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 青森の縄文  15  2019.09.30-2

 小牧野遺跡

 掲載順
1.ガイダンス館 小牧野の森・どんぐりの家 青森市大字野沢小牧野41
電話番号無し 5/1~11/15開館・撮影可、積雪期は遺跡見学不能
2.遺跡 9月下旬の早朝には大量の大栗が拾い放題である。
3.展示館 青森市小牧野遺跡保護センター 青森県青森市大字野沢沢部108-3
017-757-8665 年末年始休・撮影可 
太宰治記念館
木造駅遮光器土偶像

交通 レンタカー:新青森駅から30分。 青森市民バスは不便
特徴 環状列石で有名な遺跡である。 膨大な量の展示物です。
観光 三内丸山遺跡、八甲田山、十和田湖、青森県立美術館

小牧野遺跡地図
小牧野遺跡航空写真
 
 
目次

(1)小牧野遺跡ガイダンス施設
10小牧野の森・どんぐりの家
11館内展示
 縄文時代の小牧野遺跡
12小牧野遺跡について
15弥生時代の小牧野遺跡
16世界遺産登録の推進

(2)小牧野遺跡 field
20小牧野遺跡
21環状列石
22遺跡頂部
26捨て場
27土壙墓
28展望所


(3)小牧野遺跡展示館
50小牧野遺跡保護センター
51外観
52入口展示
53遺跡造成の痕跡
54列石の発見
55発掘調査とは
57小牧野遺跡はどこにある
58年表
59小牧野の環状列石
61青森県内の環状列石など
62全国の環状列石
65環状列石の大きさ比べ

100第1展示室
101縄文時代の集落
 竪穴住居

考察 竪穴住居考
102縄文時代の集落跡
103炉
105色々な縄文土器
110暮らしに関わる縄文土器
114縄文時代の漆器
116弥生土器
120縄文人の御馳走
121縄文カレンダー
122狩猟具
130動物骨や角の利用
131大浦遺跡
132骨角器・石器
133石錘
135縄文時代の塩作り
140貝と貝塚
150道具
151切る道具
153黒曜石
155磨り潰す道具

160加工する道具
162トランシェ様石器
163石箆
164抉入扁平磨製石器
165半円状扁平打製石器
166木を伐る道具

171縄文住居
175ゴミ捨て場

180廊下展示 世界の遺跡
181イギリス周辺の環状列石

200第2展示室
200縄文人の祈りと願い
201縄文人の墓
 アイヌの墓
 青森の墓
202新町野遺跡の土壙墓
210副葬品
211土壙墓の副葬品

220山野峠遺跡の埋葬
222土器棺
223石棺墓の分布
225山野峠遺跡の石室
226遺体の解体と再葬
230土器棺墓の分布
240儀礼
241子どもへの思い
242縄文人の通過儀礼

243土偶
245板状土偶
246表裏に顔がある土偶
247土偶 各時代
254遮光器土偶

255祭祀具
256縄文時代の祭りの道具
257タケハラコ遺跡
259石冠
261キノコ形土製品
262鐸形土製品
266動物形土製品

270祭祀具
271三角形岩版
273円形岩版
274岩版の作り方
276その他の時期の祭祀具

280装身具
281アクセサリー
282宝石
283ヒスイ
284水晶
285赤彩土器

290埋設土器

292玉類
294水晶
295赤彩土器
298ベンガラ作り

300第3展示室
301環状列石を作る方法
302運搬具
320環状列石の構造と大きさ
322石の並べ方
323環状列石中心からの景観
324発見された遺構
325土坑出土遺物
330土器棺
333埋設土器
336貯蔵穴
350竪穴住居
353捨て場跡
355環状配石炉
 埋納遺構
357水場遺構

360縄文後期土器
371最重要土偶
376覆付角底形土器

二階展示室
400弥生時代の小牧野遺跡
401大量の円筒下層式土器
410弥生時代の小牧野遺跡
412続縄文土器
413弥生時代の石器

420平安時代の青森市
421蝦夷の時代
422擦文土器
430五所川原須恵器窯跡群
440平安時代の生活や祭
442木製模造品

450鎌倉時代の文字資料
473青森市内の埋蔵銭

500第4展示室
500縄文土器の美
501縄文土器の始まり
505土器文様
506晩期土器文様
507亀ヶ岡式土器
 文様変遷図
520狩猟文土器の土器棺
530縄文土器の変遷
532草創期
533早期
535北陸系土器
540前期土器
545ミニチュア土器
550中期土器
555双子土器
560後期土器
563切断土器
570特殊な土器
571覆付土器
574蓋形土器
576注口土器
578香炉形土器
590晩期の土器

付録1太宰治記念館
付録2木造駅
付録3考察東北侵略戦争
 




 10 小牧野遺跡 field


 小牧野遺跡は保護センターの前を通り、来た道をさらに奥に進むと急な山道になり、その先に、ガイダンス施設があり、その奥に遺跡があります。

  
 

 (1)小牧野遺跡ガイダンス施設

 10小牧野の森どんぐりの家


 11小牧野の森・どんぐりの家 館内展示
どんぐりの家 小牧野遺跡ビジターセンター
ガイダンス館
 

  縄文時代の小牧野遺跡


 12小牧野遺跡について
小牧野遺跡は、縄文時代後期前半約4,000年前)に造られた環状列石(ストーンサークル)を主体とする遺跡です。堤川上流の荒川と入内川にはさまれた、八甲田山系から青森平野に向かって延びる標高145mの台地上に位置します。
遺跡の重要性から1995年(平成7)6月17日に国指定史跡にしていされ、 現在では約90,000㎡が史跡の範囲として保護されています。

 環状列石の発見
小牧野遺跡の環状列石は、1989(平成元年)に地元の高校生たちによって発見されました。
当時は杉林と畑が広がっていましたが、付近が「石神平」と呼ばれていることを示すかのように、沢山の石が地面に転がっていました。
これらの石は全て丸みを帯びた川原石で、山の上にはありません。

そこで、高校生たちは昔の人達が運んだものだろうと仮説を立て、地面に鉄の棒を突き刺すボーリング調査をしたところ、石が円を描くように地中に埋まっていることが分かりました。その場所を発掘したところ、縄文時代の環状列石が発見されました。

小牧野遺跡について
上に記述
遺跡の位置図 青森市小牧野遺跡観察施設
 「小牧野の森・どんぐりの家」
環状列石の発見
上に記述


 環状列石の配置
環状列石は全体の直径が外形55m、直径35mの外帯、29mの内帯、2.5mの中央帯の三重の輪の他、特殊石組や環状配石などから構成されています。
外帯と内帯は小判型の石が縦に置かれ、その両側に平らな石を3~6個程積み重ね、これを繰り返して作られています。
こうした組石は「小牧野式配列(配石)」と呼ばれ、秋田県北秋田市の伊勢堂岱遺跡の環状列石にも、この小牧野式配列の一部が見られます。

  石はどこから
環状列石を形作っている石は、現在約2900個を数え、石の種類は安山岩と石英安山岩です。これらの石は、遺跡の東側を流れる「荒川」一帯から運ばれたものと考えられています。
尚、2005年(平成17年)までの調査で発見された環状列石の総重量は推定31,054kgで、1個当たりの平均では10.8kgとなります。

環状列石の配置
環状列石の詳細図面
石組遺構
 
 石はどこから

 発見された遺構
小牧野遺跡の発掘調査では、環状列石と共に、縄文人が住んでいたと考えられる竪穴住居跡や貯蔵穴、捨て場、湧水遺構などがこの地で生活が営まれていたことを示す遺構のほか、土壙墓や土器棺墓など墓に関わる遺構が発見されています。

これらの遺構は現在、盛土で保護すると共に、一部の遺構について位置表現の整備をおこなっています。

発見された遺構 遺構の機能 環状列石周辺の遺構配置
発掘調査と整備

 土器
小牧野遺跡から出土した縄文後期の土器は、鉢や壺、注口土器などの器種が、その前の時代より多く、製作技術も一段と進歩していました。
土器は、日常生活で使用するためのものや、祭祀に使用するためのものなど、用途に応じて使い分けされていたようです。

土器
後期前葉土器
十腰内1式
壺形土器 注口土器
後期前半



 小牧野遺跡の墓
小牧野遺跡では、100基を超える土壙墓が、環状列石に接する東側の緩斜面一帯に分布しています。
土壙墓とは、土に穴を掘って人の遺体を埋葬する施設です。埋葬したあとには、土盛りをして墓を完成させたと考えられています。

 小牧野遺跡の土器棺墓
土器棺墓とは、一度墓に埋葬した遺体を数年後、肉が朽ちた後に残った骨を取り出し、その遺骨を土器棺に納め、再び埋葬する施設のことで、再葬墓とも呼ばれています。小牧野遺跡では、、環状列石から4基の土器棺墓が発見されています。

※下⑥不鮮明写真。土器棺は普通、他の土器で蓋をするが、ここでは、蓋をした壺を他の打ち割った土器で更に包んで、二重にして埋納していた(写真→)。⑥ではほぼそのようになっており、右下ではその二つの土器が復元してある。
このことは大変珍しいが、それについては全く言及していない。

※「数年後」の二次葬。採骨の祭祀はあっただろう。それをした司祭がいた。まるで仏教の灰葬or環骨のようだ。
 弥生時代の同様の祭祀や、昭和30年代まで続いた沖縄の同様の祭祀も何らか、似たような祭祀があったのでしょうか。
 もう、よくわからなくなっているが。

引用史跡小牧野遺跡


小牧野遺跡の墓

上に記述
遺跡各部の機能 小牧野遺跡の土壙墓 小牧野遺跡の土器棺墓

上に記述
土器棺出土位置 ⑥出土した1号土器棺

 石器の種類と使用率
石器は石で作られた道具です。小牧野遺跡からは2,709点の石器が出土しましたが、その内ナイフとして使われたと考えられる不定形石器は約6割、
磨り石や敲石といった木の実などを磨り潰したりするための道具は約2割となっています。

石器
 
 小牧野遺跡出土石器 石鏃・石槍・石錐・石匙
石箆・大石平型石箆

靴形石器不定形石器

打製石斧・磨製石斧
石錐・砥石・石皿・台石
敲磨器類
半円状扁平打製石器

引用小牧野遺跡の出土品概要
     
石錘
石皿
磨製石斧 大石平型石箆 ナイフ類
 
  小牧野遺跡の出土品の概要 - 青森市

 



 15弥生時代の小牧野遺跡

小牧野遺跡からは、縄文時代後期の遺構・遺物が多数出土していますが、環状列石が長い年月をかけて埋まっていた土の中などからは、
弥生時代の遺物も見つかっています。

環状列石の外側2か所から、箆状石器やスクレイパーなどの弥生時代の石器が出土しています。
また、小牧野遺跡では、北海道の恵山式土器や後北B式、後北C1式の特徴を持つ「続縄文土器」が多く見られます。

 ※縄文人の去った後に弥生人がこんな山の中にピンポイントでやって来て住んだのか。さらにその後に北海道からこの狭い土地にやって来て
  住んでいたことになる。 そんなにこの場所が狩猟に最適だったのか。
 ※最初にあげた写真と地図からも、何の変哲もないこの遺跡の場所が、そんなに便利で住みやすい場所には思えない。
  北向きで日当たりが悪く、寒くて残雪が消えず、狩猟や植物採集の適地とは思えない。だのになぜ、縄文~弥生、近世の遺跡があるのか。
  現在も、この付近に住んでいる人家があり、うっそうと茂ったスギ林の中になぜ住みたいのか、私はずっと疑問でした。 
  むしろ、他の縄文人との競争に敗れて、この場所に逃れてきたもののようにさえ思える。

弥生時代の小牧野遺跡 土器・石器の分布域 環状列石の山側頂部から、列石のための盛土部分にかけて、列石とは無関係に
弥生時代の土器が散乱し、その分布域の最頂部には二か所の石器集中ブロック(石器製作域)がある。

弥生土器の分布域は壊れた土器を投げ捨てたようで、それは、石器作り工房と関係があるようです。
弥生時代の土器
参照小牧野遺跡の出土品の概要
弥生時代の石器

 土製品と石製品  弥生時代の土器石器 頁14
土製品は粘土を焼いて作られたもの、石製品は石を素材として作られたものです。
小牧野遺跡からは、土偶やミニチュア土器・鐸形土製品などの土製品が852点、三角岩版や円形岩版などの石製品が919点出土しており、
中には、穴の開いた有孔石製品の様に、アクセサリーとして使用されたと考えられるものもありました。

土製品と石製品 小牧野の土偶 鐸形土製品 土製品と石製品

 16世界遺産登録の推進
北海道・北東北の
縄文遺跡群
普遍的価値の17遺跡 世界遺産への流れ
小牧野遺跡 青森の縄文を世界遺産に
ピンボケ
 
 

 (2)小牧野遺跡 field

 20小牧野遺跡

   ビジターセンター前を奥へ歩くとすぐに遺跡
 21環状列石
 22遺跡頂部

どんぐりの家から出発
環状列石側面
坂道の先に遺跡の
平坦地

列石遺跡は三段の開削地になっていた

遺跡上部の頂から見た写真
上中下の中段から
遺跡を見る

石が各所で盛り上がっている
盛土の斜面
ここに石が縦横・階段状になっているはず

後世の放牧事業により石組は破壊されたかも

この辺から見ると、石組が残って見える。
何かくんであると、壊したくなるのが人間だから、意図して壊したかも。
 立石
各所に立石があり、これは馬頭観音の碑
 と後世に刻まれた石のようだ  他の遺跡では配石・立石の下に埋葬痕跡があるが
この遺跡では、列石と埋葬墓が別の様に感じる。 

やはりここも二次葬としての列石遺構があったのではないか 
 記念物
何もないのにこんなに石を運びますか。
環状列石の下に人骨はなく、単に趣味的に
重い石を運んで並べる、、わけがない。

どこかに人骨を埋葬したのでしょう。
 26捨て場
栗林
現代種のクリクリを沢山植林。

助平心で拾っていたら、あっという間にカメラバックがいっぱいになった。

捨て場は緩斜面だった。
 27土壙墓

樹脂で固めた土壙墓の模型。

盛り上がっているのは土壙墓があるしるし。

1次葬の墓地群
 28展望所

展望所と名付けられた見晴らしの良い所

上記の遺跡機能図と
位置を確かめて下さい。
展望所からの眺望
現在は伐採して眺望を保っているが、縄文時代にはもっと樹木が茂っていただろう。
眺望はなかったと思う。
なぜ、縄文・弥生・続縄文人がここを選んで住んだのか。

縄文の狩猟にも、弥生の農耕にも、有効でない。

大変不思議です。

近所のこの夫婦が毎日クリを全部拾って持って帰ってしまうと嘆いていました。
           
 
 


 (3)小牧野遺跡展示館



 50小牧野遺跡保護センター



 51外観
遺跡近く、青森空港か飛行機が飛び立つ 小牧野遺跡保護センター(旧小牧野小学校) 青森市小牧野遺跡保護センター縄文の学び舎・小牧の館 世界遺産登録を願う
ポスター
   
 
 52入口展示
 53遺跡造成の痕跡
展示している土層は、小牧野遺跡の環状列石の断面を剥ぎ取りしたものです。右の断面は造成の際の盛土部分で、上の断面は切土の部分です。
よく見てみると、右の断面については、黒土の上に元々の地盤であった黄色土が重なっており、、縄文人が、削った土を盛っていたことがわかります。

環状列石断面の剥ぎ取り標本痕跡 地層剥ぎ取り標本
縄文人が集団墓地造成工事をした

黒ボク土が自然堆積、黄色土が造成の盛り土

 造成の様子
環状列石がつくられる前、この場所は緩やかな斜面でしたが、下の図の様に、小牧野遺跡では、縄文人が斜面の土を削ったり盛ったりした後に、石を並べていたことが発掘調査によって明らかになっています。

造成の痕跡
造成の痕跡
上に記述
環状列石の断面(B)
土層断面の剥ぎ取り部分
造成の様子
上に記述
➀斜面を切土する。
 高所を削って低所へ
②斜面へ盛土する。
 低所に土を盛り上げる。
③石を並べる
④継続して盛土・配石を行う。
※盛土は普通突き固めるが(流出防止)、ここでは盤築工法していない。

 54列石の発見
 小牧の遺跡の環状列石を発見したのは、青森山田高等学校の生徒たちです。そのことについて。
街から外れた山奥の山林へなぜ青森山田高等学校遺跡クラブの生徒が遺跡探しに引率されて来たのか。
実はこの地域は昔から土器片が出土することで知られていて、縄文遺跡がどこかにあることがわかっていたのです。そこで、地中探査をしてみようと、高校の自動車倶楽部に字形に鉄棒を溶接してもらい、その探査棒を持ってフィールド調査に向かったのでした。
※つまり何度も来て、表面採集をしていたようです。

 環状列石の発見
小牧野遺跡は、1989年(平成元年)に地元の高校生たちによって発見されました。
当時は、杉林と畑が広がっていましたが、付近は「石神平(いしがみてい)」と呼ばれるほど、沢山の石が地面に転がっていました。

これらの石は、全て丸みを帯びた河原石でしたが、通常、山の中にこのような河原石はありません。

そこで、生徒たちは昔の人たちが運んできたものだろうという仮説を立て、地面に鉄の棒を突き刺す調査(ボーリング調査)をしたところ、石が円を描くように地中にあることがわかりました。その部分を発掘調査した結果、縄文時代の環状列石が発見されました。

※沢山の人数で沢山の探査棒を刺したことで環状列石だと一目でわかったんですね。(石にあたった探査棒が環状になった。)

環状列石の発見 環状列石の発見
上に記述
ボーリングの様子
発掘調査風景
発掘と調査の歩み
未記述
環状列石の探し方 地中探査の様子 ボーリング棒
石にヒット!
 
