西日本の縄文 -山口の考古遺産- 37 2016.07.29-2 土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム 山口県下関市豊北町大字神田上891-8 083-788-1841 月曜休館 撮影可 交通 レンタカー 時代 弥生前期中頃〜中期中頃 (紀元前250年頃〜紀元50年頃)の墓地遺跡である。 ※この年代設定は旧弥生時代で、新設定では中期中葉〜中期後葉となります。 見所 全体として、古人骨の博物館である。 響灘周辺の人骨の系統と貝交易。 中国(大陸)系渡来人の埋葬人骨 シャマンが多数の矢で射殺されたままの埋葬人骨 裏話 この頃大陸では秦が国土を統一。徐福は一族郎党を何百艘の舟に乗せ、神仙薬 (不老不死薬) を探すと称して脱出し、 多くの舟が日本列島各地に到達。秦・畑などと称して現在まで続いている。 その一団が土井ヶ浜に到達し、その埋葬人骨であろうとも言われている。 |
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01外観・入口展示
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20弥生シアター -渡来人・弥生人・縄文人- |
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21弥生シアター
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22九州の3種類の人骨 |
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23貝輪の道 |
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24渡来人のふるさと ここからは3D映像で見にくくなっています |
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25人種タイプ 九州・山口の貝交易にかかわった人々の人種タイプである。 |
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273つの人種タイプ分布地域図 |
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29有珠モシリ遺跡の貝製品 北海道噴火湾沿いの伊達市から発掘された南島貝製品 |
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土井ヶ浜人のまとめ ・弥生前期〜中期の遺跡 (旧設定) 秦の始皇帝は紀元前 (259〜210) なので、遺跡の存在年代紀元前250年頃〜紀元50年頃の始まりと一致し、 徐福一族との話はまんざらでたらめでもないようです。 ・北西九州・山口の響灘周辺には半島人が多かったが、土井ヶ浜には山東半島出身の漢人が住んでいた。 ・貝交易は、紀元前9世紀頃には始まっていたので、大変な後発で、既に独占市場になっていたところへ多数の勢力が激烈な参入戦争を繰り広げ ていた頃で、不安定な状況で、船舶だけを持っていた渡来人のムラでは、貝交易にかけるしかなかったのでしょう。 ※貝交易についての、熊本大学教授木下尚子氏の論文は削除され、現在その要旨を伝えるのは沖縄埋蔵文化財センターのみとなりました。 ・土井ヶ浜型貝輪の分布 引用「民俗学伝承ひろいあげ辞典」 「海の道・貝の道」 「恵山文化・イモガイ貝輪と沖縄・隼人」 ・貝輪の意匠 弥生人にとって、ゴホウラ製貝輪(金隈型・土井ヶ浜型・立岩型)は、男女共用の「広田型」と、壮年女性と判断された1例の「諸岡型」を除き、 選ばれた男性だけに許された「男性専用の貝輪」として認識されていたようです。 引用「市原市埋蔵文化財センター」 |
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40土井ヶ浜遺跡 |
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41プロローグ |
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42土井ヶ浜遺跡 |
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43土井ヶ浜遺跡の埋葬 埋葬姿勢は、頭を東に置き、やや首を立てて海の彼方を見て仰臥しています。 両腕は肘を曲げて肩や腹に置き、両足は足首をそろえて膝を軽く曲げています。 遺体の大部分は浅く掘られた穴にそのまま埋められましたが、長老は石の棺に手厚く葬られたり、遺体の四隅に石を置く墓も見られます。 一度埋葬された遺体の頭だけを1か所に集めた集骨と呼ばれる再葬墓も特異です。
