南の縄文 第2部 この旅は2014/02/03〜02/16まで行いました。途中、春の嵐や二人組の中国人女性と道連れになるなど変化に富んだ旅の続きです。
縄文を旅する4 南の縄文 沖縄〜九州20 2014.02.15(土)
西都原考古博物館 宮崎県西都市三宅5670 0983-41-0041 月曜休館 要注意 開館は10:00〜です
交通バスの場合
JR南宮崎駅発
宮交シティより「西都原考古博物館前」行き、もしくは、「西都原」行き乗車
「西都バスセンター」経由「西都原考古博物館前」で下車 タクシーで10分
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目次 |
01西都原考古博物館
02旧石器時代
03
05縄文時代
11早期の土器文化
赤色顔料
人類の定住
グレートジャーニー
12火山噴火
13土器
14貝の道(旧石器〜古代)
15縄文海進
弥生小海退
16縄文の暮らし
17石器
18祭祀具
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30弥生時代
37稲作農耕
38青銅器
39青銅器のない南九州
40弥生土器
41稲作農耕
42弥生時代
43瀬戸内文化圏
44住居
45山の民の土器
突帯文土器
工字文土器 |
46墓制
47免田式土器
48弥生農耕文化の持つ意味
49弥生文化と縄文文化
50銅鐸
54弥生時代の戦乱
58鉄製品の動向 |
60古墳時代
62埴輪
64古墳
66地下式横穴墓
68宮崎の刀剣
70地下式横穴墓の変遷
72副葬品
74地下式横穴墓の終焉
76鬼の窟
78中期の古墳
80古代
91西都原考古博物館 |
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01西都原考古博物館
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宮崎県西都市にある歴史博物館
西都原古墳群(国指定特別史跡)内に開設。
子持家形埴輪や船形埴輪の複製をはじめ、
宮崎県内出土の考古資料などを収蔵・展示する。 |
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02旧石器時代
この館は当初の計画から、弥生〜中世。特に古墳時代が専門のようです。スタッフも古墳時代のエキスパートばかりなのでしょう。
従って、旧石器や縄文は展示の念頭になかったようです。
03
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05縄文時代
11早期の土器文化
早熟な土器文化の発見-縄文早期の壺形土器発見-
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土器は、煮炊きの道具として出発し、最初の形は口の大きな深い鉢であった。それから口のすぼまった壺という形を生み出すまでには、縄文時代の後期までの永い年月を必要とし、東日本を中心とした地域で多様な器が生み出されたと定説があった。
所がそれを遡る遥か昔、壺や注ぎ口を持つ土器といった多様な器が誕生していたことが分かったのだ。
そのきっかけを作ったのが都城市丸谷町の小学生だった。
下園遺跡と呼ばれることになった土地の削り取られた土層から、完全な形の土器が顔をのぞかせているのを発見し、それを都城市教育委員会に届けた。彼らの最大の功績は、土器を発見したことはもちろん、見つけた物を独り占めにせず、正しい判断のできる人間に委ねたことだった。
それが、確実に6,000年以前に遡る壺形土器であったことから、これまで南九州の考古学で課題とされてきた事柄が一挙に解決した。
従来「弥生の壺」として総合博物館に所蔵されてきた野尻湖漆野原出土の土器や、永い間考古学者たちを悩ませた、どう見ても壺の口としてしか復元できない土器の破片、
でも、早期に壺形土器があったとは考えられなかったから、その結論を先送りにしてきた、一連の謎の土器の破片も、自信をもって壺形土器なのだと認識できるようになった。
発見とは一旦糸口をつかむと。次から次へと続く。
鹿児島県国分市上野原遺跡からは、正式な発掘調査の手続きを経て、2個並んだ状態で壺形土器が検出されるなど、その類例は増え続けている。 |
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晩氷期
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11,500年前の列島北海道以外は陸続き |
隆帯文土器
縄文草創期の土器 |
礫器のようなものが |
南九州は土器文化が先行していた |
縄文早期の列島図
9,000年前堅果類の照葉樹増加 |
1万1500年前の土器は内部が赤く塗られていた※1 |
従って、先に展示したものも赤く塗られていただろうと言っている。 |
南九州は早期に定住鉢形と壺形は祭祀具で神聖な意味を持つ |
早熟な土器文化の発見縄文早期に壺形土器、注口土器、レモン形土器、角筒土器、 |
縄文早期の壺形土器壺形土器は他地域では弥生になってから。高い文化である |
高度な技術の角筒土器、円筒土器 |
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赤色顔料は、 |
アフリカ人が今も使い、使ってきて、ネアンデルタール人も使った、酸化鉄の鉄粉(赤色オーカー粉)、列島ではベンガラ。 |
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朱に硫化水銀(水銀朱、辰砂とも呼ばれる)。 鉛丹の3種類がある。 引用シャレコーベミュージアム 色彩考古学 一万五千年前の赤彩土器は、それを内部に保存したものか、それとも、内外に塗って儀式に用いたのか。
これを使用するアフリカ人女性は、化粧として顔や体に塗って使用している。 |
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人類が |
定住可能となったのは、食物の備蓄が可能になったこと。 年間を通して安定した季節ごとの食糧植物や動物が供給されること。であった。 |
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これが満たされれば、旧石器人でも定住した。なぜ、旧石器時代はキャンプと決めつけるのだろう。
極寒の地シベリアでは、しっかりした防寒住居がなければ、人はたちまち凍死する。 それは、列島の冬も同じこと。
氷河時代には防寒性の高い住居があったはず。見つかっていないだけでしょう。 |
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百年以上前、ある探検家が人類はベーリング海峡を通って拡散したと予想した。 そんなもの、貴族の与太話に過ぎないが、
ところが、現在では、この通りでなければならないと、確定したことのように決めつけている。愚かな常識が通用している。
他の要素は受け入れられない。という不合理。学会の常識だそうだ。 何の根拠があってそういうのだ。
手漕ぎボートで漁をしたアフリカ人が嵐に流され、二週間で南米に流れ着いた。南米原住民の腸内寄生虫の謎はこれで解ける。
絶対に南太平洋を回っては南米にアジア人はたどり着けないとするかたくなな常識。
しかし、南米から日本の縄文土器が出土している。
これら、学会にとっての不都合な真実は全て無視されている。
この学説の通りなら、人類はベーリング海峡を渡って400年でホーン岬に到達する。って、不可能だろう。
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12火山噴火
再び火山灰の冬
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薩摩半島の南の海上、薩摩硫黄島を含む鬼界カルデラの大噴火である。
吹き上げられた火山灰は、広く天空を覆い尽し、遠く、東北地方や、海を越えて朝鮮半島にまで達した。