 55発掘調査とは
私たちが生活している地面の下には、昔の人々の生活の痕が沢山埋まっています。そうした遺跡を掘り出して調べるのが発掘調査です。
遺跡全体の中で建物の跡やお墓など、地面に掘り込まれたり土が盛られたりした場所を「遺構」といい、土器や石器など、遺跡から出てきたものを「遺物」といいます。
見つかった遺跡の全てを、埋まっていた姿のまま保存することは難しいため、発掘調査によって遺跡や遺構を記録して残したり、遺物を掘り出して調べたりすることはとても大事なことです。

発掘調査とは 発掘調査とは
上に記述
発掘調査

 発掘調査の方法
➀遺跡の土を取り除きます。

遺構を壊さないように、重機→スコップ・ジョレン→移植ゴテ・竹べらと、
道具を変えながら丁寧に掘っていきます。
②遺構の底まで掘り下げたら、

土の層の重なりを観察し、土層図を作ります。土層図で重なった以降のどちらが新しいかなどがわかります。
③床面に接した遺物やまとまって出てきた遺物は、丁寧に掘り下げ、

写真を撮り、出土状況図を作ります。
その後、遺物を取り上げて遺物カードと一緒にポリ袋に入れます。
④遺構上の土を完全に取り除いたら

その様子を写真に撮ります。最後に掘り終えた遺構を測量し、平面図などを作ります。

 57小牧野遺跡はどこにある

  小牧野遺跡について
小牧野遺跡は、縄文時代後期前半(約4000年前)に作られた環状列石(ストーンサークル)を主体とする遺跡です。
堤川上流の荒川と入内川に挟まれた、八甲田山系から青森平野に向かって延びる標高145mの台地上に位置します。
1995年(平成7)国指定史跡に指定され、約9万㎡が保護されています。

小牧野遺跡について 小牧野遺跡について
上に記述
小牧野遺跡


 小牧野台地に埋まっていた木
約3万年前、十和田火山(現在の十和田湖)の火砕流によってなぎ倒された木の一部です。

小牧野台地に埋まっていた木
土埋木の様子 小牧野遺跡 土埋木
約3万年前
十和田火山の火砕流でなぎ倒された
 
 

 58年表

 青森市内の縄文遺跡
青森市内には400か所以上もの遺跡が見つかっており、現在も発掘調査などによって遺跡の数が増えたり、範囲が広がったりしています。
特に特別史跡三内丸山遺跡や、史跡小牧野遺跡をはじめとする縄文時代の遺跡が多く確認されています。
また、時期ごとに遺跡数を見ると、縄文時代前期から中期にかけて減少し後期になると飛躍的に増加します

 縄文海進
縄文時代中期の日本は現在よりも暖かく、年間の平均気温は2~3℃高かったと考えられています。そのため、雪や氷として地上にとどまる水の量が少なく、海面は5m程高かったと考えられています。この時期、海が内陸に入り込んでいた様子を縄文海進といい、縄文時代の遺跡の分布を考えるうえでの目安となります。

青森市内の遺跡分布 青森市内の縄文遺跡
上に記述
青森市内の遺跡分布 縄文海進
上に記述
青森市内遺跡関連年表
旧石器~縄文早期
縄文早期~後期
縄文後期~古墳時代
古墳時代・奈良平安
奈良平安・中世
青森市内の現在
 
               青森市内の遺跡関連年表
世界 日本・青森県 青森市
 旧石器時代   ラスコー洞窟 大平山元ⅡⅢ遺跡(青森県外ヶ浜)
岩宿遺跡(群馬県)
草創期 BC11,000 大平山元遺跡(青森県外ヶ浜)
表館(1)遺跡(青森県六ケ所村)
櫛引遺跡(八戸)
室谷洞窟遺跡(新潟県)
泉福寺洞穴遺跡(長崎県)
早期 BC7,000 興隆溝遺跡(中国) 垣ノ島遺跡(~後期)(北海道)
白浜遺跡(八戸市)
表館(1)遺跡(六ケ所村)
長七谷地貝塚(八戸市)
上野原遺跡(鹿児島県)
蛍沢遺跡
前期 BC4,000 ストーンヘンジ
(~BC2000)
北小金貝塚(北海道)
入江・高砂遺跡(北海道)
田小屋野貝塚(つがる市)
鳥浜貝塚(福井県)
三内丸山遺跡
大矢沢野田(1)遺跡
熊沢遺跡
玉清水(3)遺跡
桜峯(1)遺跡
新町野遺跡
稲山(1)遺跡
岩渡小谷(3)(4)遺跡
中期 BC3,000 クフ王のピラミッド
モヘンジョダロ
(パキスタン)
大船遺跡(北海道)
二ツ森貝塚(七戸町)
冨野沢(2)遺跡(六ケ所村)
田小屋野貝塚(つがる市)
御所野遺跡(岩手県)
加曾利貝塚(千葉県)
尖石遺跡(長野県)
三内丸山遺跡
近野遺跡
四戸橋(1)遺跡
山吹(1)遺跡
三内沢部(1)遺跡
孫内遺跡
後期 BC2,000 鷲ノ木遺跡(北海道)
キウス周堤墓(北海道)
十腰内遺跡(弘前市)
風張遺跡(八戸市)
太師森遺跡(青森県平川市)
大湯環状列石(秋田県)
伊勢堂岱遺跡(秋田県)
大森貝塚(東京都)
小牧野遺跡
小野峠遺跡
近野遺跡
蛍沢遺跡
稲山(1)遺跡
四ツ石(1)遺跡
三内丸山(6)遺跡
月見野(1)遺跡
石江遺跡群
(新城平岡(4)遺跡)
松山遺跡
中平遺跡
晩期 BC1,000 パルテノン神殿
万里の長城
亀ヶ岡遺跡(つがる市)
是川遺跡(八戸市)
宇鉄遺跡(外ヶ浜町)
大森勝山遺跡(弘前市)
大浦遺跡
長森遺跡
玉清水(1)(2)遺跡
朝日山(1)(2)遺跡
田茂木野遺跡
羽黒平(3)遺跡
源常平遺跡
弥生時代 BC300 砂沢遺跡(弘前市)
垂柳遺跡(田舎館村)
大石平遺跡(六ケ所村)
二枚橋遺跡(むつ市)
宇鉄遺跡(外ヶ浜町)
登呂遺跡(静岡県)
唐古・鍵遺跡(奈良県)
加茂岩倉遺跡(島根県)
吉野ケ里遺跡(佐賀県)
小牧野遺跡
蛍沢遺跡
牛蒡畑遺跡
葛野(3)遺跡
古墳時代 AD300 ティオティワカン遺跡
(メキシコ)
市子林遺跡(八戸市)
田向冷水遺跡(八戸市)
森ヶ沢遺跡(七戸町)
細越館遺跡
奈良・平安 AD592 アンコールワット
(カンボジア)
鹿島沢古墳(八戸市)
田面木遺跡(八戸市)
丹後平遺跡(八戸市)
李平下安原遺跡(平川市)
原遺跡(青森県平川市)
阿光坊遺跡(おいらせ町)
中野平遺跡(おいらせ町)
高屋敷館遺跡
沢田遺跡
露草遺跡
蛍沢遺跡
栄山(3)遺跡
細越館遺跡
野木(1)遺跡
野尻館遺跡
新町野遺跡
朝日山(1)(2)(3)遺跡
石江遺跡群
 (新田(1)(2)遺跡)
内真部(9)遺跡
中世 AD1,192 モアイ像(チリ) 三戸城(三戸町)
聖寿寺館(青森県南部町)
根城(八戸市)
七戸城(七戸町)
鞍越遺跡(むつ市)
大光寺城(平川市)
堀越城(弘前市)
十三湊遺跡(五所川原市)
種里城(鰺ヶ沢町)
浪岡城跡
油川城附跡
尻八館遺跡
 

 59小牧野の環状列石
むかしの人々が石に願いを込め、大小の石を組み合わせて円形に並べたものを環状列石(ストーンサークル)といいます。
縄文時代後期前半(約4000年前)、小牧野の人々は、土地を平らにならして広場を作り、台地の下の荒川から約2900個もの石を運んで、丁寧に並べました。このように大変な時間と労力をかけて環状列石が作られました。

小牧野遺跡の環状列石は、中央帯(直径2.5m)、内帯(直径29m)、外帯(直径35m)の三重の列石の他、直径4m程の環状配石や、一部四重となる列石などもあり、全体で直径55mにもなる巨大なモニュメントとなっています。

内帯と外帯は「小牧野式配列」と呼ばれる珍しい形で、平らな石が縦横交互に繰り返し置かれています。

小牧野遺跡の環状列石
上に記述
配石遺構位置図 小牧野遺跡の環状列石 小牧野式配列
小牧野遺跡の環状列石
 
 60
 61青森県内の環状列石など
青森県内では、
縄文前期(約6000年前)には、墓の上に配石)が見られ、
中期(約5000年前)には直径4m程の小型の環状列石が出現、
中期末~後期初頭(約4500~4000年前)には石棺墓がつくられると共に配石遺構の数が増え、その規模も大型化していきます。
    (※石棺墓:平らな石を箱の様に組んだ棺)
    ('※配石:複数の石を意図的に配置したもの)

青森県内の環状列石は、縄文時代後期前半(約4000年前)に作られたものが多いですが、中には縄文晩期前半(約3000年前)のものもあります。

県内の環状列石 県内の環状列石 県内の環状列石 県内の環状列石 大師森遺跡を南に越せば
伊勢堂岱遺跡
大湯環状列石
など多数の環状列石遺跡が点在する。
青森市 小牧野遺跡 弘前市 大森勝山遺跡 平川市 太師森遺跡 黒石市 一ノ渡遺跡 南部町 水上遺跡

 62全国の環状列石
大小の石が円を描くように並べられた「環状列石」。その多くは、1万年以上続く縄文時代の後半期(5000~3000年前)に、東日本を中心に盛んに作られるようになります。
環状列石が何のために作られたのかは、はっきりとはわかっていませんが、墓、祭りや祈りの場、太陽の動きや周りの山々に関する施設としてなど、様々な理由が考えられています。

大型の環状列石がある場所は、北関東から中部地方にかけての地域と、北海道から北東北にかけての地域とに、大別されます。
北関東・中部地方の環状列石は中期に作られたものが多く、北海道・北東北のものは縄文時代後期に作られたものが多くなっています。

全国の環状列石
上に記述

上に記述
北海道深川市
音江環状列石(後期)
北海道小樽市
地鎮山環状列石(後期)
北海道余市支
西崎山環状列石(後期)
北海道小樽市
忍路環状列石(後期)
北海道森町
鷲ノ木遺跡(後期)
北海道斜里町
オクシベツ川遺跡(後)
北秋田市
伊勢堂岱遺跡(後期)
秋田県鹿角市
大湯環状列石(後期)
岩手県滝沢市
湯船沢Ⅱ遺跡(後期)
岩手県花巻市
清水屋敷Ⅱ遺跡(後期)
東京都町田市
田端遺跡(後-晩期)
群馬県安中市
野村遺跡(中期)

 65環状列石の大きさ比べ
日本各地の環状列石歯、形も大きさも様々。直径50mを超える大きなものから、直径2mほどの小さなものまで見つかっています。
小牧野遺跡の環状列石は、直径55mと、日本最大級の大きさです。

北海道小樽市
  忍路環状列石33m
青森県弘前市
  大森勝山遺跡48m
秋田県北秋田市
  伊勢堂岱遺跡37m
秋田県鹿角市 大湯環状列石
  万座環状列石52m
  野中堂環状列石45m
北海道斜里町
 オクシベツ川遺跡10m
北海道森町
 鷲ノ木遺跡37m
青森県青森市
 小牧野遺跡55m
岩手県滝沢市
 湯船沢Ⅱ遺跡20m
岩手県花巻市
 清水屋敷Ⅱ遺跡8m
環状列石の大きさ比べなんて聞いたこともなかったが、
ここでは、小牧野遺跡が最も大きいといいたかったようです。 
 




 100第1展示室



 100縄文人の暮らし
 101縄文時代の集落
人々の住む家が集まっている場所を集落といいます。縄文時代の始め頃、集落はあまりありませんでしたが、縄文時代中期(約5000年前)頃になると、三内丸山遺跡などで大きな集落が繁栄するようになります。

 竪穴住居
縄文時代の家は、地面を50~60cm掘り下げ、数本の柱を立ててカヤなどで屋根を葺いた「竪穴住居」が一般的です。
家の中央には炉があり、料理をしたり、室内を温めたりしました。


考察 竪穴住居考
縄文住居
縄文時代の北海道南部函館市付近では、1.5m程地面を掘り込んで竪穴住居を造り、中で常に火を焚いて周囲の土壁を温め、厳寒期に備えた。
青森市付近では50~60cm程度の掘り込みで内部の土を温めて真冬の寒さを耐え忍んだ。

しかし、いずれも、住居の上には大きな煙出しが常に開いており、密閉して室内を温められるわけではなく、吹き抜けで寒かったことは間違いない。
寒冷地では周囲の土壁を温め続けることが大切だった。(上に煙が出る=周囲から冷気流入。煙出しがある=人の体温が上がる⇒冷気流入)

アイヌ住居
ところがである。時代はうんと下るが、北海道中央のアイヌ住居では、住居の建築は大勢の人が集まって1日で完成するという、掘立柱建物で、
木材の多くは縄で縛り、壁は萱を掛けるだけという構造だった。

氷点下20℃以下にもなるという厳寒期の北海道。吹雪の吹きすさぶ中、こんな軽い作りで耐えられるものだろうかと思う。
風が吹けば室内も大嵐になるし、屋根葺き植物の間から雪や雨も舞い込むだろう。縄文を引き継いだ者なら分厚い土壁や石積みをしてでも防寒対策を考えるだろうほどに、なぜ土壁がなくても過ごせたのか、本当に不思議である。

 貯蔵穴
木の実などの食料を入れて保存するために掘られた穴です。多くは入口が狭くて底が広く、断面がフラスコ状に似た形をしているため、「フラスコ状土坑」「フラスコ状ピット」とも言われます。この形は中の温度を一定に保つ効果がありました。

 落し穴
集落から離れたところでは、獣や小動物を捕まえるために、多くの落とし穴が掘られました。深く溝の様に掘られたり、穴の底に尖った木を立てたりして、獲物が動けなくなる様に工夫してあります。考古学用語では、「溝状土坑」や「Tピット」といいます。

縄文時代の集落 竪穴住居
上に記述
竪穴住居跡
三内丸山遺跡
貯蔵穴
上に記述
貯蔵穴(青森市新野遺跡)
貯蔵穴の様子
落し穴
上に記述
落し穴(青森市新野遺跡)
落し穴を使った狩り
 102発掘調査で見つかった縄文時代の集落跡 三内丸山遺跡 縄文中期
竪穴住居跡
竪穴住居跡断面 貯蔵穴・断面 落とし穴・断面
 103
縄文人が暮らした竪穴住居内には炉がつくられ、ここで火を燃やして料理をしたり、暖房や夜の明かりとして使っていました。
縄文時代の始め頃は土の床で火を焚いていましたが、次第に石や土器を使った炉がつくられるようになりました。
炉は神聖なものとして縄文人の生活の中心となっていたと考えられます。

※竪穴建物は窓がなく、昼間も真っ暗で一日中火を燃やした。復元住居に入ると、上の方に煙出しの大きな穴が開いており、入口もしっかりと
開いているのに、中は真っ暗である。炉は暖房、、明かり、虫よけ、住居の防腐剤である。当然家の中はススだらけ、煙だらけ。
鼻の中も、肺も真っ黒だったでしょう。


 火を起こす道具
縄文時代には、木の板と棒を使って火を起こしていました。板に押し付けた木の棒を素早く回すことで摩擦熱が起き、熱くなった部分から零れ落ちる火種を干し草などに移して火をつけます。手のひらで棒を回すほか、紐を使って回転させる道具もありました。

※燐寸が普及するまでは、家の中で常に火を燃やしていたり、火種を灰に埋めて保存しておいたので、火錐臼や火錐杵をいつも使ったのではない。
    キリモミ式
両手でキリをもむようにして、棒を回転させます
ユミギリ式
棒に巻き付けた紐を交互に引き、棒を回転します
ヒモギリ式
棒に弓の弦を巻き付け、弓を左右に動かすことで棒を回転させます。
マイギリ式
紐のついた横木を上下させることで、棒を回転させます。
  ※手モミ式から弓ギリまでは出現に時間差があり、全てが縄文の道具ではない。


