高等教育まで行われ、敷地内には武芸所も併設されて、文武両道の教育が目がされました。
藩士たちは、もちろん、家老の承認があれば、軽輩、陪臣(藩士の家臣)、庶民の子弟でも、入学が許されたことから、身分を問わず多くの人々が学びました。

 
 390躍動する民衆
江戸時代を通して、しばしば一揆や打ちこわしが起きました。幕末になると、幕府や藩によって抑圧されていた民衆達がその体制の揺らぎに伴って、活発に活動するようになり、様々な文化が多様化し広がっていきました。

肥後の人々
熊本に入った細川氏は、豊前と豊後を治めていた時代から用いていた「手永制度」を熊本にも適用しました。
手永とは郡と村の中間に置かれた行政単位で、おおよそ一郡に数手永、一手永には20~30ヶ村ほどが集まっていました。
手永の数や規模は時代によって異なりますが、天保13年(1842)以降は藩内51手永と定まり、以後明治初期まで変わりません。
また領内の熊本、高瀬、高橋、川尻、八代の5つの町には、様々な経済特権が与えられ、「五ヶ町」として特別に扱われました。
江戸時代の熊本は、これらの「在方」(手長以下の村々」と「町方」におおよそ分かれていました。

肥後の芸能
肥後の芸能は江戸時代から脈々と受け継がれて、今日に至っています。人形浄瑠璃は、人形操と三味線、そして語りを組み合わせた人形芝居で、江戸時代末期熊本に流行したとされています。

一方肥後琵琶は延宝2年(1674)に肥後藩主の御前で、京都の春野派の岩船弾都検校が演奏した後も、当地に留まり、古浄瑠璃を盲人に伝えたのが始まりとされ、琵琶を弾じながら、経文などを唱える「ワタマシ」と呼ばれる宗教ものと、中央文化の影響を受けた物語や、九州地方の伝承を語る「クズレ」と呼ばれるものがあります。

ワタマシ
新築祝の時に土地の神へ祈りを込めて演奏されるものが「ワタマシ」です。
般若心経を琵琶の伴奏で唱えた上で日本の神仏へ祈願するものになります。山鹿良之氏(1901−1996)が演奏した、その1部を聴いていただきます。

躍動する民衆 肥後の人々 金製肥後国の行政区画
肥後藩における
民政機構
肥後の芸能 ワタマシ
 


 400近代

 400変わる熊本
慶応3年(1867)、15代将軍徳川慶喜による大政奉還、12月の王政復古の号令によって、新たに明治政府が誕生しました。
明治新政府のもと、日本国内では西洋の考えを取り入れた政治が急速に広がります。
熊本でも明治4年(1871)には古城医学校や熊本洋学校が設置され、西洋文化の受容が進みました。同年、廃藩置県が行われて
新たに熊本県が誕生し、明治6年(1873)に熊本鎮台が設置されると、熊本の町並みも次第に変わり始めました。

変わる熊本

 ラフカディオハーン(小泉八雲)と熊本
「怪談」で知られるラフカディオ・ハーン(1850−1904)はギリシャで生まれ、アイルランドで育ちました。明治24年(1891)第五高等中学校の英語教師として赴任し、熊本に関する多くの文学作品も残しました。『東の国から』に収録された「生と死の断片」では、地蔵祭りの様子、『日本雑録』の中の「橋の上」では、西南戦争の思い出を語る人力車の車夫について書いています。

ラフカディオハーン
(小泉八雲)と熊本

 410富国強兵と庶民のくらし
明治4年(1871)、熊本に九州防衛の要として鎮台が置かれました。
明治10年(1877)に起きた西南戦争の舞台となり、城下町の大部分が焼失しました。しかし、熊本の街は九州における商工業の中心地、
中央政府の出先機関のある官庁街、そして軍都として再び栄えていきました。

