[戻る][TOP]


 
  西日本の縄文  24    2016.04.18  2016.05.14に再取材

   古代出雲歴史博物館1      島根県出雲市大社町杵築東99-4  0853-53-8600 第3火曜日休館 撮影可
      第1展示室 -テーマ別展示- 

展示テーマ 「出雲大社と神々の国のまつり」 「出雲の国風土記の世界」 「青銅器と金色の大刀」
(1)土地に埋もれた神話  (1)「出雲の国風土記」を読む (1)青銅器の力
(2)神々の住まい―巨大な神殿、出雲大社 (2)市と渡しに集う人々 (2)装飾付大刀の世界
(3)神在月の国―出雲信仰と人々の心 (3)再現された古代の里
(4)神々へのささげもの (4)風土記と現代


  交通  出雲市駅よりバス (バスは30分に1本) 下車駅・バス停より徒歩5分 (通常、一畑電車は使わない)

  見所  山陰地方最大の考古博物館。地域色豊かな展示が工夫されている。

       第1展示室―出雲大社関連の展示 第2展示室―旧石器~近代までの展示 第3展示室―ビデオ資料の上映室

  注意  展示資料は膨大です。 各室とも、撮影だけに3時間半。計7時間余りかかりました。つまり、一日がかりで閲覧する量です。
                      第3展示室のビデオ資料鑑賞を含めるともっとかかります。



  ご案内 ・展示方法は、①先に、出土物を展示し、 ②キャプションはひとまとめで提示する。  ③次に、パネルで大規模な量の解説を掲示する。

         従って、実物と解説を別々に見ることになり、正直、わけわかんなくなりますよ。(笑) よく覚えていてくださいね。

        ・館の管理運営は民間会社に委託されており、大変丁寧です。また、各所に立っている女性は高度な専門知識を持った解説員です。
         質問すると初歩から高度に専門的な段階まで答えてくれます。素晴らしいです!


  お詫び 本ページの中には沢山の誤植等があると思われます。しかし、それを訂正することは現在不可能となっています。ご容赦願います。



次 

01出雲大社関連
10入口展示 巨大柱


20出雲大社と神々の国の祭り
  三途の川の渡し
  石の下に納められた祭具
30巨大神殿
31説明パネル
 土地に埋もれた神話
 創建の記憶
 雲太、和二、京三
 神坐す処
 ―鎮座地周辺の環境―
33神々の住まい
35杵築大社遺跡
 山陰型甑=煙突説
37青木神社遺跡
39巨大神殿遷座の記録
60出雲大社
  神在月・神無月の由来
61

70出雲国風土記の世界
 「出雲国風土記」の特色
 古代出雲の原風景
71
80市場
81市と渡しに集う人々
 市を彩る各地の産物
 古代の焼き物
 古代の布の生産
 古代出雲の水産物
 古代出雲の農作物
82風土記時代の朝酌促戸
  市の様子
88市で売られたもの
100パネル 再現された古代の里
101パネル 朝酌促戸の里

120須恵器を焼く
140農具漁具
160生業
180生業 近現代
 風土記と現代
 写真で見る地域の原風景
 中海・大橋川に生きる人々
 そりこ舟

200銅鐸
201弥生
210青銅器と金色の太刀
211前室
230青銅器と黄金の太刀
  青銅器の神秘性
  青銅器の力
  島根の青銅器
  島根の青銅器出土遺跡
  島根の青銅器の特徴
  出雲型銅剣
  特徴的な銅鐸
  荒神谷遺跡
  加茂岩倉遺跡
231
233荒神谷遺跡の銅剣
235加茂岩倉銅鐸
237聖なるまつりのベル

260青銅器埋納
   私の考える青銅器埋納
270青銅器の渡来と発展
   弥生人が好んだ青銅器
272銅矛・銅戈・銅剣の変遷
276銅鐸の変遷


300古墳時代
301中国製青銅器
310もう一つの青銅器 銅鏡
312鉄剣
314馬上の大首長
315かわらけ谷横穴墓出土太刀
320出雲の豪族と中央の豪族
 出雲東部の装飾付大刀
 出雲西部の捩り環頭大刀・円頭大刀
321
325出雲の豪族と中央の豪族
 装飾付大刀とは何か
  古の技、ここに極まれり
327出雲西部の豪族と装飾付大刀
  出雲東部の豪族と装飾付大刀
  新しい時代の装飾付太刀
  装飾付太刀生産技術の統一
  装飾付大刀の終焉
330装飾付大刀の終焉
  岩屋後古墳の石棺式石室
341


 01出雲大社関連
JR出雲市駅②バス乗り場から25分で出雲大社「正門前」500円 古代出雲歴博の出雲大社への通路に何か文字が書いてある。 出雲大社拝殿かな以前は注連縄にいっぱい硬貨が刺してあった 本殿周辺には、前立(まえだち)の建物があって 本殿は屋根だけ見えるようになっている。今回の遷宮でこの屋根替えをした

 10入口展示 巨大柱 出雲大社境内遺跡出土の宇豆柱
古代出雲歴史博物館 広大な敷地はかつて全て田んぼだった。
神社の海側は全て宅地化されてしまったので、残った東側を買上げ、環境保全したようだ。
入り口から長い廊下が続き 広いロビーには発掘された柱の一部が展示されている。 巨大神殿の宇豆柱
        (うずばしら)
樹脂含浸により保存処理されたが、
かなり縮んでいる






  テーマ
 20出雲大社と神々の国のまつり 弥生時代
第1展示室入口 弥生人の高楼と船
稲吉角田遺跡
紀元1世紀
弥生土器に刻まれた絵画 シカ 舟を漕ぐ人鳥飾りのシャマン。魂を黄泉に運ぶ様子らしい 高殿に黄泉を渡る船が到着した 高殿を登る魂
高殿(高楼)の隣の住居。魂の住まいかな 住居 石の下に納められた祭具/前2c-後1c) 勾玉/弥生時代/
紀元前2c~前1c
銅戈と勾玉
真名井遺跡
銅戈