 炉の種類
炉 
  地床炉
じしょうろ

土の床で火を焚いて使用
石囲炉

火を焚く周りを石で囲んだ
土器埋設炉

炉の下に土器を埋めて使用
(灰に埋めた火種が消えにくい。
 湿気を防ぐ。)
尖底土器は、 地面(灰)に挿して石で支えて使われました。
平底土器は、 煮炊きのほか、食べ物の保存にも使われました。
縄文土器は壊れやすいから一度据えたら壊れるまで動かさない。洗うこともない。いつも火の中にある熱い甕をどうやって毎回取り出せますか。
ガスや電気の熱ではないのです。煮込みとアク抜きとは甕を別にしたでしょう
 
 

 105色々な縄文土器
およそ1万年にもわたる縄文時代。その間、日本各地で様々な形の縄文土器が作られてきました。
縄文時代の初め頃は底が尖った形の「尖底土器」が見られますが、やがて底が平らなものが殆どになります。
縄文時代中期には中部地方と東北地方を中心に、手の込んだ複雑な形の土器が作られ、簡単な形と文様が多い西日本の土器との違いが見られます。
 106
いろいろな縄文土器
上に記述
尖底土器(北海道~九州地方)早期
円筒上層式(北海道~東北北部)中期
大木式土器(東北南部)中期
亀ヶ岡式土器(東北地方)晩期
勝坂式土器(関東地方)中期
加曽利式土器(関東地方)中期
堀之内式土器(関東地方)後期
火焔型土器(新潟地方)中期
北白川下層式(近畿地方)前期
阿高式土器(九州地方)中期
黒色磨研土器(九州地方)晩期
 107教材用模型
深鉢形土器
栃木県 前期
縄文前期土器 釣手付注口土器 後期
尖底土器 千葉県
加曽利E式 中期
千葉県姥山貝塚
堀之内1式土器
縄文後期約4000年前
 

 110暮らしに関わる縄文土器

 暮らしに関わる縄文土器
縄文土器に様々な形がある理由は、作られた時期や地域の違いの他に、使い方の違いにもよります。
最も多く作られたのは、食べ物を煮るための深鉢です。土器の外側に、食べ物が吹きこぼれて焦げたあとが残っているものが見つかっています。
貝を煮てスープにしたり、ドングリを煮て苦味を取り除いたりするほか、水や食べ物を保管しておく「かめ」としても使われたことでしょう。
 ※素焼きだから水は漏れるでしょう。

煮るために使われた深鉢に対して、台付鉢や浅鉢は食べ物を「盛る」ために使われました。また水の注ぎ口が付いた「注口土器」も見つかっています。これらは特別な祭りや儀式で使うこともあったと考えられます。
深鉢形土器
蛍沢遺跡 後期
 111
暮らしに関わる縄文土器 暮らしに関わる縄文土器
深鉢・壺・台付鉢・注口土器

上に記述
 112

鉢形土器
 蛍沢遺跡 晩期
浅鉢形土器
 長森遺跡 晩期

台付浅鉢形土器
四ツ石(1)遺跡 後期

皿形土器
長森遺跡 晩期

徳利形土器 晩期
蛍沢遺跡

深鉢形土器 前期
稲山(1)遺跡 

深鉢形土器 中期
戸山遺跡
土器外側におこげがついています。
でんぷん質が煮こぼれて周囲についたのでしょう。

注口土器 後期
蛍沢遺跡

壺形土器 後期
稲山(1)遺跡

 114縄文時代の漆器
縄文時代には土器だけでなく、木や竹から作られた木器、その木器に漆を塗った漆器も作られました。
縄文人はすでに漆を加工する高度な技術を持っており、数多くの美しい漆器が見つかっています。
木器や漆器は、土器と違って腐りやすいため遺跡に残りにくいものですが、湿地にある遺跡では空気に触れないため腐りにくくなっています。

縄文時代の漆器
上に記述
新城平岡(2)遺跡の
漆器出土状況
漆器 後期
新城平岡(2)遺跡
漆が入った土器
縄文後期~晩期
出土地不明
 
 116弥生土器
縄文土器と比べてみよう
弥生時代の土器

深鉢形土器 葛野(3)遺跡

甕形土器 蛍沢遺跡
蓋形土器 葛野(3)遺跡
縄文土器と比べて見よう
奈良時代の土器

土師器 露草遺跡

土師器 露草遺跡
 

 120縄文人の御馳走
縄文人は自然の恵みを上手に生かして、豊かな食生活を送っていました。縄文人の一年間の御馳走の様子を見てみましよう。
 121縄文カレンダー
縄文人の御馳走



狩猟や動物に関する遺物
小牧野遺跡
  春は植物の芽が出る季節。沢山の山菜を摘み、干して保存しておきました。
海辺では海藻や貝も沢山獲れ、漁も始まります。
夏は丸木舟で海に猟に出かけ、河や湖では釣りや網で魚を獲りました。 秋は実りの季節。木の実や、山芋など、山の幸が沢山採れます。
川には鮭が遡上して、燻製にして保存食にしていました。
植物の乏しい冬は、狩りで獲物を捕まえます。弓矢でシカを狩ったり、落し穴でイノシシを捕まえたり、して肉を食べ、毛皮や骨・角は衣服や道具に加工しました。  
 122狩猟具
狩猟具 狩猟文土器
新町野遺跡 後期
狩猟文土器
稲山(1)遺跡 後期
石鏃 山吹(1)遺跡 早期

石槍
稲山(1)遺跡 中期
左写真の、右2個のようなおどろおどろしい石槍は始めて見ました。

強烈な返しのついた石槍は実用でしょうか。
威嚇の儀式用でしょうか。

石槍
蛍沢遺跡 中期
三内霊園遺跡 中期
 
 130動物骨や角の利用
縄文人が魚を獲るための道具の多くは、材料として動物の骨や角が使われており、これらを骨角器といいます。
シカなどの骨や角から、釣針・針・ハンマーなどが作られました。

 131大浦遺跡 青森市大字野内字浦島246-2
青森市の大浦遺跡からは、縄文時代晩期(約3000~2300年前)の骨角器や貝類、製塩土器などが出土しています。
縄文時代の貝塚は、青森県内では主に太平洋側に分布していますが、大浦遺跡では陸奥湾沿いの遺跡の中では珍しい貝塚も発見され、当時の漁や製塩の様子、食生活を知る上で、大変重要な遺跡となっています。

動物骨や角の利用 骨角器に使われる部位 鹿角:釣り針、ハンマー
肋骨:針(縫い針)
中手骨:針
大腿骨:刺突具
大浦遺跡の位置
 132骨角器・石器
釣針 大浦遺跡 晩期
銛頭 大浦遺跡 晩期 銛の先につけて魚などを突き刺す骨角器

離頭銛などがあった

 石器
石銛
新城平岡(4)遺跡 中期

魚やクジラなどを突き刺す道具
先端の石銛の下についているのは返しか。

だとすると、異形石器とされる中に似たものが多くあった。
黒曜石製なら、返しに有効だ。これかな。
 133石錘
石錘
稲山(1)遺跡
縄文前期~後期
溝に紐を巻き付ける
石錘 石錘
稲山(1)遺跡
縄文前期~後期
えぐり部分に紐を巻く
土器片錘
新田(2)遺跡 前期
土器片をえぐり、巻き付ける
石錘
稲山(1)遺跡
縄文前期~後期
孔に紐を通して結ぶ

 135縄文時代の塩作り
人々に欠かせない塩は、東北地方や関東地方などで縄文時代から作られていました。まず、土器で海水を汲み、天日干しで水分を蒸発させます。
海水が濃くなったら土器を火にかけて煮詰め、水分が蒸発すれば塩の出来上がりです。この時使った土器は製塩土器と呼ばれています。
 136
縄文時代の塩作り
階上町滝端遺跡
製塩土器
滝端遺跡は山中なので海岸部で作られた
塩入り製塩土器が、運ばれたようです。

ただし、これは塩容器でなく火にかけた製塩土器だったのかな。
他地域の製塩土器はもっと小さく、製塩するとはがれやすくボロボロになるんだが。
※大浦遺跡は陸奥湾沿岸。滝端遺跡は三陸の山中。
滝端の製塩土器はどこから来た?大浦?
製塩土器
大浦遺跡 晩期

 140貝と貝塚
貝は縄文人の大切な食料です。食べた後の貝殻が沢山見つかり、貝殻がまとめて捨てられた場所を貝塚といいます。貝塚からはアサリ・ホタテ・シジミ・ハマグリ・カキなどが見つかります。大浦遺跡ではレイシガイクボガイの仲間など、岩に生息する貝が多く見つかっています。

貝殻は、腕輪などの装身具の材料としても使われました。
北海道の縄文時代の遺跡から、本州の南で獲れる貝を使った装身具が見つかっており、縄文人が海を渡って交易していたことがわかります。

※北海道縄文人は北方交易が盛んだった。南海産貝製装飾品が日本海航路で持ち込まれたか、大陸を通ってニブフ交易で得たか、
 それともベンガラ交易で十三湊に上がったものを、北海道との黒曜石交易に使ったか。
 141貝塚
貝と貝塚

上に記述
青森県内の主な貝塚

特定の地域に集中
津軽平野と小川原湖では汽水域の貝が多く
その他では海産の貝が多い。
七戸町二ッ森貝塚
貝層断面
 142 大浦遺跡(陸奥湾沿い海水産) 縄文晩期

レイシガイ・ヒレガイ
大浦遺跡/縄文晩期

アカニシ・ツメタガイ
スガイ・イボニシ
ウミニナ・クボガイ
大浦遺跡/晩期

イシダタミガイ・オオヘビガイ・ヘソアキクボガイ
クロアワビor エゾアワビ
コベルトフネガイ

アズマニシキガイ
アサリ・オニアサリ
イガイ

ヌメアサリ・オキシジミガイ・カガミガイ・サルボウガイ

ヤマトシジミ・バカガイ
ムラサキインコガイ
ハマグリ

コベルトフネガイ
ウノアシガイ
ユキノカサガイ

イタボガキ科
ユキノカサガイ科
 
 150道具
 151切る道具
縄文人は石を加工して、現代の小型ナイフや包丁のような刃物を作っていました。こうした石のナイフは動物や魚を解体したり、皮や骨についた肉を削り取るのに使われていました。ナイフの上につまみがついた「石匙」と呼ばれるものもあります。

石匙
 稲山(1)遺跡
第22号住居 縄文前期

横型が少し混じる
石匙の、北方の縦型と西方の横型は、
使い方や、使う対象が違っていたのかもしれない。

 153黒曜石
黒曜石は、マグマが急に冷えてできた天然ガラス質の岩石です。割ると鋭い刃の形となるため、旧石器時代から石器作りの重要な材料となっています。黒曜石は産地が特定しやすいため、人々の活動範囲巣を知る上での目安となります。
青森県内で発見された縄文時代の黒曜石で作られた石器の多くは北海道産です。

三内丸山遺跡の
往時の姿
黒曜石
主な黒曜石産地

黒曜石産地
北海道: 白滝・置戸・十勝・赤井川
東北:  出来島・深浦・男鹿
関東:  高原山・箱根・神津島
信州:  和田峠・霧ヶ峰・八ヶ岳
西日本: 隠岐島・姫島・腰岳

黒曜石 石匙
桜峯(1)遺跡 前期
黒曜石 石匙
新町野遺跡 前期
黒曜石 石匙
四戸橋(1)遺跡
中期~後期
黒曜石 石槍
新町野遺跡 前期

 155磨り潰す道具
縄文人がよく食べていたドングリなどの木の実は、調理しやすくしたり、消化しやすくするため、石皿や磨石という道具で粉状に磨り潰されていたようです。これらの道具は安山岩というざらざらした素材の石が使われ、現在のすり鉢やすりこ木、石臼やまな板のような役割を果たしていました。

磨り潰す道具
長森遺跡 縄文晩期
石皿
長森遺跡 晩期
石皿
四戸橋(1)遺跡
縄文中期~後期

この石皿、真ん中が飛び出ている。使い方が随分違うようだ。
石皿 出土地・時期不明 くぼみ石
山吹(1)遺跡 中期

クリ 孫内遺跡 中期
 

 160加工する道具
縄文人は、ナイフや石皿など調理に使う道具の他にも、孔をあけるための石錐や、物を削ったりする石箆など、物を加工するための道具もいろいろ使っていました。
 161
骨角器 (刺突具)
大浦遺跡 晩期骨や角で作った刺したり突いたりする道具
骨角器(その他)
大浦遺跡 晩期
加工する道具 石錐
四ツ石(1)遺跡 後期
石錐
稲山(1)遺跡 後期
 

 162トランシェ様石器 =土堀具 引用wikipedia石斧 縄文時代  tranche【名】〈仏語〉=suraisu〈英〉切片・部分・切り分けたもの

打製石斧は、縄文時代早期末に、三味線の撥(バチ)に似た形状で、鋭い剥離面を刃部とした片刃の石斧が北日本にみられ、それは「直刃斧」あるいは「トランシェ様石器」といわれ、後世の「手斧」のような使用が考えられる。
縄文中期中葉以降、関東地方や中部地方では打製石斧の数量が爆発的に増加するが、形状は短冊形、撥形、分銅形のものが多く、これらは垂直に打ち下ろす「斧」には向いていない。乳棒状磨製石斧や定角式磨製石斧など伐採具に適した道具が他にあることからも土掘りの道具と考えられている

 ※ここから、他地域ではあまり見られない形状の石器が続きます。

トランシェ様石器
蛍沢遺跡 早期
三味線のバチに似た石器

土堀具

 163石箆 削る道具
  大石平型=小牧野遺跡の別呼称ですから、小牧野型石箆ということでしょうか。
  稲山(1)遺跡は環状列石を持つ遺跡。ただし、中期末葉~後期前葉とある。?。

大石平型石箆
稲山(1)遺跡 後期
つまみが付く小さな石箆
大石平遺跡が標識
石箆
稲山(1)遺跡 後期
 164抉入扁平磨製石器
抉入扁平磨製石器
稲山(1)遺跡 前期
 165半円状扁平打製石器
半円状扁平打製石器
稲山(1)遺跡 前期

 166木を伐る道具
石の刃に木の柄をつけた石斧は、主に木の伐採用道具として使われたと考えられていますが、そのほか、地面に穴を掘ったり、植物の根を採取するのに使われたとも考えられています。

木を伐る道具 打製石斧 
蛍沢遺跡 中期
磨製石斧
山吹(1)遺跡 中期
ミニチュア磨製石斧
四ツ石(1)遺跡 後期
磨製石斧
山吹(1)遺跡 中期

敲き石として再利用された磨製石斧
磨製石斧
稲山(1)遺跡 前期
磨製石斧
蛍沢遺跡 早期
 
 170

 171縄文住居

 縄文時代の自然環境
縄文時代の東日本には、コナラやオニグルミなどの落葉広葉樹林の森が広がっていました。
小牧野遺跡からは、縄文時代後期(約4,000年前)と推定されるドングリ(コナラ等)やクルミ(オニグルミ等)などの花粉化石が見つかっています。
これらの植物は、現在でも小牧野遺跡の中で観察することが出来ます。

縄文住居 クルミ
クルミ 縄文時代の自然環境 コナラ(ドングリ)
オニグルミ(くるみ)
排泄物について考えよう
糞石 縄文のトレペ
フキ・ヤマブドウ・ヨモギ

 175ゴミ捨て場
現代と同じように縄文人の毎日の生活からも、様々なゴミが発生します。しかし、縄文人はゴミが増えたからといって他の場所に移動するようなことはあまりなかったようです。
また、当時の人々はゴミを単にいらないものとは思っていなかったようです。三内丸山遺跡のゴミ捨て場である盛土からは、ごみと一緒にヒスイの玉や土偶も沢山見つかっています。ゴミ捨て場自体がお祭りの場になったり、祈りの場になっていたとも考えられます。

現代のごみ処理法 捨て場出土の石匙
稲山(1)遺跡15号住居
縄文前期
刃を付け直せばまだ使えるのに、なぜ捨てたんだろう。
捨て場出土土器
稲山(1)遺跡15号住居
縄文前期
素焼き土器を熱し続けると、底部と胴部が

ある日突然パカッと分離して壊れます。

収縮率の違いでひび割れするのかも知れない
縄文時代のゴミ捨て場
上に記述
三内丸山遺跡
南盛土
 


 180廊下パネル展示 世界の遺跡

 181イギリス周辺の環状列石
日本で環状列石が作られていた頃、イギリス周辺でも環状列石が数多く造られました。
環状列石のほかにも、巨大な石を立て並べた遺跡も発見されています。

