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01外観 天王塚古墳 リンク リンク リンク 動画リンク |
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03入口展示 顔面把手付土器 縄文中期 丸山遺跡8号住居祉出土。 丸山遺跡 リンク リンク リンク 前方部と右側の一部を除き把手から底部までのほぼ完形に近い状態で出土しました。顔は内側を向いており、胴部にヘビを思わせる 曲線の文様が付いています。用途は不明ですが、神様を祀るお祭りの道具として使われたのではないかと考えられています。
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人面・土偶装飾付土器の基礎的研究 吉本 洋子、 渡辺 誠 抄録 従来人面把手とよばれていたものは、実際には把手としては機能せず、宗教的機能をもった装飾と考えられる。 本稿は、その宗教的機能を解明するための基礎的研究として、それらの時期的・地理的分布を明らかにすることを目的にしている。 そのために機能の違いを想定して煮沸用の深鉢形土器に限定し、他の器種と区別した。 その分布は北海道から岐阜県にかけての東日本に集中し、293遺跡より443例出土していることが判明した。 (※後出1999年現在) 人面装飾付土器が主体で94%を占め、土偶装飾付土器は少ない。 人面装飾付土器は形態上4類に分類される。Ⅰ類は胴部に、Ⅱ類は口縁部に、Ⅲ類は口縁部上に人面装飾がみられる。 そしてⅣ類はⅢ類がさらに発達して大型化・立体化したもので、顕著に把手状を呈するようになる。 それらのうち始めに出現したのはⅡ類で、縄文時代前期前葉である。中期初頭にはⅢ類の発達が著しく、中期前半にはⅣ類が発達し、 併せてⅠ類や土偶装飾付土器もみられるようになる。しかし中期後半には急速にⅣ類などが減少し、もとのII・III類のみになる。 地域的にみても、Ⅳ類は主に長野県・山梨県・東京都に集中している。時期的・地理的にも勝坂式文化圏に相当し、同文化圏の代表的な遺物である。 Ⅳ類の特徴である大型化などについて、それを客観的に理解できるように顔面サイズの測定を行った。その結果I~III類とIV類との大小2群に 分かれることが判明した。 しかし正確にはIV類にも大小2群が含まれていて、共存している。そのサイズは、高さ・幅とも13cmが目安である。 その顔が成人女性であることは、耳飾りをつけていることから明らかである。そのうえ出産を表現した例さえある。 また頭上や向かいあって男性を示すマムシとセットをなすことがあり、性的結合によって生じる新しい命としての食べ物を、神と共に食べた宗教的な 行事を示唆している。 その上その直後に、穢れを恐れて底を抜いたことを証明するような埋設例もみられるのである。 時期的・地理的分布状態の正確な把握を基礎として、原日本文化である縄文文化の精神世界を実証的に明らかにしていきたい。 [終] 人面・土偶装飾付深鉢形土器の基礎的研究(追補2) 吉本洋子・渡辺 誠 -論文要旨- 筆者達は1994年刊行の本誌第1号,および1999年の第8号において,人面・土偶装飾付深鉢形土器について集成と追補を行い, 分類・分布・機能などの基礎的研究を行った。さらに今回追補2としてその後の増加資料を検討した。 人面・土偶装飾付深鉢形土器は,1994年までは443例であったが,1999年では601例となり,今回では750例となつた。平均して毎年約30例ずつ 増加しているのであるが,1999年と今回の内容を検討すると,増加傾向には大きな変化はみられず,基礎的研究は終了できるようになったと考えられる。 分布においては北海道西南部から岐阜県までという範囲に変化はみられないが,その間の秋田県・富山県などの空白地帯が埋まり, 落葉広葉樹林帯の分布と一致していることが一段と明確になった。 時期的にも,縄文中期前半に典型的な類が発達することには変化はないが,前期の例が増加している。 後氷期の温暖化が進み,日本列島の現状の森林帯が回復した時期もまた縄文前期である。 四季の移り変わりのもっとも顕著な落葉広葉樹林帯と,人面・土偶装飾付土器の分布が一致することは,その機能を考える上できわめて重要である。 冬期に弱まった自然の力の回復を,死の代償として豊かさを求める女神像に重ね合わせる,縄文宗教の形成を強く示唆している。 基礎的研究の上にこれらの研究を本格化させる段階に入ったと言えるであろう。 [終] ※顔面把手付土器がなんであるかは、 「宗教的機能を持った装飾である」と規定し、 「冬期に弱まった自然の力の回復を,死の代償として豊かさを求める女神像に重ね合わせる,縄文宗教の形成」 と、言っている。 顔面把手の論文がないことから、この、共同研究論文の抄録が、私が探し得た数少ない解説である。 |