※1鵜を抱く女 壮年の女性人骨で、胸部から鳥の骨が検出され、鳥を抱いて埋葬された(1号人骨)。 弥生時代の人々は、鳥を神の国と人の世を仲立ちする使者と考えていたことが判っている。 このことから、この人骨は、特別な霊的能力を持った女性シャーマンの埋葬例ではないかと推定されている。 また、鵜が水田稲作を行う集団にとって特別なトリとみなされていたと推定されている。 鵜の羽は安産のための霊的な力を持つということが『記・紀』のなかで語られている。 転載wikipedia土井ヶ浜遺跡 ※2「英雄」 戦士の墓 「英雄」は78人以上の人々と共に海岸の墓地に眠っていた弥生前期の人で、1954年の第2次調査で出土した第124号人骨のことである。 この人骨の胸から腰にかけて15本の石鏃が打ち込まれていた。 至近距離から打ち込まれたものとされ、土井ヶ浜のムラを守るために戦った戦士であったとも考えられている。 彼は体格のいい成人男性であり、右腕に南島産のゴホウラ貝で作った腕輪をしていることから、南方系の人々と関係が深いと推定する ことができる。 転載wikipedia土井ヶ浜遺跡 しかし、 貝輪をしている事からシャマンで、貝交易船などの安全帰還を念じる祈祷で舟が帰って来ず、敗れ、そのため殺されたとも考えられている。 もし、戦士・戦争なら、他にも沢山の戦死者が埋葬されているでしょう。 ※土井ヶ浜遺跡博物館の表現は、あまりにも抒情的すぎる表現は事実を曇らせる。 「鵜を抱く女」は鳥と共に埋葬された老婆。「英雄」は祈祷に敗れたシャマンの姿。に過ぎない。 ただし、中国洞庭湖には昔から鵜で魚を獲る漁があったため、鵜匠かもと思った。 全文転載 「土井ヶ浜遺跡の鵜を抱く女は卑弥呼のお婆ちゃん巫女」
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46土井ヶ浜遺跡の成り立ち 土井ヶ浜の砂丘は、縄文時代の終わり頃、気候寒冷化・海面低下の時期に、低地に突き出た丘陵の先端に形成されました。 弥生時代の初め頃、移住者は、できて間もないきめ細かい白い砂丘を自分たちの墓地に決めました。(第5層) やがて砂丘に植物が繁り、黒味がかった砂の層ができました。 弥生時代中頃の墓地はこの黒い層に葬られています。(第4層) 弥生時代終末期〜古墳時代の初め頃には、ここは生活の場であった痕跡がうかがえます。(第3層) その後、中世〜近世には季節風によって砂丘からもたらされた荒い白砂が厚く堆積しました。(第2層) この砂には多量の貝粉が含まれていて、下層の弥生人骨の保存に大きな役割を果たしています。 |
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47埋葬の形態 土井ヶ浜遺跡は砂丘に造られた埋葬遺跡です。 土井ヶ浜弥生人はこの共同墓地で祭祀 (墓前祭) を行い、供え物をささげ、死者を手厚く葬りました。 その様々な埋葬の形態から、土井ヶ浜弥生人の祖先への想いや、村の幸せを願う祈りが聞こえてきます。 |
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70土井ヶ浜弥生人の特徴 |
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71東アジアでの人の動き ヒトは遥か昔に大陸から渡ってきました。 今から50〜30万年前頃の北京原人の時代から、数回にわたって渡来してきました。 約2万年前 旧石器時代の終わり頃(5万-1万年前)、縄文人の祖先となる人々が大陸から陸橋を通じて渡ってきました。 沖縄県の港川人、愛知県の牛川人、静岡県の三ヶ日人・北浜人、大分県の聖岳人などがその例です。 おそらく北ではサハリンを南下し、南では朝鮮半島から日本列島へやってきたのでしょう。 約2300年前 約1万年前の縄文時代になると気候は温暖になり、陸橋はなくなり、大陸からの流入は途絶えました。 やがて、縄文時代晩期から弥生時代前期頃 (2300年前頃) にかけて、朝鮮半島や中国大陸から再びヒトが渡来してきました。 |
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72弥生人と縄文人の比較 |
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73日本人の身長の変化 |
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80列島の先史時代人 |
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81旧石器・縄文 旧石器時代人 旧石器時代人の出土例は少なく、頭蓋骨の特徴を知ることができるのは沖縄県の港川人のみです。 骨は厚く、顔は幅が広く、高さは低い。眉の上の隆起は強く、鼻は高かったようです。身長は低い。 縄文人 前期頃の縄文人はきゃしゃでしたが、後期の骨は硬くて、頭蓋は身長に比べて大きく、顔面は幅が広く、高さは低い。 眉の上が隆起し、鼻が高いので鼻のつけ根(鼻根部)がくぼみ、ホリの深い容貌をしています。 |
