[戻る][TOP]


  中部地方の縄文2 07  2017.11.23-02

  長野市立博物館 長野県長野市小島田町1414 026-284-9011月・祝日の翌日休館 撮影可


交通 ・レンタカー
    長野駅善光寺口③からバス川中島古戦場経由松代行 20分(1時間2本)
 見所 ①旧石器時代の上ヶ屋遺跡からは、列島内の全ての形式の石器が発見された。
②長野盆地形成原因を知れば、弥生後期の水田稲作(箱清水)文化成立の理由が分かる

 その他、挙手人面土器、
 日本最大級の神子柴型石斧
 



 外観

01川中島古戦場史跡公園
02外観


10地学

11長野盆地概観
14長野盆地
30海の形成
40長野盆地の形成
42化石は語る
50洪水と治水
52 牛島村の輪中堤
私見

53地すべり
善光寺地震と地滑り

60揺れ動く大地
62善光寺地震
63松代群発地震
64地震と温泉

70火山活動
72火山と特性
74火山の成り立ち


100考古

110旧石器時代

111ヘラジカ (ムース)

 旧石器時代年表

112長野県の旧石器時代遺跡分布
 旧石器の標準遺跡

120石器
120a上ヶ屋遺跡の奇跡
121杉久保系文化
123茂呂系文化
125東山系文化
127国府系文化
128神子柴系文化


130縄文時代

131縄文人のくらし

 縄文時代年表

133縄文時代の道具
134土器の発明
135石器・土器
136宮ノ入遺跡
137縄文の道具
139装飾品
141祭祀具
143黒曜石


160弥生時代

161弥生人のくらし

 弥生時代年表

162塩崎遺跡群

163栗林式土器
164大陸から伝わった磨製石器
165弥生時代のくらし

170箱清水文化の広がり
173赤い土器 (箱清水式土器)
175赤い土器とベンガラ

180祭りと祈り
181銅鐸・武器形祭器分布
182鉄の腕輪・銅の腕輪
183祭祀具

 古代

200古墳時代

212川柳将軍塚古墳 古墳副葬品
220合掌形石室
222上池ノ平5号墳
231合掌形石室の変化
232大室古墳群の分布
233大室山古墳群
235大室241号墳
236長原古墳群
237玉類
240合掌石室の展示
250古墳人のくらし

 古墳時代年表



252大和政権進出の頃の土器
253首長墓が造られた頃の土器

254煮炊き・食用の土器
 カマドの始まり
255松ノ山古窯跡
256窯で焼いた土器 須恵器

260神々への願い
262祭祀土器
 挙手人面土器
263祭祀石器
 子持ち勾玉
264捧げられた土器と祭具
265南向塚古墳

350古代

351中央とのつながり

 古代年表

360奈良・平安時代の社会

361奈良時代のくらし

 古代年表

362古代交通路と白瓷分布

373平安時代

374律令制下の社会
376墨書土器・刻書土器
377古代の文房具

380善光寺信仰
381阿弥陀三尊像
382仏教の伝来
383鎌倉将軍と善光寺

 

 01川中島古戦場史跡公園

  川中島古戦場 八幡社 御祭神 誉田別尊 建御名方命
  この神社は八幡社といい、これより先は武田信玄が陣を構え、御加護を仰いだ八幡大神を奉斎する神社の神域となり、旧社殿(鞘堂)、
  奥が現在の社殿であります。

もみじの名所、観光地です。武田・上杉両雄一騎打ちの地 八幡原

千曲川の氾濫原で、度々水没を繰り返した原野

低湿地であるとともに堤防が決壊して流入した洪水はその場で

渦を巻き、後背地に深い穴を掘り、後世に池として伝わるのです。

この広大な土地と池はそうしてできました。
しかし、なぜ、農耕不可の荒れ地が、古戦場というだけで八幡社の
信仰の対象(御神体) となったのか大変不思議です。
戦の後の野ざらし供養は仏教。戦勝祈願は八幡社です。
 02外観
長野市立博物館1970年の早春に善光寺門前に博物館があり、
受験帰りの私が館長と弥生水田の畦木について話しました。その館のことを尋ねると

その頃、そこに館はなく、その頃の市には博物館も資料館もなかった。というのだ。→→

穂高連峰 ですよね
200万年前の巨大噴火で出来た溶結凝灰岩が隆起して形成された
そんな馬鹿な話があるか。

ただ、大学生になって再訪した時、そこには別のものができていて、博物館・資料館などは跡形もなかった。

そんなことを善光寺門前に住む友人に聞きたくて、訪ねて行ったが、この日、おかしな嫁さんに追い払われてしまった。(笑)
 




 10地学



  11長野盆地概観
  12
ギザギザに入り組んだ
山と谷
(東側の山地)

東からの俯瞰
長野盆地の東側の山地は、谷が深く入り込み、尾根が出っ張っていてまるでリアス式海岸のようです
これは、東側の山地が古い時代に隆起し、山地形成後に盆地に土砂が堆積し始めたからです。

長野盆地の地下には、東側の山々の続きが埋まっています
 西側の新しい山地

南からの俯瞰
長野盆地の西側の縁は直線的ですっきりしています
ここには活断層があります。 

西側の山地は、約50万年前からの活断層の活動によってできた新しい山地です。
主に長野が海底だった時代の地層から出来ている、軟弱地盤なのでよく地すべりを起こします。
古い地すべりの跡地は、多くが農地や集落になっています。
 長野盆地をつくった
活断層


西からの俯瞰
  長野盆地西側活断層は約1000年に一度の割合で活動し、そのたびに大地震を起こしてきました。

その最近の活動が1847年の善光寺地震です。約50万年前から始まった断層の動きによって西側は少しずつ隆起して山地になり、東側の古い山地と西側の新しい山地の間に長野盆地ができました。
 洪水が作った長野盆の平地
北からの俯瞰 
   長野盆地には犀川や千曲川など多くの川が流れ込んでいます。
これらの川は、昔から度々洪水を起こし、時には川筋を大きく変えることもありました。
洪水は盆地内に大量の土砂を運び込み、長野盆地に厚く堆積しました。
長野盆地の平地は洪水が作り出したのです。
長野盆地の地質図
 

千曲川・犀川の地形と地質 - 国土交通省北陸地方整備局

千曲川河川事務所 気象・地形地質・自然・河道特性




  14長野盆地


   長野県東部にある長野盆地は、東側の山地と西側の山地に挟まれた地域で、「善光寺平」とも呼ばれます。
   盆地の標高が330~380mとあまり高くないため、気候が比較的温暖で、北部の山地を除くと降雪量が少なく、

   しかも犀川や千曲川などの河川が土砂を運び込んで形成された肥沃な土地で、コメと麦の二毛作が行われる生産性の高い地域として昔から
   栄えてきました。

パノラマ長野盆地 長野盆地
上に記述
蛇行する千曲川
沖積平野の氾濫原
扇状地の発達
崩れた山の斜面に集落

  30海の形成
   約1,600万年前、長野県中部~北部一帯で海底火山の噴火を繰り返しながら海底が拡大し、日本海と太平洋を結ぶ
   「海峡」のような海が広がりました。海は次第に深くなり、水深1,000mを超える深海になりました。

   しかし、約1,300万年前から長野盆地東側の山地を含む「中央隆起帯」一帯の海底が隆起を開始して陸地になったため、
   長野盆地の海は北側の日本海に面した大きな湾(長野湾)へと姿を変えました。

フォッサマグナ
千曲川・犀川の地形と地質 - 国土交通省北陸地方整備局

1,600万年前 海の形成
上に記述

1,600万年前海底に噴出した枕状溶岩
1,000万年前の古地理 約1,300万年前から、地下で発生したマグマが上昇し、中央隆起帯を隆起させた。

当時のマグマは閃緑岩類となって中央隆起帯沿いに分布している。

  埋め立てられた海
   約1,300万年前から、北アルプスでも隆起が始まり、山々から流れ下る川が海へ大量の土砂を運ぶようになりました。
   運ばれた土砂は河口や周囲の海岸に厚く堆積し海を埋め立てました。

   こうして、長野湾は時代が経つに連れて少しずつ浅くなり、海岸線が北へ退いていきました。
   長野県の地域が全て陸地になったのは約160万年前のことです。

埋め立てられた海
上に記述
約300万年前
浅い海底の地層
鬼無里奥裾花渓谷
浅海で堆積した地層の上面、つまり、かつての海底面が広く露出している。
富山湾へ流入する
黒部川臨海扇状地
富山湾を埋め立てたのは、このような臨海扇状地だった


 約100万年前

約100万年前の古地理   臨海扇状地によって海が埋め立てられ、

長野県中・北部から上越地方まで広がる海岸平野が形成された。 
 密集した植物の化石 密集した植物の化石
Fossil Leaves
化石の葉
時代:新生代第三紀中新世後期 (約600万年前)
採集地:長野県篠ノ井茶臼山地すべり滑落崖

当時の湿地の水底に大量の落ち葉が積み重なり、それが泥の層に挟まれて保存された。


  40長野盆地の形成
   海が北へ退いた後、かつての長野湾は広大な平野になり、その状態が長く続きました。
   約50万年前になると活断層が活動を開始し、長野では断層の西側が隆起しました。断層の西側はやがて長野盆地西側の山地へと成長し、

   既に隆起していた古い東側の山地との間に大きな窪地を生じました。
   この窪地に犀川や千曲川の土砂が厚く堆積し、長野盆地の平地が形成されたのです。

  ※長野市から西を見ると、白銀の北アルプスの手前に前山が連なって見えます。これが断層西側の隆起帯の山々です。

  41
長野盆地の形成
上に記述
約50万年前まで広がっていた平野の痕跡 長野盆地西側一帯では隆起後に浸食がすすんだが、
山の尾根までは及んでいないため、
北アルプス手前に広がる山々の標高がよくそろっている。
発掘された活断層
篠ノ井小松駅
光林寺参道
善光寺地震の際に動いた複数の小断層を境に地層が寄木細工のようにずれている。