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10縄文時代 縄文時代の始まり 今から約1万5000年前、日本列島に土器が登場しました。これ以後。紀元前4世紀頃に稲作が行われるまでの時代を、縄文時代と言います。 この時代は、①気候の温暖化により、寒さに強い大型獣が滅び、小型の敏捷な動物が増えた。 ②海面が上昇し、本格的な漁労が行われるようになった。 ③針葉樹の森が、広葉樹中心の森に変わり、ドングリ・クリ・クルミ・トチなどの木の実が沢山採れるようになった。 こうした特徴から、狩猟・漁労・採集を生活の基盤とした、安定生活が行われるようになりました。 狩りの道具 縄文時代を代表する狩りの道具は弓矢です。これは縄文時代が始まる少し前に登場したと言われています。 弓矢の登場により、素早い動物を捕えられるようになり、前時代からの伝統的な道具である槍は、ほとんど使われなくなりました。 この他に、獲物を解体したり、皮を剥いだりする道具 (石匙・スクレイパー) も使われました。 |
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12石器
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16箕輪町遺跡分布図 |
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18石器 縄文時代の食生活 縄文時代の食生活は、豊かな植物食に支えられていました。中でもクリやドングリ (クヌギ・コナラ) やトチノキなどの木の実は、 収穫が簡単で、保存もしやすいため、縄文人の食生活には欠かせない大切な食糧でした。 しかし、これらはアク抜きをする必要があり、このための石器は、土器と共に縄文人の食生活を支えました。
凹石 磨石の表面に凹みを持つ石です。この窪みについては、木の実を割る時に固定するための穴とする説のほか、火起こしの押さえ石とする説や、 石器を加工するための道具とする説などがあります。しかし、打製石斧や石鏃と共に、縄文時代の遺跡から一番多く見つかる石器であることから、 縄文人にとってとても重要な石器であったと考えられます。
阿久縄文ムラの秋の夕げ (長野県立歴史館) 約5500年前、10月中旬の夕暮れ、八ヶ岳山麓のムラで炉を囲む一家四人の食卓の様子。 父「夏に沢で獲ったヤマメだ。こいつがうまいんだ。」 姉「とうちゃん、わたしにもちょうだい。」 母「きのうとうちゃんが獲ってきた猪の鍋もよく煮えてきたようね。」 「今日私が見つけたキノコも入ってるね。」 「裏山で猪の新しい足跡見つけたから、明日男達はイノシシ狩りだ。」 |
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20双口土器 縄文前期 荒城遺跡4号住居祉 日本最古 一つの胴部に高さの違う二つの口縁部が装着され、形状はU字状で、口縁部は胴部はややラッパ状に開き、其々に山形の突起が一つみられる。 文様は、外面は単節RL縄文施文後、口縁部付近に半割竹管文が2周施される。諸磯a式土器の特徴を示す。荒城遺跡出土「双口土器」 |
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双口土器 引用荒城遺跡 荒城遺跡の4号住居址の床面直上の9・10層から、大量の焼土・炭化物・炭化材が出土し、 ほぼ同じレベルから肋骨文等の縄文時代前期後葉諸磯a式の土器片が出土した。 また、西壁近くの床上8cm付近からは、縄文時代前期後葉諸磯a式のものと思われる双口土器が出土した。 双口土器は逆位で出土し、内部には土が一杯に詰まっていたため、ほぼ完全な状態で出土した。 口緑は大10・3cm、小8・5cmを測り、其々に小突起が認められる。突起部を含む器高は、大13.1cm、小12.3cmを測り、底部径は5・5cmを測る。 外面は単節RL縄文施文の後、口緑部付近には幅2~3mmの半割竹管文が2周施されている。又、内面はヘラミガキが施されている。 焼成は良好で、内外面には焼成時のものと思われる炭化物が付着している。 |