富国強兵と庶民の暮らし

 都市祭礼と近代
城下町熊本では、季節ごとに多くの神社で祭りが行われていました。しかし、政府による太陽暦の採用や神仏分離政策の実施、そして、西南戦争などにより、藤崎八幡宮や加藤神社のように境内地を移転したり、行事の内容を変えたりしたものもありました。祭には、多くの人々が集まり、それを目当てに露店や行商などが姿を見せました。その様子を表現した甲斐青泙の絵画には、覗きからくり、ぶん回し、十九文屋、街頭蓄音機屋、琵琶弾き、ランプ売りなどが描かれています。

都市祭礼と近代

 九州パノラマ館
西南戦争の後、明治20年代になると、熊本市の中心部には劇場や映画館などの娯楽施設が次々と建てられました。
明治27年(1894)には下追廻田畑町(現在の下通り商店街付近)に「九州パノラマ館」が開館しました。その会館時には、洋画家・矢田一嘯(1858−1913)とその弟子笠置次郎吉(生没年不詳)らが手掛けたとされる、西南戦争の戦場(田原坂・段山・日奈久)を描いた場面が公開されました。熊本博物館には、このうち田原坂と段山の2番目の下図が収蔵されています。

九州パノラマ館
 420現代に繋がる暮らし(生活民具)
 
 


 500熊本の地学



 500熊本の大地の生い立ち
熊本の大地の生い立ち
熊本5億年のタイムライン

 火山とは
火山とは火山活動によってできた地形や構造のことです。
マグマが地表で流れ出た「溶岩」の他にも、噴煙に含まれる「火山灰」や「噴石」、マグマに溶け込んでいる気体が噴出した「火山ガス」などがあります。噴石のうち「火山弾」などの大きなものは風向きにかかわらず、放物線を描いて飛び出ます。

熊本市にある身近な火山・金峰山
現在活動している活火山ではありませんが、金峰山やその周辺の山々は、火山活動によって形成された火山です。有明海を挟んだ対岸の雲仙普賢岳とも似た姿をしており、雲仙、金峰山、阿蘇、久住山、鶴見岳と九州を東西に横切る火山列をなしています。

カルデラ噴火
阿蘇のような直径10kmを超える巨大なカルデラを造る火山活動は、全方位に向けて大規模な火砕流を引き起こします。
火砕流は周辺に広大な台地を作り、火山灰は偏西風に乗って日本の広範囲に降り積もりました。

鬼界アカホヤ火山灰層
日本では巨大なカルデラを作る火山活動が1万年に1度程度起きていると考えられています。
九州にはこのような大規模な火山活動でできたカルデラが阿蘇から南側に向かって南北方向に並んでいくつも存在しています。
最も新しいものは薩摩硫黄島近海にある鬼界カルデラで7300年前の噴火によるものです。

火山とは 熊本市にある身近な火山・金峰山
カルデラ噴火
鬼界アカホヤ火山灰層
噴出物

 510阿蘇カルデラの生い立ち
 515
阿蘇カルデラの生い立ち
阿蘇カルデラはAso-1~Aso-4と呼ばれる4度の巨大火砕流噴火によって形成されました。
4度目の火砕流噴火は最も規模が大きく、火砕流は九州の広い範囲を埋め尽くし海を越え、遠くは本州の西端まで達しました。その後のカルデラ内には、湖や中央火口丘群と呼ばれる小さな火山がいくつも誕生しました。

火山灰ってヨナだよな
阿蘇火山は今も活発に活動しており、時々噴火しては黒っぽい火山灰をたくさん吹き出します。火山灰は、畑の土や水などの生活に必要なものにも大きく関わっていて、阿蘇を中心に熊本ではこれらを昔から「ヨナ」と呼んでいます。

