感想 この館はとても興味深い研究をされていて、 2014年の特別展「大交流時代ー鹿乗川流域遺跡群と古墳出現前夜の土器交流」の図録では、先史時代の東アジアとの交易や、 国内における物流などを詳細にまとめた素晴らしい冊子でした。 ただ、その「交易地図」の写真が、不鮮明ながら写っています。何かの参考になるかと存じます。 |
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安城市歴史博物館 常設展2 |
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古墳前期 680人面文土器 |
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681東海・関東の人面文
九州・瀬戸内地方の人面文 壺形土偶・土偶型容器 ピンボケ写真です。すいません。 上田市立丸子郷土博物館にも素晴らしい壺形土偶・土偶型容器があります。
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691顔の装いと表情 (※ここでの御理解。人面文土器は、吉備文化圏と東海地方に集中し、関東は東海からの派生でした。) 私たちの祖先は、様々な表情の顔を作り、描きました。そこには、生や死、精霊や神などへの思いが込められています。 土偶や埴輪の顔に見られる特徴のある装飾は、独特な表情を一層引き立てています。これらの顔は、何を物語っているのでしょう。 弥生時代の倭人には顔にイレズミをする風習があったことが、魏志倭人伝に出ています。安城市亀塚遺跡出土の人面文土器は、 この記述と同じころのもので、顔の入墨がよく表現されています。 亀塚遺跡の人面文土器と同じ描き方の顔や、それが略されて文様となった例が、西日本でも東日本でも発見されています。 顔に同じ入墨をする風習やその顔を描くことが、広い地域で行われていました。 |
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692人面文土器の分布 |
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考察 黥面文身 うちの近所に文身屋があったのです。寿司屋の隣に、暖簾に小さく文身。「文身」の意味を知らない人には何屋かわからないと思います。吃驚! 縄文人の多くは男女問わずサーファー耳の海人でした。弥生海人は、半島から来ました。彼ら漁労民は、海に潜り、船を巧みに操る海洋民です。 つい最近まで、海女・海士達は魔除けに六芒星や五芒星の入墨をしたり、道具に彫り込んだり、手拭いに縫い付けたりしていました。(現在も) 私の子供の頃まで海女は亭主が船を操り、腰に命綱を括っただけの素っ裸で潜っていました。(着物をまとうのは昭和40年頃の観光海女以後です) 潜水は大変危険で、事故が多く、海の底には魔物が住んでいて、水中拘束や潜水病などや、冷水の流入による突発的な死亡事故も起こります。 操船もまた同じで、潮流や突風によって船を流されると、もう帰ってこられない。嵐に遭えば身代わりを海に投げ込んで海神に助けを乞う。 このように、船乗りも海女も、海の魔物に魅入られないよう、魔物に引き込まれないよう、入墨をして追い払おうとしました。それが、黥面文身です。 (現代における文身が、その筋の人々が、威嚇のためにするのと同じです。海神を脅すのです。) 海の神は女性神なので、水夫達は醜い顔にしたのでしょう。魏志倭人伝は、使節と共に行った水夫たちを見て黥面文身と言っているのであって 使節全員が全身入墨とは言っていないのです。 更に、魏に行った船はどこの船でしょうか。この時期、半島の国々や都市国家の商人の活動が活発であり、これらの商船を利用したのでないかと 思います。大量の生口(奴隷)を積んで行き商売をしたのは、半島の商船だったから。その水夫たちも黥面文身で貫頭衣を着ていたのかもしれません。 私がここで申し上げたいのは、黥面文身土器は列島の一部でしか出ていません。出雲などでは、土器絵に死後の世界を描いたりしています。 魏志倭人伝は、特殊な職業の人々を描いたものにすぎないと思います。 従って、当時の列島人が全て黥面文身であったとする考えは間違っているのではないかと思います。 |
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700古墳時代 |
