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 兵庫の縄文1     2020.06.18

 兵庫県立考古博物館 常設展
 兵庫県加古郡播磨町大中1丁目1−1
    079-437-5589月休

交通 JR土山駅徒歩15分
館南に大中遺跡公園駐車場
館東に野添であい公園駐車場
付近の施設 播磨町郷土資料館(考古)
石の宝殿(飛鳥時代の皇族用石棺を
作った竜山石の石切り場)

   この博物館のディスプレイは他の館では見ない興味深いものです。

ナウマン像狩り

縄文の狩人
鳥居

石室の上には埴輪
 
 要注意駐車場
・博物館の駐車場はわかりにくい。館南の大中遺跡公園駐車場を利用します。
 兵庫県加古郡播磨町大中1丁目1ですが博物館全体の敷地の番地ですから兵庫県加古郡播磨町大中1丁目10が近いかと思います。

・駐車料金はかなり頻繁に値上がりする。2020年4月(コロナで閉館中に)300円に値上げ。出庫時に支払いだが、300円入れても出られない。
もう100円要求される。いつも必ずコインをもう一枚余分に取られる。
そこで、最初に、赤い取り消しボタンを押してからお金を投入するとこのあくどい設定を破ることが出来ます。
車の入庫数と料金が掛け算で分かるシステムなので、それ以上の収入を得るためのように見える仕掛けがずっと以前2013年から続く。要注意
 
 目次

00外観
800エントランス展示
   ときのギャラリー

01常設展入口

100 人は歴史の主役
110「人」私たちの由来
120昔の兵庫人
 縄文時代
121貝塚で見つかった縄文人
 縄文時代マメ知識
 日笠山人骨詳細
 弥生時代
123子供と一緒の弥生女性
 弥生時代マメ知識
 玉津田中遺跡人骨詳細 女性
 古墳時代
124顔を赤く塗った女性リーダー
 古墳時代マメ知識
 向山2号墳石室
125一つの棺に葬られた3人
 坪井遺跡 3号人骨詳細
126骨からわかること
 2号人骨
 1号人骨

130明石人の謎
140私たちの来た道
141較べてみよう昔の人と背比べ
143私たちは新人

200「環境」自然とともに
210狩りの道具の変化 
 1万2千年前の狩猟道具
 2万年前の狩猟道具
2153万年前旧石器時代
220自然に挑む狩人達
221ナウマンゾウを狩る

 縄文時代
230森と海に生きるナチュラリスト
231 3500年前の縄文ムラ
233佃遺跡 森のめぐみ
236植物食糧
241佃遺跡の縄文土器
245祭祀具
251海のめぐみ 佃遺跡

 弥生時代
260大地を開く人々
261鳥形木製品
262お米づくりのはじまり
263石斧
264 2100年前の弥生ムラ
265祈りの人 シャーマン
266お祭りの土器
271田畑のめぐみ
273祭りの道具
275銅鐸
276絵画土器
277武器型祭器
278分銅形土製品
280弥生の木工ムラ
290鉄がやって来た


300「社会」国の成り立ち
301争う人々
310弥生時代の武器
311石の武器
313金属の武器
315盾
317鉄の冑320古墳時代の武器
330ムラからクニへ
332戦いのための砦

考察 海岸沿いの高地性集落
 仲哀天皇による瀬戸内海の平定
 神功皇后の三韓攻めと政権の奪取

333砦の出土品
335弥生王墓出現
336邪馬台国登場

考察 邪馬台国論争

336a播磨に集まる人とモノ
337邪馬台国の交流点

 古墳時代
338古墳時代の始まり

考察 初期小型前方後円墳の広がり

340王権のシンボル
350王が葬られた部屋
351復元石室全景

考察 雲部車塚古墳の性格
352王に供えられたもの
353長持形石棺
355雲部車塚古墳を探る
360副葬武具
371兵庫の大型古墳
372埴輪
373急増する古墳
375装う人々
376土器が語る男の物語
377装飾器台

400古代
410国家の成立
420全ての道は都に通ず
421布施駅家
423古代山陽道
430丹波国氷上郡役所巡り
431役所の仕事
460古代の呪い

500「交流」みち・であい
510特産品のはるかな旅
511家形石棺の復元
514交流を語るモノたち

600大陸を目指した古代船
602準構造線の復元
604出土した船
605アメノヒボコの伝説
606半島交易
630兵庫ブランドの誕生
632焼き物の里
660瓦
670にぎわう町と港
671港に集まる人とモノ
675兵庫津遺跡から
 出土した各地の焼き物

700世界とつながる交流の輪

 
 

 00外観
 
 


 800エントランス展示 ときのギャラリー
 縄文時代から江戸時代まで、3500年にわたる時の流れを、変りゆく土器の「かたち」で感じてください。

 801
全景
正面入り口にずらりと並んだ各時代の土器
土器が語る
兵庫の歴史
展示土器の解説
 802
縄文・弥生・古墳時代 古墳・飛鳥・奈良時代 奈良ろ平安・鎌倉時代 鎌倉・室町・江戸時代 鎌倉・室町・江戸時代
 
 804
縄文・弥生時代 弥生時代 弥生・古墳(最後尾)
古墳時代 古墳・飛鳥(最後尾) 飛鳥・奈良(最後尾)
奈良(最前列)・平安 平安時代 鎌倉(最前列)・室町 室町・江戸(最後尾) 江戸時代
 806
弥生土器 壺
弥生前期

地面に穴を掘り、据えられた状態で見つかりました。
美乃利遺跡(加古川市)
弥生土器 壺
弥生中期

川の中から見つかりました。
玉津田中遺跡(神戸市)
弥生土器 壺(土器棺)
弥生終末期
梅田東13号墳(朝来市)
土師器 壺(土器棺)
古墳前期
半坂峠南尾根支群1号墳(豊岡市)
須恵器 甕
古墳後期
墓地に置かれていた
笹田古墳(たつの市)
須恵器 甕
飛鳥時代
溝の中でたくさんの石で打ち割られて検出
日下部遺跡(神戸市)
須恵器 甕
奈良時代

川の中から見つかりました
亀田遺跡(太子町)
須恵器 甕
奈良時代
役所を囲む塀の中から見つかりました
山垣遺跡(丹波市)
須恵器 甕
奈良時代
川の中から見つかりました
七日市遺跡(丹波市)
須恵器 甕
奈良時代

川の中から見つかりました
市辺遺跡(丹波市)
須恵器 甕(土器棺)
鎌倉時代
新宮山中世墓(養父市)
備前焼
鎌倉時代

溝の中から見つかりました
兵庫津遺跡(神戸市)
備前焼 甕
室町時代

穴の中から検出
福田片岡遺跡
たつの市
丹波焼
室町時代
山城で貯蔵に使用
中尾城跡(三田市)
丹波焼 甕
江戸時代

肥溜め
伊丹郷町・有岡城跡
伊丹市
     
 


  01常設展入口


テーマ展示室  この博物館の展示には、とても面白いものが多く、私など、今回の編集で初めてそれに気づきました。
 ぜひ他の館では行わないディスプレイを楽しんでください。
 

 100 人は歴史の主役
私たちの足元に埋まっている遺跡は、人が主役として歩んできた長い歴史の道のりを今に伝えています。
「人」「環境」「社会」「交流」の4つのテーマを通じて、"ひょうご"のむかしの謎を解き、過去と未来をつなぐ旅へと出かけましょう。
 101

 テーマ展示
1.「人」私たちの由来
2.「環境」自然とともに
3.「社会」国のなりたち
4.「交流」みち・であい
 

 110「人」私たちの由来

 むかしの“ひょうご”にはどんな人たちが暮らしていたのだろう?いまだナゾにつつまれた「明石人骨」など、県内各地の遺跡で見つかった人骨から、
 むかしの人の姿を復元します。自分たちの姿と見比べながら、祖先はどこからきたのか、私たちの由来に思いをはせてください。
引用「展示と活動」
 111
遺跡から見つかったむかしの人の骨から、
この"ひょうご"で生き、くらした私たちの祖先の
姿を解き明かします。
 
 120昔の兵庫人
   私たちの祖先がどんな暮らしをしていたのかな? 発掘された人骨が教えてくれる。
 



 縄文時代



 121貝塚で見つかった縄文人

貝塚で見つかった縄文人
高砂市の日笠貝山塚で見つかった縄文晩期約2800年前の縄文人です

貝塚に穴を掘り、腰と膝をぐっと折り曲げた姿(屈葬)で葬られていた
骨からわかること
こんな人だった
・眉の上が出っ張っている(彫りの深い顔)
・丈夫なあご
・犬歯を抜いている
・発達した筋肉・太い骨
・手足の先が長い
・身長約158cm(骨の長さからわかる)
・年齢30歳くらい
  (歯の磨り減り具合からわかる)

※縄文晩期になっても屈葬だった。
他地域の伸展葬などは採り入れず、1万年間埋葬儀礼を変えなかった。抱き石は見えない。

 縄文時代マメ知識
  変化が少なかった縄文人
  縄文人は1万年という長い間、顔つきや体つきはあまり変化しませんでした。地域的なさもほとんどありませんでした。
  縄文時代は、1万3000~2500年前まで約1万年間続いた
  日笠山貝塚の縄文人は約2800年前

縄文時代マメ知識 日笠山貝塚人骨墓壙
埋葬状況
縄文人 縄文晩期
日笠山貝塚 高砂市

 日笠山人骨詳細 男性
名 称:日笠山貝塚出土人骨 ジョー
出土地:兵庫県高砂市曽根町 日笠山貝塚
時 代:縄文時代晩期
 上顎切歯シャベル状。犬歯抜歯。あごは丈夫。咬筋が発達。  顔面が壊れている。歯が良く磨り減っている。大腿骨は太くて筋肉の付が良い。
 屈葬で埋葬
年齢:30歳前後
性別:男性
身長:約158cm

縄文人の頭骨
日笠山貝塚人骨
屈葬の上面視 頭骨側面視
 

 弥生時代

 123子供と一緒の弥生女性
子供と一緒の弥生女性
神戸市玉津田中遺跡で見つかった約2100年前の弥生人です

膝を少し曲げた姿で木の棺に納められ、埋められていた。

隣には子供の小さな棺がありました。親子でしょうか。
骨からわかる
こんな人だった
・きゃしゃなからだ
・大人の女性

骨の残りが良くないので、顔つきや年齢、身長は正確にはわかりません。

 弥生時代マメ知識
  
弥生時代マメ知識 米作りの技術が伝わった
  朝鮮半島から来た渡来人は米作りを伝え、縄文人と交わりました。 
  米作りが始まり、生活が変化すると、縄文人が弥生人になりました。
  
  沢山の渡来人が北部九州に渡って来た!  米作りを縄文人に伝えた!渡来人。
  米づくりをはじめ、縄文人から弥生人へ! 米作りを始めた縄文人

 弥生人
弥生人
弥生時代中期
玉津田中遺跡 神戸市

 玉津田中遺跡人骨詳細 女性
名 称:日玉津田中遺跡出土人骨 タマちゃん
出土地:兵庫県神戸市西区 玉津田中遺跡
時 代:弥生時代中期
 顔は壊れている。肩幅が狭い。きゃしゃな骨。 
 右手は肘から折り曲げて右肩に置かれていた。 右膝を106°に折り曲げる。 左膝を84°に折り曲げる。
 仰向けに膝を曲げて埋葬
年齢:成人
性別:女性か?
身長:不明

玉津田中遺跡人骨
詳細
玉津田中遺跡人骨詳細

玉津田中遺跡人骨詳細
 ※性別不明は、CT検査をしていないようです。
  大変大きな木棺に、別々に葬られています。かなり地位のあった一族のひとりの墓。

  成人女性と子供が一緒に葬られることがあり、母子などと言われるが、
  (奴隷と首長の子かもしれないのに)
  今回は別々に丁寧に埋葬されていることから、権力者の一族の墓とみられる。
 

 古墳時代

 124顔を赤く塗った女性リーダー
顔を赤く塗った
女性リーダー
朝来市向山2号墳出土約1700年前の古墳人
ムラのリーダーだったので立派なお墓に葬られていました。遺体は石の部屋に納められ、鏡などが供えられていました。
石の部屋と顔は赤く塗られていました。


※武力闘争の時代に女性首長とは驚き。
 シャーマンではなかったのかな。

 古墳時代マメ知識
  渡来人が最新の技を伝えた

骨からわかること
こんな人だった
・虫歯がある
・奥歯が抜けている
・身長約150cm
 (棺の大きさから)
・年齢40~60歳位
 (歯のすり減り方から)
古墳時代マメ知識 弥生時代より多くの人々が、朝鮮半島から渡ってきました。
渡来人は様々な最新技術をもたらしました。

 製鉄の技術。焼き物の技術。 乗馬の習慣。


 向山2号墳石室 古墳時代前期 朝来市
古墳人

古墳時代前期
向山2号墳 朝来市

 向山2号墳人骨詳細 女性
向山2号墳人骨詳細 名 称:向山2号墳第2主体出土人骨 ひとみ
出土地:兵庫県朝来市和田山町 向山2号墳
時 代:古墳時代前期
 頭骨は赤く色がついている。 左右の第2小臼歯は生前に抜けている。 虫歯の跡がある。 歯がよく磨り減っている。
年齢:40~60歳
性別:女性
身長:約150cm
 

