北海道の縄文 №36 2022.06.15-4
オホーツクミュージアムえさし 北海道枝幸郡枝幸町三笠町1614-1
0163-62-1231 月休・月末の火曜休館 撮影可
館の特徴 |
巨大で豪華な建築。博物館棟以外に何棟もあります。
隣接する高級ホテルより豪華です。
オホーツク海やその文化に詳しい。総合博物館。 |
近隣観光地 |
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近隣博物館 |
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宿泊情報 |
空いた宿泊施設は少なく、私は観光off seasonにも関わらず周辺都市も満室で
100km北の稚内市内でドミトリーをやっと見つけました。要注意の地域です。 |
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はじめに
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「オホーツクミュージアムえさし」は、昨年末に北海道シリーズが始まる前に揚げました。突然のことで人気もありませんでした。
今回、全面的に見直し、大幅に加筆して再構築し、再アップロードしました。 |
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目次
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00今日までの旅程
01外観
03入口展示
10地学
11千畳岩と柱状節理
13セイウチの暮らす海
14枝幸のセイウチ化石
15デスモスチルス化石
16海生動物
30生物
50オホーツク海
52オホーツクの海底地形
53海の風景
60オホーツク海の構造
65a海の形と海底の形
65b海の塩分二重層
65c地球の自転と海の気象
65d旅する流氷・沖で生まれ流氷
65e流氷の海・の役割
100先史時代
101環オホーツク海の先史文化
110枝幸の先史文化
120旧石器時代
121宗谷地方の旧石器時代
122細石刃技法
123歌登の石灰岩洞窟
124旧石器時代の歌登
130歌登地方の旧石器 132最初の枝幸人
133歌登の石灰岩洞穴
※考察資料パンケナイ7線の意味
縄文時代
140宗谷地方の縄文時代
142最初の縄文人の北限
151縄文人の第二の道具
152第二の道具
161縄文人の墓
171縄文時代の枝幸
172磨製石斧 |
続縄文時代
200宗谷地方の続縄文
※考察続縄文人の大移動
※考察縄線文系と鈴谷式
202宇津内式土器
204続縄文時代の枝幸
※考察続縄文人の大航海
205後北C1式土器
206音標ゴメ島遺跡
207ゴメ島を訪れた人々
208離れ小島の古代人
擦文時代
210宗谷地方の擦文文化
212擦文人の道具
221擦文文化の広がり
222擦文土器
231失われた岩屋洞窟
232ホロナイポ遺跡の発掘
251擦文人の織物
261擦文人の鉄利用
262フイゴの羽口
271擦文人の雑穀栽培
オホーツク文化期
300目梨泊遺跡の土器
301貼付浮文土器
302刻文土器
303ソーメン文土器
304貼付浮文土器
310オホーツク文化の世界
311家畜を飼育する
313オホーツク人の生業
314鉄器
317オホーツク人の出自
319お墓と副葬品
※資料墓制の地域差
※考察被甕葬
321甕被り葬
323クマを信仰する人々 323クマを信仰する人々
※考察牙製婦人像
325遺物
※考察 オホーツク人と信仰 |
330目梨泊遺跡
342オホーツク式土器
343骨角器
344骨角器の製作技術
350オホーツク人の住居
355蕨手刀の手入れ
358クマ意匠の容器
365土器づくりと文様
※資料貼付文土器の北上
400オホーツク文化の時代
402川尻北チャシ遺跡
403音標ゴメ島遺跡
404ホロベツ砂丘遺跡
405目梨泊遺跡
407揺籃の地。宗谷海峡
408オホーツク文化前期
410交流・交易
411金銅装直刀の発見
412海を舞台にした交流
※考察靺鞨交易から大和へ
※考察秋田城和人との交易
413高校生が見つけた宝
415金銅装直刀の持ち主
※考察 埋葬
416有孔石錘
421墓制の地域性
424オホーツク人の墓所
425枝幸地方の墓制
431オホーツク人の装い
440目梨泊遺跡の発掘
443オホーツク人と穀物
445オホーツク人の家畜
451オホーツク海の狩人
※考察 骨角製スコップ
※考察オホーツク人への疑問
455オホーツク人の道具
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460信仰
※考察婦人像とクマ像
461女性像の分布 463クマ像と婦人像
465土器
500オホーツク人の暮らし
501オホーツク人の漁業
507石器・石鏃
205竪穴住居の暮らし
521シャーマンの祈り
※婦人像のモデル
522牙を抜いた?
※訂正 女性像
525骨塚にクマを祀る
540オホーツク文化の変遷
542土器はどんどん変わる
551歴史書とオホーツク人
552胸に土器を被せた墓
553靺鞨文化の人々
555交易港目梨泊
560刀剣
562蕨手刀のきた道
※考察 蕨手刀
563蕨手刀の分布
564大陸から運ばれた宝
565青銅製帯飾と靺鞨文化
566蕨手刀
567青銅製帯飾
571宝物の移り変わり
572律令国家と北の古墳 573分け合った帯飾の謎
※考察 帯飾りの使い方
574折り曲げられた刀の謎
575オホーツク人の素顔
580終焉
581オホーツク文化の黄昏
583トビニタイ文化
585最後のオホーツク人
600アイヌ文化の時代
611松浦武四郎の見た枝幸
612枝幸地方のアイヌ伝承
651枝幸地方のチャシ
670川真珠貝の貝塚 |
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00今日ここまでの行程
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2022.05.28に旅を始めて半月経ち、旅程の半分が過ぎました。初日から一日一食だったため、開始後1週間でげっそりと痩せました。
皮下脂肪も内臓脂肪も随分減って、とても健康的な身体になっていたと後日、たまに撮っていた自分の写真を見て、そう思いました。
以前、自宅の近所で当たり屋BBAにやられて以後、運転に自信を失っていましたが、ここまで、事故もなく、警察にも捕まらず、
なんとか運転をしてきました。
また、旅行計画も準備品も、全てなんとか順調でことたり、よかったと思っています。
ただ、誤算だったのは、繁忙期でもないのに、民宿・ホテルなどから断られることが多く、宿の確保が大変でした。
それでも同一地域に複数の宿をリストアップしていたのと、どうにもならないときは、インターネットで探すこともできました。
さて、今日は、行程③名寄市から天塩川に沿って北行し、音威子府村から東に山を越え、再度オホーツク海に出る予定です。 |
行程③
美幌峠~北見枝幸6.12~6.15 |
行程②
釧路市~常呂町
6.6~6.11 |
行程➀
伊達紋別~標茶町
2022.5.31~6.5 |
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01博物館外観
建物の見え方が粋です
こんな尖塔が見えて |
広大な庭園が見え、
眺望が開け、 |
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山の上には展望台が見える。 |
近隣のリゾートホテルと間違えたのかと思う |
多数の建物群が
大学かとも思わせる |
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隣接するリゾートホテルは
博物館からすぐ近くに見えます |
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あらためて宿泊にご注意
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上にも書きましたが、枝幸町の旅館・ホテルは僅か3軒。私は博物館隣の高級ホテルに泊まるつもりで、繁忙期でないので当日予約でいいだろうと高を括っていました。
博物館の閲覧を終えてロビーの外で電話しましたが満室とのこと。他の二軒も満室でした。それで慌てて、館内に戻って館員に付近に
民宿はないですかと尋ね、事情を話したところ、事務所から4~5人の人が出てきて、それぞれ方面を手分けして一斉に近隣の宿泊施設に
問い合わせを始めてくださいました。10分、20分経っても見つからず、中には、親族の旅行関係者に問い合わせを頼んでくれたのですが、
全く泊まれるところがありませんでした。
わたしも沢山リストアップしてきていた宿泊施設に、近隣と思われる場所から順に連絡しましたが、全く駄目。
遂に100kmも離れた稚内市内も全滅でした。唯一List upのドミトリーに掛けたところ、やっと空きがありました。
あっ!あった!と思わず叫んでしまいましたが、それを聞いてみんな一斉に電話を切って、よかった~と自分のことのように安堵して下さいました。「このままだと、車中泊をすすめるところでした。」との声。私の旅行プランの甘さを認識しました。
「稚内ってどれくらい(時間)かかりますか?」「100キロ北!1時間半かなぁ。」早くいかないと、暗くなる。北海道は日暮れが早い。
とのことで、大慌てで稚内のドミトリーに向かって出発しました。到着時は薄暮でした。
この時まで、「ドミトリー」に泊まったことはなく、もちろん「カプセルホテル」にもですが、どんなところか知りませんでした。
行ってみるとユースホステルでした。ゲストハウスも異音同義語でした。
それに、自分の車で旅行しているのだから、最悪の場合、普通に車中泊も考慮しておくべきでした。
礼文島で岐阜№の軽トラに寝泊まりできる自作設備を積んでいる、自称画家の老人にも出会いました。相当な高齢者で、私はこれは死出の旅だろうと思いました。画家らしい道具が何一つ見当たりませんでしたから。自殺旅行と邪推しました。
その後、帰宅してから、関西のニュー番組で北海道では車中泊を前提に旅行している人が多く、道の駅が営業終了しても一晩中車が止まっていると苦情を放送していました。その時は、京都№の老人が夏は毎年2ヶ月車中泊しながら北海道にいる。と言っていました。私もこれを先に見ていれば、枝幸町での必死の旅館探しは、なかったと思いました。(車の中でも寝れるんだなあとその時気が付きました。((笑)))
枝幸町を含め、観光off seasonの北海道なのになぜか宿泊施設は満室。そんなことが結構(室蘭附近でも)ありました。
そういえば、友人の娘の亭主が、毎年ひと月ほど北海道に溶接の仕事に行ってました。
北海道は、観光シーズン外は工事や商用シーズンなのかもしれません。だからその関係者で一杯なのかもしれません。
また、客が少ないのに食事の提供を求められると困るので満室と言うこともあるのかもしれません。
いろんな場合を考えて、事前に旅館資料を沢山リストアップしておくことと、最悪、車中泊も辞さずの姿勢を持つべきでした。 |
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03入口展示
ただ、あんな凄い外観なのに入口がしょぼい。
通用口かと思った。 |
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10地学
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11千畳岩と柱状節理
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枝幸市街地の北側に「ウスタイベ岬」(ウスタイベ千畳岩)と言う岩礁が海につき出しています。
この岩礁は「ウスタイベ安山岩」と言うガラス質の安山岩でできており、沢山の畳を敷き詰め、重なり合ったような不思議な情景を作り出しています。
これは海底に噴出した溶岩が、急速に冷やされ、収縮することで起こる「柱状節理」と言う現象によるものです。
ウスタイベ岬の柱状節理は、その景観から「千畳岩」の名前で古くから人々に親しまれてきました。
形成時期は14~8Ma年(14百~8百万年)前。柱状節理+板状節理と流理構造(マグマが固結するときに流動し、晶出した結晶がほぼ平行に配列して縞模様をなす岩石の構造。
流紋岩など)、が水平に発達した岩体。
枝幸町内では、この千畳岩以外にもゴメ島(音標おとしべ) や桜井の沢(歌登辺毛内うたのぼりべんけない)など、各地で柱状節理を観察することができます。
※平坦な海岸に見えるオホーツク海沿岸だが、一千万年前には、激しい火山活動があり、しかもそれらは既に侵食されて、山体としての外形はなくなっているようだ。そして、火山フロントも移動しているようだ。 |
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千畳岩と柱状節理 |
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千畳岩
(岬町ウスタイベ岬)
新第三紀鮮新世ウスタイベ安山岩 |
ゴメ島の柱状節理(音標) |
新第三紀鮮新世
オタルベン溶岩
枝幸町南部音標沖のゴメ島の北東海岸に六角柱や板状の節理がみられる。 |
枝幸地方のメノウ
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枝幸地方は、メノウの産地として広く知られており、戦前に宝飾品の原料として盛んに採掘され、本州に出荷されていました。
メノウは、石英の非常に細かい結晶が緻密に固まった鉱物を指します。主な成分は石英と同じく、二酸化ケイ素。色調は、乳白色から赤みがかったものまで、様々ですが、枝幸町で採取されるメノウの多くは透き通ったオレンジ色をしています。
枝幸地方では、主にイタコマナイ川やパンケナイ川の上流域で採掘されましたが、音標から風烈布fureppuにかけての海岸でも拾うことができます。メノウは比較的硬い鉱物なので、先史時代には、石器の材料として使われました。
枝幸町の縄文人は、メノウから錐やナイフを作り出しています。
資料 瑪瑙のでき方
瑪瑙と玉髄は石英の細かい結晶が集まってできた鉱物で、縞模様の発達しているものが瑪瑙です。
石英の成分を含む熱水が、地層の割れ目(断層)などに沿って上昇し、結晶化することで形成されました。引用「瑪瑙のでき方」
金鉱床と同じく、熱水鉱床によって瑪瑙・玉髄などの宝石ができるようです。
そういえば、北海道では、瑪瑙や玉髄を始め、様々な宝石鉱物が海岸や河川の砂の中から拾えるようです。
北海道の深い地下での出来事です。かつては深い深い地層から盛んに熱水鉱床が地層の中に吹きあがり、金属や岩石が溶けた高温高圧水が岩の割れ目をつたって滲み出し、その結果、あちこちで宝石鉱物が結晶化され、地殻変動で地表近くに現れ、侵食された今では拾える状態になっているようです。 |
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メノウ製ナイフ
(縄文中期)
枝幸町内の縄文時代の遺跡の各地からメノウ製の石器が見つかっている。縄文人は身近な石材としてメノウを活用していた。 |
枝幸地方のメノウ
枝幸各地でメノウが産出する |
イタコマナイ川
(枝幸町下幌別)
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旧枝幸町と旧歌登町との境界線となっていた。
イタコマナイ川の上流域にはメノウの原石が数多く露出する。
かつては採掘が行われていた。 |
枝幸地方の鉱物
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菱マンガン鉱
石灰岩・大理石
黒曜石×2 |
瑪瑙×2
石英×2、珪化木
赤色ジャスパー(碧玉) |
枝幸地方には、
付加体による地層と鉱物。深成岩による鉱物。
動力変成岩などが狭い地域に産出しています。 |
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12歌登の岩石
歌登の岩石 |
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砂岩(歌登上毛登別)
新第三紀鮮新世
小頃別層
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流紋岩(歌登本幌別)
新第三紀鮮新世
本幌別層 |
緑色岩類
(歌登ポールン別)
中生代白亜紀
歌登中生層 |
安山岩
(歌登本幌別)
新第三紀鮮新世
本幌別層 |
鉄平石の露頭
(歌登本幌別)
新生代新第三紀
本幌別層
板状摂理のはっきりした平たい安山岩は、
鉄平石として装飾用石材に使われる。 |
神威岬の成り立ち(※この神威岬の存在が、この地がオホーツク人の活動の拠点となる原因となる)
神威岬の成り立ち神威岬の成り立ち |
枝幸神威岬 |
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緑色岩類の露頭 (神威岬の先端付近)
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緑色岩類はもともと海底にあった玄武岩などの岩石が、変成作用を受けてできたもの。
緑色の鉱物を多く含むため、緑色に見える |
海上から見た神威岬
枝幸地方で最も古い地層から成り立っている |
流紋岩 蛇紋岩 礫岩 珪化木 砂岩 安山岩 |
黄銅鉱石
緑色岩類 鉛鉱石
方鉛鉱鉱石 |
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13セイウチの暮らす海
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セイウチは、北極海とその周辺の海に暮らす「海の哺乳類」です。
漢字で「海象」と書くように、象のように長く伸びた牙が特徴です。
大きい個体で体長3mを超え、体重は1トンに達します。寒い海での生活に適した厚い脂肪に覆われており、口の周りには硬いヒゲが密生しています。
オスの場合、牙の長さは1mにもなり、海底から餌となる貝を掘り起こしたり、オス同士の戦いに使います。
展示しているセイウチの牙は、枝幸町北部目梨泊沖の海底から見つかりました。海底に生息するホタテを獲るために使う「八尺」と言う大きな鉄製のカゴに入りました。
この標本は歯根の一部が残っており、長さ80cmを超えることから、成長したオスの左の牙であることがわかりました。
年代はわかっていませんが、かつて枝幸の近海にもセイウチが暮らしていたことを示す貴重な資料です。 |
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セイウチの暮らす海 |
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セイウチ化石が見つかった目梨泊沖
神威岬を望む目梨泊沖は、複雑な潮流が流れている。現在はホタテの好漁場として開発されている。 |
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網かけの部分が発見された部位
(左犬歯、抜け落ちた状態) |
デスモスチルスの進化 歌登のデスモスチルス化石
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生き物の分類には、大きなグループから細分して、「綱」「目」「科」「属」「種」と言う単位があります。
例えば、人間ですと、「哺乳類綱-霊長目-ヒト科-ヒト属-ヒト」となります。
デスモスチルスを始めとする束柱目と言うグループは、デスモスチルス科とパレオパラドキシア科と言う2つの「科」に分けられます。
デスモスチルス科には、進化の段階によって、最も古い「アショローア属」から、新しい段階の「デスモスチルス属」まで4属があり、中でも歌登のデスモスチルスは「デスモスチルス・へスペルスと言う、最も進化したデスモスチルスでした。
種の名前の「ヘスペルス」は、英語で「宵の明星」(金星)と言う意味です。名付けたのはアメリカの古生物学者、マシュー。アメリカ東海岸から見て、宵の明星の見える西の方角から化石が見つかったことを名前に込めたそうです。 |
デスモスチルスの進化 |
デスモスチルスの臼歯
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デスモスチルスの臼歯
(デスモスチルス上徳志別標本)
柱を束にしたようなデスモスチルスの特徴的な臼歯。一般的には、現在生きている動物の歯の形と比べることで、何を食べていたのかわかるが、同じような形の歯を持った動物はいない。
デスモスチルスが何を食べていたのか、よくわかっていないが、同じ地層から、たくさんの貝の化石が見つかるので、貝などの海の生き物を食べていたのかもしれない。 |
束柱目の系統樹
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束柱目の系統樹
(原図)
束柱目はパレオパラドキシア科とデスモスチルス科からなる。
デスモスチルス科は、最も古いアショローア属からコルンワリウス属につながり、さらにクロノコテリウム属とデスモスチルス属に分かれた。
デスモスチルス属にはジャポクス、コアリンゲンシス、へスペルスの3種がいる。
歌登から産出するデスモスチルスは全てへスペルスとされる。 |
歌登のクジラ化石
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平成29年夏。デスモスチルス化石の調査をしていたところ、転石の中からこれまで見たこともないような「大きな骨」が見つかりました。
先端が丸みを帯びた扁平な骨で、幅は1cm、残っている部分だけで、長さ40cmもあります。デスモスチルスにしては大きすぎるこの骨は、足寄動物化石博物館の沢村寛館長によって「ヒゲクジラ下顎骨」の先端部と同定されました。
化石が見つかった地層は、新第三紀中期中新世の「タチカラウシナイ層」。(2,303万~533万2千年前。新第三紀を二分したうちの前半)
これまでに多数のデスモスチルス標本を産出した地層です。
デスモスチルスが暮らしていた「歌登の海」にはヒゲクジラが泳いでいたことがわかりました。
謎に満ちたデスモスチルスの世界を読み解く大きな手がかりになりそうです。 |
歌登のクジラ化石 |
クジラの下顎骨
地層中に埋め込まれた木のように見えるが、鯨クジラの下顎骨。内部は風化が進んでもろい。 |
鯨の下顎骨を発見(歌登大曲) |
ハンマーを伸ばしているのが足寄動物化石博物館の沢村寛館長。
なかなか手が届かない。
発見者ミュージアムボランティア 開地 保 |
発見されたクジラに近い新第三紀中新世のヒゲクジラ「ケトテリウム」骨格 |
網掛けの部分が発見された部位。
右下顎骨、関節部分は欠損
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デスモスチルスの復元
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子孫にあたる生き物がいないデスモスチルスの姿を復元するのは、とても難しい作業です。
手がかりとなる。全身骨格は、世界でもわずか2体。初めて全身骨格が見つかったのは、1933年、当時日本領だった樺太からでした。発見地の名をとって「気屯標本ケトンと名付けられ、現在は北海道大学総合博物館に保管されています。
ところが全身骨格が発見されても、デスモスチルスの姿はなかなかはっきりしません。トドやアシカの仲間である鰭脚類を想定した復元②④や、バクを想定した復元③などいろいろです。
デスモスチルスの姿に迫る大きな転機となったのは、1976年の歌登標本の発見です。東京大学の犬塚則久先生は、これまでの研究方法とは全く違ったアプローチで研究を進めました。
他の動物にモデルを求めるのではなく、骨の形から筋肉の機能を考えて復元し、解剖学的に検証しました。
こうして生まれたデスモスチルス「犬塚復元」は、その合理性から、広く支持されることになったのです。 |
デスモスチルスの分布
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デスモスチルスを中心とした「束柱類」の仲間は、アメリカの太平洋沿岸とロシアのカムチャッカ半島、そして、日本列島でしか見つかっていません。中でも、日本は、たくさんの束柱類化石が見つかる世界的な産地です。
日本列島から見つかる束柱類は、「デスモスチルス」と「パレオパラドキシア」の2種類が中心です。
この2種類は、同じ時代に生息していましたが、デスモスチルスは北海道から多く発見されており、パレオパラドキシアは、関東地方よりも西の地域に多いことがわかります。
また十勝の足寄町では、この2種類の先祖にあたる「アショローア」と「ベヘモトプス」も見つかっています。
今から1千万年以上も、昔の日本列島は、デスモスチルスたちの楽園だったのかもしれません。 |
デスモスチルスの分布
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北海道
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東日本 |
北陸
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近畿中四国 |
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パレオパラドキシアはデスモスチルスと同じ時代に生息していた束柱類属名はpaleo(古代の)paradox(難問)に由来する。
大きい種では全長3mを超える。デスモスチルスと比べて歯の並び方が異なり、歯のエナメル質が薄い等の違いがある。 |
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14枝幸のセイウチ化石 Fossil of Walrus in the Offshore of Esashi
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この大きな歯は、 成長したセイウチのオスの左の牙です。
2002年に枝幸町北部、 目梨泊沖で本タテ漁の最中に発見されました。
「八尺」 とよばれる鉄製のかごに入った状態で海の底から引きあげられたものです。
セイウチ牙 Tusk of Walrus
採集者 能沢尚武 (枝幸町)
オホーツク海の海底より発見
枝幸町目梨泊沖合 |
枝幸のセイウチ化石
オホーツク海底より採取 |
枝幸のセイウチ化石
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セイウチ牙 |
セイウチの牙 |
セイウチ模型 |
体長3m
体重1t
だのに可愛すぎる |
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ヒゲクジラ下顎骨先端 Pointed End of Whale Mandible
採集者 開地保 (枝幸町歌登東町)
第三紀中新世 タチカラウシナイ層
枝幸町歌登大曲 |
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ヒゲクジラ下顎骨 Pointed End of Whale Mandible
採集者 開地保 (枝幸町歌登東町)
第三紀中新世 タチカラウシナイ層
枝幸町歌登大曲 |
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15デスモスチルス化石
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謎の動物化石?