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711土偶・土偶型容器・人面文土器の系譜 土偶 人面を表現したものは縄文時代の土偶にすでにみることができ、晩期には顔に入墨の表現を持つもの(黥面土偶)が現れます。 弥生時代には土偶型容器や人面付壺へと変化するにつれ、用途も祭器・墓への副葬品・蔵骨器へと変わっていきました。 人面文土器 弥生時代後期になると瀬戸内地方でレンズ状の瞳のない目、目の上下の入墨などを特徴とした人面を土器に描くようになりました。 その影響を受けて弥生時代終末期には東海地方で盛んに作られるようになり、 古墳時代前期には、東海地方の影響を受けて東日本に人面文土器は広がっていったと考えられています。 畿内地方では人面文土器はほとんど出土していません。 東海の人面文土器 東海地方は全国的に人面文の描かれた土器が最も多く出土する地域ですが、その中でも特に 荒尾南・今宿遺跡の西濃地方、八王子・朝日遺跡の尾張低地部、鹿乗川流域遺跡群の西三河南部の3か所に限られており、 中でも、鹿乗川流域遺跡群での出土は際立っています。 人面文の用途はよくわかっていませんが祭祀に用いられたものと考えられます。
土偶の変遷と進化
人面文土器の成立
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712愛知県の主要古墳 |
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713巨大な墓の出現 桜井古墳群 桜井古墳群地図 同地域の現在 ムラを統率した有力な首長は、それにふさわしい特別な墓に葬られることになります。 3世紀の終わり頃には、近畿地方を中心に西日本各地で大規模な前方後円墳が造られました。 前方後円墳に葬られた首長達は政治的繋がりを持っていました。東日本でもやや遅れて、前方後円墳が造られるようになります。 空から見た桜井古墳群 安城市桜井町とその周辺には、前方後円墳・前方後方墳を中心に22基の古墳が分布し、桜井古墳群と呼ばれています。 矢作川流域では最も大規模で、この地域が当時の要所であったことを物語っています。 |
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714桜井古墳群の登場 古墳時代前期 古井町から桜井町にかけての碧海台地東縁部を中心に分布する23基からなる古墳群です。 台地下に広がる集落と関係が深い古墳群で、二子古墳・姫小川古墳・塚越古墳・獅子塚古墳の4基が古墳前期の古墳と考えられています。 これらの古墳の多くは、愛知県内に埴輪が普及する以前に築造された為、埴輪はなく、また、墳丘の崩落を防ぐ葺石もないのが特徴です。 |
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715古墳出土副葬品 |
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717鹿乗川流域遺跡群の遺物 |
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730古代 |
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731律令制下の碧海郡 7世紀後半から律令制による全国の統治機構の整備がすすめられました。 地方の行政機構を国・郡・里(郷)に編成し、それぞれ国司・郡司・里長(郷長)が置かれました。 国司は中央の皇族や貴族が任命されましたが、郡司は在地の有力者から選ばれました。 また、天皇家や畿内の有力豪族が古墳に変わって寺院を造営するようになると、地方でも有力豪族により寺院が建てられました。 更に奈良時代になると聖武天皇が、741年(天平13年)、各国に国分寺・国分尼寺建立の詔を発します。 三河では、国府と同様に現在の豊川市に置かれました。 西三河の古代集落遺跡・寺院跡 矢作川流域・碧海台地東縁部に遺跡が集中。古矢作川は今より東を流れていたため、碧海郡には現在の岡崎市南西部も含まれていた。 額田郡の集落遺跡は矢作川の氾濫で埋没してしまった。 |
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732西三河の古代寺院 古代寺院は、古墳時代に変わる新しい権威の象徴として、地域の有力豪族に受け入れられていきました。 西三河における最古の寺院は北野廃寺(岡崎市)で、7世紀後半に建立されました。その後、西三河各地にも寺院が建てられるようになります。 これらの寺院跡から出土する瓦は、北野廃寺の瓦と同系のものも多く、北野廃寺の瓦を製作した工人集団が、 他の寺院の造営にもかかわっていたことを伺わせます。 市域の古代寺院には寺領廃寺と別郷廃寺があり、いずれも北野廃寺瓦の文様を持つ瓦が出土していることから、 北野廃寺創建後間もなく造営が始められたと考えられています。 寺領廃寺 調査により、近藤・講堂・東塔の基壇と西塔・回廊の一部とみられる遺構が確認されました。出土した瓦から、7世紀代には建立が始まると 考えられています。 伽藍配置は、金堂の東西に塔を建てる東大寺式の可能性がありますが、西塔の存在は今後の調査で確認する必要があります。 