 125一つの棺に葬られた3人 坪井遺跡 豊岡市 古墳時代前期
豊岡市の坪井遺跡で見つかった約1700年前の人達です。
一つの石の棺に、男性二人と女性一人が次々と葬られていました。3人はどういう関係なのでしょうか。

 血のつながった3人
人の歯は遺伝によって、大きさや並び方が決まります。歯が似ているのでこの3人は親族です。
「3人とも兄弟」か「二人が兄弟であとの一人はどちらかの子」と考えられています。

一つの棺に葬られた3人
上から
3号人骨(骨展示)
頭が逆の2号人骨
下が1号人骨
一つの棺に葬られた3人 血のつながった3人
1号人骨 50才くらいの男性
2号人骨 50才くらいの女性
3号人骨 40才くらいの男性

 1号と2号は兄弟。3号は、1号2号と兄弟か、どちらかの子供。      



 3号人骨
 坪井遺跡 3号人骨詳細
名 称:坪井遺跡2号墓第1主体部出土人骨 サブロー
出土地:兵庫県豊岡市出石町 坪井遺跡
時 代:古墳時代前期
 広い鼻。あたまのはばが 狭い。口元ががっちりしている。 
 大腿骨が丈夫。距骨は脛の上に載っていた。 足首の骨が外れていた。※両足を切られていた!
年齢:40歳前後
性別:男性
身長:161.4cm
坪井遺跡3号人骨詳細 古墳人 3号人骨
古墳時代前期
坪井遺跡2号墳
豊岡市
3号人骨(40代男性)には骨格的特徴は少ないようですが、
一緒に埋葬された1号(50代男性)・2号(50代女性)人骨には
骨に病変などの、生痕がみられるようです。

以下に記述されます。
 

 126骨からわかること
  上記、坪井遺跡の3体の人骨の病理的特徴を解明します。

 2号人骨


 妊娠痕 2号人骨女性
骨からわかること
2号人骨
50才くらいの女性
 お母さんだった骨盤に小さな窪みがある。妊娠した女性に見られる妊娠痕です。   妊娠の跡のある骨  妊娠痕のある骨
2号人骨
古墳時代前期
坪井遺跡2号墓 
妊娠のあと  骨盤の一部である腸骨の下面に溝がある。
これは妊娠出産による骨盤への負担の結果できたものです。

 蓄膿症 2号人骨女性
鼻づまりで大変だった 上顎の骨が薄くなって穴もあいています。これは鼻などに膿が溜る蓄膿症のためです。
鼻づまりや鼻水に苦しんでいたようです。
蓄膿の跡がある
2号人骨
古墳時代前期
坪井遺跡2号墓
蓄膿の跡
蓄膿は骨が腐って溶ける病気ですね。

虫歯や脊椎カリエスなども同じ系統の病かな
蓄膿(慢性副鼻腔炎)による炎症のため、鼻の横の骨が半球状に窪んでいます。骨の厚さが薄くなって右側の骨には孔が開いています。



 1号人骨

 手首の骨折 1号人骨 50才くらいの男性
手首の骨に骨折の跡があります。骨はくっ付いていますが、手首の関節は曲がりにくかったかもしれません。

 骨折の跡
右腕の骨の手首側に、手の骨の一部がくっついてしまっています。X線写真で右腕の骨(橈骨とうこつ)に骨折の跡が見えるので、骨折が治るときに手の骨の一部がくっついてしまったようです。

手首を骨折していた 骨折の跡のある骨
1号人骨
古墳時代前期
坪井遺跡2号墓
豊岡市
骨折の跡
 
 
 128
縄文人
弥生人
古墳人
 


 130明石人の謎
兵庫県ゃ明石市にとっては避けて通れない「旧称:明石原人」です。
呼吸器系病の転地療養に来ていた学者が、朝の散歩中に見つけた腰骨をめぐる考古学上の事件です。
現代では、レプリカとなった腰骨を鑑定したところ、現代人という結果を得ました。

※当時、明石市から西のほうの山際には療養所があったそうです。

 131謎の人骨発見
明石人の謎
明石の海岸で発見された人骨。
そのナゾ解きはまだ終わらない。 


謎の人骨発見
昭和6年(1931)直良信夫さんが明石の西八木海岸で化石になったヒトの左寛骨を発見。 明石人骨ヒトの左寛骨 長良さんは縄文時代より古い、旧石器時代の人骨だと考えましたが、学界は認めませんでした。
旧石器時代には日本列島に人が まだいなかったと考えられていたからです。
長良信夫「明石原人骨の思い出」
 132燃えてしまった人骨
燃えてしまった人骨 「明石原人」の誕生
 133明石原人はいなかった
教科書にも載った
明石原人
明石原人はいなかった
 134可能性を求めて
可能性を求めて 西八木海岸の
再発掘調査
 135明石人寛骨
明石人寛骨
 136謎解きは終わらない
謎解きは終わらない
 

 140私たちの来た道
  遠い昔、私たちの祖先はアフリカから世界へと広がった。
 141較べてみよう昔の人と背比べ
私たちの来た道
較べてみよう昔の人と背比べ
顔つきや体つきは食生活や生活週間によっても変わります。
色々な時代の人の特徴を見てみましょう。

現代人は柔らかいものを食べるので顎が小さくなった。
現代人は生活の洋風化で身長が伸びた。
現代人
全国平均170.0cm
近世人(江戸)
400年前~
全国平均155.0cm
中世人(鎌倉)
800年前~
全国平均159.0cm
古墳人
1750年前~
兵庫県平均161.5cm

 較べてみよう縄文人と弥生人
縄文人は1万年以上前から日本列島に住んでいる人たちです。
弥生時代以降には朝鮮半島から大勢の人たち(渡来人)がやってきました。両方の特徴を受け継いで、今の私たちがいます。

較べてみよう
縄文人と弥生人
弥生人はいろんな顔 弥生人には朝鮮半島から渡って来た渡来系の人達と、元からいた縄文系の人達がいます。

渡来系と縄文系が混ざったのでいろんな特徴の人がいます。
でもみんな弥生人です。
弥生人
2500年前~
兵庫県平均161.7cm

縄文人
1万年以上前~
全国平均158.0cm
 
 142
人類拡散ルート

 143私たちは新人
今から約600万年前、ヒトはアフリカで生まれました。
猿人、原人、旧人と新しい人類が生まれ、今から約20万年前、私たち現代人の直接の祖先である新人が生まれました。
いま、世界中にいる人たちは全てこの新人です。

新人 約20万年前にアフリカで生まれました。私たちの直接の祖先です。ナウマンゾウハンターも縄文人も弥生人もみんな新人です。
 ↑
旧人 約60万年前に、アフリカで原人から進化しました。高度な技術がいる石器やお墓を作りました。
 ↑
原人 約180万年前に、アフリカで猿人から進化しました。初めて火を使った人類です。
 ↑
猿人 約600万年前にアフリカで生まれた、最初のヒトです。 2本足で歩き、道具を使いました。

※中華人民共和国・中華民国台湾など中華圏の学校では、アフリカ単一起源説ではなく、世界各地で 別々に人類が発生したと教育しています。
 つまり、「偉大な中華民族は、北京原人から進化したのであって、他の民族とは異なる優秀な民族である。」と、信じています。
 中華圏の人と話すときは、よく気を付けましょう。

※このような古い人類史観に基づいて、明石原人は日本人出現の端緒だというナショナリズムの風潮から、教科書に掲載されたりしました。

私たちの「新人」
1寛骨と仙骨
2大腿骨の長さ
3明石人寛骨が印刷されたパンツ
私たちは「新人」
上に記述
5万~200万年前

新人←旧人←原人
200~600万年前

旧人←原人←猿人
400~600慢年前
原人←猿人
 
 

 200「環境」自然とともに
 人は自然の恵みにはぐくまれ、また時には自然の脅威にさらされる。
 ナウマンゾウ・ハンターのキャンプ、海山の幸に恵まれた縄文の村、
 大地を耕し洪水とたたかう弥生農村など、自然とともに生きた人々の暮らしを再現します。

 自然環境と人間の関係から、歴史を考えてみます。引用「展示と活動」

人は生き延びるため、厳しい自然環境の変化に対応して、その くらしを変えてえてきました。
 
 


 210狩りの道具の変化 
   ―姶良カルデラの降灰による―
 211狩りの道具の変化
旧石器時代、人は動物を追って狩りをしながら移動しました。環境の変化によって動物の種類が変わると、狩りの道具も変化しました。
 年代の決め手
姶良カルデラ(今の鹿児島湾)で大噴火が起こり、火山灰が日本列島に降り積もりました。この火山灰の層が約2万5千年前の目安になります。

ナウマンゾウ狩り 狩りの道具の変化 狩猟動物の変化と
狩猟道具の変化
姶良カルデラの降灰層 狩りの道具の変化 火山灰が積もった地層丹波市七日市遺跡
 212
姶良カルデラの降灰による
狩猟動物の変化
狩猟道具の変化 2.5万年前姶良カルデラ降灰
以後
1.2万~2万年前の
道具の変化
2.5万年前姶良カルデラ降灰
以前
3万年前の狩猟道具


 1万2千年前の狩猟道具

 213シカやイノシシを狩る 1万2千年前
だんだん暖かくなり、今くらいの気温になりました。豊かな森ではシカやイノシシなどが増え、これを狩りました。
 組み合わせて使う石器
小さな石器を木や骨の柄に取り付けて、ヤリ先などにして使う、組み合わせ式の道具です。

細石刃核・細石刃
縄文草創期
まるやま遺跡(淡路市)
細石刃核 細石刃
長野県矢出川遺跡の細石刃よりとても小さい

 大きなヤリ先
ヤリ先に使った大型の石器です。これが変化して石のヤジリになりました。
 
尖頭器 縄文草創期
 七日市遺跡 丹波市
 板井寺ヶ谷遺跡
  (篠山市)

板井寺ヶ谷遺跡は
2万年前の
旧石器時代集落の跡です。
尖頭器・石鏃
縄文草創期
まるやま遺跡 淡路市
国領遺跡 丹波市 


 2万年前の狩猟道具

 214環境が大きく変わる 2万年前
地球全体が寒くなり、今より7度くらい気温が低くなりました。ナウマンゾはこの環境の変化についていけずに、やがて絶滅しました。

 鋭いヤリ先
サヌカイトという石で作られたヤリ先です。この石は思うように割れるので゜同じ大きさの石器を沢山作ることが出来ました。

角錐状石器
旧石器時代
板井寺ヶ谷遺跡
篠山市
角錐状石器
旧石器時代
板井寺ヶ谷遺跡
篠山市
鋭いヤリ先 掻器
旧石器時代
板井寺ヶ谷遺跡
篠山市
削器
旧石器時代
板井寺ヶ谷遺跡
篠山市

 2153万年前
今より涼しく、ナウマンゾウやオオツノジカなどの大きな動物がいました。大きな動物を仕留めると解体し、肉や皮や骨を無駄なく利用しました。

 3万年前  ナイフ形石器
台形様石器
旧石器時代
七日市遺跡 丹波市
ナイフ形石器
台形様石器
旧石器時代
七日市遺跡 丹波市 
 ナイフ形石器
削器
旧石器時代
板井寺ヶ谷遺跡
篠山市
掻器
旧石器時代
板井寺ヶ谷遺跡
篠山市 
削器
旧石器時代
板井寺ヶ谷遺跡
篠山市 
ナイフ形石器
台形様石器
ヤリ先や小刀
チャートという石で作られたヤリ先や小刀です。
チャートは思うように割れないので、小さい石器しかできませんでした。
ナイフ形石器
台形様石器
旧石器時代
七日市遺跡 丹波市
局部磨製石斧
磨いた石の斧
木を切ったり、動物を解体したりする小型の斧で、刃の部分は磨いてあります。
七日市遺跡からは16個も出土しています。
局部磨製石斧
旧石器時代
七日市遺跡 丹波市
局部磨製石斧
旧石器時代
七日市遺跡 丹波市
ナイフ形石器
台形様石器
旧石器時代
七日市遺跡 丹波市
ナイフ形石器
台形様石器
旧石器時代
七日市遺跡 丹波市
局部磨製石斧
旧石器時代
七日市遺跡 丹波市
局部磨製石斧
旧石器時代
七日市遺跡 丹波市
砥石
旧石器時代
七日市遺跡 丹波市
 
 





 旧石器時代



 220自然に挑む狩人達
  火山の大爆発や厳しい寒さを、人々は知恵を働かせて乗り越えた。

 221ナウマンゾウを狩る
ナウマンゾウを狩る 旧石器時代
2020年新型コロナウイルス流行のため、博物館が用意したパロディで、旧石器時代人に、当時、こんなに小さくて、恐ろしく高値のマスクを国民に無料配布した。このマスクを使用たのは安倍首相だけでした。税金の無駄遣いや特定企業に大金を落としたと揶揄されたが、同じような便宜供与は続きました。政治と産業の悪しき密着ぶりを表す歴史です。