デスモスチルス胸椎
束柱類部位不明骨
デスモスチルス距骨
同臼歯
巨大な椎骨を発見 |
デスモスチルスの骨
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貝類の化石 |
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デスモスチルスの臼歯の謎 The Mystery of the Molar of Desmostylus hespers
デスモスチルスの歯は、のり巻きを束にしたような不思議な形をしています。
この「大曲第10標本」は下顎の大臼歯で、歯の摩耗が進んだ歯と、ほとんど摩耗していない歯が一緒に見つかりました。
歯が生え変わる過程をつたえる貴重な標本です。
大曲第10標本
デスモスチルス臼歯 Molar of Desmostylus hespers
採集者 成澤健(枝幸町)
第三紀中新世 タチカラウシナイ層
枝幸町歌登大曲
発見直後の歌登第10標本 |
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16海棲動物
枝幸の漂着物
銃器も漂着かブッソウ |
タラバガニ |
トド
ってこんな可愛くない
成体は化け物だ |
透明標本
ガラス魚か |
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30いきもの
シャチってどんな生物?
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シャチ(Orcinus orca)は、鯨類の仲間でマイルカ科に属し、水族館などで人気者のイルカの親戚に当たります。大きさは雄と雌で大きく差があり、雄は最大で体長9.5m、体重8t、雌は体長5.8m体重4tにも達することが知られています。シャチは、サケやニシンなどの魚類を始め、アザラシやアシカ、ペンギン、さらには、ネズミイルカやミンク、クジラといったクジラの仲間を襲い食べてしまうこともあります。
その獰猛さゆえに、古くから人間に恐れられ、英語ではキラーホエール(殺し屋クジラ)、ラテン語では、オルカ(海の魔物)と呼ばれてきました。寿命は最大で60歳程度と言われています。北極などの一部の海域を除き、ほぼ世界中に生息しており、特に、北海道を含む北国の海域に多く、生息しています。体表には「パッチ」と呼ばれる白と黒のはっきりした模様があり、その模様は、人間が地域によって肌の色が異なるように、シャチも住んでいる海域や家族間で違うことが知られています。 |
オホーツクにおけるシャチ
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かつて、北海道において、シャチは、アイヌ民族の物語の中で、沖の神様として現れるほど、人間と身近な存在でした。しかし、1970年代から、北海道を始め、日本全国におけるシャチの個体数は急激に減少し、いつしか野生のシャチは、人間と程遠い存在となってしまいました。しかし、近年、オホーツク海沿岸から道東部の海域にかけて、シャチは再び身近な存在となりつつあります。知床半島において、5月から6月には連日シャチ観察を目的としたホエールウォッチングツアーが行われ、シャチの遭遇率の高さから強い人気を博しています。
また、枝幸町沿岸においても、釣り人や漁業関係者からの目撃情報も毎年のようにあります。シャチは、肉食性の生き物で、生態系の頂点に立つ生物です。そのため、豊富な餌資源と言う支えがないと、生きていくことはできません。オホーツクでシャチが多数発生してる事は、この海がとても豊かな海であることの生きる証拠と言えるでしょう。 |
シャチってどんな生物? |
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オホーツクにおけるシャチ |
シャチの分布と生息域による形態の違い |
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オホーツクの鳥類
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50オホーツク海
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51ごあいさつ
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私たちの住む街「枝幸町」は、目の前に広がるオホーツク海と共に歩んできました。毎年、冬になると、流氷が海を覆い、春の訪れととも豊かな恵みをもたらします。
太古の世界、現在のオホーツク海のなぎさには、絶滅哺乳類「デスモスチルス」が群れていました。
古代には海洋狩猟民「オホーツク文化」の人々が、この地にたどり着き、オホーツク海を舞台とした活発な交易を繰り広げていました。
そして明治と言う時代を迎え、漁場から始まった開拓はやがて、海岸線へのび、さらに内陸へと広がっていきました。昭和14年には、人口が増加した内陸部が「枝幸村」から分村、「歌登村」が誕生しますが、67年後の平成18年、二つの町は再び一緒になり、共に歩む歩んでいくこととなりました。
「オホーツクミュージアムえさし」は、旧枝幸町の町政施行50周年、開基120年の節目となる、平成10年に着工、翌年に開館しました。そして平成18年の枝幸歌登合併から10年になる平成28年、新たな枝幸町の資料館施設として生まれ変わりました。
「オホーツクミュージアムえさし」では、枝幸の自然や、歴史、文化に関する様々な情報を発信していきます。
「オホーツクミュージアムえさし」で小さな発見を探してみませんか。 |
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52オホーツクの海底地形
天井の照明が
下に写って、何がなんやらちょっとわかりづらい |
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カムチャッカ・北極海
オホーツク海
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千島海溝
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千島海溝 |
オホーツク海
オホーツク海盆 |
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53海の風景
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60オホーツク海の構造
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61オホーツク海の構造
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枝幸町の面する「オホーツク海」は、北海道とサハリン、カムチャッカ半島、千島列島によって囲まれた海です。
オホーツク海は南側の方が深くなっており、千島列島付近では、水深3600メートルを超えます。アムール川から流れ込む淡水の影響で、塩分濃度の低い海水の層ができるため、冬になると表面が氷結し、一部は北海道沿岸にも「流氷」として南下します。
流氷は、植物プランクトンの繁殖に必要な栄養をたくさんもたらすことから、オホーツク海は漁業資源に恵まれた豊かな海となっています。 |
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62全体
オホーツク海の形と
海底の姿
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オホーツク海の
塩分二重層
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地球の自転と
オホーツク海の気象
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旅する流氷・沖で生まれる流氷
流氷の海・オホーツク海の役割
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63やや詳細
アムール川
オホーツク貝の形と海底の姿 |
タタール海峡
サハリン |
オホーツク海
千島海盆
オホーツク海の塩分二重層 |
千島列島
カムチャッカ海溝
地球の自転とオホーツク海の気象 |
太平洋
北太平洋海盆
旅する流氷・沖で生まれる流氷 |
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65展示パネル本文 |
凍る海の謎~その1
65aオホーツク海の形と海底の形
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オホーツク海は、シベリア大陸やカムチャッカ半島、千島列島、サハリン、北海道に囲まれています。
外海(太平洋と日本海)に結ばれていますが、海水の出入りする海峡は狭いので、オホーツク海は外海との連絡の少ない海、閉じた海となっています。
また、オホーツク海は大陸棚が発達しているため、平均水深800メートルほどの浅い海となっています。
知床半島沖から千島列島沿いでは水深約3000メートルに達しますが北に行くほど浅くなり、大陸沿いやサハリン沖、北海道沖などでは水深約200メートルです。
この海にシベリア大陸の雪解け、水と、雨を源とするアムール川が、サハリンの北の端近くに注ぎ込みます。
河口の南にはタタール海峡(間宮海峡)がありますが、狭くて、浅い海峡のため、アムール川の水のほとんどがオホーツク海へ入り込みます。
このアムール川の淡水が、オホーツク海の塩分を薄くするのです。 |
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凍る海の謎~その2
65bオホーツク海の塩分二重層
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オホーツク海にアムール川の水が入り込み、海水と淡水が混ざり合い、塩分の少なくなった海水は、表面に浮き、塩分の多い海水が下に沈みます。
海中で塩分の少ない層と、多い層の二重の層ができます。
オホーツク海は外海との海水の交換が少なく、二重の層ができやすいのです。
塩分の差のほかに、温度差によっても海水の入れ替わり(対流)は起こります。
海の表面で冷やされ、温度が低くなった海水は重いので、下に沈み、深部の冷やされていない暖かい水は表面に浮いてきます。
温度差が大きいほど対流は激しく起こり、全体が同じ温度になるまで続きます。
海水は波が高い時ほど、また風が強い時ほど冷えやすくなります。
オホーツク海には、塩分の異なる二つの層があるため、対流が起こるのは、塩分の少ない表面の層の間だけなのです。
その層の厚さは50メートルほどです。言い換えれば、オホーツク海は冷やしやすい、わずか水深50メートルの海、と言うことができます |
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凍る海の謎~その3
65c地球の自転とオホーツク海の気象
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凍る海の中で、オホーツク海は最も南に位置していますが、同じ緯度にある海は凍りません。
それは、海の構造や寒流のほかに、気象が影響しているのです。
枝幸町とほぼ同じ緯度にあたるフランスや、高緯度のイギリスの方が、冬の平均気温が高く、接する海が凍らないのは、メキシコ湾流と言う暖流が流れていることと、風が海から陸に吹いているためです。
秋から冬にかけ、オホーツク海の位置する緯度の辺りは、太陽からの光線の角度が小さくなり、気温は低く、日照時間も少なくなります。
オホーツク海は、気温の変化で風が強くなり、波も高くなります。
浅い海は塩分の少ない層の間で激しく、対流が起こり、急激に冷やされます。
そして、冬の気圧配置となり、寒気がシベリア大陸から押し寄せ、大陸から吹き付ける風がオホーツク海をさらに冷やします。
この寒気によって、早い年には11月の初旬に、海は、アムール川の河口近くから凍り始めます。 |
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凍る海の謎~その4
65d旅する流氷・沖で生まれ流氷
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アムール川の近く、塩分の少ないシャンタル島付近で凍り始めた海はその範囲を広げ、12月の初めには、サハリン北部の東海岸に達し、
大陸棚の浅い部分を覆います。さらに南に範囲を広げ、北海道の沖合に達します。
12月下旬から1月中旬、北海道の沖合でも氷が生まれます。
そして、オホーツク海の北で発達し、南下した氷と一緒になって、枝幸町の沿岸に達します。
流氷群が北海道で1番早く接岸するのは、枝幸町です。
サハリンの南部やオホーツク海の中央部に広がった流氷は、互いにぶつかり、重なり、押し合いながら、高く大きな丘のような姿になり、どんどん南下し
ていきます。3月初旬から中旬に、流氷域は最大になります。
択捉島から北部の千島列島域や、カムチャッカ半島の一部には、太平洋からの暖かい海流があるために、それ以上は発達しませんが、
オホーツク海の約80%が琉氷で覆われています。 |
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凍る海の謎~その5
65e流氷の海・オホーツク海の役割
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流氷が海を覆うことで、流氷の表面にあたる太陽エネルギーの大半は反射され、周辺の海の温度はさらに下がります。
このことは、海からの水蒸気や炭酸ガスの放出を抑え、大気の温暖化を防止します。
同時に、暖かい大気との間で対流が起こり、熱交換が行われます。
流氷が成長するときに、排出された、低温で塩分の多い海水は、海中深く沈み、海洋の底で海流となって、暖かい海へと栄養分を運びます。
また、流氷の底部には植物プランクトンが繁殖し、食物連鎖のサイクルが活発になり、オホーツク海に良好な漁場をつくります。
3月以降になって、海を覆っていた流氷は溶け始め、流氷域が広がった時と逆の経過で、オホーツク海を開けていきます。
流氷は、地球全体の大気と海洋の動きに関わり、食物連鎖と漁業の生産にも大きな影響を与えています。
枝幸の海は、その地球のサイクルの中に組み込まれているのです。 |
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69オホーツクの四季(未撮影)
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100先史時代
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101環オホーツク海の先史文化
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オホーツク海の沿岸には「オホーツク文化」以外にも、様々な先史文化が生まれました。
オホーツク海北岸の「トカレフ文化(刻文土器)」や「古コリャーク文化(刻文土器)」など、オホーツク海の恵みに支えられた、海洋狩猟民の文化が花開いたのです。 |
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オホーツク周囲の地形 |
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環オホーツク海の
先史遺跡 |
初期鉄器時代の遺跡
トカレフ文化
古コリャーク文化
タリヤ文化
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オホーツク文化の範囲 |
環オホーツク海の文化
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オホーツク海の豊かな恵みは、古くから沿岸に暮らす人々の生活を支えてきました。
サハリンから北海道、千島に広がった「オホーツク文化」もその一つです。
一方、オホーツク海の北岸にあたるカムチャッカ半島から、ロシア、マガダン州にかけて別の先史文化が広がっていました。
特に北岸のオホーツク市からマガダン市にかけて栄えた「トカレフ文化」は、オホーツク人と同じ海洋民族で、そっくりな土器(刻文)を使っていました。
山浦靖先生(立教大学)は、オホーツク海の沿岸に生まれた様々な先史文化を「環オホーツク海」と言う視点で見直すことを提唱しました。 |
環オホーツク海の文化 |
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スパファリエヴァ島の発掘(平成5年撮影)
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オホーツク海北岸のマガダン市の沖合に浮かぶ無人島。
海岸を中心にトカレフ文化遺跡が残されていた。 |
トカレフ文化の土器
(平成5年撮影) |
オホーツク文化は、日本列島の辺境に生まれた文化ではなく、オホーツク海が生んだ、多様な海洋狩猟民の文化の1つなのです。スパファリエヴァ島 |
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110枝幸の先史文化
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枝幸地方に初めて人類が足跡を残したのは、今から1万年以上も前の「旧石器時代」に遡ります。それから、縄文時代、続縄文時代、擦文時代と時代を重ねていきました。
この間に様々な文化を持つ人々がこの地を訪れ、この地に生まれ、人生を送り、そして大地に還っていったのです。
私たちが住むこのまちは、決して歴史が浅いわけではありません。はるかな過去から続く、人々の営みの上に現在の私たちの暮らしがあるのです。 |
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111全景
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120旧石器時代
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121宗谷地方の旧石器時代 約15,000~10,00年前
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宗谷地方に最初の人類が足跡を記したのは、今から3万年から1万年前の「後期旧石器時代」の事でした。
この時代は「氷河期」に当たり、現在より7~8度も寒かったと言われています。
海水面が後退し、当時、北海道は大陸と陸続きになっていました。
マンモスやオオツノジカ、バイソンといった巨大な動物たちを追って、人々が宗谷地方へとやってきたと考えられます。
宗谷地方の旧石器時代の遺跡は、猿払村浅茅野遺跡を除いて、発掘された例がありませんが、20カ所余りが確認されています。
北海道には白滝や置戸など、質の良い黒曜石の大産地があり、各地に原石が運ばれました。
ちなみに枝幸地方では、内陸の歌登地区のみで旧石器時代の遺物が見つかっています。 |
【宗谷地方の旧石器時代遺跡】
【約15,000~10,000年前】
浅茅野遺跡出土の旧石器 (氏江敏文編 2011 「 浅茅野遺跡資料報告集」 より転載)
細石刃,削片, 細石刃核, 彫器, 掻器などが出土。
細石刃核は峠下型技法によるものが主体とされる。
浅茅野遺跡の旧石器 |
細石刃
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削片
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峠下型技法の
細石刃核
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彫器
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掻器
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122細石刃技法
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旧石器時代の人々は、黒曜石部や頁岩などの石材を使って、様々な石器を作り出しました。その代表的なものが「石刃」です。
石刃とは、石を割り取って、形を整えた細長い「かけら」のこと。幅は1cm以下の小型のものは「細石刃」と呼ばれ、旧石器時代の人々は、細石刃を組み合わせることで、「植刃器」と言う道具を作り上げました。
原石から細石刃を割り取る方法は「細石刃技法」と呼ばれ、地域や時代によって様々です。
宗谷地方では「札滑型」や「峠下型」の細石刃技法が存在したことが知られており、同じ技法で作られた石器がサハリンでも見つかっています。
東京大学文学部常呂実習施設が歌登で採取した旧石器141点を分析したところ、
「広郷型」や「幌加型」、「忍路子型」といった、これまでに宗谷地方では確認されていない技法によって作られた細石刃核があることがわかりました。こうした技法で作られた石器は、日本列島で最北の出土例です。
日本列島に移り住んだ旧石器人は最大でも数千人程度と言われています。歌登の旧石器人もごく限られた家族だったのでしょう。
人々は、多様な石器作りの技術によって、厳しい環境を生き抜いたのです。 |
細石刃と植刃器
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細石刃 (幌別右岸段丘遺跡) 幌別川 北見幌別川 日高幌別右岸段丘
カミソリのように鋭い細石刃は、1枚だけでは使えない。刃こぼれがしたら替刃のように取り替えた。
植刃器 (復元資料) (北海道埋蔵文化財センター編、2004「遺跡が語る北海道の歴史」より転載)
幅1cm以下の「細石刃」はそのままでは使用できないため、骨の側部に溝を彫り、カミソリの刃のように埋め込んで使用する。 |
幌加型細石刃核 (枝幸町歌登出土)
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幌加型細石刃核 (役重みゆき他2011「宗谷地方における後期旧石器時代遺跡群」より転載)
幌加技法によって整形された「幌加型細石刃核」。細石刃核としては、歌登で最も多く採集されている。
幌加技法は大型の剥片の側面を加工して舟形の石器を作り、端から薄く細石刃を割り取っていく。
最終的な形が「くさび」形となる。この技法は、東北アジアからアラスカにまで広い範囲に分布している。 |
細石刃技法
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細石刃と植刃器 |
幌加型細石刃核 |
幌加型細石刃核 |
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123歌登の石灰岩洞窟
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昭和43年、夏、当時の歌登町教育委員会は、音威子府村との境にあたる咲来峠で、石灰岩洞窟の発掘調査を行いました。
「本幌別洞穴」と名付けられた、この洞窟は、幅約8m、奥行き約8mと言う、人間が使うにはちょうど良い大きさのものでした。
炭酸カルシウムを主な成分とする石灰岩は、人骨や動物骨などの「有機物」を保護する性質があります。石灰岩洞窟の中であれば、普通は残らないような古い時代の遺物も見つかる可能性があるのです。
発掘計画書には明確に書かれていませんが「宗谷地方で最古の人類」である旧石器時代の遺跡を目的としたものでしょう。
調査期間は約1週間。洞窟全体の地形測量と内部の発掘調査が行われました。
調査の結果、石灰岩の基盤の上に厚さ20~40cmの褐色粘土層が堆積していることがわかり、遺跡発見への期待が膨らみましたが、石器や骨など、過去の人類の痕跡を発見する事は出来ませんでした。
洞窟はその後、道路の改良工事によって埋め立てられ現在では見ることができません。
しかし、歌登には石灰岩洞窟や鍾乳洞が点在しており、もし旧石器人が利用していれば、その痕跡が残されているかもしれません。 |
本幌別洞穴の測量(昭和46年撮影)
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歌登町教育委員会は、日本考古学協会員の新岡武彦を調査団長として、本幌別洞穴の調査を行った。
調査には、北海道開拓記念館から、松下亘、地元歌登町から小中学校の教諭や役場職員が参加した。
遺跡と証明できる資料の発見には至らなかったが、洞窟の奥については、未調査として報告されている。 |
発掘作業の状況
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調査の終盤に差し掛かった洞窟前庭部の発掘状況。
上の写真と比べると相当な量の土を掘りあげたことがわかる。石器は見つからなかった。 |
歌登の石灰岩洞窟 |
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本幌別洞穴の測量 |
発掘作業の状況 |
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124旧石器時代の歌登
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旧石器時代は、まだ「土器」を作る技術が知られていないので、遺跡から見つかるのは、石の道具が中心です。
黒曜石や頁岩などの石を割り取って形を整えた「石刃」や、石の両面を加工して、先を尖らせた「尖頭器」などがあります。
歌登の旧石器時代の遺跡は、北見幌別川の流域の歌登市街と、徳志別川の上流にあたる上徳志別、大奮地区です。
これまでに200点近い旧石器が採集されていますが、その多くは黒曜石で作られています。黒曜石は、歌登から直線距離で100km以上離れた、白滝や置戸から運ばれました。
旧石器時代の人々にとって、黒曜石は、生活に欠かせない大切な資源だったのです。 |
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130歌登地方の旧石器 |
131
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石刃核
後期旧石器時代
約12000年前
歌登毛登別
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石刃核
後期旧石器時代
約12000年前
歌登
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132
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最初の枝幸人
幸に初めて人が住み始めたのは、今から約1万2千年も前なんだ。当時の人たちは、マンモスを追いかけて北の方からやって来たみたいだよ。 |
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頁岩製掻器
後期旧石器時代
約12000年前
パンケナイ1遺跡
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黒曜石製削器
後期旧石器時代
約12000年前
歌登
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黒曜石製削器
後期旧石器時代
約12000年前
歌登東歌登
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最初の枝幸人
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枝幸に初めて人が住み始めたのは、今から約1万2千年も前なんだ。当時の人たちは
、マンモスを追いかけて北の方からやって来たみたいだよ。 |
黒曜石製有茎尖頭器
後期旧石器時代
約12000年前
歌登
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石刃
後期旧石器時代
約12000年前
歌登パンケナイ7線
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メノウ製彫器
後期旧石器時代
約12000年前
歌登東歌登
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133歌登の石灰岩洞穴
歌登の石灰岩洞穴
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鍾乳石 |
鍾乳石 |
鍾乳石
新生代第三紀中新世
約1300万年前
歌登パンケナイ鍾乳洞
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パンケナイ鍾乳洞
洞の開口部は約50cmしかなく,奥行約25m,中央部ホール幅7m,高5m。内部に鍾乳石の形成が確認されたが人類の利用はなしと結論。 |
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※考察資料パンケナイ7線の意味
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上記資料中のパンケナイはアイヌ語地名または、パンケナイ川からとった地名。と解釈できます。しかし、パンケナイ7線とは何でしょう。 |
地図引用「枝幸町内採集の旧石器・縄文時代石器」 |
引用地図中に
パンケナイ川に沿った地域に
パンケナイ1~2と、土地所有者と地目が書かれており、石器出土地の遺跡名と判明。
同様に