奈良時代の後半の瓦も多量に出土しており、堂塔の建立・修理が行われていたと考えられます。このような動向が伺われるのは、 矢作川流域では寺領廃寺のみであり、奈良時代の中核的な寺院であった可能性があります。 別郷廃寺(抜粋) 別郷町の市杵島姫神社北側一帯で瓦と礎石が発見される。瓦の文様から7世紀代の建立開始と考えられる。未発掘。 別郷下り遺跡から平安時代の碗の底部に「寺」の墨書あり、近隣に寺院の存在が推定される。 また、裏郷遺跡の竪穴住居のかまどらしき焼土から丸瓦が出土し、廃寺跡と考えられている。別郷廃寺 別郷廃寺 ※碧海台地辺縁の地域に、一辺100mを超す大きな寺院が相次いで建立される7世紀代。なぜ不毛の台地辺縁部がそれほど繁栄し、地域領主が 強大な権力と財力を得ていたのか。確かに、沢山の古墳群の存在は、その裏付けであろうが、いったい何が富と権力の源だったのだろう。 |
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733木簡 木簡は木の板等に墨で文字を書いたものです。 用途に応じて文書木簡 (役人の事務連から・記録等) や付札木簡 (租税を現物で納める際の物や荷物に付けた) などに分けられます。 付札木簡には、紐で縛るための切込みがあるものや、刺し易いように下端がとがらせてあるものがあります。 その他、文字の練習に使われた習書木簡や、まじない等に使われた呪符木簡があります。 木簡は平城京など都城関連の遺跡や、地方の官衙や寺院跡等からも出土しており、地方においても役所などを中心に木簡を使って文書伝達を 行っていたことが明らかになりつつあります。 安城市域では下懸遺跡と惣作遺跡で各2点の計4点が見つかっています。両遺跡は近接した位置にあり、寺領廃寺や未発見の公的施設との 関連が想定されます。 |
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734廃寺
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740西三河の古代集落 律令制下の碧海 奈良時代には、律令による支配の拠点として、地方にも国衙や郡衙など大規模な建物が整備されました。この時期の市域の集落は台地の縁辺部を 中心に形成されていきました。 竪穴住居が一般的でしたが、近畿地方にやや遅れて次第に掘立柱建物が増えていきます。小針遺跡(岡崎市)では大型の竪穴住居だけでなく、 奈良時代の掘立柱建物が数多く見つかっており、出土遺物からも碧海郡の拠点的な集落であると考えられています。 市域では、御用地遺跡(柿碕町)や中狭間遺跡(桜井町)、加美遺跡(小川町)等で飛鳥時代から奈良時代の竪穴住居・掘立柱建物が検出された。 また、古代の溝から墨書土器が数多く出土しており、水辺で祭祀が行われていたことが伺えます。 |
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御用地遺跡 竈形土器は、 古墳時代以降に土器で作られたカマドです。移動式竈とも呼ばれます。前方の開口部(焚口)から薪を入れて点火し、 上部の孔(掛け口)に甕や甑を載せて煮炊きをしました。 日常での使用の他に、古墳の周溝から出土する例や、鳥形・刀形木製品と共に出土する例もあることから、 古墳祭祀や河川での律令祭祀で使用されたこともあったと考えられています。 ※畿内では古墳の副葬品として出土しますが、三河地方では、古墳時代以降に出土するようです。 土製支脚は、 竈の中で甕や甑を下から支えるために使用されたものです。土製・石製のほか土器を転用する場合もあります。 御用地遺跡では、上端部を窪ませる形状の土製支脚が顕著にみられます。 御用地遺跡出土土器
741御用地遺跡 7世紀中頃に形成され、9世紀には廃絶した集落遺跡。竪穴住居41棟、掘立柱建物17棟を確認。 御用地遺跡の北東1kmにある岡崎市小針遺跡では、古墳後期から奈良時代を中心とした竪穴住居298棟、掘立柱建物90棟を確認。 出土品からこの時期の碧海郡の中核的集落であったのに対し、御用地遺跡は、当時の一般的な集落であった。
下橋下遺跡
墨書土器 土器に墨や朱で文字や記号などを記したものです。市域では、古井堤遺跡・宮下遺跡・彼岸田遺跡(桜井町)などから多数出土しています。 桜林遺跡(桜井町)では古代の溝から須恵器や灰釉陶器に「中」「酒杯」と書した土器が、斎串状木製品や鏃形木製品と出土しています。 この溝の上流にあったとされる蒲池での水辺の祭祀に関わるもが流れてきたものと考えられています。
風字硯※ 古代の陶製硯の一つで、縁の形状が「風」という漢字の構(かまえ)に似るためにこう呼ばれています。 円面硯※ 古代の陶製硯の一つで、丸い形をしているためにこう呼ばれています。 斎串※ 斎串は河川跡・溝・井戸跡から出土する例が多く、水辺で行われる祭祀で使用された祭祀具であると考えられています。 |