イギリス周辺の環状列石 ストーンヘンジ
イギリス周辺の環状列石

 ストーンヘンジ
ストーンヘンジは、イギリス南部のソールズベリー平野にある、世界的に有名な環状列石(ストーンサークル)です。
大きく3つの時期を移り変わりながら5千年以上かけてつくられました。
ストーンヘンジは、お墓の存在から死者を葬る儀礼を行う新田などと考えられています。しかし、誰が何のために作ったのか、なぜ巨石を運んだのかなど、多くのことが分かっていません。

 ストーンヘンジの建設
➀約5,000年前に、直径約110mの溝と土手でできた「ヘンジ」がつくられました。その後ヘンジの形に添って木の柱が立てられました。
②約4,500年前に、西に240kmも離れたプリセリ山地からブルーストーンを運び、環状列石が作られました。

③約4,300年前には、北に約30km程離れたマールバラ丘陵から巨大なサーセン石を運び、石を立てると共に、その上に石を載せたりした
環状列石がつくられました。

ストーンヘンジ  巨石の運搬ルート     

 聖なる石を巡る旅
ピンボケ アジアとアフリカの
奇岩・巨石
泰山の仙人橋
中華人民共和国
ゴールデンロック
ミャンマー
バターボール
インド共和国
ケアラ・ムグナ
モロッコ共和国
バランシングストーン
ジンバブエ共和国
カッパドキアのキノコ岩
トルコ共和国
バフレイヤの奇岩
エジプト・アラブ共和国

 ストーンヘンジの大きさ
小牧野遺跡で最も大きい石の高さは約1.2mですが、ストーンヘンジでは高さ4mを超えるものが多く見られます。中には重さが40t近いものもあり、一つの石を移動するのに約200人の人手が必要でした。展示している石は、ストーンヘンジの一部である高さ5.28mのサーセン石のレプリカです。

ストーンヘンジの大きさ
 





 200第2展示室



 200縄文人の祈りと願い
 201縄文人の墓
縄文時代の人々は、現代人と同じようになくなった人を丁寧に墓に埋葬していました。
遺体の多くは土坑墓という地面に掘られた穴の中に、手足を折り曲げた形で埋葬していました。これは屈葬といい、赤ちゃんが生まれたときと同じ姿勢にすることで、死後の世界で生まれ変わることを願ったのではないかと考えられています。

縄文人の祈りと願い 縄文人の墓 八戸市
八幡遺跡の土壙墓


 アイヌの墓
北海道から樺太・千島列島に渡る先住民族であるアイヌの墓には、イルラ・カムイと呼ばれる木製の墓標が建てられます。
男性用は鏃の形、女性用は縫い針の穴がかたどってあり、腐りにくいハシドイの木などでできています。

アイヌの墓
アイヌの墓標
イルラカムイ
アイヌの墓標
男物・女物
石鏃・縫針?

 サンキ
青森市の一部地域では、珍しい埋葬の風習が残されています。かつてはなくなった人は土葬され、その土盛りの上に3本の棒を三角錐状に立て、ムシロを掛けて「サンキ(三木)」と呼ばれる上部施設が作られます。
サンキの上には魔除けの鎌が取り付けられ、「ミナノカ(三七日=3週間)」の間、毎日墓参りが行われ、その後サンキは焼かれます。(※地域差有)
現在では、火葬の後、納骨を終えた墓石の上にサンキが作られます。

 (3)サンキ 引用青森市野沢地区の葬送儀礼
埋葬を終えると、土盛り付近に木の棒を三本立てて、上部を一緒に結んでムシロなどを掛け、 手前を開いた三角錐の小屋を作る。この墓上施設のことを「サンキ(三木)」という。 サンキの上部には、魔よけのため農具の鎌を取りつける。墓参りは「ミナノカ(三七日=3 週 間)」の間毎夕行われ、それが過ぎるとサンキは焼かれてしまう。 以上に記載した地割り餅やサンキの風習については、平成 20 年(2008)3 月に刊行された『新 青森市史 別編3 民俗』にも紹介されています。「地割り餅」は、安田や新城などでは「屋敷 餅」、荒川では「陣取り餅」、清水では「うしろ餅」とも呼ばれています。また、サンキについて は、県外ではサンギチョウ(岩手県・宮城県)、サギッチョ(福島県)、三曲り(秋田県)などと 呼ばれ、東北地方に分布していることがわかります。

サンキ サンキ
 



 202新町野遺跡の土壙墓

新町野遺跡で発掘された縄文時代前期の土壙墓です(約5000年前)。墓の中には石槍・磨製石斧・石匙などの副葬品が入っていました。
墓穴の大きさから、死者の手足を折り曲げた「屈葬」であったと考えられます。

新町野遺跡の土壙墓
新町野遺跡の土壙墓
新町野遺跡の土壙墓

上に記述
遺物出土状況
屈葬のイメージ
土壙墓
土壙墓
 210副葬品
 211土壙墓の副葬品
なくなった人を埋葬するとき、一緒に墓に入れる品物のことを副葬品といいます。縄文人の一般的な墓である土壙墓からも、ヒスイで作った玉、
赤い漆を塗った櫛、鏃、石斧など、様々な副葬品が見つかっています。これらは、亡くなった人の生前の愛用品だったのかもしれません。

土壙墓の副葬品 多数の副葬品が見つかった墓。新町野遺跡
深鉢・磨製石斧
新町野遺跡 前期
石槍 新町野遺跡
縄文前期
装身具出土の墓
長森遺跡 晩期
 212新町野遺跡第15号土坑の副葬品
磨製石斧 石鏃 磨製石斧 石匙
深鉢形土器
 213新町野遺跡第554号土坑の副葬品 縄文前期
石槍
石槍の根元の凸凹は返しでなくて、槍の柄に留めるための滑り止めですね。  石匙
石鏃
磨製石斧
 214新町野遺跡第518号土坑の副葬品
新町野遺跡第518号土坑の副葬品 石槍・石鏃・石匙
抉入扁平磨製石器
 215新町野遺跡第395号土坑の副葬品
石匙
石鏃
磨製石斧
 



 216長森遺跡第1号土壙墓副葬品 晩期

長森遺跡第1号土壙墓副葬品 長森遺跡第1号土壙墓副葬品 玉
 217長森遺跡 第2号土壙墓副葬品 晩期
長森遺跡第2号土壙墓副葬品
壺形土器・玉 
壺形土器 第3号土壙墓副葬品
玉 晩期
桜峯(1)遺跡第2号土坑
垂飾 後期
垂飾
 


 220山野峠遺跡の埋葬 後期前半


 221山野峠遺跡の石棺と土壙墓
青森市の東部にある山野峠遺跡は、小牧野遺跡と同じ縄文時代後期前半(約4000年前)の遺跡ですが、土を掘って埋めただけの一般的な土壙墓とは全く違った墓が見つかっています。
遺跡は標高約90mの小高い場所にあり、峠を挟む東西の斜面上から、7基の石棺墓(平らな石を箱状に並べ、蓋をしたもの)と土器棺墓(この遺跡では石室に収納)が、それぞれ列になって発見されました。

種類の違う2列の墓が、同じ時期のものであることが確認されたことから、亡くなった人はまず石棺墓に葬られ、のちにその骨が取り出され、土器棺に入れて再び埋葬されたと考えられています。

 縄文時代の特殊な埋葬 引用あおもり今・昔27
縄文時代の墓は、一般的に地面に穴を掘って埋葬したものが多いが、縄文時代後期前半に特殊な埋葬方法が現れてくる。
その方法とは、遺体を一度土葬して、再びその墓を掘って骨を取り出し、それを甕形土器に入れて再埋葬するものである。
考古学ではそのように埋葬された墓を、『再葬土器棺墓』と呼んでいる。

▼山野峠遺跡 土器棺の出土状態 〔石室の中に土器棺が安置されていた〕  
国道4号線東バイパス久栗坂トンネルの上に山野峠さんのとうげ遺跡があるが、昭和8年に峠の東側斜面から、12個の甕形土器が石室に入った状態で発見され、そのうちの6個から人骨が発見された。
人骨は大人のもので、しかも火葬されたものではなかった。その後、西側の斜面から平石を組み合わせた石棺墓が、一列になって7個発見された。このことから、遺体は最初この石棺に埋葬され、のちに甕形土器に収められて再埋葬したものと考えられた。

倉石村薬師前遺跡で発見された再葬土器棺内部の人骨は、一番奥に頭骨があり、それを囲むように腕と脚の骨が立てかけられていた。
その様子は、あたかも出産間近の母胎内の胎児の姿勢に似ていた
『再葬土器棺墓』は、土器を母親の胎内に見立て、人骨を胎児の姿勢に組み立てて再埋葬していることから、縄文人が、死者の再生を希求した行為と考えられている。また、この特殊な埋葬方法は、村の指導者など、特別な身分の人の死に際して行われたと考えられており、これまでのところ青森県を中心に秋田・岩手両県北部で多く発見されている。

山野峠遺跡の
石棺と土壙墓
石棺墓
山野峠遺跡地図 土器棺

ホントに見事な骨壺
山野峠遺跡
石棺墓の配置図 

 222土器棺
土器棺墓とは、一度、遺体を墓に埋葬(あるいは風葬)してから、数年後、肉が朽ちて骨だけになったものを取り出し、その遺骨を土器棺に納め、再び埋葬することです。山野峠遺跡では、1933年(昭和8)に6基の石室の中に合計12個の土器棺が発見されています。
これらの他にも、破片の状態で見つかったものもあります(展示している土器棺)。


土器棺墓を調査中
土器棺墓を修復中
土器棺
山野峠遺跡 後期
土器棺
山野峠遺跡 後期
土器棺
山野峠遺跡 後期
土器棺
山野峠遺跡 後期
 223石棺墓の分布
東北地方北部では、縄文時代中期の終わりから後期の初め頃(約4000年前)、特に青森県に集中して、石棺墓が作られています。石棺墓は、一つの遺跡から複数発見されるケースが多く見られます。


 225山野峠遺跡の石室
土器棺は一般的に土の中に埋められますが、山野峠遺跡では、6基の石室の中に、計12個の石棺が入れられていました。6基の石室は山の斜面に一列に並んで発見され、峠を挟んだ反対側の斜面に並んだ7基の石棺墓と対をなすように連なっていました。

山野峠遺跡の石室 石室 石室内の土器棺 石室と土器棺の位置関係 石室蓋石

石室模型 

 226山野峠遺跡での遺体の解体と再葬
山野峠遺跡での遺体の解体と再葬
➀地面に穴を掘り、壁や床に平らな石を配置します。完成したら石棺に遺体を寝かせて、石で蓋をします。

②数年後、石棺墓の蓋が開けられ、白骨化した遺骨を取り出します。
骨は洗い清めていたとも考えられます。

③土器棺の中に丁寧に骨を入れて行きます。考古学では、再葬といいます。最後に遺骨を入れた土器棺を石室に収納します。

 227山野峠遺跡の石棺墓
山野峠遺跡の石棺墓 山野峠遺跡の石棺墓
石棺墓 石棺墓は一次葬をした白骨化のための墓壙

石室は二次葬のための土器棺収納施設
 
 230土器棺墓の分布
 231土器棺墓
土器棺墓は、一度埋葬した遺体を白骨化してから取り出し、遺骨を土器棺に入れ直して再び埋葬した施設で、縄文時代中期の終わりから後期前半にかけて、青森県を中心とした東北地方北部に多く見られます。

土器棺に骨を入れる前に行われた最初の埋葬の方法としては、主に石棺墓や土壙墓が使われていたと考えられますが、中には、遺体を風雨にさらして肉を風化させる風葬も行われていたと思われます。

土器棺墓の分布 土器棺墓の分布 東北地方北部の
土器棺墓
松前町大津
青森市蛍沢
鶴ヶ坂
松山
天狗岱
黒石市六郷
長坂(1)
花巻(1)
平川市堀合(1)
小金森
函館市戸井貝塚
むつ市家の上
蠣崎
酪農12号
一里小屋
六ケ所村泊まり
上尾駮(2)
弥栄平(1)
鷹架
青森市山野峠
弘前市八幡館
青森市屏風館
小牧野
鹿角市大湯環状列石
飛鳥平
田子町野月
二戸市飛鳥台地
荒谷A
青森市月見野(1)(4)
三沢市天ヶ森
小田内沼
六戸町犬落瀬
十和田市外山敷
五戸町関口
館町Ⅱ
南部町森越山(1)
五戸町ウエル長根
   青森県五戸町
薬師前遺跡の土器棺墓
薬師前遺跡第3号土器棺上位  師前遺跡第3号土器棺下位     八戸市新井田
五戸町上ノ平
中市
薬師前
三戸町木戸口

二戸市下村B
一戸町小鳥谷
 ※二次葬・土器棺墓の風習は、十腰内式土器の切断土器と共に東北地方に広がっている。逆に、十腰内式土器文化とは土器棺墓文化だったのか。

 232青森市内の土器棺墓
青森市内では、小牧野遺跡のほか、蛍沢遺跡、月見野(1)遺跡などで土器棺墓が見つかっています。このうち月見野(1)遺跡の土器棺墓からは、人骨も見つかりました。
青森市内の土器棺墓
小牧野遺跡

蛍沢遺跡

月見野(1)遺跡

月見野(1)遺跡
 233土器棺
土器棺
蛍沢遺跡 後期

蓋がしてある
土器棺
月見野(1)遺跡 後期
首を壊して大量に骨を詰め込んだ
 



 240儀礼


 241子どもへの思い
東北地方北部から北海道南部にわたる縄文時代早期と後期の遺跡から「手形・足形付土製品」が見つかっています。この土製品には、楕円形の粘土板に子供の手や足を押し付けた痕が残っています。
親がわが子の健康や成長を願う気持ちを表したり、亡くなった子供の形見とするために作られたと考えられています。

子どもへの思い 手形付土版
新田(2)遺跡 後期
 足形付土版
新田(2)遺跡 後期

 242縄文人の成人式(通過儀礼)
発見された縄文人の頭蓋骨の中には、数本の歯が抜かれているものが見つかっています。このことから大人になったしるしとして歯を抜く風習(抜歯)があったものと考えられます。
歯を抜く以外に、前歯にフォークのような切れ目を入れる叉状研歯といわれる風習もあったようです。どちらも、痛みに耐えて、初めて一人前の大人と認められるための習わしであったと考えられています。

縄文人の成人式 抜歯と叉状研歯



 243土偶


 土偶には、中期から晩期まで、二次元的な板状土偶と、晩期に出現する超芸術・超技術の三次元造形の遮光器土偶がある。
 青森では、この頃に各地で出現する壊されない土偶と、壊される土偶。初めから種類や目的の違う土偶が発達したのではないだろうか。
 つまり、交換材としての土偶と祭祀やまじない用としての土偶があったのではないだろうか。

 244土偶
 245板状土偶 後期
板状土偶
三内遺跡 中期
板状土偶
新田(2)遺跡 中期
板状土偶
蛍沢遺跡 中期
板状土偶
桜峯(1)遺跡 後期
これって、昔あった
海底人の顔だ
8823ってわかる?
土偶
稲山(1)遺跡 後期
土偶
稲山(1)遺跡 後期
土偶
稲山(1)遺跡 後期
土偶
四戸橋(1)遺跡 後期
土偶
四戸橋(1)遺跡 後期
土偶
四戸橋(1)遺跡 後期
土偶
四戸橋(1)遺跡 後期
土偶
四戸橋(1)遺跡 後期
土偶
四戸橋(1)遺跡 後期
 246表と裏に顔がある土偶 秋田県 中期
 247土偶 後期・晩期
土偶 詳細不明 晩期 板状土偶
新城平岡(4)遺跡 中期
板状土偶
五戸町 中期
土偶
四ツ石(1)遺跡 中期
土偶
新田(2)遺跡 後期
 248土偶 中期
板状土偶
不詳 中期
板状土偶
不詳 中期
板状土偶
不詳 中期
板状土偶
不詳 中期
板状土偶
不詳 中期
板状土偶
不詳 中期
板状土偶
不詳 中期
土偶
中泊町 中期末
 
 


 249土偶

土で人の形を作ったものを土偶といいます。ほとんどの土偶は、女性の特徴を持った姿をしています。
わざとバラバラに壊されたと思われる状態で見つかるものもあることから、病気やケガなどの災いの身代わりとして使われたという説もあります。

土偶
小牧野遺跡の土偶 小牧野遺跡は縄文時代後期後期前半
の遺跡なので、

出土した土偶は、後期前半だと思います。
 
 250土偶
 251
 252板状土偶 晩期
 
不詳 晩期

不詳 晩期

不詳 晩期

不詳 晩期

玉清水遺跡 晩期
合子沢遺跡 晩期

玉清水遺跡 晩期

長森遺跡 晩期
田茂木野遺跡 晩期
 253土偶 晩期

不詳 晩期

不詳 晩期

大鰐町 晩期
首がない土偶
玉清水遺跡 晩期

つがる市亀ヶ岡 晩期


 254遮光器土偶 晩期

遮光器土偶
つがる市亀ヶ岡 晩期
不詳 晩期
遮光器土偶
つがる市亀ヶ岡 晩期
遮光器土偶
不詳 晩期
遮光器土偶
南部町 晩期
玉清水遺跡 晩期
遮光器土偶
南部町 晩期
遮光器土偶
玉清水遺跡 晩期
土偶
つがる市亀ヶ岡 晩期
 