ペンケナイ川(辺毛内川)流域には
ペンケナイ2~7の遺跡名と土地所有者と地目が書かれています。
パンケナイ七線(オムロシュベツ付近)は
オムロシュベツ川沿いの地域のことで、
7線は七線。パンケナイ付近の道路につけられた番号のようです。
同様に、18線という遺跡名がありますが、
第18路線付近の遺跡、前者はパンケナイ七線付近の遺跡のようです。
どうも、広大な北海道では細かな番地で表現できない、地名がない地域を表した遺跡名のようでした。
それにしても石灰岩台地「歌登」に入植した人々は、大変な苦労をしたことでしょう。
植物が育たない土地ですから。 |
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133続き
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湧別型細石刃核
後期旧石器時代
約12000年前
歌登パンケナイ7線 |
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広郷型細石刃核
後期旧石器時代
約12000年前
歌登パンケナイと歌登 |
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広郷型細石刃核
後期旧石器時代
約12000年前
歌登東歌登 |
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忍路子型細石刃核
後期旧石器時代
約12000年前
歌登東歌登
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細石刃
後期旧石器時代
約12000年前
歌登
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幌加型細石刃核
後期旧石器時代
約12000年前
歌登 |
細石刃核
後期旧石器時代
約12000年前
歌登パンケナイ7線 |
湧細石刃核
後期旧石器時代
約12000年前
歌登パンケナイ7線 |
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135
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黒曜石掻器
後期旧石器時代
約12000年前
歌登東歌登 |
両面加工尖頭器
後期旧石器時代
約12000年前
歌登パンケナイ |
黒曜石掻器
後期旧石器時代
約12000年前
オフンタルマナイ遺跡 |
黒曜石掻器
後期旧石器時代
約12000年前
歌登東歌登 |
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頁岩製有茎尖頭器
後期旧石器時代
約12000年前
タチカラウシナイ遺跡 |
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両面調整石器
後期旧石器時代
約12000年前
タチカラウシナイ遺跡 |
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石核
後期旧石器時代
約12000年前
歌登パンケナイ |
細石刃石器
↓
尖頭器
↓
有茎尖頭器
(旧石器終末期)
(縄文草創期)
↓
石鏃
(縄文草創期) |
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縄文時代 約8500~2400年前
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140宗谷地方の縄文時代 約8500~2400年前
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今から約1万年前、最後の氷河期が終わると、地球規模の温暖化が進みました。
北極や南極の氷が溶け出して海水面が上昇し、北海道は大陸から切り離されました。
日本列島に移り住んだ、人類は、温暖化した自然環境のもとで、ムラに定住しながら、狩猟採集生活を営むようになります。それが縄文人と呼ばれる人々です。
宗谷地方には数多くの縄文時代の遺跡が残されています。また、同じ宗谷地方でも、地域によって、時期や性格に特色があります。
礼文町では、縄文後期の「船泊遺跡」で、たくさんのお墓が見つかり、縄文人の骨とともに貝製平玉やヒスイの大珠が見つかりました。
「北の縄文文化」を代表する資料として、国の重要文化財に指定されています。
稚内市では、宗谷岬に近い「オニキリベツ遺跡」で、縄文晩期の大洞系土器が見つかっており、東北の「亀ヶ岡文化」が、最北の地にまで達していたことを伝えています。
浜頓別町ではクッチャロ湖付近で、縄文前期の「日の出貝塚」が発掘されており、縄文海進がピークを迎えていた頃の暖かい海に住む貝がたくさん見つかっています。また、縄文晩期のブタウス遺跡では、黒曜石の石鏃や琥珀玉を副葬したお墓や、石を集めた「集石炉」がたくさんで見つかっています。 |
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141
【発掘された宗谷地方の縄文遺跡】
【約8,500~2,400年前】
礼文島
船泊遺跡
上泊遺跡
利尻島
役場遺跡
種屯内遺跡 |
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【発掘された宗谷地方の縄文遺跡】
【約8,500~2,400年前】
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宗谷岬
オンコロマナイ2遺跡
オニキリベツ1・2遺跡
豊岩5遺跡 |
オホーツク海沿岸
日の出貝塚
ブタウス遺跡
落切川左岸遺跡
幌別右岸段丘遺跡
トイナイ遺跡
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船泊上層式土器
船泊上層式土器
船泊遺跡
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縄文後期中葉に位置付けられる縄文土器形式。
礼文島の船泊遺跡が標識遺跡。
沈線文と磨消縄文を特徴とする。
船泊上層式は礼文島船泊第四遺跡出土土器。
船泊上層式の深鉢の口縁部にみられる平行沈線には、縦につなぐ短い沈線が入る。また鋸歯状文は船泊上層式だけにあり、それ以降の型式にはない。 引用「後期の土器」 |
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142
最初の縄文人の北限
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縄文文化の始まりの時期を「草創期」と呼びます。東京大学の夏木大吾さんの研究によって、枝幸町歌登から、縄文時代草創期の石器が採集されていることがわかりました。
今のところ、枝幸地方は、本州から北上した「最初の縄文人」がたどり着いた場所になるのです。 |
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最初の縄文人の北限 |
黒曜石製尖頭器
縄文草創期
約12000年前
パンナケイ1遺跡、歌登 |
石刃鏃
縄文早期
約9000~6000年前
幌別原野遺跡 |
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穴を開けた石斧
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縄文時代、前期の北海道の各遺跡から「穴を開けた石斧」が出土しています。その数、全道で約40点。枝幸町川尻遺跡ではこのうち4点が見つかっています。
北海道埋蔵文化財センターの立田理さんは、縄文人の携帯用の道具ではないかと推理しています。 |
穴を開けた石斧 |
有孔石斧
縄文前期
約6000~5000年前
川尻 |
縄文がない縄文土器
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「縄」の模様がついた土器を「縄文土器」と言うんだ。枝幸では縄の模様じゃなく、スタンプを押した模様や、何も模様がない不思議な「縄文土器」もあるよ。 |
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151縄文人の第二の道具
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縄文人は、石や土、動物の骨や貝など、自然の素材を使って、様々な道具を作り出していました。
縄文人の道具の中には、現代の私たちから見ると、意味がわからないものや、実用的ではないものもたくさんあります。道土偶や石棒がその代表と言えるでしょう。
枝幸では土偶は見つかっていませんが、縄文、中期から後期かけて、実用性の全くない大型の石器が数多く見つかっています。
こうした石器は、白滝産・置戸産の質の良い黒曜石を贅沢に使い、縄文人の技術の粋を凝らした作り上げたものです。
こうした道具を国学院大学の小林達雄先生は、「第二の道具」と呼びました。第二の道具は、鏃や石斧といった暮らしに直接関わる「第一の道具」と対になるものです。
縄文人は、北海道の豊かな自然の恵みを活用し、ときには厳しい自然に立ち向かいながら生きた人々でした。
縄文人の「第二の道具」は、人間の力では、どうにもならないような「自然の力」と対話するために必要な道具でした。
現代人が「科学」で自然と向き合うように、縄文人は「心」で向き合っていたのです。
※第二の道具とは信仰の道具 |
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縄文人の第二の道具
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両頭石器
(第二の道具)
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両頭石器 (落切川左岸遺跡)
大型の黒曜石の剥片を丁寧に加工して、両方に先端部を作り出した特殊な石器。渡島半島を除く全道各地から約40本が出土している。道東から道北にかけて多く分布しており、枝幸では7本が見つかっている。
iPhoneから送信 |
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152第二の道具
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※神子柴形石斧のような、狩猟具への信仰や祈祷があったのかもしれません。
このほかにも、ヒトカカエもあるような、巨大な尖頭器が二つ展示されている博物館もありました。
狩猟の神は、美しく崇高な美しさの狩猟具に祈りを捧げる。弥生時代には戦争の神は美しく自然界になかった輝きを放つ青銅製武器に勝利を祈る。。
ただ、これらの出現期は全く別々の時代だけれど、人間の心理はどこかで同じ行動をするのかもしれない。それは、イギリスでストーンサークルが作られたころ、日本列島でも同じようなものが作られたように。 |
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大型ナイフ
縄文中期
約5000~4000年前
枝幸中学校遺跡
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両頭石器
縄文中期
約5000~4000年前
落切川左岸遺跡
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異形石器
縄文前期
約5000~4000年前
歌登東歌登 |
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網走式土器
縄文前期
約6000~5000年前
落切川左岸遺跡
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北筒式土器
縄文中期
約5000~4000年前
落切川左岸遺跡 |
網走式土器
不明
縄文前期土器
北筒式土器
縄文前期末~
中期の土器
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161縄文人の墓
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縄文時代の集落から「お墓」が見つかることがあります。
縄文人は、地面を丸く掘り窪めて墓穴を作り、亡くなった人の遺体や副葬品を収めます。お墓の底には、赤い顔料(ベンガラ)をまく場合もありました。
埋葬される人が、男性の場合は、狩に使う矢尻や石のナイフを、女性の場合は、ネックレスやペンダントを持たせることもあります。
※矢尻を持たせたのではなく、弓矢を持たせたのでしょうが、残ったのは矢尻だけだったようです。
遺体は手足を折り曲げた姿勢で葬られることがほとんどでした。これを「屈葬」と言います。縄文時代は、横向けにして屈葬することが多かったようです。
縄文人が屈葬するのは、2つの意味があると言われています。一つは死者を恐ろしい存在と考え、再び地上にさまよい出ないように、小さく体を折り曲げて埋めたと言う説。
もう一つは、亡くなった人を赤ちゃんの姿勢にして台地に返すことで、魂の再生を願ったと言う説です。 |
石槍のセット(落切川左岸遺跡)
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副葬品に使用されたと考えられる黒曜石の石槍。副葬品のために作られたもので実際には使われていない。 |
副葬された石鏃 (浜頓別町ブタウス遺跡)
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縄文晩期の墓から大量の黒曜石製石鏃が出土した。墓の主人は狩人(ハンター)だったのだろうか。 |
貝玉を付けた人骨(礼文町船泊遺跡)
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礼文町の船泊遺跡では、ビノス貝を加工してビーズにした「貝玉」が盛んに作られていた。貝玉は、ネックレスやブレスレットとして、縄文人の身を飾った。
写真は出産経験のある壮年女性。 |
縄文人の墓
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縄文人の墓
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石槍のセッ |
副葬された石鏃 (浜頓別町ブタウス遺跡)
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貝玉を付けた人骨
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黒曜石製尖頭器
縄文中期
約5000~4000年前
浜頓別町豊寒別遺跡 |
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黒曜石製尖頭器
縄文中期
約5000~4000年前
浜頓別町豊寒別遺跡 |
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162
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メノウ製削器
縄文中期
約5000~4000年前
落切川左岸遺跡 |
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黒曜石製尖頭器
縄文中期
約5000~4000年前
落切川左岸遺跡 |
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171縄文時代の枝幸
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約1万年前に始まった縄文時代は、その後、8000年にわたって続きます。人々は温暖な環境のもとで、日本列島の各地に広がっていきました。
縄文時代はとても長いので、通常、「早期」「前期」「中期」「後期」「晩期」の5つの時期に区分されています。
枝幸地方最初の縄文人は、縄文早期の人々。
「石刃鏃」と言うシベリア大陸に共通する技術で作られた石器を持っていました。
縄文前期はさらに温暖化が進み、海水面は現代よりも5~20m高かったと言われています。これを「縄文海進」と呼んでいます。
枝幸では「平底押型文土器」と呼ばれる土器が使われていました。
縄文中期の後半から縄文後期前半にかけて道東を中心に広がった「北筒式土器」が、枝幸地方でも広く見られるようになります。
縄文時代を通して枝幸で最も遺跡が増えた時代です。
縄文後期後半から縄文晩期にかけて、枝幸地方では、縄文人の遺跡が薄くなります。
この時代は、気候の寒冷化が進み、東日本では全体的に遺跡数が減少します。温暖な環境に適応した縄文人にとっては、厳しい時代になったのです。
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石刃鏃 (幌別右岸段丘遺跡)
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黒曜石などを薄く割り取った「石刃」を加工して「鏃」に仕上げたもの。縄文早期の道東地方を中心に広く分布しており、一部はオホーツク海沿岸でも見られる。
東北アジアに広がる石器文化であり、枝幸町の石刃鏃は日本列島最北の出土例。 |
縄文時代の枝幸 |
縄文時代の枝幸
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縄文時代の枝幸
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石刃鏃 |
枝幸地方の
縄文時代年表
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172磨製石斧
縄文人の便利道具
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縄文人は身近な物からいろいろな道具を作ったんだ。
その一つが石で作った「石斧」だよ。木も切れるし、穴を掘ることもできるんだ。 |
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磨製石斧
縄文時代
枝幸町内採集
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縄文人の便利道具 |
石錘
➀縄文中期
約5000~4000年前
音標ゴメ島遺跡
②縄文時代
枝幸町内採集
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石斧(再現)
縄文時代
枝幸町内採集資料 |
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200続縄文時代 紀元前3世紀~6世紀頃
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200宗谷地方の続縄文
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紀元前5世紀頃、本州では弥生時代が始まります。水田稲作を行う弥生文化は、涼しい北海道に上陸することができませんでした。この時から、北海道は本州とは別の歴史を歩むことになります。
縄文文化の伝統を受け継ぎながら、金属器を活用する「続縄文時代」の始まりです。
先史時代の人々の動きは、使っていた土器によって表されます。
続縄文時代前半の北海道は、地域ごとに異なる土器を使う大きなグループに分かれていました。
宗谷地方では「メクマ式」と言う土器を使う地元の人々が住んでいましたが、
道南から「恵山式土器」を持つ人々がやってきたことがわかっています。さらに、
オホーツク海沿岸からは「宇津内式土器」を持つ人々が北上してくるなど、この時代の宗谷地方は安定していません。
人々の流動性が高い時代だったことがわかります。
続縄文時代も後半になると、
道央で生まれた「後北式土器」を使う文化が、北海道全域に広がりました。
宗谷地方も後北式土器を使う文化圏に覆われますが、次の時代を呼び寄せる風が北から吹き始めました。
オホーツク文化の母体となる「鈴谷式土器」文化の南下です。 |
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201
続縄文時代前半の人の動き
紀元前3世紀~紀元後1世紀頃
続縄文時代前半の人の動き
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【道南】恵山式土器群の石狩低地から【道央・日高】縄線文系土器群※への進出
【道南】恵山式土器群の道北【宗谷】メクマ式など在地土器群への進出
【網走・北見(知床・オホーツク南部沿岸)】宇津内式土器群が宗谷へ進出
【道東】興津・下田の沢式土器群が、十勝・道央・日高へ進出 |
※考察 続縄文人の大移動
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・続縄文人のこの一斉の大移動は気候変動か、それとも侵略か。
西から東北系縄文人の道央・道北への進出。東から道東系縄文人の道央・道北への進出。これは狩猟対象獲得のための動きか。
縄文後晩期から弥生時代初頭にかけては寒冷な気候が続き、縄文中期の本州縄文人人口は25万人から5万人に激減したとされる。
寒冷化による食糧不足は北海道では更に厳しかっただろうと思われる。
従って、図上の縄文人の動きは、新しい土地への動物資源獲得への動きに見えるのだが。いかがなものか。
・オホーツク人は宗谷縄文人と靺鞨の混血とされる。
しかし、こんなにも激しく他地域縄文人の進出を受けた宗谷縄文人が、サハリンに逃亡し靺鞨と混血したのか、
それとも、道南・道東から宗谷に進出し、そのままサハリンまで移動した道南・道東縄文人が混血したのだろうか。 |
※考察 縄線文系土器群と鈴谷式土器
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縄線文土器
・縄文晩期後半になると「幣舞式」と呼ばれる縄線文(縄を押し付けた文様)や沈線文を特徴とする土器が作られるようになります。
引用「帯広百年記念館 縄文土器ギャラリー」 (縄線文土器=幣舞式=多様な器型が多い)
・オホーツク文化の鈴谷式の縄線文は続縄文土器の系統である一方、櫛目文はサハリン以北の伝統に連なるものであり、
二つの系統が混淆する鈴谷式期の土器様相は南北の文化交流を反映している。
鈴谷式には縄線文・櫛目文、平底・丸底など器形・文様上様々なバリエーションが含まれ、異なる文様・器形の土器を同一型式とした。
引用「鈴谷式土器編年再論」
※意外にも【道央・日高】縄線文系土器群と呼ばれるものが、続縄文時代後期のオホーツク文化初期の鈴谷式土器に融合していた。
それは、【網走・北見】の宇津内式の特徴(縄線文・多様な器形)とも一致しているので、どちらとも言い難いが、
一般に宇津内式と言えば、口縁部の穴や、フクロウの貼付文があげられるので、模倣するとすれば、穴に貼付文だろう。
すると、稚内を越えて、サハリンに進出し、靺鞨と混血してオホーツク人を産んだのは【道央・日高】の縄文人だったかもしれない。
これは、続縄文人との混血と言えば稚内から北上した稚内縄文人を想像してしまうが、これほどダイナミックな移動進出があったと
わかれば、初期オホーツク人の土器から、南からの混血相手を推論したくなるのは当然であると思う。 |
宇津内式土器
ウエンナイ2遺跡
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宇津内式土器 続縄文時代 ウエンナイ2遺跡 北海道枝幸郡枝幸町字宇遠内6074-3
擦文時代の竪穴式住居の覆土から出土。
口縁部の突瘤文と発達した「吊耳」が特徴 ※縄線文がわからない
※7世紀以降の擦文時代住居の覆土から出土したという。オホーツク住居からも縄文・続縄文土器が骨塚の祭壇に安置されることがあり、この擦文時代の人々も、自分達よりも古代の人々の遺物を発見すると、敬ったりする心情が大いにあったようだ。 |
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202宇津内式土器
小さい土器が出てきた
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土器を火に懸けると「こげ」が付くけど、この小さい土器にはこげが無いんだ。実際に煮炊きにつかったものじゃないのかもしれないね。 |
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203
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宇津内式土器
続縄文時代
約2000年前
ウエンナイ2遺跡
第7号竪穴住居址
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宇津内式土器
続縄文時代
約2000年前
ウエンナイ2遺跡
第7号竪穴住居址
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宇津内式土器
続縄文時代
約2000年前
ホロベツ砂丘遺跡 |
ウエンナイ2遺跡は山の中の川筋の遺跡。
ホロベツ砂丘遺跡は海岸の遺跡。
器形・文様に斉一性がある。
距離と生活環境や生業が異なる集団間で同じ文化を共有していたということだ。
それほど激しい人の交流があったのか。二つの遺跡は川筋も違い、はるかに離れている。接点はどこに? |
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204続縄文時代の枝幸
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縄文時代の文化を受け継いだ「続縄文時代」は、本州の弥生時代にあたる「前期」と、古墳時代に相当する「後期」に分かれます。
続縄文時代の
前半は、渡島半島や釧路地方、網走・北見地方などを中心に、地方色の強い土器が作られ、それぞれの土器を使う人々が互いに交流していました。
後半では、北海道独自の土器が完成し、全道一円に広がります。この「後北式」と呼ばれる土器は、北は千島・サハリン、南は北陸や東北地方にまで分布しています。北海道の続縄文人の勢力が北海道を超えて大きく広がっていたことを示しています。
枝幸の続縄文時代は、お墓や住居跡などの遺構が見つかっていないため、詳しい事は分かりません。
ただし、続縄文時代の前期から後期までのすべての時代の土器が発掘されており、続縄文人が活発に活動していたことを物語っています。
※考察 北海道続縄文人の大航海時代
続縄文時代後半・古墳時代並行期には、北海道には地方色がなく斉一で、
本州の新潟県まで舟で南下し、東北地方の陸上にも移住して広く文化を広め、
北は、サハリンに出かけて住み、
東は、千島列島にまで移住していた。
これは、
擦文時代の、北東北の古墳人が石狩低地に移住するずっと以前。
オホーツク文化期の、靺鞨・宗谷続縄文人の混血であるオホーツク人の大海洋時代のずっと以前の話である。
北海道縄文系続縄文人だけの力で行なわれた、北の続縄文大海洋時代である。
これまで、オホーツク人による、海洋への進出と大交易時代が最初であり、その後、オホーツク人との混血擦文人が海洋進出を果たし、
よって、オホーツク人を駆逐してなり変わったと考えていましたが。
まず最初に、擦文大航海時代があり、次にオホーツク人、更に擦文人。そしてアイヌ文化へと続くことがわかりました。
しかし、こう考えるとこれまで気にも留めず、見落としていたことがありました。
・旧石器時代から北東北の旧石器人が北海道に進出していたこと。
・縄文時代草創期に、帯広3遺跡で土器を残した、北東北の縄文人。
人類は旧石器時代から舟を操り、航海して、常に新しい冒険に出かけていたことは、それぞれの時代でどれ程大変な事だったろうか。
しかも、次から次へと同じ考えのもとに沢山の人々が旅立ち、その多くが失敗したにもかかわらず、成功し、文化を築いた人々もいた。
考えれば、八丈島の遺跡、もっと南との絶海の孤島北硫黄島の遺跡も、そのような冒険者によって残された貴重な遺跡でした。 |
後北C2式土器(モウツ竪穴群)続縄文時代後半 3~4世紀
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(枝幸高等学校より寄贈)
枝幸市街地の南を流れるモウツ川の段丘上から出土。昭和40年代に当時の枝幸高校郷土研究部が発掘した。
後北式土器の中でも、最も華やかに文様が発達したのが「後北C2式」。
薄手の大型の深鉢の全面に縄文がまわされ、同心円文や十字文が微隆起線で表現される。
北海道で「最も美しい土器型式」とも言われ、後のアイヌ文様の起源になったとされる。 |
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続縄文時代の枝幸 |
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後北C2式土器 |
枝幸地方の
続縄文時代年表
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前期(前3c~後1c頃)
土器
遺跡 |
:メクマ式
:宇津内式
:ホロベツ砂丘
:ウエンナイ2 |
後期(1c~5c頃)
後期末(5c~6c頃)
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205後北C1式土器 続縄文時代(約2000年前)モウツ遺跡
大きい土器も出てきた
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この大きな土器は枝幸高校の生徒が発見したんだよ!!