 222ナウマンゾウハンティング


 ゾウの群れを待つ
約3万年前の秋の終わり、今の丹波市春日町辺りで、キャンプをする人たちがいました。ナウマンゾウの群れを待ち伏せする旧石器人です。

 ハンターたちのキャンプ地 七日市遺跡 丹波市春日町七日市 ナウマンゾウの回遊路
キャンプの跡がいくつも見つかっています。チャート製の石器がたくさん出てきました。

※この頃のナウマンゾウは、丹波市のもっと北のほうで夏を過ごし、冬には丹波市を通って南へ回遊していたものと思われます。
 丹波市は、回遊路のボトルネックに当たるところで、ここで待ち伏せて何頭か仕留めていたようです。

 ゾウの群れを追う
ここは北と南をつなぐ道。冬を暖かい南の地で過ごすゾウの群れが毎年、秋に通ります。
 ゾウの道氷上回廊
川沿いの低い所を通って移動しました。
 沼へ追い込む
狩りが始まりました。 人々は群れからはぐれたゾウを沼地へ追い込みました。沼地にはまったゾウは動けなくなりました。
 とどめを刺す
ゾウが弱るのを待って人々は襲い掛かります。ゾウは最後の力を振り絞って暴れますが、勇敢なハンターがとどめを刺しました。
 めぐみと感謝
ゾウを手際よく海退すると、キャンプ地へ持ち帰り、肉を食べ、骨も加工して、無駄なく利用します。
自然のめぐみに感謝しながら…。

ゾウの群れを待つ ハンターたちのキャンプ地 七日市遺跡 七日市遺跡 ゾウの群れを追う ゾウの道 氷上回廊
沼へ追い込む ゾウ狩りポイント とどめ めぐみと感謝 ナウマンゾウの牙
 





 縄文時代 佃遺跡 兵庫県淡路市佃浦




 230森と海に生きるナチュラリスト
  穏やかな自然環境の中で、縄文人は自然とともに生き、豊かな自然のめぐみを得た。

 231佃遺跡

猪はただ駆け抜ける

鹿の大ジャンプは有名
跳躍力の動物

 3500年前の縄文ムラ -佃遺跡 兵庫県淡路市佃浦
豊かな自然に恵まれた森や海で、人々は木の実を集めたり、狩りや漁をして暮らしていました。
 森と海に囲まれた縄文ムラ
今より暖かかったので、海がムラのそばまで来ていました。縄文時代のムラは、森と海の両方のめぐみを利用できる場所にありました。
 発掘されたムラのあと
このムラでは高い所に家があり、低い所にはドングリを貯える穴(貯蔵穴)がありました。

3500年前の縄文ムラ 森と海に囲まれた
縄文ムラ
発掘されたムラのあと

 233佃遺跡 森のめぐみ 淡路市
シイやカシの木が茂る豊かな森には、シカやイノシシなどが沢山いました。縄文人は犬を使って獲物を追い、石の矢尻を付けた矢で仕留めました。

佃遺跡 森のめぐみ

 石器材料
 サヌカイト分割原石
  香川県から運ばれてきたサヌカイトの原石です。様々な石器を作る材料になりました。 
石器材料
 
切る道具 削器
縄文後期 佃遺跡
石鏃  石匙
肉骨皮木、なんでも切って削った万能ナイフ 

 見つかった動物たち
  遺跡からは様々な動物の骨が見つかります。骨を調べると縄文人がどんな生き物を利用していたのかがわかります。
ニホンジカ・イノシシ ニホンジカ
出土した動物骨の3割を占める。肉を食べ皮は衣類に加工した。
イノシシ
出土骨の4割を占める。肉を食べわ骨や牙はアクセサリーにした。
イヌ柴犬に似た小型犬。
大切にした動物で、
イヌを埋葬しました。
ガンカモ科マガモ 煮たり焼いたりして今も食べている鳥です。
 235
アンギン編の復元

 236植物食糧
石皿・磨石 豊かな植物 佃遺跡
縄文人は森で植物を集めたり、畠で野菜を栽培して暮らしていました。
オニグルミ・クリ ニワトコ・クワ ニワトコ
実で酒を造る。若芽は食用。葉・若枝・茎・花は薬になる
クワ
実は甘酸っぱい。酒の原料になる。根は薬になる。

ドングリ・トチ
アク抜きし、粉にして調理する

茅(カヤ):実から油が採れる。食用にもなる。
ヤマモモ:甘酸っぱい実酒の原料にもなる。樹皮は薬や染料になる。
植物を調べる 植物の種や実から縄文人の暮らしや環境がわかります。

カラムシ布や漁網を作った

ゴボウ根を食べ実は薬。畑で栽培した。

ムラの周りは開けていた
 シロザ・アカザの葉は食用。
 人里の開けたところに生える草です。
スゲ属の実

 237貯蔵穴の復元
 湿った低い場所に掘られた穴の中にイチイガシの実が沢山入っています。
 穴のそばには人か゛歩くために作られた木の板を敷いた道が作られています。
貯蔵穴 貯蔵穴復元 イチイガシ
ブナ科。縄文人が一番食べた
オニグルミ
クルミ科。高カロリーの実
クリ
ブナ科。
トチ トチノキ科
渋みが強い。アク抜きをする

 238ドングリクッキング
 イチイガシ
  シブ味がないので、そのまま食べることが出来ます。石で磨り潰して粉にし、クッキーのように焼いたり、煮て粥にして食べていました。
 トチノミ
  渋味が強くアク抜きします。石で磨り潰して粉にして食べていました。今でも「トチ餅」にして食べられています。
 クリ
  そのまま煮たり焼いたりして食べていました。今でも甘栗やお菓子などにして食べられています。
 オニグルミ
  そのまま食べられます。潰して他の木の実と混ぜてクッキーにしても食べていました。イモでもお菓子に使われます。

 ドングリは大切な食べ物!
ドングリは秋になると沢山採れ、長い間保存できるので、縄文人にとって大切な食べ物でした。保存のために、湿地に貯蔵穴を掘って水漬けにした。

佃遺跡の貯蔵穴 ドングリクッキング どんぐりは大切な食べ物 どんぐりは大切な
食べ物
佃遺跡の貯蔵穴群

 241佃遺跡の縄文土器 縄文時代後期 佃遺跡 淡路市

 土地が暮らしを豊かに
縄文時代には、豊かな森の恵みを利用するために、土器が作られるようになりました。土器を使って、煮炊きやアク抜きができるようになり、
いろいろなものが食べられるようになりました。

佃遺跡の縄文土器 土器がくらしを豊かに
佃遺跡の縄文土器
縄文時代後期
佃遺跡 淡路市 
 佃遺跡の縄文土器        
深鉢形土器 深鉢形土器 浅鉢形土器 浅鉢形土器 浅鉢形土器 浅鉢形土器
 242
注口土器 深鉢形土器 注口土器 深鉢形土器 深鉢形土器
 243
深鉢形土器 注口土器 深鉢形土器
深鉢形土器 浅鉢形土器

 245祭祀具

 不思議な道具でお祈り
特別な道具を使って、自然への感謝やお祈り、おまじないをしました。

不思議な道具でお祈り 土偶 人の形の焼き物 
縄文後期 佃遺跡
母性を表しているという説や、霊力を形にしたという説などがあります。遺跡からはバラバラに壊れた状態で出てきます。

※この土偶は平面造形で遮光器土偶ではありません。また、中空ではないため、中の方は生焼けです。


 まつりに使った石の棒
地面に突き刺さった状態で見つかっています。力強い男性のシンボルという説もあります。

石棒 左から1、2、3
1、2:石剣、縄文後期
3:石刀、縄文晩期

佃遺跡

 
 
 251海のめぐみ 佃遺跡
    丸木舟で海へ乗り出し、網や釣り針を使って魚を捕まえました。
 254
 出土漁具
海のめぐみ 佃遺跡 石の浮き・石錘 釣針の復元

 採取魚種
スズキ
マダイ
サメ
ヤマトシジミ
汽水域の貝
イルカ科
石川県真脇遺跡ではイルカの追い込み漁を行っていた
 
 




  弥生時代





 260大地を開く人々
   弥生人は自然環境に手を加え、米を作り、豊かな実りを神に祈った。

 261鳥形木製品
鳥形木製品は、祭祀(さいし:神や祖先をおまつりする儀式のこと)に関する木製品で、ムラの境界や入口に立てられた標柱などの上に付けられたと考えられています。 ムラに侵入者が来ないように見張ったり、追い払ったりする力があると考えられており、現在の鳥居(とりい)の原形ではないかと考えられています
  神戸市埋蔵文化財センター

鳥居 鳥形 大地を拓く人々
 ※「鳥居は神様の通り道だ。人間は真ん中を通るんじゃない!」などと偉そうに"わめきおった"神主がいたが、バカメ。ただの結界だ。

 262お米づくりのはじまり
木を伐る道具
太型蛤刃石斧
重さは1kg以上。振りおろして木を切り倒す。
板を作る道具
扁平片刃石斧
木の表面を削って平らな板にします。現在のカンナです。
穴を開ける道具
柱状片刃石斧

木をえぐって穴を開けます。現在のノミです。

 自然をどんどん切り拓く
  朝鮮半島からの渡来人が米作りを伝えました。人々は湿地などの利用しやすい土地を、水田に変えていきました。

 まずは道具を作る
  米作りには「大地を耕す道具」が必要です。そのためにまず、木を伐る道具や、切った木を過去亜する道具を作りました。
  米作りは道具作りの技術と共に広がりました。
渡来人の流入
米づくりを始め、縄文人から弥生人へ
木を伐り道具を作る

 263石斧

 263a木を伐る斧 太型蛤刃石斧 弥生中期 玉津田中遺跡 神戸市
 263b板を作る斧 扁平片刃石斧 弥生中期 玉津田中遺跡 神戸市
 263c穴を開ける斧 柱状片刃石斧 弥生中期 玉津田中遺跡 神戸市
 

 264 2100年前の弥生ムラ

 264a
田起こし 広鍬の使用 泥除け付き広鍬 田植えの様子
田植えは二人ではしなかったでしょう。
既に田植えが始まっていた
②開墾した等高線に沿って曲がりくねった田んぼのはずが、現代の耕地整理された直線的田んぼに描かれている。
 264b玉津田中遺跡
 川沿いに広がった湿地を、人々は次々と田んぼにしました。度重なる洪水の被害を乗り越えて米を作り続けました。
2100年前の弥生の村 弥生時代の田んぼ
地形に合わせた曲がった形
洪水で砂に埋もれた田んぼ 約2100年前の大洪水で、田んぼの大半が砂に埋もれてしまいました。

※大変な量の砂が押し寄せています。
奥へ奥へ開墾を広げていくと木がなぎ払われ、保水力のない草地や田んぼに変わり、山は崩れ洪水は頻発します。

新しい農地を手に入れたつもりが、以前の農地を押し流して自分の首を絞める行為だった。気付いてはいなかったでしょう。
 264c木製農具
臼と杵
 
 
 265祈りの人 シャーマン
弥生人は豊かな実りを願い・祝い、また、大雨や日照りなどの災害から逃れるため、神に祈りました。
祈りの道具で一番大事な銅鐸は紐で吊り下げてならしました。どのように鳴らしたか考えてみよう。
※南あわじ市で発見された松帆銅鐸で初めてなかご(舌)が見つかりました。



 ※気が付きました?左2枚の写真のシャーマンはただ手をあげているのに、右3枚では突然銅鐸を持っているでしょう。表情もちょっと違って見える。
 最初の2枚は2013年頃のもの。後の3枚は2020年に撮影したもの。いつの間にか銅鐸が持たされています。

 266お祭りの土器
神への祈りに使われた土器です。壺など約30個の土器がまとまって出土しました。日常に使う土器と区別するため、腹部に孔が開けられています。

祭りに使われた土器
壺・甕 弥生中期
玉津田中遺跡
 
 270

 271田畑のめぐみ 玉津田中遺跡
 2100年前の玉津田中遺跡では、稲以外にも様々な植物が栽培されていた。

穂刈
ん?こんな使い方だったか。
※収穫時期がバラバラなものが植えられていたので、
長い期間、穂刈をすることになります。
田畑の恵み
玉津田中遺跡
農具と畑作物 石包丁・木包丁 石包丁 ※石包丁にも産地があって、専門に作る地域があるのです。

専用の石材があったようです。なめらかで握りやすく、使いやすい。
握り手をケガしないとか
 272畑作作物
ムギ類
小麦の可能性大
アブラナ科
カブやアブラナの仲間
葉や根を食用
ヒョウタン類
果実の外皮を容器に使用
イネ今より小さい短粒米 マメ科
大豆・緑豆・小豆など
マクワウリ
ウリの仲間の甘くておいしい果物です
 
 
  

