・半島式石器と轟式土器 (薄手,スサなし)は、北部九州~山陰・若狭湾からの北白川下層式や、東海地方にも同系統の土器文化が広まった。 中越式土器は、この半島系土器の流れを汲むものであり、しかも、他の館では見られず、宮田村の展示は極めて重要なものであります。 ご案内 隣接する宮田宿本陣 旧新井家住宅 も 合わせて、ぜひご見学ください。 信州伊那谷の縄文を取り上げた趣旨 おおよそ、長野市や、八ヶ岳の考古博物館が注目される中で、伊那谷に着目したのは、この宮田村のホームページでした。(県宝中越遺跡出土品で検索) 村役場の前に縄文土器を立て並べて撮影したような写真が、大変美しく、背景に中央アルプスの雪山を借景に、いかにも斬新なアピールでした。 そこで調べると、狭い地域に膨大な数の縄文博物館・展示館があり、撮影可とするおおらかさ。ぜひ訪ねてみたいと思い今回の企画を作りました。 宮田村文化財マップ 宮田村『文化財マップ |
||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||
00宮田村の原始・古代遺跡 転載宮田村『文化財マップ』 県宝 中越遺跡出土品(県宝中越遺跡出土品で検索) この転載は遺跡の重要性を知るために不可欠です。 縄文前期
縄文中・後期
弥生以降
|
||||||||||||||||||
01中越遺跡 碑文(1) 約6500年前、縄文時代早期末頃、次の時代の幕開けを告げるかのように、地球の気温が上昇し、それまで寒冷な気候のため、 現在よりも150mも下にあった海水面が、逆に現在よりも2~3m上まで上昇しました。いわゆる縄文海進です。 実は、適度な高台と豊富な湧水に恵まれたこの台地を選んで、それまでは多くて数軒程度しかなかった中部高地に、初めて巨大集落を作った人々こそ、 この縄文海進によって住む場所を失い、河岸段丘上に広がる雑木林に実るクリやドングリ類を糧に、新たな定住の地を求めて、 諏訪湖から流れ下る天竜川を遡ってきた、海辺の民の一団の一つであったと考えられます。 ※要約 中越遺跡は、縄文海進に追われた人々が大挙して移住し、大集落を築いた。 |
||||||||||||||||||
04縄文住居
中越遺跡碑文 (2) 東西350m南北150mの範囲に、数世代の間に建て替えられた家の数は300軒以上。 これが今日までの発掘調査をもとに推定されている中越し遺跡の縄文前期の集落の大きさです。 彼らは、西日本的な独自の土器(中越式土器)を作り、八ヶ岳山麓から持ってきた黒曜石を原料に 大量の石器を加工し、旺盛な生産活動を続けていましたが、その集落は縄文時代前期の中頃で一度途絶えています。 そして、縄文中期になると再びこの地に人が住み始め、今度は台地の南側に縄文晩期まで続く息の長い大集落を営むようになるのです。 ※要約 海辺の民であったが山地の生活に適応し、交易や生産活動を続け、早期末から前期中葉まで続いた。 また、中期から晩期まで新たな住民が住み続けました。後期・晩期には遺跡数が減少しました。 引用 |
||||||||||||||||||
06春の草花 |
||||||||||||||||||
08宮田村図書館で見つけた、長野県の遺跡発掘展2017ポスター 長野県ではこのような巡回展を毎年行っているようです。素晴らしい。 一度見に行きたいですね。主催は長野県立歴史館 ※文化財を一か所に留め、ろくなPRもしなければ、博物館には誰も来ない。関心も呼び起こさない。このような積極的な取り組みによって 博物館を面白いと知り、人々が訪れ、やがて文化財を愛護しようとする心が生まれるのではないでしょうか。拍手喝采です。 |
||||||||||||||||||
資料 中越遺跡出土品 長野県宝指定 指定物件 221点(土器28、石器191、石製品2) 引用県宝 中越遺跡出土品 - 宮田村役場 〈内訳〉 ・土器 縄文前期前葉の在地系土器 (中越式) 深鉢17 中越式土器 縄文前期前葉の東海系土器 (清水ノ上I式) 深鉢3、壺1 清水ノ上Ⅰ式土器 縄文前期中葉の在地系土器 (神ノ木式) 深鉢4 神ノ木式土器 縄文前期中葉の東海系土器 (清水ノ上II式) 深鉢2、浅鉢1 清水ノ上Ⅱ式土器 ・石器 石鏃55、抉入刺突具1、石匙43、石錐16、打製石錘(有抉顕磨石器)7、 複数抉入石器1、スクレパー17、磨製石斧5、叩石25、礫端叩石20、石皿1 ・石製品 玦状耳飾1、岩偶1 〈遺跡概要〉 中越遺跡から出土した縄文時代前期前葉から中葉の遺物です。中越遺跡の縄文時代前期の集落は200軒以上の住居址が発見された、 全国的にも有数の拠点的集落であり、出土した膨大な量の遺物は、当時の中越人について極めて多くのことを教えてくれるのです。 