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82弥生人のタイプ 北部九州・山口の弥生人 頭型は中頭型で顔面の高さは高く、眉の上の隆起は弱い。 鼻が低いのでホリは浅く、身長は高い。歯の咬み合わせは鋏状咬合(上の前歯が下の前歯の前にかぶさる形式)。 西北九州の弥生人 頭型は中頭型で、顔面の高さは低く、幅が広い。 眉の上が隆起し、鼻が高く、ホリが深い。身長は低い。 南九州・南西諸島の弥生人 短頭型で西北九州の弥生人よりも、顔面の高さは低く、幅は広い。身長は低い。 関東の弥生人 この地域では、鼻根部の形態から、@縄文人に近い弥生人、A古墳人に近い弥生人、B両者の中間的弥生人、が見られます。 |
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82弥生人骨の比較 |
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83古墳人・近世人 古墳時代人 地域や身分によって差が見られますが、一般的に頭型は長頭形に近づいています。 面長で高身長の人と、顔面の高さが低く、低身長の人がいます。 全体として、次第に鎌倉・室町時代に近づいています。 鎌倉・室町時代人 頭形は著しい長頭型で、顔面の高さは低く、幅が広く鼻のつけ根が扁平で、鼻も低くなっています。 上顎は前歯(切歯)が前へ突き出し、「そっぱ」になります。 身長は低い。 江戸時代人 頭型は長頭型に近い中頭型です。階層によって差が認められ、一般に顔の高さは低く、幅が広く、低身長ですが、 中には浮世絵などに描かれているような顔の長い人々も現れ始めました。徳川将軍家などの上層階級の人々は著しく面長で、華奢でした。 |
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90日本人の顔 |
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91日本人の顔は、 日本人の顔は、縄文時代から現代まで大きく変化してきました。そして、今後も進化していくはずです。 各時代のうち最もはっきりした特徴を示しているのは、縄文人と中世人 (鎌倉・室町人) で、この両時代人は、一種の極限状態を示しています。 弥生人には地域差が見られ、縄文的特徴を強く残す人々と、持たない人々がいます。 縄文的特徴を持たない地域が土井ヶ浜や北部九州など、大陸に近いことから、渡来人と推測されています。 現代人 頭型は短頭型で、次第にその傾向が強くなっています。 最近の若者は顔が著しく長くなり、鼻も高く、高身長で、体格はスマートになっています。 また、おとがい (下顎の前方部) が前へ突き出る傾向にあります。 |
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100装身具に見る弥生人の心 |
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101弥生の貝文化と貝の道 南島・東アジアの貝文化と弥生の貝文化 新石器時代、南西諸島では豊かな貝文化が栄えていました。 同じ頃朝鮮半島から東北アジアに至る地域にも貝の臼玉などを好んで使用する貝文化がありました。 弥生時代の九州に、大きくて美しい南海の巻き貝(ゴホウラ、イモガイ)を求めて、遠く沖縄や奄美大島に渡って行こうとする勇敢な人々が現れ ました。 土井ヶ浜人もその一員でした。かれらは求めた貝で縄文時代にはない新しい形の腕輪(貝輪)を作り、とても大切にしました。?? ※土井ヶ浜人は自ら舟を仕立てて貝交易に参加し、加工までしたのは、貝輪交易で富を得るためで、自家消費のためではありませんでした。 二つの貝文化圏 ゴホウラ・イモガイ貝輪文布圏 沖縄島〜奄美大島産の貝を、西北九州の弥生人が買い付け運搬し、荒加工し、北部九州にもたらしました。 完成品は九州から礼文島までの日本海・瀬戸内沿岸の航路によって交易されました。 オオツタノハ貝輪文布圏 伊豆諸島産の貝製品は東日本の太平洋側を中心に分布しました 貝の道 南海産の貝は、南島から北部九州、山口、更には北海道まで運ばれていきました。このような貝の交易路を貝の道と呼んでいます。 土井ヶ浜に貝製装身具が多いのも、ここが貝の道にあたっていて、しかも朝鮮半島に近く、大陸文化の影響を受けやすいためです。?? ※貝輪は日本列島向けで、真珠質の美しい貝は半島との交易に用いられ、やがて装飾品や螺鈿細工などに加工されました。 貝交易については「沖縄写真通信 沖縄県立埋蔵文化財センター 貝の道」をご参照ください
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102広田遺跡の貝製品 画像転載「南種子町 広田遺跡 これまでの調査」
