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  西日本の縄文  16    2015.11.28-2

  笠岡市立郷土館 岡山県笠岡市笠岡5628-10  電話はなし 0865-69-2155(生涯学習課) 0865-62-3451(労働福祉会館)隣の建物  月曜休館  撮影可

  年代  縄文時代後期

  交通  (駅から800m) タクシーもありますが、駅から歩いていけます。

  見所  西日本の縄文研究では大変重要とされる、津雲貝塚の出土物
        (申し訳ありません。ここの展示の中心となるもの。学ぶものが何なのかが、全く分かりませんでした。ただ、列挙しているだけです。)

    ※  訪問当日は、たまたま企画展「津雲貝塚と縄文文化」が行われていました。 従って、偶然、沢山の遺物が撮影できたと思います。
       普段はもう少し展示は少ないかもしれません。


次 

01外観
10縄文時代の津雲貝塚
11津雲貝塚と同時代の土器
12津雲貝塚とは
13平成の発掘
 
54原貝塚
56高島黒土遺跡
57津雲貝塚の出土物
58大正の発掘人骨

60津雲貝塚の石器土器
62津雲貝塚の頭蓋骨
64アクセサリー
66津雲貝塚の貝種
71貝塚の生活環境
73貝塚の獣骨


90古代 笠岡市大飛島の岩陰祭祀
   海上安全の祭祀
 01外観
笠岡駅笠岡市は江戸時代から干拓地で拡大した街です 笠岡市立郷土館 戦後の国営干拓の様子 帰路。線路を横断する怪しげな歩道がありました 駅前の風景です。どんだけ玩具が売れるねんて、思うくらい大きな看板


 10縄文時代の津雲貝塚
    津雲貝塚は縄文早期~晩期までの連続した遺跡です。 ここでは後期の貝塚を取り上げています。
    津雲貝塚は 住所笠岡市西大島  現在:陸地です。離島ではありません。


 11津雲貝塚と同時代の土器  縄文時代後期 4000年前 (津島岡大遺跡)
縄文土器 後期 縄文時代の年代区分 津島岡大遺跡
後期初頭~前葉の土器
土器形式未記入
津雲式と思われます
でも、どこにでも見受ける土器ですね
磨り消し縄文の 西日本らしい土器です 涙形模様でなく、多少幾何学的です。亀ヶ岡式の影響でしょうか これは皿のようですね
蓋にしては把手がない
浅鉢
縄文晩期の土器棺
乳幼児用の土器棺

 全ての乳幼児が土器棺に入れられた訳ではない
 階級差・貧富差

 見つかる土器棺が少ないからですね 


 12津雲貝塚とは 後・晩期4000~2500年前

遠浅の海に生きた人々の遺跡
大正時代に20回発掘
170体の人骨を蒐集
京大保管。内一体の完全人骨は行方不明
早期~晩期1万年間
生活した豊かな村。
「津雲A式」後期前葉の指標土器
発掘人骨は、屈葬・装身具・抜歯など生活状態を知る手がかりとなった
晩期前半
粗製土器棺
遺跡の様子 市域での位置

 13平成の発掘
平成の発掘調査地は
二次堆積物でした。攪乱地のことです
浅鉢 津雲A式 後期
磨り消し縄文
注口土器/後期/抜歯の通過儀礼に使用か 早・前・中・後・晩期土器が出土している。
後期4400-3千年前の
磨消縄文・縁帯文・凹線文土器が多い 年表

  年表によれば、瀬戸内海では海辺のムラや離島が随分栄えたようです。 海上交通が自在にでき、食糧が豊富で、、、、交易もできたんでしょう。


 54原貝塚 隣接遺跡
早期~後期の貝塚
中心は前期7千年~5500年前
ハマグリが多い環境
現代の津雲貝塚にはハイガイが多い
ハマグリは深い海
ハイガイは泥砂の浅い海に生息
前期の土器
爪形文・押引文が特徴的。復元できる資料がなかったようだ
平成24年発掘 石匙・剥片・石鏃・
石槍/木葉形ですね
動物解体用かな
海進で海が深く砂底のきれいな海でハマグリ等がとれていた
貝種が豊富 貝塚に埋められ、残った複顔人骨は、5800-5700年前の人 十代後半男155cm鎖骨骨折治癒痕/脛骨変形歯突起形成不全
複願の経過