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742製塩土器 製塩土器は沿岸部で塩生産に使用された土器ですが、内陸部の古代集落からも出土します。 県内での土器製塩は弥生時代以降、主に知多半島、三河湾沿岸、渥美半島で行われ、5世紀後半からは、継続して行われるようになりました。 7世紀後半以降には生産遺跡以外の内陸部の消費遺跡からも製塩土器の出土が増加します。 市域でも御用地遺跡から64点が出土しているのをはじめとして、合計130点を超える製塩土器が出土しています。 塩は矢作川およびその支流をさかのぼる川船で運ばれたと考えられており、製塩土器の出土は、 河川を利用した内陸部と海岸部の交易があったことを示しています。 土器製塩の行程 古代の土器製塩の行程は、@「採鹹作業」、A「煎熬作業」に分かれます。 @「採鹹作業」とは、塩分濃度を高めた鹹水(かんすい海水)を作る作業で、 A「煎熬作業」とは、鹹水を煮詰めて塩を作り出す作業です。これに用いるのが製塩土器です。 製塩土器に鹹水を入れて、尖った底の部分を砂に挿して火を焚き、塩を作り出します。この方法によって作られる塩はにがりの入った粗塩です。 |
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746荘園 皇室・貴族・大寺社などの私有地です。平安時代後半の摂関政治・院政の時期に、急速に増加しました。 鎌倉時代以降の絵巻物には、荘園での生活が生き生きと描かれています。 |
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エクステンションパネル 747弥生時代の環濠集落 弥生時代になると、まわりに濠を巡らせた「環濠集落」と呼ばれるムラが現れます。濠に沿ってその外側に土塁も巡らせていました。 ムラを守るためのものです。ムラを巡る濠の存在は、弥生時代が平和な時代でなかったことを物語っています。 鉄鏃も、縄文時代のものに比べて大型で重くなり、殺傷力が高くなりました。 また、弥生時代の墓から、石鏃が幾つも刺さった人骨が出土するのも、戦争があったことを意味しています。
ミカワのクニとホのクニ
白いカラス 「続日本紀」に、768年7月8日に三河国碧海郡の長谷部文選が、朝廷に白いカラスを献上したとあります。 また、同年7月にも白亀・青馬が肥後・日向から献上され、そのほかにも奈良時代の前後にはこのような記述が数多く見られます。 これは中国思想の「祥瑞=めでたい前触れ」で、 王の徳が厚く世の中が平穏であれば、、それに応じて天が珍しい動物や自然現象をもたらすというものです。 白いカラスは古い文献の調査で、太陽の精とみなされ、長谷部文選がその恩恵を受けるだけでなく、その年の碧海郡の調と庸が免除されました。
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750第四章 東からの風 (安城の中世) |
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751カマド復元模型 竪穴住居では、調理は縄文時代以来、長い間、住居の中央付近に設けられた炉で行われてきました。 しかし、5世紀になると朝鮮半島から渡来した文化の影響により、壁の中央に粘土を使ってかまどを作り、ここで調理が行われるようになりました。 西三河では、奈良時代までほとんどの竪穴住居に見られます。 長胴の甕を支脚の上に載せ、場合によっては、さらにその上に甑(蒸籠)を載せて調理が行われました。 |
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三河真宗の文化 鎌倉時代には、仏教の新しい周波が次々におこりました。三河では、このうちてせも特に念仏を唱える真宗 (一向宗) が盛んになりました。 752念仏のはじまり 三河真宗の始まりは、親鸞の弟子真佛らが康元元年(1256)関東から京へ向かう途中、矢作薬師寺で行った念仏の布教からです。 以後、真佛の弟子達によって西三河に広められ、念仏道場が建てられていきました。参照三河念仏の源流 西三河の仏堂・仏像 平安〜鎌倉時代、主に天台宗系の薬師信仰・阿弥陀信仰が盛んになり、その彫像を安置する仏堂が建てられました。 念仏はこれらの仏堂を拠点に布教されました。 |
