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 北海道の縄文 №20   2022.06.09-2

 ポー川史跡自然公園 (開館4/29-11/23期間中無休)
  標津町歴史民俗資料館 北海道標津郡標津町伊茶仁
   0153-82-3674 11/24~4/28休館 撮影可 リンク

 館の特徴
遺跡と湿地と、博物館の融合。カリカリウス遺跡のヒカリゴケはぜひ見たい。
交通 ・レンタカー
標津バスターミナルからバス5分(釧路本線標津茶駅から標津行きバス1時間50分)
近隣観光地 野付半島低湿地地形など
  近隣博物館  
  宿泊情報  
 
  
 



02外観
03資料館外観
10復元住居
20標津遺跡群案内
21世界文化遺產登録へ
22竪穴住居
23サケの産卵に適した環境
24オホーツク文化アイヌ文化
26日本遺産鮭の聖地
27先人の足跡を辿る

史跡ポー川自然公園
40標津湿原
45標津湿原の形成
47標津湿原の植生

50標津湿原散策
60ポー川


カリカリウス遺跡
70湿原展望台と遺跡説明
73カリカリウス遺跡のあらまし
74擦文時代の二つの文化
75大規模竪穴住居群
80カリカリウス遺跡散策
82オホーツク住居
※推測 集落の環境
※考察オホーツク人の南下と
  トビニタイ文化
※考察 竪穴の再利用
88トビニタイ住居

91復元住居とヒカリゴケ
93ミズナラの巨樹

100標津町歴史民俗資料館
101根室海峡の形成
110標津遺跡群
112伊茶仁川流域の遺跡群
114標津の歴史年表
115標津イチャルパ
120遺跡のあれこれ
125色々な竪穴住居跡
130ポー川の自然
133動物
140サケ文化
145食物残渣

200異文化交流
210石器
212黒曜石
216石斧材料
※資料 希少石材
218択捉島の遺物
※資料 択捉島の土器
220翡翠の勾玉
223標津遺跡群の漆工芸

230古代日本と北方社会
232擦文文化とオホーツク文化
※考察 擦文人の発生
※考察 擦文文化とは何か
233トビニタイ文化
※トビニタイ文化とは
240オホーツク期とトビニタイ期

250アイヌ文化
250チャシの時代
260チャシの物語
263アイヌ文化
271内耳鉄鍋と吊耳鉄鍋
273道具流

300土器
310縄文土器
350続縄文時代
360擦文時代
370トビニタイ文化

400ポー川の生き物
 
 
 02外観
標津町ポー川史跡自然公園案内図
ポー川史跡自然公園
約630ha
自然公園の動画

ビジターセンター受付で湿原と遺跡周遊用に自転車を無料で借りれます。
竪穴住居跡群
伊茶仁カリカリウス遺跡
標津町
縄文時代と平安時代
竪穴建物跡2549箇所
伊茶仁カリカリウス遺跡
標津湿原
史跡自然公園内案内
標津湿原
推定総面積212ha内
80haが国の天然記念物

書籍案内
書籍案内
ポー川史跡自然公園の自然・歴史・文化
天然記念物標津湿原保全対策調査報告書別冊
  ポー川史跡自然公園の 自然・歴史・文化

       標津町教育委員会 2016
 フルカラー210 ページ
 頒布価格 1,000円 (税込)
ポイント
・図鑑としても活用できます。公園内の動植物写真を多数掲載。
・アイヌ文化の植物利用法も紹介。
・標津の地形の成り立ちを図解で解説。ブラタモリの世界が広がります。

 標津町が40年に渡って守り続けてきたポー川史跡自然公園。 一万年におよぶ人の暮らしの跡が、 多種多様な動植物の生息 環境と共に残されたこの公園は、 北海道の自然、歴史、文化 が凝集した貴重な場所となっています。 本書は、これまでの 調査研究で明らかとなった、 遺跡、 植物、動物、 そしてアイ ヌ文化など、 ポー川史跡自然公園が有する様々な価値を平易 な文章でわかり易く解説しています。 この本を読んでから公 園を歩くと、きっと様々な発見がみつかることでしょう。

  発行: 標津町教育委員会 本書に関するお問合せ ポー川史跡自然公園 0153-82-3674

 03資料館・ビジターセンター外観
資料館外観

資料館入口 入口右側にビジターセンター受付。湿原と遺跡周遊用の自転車を無料で借りれます。建物内部は資料館です。
この時、ビジターセンターの電話番号を携帯に入れるように勧められます。理由は後でわかります。

農家の屋根をイメージしたのかと思ったが、北海道にはこんな屋根はなく、ピラミッドを意識したようです。
円形と四角垂の展示館は狭く低く展示が難しい構造です。
 


 10復元住居


 11竪穴住居の復元
 円形の竪穴住居は今から3500年前の縄文時代晩期のもの。
 方形の竪穴住居は今から1000年前の擦文時代中期のものを想定して復元しています。
この2つの竪穴住居は、日高管内平取町二風谷のアイヌ資料館の萱野茂氏と仲間の人達によって昭和55年8月に復元されました。
萱野氏達は伝統的なアイヌ文化のチセ(家)をたくさん建てており、その経験を生かして竪穴住居が復元されました。

  規模       使った材料
地上高 2.8m 木材径 7cm×3.5m 6本  かや  径30cm  76把
直径 4.8m 5cm×3.5m 40本 シナ縄  1巻10m  50巻 
深さ 0.6m 2cm×3.5m 40本 ヌマガヤすだれ     5枚
床面積 18.0m 30cm×1.2m 8本      

資料館周辺の復元住居 縄文住居
竪穴住居の復元

 12竪穴住居とチセ
 アイヌのチセ (家)は地上で組み立てた屋根をチャプニ (家持ちあげる) といって人々が力を合わせて柱の上に持ちあげます。
また、アイヌ語では 屋根の形にみえる山をチセヌプリ (家山) と呼びます。(※チセ=家、ヌプリ=山)
 そんなところから、昔は屋根の部分だけがチャ (家) だった時代があっ たと考えており、 それは竪穴住居の姿であろうと思われます。
 擦文時代(約1,000年前)の復元住居

  規模       使った材料
地上高 3.58m 木材径 15cm×6.5m 4本  かや  径30cm  160把
間口 6.5m 10cm×3.5m 6本 ぶどうつる  1巻3m  2巻 
奥行 5.7m 5cm×3.5m 76本 ヌマガヤすだれ     8枚
孵化さ 1.0m 30cm×1.2m 8本      
  床面積 26.4㎡ 30cm×1.2m 55本      

擦文住居 竪穴住居とチセ
 

 リーフレットより (博物館内配布)

 世界遺産登録を目指す
 20標津遺跡群
  ※標津町は標津遺跡群の世界遺産登録をめざしてこのようなリーフレットを提供しています。
  標津遺跡群が1万年以上続いているのは、サケの遡上があったからだとし、サケに支えられた文化だとしています。 確かに、その通りだと思います。 

 21世界文化遺產
  暫定一覧表記載候補資產
  標津遺跡群
 標津遺跡群の中心部は、 氷期に知床連山から運ばれた土砂でできた扇状地形の端に分布しています。
知床山麓から伏流した水が、扇状地形の端で集中して湧き出し、 サケ・マスの良い産卵場をつくり、昔から人々の漁場や生活の場となってきました。

世界文化遺産へ
 平成19年に標津町・北見市・北海道が共同して標津町 の標津遺跡群と北見市の常呂遺跡群を、「北海道東部のみで残る大規模竪穴住居跡群」の名称で世界文化遺産暫 定一覧表に記載する提案を文化庁に提出しました。
 審査の結果、暫定一覧表記載には至りませんでしたが、 暫定一覧表記載候補の文化遺産として位置づけられました。また、令和2年には日本遺産「鮭の聖地」の物語~根室 海峡一万年の道程~のストーリーを証明する、重要な文化 財の一つにも認定されました。
 今後はさらに資産価値を高め、再び世界遺産登録に向け 挑戦していくこととなります。

標津遺跡群とは
 標津遺跡群は、主に伊茶仁川、 ポー川流域を中心に分布する遺跡群の総称です。一万年前の縄文時代早期から約700年前の擦文時代に至る竪穴住居跡や、約500年前のアイヌ文化のチャシ跡などが残されています。その最大の特徴は、竪穴住居跡やチャシ跡が、現在の地表面から窪みとして観 察できることにあります。 竪穴住居跡窪みの総数は、約4,400か所に達し、日本最大規模を誇っています。
 これら遺跡群の内、 伊茶仁カリカリウス遺跡、 古道遺跡、三 本木遺跡の3つの遺跡が、 国の史跡として指定されています。

 標津遺跡群のガイド、 学校等の見学、体験学習のお問い合わせは標津町ポー川史跡自然公園 (TEL 0153-82-3674) まで
 写真土器は、伊茶仁カリカリウス遺跡出土

標津遺跡群
 22
■竪穴住居
 竪穴住居は、新石器時代を代表する住居形式で、地面 を掘り窪めて上に屋根をかけた半地下式の構造をしてい ます。世界各地にみられますが、 日本列島を含むアムール 川中・下流域、ロシア沿海州、中国東北地方、 朝鮮半島な どの東北アジア極東地域では、旧石器時代終末頃から20世紀初頭までの一万数千年に及ぶ長期間、 気密性と断熱 性に優れた住まいとして選択されてきました。

■窪んだままの竪穴住居跡
 冷涼な気候の北海道は、 腐食土壌の発達が遅いた め、竪穴住居跡が埋まらず窪みとして残っ ていま 特 す。 に北海道東部地域では顕著で、独特の遺跡景観を見せ ています。こうした遺跡景観はアムール川流域や沿海 州、オホーツク海やベーリング海を取り巻く北方の遺跡と 共通しています。
 窪みの形状から大まかな年代を知ることができ、 立地や
分布から生業や集落の様子を見てとることができます。

竪穴住居の分布
北半球中緯度地域
復元された竪穴住居
窪んだままの竪穴住居跡

竪穴住居のくぼみに雪が残る伊茶仁カリカリウス遺跡
標津遺跡群遺跡分布図
 秋に遡上するサケを頼りに沢山の集落遺跡と膨大な数の竪穴住居がつくられた。
 サケは気候変動に左右されない安定資源だった。

 23
サケの産卵に適した環境
 標津遺跡群周辺には、多くの湧き水の泉が存在します。 知床連山の南端に位置する武佐岳の
麓からの伏流水が、 この遺跡群の場所で一斉に湧き出ているのです。泉の数は80か所に及びま す。地熱の影響を受けている湧き水は真冬でも決して凍ることがないため、人々はこの水を求め、 竪穴住居を泉の近くに築きました。 泉周辺の発掘調査では、 縄文時代からアイヌ文化期に至る、 様々な時代の土器や鉄の道具がみつかっています。 泉が大昔から人々の暮らしを支えてきたこと
がわかるのです。
 人々の暮らしを支えた泉は、動物たちにとっても貴重な場所でした。 特にサケの仲間にとっては、 産卵床として重要です。サケは秋に川を遡上して卵を産みますが、産んだ卵が凍ってしまっては困 ります。そのため、冬でも凍ることのない湧き水近くに産卵床を設ける習性があります。 大昔の人々 は、この泉近くに住居を構えれば、水だけでなく、越冬の保存食として貴重なサケも、同時に手に入 れることができたのです。
 標津遺跡群の中核遺跡、 伊茶仁カリカリウス遺跡の「伊茶仁」 は、 アイヌ語で「サケが産卵すると ころ」を意味し、アイヌの人々も、ここが多くのサケが集まる場所と認識していたことがわかります。

■サケをたよりに一万年続いた暮らし
 標津遺跡群では、縄文時代早期からアイヌ文化期に至る、 長 期にわたった生活痕跡がみつかっています。 河川に沿った1~2 kmの範囲に、一万年にわたり、 竪穴住居が繰り返し建てられ続 けた結果、大規模竪穴住居跡群が形成されました。 遺跡を発 掘調査すると、 あらゆる時代の竪穴住居跡から多量のサケ科 魚類の骨がみつかります。 ここでの長期の暮らしが、サケの利 用に重点を置いたものであったことが読み取れるのです。しかし サケだけでは一年を通した暮らしは支えきれません。 遺跡を残し た人々は、普段は根室海峡沿岸各所の様々な場所で、 その土 地の資源を手に入れて暮らし、秋サケ漁の時期になると、沿岸 一帯から標津遺跡群に集まり、皆でサケを獲って共同生活して いたと考えられています。

標津遺跡群の竪穴住居数一覧表
根室海峡沿岸竪穴分布図
サケの散乱に適した環境
・カリカリウス遺跡から山のように出土した鮭の骨
・冬でも凍結しない湧水の泉
サケをたよりに一万年続いた暮らし

遺跡群まで遡上したカラフトマス
 24
■オホーツク文化からみたアイヌ文化史
 標津遺跡群の歴史的な特徴のひとつは、オホーツク文化からみたアイヌ文化史を伝える遺跡群で あることです。
 オホーツク文化は、沿海州・樺太方面から、 北海道オホーツク海沿岸に、 5世紀から9世紀頃数度 にわたって移動してきた人々が担った古代北方文化です。 このうち、北海道東部のオホーツク文化 は、北海道土着の擦文文化からの影響を受け、トビニタイ文化という、この地域特有の文化へと発展 し、後のアイヌ文化形成に影響を与えたといわれています。

羅臼町松法川北岸遺跡のオホーツク文化出土品 (所蔵:羅臼町郷土資料館 撮影 : 佐藤雅彦)
■アイヌ文化の歴史の鍵を握るトビニタイ文化
 アイヌの人々は北海道の先住民族ですが、 その歴史にはまだまだ未解明な点が多く残されてい ます。 アイヌ文化には文字がなく、自らの歩みを記すことがなかったため、 その歴史を紐解くには、遺 跡を発掘調査してわかる考古学的情報に頼る部分が大きいのです。現在知られているアイヌ文化 の諸要素の中に、クマへの信仰や海獣狩猟の技術など、 およそ1,200年前まで栄えたオホーツク文 化にみられる特徴が存在します。しかし当時北海道全域には、オホーツク文化とは異なる擦文文化 の人々が多く暮らしていました。 北海道全体では決して主流でなかったオホーツク文化の特徴が、 いかにしてアイヌ文化の中に受け継がれたのかを知る鍵が、 標津遺跡群を中心に存在したオホー ツク文化の後継 「トビニタイ文化」の存在です。トビニタイ文化の人々が使っていた土器には、オホー ツク文化の特徴である粘土紐を貼り付ける文様と、擦文文化の特徴である口が大きく開いたかた ちや線を刻んで入れる文様といった、両文化の要素がみられます。 トビニタイ文化がオホーツク文化 と擦文文化の接点となり、後のアイヌ文化に多くの影響を与えたであろうと考えられています。