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※縄文前期の双口土器 これに関する文献は全く見つからない。しかし、双口土器は中期にも、後期にも出現しているが、点数が少ないため研究対象にないかも知れない。 数少ない論文を下に転載した。 論文は、縄文時代の異形土器に関する貴重な論文集である。 |
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國學院大學の考古学:先史世界における特殊器種・異形土器の社会的意義 2012年度 国学院大学 特別推進研究 「先史世界における特殊器種・異形土器の社会的意義と象徴操作」成果報告書 論文集「縄文時代異形土器集成図譜Ⅰ」 2013年3月 国学院大学文学部考古学研究室 P94掲載の論文 「双口土器・双子土器」 中村耕作 である。 双口土器・双子土器 中 村 耕 作 (國學院大學) 1.研究史 双口土器・双子土器は、時期・地域を通じてまとまった資料は少なく、具体的な展開過程についての研究は行われていない。 「双口土器」の名称は、中谷治宇二郎による下新宿遺跡例の紹介にはじまる(西山1995)。 事例集成にもとづく、時期的・地域的分布については、金子台遺跡例を扱った赤星直忠(1974)、小池台遺跡例を扱った西山太郎(1995)、 宮後遺跡例資料を扱った和田清典(2002)、および七社宮遺跡出土人面装飾付注口土器を基点に据えた渡辺誠(1998)の論攷がある。 西山は、双口土器を、折衷型双口土器、U字形双口土器、注口付双口土器、環状双口土器、双子土器、双口注口土器、双口環状注口土器 に区分している。 その性格については、口が2つという点を重視して二項対立・双分思想にもとづくものと位置づける見解がある。 小林達雄(1988)は男女両性を表現したものとして、二体の人体文を持った土器や石冠などと共に双子土器・双口土器を挙げており、 谷口康浩(2011)もまた同様の性格をみている。 これに対し、渡辺誠はより踏み込んで、男女の合体を示すものと理解している。渡辺はママチ遺跡例を抱擁した男女像とし、 双口土器・双子土器を下部を合体させた姿と見ている(渡辺1989)。 さらに、渡辺の研究で重要なのは、人面装飾付注口土器の関連資料を、 人面装飾付の各種注口土器/人面装飾無しの各種注口土器/注口土器でない各種土器に整理したものである。 この中で、今回問題となる双口土器は、人面装飾付双口注口土器/双口注口土器/双口土器および人面装飾付双口環状注口土器/ 双口環状注口土器/双口環状土器である。 この整理によって、後期を中心とする各種の異形土器の、①基盤が注口土器であること、②相互に体系的な関連性を持つこと、 ③出現時期や分布範囲が重複すること、などが明瞭となった。 器種のあり方に関する視点では、秋田かな子(1999)による“ 石神類型” 文様の共有に関する問題がある。 秋田は、後期前葉~中葉において注口土器が深鉢と異なる文様を持ち広域分布する様相に注目し、地域間交流を媒介する性質を読み取ったが、 そこに付された多重沈線文などの“ 石神類型” 文様が、金子台遺跡や津島岡大遺跡の双口土器に見られることから、同種の社会的性格を読み取っている。 なお、白坂遺跡例については脂肪酸分析によって「高等動物の血液・脳・臓器等に含まれる脂肪が多い」とされたが、現在はこの分析手法自体の問題が明らかになっている。 2.形態分類と分布 西山・渡辺の分類を参考に、双口土器・双子土器の関連資料とされたものを以下のように区分して、分布の概要を確認する。 Ⅰ:双子土器 口縁が2つあり、内部が貫通しないもの。最古例は青森県矢倉遺跡の前期後葉。中期は比較的多く、関東・中部地方を中心に東北・北陸に分布する。後・晩期は東北と関東で数例がある。 なお、三子土器として、秋田県日廻岱B 遺跡例を示した。 Ⅱ:双片口土器 現在のところ、新潟県山下遺跡の例が唯一の例である。 Ⅲ:双口土器 口縁が2つあり、内部が貫通するもの。比較的多くの事例がある。 最古例は長野県荒城遺跡で、その後中期の中部に無文で低い形態のものが数例存在する。 堀之内2式新段階から加曽利B2式までの関東周辺では比較的多くの双口土器が出土している。 この時期の双口土器の形態は、金子台遺跡例や陸平貝塚例のように左右の双口部の高さが異なるもの、久門寺遺跡例のように小さな突起があるもの、手広遺跡例や加曽利貝塚例のような双口環状形のものなど形態は多様である。 