中越式土器 〈土器の特徴〉 「中越式土器」と命名されている土器は、やや薄手で胎土に繊維を含まず、胴がくびれて底部がゆるやかな尖底となり、 胴から上に沈線による簡単な文様をつけるのが特徴です。 〈土器の分析〉 日本列島を東日本と西日本に分けると、縄文時代から現在まで、長野県を含む中部高地は文化的に東日本に属してきました。 関東を中心とした東日本の土器が厚手で繊維を多量に含み、全面に羽状縄文を施し、ずん胴形で底が平らな深鉢形であるのに対して、 東海・近畿地方などの西日本の土器は、極めて薄手で繊維を含まず、細線文と細い粘土紐貼付文を施し、丸底風の尖底を特色とする。 縄文時代前期の東西の違いの中に置いてみると、先の中越式土器の特徴は明らかに西日本的であり、 それも天竜川を遡るという人の流れを想定することによってはじめて解釈できるような、東海地方からの強い影響で誕生した異質な土器であることを示しています。 〈石器の種類〉 1984年の第14次調査までに出土した定形石器は3122点を数え、石鏃、石匙、石錐、打製石錘、スクレパー、横刃型石器、磨製石斧、叩石、礫端叩石、石皿 などがあります。 〈石器の概要〉 ほぼ半分を占める石鏃は、狩猟に比重を多くかけた時代であったことを如実に示し、 つまみを持つナイフ、石匙に観察される刃部の再加工や顕著な使用痕、 叩石や礫端叩石に観察される明瞭な使用痕は、それらの道具の使われ方を、 さらに、この黒曜石類の石器と、ともに出土している剥片、屑片、石核、原石などの 定形石器以外の膨大な量の黒曜石類は、石器加工や、石材の供給など、当時の人々の営みを知る重要な手掛かりとなるものです。 (意味が分かりにくい) ※定型石器を作ったあとの石屑は取引されないので、それらから石材の供給地や、交易先などがわかり、人々の活動を知ることができるという意味。 〈岩偶〉 石製品の一つ「岩偶」は、チャート製の完形品で、丸い頭部と短い腕、長い足からなり、全体は丁寧に研磨され、足は擦切技法によって分けられています。 岩偶の出土例は極めて少なく、縄文時代晩期の主に東北地方に分布が偏るという傾向がある上に、中越遺跡から出土した形態は全国的に類例がなく、 時期的にも最古の部類に入る貴重な作品であり、彼らの精神生活をさぐる上で重要です。 |
||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||
おせんべい土器 東海系土器と中越式土器の通称。非常に薄くて植物繊維も入ってない進んだ土器。「オセンベ土器」ともいう (オセンベ土器) 中越遺跡の人々は東海地方の沿岸部から、新天地を求めて大集団で移住した人々です。 従って、彼らは東海文化そのものの担い手であり、もし、そこに差異があれば、部族の違いか、中越にたどり着くまでに世代を重ねたのかもしれない。 ですから、中越式土器は東海系土器であり、大変薄い生地でできており、東海系・在地系(中越式)ともにおせんべい土器と言われています。 おせんべい土器(細線文指痕薄手式土器) 前期前葉の東海系土器 の通称です。 引用洞窟トピックス(滝沢Vol-4) 土器の厚さが2~3mmと非常に薄いのが特徴です。 引用縄文時代 | 富士じかん - 富士市 研究誌「オセンベ土器」は、伊那市高遠町の宮の原遺跡を取り上げている。 高遠は宮田村からさらに東奥、赤石山脈の北縁に入ったところで、ここにも東海系縄文人が移住していたんですね。 ※おせんべい土器は富士宮市(富士川沿い)にも展開しており、東海地方からの縄文海進避難民は、天竜川だけでなく富士川も遡ったようです。 いや、そうではなく、東海式おせんべい土器は、縄文海進以前から、東海地方の非常に広い範囲に分布していたと考えられます。 |
||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||
宮田村文化会館 (展示館)
|
||||||||||||||||||
中越遺跡と土器 20縄文前期 |
||||||||||||||||||
21中越遺跡 天竜川の西に広がる、広大な大田切川扇状地面は、西方の山地から流れ出た幾筋もの小川によって浸食され、東西に長い尾根状の台地の連続となっている。 中越遺跡は、それらの内の一番北側の大沢川と小田切川に挟まれた台地上に位置している。 遺跡からは、縄文時代前期と中期の大集落や、後期の墓と考えられる礫群などがみつかっており、規模の大きな複合遺跡である。 特に、台地の北縁に位置する縄文前期前葉から中葉にかけての集落は、何回かの建て替えがあるものの、住居跡だけで総数200軒以上にもなるものと 推定され、同時期の大規模集落址として有名な、諏訪市の十二の后(じゅうにのき)遺跡や原村の阿久遺跡をはるかに凌いでいる。 前期前葉の土器 中越式 (在地系) ※先にも述べたように、中越式土器・東海系土器は、土器厚2~3mmの極めて薄い土器である。