擦文土器(左側2個) とトビニタイ土器 (右側5個)
(撮影:佐藤雅彦)

擦文土器の文様
トビニタイ土器の文様


エゾゴゼンタチバナ
コケモモ
ヒメシャクナゲ

標津湿原の木道から植物を観察する
■遺跡を残した人々を支えた自然環境
遺跡群周辺には、開拓以前の姿を留める自然環境がよく残されています。 天然記念物標津湿 原もその一つです。 この湿原は、 約 6,000年前にピークを迎えた地球温暖期の海進と、その後の 寒冷化に伴う海退を経た海水面の変動、 そして同じころ活発に活動した摩周カルデラ形成時の 火砕流砕屑物再堆積の影響を受ける中で形成されました。 チャミズゴケを主とするブルトがマット 状に発達した高層湿原を特徴とし、エゾゴゼンタチバナなど北方系とされる種が生育していま す。湿原を含む周辺環境全体では、これまでに維管束植物335種、蘚苔類100種、昆虫816種、魚 類21種、哺乳類30種が確認され、この地域の動植物在来種の多くが生育しています。長期にわ たり人々を支えた往時の伝統的生活空間が、いまも遺跡とともに残されているのです。

●このパンフレットに関するお問い合わせ  TEL・FAX: 0153-82-3674 e-mail :po-gawa@shibetsutown.jp
標津町ポー川史跡自然公園
 
 26
日本遺産
鮭の聖地の物語
根室海峡一万年の道程 その歩みを象徴する 12のエピソード

『知床の海上に神様が袋の中の魚の骨をばらまくと、それがみるみる鮭の姿になって、人々 の住む村々のある川をのぼってくる』―「鮭の聖地」の由来となった、このアイヌ伝承の舞台、根室海峡。ここで織りなされた一万年の歴史文化を象 徴する12の物語をたどります。

鮭の聖地一万年の源流 標津遺跡群 JAPAN HERITAGE

標津町に残る「標津遺跡群」は日本最大の竪穴住居跡群です。 根室海峡に注ぐポー川・ 伊茶仁川流域を中心に約4,400もの竪穴が窪みで観察できます。一万年にわたって人々 が暮らし続けたこの遺跡の顕著な特色は、 どの時代の竪穴を発掘してもサケ科魚類の骨 が多量に出土することです。 海と山とを往来して地域の生態系と深くつながる鮭は、食料 や交易品として、あらゆる時代で人間の暮らしとも密接につながっていました。

日本遺産
鮭の聖地物語
写真
標津遺跡群伊茶仁カリカリウス遺跡
(写真提供: 標津町教育委員会)
※写真中央の緑の森が遺跡群のエリア
鮭の聖地一万年の源流

 ※「根室市歴史と自然の資料館」で、突然出てきた「鮭の聖地」という言葉は、
  日本遺産登録によって、世界遺産登録を目指すためのキャッチフレーズだったようです。
 27
エピソードを彩る 先人の足跡を歩く

 鮭が遡上する幾筋もの川を有する根室海峡沿岸。 そのなかでも古代から鮭を求めて人々が集まったのが 「標津遺跡群」 です。 約一万年前の縄文時代から、途切 れることなく人々が暮らし続けたことで、日本最大の窪 みで残る竪穴住居跡群を形成しています。
 標津遺跡群とは、 主に伊茶仁川、ポー川流域に分布 する竪穴住居跡群の総称です。 遺跡群のうち 「伊茶仁 カリカリウス遺跡」「古道遺跡」「三本木遺跡」の3つ の遺跡が、 国の史跡として指定されています。
 遺跡群全体で確認されている竪穴の数は 4,400を 超えています。 これほど多くの竪穴が残されたのにはい くつかの理由があります。 一つは遺跡群周辺で無数に 湧き出ている湧き水の泉の存在です。 この泉は知床の 山々の麓からの伏流水で、 その数80か所に及びます。 地熱の影響を受けている湧き水は真冬でも凍ることが ないため、人々はこの水を求め、泉の近くに竪穴住居を
築きました。
 冬でも凍らない泉は、鮭の仲間にとっても産卵床とし て重要です。 人々は泉近くに住居を構えれば、水だけで なく、越冬の保存食として貴重な鮭も、同時に手に入れる ことができたのです。 その証拠に、 標津遺跡群を発掘す ると、あらゆる時代の竪穴から多量のサケ科魚類の骨が 見つかります。これまでの調査研究により、 標津遺跡群に は、毎年秋鮭の時期になると人々が集まり、ここで鮭漁を しながら共同生活していたことがわかってきました。
 標津遺跡群に集まった人々がやってきた場所は、根 室海峡沿岸一帯の河川河口付近をみるとわかります。 海峡に注ぐ河川河口付近には、大小様々な規模の違い はありますが、ほぼすべての河川で竪穴群やチャシ跡 がみつかります。 根室市の「西月ヶ岡遺跡」もその一つ で、ここには擦文時代の竪穴住居跡の窪みが約300か 所確認されています。

世界遺産登録希望遺跡
標津遺跡群
伊茶仁カリカリウス遺跡
古道遺跡
三本木遺跡
根室
西月ヶ岡遺跡
残雪の竪穴跡 残雪で竪穴の窪みがわかる伊茶仁カリカリウス遺跡 (提供: 標津町教育委員会)
発掘されたカリカリウス遺跡 発掘された伊茶仁カリカリウス遺跡の竪穴 (提供:標津町教育委員会) 冬でも凍らない泉 冬でも凍結しない湧水の泉 (提供: 標津町教育委員会) 根室市 西月ヶ丘遺跡 西月ヶ岡遺跡
(提供:根室市教育委員会
 
 
 
 

  史跡ポー川自然公園



 40標津湿原
指定年月日
追加指定
指定基準
指定面積
1979年8月7日指定
1996年1月19日、 2004年9月30日
天然記念物 第4、 天然保護區
221ha

 41標津湿原の特徴
 湿原には低層湿原、 中間湿原、 高層湿原の種類があります。
低層湿原は、地表面が水 位面より低く河川水や地下水の影響を受け、ヨシ スゲ類が主に生育します。
高層湿原 は泥炭の堆積が進み地表面が盛り上がって水位面より高くなり、 ミズゴケ類、ツツジ科 の矮性低木が主に生育します。
中間湿原は両者の中間でヌマガヤが主となり、ワタスゲ、 ヤチヤナギ、ホロムイスゲ、 ヤマドリゼンマイが混じります。

 標津湿原への水の供給は雨、 霧、雪のみで、 河川水の影響を直接受けないため、高層 湿原と中間湿原が大部分を占めています。
また、 テーブル状に連続するチャミズゴケの プルト (小山状の高まりが、 直径1mから広いものでは5m、高さは平均で50cmと 発達し、
湿原遷移のクライマックスに達しています。

 確認された植物や動物には多くの希少種や北方系動物が含まれ、 その種類は標高5m 以下の低地にありながら、山地にある湿地の特徴を備えていることが指摘されています。
 また標津湿原は、その誕生の初期から、 隣接する伊茶仁カリカリウス遺跡を拠点とし た人々により、食糧素材等の調達の場として、 不断の働きかけが行われてきた自然環 境でもありました。


 43標津湿原の生い立ち
 標津湿原の誕生の歴史は、約1万年前の縄文時代早期にまで遡って考える必要があります。
約1万年前に氷期が終わり、地続きだった国後島までの間に海水が流れ込み、根室海峡が形成されます。

 地球規模の温暖化が進んで海水面が上昇し、ポー川標津川流域にも海が侵入していきました。
「縄文海進」と呼ばれるこの海水面上昇は、約6000年前にピークを迎えます。
 しかしそれよりも早い約6500年前に、現在の摩周湖カルデラの形成に関わる大規模な火山噴火が起こります。
標津川流域一帯には、上流から押し流された火砕流堆積物が流れ込み、埋め立てられて行きます。
また根室海峡の強い沿岸流の影響で、海岸線に砂礫州も形成されて、縄文海進がピークを迎える前に、標津川下流域の陸地化が進みます。
こうして標津湿原の地盤が形成されていきました。

 その後、地球規模の温暖期が終わり、海水面が後退していく中、約4000年前にポー川の後背湿地としてヨシを主体とする低層湿原が形成され始めます。
ここで標津湿原の原型が誕生しました。その後も海水面の後退はさらに進み、約3000年前に湿原域とポー川の間に比高差ができたことで、現在のような高層湿原の姿になりました。

標津湿原の生い立ち
湿原の種類  低層湿原 

中間湿原
 
高層湿原
 
   

 標津地域の
  湿原種類の分布
湿原種類の分布 凡例
北半は原初的低層湿原
中央部高層湿原
高層湿原が発達
黄:低層湿原
青:中間湿原


 45標津湿原の形成

1,2000年前
海退で国後と北海道が繋がっていた
古斜里平野
目梨平野
メナシ=東:アイヌ語
屈舎利カルデラ
アトサヌプリ火山群
摩周火山
軽石火山灰飛散範囲
   8000年前 1万年前氷河期終了
海面上昇・海の侵入 
根室海峡の成立
国後島等北方四島の成立     
  6500年前 摩周カルデラを形成した火山噴火  縄文海進・海岸後退
 摩周カルデラの噴火
摩周湖の成立
 標津川に軽石・火山灰が大量に供給される  
6000年前 縄文海進ピーク
摩周の火山が噴火し標津川沿いに大量の軽石・火山灰が流れ込む
火山噴出物の河川運搬により三角州の形成

沿岸流が河川土砂を運搬し沿岸に砂礫洲を形成し、海岸との間に潟湖が発達する
4000年前
沿岸砂礫洲の発達で
湿原の形成
低湿地化し湿原発達
火山灰の運搬堆積による平原化と、陥没地形により河川落差が少ないため河川の著しい蛇行が発生する。
3000年前
沿岸流の運搬堆積と
河川流入による堆積
河口・湿原・海岸砂州の発達
湿原がそれ自体で発達し高層湿原化した
 河川氾濫原
 高層湿原
 中間湿原
 砂礫洲・砂丘
 自然堤防
河川氾濫原
沿岸砂礫洲で河口閉塞
天塩川 石狩川
サロマ湖など
氾濫原の発達
自然堤防
砂礫洲・砂丘
湿原

 47標津湿原の植物と動物
 標津湿原指定地の高層、中間湿原域、ポー川河畔林には約430種類の植物が自生しています。
このうち高層、中間湿原にはチャミズゴケを始めとしたミズゴケ科10種や、カヤツリグサ科25種のほか、ガンコウランヒメシャクナゲコケモモなどが生育しています。
湿原の植物のうち、エゾゴゼンタチバナヒメツルコケモモカキツバタクロミサンザシなど19種が、環境省により絶滅危惧種に指定されています。

 標津湿原指定地に生息する動物は、哺乳類25種、鳥類86種、魚類21種、昆虫816種が確認されています。
湿原の中心である高層、中間湿原域で繁殖しているのは、哺乳類ではネズミの仲間とトガリネズミの仲間合わせて6種類、
鳥類ではノビタキシマセンニュウマキノセンニュウの3種類と少数です
他は河畔林や草原といった湿原周辺で繁殖しているか、採餌や移動、渡りの際に立ち寄る鳥が多いです。

 魚類では、ポー川がオショロコマアメマス分布境界_となっています。
この川を境に北はオショロコマのみ、南はアメマスのみが分布し、ポー川は両方が混在しています。
 昆虫はガンコウランヒメハマキなどの高山蛾の生息が特徴的です。

標津湿原の植物と動物 湿原花ごよみ
 
 


 50標津湿原遊覧


普通の散歩に見えますがビジターセンター借用の    

自転車で走行中。
クマも出るし、遠いので歩きは大変です。

自転車で出発する時センターの電話番号を渡されました。何かあったらと

それは自転車で湿原に落ちることでした。
湿原に落ちると一人では抜け出せない。
私も一度転びました。湿原には転落せず。結構チャリは恐いです。
でもチャリなければ廻れません。

 60ポー川
 ポー川は、湿原の中をゆっくりと、激しく蛇行しながら流れています。水源は、武佐岳の麓から地下を伏流した湧水で、遺跡周辺で湧き出た80カ所以上の湧水を集めながら水量を増やしています。
 琥珀色をした水は、湿原から供給されるタンニンや鉄分の影響によるものです。水質自体は良好なため、川には北海道東部に生息する淡水魚のほとんどが生息しています。また穏やかな流れのポー川は、古くから丸木舟を使って人が移動する交通路として利用されていました。

ポー川は、地図で見るとアマゾン川の超蛇行支流のように見えました。実際はとてもきれいな清流で、小鳥も鳴いており、静謐な流れで感じ入りました。
 


  カリカリウス遺跡

 
 70湿原展望台と遺跡説明
 71 史跡指定理由
ホーツク海沿岸にある、縄文時代から擦文・オホーツク文化期に至る大規模な集落遺跡で遺構が埋まりきらない独特の遺跡景観を見せる。
遺跡にはチャシ跡も存在し、竪穴群とチャシとの関係を解明する上でも重要。

国史跡標津遺跡群
伊茶仁カリカリウス遺跡
史跡指定地と理由
史跡指定地範囲
該当三遺跡 伊茶仁カリカリウス遺跡
三本木遺跡
伊茶仁カリカリウス
三本木遺跡
標津湿原
標津港と標津繁華街
古道遺跡