 255祭祀具

 256縄文時代の祭りの道具 後期
縄文時代後期になると、実用的な土器・石器だけでなく、土や石で様々な製品がつくられるようになります。
祭の道具には、動物をモデルにしたもの、土器の破片を円形に加工したもの、用途が不明な鐸形土製品などがあります。
また、何かの儀式に使ったと思われる三角形岩版や円形岩版も数多く見つかっています。

縄文時代の祭りの道具

 257
 タケハラコ遺跡 引用平成13年度浪岡町文化財紀要 - 全国遺跡報告総覧
蛍沢遺跡 通称 「ササワラコ」、「タケハラコ」 と言われている縄文中・後期の遺跡である。標高40mほ どの丘陵南側斜面の場所から縄文土器や磨製石斧が出土したと記録さ れている。現在は果樹園、野菜畑として利用されており現状が維持されていくものと 思われる。

※青森では名詞の語尾に「コ」を付ける。例:べこっコ(子牛)。タケハラコは竹原、ササワラコは笹原。という意味で竹藪・笹薮を表す言葉。
 蛍沢遺跡(前出)は開墾厄介な荒れ地で、そのように 「ササワラコ」、「タケハラコ」と呼ばれていた。
 すると、荒れ地=タケハラコなら、タケハラコ遺跡が蛍沢遺跡を指すとはいいがたい。竹や笹は後に遺跡に侵入したとも考えられる。

土版
タケハラコ遺跡 後期
腕輪状土製品
稲山(1)遺跡 後期
碗状石製品
稲山(1)遺跡 後期
線刻礫
稲山(1)遺跡 後期

線刻が見えんなァ
イモガイ状石製品
稲山(1)遺跡 後期
箆状石製品
蛍沢遺跡 後期
 258
土器片利用土製品
稲山(1)遺跡 後期
石刀
四ツ石(1)遺跡 後期 
石刀
稲山(1)遺跡 後期



球状石製品
稲山(1)遺跡 後期
くびれ石(大)
稲山(1)遺跡 後期
くびれ石(小)
稲山(1)遺跡 後期
くびれ石と呼ばれる特異な形態を呈する自然礫で、
縄文人が意図的に採集してきたもので採集石製品としてきた。

中にはくびれ部に線刻や孔を穿ったものは装飾品としての利用を可能とするものである。 引用「稲山遺跡」P192
 259石冠 後期

装飾がなく短軸の断面形が三角形を呈する単純な作り

引用稲山遺跡全国遺跡総覧P192
石冠
稲山(1)遺跡 後期
石冠
四ツ石(1)遺跡 後期
石棒
稲山(1)遺跡 後期
 
 
 
 260祭祀具
 261キノコ 縄文時代後期前半
粘土を焼いて作った本物のキノコそっくりの土製品です。(キノコ型土製品は)北海道南部から東北地方にかけて、縄文時代後期前半を中心に見つかっています。実際の食用キノコの特徴に近いものもあり、森の恵みの収穫に感謝した縄文人が、供えて祀ったものと考えられています。

  要約引用研究紀要第3「キノコ形土製品について」
キノコ形土製品は、青森県を中心に北海道から南東北まで分布している。また、スタンプ形土製品も同地域に分布している。
キノコ形土製品は十腰内1式期に盛行し、十腰内2式期にはスタンプ形土製品に変わる。
キノコ形土製品は食用キノコで、幻覚作用を伴う呪術に用いられた象徴として造られたいった考えは誤りで、食用キノコの図鑑・見本であった

ナラタケ ハツタケ どちらも近畿地方にも自生するキノコで、子供の頃近所の博識の人と家族で採取に行ってよく食べました。

東北地方にも自生するとは思わなかった。
キノコ形土製品
稲山(1)遺跡 後期
キノコ形土製品
四ツ石(1)遺跡 後期

 262鐸形土製品 縄文時代後期 約4000~3000年前
鐸形土製品は縄文時代後期に作られたもので、弥生時代の銅鐸を小さくしたような形から、このように呼ばれています。上部にヒモを通す穴が開いているため、何かにぶら下げたものと考えられていますが、用途はよくわかっていません。
 鐸形土製品 
十腰内1式期に特徴的な出土品で、舌や舌を取り付ける穴はない。(鐸と考えてはいけない。それ以外の何ものかです。)
縄文時代後期前半に、北海道南部から東北地方北部にかけて分布する。
十腰内1式期に伴う文化として、環状列石、箱式石棺墓と土器棺再葬墓の組合せ、キノコ形土製品など、特有の遺跡が出土する。
 263
小牧野遺跡の鐸形土製品 新田(2)遺跡 後期 新田(2)遺跡 後期
 264
月見野(1)遺跡 後期 月見野(1)遺跡 後期 月見野(1)遺跡 後期
 265鐸形土製品
鐸形土製品の類似品 鐸形土製品の類似品
新田(2)遺跡 後期
鐸形土製品の類似品
稲山(1)遺跡 後期
鐸形土製品
稲山(1)遺跡 後期
 


 266動物形土製品 後期 十腰内2式期


動物形土製品
稲山(1)遺跡 後期
動物形土製品
新城平岡(4)遺跡 後期
動物形土製品
新田(2)遺跡 後期
 
 
 270祭祀具
 271角形岩版 縄文時代後期前葉
小牧野遺跡の代表的な遺物で、400点以上出土しています。 環状列石での儀式に使われたか。
このような岩版は、青森県の津軽地域を中心に製作されていると考えられています。また、三角形岩版が出土する遺跡は環状列石などの大型配石遺構を有する場合が多く、祭祀などで人が多く集まる場所で使用されたものと思われます。

三角形岩版は泥岩や凝灰岩を使って三角形に作られたもので、北海道南部から秋田県北部にかけて発見されており、青森県内では津軽地方を中心に見つかっています。
青森市内では、小牧野遺跡や稲山(1)遺跡で多く見つかっています。環状列石などの大型配石遺構を持つ遺跡から多く発見されるため、祭りや儀式などで使われたものと考えられています。

 三角形岩版の作り方
三角形岩版の多くは表面は球面状に、裏面は平らになるように磨かれており、上から見ると正三角形や二等辺三角形をしています。小牧野遺跡では、破片や、加工途中のものも数多く見つかっています。

➀材料となる原石を選び出します。
②石などを打ち付けて原石を割り、丁度良い大きさにします。
③安山岩などの硬い石を使って磨き、形を整えていきます。
④鋭く硬い石器を使って表面に文様を描きます。

三角形岩版 小牧野遺跡の三角形岩版 三角形岩版が出土した
遺跡の分布
三角形岩版
稲山(1)遺跡 後期
三角形岩版
月見野(1)遺跡 後期
 273円形岩版
岩版は、丸または四角い石の表裏に模様が彫込まれたもので、凝灰岩などやわらかい石に渦巻きや三角形、円形などの幾何学的文様を左右対称に施します。顔を表現するものもあります。まじないや儀式の用具と考えられています。文様にはY字状の線と円形の彫込み、側面には三角形の彫込みが見られます。 引用岩版

円形岩版
稲山(1)遺跡 後期

三角形岩版
四ツ石(1)遺跡 後期
円形岩版
月見野(1)遺跡 後
岩版となる原石
小牧野遺跡 後期
 274岩版の作り方
岩版となる原石
小牧野遺跡 後期
分割された石 分割された石 剥離された石
作成過程の破片 研磨された石 触ってみよう
三角形岩版
 

 276その他の時期の祭祀具
縄文時代の祭りで使われた道具の代表例として、石棒と石刀があります。
石棒は棒状の石を丁寧に磨いたもので、縄文時代中期から後期後半にかけて全国的に作られています。中には男性器の形をしているものもあり、生命の源として信仰の対象なっていたと考えられます。

縄文時代晩期になると、石棒から片側に刃が付いた石刀へと変化します。武器などの実用品ではなく、儀式に使われたり、人を従わせる力の象徴として作られたものと考えられています。

 岩偶
狭義には、縄文時代晩期に東北地方でおもに出土する人形の石製品。石材は、凝灰岩や砂岩などの軟質なものが選ばれ、形状や用途は、同時期のいわゆる亀ヶ岡文化圏の土偶とほぼ同一とみられる。
これとは別に、晩期には黒曜石片を輪郭のみ人形に加工した小形の岩偶も存在する。これは、北海道やカムチャツカ半島などでも出土しており、北方との関連が考慮される。
なお、先土器時代後期の大分県岩戸遺跡からは、こけし形石製品(岩偶)が出土しており、また縄文時代初頭の愛媛県上黒岩遺跡出土の扁平な緑泥片岩の小礫に、線刻で女性を表現したものがある(線刻礫)。これらも広義の岩偶に含めることができるが、直接的に相互の系譜を結び付けることは現在のところむずかしい。 引用コトバンク岩偶

 岩版
縄文後期・晩期に作られた楕円形または長方形の扁平な石製品。表裏両面に彫文があり、土版と同様護符と考えられる。 webilio

縄文時代晩期に限って、東北地方を中心に関東地方にかけてみられるもので、泥岩や砂岩などの軟らかい石材を方形もしくは楕円形に調整し、その片面もしくは両面に特殊な文様を彫り込んだ石製品。ほぼ同時期に、同一地域にみられる土版と形態、文様が類似しているので、両者の用途はあまり違わないものであったと考えられる。岩版の文様には、S字状などの連続入組み文で全面を飾ったものや、縦に中心線を引いて、その両側に対称的に弧状文や渦巻文を配したものなどがある。また一端に顔面様のモチーフを施したものがまれにある。護符などのように精神的世界に関与した遺物と考えられる。 コトバンク

その他の時期の祭祀具 その他の時期の祭祀具
上に記述
岩偶 岩偶
岡町(1)遺跡 晩期
岩版 田茂木野遺跡
岩版 玉清水遺跡
晩期
岩偶  玉清水遺跡
晩期
岩偶  玉清水遺跡
晩期
土版 田茂木野遺跡
晩期
土版 長森遺跡
晩期
岩版 長森遺跡 晩期 三角形土版
三内丸山遺跡 中期
球状土製品
新町野遺跡 前期
 277
土器片利用土製品
玉清水遺跡 晩期
環状土製品
山吹(1)遺跡 中期
土器片利用土製品
新町野遺跡 前期
土器片利用土製品
長森遺跡 晩期
その他の土製品
葛野(3)遺跡
晩期~弥生
 278
円盤状石製品
長森遺跡 晩期
方形岩版・円形岩版
田子町 晩期
石冠
田茂木野遺跡 晩期
独鈷石 葛野(3)遺跡
縄文晩期~弥生時代
独鈷石
後潟大科支線口/不明
石棒 稲山(1)遺跡
縄文前期~後期
石刀

石刀 不詳・不明
石刀 田茂木野遺跡
晩期
石棒 不詳・不明
 
 
 
 
 
 


 280装身具


 281アクセサリー
縄文時代の遺跡からは、耳飾りや首飾り、髪飾り、腕飾り、腰飾りなどいろいろな装身具が見つかっています。
現代人にとってのアクセサリーは、主に女性が自らを飾るためのものですが、縄文人にとってはそれだけではなく、悪霊を払い、身を守るためや、大人やリーダーになったしるしという意味もあり、男女様々な飾りを身に着けていたと考えられます。、

縄文人のアクセサリー
 282宝石
牙製装飾品
大浦遺跡 晩期
オキシジミガイ製装飾品
大浦遺跡 晩期
バカガイ製装飾品
大浦遺跡 晩期
土製勾玉
長森遺跡 晩期
勾玉
玉清水遺跡 晩期
臼玉
長森遺跡 晩期
有孔石製品
長森遺跡 晩期
 283ヒスイ
けつ状耳飾り
三内霊園遺跡 中期
新町野遺跡 前期
けつ状耳飾り
稲山(1)遺跡 前期
有孔土製品
山吹(1)遺跡 中期
有孔石製品
稲山(1)遺跡 後期
 284水晶
土製耳飾り
四ツ石(1)遺跡 後期
石製耳飾り
稲山(1)遺跡 後期
有孔土製品
四ツ石(1)遺跡 後期
 285赤彩土器
耳飾 蛍沢遺跡
後期~晩期
耳飾 稲山(1)遺跡
後期
耳飾 長森遺跡 晩期
有孔土製品
稲山(1)遺跡 後期
有孔石製品
四ツ石(1)遺跡 後期
有孔石製品
山吹(1)遺跡 中期
 



 290埋設土器

 291埋設土器
埋設土器は地面に掘った穴に設置された土器のことです。青森県内では、縄文時代中期の遺跡から数多く見つかっており、骨粉や幼児の骨が出土した例もあります。
縄文時代には、子供のうちに命を落とすことも多く、赤ちゃんや子供の遺体は、小さいことから土器に入れて埋葬されることもあったと考えられています。

 三内丸山遺跡の埋設土器
三内丸山遺跡では、真っ直ぐに立った状態の埋設土器が数多く出土していますが、中には、横向きにして埋まっていたものもあります。
縄文時代中期のものが数多く見られます。

埋設土器
上に記述
出土状況 三内丸山 埋設土器の状態
 埋設土器 埋設土器
三内霊園遺跡 中期 
  埋設土器
三内丸山遺跡 中期 
 
 三内丸山遺跡の埋設土器
上に記述
       

 四ツ石(1)遺跡の埋設土器  青森県青森市大字四ツ石字里見
四ツ石(1)遺跡では、埋設土器が17か所で見つかり、ほとんどが縄文時代中期のものです。

四ツ石(1)遺跡の埋設土器
四ツ石(1)遺跡の遺構配置図
埋設土器(第3号)
四ツ石(1)遺跡 中期
埋設土器(第8号)
四ツ石(1)遺跡 中期
埋設土器(第11号)
四ツ石(1)遺跡 中期
 


 292玉類

 293ヒスイ
ヒスイは美しい青緑色の石で、現代でも宝石として用いられています。全国の縄文時代の遺跡から発見されており、硬いヒスイに上手に穴を開け、ヒモを通せる玉に加工されています。ヒスイの産地は限られており、青森県で出土したヒスイの玉のほとんどは、新潟県の糸魚川産です。

ヒスイ
上に記述
三内丸山遺跡の
ヒスイ出土状況
ヒスイ産地の位置 ヒスイの玉
山吹(1)遺跡 中期 詳細不明 三内丸山遺跡 中期 三内丸山遺跡 中期 蛍沢遺跡 時期不明
 294水晶
水晶は六角柱状の結晶としてできた鉱物です。青森県内では縄文時代の遺跡から、水晶製の石鏃や装身具などが見つかっており、
稲山(1)遺跡からは255点もの水晶が出土しました。

青森市稲山(1)遺跡
水晶出土状況
水晶
青森市稲山(1)遺跡
縄文後期
水晶
青森市稲山(1)遺跡
縄文後期
水晶
青森市稲山(1)遺跡
縄文後期
水晶
青森市稲山(1)遺跡
縄文後期
水晶
小牧野遺跡 後期
水晶
小牧野遺跡 後期
水晶
長森遺跡 晩期
水晶
長森遺跡 晩期

 295赤彩土器
土器に赤色の顔料を塗った赤彩土器は縄文時代前期頃から現れ、晩期に最も多く作られました。
赤彩土器の多くは土器の外側に顔料が塗られていますが、縄文時代中期末から後期前半には
粘土に顔料を混ぜて文様を縁取る「彩文土器」が作られます。小牧野遺跡からも、こうした技法で作られた土器が見つかっています。

赤色顔料の原料は酸化第二鉄(ベンガラ)が一般的で、鉄分が多い岩石や土などから作られています。赤色は血や太陽の色として、生命を象徴する神聖な色と考えられていたようです。

赤彩土器 是川中居遺跡
赤漆塗り土器 晩期
稲山(1)遺跡
彩文土器 後期
彩文深鉢形土器
稲山(1)遺跡 後期
顔料が塗られた土器
台付浅鉢形土器
合子沢遺跡 晩期
彩文浅鉢形土器
稲山(1)遺跡 後期
 
 
 298ベンガラ作り
赤彩土器の顔料として使われる酸化第二鉄(ベンガラ)は、縄文時代晩期になると、鉄分の多い赤い石「赤鉄鉱」から作られるようになります。
津軽半島北端の宇鉄遺跡では、数多くの赤鉄鉱が見つかり、ベンガラの製造に関する遺物も多数出土したことから、
縄文時代のベンガラの製造方法が明らかになりました。

ベンガラの作り方 ベンガラ生産に関する遺物 赤鉄鉱の生産 ➀赤鉄鉱の採掘
②石で叩いて割る
③磨り潰す
④粉末に水を加えて掻き混ぜ浮かせる
⑤赤水を別鉢に移す。
⑥赤い水を煮沸して
ベンガラを得る
ベンガラの作り方
顔料が付いた赤鉄鉱と
除去された赤鉄鉱
長森遺跡 晩期
赤根沢の赤鉄鉱
青森県今別町赤根沢
赤鉄鉱産地
赤色顔料が付着した
石皿
長森遺跡 晩期
赤色顔料が付着した土器
新田(1)遺跡 晩期
長森遺跡 晩期
ベンガラのかたまり
長森遺跡 晩期
 