※かなり見づらい


山の上に残る空谷

篠ノ井・川中島カントリー付近
10万年以上前、犀川が浸食した跡。
後に犀川が北流するようになり水が枯れた。

更に地盤が次第に隆起したことから、山の上に押し上げられ、

水の流れていない空谷が残された。
鏡肌(断層の滑り面)
鏡肌(断層の滑り面)

採集地 長野市浅川・安曇村島々谷南沢




  42化石は語る
   長野盆地西側の山地に広がるおよそ600~200万年前の浅い海の地層から、貝などの化石が豊富に産出します。
   見つかる化石には、シガラミサルボウクサビガタオオノガイなどの絶滅種が含まれています。

   現在も生息している種類には、ホタテガイ類やナガウバガイなど、冷たい海に生息する貝が多いことが特徴です。
   当時の日本海は、南からの暖かい暖流がほとんど入ってこない、現在の北海道沿岸のようなとても冷たい海だったのです。

  48
クジラ肋骨新第三紀中新世
2300万年~700万年前
ハンノキ属 有孔虫ヌムリテス古第三紀始新世中期 モチズキツキガイ 現代仮名遣いでは、
モチキツキガイ
と思います。



  50洪水と治水

  千曲川と犀川は、長野盆地に水と肥沃な土を運んでくれましたが、時には洪水となって人々を困らせました。
  川沿いの村では多くの被害を受け、中でも合流点に近い牛島・万年島・大豆島などでは、その度に家や畑が流され、命を失うことさえありました。

  300年ほど前から進められてきた犀川・千曲川流域改修工事は、村人と洪水との戦いでした。
  治水工事の効果が実って、洪水が昔話になったのは、ようやくここ20年程のことです。

  51
洪水と治水
上に記述
千曲川洪水年表 682夏、信濃に大風・降霜あり、五穀実らず
685浅間山噴火降灰、草木枯れる。9cまで繰り返す。(作物に被害甚大)
691信濃に風水害。

887洪水人家流失
889この頃から12世紀にかけて浅間山大噴火を繰り返す。(水害を誘発か)

古来より記録に残る程の災害の連続である。
現在も不安定な地域である。


   柱に残された洪水記録
右に記述
洪水ごとの水位が、本堂の柱や腰板に墨書され、寛保2(1742)年の
満水は床上2.4mに記されています。

この記録をもとに豊野町近くの道路わきに造られた標柱では、
この満水は地上4m近くに達しています。→
洪水標柱
 


 52 牛島村の輪中堤

牛島村の輪中堤
牛島村は洪水常襲地域で、出水のたびに
川欠け(水害被害)
牛島村の輪中堤
になり、集落の移転や耕地の地割替えを繰り返した。図は1825。
牛島村の輪中堤本村は数戸に減少、村の周囲に輪中堤が完成しかけている。(地図) 流死人菩提
大満水此所マデと刻
寛保二壬戌年八月二日

砂防ダム
裾花ダム
排水機と排水機場
護岸施設
上、改修工事前
下、工事後の千曲川

 私見

  富士山や榛名山の噴火でも、この牛島村でも、おそらく全国のかつての被災地では、どんなに厚く降灰しても、どんなに土石が流入しても、
  何年かかっても 元の田畑を復元しようとする。

  現代人なら、そんな場所は捨てて他所へ引越せばいいと思うのだが、その頃は、そんなことはほとんどしない。

  それは、当時の日本の耕作可能な土地の全てが開墾され尽くし、新たな入植地がなかったからだ。
  つまり、もし土地を失うと、たちまち浮浪民(乞食)となってさまよい、飢え死にしなければならないからだ。

  現代とは違う事情があったことを、2018年の各地の災害を見ていて改めて思い知りました。

 

  53地すべり
   長野盆地西側の山地は、主に砂や泥が堆積した地層が隆起したものです。
   砂岩と泥岩は水を通す度合いが違うため、砂岩層を通った水が泥岩層の上に集まり、滑りやすくなって、土地の傾斜や断層に沿って地すべりを
   起こしたり、崩れたりします。

   地滑りした土砂は谷を埋め、なだらかな起伏の多い地形をつくります。西側の山地にはこのようなところが多く、ここが耕地に利用されています。

地滑り区域の分布 地すべり
上に記述
昔の茶臼山
大正4年
北峰と南峰が並ぶ
双峰だったが
昭和56年の茶臼山
大正末期からの地滑りで独峰になった。
地滑り災害の跡

武田信玄が川中島合戦のときに布陣したといわれる茶臼山は、標高730メートルの北峰と南峰720メートルが並んであったが、弘化4年(1847)の善光寺地震によって山が緩み、50年ほどたった明治30年(1897)頃から次第に土砂が動き大正末期から昭和初期にかけて、地滑りが活発になった

その規模は長さ2キロメートル、幅130メートルから430メートル、その面積46ヘクタール、土砂は900万立方メートルと言われている。
現在は防災工事によって終息宣言が出されている。



  善光寺地震と地滑り

  長野盆地西側の山地一帯は、地盤が軟質な海成の泥岩や砂岩からできているため、地滑りが起こりやすい傾向があります。
  弘化4(1847)の善光寺地震の際、長野盆地西側の山間地では、各地で地すべりや土砂崩れなどの土砂災害が発生しました。

  その発生件数は約6万か所と言われています。
  長野市小田切山田中地区では幅約250mの地滑りが発生して約900m流下しました。
  この地滑りによって、31軒の住宅が押し流され、住民168人中47人が亡くなりました。

善光寺地震と地滑り 善光寺地震と地滑り
上に記述
震災地滑り地
地震2年後に描かれた復興事業の絵図
山田中下組天王社地望
同上組震災山崩れ跡之図
地滑り地の現在
絵図に描かれた
崩壊地の、現在の様子
地滑りによる土埋木



  60揺れ動く大地

  地球には、太平洋を取り巻く環太平洋地震帯を始め、いくつかの地震多発地帯があり、日本列島もその中に含まれています。
  内陸地震帯の上にある長野盆地も、いくつかの大地震に見舞われました。善光寺地震や世界的にも有名な松代群発地震など、多くの被害も出ました。

  巨大地震が多発している近年、その地震対策の急務を叫ばれていますが、長年の観測の分析や科学の進歩により、地震原因や予知態勢の
  研究も進みました。
                善光寺地震  善光寺地震  善光寺地震
  61
揺れ動く大地
上に記述
日本の主な地震
未記述
869貞観地震(三陸)など、日本各地の古代から現在に通じる重要な地震が記録されている。

福島原発を作る時、若い地震学者の調査を
軽んぜず、巨大地震の輪廻が理解されていれば、
今日の不幸は起きなかった。
善光寺地震を伝える絵図 ピンボケ



  62善光寺地震

   1874年5月8日(旧暦3月24日)午後10時ころ、M7.4の大地震が長野盆地直下で起きました。
   被害は松本や高田にも及び、善光寺町(現:長野市)では、家屋の8割が潰れ、焼けました。また、御開帳で参拝客が多かったこともあって、
   町内だけで2,500人もの死者が出ました。

   この地震で山崩れが各所で起き、□□山 (信更) の山崩れで堰き止められた犀川が洪水となり、松代藩内で約2,700人が死に、16,000余軒が倒壊。

善光寺地震
善光寺の惨状 善光寺の惨状
善光寺地震を伝える
文献

虚空蔵山(岩倉山)の
山崩れ

釣鐘の落ちた柱傷
伝える文献

地震横死塚(善光寺境内)
滑り落ちた臥雲杉(中条)



  63松代群発地震


  ふしぎな松代群発地震  松代群発地震  松代群発地震  松代群発地震

  1965(昭和40)年8月から始まった群発地震は数年にわたり続きました。 最初、松代附近の地下に集中していた震源地は次第に広がり、
  それと共に回数も減り、退化しました。

  ことに、初期の2年間は地鳴りや発光現象が起き、多い日は、1日に661回もの有感地震があり、人々の不安は一層つのりました。
  しかし、観測・防災態勢の強化により、地震の情報も的確に出され、被害は最小限にくい止められました。


松代群発地震
上に記述
地震発生の状況 地震の発光現象 震源地の拡大 牧内の地滑り/松代町


  64地震と温泉

  長野市には温泉がいくつかあります。松代の温泉もその一つで、県内では二番目に濃い珍しい温泉です。
  温泉は地上に出ると、溶けきれなくなった成分が沈澱物になって、湯から分かれてくることがあります。

  湧き出す分量や温度や成分が、長年に渡って変わらない温泉もありますが、気圧・雨・湖・川や田の水の変化、地震などで変わるものもあります。
  温泉は、保養や療養や産業などに役立つだけでなく、地下の便りをもたらす使者でもあります。

地震と温泉
上に記述
地震と湧水量 温泉の成分 ボーリング柱状図 長野県の温泉
ピンボケ


  70火山活動
  火山の多い日本列島は、環太平洋火山帯に含まれ、長野盆地の周囲にも富士火山帯などに属し、新生代第四期に噴出した、いくつかの
  火山があります。

  火山は地下のマグマ(岩漿)や噴出した熔岩などの性質・成分によって、いくつかに分類されます。
  火山は、噴火や地震など災害を及ぼしますが、エネルギーとしたり、地球内部研究の役にも立っています。

  71
火山活動
上に記述
(岩石質による)
火山のいろいろ
世界の火山帯 日本列島の火山
(火山帯)

