西日本の縄文 北陸の辺縁は何処まで 06 2015.10.15
朝来市埋蔵文化財センター「古代あさご館」 兵庫県朝来市山東町大月91-2 079-670-7330 月曜休館
2019.01.20に34青銅器祭祀と王権の部分を書き直しています。
交通 |
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道の駅「但馬のまほろば」内にあり、「北近畿豊岡自動車道」か、兵庫県の県道136号線で行くかである。 |
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移動方法はレンタカー |
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時代 |
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弥生〜古墳時代 |
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見所 |
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付近の茶すり山古墳 (復元公開されている) の展示施設で合わせて見学する |
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ここでは、兵庫県北部の考古情報が手に入りました。写真・文書 |
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動機 |
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先史時代より付近の交通の要衝なので資料はあるかもと、、、あまーーーーい。 |
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注意 |
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縄文資料は土器片が2点だけです。 |
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感想 |
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縄文遺物は土器片2点ですが、兵庫県北部の縄文遺跡出土の情報を記述しています。 |
この館でわかったこと
兵庫県北部にも旧石器・縄文遺跡があり、北近畿一帯と文化的な結びつきがあった。
火山性の土地を求めて、火山の裾野に暮らしていた。
この地域の弥生文化は山陰的であり、吉備地域とは異なる。
兵庫県では、何千年も土中に保存されてきた遺物が、掘り出されて僅か40年で廃棄されるという愚かなことがなされていたということ。
付近の観光名所
雲海の城「竹田城」 この城は以前より映画・ドラマで雲海に浮かぶ城としてよく使われてきました。
黙っていれば、隠れた名所で、今後も使われていたでしょう。
ところが、そんなことを知らない人が、公表してしまったので、大量の人が押し掛け、破壊、規制、観光化されてしまいました。残念
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もくじ |
00-2茶すり山古墳
00 外観・道程
01 入口展示
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20旧石器時代・縄文時代
21旧石器時代資料
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23縄文時代
24縄文土器
26縄文時代資料
28見蔵岡遺跡資料 |
30弥生時代
31前期
32中期
33後期
北方民族の渡来
34弥生時代資料
34青銅器祭祀と王権 |
40古墳時代 |
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00-2茶すり山古墳 但馬地方の大王級の人物の墳墓
築造時期 古墳時代中期中葉の早い段階 引用丹波・私市円山古墳と但馬・茶すり山古墳 - 京都府埋蔵文化
細い尾根の先端に造営された大型の円墳。この地は播磨(はりま)と但馬をつなぐ交通の要衝で、古代山陰道の郡部駅(こおりべのえき)の推定地に
あたっている。