 三途の川の渡し
    私には上の線刻画が、三途の川の渡しに思える。 これを私は仏教説話だと思っていた。間違いだったようだ。(確かに仏は出てこない)
    死後の世界に関する、人間の根源的な思想のようです。この世とあの世を隔てるのは河川。それは先史時代からの経験を表しているのでしょうか。

 石の下に納められた祭具
    出雲大社東方約200mの命主社の大石の下から出土。銅戈は九州。ヒスイ製勾玉は北陸との交流を物語る。
    この場所が、弥生時代にも聖なる場所だったことを物語る。 すると、この巨石は他の地から運ばれ、定礎として置かれたものである。

    古代から建物の建築に際して定礎や大黒柱、芯柱の下に宝物を埋めるものであり、現代まで続いている祭祀である。


 30巨大神殿


 31土地にうもれた神話(1)
    出雲大社はかつて杵築大社天之日隅宮ともよばれ、奈良時代にはその名が記録に見られます。しかし、いつ、だれが、何の目的で、
    どのような姿かたちで創建したのか、いまだ多くの謎に包まれています。

    そこで、神話伝承はもとより、地理学や考古学の最新成果によりながら、「土地に埋もれた神話」を読み解いてみましょう。

 創建の記憶
    出雲大社の創建は、「古事記」「日本書紀」などの8世紀の神話に見えます。国譲り神話がその代表です。
    「大国主神」が治めてきた葦原中津国を高天原の皇孫に譲る代償として、高天原は大国主神が鎮座するための壮大な宮を造営する。」
    と語られています。

    また、「出雲の国風土記」にも「神々が参集し大神の宮を築く」ことなどが書かれています。創建の由来や建築の様子の詳しい記述は、
    他の神社ではあまり見られない大きな特色です。

 雲太、和二、京三
    平安中期の大きな建物の記録。出雲大社は16丈(高層神殿約48m)、大和の大仏殿は15丈(東大寺大仏殿約45m)、京都の大極殿は不明。

 神坐す処―鎮座地周辺の環境―
    出雲大社は、その三方を山々が囲み、2つの小さな川が東西を南流するやや開けた谷間に鎮座しています。
    地下水が豊富で、古い神社によくみられる背後に山を仰ぐ水源の地、川合いの地と言えます。

    近年の地質調査などによると、古代には潟湖が近くに拡がり、良好な港も存在していたと推測されます。
    真名井遺跡や境内遺跡出土の祭祀関連遺物などから、この周辺がおよそ弥生時代以来の祭祀と交流の場所であった可能性は高いでしょう。

土地に埋もれた神話 創建の記録 古代の主な神社の位置国家祭祀に重要な神社 雲太、和二、京三 神坐す処 大社造の系譜
発見された古代の神社跡 貼石された方形基壇と建物跡
社殿を思わせる9本柱建物跡
9本柱建物跡の中央柱


  33神々の住まい ─ 巨大な神殿、出雲大社(2)
巨大柱の顕現直径1.35mの柱3本を金輪で括った柱 発掘調査の成果
1248年の本殿遺構
巨大柱が出土した発掘 出雲大社の造営に関する主な出来事 江戸時代始め頃の出雲大社
  35杵築大社遺跡
杵築大社ゆかりのスズキ
出雲大社の旧名は杵築大社だった
飛鳥・奈良時代の祭祀土器/7-8世紀 横瓶と山陰型甑 様々な祭祀土器 古墳時代の神祭り
古墳時代前期/4世紀
大社境内からは縄文時代からの様々な時代の遺物が出土します。
古墳前期の土器・玉類が神祭りの最も古い資料です

 山陰型甑(さんいんがた-こしき)
  用途不明土器で、こしきに似ていることから、そのように名づけられています。しかし、2016.9.2に大津市立博物館でこれと同じものを見つけた
  出土地は大津市と大和で、細形と太形が出たため、二つを組み合わせて、煙突ではないかとしていた。

  理由は、複数発掘された中の一点だけに内側に煤が付いていたからだ。 
  しかし、その一点以外は山陰にも畿内にもすすの付いたものはない。煙突は高温度になるのですぐにボロボロになりとても原型を留められない

  大津市の学芸員はオンドルの煙突と言っている。しかし、その模型も図もない。積極的に実証しようという雰囲気はなかった。
  山陰型甑=煙突説は根拠に欠けるものでした。

  37青木神社遺跡
平安時代8-10世紀 奈良後半-平安初頭の掘立柱建物跡・礎石建物跡、川、溝、井戸跡が見つかり、出土品から祭祀場や役所の機能もあったと想像される。 暮らしを物語る出土品奈良-平安8-9世紀
文字資料や硯は役所役人の存在を、刀飾り・帯金具は高位の役人を意味し、漆壺・銅の滴からは手工業生産の様子を表す
1腰帯の金具 2鉄鏃 3銅の滴 4木皿 
5木の蓋
6下駄 7漆刷毛 8漆壺9 硯の須恵器 10硯 古代の暮らしぶりを伝える出土品
古代の神像と絵馬
1神像 2絵馬 奈良-平安時代8c-10c

4,5付札木簡-売田券木簡
6,7刀子形代 火きり臼

墨書須恵器
8「縣」
9,10,11,12,13
「長田,伊本,美社,伊,門」
青木遺跡が存在する地域の信仰に関わりあるらしき出土品。神像や絵馬は最古級。人々は何を祈願したのだろう。
  39巨大神殿遷座の記録
宝治2年造営遷宮儀式注進中央ロビーの巨大柱を用いて造営された本殿への遷座際は宝治2年行われた 巨大柱周辺から大型釘、鎹かすがい、手斧。
手斧は宇豆柱の直下。儀礼によって埋納されたもの
:境内遺跡出土鉄製品 宣長も疑った巨大神殿 巨大本殿の設計図
金輪御造営差図 雲太・和二・京三大億BEST3
雲太-出雲大社
和二-東大寺大仏殿
京三-平安宮の大極殿
出雲大社想像模型 平安時代の出雲大社本殿10世紀には48mでした 高さ100mの大社本殿