なので画像自粛。載せたかった画像は広田遺跡にあります。 |
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103アジア諸民族の貝文化 |
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104貝輪のいろいろ
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120魂のアクセサリー |
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121パネル 魂のアクセサリーとは、 自然界の不思議な力や人間の神秘的な力、未来を予言する呪力を肉体に繋ぎとめたり、する役割を持ったもの。 それは、人間の内側にある≪魂≫に対して飾り付けられていたと言えます。 シャーマンとアクセサリー 人々は生活の中の様々な不安と戦うために、呪(まじな)いに頼っていました。これらの祈りや占いを専門にする 呪術師(シャーマン・シャマン)は呪力を高めるためにアクセサリーを沢山身にまといました。 土井ヶ浜のシャーマン 土井ヶ浜では少数の限られた人々だけがアクセサリーを付けていました。ムラのシャーマンです。 彼らの付けていた貝輪・指輪・玉は≪魂のアクセサリー≫と言えるでしょう。 シャーマンはそれぞれ異なったアクセサリーを付けていました。これは互いに異なった内容の呪力を持っていたからではないでしょうか。
ゴホウラ貝と渦巻き紋様 土井ヶ浜の貝輪には、巻貝を擦(す)ってできる渦巻形の孔がくっきりと見えます。 同時期の金隈遺跡や吉野ヶ里遺跡などのゴホウラ貝輪にも、渦巻き紋様が見られます。 貝輪にとって渦巻き紋様こそが、実は≪魂のアクセサリー≫であるための重要な部分だったのです。 渦巻き模様の意味 渦巻き模様は、弥生時代の代表的な祭具である銅鐸、銅剣、土器や、また同時期の朝鮮半島の農耕祭祀の道具にも見られます。 つまり、渦巻き紋様は朝鮮半島から日本に入って来た農耕祭祀の大事な記号なのです。 人々は渦巻きの形に作物の生命力を感じたのではないでしょうか。 玉と南海産貝輪 ゴホウラやイモガイは磨くと白くつややかで、手触りは中国人の愛好する玉に似ています。 玉は中国では神秘的な生産力や生命力を持つとされる特別の石です。 ゴホウラやイモガイは、大陸や朝鮮半島農耕文化の思想に接した弥生人が、渦巻きと玉の呪力を求めてやっと探し当てた大変貴重な材料 だったといえる。 金属の貝輪 ムラはクニに発展し、クニの首長は政治・軍事に加え、司祭をも兼ねる支配者となりました。 すると、貝輪は薄く角ばった形に変化し、当時流行し始めた≪鈎の呪力≫と結びつき、貝から青銅へと変化します。 魂のアクセサリーは次第に金属製になってしまいました。 勾玉の呪力 勾玉は縄文時代前期頃に現れ、弥生時代にも盛んに使用されました。 紐をぐるぐる巻きに結び付けて≪結びの呪力≫ 単純な鈎形で≪鈎の呪力≫など示すものがあります。 小児人骨と死勾玉 土井ヶ浜遺跡では、子供の人骨に伴って鈎形の翡翠勾玉が1個出土しています。子供の呪力を死後も引き止めたかったのでしょう。 |
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123アクセサリー |
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130土井ヶ浜遺跡の装身具 |
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131 |
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133貝製装身具 土井ヶ浜遺跡では、腕輪や首飾りなどの装身具が沢山見つかっています。材料は貝や緑色の石、ガラスです。 中でも貝製品の多さがこの遺跡の特徴です。 土井ヶ浜遺跡の装身具 貝製品には貝輪(腕輪)、指輪、玉類などがあります。貝輪には、奄美・沖縄などの南海産の貝で作ったものと、近海の二枚貝で作ったものが あります。 貝輪を持っている人はとても少数なので、彼らはムラの中で特別な人々だと考えられます。 |
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140土井ヶ浜の春 |