古墳は長径90m、短径78m、高さ18mの2段築成の円墳で、近畿地方では最大、全国でも4番目の規模である。
墳頂平坦面は長径36m、短径27mの楕円形を呈し、墳丘全体の規模からするとかなり広く、この地域の墳丘形態の特徴を示していた。
墳丘は大部分が削り出しによって造られ、斜面の一部には葺石(ふきいし)が遺存し、
墳頂平坦面およびテラス部からは円筒埴輪(はにわ)や朝顔形埴輪が、
墳頂からは家形埴輪なども確認されたことにより、5世紀前半の築造と推定される。 転載コトバンク茶すり山古墳
墳頂平坦面では2基の埋葬施設を検出した。
第1主体部は中央南寄りにあり、墓坑が東西13.7m、南北10.5mで、その中央に長さ8.7mの組合式箱形木棺が埋設されていた。
棺内は粘土を敷き詰めて棺床とし、さらに小礫を敷き詰めた遺体埋葬部と、粘土敷きのままの副葬品埋納部とに分かれる。
第2主体部は、第1主体部の北側にあり、東西7.5m、南北3.7mの墓坑内に、長さ4.8mの木棺痕跡が確認されている。
副葬品は非常に豊富で、二つの主体部の副葬品を合わせると、青銅鏡4点、勾玉・管玉などの玉類2,000点、武具類では甲冑2組と盾7点、
武器類では鉄刀・鉄剣・鉄矛など85点と鉄鏃400点、農耕具など多数出土している。 転載文化財オンライン茶すり山古墳
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感想 |
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山の尾根を見て、山頂部を削ってその土を崩しながら円錐形に仕立て上げ、円墳を作るのは、かなりな知識と経験が必要でしょう。 |
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この時期、尾根の上に集団墓を作ることが始まっていたとはいえ、岩質の山塊でないか、いかに人手を省いて省力化して築造できるかは
主任技師の肩にかかっていたんでしょうね。 |
朝来市埋文ができるきっかけとなった古墳 |
被葬者は畿内の大王との繋がりを背景に武力で地域を統治した |
尾根の上に巨大な構築物を造らせた |
登ると取り付け部に出前方後円墳に見える |
埋文には高速を使うと行き易いが下道を走っていく |
墳丘下部。辺りは既に人工の丘・山・谷です |
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葺石は川原石でなく、山石を割った採石だった。合理的判断 |
ここから円墳墳丘部 |
大変広い |
第1埋葬施設 |
第2埋葬施設 |
むこうが第1手前が第2埋葬施設 |
埴輪は墳丘頂上と斜面中ほどのテラスに設置されていた |
取り囲んで円筒・朝顔・壺形等規則的に。第1埋葬施設上に家形埴輪 |
大和から来た古墳人の巨大墓を被支配の |
弥生人が造らされる。実に屈辱的ですね。 |
今も昔も支配者は権力を楯に住民を甚振る |
古墳学習館 |
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00外観・道程
高速を南から来ると快晴。SAで休憩 |
朝日が山の端から長い影を落とし始める |
北方面は深い霧中。竹田城が雲に浮かぶ |
道の駅
「但馬のまほろば」 |
ここに埋文があります。
人が集めやすく、道の駅の補助金がつかえて、誰も来ない山中に作るよりいいですね。 |
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01入口展示
写真が傾いているわけではありません。シェルターのような頑丈な建物 |
長持型石棺 (加古川市の竜山石製) 畿内の天皇家に繋がる古墳で→ |
多く使われた石材で、このことから但馬・丹波の支配者は皇族筋の人々 |
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ではないかと考えられている。って、加古川市で作って何百qも運ぶってどんだけの労力やねん |
埋文展示室の机上。キャリパー等が散乱したレイアウトで実にユニークだ |
こんなこと考える人だいすきです |
巨大な鏡の装飾 |
弥生古墳の展示が主 |
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20旧石器時代・縄文時代 |
21旧石器時代資料