  72火山と特性
飯縄山 皆神山 浅間山 草津白根山(群馬県) 焼岳(長野・岐阜) 御嶽山(長野・岐阜)
会津磐梯山(福島県) 昭和新山(北海道) 桜島(鹿児島) 西之島新島(東京) キラウエア火山(米国) マウナロア火山(米国)
浅間山溶岩流
溶岩樹型
溶岩樹型 キラウエア火山の溶岩流と溶岩樹型 溶岩樹型

  74火山の成り立ち
溶岩と火山砕屑物の成層構造
 





 100考古





 


 110旧石器時代


  111panel
 ヘラジカ (ムース)   アイヌ語のトナカイ。英語ではカリブー 又はreindeer トナカイとカリブー ヘラジカ ムース トナカイ カリブー reindeer

   ヘラジカは、北米や北欧・シベリアの寒冷な森林地帯に今でも生息している大型のシカです。
   日本列島でも、約7~1万年前の氷河時代(最終氷期)には、ナウマンゾウやオオツノジカとともに生息していました。

   これらの大型獣は、最終氷期の終わり頃に日本列島から絶滅しました。絶滅には、気候や環境の変化に加えて、
   人の狩猟が影響していたと考えられています。
   県内では、信濃町野尻湖から約4万年前のヘラジカの下顎の化石が発見されています。



 原始 約200万年前、人類が登場して、長い間の狩りや採集の生活を経てから、水稲栽培を行うようになった時代を原始と言います。

 最古の狩人たち
  この辺りに人が住むようになったのは、3万年~1万年前のことで、氷河がようやく溶け、今より気温が7~8℃低い時代でした。
  人間が最初に使った道具は、石を打ち欠いただけの粗雑な石器でした。この地方に住む頃には、ナイフなど数種類の石器を使いました。

  この頃には、飯縄山の裾野に広がる草原などでナウマン象やオオツノ鹿などを追って、住まいを移動しながら、狩りをして生活していました。

ヘラジカ(ムース) ヘラジカ(ムース) 原始
最古の狩人たち
旧石器時代年表


 旧石器時代年表

旧石器時代年表

200万年前頃

猿人(オーストラロピテクス)が北アフリカに現れる。
 
80-15万年前頃 原人(北京原人・ハイデルベルク人)が現れる
火を使い始め、礫器や剥片石器が使い始められる。
地殻変動や火山活動が活発になる。
 
30-15万年前頃 黒姫山・飯縄山・妙高山などが時々噴火する。
     
15万年前頃 旧人(ネアンデルタール人)が現れ、広く大陸に分布して住む。  
     
10万年前頃 日本に牛川人(愛知県)が現れる。
     
5万年前頃
第四氷河期の海面降下で、日本が大陸と陸続きになる。
マンモス動物群が北海道に、オオツノジカ等が本州に多く生息する。
 
     
3万年前頃 新人(周口店山頂洞人・クロマニヨン人)が世界各地に現れる。
三ヶ日人・浜北人(静岡県)
  日本の各地の丘陵上に、新人が多く住む。 岩宿遺跡(群馬県)
石子原遺跡(飯田市)
     
2万年前頃 朝鮮海峡・津軽海峡ができ、日本は大陸から分離する。  
遺跡数はさらに増え、日本各地にみられる。
 菅平・飯縄・霧ヶ峰などの高原や、野尻湖や諏訪湖の周辺に新人が住む。
鋭利な剥片石器が発達し、4系列の文化が本州などに広がる。
上ヶ屋遺跡(芋井) 上ヶ屋遺跡
杉久保遺跡(信濃町)
立ヶ鼻遺跡(信濃町)
     
15,000年前頃 神子柴系文化が、中部から東北地方に広がる。
笹付遺跡(松代)
神子柴遺跡(南箕輪村)
唐沢B遺跡(真田町)
     
13,000年前頃 細石器 (組合せ利器) 文化が、九州を除く全国に広がる。


この頃氷河期が終わり、宗谷海峡(水深118m)ができ、日本列島ができる。
矢出川遺跡(南牧村)
中土遺跡(新潟県)
   最新の分析では、細石刃文化 (14,300-12,000) とされ、神子柴文化は13,00年以前~縄文草創期 とされている。








  112map長野県の旧石器時代遺跡分布
北部 中部 南部 伊那谷 県北部に遺跡が多い。
黒曜石産地に集中。
南八ヶ岳などに多い。

食料資源や石材の豊富な地域が選ばれたようだ
  113
旧石器時代の
系列文化編年
東山系・杉久保系

東山系
 石刃・先刃掻器を中心とする文化

杉久保系
 ナイフ形石器と彫刻器を主体とする文化

茂呂系・国府系・神子柴系
茂呂系
 ナイフ形石器と尖頭器に代表される文化

国府系
 横長剥片を原料とする石器群の文化

神子柴系
 刃部研磨の石斧と扁平な尖頭器に代表される文化
石器の使い方

 旧石器の標準遺跡

杉久保遺跡   長野県上水内郡信濃町野尻湖底に所在する
茂呂遺跡   東京都板橋区小茂根5丁目17-18
東山遺跡   山形県西置賜郡小国町 あと詳細不明。発掘調査報告書も見当たらない
国府遺跡   大阪府藤井寺市道惣社2丁目
神子柴遺跡   長野県上伊那郡南箕輪村7897



  120石器

120a上ヶ屋遺跡の奇跡

 上ヶ屋遺跡 (長野市上ケ屋) では、たった一か所の遺跡に、上ヶ屋a~d群石器が、

   a群石器は、杉久保系 (東北・北陸)、
   b群石器は、茂呂系 (関東・中部)、
   c群石器は、東山系 (東北・北陸)
   d群石器は、国府系 (近畿・瀬戸内) と、日本中の石器が出土している。

  ※日本中の石器が集まって出土したということは、旧石器時代に、こんな狭い地域に、全国各地から人がやって来ていたことを物語っている
   列島の人口が僅か5000人と言われる中、全国から狩猟のために、なぜ、どうして、集まることができたのか、大変な驚きである。



  121杉久保系文化 (上ヶ屋a群石器) 東北・北陸地域 (野尻湖周辺の遺跡が標識遺跡)

杉久保型ナイフ形石器 石核 石刃 上ヶ屋型彫刻器
神山型彫刻器 石槌




  123茂呂系文化 (上ヶ屋b群石器) 関東・中部地域と九州。元は南方から黒潮に乗ってやってきた人々の文化。

  飯縄高原の狩人たち
   飯縄高原の湖沼は動物たちの水場となり、、その動物を追いかけて狩人たちも集まってきました。
   上ヶ屋遺跡からは、さまざまな地域のナイフ形石器が出土しています。北からも南からも、狩人たちが往来していた様子が伺えます。

飯縄高原の狩人たち
上に記述
最古の狩人たちの道具 茂呂型ナイフ形石器 尖頭器 先刃掻器 (せんじん)
石錐 石刃 石刃・石核 礫器



  125東山系文化 (上ヶ屋c群石器) 東北・北陸地域

ナイフ形石器 小坂型彫刻器 先刃掻器 尖頭器
尖頭器
石刃 石核



  127国府系文化 (上ヶ屋d群石器)  近畿・瀬戸内地域

ナイフ形石器
尖頭器
礫器
石核
掻器・石鎚



  128神子柴系文化 (上和沢遺跡)  シベリアのアムール川流域から沿海州に起源をもつ文化

神子柴型尖頭器
神子柴系文化
上和沢遺跡
 











 130縄文時代










  131縄文人のくらし
   およそ12,000年~2,300年前の縄文時代には、気候が次第に温暖となり、落葉樹が茂って動物が増えるなど、自然環境が大きく変わりました。

   初めて土器をつくり、弓矢を使うことを始めた縄文人は、獣肉や自生する草木の実を保存することを発見し、それまでの、獲物を求めて
   山野を移動する生活から竪穴住居を作って定住し、何家族かで集落をつくって住むようになりました。

縄文人のくらし
上に記述
縄文時代年表
下に記述
遺跡分布図 (長野市) 縄文カレンダー

 縄文時代年表
前1万年頃
 草創期
・狩猟中心の移動生活で、洞穴や岩陰を住居として利用する
旧石器時代の有舌尖頭器(投槍)・細石刃等を引き続き使う
底が丸く深鉢形の隆線文(盛り上がった線の模様)の土器が使われる。
  宮ノ入遺跡(松代)、 石小屋洞穴遺跡(須坂市)、 荷取洞穴遺跡(戸隠村)
・弓と石鏃を付けた矢を使うようになる。
・爪型文・押圧縄文などの土器が使われる。
前7000年前
  早期
高台の台地上の場所に、小規模な住居を作り住む。
・石鏃・礫器・掻器・磨石などを使い、狩猟中心の生活をする。
底が尖った深鉢で、撚糸文・回転押型文の文様の土器が多く使われる。
  猫又池遺跡(浅川)、立野遺跡(飯田市)、樋沢遺跡(岡谷市)
・落し穴を利用したり、犬を使った猟をするようになる。
  大池B遺跡(浅川)、鍋久保遺跡(大岡村)
前4500年前頃
  前期
山地で小集落を営み、炉を持った竪穴住居に住む。
・剥片を材料にした、小型の石器を多く使う。
繊維を入れた粘土で作った平底深鉢で、いろいろな縄文文様の土器を使う。
  赤萱平遺跡(浅川)、有尾遺跡(飯山市)
・居住地が、扇状地・段丘・台地などの沖積地に移っていく。
・打製や磨製の石斧を使い、強い力を必要とする仕事が増える。
無繊維土器が増え、深鉢・浅鉢・壺形時などに分けて機能化する。
・土器の模様は、半栽竹管文・粘土紐浮線文・貼付文が多く使われる。
  湯谷遺跡(上松)、南大原遺跡(豊田村)
前3000年頃
  中期
中部山岳(八ヶ岳南麓)地帯を中心に大集落が営まれる。
石鏃が減り、土堀用具とみられる打製石斧が増える。
・装飾豪華な土器が増え、有孔鍔付土器、釣手土器なども使われる。
・石棒や土偶などを祭り、祈りを捧げる習慣が盛んになる。
・木の実で作ったパンのようなものを食べる。
  安庭遺跡(信更)、井戸尻遺跡(富士見町)、尖石遺跡(茅野市)
前2000年頃
  後期
河川の周辺に住み、小規模な集落が多くできる。
・竪穴の中に、敷石を用いた住居が作られる。
・土錘、石錘を使った漁撈が盛んとなり、石鏃も使用される。
・土器が機能分化し、無文の粗製土器、磨消縄文の精製土器などが使われる。
  大清水遺跡(信更)、平柴平遺跡(安茂里)、宮崎遺跡(若穂)
前1000年頃
  晩期
平地近くに住みつく。
・石剣、石刀などの石器を使い、呪術など盛んになる。
・土器の文様は浮線網状文や、凸帯文などを多く使う。
抜歯の風習が伝わり、共同墓地ができる。
  平深沢遺跡(小田切)、新諏訪町遺跡(西長野)
前300年頃
・水稲栽培の文化が北九州に伝来し、濃尾平野まで広がる。