中心の「丸」から複雑な模様が広がっているね。アイヌ民族の模様に影響を与えたと言われているんだ。 |
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音標ゴメ島遺跡
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207ゴメ島を訪れた人々
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枝幸町の最南端、音標地区の海岸から沖合に700mのところに無人島が浮かんでいます。
名前は「ゴメ島」。ゴメ(カモメ類)の繁殖地となっていることから名付けられました。
周囲わずか2kmほどの小さな島ですが、様々な時代の土器が見つかっています。
中でも、続縄文時代の終わりごろに作られた「北大式土器」は、枝幸地方ではじめての発見になりました。
この土器は、北海道大学の敷地で見つかった資料から名前が付けられており、札幌周辺に多く分布しています。
ゴメ島は、北海道のオホーツク海沿岸で唯一の島。船でオホーツク海を旅した古代人はゴメ島でひとときの休憩を楽しんだのかもしれません。外の地域から来た旅人にとって、「島」は安全な中継地でした。
ゴメ島の発掘調査によって、数千年の間に何度も古代人が上陸したことが明らかになったのです。 |
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ゴメ島を訪れた人々 |
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地面から顔を出した土器(音標ゴメ島遺跡)
島では無数の土器や石器が落ちていた |
ゴメ島発掘 |
ゴメ島 枝幸郡枝幸町
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音標海岸から約500m沖合。最高位8m、周囲1km。平坦な島で、かつては水場があり、北東~北西は侵食によって湾入している。
全島が安山岩溶岩で北東側には柱状節理が発達している。
続縄文からオホーツク文化文化期の土器片や、続縄文時代の焼土と柱穴あり、竪穴建物の壁。メクマ式・北大式などの続縄文土器。
オホーツク文化中期後半の沈線文土器、後期の貼付文土器。オホーツク文化の石器と続治用文時代の石器も出土している。
この小さな島が、オホーツク人の狩猟・漁撈の拠点として利用され、また、道東へ進出するオホーツク人の拠点でもあったと考えられる。
また、周辺1kmの音標岬の基部段丘上に、音標岬遺跡があり、刻文期から沈線文期のオホーツク式土器が出土している。
引用「wikipediaゴメ島」 |
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208離れ小島の古代人
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枝幸の一番南、音標の沖にある「ゴメ島」に古代人がいたことがわかったんだよ。それも、千年近い長い間!島は小さな楽園だったのかもしれないね。 |
音標ゴメ島遺跡
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北大式土器
続縄文末期
(4~5世紀)1500年前
音標ゴメ島
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十和田式土器
オホーツク文化前期
(6世紀)1400年前
音標ゴメ島 |
大洞系土器
縄文晩期
(約2400年前
音標ゴメ島
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メクマ式土器
続縄文初期
(約2300年前)
音標ゴメ島
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209
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擦文時代 6世紀~12世紀
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210宗谷地方の擦文文化
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7世紀に入ると、本州では律令制度を基本とした統一国家「日本」が誕生します。
北海道も本州の大きな影響を受けるようになり、本州からたくさんの鉄製品が輸入されるようになりました。
人々の暮らしは、縄文時代からの伝統的な狩猟採集から農耕へと変わりました。
また、北海道の土器から「縄文」が消え、代わりに、本州の土師器の影響を受けた「擦文式土器」が生まれました。
擦文人は、本州の人々と同じ形の家に住み、「かまど」でアワやヒエなどの雑穀を炊いて食べていました。
北海道が本州の影響によって、大きく変化した時代を「擦文時代」と呼びます。
宗谷地方に擦文文化が広がったのは、比較的遅く、9世紀以降と考えられます。
雑穀を栽培し、川での漁を生活の糧としていた擦文時代の人々は、川のそばを中心に集落をつくりました。
サロベツ湿原から流れ出す無数の川に恵まれた幌延町の「音類竪穴群」では、800軒近い竪穴が作られました。
また、オホーツク海の沿岸部でも、浜頓別町のクッチャロ湖畔に約200軒、枝幸町の枝幸市街地に1200軒、北見幌別川の河口付近に約80軒件の大集落が生まれました。
こうした大集落の出現は、生活の安定を示しています。擦文文化は、後のアイヌ文化へと変化するその母体となったのです。 |
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211
【宗谷地方の擦文時代の集落遺跡】
【6世紀~12世紀頃】
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擦文式土器
(ホロナイポ遺跡)
擦文後期(10-11c)の深鉢
縦長で底が小さいのは、カマドで使うため。
ホロナイポ遺跡の資料によって道北地方の土器編年が決定した。 |
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212
擦文人の道具
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擦文人は本州の人たちから手に入れた「鉄」の道具を使っていたよ。だから、この時代はもうほとんど「石器」を使わなくなるんだ。 |
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擦文式土器
擦文後期(11c)
落切川左岸遺跡
第2号住居跡
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擦文式土器
擦文後期(11c)
落切川左岸遺跡
第11号住居跡 |
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221擦文文化の広がり
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擦文文化の人々は、アワやヒエなどの雑穀を栽培し、河川での漁労によって生活の糧を得ていました。
そのため、川の近く、特に河口周辺に集落を作る傾向があります。
擦文文化は、本州の古墳文化の影響を強く受けて、成立した文化で、北海道を中心にサハリン南部、千島、青森県一部にまで広がっていました。
のちのアイヌ文化の基盤となった文化とされています。 |
擦文文化の広がり
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擦文文化の広がり
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ホロナイポ遺跡の竪穴住居跡
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落切川左岸遺跡の
擦文文化期住居の
「かまど」(平成8年) |
サハリンの擦文遺跡 |
北海道・国後の擦文 |
道南・青森の擦文 |
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222擦文土器
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小型土器
擦文後期(11c)
ホロナイポ遺跡 |
箱型土器
擦文後期(11c)
ウエンナイ2遺跡
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←手づくねしていると、広がり過ぎてどうしようもなくなる時がある。
そんな時はこれ、
ぐいと押し込んで方形にすると何んとかなる。 |
高坏
擦文後期(11c)
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枝幸町内採集 |
ウエンナイ2遺跡
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ホロナイポ遺跡
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底面に刻印のある坏
擦文時代
枝幸町内採集
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刻文見えず |
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231失われた岩屋洞窟
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擦文時代の集落は、河口付近に作られる傾向がありますが、ごくまれに変わった場所にも遺跡が残されます。
枝幸町を東西に流れる北見幌別川の上流、もう一山超えれば、上川地方に入ると言う山間の洞窟で、擦文人の痕跡が見つかりました。
洞窟の名前は「岩屋洞窟」。北見幌別川の支流「ポールン別川」に面して口を開けた石灰岩洞窟です。
この動物は古くから知られており、川の名前は、アイヌ語で「洞窟の・ある・川」に由来しています。
昭和13年、地元の住民が洞窟内部を探検したところ、土器片が見つかりました。土器は細かく割れていましたが、文様から擦文時代後期(11世紀頃)のものと判明しました。
岩屋洞窟とは、枝幸から上川方面へ抜けるルートに近いため、山越する擦文人が休憩した遺跡かもしれません。
またはアイヌ民族のように洞窟を「あの世の入り口」と捉えて神聖視し、何かの儀式を行った可能性もあります。
昭和33年頃石灰岩を採取するため、洞窟は爆破され、貴重な擦文の時代の洞窟遺跡は失われてしまいました。 |
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擦文式土器片
(岩谷洞窟遺跡) |
土器は小片割れていたが、小型の深鉢と見られる。文様の構成から擦文後期(11世紀頃)と推定。
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岩屋洞窟
昭和26年頃撮影
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232ホロナイポ遺跡の発掘調査 擦文時代
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昭和53年春。枝幸町では初めての大規模発掘調査が始まろうとしていました。
発掘されるのは、枝幸市街地の背後に広がるホロナイポ遺跡。擦文時代の集落遺跡です。
遺跡は市街地の北を流れるホロナイポ川に沿って細長く広がっており、地面の「くぼみ」によって、あらかじめ竪穴住居を数えることができました。この時に確認された、竪穴は130軒。このうち50軒が発掘されました。
調査の結果、それまでよくわからなかった宗谷地方の擦文時代の様子が明らかになってきました。
住居は四角い竪穴住居で、南か東の壁にかまどを取り付けていました。10mを超える大きな住居もありましたが、平均すると4mくらいの小ぶりの家が中心です。中には室内に木のベンチを巡らした家もありました。
出土品は擦文式土器がほとんどです。土器の構成や文様から、擦文時代後期の10世紀から11世紀頃の遺跡と判明しました。
道北地方でこれだけ大きな遺跡が発掘されたのは初めてのこと。ホロナイポ遺跡の出土品によって、道北地方の擦文式土器の変遷がわかるようになったのです。
ホロナイポ遺跡は、その後枝幸で始まる大規模発掘の最先駆けとなりました。 |
ホロナイポ遺跡の発掘調査
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ある家族の土器(ホロナイポ遺跡)
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一辺約4.8mのほぼ正方形の住居から出土。かまどの焚き口に7個の土器が残されていた。
土器の首のところに斜めの線を刻む文様の付け方は共通しているが、煮炊き用から個人用までその大きさは様々。
当時の家族の暮らしぶりが伝わってくる。 |
ある家族の土器 |
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ホロナイポ遺跡の調査
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ホロナイポ遺跡の発掘調査は、国道238号枝幸バイパスの建設工事によって始まった。
写真左と右下は発掘区を設定するための測量作業。笹の生い茂る原野をかき分け、1本ずつ図りながら杭を打ち込んでいく。根気のいる作業だ。
笹の広がる表土のすぐ下に、1000年前の文化層が広がっているため、調査は人力で行われる。
昭和53年から2年をかけて、8000㎡の面積を発掘した。写真右上は調査完了後の発掘区の状況。掘り上がった。四角い住居跡が並んでいる。
ホロナイポ遺跡の出土品は、その後、枝幸町の有形文化財に指定され、さらに昭和56年には「北海道有形文化財」に追加指定された。 |
ホロナイポ遺跡の調査
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233擦文土器
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234ホロナイポ遺跡の遺物
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道北地方の擦文文化を代表する考古資料として、昭和56年、深鉢や刀子、「フイゴの羽口」など14点が、北海道の有形文化財として指定されました。 |
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柱根
擦文後期11c
ホロナイポ遺跡
第2地区第2竪穴住居址 |
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擦文土器
擦文後期11c
ホロナイポ遺跡 |
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擦文土器
擦文後期11c
ホロナイポ遺跡 |
ホロナイポ遺跡の遺物 |
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251擦文人の織物
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今から約1000年前の世界に生きた擦文人はどんな服を着ていたと思いますか。
毛皮や布といった「有機物」は、土の中に埋まっていると分解してしまうため、遺跡から古代人の服が見つかる事はほとんどありませんが、布を作る道具は残ります。
その1つが「紡錘車」です。
擦文土器と同じように、文様が刻まれ、一つひとつ丁寧に焼き上げたものです。
アサなどの繊維を撚って糸にするとき、糸を巻き取る棒にさして、コマのように回転させたと言われています。
大きな布や「ござ」などを織るときは、専用の織機を使ったと考えられます。
織機には植物から作った縦糸を下げるためのおもり必要です。擦文時代の竪穴住居から見つかる細長い小石は、こうしたおもりに使われたと考えられます。小石は住居の隅に一まとめにされていました。
擦文時代の人々は、自然の素材を上手に活用して必要な道具を手に入れていたのです。 |
薦槌こもづち
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三軒の竪穴住居から見つかった土製品。織物作るときの「おもり」と考えられる。
一般的には細長い川原石が使われるが、この遺跡では専用の道具が作られていた。 |
ござ織機の小石
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アイヌ、民族のござ、織機、擦文時代の人々も同じような道具でござを織っていたと思われる。 |
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擦文人の織物 |
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紡錘車
ホロナイポ・モウツ・ウエンナイ2
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薦槌こもづち
ウエンナイ2遺跡 |
ござ織機の小石 |
擦文式土器
擦文後期11c
落切川左岸遺跡
第18号住居跡 |
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253紡錘車
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紡錘車 |
紡錘車 擦文後期11c
ホロナイポ遺跡 |
紡錘車
擦文後期11c
ウエンナイ2遺跡
落切川左岸遺跡
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254紡錘車
紡錘車 |
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紡錘車 擦文後期11c
モウツ竪穴群跡 |
紡錘車 擦文後期11c
ホロナイポ遺跡 |
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255薦槌
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薦槌 擦文後期11c
ウエンナイ2遺跡
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薦槌 擦文後期11c
ウエンナイ2遺跡 |
薦槌 擦文後期11c
ウエンナイ2遺跡
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261擦文人の鉄利用 ※野鍛冶
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続縄文時代以降、本州で作られた鉄製品が北海道へと輸入されるようになります。
擦文時代に入ると、さらに鉄製品の普及が進み、多くの遺跡で見られるようになります。
擦文時代の鉄製品は、刀子(ナイフ)や斧、鎌など実用的なものが中心でした。
特に刀子は日常生活に欠かせない道具として広く普及します。枝幸町内でも、ホロナイポ遺跡で、3点の刀子が見つかっています。
擦文時代は、鉄製品だけでなく、鉄を加工する技術も本州から伝えらました。
鉄を加工することを鍛冶と言いますが、鍛冶には特別な道具が必要です。
鉄を溶かすために風を送って、火の温度を上げる「フイゴ鞴」と言う道具もその一つです。
この鞴の先に取り付ける筒状の道具を「羽口」といいます。
羽口の発見は、その土地で鍛冶が行われていたことを示す証拠になるのです。
枝幸町ホロナイポ遺跡から見つかった5つの羽口は、列島最北の出土例となりました。
鉄を加工する文化が、この北辺の地まで伝わっていたことを物語っています。 |
鉄製刀子(ホロナイポ遺跡/道指定有形文化財)
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第2地区第12号住居から出土。刃はゆるやかに反る。
木で作られた柄が残存しており、表面には桜の樹皮が巻かれていた。
ホロナイポ遺跡では4点の鉄製品が確認されたが、全体の形状が残されていたのはこの1本だけだった。 |
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262フイゴの羽口
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フイゴの羽口
擦文時代後期11c
ホロナイポ遺跡 |
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使い捨ての羽口になぜ文様を入れたんだろう |
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鉄の道具を修理しよう
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擦文人は貴重な「「鉄の道具」を自分たちで修理しながら使っていたんだ。
この「ふいごのはぐち」は鉄の道具を修理する時に使っているらしいよ。 |
鉄の道具を修理しよう |
鉄製刀子
擦文後期11c
ホロナイポ遺跡 |
第2地区第12竪穴住居 |
第1地区第7号竪穴住居 |
鉄製刀子 |
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271擦文人の雑穀栽培
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擦文時代は、北海道で初めて本格的な栽培植物の利用が始まった時代でした。
植物の種は有機物なので、時間が経てば分解してしまいますが、火を受けて、炭化した状態になると、長くその形をとどめることが知られています。
ただし、広い遺跡から文字通り、米粒を探すのは、気の遠くなるような作業です。そこで、発掘現場では、「フローテーション」と言う方法で細かい遺物を探します。
これはあらかじめ決めた量の土を丸ごと掘り出して、すべて水洗いし、「種」を拾い出すと言う方法です。
フローテーションによって、擦文時代の栽培植物が明らかになってきました。
擦文時代を通じて、アワ・キビの栽培が定着します。擦文中期以降は、オオムギやコムギが追加され、道央部ではコメも見つかるようになります。
オホーツク文化の人々も栽培種の大麦を利用していましたが、擦文人とは種類が違います。
擦文人の食べていた大麦は本州のものに近いとされています。
擦文人がどのくらい積極的に栽培していたかまだ分かりませんが、それまでの食生活を大きく変えたことは間違いありません。 |
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擦文人の雑穀栽培 |
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擦文時代の栽培植物検出遺跡
オオムギ・キビ
゙(落切川左岸遺跡)
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272
穀物を食べた擦文人
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擦文人歯オオムギやアワなどの「穀物」を食べていたんだよ。
家の床を発掘したら、擦文人が千年前に食べこぼした穀物がいくつも出てきたんだ。 |
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高坏
擦文後期11c
ホロナイポ遺跡 |
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擦文式土器
擦文中期10c
ホロナイポ遺跡
第3地区10号竪穴住居
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炭化種子
擦文後期11c
落切川左岸遺跡
11号住居跡
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高坏
擦文後期
ウエンナイ2遺跡
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300オホーツク文化期
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遺構としては竪穴住居跡6軒・土壙墓48基・土壙165基が検出され、これ以外に魚骨や獣骨を廃棄・堆積したブロック2ヵ所が見つかっている。
いずれもオホーツク文化期中期の刻文系土器群の時期から後期の貼付浮文系土器群の時期までの所産と考えられる。
リンク オホーツク人の頭骨 目梨泊のガラス小玉 発掘報告1 発掘報告2 出土品
発掘報告1による遺跡概要
種別:墓 時代:オホーツク文化期 主な遺構:墓壙3 土坑253 集石1 焼土2
主な遺物:オホーツク土器 石器 土製品 石製品 蕨手刀 刀子 骨角器 人骨
発掘報告2による遺跡概要
種別:集落 時代:オホーツク文化期 主な遺構:住居 墳墓
主な遺物:土器 土製品:石器 鉄製刀子 骨製装飾品 骨製銛頭 骨斧 骨箆 |