旧石器・縄文の遺跡は山間部に多くあります。 九州・八ヶ岳などと同様、火山の噴火・降灰が、動植物の生育に適した環境をつくり、
必然的に人々が集中したのでしょう。
神鍋火山と旧石器人 |
噴火による開墾で山は動植物が生育しやすくなり、豊かで人も済み易かった |
大机火山20万年前と
神鍋火山2万年前噴火 |
なだらかな斜面で狩猟採集にはもってこいの場所 |
左:豊岡市大内谷古墳石室出土のナイフ形石器
畿内の二上山産出サヌカイト製。旧石器人は讃岐
でなく奈良から移動してきた人々だったようだ。
右:縄文時代草創期の遺跡 伊府遺跡 この頃の遺跡からは石器ばかりで土器が出土しないようだ
縄文の戦いとされている。 |
・上山高原からもサヌカイト製の横長ナイフ形石器が見つかっています。 転載但馬の主要遺跡 旧石器・縄文時代の遺跡
・豊岡市歴史博物館の学芸員が言ったが、古い遺物は廃棄だ。ならば、上記の実物はどこかに消え、きっと写真資料しか残っていないのでしょう。
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23縄文時代
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24縄文土器
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26縄文時代資料
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神鍋遺跡の縄文土器と竪穴住居跡※1 ※2 |
中谷貝塚の貝層見蔵岡石棒生産地では小柱状節理玄武岩製だった |
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住居跡は早期8千年前
神鍋・杉ケ沢・山ノ上遺跡 |
神鍋遺跡の住居跡
上ノ山遺跡の移設保存された住居跡 (建て替えの痕跡あり) |
※3 |
弥生時代の竪穴住居と
土器なんかキレの悪い編集をした本ですね。※4 |
※1
見蔵岡・伊府=磨製石器
神鍋=貯蔵穴・土器・石器
中谷貝塚=淡水・汽水貝・ 魚類海獣類骨・動物骨
※2遺跡は神鍋・鉢伏・上山高原に多く分布する。
食糧が豊富な狩場だった |
※3
住居跡イメージに富山県桜町遺跡の図を使用するのはよく似た住居址だったのかもしれない |
※4朝来市五反田遺跡の
竪穴住居跡から出土の
柱部材を据えるための溝
柱穴でなく溝穴で位置を揃えたのか。住居を廃棄するときに、その溝に土器を埋納し供献したと解釈しているようです。 |
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28見蔵岡遺跡資料 縄文時代 前期〜 とされるが、土器は中期末 (丹後町平C式) と 後期前葉 (遺跡南400mの小森岡遺跡の布施式) が中心。
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石材は、遺跡北麓の山塊から採取される流紋岩質溶結凝灰岩の柱状節理です。
遺跡からは、第一次加工(剥離)、第二次加工(敲打)、第三次加工(研磨)の各工程を示す石棒未製品が出土している。
また、完形品は火熱によって破砕しており、他の石柱にも受熱が認められることから、石棒の使用方法の一端を覗かせている。
但馬地方では豊岡市辻遺跡、香住町月岡下遺跡や日高町・養父町などでも中期末から後期前葉の大型石棒が出土し、西日本有数の密度である。
引用但馬の主要遺跡 旧石器・縄文時代の遺跡
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土器と土器文様
北陸的な文様に見える |
当地独自の文様のようだ |
穴開き口縁部はどこかで見た |
ピンボケ |
石鏃・尖頭器
縄文時代は尖頭器ではなく石槍というべきです
(尖頭器=旧石器用語) |
打ち欠き石=石錘
鮭の溯上があったのですが網で捕ったのかな |
台石・石皿・磨石・叩石 |
磨製石斧 |
玉斧・磨製石製品
制作途中に織れた石棒 |
石棒
左図の拡大 |
見蔵岡遺跡製の石棒。
滋賀県東近江市埋文の
能登川石田遺跡の石棒と大変よく似ています。
おそらくここから運ばれたのでしょう |
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30弥生時代