堀之内2式新段階には神奈川県に4例が集中しているほか、津島岡大遺跡に事例がある。 これらはいずれも秋田かな子が指摘するように“石神類型” の多重沈線文あるいはリボン状の充填縄文を持つ。 これらは信越の深鉢を除けば、主に同時期の注口土器に付されるもので、ほかに東京・神奈川の小形壷(秦野市寺山遺跡、伊勢原市下谷戸遺跡など)や、桐生市千網谷戸遺跡の土偶にも見られる。 加曽利B1式期には陸平貝塚や加曽利貝塚など東関東の事例が増加し、加曽利B2式期には東関東が主体となる。 この時期には特殊な文様は描かれず、他の器種と同様の磨消縄文帯がめぐるものが多い。 なお、器形については、本書冒頭でも紹介した大貫落神遺跡の異形注口土器と双口土器の境界に位置するもの、あるいは本稿でⅢb類とした、 注口付の双口土器などの異形形態が出現する。 双口土器自体が注口土器の異形形態として位置づけることも可能であろうが、前半期は文様の点で、後半期は器形の点で差異を表現している。 なお、後期中葉には東北にも若干例が知られている。晩期以降、北東北・北海道に事例があり、続縄文時代まで続くが詳細は検討不十分のため、『日本原始工芸』に掲載された事例を紹介するに留める(杉山1928)。 Ⅲb:注口付双口土器 双口土器の胴部に注口部を付すもの。加曽利B2 式の群馬県深沢遺跡例のみ。 Ⅲc:三口土器 3つの口縁部を持つもの。岩手県長者屋敷遺跡例のみ。 Ⅳ:双口環状土器 ドーナツ形を呈する環状土器(環胴土器)に2つの口縁が付されているもの。 環状土器には縦型と横型があるが、双口がつくのは横型に限られる。後期中葉の関東に3例、晩期の鹿児島に可能性のある1例がある。 湯沢遺跡例は口縁部と推定される両端が欠損しているので、双口になるかどうかは不明。 Ⅴ:双口注口土器 注口土器の口縁部が2つのもの。晩期の北海道上利別20 遺跡と秋田県白坂遺跡に例がある。 Ⅵ:側頭部双口表現 顔面の両側頭部に筒状突起が付くもの。これまで双口土器とされてきたもののうち宮城県下別当遺跡例、埼玉県高井東遺跡例、 出土地不詳國學院大學所蔵例などが該当する。 本群の双口表現は顔面に付属する装飾とみられるもので、器形を基準とした上記諸例とは異なった範疇に属するものと考えたい。 例えば、高井東例や國學院大學所蔵例は異形注口土器と位置づけられるものである。 3.出土状況 住居炉内:加曽利貝塚例は東斜面部の住居内の炉中央より横位で出土している。 住居床面:荒城遺跡例は焼失住居の床面壁際より出土している。柿ノ木平遺跡や湯沢遺跡など中期末葉の岩手県にも床面出土例がある。 荒城遺跡は若干古い例となるものの、これらの時期・地域には双口土器以外にも床面出土例が盛行する時期にあたる(中村2010・2011・2012)。 墓坑:深沢遺跡例は墓坑内より出土している。 土坑:中期後葉の宮後遺跡例は住居域内で、住居とも重複する土坑群の1つから出土している。同じく古井戸遺跡例も土坑内出土である。 中期末葉の湯沢遺跡ではフラスコ型ピットから磨製石斧とともに出土している。 附:鳥形土器 鳥形土器と呼ばれる器形はいくつかの種類があるが(成田2005、西本2005)、ここでは横筒状の器形の一端に口を持つものを取り上げる。 既に、西田泰民(2000)が指摘するように茨城県福田貝塚で完形例がある。 西田が取り上げたもう1つの福田貝塚例(薬師台貝塚例)は、両端が破損しており、双口土器となるか鳥形土器となるか不明な例である。 晩期の事例として、東京都町田市なすな原遺跡例がある。 また、一端が破損しているものの、東京都青梅市中宿遺跡例(安行3b 式)は遺存部分の検討から本来閉じていた鳥形土器であると推定されている。 双口土器・双子土器 資料
※この異形土器を特集した論文集は、是非全てを読み通したい論文だと思います。 |
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30石器 |
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31panel |
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32石器 |
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40祭祀具 |