 (3)神在月の国 ─ 出雲信仰と人々の心


 60出雲大社
   出雲と言えば、神在祭、縁結び、エビス・ダイコク。  現在に至るまで様々な信仰が各地に息づいています。
   出雲の人々の思いと信仰のの歴史に触れてみましょう。

 神在月・神無月の由来
   旧暦10月に全国の神々が出雲に集まるという伝承は、平安末期の「奥義抄」以来、様々な資料に登場します。
   神々は出雲大社もしくは佐太神社などで酒造りをし、縁結びについて合議すると全国で伝えられています。

   また、古い文献では、イザナギノミコトの法事のために参集するとも記されています。
   ただし、金毘羅さん、戎さん、釜神さんは出雲に行かないともいう。
  61
出雲大社ジオラマ 出雲大社の屋根にあった
千木ちぎ・勝男木かつおぎ
神無月の頃
-出雲の神在祭-
神在祭関連地図

  (4)神々へのささげもの







   テーマ
 70出雲国風土記の世界 古代
   713年、律令国家は諸国に対し、特産物、土地の様子、地名の由来、言い伝えなどを記録し、報告するように命じました。
   この命令によって作られた書物が風土記です。出雲国では733年に「出雲国風土記」が作られました。
   それを読むと古代出雲について何がわかるのでしょうか。一緒に「出雲国風土記」をひも解いてみましょう。

 「出雲国風土記」の特色
   風土記には、古代の地域社会の実像を伝える貴重な情報が含まれています。ところが今日まで伝わるのは、
   常陸(茨城)・播磨(兵庫)・出雲(島根)・肥前(佐賀長崎)・豊後(大分)の5か国だけです。

  「出雲国風土記」と他の4か国のとを比較しながら、その特色について考えると共に、今日までどのような形で伝えられたのか見ていきましょう。

 古代出雲の原風景
  「出雲国風土記」と言えば、国引き神話など個性的な神話が思い浮かびます。しかし、魅力はそれだけではありません。
   当時の景観や生き物なども詳しく記されているのです。今日でも出雲各地を歩くと「風土記」の記述を彷彿とさせる原風景に出会うことができます。

   また、近年の発掘調査によって、「風土記」の記述が正確であることを裏付ける発見がなされています。


  71「出雲国風土記」を読む
風土記時代の出雲国 出雲国風土記を読む 出雲国風土記 風土記の写本
古代出雲の原風景 風土記に関わる遺跡①鹿蔵山遺跡 ②神原Ⅱ遺跡
③古志本郷遺跡
①~⑤の位置関係 ④山代郷北新造院跡
⑤出雲国府跡




 80市場 中世

 81市と渡しに集う人々
    島根群朝酌郷は、出雲国から隠岐国への向かう官道が通る場所で、渡し船が置かれていました。
    「風土記」によると、朝酌郷には市があり、出雲各地から多くの人が集まり、賑わってっていました。

    市にはどのような品物が並んでいたのでしょうか。古代の市場に出かけてみましょう。

市と渡しに集う人々 風土記時代へタイムスリップ 市を彩る各地の産物出雲や周辺から持ち込まれた 出雲産須恵器の分布
古代の布の生産 風土記に見える港湾と水産物 島根郡の浜・島

  市を彩る各地の産物
    市には出雲や周辺の各地で生産された様々な産物が運び込まれ、交易され、出雲の人々の暮らしを支えていました。
    取引されたものにはどのようなものがあったのでしょう。

  古代の焼き物
    奈良時代の人々が使っていた焼き物は須恵器がほとんどでした。須恵器は市などを通じて広く流通していました。
    出雲の須恵器の流通範囲は、伯耆西部(米子)や、因幡(鳥取市)にまで広がっていました。

  古代の布の生産
    奈良時代、成年男子は税として絹・絁・糸・綿・布などの繊維製品を納めました。
    綾や錦などの高級繊維は、各国の国衙の工房で生産されることもありました。これ等が市で交易されていたのです。

  古代出雲の水産物
    「風土記」によれば、島根半島では多くの海産物が採れたようです。
    現在の出雲市にあった神門水海という巨大な湖の周辺からは、奈良時代の貝塚が見つかっています。水資源は当時から重要だったのです。

  古代出雲の農作物
    出雲大川(斐伊川)下流や島根郡蜈蚣島、秋鹿郡恵曇浜で鍬や麻が栽培されていました。
    平安時代の百科事典「和名類聚抄」によると出雲国には9435町285歩(約10190ha)の水田がありました。


 82風土記時代の朝酌促戸 (あさくみのせと)

 市の様子
   再現したものです。 野菜・魚介・薬草・農具・土器などが並んでいます。
   野菜は奈良時代の資料から、初夏に存在するものを、 薬草は神門郡で採れるものを、水産物は「北海=日本海」や「入海=中海・宍道湖」産です。
朝酌促戸のジオラマ松江市朝酌地区1300年前の復元景観 風土記時代の朝酌促戸 朝酌促戸の市 糸車糸をより合せる器具 紡錘車糸に撚りをかける道具 紡績関連資料
須恵器屋 鉄製道具=鍛冶屋 古代、弓矢は強力な武器鉄鏃1、2、3 鉄器鉄斧8-9世紀
刀子8世紀
鉄鏃1、2、3
刀子
鉄鎌
薬草売り 薬草売り 魚介類店、野菜店 魚介類店 野菜店 現代人が買い物に
  88市で売られたもの
古代出雲の食べ物や
日用品です
塩を入れて運んだ土器 焼き塩土器 食材を入れた木の器 炭化米古代の米はどんな味 炭化米
古代出雲は食材の宝庫 6ナガガキ 7マガキ 
8タマキガイ 9バイガイ10アカニシ
4ボラ 5コチ 1ヤマトシジミ
2クロダイ
3フグ