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141南海産貝の入手 南海産貝は、西九州の弥生・縄文混血系の人々が冬の季節風に乗って南島へ貝交易に出かけ、 主に食料と交換して、初夏の南風に乗って持ち帰り、それを北九州の渡来系弥生人(朝鮮人商人)が受け取る仕組みです。 この貝交易商人の独占的な交易が1000年以上続いたと考えられます。(ために、幾度も反乱が起きた) 貝交易は、独占的権利があり、誰でもが簡単に参加することができない仕組みです。 土井ヶ浜人は、ここに入り込む株を持っていたのか、それとも、商人から貝原料を入手したかですが、 どうも、彼らも株仲間だったようです。 土井ヶ浜の春 温かい南風に吹かれて、稲は若い目を伸ばしはじめました。 今日は大切な祭りの日。農耕の儀式を行うムラのリーダーや 呪術者たちは、装身具や衣装の準備に余念がありません。 ムラの人々の祈りが天に届くよう、気持ちを静め、精神を集中させていきます。 準備を進めているところへ、冬に貝を採りに南の海に出かけた船が帰り着いたようです。 家族や村人たちの出迎えで、浜はたちまち 人だかり。 さて、今年はよい貝を手に入れられたでしょうか。 ※下の再現ジオラマでは、上の詩と、再現されている情景と、鵜を抱いた女性との間に どんなお話を想定しているのかがよくわかりません。 再現風景は、 @貝輪を砥石にこすり付ける老人。A貝輪を腕に通して見せている若者。B覗き込む子供。C足元に祭祀用特殊注口土器がある。 D後ろに立っている女児は腕に二枚貝の貝輪を三つ、手の中に一つ持っている。腕のは金属製かも知れない。 E男の後ろには蓋付きの大甕が。甕棺用が置いてある。 |
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160人骨 |
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161埋葬された人骨 |
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170土器が示す人々のつながり 土井ヶ浜遺跡出土の土器は、全て埋葬祭祀の土器です。 |
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171土器 土器は時代や地域によって、形や紋様、作り方などにそれぞれ特徴が見られます。土器は遺跡の年代を決定したり文化圏の繋がりを示します。 土井ヶ浜遺跡の土器 土井ヶ浜から発見された弥生中期の壺形土器は、北部九州や、韓国の伽耶遺跡からも出土しています。 海を越えて各地の人々が行き交い、文化が交流していたことを示しています。 韓国「金海池内洞遺跡」・北九州「三雲遺跡」・山口「土井ヶ浜遺跡」から同じ土器が出土しています。 同一交易圏にあり、定期航路で結ばれていたのではないでしょうか。
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172土井ヶ浜の土器 は、埋葬や儀式に関係するものです。集落遺跡に多く発見される煮炊き用土器、甕は、ここでは壺の代用として使われました |
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173土器の変遷 |
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174土器の比較 表は北部九州と西部瀬戸内地域の弥生土器を時代ごとに示したものです。上の土井ヶ浜のものと比べてみましょう。 |
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175弥生前期 |
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176弥生中期 |
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180「英雄」の死の謎 以下に、全身に多数の矢を射こまれて絶命した男の骨が発掘され、この館では、ムラを守るために死んだ英雄とされている。 しかし、 被葬者は貝輪をしたシャマンで、矢も抜かれず顔を潰して埋葬されている。 英雄ならば矢を抜き、きれいにして埋葬する。顔を潰して埋葬したりはしない。 ・「矢を受けたシャーマン」 この被葬者の右腕には土井ケ浜遺跡から出土したゴホウラ製貝輪としては最も美しい形をしたものが2個着装されていた。 遺体の周辺から12個の石鏃(せきぞく)と2個のサメの歯製の鏃(やじり)が発見された。 そして顔面が破砕され、頭蓋骨には2個の鉄鏃が射込まれた跡があった。 この男性シャーマンは、鉄鏃を射込まれて絶命した直後に、顔面を破壊されたものと推測されている。 制裁を受けたシャーマンだったと推測されている。 引用転載「男の着物 -土井ヶ浜遺跡の弥生人たち」 ・矢を浴びた英雄は持衰かシャーマン? 至近距離から射られています。 「これは処刑じゃない?」 「うん、死刑だね」 これは夫との会話です。 (持衰かシャーマンではないだろうか。この人は何か失敗したんではないか…) 全文引用 持衰(じさい)とは魏志倭人伝に出て来る、倭人独特の風習です。 倭の者が船で海を渡る時は持衰(じさい)が選ばれる。持衰は人と接せず、虱は取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。 船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。