 273祭りの道具
祭りの道具 銅鐸類
土器・剣類
 

 275銅鐸

 実りへの祈り
  豊かな実りを祈ることも、米づくりの技術の一つでした。弥生人は様々な道具を使って神に祈りました。
 お祭りのカネ【銅鐸】
  弥生時代のお祭りに使われたカネです。銅鐸を鳴らす音は弥生人には神を呼ぶ音色に聞こえたことでしょう。
実りへの祈り 鳥形木製品
弥生中期
玉津田中遺跡
流水文銅鐸 流水文銅鐸
弥生中期
豊岡市気比
桜ケ丘5号銅鐸
弥生中期
神戸市桜ケ丘
銅鐸鋳型形土製品
弥生中期
平方遺跡 三田市
おまつりのカネ

 276絵画土器 シカが描かれた土器
   鹿は毎年角が生え代わることから、繰り返される田畑のめぐみの象徴として、土器に描かれました。

弥生中期
玉津田中遺跡 神戸市

弥生中期
大垣内遺跡 西宮市

 277武器型祭器 武器型のおまつりの道具
   武器を真似て木や石で作られたものです。豊かな実りを祈るために行った、戦いを模した儀式で使われました。
磨製石剣 弥生中期
1.野村遺跡 丹波市
2.七日市遺跡 丹波市
3.亀田遺跡 太子町
木剣 弥生中期

玉津田中遺跡
木戈 弥生中期

玉津田中遺跡

 278分銅形土製品 不思議な形の焼き物
   仮面やバッジのように身に着けて使ったお祭りの道具です。顔を描いているものもあります。
弥生中期
1.亀田遺跡 太子町
3.玉津田中遺跡 神戸
弥生中期
2.亀田遺跡 太子町
4.大垣内遺跡 西宮
 

 280弥生の木工ムラ 玉津田中遺跡
   このムラでは、沢山の木の道具を効率よく作っていました。周辺のムラへも供給されていたようです。
   農具づくりの村
 281
 282
・鍬の材料となる板
 アカガシ板材
 弥生中期
 玉津田中遺跡

・製作途中の平鍬
 平鍬未成品
 弥生中期
 玉津田中遺跡
平鍬未成品

 平鍬製作工程
➀板を作る

カシの木を長さ1.6~1.8mに揃え、割って板を作る。
②かたちを作る

側面に切り込みを入れ、クワが4つ繋がった形を作る。
③切り離す
石斧で一つずつ切り離す
④形を整える

泥除けを付けるための段を付ける。
⑤穴を開ける

柄を差し込むための穴を開ける
 283
竪杵 弥生中期
平鍬泥除け 弥生中期
又鍬・鋤
弥生中期
 284
木製品 中期
平鍬


 


 290鉄がやって来た
   弥生時代の終わり頃、石に変わって鉄がオノやナイフなどに広く使われるようになりました。
   鉄の道具は人の力を高め、自然や人の暮らしを大きく変えていきました。

  石と鉄の違い
   鉄の斧は石の斧の約8倍の速さで木を切り倒すことが出来ます。
  鉄の道具
   朝鮮半島から来た鉄を加工して、道具を作りました。弥生時代には、まだ鉄を作る技術はありませんでした。

鉄がやって来た 石と鉄の違い

 板状鉄斧
板状鉄斧
1.奈カリ与遺跡 中期
2.中西山遺跡 中~後期
考察 鉄 鉄は、いろいろな形状で半島から輸入されました。
最初は左のような板状鉄斧で持ち込まれ、それを研ぎながら使用すると、
右のように摩耗します。
しかし、いったい、何年かかるとこれほどまでに摩耗するのでしょう。

このほか袋状鉄斧もありましたし、鉄鏃などもありました。

よく知られている鉄挺は加工材料で、野鍛冶技術が一般化してから輸入されたものです。加工技術がないと輸入しても使えなかったはず。
 

 300「社会」国の成り立
 争い、戦い、そして新しい社会が生み出される。人が争いをくりかえしながら、ともに暮らすためのルールをさだめ、国をつくりあげてきた長い道のりを、
 戦いの武器・王の墓・古代の役所を通じてながめてみます。
引用「展示と活動」


 国のなりたち
  「人は争いを繰り返す中で、共に生きるためのルールを作り、国が生まれた。」

国の成り立ち




 301争う人々 弥生時代~古墳時代


   「戦いのための道具が生まれ、争いが繰り返された。」

争う人々
 

 310弥生時代の武器 
   「戦いの道具がつくられるようになりました。」


 311石の武器 弥生中期
石の短剣 弥生中期
1.七日市遺跡 丹波市
2.玉津田中遺跡神戸市
石の短剣 弥生中期
1.七日市遺跡 丹波市
2.玉津田中遺跡神戸市
磨製石剣
弥生中期
七日市遺跡 丹波市
磨製石剣
弥生中期
七日市遺跡 丹波市
磨製石鏃 弥生中期
1.七日市遺跡 丹波市
2.奈カリ与遺跡 三田市
打製石鏃 弥生中期

奈カリ与遺跡 三田市
木の鏃 (木鏃)

弥生中期
玉津田中遺跡

 313金属の武器 弥生中期
鉄の短剣 (鉄剣)
弥生中期
有鼻遺跡 三田市
鉄鏃
弥生中期
奈カリ与遺跡 三田市
鉄鏃

1.与呂木遺跡 三木市
2周世入相遺跡 赤穂市
鉄鏃

弥生終末期
堀坪遺跡 加西市
銅鏃

1.池ノ下遺跡 姫路市
弥生終末期
2長尾沖田遺跡佐用町
古墳時代前期
 


 315

 木の盾: 弥生中期 玉津田中遺跡 神戸市
  割れないように植物のツルや革の紐で縫っています。中央の円形に並んだ穴は、飾りをつけるためのものです。
木の盾

 革の盾: 弥生中期 茶すり山古墳 朝来市
  硬くするために革に刺繍をして黒漆を塗っています。
革の盾
 
 古墳時代の武器
  より強力な武器が、大量に作られるようになりました。


 317鉄の冑: 横矧板鋲留短甲 古墳中期 亀山古墳 加西市
   古墳時代に、高度な技術によって作られた、鉄製のよろいです。
横矧板鋲留短甲
 ※鉄製冑や鉄剣などは、中央政権が製造し、各地の配下の豪族に支給したものです。ですから、同じ形のものがたくさん並んでいます。

 
 320古墳時代の武器
   より強力な武器が大量につくられるようになりました。
 321
 322鉄剣 古墳時代中期 芝花古墳 朝来市
鉄剣 鉄鏃 鉄剣 鉄鏃
 323
   狩りの道具として発明された弓矢は、戦いの道具である武器として、人に向けて使われるようになった。
   矢の先に使われるヤジリはどんどん威力のあるものになりました。
鏃形状の特性
形状と威力 重くて長い鏃を使うと破壊力・貫通力がアップするようです。

しかし、それを飛ばせる強い弓と剛腕が必要になります。
 



 330ムラからクニへ
   争いを通じて小さなムラがまとまり、クニが生まれ、「王」が現れた。

 331
ムラからクニへ

 戦いの犠牲者
  弥生時代になって米作りが始まると、土地やモノを巡ってムラ同士が争うようになりました。
 弥生時代中期のムラのまとまり
  弥生時代中頃には沢山の村があり、大きなムラを中心に地域ごとにまとまっていました。
 戦いの犠牲者 紀元前1世紀
  2100年前の弥生時代の墓地から、腰に剣の刺さった、戦の犠牲者が見つかりました。どんな戦いがあったのでしょう。
 
戦いの犠牲者
上に記述
弥生時代中期の
ムラのまとまり
上に記述
戦いの犠牲者
紀元前1世紀
上に記述


 銅剣の先が刺さった人骨 玉津田中遺跡 神戸市 弥生時代中期
  腰の部分に刺さっていた青銅製の剣の先です。
出土した銅剣の先
折れ刺さった銅剣先
発掘人骨と銅剣先

 332戦いのための砦
    播磨灘や大阪湾の沿岸部などでは、沢山の砦が山の上に造られました。
  弥生時代中・後期の砦 
    砦を山の上に造って戦いのときに逃げ込んだり、敵の動きを見張って、のろし(合図を送る煙)を揚げました。
戦いのための砦
上に記述
弥生中期~後期の砦の分布 沿岸部や山間部に高地性集落があり、
海賊や山賊が横行したかのようです。

高地性集が、緊急時の避難場所や見張り台として規定されている。
必ずしもそこに定住したのでないという見解。

 堀に囲まれた砦―表山遺跡― 弥生時代中期末~後期初頭 神戸市西区伊川谷町上脇字表山
  明石から神戸に抜ける道(伊川谷)を見張る砦です。ここからは、淡路島や六甲山系の砦が見渡せます。

堀に囲まれた砦
表山遺跡
高地性集落の麓に
堀(崖)を作った
堀跡
敵から守るために幅4~6m、深さ3.5mの堀を巡らしていいる。


 海を見張る砦 -塩壺西遺跡- 弥生時代後期 淡路市岩屋字塩壺
  明石海峡を見張る砦です。重要な砦でなので長い間使われました。狼煙の痕跡や日本一大きな鉄の鏃が見つかっています。

  ※ここでは取り上げていませんが、この遺跡の傍からもサヌカイト原石が産出します。ほとんど考古学では問題にされません。
  やはり、香川県と大阪府・奈良県境の大産出地に目が行って、このような小さな産地はあまり意味をなさないのでしょう。

海を見張る砦
塩壺西遺跡
狼煙台
明石海峡を見張り、敵が近づくと、狼煙を上げて対岸の砦に知らせました。

※敵なのか、獲物の船なのか。
※のろしを上げて知らせた対岸には、後に、五色塚古墳が築造された。
ここは、明石海峡(海の難所)を縄張りにする海賊、の一大拠点です。
おそらくこの時代から海賊行為を続けていたものと思われます。

 最新の武器を持つ砦 -会下山遺跡- 弥生時代中期~後期  兵庫県芦屋市三条町
  大阪湾の沿岸を見張る砦です。中国製の最新の武器を持っていました。

最新の武器を持つ砦
会下山遺跡

砦からは大阪湾が見渡せます。
山頂の見張り小屋


考察 海岸沿いの高地性集落
・明石平野山中の表山遺跡は、確かに防御性高地性集落として造られたようですが、あとの二つは果たして防御性集落だったのでしょうか。
塩壺西遺跡明石海峡を見張り、対岸の見張り台に狼煙で合図するのが目的のようです。その対岸にあったのは後の五色塚古墳、当時はこの辺りの海を支配する海辺の豪族の根拠地だったのでしょう。
つまり、これらは、海賊が、海峡・瀬戸を支配し通行料を取ったり、人や物を奪う、者たちの、見張り小屋だったのだろう。

・半島人が列島へ大量入植の時に、漁師として北部九州から瀬戸内海・大阪湾・和歌山方面までの各地に入植し、普段は漁師で暮し、やがて、目の前を通行する者たちから人や物を奪うようになった。伊賀と甲賀の忍者は、始めは隣村の食料強奪から始まった夜盗が発端であると言う。
海でも山でも貧するとこうなるようだ。そのうち通行料を取ることを生業とするようになる。(海賊が生業となる)

・四国愛媛県の詫間町民俗資料館・考古館でも見張り台の住居跡があり、鍛冶技術もないのに山頂の見張り小屋から鉄挺が出土した。
四国でも明石・淡路島でも大阪湾でも。瀬戸内海一帯は全て同様に海賊が支配していた。従って安全に航海することはできなかった。

・初期ヤマト政権(半島人)は奈良盆地から琵琶湖西岸を通って若狭に出て半島と往来していた。それほど瀬戸内海は海賊が多く危険であり、従って丹後地域は政権との関りが強く、初期の巨大前方後円墳が沢山築造されている。これ以降も日本海ルートの航路は途絶えることなく続いていた。


仲哀天皇による瀬戸内海の平定
・仲哀天皇は半島出兵(後に三韓征伐という)に際し、半島と結ぶ北部九州勢力を討つため、京都府北部の若狭からではなく、あえて和歌山県紀ノ川から出港し、瀬戸内海航路を進軍した。

これは、かねてより風水害の危険が多い日本海航路よりも、海賊銀座で航行不能な瀬戸内を、軍船の大船団で進軍し、海賊を威圧して平定・恭順させ、瀬戸内海の制海権を獲得する軍事作戦である。これによって瀬戸内航路は朝廷側にとって安全なものとなり、同時に、これから討とうとする北部九州勢の逃亡路を塞ぎ、九州平定に成功する。
これ以降、朝廷は日本海航路でなく瀬戸内航路を使うようになり、若狭方面は地位が低下し、国も分割され、力を失った。一方、瀬戸内海の各地の風待ち港近くには、岩陰祭祀の遺跡が数多くできた。

この時、大量の準構造船を若狭ではなく、ヤマト奈良で建造し、陸路は引いて運搬した。私の近くに船が山を越したという伝承がある。
そんな馬鹿なと思われるが、かつては王族の葬送、野辺送りは船に乗せて墓場まで引いて行ったのだ。
古墳へ向かう葬列
引用兵庫県立考古博物館「埴輪の世界」