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300目梨泊遺跡の土器 一部ピンボケあり
オホーツク土器や文化については、旧アメブロ「いちご畑よ永遠に」の
根室市歴史と自然の資料館➀
根室市歴史と自然の資料館③(②は復元されていませんでした。)
が、大変詳しく載っています。是非先にご覧ください。
今回、特に③が重要かと思います。 |
301貼付浮文土器
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貼付浮文土器
オホーツク文化後期
8~9世紀
第35号土壙墓
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波頭を表したのでしょうか。
現代の金属製のチェーンのようで不思議です。 |
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302刻文土器
刻文土器
オホーツク文化中期7c
第2号土壙墓
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口縁部に先ほどのチェーンのような文様が、粘土紐無しで刻まれています。
刻文期がオホーツク文化中期でさき。上出貼付文期が後期であと。
この連続したささやかな圧痕文に強い執着があったのでしょうか。
彼らの生活や思考に切ることのできないものを象徴しているようです。 |
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303ソーメン文土器
ソーメン文土器
オホーツク後期8-9c
第32号土壙墓
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押し寄せるオホーツクの波がしらを表現したと思われる貼付文。
海洋動物の腸に緩い粘土を詰めて、小さな穴から押し出し綺麗に揃った線を描いています。
手こねで細紐をつくるとこのようには均一になりませんし、長くもできません。
しかし、
生乾きの土器の表面に直接絞り出したのでしょうか。別のものに絞り出すとこのようには貼れません。しかし、どのタイミングで絞れば土器も粘土紐もうまく密着して、乾燥しても、焼成しても落ちないのでしょう。
熟練者の仕事ですね。 |
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304貼付浮文土器
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貼付浮文土器
オホーツク後期8c
第4号土壙墓
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波がしらの間に、海洋動物を貼付。
水鳥やアザラシ、オットセイなどが想像されます。 |
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305
貼付浮文土器
オホーツク後期8c
第4号土壙墓
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※オホーツク文化の「貼付浮文土器」は、海岸に寄せる波を表した波状線と、
波打ち際の貝を表した貼り付け円文
波に浮かぶ水鳥を表した文様や
波間に上下する海獣を表した文様などがあります。 |
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306
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刻文土器
オホーツク文化中期7c
第3号土壙墓 |
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貼付浮文土器
オホーツク後期8c
第3号土壙墓 |
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310オホーツク文化の世界
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オホーツク文化は、今から約1600年前、続縄文時代の終わり頃に誕生した海洋狩猟民の文化です。目の前に広がるオホーツク海を自由に駆け回り、魚をとったり、アザラシやトドなどの海獣を狩って暮らしていました。
今から1000年以上前の枝幸の海岸は、オホーツク人の集落がいくつも立ち並ぶ重要な拠点だったのです。
中でも、枝幸町北部の目梨泊遺跡は、オホーツク文化最大級の集落遺跡として知られています。
発掘調査によって、謎の多い海の民、オホーツク人の世界が鮮やかによみがえってきました。 |
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311家畜を飼育するオホーツク人
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1983年に発掘調査が行われたホロベツ砂丘遺跡では、オホーツク文化中頃の住居跡1軒が発見され、一緒に見慣れない動物の骨が、いくつか出土しました。この骨は、後になって、動物考古学の専門家の研究によって、カラフトブタの前足であることがわかりました。オホーツク人は、ある時期からカラフトブタやイヌといった家畜の飼育を始めたようです。
発見されたカラフトブタやイヌの骨には、解体したときにできる細かな傷跡が残っており、食用にされたことがわかっています。
イヌは食用以外にもちょっと変わった扱いを受けることがありました。礼文島の香深井A遺跡では、イヌの前足(の骨)に繊細な彫刻をしたものが見つかったり、前足だけを外されて埋められた例もあります。出土したイヌやカラフトブタの骨は、その形や状態を詳しく観察し、分析することで、その種類や利用方法、変化の歴史など細かなことがわかります。
オホーツク人にとって、冬は食べ物が手に入りにくくなる大変厳しい季節でした。カラフトブタやイヌの飼育は「生きた保存食」として、オホーツク人の食生活を支えていたのかもしれません。
※カラフトブタは現代も放し飼いで、必要なときに捕獲していたようです。 |
家畜を飼育する
オホーツク人 |
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313オホーツク人の主な仕事
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オホーツク人は、巨大なトドやアザラシといった海獣類をとるために、彼らはならではの道具を発達させました。その代表が「回転式離頭銛」です。
この銛頭には長い紐が通されており、獲物が海中に潜ってもしっかりとつなぎ止めておくことができ、どんな巨大な海獣でも泳ぎ疲れたところを仕留めることができたと言われています。
海獣狩猟は、オホーツク人の日常生活に欠かせない肉や、毛皮、脂肪を手に入れるための大事な仕事でしたが、一方で、漁業も盛んに行っていました。
遺跡からは、ニシンやホッケなどの魚の骨やアワビの貝殻、ウニの殻がたくさん出土します。今も枝幸町の特産として知られているサケやウニなどのオホーツク海の豊かな恵みは、オホーツク人の生活も支えていたのです。
また目梨泊遺跡の発掘調査ではオオムギやアワなどの雑穀や様々な木の実、草の実が炭化した状態で発見されました。オホーツク人は「海の民」ですが、山の幸もたくさん食べていたようです。
こうしてみるとオホーツク人は、季節ごとの自然の恵みを利用し、バランスの良い食生活を送っていたのでしょう。インスタント食品が溢れる、現代人の食生活よりも、ある意味でずっと豊かだったかもしれません。 |
オホーツク人の主な仕事
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回転離頭銛の仕組み
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314鉄器 目梨泊遺跡
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平柄鉄斧
中期7c
23号土壙墓 |
この形状の鉄斧は弥生時代の半島から本州への交易品にありました。とても長く、そのまま斧としても、鉄素材としても使える鉄製品です。
半島製鉄素材は鉄鋌です。延べ板型(鉄斧)型は大陸製で流通していたのでしょう。それが靺鞨からオホーツク人に渡ったのでしょう。オホーツク文化でこれだけ大量の鉄製品は珍しい。 |
鉄製小刀(後期9c)
1号土壙墓
曲手刀(8-9c)1号墓坑 |
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315
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鉄製刀子 後期8c
第35号土壙墓
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鉄製小刀 後期8c
1号土壙墓
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316
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鉄鎌
オホーツク中期7c
2号土壙
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鉄製刀子 後期8-9c
2号墓坑、18号土壙墓
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鉄製針
後期8c
24号土壙
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鉄鐶てっかん
中期7c
39土壙墓
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鉄鐶=鉄製把手
って、何のとって?
もしかして、
木棺の把手だろうか |
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317オホーツク文化の遺物 19号土壙墓の副葬品
オホーツク人の出自
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オホーツク文化は、本州の古墳時代から平安時代に、サハリンから、北海道千島列島にかけて、栄えた海洋狩猟民の文化です。
オホーツク人は、続縄文文化の終わりに宗谷海峡の周辺にいた人々が、サハリン北部から来たグループと出会ったことで、生まれた民族で、
オホーツク海の沿岸に広がりました。
オホーツク人の暮らし
その遺跡からは、海獣を獲るための珍しい銛頭や、美しく彫刻された骨の釣り針、家畜として飼っていたカラフトブタや犬の骨。
そしてオオムギやアワ・キビの種子など、生活の様子が分かる様々なものが出土しています。
また、五角形の大きな竪穴式住居の奥からは、クマの頭を重ねた「骨塚」が見つかりました。
クマはオホーツク人にとって大切な神様だったようです。
オホーツク人の習俗
彼らのお墓からは、本州で作られた刀や大陸で作られた貴重な装身具なども見つかっています。
彼らは古代のオホーツク海を舞台に、いろいろな地域の人々と品物のやりとりをしていたのかもしれません。
枝幸町では、これまでいくつかオホーツク文化の遺跡を調査してきましたが、1990年から3年間かけて行われた目梨泊遺跡の発掘調査では4軒の住居跡と46基の墓、そしてたくさんの異物が出土しました。このコーナーでは、目梨泊遺跡の遺物を中心に、当時の人々の暮らしを再現しました。
※考察 クマ信仰
北海道においてはクマが生物の頂点にあり、人も襲われるし、人家を襲って人を食い殺すことさえある。
恐ろしいもの、恐いもの、強いものを畏れ敬い、信仰する、ということは過去にも現代にもあることで、台湾では百歩蛇などの猛毒の蛇がそうであり、土器の装飾にもよく登場してくる。長野県でも毒蛇がモチーフの土器が多々みられる。
が、一方で、オホーツク人はこのクマを狩るのである。狩ったクマの頭骨を骨塚にして積み上げ、現代のハンターならこれを自慢するのだが、
彼らはこれを敬うのだ。
恐怖の動物として畏れ敬い、飢餓になるとこれを狩って食糧とする。いわば二律背反であるが、この矛盾を止揚したのがアイヌのクマ祭りである。
オホーツク文化時代はどのような信仰であったのかは不明だが、神と食糧。どう考えていたのだろう。(チョット変な意味不明) |
第19号土壙墓の副葬品
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目梨泊遺跡の中心に近い、沢沿いにつくられたお墓です。遺体の顔には、土器が被せられ、鉄の刀や鉾と一緒に石鏃が副葬をされていました。
交易によって手に入れた鉄製の武器と、狩猟民の象徴ともいえる「弓矢」が納められているので墓の主は、当時の目梨泊遺跡を統率するリーダー的な存在だったのかもしれません。 |
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鉄製直刀・鉄鉾・刀子
オホーツク後期8c
19号土壙墓
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鉄製刀子
オホーツク文化後期8c
目梨泊19号土壙墓
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※直刀・刀子・鉄鉾が錆び付いて分離不能で出土 |
被甕土器
オホーツク後期8c
19号土壙墓
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頁岩製石鏃
オホーツク後期8c |
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第19号土壙墓の副葬品 |
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319お墓と副葬品
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「副葬品」とは、死者を葬る時に、一緒にお墓の中に収めた品物のことで、亡くなった人が身に付けていたものや、生きている間に使っていたものや、生きている間に使っていた被甕の土器(甕かぶりの土器)のように、儀式として納めたものなどがあります。普通の住居跡とは違って、お墓からは個人の持ち物である装身具や刀のなどの貴重品が多く見つかります。
また、副葬品の組み合わせを調べることによって、埋葬された人の年齢や性別、社会の中での地位などを推理することもできます。
目梨泊で発見された46基のお墓からはたくさんの副葬品が出土しました。ガラス玉、鉄鉾、鉄斧、蕨手刀や直刀、銀のイヤリングなど、本州や大陸で作られた貴重な品物が数多く発見されています。
特に、第19号土壙墓では、被甕の土器1個と石鏃8本、刀のつば1点に直刀・刀子・鉄鉾各1点が、組み合わさって出土しました。
本州や大陸で作られた貴重な鉄製品と共に、オホーツク人が自分たちで作った石鏃や土器も一緒に納めてあります。
石鏃のような狩の道具を持っていたことから、埋葬された人は狩りをする男性だったのではないでしょうか。また鉄製品をたくさん持ってる事は、彼が集落の中で高い地位にあったことを示しているのかもしれません。 |
目梨泊のお墓
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オホーツク人は、地面に穴を掘って直接死者を埋葬しました。この時、死者の関節をきつく折り曲げ、頭を北西の方角に向けて埋めます。
枝幸から網走、知床半島の地域では、死者の顔に普段使っていた土器を逆さまにしてかぶせました。
これは「被甕」と呼ばれる変わった風習で、その意味についてはよくわかっていません。ただ、土器には底に穴を開けられていた例がいくつかあり、儀式に関係があるようです。
目梨泊遺跡では4年間の発掘調査によって46基のお墓が発掘されました。ほとんどのお墓から被甕に使われた土器が見つかっています。
他の遺跡では、死者は関節を折り曲げた窮屈な姿勢で葬られるのに、この目梨泊遺跡では、体を伸ばしたままの姿勢で埋められたようです。
さらに、顔の上に土器をかぶせ、土をかけた後、お墓の上に小さな砂利をまいてマウンドのように盛り上げていました。
頭を向ける方角も、真西から南西が多く、他の遺跡とは全く違っています。
死んだ人の葬り方を変えるのは、とても勇気の要ることです。なぜ、目梨泊遺跡の人々だけが葬り方を変えたのか、大きな謎です。他の地域の人々との交流が葬り方を変えさせるきっかけになったのかもしれません。
※被甕の風習は枝幸~網走モヨロ~知床半島であるという。枝幸以北の埋葬形式は不明。
貼付文系土器分布域は、サロマ湖~網走~知床~国後・択捉まで、
沈線文系土器分布域は、サロマ湖~稚内~利尻・礼文。 サハリンでは江の浦A式土器分布地域
被甕葬習俗の地域と、土器型式地域とが混じっている。
※資料 墓制の地域差
※屈葬は靺鞨の埋葬法。伸展葬はのちのアイヌの埋葬法。
以下引用「オホーツク人と死」
オホーツク文化では、初期の土器型式十和田式期(刺突文期)では墓型式の変化は少なく、
北海道に進出を始める刻文期には、地域差が成立し、沈線文期以降には地域差が強化される。
礼文島船泊砂丘第二遺跡例では、
刻文期でも、被甕や配石が全く認められない。この時期に地域差が始まっていた。
沈線文期(中期後半~後期)の地域的特色(木槨、被甕・配石の欠如)は、古い時期の墓制が残存した結果。
目梨泊遺跡では、
刻文期の墓に、北西頭位・屈葬という典型的な組み合わせは全く存在せず、南西頭位・屈葬か北西頭位・伸展葬のいずれかとなっている。
沈線文期以後は伸展葬が主体となり独自色が強まる。
網走地域では
刻文期~貼付文期を通じて北西頭位・屈葬の組み合わせが大多数である。
知床・根室地域は
配石が地域的な伝統となっている。
刻文期からすでに大がかりな配石がみられ(羅臼町相泊遺跡7号・9号)、貼付文期からそれ以後のトビニタイ期まで継続している。
※このような移住した先での地域的な風習の変更は、地域的なまとまりを強めるとともに、入植地域の集団意識の形成だったかもしれない。
この傾向はやがて地域間の争いとなることもあり、終末期に向けて地域ナショナリズムが高まるのかもしれない。 |
お墓と副葬品 |
目梨泊のお墓 |
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墓を掘る
土器を被せる
土を埋め戻す
砂利を撒く
人間が溶ける
どんどん溶ける
大地に還る |
目梨泊遺跡
第4号竪穴住居そばに
被甕・伸展葬の土壙墓 |
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321甕被り葬
※考察 被甕葬
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なぜ死体に甕を被せるのだろう。
私たちは木棺に入れて埋葬。火葬するので、かつての土層の場合は、棺に入っているので上から土を掛けても特に感情は揺るがない。
以前、台湾の甕棺墓を調べていた時、中国大陸から各地へ移住した時代があった。しかし、彼らは異郷の土となることをかわいそうと考え、
遺体を甕に入れて、異郷の土となることを拒み、いつか故郷に帰ることを望んだ。
オホーツク人は、のっぺり顔の靺鞨・女真族と彫り深続縄文人の混血であり、一目瞭然どこにもない顔の新人類であり、彼らのBaceとなる支配地はなく、それぞれが進出し拠点とした北海道とサハリン南部以外に帰る場所はない。住んだ所に埋められるしかなかった。
例えばTVドラマでよくある人を殺し、埋設して隠蔽する場合は、遺体に対してあわれみの感情をもたないからそのまま土を掛ける。
しかし、愛情深く接した者が逝った時には素顔の上に土を掛けるのははばかられる気がする。
乳幼児を深鉢に入れて埋葬した縄文人は、成人の顔に平気で土を掛けたのだろうか。埋葬時の想像画には素顔のままの様子が描かれる。そうしないと何をやっているんだか訳が分からないから。
私が縄文人で、愛する人を送るのなら、遺体を何かで包んで、少なくとも顔の上には何かを被せて土を掛けただろう。
何かとは、植物性の敷物ゴザの一部とか、皮革の切れ端とか、葉っぱとか、死者を冒涜しないものではないだろうか。
死後の世界を信じていたアイヌの死後観はどこから来たのかは知らない。ただ、一般的に死後の世界を信じる傾向が世界史的にあるので、それは自然な人間の感情や希望と考えると、死後の世界に送る人の顔に土を掛けることを忌み嫌って、甕を被せたのではないだろうか。
このような埋葬方法が起こって来たのは、オホーツク文化が北海道に進出した時に始まった埋葬儀礼の地域差の発達による行動が原因ではないか。
靺鞨・女真の木槨墓のような丁寧な埋葬ができなかったオホーツク人は、せめて顔に土を掛けずに旅立たせたいと思い、甕を被せたのではないだろうか。それは、甕の底に空気穴を開けていることでも死者と死後世界を意識した行動ではないでしょうか。
考古学者はこんなに感情的になってはいけないのでしょう。これは民俗学が宗教学の範囲かな。 |
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323クマを信仰する人々
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オホーツク文化の住居の奥壁には祭壇が作られ、そこにクマの頭の骨を積み重ねる「骨塚」と言う風習がありました。
骨塚にはクマ以外にもエゾシカやキタキツネ、エゾタヌキ、クロテン、イヌ、ウサギ、ゴマフアザラシやアシカなどの様々な動物の骨が納められていますが、クマの骨だけが特別に扱われていたので、ほかの動物たちより大事にされていたようです。
クマを中心とした動物たちへの信仰は、彼らの作った骨の彫刻や土でできた道具からも感じられます。ホロベツ砂丘遺跡などからは、粘土で作ったクマの頭や座った姿のクマの像、熊の指の骨に穴を開けて作ったペンダントが出土しました。
またオホーツク文化の遺跡では、牙製婦人像と呼ばれる海獣の牙で作った女の人の像がしばしば発見されます。
スカートを身に付け、腕を前で組んだり、手を合わせたポーズの像で、礼文島から根室半島に至る広い地域で見つかっています。
研究者の中には、オホーツク人社会のシャーマン(巫女)ではないかと言う人もいますが、詳しい事は分かっていません。
目梨泊遺跡でも粘土で作られた女性の像が見つかりました。彼女は目梨泊でどんな暮らしを送っていたのでしょうか。
アレウト族 NHK |
クマを信仰する人々
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牙製婦人像 |
※考察 婦人像
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約1500から800年前、5~12世紀頃に隆盛を極めた、オホーツク文化の一つに海獣の牙を彫刻して作った婦人像があります。
これを展示している博物館ではどこでもよく似たポーズで、同一人物の作かと思うほどです。
別人が作るとかなりの私的感情が入って変わってくるものです。それがほぼありません。これは模倣によって形状が 似たのでしょうか。
山梨県南アルプス市ふるさと文化伝承館にも大変よく似たポーズの土偶があります。しかしこちらは縄文中期中葉(約5000年前)です。
多少ポーズは違いますがお面を被った姿も同じです。通称ラヴィと呼ばれています。
ラヴィは左手で小脇に何かをかかえ、右手はおしりの方に回しています。これは子供を背負っている仕草でしょうか。
牙婦人像は、一様に体を前にかがめ前に手を持ってきています。これは、座産のポーズでしょうか。
大きなスカートは出産時のための覆いだったのでしょうか。
両者の間には関係はないが、いずれにしてもフランス社交界のようなスカートが5000年も前から何かの目的で使われています。
顔にはどちらも仮面が掛けられています。巫女が出産? それよりも出産時のシャーマンからのお守りだったのでしょうか。
大きなスカートを履いた民族衣装はいったいどこから来たものでしょうか。 アリューシャン列島のアレウト族 NHK |
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325遺物
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土製円盤
オホーツク中期7c
ホロベツ砂丘遺跡
骨製円盤
オホーツク後期8-9c
目梨泊遺跡
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有孔円板・土製円盤
オホーツク後期8-9c
目梨泊遺跡
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石製円盤・有孔石盤
オホーツク後期8-9c
目梨泊遺跡
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326
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ガラス製小玉
ガラス玉
オホーツク後期8-9c
目梨泊遺跡
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ガラス製小玉 |
ガラス玉