(ウィキペディア) 船を守るのに失敗した持衰。あるいはムラの命運を握る占いに失敗したシャーマン。そんな妄想を抱きました。 ただ、この人たちを倭人とすると、問題が起こります。響灘の弥生人は渡来人だと言う説と矛盾するからです。 引用転載「ひもろぎ逍遥 -矢を浴びた英雄は持衰かシャーマン?-」 土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアム の主張する「英雄の死」という見方は多分に抒情的・感情的で、叙事的・学問的裏付けのない主張に見えます。 やはり、持衰説が妥当ではないでしょうか。 シャマンの祈祷力はそこまで要求されたのでしょう。 土井ヶ浜人は中国人渡来者であるが、魏の国人からすれば、倭に棲む者は皆押しなべて倭人と考えられたのでしょう。 ※倭人とは倭に住む人々を一般的に指したものだと思います。 例:アメリカ人には沢山の各国出身の人種が含まれているように。 しかし、なぜ館は美化するような、見当はずれの見解を付けているのだろう。 優秀な学者が多数協力したであろうに。これこそが謎です。 |
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181「英雄」の死の謎 弥生時代は、わが国史上初めて戦争の始まった時代です。狩りに使われた弓矢は戦争の武器に変わります。 英雄と仮に呼ばれるこの男性も、そうしたムラとムラの戦いで壮絶な死を遂げた人だったのでしょうか。 あるいは、神の意志を聞くことができなかった「神を祭る人」の最後だったのかもしれません。 |
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190貝殻紋様 北九州・響灘沿岸にみられる貝殻文 土井ヶ浜遺跡や下関市の綾羅木遺跡など、響灘沿岸の弥生時代の遺跡からは貝殻で紋様をつけた壺が数多く見つかっていて、 この地方の特徴となっています。 貝殻で描いた紋様を貝殻紋と呼んでいますが、この地域では主にタマキガイやベンケイガイなどの二枚貝を使っています。 これ等の貝の口は、内側が鋸の歯のようになっていて咬み合っています。 弥生人は、この貝殻の歯の部分を回転させたりしながら、沈線、羽状紋、鋸歯紋、重弧紋、木の葉紋などの紋様を描いています。 |
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191貝殻文の描き方 |
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200屋外展示施設土井ヶ浜ドーム 土井ヶ浜埋葬遺跡から発掘された300体余りの人骨は、みんな北西を向いていました。 これは、彼らがやってきた中国山東省を望郷しているかのようです。 土井ヶ浜人は面長でホリが浅く、身長が高い(男性:163cm,女性:150cm)という特徴を持っています。山東省の漢代の人骨に共通しています。 土井ヶ浜など響灘沿岸の砂には大量の貝殻の破片が混じっています。これが酸性の雨や環境から人骨の溶解を守りました。 |
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201陶板の案内板 遺跡の概要と重要性 遺跡は、弥生時代前期から中期(2300〜2000年前)にかけて砂丘上に営まれた弥生人の集団墓地です。 総数300体余りのほぼ完全な弥生人骨が出土し、全国でもまれにみる大規模な埋葬遺跡です。 石棺や配石などのいろいろな埋葬方法が採られていることや、頭を規則的に東に置くなど、弥生時代における埋葬習俗がよくわかります。 また、日本人の起源を解明することができる数少ない重要な遺跡です。 保存と環境整備 遺跡の主要部に多い屋根をかけ、発掘時そのままに、80体の人骨レプリカを復元し、その他は埋め戻しました。 ドーム周囲には当時の、砂地の砂嘴的環境の復元をテーマにしました。西側に砂丘堆、南側の水田を弥生のラグーンに、 その向こうの丘や山を生活地として借景としました。周囲にはハマユウや自生のトベラを植え、玄武岩を配置しています。 農耕生活の始まり 紀元前2〜3世紀になると、知友極の勢力が朝鮮半島を経て九州北部へ伝わりました。それは、縄文式と異なる土器を生み 金属器をもたらし、何よりも水稲農耕を伴う新しい文化でした。人々の生活場は、丘陵・海辺などから低地に移りました。 居住は依然、竪穴式で、穀物は貯蔵穴や高床倉庫に保管していました。農閑期には土器を焼いたり、木製農具を作りながら、 海に出てアワビやサザエなどの漁に精を出していました。 人骨から見る弥生人 弥生人骨の約9割は、九州と山口県西部に集中して出土しています。その他の地域では、人骨の保存状態が悪く、 発見数も少なくその特徴はまだわかっていません。骨が残っていた理由は、乾燥した砂丘と、砂に混じった多量の貝粉があったためでした。 九州・山口県西部の弥生人は、顔の長さや身長の違いで3タイプに分類できます。 