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42panel 縄文人の祈りの心 土偶は、ほとんどが乳房やお腹が膨らんだ女性であり、多くが壊れた状態で見つかります。土偶は、死ぬこと(壊される事)によって 新しい命を生み出す精霊の姿と考えられており、動植物の豊かな恵みや、新しい生命誕生の願いを込めて作られ、願いがかなった時に 壊されて土に返されることで、新たに生命のための力を、土やムラ全体に与えたのだと考えられます。 また、土偶をよく観察すると、縄文人がとてもおしゃれだったことがわかります。 謎の石器はお祀りに使われた 石棒・石剣 縄文時代の遺跡からは、使い方がわからない謎の道具が沢山見つかっています。石棒は男性器をかたどったもので、焼けたり、 壊されたりしてみつかることが多いことから、再生や豊穣を願い、壊される道具として使われたのではないかと考えられています。 石剣は、石棒よりも平たい形をしたもので、その使い方はわかりませんが、お祀りなどにも使われたと考えられています。 その他、石冠や独鈷石も謎の石器ですが、いずれもお祀りに使われたのではないかと考えられています。 縄文土器について 土器の登場は人々の暮らしを大きく変えました。生食か焼くか、から、煮る調理ができるようになり、食材が増え、人々の寿命が延びました。 また、縄文土器の形や模様は、世界的にも優れた芸術性を持っていると言われます。 |
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43石器 石冠 縄文後期や晩期にみられるもので、上部が山形をしていて、表面がきれいに磨かれたものです。この石冠のように文様が刻まれたものもあります。 何のために使われたのかはわかっていませんが、供えられる性格を持つ、お祀りのための道具ではないかと考えられています。 独鈷石 縄文時代後期・晩期にみられるもので、中央部に窪みが1周し、両端が尖るもの、丸みのあるもの、平らなものなどがあります。 この石器が何のための物かは分かりませんが、意図的に壊されたものや、火を受けたものなども見つかっており、石棒や石剣と同じ様に 祀りに使われた道具ではないかと考えられています。 |
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44土偶 |
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45アクセサリー |
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48模様と形 縄文時代の土器には、それ以降の時代に作られた土器に比べて、とても多様な模様や形が施されています。 縄文時代とは、土器表面に施された縄の文様からつけられました。他にも割った竹を押し付けた模様や、棒状の物で線を引いた模様、 粘土紐を貼り付けた模様など、様々な模様が見られます。 また、土器の形も、縄文時代中期を中心として、様々なものがあります。 中には、動物や人間(精霊)を表現したのではないかと思われる土器もあり、生命力あふれる装飾は見るものを圧倒します。
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50縄文中期 5500~4500年前の縄文中期は、気候が大変暖かく、自然の恵みが豊かな時代でした。気候は1~2℃高く、海面は3~5m程高かった。 八ヶ岳山麓をはじめとする各地の縄文のムラには山の幸があふれ、人々は豊かな生活を送っていたと考えられています。 多様な模様や形をした土器は、その豊かさを象徴していると考えられています。 |
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54中期土器 埋甕 住居の入り口付近に埋められた形で見つかる土器を埋甕と言います。これは死産した子供などを埋めた甕の棺で、 女性が出入りするときにまたぐことで、死んだ子供の魂を再び宿し、早く次の子供を得たいという信仰と考えられます。 |
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58中期土器 |
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59縄文土器 抽象文を持つ土器 上の林遺跡 (箕輪町木下) 縄文中期 約5000年前 上の林遺跡 リンク リンク 上げ底で、円筒状の有孔鍔付土器です。表面には両手両足を広げたような抽象文が、相対する位置に描かれています。 縄文人はどんなメッセージを込めているのでしょうか。