 73カリカリウス遺跡のあらまし
 遺跡は、ポー川左岸の標高8~20mの台地上と標高3~4mの自然堤防上に分布し、縄文時代から擦文時代の集落跡を中心としています。
冷涼な気候の作用で土の堆積が遅く、アラスカやシベリアなどの遺跡と共通した竪穴住居跡が窪みとして残る独特の遺跡景観を形成しているのが特徴です。
 地表から数えられた竪穴住居跡は確実なもので2398あり、
円・楕円形をした縄文から続縄文時代のものが約1600、
方形・長方形をした擦文時代のものが約780あります。
こうした竪穴住居跡が台地に11ヶ所、自然堤防に5ヶ所に分かれて分布しています。
 また原アイヌ文化の頃のチャシ跡も2ヶ所あり、約1万年前から約400年前まで長期に人々の営みが続いた日本最大の竪穴群です。

伊茶仁カリカリウス遺跡の
あらまし
カリカリウス遺跡年表
遺跡の存在時期
9500-6000年前(早期)
 3500年間
5300-5200年前(前期)
 100年間
4400-3500年前(中後期)
 1100年間
3000-1400年前(晩期・続縄文)
 1600年間
1300-300年前(擦文・トビニタイ
 1000年間    ・アイヌ)
伊茶仁カリカリウス遺跡の
あらまし
遺跡の分布図
各地点の竪穴住居数

 74擦文時代の二つの文化
 擦文時代の頃、北海道東部では、本州の文化の影響を受けた擦文文化、とサハリンにルーツを持ち北海道に渡来したオホーツク文化の伝統を受け継ぐトビニタイ文化が混在していました。
 カリカリウス遺跡の竪穴住居跡には、擦文文化のものと考えられる長方形でかまどや入り口の痕跡のある竪穴(水色)と、長方形の竪穴(緑色)、そして、
トビニタイ文化のものと考えられる方形(五角形)で石囲い炉が認められる竪穴(黄色トビニタイ住居)に分けられます。
中でもトビニタイ文化初期の集落跡が確認されており、擦文文化とオホーツク文化の接触、交流過程の解明が期待される希少な遺跡です。

 ※オホーツク文化遺跡がないのにトビニタイ文化の遺跡があるのは、オホーツク文化人がトビニタイ化したうえでこの地に逃げてきて集落を営んだらしい。やはり、擦文人に狙われ続けていたのでしょう。
 ※擦文住居は長方形でカマド付き
 ※トビニタイ住居は方形or五角形で石囲い炉

擦文時代の二つの文化 擦文時代の竪穴住居群の様子
トビニタイ住居群と
擦文住居群

緑=擦文住居跡
黄=トビニタイ
トビニタイ住居群が圧倒的。トビニタイ村に、
擦文人が入り込んできた感じです。
被放置民族とはいえ、オホーツク人の末裔は文化力最強だったのでしょう。
擦文土器と
トビニタイ土器

擦文は横沈線と列点
ドヒニタイは波間に水鳥状の貼付文
 75
 伊茶仁カリカリウス遺跡に大規模竪穴住居群が形成された理由
 伊茶仁カリカリウス遺跡の周辺には、多くの湧き水の泉が存在します。知床の山々の麓から地下に浸透した伏流水が、遺跡周辺で一斉に湧き出ているのです。泉の数は80カ所に及びます。地熱の影響を受けている湧水は真冬でも決して凍ることがなく、人々はこの水を求め、泉の近くに竪穴住居を築きました。
泉周辺での発掘調査では、縄文時代から原アイヌ文化の時代に至る、様々な時代の土器や鉄の道具が見つかっています。
泉が大昔から人々の暮らしを支え続けてきたことがわかるのです。

 人々の暮らしを支えた泉は、動物たちにとっても貴重な場所でした。特にサケの仲間にとっては、産卵床として重要です。
サケは秋に川を遡上して産卵しますが生んだ卵が凍ってしまっては困ります。そのため、冬でも凍ることのない湧水近くに産卵床を設ける習性があります。
大昔の人々は、この泉の近くに住居を構えれば、水だけでなく、越冬用の保存食として貴重なサケも、同時に手に入れることができたのです。
伊茶仁カリカリウス遺跡の「伊茶仁(いちゃに)」は、アイヌ語で「サケが産卵するところ」を意味し、アイヌの人々も、ここが多くのサケが集まる場所と認識していたことがわかります。

大規模集落形成のわけ
真冬の湧き水


 カリカリウスチャシ跡
 チャシは13世紀から18世紀の間に築かれた原アイヌ文化の遺跡で、一般に「柵、城、砦」と解釈されています。
しかし近年の調査研究では、その本質は神々と交信する場としての役割にあったと考えられるようになりました。
時代ごとの社会の変化に伴い、祭祀の場、談判の場、資源管理の監視場、戦闘の砦など、多様な役割を担うようになったと考えられています。
カリカリウスチャシ跡は、この国後島やポー川・伊茶仁川河口を見通せる場所に位置し、南北33m、東西22mの規模で、北・西・南の三方が壕で区切られています。また部分的に二重の壕が設けられています。

カリカリウスチャシ跡
カリカリウスチャシ跡図 ※カリカリウスチャシの建設
 第一の壕を築いたころには、周囲に擦文住居が密集していたようです。
その後、何かの事情で壕外の住居を3軒壊して二重環濠にしたようです。防衛力強化ですね。
一度攻められて敗北したために、外側に弓の届く、位置に防衛線を下げたようです。
ここからなら、壕を越えようとする敵を弓で狙い撃ちできると考えたのでしょう。
 

 80カリカリウス遺跡

国指定史跡
標津史跡群
カリカリウス遺跡
アイヌの植物利用 ヨモギの薬用利用 ヨモギはアイヌ語でノヤと言います。
若い芽や葉を摘ん で茹でてから乾燥させて保存しておき、団子などに混ぜて 食べるなど食用として利用される。(ヨモギ団子)
切り傷などに(ナマでも乾燥でも)ヨモギの葉をつけて血止めに使うなどの薬用にも使われます。
蚊の駆除にも使われます。これらは全国で同じように利用されます。引用

ポー川木橋
カリカリウスチャシ跡へ
チャシ跡へ
こんなに踏まれてもきれいな苔が生えている。美しい不思議景観
カリカリウス第1チャシ竪穴群へ
地下を流れる伏流水が常に水を供給していて
右:木の根の手前と奥に竪穴跡
広大な地域に湿原草地でなく苔と灌木の湿原が
木の根の手前の穴
形成されている。
そこを少し外れると、

もう乾燥した灌木林となる。

アイヌの植物利用 判読不能 ピンボケ 判読不能 ピンボケ 字は読めないが
辺りは住居跡だらけ

9千年にも渡ってこんな高湿度の場所に暮らした人々には何が利点だったのだろうか。

カリカリウス第1チャシ
竪穴群150m
説明板なし
祭祀跡か、炉跡か

 82 オホーツク住居
  住居の使い方 
 私たちの家にも寝室、台所、居間など、部屋が使い方によって区別されていますが、竪穴住居も床の使い方が分かれていました。
オホーツク文化の家は、熊の頭骨など動物の骨を祭った部分が特徴で、それを中心に道具置き場、寝床、作業所、貯蔵場があったようです。
 ※これまでの説明ではオホーツク文化は省略されていたが、ここにオホーツク文化の住居があり、オホーツク人も住んでいた。
 復元住居
入口
貯蔵場


     
土間(作業場)
貯蔵場 祭壇 貯蔵場
 発掘住居
ナイフ
土器
土器
石器
石器
土器
矢尻 土器
・ベッドの下は土器石器置き場
・炉付近は調理場
・最奥中心は骨塚 
・両脇は狩猟具や捧げもの入り土器
五角形の住居
オホーツク人の家
石囲い炉跡 ※考察 五角形の家
オホーツク人は5~6角形の住居に多人数で居住したとされる。ただし、それは猟期だけで普段は分かれて住んだともいわれる。
この住居跡は小さく、多人数が合宿したとは思えない。
猟閑期の住居かも知れない。

 84 11号住居跡 オホーツク住居
 この家の広さは、畳7畳あります。とても小さな家ですがたくさんの柱穴があります。みんな屋根を支えた柱でしょうか?ベンチがあったことも考えられます。
この家に人が住まなくなって土に埋もれかけた時に、他の家から土器や石器、石などが捨てられました。石は大小合わせて605個も捨てられていました。
図のオホーツク、擦文土器も一緒に捨てられていました。

家の中に捨てられたもの  オホーツク式土器、擦文土器、石器(石斧?)、ナイフ×2
家の中に残された食べ物  ウグイ、小魚、サケ

※推測 この時代の集落の環境
 オホーツク土器と擦文土器が一緒に捨てられていたということは、擦文人とオホーツク人が同じ集落に一緒に暮らしていたようです。
やはり古い住居跡をゴミ捨て場にしていたようです。すると、
 夏場はゴミや糞便、動物遺体や食べ物残渣にたかるハエなどの有害昆虫、鼠やイタチなど、病気をも媒介する危険動物がたくさん集まり、辺り一帯は壊れて潰れた家や、空き家、などで、さながら災害後の廃墟の中に建てられたテント群の様だったのでしょうか。
 かなり恐ろしい雰囲気ですね。 

11号住居跡 11号住居跡 六角形住居小さめ
・家の中に残っていた
道具
・オホーツク式土器
・擦文土器
石器(石斧?)
・調理ナイフ×2
・家の床に残っていた
食べ物
 ウグイ、小魚、サケ

 ※考察 オホーツク人の南下とトビニタイ文化
 千島オホーツク人は、擦文人の進出によって千島列島→標津→稚内→サハリンの中継点を断たれ、行き場を失い、千島列島を南下して国後島の向かい側、標津に引き上げて居住し、擦文文化との共存をはかったようだ。しかし、国後島から北海道本土に渡って来たものの、おそらく沢山の避難民で溢れており、さらにそこから北上したり、南下したりと四散して、各地に分散して暮らしたのでしょう。根室のはるか西方の釧路の海岸遺跡でも多数のオホーツク人遺跡が見つかっています。
 オホーツク式土器と擦文土器が見つかったということは、廃棄住居の穴はゴミ捨て場となり、近所のオホーツク人や擦文人が土器片を捨てたために混在した。その段階ではまだ別々の文化だが、随分仲良く暮らしているので、これから通婚などが起こり、やがてトビニタイ文化に発展していくということだろう。
 まさにここで、オホーツク文化と擦文文化が融合する直前を見ていることになる。

 しかし、対立的であったオホーツク人と擦文人がなぜ近接して同じ集落で別の文化を維持しながら住むことができたのだろうか。
一緒に暮らすためには同じ目的や共同での作業などがなければ対立的となる。共通しているのは、食糧や生活資材を得るために力を合わせる必要があったということだろう。オホーツク人の生活知識に擦文人がついていったのかもしれない。

 そして、最も大切なことは、なぜ、標津にオホーツク人引揚者が多かったかだ。
これは野付半島の先端から国後島への渡航が海流の関係で便利であったからでしょう。
オホーツク海から南に流れる海流に乗れば、舵を右に切っているだけで国後に着く。標津は千島列島航路の発着点だったのではないかと思われる。

 865号住居跡 廃棄住居跡の再利用 (オホーツク人住居)
この竪穴住居跡は古い家と新しい家、2軒が重なっていました。古い家が大きく、畳16畳分で外側の壁です。
新しい家は畳11畳分で内側の低い壁です。炉も古い家のものと、新しい家のものと2つ残されていました。
新しい家は古い家に人が住まなくなって土に埋もれた窪みを利用して建てられたものです。i


ここはカリカリウス第1チャシ竪穴群ではなくただの案内看板です。ここは→
5号住居跡

 ※考察 竪穴の再利用
 釧路湿原の北斗遺跡以降、段丘上やこの標津湿原でも、膨大な数の、あるいは2000基を越える竪穴住居跡が埋まりきらずに野ざらし遺跡となっています。
 本州では、狭い地域で集落を続けると、古い住居跡を切り込んで新築されることがほとんどです。しかし、北海道では、全て、一から土を掘り上げて、新居を作ります。どのような意味があるのかはわかりません。死者のタブーがあるのか、大地の神との約束があるのか、寄生虫やダニ・シラミ・南京虫といった病害虫対策、または、前住者の病気感染を嫌うのか、、原因は謎です。
 本州での竪穴住居の寿命は約20年と言います。寒冷地北海道でもそれぐらいでしょうか。すると、建物更新のたびごとに、おそらく白川郷の結(ユイ)のような制度でみんなで家づくりをしたのでしょう。すると、常に場所を更新するために、集落群は次第に元の位置からずれて移動し始めます。当初は便利な川岸であったものが、次第に丘陵の上の方へ、または、場所に困ると、別の場所に新築して、やがて新しい集落群ができたりしていったのでしょう。

 しかし、そのような中で唯一住居跡の切り込みではなく、住居跡そのものの再利用という珍しいケースが発見されました。しかも、かなり古い住居跡です。本州では住居の廃棄に際しては、炉石を取り除くのが通例ですが、ここでは、古い炉石が残っています。建物上屋を作り、床を叩いて締め、その後炉を切るときに古い炉石列が出てきたので、一部をはずして新炉を築いています。旧住居の内側に割り板を打ち込んで壁を作り、旧壁との間に土を入れて側壁としている。

 柱穴は不明。室内中央の四本柱は不明。全て側壁にインデアンテントのように作られているかのような構造図である。(中心柱については不明)
 ただ、タブーをおかしてでも、どうしてもここに家を新築して住まわせたい家族がいたということだ。子供なのか、介護が必要な老人だったのか、障害をかかえた人だったのか。それとも援助が必要な他人だったのか。当時の常識を覆しての再利用だったことは間違いない。 大人の事情があったのでしょう。