 






 300第3展示室





 301環状列石を作る方法

環状列石を作る方法
地面を削る 土木工事のイメージ 環状列石が作られる前、その場所は緩やかな斜面でしたが、縄文人たちは大掛かりな土木工事を行っていました。

斜面の高い方を削り取り(切土きりど)、切った土を低い方へ運び(盛土もりど)、全体が円形になるように平らな広場を創り出しました。
石を探す  荒川の風景
荒川と遺跡の位置
環状列石に用いられた石の多くは、遺跡の近くを流れる荒川から運ばれたものと考えられています。
しかし、必要な石を1か所の地点で全てまかなうのは難しいため、広い範囲から石が採集されていたものと思われます。
石を運ぶ   石の運搬のイメージ
➀1人で運ぶ
②担いで運ぶ
③橇のようなものを
 使って運ぶ
石を運ぶ際には、軽いものは手で抱えて運び、一人で運べないような思い石は2人で担いで運んだと思われますが、数百kgもあるような最も重い石については、数十人で担いだり(?)、綱で引っ張ったりするなど、様々な方法で運んだものと考えられます。
運搬方法を考える 小牧野遺跡では、背負梯子、モッコ、ソリを用いて「荒川」付近に設定した2つの経路で石を運ぶ実験を行いました。
10kg程度の石を載せた背負梯子では、距離にして400m弱、勾配約15度の急斜面(経路2)を15分で登ることが出来ました。

担ぎ運搬では、モッコに取り付けた網に約30kgの石を載せ、1km程度の緩斜面(経路1)を2人で担いで快調に運ぶことが出来ました。

また、担ぎ運搬と同じ経路で、重さ約90kgの石を載せたソリを4人で引っ張った実験では、目的地の環状列石まで到達するのに1時間ほどかかりました。

 302運搬具
動かしてみよう
土木工事のイメージ 
荒川から運ばれた石  背負梯子  実験に使われた運搬具  ソリ
 
モッコ
 

 工事の詳細
 石の材質   環状列石の石は、安山岩(約9割)と石英安山岩の2種類が殆どで、総数2899個を数えます。


安山岩:2608個(90%)  石英安山岩:285個(9.8%) 不明・その他6個(0.2%)
安山岩は平らな物、石英安山岩は棒状のものが多く見られます。
 石の重さ    環状列石には約2900個もの石が使われており、石の重さは全体で約31t、1個当たりの平均は約11kgになります。
一番重い石は、真ん中の石で493kg。小学3年生18人(27kg×18人=486kg)と同じ位の重さです。

ちなみに、官治用列石全体だと、小学3年生で約1150人分の重さになります。
 石を持ち上げてみよう    
 303遺跡模型
遺跡全景 環状列石 住居跡等 集落跡 荒川から運び上げる
 
 320
 321環状列石の構造と大きさ
縄文人たちは、運んできた石を切土や盛土の段差を利用しながら、平らな石を縦横に繰り返して並べ、約2900個の石を使用して環状列石を作りました。
環状列石は「中央帯」「内帯」「外帯」の三重構造の円環状の列石を中心に、
一部四重となる「弧状列石」「直線状列石」、外帯を囲むように配置された「環状列石」、内帯や外帯に付随した「特殊石組」などで構成されています。
規模は、中央帯が直径2.6m、内帯が直径29m、外帯が直径35m、一部四重となる列石を含めると最大径55mを測ります。

環状列石の構造と大きさ
上に記述
第12号特殊石組
中央帯
第1特殊石組
第3特殊石組
全体見取り図
第2・3号環状配石
第9号特殊石組
第7号特殊石組
第2号特殊石組

 322石の並べ方
状列石の外帯と内帯は、楕円形の石を縦に置き、その両側に平らな石を数段積み重ね、あたかも石垣を葉築くように並べています。
この縦横交互の列石は、全国的にも珍しく、「小牧野式配列(配石)」とも呼ばれています。
また、秋田県伊勢堂岱遺跡の環状列石の一部にも同じような配列が見られます。

環状列石の並べ方 石の並べ方 小牧野遺跡の小牧野式配列
伊勢堂岱遺跡の小牧野式配列

 323環状列石中心から見た景観の方向
小牧野遺跡の環状列石の内帯や外帯の一部には、何らかの方向性を考えて作られたと思われる特殊石組があります。
対応する特殊石組を結んだ線を延長するともそれぞれ陸奥湾の中心方向、岩木山の方向や夏至の日の出の方向などが、浮かび上がってきます。
小牧野遺跡の環状列石は、周囲の景観や太陽の動きを意識し、それを表すのに適した場所に作られたと考えることもできます。

 線刻石と馬頭観世音
環状列石の石の中には、細い線で何かを描いた石(線刻石)と「馬頭観世音」という文字が掘り込まれた石があります。

線刻石は図の様に、上半には数条の擦痕があり、下半には菱形と棒状の線刻画見られます。何を描いたかは具体的にはわかっていません。
馬頭観世音碑には、江戸時代末期である嘉永7年(1854)の年号が刻まれています。

小牧野遺跡周辺の台地は、江戸時代から馬の放牧場として使用され、「小牧野」の地名の由来となっています。
馬頭観世音碑は、当時の人々が馬を供養するため、元からその場所にあった環状列石の石を利用して建てたものと思われます。


環状列石中心から見た
景観の方向
環状列石中心から見た
景観の方向
線刻石と馬頭観世音 線刻石と馬頭観世音の位置 線刻石の実測図
馬頭観世音碑

 324発見された遺構

 小牧野遺跡の土壙墓
小牧野遺跡では100を超える土壙墓が、環状列石に接する東側の緩斜面一帯に分布しています。
土壙墓とは、土を掘って穴を作り、そこに人の遺体を埋葬する施設のことです。埋葬した跡には土盛りして墓を完成させたと考えられています。
小牧野遺跡の墓 墓域の範囲 土壙墓群の発見 保存整備後の土壙墓
 32543号土坑出土遺物
第43号土坑出土遺物 三角岩版 有孔石製品
 326
浅鉢形土器 鉢形土器

 327土壙墓
小牧野遺跡の土壙墓には、円形のものや楕円形のもの、石を立てているもの、フラスコ状貯蔵穴を再利用したものなど、さまざまあります。
また、日本の土壌は酸性度が高いことから、骨が分解されやすく、小牧野遺跡でも人骨は発見されませんでした。

土壙墓 ➀土盛りをした上に
白い土を貼り付けた墓
②石を立てた墓 ③墓の上に石を置いた墓(配石墓)
④フラスコ状土坑を再利用した墓
第61号土坑から出土した遺物
小牧野遺跡 縄文後期
立てていた石
浅鉢形土器
第61号土坑から出土した遺物 擦痕のある石 擦痕のある石
擦痕は引きずって運んだ時についたのか

全体が白く風化変色、底部の色が違う。

深さでなく自重で立っていたから浅くてよかったのか。
 
 
 330土器棺
 331第1号土器棺墓
土器棺墓とは、埋葬あるいは風葬した遺体を肉が朽ちたあとで取り出し、その遺骨を土器棺に納め、再び埋葬する施設のことで、再葬墓と呼ばれています。小牧野からは環状列石の内帯と外帯の間から、4つの土器棺墓が発見されています。

土器棺墓 土器棺墓が発見された位置 第1号土器棺墓発見状況 土器棺を使った埋葬過程
➀亡骸を一度土壙墓などに埋葬する。

②数年後に骨を取り出して土器棺に収納する。

③骨を納めた土器棺を地中に埋納する。
 332土器棺
土器棺 第1号土器棺墓
大型壺形土器
小牧野遺跡 後期
3点がセットになる
第1号土器棺墓
壺形土器
小牧野遺跡 後期
第1号土器棺墓
浅鉢形土器(蓋)
小牧野遺跡 後期
第2号土器棺墓
大型深鉢形土器
小牧野遺跡 後期
第3号土器棺墓
大型壺形土器
小牧野遺跡 後期
第4号土器棺墓
大型壺形土器
小牧野遺跡 後期
第5号土器棺墓
大型深鉢形土器
小牧野遺跡 後期

 333埋設土器
自然に埋まった土器ではなく、地面を掘った穴の中に設置された土器です。
何に使われたのか詳しくはわかっていませんが、食べ物を貯蔵したり、子供を埋葬するために使われたのではないかと考えられています。

埋設土器 埋設土器出土状況
 

 336貯蔵穴
地中に食料を蓄えておくために掘られた穴です。
青森県では、小牧野遺跡を含めて土坑の開口部が底面より狭い「フラスコ状土坑」と呼ばれるものが殆どです。
貯蔵穴には、ドングリやクリ、クルミの実などが入れられていたと考えられます。

貯蔵穴
貯蔵穴(フラスコ状土坑)の土層断面 フラスコ状土坑
 
 

 350竪穴住居
小牧野遺跡では、環状列石と同じ時期の竪穴住居跡が2軒確認されており、いずれも墓域の中につくられています。
ここに棲んでいた人々は、環状列石の維持管理や墓を守りながら暮らしていたと考えられます。
 351

竪穴住居
第1号竪穴住居跡
第2号竪穴住居跡
竪穴住居跡の位置 第2号竪穴住居跡
小牧野遺跡 後期
第2号竪穴住居跡
小牧野遺跡 後期

 353捨て場跡
土器や石器などが沢山捨てられていた場所です。
捨て場は、沢地形へと傾斜が始まる地点にあり、土器・石器のほか、土偶や三角岩版なども出土して強います。

捨て場跡 捨て場の範囲
土器や石器の出土状況
捨て場から出土した
遺物
不定型石器(ナイフ)
剥片石器、石くずが
ナイフになっている
石箆 敲石 捨て場から出土した
遺物
土偶・碗状石製品 土器片利用土製品 有孔石製品 三角形岩版 円形岩版 耳飾り

 355環状配石炉
この模型は、小牧野遺跡から発見された石囲炉です。炉をよく見ると、石が縦と横に繰り返し並べられた2重構造となっており、小牧野遺跡の環状列石の形と極めてよく似ていることがわかります。おそらく、縄文人は、自分たちが苦労して並べた環状列石をまねて作ったものと考えられています。
環状配石炉 環状配石炉 環状配石炉の発見状況

 粘土埋納遺構
すり鉢状の浅い窪みに、白色の粘土を埋めた「粘土埋納遺構」が3基確認されています。粘土は、土器を作る上で無くてはならないものですが、
その乾燥を防ぐ役割があったと考えられています。

粘土埋納遺構 粘土埋納遺構発見状況 第1号粘土埋納遺構
小牧野遺跡 後期
第1号粘土埋納遺構 第2号粘土埋納遺構の一部
小牧野遺跡 後期

 石器埋納遺構
石器埋納遺構は、123点もの石器の素材が埋められた遺構です。後に石器に加工しようとして縄文人が一時的に保管していたものと思われます。

石器埋納遺構 石器埋納遺構実測図 遺構発見状況 遺構から出土した石器類
石器埋納遺構

 357水場遺構(湧水遺構)
環状列石から東へ130m、標高110mの斜面から、縄文人の飲み水を汲んだり、ドングリなどのアク抜きに使用したと考えられる水場遺構が発見されました。この遺構は、湧水地を主としていることから「湧水遺構」と呼ばれ、貯水部分と水路状施設、盛土から構成されています。

水場遺構(湧水遺構) 貯水部分 水場遺構のイメージ
水路状施設

 水場遺構(湧水遺構)の盛土
貯水部分の隣から、高さ4mの盛土が見つかっています。この盛土は、土器や石器を含み、
貯水部分を掘った際の土や斜面の上から流れて来た土が重なって形成されたものです。

水場遺構(湧水遺構)の盛土 断面のイメージ

貯水池は斜面の開削と上部の崩落土を盛り上げて堰堤とした。
盛土 盛土の断面 貯水池模型
 



 360縄文後期土器


 361市指定文化財「小牧野遺跡の縄文後期の遺物

 362青森市指定文化財 小牧野遺跡 縄文後期
2013年(平成25)3月に「小牧野遺跡の縄文後期の遺物67点」及び「小牧野遺跡の続縄文土器1点」の2件が、青森市の有形文化財に指定されました。
「小牧野遺跡の縄文後期の遺物」は、縄文時代の生活や祭祀の研究に大きく役立つ資料であると共に、環状列石の用途・性格を考えるうえで重要な資料です。

青森市指定文化財 土器
石器
土製品
石製品・続縄文土器

 363縄文後期の市指定文化財 小牧野遺跡 縄文後期
手形付土器
有孔土製品 耳飾 鐸形土製品
 364縄文後期の市指定文化財 小牧野遺跡 縄文後期
三角形岩版
岩版
円形岩版
 365文後期の市指定文化財 小牧野遺跡 縄文後期
碗状石製品 碗状石製品 石ベラ
大石平型石箆
石ベラ
大石平型石箆
小型磨製石斧
小型磨製石斧 石棒 軽石製石製品 石冠
三角柱状石器?
 


 370実は、以下の小さな棚に押し込まれている遺物が、この博物館で最も有名な遺物でした

 371土偶
土偶
小牧野遺跡 縄文後期
頸が突き出たところは伊勢堂岱型

顔の表情は北東北に見られる土偶に多い。
 
 372土偶
土偶
小牧野遺跡 縄文後期
小牧野遺跡の土偶は、

青森県中央部から下北半島の土偶と同系統、板状立像土偶です。

小牧野から南へ秋田県伊勢堂岱遺跡の土偶は異なります。これは北海道札幌市埋蔵文化財センターで見たものと同じです。

十和田市・八戸市、津軽半島の土偶は膝を曲げた座産の土偶とは違う、ただの平面土偶か、全く別文化の遮光器土偶です。

青森県北東部には別の土偶文化があったようです。
 372a  近隣のよく似た土偶
野辺地町有戸鳥井平4遺跡
六ヶ所村大石平(1)遺跡
六ヶ所村上尾駮(2)遺跡
膝を曲げた座産ポーズ
腕は取れたのか、省略されたのか、

小牧野がオリジナルで、やがて省略退化しながら広まったのでしょう。

 近所の似てない土偶
伊勢堂岱遺跡
十和田市
八戸市是川一王寺遺跡
八戸市田面木平(1)遺跡
 373土製品
動物形土製品添付土器
小牧野/後期

皿の中に動物がいるのかなァ
注口土器
小牧野/後期
 374
動物形土製品頭部
クマ形土製品
小牧野/後期
クマ形土製品 赤彩切断土器
小牧野/後期
動物彫刻付石皿
小牧野/後期
動物彫刻 弓矢・樹木文付鉢形土器 小牧野/後期
 375
 376覆付角底形土器 
    写真は不鮮明です。下572に覆付土器があります。そちらもご覧ください。
覆付角底形土器
小牧野/後期
 




  二階展示室



 400弥生時代の小牧野遺跡

 401大量の円筒下層式土器
二階に上がってきますと、大量の円筒下層式土器が修復展示されています。小牧野遺跡は後期前半の遺跡ですからこれらの円筒下層式は三内丸山遺跡のもののようです。

 


 410弥生時代の小牧野遺跡   参照小牧野遺跡の出土品概要 P14~16弥生時代 

 411弥生時代の小牧野遺跡
小牧野遺跡からは縄文後期の遺構・遺物が多数出土していますが、
弥生時代の遺物も環状列石が埋まる途中の土やその周辺から確認されています。また、
弥生時代の石器製作場所も見つかっており、環状列石の外側の2か所から、多量の剥片や箆状石器、スクレイパーなどが出土しています。

また、この遺跡からは、続縄文土器(下図2~10)と弥生時代後期の天王山式土器の特徴を持つ土器(下図1)が出土していますが、
圧倒的に続縄文土器が多く見られます。

続縄文土器北海道の恵山式土器後北B式及び後北C1式土器の系譜を持つものに区分されると考えられていますが、明確に区分することは難しいようです。

弥生時代の小牧野遺跡
上に記述
土器の分布域
石器製作場所
弥生時代の土器
1は天王山式土器
2~10は続縄文土器

天王山式土器は
寒冷化により水田稲作をやめた縄文系弥生人が、再度縄文人化した時期の土器。

天王山式土器 特徴
東北地方の
続縄文土器は、寒冷化によって耕作放棄した地域に北海道から南下したアイヌ民族が入植して北海道式農耕を行ったことによる。

続縄文土器 特徴
弥生時代の石器

弥生土器の特徴

 412続縄文土器
続縄文土器 続縄文土器 続縄文土器 続縄文土器 続縄文土器

 413弥生時代の石器
弥生土器 弥生土器 続縄文土器
弥生時代の石器 弥生時代の石器
 



 420平安時代の青森市


 421エミシの時代
朝廷から遠く離れた東北地方の住民は、「えみし蝦夷」と呼ばれていました。政治支配の拡大により、蝦夷と呼ばれる人々は、やがて秋田県の米代川付近や、現在の岩手県盛岡市付近より北の地域の人々だけとなりました。