災い多く、死に行く人々、動物達がいた。いち早く森を抜け出した動物たちと、またある所には、幸い逃げ延びた人々がいた。
しかし、枯れた森と草原は際限なく広がり、いつ晴れるとも知れない重苦しい灰色に閉ざされた日々が続いた。 |
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13土器
曽畑式土器と市来式土器文化人は朝鮮半島の人々であり、朝鮮半島から九州へ渡ってきて、更に、南西諸島、沖縄島へまで移住していった。
つまり、琉球弧では何度も大規模な混血が起こっていたのである。
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14貝の道 (旧石器〜古代)
貝の来た道南の島からの贈り物
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東アジア最大といわれる琉球列島の珊瑚礁の内海やクリークでは、潜水漁撈が盛んで、ゴホウラ、シャコガイ、ヤコウガイ、イモガイ、ホラガイなどを捕獲できた。沖縄の貝塚人は、中でもシャコガイ、イモガイには特別の思いを込めていた。特に死霊封じ、僻邪の力を信じていた。
こうした貝類は、交易に備えて蓄えられ、その備蓄された場所は呪術的意味を持つ場所ともなった。
これらの貝製品は、広く交易の対象として扱われ、北海道の有珠遺跡からは、腕輪などの装飾品が、韓国全羅南の月松里や慶州の古墳群からも、イモガイを装飾として用いた雲珠(馬具)が出土している。 |
貝の価値
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貨幣の「貨」をはじめとして、扁(へん)や旁(つくり)に「貝」が付く漢字は「金銭」に関係するもので、貨幣に先行する価値基準の役割を担ったためとする説は、漢字文化圏を形成したアジア史の中で、考古学的にも理解することができる。
「貨幣」の発明、あるいは発見は、物と物の直接的な交易や交換といった行為を、抽象的な「価値」に置き換え、人間生活を身軽にしたけれど、それと同時に決定的に複雑に、また悲劇的にもしたと思う。 |
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貝文土器
草創期・早期の土器南から黒潮に乗ってやってきた人々は、高い文化を持っていた。 |
貝文土器日本中に貝殻文土器が広がった。 |
沖縄諸島の貝の道 |
九州の西に舟を進めた
東に進むと太平洋に漂流 |
貝の道は環太平洋に |
貝の来た道
南の島の贈り物元々水字貝は松飾り同様一年中戸口に掲げる
魔除け。沖縄では現在も |
弥生南西諸島の貝の道 |
貝の価値貝貨によって美や呪術以外に経済的価値を持った |
貝輪出土遺跡分布南洋諸島の貝の道 |
いろいろな貝 南島初めての沖縄旅行でなぜか貝殻を買って帰り、飾りたいと思いました。
憧れの気持ちでした。 |
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貝文土器の断絶
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早い時期の早熟な土器も貝による紋様を基調としたが、鬼界カルデラの噴火による断絶の後は、朝鮮半島から渡ってきた北部九州を中心とした土器文化の影響下に、南九州の土器文化は埋没してしまった。
再び、貝紋様の土器として南九州の独自性が回復するためには、自然の回復の速さに比べれば、意外に長い歳月を要したのだ。 |
変化する形質
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多くの渡来人を受け入れながら、人間の体の変化の中で最も顕著だったのが、上歯と下歯が毛抜きの様にしっかりと噛み合う顎の張った縄文顔から、ハサミの様に上歯が前に出る細面の弥生顔へという変化であった。 |
未知の世界に新天地を求めて |
まさに死出の旅
彼らは雲の立つ下に |
島があると信じていた |
南方系神話コノハナサクヤ姫型神話
失われた釣針モチーフ
海彦山彦神話ですね |
貝文土器の断絶 縄文
7300年前の噴火による
南島文化の大絶滅
その後は北部九州の朝鮮半島文化に取って代わられた。 |
変化する形質 弥生人
縄文人とは全く違う形質の半島人。
大陸系とは違う、北部東部アジアの弱小民族が
半島から、
植民目的にやってきた。 |
寒冷地適応で骨格も変化 |
海流の流れに着目 |
碧玉
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コメの来た道
インドシナ三江併流地域発祥の稲がカボト経由 |
遠洋航法で陸に着いた |
海進でスンダランド水没期には沢山の丸木舟が新天地を目指して大海原に漕ぎ出した。
7300年前頃には終了。
弥生人は、寒冷化による農耕不振→食糧不足→中国の戦乱拡大→
逃亡・新天地の確保・新食糧源開拓が目的だった |
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15 |
縄文海進 |
6,300年前をピーク。標高8〜10m以下は水没 |
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弥生小海退 |
3,000〜2,000年前 現在よりも海水準が2mほど低下した。 引用弥生の小海退 - 国土地理協会 |
縄文海進と弥生小海退
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南九州の南端から照葉樹林が広がり始める。照葉樹林は北進しながら、やがて6,300年前に気候温暖化のピークを迎え、同時に海面も上昇する。
それを「縄文海進」と呼ぶ。標高8〜10m以下は海に沈み、列島はやせ細った姿になった。
その後
縄文中期5,000〜4,000年前には、気候は不安定になり、
縄文晩期3,000〜2,000年から、弥生時代全期間にかけてやや冷涼な気候となる。「弥生小海退」と呼ばれる海面の後退が起こる。
日向灘に並行する砂丘列が形成される。 |
貝塚の少ない南九州(抜粋)
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貝塚は、貝や魚骨・獣骨などが廃棄されたものである。
土器の誕生による食料資源の拡大に続く大きな節目として、貝塚の形成が海産食料拡大の指標として指摘される。
また、縄文海進により内湾が形成されるに伴い、貝塚の形成が盛んになったとも考えられている。
貝塚の形成は世界的にみられる食料消費の痕跡だが、遺跡数の上では地域的な特徴がみられる。南九州では貝塚が少ないのが特色である。
その理由は、貝類への依存度が低かったことが考えられる。しかし、これは一方では土器文様に貝を多用するなど、貝が身近である南九州の特徴と矛盾する。
貝塚の形成は春から夏にかけて行われ、多量の貝の消費は、集落単位の日常用食料をこえて、貯蔵や交易用の貝加工が背景にあった。
このことから、南九州では、集落単位の基本的な消費利用にとどまり、大規模な貯蔵・交易は行わなかったと考えられる。 |
漁撈の多様性
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海は生命の起源とも言われ、海に注ぐ川も含めて多くの恵みを人間に与えてきた。寒流では離頭銛を用いる漁撈が主で、網漁は不活発であった。
暖流域では、外洋性や内湾性の魚業が盛んであったと、海流の特性に対応した魚業が考えられている。
大型魚からブリ・サバ類を捕獲するためには、網が必要であり、網漁法か゛発達した。
網に取り付けられる石錘の重さには、多様性があり、用途に応じて使い分けられていたと考えられる。
縄文知友気には、ハマグリの乱獲に至ったと考えられるが、海産資源の維持は古くから大きな課題であった。 |
銛やヤスによる漁 |
網漁 |
縄文海進と弥生小海退日向灘の砂丘列形成 |
宮崎県の海岸線の変化宮崎平野の形成
土地の隆起?海砂の吹き寄せ?海流による堆積?