|
||||||||||||||||||
22前期前葉の土器 中越式 |
||||||||||||||||||
23縄文時代 前期前葉 中越式 |
||||||||||||||||||
24前期前葉 土器の形状が大きく変わり始めています。 |
||||||||||||||||||
30縄文時代前期前葉 東海系土器 清水ノ上I式
考察 東海系土器と在地系土器 ・在地系土器は、中越遺跡に先に来た東海地方の人々の土器。 東海系は、後に東海地方から来た人々の土器。と考えられます。共に使用痕があります。 何百年にもわたって拡大し続ける海から逃れて、先に移住した人々を頼ってやってきたのかもしれません。 ・移住してもやはり、元の地域とは交流・交易があったようです。しかし、次の移住の頃には、土器形式も違うほど時間が経っていたのでした。 ・すると、その次の東海系土器 (清水ノ上Ⅱ式) 集団が来るまでにはもっと時間が経っていたのであり、連続的に海洋が拡大したのでなく、段階的だったのか、 あるいは海洋拡大は直線的 (線形) でありながら、移住そのものが、ある程度の居住限界まで耐えて、そのうえで一斉にまとまって移住したのかもしれない。 海を離れたとしても、やはり海産物は生活に必要であり、交流は途切れることなく、その後もずっと続いていたのでしょう。 |
||||||||||||||||||
35東海系以外の土器 |
||||||||||||||||||
40前期の石器 |
||||||||||||||||||
50縄文中期 |
||||||||||||||||||
51蛙文様付 有孔鍔付土器 中越遺跡出土
考察 新たな移住民 ・「蛙文付土器」の形式が不明なので勝手に言えないが、井戸尻考古館や尖石考古館などで見られる、井戸尻式などでしょう。 すると、前期中葉で途絶えた中越遺跡に、中期にやってきて、新たにムラ造りをした人々は、諏訪や八ヶ岳の人々であったようです。 ・長野県歴史館展示の、中期の中越式土器は、前期中越式文化が絶えていたにもかかわらず、おせんべい土器の系統でした。 すると、前期住民は絶えたのではなく、残っていて、やがてやってきた八ヶ岳山麓からの移住民と共に中期の中越式土器文化を起こしたようです。 つまり、中期中越式土器とは、前期中越式文化と八ヶ岳文化の混じったものをいい、場所によってその比重が違っていたようです。 |
||||||||||||||||||
60縄文中期 中期中越式土器 |
||||||||||||||||||
61 |
||||||||||||||||||
63深鉢 中期中葉 三つ塚上遺跡 |
||||||||||||||||||
トカゲ文様のある土器 64深鉢 中期 中越遺跡 器面に貼りついているのは、体を扁平にして威嚇している大きなトカゲ類のように見えます。 実に生き生きとした造形です。 |
||||||||||||||||||
70中期 | ||||||||||||||||||
71中期の石器 |
||||||||||||||||||
72中期
粕畑式土器 縄文時代早期後葉の土器です。貝殻条痕文系土器です。この土器は東海地方に分布の中心を置く粕畑式土器と考えられています。 口縁部に刻み目を付け、胴上部に爪形の文様を連続しています。また、口縁には酒杯状とかラッパ状と呼ばれる特有の突起を持っています。引用 |
||||||||||||||||||
73中期末葉の土器 三つ塚上遺跡 |
||||||||||||||||||
80縄文時代 後期 |
||||||||||||||||||
81
|
||||||||||||||||||
90晩期 |
||||||||||||||||||
91石剣 |
||||||||||||||||||
100弥生時代 |
||||||||||||||||||
110
※弥生前期から想像図のような水田稲作が行われたとは考えにくい。後期に至っての想像図でしょう。 |
||||||||||||||||||
120弥生後期 ※伊那谷の弥生人は東海地方から入植した弥生人で、東海系弥生土器文化をもたらしました。 段丘・田切地形の伊那谷では水田稲作が発達しにくく、乾燥台地の畑作農業が中心でした。 |
||||||||||||||||||
130古墳時代 |
||||||||||||||||||
131 |
||||||||||||||||||
140青木三男氏所蔵遺物
|
||||||||||||||||||
200宮田宿本陣 旧新井家住宅 |
||||||||||||||||||
201
|