  133縄文時代の道具



  134土器の発明
  縄文土器の深鉢は、現在の鍋に当たります。土器の発明によって食べ物を煮て食べることができるようになり、それまで食べられなかった
  ドングリやトチなども食糧として利用されるようになりました。

土器の発明
上に記述

深鉢/原村阿久遺跡
縄文前期初頭

有孔浅鉢/上浅野遺跡
前期中葉

有孔鍔付土器/檀田遺跡/縄文中期

底部穿孔彩文浅鉢
檀田遺跡/中期

底部彩文
底部彩文
檀田遺跡/中期

深鉢/宮崎遺跡
晩期中葉

鉢/吉田古屋敷遺跡
後期中葉

注口土器/吉田古屋敷遺跡/後期中葉

舟形土器/宮崎遺跡
晩期

深鉢/宮崎遺跡
晩期中葉

 ※「底部彩文」とは、彩文が表であり、それを見られるように使用したのかもしれない。だとすると、浅鉢ではない。何かを覆うもの。蓋。あるいは、
  死者の顔の上にかけたのかもしれない。どんな出土状況だったのだろう。

  しかし、後・晩期の亀ヶ岡式土器の浅鉢も底面によく似た文様があるので、晩期の宮崎遺跡の舟形土器と共通するものが感じられる。


  135石器・土器

  136宮ノ入遺跡

神子柴型石斧/宮ノ入遺跡
旧石器時代末~縄文草創期
列島最大級の神子柴型石斧 32cm

  以下の土器が宮ノ入遺跡出土かどうかはわかりませんが、隣に展示されていました。時期が随分離れているので無関係かと思います。

押型文土器/縄文早期

押型文土器/縄文早期

押型文土器/縄文早期



  137縄文の道具

  138

鹿角製銛頭/宮崎遺跡
晩期

鹿角製銛頭
宮崎遺跡/晩期


  139装飾品

けつ状耳飾り/管玉・小玉/お供平遺跡/前期

土製耳飾り/宮崎遺跡
縄文後期・晩期

けつ状耳飾り
お供平遺跡/前期

管玉・小玉/前期
お供平遺跡
(前期約6000年前)

土製耳飾り/宮崎遺跡
縄文後期・晩期

 ※中国大陸や台湾で広く使われていた、玦状耳飾は、縄文前期にすでに列島でも使用されていた。大陸から持ち込まれたものと思われる。
  それに対し、耳栓型の耳飾りは耳たぶに孔をあけ、しばらく小枝などを挟んでおく所から発達したと思われる。耳栓型は晩期に盛行する。
 


  141祭祀具

 おそれと祈り
   狩りや魚とりをしたり、草や木の実を採取して生活していた縄文人にとって、自然へのおそれと、自然の恵みを願う祈りは、生きていくためには
   大切なことでした。

   石棒や土偶などを祭って、一族の健康や子孫繁栄を祈ったり、悪病を追い払うために、体の一部に傷つけたり、耳や腕や胸に飾り付けたりする
   習慣は、縄文人が生きていくために、自然へのおそれと祈りを率直に表している姿と言えます。

  男女のシンボル
   石棒は男性そのものを現し、土偶は妊娠した女性の姿をかたどっています。
   いずれも生命の誕生にまつわるもので、そこには縄文時代を生きた人々の真摯な祈りが込められています。

おそれと祈り 男女のシンボル
土偶/平柴平遺跡
縄文後期

石棒/浅川西条遺跡

土偶/檀田遺跡/中期
タカラガイ形土製品/
旭町遺跡/中期

女性と男性のシンボル
石剣/宮崎遺跡/晩期

石棒/三水村
南方のタカラガイが長野県から出土した。
  143黒曜石
石器製作工程
原型→粗形→完形
 




 160弥生時代




  161弥生人のくらし
    2,300年~1,700年前の弥生時代は、水稲を中心にした農業を始めた時代です。
    東海地方から天竜川を遡り、長野盆地に伝わった弥生文化は、最初に塩崎新諏訪町に集落を作りました。今から約2,100年前のことです。

    初めて鉄器を使い、木を利用して多くの道具を作り、高床倉庫に米を蓄えておけるほど生産力を揚げた弥生人は、良い鉄器を求めて
    近畿地方とのかかわりを深め、新しい村を広げていきました。

弥生人のくらし

上に記述
弥生時代年表

下に記述
塩崎遺跡群
 塩崎遺跡群 (伊勢宮21号木棺墓)
  土器出土状況


 弥生時代年表

前300年頃
  縄文時代晩期/
   弥生時代早期・前期
・水稲栽培・金属器を中心とする新しい弥生文化が北九州に広がる。
・弥生文化は急速に濃尾平野まで広がる。
 
・伊那盆地南部に弥生文化が定着する。
  林里遺跡(飯田市)
 
前100年頃
  中期(波及期)
・天竜川を遡った弥生文化は千曲川流域に伝わる。
・住居と耕地は平坦な沖積地に移る。
・石鍬・石包丁・太形蛤刃石斧などが農耕や木工に多用される。
・土器は、縄文時代的な土器と、西日本的な凸帯文の土器を使う。
   伊勢宮遺跡(塩崎)、新諏訪町遺跡(西長野)
 
57年
   中期
・倭の奴国王が、後漢王から印綬を受ける。
 
・銅鐸や銅利器などが国内で作られるようになる。
 
・集落が大きくなり、扇状地・山間地にまでムラが広がる。
・石器は磨製のものが多くなるが、数は減ってくる。
・土器は用途に応じて多種類となり、壺形の土器が多くなる。
・縄文と沈線文様(栗林式)が発達し、赤色塗彩の土器が使われる。
栗林式の土器文化が千曲川水系から北関東にまでの広い範囲に及ぶ。
  徳間遺跡(徳間)、と尾崎遺跡群(塩崎)、湯ノ入遺跡(石川)
・特別な地位にあった人の墓と思われる方形周溝墓が造られる。
   塩崎小学校遺跡(塩崎)
 
107年
倭国王帥升ら、後漢に生口160人を献上した。
・この頃倭国大いに乱れ、百余国に分かれる。
 
239年
248年
   後期
・この頃卑弥呼を中心に、主な国が一つにまとまる。
・邪馬台国女王卑弥呼、魏に使者を送り、親魏倭王の称号を受ける。
・卑弥呼が死去し、径百余歩の墓をつくる。
 
中期の栗林式土器の分布圏を更に広げた箱清水文化圏ができる
箱清水式土器は櫛描文・赤色塗彩の供献・貯蔵用土器に特徴がある。
箱清水文化圏では、鉄器が普及し、石器は使われなくなる。
・水稲栽培中心の農耕生活で、住居の近くに水田を持つ。
天竜川の河岸段丘上に、石器を多く使う中島文化圏が広がる
・箱清水文化圏は、中・南信の一部に広がり、南関東にも影響を及ぼす。
  箱清水遺跡(箱清水)も四ッ谷遺跡(清野)、浅川神楽橋遺跡(浅川)
 
・祭リの祭器としての銅鐸、銅剣、巴形銅器などが移入される。
  松節遺跡(塩崎)箭塚遺跡(やづか戸倉町)
・西日本に、土を盛った高塚が造られるようになる。



  162塩崎遺跡群 弥生中期  (縄文晩期から平安時代9cの遺跡)

 遺跡群で最も古い資料は縄文晩期の氷式土器。弥生前期の伊勢湾岸よりの遠賀川式水神平式で、この頃に水田稲作を開始したと見られる。
 弥生中期前半には竪穴建物跡と木棺墓が出土した。木棺墓からは副葬用の儀器である、特殊な土器が一括出土した。

   参考資料 突帯文土器と遠賀川式土器分布   突帯文土器と遠賀川式土器  突帯文土器段階の水田稲作

 弥生中期後半には、遺跡群の松節地点で、竪穴住居跡が密集して検出され、大規模集落が存在したと思われる。
 また、ここからは、武器形青銅器が発見され、西日本的な祭祀である、武器形青銅器の存在は、この地域が西日本と強く結び付いていた事を
 物語っています。