鮭を入れた/長頸壺
液体を入れた
短頚壺/把手付鉢
食べ物を盛った器
高坏/高台付盤
平瓶 短頚壺 燈明を灯した/燈明皿
食べ物を盛った器/皿
食べ物を盛った
杯/蓋付き





 100パネル 再現された古代の里
 101パネル 朝酌促戸の里
再現された古代の里 古代人の生活空間 古代の島根郡朝酌郷
他地域の戸籍 様々な生業 様々な生業(拡大)
朝酌郷の水産物
出雲の須恵器窯の操業年代 出雲国の須恵器窯 大井浜の須恵器窯
 120須恵器を焼く 古墳~奈良
1300年前奈良時代の須恵器登窯 8世紀 大井窯瓦、硯などの製品の他
「神祭り」の土馬なども製作
大井窯の特徴的技術は底部糸切り技法 底部糸切りの痕跡 杯身と蓋/土鈴/土錘 歪んでしまった須恵器
古代の陶製煉瓦
古墳時代7世紀
須恵器の棺桶に描かれた絵/古墳時代7世紀 須恵器の陶棺 陶棺に描かれた絵 陶製硯 7-8世紀 須恵器 風字硯 三足硯
7-8世紀
寺院の屋根を飾る瓦
須恵器のしび8世紀
呪具/土馬 7-8世紀
雨乞いお払いのための
土馬土馬は須恵器だったんですね
 140農具漁具 古代
筌漁ひびりょう 竹かごで作った筌ではなく今も川魚漁・えび漁で使われる漁法(柴漬け漁) 農具 1木製鋤 2鉄製鍬先 5,6田下駄 11木製エブリ 11木製エブリ
12木製狭鍬
田んぼをならす道具 8,9,10田下駄 13,14アカ取り(水汲みだし道具)
15鉄製ヤス
横槌 飛び玉/ムシロなどを編むときに使う 漁に使った網の錘 土錘
漁に使った錘 18,19鉄製釣針
8世紀/7世紀
マグロも釣れた?
 160生業 古代
大井里のなりわいと暮らし農業と窯業のムラ 大井の里ジオラマ 田んぼが見事に開墾される 古代出雲の行楽地 温泉・景勝地など 古代の代表的楽器琴と琴柱

ことじ
歌垣と男女の出会いアマゾンの裸族からインドシナの山岳民族から、夏の盆踊りまで、世界中で同様の男女の出会いの場が設けられました。 それは、人間の本能なのでしょうか。縄文の仮面や男女の性器形の石製品もそれを意味しているのかも 沖縄でも、このような宴が現代まで続いています。 見事に再現されたジオラマです



 180生業 近現代

 風土記と現代
   かつて朝酌郷に暮らした人々は、漁業・農業・手工業など様々な生業を行っていました。そして生活の基盤は「入り海」でした。
   このような豊かに自然を背景とする生活スタイルは、1300年の時を経ても基本的には変化していません。

   現代の朝酌の人々の生活を見つめながら本当の豊かさとは何かを考えてみませんか。

  写真で見る地域の原風景
   「風土記」に描かれた朝酌・大井・大海崎地区は、当時の景観を引き継ぎながら現代に至っています。
    しかしながら、昭和30~40年代にかけての高度経済成長の波は、人々の生活環境を大きく変えました。

    ここでは、高度経済成長の前と後との、地域の景観と人々の営みを写真で紹介しています。

  中海・大橋川に生きる人々
    朝酌・大井・大海崎地区の人々にとって、中海や大橋川は、風土記時代から現代に至るまで、生業や交通など、
    日々の暮らしと密接にかかわっていきました。

    ここでは、中海と大橋川で行われてきた漁業を通して、水とかかわりながら営まれてきた生活について考えてみましょう。

写真で見る原風景 稲ハデが見られた頃の大井
昔の矢田の渡し
そりこ舟(昭和40年頃)
現代のしじみ漁
現代の矢田の渡し
現代のホーランエンヤ
中海・大橋川に生きる人々 中海・大橋川の漁具
漁の様子 そりこ舟モミの木をくり抜いた現代まで続く丸木舟である そりこ舟の標準装備
①四手網/シラウオ漁
②コデ/タモ網
③あかとり/水をすくい出す
④うなぎ筌
そりこ舟内部 そりこ舟前方
一木造である
赤貝とりの引き具

 そりこ舟
  ・丸木舟が現代まで使われたのは、南西諸島のサバニ(鹿児島県種子島中種子町立歴史民俗資料館に展示されています) と、関連リンク(下の方)
   出雲、中海のそりこ舟だけでしょう。きっと。

  ・そりこ舟の解説     赤貝やエビ漁の舟の解説1

  ・船のへさきが大きく「そり返」っているのはこのへさきの高さまでの波に耐えられる設計です。
  ・同様の舟は台湾の蘭嶼島タオ族(かつてフィリピンからやってきた部族)の舟があります。
   (蘭嶼は「ランの島」という意味で、日本語翻訳で無理に"島"を付け、ランの島島となってています。)

   すると、中海周辺の海は大変波が高かった、または、季節風で高い波になっても漁ができたということでしょう。










 200銅鐸 弥生~古墳
  201弥生
   テーマ
 210「青銅器と金色の大刀
  211前室
青銅器と金色の太刀 鹿や四足獣、四頭渦文等が描かれた出雲で作られた銅鐸
弥生時代/
紀元前2-1世紀
動物文、渦文
38,39素焼き土器
弥生/前1-後1世紀

9-17素焼き土器
弥生 前2-1世紀

4-8高水準の木挽き技術
容器/弥生/1-3世紀

18-24二千年前の輝きを再現 弥生/前2-1世紀
18、20、19、21
22、23、24

25シカが描かれた土器
弥生/前2-1世紀
26流水文土器/弥生
前1-後1世紀
線刻のシカと流水文は島根の銅鐸に特有の文様
銅鐸と同じ文様は同時期の土器にも見られます
農耕具・工具/弥生/
前3-後3世紀
農耕具・工具
28~32
石器・骨角器
33~37
弥生/前5-1世紀
41~46、51~52
40、43、48、47、53、50