神功皇后の三韓攻めと政権の奪取 参照:『ここまでわかった「古代」謎の四世紀(記紀の天皇から浮かび上がる四世紀の日本 若井敏明)』
・仲哀天皇は九州に到着後急死した。敦賀から日本海航路を進んでやってきたオキナガタラシヒメは九州でこれに合流した。
天皇死後、神功皇后として三韓攻め(三韓征伐)の戦功をあげ、凱旋に際して、大津朝廷が攻撃を仕掛けて失敗、皇后が政権を握ることとなった。

これらの一連の軍事行動に対して恭順し、参戦、協力し、戦功をあげ、地位をもらい、海賊的立場を安堵されて財を蓄え、のちに巨大古墳を築くまでに増大したのが五色塚古墳の豪族でしょう。

 Wikiでは、神功皇后(169-269)2世紀中期~3世紀中期 弥生時代終末期。  仲哀天皇(149-?)とされる。
 が、『ここまでわかった「古代」謎の四世紀』では仲哀天皇の死は366or367のどこかであるといっている。4世紀中期


・神功皇后軍は、半島に到達するまでに瀬戸内と北部九州の宗像族をはじめとする、海賊や豪族を、軍事的示威行動によって味方として取り込み、半島での勝利の後に北部九州から瀬戸内を帰還した。すると、反神功皇后勢力が明石海峡で待ち構えて、戦闘で疲弊した一団をあっさり討ち滅ぼそうとしたが、逆に大敗した。当然である。反対勢力に味方した海賊は紀州和歌山付近の海賊であったかもしれないが、瀬戸内一円の全ての海賊が味方する皇后軍に勝てるわけもなかった。

この一連の軍事行動によって皇后の地位は確定し、瀬戸内から北部九州を経て半島に至る航路が開拓され、相変わらず通行料を要求されるも安全な航行ができるようになった。

・神功皇后にとって、この政権の獲得は棚ボタで、明石海峡で待ち伏せなどしていなければ、旧政権は力を失うこともなかった。
皇后は竹内宿禰と共に都を奈良盆地東南部の磐余に戻した。竹内宿禰は広大な地域を支配する豪族であり、その後、子孫によって分割され、
葛城氏、平郡氏、蘇我氏、巨勢氏などに分かれて、奈良盆地西南部に分布している。
つまり、神功皇后時代の大和政権は、磐余に王宮を持つ大王と、葛城に本拠を持つ王族、竹内宿禰との共同統治の大和型政権であった。

また、瀬戸内一体に朝廷との関係を取り結ぶことが出来た豪族が多数出現し、地域で権力と財力を高め、やがて5世紀にはいると、香川・徳島の瀬戸内沿岸に、大型前方後円墳が多数築造された。これは、大和型政権以後の河内型政権に組した豪族の墳墓である。
これらの古墳群は、古市古墳群系統に当たり、海上を航行する者に見せるための古墳であり、葺石で輝き、テラコッタの円筒埴輪で彩られていた。



 333砦の出土品 表山遺跡 弥生後期 神戸市
砦で見つかった土器
 334砦の金属器 表山遺跡 弥生後期
砦の出土品金属器 とりでの出土品
1鉄鏃
2石鏃
3鉄製釣針
4石つぶて

1、2、3

4石つぶて
 このほか、環濠からは小形仿製鏡などが見つかっており、同時出土土器が吉備系土器なので、吉備から海上交通で得たものと考えられます。
 弥生時代後期に、すでに土器を船に乗せて売りに行ったことが裏付けられた資料でもある。


 砦の金属器 弥生後期
中国製武器
漢式三翼鏃
弥生後期 会下山遺跡

突然出現した中国鏃。

きっと、奈良の都に行く船を襲撃して奪ったのでしょう。
見張り台・のろし台の村から出土。
大型鉄鏃
弥生後期
塩壺西遺跡

通行する船から奪った武器は最新の装備。
 
 



 335弥生王墓出現
   弥生時代の戦いを経て、ムラがまとまってクニになり、王が登場します。豪華な副葬品を持った大きな王墓が各地で作られました。


  弥生時代後期から終末期の墓
   日本海側の丹波・但馬には四角い墓が、 瀬戸内側の播磨・摂津・淡路には丸い墓が造られました。
王墓の出現 弥生後期~終末期の墓

 立派な副葬品を持った王墓 ―梅田東古墳群・若水古墳
  弥生時代の終わり頃、但馬のムラのリーダーは、中国製の鏡や青くきらめくガラスの玉、貴重な鉄製品などを墓に入れました。
  リーダーはやがて王と呼ばれます。
立派な副葬品を持った王墓 ・梅田東古墳群
・若水古墳
・梅田東古墳群の墓には、沢山の棺が埋められていました。棺は石屋木で作られていましたが、木は腐って残っていません。

若水古墳では、丘の頂上を丸く削って大きな墓が造られました。


 墓に供えられた土器 弥生時代後期~終末期 梅田東古墳群 朝来市
墓に供えられた土器
 

 336邪馬台国登場
    各地のクニが激しく争っていた頃、邪馬台国の女王卑弥呼が現れ、周辺のクニをまとめて行きました。


考察 邪馬台国論争 
邪馬台国はどこにあったのか。①東京大学の九州説と京都大学の大和説。
邪馬台の史料は中国にあるので、中国人学者に聞くと、②初期は九州にあり、その後大和に移ったという。
しかし、もっと最近の説は、③卑弥呼の国は九州にあった。だが、のちのヤマト政権とは無縁の九州の一地方小国家に過ぎなかった。という。

当時は全て渡来人の小国家であり、大陸政権に国家として認めてもらおうと、多くの小国家が大陸に使者を送ったという。
確かに当時の半島は、北のほうには大きな領土を持つ国もあったが、半島南部には都市国家がたくさんあり、北部九州の小国家であっても小ささには引けを取らなかったのでしょう。

現在は、ヤマトの纏向遺跡が邪馬台のあった場所であり、低湿地の水路に囲まれた村であった。政権は、付近に先に入植していた弥生人を大量動員してこの計画都市、纏向遺跡を作ったというのが浸透し始めている。

①九州で都市国家を築いた者たちが列島の中心に近いところに移動して、もっと大きな国になろうとしたのは頷ける。

②北部九州や出雲に鉄を牛耳られ。最大繁栄都市である北部九州から遠く離れた低湿地の小国家であるヤマト。
しかし、大陸の政権が代わって北部九州が力を失い、その隙に日本海航路を通して鉄を入手し、新勢力として成長していったというのも頷ける。
もし、北部九州と同族関係であったなら、あまりにも関係が悪すぎるし、鉄を牛耳られることもなかったであろう。

 まァ、何が本当か、そのうちわかるかも。って、邪馬台国の場所よりもその後の大和政権の成長ぶりのほうがおもしろいと思う。
  
 336a播磨に集まる人とモノ
    邪馬台国の中心は今の奈良県にあり、播磨地方は邪馬台国と中国・四国地方のクニを結ぶ重要な場所でした。
邪馬台国登場 邪馬台国登場
この絵はパロディでしょう
播磨に集まる人とモノ
 336b墓の副葬品
墓の副葬品
2020年
鉄製品
2013年

1.鉄剣
2.鉄鏃

3.ヤリガンナ

2.鉄鏃
3.ヤリガンナ
 336c
玉製品 ガラス玉 ガラス玉 ガラス玉
ガラス玉 ガラス玉 碧玉製管玉 碧玉製管玉 ガラス玉 ガラス玉
 336d王墓の副葬品 古墳時代前期 若水古墳 朝来市

1.中国鏡 飛禽鏡
2.中国鏡 内行花文鏡

両翼を広げて飛ぶ様を表現した鏡
 
 

 337邪馬台国の交流点 長越遺跡 姫路市飯田
長越遺跡は、邪馬台国の播磨における拠点であったと考えられます。このムラからは近畿地方の土器を始め、中国、四国地方の土器が見つかっており、
色々な地域から人やモノが集まっていたことを示しています。

※「邪馬台国の拠点」と言い切ったところをネット上で批判を書かれたこともあります。
長越遺跡は船場川にあり、大阪でも船場といえば、海運の中心地で、飯田遺跡も古墳前期から近代まで物流の盛んな土地で、海上輸送と、水路のような使い勝手の良い細い川で構成されていて、水運の中心地でした。
実際、出土した土器は、内陸部の土器(山陰・丹波)、海運で運ばれた土器(吉備・讃岐・大和・河内)が集まり、弥生末期の物流拠点であったことは間違いありません。
しかし、それが邪馬台国の拠点であったというのは、どうかと思います。当時のヤマタイはそんなに大きくはありませんでした。奈良時代でも明石までですから、当時の播磨地方の物流拠点であったことは間違いありません。

邪馬台国の交流点
・いろいろな地域の土器が大きな溝の中から沢山出ました。
・四角い穴が家の跡です。沢山の家が建っていました。
長越遺跡で見つかった各地の土器
弥生終末期
長越遺跡 姫路市
長越遺跡で見つかった各地の土器
吉備の土器
山陰の土器
讃岐の土器
丹波の土器
大和・河内の土器
 
 



  古墳時代


 338
 古墳時代の始まり 3世紀
  
邪馬台国を中心として西日本がひとつの国(倭国)にまとまりました。各地の王は倭国王から中国製の鏡をもらい、
倭国王と同じ前方後円形の墓を作りました。古墳時代の始まりです。

 三角縁神獣鏡画文帯神獣鏡が出土した古墳
三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡は、倭国王が中国王からもらった(下賜された)鏡です。
この鏡を持っているということは、(ヤマト政権の中で)高い地位にあったことを示します。

※瀬戸内航路周辺や街道筋に分布し、これが当時の大和政権の力の及ぶ範囲だったのでしょう。

古墳時代の始まり 古墳時代の始まり 鏡の授与
後ろに卑弥呼がいる
三角縁神獣鏡・画文帯神獣鏡が出土した古墳 副葬品と地位
 ※驚いた!超有名な、卑弥呼の鏡とまで言われる、三角縁神獣鏡よりも、誰も知らない、画文帯神獣鏡の方が高価値だったのか。
 ※三角縁神獣鏡は兵庫県内に多数分布しており、国内で作った模造品が多数授与されたもののようですね。
 ※これだったら三角縁神獣鏡で大騒ぎするほどのことないんじゃないの?


  丁・瓢塚古墳 兵庫県姫路市勝原区丁にある古墳、初期前方後円墳、古墳時代初期。
   全長105m、後円部径53m、前方部幅40m、後円部3段・前方部2段築成、葺石、竪穴式石室。


 兵庫県最古の古墳 丁・瓢塚古墳(よろ・ひさごづか=「よろ」は地名、小型前方後円墳=古墳時代初期の特徴、がひょうたんに見えるので付いた)
兵庫県で最も古い古墳の一つです。奈良県にある箸墓古墳(初代倭国王卑弥呼の墓と考えられる古墳)と同じ形をしています。倭国の成立に力を尽くした人物の墓です。

考察 初期小型前方後円墳の広がり
丁・瓢塚古墳同様の初期古墳は、姫路市から西に沢山分布しており、揖保川河口流域や、岡山県、香川県などに築造されている。
 (岡山県などの例を除いては、小規模な前方後円墳であり、当時の地方豪族の力の大きさを示していると思われる。)

初期大和政権の支配範囲は奈良県内の狭い範囲であったが、各地の豪族がこの政治的統合運動に参画し、支配範囲とは別に、協力国としての前方後円墳文化圏が広がっていたことを表しています。


兵庫県最古の古墳 瓢塚古墳
古い形の前方後円墳
瓢塚古墳と箸墓古墳 瓢塚古墳は、箸墓古墳の約1/3の大きさです。
全長107m:272m


 副葬された鏡
呉の年号のある鏡
赤烏七年画文帯対置式神獣鏡
古墳時代前期
安倉高塚古墳 宝塚市
赤烏は中国・呉の年号であり、七年は西暦244年にあたります。 魏の年号のある鏡
正始元年陳氏是作三角縁同向式神獣鏡
古墳時代前期
森尾古墳 豊岡市

正始は中国・魏の年号であり、西暦240年にあたります。
 

 340王権のシンボル
   「王」は、その力を示すために、巨大な墓をつくり、豪華に武具を身に着けた。


 341武力を示す王
   古墳時代中期の王は、鉄製のよろいや兜を身に着け、馬にまたがりいさましく戦う「武人」の姿をしています。
   王はその力を武力によって示しました。

王権のシンボル 武力を示す王
上に記述
 
 
 
 



 350王が葬られた部屋 雲部車塚古墳の石槨(くもべくるまづか) 篠山市 5世紀中期  古墳時代中期

雲部車塚古墳は古墳時代中期に築かれた前方後円墳です。古墳の中は石積みの部屋が造られ、ここに王か葬られていました。
明治時代の発掘で、中の様子がわかりました。


 351復元石室全景

 
考察 雲部車塚古墳の性格 引用『ここまでわかった「古代」謎の四世紀 (検証!河内勢力 新王権の成立はあったのか 福永伸哉)』

大和盆地東南部の大和・柳本古墳群を主催する初期大和政権は、中国華北王朝への冊封を権威の拠り所とし、大量の中国鏡と長大な割竹形木棺と竪穴式石室を盟員の証としての墳墓としてきた。

