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 縄文を旅する3  北の縄文  北東北〜南北海道01  2013.10.02(水)


  宮城県立東北歴史博物館 宮城県多賀城市高崎1-22-1

設立目的
    宮城・東北の歴史・文化を学び、世界. に発信することを目的とした
坂上田村麻呂多賀城遺跡に関する保存展示を目的とした博物館です。

交通  仙台駅から東北本線「国府多賀城駅」下車。駅の前が博物館。列車本数多数
     
  見所  東アジアの旧石器人の移動痕跡 旧石器遺跡分布図と日本との関係 旧石器時代の装身具 壁のある竪穴住居

 





00外観 東北歴史博物館

01旧石器時代

04縄文時代
05縄文の暮らし
07食べ物と道具
06暮らしの道具
08祭祀と装飾

 
15弥生時代と古墳時代
17奈良時代

20ワラの神々
 


 00外観 東北歴史博物館  ずーっと国立だと思っていました。(笑)
下車駅すぐは裏口。今、知りました。仕方なく市の観光HPから写真拝借 こんな大庄屋の邸宅が併設展示。 建物デザインには分厚いガラスがモチーフとなり各所で多用。 打ちっぱなしコンクリートとガラスの組み合わせは他に類を見ない意匠 いい感じでしょう。 展示場入口です主展示はここから左端までの中ですから狭い



 01旧石器時代 -最古の人間を求めて-   旧石器時代の展示が随分充実しています。



かっこいい入口です今回の旅の最初の博物館です。ワクワク
東アジアの
前・中期旧石器遺跡
分布図@
旧石器時代
前期 200〜10万年
中期 10〜3.5万年前
後期 3.5〜1.2万年前
A上半分の拡大図この図は初見です。旧石器遺跡の少ない日本ではあまりこれを論ずる博物館はないからですね。

中国南部〜半島にかけての前・中期旧石器遺跡は野尻湖人の通って来た経路のようだ
B下半分の拡大図野尻湖東北地方に残る旧人の遺跡は稀有のものです。 北京原人の想像図 北京原人の遺物北京原人は40体ほど出土しているそうだ。

石器の出土が重要な点
通常は骨器です。
日本の旧石器人痕跡
旧石器時代
後期旧石器時代の環境と生活
東北各地の石器
後期旧石器時代の石材産地と5大文化圏 後期旧石器時代の石器これらは、珪質頁岩を使った石器 左端は北海道遠軽産黒曜石。他は珪質頁岩

その他に、サヌカイト製の石器があります
野牛の骨製の骨角器
岩手県出土2万年前
野尻湖出土の骨角器
4万年前
アクセサリーの出土
すみません見えません
各種道具の使い方珍しい展示です 装身具
左:中国 右:北海道旧石器時代のアクセサリーは珍しい
旧石器時代の食糧
オオツノシカ
ナウマンゾウ
ヤギュウ
食料となった動物
食料となった植物サルが食べるようなものを食べていたんですね。危険腸が詰まるかも。 仙台市富沢で発見
2万年前の野営跡
富沢遺跡の説明地底の森ミュージアム仙台市富沢遺跡保存館旧石器人の痕跡と古代の森の展示館です 地下五メートルに展開する広大な古代の森の化石が展示されています。撮影可です。が、当然、何も映りません。(笑) 展示物は少ないようですが、富山の埋没林と共に貴重な展示ですね。

 交通手段は
仙台駅西口から地下鉄南北線で南へ。長町駅下車すぐです。


 04縄文時代 -ナラ林と水辺でのくらし-  縄文時代のムラ、家、家族のくらし
東北地方 縄文の住居

ナラ林と水辺でのくらし復元住居は各館、各地方で微妙に違いがあり、発掘する際のデータに依るようです。
八戸市 風張遺跡の村合掌土偶の出た遺跡ですね 縄文の家庭の再現リアリティ溢れる設定による再現です 木の実集め貯蔵穴は深さ直径共に2m余が多数あり、それを充填するのは大変な作業です。 狩猟の準備膝に鹿皮を広げ、鹿角と黒曜石を持ち、石器を製作している様子。
縄文の家屋屋根の下に壁があり、軒のある珍しい形。風張遺跡の特徴かな。 調理の様子縄文クッキーをこねて木製皿に盛ってきた。これを熱灰(あつばい)に埋めて焼く 秋の夕暮れの設定栃の実と、洗って軽く一日干したキノコがある。保存もし、今夜の食事にも使う。 炉の周囲で魚をあぶっている。保存食にもなる。炉に薪が入れすぎである。(笑)現代の若者が再現したようだ。 鹿角や土器、狩猟具やカゴがあり、床には、敷き革やカヤを編んだゴザが敷いてある。


