西日本の縄文 24 2016.04.18 2016.05.14に再取材 古代出雲歴史博物館1 島根県出雲市大社町杵築東99-4 0853-53-8600 第3火曜日休館 撮影可 第1展示室 -テーマ別展示-
交通 出雲市駅よりバス (バスは30分に1本) 下車駅・バス停より徒歩5分 (通常、一畑電車は使わない) 見所 山陰地方最大の考古博物館。地域色豊かな展示が工夫されている。 第1展示室―出雲大社関連の展示 第2展示室―旧石器~近代までの展示 第3展示室―ビデオ資料の上映室 注意 展示資料は膨大です。 各室とも、撮影だけに3時間半。計7時間余りかかりました。つまり、一日がかりで閲覧する量です。 第3展示室のビデオ資料鑑賞を含めるともっとかかります。 ご案内 ・展示方法は、①先に、出土物を展示し、 ②キャプションはひとまとめで提示する。 ③次に、パネルで大規模な量の解説を掲示する。 従って、実物と解説を別々に見ることになり、正直、わけわかんなくなりますよ。(笑) よく覚えていてくださいね。 ・館の管理運営は民間会社に委託されており、大変丁寧です。また、各所に立っている女性は高度な専門知識を持った解説員です。 質問すると初歩から高度に専門的な段階まで答えてくれます。素晴らしいです! お詫び 本ページの中には沢山の誤植等があると思われます。しかし、それを訂正することは現在不可能となっています。ご容赦願います。 |
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01出雲大社関連
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10入口展示 巨大柱 「出雲大社境内遺跡出土の宇豆柱」 |
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テーマ 20「出雲大社と神々の国のまつり」 弥生時代
三途の川の渡し 私には上の線刻画が、三途の川の渡しに思える。 これを私は仏教説話だと思っていた。間違いだったようだ。(確かに仏は出てこない) 死後の世界に関する、人間の根源的な思想のようです。この世とあの世を隔てるのは河川。それは先史時代からの経験を表しているのでしょうか。 ※石の下に納められた祭具 出雲大社東方約200mの命主社の大石の下から出土。銅戈は九州。ヒスイ製勾玉は北陸との交流を物語る。 この場所が、弥生時代にも聖なる場所だったことを物語る。 すると、この巨石は他の地から運ばれ、定礎として置かれたものである。 古代から建物の建築に際して定礎や大黒柱、芯柱の下に宝物を埋めるものであり、現代まで続いている祭祀である。 |
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30巨大神殿 |
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31土地にうもれた神話(1) 出雲大社はかつて杵築大社や天之日隅宮ともよばれ、奈良時代にはその名が記録に見られます。しかし、いつ、だれが、何の目的で、 どのような姿かたちで創建したのか、いまだ多くの謎に包まれています。 そこで、神話伝承はもとより、地理学や考古学の最新成果によりながら、「土地に埋もれた神話」を読み解いてみましょう。 創建の記憶 出雲大社の創建は、「古事記」「日本書紀」などの8世紀の神話に見えます。国譲り神話がその代表です。 「大国主神」が治めてきた葦原中津国を高天原の皇孫に譲る代償として、高天原は大国主神が鎮座するための壮大な宮を造営する。」 と語られています。 また、「出雲の国風土記」にも「神々が参集し大神の宮を築く」ことなどが書かれています。創建の由来や建築の様子の詳しい記述は、 他の神社ではあまり見られない大きな特色です。 雲太、和二、京三 平安中期の大きな建物の記録。出雲大社は16丈(高層神殿約48m)、大和の大仏殿は15丈(東大寺大仏殿約45m)、京都の大極殿は不明。 神坐す処―鎮座地周辺の環境― 出雲大社は、その三方を山々が囲み、2つの小さな川が東西を南流するやや開けた谷間に鎮座しています。 地下水が豊富で、古い神社によくみられる背後に山を仰ぐ水源の地、川合いの地と言えます。 近年の地質調査などによると、古代には潟湖が近くに拡がり、良好な港も存在していたと推測されます。 真名井遺跡や境内遺跡出土の祭祀関連遺物などから、この周辺がおよそ弥生時代以来の祭祀と交流の場所であった可能性は高いでしょう。 |
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33神々の住まい ─ 巨大な神殿、出雲大社(2) |
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35杵築大社遺跡