しかし、4世紀後半に華北の政治的安定が崩れ、権威を失い、半島南部の伽耶勢力と結んだ河内勢力が台頭してきた。古墳時代中期の開始である。
大阪府河内平野の古市・百舌鳥古墳群は見せる古墳として、巨大で華美な古墳群である。4世紀末期に起こった奈良盆地の政治的変動が、5世紀初めからの新しい墳墓形式となって各地に登場し始める。

河内の新興勢力と強い結びつきを持ち、各地に登場し始めた古墳には、①短く幅の広い竪穴式石室と②長持形石棺、③地域首長の古墳には木棺を粘土で覆った粘土槨が普及した。副葬品としては朝鮮半島系の鉄素材や加工技術を用いた、大量の④刀剣類や⑤帯金式短甲が数多く副葬されるようになる。
これは、墳墓形式や葬送での祭祀を全く変えてしまうものである。これら、大和系と河内系の違いは一定期間共存するが、両者が混じった古墳はなく、はっきりと区別されており、やがて河内勢力が権威を増すにつれて各地で首長の交代が非平和的に行われた。

つまり、4世紀は東アジアの激動の時代であり、そうした情勢の中で鉄製武器の軍事力を基盤とする河内勢力が主導権を奪取したのである。
雲部車塚古墳の墳墓形式は河内形であり、古墳時代中期の勢力図の中のものである。
 
私見 古墳発掘停止の圧力 引用Wiki雲部車塚古墳
雲部車塚古墳の発掘は地元民によって、明治29(1896)年に行われた。しかし、石室内の石棺をあけるという段階に至った時、地元の警察署長がやってきて、宮内庁からの命令で発掘を中止するようにと、通告された。
上述の引用は近年の作である。が、その中に、地方首長は石室の中に粘土槨で埋葬するとある。
では、この長持ち型石棺は中央の権力者の墓なのかということになる。明治33(1900)年に宮内庁によって陵墓参考地に指定された。

石室の復元は、当時の記録や絵図をもとにして行われました。


 352王に供えられたもの
石槨の中から沢山の武器が見つかりました。王一人が使うには多すぎる量で、彼が思いのままに動かすことが出来た武力の大きさを表しています。

王が葬られた部屋 雲部車塚古墳 王に供えられたもの よろい5領
馬具1組
剣8本
刀34本
矢107本
ほこ3本

 353長持形石棺
 354副葬品 
 
 355雲部車塚古墳を探
雲部車塚古墳を探る 雲部車塚古墳を探る 明治29年(1896)の発掘時に絵図が描かれました。この絵図から古墳の中の様子が詳しくわかります。平成16年(2004)には宮内庁書陵部により墳丘調査が行われました。

 墳丘を探る  
古墳外観
 堀が巡らされている
 3段築成になっている
 斜面には石が葺かれている
墳丘詳細
・長さ140m(復元長さ158m)
・形、前方後円墳
・土を盛って作っている。
 石槨を探る   ・ 壁に刀剣や矛が掛っている。(全国でもここだけ)
・石積み 赤く塗られている
・かぶととよろいがが置かれている。
・白い玉石が敷かれている
・中央に石棺がある。
 石棺を探る   ・石棺の中は謎
  (発掘時に蓋が開けられなかった。警察署長が止めに来た)
・長持形石棺
  (大和や河内で大王の石棺として使われている)
石は加古川下流の竜山石と推定
  (長持形石棺は竜山石で作られることが多い)

誰の墓?
 崇神天皇の時代に、丹波を平定するために派遣された四道将軍の一人、
 丹波道主命が葬られているという説がある。
出土品を探る 全て鉄でできた矛
他に例がない。
じっさいには使えないので武力を示すためのものと考えられる。
←取り出された出土品の一部

京都大学総合博物館
雲部車塚古墳の
石槨の位置

 

 360副葬武具

 361鉄の冑てつのかぶと 三角板鋲留異形衝角付冑 古墳時代中期 車塚古墳 篠山市
異形衝角付冑
カラストンビのような
鉄のかぶと
三角板鋲留異形衝角付冑 古墳中期
雲部車塚古墳 篠山市
 362鉄の甲てつのよろい 三角板革綴短甲 古墳時代中期 年ノ神6号墳 三木市
鉄のよろい
三角板革綴短甲冑
 古墳中期
年ノ神6号墳 三木市
 363
全て鉄で出来た矛 柄が白木の矛
柄に文様がある矛
 364鉄の刀 古墳時代中期 雲部車塚古墳 篠山市
鉄の刀
古墳中期
雲部車塚古墳 篠山市
鉄の刀
古墳中期
雲部車塚古墳 篠山市
刀の柄
直弧文黒漆塗木製把頭
 365金銅の刀 金銅装頭椎大刀 古墳時代後期 文堂古墳 香美町
金銅の刀
金銅装頭椎大刀
古墳時代後期
 文堂古墳 香美町
金銅装頭椎大刀
 

 370古墳

 371兵庫の大型古墳
県内各地の大きな古墳と日本で一番大きい倭国王の墓・大山古墳(仁徳天皇陵)を比べると、大きさは随分違いますが形は同じ前方後円形です。同じ形は倭国の有力者だったことを示しています。

兵庫の大型古墳 兵庫の大型古墳
左:播磨:壇場山古墳
 墳長142m姫路市

中:丹波:
  雲部車塚古墳
 墳長158m篠山市

右:播磨:五色塚古墳
 墳長194m神戸市
左:播磨:行者塚古墳
 墳長98m 加古川市

中:播磨:
  玉丘古墳
 墳長105m 加西市

右:但馬:池田古墳
 墳長141m朝来市
但馬:茶すり山古墳
 墳長90m朝来市
近畿地方最大級の円墳ですが、前方後円墳ではないので、倭国での地位は低かったのでしょう。 サッカーグラウンド
全長120m
和泉:大山古墳
 墳長486m大阪府

 372埴輪
 かこいの埴輪(囲いの埴輪)
古墳の周りには筒形の円筒埴輪が並べられました。古墳を何重にもめぐる、かこいのように使われました。王の墓を悪いものから守ろうとしたのでしょうか。
 
かこいの埴輪
五色塚古墳 神戸市
円筒埴輪
古墳前期
五色塚古墳

 埴輪のいろいろ
古墳には、円筒埴輪以外にいろいろな形をした埴輪が並べられました。家、船、動物、人物などの形につくられた埴輪からは、当時の様子を想像することが出来ます。
 
家形埴輪 埴輪のいろいろ 家形埴輪
古墳中期
行者塚古墳加古川市

 373急増する古墳 6世紀
古墳を造ることが出来る人が増え、小さな古墳が沢山作られるようになります。


 群集する古墳 -東山古墳群-多可町
小さな古墳が固まって造られ、墓地になっています。

 古墳の内部 横穴式石室 -東山2号墳-
朝鮮半島から伝わった新しい形のお墓で、出入り口がついています。この部屋の中にいくつもの棺が納められました。

急増する古墳
群集する古墳
古墳の内部
古墳の内部
お供えを入れた土器
須恵器
古墳時代後期
西脇古墳群 姫路市

 375装う人々
小さな古墳からも金メッキをした耳飾りや、宝石で作られた勾玉などが見つかります。王でない人々も男女共にアクセサリーを付けていました。

装った巫女の埴輪
塚廻り3号墳 群馬県

金色・銀色の耳飾り
耳環 古墳時代後期
1.太市中2号墳 姫路市
2.年ノ神1号墳 三木市
3.太市中2号墳 姫路市
宝石の首飾り
ガラス 碧玉 水晶 瑪瑙
古墳時代後期
大池7号墳 三木市
いろいろな玉
丸玉・勾玉
古墳時代後期

1.土製丸玉
2.ガラス製丸玉
3.軟玉製丸玉

火山9号墳 丹波市

4.水晶製勾玉
5.水晶製丸玉
火山10号墳 丹波市

6.水晶製丸玉
火山9号墳 丹波市

7.瑪瑙製勾玉
火山13号墳 丹波市
8.瑪瑙製勾玉
向山6号墳 朝来市
9.瑪瑙製勾玉
市条寺3号墳 朝来市

10.ガラス製勾玉
箱塚4号墳 篠山市
 


 376土器が語る男の物語 7世紀

 377装飾器台
人や動物の飾りが付いた土器が2個、古墳の入口に置かれていました。鼻の高い男が主人公の葬られた人で、その人生を表情豊かに伝えています。



 装飾壺1
※装飾が落ちてよくストーリーがわかりません。しかし、被葬者の一生を、壺の周囲に貼り付けた人形で表すとはおもしろい考えですね。
そういえば、エジプトか、中東かで、墳墓の入口に被葬者の一生を表した絵巻を描くというのを聞いたことがあります。

装飾壺1

 378装飾壺2

 狩猟
人が馬に乗って、シカとイノシシを追いかけています。シカには矢が刺さったあとがあります。

狩猟 狩猟

 
 男女
髪型から見て男女でしょう。向き合っていますが、女は手を後ろにし、嫌がっているようです。
男女 男女

 相撲
鼻の高い男と鼻の低い男が相撲をとっています。相撲はこの頃からある古い競技です。
相撲 すもう
相撲


 379参考資料 西宮山古墳 竜野市  龍野市歴史文化資料館 古墳時代後期 6世紀前半

上の作品の100年前の作ですが、焼きもよく、技術も優れ、造形も優れ、自然釉が掛かっているところも素晴らしいものです。

須恵器台付装飾壺 相撲と行司
鹿と子鹿又は犬 荷物を担ぐ人
        
 
 
 





 400古代 奈良時代 平安時代







 410国家の成立  奈良~平安時代


    法律に基づき、役人たちが治める「国」が誕生した。


   法律で治める国が生まれた
    古墳時代が終わり、新しい時代がやってきました。法律で国を治める律令国家の誕生です。
    中国(唐)の制度をもとに新しい社会のしくみができました。


国家の成立
ここではVTRで展示テーマが伝えられる
法律で治める国が生まれた 新しい社会のしくみ
1.法律ができた
1.役所が置かれた
1.道が整備された
1.戸籍が作られた
1.税のしくみができた
 

 420全ての道は都に通ず


 421布施駅家 奈良時代 小犬丸遺跡 竜野市 
 421a駅家の瓦
布施駅家の屋根瓦
ふせのうまや
鬼瓦・軒丸瓦・軒平瓦
鬼瓦 布施駅家の屋根瓦
ふせのうまや
鬼瓦・軒丸瓦・軒平瓦
奈良時代
古犬丸遺跡 竜野市
参考:布施の鬼瓦
龍野歴史文化史料館 

 421b軒瓦・木簡

 駅家の長記された木簡
  駅名が記されており、この遺跡が「布施駅家」であると実証された。
丹付着軒平瓦
奈良時代
小犬丸遺跡 竜野市
参考:布施の丹付き瓦
龍野歴史文化史料館
布施駅家名 木簡
奈良時代 小犬丸遺跡 たつの市
 
 421c墨書土器・馬の歯 奈良時代 小犬丸遺跡 たつの市
墨書土器・馬の歯 墨書:布施井邊家 墨書:驛
馬の歯(駅家の傍証)
 421d駅家で使われた土器 須恵器・土師器 奈良時代 小犬丸遺跡
 

 422全ての道は都に通ず
    全国を支配するために道を整備し、都と各地を結びました。古代の国道の誕生です。

 423古代山陽道
都と大宰府を結ぶ重要な道です。広い所は幅10~12mもあり、平野部では一直線に通っていました。
1300年も前に現代の道路のような立派な道が作られていたのです。

全ての道は都に通ず 古代山陽道 古代山陽道
兵庫県の西端
野磨駅家やまのうまや

 林の中に眠っていた野磨駅家 -落地遺跡
落地遺跡おろち(上郡町)では林の中に古代の駅家がそっくりそのまま残されていました。長い塀や立派な門で囲まれ、瓦葺の建物が立ち並んでいたことがわかりました。
※落おろちは大蛇伝説のあるところです。

林の中に眠っていた
野磨駅家 -落地遺跡-

清少納言も「枕草子」の中に「駅は野磨駅」と書いています
落地遺跡 野磨駅家建物跡 高田駅家


 ナゾが解決した布施駅家-小犬丸遺跡-
昭和61年(1986)の発掘調査では「驛」と書かれた土器が見つかり、小犬丸遺跡(たつの市)が布施駅家の跡出ることが確実になりました。

ナゾが解決した布施駅家-小犬丸遺跡- 姿を現した古代山陽道 布施駅家ふせのうまや 布施駅家
布施駅家の建物 80m四方の塀で囲まれた中に、瓦葺・丹塗りのの柱、白壁の建物が立ち並んでいたことがわかりました。