51-53祭祀具/弥生/
     前1-後3世紀
50銅鐸形土製品
51琴板 52舟形土製品
53分銅形土製品

44土製紡錘車/前2-1世紀
40-43,45-48石器/前5-1世紀
40石錘 41-43石鎌
45石製紡錘車
46,47斧と鑿のみ
48伐採用斧

51琴板 52舟形土製品

44,45紡錘車 46斧と鑿
42石鎌
弥生/前2-1世紀

41-43石鎌
弥生/前5-1セ鋤

50銅鐸形製品 53分銅形製品 47斧と鑿 48伐採用斧
弥生/前5-1世紀

43石鎌
40石錘
弥生/前5-1世紀






 230青銅器と黄金の太刀

 青銅器の神秘性
   銅鐸や銅剣などの青銅器が使われたのは、今から2000年程前です。稲作が始まったこの時代の道具の中で、青銅器は燦然と輝く異色の存在です。
   中国や朝鮮半島の原料を入手し、日本列島で製造されたようです。高度な鋳造技術で作られた青銅器は簡単に入手できない特別なものでした。

 青銅器の力
   島根には莫大な量の青銅器が残されています。弥生時代のこれらの青銅器は、何の目的で作られ、どのように人々に見られたのでしょうか

   島根の青銅器
       荒神谷遺跡(斐川町) と加茂岩倉遺跡 (雲南市) から大量の青銅器が出土したことは、考古学の弥生像を大きく変える大事件でした。
       この発見により、島根は全国有数の青銅器出土地域になりました。

   島根の青銅器出土遺跡
       青銅器は島根のほぼ全域から出土しています。1遺跡から複数出土するのも島根の特徴です。

   島根の青銅器の特徴
       島根は銅鐸文化圏(近畿中心)と銅矛・銅剣文化圏(九州中心)の中間地点で、古くから両地域と交流しながら青銅器を入手してきました。
       しかし、近年の発見により、島根独自の青銅器生産の可能性もあることがわかってきました。

      出雲型銅剣
         (中細形C類) 荒神谷出土銅剣は、形や大きさが特徴的で、出雲を中心とした中・四国にのみ分布しています。
         これ等は出雲で作られたものと考えられ、出雲型銅剣と呼ばれています。

      特徴的な銅鐸
         加茂岩倉遺跡の銅鐸には、他の地域では見られない描き方の絵画や文様があり、出雲で作られたものもあると考えられています。
         島根では、最新段階の青銅器である巨大化した銅鐸・銅矛は少なく、青木遺跡(出雲市)で出土した「銅鐸飾り耳」の破片が知られる
         だけです。

         そのため、巨大な青銅器の出土する九州や近畿よりも早い段階で、青銅器の出土する九州や近畿よりも早い段階で、
         青銅器のまつりを行わなくなったと考えられています。

      荒神谷遺跡
          1984(昭和59)に358ほんの銅剣。翌年に16本の銅矛と6個の銅鐸が出土した。
          銅剣は全て「出雲型銅剣(中細形c類)」です。その゜多くには、茎に「×」が刻印されています。
          銅矛は九州産と考えられ、刃部に矢羽状の研ぎ分けが見られるものもあります。

          銅鐸には最古段階のものが含まれます。また、特殊な文様のもの(1号鐸)も見られます。近畿九州産の銅鐸を含む可能性があります。

      加茂岩倉遺跡
          1996(平成8)年、谷の斜面から39個の銅鐸が出土しました。 

          銅鐸は大小2種類からなり、基本的に大きな銅鐸の中に小さな銅鐸が入る「入れ子」状態で埋められていました。
          銅鐸の吊手には、荒神谷遺跡の銅剣同様「×」印が刻印されているものもあります。

          また、カメやトンボ、四足獣、人面など、他地域に無い表現方法や、特殊な文様の組み合わせもあり、注目されています。
  231青銅器の力(1)
青銅器の神秘性
荒神谷・加茂岩倉青銅器の案内 展示物の真偽の表示 青銅器の力 島根の青銅器 島根の青銅器
島根の青銅器出土遺跡 県内の青銅器一覧 島根の青銅器の特徴 荒神谷遺跡 荒神谷遺跡 4号銅矛の研ぎ分け
1号銅鐸 C67号銅剣の茎の×印
加茂岩倉遺跡
加茂岩倉遺跡 加茂岩倉遺跡の銅鐸 鈕の海亀/鈕の人物/鹿と四足獣/トンボ/×印 銅剣出土状況 発掘の様子 35号銅鐸
 A面のシカと四足獣と双頭渦文



  233荒神谷遺跡の銅剣
弥生(前2-1世紀) 出土した全銅剣。長さ50㎝前後。それほど大きなものはない。 が、その量の膨大さがよくわかる。 壁を飾る黄金の銅剣は 2000年前に作られた当時の色や輝き、形を 再現したものです。



 235加茂岩倉銅鐸
    日本最多の39個の銅鐸が出土しました。大きく壊れた銅鐸は、掘り当てた大型重機の爪痕が生々しく、奇跡的な発見の経緯を物語っています。
    二千年の眠りから覚めたこれらの銅鐸は、弥生時代の技術力の高さはもちろん、弥生人の洗練されたセンスや精神世界を今に伝えています。

    銅鐸は、弥生時代の終焉と共にこつ然と消えてしまう。謎に満ちた青銅器です。なぜ出雲からこれほど大量のに発見されるのでしょうか。
     二千年の眠りから覚めた銅鐸は、今古代出雲について語り始めようとしています。

上に記述 銅鐸/前2-1世紀 上に記述 土製の鋳型で作られた兄弟銅鐸
ヒレが壊れて補修した痕跡
兄弟銅鐸 1号銅鐸 兄弟銅鐸 26号銅鐸
鋳掛の痕跡

×の刻印

吊り手に×が刻印されている
顔が描かれた銅鐸 顔が描かれた銅鐸
鯨面と思われます 鳴らした痕跡 棒と当たってすり減った痕跡 すり減るほどなら何年も使ったようだ
12、34、32、31 鳥取や兵庫にもある兄弟銅鐸出雲で作られなぜ神戸まで運ばれたのか 補刻された文様鋳掛し鏨で刻印した 鋳掛の跡 3,30,38,24,39,7,4 兄弟銅鐸22,19,4,7は同じ鋳型 39,7,4,19,22