5号住居
新旧の建物跡
炉のある方形住居でトビニタイかと。がオホーツク土器が出土。
住人はオホーツク人
住居更新の様子 なんだろう、違和感。
引き揚げてきたオホーツク人にトビニタイ住居を与えたため、住居トビニタイで、土器オホーツク。だがオホーツク的痕跡はなし。もう、骨塚祭壇の環境状況ではなかったようだ。緊迫した時代だった。
家の中に残された道具
・オホーツク式土器(住人はオホーツク人)
・抉り入り石器(抉り入り石器の出土例は千島列島の石器)
 この形態の石器の出土は多く、道南から東北に偏っているようだ。
 最近、北海道でこの名刺用を聞いたが、思い出せない。
 スクレイパーが多いようだ。
 函館豊原4遺跡、森町駒ケ岳1遺跡
床に残された食べ物
サケ
カレイ
ウグイ
小魚
海と陸の動物
クルミ

 88 7号住居跡 トビニタイ住居
 この家はタタミ7畳分しかない小さな家です。この家の床には土器、石器、鉄のナイフなどが残されていました。
特に土器は小さく割れて家の中に散っていました。大きな土器は5号住居の床、1号住居跡の近くから出てきた破片が1つになりました。
一番離れていた距離は45mもありました。人の手で割れた土器が運ばれたのですが、なぜだか分かりません。

7号住居跡 ゴミ捨て場7号住居跡
移動した土器  移動経路
 
説明文では、
中央の7号住居跡の床から出土した土器片と、1号、5号住居跡跡から出土た土器片が接合した。
なぜ、土器片が3箇所に分けて捨てられていたのか。
1~7~5号住居の距離は45mあるといっている。現代人にとっては無意味なことだ。

理由はいくらでも考えられる。皆さんも考えて楽しんでみてください。
家の中に残された道具 画像不鮮明
オホーツク式土器×2
・石錘(漁具)
・石杵
・ナイフ
家の中に残された食べ物 ・サケ
・ニシン
・鳥
・クルミ
・海と陸の動物
 
      

 90ポー川史跡自然公園

 91復元住居とヒカリゴケ

 トビニタイ文化の住居
 この場所は、およそ1000年前の人々の住居跡を発掘調査した場所です。
当時この周辺には、大陸から北回りで移住してきた人々が数多く暮らしていました。
彼らは、オホーツク人と呼ばれる人々の子孫にあたり、トビニタイ文化と言う、この地域特有の文化を築きました。
彼らはここに集落を構え、拠点としながら、根室海峡一帯をを広く移動し、アザラシやクジラなど、周辺の海の動物を狩猟する暮らしを送っていました。
一般に竪穴住居の屋根は、草を使う茅葺が多いですが、トビニタイ文化の住居は木の皮を使った樹皮葺きだったと考えられています。


 ナゾD
※この謎は散策しながらでも解ける謎です。 答えを考えながら次の行き先を目指しましょう!

おっす!ようこそ!
ここは1000年前に人が住んでた跡があるんだ。
地中には鮭の骨も埋まっているぞ!
ずっと昔から鮭と共に育っているなんてロマンがあるなぁ!

さて長老だが「まだ行っていない場所のどこか」にいるぞ!
そろそろどこだか分かったんじゃないか?
さて最後にオレのなぞなぞを食らえ!

それは海に向かって捧げられる”祈り”。
時に祈りは何時間もかかるであろう
しかし、必ず報われるとは限らない。
 祈りの間、下の世界へは
  救いを垂らしている
 救われた者を殺めるか見逃すか
 決めるのは全てあなた次第だ。
   "祈り”とは何か答えよ。

 後で見直せるように カメラで撮影しておこう!

復元
トビニタイ住居

上に記述
 
上に記述

 竪穴住居の復元
 約1000年前のオホーツク文化の竪穴住居を2つ復元しました。(4号住居と6号住居)
復元するための手がかりは、柱や炉の位置、焼け残った柱や壁の材料だけで、屋根や柱の組み方は想像した部分が多いのです。
この時代の人々の家を作る道具は、鉄の斧やナイフの他は木や骨の道具でした。
ですから家を作るのに使う木の性質や特徴をよく知っていて、加工する技術が高かったと言えるでしょう。竪穴住居の生活を想像してみてください。

 ●竪穴住居の復元に使った材料
       4号住居跡    6号自由居跡
      143枚 (丸太径40cm長さ2.2m18本)   115枚 (丸太径40cm長さ1.6m15本)
柱や母屋材   太い丸太     55本 (径8cm長さ8m)   45本 (径12cm長さ1.6m15本)
  細い丸太     60本 (径cm長さ8m)   56本 (径8cm長さ6.5m)
結束材   ぶどうづる     450m   370m
  シナナワ     600m   400m
屋根材   白樺樹皮     300枚 (長さ3m径30cm300本)   200枚 (長さ3m径30cm200本)
床 材       6本   6本
      22枚   44枚

竪穴住居の復元


 ヒカリゴケ(ヒカリゴケ目、ヒガリゴケ科。ヒカリゴケ属) 本州でヒカリゴケが見られるところ

 ヒカリゴケは、洞窟、岩かげ、倒木の根かげ、土室などに温度、湿度が一定した場所に生えます。
ヒカリゴケのレンズ状の細胞が並んだ部分に光が入って屈折して、葉緑体の集まった細胞の奥で反射されます。
このため反射された光はヒカリゴケ独特の黄緑色の蛍光色を帯びます。そして、ヒカリゴケの光は光の射し込む方向からしか見えません。
日本では、北海道から本州中部以北、世界にはアムール地方、欧州、北米に生育しています。

  ※いくら北海道であってもなかなか見られないものです。

ヒカリゴケ
樹皮葺き
トビニタイ住居

 武田泰淳小説「ひかりごけ」は、やはりこの幻想的な光を小説に取り入れたいと願ったのだろうか。高校の時に読みました。


 93巨樹 ミズナラ (※この湿原にはミズナラの巨樹が残されています。釧路湿原とは随分違った植生です。)
 この巨木は、樹齢500年を超えるミズナラの木です。およそ100年前の開拓時代、ほとんどの木が伐採された中、枝を四方八方に伸ばした木は、材木等への利用価値が低いとみなされ、伐採されずに残されていました。
 今この森の中に見られる太く大きな木は、いずれも開拓時代の伐採から免れたものばかりです。中でも500年もの樹齢を重ねた木は、まだ遺跡に人が暮らしていた頃に芽を出したものです。アイヌの人々は、この木のようにミツマタとなったミズナラを、山の神が宿る生として崇めていたといいます。

巨樹全景

 ※考察 ミズナラの巨樹
 趣のある巨樹の灌木林です。アイヌの信仰の場所っということで守られてきたとありますが、そのために残ったのかもしれません。
ブナ」ブナ科ブナ属の落葉広葉樹です。北海道南西部、東北地方では平地から山地にかけて分布しています。この地は北限越えているようです。
 標津湿原は年間7~9mmの速度で沈降しています。すると樹齢500年のこの木は現在よりも4m近く高い場所にあったようです。
周囲の環境が、随分と変わっていきました。


 苔むした遊歩道
苔寺で有名な京都などの寺院では、苔むした庭園を作ることに多額の費用をつぎ込み、入ることも触ることもできません。
しかし、ここでは、遊歩道となっており、自転車で走ったり、人が歩いて踏んだりしています。日本中でも稀有な事です。
この公園の遊歩道には木材チップが厚く敷き詰められており、このブナ系のチップからはキノコが育っています。湿原ならではの現象です。

苔むした遊歩道
 95建物跡の窪地群
ものすごく大きな窪地
これが一軒の家です 権力者の家でしょうね 村長の家って言ってる
 
 97遊歩道と熊の糞
歩道に熊の糞 ポー川
湿原から湧き出る水を集めて流れる

 湿原遊覧は基本的にレンタル自転車です。しかしこれがなかなかむつかしいのです。
木道上では、なぜかふらついて、降りようとすると、ちっょと狭い。老人にはなおさらです。
 木道から湿原のドロ沼に落ちるとなかなか一人では抜けられない。携帯でセンターに助けを求める必要がある。
だから出発時点で番号を教えてくれたんだ。結構、落ちるようですよ。
 自転車返却時に電話番号の告知の理由を推測して告げると、その通りだと言っていた。沢山落ちて救助したようです。
その時、私は着替えていたので、私も落ちたのかと疑われたが、いや、ただ、暑かったからでした。
 
 


 100標津町歴史民俗資料館

 
 101根室海峡の形成
  当地での人類の定住は、今からおよそ一万年前の根室海峡の形成とともに始まる。
海峡の形成は、同時に国後島の誕生を意味し、ここに生きた人類は、海を通じて国後、択捉両島を往来しながら、後の異文化交流に向けた地盤を作り始める。

標津周辺の地形の成り立ち➀ 12万年前
今から12万年前、気候は現在よりも暖かく、海水面が上昇していました。
海岸線は内陸深く俵橋付近にまで広がり、標津周辺は浅い海の底にありました。
その証拠に、標津川沿いや古多糠周辺の地下30~60m付近の地層からは、貝の化石が見つかっています。

 ※この頃北海道にナウマンゾウが本州から渡来していた(12万年前)
標津周辺の地形の成り立ち②10~11万年前
   100万年前頃から火山活動が活発化していた、屈斜路湖摩周湖周辺の火山は、
今から10~11万年前に大噴火し、大規模な火砕流を引き起こしました。
この噴火で現在の摩周湖、屈斜路湖全体を含む範囲に巨大なカルデラ火山噴火で地形が陥没した窪地が形成されます。
火砕流は標津川虫類川沿いに下流へ流され、根室海峡にまで押し寄せ、根釧台地を埋め尽くしていきました。
この頃は既に温暖な時期が終わり、寒冷な氷河期の時代に入っていたため、海水面は現在よりも40m前後低くなり、北海道と国後島は陸続きになっていました。
標津周辺の地形の成り立ち③5万年前     今からおよそ5万年前、氷河期の気温低下がさらに進み、海面は現在より80m前後低くなり、海岸線は現在の20~30km沖合にありました。

 10~11万年前の火砕流が埋め立てた台地は、標津川、忠類川などの流れで削られていきます。
 すでに大陸と陸続きになっていたこの時期、北海道にも大陸から人がやってきた可能性がありますが、まだはっきりした証拠は見つかっていません。
 ※5or 4.5万年前にマンモスがサハリンより渡来
標津周辺の地形の成り立ち④2~1万7千年前
 
   今からおよそ2万年前、現在摩周湖がある場所に新たな火山が形成され、その西側にも、現在の硫黄山を含むアトサヌプリ火山群ができました。当時は氷河期の中で最も寒い時期で、この頃の海岸線は、さらに沖合に後退していました。

 北海道はサハリン、大陸とも陸続きだったので、マンモスナウマンゾウがやってきました。その証拠に、野付沖の海底でマンモスの歯の化石が見つかっています。そしてこうしたマンモス達を追って、人間も大陸から北海道にやってきました。

 この時代を旧石器時代と言い、北海道各地でこの頃の遺跡が見つかっています。標津町内ではまだ旧石器時代の遺跡は見つかっていませんが、おそらくこの時代にもマンモス追って人々がやってきていたと思われます。
標津周辺の地形の成り立ち⑤1万2千年前     今からおよそ1万2,000年前、摩周火山の噴火が活発化し、その噴出物が中標津から標津方面にも厚く降り注ぎました。
 この時の火山噴火によって堆積した軽石層を、摩周L(エル)降下軽石層と呼びます。
標津周辺の地形の成り立ち⑥8千~7千年前      今から1万年前に氷河期が終わり、徐々に地球が温暖化し始め、海面が上昇していきます。8000~7500年前には、再び標津と国後島の間に海が広がります。
 根室海峡が形成され、沿岸流が発生し、標津周辺の地形浸食が始まりました。
標津川の流れも地形を削り、根釧台地に深い谷を形成しました。
標津遺跡群が形成された台地の東にある急な崖は、この海面上昇に海によって削られた地形と考えられます。
 標津遺跡群で人の暮らしが始まるのは、1万年前からです。
標津の先人は、環境が大きく変化した時代を生きていたのです。
標津周辺の地形の成り立ち⑦6500年前      6500年前頃、摩周火山が大爆発し、周辺に火砕流による土砂の堆積が起きます。
同時に摩周火山の山頂に大きな窪地(カルデラ)が生じました。この窪地が摩周湖になりました。このときの噴火は10~11万年前の屈斜路火山の噴火と比べると小規模だったため、火砕流は標津付近までは足していません。しかし標津川の流れにより、上流の養老牛付近に堆積した火砕流から軽石や火山灰が押し流され、下流の標津付近にまで大量に運ばれてきました。
標津周辺の地形の成り立ち⑧6000年前      地球全体の温暖化はさらに進み、6000年前には「縄文海進」と呼ばれる海面上昇のピークを迎えます。世界的に海面は現在よりも3mほど上昇し、北海道各地でも内陸深くまで海が入り込んだとされています。
 現在の標津周辺も海の底に沈んだと考えられていましたが、最新の調査により、この頃の標津周辺に、海は入り込んでいなかった可能性が高いことが明らかとなりました。
 その理由として、6500年前の摩周火山の噴火が、縄文海進のピークに先立ち発生したことで、大量の火砕流堆積物が標津川河口に供給されていたことが挙げられます。
 また根室海峡の強い沿岸流の影響で、現在の海岸線沿いに砂礫州が急速に形成されたことも、海の侵入を防いだ理由と考えられます。ただこの頃、標津遺跡に暮らした人の数はかなり減っていたことが、発掘調査からわかっています。おそらく火山噴火による環境の変化が影響したと考えられます。
標津周辺の地形の成り立ち⑨4千年前      今から4000年前、ポー川と現在ポー川の支流となっているポンカリカリウス川は、別の川でした。
 当時ポー川は独自に海に向かい、ポンカリカリウス川は北へと流れ、伊茶仁川と合流して海に注いでいました。
 この頃ポー川とポンカリカリウス川の後背湿地として、標津湿原が形成され始めます。
 当時の標津湿原はまだヨシなどが生い茂る場所(低層湿原)だったようです。
またポー川周辺の地盤が安定し始めたため、それまで台地の上だけに暮らしていた人々が、ポー川河畔の低い土地でも暮らすようになります。
標津周辺の地形の成り立ち⑩3千年前      今から3000年前、ポー川は独自に海に注ぐ流れを切り替え、ポンカリカリウス川と合流し、
現在とほぼ同じ川筋を形成します。
 また海面の若干の低下を背景に、河川の浸食が進み、標津湿原とポー川との間に段差が生まれ、川が溢れても水が湿原の中に入らなくなりました。
 その結果、湿原の植物は雨や霧、雪からしか水分を得られなくなり、自分の体にたくさんの水を蓄えられるミズゴケ中心の湿原(高層湿原)へと植物の種類が変化しました。