 木棺墓に収められた土器
  塩崎遺跡群
木棺墓に納められた土器 木棺墓に納められた土器 一つの木棺墓から10点が出土した。
珍しい形の土器も見られる。

鳥形土器は死者の魂を運ぶため、
筒型土器は男性そのものを表し再生を願う土器と考えられる。、

鳥形土器と筒型土器
男性器を模した土器




  163栗林式土器  弥生中期後半



  伝統的な縄文を施したり、ヘラやクシのような工具で線を描くなど、複雑な文様をつけた。
  稲作の定着に伴い、食物の貯蔵である壺が多く見られるようになる。

  平柴平遺跡 弥生時代中期   ※縄文人が作った弥生系土器。弥生文化黎明期の所産。か。

平柴平遺跡の遺物 多彩な文様の土器
栗林式土器

平柴平遺跡
 弥生時代中期

上に記述
平柴平遺跡
 弥生時代中期
平柴平遺跡
 弥生時代中期

平柴平遺跡
 弥生時代中期

  164大陸から伝わった磨製石器
    稲作の伝来と共に、木材の加工や稲穂を刈るための磨製石器が新たに伝わりました。

  松原遺跡
松原遺跡出土遺物 伐採用石斧
太型蛤刃石斧
大陸から伝わってきた
磨製石器
石包丁 松原遺跡
木材の表面を削る石器扁平片刃石斧 扁平片刃石斧



  165弥生時代のくらし


  弥生時代の竪穴住居と共に、親子が甕に入れた種籾をもらい、来年はこれを植えて水田稲作を始めようと思う場面が設定されている。

 弥生人の家
  徳間遺跡で発掘された約2000年前の竪穴住居を、家屋文鏡や環頭大刀の家形飾りを参考にし、5分の4の大きさに復元しました。
  家の材料は、近くで採れる木を使い、稲藁をなった縄で結びつけました。屋根は茅で葺き、その上を水辺の植物、真菰 (まこも)のござで補強した。
  室内は炉を中心にして藁やゴザを敷き、平柴平遺跡出土の用具などで当時の生活を再現しました。

 収穫の秋
  千曲川の近くにできた湿地では、春に播かれた稲の収穫が始まりました。人々の顔は明るく、石包丁を手に、穂摘みに励む姿が、
  ここかしこに見られます。

  近くの自然堤防上の集落には、竪穴住居や高床倉庫が見え、ムラの広場では、稲を乾燥・脱穀している人々の姿も見えます。
  色づいた山々では、山の幸が多く採れるでしょう。


当時は田植えはなく、田んぼにモミを直接蒔いて発芽・成長・収穫する。
弥生人の家
縄文時代と土器が変わるだけの

竪穴住居
彼らは縄文人だったから

生活行動は全く変わったであろう。

農具が木器である

敷物は真菰製
収穫の秋
上に記述
弥生人の家
上に記述

7本も柱が立っている。
縄文では4本だが、そんなに大型化したのか




  170箱清水文化の広がり



  弥生文化がこの盆地に伝わってから、200~300年程経つと、
  櫛目文と丹塗りが特徴の土器が、千曲川・犀川流域を中心に、遠く群馬・埼玉県にまで及ぶ広い地域で使われた時期に入ります。
   (この土器文化は、千曲川沿いに日本海側からもたらされた。)

  この地域を箱清水文化圏 (中部耕地型櫛描文文化圏) と呼びます。このことは、人々のつながりが小さな地域から、
  クニとしての大きな広がりになり、やがて、シナノ(科野)の国が生まれるもとになっていると考えられます。


 ※栗林式、箱清水式、中島式について
   中期の栗林式文化箱清水式文化に発達し長野県北部から南関東にまで拡大した。山陰地方と強い結びつきがあった。
   中島式文化は、伊那谷など南部に起こった打製石器による農耕文化である。東海地方との強い結びつきがあった。

  171
箱清水文化の広がり
上に記述
弥生時代遺跡の分布
平地に弥生人、山地には縄文人(山の人)が暮らしていたのか
中島式土器
飯田市恒川遺跡
中島式石器
飯田市恒川遺跡
弥生時代後期の
土器文化圏
北部
箱清水式、
中部高地型櫛描文
南部
中島式、櫛描文
広域
中部高地型櫛描文土器が西関東に広がっている。
長野県の
弥生時代後期の
土器文化

箱清水式土器

中部高地型櫛描文土器
中島式土器(リンク先不明)
 
  173赤い土器 (箱清水式土器)

    煮炊きをする甕、食物の貯蔵容器の壺、盛り付け具の高坏・鉢が見られる。
    文様はシンプルになり、クシのような工具で波線や直線などを描いた。

    篠ノ井遺跡群遺跡四ツ屋遺跡 弥生時代後期
箱清水式土器 箱清水式土器 箱清水式土器 箱清水式土器 箱清水式土器

  175赤い土器とベンガラ
  長野県北信地域では、弥生時代中期後半に小型壺・高坏・鉢など祭祀用土器が赤く塗られるようになりました。
  後期になると、煮炊きする甕以外、日常容器に至るまで真っ赤に塗られたので、「赤い土器のクニ」とも呼ばれています。

  赤色顔料には、ベンガラ(赤鉄鉱などに含まれる酸化鉄)を使用しました。弁柄と粘土を混ぜた化粧土を、土器の表面に塗ってから焼き上げたのです。

赤い土器とベンガラ

上に記述

・ベンガラの原石(赤鉄鉱含有の酸化鉄)
・生成したベンガラ(原石粉砕後不純物除去)

ベンガラ入り小壺

長野吉田高校グランド遺跡
弥生後期
 





  180祭りと祈り



    農耕が生活の中心となり、その収穫を上げるための村人の共同作業が増えると、作業を指導し、農業技術を伝え、豊作を祈り、
    更に他のムラとのかかわりを決めたりする首長が生まれました。

    首長は、シカの骨を焼いて占い、銅剣・銅鉾・(銅戈)・銅鏡・銅鐸を祭り、近畿地方の豪族との繋がりを利用しながら、村人を支配しました。
    3世紀末、弥生時代後期になると、大きな方形周溝墓に葬られるほど、首長の地位は強くなりました。




  181銅鐸・武器形祭器分布


   北信からは銅鐸や、分布圏外の、銅剣・銅鉾も出土している。
祭りと祈り
上に記述
銅鐸・武器形祭器分布 銅鉾形祭器分布圏
銅戈形祭器分布圏
中広形銅剣平形銅剣形祭器分布圏
平形銅剣形祭器分布圏
銅鐸分布圏

銅鉾形祭器分布圏
銅戈形祭器分布圏
平形銅剣形祭器分布圏
中広形銅剣平形銅剣形祭器分布圏
銅鐸分布圏

平形銅剣形祭器分布圏
銅戈形祭器分布圏


  182鉄の腕輪・銅の腕輪

    信濃は「釧」と呼ばれる、鉄や銅の腕輪が数多く出土している地域です。中でも、細長い鉄の板を何段にも巻き上げるタイプの釧は
    信濃と関東の一部でのみ出土が確認されており、分布の中心は千曲川流域にあります。

    その製作地については朝鮮半島から輸入したとする説と日本列島内で製作したとする説があり、決着はついていません。
    弥生時代に貴重であった鉄の流通を考える上で、極めて重要な遺物です。

 螺旋型鉄釧の分布が信濃と関東の一部で、分布の中心は千曲川流域の箱清水式文化圏にあるという。出雲と関係の深いこの地で、出雲から
  出土しないコイル状鉄釧路、(弥生時代の大リーグ養成ギブスみたいな) が出土する。鉄線の輸入は他になく、信州製なのかもしれません。

装着された鉄のブレスレット (鉄釧)
塩崎遺跡/弥生後期

細い鉄線を螺旋状に巻き上げたもの。
装着したまま出土。
鉄の腕輪・銅の腕輪 鉄の腕輪・銅の腕輪
鉄釧の出土地
中部・関東とその周辺に限られている。
鉄の腕輪・銅の腕輪
上に記述
銅のブレスレットと
管玉
本村東沖遺跡/後期
銅のブレスレット
本村東沖遺跡/後期
管玉のネックレス
本村東沖遺跡/後期
管玉は北陸系の極細のもので、赤玉(鉄石英)や緑色凝灰岩などで製作


  183祭祀具
武器形祭器(未撮影)
石製の剣・鉾・戈らしき
の説明文と、戈の装着説明とがあるようです
柴宮銅鐸/塩尻市柴宮

この発見により、長野県は銅鐸文化圏外ではなく、県南部までは銅鐸祭祀が行われていたことが明らかとなった。

巴形銅器/武石村
銅剣/戸倉町葥塚遺跡
巴形銅器/武石村 銅剣/戸倉町葥塚遺跡


方形周溝墓塩崎小学校遺跡 占骨

更埴市生仁遺跡
占骨

四ッ屋遺跡
木製盾
木製盾水内坐一元神社遺跡
弥生後期
身を守る武器である盾の呪力を高めるために文様を描いたり、赤く塗ったりしている。
この遺跡からは木製の槍も出土していて、祭りでの模擬戦に使用されたと考えられる。
 




   古代
     中央の豪族や貴族たちが、多くの地方を支配し、天皇を中心にした国としての体制を作り上げた時代を古代と言います。


 200古墳時代

   首長達の墓 ―古墳―
    4世紀になると、近畿地方などの豪族は、大陸や半島との交易を背景に、多くのムラを支配し、その力を示すような大きな墳墓を築くようになり
    古墳時代が始まります。

    5世紀、長野盆地の南部を中心に、中央とのかかわりのある宝器などを埋めた前方後円墳が造られました。
    中央とのかかわりの深い首長は、さらにその関係を深めて自分の支配力を大きくし、゛国造゛など地方を治める地位に就いていきました。
  210
  211
古代

上に記述
長野県の前方後円墳の分布
北部
北部長野盆地と南部伊那谷に集中する
中部 南部 伊那谷


  212川柳将軍塚古墳 古墳副葬品

  ※寄贈品であるため、詳細不明。また、全てが寄贈かも不明だが、(多分寄贈品は勾玉・琴柱形石製品と思うが)、全て一括として、
   時代:1600年前頃 出土地:(伝)川柳将軍塚古墳 寄託者:布制神社