 424
太市駅家 太市駅家
姫路市太市中
向山遺跡
草上駅家くさがみ
 425
草上駅家くさがみ
姫路市今宿付近
佐突駅家さつち
姫路市別所町
北宿遺跡

駅家は外国の施設や上級役人をもてなす宿泊・休憩所でした。
賀古駅家かこ
ここは一直線の道路
 426
古代の「駅家」 邑美駅家 明石駅家 明石の駅家 須磨駅家
 「駅家」があったことは文献に記録されていましたが、長い間どんなものかわかっていませんでした。

古代の「駅家」 古代の「駅家」
 播磨国内の山陽道には約8kmごとに駅家(うまや)が置かれていました。それぞれの駅家には馬が置かれ、
 この馬を乗り継いで次の駅家へ行きました。
 ※(駅家ごとに、8kmごとに馬を乗り替えたと言っている。)
 

 430丹波国氷上郡役所巡り
古代では国を郡に分け、それぞれに役所(郡衙)が置かれました。丹波国氷上郡(今の丹波市)は大きかったので、西と東の2か所に役所が置かれていました。1つの郡に2つの役所があったのは全国でも珍しいことです。

 431役所の仕事 その一 税を集めること
米や布などの税を集めて国府へ送るのは郡役所の大切な仕事でした。その様子は税を管理するために書かれた木簡から窺えます。

 氷上郡衙の本所 市辺遺跡
丹波国氷上郡役所巡り 丹波国氷上郡役所巡り 氷上郡の本所
市辺遺跡
※今でも本所って言う
西と東の境目
水別れみわかれ
氷上郡衙の支所
山垣遺跡・七日市遺跡
氷上郡衙の支所
山垣遺跡・七日市遺跡
山垣遺跡は、氷上郡の東半分を治める郡衙の支所でした。→

その後、支所はすぐ近くの七日市遺跡に移りました。
西と東の境目 水別れ
ここは日本海へ流れる川と、瀬戸内海へ流れる川の分かれるところです。
氷上郡衙の本所 市辺遺跡
市辺遺跡は氷上郡衙の本所の一部です。米など税として集めたものを保管する倉庫跡が沢山見つかりました。
 433
墨書土器 墨書土器
奈良時代 市辺遺跡
院泰・長福
天・益女
役人が使ったはんこ
銅印
奈良時代 市辺遺跡
埋められた貨幣
地鎮具
 須恵器皿・和同開珎
 市辺遺跡
 奈良時代
氷上郡の役所(本所) 古代の封筒(復元) 氷上郡の役所(支所)
山垣遺跡
山垣遺跡出土
墨書土器
円面硯

 
 460古代の呪い
 461おはらいの仕方


 お祓いは役所の仕事
古代の役所は、仕事として、病気や災いを起こす穢れを遠ざけるためにお祓いをしていました。
お祓いには人や馬、舟などの形をした板を使いました。

お祓いは役所の仕事 人形の使い方 撫物・人形
ひとがた

 463穢れを流す古代のお祓い
人々は、穢れを人形(ひとがた)に移して身代わりにしました。人形を水に流すと、その人の穢れが消えると考えたのです。
その後、人形を使ったお祓いは陰陽師たちによって広められ、今でも紙の人形は神社などで使われています。


 お祓いの道具 木製祭祀具 奈良~平安時代 袴狭遺跡・砂入遺跡 豊岡市

穢れを流す古代のお祓い 人形
馬形
人形
人形
一人当千 急々如律令

「一人当千」一体の人形で千体分の力を願う。
「急々如律令」は願いが悪く長く叶うようにというまじないの言葉
人形
病気などの悪いものを移すための身代わり。墨や刻みで顔の表現があるものもある。
馬形
悪いものが憑いた人形を遠くへ運ぶために一緒に使う。脚を付けて立てて使う。
舟形
悪いものが憑いた人形を遠くへ運ぶために一緒に使う。
お祓いの道具
木製祭祀具
奈良~平安時代
袴狭遺跡・砂入遺跡
豊岡市
穢れを流す
古代のお祓い
不明品
何をかたどったか不明でどんな意味があるのかもわからない。
武器形
武器形
刀、矢、なぎなた、などがある。お祓いを悪いものから守るために使われる。
農具形
鋤、えぶりなどがある。神への捧げものとして使われたか。
鳥形とりがた
点数は少ない。悪いものを運び去るために使われたか。
斎串いぐし
地面に突き刺し、お祓いする場所を囲んで、清らかな場所を作る(結界)
 

 500テーマ「交流」みち・であい
   “ひょうご”は古くから海陸の交通の要衝であり、多くの人々が出会い新しい文化が生まれました。大陸と但馬を行き来した古代船や、
    大王のために運ばれた石棺などを復元し、ひょうごを舞台にした人とものの交流を描きます。
引用「展示と活動」

   "ひようご"を舞台にした人と人、人とモノの出会いは、新しい文化を生み出しました。


 501
テーマ「交流」
みち・であい

 510特産品のはるかな旅 縄文~古墳時代
    各地の特産品が、人と共に行き来しました。

 511家形石棺の復元 6世紀
  奈良県最大の古墳、見瀬丸山古墳に納められた竜山石の石棺を復元しました。
特産品の遥かな旅
縄文~古墳時代
家形石棺の復元 6c
古墳内に置かれた石棺
モデル 見瀬丸山古墳の石棺(前棺)(奈良県橿原市)
規模  長さ 2.9m
1.45m
高さ 1.63m
重さ 9t(蓋4t、身5t)
石材 竜山石(高砂市地藏山産)
製作地 高砂市地藏山
制作 株式会社松下石材店
製作期間 平成18年6月20日~平成19年4月23日
被葬者 欽明天皇?


           復元石棺の解説


 大王が求めた石 竜山石
古墳時代、加古川下流域で採れる竜山石は、大王(後の天皇)の棺として奈良県や大阪府に運ばれました。
竜山石は適度な硬さがあり、加工しやすかったので、当時の王たちに好まれたようです。

 謎の石の宝殿
竜山石の岩山には、生石神社の御神体としてまつられている巨大な石造物があります。奈良時代より前に岩山を刳り抜いて作られていますが、
誰が何のためにつくったのかはいまだにナゾです。

※石の宝殿は、巨大な石室をくりぬきで作ろうとしていましたが、加工中にひびが入ったため、打ち捨てられたものです。
皇族用の埋葬施設を作っていたということで、なぜか、神社の御神体になっています。鳥取県の石馬もただの壊れた石の馬形だのに「石馬大明神」という、意味の分からん名前を付けて拝んでいます。まぁ、そうなっていなかったら、壊されるか売り払われるかしたでしょう。事実名古屋城に売り払われた石棺・石室もありますから。でも、私だったら、イワシの頭も信心からって、言うが、イワシの頭は拝みたくないから。なんでも神に祭り上げる自然崇拝の原始的宗教心である。

しかし、当の奈良県大和地方では、鬼の雪隠(おにのせっちん)といわれる作りかけの埋葬施設は、そのまま打ち捨てられています。
そればかりでなく多数の石造物が放置されています。鳥取県でこれが見つかればトイレ大明神になるのかな。金儲けの道具にしたのでしょう。

高砂市では、作業に当たって大王の権威を振りかざし、地元民を平伏させ只で利用しただろう。そのため、失敗しても引っ込みがつかず、権威を残して去った。そのため失敗品がなぜか、貴重なもの、尊いものとなり、そこに神社神道が入り込んで生石神社=石の宝殿となったのでしょう。

そういえば、弥生後期から、地方豪族が支配民に首長一族の墓を崇拝させたところ、やがて神社となったり、後には古墳が神社となり、やがて訳が分からなくなって、本来崇拝すべき墳丘を壊してその上に社殿を建てたりしているというのもあるそうだ。


大王が求めた石
上に記述
石の宝殿
上に記述
石の宝殿
巨大な石室石棺
強度を考えたらこんなものを、刳り抜きで作るのも運ぶのも無理だとわかるが、当時は頭でしか考えなかったのね
復元された石棺
ちょっと大きすぎです

 運ばれた石棺
奈良県最大の前方後円墳である見瀬丸山古墳から、竜山石製の石棺が見つかりました。重さは蓋と身の両方で9トンあります。
兵庫から奈良まで「修羅」と呼ばれるソリや舟を使い、大勢の人々によって動かされました。石の運搬は大王の権力を見せつける意味もありました。

運ばれた石棺 竜山石製石棺の分布 ※高砂市で作られた埋葬施設は、海路を使って都まで運び、船に乗せたまま設置場所まで引いて行ったと思われます。陸路をエンヤラエンヤラと、何百kmも丸太のコロの上を引いて運べば、たちまち割れてしまったでしょう。
 

 514交流を語るモノたち
   遺跡から見つかったものから、遠くの人々と交流していたことがわかります。

 ※誤植かどうか
廉状文とある。
は1.かどがある。きまり正しい。いさぎよい。私欲がない。 「廉士・廉直・廉潔・廉恥・清廉」
   2.無欲。安く売る。安売り。やすい。 「廉価・廉売・低廉」の意味。
は1.竹やアシをあらく編んだむしろ。すのこ。
   2.すだれ。

壺の形を表すのに読みはどちらも「レン」だが、前者では意味が出ない。後者の「すだれ」が形容詞にいいのでないか。
だが、壺には、すだれ状文がみられず、貼り付け円形文しかない。これ、どうする?


交流を語るモノたち
交流を語るモノたち
廉状文大型細頸壺
弥生時代中期
下内膳遺跡 洲本市
河内地方で作られた壺 これ、貼付豆粒文? 縦横の縞模様は
簾状文でしょう。
廉状文大型細頸壺
サヌカイト原石
弥生時代中期
玉津田中遺跡 神戸市 
 香川県産石器材料 L字状石杵
弥生後期
二ツ石戎ノ前遺跡 
朱の原料 辰砂
三重県産 
   
大阪府から来ました
河内地方産土器
弥生時代に大阪府の河内地方で作られた土器です。
海を越えて、淡路島まで運ばれました。
香川県から来ました
石器材料サヌカイト
香川県で採れる硬い石です。
旧石器時代まで石器の材料として使われました。
徳島県から来ました
魔除けの朱の原料
徳島県などで採れる辰砂を原料に朱をつくり、魔除けなどのために使いました。



交流を語るモノたち 交流を語るモノたち
廉状文大型細頸壺
弥生時代中期
下内膳遺跡 洲本市
 
河内地方で作られた壺  これ、貼付豆粒文? 縦横の縞模様は
簾状文でしょう。 
 廉状文大型細頸壺
 
 
サヌカイト原石
弥生時代中期
玉津田中遺跡 神戸市
香川県産石器材料 L字状石杵
弥生後期
二ツ石戎ノ前遺跡
朱の原料 辰砂
三重県産
大阪府から来ました
河内地方産土器
弥生時代に大阪府の河内地方で作られた土器です。
海を越えて、淡路島まで運ばれました。
香川県から来ました
石器材料サヌカイト
香川県で採れる硬い石です。
旧石器時代まで石器の材料として使われました。
徳島県から来ました
魔除けの朱の原料
徳島県などで採れる辰砂を原料に朱をつくり、魔除けなどのために使いました。

 515
日本海側から来ました
石製イヤリング
日本海側で採れる珍しい石を磨いて作った、縄文時代のイヤリングです。壊れた後、ペンダントに作り替えました。 新潟県から来ました
ヒスイの勾玉
新潟県で採れるヒスイは、磨くと美しいつやが出る宝石です。
兵庫県内ではヒスイの勾玉が沢山見つかっています。
 和歌山県から来ました
結晶片岩製の石包丁
 結晶片岩は和歌山県などで採れる緑色の硬い石です。
石包丁や石斧になりました。
西の方から来ました
青銅の銅剣 
中国や朝鮮半島で使われていた青銅製の剣を真似た国産品です。
中国四国地方を中心に分布します。 
九州から来ました
中国鏡を真似た国産鏡
 
 弥生時代に、中国の鏡を真似て、北部九州で作られた倭国産の鏡です。
石製垂飾
縄文時代
まるやま遺跡 淡路市
勾玉 弥生中期
1.玉津田中遺跡
2.七日市遺跡
石包丁 中期
玉津田中遺跡
中細形銅剣 中期
古津路遺跡 南淡路市
小型仿製鏡
弥生時代後期
玉津田中遺跡
神戸市
鈩田遺跡
南あわじ市

 516楽器
山陰地方から来ました
今に伝わる打楽器
動物や魚の絵が刻まれた、木製の打楽器です。島根県の神社では「琴板」トム呼ばれ、今も使われています。   南の島から来ました
椰子の実で作った笛
 黒潮の流れに乗って熱帯地方から流れついた椰子の実を、弥生人は笛にしました。  山陰地方から来ました
山陰型のナゾの土器
何に使われたのかよくわかっていない。古墳時代の大型土器です。
兵庫県の瀬戸内側でも見つかっています。 
 琴板 弥生後期
袴狭遺跡 豊岡市
         

弥生中期
玉津田中遺跡 神戸市
山陰型甑形土器
弥生後期
堂山遺跡 赤穂市
 
 
 