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753東国と西国のさかい、三河 鎌倉時代には、西日本の京と東日本の鎌倉にそれぞれ政治・文化の中心がありました。 地理的に両者の中間にある三河国は、皇室・公家・寺社の所領が多く、最後の政治勢力下にある一方で、 東国からは、最も鎌倉に近い西国、逆に京へ最も近い東国という二つの性格を持つ重要な地点とみなされていました。 三河の足利氏 1221年(承久3)承久の乱 (承久の乱) で幕府方が勝利を収めると、戦功のあった下野国の有力御家人、足利義氏が三河国守護に任ぜられました。 足利氏は矢作宿に守護所・公文所を置き、尊氏までの6代にわたり守護を努めてきました。 また、多くの一族や家臣を三河の各地へ配置し、三河国は足利氏にとって重要な拠点になり、東国の政治文化の影響を強く受けるようになりました。 山茶碗 山茶碗は、平安時代末期〜室町時代の日用食器です。碗と小皿の2種類があり、簡素にできています。 美濃・瀬戸・常滑・渥美などの窯で大量に作られ、広く普及していました。 |
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757浄土真宗と聖徳太子信仰 三河真宗の美術 この地方には、宗祖の親鸞や初期の真宗に関する優れた仏画などが多くみられ、三河真宗の生い立ちを物語っています。 中でも太子信仰に関するものや、4種類の絵伝 (聖徳太子・善光寺如来・法然・親鸞の各絵伝) は、三河真宗の特色を現した代表的なものです。
浄土真宗と聖徳太子信仰 聖徳太子信仰とは、太子を日本の「仏教の祖」と捉え、「仏教の聖人」と讃える思想を指します。 その意味で浄土真宗を開いた親鸞(1173〜1263) は、太子信仰あるいは太子への深い尊敬の念を有していました。 親鸞が生きた時代の太子信仰は「聖徳太子=救世観音」とする信仰が中核となっていました。 親鸞の太子観を考える上でこうした時代背景を抜きにはできません。 親鸞29歳の時、比叡山での修行に見切りをつけ、太子信仰の場であった六角堂に参籠し、95日目に太子の導きで救世観音の夢告を受け、 法然 (1133〜1212) の弟子になります。 親鸞を本願念仏の教えへと導くことになった「六角堂の夢告」は親鸞にとっての最大の転機であり、親鸞と太子を結びつける象徴的な出来事です。 親鸞の記した太子和讃からも読み取れるように親鸞にとって聖徳太子は「和国の教主」であり、阿弥陀仏の本願へと導いた「救世観音」でした。
758安城の御影 親鸞83歳の時に描かれた御影 (肖像) です。絵師は朝円。近年の研究で讃文は親鸞直筆と認められました。 文和4年(1355) 親鸞の玄孫存覚がこの御影を見て詳細な記録を残しました(存覚袖日記)。 そこには当時の所有者を「三河国安城照空房」と記されており、これが「安城」という地名を確認できる最古の事例であり、 御影の名称の由来になっています。高僧の肖像としては非常に珍しく、日常品に囲まれた身近な姿です。 聖徳太子孝養像 聖徳太子16歳の像。父用明天皇(第31代)の病気平癒を祈願して孝養を尽くす姿を現したもので、かつては本證寺の本尊でした。 この像と同形状・同技法構造を持つ像が福井県本覚寺にもあり、同一作者による同時期の作例であるとされています。 聖徳太子絵伝 聖徳太子誕生から薨去 (こうきょ) 後の上宮王家滅亡までをほぼ年齢順に下から上へと展開しています。 全体で10幅を要する本證寺の絵伝は、鎌倉・室町時代の現存する聖徳太子絵伝の中では最大規模です。 第10幅では高麗王よりラクダなどが献じられる場面や妃に前世を語る場面、 人魚献上場面、太子と妃が同時に亡くなる場面などが描かれています。 人魚模型 「太子絵伝第10幅」には、太子摂政の頃に、人魚が献上された場面が描かれています。 平安中期の太子の年代記「聖徳太子伝暦」には、「献上された人魚を見た太子が、将来起きる不吉の兆しを予言した」と記されています。
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私見 ※福井県〜富山県は真宗門徒の大きな勢力があり、歴史的にも重要な事件もありました。(加賀一向一揆) 石川県では、加賀門徒と呼ばれる浄土真宗門徒が有名ですが、博物館でこれらの文献等を取り上げているのは見たことがありません。 三河門徒も大きな勢力を持った教団でした。当時の為政者との間に起った軋轢により、ここでも大きな一向一揆が起こりました。 地元安城では、とても大きな歴史的事件としての一向一揆が、時の政権とその後の宗教政策に与えた影響を鑑み、大きく取り上げられています。 |