平安時代中頃の9世紀後半以降に集落が増大し、野木(1)遺跡からは500軒を超える竪穴住居に加え、墨で文字が記された墨書土器、鎌や鍬先などの鉄製品が見つかり、栄山(3)遺跡からは碁石などの遊具が出土しています。

また、10世紀後半以降に栄える高屋敷館遺跡からは、濠と土塁に囲まれた環濠集落が発見されました。(豪族の衝突が多く治安が悪かった)

平安時代の頃の青森市 高屋敷館遺跡 野木(1)遺跡

 422擦文土器
北海道,東北地方北部に分布する土器。 奈良時代から平安時代にかけて作られた。 多くは器面全体に刷毛目(はけめ)様の擦文を有するが,無文のもの,刻線文をもつものも含む。 形は甕(かめ),深鉢,高坏(たかつき)が主。 引用コトバンク

擦文土器
高問(1)遺跡/平安
擦文土器
新城平岡(4)遺跡
平安時代
炭化米 蛍沢遺跡
平安時代
馬の線刻画がある
擦文土器 新田遺跡
平安時代
須恵器(刻書)
新田(2)遺跡 平安
土師器(刻書) 平安
高問(1)遺跡
土師器(刻書) 平安
高問(1)遺跡

 423生活道具

紡錘車 小舘遺跡
鉄斧 蛍沢遺跡 平安
碁石 栄山(3)遺跡 平安

土師器 坏 墨書土器
「南」高問(1)遺跡
「南」新田(1)遺跡
「丼」高問(1)遺跡
「∀」新田(1)遺跡

土師器 坏 墨書土器
「元」新田(1)遺跡
 

 430五所川原須恵器窯跡群 平安時代中期 9世紀後半~10世紀後半 青森県五所川原市大字持子沢

白神山地から岩木川が運んだ風化緑色凝灰岩の粘土が堆積していた津軽平野の五所川原一帯に点在する須恵器を生産した窯跡群である。
半地下式無段無階の窯といえば登り窯でなくて窖窯(あながま)です。一部登り窯と記述があるwebは誤謬です。
この窯跡群で焼かれた須恵器は広く東北北部・北海道に流通し、地域の文化に大きな影響与えました。

9世紀~10世紀にはいまだ中央政権の支配が及んでいませんでしたが、人々の活動はそれとは無関係で、先に見たおいらせ阿光坊古墳群などのように、ヤマト政権下の地域から、人々が怒涛の如く押し寄せ、土地や産物を求めて入植した。

9世紀の終わり頃から津軽地方の鉄や塩の生産活動が活発化し、集落数が増加する。それに伴って米の生産も増加し、物流が活発化したところに
本州最北端の窯業生産が開始された。
生産された器種は、皿・鉢・壺・甕・それらの蓋・坏など食膳具と貯蔵具で、職人のヘラ書きサインが刻書されています。
作られた須恵器は秋田・岩手・青森・北海道全域(オホーツク海側まで)に運ばれ流通した。

北海道アイヌの土器文化に影響を与えたのはこの地域で生産された須恵器である。

   犬走須恵器窯跡   青森県五所川原市大字前田野目字犬走55-63
五所川原窯跡群の4つの支群のひとつである。


背後は円筒上層式土器
五所川原須恵器窯跡
窯壁
犬走須恵器窯跡 平安
五所川原産
須恵器 大甕
蛍沢遺跡 平安

 円筒上層式土器(三内丸山遺跡のものを修復・保管展示しているものです)
円筒上層式土器
縄文時代中期
円筒下層式は縄文前期。a型・b型・c型・d型に分類される。
円筒上層式は縄文中期。a型・b型・c型・d型・e型に分類される。円筒上層式に続く器種は
縄文中期には、榎林式土器、大木式土器に飲み込まれ、
縄文後期には、十腰内式土器
縄文晩期には、亀ヶ岡式(大洞式)土器へと収斂する。
 


 440平安時代の生活や祭

 441平安時代の生活や祭を物語る木製品
石江地区にある新田(1)遺跡からは、平安時代の木製品が数多く見つかっています。
日常生活で使用されたものでは、椀、曲げ物、下駄、農耕具では鋤、菰槌(こもつち)、このほか、物忌札(ものいみふだ)や桧扇(ひおうぎ)、塔身(とうしん)などが出土ました。

また、病気や災いを取り除くためなどの祭りや儀式に使われた道具として、物をかたどった模造品(馬形、鳥形、鏃形、刀形)や斎串(いぐし)などが見つかっており、これまで知られていなかった当時の生活や祭の様子を知るきっかけになりました。
(※ヤマト政権下の文化や風習がそのまま息づいていたという意味。既にここまでヤマト人が来てその文化が根付いていた。)

平安時代の生活や祭を物語る
木製品
石江地区の航空写真 新田(1)遺跡出土木製品
物忌札

物忌=不吉なことが起こった時陰陽師が行う占いにより、一定期間家に籠って慎むことを言う。
物忌中は物忌札を門の前に立てたり、家の中の柱や簾あるいは自身の冠や袖に付けたりしました。
桧扇

桧扇=桧の薄い板を重ねて下の端を糸あるいは期の釘で綴じ、上の端を糸で綴ったもの。貴人が笏の代わりに手に持った道具。
塔身

塔身=仏塔(仏教信仰のために建てられた塔)の先端につけたもの。
斎串

斎串=薄い木の板の上部を三角形に切り出し株を尖らせた木製品。

 442木製模造品  新田(1)遺跡 平安時代
馬形
鳥形 鳥形 鳥形 ヘビ形
 443木製模造品 新田(1)遺跡 平安時代
鏃形 刀形 ヤス状木製品 男性神臓 陽物
物忌札
 



 450鎌倉時代の文字資料


 451文字資料に見る鎌倉時代の青森市
石江地区の高間(1)遺跡の井戸跡からは、「寛喜3年2月17日」(1231)と記された笹塔婆が見つかりました。
青森県内では初めてとなる鎌倉時代の具体的な年月日が記載されたものでした。

江戸時代の紀行家菅江真澄が近くを訪れ「文永」(1264~1274年)と記された碑があるという記録が残っています。
絵図に残された石は、現在の石江神明宮に残された石碑である可能性が高く、発掘調査で得られた情報と比較することが出来ます。

文字資料に見る鎌倉時代の青森市 寛喜3年2月17日」と記された笹塔婆
笹塔婆:仏の名前や仏教の文言を書いて、供養やまじないに使用した木の板
江戸時代の紀行家菅江真澄が描いた石神の庵と文永の碑 石江神明宮内の石碑 石江神明宮の移り変わり
 452鎌倉時代の文字資料 高問(1)遺跡
鎌倉時代の文字資料
笹塔婆
笹塔婆 笹塔婆 笹塔婆
 
 460
保存展示土器
左の棚は古代~中世
右は縄文後期~晩期
木造校舎の復元
撮影は光って、遠くて
無理でした
 
 470発掘調査
 471発掘調査が終わったら

 473青森市内で発見された埋蔵銭
鎌倉時代から江戸時代の始め頃までの銭貨を埋蔵した遺跡が、奥内や新城、原別地区などから発見されています。
錢貨が地中から発見される理由として、戦乱~回避するための備蓄銭、神仏に奉納した埋納銭などの説があります。

青森市内で発見された埋蔵銭 緡(さし・ぜにさし)で
出土した新城出土銭
青森市内で発見された埋蔵銭

 474青森市内で発見された埋蔵銭
新城出土銭の緡(さし)
と容器の破片
新城出土の銭 奥内出土銭
 476
手前が縄文中期以降、
奥が弥生以降か。

最奥の最上段に人面の土器が見えている。
埴輪なのか、土器なのか、ただそう見えるだけなのか。
気になる。 
やはり、弥生時代の人面土器ですね。
 




 500第4展示室





 500縄文土器の美


 501縄文土器の始まり
日本最古の土器は、青森県外ヶ浜町の大平山元遺跡から見つかったおよそ1万5千年前のもので、世界で最も早く作られた土器の一つです。
土器の発明は人々の暮しに大きな変化を与えました。それまでは生で食べるか、火で焼くかしかなかった食べ物を、はじめて「煮る」ことが出来るようになったのです。
煮ることによって硬いものは柔らかくなり、植物のアクも抜けるため、縄文時代の主食となるドングリなど、木の実を食べることが出来るようになりました。

縄文土器の始まり
上に記述
大平山元遺跡の土器

 縄文土器の作り方
土器は粘土を練って形を作り、火で焼いて作った焼き物です。1万年以上続いた縄文時代には、様々な種類の土器がありますが、おおよそ次のような方法で作られました。

➀土の中から原料の粘土を採取し、水を加えて練る。

②丸く平らな底の上に細長い粘土紐を輪のように積み上げて形を作る。※絵は輪にしたものを積み上げると誤解している。間違いです。

③縄などを押し付けて、様々な文様をつける。

④日陰で乾かす。

⑤焚火の周囲に置いて湿気を取ってから火の中に入れて焼く。

 502繊維土器
繊維を混ぜた土器
  戸山遺跡 縄文前期

粘土のかたまり
  稲山遺跡 縄文後期

粘土のかたまり
  小牧野遺跡 縄文後期
繊維の混じった土器
戸山遺跡 縄文前期
 503
敷物の痕跡がある土器
孫内遺跡 縄文中期
種の痕跡がある土器
稲山遺跡 縄文後期
土器についた貝の痕跡
ミジンヤマタニシ
小牧野遺跡 縄文後期
貝の痕跡 拡大
ミジンヤマタニシ

 504文様のつけ方
縄文土器の表面には、縄で付けた紋様があります。文様の付け方には様々な方法があり、撚った縄を転がすように押し付けたもの、棒に紐を巻き付けて転がしたもの、貝殻や木、竹などを使ったものなど、それぞれ違う文様が生み出されます。

文様のつけ方 回転押型文

竹菅文
撚り紐に撚り紐を巻き付けた縄文

羽状縄文
木目状撚糸文

貝殻文

 505土器文様
コンパス文
葛野(3)遺跡 前期
羽状縄文
戸山遺跡 中期
格子目文
月見野遺跡 後期
沈線文
玉清水遺跡 早期
木目状撚糸回転文
戸山遺跡 前期
隆帯文・刺突文
三内丸山遺跡 中期
渦巻文
小牧野遺跡 後期
 
  

 506晩期土器文様
雲形文
青森県内 晩期
工字文
合子沢(1)遺跡 晩期
条痕文
合子沢(1) 晩期
変形工字文
沢山(1)遺跡 晩期
変形工字文
体験コーナー
土器の模様をつけてみよう

 507亀ヶ岡式土器文様変遷図 引用つがる市縄文住居展示資料館(カルコ)
亀ヶ岡式土器文様変遷図 亀ヶ岡式土器文様変遷図 型式模式図 大洞B式(三叉文)
大洞C式(雲形文)
大洞BC式(羊歯状文)
大洞A式(工字文)
大洞C1式(大腿骨文)
大洞A'式(変形工字文)

 508 転載福島の亀ヶ岡式土器
亀ヶ岡式土器の文様変化は、基本的に
三叉文から始まり、
羊歯状文・雲形文へ変化した後、
工字文へ姿を変え、
変形工字文に至って、次世代の弥生土器にバトンタッチいたします。
このような基本的文様は、更に、地域や遺跡で様々に変化いたします。
 
亀ヶ岡式土器の基本的文様の変化を覚えましょう。 大洞B1式から変化した
新地式
大洞B2式のバリエーション 大洞B2式からBC式にかけての変化 大洞C1式土器
大洞C2式
大洞C2式口縁の文様 深鉢・長胴壺形土器文様帯
浅鉢形土器文様帯Ⅱ
文様帯Ⅱ肉彫的入組文
工字文系土器 大洞A式期土器
 510

 520狩猟文土器の土器棺


  374に弓矢・樹木文付鉢形土器があります。

 521山野峠遺跡の狩猟文土器 縄文後期前半
山野峠遺跡では、縄文後期前半の土器棺墓群と石棺墓群が発見されています。この遺跡から出土した土器棺の一つに、狩猟の様子を描いたものがあります。
土器の文様は粘土紐により形づくられ、上下二段の構成になっており、その下段に大の字形の動物文様や弓矢を模した文様が配置されています。

土器棺の製作、死者の肉体が朽ちて行く間に作ることが出来る土器棺だから、死者にふさわしいものが作られたに違いない。
土器文様
土器棺正面には、矢をつがえた弓。その前に四つ足の動物。その上に虫の象形文字のような、下の方がくるっと回っている文様。これは蛇。
本来虫は蛇のことだった。まさにそのまま、図案化している。裏に回ると蛇が消えて、写真不鮮明でチョットわからない。あっ、鳥だった。
蛇を喰らう鳥か、死者が飛びゆく空のカミの国へか。沢山貼り付けた粘土粒は何だろう。他の十腰内式土器にはなかった。捕った獲物の数?

頚部には把手のような紐かけが4つも付いていて、蓋には紐を止める仕掛けの装飾もついている。見事な造形である。納骨後紐を掛けた。

 374には弓矢と樹木を描画した鉢形土器がある。


山野遺跡の狩猟文土器
狩猟文土器展開写真
 
 


 530縄文土器の移り変わり

 531縄文時代の区分
約1万年に渡って作り続けられた縄文土器は、時代や地域によって違った特徴を持っています。こうした土器の移り変わりを目安にして、縄文時代は大きく6つの時期に分けられています。
草創期:約1万5000年前~9000年前
早期:約9000年前~6000年前
前期:約6000年前~5000年前
中期:約5000年前~4000年前
後期:約4000年前~3000年前
晩期:約3000年前~2400年前


 532草創期 約1万5000前~9000年前

草創期は、縄文時代の始まりの時期です。最も古い土器は、文様のついていない「無文」のものでした。その後「隆起線文」「爪形文」縄目の文様がついた「多縄文」土器へと移り変わっていきます。
草創期の縄文土器
隆起線文土器 六ヶ所村表館(1)遺跡 
爪形文土器  八戸市黄檗遺跡(草創期土器)
多縄文土器  八戸市櫛引遺跡

  縄文時代の年代は流動的ながら、
  第1段階:無文土器、
  第2段階:豆粒文土器と隆起線文土器群
  第3段階は爪形文土器群
  第4段階は多縄文土器群である。 引用縄文土器
 

引用「縄文土器1万年の足跡」横光町


多縄文の写真はこれしかありませんでした


 533早期 約9000年前~6000年前

縄文早期は、各地で土器の特徴の違いが見られるようになります。
東北地方では、「押型文」(文様を彫った棒を転がして付ける)→「沈線文・貝殻文」(棒を引きずったり、貝殻を押し付ける)→
→「縄文」(縄を転がしてつける)へと、文様が移り変わっていきます。また、底の尖った土器が多いのも特徴です。
根井沼式(早期中葉) 三沢市根井沼(1)遺跡
物見台式(早期中葉) 八戸市田面木平(1)遺跡
赤御堂式(早期後葉) 八戸市長七谷地遺跡
深鉢形土器
蛍沢Ⅱ式
蛍沢遺跡
深鉢形土器
蛍沢Ⅱ式
蛍沢遺跡
 

 535北陸系土器 前期 青森と北陸

 青森の北陸土器
青森県内の縄文前期後半の遺跡からは、富山県や石川県などの北陸地方で作られたものと似た土器が見つかっています。
結節状浮線文斜格子目文と呼ばれる文様が付けられた、これら北陸系土器(北陸系文様)が出土したことにより、この時期に青森と北陸地方の人々との交流があったと考えられます。

 北陸の北方系人骨
富山市小竹貝塚前期の貝塚で、多くの北方系人骨が出土している。参照沖縄写真通信
富山では北方系人骨が、青森で北陸系土器が出土するのは、互いに深い交流があった証拠である。
また、青森の縄文前期にはアムール川などの北方系色の大変強い縄文人がいたようだ。

すると、青森と・北陸の縄文前期の文化を見直す必要があり、また、大平山元遺跡文化人は当然大型北方系縄文人だったことになる。
凄いことが分かった。青森縄文人は大型北方系だったことになる。

北陸系土器
上に記述
朝日下層式 前期末葉
石川県真脇遺跡

朝日下層式(前期末葉) 石川県真脇遺跡
※朝日下層式は、東北地方北部の円筒下層d式と同じ頃の土器です。
この頃北陸から船で沢山の人々がやって来たのか。真脇遺跡は春のイルカ漁が盛んだった。

 稲山(1)遺跡  青森市大字諏訪沢字山辺
 新町野遺跡  青森市大字新町野字菅谷
港湾近くでもないこんな山の中↑から、また、六ヶ所村から、北陸系土器が出土している。
相当量の北陸系土器が生産され、青森一帯で流通してたようである。
きっと縄文前期の青森ではすごいトレンドだったのでしょう。 
北陸系の土器
稲山(1)遺跡 前期
新町野遺跡 前期
稲山(1)遺跡 前期
 536
北陸系の土器
新町野遺跡 前期
北陸系土器
桜峯(1)遺跡 前期
 