 05縄文の暮らし -貝塚を通して見えるもの-

イノシシの仔の墓貝塚に霊送りするのは愛玩用か。↑→。彼らは猪を各地に放し、食料増産を図った。 犬の墓 縄文犬とイノシシ 仙台湾付近の食糧資源海山川共に豊かで豊富な食料を提供していたことがわかる。 貝塚の分布図宮城県は縄文海進のため内陸まで入り込んだ海が好条件で大変豊かだった。
東北地方の貝塚分布 多島海の松島湾仙台湾など太平洋側に集中した豊饒の海。膨大な貝塚遺跡は人口密集地でもある。 土を掛けながら使った貝塚のようだ これは、素晴らしい復元方法です。よくわかります。
初めてみました。
狩猟もたまにはおこなったようだ。が、獣骨の出土量が少ないかな。 定住と人口増加で獲物が減少し、猟場が遠くに離れたのかな。 マグロまで仕留めた漁具
漁具の種類
回転式離頭銛
北方系漁具で北海道では普通にこれです
野獣の急所を正確に攻撃
高速遊泳のマグロを丸木舟で仕留めるにはかなり沖に出て泳がせ釣りで掛った獲物を長時間引いて最後に刺した
漁具 左図の左下、挟み込み型鮭用ヤスは現在エスキモーが使っているものと同じ。 漁具に必要な微妙な加工にはやはり、骨角器の独断場。 回転式離頭銛や鮭用ヤスなど北方民族の使用する漁具が多い。
彼らの出自は北方民族だったのか。
朝鮮半島式組み合わせ式釣針がない。日本海経由で伝わらなかったのか。
 

 07食べ物と道具

槍を持って動物を追う絵を見る事がある。今も昔もそんな猟はあり得ない。猟とは待ち伏せて正面から一撃必殺なのだ。 魚とりの道具超堅い鹿角を釣針や銛、ヤスに加工するのは並大抵ではない。とても器用でよく熟練していたのでしょう。 獲物を取り逃がすと大事な矢尻や槍先を失う。皆で獲物を追い、狩猟具を取り返し、獲物が息絶えるまで走り続ける ⇒右の鮭とりの絵で、網や素手を使うのは間違いです。この時に鮭用ヤス(挟み込み式ヤス)を使う。現在もエスキモーがしている漁です。

 06暮らしの道具
暮らしの道具
あく抜き
縄文の道具木の実は湿気を吸うと春に発芽し食用不可。根菜類も同じ。これを土孔でどうやって通年保存する 食用植物保存技術もかなり豊富な経験と、高い技術を持っていたようだ。 木製皿・木製コップなど 細かく見ると縄文人の生活の知恵はとても深い。 巧みな自然の利用と豊富な経験がなければとても生きていけなかった


 08祭祀と装飾
    縄文ファンが最も期待する出土物です。 この館では東北各地の超有名なものばかり並んでいます。
    土偶や面に唇がギザギザになったものがある。これはデザインではなく、通過儀礼で抜歯や顔への入れ墨同様
    そのように傷つけたのではないかと考えるのですが、いかがでしょう。

    土偶にはかなり写実的に事実を映している部分があり、メイクや入れ墨も表現されているのではないか。
    石錐はなぜあんなに多量に出土する。入れ墨にも使えるものだから。とおもうのです。

  遮光器土偶
    津軽半島つがる市木造町の亀ヶ岡遺跡付近から出土した。江戸時代に乱掘され、全国に一万個以上売られたそうだ
    従って、この付近の博物館などに行っても、既にお金に代わっているのでもう、何もない。行く価値なしだそうだ。

 
まつり 土偶この通説本当ですか。
これから見て回るのですが、私には信じられない。戦士の土偶もあるのでは
遮光器土偶は津軽発です。江戸期から盗掘され全国に売られた
←貝塚出土の有名な土偶です。
石棒や石刀は細くきれいな形をしています。
青龍刀形石・骨製品は青銅製の現物を見ていなければ作れないような形。大陸渡来人か。
仮面みたいだけど、体長1m程の巨大土偶です
亀ヶ岡の影響ありか

同類面は全国に4点有

唇は通過儀礼で刻む?

珍しいですね
目的不明の板ですが模様が素晴らしい
狩猟文土器と猪と人面獣
←動物形土笛と手形足型土板
土器の模様も素晴らしいが、猪はよく太って、人面擬人化の犬もいい 漆技術是川中居遺跡の漆製品は縄文晩期です。 縄文の漆芸品漆塗りの太刀形木製品と大弓。現物写真は1/2 意味もなく写真を拡大してみました。
狩猟用ではなく儀式や権威の象徴としての大弓ですね。

太刀=太刀形木製品。
日本刀のような反りがあるので太刀と名付けられたが太刀ではない。
金属製刀剣は奈良時代まで直刀です。木に反りを付ける意味がない
縄文人は木の匠。加工塗装時には真っ直ぐだったが、水の中で二千年経ると変形し曲がったのではないか 籃胎漆器や漆塗り土器など高い漆技術です。

各地で漆工芸品が作られ始めるのは縄文後期晩期です
葬送儀礼縄文社会は平等。は間違い。明確な身分差、階級差があった。 大湯環状列石巨大な共同墓地と
日時計型石組
配石遺構庶民は土壙墓(只の穴)。貴族は配石遺構(立派な墓)に埋葬。
土壙墓貝塚に埋葬で骨残る 装身具装身具は階級や権力、また、財力を表すもの。 いつの世も、上等な物や、美しい物は権力者が所有し見せつけるのだ 縄文時代にも上流階級があり、集団を率いていたのです。 各種アクセサリー腰飾りだけは現代にない物。何に使うのか。 私はクソペラではないかとずっと思ってます(笑)