 このように、現在の標津遺跡群周辺の地形は、長い年月の中で大きく変化しながら形成されたものなのです。

※短い間に大きな変化が生じた河川流と地形です。背景には、急速に沈降(1000年で7~9m沈下)する土地と、上流の巨大火山群からの噴出物の絶え間ない供給があったため、沈降と堆積による平原化によって湿原が発達し、準平原化による河川流がさまよう現象により、激しい蛇行と、河川の結合などが起きたのです。
 また、少し南に行くと、三日月湖が多く見られるようです。


 105地層標本(伊茶仁カリカリウス遺跡) 地層標本(中標津郷土館)
 この地層の標本は、伊茶仁カリカリウス遺跡を発掘調査した際に剥ぎ取りしたものです。
地層は、その土地の地形の成り立ちを探る上で、多くの情報を提供してくれます。
黒い土は植物などが分解してできた土壌。黒土の間に見える茶色や赤っぽい地層は、摩周火山などの火山噴火により降ってきた軽石や火山灰の層。
黒土や火山灰層の下に厚く堆積した黄褐色の粘土のような土は、氷河期に大陸から飛んできた黄砂を主体とする地層です。
標津では1万年以上前から、何回も火山噴火の影響受けてきたことがわかります。
摩周1降下軽石層直上の、約1万年前の地層から、標津町内最古の土器片が見つかっています。
 
樽前a火山灰1739年
樽前b火山灰1663年
樽前c火山灰2500年前
 道央の千歳市と苫小牧市の間に聳える樽前山は、現在も火山活動が続いていますが、
およそ2千5百年前の縄文時代の頃や、江戸時代の1739年に大噴火し、その噴出物は道東にまで達しました。

摩周d降下軽石層
約3600年前
-50cm
摩周d噴火の火山灰により、摩周湖の中央付近に聳えるカムイヌプリの山鹿形成されました。

摩周ghi降下軽石層
約7000年前
7千年前に摩周火山が噴火した頃、カリカリウス遺跡の台地のすぐ下まで海が入り込み、海蝕崖が形成されました。その後6千5百ねん前の火砕流噴火により、海が埋め立てられ、標津湿原が形成されます。また、この時の噴火で摩周湖のカルデラも形成されました。

摩周k火山灰
約8000年前
-100cm
摩周1降下軽石層直上の、約1万年前の地層から、
標津町内最古の土器片が見つかっています。
 106

摩周1降下軽石層
約12000年前
摩周の火山活動は1万2千年前から活発化しました。

摩周1降下軽石層
約12000年前
-200cm
1万2千年前の降下軽石層よりも下に堆積している黄土色の地層は、
氷河期の頃に堆積した地層です。
大陸から飛んできた黄砂が多く含まれています。

-200cm
-250cm

火山灰無しの黄色土
氷河形成の黄砂
 

 標津遺跡群



 110標津遺跡群 ~窪みで見る 大規模竪穴住居群~
 標津遺跡群とは、国の史跡に指定された3つの遺跡と、伊茶仁川、ポー川流域に残された国指定級の遺跡群全体の総称である。
北海道東部は、冷涼な気候により腐植土の堆積が進まず、また近世の大規模火山噴火による火山灰降灰量も少なかったため、
古代の竪穴住居跡が埋まりきらず、現在でも明瞭な窪みとして観察することができる。発掘調査を行うまでもなく、そこが遺跡とわかる稀有な場所である。
 111
標津遺跡群 膨大な住居跡群

 112伊茶仁川流域の遺跡群(標津遺跡群)

伊茶仁川流域の遺跡群

遺跡⑨⑧⑦

遺跡⑭⑥⑤⑩④⑬⑫

遺跡⑪⑭⑤

遺跡➀伊茶仁カリカリウス
 
 遺跡地区の住居跡
遺跡
番号
竪穴住居跡
遺跡名 円・楕円形
縄文・続縄文
方形
トビニタイ
長方形
擦文
チャシ跡
アイヌ
周堤墓
伊茶仁カリカリウス遺跡 1178 701 62 2549 2 1
三本木遺跡(別図) 21
古道遺跡(別図) 52 160 212 1
伊茶仁ふ化場第1遺跡 354 192 9 555 1 2
伊茶仁ふ化場第2遺跡 37 45 3 85
伊茶仁チシネ第1遺跡 45 74 9 128
伊茶仁チシネ第2遺跡 28 315 12 355 2
伊茶仁チシネ第3遺跡 303 12 315 5
伊茶仁チシネ第4遺跡 42 42
ポンアッチャウス遺跡 27 27
レウミミ遺跡 37 9 46 1
伊茶仁・ポー川間遺跡 2 17 7 26
伊茶仁川第2遺跡 20 9 3 32
伊茶仁第3遺跡 23 23
伊茶仁第4遺跡(図外) 1 17 18
伊茶仁第5遺跡(図外) 7 7
  計  2628  1678  114  4441 
住居の形
 引用北海道の竪穴群の概要
 引用北見市

縄文時代は平面形が円形
続縄文時代楕円形で舌状の張出部が付属する
擦文文化期は平面形が方形でカマドを有し、
オホーツク文化期は平面形が五・六角形
石組炉と骨塚(動物骨の集積)を有するという傾向があり

※カリカリウス遺跡の住居址数は突出している。
 113
南側上空から
標津遺跡群
住居跡の窪みが残る
伊茶仁カリカリウス遺跡
発掘された
カリカリウス竪穴住居群
復元されたカリカリウス遺跡竪穴住居群
91で2軒復元とはこの写真。その後奥側が倒壊
遺跡地区の住居址
 114標津の歴史年表
明治~弥生(続縄文) 江戸~縄文中期
チャシ終了~縄文中期
縄文中期~旧石器

 115標津イチャルパ icharupa 先祖供養の儀式
 2009年6月、史跡伊茶仁カリカリウス遺跡を会場に、クナシリ・メナシの戦いで命を落としたメナシのアイヌ 25名を供 養する標津イチャルパ (先祖供養) の儀式が、 地元アイヌ協会支 部の手により行なわれました。 約200年ぶりに復活したこの儀 式は、単なる先祖供養としてだけではなく、 「アイヌ」 の歴史を 「地域」 の歴史として未来に繋ぐことを目的に、 今後も継続し て行なわれていきます。

標津イチャルパ
 
 120遺跡のあれこれ
一万年に渡る暮らしの累積が意味するもの
狩猟採集を基本とする暮らしが一万年に渡り継続したことを証明する竪穴群
一万年に渡り人の暮らしを支えた豊かな自然
一万年に渡る暮らしの累積が意味するもの
 一般的な遺跡は、一時期のみの土地利用で終わる場合が多いですが、標津遺跡群の場合、複数の時代にわたって、繰り返し同じ土地周辺での暮らしが続いてきました。竪穴住居が何度も建てられ、結果的にいくつもの竪穴住居跡の窪みが 伊茶仁川、ポー川流域に密集するようになったのです。標津遺跡群に残された、窪みで残る大規模竪穴住居群は、およそ一万年前の縄文時代早期から、400年前のチャシの時代まで、ほぼ一万年もの間、同一地域に絶えず人が往来し、生活の場として利用され続けた証といえます。

 この地に生きた人々の暮らしは、弥生時代、古墳時代といった、日本列島の大半の地域が経験した、農耕文化の歴史は歩んでいません。縄文時代以来の狩りと採集を中心とする文化を継続、発展させ、後の「アイヌ文化」を育む歴史を歩んできました。標津遺跡群に残る大規模竪穴住居跡群の存在は、世界の文明の歴史の合間に、文字文化を持たない人々の暮らしが確かに存在し続けたこと、そして一万年に及ぶ狩猟採集の暮らしを支え続けられるだけの豊かな自然環境がこの地域にあったことの表れといえます。
世界文化遺産へ 世界遺産登録までの流れ  世界文化遺産へ
 平成19年、標津町、北見市、北海道が共同し、標津町の標津遺跡群と北見市の所遺跡群を、「北海道東部の窪みで残る大規模竪穴住居跡群」の名称により、世界文化遺産暫定一覧表に記載するよう、文化庁に提案しました。
 審査の結果暫定一覧表には記載されませんでしたが、暫定一覧表記載候補の文化資産として位置づけられました。
 今後、提案の趣旨を深化させ、課題を克服し世界遺産登録を目指すことになります。
窪みで残る竪穴住居跡群の分布
北海道内各地で確認される窪みで残る竪穴住居跡の数
窪みで残る竪穴住居跡群の分布 提案書
 窪みで残る竪穴住居跡は、日本国内では、福島、新潟県以北の地域 で確認されています。
しかし、明確な窪みとして、縄文時代の竪穴住居跡群まで確認できる遺跡は、北海道東北部
に限られています。

 北海道のの大規模竪穴住居跡群は、ほとんどが大河川の河口部にあります。中でも標津
遺跡群と常呂遺跡群では、2000ヵ所以上の窪みが認められ、その数は群を抜いていま
す。他の竪穴群としては、1000ヵ所前後の窪みが、認められる釧路、根室、斜里、枝
幸 天塩などをあげることができます。
提案資産名:北海道東部の窪みで残る大規模竪穴住居跡群
気候環境の影響から,竪穴住居が完全に埋まりきらず,窪みの状態で残されている常呂遺跡,標津遺跡群は,それぞれ2,000基以上から成る我が国最大規模の竪穴住居跡群として知られ,両遺跡は縄文時代早期から続縄文時代を経て,擦文・オホーツク文化期のおよそ7,000年もの長期間にわたって営まれてきたことを物語る資産である。
北海道の寒冷気候のために独特の可視的な遺存状況を示す考古学的遺跡であり,7,000年にわたる人類と自然との調和の過程を示す考古学的遺跡として,価値は高い。 出典
竪穴住居とは?
本来の地面の高さ
地面より低い位置に 床をつくる
掘り上げた土は 穴の周囲に盛る
竪穴住居とは
 竪穴住居は地面を掘り窪めて、掘り上げた土を周囲に盛り、上に屋根をかけて造った半地下式の住居跡です。 地面よりも低い位置に床が造られています。ヨーロッパ からアジアまで世界各地にみられますが、主に北緯30度以北の温帯~亜寒帯域に分布 しています。この内、日本列島を含むアムール川中下流域、ロシア沿海州、 中国東北地方、朝鮮半島などの東北アジア極東地域においては、旧石器時代終末頃より使用が始 まり、最も新しい例では20世紀初頭まで使用されており、1万数千年もの長期間、採 用され続けた住居型式でした。

 なぜ地面を掘りくぼめた住居型式が採用されたのかについては諸説ありますが、 気密・断熱性に優れ、真冬の地下凍結深度よりも深い位置に床をつくることで、地熱を住居内に取り込むことができるという機能的な面が、寒冷地の住まいとして選択された理由の一つとしてあげられています。 青森県の三内丸山遺跡で行われた実験では、真冬に復元した竪穴住居の中で火を焚いたところ、住居内の温度が20℃以上になることがわか りました。 かなり湿気が溜まるので、衛生的には決して良い環境ではありませんが、冬を越すには優れた構造の住居であったようです。

 竪穴住居の屋根は木や草、樹皮などの有機質の材料でつくられていました。そのため使用が終わって人がいなくなると、やがて屋根の部分は腐ってなくなり、掘りくぼめた 穴だけがその場に残されます。 標津遺跡群にたくさん残された竪穴住居跡のくぼみは、この場所で、何千年にもわたって、人が繰り返し住み続けた証拠なのです。

 125標津町で発見された色々な竪穴住居跡
色々な竪穴住居跡

地下通路の付いた竪穴住居跡 伊茶仁チシネ第1遺跡 縄文前期 約6000年前

2.5mほどの四隅が丸い方形の住居部に幅1m長さ2mほどの地下通路が。南側の壁についた竪穴住居址です。
床には炉や柱穴はありません
重なった竪穴住居跡 伊茶仁チシネ第3遺跡 縄文中期末 約4000年前

直径4.5m×3.7mほどの楕円形の竪穴住居跡が、直径2.5mほどの隅の丸い方形竪穴遺構の上に重なっています。
住居跡の中央には炉があります。
五角形の竪穴住居跡 伊茶仁カリカリウス遺跡 トビニタイ文化 約1000年前

7×8mほどの五角形の竪穴住居跡で中央には石囲い炉があります。
住居の中心軸上に柱穴があり、壁ぎわなどに杭跡があります。
柱穴の配置から見て屋根は切妻型だと考えられます。
炉の周囲は土間で床が黒ずみ、外側は板敷になっていました。
かまどを持つ竪穴住居跡 浜茶志骨遺跡 擦文時代擦文文化 約900年前

一辺が5mほどの隅の丸い方形の住居跡で、住居中央には炉があり、
四隅の対角線上に 4本の柱のあることから屋根は入母屋型と考えられます。

南壁中央には本州の文化の影響で作れるようになった粘土のカマドがあります。

伊茶仁カリカリウス遺跡
千年前の標津の冬
 

 130伝統的生活空間 ~一万年の人の暮らしを支えた自然環境~
 一万年に及ぶ人の暮らしを支えたもの。それは遺跡紀の周囲に広がる豊かな自然環境の存在であった。
標津湿原を始め、遺跡群周辺には、植物400種類以上、昆虫800種類以上のほか、道東に生息する在来哺乳類のほとんどが現在も生息している。
この多種多様な生命が暮らす自然環境に加え、遺跡群周辺には人々が生きる上でのいくつかの利点があった。
 131植物
ポー川史跡自然公園
湿原探勝路
 標津の自然 湿原の生き物         
北方領土の生き物
ムツアカネ、エゾツユムシ、スジクワガタ、