  237 聖なるまつりのベル
聖なるまつりのベル弥生/前2-1世紀
銅鐸は朝鮮の小型ベルを元に、弥生の日本で発達した祭りの道具です。
荒神谷の6個の銅鐸・16本の銅剣は埋められていましたが、
ムラのマツリで聖なる音色を響かせていたのでしょう。
1銅鐸の飾り耳
2朝鮮半島産銅戈
3銅鐸を鳴らす棒
弥生/前2-1世紀
4,5,6銅剣と銅鐸の一括埋納
10島根出土と伝わる銅剣
9発掘調査で見つかった銅鐸
6銅鐸と銅剣の一括埋納 11,12粘土採取中偶然発見
14聞き取りで島根出土と判明
15邪気を払う眼と水鳥を表現

16松江市熊野大社出土銅鐸
7鎌倉時代出土の銅剣
17,18出土地はコバンバヤシ
8隠岐へも運ばれた銅剣

5,6銅鐸銅剣一括埋納
7鎌倉時代出土の銅剣
8隠岐へ運ばれた銅剣
10島根出土銅剣
45109
11,12,14銅鐸
15破邪の眼と水鳥・銅鐸
16熊野出土銅鐸
17,18銅鐸
10島根出土銅剣 4,5銅鐸(一括埋納の)
11銅鐸

 260荒神谷遺跡の青銅器埋納

命運をかけ銅剣をささげる人々 薄暮の谷あいに大量の銅剣を埋納する 僅かな人数でこの超重量物を運び埋納するのは不可能でしょう。 きっと数十人が運搬と、埋納作業をしたのでしょう 鈕に海亀が描かれた銅鐸です。
出雲では、海亀や海蛇などが祭祀に取り込まれている。海蛇は八重山でも行われる祭祀。
海亀銅鐸
荒神谷遺跡の埋納状況 銅剣・銅鐸・銅矛出土 加茂岩倉遺跡の埋納状況 銅鐸出土・埋納復元 志谷奥遺跡埋納状況
銅剣6本銅鐸2個出土 鹿の群れを描いた銅鐸 兵庫・大阪・福井出土と同じ鋳型の銅鐸。
出雲で作られて、各地に運ばれたのか。
鹿は弥生人にとって狩猟の対象であると共に、神であるという、
なんだこれ

 私の考える青銅器埋納の真相
  弥生時代に長く続いた青銅器崇拝の信仰は、長い戦乱で力を持った武人に支配されることによって、武人への崇拝を要求され、禁止された。
  各地で信仰の対象が打ち壊されていくことに恐れをなした人々は、これを人知れぬ山奥に密かに隠し、嵐の過ぎ去るのを待った。

   しかし、武力支配者の弱まることはなく、時は流れ、二度と掘り返されることはなかった。




 270青銅器の渡来と発展

 弥生人が好んだ青銅器
    銅鐸・銅矛・銅剣・銅戈は、中国大陸に起源をもち、朝鮮半島を介し、日本列島へと伝えられました。
    制作技術を習得した弥生人は、青銅器をマツリの道具として採用し、やがて独自の青銅器文化を生み出しました。

    銅鐸は装飾豊かになり、銅矛や銅剣などの武器形青銅器は、本来持つべき鋭い刃を失いました。また、祭器としての見栄えが重視され、
    大型化した銅鐸は高さ1m以上にも達しました。

  272銅矛・銅戈・銅剣の変遷
お詫び写真には中国大陸「中原の鈴」が未撮影ために、後ろに他の文献から引用転載しました 弥生人が好んだ青銅器
1銅鐸の遠い先祖
商=殷(前17c-前11c)
2遼寧式銅剣(日本銅剣の祖先)春秋戦国
(前8c-前3c)
3朝鮮式銅鐸(銅鐸似の半島のベル)原三国時代(前3c-後3c)
1銅鐸の遠い先祖
中国大陸中原の鈴銅鈴(左:殷~西周、右:戦国~漢)
殷(前17c)西周(前11c)
転載
馬鐸伝 朝鮮半島
転載「弥生時代の銅鐸とドンソン文化の銅鼓の類似性
2遼寧式銅剣 分布
日本銅矛の変遷1-3
1細形銅矛/唐津市   
2細形銅矛/佐賀県宇木汲田遺跡
3中細銅矛/熊本県今古閑遺跡

(前2c-1c)
銅矛の変遷
1,2,3
日本銅矛の変遷4-5
4中広形銅矛/弥生時代
5広形銅矛/弥生1-3世紀
銅矛の変遷
1,2,3,4,5
日本銅戈の変遷1-4 銅戈の変遷銅戈1-4 日本銅剣の変遷1-4 日本銅剣の変遷5-7 銅剣の変遷
1,2,3,4,5,6,7


  276銅鐸の変遷
1朝鮮半島のベルに似る
1小銅鐸(前2c-1c)
日本銅鐸の変遷1-2
1朝鮮半島のベルに似る
2日本の銅鐸の変遷1 
3日本の銅鐸の変遷2 

1小銅鐸
2菱環鈕式銅鐸
3扁平鈕式銅鐸
(前2c-1c)
日本銅鐸の変遷3-4
4近畿式銅鐸
5三遠式銅鐸
1-3世紀
4,5 入れ子の銅鐸
前2-1世紀
入れ子銅鐸35,36銅鐸 描かれた弥生絵画前2-1世紀
35号銅鐸四足動物(猪)や鹿、トンボなどが描かれています。鈕の中央にはたがねで×が付けられています。

35号銅鐸
四足動物と渦巻き模様


  (2)装飾付大刀の世界


 300古墳時代
  301中国製青銅器
中国製青銅器
神獣文鏡
しりゅうもんきょう
じゅうれつ神獣鏡
刀子 ゆうがいかなえ(有蓋鼎)
どうようしょう()