私にそっくりだ(笑)
高島黒土遺跡(次)
岡山県笠岡市高島
柄を付けて薙刀のように使ったかもしれません


 56隣接遺跡高島黒土遺跡
海岸砂州上の遺跡
前・中・後・晩期の遺跡
黒土B1・B2の土器形式
後期~晩期
貝塚ではなく砂の上から出土した
深鉢 浅鉢 型式の異なる
深鉢
浅鉢・深鉢


 57津雲貝塚の出土物
人骨
(大腿骨・脊柱骨・膝蓋骨)
鹿・亀・鮫・鯨・狸・猪 棒状鹿角製品・釣針 頭蓋骨が乗っていた土器底部・骨針 棒状鹿角製品・釣針 人骨出土状況
人骨出土状況 ※1 猪牙製斧・鹿角製腰飾り
土製勾玉土製玉・貝輪
鹿角製腰飾り・土製勾玉土製玉・貝輪 貝輪 オオヘビガイ・ヘナタリ・ハイガイ・レイシ・カガミガイ・アカニシ・テングニシ・
縄文土器 縄文土器 縄文土器 ※1笠岡市内に5つの貝塚
170体の人骨が出土。

 前期からの遺跡の中で、
後期~晩期4千~2千数百年前が絶頂期だった。
 この時期に身分差が生じ、貝の腕輪の女。鹿角製腰飾りの男。つまり、巫女や長老が手厚く葬られた。 サルボウ・マキガイ


 58大正の発掘人骨

大正4~10年にかけて発掘。170体以上の人骨発見
人骨出土状況 沢山人骨が出るので面白半分で発掘したようです


 60津雲貝塚の石器土器
縄文人の食生活猪・鹿・クジラ・ウミガメ
貝マキガイ・ハイガイ・フトヘナタリ・スガイ・レイシ
狩猟の道具・漁の道具石鏃・石槍・石錘・釣針 煮炊き道具・採集道具
津雲A式・打製磨製石斧・スクレイパー
アクセサリー・呪いの道具土製勾玉・土玉・鹿角製腰飾・貝輪
打製石斧
石錘・磨製石斧
石材は遠くから交易で入手 磨石・凹石(火きり杵の押さえ石か・木の実割り) 石鏃 サヌカイト製 石鏃 スクレイパー 片面刃潰し。切る・削る・掻き取る・えぐり取るなど様々用途 スクレイパー
黒曜石 大分県姫島産 流紋岩 刃が欠け易い
倉敷市内産
※1 石器材料の流紋岩塊
上、現在の露頭より採取
下、縄文時代の流紋岩 縄文時代のサヌカイト原石
香川県産
サヌカイト原石 サヌカイト香川県金山産 土偶と仮面 遺存高6.55cm半円形頭部T字状眉・鼻、目は短刻線
全体は不明・山形土偶
牡蠣貝の仮面は半島系風習。半島との交流あったか 事故・災害・病気・恐怖克服のため祈り・呪術/社会の円滑化に儀礼や祭祀↓
土偶頭部 目と口が線刻
側面に2本線で毛髪かヘアバンド線刻
このような表情の窺える土偶は中国地方では珍しい 土板
扁平な板状焼き物
両面に模様。お守り(呪符)
ではないか
※1石材の入手。
後期以降香川県金山産サヌカイト。四国~山陰に塊で流通。

大分県姫島産黒曜石は少量流通。海路・陸路で交易

倉敷市玉島黒崎産流紋岩も流通した
土偶は呪術具。女性を表現。岡山で11点出土(破片)


 62津雲貝塚の頭蓋骨
大正時代に出土の男性
抜歯の痕跡。成人の通過儀礼。切歯・犬歯・第1臼歯等抜歯

y7tr土器底部の上に安置した状態で出土
成人の通過儀礼・婚姻・親族との死別等の機会に この男性は
上顎の犬歯・下顎の犬歯・切歯を抜歯

頭を土器の底に入れて埋葬か
なぜ頭だけ? 首狩りか呪術か、戦争か
風習か、信仰か。死体の一部を切り取って置く?