アキアカネ、プチヒゲカメムシ、オオセンチコガネ

ヒメアカネ、ヘラクヌギカメムシ、マメコガネ
ガンコウランヒメハマキ、ギンイチモンジセセリ、オオジシギ

コケモモモグリチビ蛾の巣、ノゴマ、コヨシキリ

モウセンゴケトリバ、ビンズイ、ハシブトガラ
ルリボシヤンマ、セアカツノカメムシ、ヘイケボタル

キタイトトンボ、ヒメゲンゴロウ、ハンノキカミキリ

ハネナガキリギリス、セスジアカガオオサムシ、不明
ミドリシジミ、ノビタキ、アカゲラ

ゴマシジミ、ハクセキレイ、ホオヒゲコウモリ

クジャクチョウ、シマセンニュウ、エゾモモンガ
 133動物
ヒグマ・エゾシカ
 135伊茶仁カリカリウス遺跡
 
 140サケ文化
遺跡をつつむ ミズナラの森

 標津湿原遺跡群の中核的遺跡である伊茶仁カリカリウス遺跡には、407haにも及ぶ広大なミズナラ主体の森が広がっています。現在、釧根台地(原文まま)は見晴らしの良い牧草地が広がっていますが、かつてはカリカリウス遺跡と同様にミズナラ中心の森が覆う樹林地帯でした。
 ミズナラの木は秋になるとドングリの実を落とします。このドングリの実は、野鳥やリスなどの小動物のほか、エゾシカやヒグマも餌として利用していました。そして標津遺跡群を残した先人たちにとっても貴重な食料源であったことが、遺跡から実際に見つかったドングリから明らかとなっています。
無数の命をつなぎ続ける湧水

 標津遺跡群の脇を流れる1伊茶仁川とポー川は、遺跡群周辺に湧き出た湧水の水を集めて流れています。この湧水の水は、武佐岳の麓から地下を伏流してきたもので、遺跡群の範囲では確認しているだけでも数十カ所以上もの湧水の泉を観察できます。
 そして標津遺跡群に残された4400軒に及ぶ竪穴は、ほとんどがこの湧水付近に集まるように残されており、また、湧水の周囲を発掘調査した際には、多くの土器や石器が見つかっているため、先人たちが湧水の水を利用していたことが伺えます。
時代を超えたサケの利用が育んだサケ文化

 標津町内を流れる河川には、長い海での旅を終えて成長した、サクラマス、カラフトマス、シロザケといったサケ科魚類たちが、数多く帰ってきます。
標津遺跡群を残した先人たちが、このサケたちを利用していた事は、遺跡から見つかるサケ科魚類の骨の量から推測できます。
 全国で数多くの遺跡が見つかっていますが縄文時代以来一貫してサケ科魚類を主な食資源として来た地域は、石狩川流域の地域を除くと、今の所ここ標津遺跡群しかなく、サケを利用する中で育まれたサケ文化の地を象徴する遺跡と言えるのです。
地域別出土動物依存体におけるサケの割合
鮭遡上なしの遺跡もあった
縄文時代の遺跡にみる 標津のサケ文化

 狩猟採集により日々の食料を手に入れていた縄文時代の頃は、集落周辺に広がる自然環境の中から様々な動物・植物を採取し利用することで、食料を取り尽くさず持続的に手に入れるための配慮がなされていました。そのため、通常遺跡から見つかる骨のかけらなど当時の食べ物の残りは、特定の種類の骨に偏ることなく、周囲の自然環境にあるものをまんべんなく利用した傾向を見ることができます。
 しかし、標津遺跡群の縄文遺跡を調査すると、サケ科魚類の骨が山のように見つかります。サケの利用に重点を置いた生活が営まれていたことがわかると同時に、標津には古来から豊富なサケの遡上があったと言うことがわかります。さらにその生活が数千年にわたり継続していることから、産卵の終わったサケを捕獲するなど、資源が枯渇しないよう利用する文化も備わっていたことがわかります。

 札幌市内の縄文遺跡 サケ依存率56%
 石狩川下流域の遺跡も縄文時代からサケの利用に重点が置かれていました。
 森町鷲ノ木遺跡 サケ依存率0%
 道南や石狩低地南部では、サケだけに特化せず、集落周辺の様々な動物資源が食糧として
 利用される径声があります。
 標津遺跡群 サケ依存率65%
 標津では縄文時代から一貫して、サケの利用に重点を置いた生活が営まれていました。
 145食物残渣
ドングリ
ミズナラの実
クルミの殻
キハダの実 シカの骨 アザラシの骨
トリの骨 1軒の竪穴から見つかったサケ科魚類の骨の山
 

 200異文化交流
  文化のクロスロード ~国後・択捉が誘う異文化交流~

 現在のような道路が整備されていなかった時代、人は自らの居場所を見失わぬよう、川筋を舟や徒歩で移動していた。標津遺跡群は北に虫類川、南に標津川が流れ、いずれもアイヌが陸上交通路に利用したことが伝えられている。また東に広がる根室海峡は移動を妨げる障壁ではなく、むしろ国後・択捉への海の道としての役目を果たした。自然資源の宝庫であり、大陸へと連なる千島列島。その入り口である国後・択捉は、時代を超えて多くの人々を誘い、数々の異文化交流を促し続けた。

文化のクロスロード
文化の交差点 標津 文化の交差点
 海路:千島列島 国後択捉、知床、根室
 陸路:斜里、河川路を通って斜里・釧路へ

※標津遺跡群は、千島列島と道内各地を結ぶ要衝としての役割があった。

天然のガラス 黒曜石
 
北海道の置戸町や遠軽町白滝で取れる石が使われています。約120から150km

黒曜石は火山の近くで取れる天然のガラスです。
その性質を生かし、大昔からナイフや槍など石器の材料として重宝されてきました。
石斧の素材のブランドアオトラ石と青色片岩

北海道平取町沙流川上流域と、旭川市神居古潭で取れる石が使われています。
神居古潭青色片岩マデ約230km、沙流川アオトラ石マデ約270km

アオトラ石と青色変岩は、その石質のきめ細かさから、縄文時代の頃、石斧素材のブランドとして、
広い範囲に流通していました。
特にアオトラ石は、海を越えた東北の遺跡でも見つかっています。
択捉島まで広がる縄文文化

択捉まで広がる縄文文化
根室海峡が人の移動を促した証拠に、択捉島で見つかった続縄文時代の土器の存在があります。
この地に暮らす人々は大昔から海へと繰り出し、国後・択捉島を往来していました。
縄文の宝石 翡翠の勾玉
新潟県の糸魚川、青海産の翡翠が使われています。糸魚川マデ約1000km

翡翠は硬玉とも呼ばれ、エメラルドと同じ位の硬さを持つ石です。
縄文人はその美しい緑色のとりことなり、石の原産地から遥か遠く離れた地まで、
翡翠のアクセサリーは物々交換で広まっていたのです。
縄文時代の漆塗りアクセサリー
 標津遺跡群の1つ伊茶仁チシネ第1遺跡から、束ねた紐の上に赤い色の漆が塗られたアクセサリーが見つかりました。6000年前の縄文時代のものです。
 北海道南部や本州では、この時代の漆塗り製品が見つかっていますが、北海道東部や北部では、
今のところ標津遺跡群の資料だけしか見つかっていません。
このアクセサリがどこで作られたものなのかは、大陸も含め様々な可能性が考えられています。
 

 210石器
 211

 212黒曜石
 尖頭器や矢じりの素材は黒曜石と呼ばれる火山地帯で産出される天然ガラスです。 黒曜石は標津周辺で産出されたものではなく、120km以上離れた北見地方から産出されてきました。
The material used for these points or arrowheads is natural glass produced in a volcanic area called obsidian. Obsidian was not produced around Shibetsu, but it came from the Kitami region more than 120 km away from here.




 213黒曜石製石器 伊茶仁チシネ第1遺跡 約4000年前
 214黒曜石

 216石斧材料
石斧は古代人が使っていた道具です 木を切るのに使われます。 材料はここから230km以上離れた旭川地域と260km以上離れた日高地方で産出される石を使用しています。
Stone axe is a tool that ancient people used to cut trees. The materials used are stones produced in the Asahikawa area, which is 230 km or more from here, and in the Hidaka region, which is more than 260 km.

神居古潭の青色片岩 神居古潭から標津
294km
沙流川アオトラ石 沙流川から標津
322km
地元の石材

 ※資料 希少石材
 神居古潭の青色片岩 原石写真  産地地図 産地住所:北海道旭川市神居町神居古潭
  
 ・岩石層:神居古潭層とは
   1億1000万年前頃、海洋プレートの沈み込みにより、海溝深部で形成された低温高圧型の変成岩類によって形成された岩石。引用
   神居古潭構造体の誕生

 ・神居古潭石の種類  緑色・紫色・オレンジ色・茶色などがあり、宝石として売られている。
 ・神居古潭峡谷の魅力 景勝地、奇岩怪石の観光地として有名である。
 ・神居古潭5遺跡 ストーンサークル、竪穴住居群など

 
 沙流川のアオトラ石 原石写真 採掘現場は沙流川の支流額平川上流

  ・アオトラ石の成因:青みがかった縞状の模様を持つ緑色岩の一種です。神居古潭帯白亜紀付加体の緑色岩です。
   ・緑色岩とは:玄武岩などの苦鉄質火成岩を起源とする結晶片岩で、広域変成作用を受けてできる岩石です。
           片理が発達し、縞模様がきれいなため、しばしば庭石として利用されます。

  商用利用:以前は大きな塊を庭石としても売られていた。 
   阪大・大阪学院大が原産地を発見した新聞記事になったが、地元民は知っており、秘かに採掘していた。
   このように大々的に発表すると、たちまち盗掘されて無くなってしまう。大阪の大学教授は愚かなことをしたものだと思います。
   いや、この大学以前に何度も学者が踏査して発見しています。今回は再々発見ですが、阪大などは自分が一番と思っているようで残念。

  ・アオトラ石の岸壁

  ・アオトラ石の利用:縄文時代6000年前から平取から青森・秋田・新潟などに長大な石斧に加工して持ち込まれた。私見ですが、
   最初は、カヌーや丸木舟を安定させるためのおもり (現代のバラスト・千石船の切り石・巨大タンカーの水) として積み込まれたものと思います。
   某博物館で、原石のままで積んだだろうと言われましたが、小さなカヌーや丸木舟ではそれでは人が乗れない。
   動かないように、船の底に安定して、邪魔にならないためには、石斧にするのが一番。しかも、重要で珍重される交易品であったでしょう。
   日本海フェリーで津軽海峡を横断しながら、渡海人の気持ちになって考え、このように考えました。

 218択捉島の石器・土器
石鏃
択捉島出土
続縄文・オホーツク文化期
石斧
択捉島 時期不明
土器
続縄文土器
択捉島
約1600年前

 ※資料 択捉島の土器 青森市民図書館 の学芸員?司書?の国後・択捉島旅行記に置ける博物館探訪記による。

 ・国後・択捉の土器その1 では、炭化物がびっしりと付いた亀ヶ岡式土器があり、その文化圏は道南地域だけでなく、北方領土に及んでいた。
 ・国後・択捉の土器その2 では、続縄文前期の「宇津内Ⅱ式土器」 と 続縄文後期の「 後北C2・D式土器」が展示されていたという。

 ・宇津内Ⅱ式土器 (続縄文前期・弥生時代)
   オホーツク海沿岸地域のローカル土器←北見市の資料から↑の土器は続縄文前期の宇津内Ⅱ式土器と思われます。

 ・後北C2・D式土器(続縄文後期・古墳時代)
  2個1対、1個1対の小突起をもち、微隆起帯と帯縄文が放射状、菱形状に施されている。
  続縄文時代後半期の北海道全域に分布し、サハリン南部・南千島、東北地方、越後平野まで広範囲に拡散した土器型式である。

 ・その他の択捉島の土器 縄文中期の筒形土器 蝦夷島奇譚 

 220翡翠の勾玉 新潟県産  伊茶仁ふ化場1遺跡出土 縄文後期 約3000年前
引用「伊茶仁ふ化場1遺跡」
伊茶仁ふ化場1遺跡の周堤墓周辺部からは堂林式土器、石鏃や赤色顔料が付着した石皿が出土しています。
また、やや離れた地点からは、ほぼ同時期と思われる、ひすいの勾玉やサメ歯の副葬された墓が見つかっています。

堂林式土器は、縄文後期の、周堤墓形成期の土器 

翡翠の勾玉
縄文時代
約3000年前
北海道における周堤墓・配石墓の分布
引用北海道に置ける周堤墓の分布

 223標津遺跡群で見つかった縄文漆工芸
 標津遺跡群の1つ、伊茶仁チシネ第1竪穴群遺跡で、昭和63年に行った発掘調査の際に見つかりました。
 今からおよそ6000年前の縄文時代前期の竪穴住居跡から出土したものです。
 函館市垣ノ島B遺跡、新潟県大武遺跡出土品に次ぎ、国内最高級の漆工芸品として貴重な資料です。

 漆が塗られた糸を十数本束ねて輪にしたものであり、大きな輪は黒曜石のナイフを下げ腰帯に使用した可能性が考えられます。また2つの小さな輪は腕輪として 使用したのではないかと考えられます。

縄文時代前期の
漆工芸品
伊茶仁チシネ第1遺跡
約6000年前
標津遺跡群で見つかった縄文漆工芸 拡大すると糸の撚りが観察できる
縄文前期の漆工芸
伊茶仁チシネ第1遺跡
約6000年前


 230古代日本と北方社会

 
 231古代日本と北方社会
 西暦663年、倭国は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れ、大国唐の力を目の当たりにする。以後防衛のための国家体制整備に従事し、国名を「日本」と定めるとともに、国力増強に向け北辺に広がる「蝦夷地」の制圧に着手する。
 同じ頃、東アジアで最大の権勢を誇った唐は隣接する新羅や靺鞨集団を支配下に置き、その勢いはさらに北方に点在する諸集団にまで及んでいた。未だいずれの国にも属していなかった北海道の地では、古代日本国と唐の影響下で、北方諸集団の活動が活発化する。