参考資料 ・その他の抽象文をもつ有孔鍔付土器 ・人体文付有孔鍔付土器 - 南箕輪村公式ウェブサイト ・勝坂式 - Wikipedia 抽象文土器の系譜 ・縄文土器文様の物語性 小野正文 甲州市 (※この地域での文様解釈は独特であり、私としてはあまり引き込まれたくないが、) 土器の抽象文は、勝坂式土器に於いて特徴的であり、加曾利E式期には出現しなくなるといっている。 ・研究紀要26 山梨県立考古博物館 抽象文の起源は、五領ヶ台式土器の中にその萌芽が見られ、格沢式上器の中にその原型が作られ、新道式で成立し、藤内式でほぼ終焉を 迎え、井戸尻式ではその残影が見られるのみである。つまり、勝坂Ⅰ式~Ⅲ式期の間の土器である。 ・上記から、勝坂式土器Ⅰ期 (狢沢式期) 約5,500年前 から 勝坂Ⅲ式 (井戸尻式期) 約5,000年前の、約500年間に渡って作られた物である。 井戸尻式の終末期には水煙文が現れる。 関東地方では、井戸尻式末葉には、東北の大木式の影響を受けた加曾利E式が成立し勝坂式は終焉する。 中部山岳地帯では、次の曽利式が現れ、水煙文が継承される。 参考資料 ・「勝坂縄文展」 [PDFファイル/6.99MB] - 神奈川県 ・勝坂式土器 ・阿玉台式土器 阿玉台式と勝坂式の関係 |
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60弥生時代 栗林式土器/弥生中期 栗林式土器 (長野市内その3松原遺跡) 第1章第3節以降が栗林式土器の項目 弥生中期・栗林式土器編年の 再構築と分布論的研究 - 国立歴史民俗博物館 馬場伸一郎 栗林式土器については 飯島町 陣嶺館 沖縄写真通信にもあるが写真が不鮮明です |
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61箕輪町の弥生時代 約2400年前、それまでの縄文文化の伝統の上に、大陸から新しい文化が伝来し、九州地方で稲作を中心とする新しい生活が始まりました。 この新しい文化は、東京本郷の弥生町で見つかった土器から研究が始まったため、弥生文化と呼ばれています。 約2200年前も弥生時代中期初頭には、現在の長野県の各地でも、稲作を伴う暮らしが始まりました。 稲作農耕の始まりは、安定した食料の確保に繋がり、生活は安定していきました。 しかし、反面、生産力の発展は余剰米を生み、こうしたコメを盗り合うことで、戦争が発生していきました。(という考えです。) 栗林式土器 弥生中期・栗林式土器編年の 再構築と分布論的研究 後期 長野県中野市教育委員会 町内の弥生時代中期の遺跡からは、「栗林式」 と呼ばれる、長野県北中部に分布する土器が多く見つかっています。 ※栗林式土器は、弥生時代中期後半、縄文土器の文様を受け継ぐ土器である。 これに対し、弥生時代後期になると、下伊那地方でよくみられる、溝が長方形にまわった建物の跡や、 下伊那地域の土器とよく似た土器が多くみられるようになります。 こうしたことから、弥生時代の箕輪地方は、南北交流の交流点であったことが伺えます。
弥生中期・栗林式土器編年の 再構築と分布論的研究
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62箕輪遺跡の弥生土器 栗林式土器 |
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63土器 |
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65箕輪町の石器 箕輪遺跡の石器は語る 箕輪町から南箕輪村にかけての天竜川西岸には、箕輪町を代表する、箕輪遺跡があります。 約2200年前の弥生時代中期をはじめとするムラの跡や、現代まで続く水田の跡などが見つかっています。 弥生時代の住居跡からは、よく磨かれた斧や、矢じりなどの石器が見つかっています。 作りかけの石器や、この辺りでは得られない石材なども見つかっていることから、 石材を持ちこんで加工していた職人集団がいたのではないかと考えられています。 |
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67石器 |