阿蘇カルデラの生い立ち

27万年前より以前の阿蘇
カルデラ噴火以前、阿蘇地域には複数の火山が連なっていたようです。これらの山々は、主に安山岩や流紋岩からなり、それぞれの山の火口は、現在のカルデラ縁の近く、もしくはそのやや内側にあったようです。
 27~9万年前の阿蘇 27万年前から9万年前にかけて大規模な火砕流を伴うカルデラ噴火が4回発生しました。大量のマグマを放出するたびにマグマだまりの上部が崩れ落ち、噴火を重ねて、次第に巨大なカルデラが形成されていきました。
9万年前以後の阿蘇 カルデラが形成されると窪地に水が溜まり湖が出現しました。阿蘇地域には、この頃の湖の堆積物や植物、化石が見られます。
カルデラ形成後も続く火山活動や地震によって、外輪山の一部が崩壊することで、湖は消滅や出現を繰り返しました。
現在の阿蘇 カルデラ形成後もマグマは供給され続け、カルデラの中央部に中央火口丘群と呼ばれる火山を形成しました。
根子岳以外の阿蘇五岳(中岳、高岳、杵島岳、烏帽子岳)の山々も、この新しい時代の火山で、このうち中岳は現在も活発に火山活動を繰り返しています。


 
 520火山と渡来動物
 521活発になる火山活動
新生代中期には日本と大陸の間で火山活動が活発になりました。
この頃、日本は大陸の東縁から切り離されて、日本列島となりました。
天草地方では、この頃のマグマの名残が、陶石や砥石、建築石材として利用されています。
火山は恐ろしい災害を引き起こすだけでなく、人々に恵ももたらしています。

 リソイダイト
リソイダイトはマグマが通り道の中で冷え固まった流紋岩の岩脈に熱水が触れることで変化してできた岩石です。
このうち白色のものは「やきもの」の原料の天草陶石として、木目のような縞模様が見えるものは、木目石と言う建築石材や砥石として利用されています。

活発になる火山活動 リソイダイト

 523大陸から渡ってきた動物
新生代後期になると、寒冷な氷期と温暖な間氷期を周期的に繰り返すようになりました。日本列島が大陸から離れた後も氷期には、海水面が下がり、対馬海峡やサハリン付近が陸続きになると、そのたびに大陸から動物が日本にやってきました。間氷期になって、海水面が上がり、大陸と陸続きでなくなると、日本列島で独自の進化が始まりました。

有明海海底から見つかる化石
有明海では、時折海底からゾウやシカなどの陸上動物の化石が網にかかって引き上げられることがあります。
このことはかつて海水面が低かった時代に有明海がゾウやシカが暮らす陸地であったことを示しています。

保存される動物の骨
日本の土壌のほとんどは、酸性を示し、動物の骨や歯を溶かしてしまいます。しかし、石灰岩やドロマイトの岩盤にできた割れ目や鍾乳洞にたまるアルカリ性の堆積物の中では、骨などが保存されやすいと言う特徴があります。このような場所の堆積物からは、様々な年代の骨が混在して発見されることもあります。

ゾウ
現在日本に野生のゾウはいませんが、過去にはステゴドンの仲間やナウマンゾウ、マンモスなど、様々なゾウが生息していました。
南の暖かい地域に生きていたナウマンゾウは、対馬海峡から九州、そして本州へ渡り、北の寒い地域に住むマンモスは、サハリンから北海道に渡っていたと考えられています。


 525新生代
 金峰山の成り立ち
金峰山周辺の西山地域の山々は、大きく分けて3つの時期の火山活動によって形作られました。
最初の時期の活動で、現在の一ノ岳の周囲を囲む古い山々が形成されたのち、北西側に向かって崩れて、U字型のカルデラ地形になりました。

次に崩壊部分を埋めるように二ノ岳(熊ノ岳)、三ノ岳が噴火し、これらの山々に囲まれたカルデラの内側には水が溜まり、湖となりました。
その後、湖は消失し、カルデラの中央部で噴火が起き、一ノ岳(金峰山)が生まれました。

 金峰山の岩石
金峰山周辺の西山地域の山々の岩石はそれぞれ性質が異なります。
周囲を囲む、古い山々の岩石は、様々な火山岩で構成され、二ノ岳、三ノ岳は主に安山岩からになります。
一ノ岳はデイサイトと言う粘り気の強いマグマが固まった岩石からになり、こんもりとした溶岩ドームを形作っています。


