西日本の縄文 17 2015.11.27-2 岡山市埋蔵文化財センター 18 岡山市中区網浜834-1 086-270-5066 日・祝祭日休館 撮影可 交通 ・岡山駅or天満屋バスステーション発 新岡山港行 or 岡山ふれあいセンター行 or桑野営業所行(三蟠郵便局経由) or 湊倉益行で 「網浜中」下車徒歩5分 見所 吉備地方独特の弥生文化 |
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01外観 |
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02入り口展示 |
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10旧石器・縄文時代 旧石器時代は、 石や木そして骨や角などを道具に加工して使っていた時代です。 この時代は50万年前から1万年前までの気の遠くなるほど長い間続きました。 人々は槍などでナウマン象やムカシジカ、小動物などを狩りして暮らしていました。 当時、岡山市は山と原野が広がり、ところどころに湿地があったくらいで、海などは、遥か彼方(四国沖)にまで後退していました。 縄文時代になると、徐々に海面は上昇し、岡山市の位置まで侵入してきました。 自然環境ががらりと変わり、狩りも漁もするようになりました。 土器が発明され、煮炊きができるようになり、食生活が豊かになりました。 道具の種類も増え、身を飾る品も見られるようになります。 縄文時代も後半になると、植物の管理や栽培が行われるようになりました。 晩期になるといよいよ水田での稲作が行われ、弥生時代へと繋がっていきます。 |
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14旧石器時代・縄文時代・弥生時代 |
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20弥生時代 今から約2500年前、朝鮮半島から水田稲作が伝わり、弥生時代が始まりました。 半島から来た渡来人は、稲作だけでなく、大陸の進んだ技術や道具、文化や習わしもたらし、それまでの生活の様子が大きく変わっていきました。 稲作りは食糧の増産をもたらし、人々に貧富の差や身分差が生じました。やがて、争いや戦いが起こり、村々の連合が進んでいきます。 後期になると、吉備や出雲といった地域をまとめた「国」ができ、それを納める「王」が現れるようになりました。 3世紀半ばには、こういった勢力が、畿内を中心に政治的にまとまっていきました。 そして、王の中の王=「大王(おおきみ)」があらわれ、古墳が造られるようになり、古墳時代となりました。 弥生時代の道具 土器は貯蔵、調理、飲食などの日常生活や、祭祀に深く結びついた道具で、最も出土量の多い遺物です。 機能、年代、製作者に応じて様々な特徴を持ちます。 弥生時代には鉄器の使用も始まっていますが、中期末までの刃物は石器が主体でした。 木の伐採や加工に使う斧、稲の穂摘み具である石包丁、工具としての錐や小刀、武器としての剣や鏃などがあります。 木器は腐って残りにくいのですが、条件に恵まれた南方遺跡の出土品は、容器や農具にとどまらず、多種多様で、 木器が果たした役割の高さを知らせてくれます。 農耕祭祀と葬送儀礼 水稲農耕を基本とする弥生社会で農耕のまつりが発達します。それに用いる遺物の代表が銅鐸で、岡山市域では11点出土しています。 後期の吉備では銅鐸祭祀が無くなり、変わって壺や器台を用いたまつりが盛んに行われました。 後期後半に、農耕のまつりが首長の葬送儀式に取り入れられ、特殊器台・特殊壺が成立します。 これらは弧帯文や鋸歯文で飾られた大小の土器で、埴輪の祖形となりました。 吉備は前方後円墳の成立に大きくかかわった地域なのです。 |
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26分銅形土製品 古墳時代に引き継がれなかったまつり 銅鐸、銅鐸形土製品、分銅形土製品、土偶、鳥装などは、前方後円墳の祭祀には採用されませんでした。 分銅形土製品 ここでは、貝殻文による装飾線が多い。貝殻の使い方も熟練している。 |
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27鯨面 弥生時代の土偶 数は少ないのですが、弥生時代にも土偶が存在します。 それらは首より上のものばかりで、土製以外の材料で作られた胴部に接合されていた可能性があり、何らかの祭祀に使用されたとみられます。 ただ、弥生の土偶には、入れ墨を表現したとみられる線刻が認められるものがあり、「魏志倭人伝」で、倭人が鯨面文身を施していると言う 記事の参考となります。つまり、土偶の線刻は入れ墨の記事を具体的に示す資料と言えるのです。 |
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28青銅器 発掘された青銅器 遺跡から銅剣・銅鏃や銅鐸が見つかることがあります。 南方遺跡では弥生中期の溝から中国製銅鏃が見つかっています。 これは、中国中原地域、戦国時代前半 (前5〜4c頃)の双翼式銅鏃です。 保存状態がよく、伝来の経緯・経路は分かりませんが、宝物として大切にされてきたのでしょう。 また、南方遺跡からは銅剣の切先だけを副葬した土壙墓も見つかっています。 弥生後期になると銅鏃などの出土例は増えますが、破片の状態で副葬されていることから、非常に貴重で、実戦品ではなく、祭器だった ようです。 |