 600大陸を目指した古代船
    海のかなたの大陸と"ひょうご"を行き来し、大陸の文化・モノを持ち帰った。

 601
大陸を目指した古代船

 復元船の見所
古墳時代の初め頃には釘がなかったので、船底部と竪板(たていた)は木を組み合わせて、舷側版は桜の皮を使ってつないでいました。
隙間にはヒノ木などの皮を打ち込み(マキハダ)水漏れを防ぎました。
復元船の見所

 602準構造線の復元
出土した古墳時代の船や埴輪をもとに復元しました。
※丸木舟の周りに板を足して、大きくしたもの。

日本海を航行する
復元船
復元船ができるまで
船名 ヒボコ
規模  長さ 11.0m
1.6m
高さ 2.2m
樹種 ベイマツ
製作地 美方郡新温泉町諸寄
制作者 尾崎造船所
製作期間 平成18年12月11日~
平成19年3月28日
諸寄港で進水式 原木の検査
芯は抜けていた
ためしのり

 603大型船の始まり
 弥生時代の終りには、丸木舟の上に板を足した船(準構造線)が誕生しました。船を高くすることで波に強くなり、重いものを運べるようになりました。

大型船の始まり 出土した準構造船
久宝寺遺跡 大阪府
準構造船の埴輪
長原高廻り2号墳
(大阪府)
 出土した船
長越遺跡(姫路市)
出土部分:船底部
時代:弥生時代終末期
樹種:クスノキ製
状+舷側版を固定する穴が開いている。

出土部分:竪板
時代:弥生終末期
樹種:クスノキ
状態:舷側版をはめ込む溝が切られている
出土した船  船の原型  船底部
 
竪板
 
船団線刻画木製品
古墳時代前期
袴狭遺跡(豊岡市)
船団を描いた板

 604出土した船 若王子遺跡 尼崎市 古墳時代後期
出土した船
若王子遺跡 尼崎市
出土部分:船底部
時代:古墳時代後期
樹種:スギ
状態:安定をよくするため、底が平らになっている。
船底部
 
 605アメノヒボコの伝説 ―朝鮮半島との交流を伝える―

 朝鮮半島との交流を伝える アメノヒボコの伝説
但馬地方には、海外との交流を物語る伝説が残っています。アメノヒボコという新羅国の王子が渡ってきたという伝説で、『古事記』などの古い書物に記されています。

 1アメノヒボコの妻、日本へ
今から1500年以上昔、新羅の国で、一人の女性が日の光を受けて赤い玉を生みました。その玉はアメノヒボコの手に渡ると美しい女性になり、
妻になりました。しかし、ある時、アメノヒボコがひどい悪口を言ったので、妻は日本へ渡ってしまいました。
 2妻を追い、難波へ向かうも・・・
妻は大阪の難波で比売碁曾社の神・アカルヒメになりました。アメノヒボコは妻を追って難波に向かいましたが、海峡の神に邪魔をされ、入れませんでした。
 3播磨の神との争い(あらそい)
アメノヒボコは播磨に来ると、土地の神・イワノオオカミと争いました。天皇は播磨か淡路に住むことを進めましたが、アメノヒボコは嫌がりました。
 4淀川から近江、若狭へ
アメノヒボコは瀬戸内海を東へ進み、淀川をさかのぼって琵琶湖のある近江(滋賀県)でしばらく住みました。の後、北へ進み、若狭(福井県)で日本海に出ました。
 5但馬に定住し、伝説となる
アメノヒボコはさらに但馬に渡り、ここで住むことに決めました。そして土地の娘と結婚し、子孫を残しました。アメノヒボコは最新の技術で但馬を豊かにし、今も神として信仰されています。

※この伝説は、ほぼ意味の分からない半島人が但馬地方を占拠する話です。が、実は、アメノヒボコは何やら重要な産物の産地を奪取したのです。
それが何だったか、、、、


アメノヒボコ伝説
朝鮮半島との交流を伝える アメノヒボコの物語 伝説の中心地
出石神社
アメノヒボコが持ってきた8つの宝の力が、出石神社に神様として祀られています。


 大陸との交流 5世紀
朝鮮半島からは、大陸の新しいものや技術が伝えられました。特に、大量の鉄、乗馬、須恵器、横穴式石室などは、後の文化に大きな影響を与えました。

日本からは、前方後円形の墓や埴輪などが伝わっていますが、大きな影響は与えませんでした。最近では、コウヤマキなどの木が(木棺用に)運ばれたといわれています。人や食料など、形に残らないものも運ばれていたのかもしれません。

大陸との交流 5世紀
上に記述
鉄の素材
古墳時代中期
行者古墳 加古川市
古墳時代中期
堀山6号墳(加西市)
鉄挺は列島に鍛冶技術者が渡来し、野鍛冶が一般化するようなってから輸入されるようになりました。

それまでは製品で輸入した。
 606半島交易
交易品の展示

 アクセサリー
金や銀でできた美しいアクセサリーが朝鮮半島から伝わりました。高い技術とデザインは、当時も今も、見る人の心を動かします。
宮山古墳の被葬者はそれほど地位の高い者ではなかったようだ。副葬品が耳飾りだけなのは、最も低い豪族身分である。

  金のイヤリング
長鎖式垂飾付耳飾
古墳時代中期
宮山古墳 姫路市
鎖部分の拡大写真 
兵庫鎖
  銀製指輪
古墳時代中期
宮山古墳 姫路市 
 
金の帯飾
古墳時代中期
行者塚古墳加古川市



 近畿最古級の馬具
馬具の形が似ていることから、乗馬の技術は朝鮮半島南部から伝わったことがわかります。馬も技術者と共に船に乗って渡って来たのでしょう。

近畿最古級の馬具
長方形鏡板付轡
古墳時代中期
行者塚古墳 加古川市
 


 630兵庫ブランドの誕生  平安~鎌倉時代

  兵庫の須恵器と瓦が、ブランド品として全国へ運ばれた。

 631播磨の須恵器 8世紀
奈良時代、須恵器は播磨の特産品でした。質の良いものを作り、税として都(奈良の平城京)へ納めました。



稜椀 古代の須恵器
坏・壺・稜椀
中谷4号窯 加古川市
 
 632焼き物の里 東播磨 12~13世紀
平安時代から鎌倉時代にかけて、東播磨には200以上の登り窯が造られました。須恵器や瓦などの焼き物が大量に作られ、須恵器は全国へ、瓦は都へと運ばれました。
 632a
兵庫ブランドの誕生 焼き物の里東播磨
12~13世紀
谷に並ぶ登り窯
神出窯跡群(神戸市)
登り窯があった場所
 632b登り窯で焼く
  須恵器や瓦は登り窯で焼いて作ります。窯は、粘土、燃料になる木が豊富な場所に造られました。
こね鉢の製造 片口のこね鉢
 
 633東播磨の焼き物
東播磨の焼き物  

  どこへ運ばれた 東播磨の須恵器が九州から関東までの遺跡で沢山見つかっています。 どうやって運んだ  須恵器は船で運ばれました。船を使うと、陸地を運ぶのに比べて、一度で大量の須恵器を運ぶことができたからです。 なぜ作らなくなった   須恵器のこね鉢は使っているうちにすり減ってきます。岡山県で、より硬い焼き物(備前焼)が作られるようになると、東播磨の須恵器は次第に使われなくなりました。
 こね鉢の用途は こね鉢は、すり鉢の先祖です。食材を磨り潰したり、混ぜ合わせたりするのに使いました。こね鉢を使うことで食事のメニューが増えました。  海の底から見つかるのは   明石沖では、東播磨の須恵器が底引き網の漁で引き揚げられます。

須恵器を積んだ船が沈んでいるのかもしれません。 
   

 播磨産須恵器  平安~鎌倉時代 魚住窯跡群 明石市

播磨産の須恵器

平安~鎌倉時代
魚住窯跡群 明石市

こね鉢
平安~鎌倉時代
神出窯跡群 神戸市
播磨産の須恵器
こね鉢・皿
平安~鎌倉時代
神出窯跡群 神戸市
こね鉢を使った料理
味噌を磨り潰す
味噌を磨り潰す
 
 635瓦を都まで運べ双六
 
 660
 661
 662軒丸瓦 12世紀
 瓦の模様
屋根の先につける軒瓦は様々な模様で飾られています。軒丸瓦には蓮華文や巴文がつけられ、軒平瓦には唐草文などが付けられました。
瓦の模様

 東播磨の瓦造り 12世紀 
平安時代の終り頃、天皇や上皇が京都でお寺や別荘を作ったので、大量の瓦が必要になりました。そこで須恵器の大産地だった東播磨が瓦を作るようになりました。瓦は須恵器と同じ窯で焼かれましたが、やがて瓦を専門に焼く窯ができました。
 軒丸瓦・軒平瓦
平安時代
久留美窯跡群 三木市
 
上に記述
       

 同じ模様の瓦
瓦の模様は、型に粘土を押し付けて付けます。瓦型は東播磨の各窯で使いまわしされていました。

軒平瓦
同じ型で作った瓦
軒平瓦 平安時代
 1.林崎三本木瓦窯跡群
明石市
2.久〇〇窯跡群 三木市
同じ型で作った瓦
軒平瓦 平安時代
  1.林崎三本木瓦窯跡群 明石市
2.神出窯跡群
神戸市
 663播磨で作られた瓦・都で使われた瓦
東播磨の窯跡と、京都のお寺で同じ文様の瓦が見つかっています。文様をよく見ると、同じ傷がついた物もあるので、まったく同じ型で作られたことがわかります。

三木で焼かれた瓦
延暦寺で使われた瓦
明石で焼かれた瓦
桂離宮で使われた瓦
京都に運ばれた東播磨の瓦
 665
 
 670にぎわう町と港
 671港に集まる人とモノ 12~15世紀
全国でいろいろなモノが大量に作られるようになると、商品として船で各地に運ばれるようになりました。中国(宋)との貿易も始まり、様々な人やものが集まる場として港は大きく発達していきました。

港に集まる人とモノ
 672
国内交易品塩・米 国内交易品焼き物 国内交易品紙
輸出品材木
国内交易紙
輸出品刀 輸出品砂金 輸入品 絵 輸入品 書物
輸入品 宋銭・元銭
輸入 陶磁器
輸入品焼き物

 674中世の港と町 12世紀以降
中世になると港や街道沿いなどの、交通重要な場所に町ができました。町には沢山の人やモノが集まり、にぎわいました。

 港町神戸の原点 ―兵庫津遺跡―
兵庫津は古くは大輪田泊と呼ばれ、平清盛が改修し、日宋貿易の拠点として栄えました。その後も瀬戸内航路の重要な港として沢山の船が出入りしました。

 まぼろしの福原京
平清盛は、大輪田泊に近い福原(今の神戸市兵庫区)に別荘をつくりました。治承4年(1180)、平清盛は天皇や上皇を引き連れ、都を京都から福原に移しました。最近の発掘調査でこの福原京の一部であると考えられる遺構が見つかっています。 しかし、僅か半年後には都は元の京都へと戻されました。

 海・川・陸をつなぐ町 福田片岡遺跡
福田片岡遺跡は海から揖保川を遡ってはこんだ品物を陸にあげ、各地へ運ぶ拠点として栄えた町です。

中世の港と町
12世紀以降
港町神戸の原点
―兵庫津遺跡―
まぼろしの福原京 海・川・陸をつなぐ町
福田片岡遺跡
 675兵庫津遺跡から出土した各地の焼き物 鎌倉~室町時代 兵庫津遺跡 神戸市

常滑焼

備前焼鉢・鳶口壺
瀬戸・美濃系水滴

龍泉窯系青磁皿

土師器小皿

和泉産 瓦器碗
 676福田片岡遺跡から出土した各地の焼き物 鎌倉~室町時代 福田片岡遺跡 竜野市

白磁皿・瀬戸天目茶碗

須恵器椀・白磁皿

肥前産石鍋・瓦器碗

瓦器碗・
同安窯系青磁皿

白磁皿
 
 
 
 

 700世界とつながる交流の輪
    世界の文化が日本に伝わり、わたしたちの今の暮らしに根付いている。

世界とつながる交流の輪 世界とつながる交流の輪
中国とつながるお茶の文化
天目茶碗
室町時代
兵庫津遺跡 神戸市
茶道具
飲茶の文化は鎌倉時代に禅僧によって中国から伝えられ、日本を代表する伝統文化として今に受け継がれています。
アメリカとつながるタバコの風習 煙管きせる
江戸時代
伊丹郷町・有岡城跡
伊丹市
キセル
アメリカ大陸が原産のタバコは、新大陸の発見と共に世界中に広まりました。
日本でも江戸時代には栽培され、庶民も吸うようになりました。
西洋とつながる建築文化
 
   タイル 明治時代
珉平焼窯跡
南あわじ市
タイル
明治時代、西洋建築に使われるようになりました。
最初、ヨーロッパから運ばれましたが、国内でも作られるようになりました。 
   
昔の人から受け継いだ 生きる力が 困難を乗り越え 明日をつくる力となる