鈴付き柄頭

10
11
銅矛・銅戈 帯飾り 銅鼓 銅鼓
  お詫び ここではキャプションを撮影できておりません。国内的にも大変貴重な資料です。とても残念です。

  310もう一つの青銅器 銅鏡
島根の前期古墳出土
銅鏡/古墳3-5世紀

1三角縁神獣鏡/3-4c
2斜縁神獣鏡/3-4世紀
3斜縁神獣鏡/4-5世紀
1,2,3 4内行花文鏡
5盤龍鏡   
6内行花文鏡
7内行花文鏡
4,5,6,7 8三角縁神獣鏡/3-4c
9方格規矩鏡/3-4c
10三角縁神獣鏡/3-4c

8三角縁神獣鏡
9方格規矩鏡
10三角縁神獣鏡
卑弥呼の鏡か古墳時代3世紀
景初三年を含む41文字が鋳出された三角縁神獣鏡
景初三年の三角縁神獣鏡 景初三年の三角縁神獣鏡
  312鉄剣
額田部臣銘入大刀古墳時代6世紀
額田部臣」を含む12文字が残る大刀。出雲での部民制や文字の広がりを伝えている。

1額田部臣銘入大刀は

部民制を示す最古の文字が入ってている
古墳時代前期の王の証4素環頭大刀 復元品
4素環頭大刀 上野1号墳は円墳L40m。剣,大刀,槍先等鉄製武器,銅鏡,玉類等出土。宍道湖や山陰山陽を結ぶ街道の支配者として畿内政権に認められた有力者だった。

1弥生末日本最大級の大刀/弥生3世紀/柄頭がわざと切られた大刀
2県内最古の古墳/素環頭太刀/3世紀
3陰陽の要衝を守る王の証/鉄剣/4世紀
1弥生末、日本最大級の大刀
2県内最古の古墳    
3陰陽の要衝を守るあかし

17鉄剣/柄の形と文様がよくわかる/古墳3世紀

5-15豊かな武器、多様な工具/古墳3世紀
豊かな武器、多様な工具
5鉄剣6槍先7鏃8鎌9斧
10鋤11鑿12斧13針14錐15やりがんな
 神原神社古墳出土鉄製品は、武器、斧、鎌、鑿とうの農耕具があります。

 これらの工具を使って生産される農作物や加工品の物流を握る大きな力を持っていたことを物語る

 314馬上の大首長
    6世紀後半、太刀や馬具が最もきらびやかだった時期の出雲西部の大豪族の装いを、上塩冶築山古墳の出土品から復元しました。

    身に着けた冠や立ち、馬に付けた馬具はいずれも大和朝廷に対する奉仕にいして与えられたもので、
    彼が出雲西部で最高位の豪族であることをヤマト地要諦が認めるものでした。
馬上の大豪族 岡田山1号墳に葬られた有力豪族の活躍 ①額田部臣-出雲の額田部を統率した最高有力者
②額田部連-小地域の額田部を取りまとめる有力者
③額田部首-一般の額田部のうちの家長級の有力者
④額田部-額田部の轡を獲る従者、再交流緑者の象徴である4mを越える鉾をささげ持つ
⑤額田部-額田部連と額田部首の轡を獲る従者
⑥額田部-額田部連の装飾太刀をささげ持つ従者
⑦額田部-額田部臣の配下で長弓を携える武装兵士
⑧額田部-額田部臣と額田部連の装飾太刀の入っていた袋を両手に携え、かしこまる従者
ってなにこれ。このジオラマは何を表したいのかね。
権力か


  315かわらけ谷横穴墓出土太刀
      発見された時、刀身を鞘から引き抜くことができたと言います。現在は研ぎ直され、1400年前の輝きを取り戻しました。
奇跡の輝きを今に伝える金銅装双龍環頭大刀
かわらけ谷横穴墓群
古墳時代6-7世紀
発見時鞘から刀身が抜けた。鞘木・柄木の多くは腐らず原型を留めていた
金銅装双龍環頭大刀 豪華に飾られた馬具
6世紀上島古墳の黄金馬具は中央政権から下賜されたものである
上島古墳/6世紀黄金の馬具
鷺ノ湯病院跡横穴墓/安来の地方豪族墓/太環式耳飾・金環銀環交叉品など国内稀の装身具出土 鷺ノ湯病院跡横穴墓
 8単鳳環頭大刀
 9鹿角装刀子
 10銅鏡(珠文鏡)
 11金銅製装身具 
   冠、耳飾り、玉飾り
      古墳時代6世紀
地方豪族のステータスシンボル 6世紀宮内Ⅱ区1号横穴墓出土
1,2 鞍金具         
3素環鏡板付轡      
4,5鐙吊り金具と飾り金具
6鉄鏃           
7銀象嵌入り大刀    
宮内Ⅱ区1号横穴墓出土1,2,3
宮内Ⅱ区1号横穴墓出土3,4,5,6 鷺ノ湯病院跡横穴墓
11金銅製装身具
鷺ノ湯病院跡横穴墓舶載系の太刀 鷺ノ湯病院跡横穴墓
3,4,5




 320出雲の豪族と中央の豪族

     出雲東部の装飾付大刀
        柄頭部分に獅子や龍、鳳凰などをデザインした環頭大刀は、出雲東部の有力豪族の証でした。
        これ等はもともと朝鮮半島から持ち込まれ、後に国産化された大刀の一群で、「舶載系大刀」と言われています。

        舶載系大刀は、渡来系氏族として知られた曽我氏との結びつきが想定されています。

     出雲西部の捩り環頭大刀・円頭大刀
        出雲西部の6世紀後半の古墳では、柄の先端に半円状の環をもつ捩じり環頭大刀や、袋状の柄頭を持つ円頭大刀がまとまって出土します。
        これらの大刀は、古くからの伝統的な大刀の流れを汲んだもので、倭風大刀と呼ばれ、
        中央の有力豪族であった物部氏と関係があると考えられています。