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軟玉製環飾
オホーツク後期8-9c
目梨泊遺跡 |
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ガラス製小玉
オホーツク中期7c |
ガラス玉
オホーツク後期8-9c |
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327
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ヒグマ指骨装飾品
オホーツク後期8-9c
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スタンプ状土製品
オホーツク後期8-9c |
ヒグマ指骨装飾品
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スタンプ状土製品 |
スタンプ状土製品
オホーツク後期8-9c |
印章は中東で早くから始まったもの。このスタンプは印章? |
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土製玉
オホーツク後期8-9c |
土製玉
オホーツク中期7c
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※考察 オホーツク人と信仰
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オホーツク文化では鉄製品は全てアムール川からもたらされたものです。彼らは狩猟には骨鏃・骨銛など骨角製品を使っていました。
宝飾品も毛皮と交易で得たもので、勇敢で富裕の交易者にのみ持てるものだったのでしょう。
そんな貴重な鉄や装飾品を惜しげもなく墓に副葬するということは、死者の死後世界を強く信じていたのでしょう。
それと同時に墓荒らしなどを行なうことは決して許されなかったのでしょう。 |
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330目梨泊遺跡
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梨泊遺跡は、枝幸町と浜頓別町の境にある「神威岬」から南へ2kmほど離れた、標高約20mの海岸段丘上にあります。
「目梨泊」とは、アイヌ語の「メナシュトノリ」が変化したもので、「東風(を防ぐ)船のかかり澗」と言う意味です。
アイヌ民族にとっても目梨泊は、東風が吹くときの格好の船着場だったようです。
目梨泊遺跡の最初の発掘調査は、1967年に、北海道大学文学部附属北方文化研究施設によって行われました。その後、8年間に及ぶ発掘調査が実施されましたが、まだすべての内容はわかっていません。
枝幸町教育委員会で行った発掘調査では、1987年にオホーツク人のお墓3基と人骨1体、さらに1990年からの3年間で、竪穴式住居跡4軒と43基のお墓を発見しました。これはオホーツク文化の遺跡としては、道内でも最大級の規模です。
発見されたお墓の中からは、本州で作られた鉄製の蕨手刀や大陸製の青銅製帯飾、銀製耳飾など、他の地域との交易によって持ち込まれた多くの品々が出てきました。
この地を目指す者にとって、神威岬は都合の良い目印だったに違いありません。そして、目梨泊遺跡は、オホーツク人の重要な「交易港」だったのです。 |
木の実を集める
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狩猟採集民であるオホーツク人にとって、木の実の採集は大切な仕事でした。狩や漁ほど重要ではないので、子供が従事したことでしょう。
目梨泊遺跡からは、エゾエンゴサクや、ヤマブドウ、ガンコウラン、キイチゴ、マタタビ、クルミなど、様々な木の実が見つかっています。
オホーツク人が暮らしていた竪穴住居の床に溜まった土を丁寧に水洗いすることで、食べこぼした「種」が見つかったのです。
こうした木の実はそのまま食べたり、料理に入れたり、冬の保存食となりました。
オホーツク人は海だけでなく、森の恵みもしっかりと享受していたのです。 |
目梨泊遺跡 |
目梨泊遺跡 |
木の実を集める |
木の実を集める |
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沢山の人が行きかう港、目梨泊
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本州や大陸から目梨泊に貴重な品物を運んだ、古代の人々は、船を使って行き来していました。
目梨泊遺跡の北側にある「神威岬」は、そうした人々にとって、目梨泊を探し当てる上での目印になったようです。
人々が住む集落は、標高20メートルほどの盛り上がったところにありますが、小さな川が入り込んでいくつもの台地に分かれていました。
おそらく、交易船が川をさかのぼって、集落のすぐ近くまで来ていたのかもしれません。
蕨手刀や帯飾りなど貴重な品々を求めてたくさんの人が行き交う港―それが目梨泊遺跡です。 |
オホーツク犬と狩り
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イヌは人類にとって最古の家畜と言われています。イヌは狩のパートナーとして、大昔から人間と一緒に暮らしてきました。
オホーツク人の飼っていたイヌたちは「オホーツク犬」と呼ばれる大型のイヌです。オホーツク人も、イヌを狩の手伝いに使ったり、イヌぞりとして働かせていたことでしょう。こうした犬を「使役犬」と言います。
オホーツク人はイヌを食用にもしていました。日本人の感覚からすると違和感を受けますが、大陸には犬を食べる文化が広がっています。大陸にルーツを持つオホーツク文化の人々にとって、イヌを食べる事は、彼らの文化の一つだったのです。
枝幸町で見つかったイヌの骨にも解体された跡が残っていました。 |
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340 |
342オホーツク式土器
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オホーツク人は、食物の貯蔵や調理の道具に粘土でできた容器…土器をたくさん使っていました。
その土器は「オホーツク式土器」と呼ばれ、オホーツク人独特のものです。
オホーツク式土器には、縄目を押し付けた文様や棒の先で土器を突いた「突瘤文つきこぶもん」爪で刻んだ「爪形文」粘土紐を貼り付けた「貼付浮文」など、様々な文様がつけられていました。
特に細い粘土紐を直線と波線に組み合わせた文様は、ズルズルと食べる素麺に似ていることから「ソーメン文」とも呼ばれ、その繊細な美しさは、他に例がありません。
土器は、その模様や形の細かな変化を追うことで、文化の移り変わりを知ることができます。オホーツク文化の場合、主に使われていた土器の型式名や文様命をとって、その時期名がつけられ、
鈴谷期→十和田期→刻文期→沈線文期・貼付浮文期→厚手土器期・トビニタイ期と変化していきます。
目梨泊遺跡からは、網走に多いソーメン文を貼り付けた土器があったり、道北系の素朴な土器があったりと、いろいろな土器が出土しています。
本州や大陸の人々、さらに道内各地のオホーツク人が出会う場所…それが目梨泊遺跡だったのではないでしょうか。 |
オホーツク式土器
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動物骨・骨角器
目梨泊遺跡
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鳥管骨
ちょうかんこつぞく
オホーツク後期8-9c |
手意匠釣針・骨製釣針
後期8-9c、中期7c
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骨製釣針 後期
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骨製釣針中期7c
骨箆 後期8-9c |
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343骨角器 目梨泊遺跡
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骨製針入れ・骨斧
オホーツク後期8-9c |
骨製針入れ・骨斧
オホーツク後期8-9c
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骨製銛頭
オホーツク後期8-9c |
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釣針軸
オホーツク後期8-9c
魚骨ブロック
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344骨角器の製作技術
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オホーツク文化の人々は、動物の種類や部位ごとの骨の性質を見極め、加工して道具にしていました。
また、交流によって手に入れた鉄製のナイフは骨の細かな細工を可能にしました。
オホーツク人は独特の骨角器文化を発展させたのです。 |
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鉄鏃付銛頭
骨ベラ
オホーツク後期8-9c |
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骨角器の製作技術
鳥管骨鏃 |
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350オホーツク人の住居 |
351大人数で暮らす大きな竪穴住居
大人数で暮らす
大きな竪穴式住居
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オホーツク人の家
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オホーツク人の家
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オホーツク人は「竪穴住居」という半地下式の家に暮らしていたんだ。
天井に入口があって、はしごを使って出入りしていたみたい。 |
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オホーツク人の家
天上から出入りする
はしご |
構造展示 |
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棟木が飛び出している
煙り出しか |
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352
入口階段
夏用入口か |
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海獣頭骨 |
アザラシ皮の乾燥
寒冷な戸外が乾燥最適
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クジラ骨か |
アザラシの毛皮 |
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漁撈用おもり |
白樺樹皮の屋根材 |
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食槽 |
ベッド |
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355蕨手刀の手入れ
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蕨手刀は、のちの日本刀の原型になった刀で、柄の部分が山菜の蕨のように曲がっているので、この名前がつきました。
オホーツク文化後半を代表する「宝」で、目梨泊遺跡からは6本が見つかっています。
蕨手刀はほとんどが持ち主と一緒にお墓に埋められていました。お墓に埋めるときに、鞘を外し、金具を分解して、刀としての外見をわざと壊していたことがわかります。持ち主の死とともに刀もその役割を終えたのでしょう。
蕨手刀の持ち主は、その時代ごとに各家庭の代表者が選ばれました。一つの家系に「宝」が集中しないよう、慎重にバランスをとった結果です。 |
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蕨手刀の手入れ |
乾肉づくり |
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胃袋の容器らしい |
干貝・鶏肉 |
干し帆立貝か |
石囲い炉 |
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357
皮革の乾燥 |
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骨塚
なんと骨塚は |
平置きだったんだ |
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熊意匠の食槽 |
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358クマ意匠の容器
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361
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363弓矢と矢筒
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365土器づくりと文様
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オホーツク文化の人々が作った土器は、「オホーツク土器」と呼ばれています。
縄文土器のように複雑な形ではありませんが、どっしりとした実用的なデザインが特徴です。
時代によって、文様が大きく変化するので、土器を観察することで、時間的な前後関係をつかむことができます。
先史時代の土器は、専門の職人が焼いたものではなく、家庭の中で作られました。親から子へと土器作りの方法や文様が受け継がれていったことでしょう。土器を詳しく観察すると、オホーツク人、独特の「くせ」が土器の中に残されています。 |
土器づくりと文様 |
貼付文土器 |
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鹿角・鹿皮
鹿角鹿皮は石器製作の道具です。 |
オホーツク人は鉄不足で石器・骨角器を使用していました。 |
※資料 貼付文土器文化圏の北上
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オホーツク土器では、枝幸町は沈線文系土器文化圏です。しかし、サロマ湖以東の貼付文土器文化が北上してきて、目梨泊遺跡でもつくられるようになったのでしょう。 |
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367土器づくりの練習
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オホーツク人の土器作りは、親から子へと技術が受け継がれました。一般的には、土器作りは、女性の仕事とされているので、子供たちはお母さんから一つひとつ土器の作り方を教わったことでしょう。
オホーツク文化の遺跡からは、子供が作ったと思われる小さな土器が見つかることがあります。あまりにも小さくて実用性は無いのですが、普通の土器と同じようにしっかりと焼かれています。
こうした土器は、子供たちが土器づくりの練習のために作ったものでしょう。完成した土器は、おままごとのおもちゃとして使われたのかもしれません。 |
目梨泊のミニチュア土器 |
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土器作りの練習
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土器作りと模倣 |
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400オホーツク文化の時代 5世紀~9世紀
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北海道の続縄文時代が、終わりに差し掛かる頃、サハリン南部から宗谷北部にかけての地域で、それまでとは全く違う、新しい文化が生まれようとしていました。
オホーツク海と言う環境に高度に適応した彼らの生活様式を私たちは「オホーツク文化」と呼んでいます。
オホーツク文化の人々は、人類史上稀に見る、高度な「海洋適応」を成し遂げ、オホーツク海の恵み“糧(かて)”に日々の生活を送り、オホーツク海を舞台に活発な交易・交流を繰り広げていました。
オホーツク文化の人々が生きた時代は、「国家の時代」でもあります。
大陸では隋・唐と言う強大な帝国が東北アジアへと覇権を広げ、本州では、統一国家「日本」が呱々(ここ)の産声を上げていました。
オホーツク文化の人々は、人類史的にも珍しい「海洋狩猟民」でした。それも、周辺に強力な「国家」がひしめく「歴史時代の狩猟民」だったのです。
オホーツク人が流氷の海で、狩るトドやアザラシは、彼らの暮らしを支えるだけでなく、貴重な交易品として、東北アジア世界に流通したのです。
私たちの町、枝幸には、オホーツク文化、最大の交易拠点「目梨泊遺跡」があります。
また南北50kmを超える枝幸の海岸線には、オホーツク人の生きた証である遺跡が転々と残されています。
オホーツク人の歴史を学ぶ事は、東北アジアの歴史を学ぶこと、そして日本の歴史を外からの視点で学ぶこと。
オホーツク人の視点から私たち自身を見直してみませんか。 |
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401
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オホーツク文化の時代
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オホーツク海に? |
オホーツク文化の時代 |
被甕の土器 (かめかぶり と読むそうな。漢文調の呼び方です)
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オホーツク文化中期(7世紀)、ホロベツ砂丘遺跡 遺跡位置
大正時代から昭和初期に採集された壺形のオホーツク式土器、底面を打ち欠いて、穴を開けていることから、死者の顔に被せた「被甕」の土器と推定される。 |
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402川尻北チャシ遺跡 【オホーツク文化前期/6世紀頃】
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北見幌別川の下流には、かつて広大な湿原が広がっていました。 この湿原には2つの島が浮かんでおり、アイヌ民族によって「チャシ」として利用されてきました。
「川尻北チャシ」と名づけられた小さい方の島には、4つの竪穴住居がのこされていました。 アイヌ文化期の地層の下にオホーツク文化前期の十和田式土器をともなう竪穴住
居が埋まっていたのです。
竪穴住居は、胴がふくらんだいびつな長方形をしています。 住居からは黒曜石の石鏃や槍先、 砥石と一緒に石錘が見つかりました。
石錘は海で使う道具。 このころすでに海での活動が盛んだったことを示しています。
枝幸最初のオホーツク人が集落に選んだのは、 湿原の中に浮かぶ孤島でした。川に近く、舟で海に出るのも簡単で、 見晴らしが良い川尻チャシは優れた防御性集落だったのです。
オホーツク人が枝幸地方に進出したとき、もともと住んでいた人々との間に緊張関係が生じたのでしょう。 「湿原に浮かぶ島」という不思議な立地は、当時の緊迫した状況を反映しているのです。 川尻北チャン(平成20年撮影) |
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川尻北チャシ測量図 |
川尻北チャシ遺跡 |
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川尻北チャシ遺跡 |
クマ足跡文土器片 川尻チャシ遺跡
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川尻北チャシ遺跡から発掘された土器片。
同心円文とクマの足跡のスタンプが押されている。
クマを頂点としてさまざまな動物をまつるオホーツク文化特有の文様といえる。
(拓本/東海大学 木山克彦) |
クマ足跡文土器片 |
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403音標ゴメ島遺跡 オホーツク文化前期~後期 6~9世紀
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枝幸町の南、音標の沖合に浮かぶ無人島、「ゴメ島」には、縄文時代から人間が使っていた痕跡が多く残されています。
オホーツク人がこの島にやってきたのは6世紀頃。ふるさとの宗谷海峡沿岸を旅立ったオホーツク人が、道東方面へと広がっていく足がかりにしたのは、このゴメ島でした。
ゴメ島の大きさは、周囲約2km。樹木もなく、水場もない。この島に住むのは難しかったと思いますが、舟を自由に操ることのできたオホーツク人にとっては、絶好の狩場だったのでしょう。
発見された土器を詳しく分析すると、6世紀から9世紀にかけての400年間にわたって、オホーツク人が繰り返し、この島を訪れていたことがわかりました。
ゴメ島からは枝幸地方では初めてとなる「北大式土器」も見つかりました。道央部を中心に広がった。この土器は、擦文時代の初期のもの。なぜ、この小さな島に石狩地方の土器があるのか不思議です。
ゴメ島は異なる文化の人々が行き交う、「交流の島」だったのかもしれません。 |
松浦武四郎の描いたゴメ島
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幕末の探検家、松浦武四郎は、枝幸海岸を旅した際に、ゴメ島を描き残した。ゴメ島は、江戸から明治にかけて、沿岸を航行する船乗りにとって、良い目印となっていた。 |
音標ゴメ島遺跡 |
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音標ゴメ島
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松浦武四郎の描いた
ゴメ島
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404ホロベツ砂丘遺跡 オホーツク文化中期 7世紀
7世紀のオホーツク文化
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7世紀は、オホーツク文化がその独自性を確立した時期にでもありました。
五角形や六角形の大型住居に複数の家族が同居して、海で狩りを行い、クマを頂点とした動物信仰が広く浸透しました。
また、この時期のオホーツク文化は大陸の影響を強く受けていました。土器は大陸風の形に変化、大陸、製の金属製品も各地で見られるようになります。
オホーツク文化は、大陸の影響によって、独自の文化を築き上げていたのです。 |
五角形の竪穴住居(ホロベツ砂丘遺跡)
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オホーツク文化中期を代表する遺跡の一つ。この時期、オホーツク文化特有の「多角形住居」が完成した。
住居の中心には、石囲い炉、さらに炉を囲むように「コ」の字形の粘土が貼られている。写真の左下に見える溝は前例がないが「排水路」とされる。 |
7世紀の律令国家
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7世紀になると、本州では、律令国家「日本」が誕生します。ただし、当時の王朝の勢力範囲は、東北地方の南部まで。東北北部から、北海道にかけては、「まつろわぬ民」の世界が広がっていました。
この時期、北海道ではオホーツク文化の遺跡が急増します。サハリンから道北、道東、千島にかけてのオホーツク海沿岸が彼らの勢力圏に入ったのです。
枝幸地方はオホーツク人の重要な根拠地として、遺跡数も増加します。
北見幌別川の河口では、ホロベツ砂丘遺跡が作られました。目の前に広がるオホーツク海の恵みが彼らの生活を支えたのです。 |
ホロベツ砂丘遺跡
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7世紀のオホーツク文化
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五角形の竪穴住居
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クマに見えますか?