山陰型甑(さんいんがた-こしき) 用途不明土器で、こしきに似ていることから、そのように名づけられています。しかし、2016.9.2に大津市立博物館でこれと同じものを見つけた。 出土地は大津市と大和で、細形と太形が出たため、二つを組み合わせて、煙突ではないかとしていた。 理由は、複数発掘された中の一点だけに内側に煤が付いていたからだ。 しかし、その一点以外は山陰にも畿内にもすすの付いたものはない。煙突は高温度になるのですぐにボロボロになりとても原型を留められない 大津市の学芸員はオンドルの煙突と言っている。しかし、その模型も図もない。積極的に実証しようという雰囲気はなかった。 山陰型甑=煙突説は根拠に欠けるものでした。 |
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37青木神社遺跡 |
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39巨大神殿遷座の記録 |
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(3)神在月の国 ─ 出雲信仰と人々の心 60出雲大社 出雲と言えば、神在祭、縁結び、エビス・ダイコク。 現在に至るまで様々な信仰が各地に息づいています。 出雲の人々の思いと信仰のの歴史に触れてみましょう。 神在月・神無月の由来 旧暦10月に全国の神々が出雲に集まるという伝承は、平安末期の「奥義抄」以来、様々な資料に登場します。 神々は出雲大社もしくは佐太神社などで酒造りをし、縁結びについて合議すると全国で伝えられています。 また、古い文献では、イザナギノミコトの法事のために参集するとも記されています。 ただし、金毘羅さん、戎さん、釜神さんは出雲に行かないともいう。 |
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61 | ||||||||||||||||||||||||
テーマ 70出雲国風土記の世界」 古代 713年、律令国家は諸国に対し、特産物、土地の様子、地名の由来、言い伝えなどを記録し、報告するように命じました。 この命令によって作られた書物が風土記です。出雲国では733年に「出雲国風土記」が作られました。 それを読むと古代出雲について何がわかるのでしょうか。一緒に「出雲国風土記」をひも解いてみましょう。 「出雲国風土記」の特色 風土記には、古代の地域社会の実像を伝える貴重な情報が含まれています。ところが今日まで伝わるのは、 常陸(茨城)・播磨(兵庫)・出雲(島根)・肥前(佐賀長崎)・豊後(大分)の5か国だけです。 「出雲国風土記」と他の4か国のとを比較しながら、その特色について考えると共に、今日までどのような形で伝えられたのか見ていきましょう。 古代出雲の原風景 「出雲国風土記」と言えば、国引き神話など個性的な神話が思い浮かびます。しかし、魅力はそれだけではありません。 当時の景観や生き物なども詳しく記されているのです。今日でも出雲各地を歩くと「風土記」の記述を彷彿とさせる原風景に出会うことができます。 また、近年の発掘調査によって、「風土記」の記述が正確であることを裏付ける発見がなされています。 71「出雲国風土記」を読む |
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80市場 中世 |
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81市と渡しに集う人々 島根群朝酌郷は、出雲国から隠岐国への向かう官道が通る場所で、渡し船が置かれていました。 「風土記」によると、朝酌郷には市があり、出雲各地から多くの人が集まり、賑わってっていました。 市にはどのような品物が並んでいたのでしょうか。古代の市場に出かけてみましょう。
市を彩る各地の産物 市には出雲や周辺の各地で生産された様々な産物が運び込まれ、交易され、出雲の人々の暮らしを支えていました。 取引されたものにはどのようなものがあったのでしょう。 古代の焼き物 奈良時代の人々が使っていた焼き物は須恵器がほとんどでした。須恵器は市などを通じて広く流通していました。 出雲の須恵器の流通範囲は、伯耆西部(米子)や、因幡(鳥取市)にまで広がっていました。 古代の布の生産 奈良時代、成年男子は税として絹・絁・糸・綿・布などの繊維製品を納めました。 綾や錦などの高級繊維は、各国の国衙の工房で生産されることもありました。これ等が市で交易されていたのです。 古代出雲の水産物 「風土記」によれば、島根半島では多くの海産物が採れたようです。 現在の出雲市にあった神門水海という巨大な湖の周辺からは、奈良時代の貝塚が見つかっています。水資源は当時から重要だったのです。 古代出雲の農作物 出雲大川(斐伊川)下流や島根郡蜈蚣島、秋鹿郡恵曇浜で鍬や麻が栽培されていました。 平安時代の百科事典「和名類聚抄」によると出雲国には9435町285歩(約10190ha)の水田がありました。 |