 64アクセサリー
髪飾り・耳飾り・首飾り・腕輪・垂飾
装飾なのか魔除けなのか
富裕者・権力者・巫女などが着けていた

貝輪9/66体が装着
骨製6.1cm
鹿角製玦状耳飾21×2.2
・鹿角製腕飾5.4cm
鹿角製腰飾
・小型品(管状女性用としているのは珍しい 3cm)
・奇妙なる形状は鶏の頭似
当時はいなかった鶏
骨製の笄(こうがい=ヘアピンとしている)・勾玉が後期・晩期の縄文遺跡で作られたか交易したか。呪具か 腕輪を付けた女性人骨
右に7個、左に8個



 66津雲貝塚の貝種
津雲貝塚には泥底・浅海の海貝が多かった。 縄文前期にはハマグリ等深海砂底の貝が多く
縄文後晩期には浅海泥底の貝に変化し
現代では更に貝種が変化している。汚れたか、外来種が増えたか。


 71貝塚の生活環境
島ではないので、山の幸も採り放題でした 海山両方から、塩味のきいた食事ができたようですね
瀬戸内海は、旧石器に盆地
早期末~前期に海水進入 
前期初頭~前葉に高頂期 
内湾に多数の遺跡・貝塚 
中期から海退し陸地化
猪は雄の成体を、大きな貝のみを採取し、資源保護していた 全て離島でなく、本土の遺跡


 73貝塚の獣骨
貝塚出土のハマグリは
後期末葉~晩期初頭
3250年前
ハイガイは
後期前葉
3900年頃のもの
猪上腕骨・骨牙 鹿下顎骨って現代のね 鹿角 鹿角 



 90古代 笠岡市大飛島(おおひしま)の岩陰祭祀
大飛島では北東に大岩があり、その岩陰で祭祀が行われていた 奈良三彩・緑釉陶器などの高級陶器、唐三彩の模倣品が出土。 ミニチュア土器は愛知県猿投窯の製品。都の官吏が航行の安全を願った ※1 ガラス製品 福岡県赤井手遺跡ではガラス製作鋳型が出土している 高級品を奉納できない人はミニチュアを奉納したのか
ミニチュア土器※2 てづくねって、手作りの意味らしい。 大飛島の位置 祭祀遺跡の地図 ※1ガラス製品
 奈良~平安時代
  大飛島遺跡出土

※2ミニチュア土器
 弥生以降、祭祀に実物でなくミニチュアや代用品が用いられた。
 韓竃(移動式カマド)半島渡り。竃神祭祀(韓竃神社)も行われた。
ミニの須恵器の双耳壺(そうじこ)や平瓶(へいへい)の祭祀は都中心で、地方にはなく、都の役人が行った祭祀である。

  海上安全の祭祀
日本海では海の正倉院と言われる沖ノ島(宗像大社)が有名ですが、大飛島も、遣唐使船をはじめとする瀬戸内航路の安全祈願の岩陰祭祀が行われました。
積み荷の宝物の一部を、人身御供に差し出し、かわりに安全に通してもらう祭祀です。

そのとき、一瞬脳裏をよぎった光景があった。遣唐使船から経典が海に投げ捨てられる光景です。なんだと思ったら「天平の甍」高校生の時読んだ。
命と引き換えに、大切なものを海に投げ込む。

すると、昔からそのような風習があるのなら、自分の命の代わりに別の命を身代わりにするのかもしれない。
遣唐使船が積んでいた、あの大量の生口はそのためかもしれない。

生き残った生口は中国で売られ、大陸での活動資金となるが、乗せていく本当の理由は乗組員の身代わりに海に捧げるためではないかと感じた。