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783三河一向一揆 リンク リンク リンク リンク リンク 15世紀後半、京都本願寺の法主となった蓮如は精力的な布教活動を行い、大きな教団を作り上げました。 三河では、多数の末寺を持つ有力寺院が、蓮如の不況により改派し、多くの門徒が本願寺派に組織されました。 その中心になった上宮寺・勝鬘寺(岡崎市)・本証寺は三河産火事と呼ばれ、大きな勢力を持っていました。 これら信州寺院では、一般庶民ばかりでなく、多くの武士も門徒であったことが注目されます。 三河三か寺事を中心とする教団は、小河国の一国支配を目指す松平家康と対立します。 引用「常設展示案内」 松平(徳川)家康は、桶狭間合戦の後、岡崎城へ戻り、三河の一国支配を目指しました。 そのため、大きな勢力を持っていた三河三か寺を中心とする教団と対立し、ついに1563年(永禄6)一揆がおきました。 家康の家臣には、少なからぬ (多くの) 一向宗門徒がおり、家康家臣団を二分する危機となりました。 戦いは6か月ほどで終わり、和議が成立しましたが、寺や道場は取り壊され、(家臣団の)一向宗 (の信仰) は禁止されました。
三河三か寺 15世紀後半、京都本願寺住持となった蓮如は、精力的な布教活動を行い、大きな教団を作り上げました。 三河では、多数の末寺を持つ有力寺院が蓮如の布教により改派し、多くの門徒が本願寺派に組織されました。 その中心となった上宮寺・勝鬘寺 (岡崎市)・本證寺 (安城市) は三河三か寺と呼ばれ大きな勢力を持っていました。
三河一向一揆年表 三河一向一揆は約半年間の戦闘でしたが、一向一揆とは別に、家康に不満を持つ国人領主の反抗の両面を持ったとも考えられています。 上野城境忠尚や吉良・桜井松平氏などがそれで、酒井忠尚は一揆が終息した後も立てこもり、半年後に逃亡して終わりました。 また、一向一揆後、家康は和議に反して、改宗しない坊主衆を追放しました。坊主衆が赦免されるのは、約20年後の天正11年(1583)のことでした。
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800第五章 百姓の世界 (安城の近世) |
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801安城の松平氏 |
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802安城城 |
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805海沿いの道 東海道は、江戸と京都を結ぶ街道で、ほぼ海岸に並行して作られました。徳川家康が全国統一すると、宿駅を整えたり、一里塚や松並木を 作ったりして一層整備されました。 三河を通る東海道のうち、安城市域には宿場はありませんが、宿場に近い活況を呈したところも出てきました。大浜茶屋村(浜屋町)です。 1843年天保14には多くの商家がありました。街道が整備されると、信仰の旅も盛んになりました。 庶民には自由な旅が許されない時代、巡礼・寺社参りは大目に見られ、全国的に広まった伊勢参りの他に、善行寺参りなど流行しました。 引用「常設展示案内」
矢作川 木曽山脈に水源をもつ矢作川は、岡崎平野に出るとゆっくりと三河湾に流れ、緩やかな流れは、川舟によって内陸に物資を運ぶことができました。 特に三河木綿の肥料・干鰯(ほしか)は大量に運ばれ、三河地方の繁栄を支えました。こうした矢作川の水運は海浜と山間部を結ぶ大動脈でした。 川船の航路 矢作川では、特に深いところをミオといいます。川舟の船頭は、ミオに沿って船を進めました。これが川舟の航路です。 船着き場は、渡場とか河岸とか呼ばれ、安城市域には、藤井町(2)川島町(1)箇所が明治の頃までありました。 川で運んだ御用材 写真の材木は1987年に矢作川の川床から出土した。全長11m。材に彫られた文字から、京都東本願寺宛の御用材で額田郡箱柳から出された。 この他にも1829年に碧海郡堀内村から出された材の記録もあります。
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806村のしくみ 村には庄屋・組頭・百姓代という村役人(地方三役)がいて、領主の命令を村民に伝え守らせる義務を追っていました。 中でも百姓代は本百姓の中から選ばれ、村政を見守る役を務めました。 村の重要なことは、村役人と本百姓とで寄合を開いて決めました。また、領主の命令や隣村との争いの裁決のときなど、必要があれば村絵図を 作りました。この(下の)得ずには、村の政治・経済に字有用なことが書かれています。 金製では、村毎に記録が丹念に残されました。検地帳や御触留帳がそれにあたり、また、現在の戸籍にあたる宗門改帳も作られました。 引用「常設展示案内」 郷蔵 元は「御蔵」と呼ばれ、近世の村々で年貢を領主に納めるまでの一時保管のための倉庫でした。 江戸時代半ばを過ぎたころからは、凶作や災難に備えて穀物を貯蔵することにも使われました。 年貢の搬出入や運送の便を図るため、人々が多く通用する場所に設置されました。蔵は領主が建設し敷地は年貢が免除され、 修復は村側が賄いました。
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807古文書 (私は苦手です) |