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貝塚の少ない南九州交易用の干貝を作らず、貝塚が少なかった。
砂丘地帯には貝類が少なく、大規模貝塚は形成不可 |
舟による漁は大変危険 |
漁撈の多様性特徴のない海岸は戻る目印がない。流される危険 |
暖流域は網漁。
石錘、土錘、貝殻
骨針、魚骨 |
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貝類
骨針、魚骨 |
石錘、土錘 魚は干して保存食や交易に |
サバ・マグロが獲物なら、漁網はもっと大きく、もっと長く。魚種魚量豊富でも大物は釣る必要があった。 |
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16縄文の暮らし
恵の森・照葉樹林
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「必要は発明の母」というが、木の実のアクを抜く必要性が、土器の発明を促した。
豊富な木の実。それは、従来からの落葉樹林は豊かな木の実をもたらすものではあったが、それに照葉樹林が多様な実りを加えた。
落葉葉樹林と照葉樹林のもたらす実りを比較すれば、実りの種類か゛限定される照葉樹林より落葉樹林の方に軍配が上がるが、
温暖な気候を基礎とした複合的な要素が多様性を与えたと考えられる。 |
化学変化と土器
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土器は、人類が化学変化を基に生み出した最初の製品である。
粘土は乾けば硬化し、湿れば元通りになる。しかし、500℃以上に加熱すると粘土の分子中に、科学的に結びついていた水分が失われることによって、
粘土とは性質の異なる硬く焼き締まった土器となり、水に溶けださなくなる。 |
蓄えの知恵 燻製(炉穴)
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生のままでは腐ってしまう食物をどうしたら保存できるのか。そんな課題を縄文人は解決する。燻製である。
連結土壙とか炉穴とか呼ばれ、直接火にかけるのではなく、煙りで燻すことによってある程度の保存が可能となった。
竪穴を掘り、更に煙出しを掘り抜く。その煙突の部分に獣肉などをぶら下げ、竪穴で焚火をすれば、その煙によって燻製が出来上がる。 |
最古の調理、石蒸し(集石遺構)
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蒸す方法は、調理の多様性を一つ広げることとなった。
広い葉っぱなどにくるんだ食物を焼石で覆い、その熱で蒸す調理法で、多量の赤く焼けた石が集中して検出されることから、
この調理の跡を集石遺構と呼ぶ。
一つの遺跡で数十基単位の集石遺構が検出され、一見活発に調理が行われていたように見える。しかし、その期間の年代幅は数千年である。
どのように膨大な数の集石遺構が生み出されたとしても、一時期にはせいぜい数基が存在したに過ぎない。
日常的な調理法というよりは、「祭」など特別な日の料理を提供するものであったと考えられる。
この、蒸す料理は、はやく旧石器時代には発案されたが、更に燻すという調理法が縄文時代に入ると発案される。
だが、土器が全面的に普及する縄文前期からは、いずれも基本的には姿を消すことになる。 |
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恵の森・照葉樹林
化学変化と土器=温帯常緑広葉樹林と
落葉広葉樹林 |
常緑照葉樹林は木の実が少ない
土器の化学変化
500℃以上で粘土粒子が結合して性質が変化 |
蓄えの知恵
燻製連結土坑での燻製 |
最古の調理・石蒸し集石遺構は土器の発明で消滅。この石蒸しは祭祀用だとしている |
最古の調理、石蒸し
集石遺構
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磨り石と石皿世界各地で未だ現役の調理器具 |
環状集落 |
集落は輪になって家を並べ、真ん中は神聖な場 |
煮る・蒸す・燻す保存方法の発達と、調理の進歩 |
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左のキャプションでこの
土器を判別できますか。
私には無理です。
ごめんなさい |
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日本最大の常緑照葉樹林は宮崎県の
綾の照葉樹林 リンク リンク2 |
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17石器
縄文の狩猟 |
落し穴 罠猟 |
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飢餓に陥らない工夫 |
石匙は肉を切る道具
削器 |
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矢鏃 |
水晶製鏃高価な宝石を用いた道具 |
この時代にはごろごろ
転がっていたのかな |
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18祭祀具
高千穂の土偶
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山を上り詰めると、そこにはポッカリと別の世界がある。高千穂はそんな場所である。
水稲農耕の波をいち早く受けた北部九州において、伝統的な縄文社会は微妙な軋みと矛盾を抱えることとなった。
その解消のための揺らぎが、それまで重きを置いていなかった土偶祭祀に依拠する行動であった。
冷涼な山間部である阿蘇外輪山地域において、多くの土偶を伴う遺跡が営まれるのも一連の余波であったと理解できる。
そして、その外縁に位置する県北部・山間部の高千穂も例外ではなかった。
県内で唯一の土偶をはじめ、石棒など独特の「第2の道具(生活とは無縁の、精神性の形ある道具)」が登場するのはそのためである。 |
※高千穂の土偶は高千穂歴史民俗資料館に写真があります。
各地の土偶土偶は東日本中心文化。九州では後期に登場 |
高千穂の土偶
弥生時代に高千穂では土偶祭祀が行われた |
南九州には土偶がない土偶祭祀文化は南に隔絶された地には不要だった。
飢餓がなかったからか |
土偶出土分布東日本中心の土偶文化は次第に西日本に広がっていった。が。
南九州には |
石棒別の祭祀があった。
男根型石棒が主流の中、
この特異な形の石棒は、豊穣や子孫繁栄でなく、もっと別のマナを宿した祭祀具だったようだ |
実に立派で均一質の石材で、細くて長い。
打ち壊して埋納された
他地域の男性器型や彫刻石棒とは違う独特の彫刻 縄文時代後期〜晩期 |
石棒形状も彫刻模様も他地域とは全く別物。
高度な技術で細工している |
超長い石棒です。
石杖といっても過言でない |
十字形石器謎の石器が南九州で出土 |
十字形石器 |
十字形石器
縄文時代後期〜晩期 |
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30弥生時代
37稲作農耕
稲の到来
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縄文時代も成熟期を迎えた頃、海の向こうから稲が到来した。稲は、在来の畑作の延長に陸稲としても受け入れられたが、
列島弧に革命的な変化をもたらしたのは水田を開く土木工事を伴う水稲耕作だった。
しかし、シラス台地が卓越し、水田耕作の可耕地に適した沖積地が限られる南九州の地は、平野部の一部地域に水田を開いたものの、多くの地域はアカホヤ火山灰が地表下を占める土壌と格闘しながら、畑作をはじめとする伝統的な生業に多くを依存することとなった。 |
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稲の到来約3千年前からの寒冷化により飢餓と戦乱が続く大陸、半島から、 |
逃亡。食料を求めた移民、そして後に植民、の為に膨大な数の朝鮮半島人がやってきた。
その数50万人といわれる。
村や国を作っては、次々に来る者に押し出され、常に戦乱となった。 |
稲のプラントオパール |
陸稲栽培がまず始まったと考えている。
確かに薄く広く列島に陸稲栽培が拡散した |
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縄文時代にもたらされた陸稲は、確かに日本全土にひろがり、
陸稲との雑種の水稲があるとも聞いた。
が、それが生産性を揚げる前に、水稲稲作がなだれ込んできた。 |
縄文と弥生は土地の使い方が全く違う。
土木工事をしつつ狩猟困難な湿地を開拓するのは、縄文人の生活に無縁だった。
しかし、移住者は乱暴者だった。
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まず、奴隷狩りをして縄文人を生涯こき使い、身分制度を持ち込んだ。