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82風土記時代の朝酌促戸 (あさくみのせと) 市の様子を 再現したものです。 野菜・魚介・薬草・農具・土器などが並んでいます。 野菜は奈良時代の資料から、初夏に存在するものを、 薬草は神門郡で採れるものを、水産物は「北海=日本海」や「入海=中海・宍道湖」産です。 |
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88市で売られたもの |
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100パネル 再現された古代の里 |
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101パネル 朝酌促戸の里 |
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120須恵器を焼く 古墳~奈良 |
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140農具漁具 古代 |
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160生業 古代 |
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180生業 近現代 風土記と現代 かつて朝酌郷に暮らした人々は、漁業・農業・手工業など様々な生業を行っていました。そして生活の基盤は「入り海」でした。 このような豊かに自然を背景とする生活スタイルは、1300年の時を経ても基本的には変化していません。 現代の朝酌の人々の生活を見つめながら本当の豊かさとは何かを考えてみませんか。 写真で見る地域の原風景 「風土記」に描かれた朝酌・大井・大海崎地区は、当時の景観を引き継ぎながら現代に至っています。 しかしながら、昭和30~40年代にかけての高度経済成長の波は、人々の生活環境を大きく変えました。 ここでは、高度経済成長の前と後との、地域の景観と人々の営みを写真で紹介しています。 中海・大橋川に生きる人々 朝酌・大井・大海崎地区の人々にとって、中海や大橋川は、風土記時代から現代に至るまで、生業や交通など、 日々の暮らしと密接にかかわっていきました。 ここでは、中海と大橋川で行われてきた漁業を通して、水とかかわりながら営まれてきた生活について考えてみましょう。 そりこ舟 ・丸木舟が現代まで使われたのは、南西諸島のサバニ(鹿児島県種子島中種子町立歴史民俗資料館に展示されています) と、関連リンク(下の方) 出雲、中海のそりこ舟だけでしょう。きっと。 ・そりこ舟の解説 赤貝やエビ漁の舟の解説1 ・船のへさきが大きく「そり返」っているのはこのへさきの高さまでの波に耐えられる設計です。 ・同様の舟は台湾の蘭嶼島のタオ族(かつてフィリピンからやってきた部族)の舟があります。 (蘭嶼は「ランの島」という意味で、日本語翻訳で無理に"島"を付け、ランの島島となってています。) すると、中海周辺の海は大変波が高かった、または、季節風で高い波になっても漁ができたということでしょう。 |
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200銅鐸 弥生~古墳 |
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201弥生 | ||||||||||||||||||||||||
テーマ 210「青銅器と金色の大刀」 |
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211前室 |
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230青銅器と黄金の太刀 青銅器の神秘性 銅鐸や銅剣などの青銅器が使われたのは、今から2000年程前です。稲作が始まったこの時代の道具の中で、青銅器は燦然と輝く異色の存在です。 中国や朝鮮半島の原料を入手し、日本列島で製造されたようです。高度な鋳造技術で作られた青銅器は簡単に入手できない特別なものでした。 青銅器の力 島根には莫大な量の青銅器が残されています。弥生時代のこれらの青銅器は、何の目的で作られ、どのように人々に見られたのでしょうか 島根の青銅器 荒神谷遺跡(斐川町) と加茂岩倉遺跡 (雲南市) から大量の青銅器が出土したことは、考古学の弥生像を大きく変える大事件でした。 この発見により、島根は全国有数の青銅器出土地域になりました。 島根の青銅器出土遺跡 青銅器は島根のほぼ全域から出土しています。1遺跡から複数出土するのも島根の特徴です。 島根の青銅器の特徴 島根は銅鐸文化圏(近畿中心)と銅矛・銅剣文化圏(九州中心)の中間地点で、古くから両地域と交流しながら青銅器を入手してきました。 しかし、近年の発見により、島根独自の青銅器生産の可能性もあることがわかってきました。 出雲型銅剣 (中細形C類) 荒神谷出土銅剣は、形や大きさが特徴的で、出雲を中心とした中・四国にのみ分布しています。 