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68木製品 箕輪町での水田耕作 箕輪遺跡における水田農耕は、石包丁の発見からムラが確認された弥生時代まで遡ると思われますが、水田跡は未確認です。 古墳時代には水田農耕が行われ、以後、中断はあったが、現代まで続いています。 箕輪遺跡出土の、木製鍬や鋤、水田の畦に入れた矢板、沼田で稲を運ぶ田舟など、ここが、古くからの水田であったことを物語っています。 箕輪遺跡 資料 リンク リンク リンク |
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70古墳時代 |
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71源波古墳の出土遺物 資料リンク リンク げんなみ古墳(6c末-7c初め)は、横穴式石室、直径20m 高さ3.5~4mの円墳 長岡古墳群の中では最大級です。 副葬品は、土師器・須恵器、刀や矢などの武器、轡くつわ、辻金具などの馬具、金環(イヤリング)、腕輪などの装身具が出土。 馬具や装身具などには、金メッキが施されていました。出土遺物221点。 |
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72土器 |
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73馬具 古墳とは何か 古墳とは古代の墳墓の意味ですが、規模の大小は別として、土または石を積み上げた墳丘を持ち、その内部に遺骸埋葬の施設を持つものです。 土や石で遺骸や遺骸埋葬施設を「封じ込める」という意味から、墳丘のことを封土とも言います。 遺骸には副葬品が供えられていることが基本で、古墳内部にある遺骸埋葬施設と、それに関連する構造物を古墳の内部主体と呼んでいます。 外郭に埴輪列や葺き石が施されていたり、堀が巡らされていることもあります。 |
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74武具 |
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古墳ジオラマ 75松島王墓 6世紀中期~後半にかけて築造 上伊那地方唯一の前方後円墳で、長野県でも車塚形式では最大級の古墳となっています。 その規模は、後円部を東に向けた形で全長約60m、高さ10.6m、後円部直径30mとなっています。古墳時代後期(6世紀)に築造。 なお王家の被葬者については、「伊那志略」に「敏達天皇の皇子頼勝親王」の墓と伝えられています。引用松島王墓古墳~ | い~な 上伊那 羽場の森古墳1~3号 はばのもり古墳は、長岡区の天竜川河岸段丘上にあります。3基からなる群集墳。 2号は直径16m高さ2.8m円墳で周溝あり。石室は南が出入り口となる横穴式石室で、玄室は長さ6.3m幅1.8mです。
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77古墳 松島王墓古墳 松島王墓古墳は、上伊那では唯一の前方後円墳(全長58m)です。未調査のため詳細不明です。 表面採取で、高さ70~80cmの円筒埴輪をはじめとする埴輪の破片や、土器などが確認されています。 これらの出土品から古墳時代後期(6世紀)築造と考えられています。 |
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78松島王墓の埴輪・土器
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80古代~中世 |
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81大道上遺跡と中道遺跡 奈良・平安時代の出土遺物 東山道深沢駅の位置は不明で、大道上遺跡から道路や側溝が発見されましたが、古代東山道か近世春日街道かは不明です。 大道上遺跡の深沢川を挟んだ対岸の中道遺跡では、奈良・平安時代の大規模集落跡が見つかっており、ここが深沢駅跡かとも推測されます。 |
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82福与大原遺跡出土品 室町時代 |
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83福与城跡出土品 戦国時代 福与城跡 福与城は福与区の天竜川東の段丘上にあり、戦国時代に箕輪地方を領有した藤澤氏の居城。東西330m南北440m。 周囲は断崖で南東方向のみ平地になっている。15世紀中頃~16世紀中頃まで使われていた。 上ノ平城跡 上ノ平城跡は、南小河内区の東方丘陵突端部にある。平安末期に源 為公築城説もあるが明確にならず。 最終使用年代は戦国時代 (15世紀中頃~16世紀中頃) までであった。 |