進んだ武器で野山の獣を獲りつくした。
もめるとすぐ殺した。
次第に縄文人の土地と権利を奪って行った |
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38青銅器
武器型青銅器の祭り
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武器型の青銅器も、はじめ利器として誕生し、やがて祭器として発達していく。
特に銅剣・銅矛・銅戈は、実用的かつ鋭利な細形から中細形・中広形・広形へと非実用的かつ大型化していき、
青銅武器型祭器と呼ぶに相応しいものとなる。
これらは、東アジアから朝鮮半島を経由する青銅器文化に由来する。 |
青銅器は地域を映す・出雲という磁場
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かつて、青銅器の持つ象徴性に着目して「近畿地方の銅鐸・北部九州の銅剣・銅矛」とする文化圏の設定が提唱された。
その後、北部九州で銅鐸の鋳型が発見されるなど、その様相は、より複雑なものであることがわかってきた。
また、島根県の神庭荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡で、近畿・北部九州両地域文化圏の青銅器の銅鐸・銅矛・銅剣が合わせて多量に出土したことは驚きだった。 |
銅鐸・祭器への変遷
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銅鐸は、朝鮮式小銅鐸と呼ばれる青銅器を祖型としながら、列島弧において「聞く銅鐸から見る銅鐸」へと、すなわち鐘の様に鳴らす実用品から、大型で非実用の祭りの道具へと特異な発達を示した。
しかし、近畿地方を中心とした地域で銅鐸が重宝されるに至った経緯は明確ではない。 |
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銅製の剣・鋒・鐸・戈を信仰する分布図 |
青銅器の文化圏半島系の銅製武器を崇める文化圏 |
武器型青銅器の祭り
青銅器は地域を映す・出雲という磁場縄文人を青銅の光沢で驚かすのでなく、住民の大半となった半島人向けだった。 |
弥生時代 |
銅鐸・祭器への変遷 |
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39青銅器のない南九州
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新発見や研究の進展にもかかわらず、依然として南九州には青銅器がない。
九州島内での青銅器は、福岡、佐賀、長崎と言った朝鮮半島に面した各県に濃密に分布し、大分、熊本へとややその色合いを薄めて分布する。
そして、宮崎、鹿児島では、石製品が青銅器の代替品としての役割を担った。つまりは、青銅の神を仰がない精神性の発露である。 |
青銅器のない世界南九州にはなぜ武器信仰がなかったのか。
受け入れない風土があったのか |
男根石か? |
石戈・石槍 |
猿の惑星Vだったかな。コバルト爆弾を信仰する未来を描いていた。
最強の武器だったのか、シンボルだったのか。 |
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40弥生土器
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41稲作農耕
内陸部への稲作の浸透
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内陸部への稲作の浸透は、畑作の延長としての陸稲と、湧水を利用する小規模な水田の、両者がみられた。
3つの模型は、
「内陸部の稲作」
「畑作と混在する陸稲稲作」
「台地したの湧水利用の水稲稲作」 を表現している。 |
稲作は最初陸稲として、縄文人が焼畑で栽培していた。水稲は山間の谷間で栽培が始まった。と、言われた時もあった。
わたしは、食いつめ・追いつめられた半島人は、作りやすい低湿地を利用したと考える。山間は縄文人の世界です。むり、むり。
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42弥生時代
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43瀬戸内文化圏
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朝鮮半島と畿内を結ぶ航路はきっと大変な賑わいだったでしょう。多くの人・物・情報を乗せて瀬戸内各地を巡りながら半島をも往復するのだから。
停泊する各地にやはり人・物・情報をおろし、積んだだろう。 また、大阪で作られた須恵器はこの経路を通って大和政権の各地に運ばれたのだから、船便が宮崎に大きな影響を及ぼしたかもしれない。 |
見慣れない土器
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発掘調査をすると、出土土器の中に何れにも属さない土器片が少量混じる。その遺跡周辺にはない土器で、追及していくと、瀬戸内地方などの遠隔地にその本家が存在する。
それは、南九州で真似たものでなく、海流に乗って打ち寄せられたものでもなく、明らかに人の手によって持ち込まれたものである。
土器を携え、その中に交換できる食物などを入れ、海を越え、野を超え、山を越え、遥かから人々がやってきた。
そう考えると、その行動力には神秘的なものを感じる。 |
絵画土器、抽象と具象
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絵を描くということは、人間が対象物 (必ずしも目に見えるものだけではなく、精神的な心象を含む) を客観的に捉え、
抽象化 (具象の場合も、実物がその他のものに置き換えられるということも含む) する行為を意味している。
それは、他者を対象化すると同時に、自己自身をも対象化するのだという「哲学」の発見でもあった。
具象的画題には、動物や人物、物、建物など、古代人が強く惹かれた対象が取り上げられている。
抽象的な画題では、円、三角、渦巻きなど直線と曲線の可能な組み合わせが、
おそらくは一定の集団間においての約束事の中で成立していたとみられる。 |
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方形石包丁の流入大阪→愛媛→宮崎 |
畿内系絵画土器の
分布
宮崎県は広域に、濃密に分布している |
瀬戸内系土器と
畿内系絵画土器の
分布 |
瀬戸内系土器の
分布
宮崎県の一部大隅半島まで浸透 |
見慣れない土器瀬戸内から多数移住 |
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瀬戸内系土器と
畿内系絵画土器の
分布 |
方形石包丁 |
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瀬戸内系土器 |
畿内系絵画土器 |
絵画土器
・抽象と具象 |
絵画土器の絵は龍=
王の意味であり、古来から度々異形石器など言われている。
線書きだと落書き
彩色されたのでないか |
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44住居
松菊里型住居
異彩を放つ花弁状間仕切り住居
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朝鮮半島の西側、百済の都の一つ扶餘に所在する遺跡名をとった松菊里型住居は、大型の円形住居の中央に楕円形の土壙が掘り窪められ、その両端に2本の柱が建てられる特徴的な竪穴住居である。更に、中央の2本柱を取り囲む形で、屋根を支える柱が巡る構造へと発展する。
それは、縄文時代の終わりを告げる水稲耕作と共に伝播するが、ほどなくその特徴を失う。
しかし、南九州では、その松菊里型住居をさらに発展させた住居が誕生する。それが花弁状間仕切り住居である。
基本的な柱の構成を継承しながら、壁際に巡る柱から、背後の壁にかけて突出した仕切り壁が掘り残される。検出される住居の様子が、開いた花弁を思わせ、その突出壁が、住居内部を仕切る間仕切り機能を持つことから、花弁状間仕切り住居と呼んでいる。
この住居跡は、一ツ瀬川流域を北限として、南は鹿児島県大隅半島までの範囲で確認されている。
ただし、類似した住居は、宮崎県北の北浦町や日向市、また、大分県や海を渡った四国・愛媛県下の遺跡でも見出せる。
しかし、それにも関わらず、その分布は先の範囲に限定されると言ってよい。なぜなら、花弁状間仕切り住居のみで集落が構成されている地域と、
一集落の中に1〜2棟の頻度の地域とは、様相が全く異なるものと理解した方がよいからである。
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弥生時代の開始とともに持ち込まれた文化 |