異体字日月銘
内行花文鏡
変形文鏡 内行花文鏡 朱文鏡
  213
小玉類 管玉 勾玉 琴柱形石製品
 



  220合掌形石室 5世紀後半


 善光寺平に登場した合掌形石室は、千曲市から木島平村にかけての千曲川流域の古墳の埋葬施設として採用されます。

  千曲川の右岸に多く分布し、特に大室古墳群(長野市松代町大室)では26例がみられ、全国40例の半数以上を占めています。
  5世紀後半には、千曲川左岸の地附山古墳群(長野市上松)や吉古墳群(長野市吉)でも合掌形石室が造られました。

  221panel
善光寺平の合掌形石室の分布図 川柳将軍塚古墳
(前方部より)
合掌形石室の広がり
5世紀後半
上に記述
大室168号墳
5世紀後半
合掌石室/南から
墳丘全体 合掌石室/東から


  222上池ノ平5号墳 5世紀後半 古墳時代中期 地附山古墳群 長野市上松

  直径約9~10mの円墳6基で構成される地附山古墳群では、1・3・5号墳で合掌形石室が確認されています。
  5号墳の合掌形石室は長さ21mで、副葬品は鉄剣・鉄鏃・馬具の轡が出土しています。

上池ノ平5号墳 上池ノ平5号墳
上に記述
上池ノ平5号墳 副葬品
須恵器

須恵器

鉄鏃

鉄剣

池ノ平5号墳


 吉33号墳
  吉古墳群では、98基の古墳が確認されています。合掌形石室は、31・33号墳で確認されました。33号墳は直径3mの円墳で、合掌形石室が
  2棺並列しています。北棺はすでに破壊され、南棺は長さ2.3m、副葬品は直刀や鉄鏃が出土しました。

吉33号墳 副葬品 吉33号墳
上に記述
直刀
鉄鏃


  230



  231合掌形石室の変化 6世紀前半

  5世紀に盛んに合掌形石室が造られた大室古墳群では、241号墳を最後に合掌形石室が造られなくなります。

  一方同時期に竹原笹塚古墳(長野市松代東条)では、横穴式石室に屋根形の天井を掛けた、新しい「横穴式石室タイプ」の合掌形石室が登場
  します。しかし、「横穴式石室タイプ」の合掌形石室も6世紀後半に途絶え、善光寺平の合掌形石室は終焉に向かうのです。


 大室241号墳の合掌形石室
  天井石はすでに失われ、盗掘を受けていましたが、発掘調査により、副葬品の一部が出土しました。

合掌形石室の変化 大室241号墳の
合掌形石室
合掌形石室 発掘前 発掘後


  232大室古墳群の分布

 ※谷筋や尾根筋に沿ってある沢山の小型墳墓群は、他地域の横穴墓や小型円墳などと同様に、富裕層の増加が考えられます。
   しかし、その多くは7世紀に入ってからのことであり、ここでは、6世紀後半からすでにこのような集団墓地状態である。


 大室241号墳
大室古墳群の分布 大室241号の副葬品 馬具・鉄鏃の出土
反刃鏃(そりばぞく)・
片刃鏃(かたばぞく)
剣菱形杏葉
環状雲珠 石室埋葬状況 ガラス製小玉の出土


  233大室山古墳群

大室山古墳群 大室241と竹原笹塚古墳の合掌形石室 竹原笹塚古墳は大室241の、
幅約2倍、高さ約3倍。

規模が格段に大きい。
竹原笹塚古墳の合掌形石室
大室241号墳の合掌形石室


  235大室241号墳 古墳後期 (6世紀前半)

    直径約14mの円墳で、合掌形石室は従来からの「箱型石棺タイプ」で、長さは1.9mです。
    合掌形石室からは、飾り馬具・鉄鏃、ガラス製玉類が出土しています。

    馬具は、剣菱形杏葉(尻飾り)・環状雲珠(背中飾り)・鞍金具などが出土しました。
    「剣菱形杏葉」は、5世紀中ごろから地域の有力者に配布されたと考えられている馬具です。 (中央から下賜されたもの)

    鉄鏃では、儀仗用の反刃鏃が出土しました。「反刃鏃」は全国でも十数例しか発見されておらず、県内では初めての出土です。

    241号墳は小規模な円墳であるにもかかわらず、有力な前方後円墳に副葬されるような優品が出土し、被葬者を考える上で注目されます。

大室241号墳
上に記述
反刃鏃 鉄鏃
反刃鏃そりばぞく 反刃鏃 ※古墳時代後期にあって国内情勢も落ち着いてきたかと思いきや、
このような殺傷力を高めた鉄鏃が登場するほど列島は不安定だったようですね。

「古墳時代の猪名川流域」 大阪府池田市立歴史民俗資料館
の中でも、古墳時代にいくつもあった地方豪族が、あるいは没落しあるいは新興し、
どんどんと寡占化していく様子が明らかにされていきます。

この時代も激しい地域間の戦闘が行われていたようです。



  236長原古墳群 古墳後期

    若穂保科にある積石塚古墳群です。若穂団地の造成に伴い、7基の古墳の発掘を行い、5基が保存されています。

須恵器 刀子/長原5号墳 銅製腕輪
長原古墳群/上に記述

  237玉類 長原13号墳
耳環・土玉 切小玉 勾玉 ガラス小玉
 


  240合掌石室の展示

  241
 




  250古墳人のくらし



  水田の近くに村を作り、カマドのある竪穴住居に住んでいた古墳人にとって、千曲川・犀川・浅川などの洪水は、村や水田を流失する災難でした。

  しかし、鉄器の普及で農耕具や木器の性能があがり、開田や耕作などの作業がしやすくなり、農業の生産物はいっそう多くなりました。
  古墳人は弥生人と同じ須山の土師器を使って生活していましたが、新しい技法の須恵器も祭器として使い始めるようになりました。

  251psnel
古墳人のくらし
上に記述
古墳時代年表前期~中期

下に記述
中期~後期 後期
古墳・集落遺跡の分布 古墳時代の集落跡
塩崎小学校遺跡
発掘風景

  古墳時代年表
300年頃
  前期
・大和政権ができ、近畿地方に前方後円(方)墳が造られる。
・方形周溝墓が大型化する。
  篠ノ井遺跡群(塩崎)
・弥生時代後期とほぼ同じ土地に住み、同じ耕地を引き続き耕す。
・全国的に、無文で同型の土器を使う。器台や、小型丸底形土器が特徴。
  塩崎・篠ノ井遺跡群(塩崎)、四ッ谷遺跡(清野)
 
400年頃
  中期
・信濃にも前方後円(方)墳が造られるようになる。
・山頂に造成し、割石小口積竪穴式石室に漢式鏡や仿製鏡を副葬する。
  川柳将軍塚古墳(石川)森将軍塚古墳(更埴市)、弘法山古墳(松本市)
・家族が増えたためか、住居が大型化する。
・収穫・峠に関わる祭りが盛んになり、高坏やハソウなどの祭器が増える。
  駒沢祭(駒沢)、中村遺跡(松代)、館坂峠(阿智村)
・埴輪を巡らせた古墳が尾根上に造られる。
  土口将軍塚古墳(岩野)、長礼山古墳(松代)、越将軍塚古墳(塩崎)
・須恵器の生産が始まる。
  松ノ山古窯址(信更)
・南信地方に古墳が造られるようになる。
  フネ古墳(諏訪市)、兼清塚古墳(飯田市)
・長野盆地北部に古墳が造られるようになる。
 
500年頃
  後期
・住
・煮
・須
  
 
 
・南
  
 
・小
・馬
  
 
646年 大化2年
701年 大宝1年
 
 
・前方後円墳が低地に作られる。
  中郷古墳(塩崎)、三才古墳(三才)、南向塚古墳(高田)
・村が増え、集落規模も大きくなる。
・住居は大型化し、カマドを家の中に作る。
・煮炊き用の甕が胴長になり、熱効率がよくなる。
・須恵器が多量に移入され、祭の器具として使われる。
  千曲川自然堤防上遺跡群、三輪遺跡群(三輪)、田中沖遺跡(児島田)
 
・山麓や山腹に、横穴式石室の円墳が造られる。
 
・南信地方に前方後円墳が多く造られる。
  御猿堂古墳・馬背塚古墳・高岡古墳(飯田市)、青塚古墳(諏訪市)
 
・小円墳が沢山作られ群集化し、一部に積石塚・合掌形石室が造られる。
・馬具・武器・玉類が多く副葬される。
  大室古墳群(松代)、吉古墳群(若槻)、長原古墳群(若穂)
 
・薄葬令が公布され、火葬の風私有が広まる。
・喪葬令が公布される。以後古墳は造られなくなる。
 
 
・後期古墳に追葬する習慣が、以後200年程残る。
 


  252大和政権進出の頃の土器 浅川扇状地遺跡群 牟礼バイパスA地点2号住居 古墳時代前期1650年前

  253首長墓が造られた頃の土器 塩崎小学校遺跡 1600年前頃
高坏
小形丸底形土器



 254 煮炊き・食用の土器 古墳時代後期  1,500~1,300年前 塩崎小学校遺跡・田中沖遺跡

  カマドの始まり
    カマドが朝鮮半島から伝わったのは、古墳時代中頃です。
    それと共に、蒸し器の甑で「蒸し米」を食べるようになりました。それまでは、甕で米を煮て食べるのが一般的でした。

カマドの始まり
上に記述
煮炊き食用の土器
古墳時代後期
1500-1300年前
塩崎小学校、田中沖
甕(長胴甕)
カマドの使い方


  煮・炊・食器用の土器
   時代:古墳時代後期 (1500-1300年前)  出土地:塩崎小学校遺跡・田中沖遺跡
カマドの始まり
甑、坏
甑(蒸し器)
把手付甕 甕