ホロベツ砂丘遺跡
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7世紀の律令国家
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405目梨泊遺跡 オホーツク文化後期 8~9世紀頃
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サハリンから千島にまで勢力を広げたオホーツク文化は、8世紀になると、大陸からの影響が弱まり、それぞれの地域ごとにグループ化が進みます。
同時に、本州の統一国家「日本」の影響力が強くなり、蕨手刀などの本州製品がオホーツク文化の世界にも入ってきます。
目梨泊遺跡は、オホーツク文化最大の集落、遺跡であるとともに、オホーツク文化後期を代表する「交易拠点」です。
広くて波の静かな入江は、良い船着き場になりました。また、神威岬は、古代の船乗りにとって絶好の目印になったことでしょう。
目梨泊遺跡は、大陸の人々だけでなく、影響力を強めていた「日本」との交易の窓口として栄えました。
北と南の異文化が交わる場所、それが目梨泊だったのです。 |
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406北海道-本州歴史対比年表
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旧石器-縄文草創期
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縄文早期
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縄文前期-晩期 |
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続縄文前期(弥生)
-後期(古墳) |
続縄文後期―擦文
オホーツク
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アイヌ文化期 |
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407揺籃の地。宗谷海峡 (宗谷海峡は1.2万年前頃に成立した。水深40m)
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本州で古墳時代が終わりを告げる頃、北辺の地、宗谷地方では新しい文化が誕生しようとしていました。
北海道の続縄文時代の終末期、宗谷海峡周辺に暮らしていた続縄文人にサハリン北部から来たグループが接触し、「オホーツク文化」が生まれました。 (※形質的に北方民族でもなく、続縄文人でもない、その混血のオホーツク民族の誕生です。)
オホーツク文化の初期の「鈴谷式土器」には、古くからの伝統である「縄文」が見られますが、
次の段階の「十和田式土器」では、縄文は姿を消し、オホーツク文化の独自性が強くなります。
十和田式土器を使う「前期」になると、生活様式もオホーツク文化の特徴となる「海洋適応」が進み、海の生活に適した道具類が見られるようになります。
【※海洋適応した北方系民族がサハリン南部から北海道沿岸に進出するには、混血して続縄文人と合一するしかなかったのかもしれない。
朝鮮半島人が北部九州に進出した時、やはり、まず、混血民族が生まれ、それから半島人の進出が始まった。
その際、混血集団はまず、南島の貝交易の海洋民として活躍した。
靺鞨などと混血した続縄文人は、彼らから海洋航海や漁撈・海獣狩猟などを学んで、十和田式期には、オホーツク人となったようだ。】
オホーツク文化の初期から前期段階の遺跡は、宗谷海峡を巡る地域に集中します。(※サハリン南端や稚内地域に居たという意味)
オホーツク人は、宗谷海峡周辺を故郷として、日本海、オホーツク海沿岸に広がっていきました。舟を操ることができたオホーツク人は、海路を使って比較的短期間で、長距離を移動できたと考えられます。
日本海の奥尻島、太平洋に面した、根室の弁天島にも、オホーツク文化、前期の遺跡が残されています。
宗谷海峡を旅立った、オホーツク文化、前期の人々は、北海道全域に広がる続縄文人の勢力圏内に入っていくことになります。
そのためか、この時期の集落は、北海道本島から離れた「島」か、岬の先端のような防御的に優位な場所を選んでいます。
オホーツク人にとって、北海道沿岸部への拡大は命がけの冒険でした。 |
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408オホーツク文化前期の動き
樺太南部~宗谷岬周辺に鈴谷式土器の続縄文人がいた。北方にはアムール流域の靺鞨もいた。 |
オホーツク文化の形成地域
宗谷岬~樺太南部の続縄文人が、樺太北部から南下した靺鞨と融合してオホーツク人となる。 |
オホーツク人の南下
靺鞨との混血民族が交易活動のために拡大する。
鈴谷式→十和田式
日本海を奥尻へ
オホーツク海を根室まで到達 |
鈴谷式土器
(樺太南部の遺跡)
縄文の名残のある土器
(靺鞨系櫛目文・続縄文系縄文の混血の証拠) |
十和田式土器
(樺太南部の遺跡)
混血民族らしい創造的な意匠の発展が行われた |
※再度確認 新知識発見 オホーツク人の起源
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9年前、東北北海道の取材旅行の最後に網走に行ったのは、「謎の民族オホーツク人」とか「トビニタイ文化」を不思議な文化。などの
キャッチフレーズに引き寄せられたからだ。行ってみると、いや、オホーツク人はアムール川流域から南下してきた民族だ。というはなしで、
な~んだ。わかってるじゃん。謎の民族とちゃうやん。と今日まで思っていました。
しかし、9年後、ここ、「オホーツクミュージアムえさし」を取材して、それもまた違っていたと知りました。
北大が遺跡から発掘された人骨を遺伝子解析した結果、続縄文人(北海道縄文人とサハリン南部の縄文人)と、北方から南下した民族との混血
(混血との言葉はよくないのか、融合と言っているが、、これってFuckと同意語いやらしいイメージがするので、混血と言いたい)
民族が誕生し、鈴谷式土器期から十和田式土器期に至る間に新しい民族が誕生したようだ。
これによって新たに海洋狩猟と交易の民が生まれ、オホーツク海沿岸や日本海沿岸の続縄文人と軋轢を起こしながら
彼らより優れた航海と狩猟の技術で各地に進出していった。
これがオホーツク人であることがわかった。 |
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目梨遺跡の副葬品
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410交流・交易 |
411金銅装直刀の発見 目梨遺跡出土品
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平成30年8月。枝幸町北部、オホーツク海を望む「目梨泊遺跡」で発掘調査が行われていました。調査に参加したのは、
札幌大学の川名広文教授とそのゼミ生、ミュージアムボランティア、そして、地元の北海道枝幸高等学校の生徒たち。町外の研究者と地域住民がともに「ふるさと枝幸」の歴史を再発見することを目的とした、枝幸町の取り組みの一つです。
調査2日目。高校生が見つけ出したのは、紛れもない古代の刀の部品。「足金具」と呼ばれる、鞘を帯から吊るすための刀装具の一つでした。
さらに調査を進めると、足金具の周囲から大小二本の直刀が見つかりました。
早速、ミュージアムに持ち帰って洗浄したところ、刀装具は黄金色に輝き、花びらのような繊細な彫刻が浮かび上がりました。
北海道で初めてとなる豪華な武具、「金銅装直刀」の発見です。 |
宝相華文と鍍金
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金銅装直刀の名前の由来は、「銅」で作った刀装飾具の表面を「金」で飾っていること。当時の先端技術である水銀を使った「鍍金」(金メッキ)が施されています。
刀装具の表面には、花びらのような美しい「宝相華文」が彫り出されています。宝相華文とは、中国の唐の時代に広まった、仏教系の文様で、日本には奈良時代に伝わりました。
さらに、宝相華文の隙間を埋め尽くすように「魚々子」が打ち込まれています。魚々子も中国由来の吉祥文の1つ。この足金具に刻まれた魚々子の直径は、わずか0.7mmと言う小さなものです。当時の高い製作技術が伝わってきます。 |
宝相華文と鍍金 |
足金具の文様
元興寺文化財研究所 |
蒔絵
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蒔絵は、漆を使った日本の伝統的な工芸技術。漆を塗った表面が乾かないうちに、金や銅などの金属粉を蒔いて定着させたものです。京都造形芸術大学の岡田文男教授の分析によって、金銅装直刀の表面に「錫の粉」による蒔絵が施されていることが判明しました。
日本最古の蒔絵は、奈良時代(710~784)とされていますので、オホーツク文化期後期(8~9世紀)のこの刀は、蒔絵の起源を考える上で重要な発見になりました。 |
刀の持ち主
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見つかった「金銅装直刀」は、鞘から外され、刀装具を分解した状態で見つかりました。これは、オホーツク人が刀を墓に副葬するときに行う儀礼の一つです。目梨泊遺跡では、墓の上を海岸から集めてきた美しい玉砂利で飾ります。ところがこの墓は玉砂利で飾られていましたが遺体を寝かせることができる大きさの「あな」が見つかりませんでした。
金銅装直刀の持ち主=「墓の主」は、いまだに謎のままです。 |
蒔絵の痕跡
米粒状の粒子が蒔絵に使った錫の粉
京都造形芸術大学 |
蒔絵の痕跡 |
刀の持ち主 |
発見時の金銅装直刀
鍔の部分 |
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412海を舞台にした交流
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枝幸町目梨泊遺跡が最盛期を迎えたのは、オホーツク文化後半の8世紀から9世紀。日本の歴史では、奈良時代から平安時代前期にあたります。「金銅装直刀」が作られたのも、この時代と考えられます。
この時代、中国大陸では、「唐王朝」が大帝国を築き上げ、その影響は東アジア全域に及びました。同じ頃、本州では、畿内を中心に誕生した律令国家「日本」が東北地方に向かって勢力を広げつつありました。
オホーツク文化の人々は、北方のアムール川、流域に暮らす「靺鞨文化」の人々と交易を行ってきましたが、8世紀を境に南へと目を向けることになります。(唐による靺鞨の弱体化)
オホーツク人が新たに交易の相手としたのは、「日本」とその影響下にある人々でした。
目梨泊遺跡は、オホーツク文化の人々が「南」の文化と交流するための、最大の拠点でした。「金銅装直刀」は、海を舞台に繰り広げられた、オホーツク人の活発な交流を物語っているのです。
※奈良時代に既に大和政権の交易船が目梨泊や網走・知床付近まで来ていたようです。対馬海流に乗って日本海航路で宗谷海峡を越えて来た。
きっかけは、660年 阿倍比羅夫が奥尻島の粛慎(オホーツク人)を討った事で、地理的発見が広がり、北海道との交易が盛んになったため。 |
オホーツク文化の北方交易 交易対象は黒水靺鞨(8世紀半ばまで)(ツングース人)
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オホーツク文化の中期にあたる7世紀から8世紀半ばにかけて、大陸の「靺鞨文化」に由来する装飾品や道具などが流入します。 |
オホーツク文化の
北方交易 |
重要文化財青銅製帯飾り(目梨泊遺跡) |
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※考察 オホーツク人と秋田城和人との交易
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7世紀中期に奥尻島の拠点を失ったオホーツク人は、それでも、8世紀前葉の黒水靺鞨の没落に伴って、秋田城の和人との交易を行なった。
しかし、目梨泊と秋田城の間には、擦文人の支配する広大な北海道日本海側が広がっている。
660年の秋田城の阿倍比羅夫による「粛慎討伐」は、オホーツク人と擦文人との対立戦闘に因るもので、この時までは擦文人を押さえて優位に立っていたが、逆転した。そして、阿倍比羅夫に対して朝貢を行なうことで和睦した。(擦文人も謝礼に朝貢したらしい。依頼した擦文人も、負けた粛慎もどちらも得はしなかった。結局和人に支配され、財物を取り上げられるきっかけてなってしまった。)
この秋田城への朝貢が、オホーツク人の南方交易に発展していったのだ。オホーツク人は朝貢を理由に南に航海したのだから、途中の停泊などは安全が保証されたのかもしれない。
一方、蝦夷と呼ばれる擦文人は、太平洋側の多賀城に対して交易を行なっていた。この交易は大規模なもので、多くの和人が関わっていたが、やがて大和政権が交易利権を奪取するために太平洋側での交易を禁止し、日本海側の秋田城に移したために大和政権と蝦夷との対立の原因ともなり、当時の北伐ともあいまって、交易に参加していた多くの和人が石狩低地に移住逃亡し、このことによって、当時はすでにアイヌ文化期、に和人の文化が取り込まれることになり、北海道原住民の和人との混血化も進んだ。 |
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413高校生が見つけた地域の宝
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平成30年8月。目梨泊遺跡で13回目となる学術調査が始まりました。
参加したのは、札幌大学の川名広文教授とそのゼミ生、ミュージアムボランティア、そして地元の北海道枝幸高等学校の生徒のみなさん。
研究者と住民が一緒になって、地域の歴史を掘り起こそうと言う枝幸町の取り組みの一環です。
枝幸高校生の6人は、「総合文化研究部」の部員。はじめての発掘調査に向けて、部活の時間を使って準備を進めてきました。
発掘面積は2×4m、わずか四日間と言うささやかな調査ですが。発掘開始から2日目に大きな発見がありました。
発見したのは、枝幸高校3年生(当時)の広田致麻君と黒木雄登君。
後に「金銅装直刀」と命名された北海道初となる貴重な宝を掘り当てたのです。
金銅装直刀の発見は、オホーツク文化の新たな一面に光を当て、北海道の歴史の豊かさを私たちに再確認させてくれました。
「地域の力」が掘り出した、枝幸町の宝です。 |
高校生が見つけた地域の宝物
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発掘終了
僅かこれだけの場所で大発見がなされた。 |
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415金銅装直刀の持ち主は誰?
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目梨泊遺跡で見つかるオホーツク人の墓は、その多くが遺体の顔に土器を逆さに被せ、体を伸ばした姿勢で葬られています。墓の上には、海岸から集めてきた「玉砂利」をマウンド状に飾るのも特徴です。
今回発見された「金銅装直刀」の周囲にも、厚く「玉砂利」が堆積しており、ここが「墓」である事は明らかです。そこで、刀の発見から1年後の令和元年8月、刀の持ち主が埋葬された墓の発掘調査を行いました。当然、遺体を納めた細長い墓穴が見つかると予想していました。
ところが予想に反して「墓穴」は直径1m余りの円形になりました。この大きさでは、遺体を収めるのは困難です。
穴の中からは、刀の鞘尻金具、オホーツク式土器の底部、クジラの骨が見つかりました。そして、穴の一番底の部分には、人の頭ほどの大きさの石が置かれていました。
どうやら何らかの理由で、実際の遺体を被る事ができなかったようです。
刀の持ち主は誰なのか…
「謎」だけが残されました。 |
第42号土壙墓の副葬品
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オホーツク文化の埋葬儀礼に則って副葬品が納められているが、遺体を埋葬した痕跡が見当たらない。 |
第42号土壙墓の副葬品 |
金銅装直刀・小刀
墓壙上面砂利層上面 |
鯨骨片
-墓壙底面壁際
人頭大円礫
-墓壙底面中央 |
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壺形土器底部
-墓壙中砂利層下面に正立
鞘尻金具
-墓壙中砂利層下面 |
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安山岩製石錘
小ピット(溝)上面 |
※考察 埋葬
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海洋狩猟民である一方、海洋交易民であるオホーツク人は、当然あのような小型の舟で荒波を乗り切るので、遭難はつきもの。
子供の頃第二次大戦で戦死した家族の元に返された骨箱の中に石ころが入っていたと怒り、泣き崩れる話を聞いたことがある。
弥生時代に貝交易を行っていた半島人と北部九州縄文人との混血の墓が航路の各地に残されていた。季節風と共に航海をする運行では、遺体を船に乗せて運ぶわけにはいかないから、死んだところに埋葬される。
ではその家族はどのように埋葬儀式をするのか。それは、現代の漁師や船員、又は遺体の消滅した死者の遺族に関わることである。
オホーツク人にとっては少なくない埋葬例であっただろう。
神威岬の円礫を頭部に見立て、被甕をし、死後は巨大な鯨となって現れよと、鯨骨を体に見立てて埋葬し、最後に社会的地位を示す宝飾品を墓の上に置く。
驚いたのは、墓の上に置いた刀剣が千年もの間そのままであったこと。動かすのは風雨雪、カラス、そして人。
宝飾品は、主が死してなお威厳があり、盗難に遭わなかったようだ。交易で富んだ社会であったが「一族一刀」の長のあかし。
壊されて墓に置かれてもなお燦然と強烈な威光を放っていたようだ。そして人々は死者に対して敬虔だったのだ。
やがて時は流れ、考古学に興味を抱いた高校生たちが、発掘に携わり、まごうことなき過去の栄光を目にしたときには、驚きと、感動と、成功感でこころ打ち震えたでしょう。 |
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416有孔石錘
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ひもを結びつける「孔」を開けた安山岩製の錘です。釣りや漁のとき、または舟の碇と推定されています。
金銅装直刀が発見されたすぐ近くに立てて安置されていました。オホーツク人の埋葬儀礼に関係するのかもしれません。 |
金銅装直刀の修理について
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目梨泊遺跡から出土した「金銅装直刀」は、奈良県の公益財団法人元興寺文化財研究所に依頼し、一年をかけて修復しました。
なお、修復費用は、公益財団法人、三菱財団から、文化財修復事業助成として支援いただきました。明記して感謝申し上げます。 |
金銅装直刀の修理 |
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修復した直刀は樹脂製の台だけでした
本物はどこだ
どこへ持って行きやがった
馬鹿にしちょるのう
せめて写真ぐらい置いとけよ |
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420墓制
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421墓制の地域性
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423墓制の地域性
墓制の地域性 |
墓制の地域性
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礼文島から東・オホーツク海側への伝播
前期
前期の墓制
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前期の墓制
■礼文島 利尻島
主要遺跡 / 浜中遺跡群
特徴
屈葬主体
頭位は一定しない
中~大型礫の配石
被甕のはじまり
鉄製利器・骨角器を副葬 |
■浜中2遺跡/前田潮氏撮影 |
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中~後期
(枝幸、交通・交易の中継点枝幸では次々と押し寄せる新しい風潮に、墓制は独自展開していった)
枝幸型墓制 中~後期 |
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枝幸型墓制 中期~後期
■オホーツク海北部沿岸
主要遺跡 / 目梨泊遺跡
特徴
伸展葬主体
南西頭位
砂利マウンド状配石
被甕あり
鉄製利器・威信財を副葬 |
■目梨泊遺跡/枝幸町教育委員会 |
移住・地域展開(墓制の継承)
(網走では、直接移住で、前期礼文島の墓制を引き継いでいる。) |
網走型墓制 中~後期 |
網走型墓制 中期~後期
■オホーツク海南部沿岸
主要遺跡 / モヨロ貝塚
特徵
屈葬主体
北西頭位
中~大型礫の配石
被甕あり
鉄製利器 威信財を副葬 |
■モヨロ貝塚/米村衛 2004年
「北辺の海の民」より |
網走から
根室へ
根室型墓制 中~後期
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中期-後期
根室型墓制 中期~後期
■知床半島~根室半島~南千島
主要遺跡/弁天島遺跡
特徴
屈葬主体
北西頭位
墓壙上を配石で飾る
被甕がない場合が多い
鉄製利器を副葬 |
■相泊遺跡/罹臼町教育委員会 |
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羅臼~根室一帯で、
墓制の変容が起こる
終末期 |
終末期の墓制 |
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終末期 終末期の墓制
■知床半島南岸~根室半島
主要遺跡/伊茶仁遺跡群
特徵
屈葬·伸展葬混在
北西頭位
部分的な配石
被甕なし
副葬品少ない |
■伊茶仁カリカリウス遺跡
標津町教育委員会 |
礼文島から西・日本海側への伝播
前期
前期の墓制
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前期の墓制
■礼文島 利尻島
主要遺跡 / 浜中遺跡群
特徴
屈葬主体
頭位は一定しない
中~大型礫の配石
被甕のはじまり
鉄製利器・骨角器を副葬 |
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前期
↓墓制の断絶 が起こる(新たな世代のオホーツク人集団が礼文島に入植したのかもしれない。)
中期 |
中期~後期
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礼文型墓制 中~後期 |
礼文型墓制 中期~後期
■礼文島・利尻島~日本海沿岸
主要遺跡 / 浜中遺跡群
特徴
屈葬主体 (一部伸展葬 )
北西頭位
配石なし
被甕なし
鉄製利器 骨角器を副葬 |
■浜中2遺跡/前田氏撮影 |
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中後期の利尻・礼文と奥尻島は、移住・地域展開で強い関連性。
(奥尻のオホーツク人墓制の断絶した礼文人が移住して同じだった。) |
奥尻島の墓制
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【オホーツク文化後期】
地域毎に異なる墓制の出現
【同じ墓制を持つ地域集団】
共通する祖先・同族意識 |
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424オホーツク人の墓所
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サハリンから、北海道、千島かけて広がったオホーツク人は、たくさんの遺跡を残しましたが、「墓」が発見された遺跡は決して多くありません。
墓は、特定の遺跡に集中する傾向があり、枝幸町の目梨泊遺跡や、網走市のモヨロ貝塚がその代表例です。
特に網走川の河口に作られたモヨロ貝塚は、戦前から多数のオホーツク人の墓が見つかっていました。
これまでの発掘調査で確認されたオホーツク人の墓は約500基。このうち300基以上がモヨロ貝塚で発掘されているのです。
オホーツク文化は、中期(刻文期)に大陸の影響を受けて、急速に勢力を拡大しますが、この時期の墓は、ほとんどがモヨロ貝塚に集中しています。
モヨロ貝塚がオホーツク文化世界全体の「場所」だったのかもしれません。
それぞれの地域ごとに墓が作られるようになるのは後期に入ってから。目梨泊遺跡もモヨロ貝塚に並ぶ拠点集落に発展します。 |
墓壙数の変遷 |
➀刻文期(中期)
7世紀頃
②沈線文期(後期前半)
8世紀前半頃
③貼付浮文期(後期前半~後半)
8世紀~9世紀 |
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・初期刻文期、モヨロ貝塚38
・中期沈線文期、礼文・目梨泊・モヨロ同数
(中期の繁栄集落がこの3村)
・後期貼付文期、目梨泊・常呂・モヨロともに増加
(大規模集落化。人口増加が原因か) |
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425枝幸地方の墓制
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考古学では「墓」の研究を重視します。
墓から当時の人々の宗教や世界観がわかるだけでなく、葬られた人物の年齢や性別、副葬品や墓の構造を調べることで、「社会」が見えてくるのです。
こうした墓にまつわる考古学的に残された情報を「墓制」と呼んでいます。
枝幸地方のオホーツク人は、目梨泊遺跡を中心に独自の墓制を作り上げました。 |
枝幸地方の墓制 |
体を伸ばした遺体の痕跡(目梨泊遺跡) |
体を伸ばした遺体の痕跡(目梨泊遺跡)
目梨泊遺跡は、土壌成分の影響で、1000年の時間の経過とともに、遺体は土に還っていた。
この墓では墓の底に体を伸ばしたまま葬られた遺体の痕跡が「しみ」となって残っていた。
(写真写りが悪くシミが見えないのでこのまま) |
目梨泊遺跡の墓壙構築プロセス
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目梨泊の人々は、縄文時代以来の伝統である「屈葬」をやめ、死者の体を伸ばした状態で葬る「伸展葬」を始めました。調査結果から次のようなプロセスが考えられます。 |
目梨泊遺跡の墓壙構築プロセス |
目梨泊遺跡の墓壙構築プロセス
①墓壙を掘る
②遺体を伸展葬にして「被甕」する。
③掘り上げ土を埋め戻す。
④マウンド状に盛り上げた墓に砂利をまく。
⑤~⑥遺体が分解して、地表面が沈下する。
⑦土壌が堆積して埋没する。
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伸展葬と言う風習は、オホーツク人のもともとの伝統にはありません。外部からの強い影響によって誕生した新しい文化です。
この埋葬方法を「枝幸型墓制」と呼び呼びたいと思います。枝幸型墓制は、枝幸から紋別地方にわたって広がっていました。 |
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430装い
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431オホーツク人の装い
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オホーツク人がどんな服装をしていたのか、実はよくわかりません。しかし、遺跡からは、質の良い毛皮を取ることができる動物の骨がたくさん出てくるので、毛皮を利用していた事は間違いありません。
特にラッコやアザラシといった海獣の毛皮は、寒さを防ぎ、水にもつよいので、オホーツク海沿岸の狩猟採集民に広く利用されてきました。オホーツク人も積極的に活用していたことでしょう。また、こうした海獣の毛皮は、大陸や本州の人々と交易するための貴重な資源になりました。
オホーツク人は、歯を使いすぎて磨り減った状態で見つかることがあります。これは、毛皮の「皮なめし」のような作業に、歯を使いすぎた結果ではないかと言われています。
オホーツク人の女性や子供は、ガラス玉や琥珀玉の、ネックレスを身に付け、金属製のイヤリングで身を飾っていました。
こうした装身具のほとんどは大陸からもたらされたものです。オホーツク人は、大陸風の装いを好んでいたのでしょう。
こうした装身具は、現在では想像できないほど貴重な品でした。オホーツク人は毛皮との交換で、こうした品を手に入れていました。
※不確かなことは言わない考古学だが、希少動物の高価な毛皮と超高価な装身具だけを交換していたわけではなく、のちのアイヌと同じように、食糧なども交易対象に含まれただろうし、装身具の前に衣類なども交易で入手していたはずです。
言い換えれば、装飾品や威信材などの入手は生活が満たされた後の品で、まず、衣食満ち足りてのちに、ぜいたく品を入手したのでしょう。
従って、大陸製の植物製の衣類や、高価な絹なども衣類の中にはあったのだろうと思われます。
毛皮だけを着ていたわけではないないと思われます。そのための交易でしょう。 |
軟玉製環飾
目梨泊遺跡 |
滑石で作られた環形の装飾品。
オホーツク人の耳元や胸元を飾っていた。
本州では類似した資料がないため、大陸からもたらされたものと考えられる。 |
ラッコの像
(北見市常呂川河口遺跡) |
海獣の牙で作ったラッコの像。ラッコは、現在、オホーツク海沿岸には生息していないが、当時は狩猟の対象だった。
ラッコ像は装身具・交易品出なく玩具?