 15弥生時代と古墳時代  
弥生時代弥生土器だが、九州の物より、少々不細工です。 紡錘車と農耕道具が増えた。杵は月の兎式。
私には、かなり縄文の匂いがするのですが。
 16
古墳時代埴輪らしく作られた大型土器。
ただ、顔が、丸顔で
おめめパッチリ
縄文顔か?
この埴輪もなんか変です 面長一重まぶたで能面のような支配者弥生人でなく、丸顔の縄文顔 大珠から銅鏡へステータスが変わった。


     ここから先は私にはまったくわからない領域です。  






 17奈良時代 坂上田村麻呂多賀城の時代
 (710-794)      大和政権が突如東北攻略に乗り出した。何があったんだろう。

    2300年前、縄文人は食糧難で絶滅にひんし、渡来半島人に武力支配をうけ奴隷となり、東北支配者は半島人となった。
    東北弥生人(=半島人=東北の支配者)はやがて次の中央の支配者、古墳文化も受け入れ、各所に古墳も造営し帰順した。

    ところがある日、その従順な東北古墳文化人(支配者は半島人)をエミシ(蝦夷=蛮族)と呼んで攻撃し支配しようとする。

    突然、大和半島人が東北半島人を蛮族と言い出し、攻撃する。これってなんだ?

    大和中央が古墳文化人とは別の半島人集団が権力を握り、東北地方は反対勢力に回り、敵に転落したに相違ない。
    東北には、弥生人(半島人)。縄文人。第一次大和政権の敗北逃亡者(半島人)と少数民族がいた。
    エミシ蛮族とは、どの集団のことを言っているのだろうか。やはり、東北の支配者(=古墳文化人=半島人)を指しているだろう。

    エミシ(蛮族)ってなんだ? 半島人は異民族や中央政府に帰順しないものをいう。それは誰だ。

    ※アイヌ人は鎌倉時代からで無関係。蝦夷と書いてエミシや後にエゾと呼びまた、北海道を指したり、混同しやすい。
    ※エミシ=蛮族を土着民族と捉えるのはおかしい。当時半島も中国人の中華思想を真似て周辺人を蛮族とよんでいた。
     土着民(縄文人)だけの独立した集団が農業技術を獲得し、鉄の加工と武器製造をマスターするはずがない。


  城柵ってなんだ
    @奈良政府軍の砦や一部の土地を囲ったものなのか、
    A秋田〜仙台に及ぶ長大な柵なのか。もしそうだとしたら、ベルリンの壁とか、イスラエルの壁とかみたいだが
     ネット上では、どこ見ても実態がわからない。

  東北地方の古代史  大和中央の政治史は学校で学んだが、東北地方で何が起こっていたかは殆ど知らない。

奈良時代の東北東北人しか知らない古代の東北。せいぜい田村麻呂くらいまでが一般知識 城柵本当に砦や柵を作った。万里の長城を知っている者の講じた策ですか。
秋田〜宮城に渡る長大な木柵と砦。後に城

エミシを民族や集団の名前と誤解しアイヌと混同してきた。それは違う
万里の長城をまねて意味があったのか。北に対する過剰な恐怖心。
東北支配の半島人と大和支配の半島人の対立とはなんだ 古代史最大の事件
多賀城秋田城を基点にした東北経営
国府としての建築様式

もしかしてだけど
もしかしてだけど
奈良政権は中国人?
三足烏のシンボルは高句麗人
当時の国府も郡役所も駅も広大で豪華だった
庶民は掘立小屋居住

東北攻略の歴史

これって弥生人のこと?

 東北地方攻略は、未支配の土地があるから行うだけで、意味のあまりない戦闘でしょうね。
 招集兵士は食料自前ですから食うことが大変戦争どころの話かと。
エミシの正体が見える 朝鮮の刀剣や武器を持った半島人が、攻撃する。 歴史学者がエミシを民族の名前ように捉えて教育してきたのでは?

古墳時代までは大和政権に服従した人々。
アイヌと混同したのは彼らだろう?
中世の東北金や銅鉄の生産が盛んか 馬の生産広大な馬の放牧地となった。これにはモンゴルからやって来た人々が従事したのか


 20ワラの神々
        「なまはげ」に代表される来訪神は東北地方の代表的な行事である。

        年神 歳の神 賽の神 サイの神 来訪神 は小正月の行事とされ、、
        本居宣長の定義し、柳田國男の論じた、神道の神 という定説である。
        小正月の神。豊作の神。弥生の神。と、言われている。

        近年、東北の祭祀が縄文時代からある貝の道、日本海側ルートを通じて南に辿り、能登半島、南九州、沖縄へと続く。
        そして、その道はさらにもっと南に、太平洋まで続くことがわかり、新たな解釈が加えられている。

訪れてくる神々の説明
本州地域の分布図 日本海側秋田のヤマハゲ 太平洋側岩手のアマハゲ