これ等は出雲で作られたものと考えられ、出雲型銅剣と呼ばれています。 特徴的な銅鐸 加茂岩倉遺跡の銅鐸には、他の地域では見られない描き方の絵画や文様があり、出雲で作られたものもあると考えられています。 島根では、最新段階の青銅器である巨大化した銅鐸・銅矛は少なく、青木遺跡(出雲市)で出土した「銅鐸飾り耳」の破片が知られる だけです。 そのため、巨大な青銅器の出土する九州や近畿よりも早い段階で、青銅器の出土する九州や近畿よりも早い段階で、 青銅器のまつりを行わなくなったと考えられています。 荒神谷遺跡 1984(昭和59)に358ほんの銅剣。翌年に16本の銅矛と6個の銅鐸が出土した。 銅剣は全て「出雲型銅剣(中細形c類)」です。その゜多くには、茎に「×」が刻印されています。 銅矛は九州産と考えられ、刃部に矢羽状の研ぎ分けが見られるものもあります。 銅鐸には最古段階のものが含まれます。また、特殊な文様のもの(1号鐸)も見られます。近畿九州産の銅鐸を含む可能性があります。 加茂岩倉遺跡 1996(平成8)年、谷の斜面から39個の銅鐸が出土しました。 銅鐸は大小2種類からなり、基本的に大きな銅鐸の中に小さな銅鐸が入る「入れ子」状態で埋められていました。 銅鐸の吊手には、荒神谷遺跡の銅剣同様「×」印が刻印されているものもあります。 また、カメやトンボ、四足獣、人面など、他地域に無い表現方法や、特殊な文様の組み合わせもあり、注目されています。 |
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231青銅器の力(1) |
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233荒神谷遺跡の銅剣 |
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235加茂岩倉銅鐸 日本最多の39個の銅鐸が出土しました。大きく壊れた銅鐸は、掘り当てた大型重機の爪痕が生々しく、奇跡的な発見の経緯を物語っています。 二千年の眠りから覚めたこれらの銅鐸は、弥生時代の技術力の高さはもちろん、弥生人の洗練されたセンスや精神世界を今に伝えています。 銅鐸は、弥生時代の終焉と共にこつ然と消えてしまう。謎に満ちた青銅器です。なぜ出雲からこれほど大量のに発見されるのでしょうか。 二千年の眠りから覚めた銅鐸は、今古代出雲について語り始めようとしています。 |
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237 聖なるまつりのベル |
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260荒神谷遺跡の青銅器埋納
私の考える青銅器埋納の真相 弥生時代に長く続いた青銅器崇拝の信仰は、長い戦乱で力を持った武人に支配されることによって、武人への崇拝を要求され、禁止された。 各地で信仰の対象が打ち壊されていくことに恐れをなした人々は、これを人知れぬ山奥に密かに隠し、嵐の過ぎ去るのを待った。 しかし、武力支配者の弱まることはなく、時は流れ、二度と掘り返されることはなかった。 |
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270青銅器の渡来と発展 弥生人が好んだ青銅器 銅鐸・銅矛・銅剣・銅戈は、中国大陸に起源をもち、朝鮮半島を介し、日本列島へと伝えられました。 制作技術を習得した弥生人は、青銅器をマツリの道具として採用し、やがて独自の青銅器文化を生み出しました。 銅鐸は装飾豊かになり、銅矛や銅剣などの武器形青銅器は、本来持つべき鋭い刃を失いました。また、祭器としての見栄えが重視され、 大型化した銅鐸は高さ1m以上にも達しました。 |
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272銅矛・銅戈・銅剣の変遷
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276銅鐸の変遷 |
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(2)装飾付大刀の世界 300古墳時代 |
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301中国製青銅器 |
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310もう一つの青銅器 銅鏡 |
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312鉄剣
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314馬上の大首長 6世紀後半、太刀や馬具が最もきらびやかだった時期の出雲西部の大豪族の装いを、上塩冶築山古墳の出土品から復元しました。 身に着けた冠や立ち、馬に付けた馬具はいずれも大和朝廷に対する奉仕にいして与えられたもので、 彼が出雲西部で最高位の豪族であることをヤマト地要諦が認めるものでした。 |