  321



4三葉環頭大刀
5獅嚙環頭大刀
出雲東部の装飾付大刀
1単鳳環頭大刀
2双龍環頭大刀
7双龍環頭大刀
和風の大刀 1円頭大刀柄頭
2圭頭大刀   
3大刀飾り   

2双龍環頭大刀
3円頭大刀   

4、5

4捩り環頭大刀
5円頭大刀   

6獅嚙環頭大刀柄頭
しかみ・かんとうたち・
つかがしら
 頭椎大刀
   圭頭大刀
   円頭大刀
   護拳帯飾金具
   捩じ環頭大刀


  325出雲の豪族と中央の豪族
      6世紀後半、出雲の東部と西部とでは、古墳に副葬された装飾付大刀の形や制作技術が異なっています。
      それぞれの大刀は、大和朝廷の異なる豪族の工房で作られ田と考えられます。
      つまり、出雲の東部と西部では、結びついていた中央の豪族が異なっていたと考えられます。

    装飾付大刀とは何か
      装飾付大刀とは、金・銀を中心とした金属や漆・玉・錦などによって飾られた大刀です。
      木製の鞘や柄の表面に金メッキをした銅版や飾りが取り付けられ、全体が金や銀でできているかのように見えるよう作られています。

      日本の装飾付太刀は、最初朝鮮半島で作られたものが持ち込まれていましたが、やがて国産化され、
      いろいろな種類の大刀が生まれるなど日本独自の発達を遂げました。
装飾付太刀の変遷 装飾付太刀の構造 古の技、ここに極まれり かわらけ谷横穴墓出土金銅装飾双龍環頭大刀

 古の技、ここに極まれり
   かわらけ谷横穴墓出土の双龍環頭大刀を一部切り取って、構造がわかるように復元しました。
   装飾付大刀は、多くの部品を組み合わせて作らせています。

   この一振りを制作するために、柄と鞘を作る木工職人、刀身を作る鍛冶職人や研ぎ師、金メッキを施した銅版に模様をたたき出す金工職人や、
   銅塊を延ばして柄頭を作る鍛造職人など、数多くの匠が参集したに違いありません。




 327出雲西部の豪族と装飾付大刀
     出雲西部の6世紀後半の古墳では、柄の先端に半円状の環を取り付けた捩(ねじ)り環頭太刀や、袋状の金銅板・銀板を付けた円頭太刀が
     まとまって出土。
     これ等は、朝鮮半島から装飾付大刀が輸入される前から国内で使われていた伝統的な大刀の流れを汲んだもので、倭風大刀と呼ばれています。

   出雲東部の豪族と装飾付大刀
     出雲東部の6世紀後半の古墳では、柄の先端に輪を持ち、その中に龍や鳳凰などの文様がある「環頭大刀」がまとまって出土します。
     環頭大刀は当初朝鮮半島~持ち込まれ、やがてそれを元に国内で生産されました。琴に戸から舶載系大刀(海外の影響が強い)と言えます。

   新しい時代の装飾付太刀
     6世紀末~7世紀初頭になると、装飾付太刀の制作技術は一本化されました。柄の先端以外は似た装飾を持つようになるのです。
     同じ頃、出雲東部の豪族が出雲西部の豪族を取り込んだため、出雲東西での地域差はなくなります。

     また、装飾付太刀は、石見・隠岐地方を含めた島根各地で小規模な古墳や横穴墓から出土するようになります。

   装飾付太刀生産技術の統一  6世紀末~7世紀初頭になると装飾付太刀に使われる技術は統一され、一群の工房で生産されたと考えられます。

   装飾付大刀の終焉  7世紀中頃、日本は律令国家の完成に向けて動き出し、やがて装飾付大刀は作られなくなります。
     目には見えない機構や組織によって運営される社会(律令国家)に変わっていく中で、装飾付大刀のような権威を象徴するものが
     社会の中で占める役割は、次第に小さくなっていったのです。

出雲西部の豪族と装飾付大刀上に記述 出雲地方の装飾付太刀の分布6世紀後半 出雲東部の豪族と装飾付太刀 新しい時代の装飾付太刀 出雲東西の古墳で、
同形石室の分布と副葬大刀の柄の形
装飾付太刀の終焉 王者の刀にふれてみよう大刀の重さを実感。随分重い鉄の塊でした。 金銅装圭頭太刀




 330装飾付大刀の終焉
   7世紀には、出雲の東西で大刀の地域差はなくなりました。また、石見・隠岐を含む島根各地の小規模な古墳や横穴墓へも副葬されるように
   なりました。
   そして、古代律令国家体制が整う7世紀中頃以降は、権威を象徴する装飾付大刀は急速に意義を失っていきました。

新しい時代の大刀古墳-平安7-9世紀 装飾付大刀の終焉
1,2方頭大刀
3圭頭大刀

4圭頭大刀

7蕨手刀
10刀子

9双龍環頭大刀柄頭
8単龍環頭大刀
11三累環頭大刀

  340岩屋後古墳

  岩屋後古墳の石棺式石室
    松江市にある岩屋後古墳は、6世紀後半に出雲東部を中心として活躍した豪族が葬られた古墳です。
    石室は、加工した一枚岩を用いて壁や天井を造ったもので、石棺式石室と呼ばれています。

    出雲東部の有力者の古墳では、石棺式石室が採用され、更にこれを真似た石室や横穴墓が数多く造られました。
    また、ほかにも土器(子持壺)や形象埴輪も共通する特徴を持つことが知られています。

     
   341
岩屋後古墳の石棺式石室 石棺型石室の模型 子持ち壺の配置
何んの象徴でしょうね
馬形埴輪 子持壺
古墳時代6世紀 何でしょうね。これ。
葬送用の不思議な土器
5子持壺

4円筒埴輪 6世紀
円筒埴輪 6世紀 馬形埴輪 古墳を飾る埴輪
1,3形象埴輪 6世紀
人物埴輪