花弁状間仕切り住居
松菊里型住居
それは、朝鮮式住居
早期から大量の渡来人 |
彩色土器
説明写真と展示が違う
わからんキャプション
付けとんなぁ |
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松菊里型住居
松菊里から大量の移民
または、奴隷 |
花弁状間仕切り住居のバリエーション |
花弁状間仕切り住居のバリエーション |
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武人だけが来たのではなく、計画的に一族が奴隷まで連れてきていたようだ。 |
何度も行ったり来たりしながら、開墾したんだな。
アメリカ開拓当時を映画にしたものを見た記憶がある。
領土の奪い合いや、収穫物の略奪戦争 |
後から来た武力集団による侵略と、戦争。 |
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45山の民の土器
里には水田農耕民
朝鮮半島移民 |
山の土器の分布
ミミズバレ状突帯文粗製甕
粗製甕工字文土器 |
ミミズ (みみず) 腫れ状突帯文粗製甕
弥生時代中〜後期
野久尾遺跡えびの市
山には狩猟民 縄文人
が、依然として住んでいた |
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ミミズ腫れ状突帯文粗製甕
この土器は、奄美・沖永良部や、大分県では地域変化した形式となっている。参考 南西諸島の土器と成川式土器
工字突帯文土器
工字文は亀ヶ岡式に代表される工の字形の文様。宮崎県山岳地帯や阿蘇山周辺でも出土。
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突帯文土器は
@ |
縄文晩期後葉に突然現れ、九州から東海まで広がった土器とされる、縄文土器である。と、規定されている。 |
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煮沸用土器に、突帯を付けた土器で、縄文・弥生の形式があり、刻目・無刻目などがある。
一方、この土器は水稲農耕に伴う最古の土器様式で、縄文型、縄文弥生型の機種構成があり、稲作を行うか否かで異なる。
弥生早期を中心とした土器である。 引用水稲農耕と突帯文土器 藤尾慎一郎 |
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A |
突帯文土器様式の機種セットは、壺・鉢・高坏などです。 |
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壺は縄文土器にはなく、朝鮮半島の無文土器 (が持ち込まれた) ものとされる。(弥生に先行して朝鮮半島から稲作農耕民が移住したことを窺わせる)
縄文晩期 |
〜紀元前五世紀初め頃。甕と浅鉢の組み合わせが中心 |
弥生早期 |
紀元前五世紀初め頃?紀元前三世紀初め頃。水稲農耕の始まった時期。 突帯文土器様式の出現と、この土器のみが使われていた時期 |
弥生前期前半 |
紀元前三世紀初めごろ〜紀元前三世紀中ごろ。突帯文土器様式と遠賀川系土器(弥生前期の土器)がともに使われていた時期 |
弥生前期後半 |
紀元前3世紀中頃〜紀元前二世紀初め頃。縄文色を持った土器が姿を消して、遠賀川系土器のみが使われるようになった時期 |
突帯文土器の列島への伝播は紀元前五世紀とされている。 引用突帯文土器と支石墓 |
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B |
突帯文土器文化は東アジア的な視野のもとで理解すべきであり, |
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中国東北地域から韓半島の西北韓,東北韓地域,そして南部地域と日本列島に至る広範囲の地域において
突帯文土器を伴う文化が伝播したことを想定する必要がある。 引用韓半島の初期青銅器文化と 初期弥生文化 - 国立歴史民俗博物館 |
[結論]
@ |
これらの論文では上記同様、大陸から半島を経由して、稲作農耕・突帯文土器・支石墓・青銅鏡などの青銅器文化農耕民がやってきたと言っている。 |
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そして、稲作農耕の弥生時代に突入していた北九州では農耕具と。岡山県以西ではもみ殻痕跡と共に。近畿以東では土器のみ。が出土する。
(※この部分の引用に関する元の文献を再検索したが見つからなかった。)
つまり、突帯文土器は縄文土器ではなく、初期農耕文化の土器であり、大陸・半島人の文化である。
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A |
突帯文土器は列島に伝播するや、3000BP〜2800BPのわずか200年で東海まで到達し、稲作農耕民が多数押し寄せたことを表している。 |
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引用 日本人の源流を探して-2 突帯文期の稲作遺跡について 本格的水田稲作文化の渡来 |
[疑問]
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山の民 (私は縄文人と予想) の土器が、縄文土器でなく、彼らにとっての最新土器、突帯文土器であったのはなぜか。
彼らは「縄文人」ではなかったのか。「初期渡来の突帯文農耕民」だったのか。「突帯文土器文化の縄文人」だったのか。 |
工字文土器について
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鳥取県智頭町の智頭枕田遺跡からは大量の突帯文土器と共に工字文土器が出土している。(現:智頭町埋蔵文化財センター)
これは青森県津軽地方の亀ヶ岡式土器 (大洞式) である。
関東地方の女方遺跡からは弥生土器と共に出土している。 引用東北北部の文式に後続する土器
縄文晩期後葉〜弥生初期の時期に、大規模な東北人の南下か、広範な土器の流通があった、のだろうか。
工字文土器が宮崎の山中で出土することは、デザインの偶然性ではなく、人や物の移動・交流があったと考えられる。 |
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46墓制 参考・引用南九州独特の墓制 - 上野原縄文の森 TTS 地下式板石積石室墓
地下式板石積石室墓 えびの市島内出土
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弥生時代後期から古墳時代中期にかけて、九州南西部に分布する墳墓。
方形や円形に立て並べた板石の上に、持ち送り技法によって、うろこ状に板石を積み重ねて墓とする。 |
地下式横穴墓と地下式板石積石室墓の分布 |
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持ち送り技法によるウロコ状の石積み |
地下式横穴墓
朝鮮半島から来た高級武人の墓
一般人は土饅頭か土坑か野ざらしかでしょうか。
土壙からは多数の武器を伴った人骨が出土
地下式板石積石室墓(・・いたいしづみ・・)
竪穴の中に床や壁に板石を積み、
埋葬後上から板石を持ち送り技法で蓋をした。 |
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47免田式土器 弥生時代中期末〜古墳時代前期の土器 ソロバン玉のような形が特徴の土器
免田式土器個性に輝く
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免田式土器は、永い歴史をもつ素焼きの土器文化の中でも、異彩を放つ土器として知られている。その誕生と存在の持つ意味は何なのだろうか。
壺形土器では長い頸部と算盤玉状の胴部、その上面に施された弧文を重ねた紋様に、最大の特徴が現れている。
また、砂粒などの混和剤が少ない精緻な粘土を用いている点も特徴である。
そして、この土器が現れるのは弥生時代後期、その中心的な分布は熊本県から宮崎県への山間部を縫うように広がる範囲という、
限定的な時期と分布という点でも特異性が際立っている。
この土器を女王国「邪馬台国」に属さない男王を擁立する「狗奴国」の象徴とみるのは、魅力的な考えである。 |
訳のわからん展示
これは山の民の土器か? |
突帯はないが。なんだろう。ただの弥生式土器ってそれはないだろう |
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免田式土器個性に輝く熊本文化圏の土器 |
弥生式土器 |
免田式土器 |
玉類 |
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免田式土器 |