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資料 瓦質土器と陶質土器ってよくわからない。瓦質土器と陶質土器|oyasumiponのブログ にまとめてあるが、それでもわからない。 考古学のおやつ/日本出土の朝鮮産土器・陶器―新石器時代から統一新羅まで―では、 楽浪土器、瓦質土器、軟質土器、伽耶土器とか、いろいろ研究されているが、ますますわからない。 高度な論文は私には理解不能。そこで、すこし、分かり易い資料で調べました。 |
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瓦質土器と陶質土器 陶質土器=須恵器。 陶質土器は三韓時代の瓦質土器文化を基盤とし、中国の磁器窯法=登り窯の知識を得て、朝鮮半島南部 (金官伽耶など嶺南地域)で発生。 それが、新羅や百済に広まり、更に5世紀初頭には我国にも伝えられた。 瓦質土器と陶質土器 5世紀初頭に半島より職人が渡来し、大阪陶村で製作を開始する。穴窯作りで轆轤(ろくろ)成形する。(登り窯との違い) 穴窯で1200℃付近まで上げると、窯に薪を多量に投入して不完全燃焼を起こし、一酸化炭素と水素を発生させ、窯の焚口と煙孔を閉じる。 釜の内部で900℃に下がるまでに、胎土中に含まれる鉄分が還元され、青灰色で焼き締められた硬質土器ができる。素焼きの土器。 須恵器 - Wikipedia 須恵器づくり 須恵器について - 石川県埋蔵文化財センター ※陶質土器はわかったが、瓦質土器を正面から調べると、 瓦質土器 朝鮮半島南部での瓦質土器の出現は、紀元前1世紀、弥生中期後半である。この時期列島では出現しない。 弥生後期に壱岐・対馬・北部九州から多く出土。畿内からは弥生後期後半、紀元2世紀頃、奈良県桜井市で出土する。 楽浪郡には漢文化が移植され、その中に在地の文化も取り込まれた。 土器においては、漢代の灰陶の流れを汲む還元焔焼成の楽浪瓦質土器と、在地土器(古朝鮮土器)の流れを汲む滑石混和土器がみられる。 =瓦質土器とは、楽浪・帯方郡の、またはその影響を受けた土器。 瓦質土器と陶質土器 灰陶 中国の灰青色土器。焼成の最後の段階で水をかけ,空気を断って,粘土中の酸化鉄を還元させ焼きしめたもの。 土器製作法の変遷過程では,粗陶(黒褐色),紅陶(赤色)を経て第3段階に現れる。 灰陶系の土器は新石器時代に出現し,殷(いん),周を通じ長く用いられた。→関連項目邯鄲遺跡|城子崖遺跡|陶質土器 と、このようにみてくると、ますますわからなくなる。そこで、方向を変えて、以下、コトバンク瓦器 より 世界大百科事典 瓦器 「それらは大きく土師器系,須恵器系,瓷器系に分かれる。まず土師器系には土師器そのものと瓦器がある。」 つまり、土師器系統の土器のようです。 (※須恵器を白瓷しらしと呼んで、同じものとする図表があったが、少し違うものであることがわかりました。) 更に、 日本大百科全書 瓦器 平安時代から室町時代にかけて近畿地方を中心に分布する瓦質土器。 精良な粘土を使用し、煙でいぶし焼きして炭素を吸着させたもので、器表は黒色、器肉は灰白色を呈し、内外面に磨き調整がなされている。 器形は椀が大半で、小椀・小皿もある。これまで手づくね成形とされていたが、内型 (うちがた) を使用したとする説もある。 中世遺跡の発掘が進むにつれ、西は瀬戸内・九州、東は鎌倉などからも出土することが明らかになってきた。 ※つまり、低温焼成だのに、高級陶器須恵器のような色を付けるために煙で燻して煤で黒くした、 ロクロを使っていないのに表面をつるつるにするため、ヘラでこすって磨いた、大衆向けの土器のようです。 世界大百科第2版 瓦器では、 11世紀から14、15世紀ごろまで,畿内とその周辺で製作された土器。 器面を密に仕上げるため,器の内外をへらで磨き,いぶし焼きをして全面に炭素を吸着させ,独特の灰黒色を呈する。 碗が圧倒的に多い。皿や釜などもある。土師器系の土釜や皿,須恵器系の鉢や片口,すり鉢などと合せて日常雑器として使用された。 奈良・平安時代の土師器の中に,器面をへらで磨き,炭素を吸着させた黒色土器と呼ばれるものがあるが,成形や焼成の技法と器形などは その系譜をひき,ろくろは使用していない。 |