土井ヶ浜弥生人は、北部九州山口タイプと呼ばれ他と比べて顔が長く骨は細い。身長は男性で162〜164p女性は150p程度と高いことが 特徴で縄文人と大きく異なっています。 土井ヶ浜の墓 弥生時代には現在の海岸線に直行して突き出た砂丘がありました。弥生人の墓地は約200年間にわたってこの砂丘に沿って 東西に長く営まれました。 埋葬方法は様々で、特別な埋葬施設を持たないもの・頭辺に礫を置くもの・礫または土器を枕とするもの・四隅に礫を置くもの・ 石囲いまたは組合式箱式石棺に入れたものなどが見られます。 また、発掘地の東に男性と子供・西は女性が多く発見され、このムラで生まれた人、ムラに入って来た人などで墓域に区別があったことなども わかっています。 |
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201a |
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202土井ヶ浜ドームの人骨 80体分の人骨を展示。 鵜を抱く女シャマン。 ゴホウラ製腕輪をし、射殺された男性シャマン。 6体分の人骨が確認された長大な石棺。 男性人骨と幼児骨が納められた石棺。などが展示中。被葬者は皆、北西を向いています。 |
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203 単葬と副葬 土井ヶ浜遺跡の埋葬例には、他の遺跡では見ることのできない特殊なものがあります。 写真の人骨の右下を見ると人骨がバラバラに寄せ集められているのがわかります。 このように一度埋葬された遺体が掘り起こされ、再度埋葬されたものを、 複数回の埋葬と言う意味で「複葬」と呼びます。 また、一度の埋葬のままのものを一回埋葬が行われたという意味で「単葬」と呼びます。 写真の事例は、青年女性の単葬例と、成年男性の複葬例が合葬された、珍しい埋葬例です。二人が生前に強い結びつきを持っていたことを 想わせます。 装身具を付けた人骨 土井ヶ浜から出土した装身具には、貝殻から作った腕輪(貝輪)や指輪の他に、耳飾りの碧玉製管玉、翡翠製勾玉、貝製臼玉などがあります。 貝輪には、ゴホウラ・イモガイなどの巻貝製と、ハイガイ・タマキガイなどの二枚貝製のもの、カサガイから作ったものがあります。 巻貝製貝輪は大人用。ハイガイ・カサガイ製は子供用でした。指輪は巻貝を輪切りにして作ったもので、三角の突起のあるものとないものが ありました。 当時の装身具は単なる飾りではなく、身分を表すためや、身を護るまじないのために使われました。 写真の人骨は熟年女性です。右手に1つ、左手に3つの指輪をしていました。 このような風習は、長崎県五島列島にある浜郷遺跡や大浜遺跡にも見られることから、当時の西北九州の人々と海を通した交流があったと 考えられます。 (西北九州の混血弥生人) 西北九州の半島・縄文混血弥生人 写真下側の熟年男性の顔つきや身長は、土井ヶ浜人のものですが、上側の壮年男性の顔つきは大きく異なるものです。彼は何者でしょう。 弥生人骨を研究すると、現長崎県を中心とする西北九州には、縄文人の特徴を受け継いだ弥生人が住んでいたことがわかりました。 彼らの特徴は、鼻が高く、顔の彫りが深く、身長が低いことでした。 写真上側の人骨は西北九州の弥生人に近く、そこから来たのでしょうか。それとも、土井ヶ浜周辺の縄文人の末裔だったのでしょうか。 いずれにしても、土井ヶ浜の人々には、自分達とは違う異邦人として映っていたことでしょう。 ※西北九州の弥生人は、貝交易の運搬を担う人々でした。つまり、彼らなしでは土井ヶ浜の船は動かなかったのです。 彼らの死体は航路のあちこちに埋葬されました。土井ヶ浜で埋葬されたのは、水難事故か、病気かで死亡したためでしょう。 死産・死亡妊婦の足首を切り落とす 二十歳代の女性です。両膝の間に妊娠8か月の胎児の骨が見つかりました。早産などの出産時の事故による母子ともの死亡と考えられます。 女性人骨の足首から下が切断されて、そこに石が置いてありました。 世界中の民俗の風習を探してみると、出産時の事故で死んだ女性の足首を切断したり、きつく縛ってから埋葬する風習がありました。 亡くなった女性の霊が迷い出てこないようにするまじないだそうです。弥生人も同じことを考えていたのかもしれません。 合葬、同時に死亡した高齢男女 熟年男女の合葬例です。合葬はほぼ同時に死亡した人に行われた埋葬法です。この男女も同じです。しかし、一度に二人も亡くなるのは只事 ではありません。 何らかの事故か食中毒などによって死亡したものと思われます。だとすると、この二人も普段から行動を共にする夫婦だったかも知れません。 |
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210埋葬遺跡 |
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211射殺されたシャマン |