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808幕末の安城/先程の茶屋の中です |
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811養蚕業 養蚕農家の様子や生産方法を調べる文献は、ネット上にはありませんでした。 小説「安曇野」全五巻 臼井吉見著 では、信州安曇野の維新前後の農家の様子と養蚕の方法について詳しく書かれています。 小説自体は、新宿中村屋の創業主や、彫刻家荻原(守衛)禄山など安曇野の自然と芸術と男と女を描いた素晴らしい大作です。 1養蚕業の盛衰 日本では、養蚕・製糸業は江戸時代末期の開港以来、輸出に伴い急速に発展しました。 安城市域を含む碧海郡では、明治10年代に盛んだった綿業に代わり、明治20年代頃から養蚕業が農家の福城陽として定着しました。 明治24(1891)年には碧海郡内に養蚕伝習所が設置され、その3年後にには養蚕巡回教師が各地を回り、指導に当たりました。 こうした制度が整えられたこともあり、徐々に養蚕農家が増え始め、明治30年には碧海郡内の養蚕農家数は8,096戸まで増え、養蚕は最盛期を 迎えた。大正3(1914)年に第一次世界大戦が勃発すると、糸価の暴落により蚕の生産は減少しましたが、戦中から終戦にかけて再び上昇します。 この頃には、碧海郡産の繭は郡内だけでなく、長野県、三重県まで販売されるようになりました。 碧海群が日本のデンマークと呼ばれ始めた大正後期には、安城町の繭生産額は、米生産額に次いで多く、養蚕は現金収入を得るための農家の 重要な副業として地位をあげていきました。 しかし、昭和5(1930)年の昭和恐慌により事情は一転しました。多くの産業部門が打撃を受ける中、製糸業に於いても生糸相場の暴落や繭価格が 低下し、急激に製糸業は衰退していきました。その影響で碧海群では昭和初期には養蚕を取りやめる農家が増えていきました。
桑爪は、素手で摘み取るとすぐに爪が割れてしまうので、鉄の爪で挟み切る道具。今では、枝ごと切ってくるので以前よりは楽になった。 しかし、蚕はたちまち大きくなり、猛烈に食い、給餌のために一日中桑を摘み続けなければならない。大変な作業です。 2堀内のとある養蚕農家(昭和初期) 養蚕は5月〜10月中頃までで、春蚕・夏蚕・秋蚕(晩秋蚕)と多いときには4回行います。養蚕を始める前の準備に、蚕室という部屋を作ります。 蚕を病気や寒さから守るため、室内を消毒したり、火鉢で蚕室を温めました。 堀内では蚕室を持っていた農家はほとんどなく、座敷や屋根裏など使用できる部屋はほとんど蚕室に転用していました。 まず、種紙を種屋から購入し、卵から孵化させます。掃き立てをして、円座の上で給桑をします。また、蚕が病気にならないように床替えをします。 孵化してから一週間ほどで初眠に入り、脱皮します。蚕は眠や脱皮を繰り返し、1齢から5齢へと成長していきます。 蚕が成長してくると、与える葉の量や床替えも頻繁になります。特に5齢となった蚕は食欲旺盛で、一日3回蚕が見えなくなるまで与えました。 3齢くらいまでは細かく刻んで与えますが、成長すると枝ごと与えることもありました。また、桑の葉は畑で栽培していましたが、この時期は 足りなくなることがあり、桜井の桑市場や木曽川近辺にまで買いに行ったこともありました。 この時期の給桑や床替えは農家にとって大変な作業でした。5齢となった後、繭を作るのに適した足場へ移します。繭ができたら、毛羽を取ります。 その後、堀内では共同の小屋に集めて、まとめて製糸工場(主に山丸製糸)へ持っていきました。
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812農家のくらし 農家の家は起居の場であり、仕事場であると同時に季節ごとの祭りの行事が行われる場所でもありました。 衣食住を整えるには、大半を自給しなければならな飼ったので、屋敷のカド(前庭)やニワ(土間)は、仕事場として広い面積を必要としました。 生活の暦は、農作業を軸にして1年単位で作られ、その間に設けられた休日は、晴れ着を着たり、共同飲食をしたりする骨休めと遊びの日でした。 |
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813第六章 村の文化 文人 丈山の世界 石川丈山は、1583(天正11)年に三河国和泉郷に生まれる。始め武士として徳川家に仕え、後に儒学者として広島の浅野家に仕える。 晩年は京都一乗寺の詩仙堂に隠棲して漢詩人として過ごした。隷書・築庭にもすぐれ、江戸初期を代表する文人でした。 |