 232擦文文化とオホーツク文化
 7世紀後半に畿内で興った古代日本国家は、国力の増強と安定に向け、日本列島北部に存在する、「蝦夷(えみし)」と呼ばれた未だ国家に服従していない集団の支配に着手しました。東北南部から北部へと、古代国家の支配拠点が北進する中、東北地方北部の 社会は、律令社会の文化を取り入れ、次第に狩猟と採集を中心とする遊動的な暮らしから、農耕を行い方形の竪穴住居に居住する定住的な暮らしへと変わっていきます。

擦文人の発生
 この東北地方北部で文化的変化を遂げた集団の一部が、北海道の千歳川流域に移住したことで、縄文時代以来長く狩猟と採集による暮らしを続けてきた北海道の集団にも律令社会の文化的影響が及び、「擦文文化」が誕生しました
 擦文文化集団は、東北地方北部の集団と深い交友関係を築きながら、やがて北海道全域へと展開していきます。

オホーツク人の渡来
 一方、5世紀(本州が古墳時代の頃)以降、北海道のオホーツク海沿岸を中心とした地 域には、大陸からサハリンを経由して南下した異質な集団が渡来します。7世紀には道北から根室海峡沿岸、そして千島列島へと分布を拡げていきました。この北の渡来集団の文化はオホーツク文化と呼ばれ、アザラシやクジラなどの海獣狩猟や、ヒグマを中心とする動物儀礼を行い、唐や靺鞨集団など大陸の国や集団と繋がりを持つ人々でした。

擦文文化とオホーツク文化
9世紀以前の擦文文化とオホーツク文化主要遺跡の分布 擦文人=東北古代人の進出先
 千歳市・恵庭市、石狩低地、余市


 ※考察 擦文人の発生
 飛鳥・奈良・平安時代(約1400~800年前)に、木のヘラで器面を擦った土器が作られました。これは、本州の土師器をまねたとも、土師器の製法が伝わったとも言われています。この北海道独自の文化を擦文文化と呼んでいます。と、擦文文化はあくまでも北海道土着民が本州文化に影響されて始まった土器文化とされています。
 しかし、ここでは、東北北部の本州古墳文化の影響を受けた集団が千歳川流域に移住したことによって始まったとされる。
つまり、東北古墳終末期から飛鳥時代の人の流入である。

 弥生時代以降の本州と東北では大きな文化の差が生まれていた。北海道では縄文晩期から続縄文初期に原始機の道具や技術は伝わっていたが、鉄石併用の狩猟採集の原始生活であり、本州人は織物の衣類を身につけ、農耕を行なう文化人であった。そして、製鉄、カマド、平地式住居など、北海道続縄文人にとっては大変な文化ギャップがあったことだろう。
擦文人の流入
     従って、続縄文後期の東北古代人の文化によって道内続縄文文化は大きく変貌した。
また、続縄文後期から渡来していたオホーツク人との軋轢や通婚によって次第に海洋にも進出する技術を身につけ、文化的にも高まって行った。
 やがて続縄文人は鉄器を使用し、土師器を作る擦文人となり、海洋に進出して海賊行為まで働くようになった。

※考察 擦文文化とは何か 
 擦文文化とは、続縄文人がツルツル土師器に憧れて、まねして作った「板こすり土器文化」ではなかった。
 東北古代人の持ち込んだ文明に触発されたダイナミックな文化運動であり、思想や物流・技術・などが本州化された革命だったと言える。
その始まりは、東北北部から移住した古代人だった。

 

 233トビニタイ文化 ~土着した北の渡来人~
 10世紀の初め、古代東アジアで最大の権勢を誇っていた唐が滅亡します。 これを機に 古代日本による北征政策にも緩みがみられはじめます。 関東では後の武士団形成に向け た胎動を見せ始め、人や物の動きが、 国家主導の一元的なものから、在地有力者主導の 多様な動きへと転換します。 東北北部から北海道にかけての地域でも、この関東の多様な有力者との結びつきに応じていくつもの地域集団が生まれ、 多様な交易のネットワー クが形成されていきます。

 北海道中央部を中心に誕生した擦文文化集団は、この時期北海道北部や東部へと進出 し、それぞれの地で周囲の自然環境に適応した地域集団を形成していきます。一方、オ ホーツク海沿岸に展開していたオホーツク文化集団は、 北海道北端や根室海峡沿岸地域 に分布を狭め、それぞれの地で地域性の強い集団へと変わっていきます。 この内、 根室 海峡沿岸地域に分布した集団は、この地に定着して周辺地域の擦文文化集団と交流し、 トビニタイ文化へと成長していきました。 国後・択捉を含む根室海峡沿岸地域に、オホ ーツク文化の伝統を受け継ぐ人々による、 一体的な文化圏が誕生したのです。

 トビニタイ文化集団は、オホーツク文化時代に集落を構えた海岸砂丘から離れ、河川 に沿った内陸に集落を移します。 越冬用食料としてサケを重視するようになり、擦文文 化集団と良く似た暮らしを始めました。 しかしオホーツク文化から続く海獣狩猟やヒグ マ祭祀の文化は受け継がれ、 後の 「アイヌ文化」 へと継承されていきます。

※トビニタイ文化とは
取り残されたオホーツク人の消え去っていく文化ではなく、千島列島・国後・択捉・根室などを結んだ一体的な文化圏が出来たとしている。

トビニタイ文化
-土着した北の渡来人-
トビニタイ文化から継承された「アイヌ文化」 の文化要素の1つキテ (銛頭) トビニタイ文化の遺跡から出土したキテの原型(羅臼町オタフク岩洞窟遺跡出土)
この部分
突く・ささる・獲物の体内で回転し返しとなり抜けない

離頭銛キテの作動図
(『よみがえる北の中近世 掘り出されたアイヌ文化』より)


 240オホーツク期とトビニタイ期

 241オホーツク文化の土器 
サハリン島~北海道北部~オホーツク海沿岸。 釧路付近以東の太平洋沿岸地方~千島にかけて分布する。オホーツク文化に特徴的な土器。
日本の平安時代に出現したと思われるが,終末は鎌倉時代にも下ると考えられる。
器形は、頸部がすぼまり,胴部が丸い甕形をしている。
模様は、貼付文。波や水鳥、貝などをあらわしている。

オホーツク式土器
三本木遺跡
約1400年前
オホーツク式土器
伊茶仁カリカリウス遺跡
約1200年前
オホーツク文化の石錘
伊茶仁カリカリウス遺跡
約1200年前
石錘

 243トビニタイ文化の土器 擦文時代 1000年前
擦文土器のへら書き線刻文と オホーツク式土器の貼付文の 折衷土器と言われている。
文様の貼付文に断面四角形の粘土紐が使われること、貼付文の構成が直線形のものと波形のものを組にし、密接して配置されることなどが特徴として挙げられる。
なお、この土器は底部が整った平面になっておらず、安定して置けない形になっている。

トビニタイ1式
伊茶仁カリカリウス遺跡
約1200年前
トビニタイⅠ群(折衷型)
古道6遺跡 約1000年前
 245
トビニタイ1式
伊茶仁カリカリウス遺跡
約1200年前
トビニタイ2式
古道6遺跡
約1100年前
 


 250アイヌ文化
「アイヌ文化」
多様な自然環境を有する広大な北海道。 そこに生きた諸集団は、 各地の自然に適応しながら、独自に生業文化を発展させた。 彼ら はチャシの時代を通じて互いの文化を吸収し合い、 より交易を重 視した狩猟採集文化を育んでいく。さらに和人社会や大陸の社会 と交易する中で様々な外来の品を手に入れ、それらに新たな意味 を与えて自らの社会に取り入れていく。 18世紀以降、和人の記 録によって知られる「アイヌ文化」 は、 日本列島北辺という大陸 にも通じた地理的環境と、そこに広がる自然の多様性があればこ そ生まれた、 独自の世界観を持つ文化といえる。

Ainu culture was born in Hokkaido, which has diverse natural environments, as thegroups that lived there absorbed each other's cultures. The culture was a life of hunting and gathering, but it developed as a with hunting and gathering culture emphasis on trade, and not just for food acquisition.



 250チャシの時代

平安時代末(12世紀末)、北方社会での経済活動において最大の求心力を誇った平泉奥州藤原氏が滅亡し、藤原氏が有した交易権は鎌倉幕府へと移行する。
この列島社会の変動を受け、北海道内諸集団は「交易民」としての性格をより強め、次第に交易資源を巡る集団間の調定が求められるようになる。
 その調定の場として出現するのが13世紀に登場する「チャシ」である。
チャシの時代は、北海道各地の自然に適応し、それぞれの地で独自に生業文化を発達させた諸集団同士の文化融合が促され、現在知られる「アイヌ文化」に向けた強い文化的高揚を見せた時代でもあった。

チャシの時代
時代と共に移り変わるチャシの性格 タブ山チャシ

 時代とともに遷り変るチャシの性格
 現在知られているチャシ跡は、丘の上や段丘の縁などに、溝をめぐらし区画された遺跡として残されています。チャシ跡は北海道全域で500カ所以上存在し、これまでに発掘調査で明らかにされた最も古い年代のチャシは、13世紀に位置づけられる厚真町のヲチャラセナイチャシ跡です。一方、最も新しいものは、文献の記録に現れるもので、寛政元年(1789)に起きたクナシリ・メナシの戦い前後に構築・使用されたチャシが知られています。

 チャシがなぜ作られたかについては、砦、祭式を行う場、談判の場、資源を監視する見張り台、聖域説など、古くから多くの研究者が様々な考えを示してきました。18世紀に和人が記録した古文書に見られるちャシは、多くが戦いに関するものであるため、砦としての性格が強いように思われがちです。しかし近年発掘調査された古い時代のチャシ跡を見ると、チャシの中は履き清められたかのように何も出度していません。こうした近年の調査成果を踏まえると、従来言われてきたチャシの性格は、どれも間違いではなく、時代と共に移り変わった可能性が高くなってきました。つまり、アイヌの人々にとって、チャシとは「聖域」としての意味が基本的にあり、この場所にアイヌの複数の集団が集まり祭式を行う、いわば現代で言う神社のような存在として登場したのが始まりだったのではないかと思われます。時には神々の前で互いの主張のいずれが正しいのかを決める談判の場ともなったことでしょう。そして時代が遷り、和人との関わりが深くなるにつれ、資源を巡る争いが頻発するようになると、神々の力を借りて戦う砦としての性格が強くなっていったと考えられます。

時代と共に遷り変わるチャシの性格 タブ山チャシの測量図
見事な写真
◆チャシとは
チャシは、1789年に起きたクナシリメナシの戦い以前のアイヌ社会で利用された構造物 で、最古の事例は13世紀代に遡ります。 道内各地で500以上のチャシ跡が残されており、その 多くは、コタン(集落)から見返すことのできる場所につくられています。 コタンと密接な関わり を持ち、当時のアイヌ社会において重要な役割を担う場であったと考えられています。
チャシの機能については、祈りの場、 監視場、 戦闘時の砦など諸説があります。 これらは時 代ごとのアイヌ社会の変化に応じて、チャシに新たな役割が付加された結果といわれ、本質 的役割は、祈りや祭祀を行い神々と交信する場としての機能にあったと考えられています。

◆タブ山チャシ跡について
タブ山チャシ跡は町内に残る17ヶ所のチャシ跡の中でも保存状態の良いチャシ跡の1つで す。 丘陵上の崖際に、コの字型ので区画された場所が4ヶ所確認されています。 タブ山チャ シ跡はまだ十分な調査が行われていないため、いつの時代につくられたものなのかはよく解 っていません。
しかし、別海町郷土資料館が保管する加賀 家文書の中には、「チフルチャシ」という名で 登場するタブ山チャシ跡を舞台とした物語の 絵図が存在します。 江戸時代後期に記録され また伝承のため、北海道各地のチャシ跡の中で も、かなり新しい時代まで使用されていた可 能性があります。一方でチャシ跡の区画が4ヶ 所並ぶことから、古い時代のものから新しい 時代のものまで、新たな壕の構築をくり返し た可能性もあり、チャシが長期にわたり利用 され続けたことが考えられています。引用

 タブ山チャシ
 260ホニコイチャシとチルフルチャシの物語
 261
アイヌ文化
上に記述

 ホニコイチャシとチルフルチャシの物語
ホニコイチャシとチフルチャシの物語 1

 この物語は別海町郷土資料館が所蔵する加賀家文書により伝えられているもので、標 津町内にあるタブ山チャシ跡と望が丘チャシ跡を舞台とした物語です。 18~19世紀の 頃に当地に伝えられていた伝承と考えられます。

 むかしむかし、シベツ川の右岸の小高い丘の上に、ホニコイチャ シ(現望ヶ丘チャシ跡)がありました。 そのころのシベツ川は、現在 のようにまっすぐ海へ流れこむのではなくて、海の近くでぐんと南 の方へまがり、海岸線と平行して流れ、 現在の望ケ丘公園の近くで 海に注いでいました。 そこは見はらしがよく、シベツ川に秋味 (鮭) がのぼってくるのもいちはやくわかり、裏山の方にはギョウジャニ ンニク、 ワラビ、フキ、キノコ、 ブドウ、 コクワなど山の幸がたく さんあって、ここに住むアイヌにはすばらしい所でした。 しかし、 困ったことが一つありました。 ホニコイチャシより南方を流れるチャ シコツ川のほとりにあるチフルチャシ(現タブ山チャシ跡)のアイヌ とは、むかしから仲が悪く、争いがたえず起こっていました。 チャ シコツ川は野付湾に注いでいますが、 下流は舟が行き来し、 コイト イ (野付半島の幅がせまく外海が荒れた時は波が川の方までとどく 所です) で、砂の上を舟を引いて外海と行き来しました。 それでチャ シコツ川の川口からコイトイまでの間をチプルー (舟の路)ともい いました。 それでチャシコツ川の川口近くにあるチャシを 「チフル チャシ」と呼んでいました。 ホニコイ軍とチフル軍とでは、どちら かといえばチフル軍の方が少し強くて、 ホニコイチャシの人たちは 悔しい思いをしました。