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31前期 岡山県吉備地方とはかなり雰囲気の違う土器です。 山陰系の土器かな。
壺・甕 |
壺 片引遺跡 |
壺 片引遺跡 |
石包丁 片引遺跡 |
石斧 片引遺跡 |
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32中期
壺・鉢・台付鉢 仲田遺跡 |
甕 仲田遺跡 |
甕 仲田遺跡 |
器台・高坏 仲田遺跡 |
台付鉢・壺 仲田遺跡 |
石鏃 加都遺跡・仲田遺跡 |
磨製石剣 仲田遺跡 |
環状石斧 片引・仲田・林垣遺跡 |
戦闘用の環状石斧が
2個も出土。
材質はなんだろう。この地で作ったのか、母国から持ってきたのか。 |
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33後期
砥石 大盛山遺跡 |
壺 大盛山遺跡 |
高坏 大盛山遺跡 |
高坏 大盛山遺跡
下に耳のような装飾がついた高坏は見たことない |
器台 大盛山遺跡 |
木製楯 南八代田遺跡 |
投弾石 大盛山遺跡
対人用の武器※1 |
高坏 宮ノ本遺跡 |
玉・剥片 宮ノ本遺跡 |
台付甕・甕・鉢
宮ノ本遺跡 |
台付鉢・甕 宮ノ本遺跡 |
器台・壺 宮ノ本遺跡 |
壺 宮ノ本遺跡 |
破砕銅鐸 久田谷遺跡
※2 |
※1
兵庫県北部海岸の但馬地方でも、次第に武器が増加して、戦闘が激しかったことを物語っているようです。
※2
銅鐸祭祀は西日本に広く分布していたが、
銅鏡文化の者たちがこれを征服し、ために銅鐸銅剣が破壊・遺棄・埋設された。
この新しく登場した銅鏡文化人とはどんな出自の人たちだったのか。 |
北方系民族の渡来
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一時期ブームとなった北方民族渡来説・騎馬民族征服説は下火となった。
山陰・北陸の四隅突出形墳丘墓は広島山中から始まったとされ、突然増加した大量の馬具は伽耶・新羅製とされ、高句麗人はいなかったといわれている。しかし、そんなはずはない。
大阪の喜連(きれ)と言う地名は、高句麗、高(尊称)+句麗(くれと発音)これが喜連になった。つまり、高句麗人はいたのである。
引用〈喜連瓜破〉難読地名
どれぐらいいて、どうヤマト政権とかかわったかが問題だ。 |
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34弥生時代資料
妙楽寺遺跡の墳墓群
山の尾根上に方形の群集墳 |
祢布ヶ森遺跡の弥生土器
遺跡は縄文・弥生&奈良〜平安。但馬国府・刻文支持造営以前の集落跡 |
仲田遺跡の弥生時代の住居跡 |
以後パネル |
村のリーダーは始めからいた。ある種屯田兵みたいな集団。 |
次第に領土・食糧・農奴・支配権を巡る戦乱が頻発 |
銅剣・銅矛・銅鐸などが次第に信仰の対象になった。 |
銅鏡信仰の武力集団に支配され、他の祭祀具は→ |
破壊されたり、隠されたりした。
その支配集団がヤマトの政権であった。 |
銅剣・銅鐸・銅矛などが本来の目的を外れて、信仰の対象になるのは
キラキラ光るものが珍しかった時代の文化力の低い集団の信仰と言える。
どんな祭祀だったか。 |
銅鏡は、はっきりと道教(鬼道)という宗教の形、呪術の形をとっているので、
光るものをめでる、
奇妙な原始祭祀は勝てないでしょう。そこにも司祭・巫女がいたのでしょうね。 |
銅鏡文化人に支配された列島では、やがてそのまま、古墳文化へと進んでいく。
新たな文化、古墳文化人が支配者に加わったのか。
古墳文化の意味は大王の文化、支配者の文化だ |
34青銅器祭祀と王権
考察2019.01.20
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上の記述は誤った私見でした
銅剣・銅矛・銅鐸などが次第に信仰の対象になった。
銅鏡信仰の武力集団に支配され、他の祭祀具は破壊されたり、隠されたりした。
その支配集団がヤマトの政権であった。
銅剣・銅鐸・銅矛などが本来の目的を外れて、信仰の対象になるのはキラキラ光るものが珍しかった時代の文化力の低い集団の信仰と言える。
どんな祭祀だったか。
銅鏡は、はっきりと道教(鬼道)という宗教の形、呪術の形をとっているので、 光るものをめでる、奇妙な原始祭祀は勝てないでしょう。そこにも司祭・巫女がいたのでしょうね。