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29発掘された楽器 弥生遺跡から木製品の楽器が出土する場合があります。弦楽器としての琴は、形態で板作りと槽作りに分類されます。 前者は一枚の板材を利用し、先端に幾つかの突起を有します。 後者は更に共鳴槽と呼ばれるパーツを取り付けたものです。 また、刻骨と呼ばれる楽器は動物の骨や角に刻み目を入れ、擦り合わせて音を出します。 これ等は、当時行われていた様々な祭祀儀礼の場で使用されたと考えられます。 |
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60古墳時代 |
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61古墳時代前・中期 -巨大古墳の時代-
古墳の遺物
形象埴輪(草摺) 古墳時代中期 (5世紀中頃) 岡山市
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64古墳時代後期 -横穴式石室の展開- 6世紀中期頃からを古墳時代後期と言います。 この頃から、横穴式石室を持った古墳が普及してきます。 しかも、古墳の数が、前・中期に比べて飛躍的に増大します。 これは、首長だけでなく、その配下の者 (有力な家族の長) も古墳を造るようになったからです。 大王を頂点とする畿内政権は、お墓を作る基準や規制 (墓制) を通じて、人々や集団の序列化をはかり、支配していったと考えられます。 岡山では、農業だけでなく、海浜部で塩を作り、山間部で鉄や須恵器の生産も行われていました。 これらの生産者たちも、製塩集団、製鉄集団として、支配者の下に組み込まれていたのでした。 (きっと、この他に、はとりべ集団や木工、その他の職人・工人などが、朝鮮式身分制度の下層民として支配されていたのでしょう) 塚の段古墳群の遺物 上道北方 柄の段1・2号墳 古墳後期 横穴式石室には家長とその家族が埋葬されます。飲食器を中心に多量の須恵器が副葬されており、 死後の世界観が大きく変化したことを物語っています。 ここには塚段古墳出土資料のうち主要な器種を展示しました。 (宝物の副葬はなくなりました。副葬するのでなく伝承するものになったのでしょう) 造山古墳と古墳群 墳長360m岡山県最大、全国第4位の前方後円墳です。古墳時代中期、五世紀前半頃に築造されたようです。 墳丘は三段、くびれの部分の両側に造出しが築かれています。周囲に濠が巡るという説もあります。 造山古墳のの南西の丘陵には、装飾古墳として有名な千足古墳、馬形帯鉤が出土した榊山古墳、埴輪列が見つかった造山第2号古墳など 中小の古墳が6基あります。また、北側には、新庄車塚古墳がかつて存在していました。
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66千足古墳 石室内部と弧帯文石 千足古墳石室内部模型 5世紀前半に築造された千足古墳第1石室を、原寸大で再現しました。 周囲の壁面は、ほぼ全て五色台産安山岩(サヌカイト)を使用し、赤色顔料(弁柄?)が塗布されています。 屍床(遺体安置場)の仕切り石には、正面に直弧文、上面に鍵手文が彫刻されていました。 壁奥には安山岩を使用していますが、その他、石障と仕切り石には天草産の砂岩を使用していました。 |
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67千足古墳出土物 明治の廃仏毀釈令により盗掘されたが、展示物は本物である。 楯飾りの巴形銅器6点、青銅鏡(だ龍鏡)1面、多数の玉類。 青銅鏡は本来怪獣が棒を加えたような図柄ですが、ここでは粗悪の模造のため、毛束のように退化しています。 玉類にはメノウ勾玉、碧玉管玉、なつめ玉ねガラス小玉があります。 |
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68直弧文の起源 直弧文の祖形は弥生時代後半の吉備で流行した弧帯文にあると言われています。 吉備では弧帯文を施した土器や石製品が濃密に分布しており、代表的なものとして、倉敷市の楯築墳丘墓の弧帯文や特殊器台が挙げられ、 その墳丘墓や集落遺跡からも弧帯文が確認されています。 とりわけ楯築墳丘墓の所在する足守川の下流域には濃密に分布しており、吉備の中でもその起源地が更に絞り込まれつつあります。 ここで使用介している遺物も、足守川下流域の遺跡から出土した品々です。 |
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70近世 | ||||||||||||||||||
71岡山城の金箔瓦
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