芳野層
二ノ岳、三ノ岳の誕生により、外輪山の切れ目が塞がったため、雨水が溜まって西山地域に大きな湖が現れました。
芳野層はその湖底に堆積した地層です。穏やかに堆積が進む湖底では、木の葉や昆虫のような壊れやすい生物の化石も残ります。
また、花粉や珪藻などの微化石も連続して見つかるので、過去の環境を知るための手がかりとなります。

津森層
熊本市の東隣の上益城郡益城町には、芳野層と近い時代に堆積した地層である津森層が分布しています。
この地層からは、木の葉や昆虫の化石に加え、ヒシの実の化石も見つかります。芳野層と共に当時の環境や、生物分布の広がりを知る手がかりとなります。

金峰山の成り立ち 金峰山の成り立ち
金峰山の岩石
古期噴出物 第四紀更新世中期
中期噴出物 第四紀更新世中期
新期噴出物 第四紀更新世後期
芳野層、津森層


 巨大カルデラをつくった阿蘇の火山活動
南北25km、東西18kmに達する阿蘇の巨大カルデラは27万年ほど前から始まった4度のカルデラ噴火によって形成されました。そのカルデラ噴火は、時代の古い順に「Aso-1」~「Aso-4」と呼ばれます。4度目の噴火が最も規模が大きく火砕流は九州の広い範囲を埋め尽くし海を超え、遠くは現在の山口県まで達しました。

 溶結凝灰岩
大規模な火砕流などにより、噴出したばかりの高温の火山灰や軽石が大量に降り積もると自身の持つ熱により、再び溶けくっつき、溶結凝灰岩と言う岩石が作られます。通常の凝灰岩に比べて溶結凝灰岩は固く、軽石が溶けて潰されてできた平たい黒曜石を含むこともあります。

巨大カルデラをつくった阿蘇の火山活動 阿蘇火砕流堆積物の分布
溶結凝灰岩 阿蘇溶結凝灰岩
第四紀更新世
阿蘇-1火砕流堆積物
阿蘇-2火砕流堆積物

阿蘇-3火砕流堆積物
阿蘇-4火砕流堆積物
 
 530熊本平野が海だった頃

熊本平野が海に覆われていた時代
縄文時代に入り、気候が温暖化すると、大陸の氷河が溶けて海水面が上昇しました。熊本では、海水面が数メートル高かったと考えられており、現在の熊本平野の地下堆積物からは、この頃の海に生きていた貝類の殻が見つかっています。これらは貝塚の貝殻と違い、自然に堆積したものです。

縄文時代の海進に伴う貝化石
熊本平野の地下からはハマグリやアサリ、カガミガイのような内湾の砂底に生息する貝類や、オキシジミやハイガイのような干潟に生息する貝類の殻が見つかっていて、縄文時代のある時期、熊本平野が内湾の干潟であったことがわかります。

縄文海進に伴う貝化石 縄文海進期の地層と
貝塚の分布
内湾における貝類の生息環境と群集区分           


 熊本の地形と地質の特徴
熊本県の地形は地質は北部と南部で様子が異なります。
北部は阿蘇火山の噴出物に広く覆われており、それ以前の時代の岩石や地層は所々に孤立して存在します。
南部は海岸近くまで山地が迫る天草諸島や 1000m級の山々が連なる九州山地など、長い年月を経て、隆起した地層が複雑な地形をなしています。
熊本平野は、これら南北の山地から流れる河川によって形作られています。

熊本の地形と地層の特徴
 535熊本の地形・地層
熊本の地形・地層 スランプ層 溶岩ドーム 火砕流台地
河岸段丘
溶岩台地
横ずれ断層 柱状節理
スコリア丘 正断層・逆断層
カルデラ
タービダイト
砂岩泥岩交互層
岩脈
 
 540熊本地震
 541発生
熊本地震
地震の起こる仕組み
熊本の活断層
熊本地震の震度分布
 543メカニズム
活断層
プレートのずれ 熊本の活断層
 545地盤災害
地震によるさまざまな
地盤災害
家屋倒壊
液状化
液状化の仕組み 斜面の崩壊 平成28年4月10日
 
 550動植物