銅鏡文化人に支配された列島では、やがてそのまま、古墳文化へと進んでいく。
新たな文化、古墳文化人が支配者に加わったのか。 古墳文化の意味は大王の文化、支配者の文化だ |
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少し考えなおした私見2019.01.20
弥生早期・前期の人々は、石器を農耕具や武器として利用していました。
弥生中期になると大陸や半島からもたらされた、キラキラ光る金属器の、始めて見る輝きに魅了され、それまでの自然崇拝信仰の中の何かと結びついて、このキラキラを崇めるようになりました。きっと、旭日かと思います。
この金属器信仰の進展によって、各地域でいろいろな大きさや意匠のものが作られ、装飾され、装飾が発達して変化していきました。
その中では、銅鐸の発達が著しかったかと思います。
これら、青銅製武器型祭器(剣・鉾・戈)と、青銅製釣り鐘型祭器(銅鐸)を、農耕儀礼として奉賛した時代は何百年と続き、専門の巫女や儀礼が発達し、集団の中での宗教的指導者として高い地位を得ていました。
しかし、弥生時代後期になると、稲作開始から100年後に始まった入植地間の武力対立が次第に拡大し、非常に広範囲を対象とする領土獲得戦争となり、それまでの農業指導者ではなく、軍事指導者が力を持つようになります。
人々の祈りも、農耕祭祀だけではなく、負ければ皆殺しか (青谷上寺地遺跡) 奴隷になるとわかっているので、戦勝祈願や戦死者への祈りなども増大し、それはやがて戦争指導者に対する尊敬と祈り、となり、農耕祭祀の豊作祈願よりも、高い地位を得るようになる。
そして、その戦勝祈願祭祀の司祭を軍事指導者自らが務めることによって集団内での最高の地位、(軍事的にも、精神的にも)を獲得し、即ち、王となった。
最高の地位を占めた王は崇拝の対象となり、やがて、金属器崇拝という、二重の信仰を排除し、あるところでは青銅祭器を火で焼いて打ち壊したり、青銅器司祭自らによってか、命じられてか、捨ててしまう、土中埋納するということになった。
もしかしたらこの時、青銅器司祭は、もう一度青銅器祭祀が復活することを願って隠したのかもしれない。
これによって地域の王は唯一の崇拝対象者となり、権力・財力を独り占めにできたのだが、この王権の獲得と、青銅祭器追放が、なぜ全国的に一斉に起こったのかということがわからない。何らかのムーブメントのようなものがあったのだろうか。
しかし、青銅器祭祀を禁教にはしたが、人々の精神には大きくそれが残っており、その最も強かった者が王自身であり、従って、キラキラの銅鏡を、神自身として身近に置き、死んだときには自分の棺に入れさせて、死後の再生復活を願ったのであろう。
実際、銅鏡は、はっきりと道教(鬼道)という宗教の形、呪術の形をとっているので、全能の支配者で司祭である王がこれを携えていてもおかしくはなかったであろう。なぜなら、これは、新しい青銅祭器「鏡」だからである。
なぜ、日本中で同じ動きが起こったのか、理由はわからない。しかし、この動きがやがて連合国家の樹立、大和王権構築へと繋がって行くのである。
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40古墳時代
朝来市遺跡マップ写真を加工したら見えなくなって、戻せない。(笑) |
人物埴輪脚台・円筒埴輪 |
森向山古墳群森向山古墳群6c初頭
地域豪族の円形墓 |
船宮古墳5c前半〜中頃円筒埴輪と |
人物埴輪の部分 |
全長90m前方後円墳
周濠・造出・葺石・埴輪
茶すり山古墳以後の |
但馬王の古墳。注目は
人物・動物埴輪。牛の埴輪は日本最古。※1 |
茶すり山古墳の埴輪古墳周縁に並べた埴輪 |
茶すり山古墳5世紀前半埴輪各部の名称 |
但馬地域の埴輪出土地 |
茶すり山古墳の家形埴輪 |
但馬・丹波・丹後の王はヤマト政権との関連深い一族だった |
茶すり山古墳 |
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直径90mの超巨大円墳。同時期では全国トップクラス。
副葬品、三面の鏡・玉等の威信財。二領の甲冑・大量の刀剣・7枚の楯等大量の武器・武具
被葬者の権力の大きさを物語る。 |
※1牛の埴輪は
豊岡市歴史博物館で展示しています。
ただし、鼻先の部分だけですよ 次回掲載分です。 |
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