エリモンクルの図
別海町郷土資料館所蔵
ホニコイチャシとチフルチャシの物語 2
 今日もまた争いです。 けが人もふえてきました。 どちらの軍勢も、 はやく勝って争いをやめたいと思っていました。 両方の軍の総大将 は、それぞれが勝とうとしていろいろな方法を考えて争い、 なかな か勝負がつきませんでした。 ある日、 ホニコイチャシにエリモンク ルという人が修行にきました。 大変知恵がある上に、 力持ちで強い 人なので、 ホニコイチャシの人はエリモンクルを頼りにし、ホニコ イ軍の軍師になってもらいました。 それからというもの、戦さのた びにホニコイ軍は勝ち続けました。 エリモンクルは、竹で編んだブ ドウづるの皮をつけた帽子をかぶり、竹で編んだ細縄でつないだ鎧 を着ていました。 そしてその上にホクユクという熊の皮で作ったチョ ッキを着ました。 顔は長いひげをはやし、ひたいには青筋が三本あ りました。 ふだんはあまりしゃべらず、静かでやさしい目をしてい ました。 しかし、 戦になって命令をするときは、 虻が額にとまって 動いているかのように青筋が動 いて、 それはそれは恐い顔にな りました。 エリモンクルには大 好きなメノコ (女の子) がいま した。 コエカイマツといって、 やさしく、よく気のつく、 心 も姿も美しい娘でした。

トシャムコロの図
別海町郷土資料館所蔵
ホニコイチャシとチフルチャシの物語 3
 チフルチャシの大将はトシャムコロといいました。 年はおよそ百 四、五十歳ですが、 若い人に負けず力持ちで、 誰もかないませんで した。 その上、 とても情深い人だったので、 この地方のアイヌ数千 人はトシャムコロの言うことをよく聞きました。 トシャムコロは、 チフル川からシュンベツ川(別海町春別) までの総大将でもありま した。 トシャムコロはノツケ湾内にあるニイショという島の生まれ でした。 彼には子どもがいないので、たくさんの宝物を譲る人がい ません。 それでいつもどうしたものか悩んでいました。

戦闘シーン
別海町郷土資料館蔵
裸で走るコエイマツの図
別海郷土資料館所蔵
ホニコイチャシとチフルチャシの物語 4
 また戦いがはじまりました。 軍師エリモンクルは今までにない計 画を考えました。 それは裸の女の人に敵の前を走ってもらうという ものでした。 敵が女の人にみとれて油断しているところを攻めこも うという計略でした。 エリモンクルは大好きなコエカイマツを説き 伏せました。 コエカイマツはいやがり、なかなか承知しませんでし たが、エリモンクルのためにしぶしぶ出かけることにしました。
ある朝、 コエカイマツは裸になってチフルチャシの近くを走りま した。 チフルチャシの見張り番は目ざとくみつけ、 みんなに知らせ ました。 大騒ぎになりました。 裸の女の人を見ようとみんなはチャ シの端に集まり、 コエカイマツが走り回るのを目で追いました。 チ フルの大将トシャムコロはこの日に限って朝寝坊をしました。 「外 はうるさいなあ。 朝早くから何だろう!」と思いつつ、戦さの疲れ でまた寝こんでしまいました。 みんなが裸の女の人に気をとられて、 後方の守りが隙だらけになったのに気がつかなかったのです。

チフルチャシ後方より攻め入る図
別海町郷土資料館所蔵無事帰還する コエカイマツの図
別海町郷土資料館所蔵

ホニコイチャシとチフルチャシの物語 5
 チフルチャシの人達は軍師エリモンクルの思ったとおりになりま した。 ホニコイ軍は軍師エリモンクルの指図で、 チフルチャシの後 にまわりました。 みんな静かに、 すばやく行動しました。 はだかの コエカイマツに気をとられていたチフルチャシの人たちは、いきな り後から攻められて大そう慌てました。 もう大混乱です。 そして、 とうとう負けてしまいました。 大将のトシャムコロは悔しがりなが ら亡くなりました。 軍師エリモンクルの名はたちまち有名になりま した。 トシャムコロの部下も言うことをききます。 ホニコイ軍に向 かってくる人は誰もいません。 コエカイマツもみんなから感謝され ました。 チフルチャシ、 ホニコイチャシの地方は大そう平和な村に なりました。 鮭とり、 熊狩り、 山菜とりにはげみ、 生産は豊かにな りました。

夫婦になった
エリモンクルとコエカイマツの図
別海町郷土資料館所蔵
ホニコイチャシとチフルチャシの物語6
 トシャムコロが持っていたばく大な宝物は、知らないうちに隠されていて、 チフルチャシにはありませんでした。 みんなは、ノツケ湾の中にあるキモッペモシリという小さな島にかくされているのに ちがいないと噂しました。 そして、 その宝を捜しに行きたいと思い ましたが、怨霊をおそれて捜しに行く人はいませんでした。 エリモ ンクルは、大好きなコエカイマツと結婚しました。 そして、 幸せに 暮したといいます。 チフルの大将トシャムコロが隠した宝物の行方 は未だにわかりません。 宝物が隠されているとみんなが信じていた キモッペモシリという島は、 現在は沈んでしまってみることはでき なくなりました。
原典 蝦夷風俗図絵 『加賀家文書』 (別海町郷土資料館所蔵)
口語訳版 本田克代編 『標津のむかしばなしふるさとねむろの豆ほんシリーズ3 「伝説・海鳴りの彼方に」 』
 

 263アイヌ文化
 多様な自然環境を有する広大な北海道。そこに生きた初集団は、各地の自然に適応しながら、独自に生業文化を発展させた。
彼らはチャシの時代を通じて互いの文化を吸収し合い、より交易を重視した狩猟採集文化を育んでいく。
さらに和人社会や大陸の社会と交易をする中で様々な外来の品を手に入れ、それらに新たな意味を与えて自らの社会に取り入れていく。
 18世紀以降、和人の記録によって知られる「アイヌ文化」は、日本列島北辺と言う大陸にも通じた地理的環境と、そこに広がる自然の多様性があればこそ
生まれた、独自の世界観を持つ文化と言える。

アイヌ文化


 アイヌ文化に見る2つの世界観➀
  天地創造~神話の中の世界
 アイヌの伝承にある天地創造の物語は、カムイユーカラやオイナと呼ばれる神話の中で語られています。
各地の伝承によって内容に違いはありますが、天上の世界に住む神が人間の住む世界を創造したと言う点は共通しています。

 一例として19世紀末に来日したイギリス人宣教師ジョン・バチェラーが報告している天地創造神話を例に見ると、 原始の頃、世界には神々の住む世界カムイモシリがただ1つだけあり、下界は水と土トが混ざり合い、漂うだけの状態であったといいます。
そこに創造神コタン・カラ・カムイが生活のできる場所を造るため、セキレイと言う鳥を造り、地上へと遣わしました。
セキレイは水の上で羽ばたき、その足で土を踏みつけ、乾いた大地を造りました。
そしてこの乾いた大地の上に植物、動物、そして人間が造られたことで、人間の住む世界、アイヌモシリが創造されたと言われています。

天地創造
神話の中の世界観
神話の中の世界模式図
神話の中の世界観模式図    
天上 カムイモシリ
天上の神々が暮らす国












切 
地上 アイヌモシリ
人間や動植物が暮らす国
地下 ポクナモシリ
悪魔や魔人が追放される国
   

 アイヌ文化に見る2つの世界観②
  コタンの世界~暮らしの中の世界観~
 天地創造の後、アイヌモシリで人間が暮らし始めてからの世界観は、アイヌウェペルケと呼ばれる人間の英雄物語の中で語られています。
 そこでの世界観は、コタンを中心とするカムイと人間との新たな関係です。
この世界の中で、神々は植物や動物など様々なものに姿を変え、「自然の幸」として人間が暮らすアイヌモ
シリを訪れます。これに対し、人間はカムイモシリには無いイナウと酒で、訪れた神々をもてなし、元の世界へと送ってあげるのです。こうすることで、再び「自然の幸」として自分たちの前に現れてくれることを願ったといいます。
 そしてこの時、神々が帰るカムイモシリは、ヒグマに宿るキムンカムイ(山の神) なら川の源流の先にある霊山であり、シャチに宿るレプンカムイ(沖の神)なら海底と、神話の世界観とは異なる場所であると言われています。
 人間の暮らしが始まってからのコタンを中心とした世界観において、アイヌモシリ(人間の世界)とカムイモシリ(神々の世界) は断絶した世界ではなく、相互に交流し、互いの世界に無いものを交換し合う、相補的関係に基づく世界を形づくっていました。

コタンの世界 コタンを中心とする空間の延長上にある世界区分   コタンを中心とする空間の延長上にある世界区分

熊や狼のカムイモシリ 鳥類のカムイモシリ

地上 コタン
地下 海底
へび類のカムイモシリ シャチや魚類のカムイモシリ


 役に立ちたがる植物の霊たち
   神々の霊が宿る植物
 アイヌ語の植物名は、薬用や食糧としての利用というように、 アイヌの人々にとっての有用性の認識に従って命名される傾向が 強いといわれています。 そしてその中でも、特に有用性が高いと 認識された植物は、 神の霊が宿るものと見なされています。
 植物に宿る霊は、鳥獣魚介類の霊とともに、 神々の国カムイモ シリにくらし、この世の人間と同様に家を建て、村をつくり、衣 服を着てくらしていると考えられています。 そしてアイヌの役に 立つために、カムイモシリから地上の世界アイヌモシリにやって 来たとされ、こうした捉え方から生まれた数々の伝承が、 各地に 残されています。
 例えば冬の間、 炉の薪として重要視されていたハルニレは、女 神チキサニ・カムイが宿る木とされ、火を生み出した木として各 地の伝承の中で語られています。 また重要な食糧となってい バユリやギョウジャニンニクにも女神が宿るとされ、人間に食べ てもらうために村々を訪れるけれども、臭いがきつくてなかなか 食べてもらうことができず、 網走のウラシベツにあったコタンに 辿りついたとき、ようやく食べてもらうことができ、 人間たちの 間にその食べ方が広まったとする伝承があります。

神々の霊が宿る植物
ヨモギ・イケマ
・ギョウジャニンニク
・オオウバユリ
参考:山田淳子 『アイスの世界
福岡イト『アイス植物の子氏挿画より
 
 270
 271内耳鉄鍋と吊耳鉄鍋
 縄文時代以来長く煮炊き具として利用されてきた土器は、擦文時代の終焉とともに制作されなくなります。
代わって日常の煮炊きに使用された道具が鉄鍋です。
アイヌの人々は鉄鍋を自分で作る事はできませんので、交易によって本州の社会から手に入れる必要がありました。
チャシの時代には、日常の食事のための煮炊きを、外来の道具に頼って行っていたのでした。
 この鉄鍋には2つのタイプのものがありました。
一つは内耳鉄鍋で、口の内側に囲炉裏にかけるための縄紐を通す輪が付けられています。
もう一つは吊耳鉄鍋で同じく囲炉裏かけて使用されましたが、こちらは金属の吊手を取り付けるための板状の吊耳が付いています。
 内耳鉄鍋は主に平安末~室町時代、吊耳鉄鍋は室町時代以降近代まで使用された鍋です。

内耳鉄鍋と吊耳鉄鍋 欠品

内耳鉄鍋
(伊茶仁カリカリウス遺跡)
内耳鉄鍋 約600年前
ナイフ 約500年前
マレクの鉄鉤約500年前

吊耳鉄鍋 約500年前
吊耳鉄鍋 約600年前
内耳鉄鍋と
吊耳鉄鍋
上に記述
ガラス玉
オンネチャシ跡
約400年前
ガラス玉
択捉島
時期不明
 273編みカゴ
編みカゴ
サラニップ(現品)
寄贈
炭化して残った
編み物の破片
擦文時代
1000年前
 275木製品
木製品 糸巻
ヌイトサイエプ
お盆(イタ)
 276道具
マキリ サケ皮の靴
 


 300土器


 310縄文土器

標津遺跡群最古の土器
約10,000年前




約7000年前の土器 7000年前 7000年前
標津遺跡最古の土器
約一万年前
7000年前 7000年前
 320
5000年前の土器 6000年前の土器 6000年前の土器
6000年前の土器
 330
 331四千年前
4000年前の土器 4000年前の土器
4000年前の土器
 337三千年前
3000年前の土器
左:3000年前
右:4000年前
3000年前
 340縄文土器  3000年前の土器
 

 350続縄文時代 約2000年前の土器
続縄文土器 約2000年前の土器

 360擦文時代 (1400~700年前  7世紀~13世紀) (飛鳥時代~鎌倉時代)
擦文時代の土器 擦文土器 オホーツク式土器 擦文土器
オホーツク式土器 擦文土器

 370擦文・トビニタイ文化(9世紀~13世紀)

  擦文時代の中にトビニタイ文化期がある。
  オホーツク文化期は5世紀~12世紀で、続縄文末期から擦文末期までである。
トビニタイ土器
約1000年前
トビニタイ土器
トビニタイ土器 擦文土器
擦文文化の土器 擦文土器

 400ポー川の生き物
 401
ポー川のさかなたち
この中にみえるさかなたちは、ポー川に住んで いるさかなたち、あるいは、かつてポー川で目撃 されたことのあるさかなたちです。
どんなさかなが泳いでいるか、備え付けの釣ざおで釣り上げ、さかなを開いてみてみよう!


シロザケ・バイカモ・カラフトマス
丸木舟 ポー川の魚たち バイカモ・カラフトマス バイカモ
シロザケ
 403
ヒグマ タンチョウ エゾシカ エゾユキウサギ
 405
猛禽類 オジロワシ オジロワシ オオワシ フクロウ

 407木から落ちたオジロワシの巣

木から落ちた
オジロワシの巣
標津町内には、国の天然記念物に指定されて いるオジロワシの巣が、 確認しているだけでも 8ヶ所あります。 縦横2m以上にもなるオジロ ワシの巣は、時にその重みで木から落ちること があります。 落ちた巣の中をみてみると、エサ にしたアオサギや小動物の骨や、抱卵中であっ たのか、卵の殻などがみつかりました。
(参考)
ニワトリの卵
オジロワシの卵
オジロワシがエサにした動物の骨
オジロワシの羽

木から落ちた
オジロワシの巣