  255松ノ山古窯跡 1500年前頃 信更町田野口
  下の土器は、焼成時後半に密閉できず、酸素が入って還元炎にならず、酸化炎のままだったため、赤褐色になっています。

坏・蓋・甕
松ノ山古墳1500年前
ハソウ


  256窯で焼いた土器 須恵器
   須恵器は古墳時代の中頃に、朝鮮半島から伝わった新しい土器です。ロクロを使うこと、窯で焼くことが、それまでとは違う画期的な点です。
   松ノ山窯跡は、長野県で最古の窯です。↑写真は、焼成不良のため、赤褐色の須恵器が出土しています。
 
窯で焼いた土器須恵器
上に記述

・坏/三輪小学校遺跡
・カップ形土器(四ツ屋古墳)
清野小学校
短頸壷 (田中沖遺跡)
壺・高坏
 


  260神々への願い
  農耕をする人々にとって、自然の営みは生産に直接響くので、農耕を天や地に祈る祭りは、大切な行事でした。
  遠く飯縄山を仰ぐ駒沢新町では、清水が湧く泉の畔に祭壇を作り、祭祀土器・滑石製模造品・鉄器等を供えて祭りをした跡が見つ かりました。

  若穂町片山遺跡の大石の横からは、挙手人面土器 (↓写真) など特殊な土器が発掘され、神に豊作を祈った農民の姿がしのばれます。

  261
神々への願い
上に記述
祭祀土器出土状況
駒沢祭祀遺跡
祭祀想像図


  262祭祀土器

底部穿孔の大甕
1600年前頃
下宇木B遺跡
底部穿孔土器は、土器棺として葬祭儀礼に用いられたようです。 挙手人面土器
1500年前頃
片山遺跡

この土器も土偶容器として、儀礼に

用いたようです。
大岩の陰から見つかったということで、

岩陰祭祀の祭祀具だったようです。


  263祭祀具 岩陰祭祀の祭祀具か  古墳時代後期 観音寺遺跡

石製模造品 子持ち勾玉 観音寺遺跡/古墳後期 石製模造品

勾玉
管玉
小玉


  264捧げられた土器と祭具

 駒沢祭祀遺跡 古墳時代前期~後期 5c~7cの古代農業祭祀遺跡 長野市上駒沢 駒沢新町団地  昭和41年(1966)発掘調査

  遺跡は、土器集積遺構4か所、時期不明の火床や湧水地の礫敷遺構など、古墳時代中期(5世紀前半)を中心に営まれた祭祀跡。
   近くの三才古墳群との関連があるという。 三才古墳2基


  長野市の用水(A番外)駒沢祭祀遺跡 (引用)
   祭祀遺跡には幾種かのものがあげられているが、この遺跡は水源祭祀にまつわる農耕関係の遺跡と考えられている。
   所在地は北西にそびえる飯綱山を水源として、浅川が堆積した扇状地に近い地形上にあり、同山を仰ぎ見る湧水地点にあるのがこの遺跡である。

   検出された遺構は湧泉、祭祀遺跡等六、デポ遺跡と考えられるもの五ヶ所その他があった。

   祭祀遺跡等からは、勾玉・有孔円板=鏡・剣形・臼玉などの滑石製模造品、管玉・丸玉及び鉄鏃・刀子鉄片などが出土した。
   この遺跡の規模は、東西・南北共に約70メートル。5世紀から7紀までの農耕祭祀関係の遺跡として重要である。

駒沢祭祀遺跡
出土物

ハソウ(線刻)
小形丸底型土器
器台
台付壺 甕とハソウ


  265南向塚古墳 (なんこうづか) 長野市高田南向沖1245番地

  長野盆地では平野部に位置する唯一の前方後円墳として、その存在は古くから知られているが、詳細は不明である。
  墳長46m、主軸は北東方向である。しかし、前方部は崩れ、元の墳形は明確ではない。
  後円部の規模から、主体部は横穴式石室であることが推測され、6世紀代の築造と考えられる。

勾玉/メノウ製
後円部で発見
南向塚古墳
上に記述
墳丘全景
 




 350古代





  351中央とのつながり
    朝廷は、天皇(大王)を中心とした国づくりを進め、8世紀には律令に基づいた税制や地方支配の制度を整え、中央政権の体制を強めました。
    長野盆地には更級・水内・高井・埴科の4郡に、29里(のちに郷と改名)が置かれました。里は50戸を持って1里とされました。

    朝廷は、官牧を設けて馬の生産をさせたり、神社に幣帛 (へいはく=捧げもの、金銭) を送るなどして、地方支配を進めました。

中央とのつながり
上に記述
古代年表 田子推定駅家跡
三才田子
信濃国印印影
正倉院御物
墨書された郡名
  352
古代の信濃国 北部 中部 中部 南部 伊那谷

   古代年表
  西暦 年号 記事  
645 大化1 大化の改新。律令制が開始される。  
648 大化4 科野の民を磐舟柵(新潟県)に送る  
666 天智5 百済人2000余人を東国に送る  
685 天武14 天皇、束間の湯(松本)に行宮を造る  
691 持統5 天皇が使者に水内神須波神を祭らせる 飢饉・災害・疫病などを鎮めるため、土着神を奉斎する
694 持統8 都が藤原京に移る  
701 大宝1 大宝律令ができる  
702 大宝2 岐蘇山道が開かれる  
科野から梓弓1020張を納め、大宰府(福岡県)に送る 白村江以来の防人がまだ続いていた。
8世紀初め頃、瓦葺の善光寺が建てられる。  
704 慶雲1 病気が流行し、薬を支給される。この頃高井郡から大黄を納める  
710 和銅3 都が平城京に移る。古事記、日本書紀が前後して編纂される  
712 和銅5 科野国の文字が「信濃」に改められる  
714 和銅7 信濃などの人々を出羽柵(新潟県)に送る。その後2回も送る  
717 養老1 信濃から「あしぎぬ」を納める。  
721 養老5 信濃国から諏訪国を分ける。10年後元に戻る  
739 天平11 信濃国から調布を納める  
744 天平16 信濃国分寺建立のため、正税4万束をあてる  
750 天平勝寶2 水内郡大田郷(吉田~朝陽あたり)から芥子(からし)を納める  
755 天平勝寶7 信濃などの防人らが短歌をたてまつる  
760 天平宝字4 万葉集が編纂され、信濃などの東歌も載る  
761 天平宝字5 百済から来た科野友麻呂が姓をもらう  
768 神護景雲2 更級郡の建部大垣・水内郡の刑部智麿・倉橋部広人らが表彰される  
770 宝亀1 水内郡の金刺舎人若嶋(わかしま 女官)は、位と連の姓をもらう
外従五位下を授けられ、同3年、連(むらじ)の姓を与えられ、同8年(777)には信濃守と同位の従五位を授けらる
この頃東山道支道に日理・多古などの駅家が置かれる  
781 天応1 高井郡の墨坂越智神などに封戸がつく  
790 延暦9 信濃など東国に革甲2000領を作らせる  
792 延暦11 信濃に健児100人をおく  
794 延暦13 都が長岡京(784~)から平安京(京都)に移る  
799 延暦18 帰化人の子孫が篠井などの姓をもらう  
この頃、坂上田村麿が蝦夷を征服し、北信地方に伝承を多く残す  
802 延暦21 信濃の人々を胆沢城に送る  
808 大同3 信濃の官牧に369町歩余の水田をあてる (369ha)  
大同類聚方に水内・埴科の薬法が載る  
817 弘仁8 信濃に飢饉があり、朝廷が救済する  
823 弘仁14 信濃から貢馬が始まる  
859 貞観1 守達神、続いて翌年妻科神出早雄神などが位を送られる  
866 貞観8 三和神戸神を祭る。屋代寺安養寺などが定額寺になる。  
武水別神会津比売神のちに和世田神(873)に位が送られる 地震や災害によって、土着神に贈位された
887 仁和3 中央で信濃布が盛んに使われる 八ヶ岳崩落し大災害となる。
905 延喜5 古今集が編纂され、おばすて山の歌が載る  
927 延長5 延喜式和名類聚抄ができ、信濃の記事も多く載る  
1108 天仁1 浅間山大噴火。今昔物語にこの頃の信濃の話も多く載る  
1158 保元3 後白河法皇の院政はじまる  
1169 嘉応1 布施(篠ノ井)・戸部(川中島)に大雹が降る  
1180 治承4 源頼朝・木曽義仲が兵を挙げる  
       
 
  353古代からの神社
延喜式に記載された
神社名

ピンボケで判読不能
由緒ある神社が今も
存続中ですね

美和神社
 
 



  360奈良・平安時代の社会  710~1185年


   奈良時代、中央集権国家ができ、地方に官衙・駅家などが置かれるようになると、高床の建物も見られる一方、
   重税や使役など、人々の負担はそうとうに重いものでした。

   平安時代になると、公地公民の律令制は崩れ、土地の私有化が進み、農民の生活はますます苦しいものになりました。
   居住する地域が広がり、家は小さく、生活用具も簡単なものになっていきました。

   この時代は文字が普及し、須恵器や鍛冶の技術も広がり、蔵骨器としての白瓷も大量に移入されました。

   ※ (白瓷平安時代植物性灰釉はいぐすり)をかけて焼成した陶器)。東海地方から移入
    

  361奈良時代のくらし
  蹄脚硯
    蹄に特徴のある馬の脚19本の上に円形の硯を載せて、須惠質でできています。このような硯は、奈良時代の初期に作られたもので、
    平城宮に代表される宮殿跡や官庁のあったと推定される官衙跡から多く発見されます。