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熊本県球磨郡免田地方で発見された。
長頸壺の胴部に重弧文(じゅうこもん)が描かれていた。鋸歯文の長頸壺と瓢形(ひさごがた)土器の2個は重要文化財になっている。 |
熊本文化圏のくまその土器ですね。 |
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48弥生農耕文化の持つ意味
稲の意味・二極化の芽
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水田耕作は、単なる米作りの問題ではなく、水田を開くための計画的な土木工事や灌漑工事にはじまり、
収穫米の貯蔵(高床倉庫)までの管理体制など、集団の組織立てや社会構造の変革こそが大きな意味のあることだった。
そのことにより、政治的に一層整備された社会が生み出された。
しかし、水田耕作に依存しない社会では、伝統的な畑作や狩猟・採集に依存し続けることで平野部社会と内陸部社会との地域性はより鮮明になっていく。
二極化の芽はこうして生まれた。 |
7:3社会の構造
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地域の「質」の違いを構造的に考えることは、弥生社会像を多様な視点で理解することにつながる。
水田耕作が始まっても全てが水田農耕社会に移行したわけではない。
例えば、7(水田):3(畑作)社会と3(水田):7(畑作)社会とは、おのずとその質が異なってくるのである。
南九州社会は3(水田):7(畑作)社会であったと考えられる。
しかし、注意しておかなければならないのは、
3(水田):7(畑作)社会の中にも宮崎平野部を中心とした地域や、都城盆地北部には7(水田):3(畑作)集落が存在したであろうことである。
こうした集落を核とした勢力がやがて古墳時代になり、前方後円墳を築造することが出来たと考えてよい。そして、
3(水田):7(畑作)集落は在地的なかつ伝統的な色合いを強くし、独自の在地墓制である地下式横穴墓を生み出すことになる。
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弥生の構造改革
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水田耕作は、人間集団の組織化を促した。それは、血縁関係を中心とした社会から、地縁関係を中心とした社会への変革を意味するものであった。
縄文時代の畑作や栽培農耕では、労働の単位は家族単位で完結し、血縁関係の枠を超える必然性を持たない。
しかし、土地言う本来は誰の所有にも属していなかった空間を、耕作地の開拓、組織的な灌漑工事、水利権の調停など、人間の決め事によって利用しようとするとき、労働の単位は家族を超えた枠組みとして組織化される必要があった。
人間がある土地に定着し、継続化することで、土地の占有が生まれ、土地が生み出す産物が生活を支え、蓄積されて財産となることで、土地は単に足を付けて立つ場ではなく、土地という財産になり、人間そのものと同様、他が侵すことのできない領域となった。
そして、人間集団は集落に属し、集落は囲われ、耕作地は管理され、そこを統括する制度と組織ず出来上がる。
人間は、逆に土地に繋がれたのである。 |
稲の意味・二極化の芽稲作文化は高度な技術と管理階級社会だった。
内陸の縄文社会は温存され、二極化した |
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7:3社会の構造 |
弥生の構造改革 |
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↑水田農耕社会が
古墳文化社会
畑作農耕社会が
地下式横穴墓を生む
横穴墓被葬者は武人で
古墳は王族である。
だいぶ違ってるやろ |
↑水田農耕社会が始まった時、すでに開拓主が土地所有者として君臨。
以後、豪族や大土地所有者、権力者として、長く、現代にまで君臨しているかも。しまずやね。それ |
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49弥生文化と縄文文化
稲作社会の質の違いを考える
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列島弧を広い視野でみると、稲作の伝播した北部九州とその広がりの波を受けた近畿地方とでは、微妙な差異が生じ始めている。
北部九州の集落からは、稲の穂を刈る石包丁に加えて、多くの石斧が出土する。一方、近畿地方の集落からは、石斧は少なくく石包丁が多く出土する。そのことの意味するところは何なのであろうか。
石斧は樹木を伐採する道具。つまり石斧の多さは樹木伐採が開拓に多くの労力を要したことの証明。それに対して石斧の少なさは、開拓に要する労力からの解放を意味している。
北部九州では、多くの労力が水田を開くために費やされ、近畿地方では、労少なくして水田の実りを得ることが出来た。
その差は、両地域の蓄積された体力として、その差が大きく開いていくことになる。 |
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伝説の墓内陸は伝統の土壙墓
だか、そこにも階級差があった |
筌(うけ)の化石と新品 |
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木製鋤 |
稲作文化は高度で縄文文化は低級かという問題 |
打製石斧 石包丁 |
稲作社会の質の違いを考える畿内は弥生海退による低湿地が広く広がり、 |
北部九州は乾燥した雑木林が開墾地だった。 |
大陸系磨製石器 農具 |
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50銅鐸
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今から二千年以上も昔の弥生時代、西日本の各地で、金色に輝く奇妙な形のカネを使った神祭りが流行した。
そのカネは朝鮮半島にルーツを持ち、吊るして音を鳴らしていた。
青銅で作られたカネの表面には細かな装飾が施され、その文様もまた、自然の霊力を表現するものだった。
やがて使われなくなったカネは、ひとまとめに山中に埋められ、忘れ去られた。後の時代に人々が土中から掘り起こしたその数は、実に500個以上にのぼる。一体だれが何のために使ったのか? なぜ使われなくなったのか? どうしてこんな場所に埋められねばならなかったのか?
南九州では銅鐸をはじめとする青銅器が出土しない。
これは、弥生時代の西日本各地で青銅器に対する共通の価値観を有していたのに対して、南九州には別の価値意識が存在していたのである。
つまり、彼らは青銅の神を仰がなかったのである。 |
最も栄えた銅鐸文化 |
銅鐸
銅鐸鋳造技術のハイテクが着目される |
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鉱石の採取。製錬。合金の作成。インゴットの作成。の基礎技術と
木炭を作り、ふいごで高温を作って、るつぼで溶かし、やっとこで砂型へ注ぐ
砂型の作り方とこれを完成度高く作る経験と技術。職人の技。
これら半島系の青銅器を神格化した祭祀神にはどんな意味があったのだろうか。太陽のように輝く道具が、太陽信仰の縄文人を従わせるのに有効だったのだろうか。 だとすると太陽神の化身である銅剣・銅鐸・銅矛・銅戈とそれを使う半島人は神の使いになれたのかもしれない。 |
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52大陸や半島との交流 穀璧(こくへき)
大陸・半島そして列島弧
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列島弧での縄文時代から弥生時代や、、朝鮮半島での新石器時代から青銅器時代は、、中国大陸における、
殷、西周、春秋、戦国、秦、前漢、新、後漢と、移り変わりゆく諸古代国家の動向と無関係には存在しえなかったはずである。ましてや、
弥生時代から古墳時代に至っては、大陸からの大きな波を受けながら成立する
半島の扶余、馬韓、弁韓、辰韓や高句麗、新羅、百済、伽耶などの諸古代国家の動向と無縁ではなかった。 |
多形質の人々
半島系、縄文系、大陸系 |
大陸系磨製石器と擦切有溝石包丁
の分布
南九州に大陸系民族
大陸系移民は遅れてきた
当時の未開地南・東九州へ進出した。 |
大陸系磨製石器
半島系磨製石器のこと
擦切有溝石包丁は
半島の孔列文土器と共伴する特殊石器
どちらも半島系石器・土器
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内乱の故郷を捨てて
寒冷化・不作・侵略・略奪 |
漢帝国と人々の動き
大陸・半島そして列島弧
戦乱と飢餓と殺戮の故郷 |
穀璧(こくへき)
完璧なる玉・穀璧