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315かわらけ谷横穴墓出土太刀 発見された時、刀身を鞘から引き抜くことができたと言います。現在は研ぎ直され、1400年前の輝きを取り戻しました。 |
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320出雲の豪族と中央の豪族 出雲東部の装飾付大刀 柄頭部分に獅子や龍、鳳凰などをデザインした環頭大刀は、出雲東部の有力豪族の証でした。 これ等はもともと朝鮮半島から持ち込まれ、後に国産化された大刀の一群で、「舶載系大刀」と言われています。 舶載系大刀は、渡来系氏族として知られた曽我氏との結びつきが想定されています。 出雲西部の捩り環頭大刀・円頭大刀 出雲西部の6世紀後半の古墳では、柄の先端に半円状の環をもつ捩じり環頭大刀や、袋状の柄頭を持つ円頭大刀がまとまって出土します。 これらの大刀は、古くからの伝統的な大刀の流れを汲んだもので、倭風大刀と呼ばれ、 中央の有力豪族であった物部氏と関係があると考えられています。 |
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325出雲の豪族と中央の豪族 6世紀後半、出雲の東部と西部とでは、古墳に副葬された装飾付大刀の形や制作技術が異なっています。 それぞれの大刀は、大和朝廷の異なる豪族の工房で作られ田と考えられます。 つまり、出雲の東部と西部では、結びついていた中央の豪族が異なっていたと考えられます。 装飾付大刀とは何か 装飾付大刀とは、金・銀を中心とした金属や漆・玉・錦などによって飾られた大刀です。 木製の鞘や柄の表面に金メッキをした銅版や飾りが取り付けられ、全体が金や銀でできているかのように見えるよう作られています。 日本の装飾付太刀は、最初朝鮮半島で作られたものが持ち込まれていましたが、やがて国産化され、 いろいろな種類の大刀が生まれるなど日本独自の発達を遂げました。 |
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327出雲西部の豪族と装飾付大刀 出雲西部の6世紀後半の古墳では、柄の先端に半円状の環を取り付けた捩(ねじ)り環頭太刀や、袋状の金銅板・銀板を付けた円頭太刀が まとまって出土。 これ等は、朝鮮半島から装飾付大刀が輸入される前から国内で使われていた伝統的な大刀の流れを汲んだもので、倭風大刀と呼ばれています。 出雲東部の豪族と装飾付大刀 出雲東部の6世紀後半の古墳では、柄の先端に輪を持ち、その中に龍や鳳凰などの文様がある「環頭大刀」がまとまって出土します。 環頭大刀は当初朝鮮半島~持ち込まれ、やがてそれを元に国内で生産されました。琴に戸から舶載系大刀(海外の影響が強い)と言えます。 新しい時代の装飾付太刀 6世紀末~7世紀初頭になると、装飾付太刀の制作技術は一本化されました。柄の先端以外は似た装飾を持つようになるのです。 同じ頃、出雲東部の豪族が出雲西部の豪族を取り込んだため、出雲東西での地域差はなくなります。 また、装飾付太刀は、石見・隠岐地方を含めた島根各地で小規模な古墳や横穴墓から出土するようになります。 装飾付太刀生産技術の統一 6世紀末~7世紀初頭になると装飾付太刀に使われる技術は統一され、一群の工房で生産されたと考えられます。 装飾付大刀の終焉 7世紀中頃、日本は律令国家の完成に向けて動き出し、やがて装飾付大刀は作られなくなります。 目には見えない機構や組織によって運営される社会(律令国家)に変わっていく中で、装飾付大刀のような権威を象徴するものが 社会の中で占める役割は、次第に小さくなっていったのです。 |
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330装飾付大刀の終焉 7世紀には、出雲の東西で大刀の地域差はなくなりました。また、石見・隠岐を含む島根各地の小規模な古墳や横穴墓へも副葬されるように なりました。 そして、古代律令国家体制が整う7世紀中頃以降は、権威を象徴する装飾付大刀は急速に意義を失っていきました。 |
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340岩屋後古墳 岩屋後古墳の石棺式石室 松江市にある岩屋後古墳は、6世紀後半に出雲東部を中心として活躍した豪族が葬られた古墳です。 石室は、加工した一枚岩を用いて壁や天井を造ったもので、石棺式石室と呼ばれています。 出雲東部の有力者の古墳では、石棺式石室が採用され、更にこれを真似た石室や横穴墓が数多く造られました。 また、ほかにも土器(子持壺)や形象埴輪も共通する特徴を持つことが知られています。 |
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