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814俳諧 俳諧狂俳の世界 文化・文政時代(1804-1829)には三河地方にも徘徊が広間しました。終わりの井上士朗門下の岡崎の鶴田卓池は俳諧西野主席と言われ、 門弟と共に三河俳壇として活躍しました。 狂俳は冠付(かむりづけ)ともいい、5文字のお題に7文字と5文字の12文字をつけて一句建てとしたもので、 俳諧は庄屋たちの間でたしなまれたのに対し、狂俳は庶民に広まりました。 |
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815第七章 暮らしの中の祭りと芸能 三河煙火 煙火と書いて「えんか」又は「はなび」と読む。煙火の起源は、古代から戦に用いられていた狼煙(ノロシ)だと言われていますが、三河煙火の 起こりは、鉄砲の火薬づくりの技術が民間に伝えられたものです。 祭礼には、各村ごとに煙火をつくり仲間同士で腕を競い合い、その製法は秘伝とされていました。 三河万歳 室町時代熱田の社僧によって伝えられたといわれる万歳は、はじめ合戦前の矢除けの祈祷が役目でした。江戸時代に優遇され、江戸の正月を 彩る祝福芸として喜ばれるようになりました。 |
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817祭り 「額」飾り 七夕に、額(枠)の中に絵などを美しく飾る祭。
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821祭りと芸能 棒の手 市内に伝わる桜井の棒の手は、16世紀に今川氏の家臣である式部太夫が桜井に住み着き、農民に教えた棒術がその始まりだといわれています。 江戸時代の中頃からから、桜井神社の秋の祭礼に演じられるようになり、式部流と称して26手を伝えています。 なお、県下の棒の手は、この他に72か所で伝えられています。 馬の塔(おんまとう)は、 大きく分けて飾り馬と、駆け馬があり、いずれも馬を美しく飾り、寺社へ奉納することを言います。 特に飾り馬は鞍に御幣や造花などの標具(だし)で飾ったものをいい、一方の駆け馬は、特別に設けられたばばで馬を走らせ、 そのくつわを若者がつかまえて走るものをいいます。市域でも昭和初期まで見られました。 |
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822第八章 日本デンマークの時代 (安城の近代) 都築弥厚の水路計画 江戸時代、都築弥厚は、碧海台地に矢作川の水を引いて土地を開く計画を立て、数年かけて測量を行い、文政10(1827)年に幕府に「新開願書」を 提出する。しかし、領主たちは開墾地が幕府領となることや、低地に出る排水のことなどで反対したため、ごく一部の土地しか許されませんでした。 初めの計画は行き詰まり、弥厚は借財を残したまま亡くなりました。
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823明治用水は、 愛知県豊田市水源町にて矢作川から取水し、安城市、豊田市、岡崎市、西尾市、碧南市、高浜市、刈谷市、知立市に水を供給している。 引用wiki明治用水 西三河地方南西部に農業用、工業用の水を供給する用水である。 幕末・明治維新期に、全国に先駆けて測量・開削が行われた近代農業用水だったため、明治という元号を冠するエポックメイキングな命名がされた。 大正時代には、農業王国として、中原に位置する安城市が「日本のデンマーク」と称して教科書に掲載されるほど、画期的な成功を収めた。 安城ヶ原の開発により、10万石以上の収量となった。(当時、岡崎藩が5万石) 引用wikipedia ※なんと、幕末から始まった、当時としては超巨大事業だった。江戸時代に尾張家の威光をもってすれば、簡単便利にできたことでないか。 愛知県の多くは明治用水・愛知用水ができるまでは、不毛の土地が広がっていたのだ。知らなかった。 |
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825第九章 町から都市へ 新美南吉と安城 童話「ごんぎつね」の作者として有名な新美南吉は、大正2年(1913)7月に愛知県知多郡半田町(現半田市)に生まれました。 半田中学校(現半田高校)の学生のころから捜索を始め、東京外国語学校(東京外国語大学)の学生時代には「手ぶくろを買いに」などを書いています。 安城市には昭和13年(1938)、安城高等女学校(現安城高校)のはょうしとして赴任しました。 その翌年からは、安城町出郷(現新田町)の下宿から学校に通いました。 安城で過ごした約5年間には、数多くの代表作が生まれました。 最初の童話「おじいさんのランプ」が出版されるなど、彼の短い生涯の中でもとりわけ輝いていた時期でした。 |
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850安城市歴史博物館 |