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「柵封体制」とは、古代中国の皇帝が周辺諸国・民族の王に印を与え、その地位を認めると共に、朝貢という形で経済的な収奪を行う支配体制のことである。漢の光武帝が奴国王に与えた「漢委奴国王」の金印が、福岡県志賀島で発見されたのは、江戸時代天明4年(1784)のこと。邪馬台国の卑弥呼もおそらくは同様の金印を賜ったと考えられる。
それから34年後の文政元年(1817)、串間市の農業佐吉が偶然発見したのが「璧」である。
古代中国の皇帝が、金印などと同様に、諸国の王侯に与えた権威・権力の象徴の品である。
壁の納められた箱書きには、幕末の探検家松浦武四郎(蝦夷地探検)が宮崎で入手し、その後加賀前田藩所属の施設へ譲ったとある。
鉄器30点余りが一緒に石棺から出土したこと。土地は那賀郡今町村王之山であったと記している。
鉄器は所在不明。石棺は弥生か古墳かの確証がない。出土地「王之山」も正確には不明である。南九州の片隅は、そうした場所としては何とも心許ないのである。 |
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54弥生時代の戦乱
戦いに備える集落
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平穏な集落の日常を守るため、人々は集落の周囲に溝を巡らせた。これを環濠集落と呼ぶ。
溝を巡らせることが単純な「進入禁止」の意味ではなく、攻撃的な戦いを想起させるのは、溝の底に逆茂木が装備されているからである。 |
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56墓制
墓地祭祀具 |
平野部に周溝墓弥生前期中頃に出現。前期中に伊勢湾に達した。
弥生後期に大型墳丘墓 |
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畿内は方形周溝墓
吉備は墳丘墓 |
出雲四隅突出型墳丘墓北九州は甕棺墓 |
墳丘のお供え物 |
副葬品 |
鉄刀、鉄斧
弥生後期〜古墳初頭
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鉄鏃・鉄片・鉄針
弥生後期〜古墳初頭
鉄鏃 弥生中〜後期 |
直刀 |
↑墓制の違いは、それぞれの出身地の違いである。 |
出雲の四隅突出型古墳は高句麗の墓制と言われている。
が、方形墳丘墓に参道を付けるために自然発達したものである。
2019.01.29 |
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58鉄製品の動向
鉄器の普及は春秋戦国時代に武器が一般化したためである。 |
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東アジアの動きと
鉄器の動き
2000年前頃朝鮮半島や台湾で一斉に砂鉄の製錬が始まる |
銅鏡破片
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60古墳時代
前期 3世紀後半から4世紀初め頃 中期 4世紀末〜6世紀初め 後期 6世紀初〜7世紀半ば頃まで
既にあった各地の文化、(例 吉野ヶ里など)を破壊して新たな古墳文化を形成した。従って、
新たに半島からきて、弥生時代の植民国家を征服して新しい国家を作った時代。と考えています。
62埴輪
埴輪船
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この埴輪は、丸木舟の本体に舷側板を取り付けた準構造船であり、前後の舳先が大きく反りあがり、左右の舷側に各6個の突起(オールを固定する)がみられるのが特徴的である。
船底には、制作時に粘土紐を数本押し付けて板状にした痕跡がみられる。 |
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船形埴輪 古墳中期十二丁櫓の船って凄い |
特殊な高速艇ですね |
海上ではオールに交換 |
こんな高速艇で往来 |
重要文化財 埴輪舟 |
埴輪舟の上面視
上から見ました |
子持ち家型埴輪
中華圏で今もある死者に送る家 |
大変豪壮な建物で、屋根が幾重にも重なる複雑な設計は、 |
ないものは作れないので本当にあったのでしよう。。 |
重要文化財 埴輪子持家
屋根のカーブは茅葺の |
柔らかい曲線です。 |
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64古墳
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66地下式横穴墓 5〜6世紀 九州南部 特に宮崎県から鹿児島県東部にかけての地域性の強い墳墓形式である。
半島を通じて北部九州にもたらされた古墳時代の中の新たな時代を画する、追葬を可能とする新来の墓制は、周防灘沿岸に於いて、
丘陵の中腹に玄室を掘り抜く初期横穴墓を誕生させた。
そして、内陸部えびの地域に於いて、井戸のような竪穴の底部から横に玄室を掘る地下式横穴簿を
誕生させた。各地に広がり、多様な文化を生み出した。
大陸から、半島経由で持ち込まれた墓制。 公州市 丹芝里古墳群
二つの地下式横穴墓
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地下式横穴墓の大きな特徴は、遺体を治める空洞の部屋である玄室の形状に現れる。玄室は整った形としては、家の形に刳り抜くものである。
玄室への入口が横長の側面に取り付く場合、家の棟と並行する壁側を「平」と呼ぶことから「平入り」。
短い側面に取り付く場合、家の棟とちっょかく方向の短い壁面を「妻」と呼ぶことから「妻入り」と呼び分けている。
内陸部で発見されている玄室の形状は、このうち1.5〜2m四方の「平入り」が中心である。
一方、平野部で発見される、早い段階の地下式横穴墓は「妻入り」が主体で、しかも奥行きを4〜5mと長大なことが大きな特徴である。
長大な玄室は、横穴式石室のものであり、屍床と呼ばれる遺体を治める浅い溝を掘り窪めるのは、高塚古墳の埋葬施設の痕跡を残すものである。 |
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68古墳時代 宮崎の刀剣に見る 地域性
鉄製刀剣(鉄剣・鉄刀)
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鉄剣と鉄刀の違いは、鉄剣が両刃、鉄刀が片刃である。鉄製刀剣は弥生時代中〜後期に出現した。弥生時代〜古墳時代前期頃までは出土数が少なく
短剣が主流である。古墳時代中期に入ると、長剣・大刀の出土例が増加する。このことから古墳時代中期頃に刀剣類の国内生産が本格化が考えられる。
宮崎県内地下式横穴墓出土鉄製品は、外気を遮断した空洞の中で発見されることが多く、保存状態が非常に良く、
酸性土壌で腐食しやすい有機物が残存している場合も多い。鉄製刀剣もその類であり、柄や鞘の一部や刀装具が確認できるものがある。
今回展示しているえびの市島内21号地下式横穴墓の鉄剣には鹿角製の刀装具が確認されるほか、木製の柄に紐を巻いたものや、鞘に樹皮や紐を巻いたものが確認されている。 |
蛇行剣
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古墳時代中期〜後期の鉄剣の中に刀身が直線的ではなくS字状に曲がりくねったものがある。
断面ではなく平面が曲がっていることから、銹化して曲がったのではなく最初から曲げられていたと考えられる。これを「蛇行剣」と呼ぶ。
蛇行剣は現在全国で約50の出土例があるが、二段逆刺鉄鏃(かえりやじり)と同じく、分布域が畿内と南九州に集中する。
宮崎県域では約20例が確認されている。畿内政権との関連が想定できる遺物の一つである。 |
宮崎の刀剣の
地域性鉄剣両刃/鉄刀片刃 |
鉄製刀剣
(鉄剣・鉄刀)鉄製品の技術が高まり、刀剣が進歩した |
蛇行剣蛇行剣や七支刀など朝鮮半島から持ち込まれた。 |
鉄器鍛造技術が高まったからだ |
蛇行剣/鉄鏃/
イモガイ製貝輪 |
巨大な鉄鏃
スーパー弓矢「弩」なんかあったかも |
イモガイ製貝輪
南島文化との強い結びつき。
この頃すでに貝の道が定着。大規模交易が行われていた |
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70地下式横穴墓の変遷
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地下式横穴墓は、その出現の当初から平野部と内陸部では、全く異なる発想で生み出されたかのような違いがある。
内陸部では、先行して存在した横口式土壙墓に規定され、平入の玄室が生み出された。やがて
宮崎平野部では、横穴式石室の直接的な影響下に、妻入りの玄室が生み出された。
妻入り型の地下式横穴墓は、海上の道とは別に、宮崎平野部から内陸部の都城盆地を経由して、大隅半島へと伝えられた。