    この蹄脚硯が発見された県町遺跡 (松本市) もこの時代の役所の跡かと推定されます。

蹄脚硯(ていきゃくけん) 蹄脚硯 奈良・平安時代の社会
上に記述
古代(考古学)年表飛鳥~奈良時代 平安時代
奈良時代の住居跡
塩崎小学校遺跡

大きな柱穴、役所跡?
平安時代の集落跡
浅川西条遺跡
平安時代の住居跡


 古代年表
552欽明13  
645大化1  古墳時代
700頃  /飛鳥時代
702大宝2  
・仏教が伝来する。
・大化の改新が成立し、律令体制が開始される。
善光寺が創建される。瓦や須恵器の生産が定着する
・美濃国の岐蘇山道が開かれる。
710和銅3
700代 奈良時代 
 
 
 

 

 
・都が藤原京から平城京(奈良)へうつる。
・この頃、遺跡の数は増えるが、郡衙・寺院などの周辺に集中する。
・住居の大きさは小型化するが、大きさに差が出る。
・高床式建物がつくられるようになる。
・ロクロの技術が向上し、小型で箆切りの土器を作るようになる。
・祭に使う土器のほとんどと日用什器の一部が須恵器となる。
  塩崎遺跡群(塩崎)、県町遺跡(県町)
・信濃国分寺・国分尼寺が上田に建立され、その後各地に寺院が建つ。
  上石川廃寺跡(石川)、道島廃寺跡(清野)
784延暦3 平安時代
800頃  
800代  
 

 
 

 
 
   
 
900代
 
 

 
1000代
 


 
 
 
・都が平城京から長岡京に移り、10年後には平安京に移る
・国府が小県(上田市)から筑摩(松本)に移る。
・住居は小型化し、粘土製のカマドが奥壁の中央に造られる。
・土器はほとんどロクロで作られ、糸による切り離しとなる。
・煮炊き用の甕が多様化し、甑がなくなる。
  千曲川自然堤防上遺跡群
 
・須恵器や瓦の生産がこの地方にも広がり、10世紀にかけて盛んになる。
  信田丘陵古窯跡郡(信更)、草間丘陵古窯跡郡(中野市)
・濃尾・美濃地方で作った白瓷が、この地方にも移入される。
 
・千曲川の沖積地に条里制に習った水田整備が実施される。
  石川・松代・川田条里的地割
 
・須恵器の生産が殆ど無くなり、白瓷が多く移入される。
・煮炊き用の甕に、つばのある甕(羽釜)を使うようになる。
・東山道支道(信濃路)に多胡駅が設けられる。
  三才田子遺跡(三才)
 
・集落が沖積地にとどまらず、山間地域まで広がっていく。
・住居が更に小型化し、カマドが隅に移り、石組で作られる。
・煮炊き用の甕が少なくなり、獣脚鼎形羽釜・鋳鉄製羽釜が出現する。
・什器は皿形で高台が付き、内面・両面が黒色処理される。
  千曲川自然堤防上遺跡群 田中沖遺跡(小島田)、浅川西条遺跡(浅川)
・火葬の風習が広まり、骨臓器が使われる。
  三才田子遺跡(三才)
 
・住居の竪穴は浅くくなり、掘立小屋の住居に住むようになる。
・什器に小さな皿が使われ、内耳付土器が使われるようになる。
・仏教の末法思想が広がり、経塚がつくられる。
  長谷寺経塚(塩崎)
 


  362古代交通路と白瓷分布

古代交通路と白瓷分布 北部 中部 中部 南部




  373平安時代



 都の香り―緑釉陶器・青磁・白磁
  平安時代、中国の陶磁器(青磁・白磁)や緑釉陶器は高級品で、主に天皇や貴族が使い、都の華やかさを象徴する焼き物でした。
  地方で手にすることができたのは、富と地位に恵まれた人々だけでした。

 平安時代の大集落―南宮遺跡
  南宮遺跡は、長野市篠ノ井東福寺にあり、約9haに及ぶ平安時代の遺跡です。オリンピックスタジアムと南長野運動公園建設に先立ち調査した。
  建物跡1000軒を上回り、陶磁器、金属製品などの遺物も多数見つかっています。

都の香り
緑釉陶器・青磁・白磁
上に記述

白磁碗/中国
青磁碗/中国 越刑窯系
平安時代の大集落
南宮遺跡

上に記述

緑釉陶器/南宮遺跡
平安中期
椀・皿


  374律令制下の社会

  律令官人の身分証
   巡方・丸鞆・鉈尾は、ベルト飾りの部分の名前で律令官人の身分を示しました。
   奈良時代には主に銅で作られていましたが、平安時代には石製になりました。

  有力者の住んだ集落か
  南宮遺跡では、自然の河川と人工の大溝で囲まれた広い区画が見つかっており、一般集落とは異なる様相を示しています。

  宗清の印章
  印章は、始めは行政機関だけの物でしたが(官印)、平安中期頃から家や個人のための印章(私印)も使われ始めました。
  都の貴族にならって地方の有力者も私印を用いましたが、「宗清」の印もそうしたものの一つと考えられます。

律令官人の身分証
上に記述
ベルト飾り
丸鞆まるとも
巡方じゅんぽう
鉈尾だび
石帯の種類
・丸鞆まるとも
 日常用
・巡方じゅんぽう
 儀式用

・鉈尾だび
 ベルトの最後部・端
 身分無関で背中で
 帯に巻き込む
有力者の住んだ集落か
上に記述
土製印章
上に記述
宗清印


  八稜鏡
  中国鏡の模倣で、鳥や草花の文様が鋳出されています。平安時代を通じて見られ、化粧道具というより、信仰の対象や祭祀具だったと考えられます。
八稜鏡
上に記述
八稜鏡南宮遺跡/平安中期 八稜鏡


  376墨書土器・刻書土器
    書かれた文字
    古代の遺跡からは、文字が記された遺物がしばしば出土します。墨書土器や刻書土器はその一つです。
    中でも地名や官職名が書かれた土器は、古代の役所の位置を推定する手がかりの一つとなります。


墨書土器 市寸
刻書土器 専司
書かれた文字
上に記述
刀子
鉛筆削りならぬ木簡削り

  377古代の文房具
    古代の役所では部署主義が徹底しており、事務を行うには紙・筆・硯・墨・刀子といった文房具が必需品でした。
    紙は貴重品であったため、木簡と呼ばれる木の札を合わせて使っていました。

古代の文房具
上に記述

・圏足円面硯/篠ノ井遺跡群/奈良時代
・中空沿面硯/篠ノ井遺跡群/古墳時代終末期

・形象硯/亀/田牧居帰遺跡/平安時代
・風字硯/大室村北遺跡/平安時代

・転用硯/南宮遺跡/平安時代
・転用硯/芹田東沖遺跡/平安時代
長野盆地における陶硯出土遺跡

長野盆地の役所跡
 





 380善光寺信仰





 善光寺は、平安時代後期からの、念仏信仰の無宗派の寺院です。
  無宗派とはいったいどんなものか。平安後期の念仏信仰とは、どのような勤行・作法が行われているのか知りたいものです。

  禅・真言・浄土系などの宗派がある中で、不思議な宗教団体であり、数多くの塔頭兼宿坊を抱え、
  また、その寺院の場所も、あちこちを転々として移動してきたことなど、もっと詳しく知りたいと思いました。

  この展示の中では善光寺信仰が何であるかについては明らかにされてはいない。
  大本山善光寺とこの善光寺は別物のようですし、全国に200もあるという善光寺も、チョット、よくわかんないですね。

  

全国に広がった善光寺信仰 - 全国善光寺会

  

善光寺について | 信州善光寺

  

第23回 全国に広がる善光寺信仰 | 信州善光寺


  不思議な寺 善光寺信仰について - あれこれ南宜堂 支店 - はてなダイアリー  善光寺信仰や飯縄信仰、広がり紹介 長野市立博物館で特別展



  381阿弥陀三尊像
   鎌倉時代以降、善光寺仏は盛んに移鋳されました。この中尊の背には次の銘が刻まれています。
    下野国那須御庄内東与世村  善光寺如来 一光三尊 干時建長第六甲刀歳使用月廿日 
    勧進上人西忍生年廿七  奉安置之依夢想之告鋳模之

善光寺絵図 善光寺伽藍と三尊像 阿弥陀三尊像

  382仏教の伝来
  古墳時代から大陸や半島文化との関わりの深かった長野盆地には、仏教伝来も早く、奈良時代8世紀初めには瓦葺の善光寺が建てられました。
  善光寺の他に、石川・清野・雨宮(更埴市)などからも古い瓦が発掘され、有力な豪族が氏寺を建て信仰していたことがわかります。

  平安時代には、仏教の思想も広まり、火葬の風習も見られ、地方豪族による造仏・写経も盛んになり、平安末期には、経塚も造られました。

仏教の伝来
上に記述
古代仏教関係遺跡 寺院瓦 善光寺瓦 窯跡
漆喰片、鴟尾、
善光寺瓦破片、軒丸瓦、

  383鎌倉将軍と善光寺
   善光寺は誰でも参拝できる寺として、広く信心されてきました。
   それは、世の中が不安定な時期で、庶民の中に何かにすがりたいという願いと、全国に出かけた善光寺聖の布教があったからと考えられます。

   鎌倉の源頼朝は、信濃一円に布令し、善光寺の再建に力を入れたのも、善光寺信仰が広まっていたためで、
   13世紀の文献には、有名な僧の参拝や寺のにぎわいが伝えられています。

鎌倉将軍と善光寺
上に記述
寺院瓦 善光寺参詣曼荼羅
塑像断片

板碑・五輪塔
  384善光寺信仰

これは民俗資料
農民の遊びでしょう