 540前期土器 約6000~5000年前

 541前期土器
縄文前期は、土器の地域差がより大きくなり、東北地方の北部では「円筒下層式土器」が作られました。
これらは、底が平らで細いバケツのような形をした土器で、胎土に繊維が混ぜてあり、表面には多くの種類の縄文が付けられています。

前期の縄文土器

上に記述
表館式(前期初頭)
    青森市新田(2)遺跡

円筒下層a式(前期中葉)
    青森市大矢沢野田遺跡

円頭下層d式(前期末葉)
    青森市稲山(1)遺跡
 543
深鉢形土器
前期初頭
葛野(3)遺跡
深鉢形土器
前期初頭
新田(2)遺跡
深鉢形土器
前期初頭
葛野(3)遺跡
深鉢形土器
前期初頭
葛野(3)遺跡
深鉢形土器
円筒下層a式
大矢沢野田(1)遺跡
前期
深鉢形土器
円筒下層d式
稲山(1)遺跡 前期
深鉢形土器
円筒下層d式
稲山(1)遺跡 前期
深鉢形土器
円筒下層b式
稲山(1)遺跡 前期
 545ミニチュア土器
縄文時代には手のひらに乗るような小さな土器も沢山作られ、「ミニチュア土器」と呼ばれています。様々な形のものがあり、何らかの儀式や、子供のままごと遊びに使われていたものと考えられています。
ミニチュア土器
青森県内
前期~晩期
ミニチュア土器 ミニチュア土器
上に記述
 



 550中期土器 約5000~4000年前

 551中期土器
縄文中期は、粘土紐や沈線で描かれた土器が各地で作られた時期です。東北地方北部では口が大きく4つに波打ち、粘土紐が貼り付けられた
円筒上層式土器」が作られました。
中期後半になると東北南部で作られるようになった「大木式土器」(土器の口が大きくふくらみ、表面に渦巻きの文様がある)の影響が広がり、バケツ形の円筒土器は姿を消す。

円筒上層c式(中期中葉) 青森市新田(2)遺跡
円筒上層e式(中期後葉) 青森市三内丸山遺跡
大木10式中期末葉) 青森市江渡遺跡

※円筒上層式土器は、円筒上層a式、b式、c式、d式、e式の
  5型式に区分されています。
  また、円筒上層e式の後には、榎林式、最花式、大木10式併行という
  大木式系の土器が続きます。
 552
深鉢形土器
円筒上層a式 
 深鉢形土器
円筒上層a式
浅鉢形土器
円筒上層b式
四戸橋(1)遺跡 中期
 
台付浅鉢形土器
円筒上層d式
新城平岡遺跡 中期
 
 深鉢形土器
最花式
三内丸山遺跡 中期
深鉢形土器
大木10式併行
三内丸山遺跡 中期 
深鉢形土器
円筒上層b式
深鉢形土器
円筒上層c式
新田(2)遺跡
深鉢形土器
円筒上層c式
新城平岡(4)遺跡 中期
深鉢形土器
円筒上層c式
深鉢形土器
円筒上層c式
深鉢形土器
大木10式

 555双子土器 中期
 556
双子土器
三内丸山遺跡 中期
二つの土器が合体した
水鳥形土器
蛍沢遺跡 中期
 


 560後期土器 約4000~3000年前 

 561後期の土器
縄文後期になると土器の形も、深鉢形、鉢形、壺形、皿形など、様々なものが作られ、厚さが薄くなります。
後期後半になると、東日本では、磨り消し縄文などの文様や、コブのような突起を持つものなど共通の要素を持つ土器が広がります。

後期の縄文土器 十腰内Ⅰ式(後期前葉)青森市小牧野遺跡
十腰内Ⅲ式(後期中葉)八戸市風張(1)遺跡
十腰内Ⅴ式(後期後葉)青森市中屋敷遺跡

※十腰内式土器は、十腰内Ⅰ式、Ⅱ式、Ⅲ式、Ⅳ式、Ⅴ式、Ⅵ式の
6型式に区分されています。
また、十腰内以前にも、いくつかの土器形式が存在します。


深鉢形土器
牛ヶ沢(3)式
三内丸山遺跡
深鉢形土器
弥栄平(2)式
月見野(1)遺跡
深鉢形土器
沖附(2)式
稲山(1)遺跡
深鉢形土器
小牧野3類
稲山(1)遺跡
深鉢形土器
深鉢形土器
沖附(2)式
蛍沢遺跡
壺形土器
十腰内Ⅰ式
稲山(1)遺跡

深鉢形土器
十腰内Ⅰ式
稲山(1)遺跡
浅鉢形土器
十腰内Ⅰ式
月見野(1)遺跡
深鉢形土器
十腰内Ⅰ式
深鉢形土器
十腰内Ⅰ式
浅鉢形土器
十腰内Ⅰ式
稲山(1)遺跡
深鉢形土器
十腰内Ⅰ式
稲山(1)遺跡
浅鉢形土器
十腰内Ⅰ式
稲山(1)遺跡
深鉢形土器
十腰内Ⅱ式
孫内遺跡
深鉢形土器
十腰内Ⅴ式
田沢森遺跡
壺形土器
十腰内Ⅴ式
蛍沢遺跡
壺形土器
十腰内Ⅴ式
広口壺形土器
十腰内Ⅴ式

 563切断土器 縄文時代中期終り~後期前半

切断土器は、縄文時代中期の終わりから後期前半にかけて青森県を中心に作られました。
文様をつけ終わった状態の土器をわざと上下に切り離してから焼いたもので、しっかりと組み合わされた状態で見つかることがあります。
亡くなった幼児などの遺骨を納めたとする説があります。
 564
切断壺形土器
切断壺形土器の使われ方
小牧野遺跡の切断壺形土器
切断壺形土器
月見野(1)遺跡 後期
切断壺形土器
稲山(1)遺跡 後期
 465色々な切断土器
 
 570特殊な土器
 571覆付土器 後期前半
一般の土器は真上に口がありますが、覆い付土器は横に口が作られ、真上には天井のような覆いを持つ土器です。
用途については内部で火を用いる道具であったり、大切なものを収納する箱などに使われたと考えられますが、はっきりとはわかっていません。
縄文時代後期前半の遺跡から見つかっています。
 572
覆付土器 覆付土器
小牧野遺跡
覆付土器
月見野(1)遺跡 後期
覆付土器
月見野(1)遺跡 後期
覆付土器
月見野(1)遺跡 後期
 574蓋形土器
 575
蓋形土器
蛍沢遺跡 後期
蓋形土器
稲山遺跡 後期
蓋形土器
四ツ石(1)遺跡 後期
 576注口土器 後期
土器の横に注ぎ口が付いたものを注口土器といい、酒などの飲み物を入れて使われたものと考えられています。
縄文時代後期に東日本全体に広がり、晩期の亀ヶ岡式土器で発展します。
 577
注口土器 小牧野遺跡の注口土器 注口土器
長森遺跡 晩期
注口土器
青森県内 晩期
注口土器
新城平岡(4)遺跡 後期
注口土器
蛍沢遺跡 後期
 
 
 578香炉形土器 後期
香炉形土器は球形の胴に数か所の窓が開けられたもので、脚台が付いているものもあります。
縄文時代後期後半から晩期の東日本で見つかっています。いずれも明確な用途はわかっていませんが、祭りや儀式などで使われたものと考えられています。
 579
香炉形土器
香炉形土器
青森県内 後期 
         

香炉形土器
蛍沢遺跡 後期
香炉形土器
新城平岡(4)遺跡 後期


 590晩期の土器 約3000~2400年前

 591晩期の土器
縄文晩期には、東北地方北部で縄文土器の総仕上げともいえる、華麗で精巧な「亀ヶ岡式土器」が生まれます。
亀ヶ岡式土器は、煮炊きなど実用品として使われた「粗製土器」と、美しい装飾を持ち祭祀などに使われたと思われる「精製土器」に分かれます。
赤や黒の漆を塗ったものもあり、遠く近畿地方まで亀ヶ岡式土器が達していました。

晩期の縄文土器 大洞B式(晩期初頭) 三戸町 沖中遺跡
大洞BC式(晩期前葉)三戸町 泉山遺跡
大洞A´式(晩期末葉)青森市 沢山(1)遺跡

※亀ヶ岡式土器は、大洞B式、BC式、C1式、C2式、A式、A'式、の6型式に区分されています。



注口土器
大洞B式
沢山遺跡
深鉢形土器
大洞C1式
長森遺跡
台付浅鉢形土器
大洞C2式
長森遺跡
深鉢形土器
大洞C1式
長森遺跡
浅鉢形土器
大洞B式
長森遺跡
台付鉢形土器
大洞A式
田茂木野遺跡
台付鉢形土器
大洞A式
田茂木野遺跡
広口壺形土器
大洞A'式
沢山(1)遺跡
注口土器
大洞C1式土器
長森遺跡
注口土器
大洞C1式土器
長森遺跡
同一反復
壺形土器
大洞c2~A式
田茂木野遺跡
台付鉢形土器
大洞BC式
長森遺跡
浅鉢形土器
大洞C1式
長森遺跡
台付浅鉢形土器
大洞A式
田茂木野遺跡
浅鉢形土器
大洞A式
田茂木野遺跡
浅鉢形土器
大洞A'式
沢山(1)遺跡
浅鉢形土器
大洞A'式
沢山(1)遺跡
壺形土器
大洞c2~A式
田茂木野遺跡
同一反復
 
 
 
 
  青森の縄文 10  2019.09.28-4

  太宰治記念館 「斜陽館」 青森県五所川原市金木町朝日山412-1

  0173-53-2020 12/29休館撮影可

交通  鉄道  津軽鉄道金木駅から徒歩で7分
  備考  五所川原市の施設として公開中。駐車場無料
 
 
 
 太宰治記念館「斜陽館」
太宰治、津島修治氏は、滅びの文学 の作家。その破天荒で無軌道な行動で自己の文学を確立しようとした。
出身地の津軽は、現在でも大変な訛の強い地域で、弘前人が津軽弁翻訳機を開発しているほど、難解な言葉です。
氏の作品の中に、「私は、、どこで覚えてきたか、、標準語で話していた、、」とあったが、東京に出てからの生活にも、
津軽訛は生きづらかったから、あのような文学スタイル、生活スタイルだったのかもしれない。

津島一族は、鎌倉時代の元寇に備えて、一族で対馬を脱出した有力氏族で、当時の未開地が 残っている津軽に到達し、
財をなし、権力と信用を得て、営々と、明治・大正まで続いてきた家柄です。彼は、生まれついてのお坊ちゃんでした。

街中に聳え建つ豪邸は、1907(明治40)年に建設された住居兼店舗の建物で、家業は金融業であった。
地域特有の堅牢な材を使用し、廊下階段は全てケヤキ造りでありその財力の程がうかかえる。
また、当時の建築における西洋趣味は、当時現役で運行されていた北前船の影響で、本州の北の果てまで、及び、
立派な和洋折衷の建物となっている。

太宰治が「東京方言、共通語に近い言葉」を話したというのは、この北前船による全国的な人の流れによる各地の言葉に接する機会が
格段に多かったためであろうかと思われます。
また、金融業を始めたのは、北前船交易によって財をなしたため、始めた副業であったかと思います。

「斜陽館」という名前は、太宰治の代表作「斜陽」にちなんで付けられたあだ名であるが、本来、よい意味ではなく、
太宰治記念館、旧津島家住宅、などと呼ぶのがふさわしいかと思います。




 
 
 
 
 
  青森の縄文 12  2019.09.29-1

  JR五能線 木造駅  青森県つがる市木造房松 0173-42-2110撮影可

交通  鉄道  五能線木造駅下車
 

 01駅舎モニュメント「しゃこちゃん」
  巨大な遮光器土偶が再現されています。
  夜になると目から七色の光ビームが発射され、カッコイイのだそうです。
  見たいけど、宿泊しないと、チョット見れませんよね。
駅舎内は賑やかな
土産物売り場
田舎の駅では珍しい
高額な市内ツアー
もあるようです
足はこんなにぶっとい
ピンボケ
 02プラットホーム
正面のカタシボ屋根は
豪雪地のためか
ぷっとい柱は
上階を支える柱
まっすぐに伸びた線路 真夏の炎天下が似合う物凄い景色 ハイカラな家と雑木に邪魔されてるが 岩木山が美しく見えるはずだった、、、
車両から降り立つと遮光器土偶が出迎え
 03縄文公園
駅舎右手に縄文公園 復元された中世住居
に見える建物。
長持ちさせるためにこのような建築になった
空から見ると
右の駅舎、左が公園
シャコちゃん公園になっていた!!
 04つがる市観光案内
 駅舎を出ると観光案内プレートがまねいている。
➀②ベンセ湿原
④最終氷期埋没林
⑤一本タモ
③マグアビーチ
⑥つがる地球村
⑨縄文館
⑩森田歴史民族資料館

つがる市観光地図
馬市祭(パレード)
馬市祭(火祭り)
馬市は明治36年から始まった祭である。
これは、軍馬生産で隆盛期の記憶である。
チェスボローカップ
ネブタ祭
チェスボローは遭難した米国船で、
救助を記念した水泳駅伝大会である。

つがる市ネブタ祭

 05遮光器土偶
つがる市の亀ヶ岡遺跡から明治20年に出土した縄文時代晩期(約3000~2300年前)の遮光器土偶は、発見されて以来、その優れた芸術性~高い評価を受け、昭和32根かに国の重要文化財に指定されています。
高さは約34cm、土偶の目が北方民族のイヌイットなどが雪中の光除けに着用した遮光器(サングラス)に似ていることから「遮光器土偶」と名付けられました。胴体を占める文様は実に細かく、中は空洞となっています。
遮光器土偶の現物は東京国立博物館に補完されていますが、そのレプリカがつがる市縄文住居展示館(カルコ)に展示されています。

遮光器土偶
             
                     
                     
 
 
  付録3 考察 東北侵略戦争

青森県の博物館の最後にあたって、今もなお東北人の心に影を落とす、蝦夷戦争について、再度、私なりに考えてみたい。
 
 01発端

 律令制度の確立である。中国の中華思想(中華とは自分達漢人が世界の中心、世界一という考え)を真似て、
帰化半島人が自分達が世界の中心、世界一と増長したことにある。都の北と南に住むものは蛮族であるとさげすんだことが事の始まりである。

 律令制導入の裏には、乙巳の変(クーデター)成功によって天下を取った、中大兄皇子と中臣鎌足の作る皇統による専制政治が行われた。
また、663の白村江の大敗北によってそれまで自分達を半島人だと考えていたヤマト人が、博多を防備し列島に閉じこもって怯えていたことで
半島から締め出された別の国家、倭国人を意識したのである。

 その後専制を打破するために留学僧などが取り入れたのが法治国家としての律令制だったが、中華思想まで真似たことが発端であった。
 
 02契機
 奈良~平安時代にかけては、気候変動による旱魃と洪水、土砂崩れなどの災害、群発地震、火山の噴火、大地震と大津波などの災害が打ち続き、
更に、疱瘡やインフルエンザなどの大流行で社会が大変なダメージを受けた。
 中華思想では、それらは時の大王(天皇)が不徳であるからとされた。そのため、聖武天皇は大仏建立を発願した。(743)
当時の仏教思想は鎮護国家という考えで、信仰すれば国を守るとされ、大災害の後には、役人500人を僧侶にしたり、財物を寄進したり、
神社に寄進したり、神社の格を上げたりして神仏に祈ることによって災害を鎮めようとした。

 743年の大仏建立発願の時には、疱瘡によって全国民の1/3が死んでいたといわれている。
 大仏は全国民の寄進によって作られることになり、全国に資材と労力を無償提供させた。
そのために、全国で鉱山開発が行われ、当時は蝦夷の国であって、ヤマト政権の支配が及んでいなかった東北地方から、
金をはじめとする豊かな鉱産資源が提供された。
 
 03戦争を始めたのは
774年に桓武の父光仁天皇が「海道蝦夷」に対して始めたのである。 (福島県の蝦夷)
大物建立から30年。激減した人口も回復し、しかもこの時期(桓武在位期)は自然災害の静穏期で、政治・経済が安定していた。
この時、30年前に聞き知った、蝦夷の地の豊かさに対する領土的野心が持ち上がったのだろう。
本来、征服民族は、被征服民族を人とは思ってはいない。それは、今もチベットやウイグル族で行われている。 
 
 04蝦夷38年戦争
桓武天皇は、皇太子を蝦夷戦争の責任者とし、次期天皇となるためにはいかにしても勝たねばならず、次々と全国から軍勢を投入した。
かの有名な歌人もこの中に入っている。
結局、残虐な方法で先住民族への侵略戦争に勝利して、東北地方北部まで半島系ヤマト人の領土とし、その後も長く悲惨な支配制度を敷き、
弾圧し続けた。
 
 05まとめ
   これが東北侵略戦争の概要ではないか。領土的、野心と、財物欲しさの侵略だったのだろう。