都城盆地に登場する前方後円墳は、この妻入り型と一体的な動きの中で成立したものである。
平入り型は、小林盆地を経由してえびの市大口盆地まで到達した。しかし、都城でも平入式の横穴墓群が出土している。 |
ピラミッドの玄室のようにこれも進化するんだな |
地下式横穴墓は
内陸部では横口式土壙墓から平入り式が、
平野では横穴式石室から妻入り式玄室が発生。
妻入り式は宮崎平野→都城→大隅半島
平入り式はえびの市・大口盆や小林盆地へとひろまった。 |
地下式横穴墓は1000基も発見。古墳より多くの武人の墓。かなりの権力 |
やっぱ墓堀職人もいたんですよね。
玄室作ったり、いろいろやったんだ。 |
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72副葬品 宮崎平野の隠然たる影響力
都城盆地の特異性-歴史の行方を左右する地域-
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薩摩島津氏の発祥の地とされている都城盆地は、不思議な地域である。
南九州の中世から近世において、独特の歴史の舞台となったように、遡って古墳時代においても、内陸部の地域の中では、独特の地域性を示している。それは、霧島連山を背後に控えた広大な盆地が育んだものである。
一つは、内陸部へ進出した前方後円墳の執着地点であること。そして、内陸部でありながら、地下式横穴墓は妻入り型の玄室を設け、鏡や玉類といった平野部的な組み合わせの副葬品を持つことが出来た。(※宮崎平野部から遠征してきた勢力が占領支配した証でしょう)
このことは、南九州の古墳時代の行方を決めるキャスティングボート(拮抗した2つの勢力の行方を握る第3勢力)をこの地の勢力が握っていたことを意味する。(※どことどこの勢力のことを指しているのでしょう) |
確立した階級社会での物の移動 |
献上か下賜か |
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甲冑 |
軽石製石棺
鹿児島県大崎町
地下式横穴墓出土内部ベンガラ塗り
人骨・鉄刀出土 |
祭祀具鋳造の銅製品は何? |
都城盆地の特異性独特な権力者がいた |
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魔除けの、鏡と首輪 |
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六野原古墳群
前方後円墳の主体部が地下式横穴墓であった驚くべき事実 |
死者に食べ物を供えるた |
使者に供えたもの
アワビを供えた |
短冑 短甲も同じ |
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「接ぎ木」された支配原理
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征服国家というほど過激ではなかったものの、騎馬の習慣が半島を経由してこの国に来たことは、
5世紀頃から多く副葬されるようになる馬具類の出土や、近年調査例が増加している馬の犠牲葬によっても知ることが出来る。
魏志倭人伝に「その地に牛馬虎豹羊鵲(かささぎ)なし」とあることから、弥生時代の3世紀頃までは、馬は飼育されていなかったとみられている。
(※吉野ケ里から3世紀半ばの馬具が出土している。)
その後「百済王。阿直伎を遣わして、良馬二匹を貢る。即ち軽の坂上の厩に養わしむ」(応神天皇15年日本書紀)とあり、
少なくとも4世紀後半から末までには、列島弧内で馬が飼育されるようになったと考えられる。
注目すべきは、馬そのものよりも、
稲作において米そのものよりも水田耕作がもたらした社会構造・体制の変化が問題であったのと同様、
遊牧・騎馬民族の社会構造などがどのように列島弧の社会に接ぎ木されているのかが問題であると考える。
結論を先に言えば、農耕社会と遊牧・騎馬社会双方の支配原理の「接ぎ木」というべき構造が、
後の「日本」社会の特質を形成したと考えられる。
そして、この「接ぎ木」された支配原理は、ことに、南九州の地域支配のために有効に作用した。
つまり、農耕社会が達成した「集村型社会」とは異なり、地下式横穴墓社会の地域的な独自性や
各墓域の自立性などから導き出される伝統的な狩猟や畑作に基礎付けられた「散村型社会」は、
一面では遊牧・騎馬社会と構造的に共通している。この共通項ゆえに、遊牧・騎馬社会の支配原理が有効だったのである。
(※日本列島にかつて起こった騎馬民族征服説は否定されています。) |
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稲作文化の社会構造や遊牧騎馬民俗の社会構造が、列島弧の社会に接ぎ木されたのか。 |
接ぎ木された支配原理農耕集村型社会と異なる伝統的狩猟・畑作の散村型社会は遊牧騎馬社会と共通した支配原理 |
馬具 |
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額田部の大王/厩戸皇子摂政/仏教の伝来 |
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宮崎の横穴墓分布 |
須恵器
古代中央政治の進出
役所の設置 |
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74地下式横穴墓の終焉
地下式横穴簿の終焉
地下式横穴墓は全国的な横穴墓と融合して終焉した |
瀬戸内航路の海の道から、新しい墓制がやってきた |
地下式横穴墓の楔形羨道 |
外観と内部構造 |
装飾古墳・葬列
野辺の送りは原始宗教の時代にすでにあった |
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これを鬼と呼んでいるのかな |
石室内の線刻 |
先進国に仲間入りするために、百済に求められた仏教の国教化 |
狐塚古墳/7世紀前半 |
大型横穴式石室は地下式横穴簿から得た知識だそうだ |
乗馬 |
鬼の巌古墳 |
あの世に送った土器 |
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横穴式玄室 |
青銅の
馬具/直刀/椀
玉類 |
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76鬼の窟古墳
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酸化・還元した土器 |
酸化
…赤い柔らかな
還元
…灰色硬い土器 |
赤い土器・酸化土器 |
灰色土器・還元土器 |
竪穴住居にかまど |
高床建物 |
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玄室の構造 |
直刀 |
死者の魔除け道具 |
直刀 |
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78中期の古墳
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80古代
年表 |
戦乱混戦の古代遣隋使・遣唐使の前に遣新羅使があった |
遣髄・唐使とは新羅商人に舟と交易の利益を供与して連れて行ってもらったのだ |
一回の交易船団で天文学的利益があった |
古代の南九州の政治的混乱 |
食器と木簡の墨書
「厨」
「日向の國牛革四張」
「日向の圀牛革」
「主幔?」 |
役所と寺院の瓦 |
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仏教伝来任那日本府滅亡後百済より仏教信仰を勧められる |
児湯郡の印→ |
児湯郡印→ |
児湯郡印この印のこと |
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人々は仏教と律令によって束縛された |
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唐の国際関係冊封体制・・諸国が中国の属国となり翻って支配の根拠とすること |
古代国家の範囲
南島からの朝貢 |
古代国家の範囲東北地方の支配 |
熊襲・隼人の大楯 |
等身大の人間と神話意味の良くわからないパネルです |
熊襲・隼人意味の良くわからないパネルです |
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91西都原考古博物館
一階の展示を見て屋上に出るとこの景色 |
古代生活体験館古代学習実習場にしては巨大すぎる建物 |
九州山地 高千穂方向 |
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西都原古墳群の遠景 |
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