ラッコ毛皮は高価な交易品。豊猟を祈る宗教対象だったか。 |
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432オホーツク人の装束
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※なんだか、考えられるものを無理やり頭から被せたような装束です。
ちょっと無理がある。
網走市の北方民族博物館をご覧ください。 |
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440目梨泊遺跡の発掘 |
441
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目梨泊遺跡は早くから、オホーツク文化の遺跡として知られていました。昭和40年代に北海道大学が7年にわたって発掘し、昭和62年には国道の改良工事によって枝幸町教育委員会の大規模調査が始まりました。
現在、ミュージアムに展示している資料のほとんどは、このときの出土品です。その後も、調査が筑波大学、札幌大学へと引き継がれ、目梨泊遺跡の解明が少しずつ進んでいます。 |
遺跡空撮 |
北から見た目梨泊 平成4年撮影
神威岬川から目梨泊遺跡を見下ろす。
小さな川が開いた複雑な舌状台地が連続する。
背後に見えるはリキビリ山 |
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発掘開始
(昭和62年撮影)
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神威岬を望む発掘現場。目梨泊。遺跡の大規模調査はこの年から始まった。 |
住居跡の発掘
(平成18年撮影)
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目梨泊遺跡の形成期に作られた7号住居跡発掘する札幌大学・河野博文ゼミの学生たち。
目梨泊遺跡の発掘を経験して、考古学の世界に入った学生もいる。 |
海岸の作業は?
(平成23年撮影) |
オホーツク海を望む目梨泊の海岸で見つかった「作業場」。
たくさんの柱が見つかったので、作業をするための小屋か、海岸を守るための「柵列」と推定される。 |
遺跡分布の広がり
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アイヌ文化期のチャシ跡
約500年前
ウバトマナイチャシ
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擦文文化期の遺跡
約1000年前
ホロナイポ遺跡
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オホーツク文化期の遺跡
約1200年前
目梨泊遺跡
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縄文文化期の遺跡
約2000~8000年前
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442石錘の使い方
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オホーツク文化に特有の道具に「石錘」と言うものがあります。
石錘は「石のおもり」と言う意味で、紐を結びつけるための「孔」や「溝」があります。
オホーツク文化の遺跡では、特に珍しくない出土品なのですが、実は使い方がよくわかっていません。
目梨泊遺跡では、この石錘が100点以上も見つかっています。中には、火で焼かれたものや、作る途中で、失敗したもの、壊れたものなど、様々な段階の石錘が見つかっています。
目梨泊遺跡から見つかる石錘のほとんどは「輝石安山岩」と言う石を使っています。
大きさは2kg位もある。重いものから、数百グラム程度の小さなものまで、実に様々、形はほとんど同じですが、大きさがまるで違うのです。
オホーツク人の遺跡からは、魚の骨がたくさんに見つかるので、石錘は「網のおもり」と考えられてきました。
また、石錘を研究している北海道埋蔵文化財センターの福井淳一さんは、「釣り針のおもり」ではないかと推理しています。「さらに、大きな石錘については「舟の碇石」ではないかと言う説もあります。 |
北方民族の船チュクチ
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目梨泊遺跡は、オホーツク人にとって貴重な「交易拠点」でした。大陸や本州の人々、あるいは、各地のオホーツク人たちが神威岬を目印にこの地へと船でやってきたことでしょう。
目梨泊遺跡に残されたたくさんの石錘は、舟による活発な活動を物語っているのかもしれません。 |
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※オホーツク人の船
オホーツク人はアイヌの板綴舟のような準構造船ではなく、立派な構造船を使っていました。
当然このような船でなければ氷海での海獣狩猟や、長期の航海などできるはずがありません。
それに第一、列島からやってくる船が、大陸の船が、みんな構造船なので、原始的な丸木舟を使う事はなかったのです。 |
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石錘の使い方 |
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小型の石錘
目梨泊遺跡
穴を開けたタイプの石錘が多く見つかっている |
北方民族の舟
(チュクチ)
写真左上は「碇石」の可能性のある大型石錘 |
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小型石錘
オホーツク後期8-9c |
骨製釣針
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443オホーツク人と穀物
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目梨泊遺跡の発掘調査では、どんな細かい資料も見逃さないように、住居跡を1m四方に区切って、床面に溜まった土を全て水洗いしました。
こうすることで、「植物のたね」のような細かい遺物も取り上げることができるのです。
第4号住居跡の床面を分析したところ、オオムギやアワ、キビといった穀物の炭化した種子がたくさん見つかりました。
オオムギは日本列島のものとは少し形が違っており、大陸から運ばれたものと考えられます。
こうした穀物は、「海洋狩猟民」のオホーツク人にとってはなかなか手に入らない貴重品。穀物は、貯蔵用の大きな土器に入れられ、住居の奥、骨塚の横の角に大切に保管されました。特別な日にだけ少しずつ食べたのかもしれません。 |
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オホーツク人と穀物 |
炭化種子
アワ・オオムギ |
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貯蔵用の大型土器 |
オオムギとアワの出土分布 |
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小型土器
オホーツク後期8-9c
目梨泊遺跡
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球根で増える菜っ葉
明日葉みたいにどこにでも生えている |
エゾエンゴサク塊茎
オホーツク後期8-9c |
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オオムギ炭化種子
オホーツク後期8-9c
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オオムギ
ひげが長いのがオオムギ
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※北方系と温帯系
オホーツク人が食べたのは北方種のオオムギ
一方、擦文人が栽培したのはヤマトから持ち込まれた品種。
北海道では北方種が有利 |
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444子供たちの土器
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オホーツク人の遺跡を発掘していると、時々、指の先ほどの小さな土器を見つけることがあります。
こうした土器は「ミニチュア土器」と呼ばれ、実用性のない道具として分類されます。
ミニチュア土器の特徴は、作り方が下手なこと。厚さが均一でなかったり、歪んでいたりと、実際に使える道具ではありません。
しかし、ミニチュア土器をよく見ると、大きな土器と同じように「ひもづくり」で作られていたり、稚拙ですが、オホーツク土器特有の文様をつけているものもあります。
何より驚かされるのが、こんな素朴な土器でも大きな土器と同じ様にしっかりと焼かれていることです。
オホーツク人の子供たちが、母親の真似をして土をこね。他の土器と一緒に焼いてもらったのかもしれません。出来上がった後はままごと遊びに使ったのでしょうか。そうやって子ども達は土器づくりの技術を身につけていきました。
現在よりも衛生状態が悪いため、当時は子供の死亡率が高く、「子供の墓」も数多く見つかっています。
現在と比べると、オホーツク人の時代は、子供たちにとって必ずしも暮らしやすい世界ではありませんでした。ですが、ミニチュア土器を見ていると、今と変わらない子供たちの笑顔が浮かんできませんか。 |
目梨泊遺跡の出土品
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子供たちの土器 |
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ミニチュア土器
目梨泊遺跡 重文 |
ミニチュア土器いっぱい(目梨泊遺跡)
ミニチュア土器はいずれもしっかり焼かれているが、破損の無い完成品は少ない |
ガラス玉 (目梨泊遺跡・1号土壙墓)
子供の墓に副葬品として供えられていた。 |
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目梨泊遺跡の出土品
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水鳥文土器
オホーツク後期8-9c
目梨泊遺跡
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海獣意匠土製品
オホーツク中期7c
ホロベツ砂丘遺跡 |
クマ意匠土製品
オホーツク後期8-9c
目梨泊遺跡
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ミニチュア土器
オホーツク後期8-9c
目梨泊遺跡
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遺跡から「小さな土器」 が見つかることがあるんだ。
子どもが大人のまねをして作っていたみたい。 おもちゃと
して、おままごと遊びにつかっていたのかな?
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445オホーツク人の家畜
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犬は、古くから狩りのパートナーとして人間に飼われてきましたが、オホーツク人の家庭では、主に食用にされたと考えられます。
東北アジアには犬を食べる習慣が広がっており、大陸の文化の影響を強く受けたオホーツク人も同じ食習慣を持っていました。
一方で、犬は儀式的な扱いを受ける場合もありました。前足がない状態で埋葬された犬や、前足の骨に加工した儀式用の道具が見つかっています。
オホーツク人は「カラフトブタ」と言うブタも飼っていました。犬と同じように大陸から連れてきたものです。
遺跡から、解体されたブタの骨が見つかることがあります。
イヌやブタの飼育は、大陸の影響が強くなるオホーツク文化中期(7世紀頃)を中心に盛んになりますが、
オホーツク文化が北海道の各地に土着化する後期(8~9世紀)には廃れてしまいます。
イヌやブタは「生きた保存食」として、厳しい冬を生き抜くために、オホーツク人の暮らしを支えたのです。 |
北方、民族の飼っていた犬
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北方地域に暮らす狩猟民族にとって、イヌは生活に欠かせない存在だった。特に犬ぞりを引く「使役犬」としてたくさんの犬が飼われていた。
※オホーツク人の飼っていた犬はカラフト犬
南極観測で有名になった使役犬です。犬ぞりをひかせるために連れて行きました。タロ・ジロはその子孫。
基本的にカラフト犬やカラフト豚は放し飼いが行なわれていました。
しかし、現代ではエキノコックス症の問題や野犬狩りで、また、ロシアでは大食が問題視され、両国で純血種は失われ、ほぼ絶滅状態だと言われています。 |
装飾された犬の前足 (礼文町香深井遺跡)
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犬の前足に金属器で細かな装飾を彫刻したもの。加工痕のある前足が、利尻島や枝幸町でも見つかっている。
※なぜ犬の前足に装飾をしたのでしょう。豚は放し飼いだったそうですが、犬は使役するために人との距離も近かった、かわいがっていたと思われ、
食べてしまった後に、その記念物としてよく働いた前足に装飾して取っておいたのでしょうか。
植村直己氏のアラスカ紀行では、犬ぞりを引いて動けなくなった犬がその夜のごはんとして出てきてびっくりしたというのがありました。
案外使えなくなるとあっさり、ばっさりと、やっちまうようでした。1頭飼いの愛玩動物ではなく多頭飼育の使役犬の場合は執着は少ないのかもしれません。所詮は経済動物兼食糧ですから。 |
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446カラフトブタ
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オホーツク人は、カラフトブタと言うブタを飼育していました。
当時、北海道にはブタもイノシシもいません。オホーツク人は、大陸から連れてきたカラフトブタを大切に飼っていたようです。
ブタを飼育するというのは、大陸のアムール川、流域に広がった靺鞨文化の人々の風習です。オホーツク人は、靺鞨文化の影響を強く受けた、オホーツク文化中期(7世紀)を中心にブタ飼育を行っていました。
一方、ブタを食用にするためには、餌をたくさん食べさせて太らせなければなりません。
海洋狩猟民のオホーツク人にとって豚の飼育はあまり効率が良いものではありませんでした。
やがてオホーツク人が北海道に根付くようになると、ブタの飼育はすたれてしまいました。 |
カラフトブタ |
解体されたカラフトブタの足の骨
(ホロベツ砂丘遺跡)
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450狩猟
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451オホーツク海の狩人
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オホーツク人にとって、目の前に広がる海が暮らしの支えでした。
彼らの生活の中心は沿岸での漁業と海獣狩猟。
魚はサケ・マス、カレイ、オヒョウ、ニシン、コマイ、ホッケやマダラが水揚げされています。
目梨泊遺跡では特にニシンが多く、チョウザメやイトウといった今では珍しい魚の骨も見つかっています。
オホーツク人は「海洋狩猟民」と言われるほど海での狩りに熟達していました。狩りの対象となった動物はアザラシが中心ですが、オットセイやアシカ、トドも見られます。
また、クジラの骨もたくさん見つかっています。
海獣の毛皮は、自分たちの衣服や交易品に、骨は様々な道具の材料に活用されました。
オホーツク海を自由に駆け巡る「海の狩人」。それがオホーツク人だったのです。 |
オヒョウの彫刻(目梨泊遺跡)
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アザラシの骨盤の骨を削り出して作った儀礼用の骨角器。
幅が広くなった部分にオヒョウと見られる魚が浮き彫りにされている。
海面近くを力強く泳ぐ魚の姿がいきいきと表現されている。
海獣狩猟(アザラシ)漁業(オヒョウ)と言う2つの要素を組み合わせた象徴的な道具。 |
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オホーツク海の狩人 |
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オヒョウの彫刻
(目梨泊遺跡) |
極寒のオホーツク海
こんな海で巨大で危険な海獣狩猟をする。
かつてのエスキモーのカヌー猟に似た怖さです。 |
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453鯨とオホーツク人
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「海の狩人」のオホーツク人にとって、最大の獲物は鯨でした。巨大な鯨の体からは、大量の肉と油が取れます。大きくて、丈夫な骨は、堀り具(スコップ)など、様々な骨角器に加工されました。
鯨を捕獲するためには、高い狩猟技術と訓練されたチームワークが必要です。そのどちらもオホーツク人は兼ね備えていました。
海の動物を狩るために専用の「回転式離頭銛頭」が発達し、大家族が同居する生活スタイルは、海での大規模な猟を可能にしました。
オホーツク海沿岸では、流氷に囲まれて身動きできなくなった鯨がたびたび打ち上げられます。
こうした「寄り鯨」もオホーツク人にとっては、貴重な資源になったに違いありません。鯨はオホーツク人の暮らしを支える大切な存在でした。
※考察 骨角製スコップ
オホーツク人と言えば大きな5~6角形の住居を構えます。それにはまず、土を掘らねばなりません。硬くて、石や砂利、木や草の根がある土は打製石斧でも一苦労です。まず、植物の根を切って、大小様々な石や砂利を掘り取らねばなりません。鉄斧、鉄鍬ができるまでは石器・木器ですから、それは大変な事だったでしょう。ちなみに沖縄の遺跡から板状鉄斧・袋状鉄斧が発見されるのは貝塚時代後期、弥生時代後期だが、鉄器が一般に使われるようになったのは14~15世紀以降のことです。それまでは、石器・木器・貝器でした。
多くのオホーツク人住居群は砂丘の上にあります。これは、先住民との軋轢や襲撃を怖れて逃げやすい場所に居住したのかもしれませんが、他方で、骨製スコップで扱える対象は、砂ぐらいではなかったのでしょうか。柔らかい骨製スコップは、石ころには歯が立たないので、砂を掘り、粘土を客土して張り付け、土間として安定させたのでしょう。近世まで、土間の上に藁などを敷いて生活する人々は多くいました。 |
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※考察 オホーツク人への疑問
アラスカの住居からは石ランプが見つかります。小さなお皿に動物脂を入れて、少しずつ燃やして灯りと暖を取るのです。
しかし、オホーツク文化からは一切見つかりません。長野県などで見つかる吊り手土器といわれる燈明もありません。
クジラを捕獲すると脳の中に大量の鯨油、皮膚と肉の間からは大量の脂肪が獲れます。これらはどのように処理したのでしょうか。
骨まで利用しつくす人々がこれらを捨てたりはしないはず。どのように保存し、活用したのでしょうか。
もし、土器に鯨油を貯蔵すればその痕跡が出てくるはず。
また、住居の中心に設けた石囲い炉では、何を燃やしたのでしょう。
一年中火を絶やすことのできない北海道であり、植物や根の住居ですから、居住区周辺の植物を集めて燃料にしたのでしょうか。しかし、常呂の栄浦第二遺跡や奥尻島の青苗砂丘遺跡など、沢山の住居があり、それを維持するだけの植物燃料が周囲に見られない場所では、いったいどうしていたのでしょう。
石器・骨角器が主な道具のオホーツク人だが、長く厳しい冬に備えるために大量の薪を用意する事が出来たのでしょうか。それにしては、鉄製斧などの出土が少ないように思いますし、オホーツク周辺・サロベツ周辺は砂丘であり、僅かな植物しかなく、あとは笹藪(役立たず)。これらを切ってしまうと、長い間植物の再生がむつかしく、広大な砂丘になってしまう。謎ですね。 |
鯨とオホーツク人
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漂着したクジラ
(平成16年、岡島沿岸)
「寄り鯨」は海の贈り物。アイヌもオホーツク人も皆利用した |
鯨を狩るオホーツク人
(根室市弁天島遺跡)
骨製の「針入れ」の表面に彫刻された、鯨を狩るオホーツク人。舟の上で、銛を構える姿が特徴的だ。 |
漂着したシャチ
(昭和52年)
流氷によって行き場を失い枝幸町の弓ヶ浜に打ち上げられたシャチ。近代の人々にとっても漂着クジラは海からの貴重な贈り物だった。 |
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455オホーツク人の道具
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オホーツク人は海の生き物を捕まえるための道具を沢山持っていたんだよ。鉄のナイフや骨の銛頭、石器の矢尻など、沢山の種類があったんだ。 |
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アザラシ剥製標本
撮影の時ぬいぐるみだと思っていました。失敗 |
オホーツク式土器
後期8-9c |
目梨泊で貼付文土器。特に口縁上部に刻み目がある。大変珍しい。被甕土器かな。 |
オホーツク人の道具
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魚意匠骨製品
(オヒョウの彫刻)
オホーツク後期8-9c
上451に出ていたオヒョウ彫刻の骨角 |
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457
エゾクロテン剥製 |
骨斧
オホーツク後期8-9c
目梨泊遺跡
ホロベツ砂丘遺跡
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鯨骨、鯨骨製容器
オホーツク後期8-9c
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・ホロベツ砂丘遺跡は竪穴建物2棟が出土。
・展示の骨斧では、住居を支えるナマ木の丸太を伐採するのは無理でしょうし、枝をはねるのも無理でしょう。やはり、それは、前出の板状鉄斧でしょう。 |
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460信仰 |
461女性像・クマ像の分布
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原形を失いながら伝聞で模倣されていく様子 |
原形のシャマンの姿から顔が禁忌の女性像へ顔を失った。 |
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出発点の利尻礼文では、クマに見えない何か、熊神か?から、次第に写実的なクマへと進化していく。
神の姿を表す事が禁忌だったためにわざと違ったように掘ったのだろうか。それは、
あれほど高度な女性像を彫り上げる技術を持っているのだから、写実的に造るのは簡単なはず。 |
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※考察 婦人像とクマ像
牙製婦人像はマッコウクジラの牙でつくられ「北方のビーナス」というそうです。オホーツク文化特有のもので北海道で十体ほど見つかっているそうです。「ほど」てなんや。誰も数えたことないんかーい。牙製婦人像からは美への意識を感じます。とかいうな。オホーツク人が美術品をつくろうとするわけがないじゃないか。これは、呪術具でしょう。
旧石器時代の立体女性像(線刻画も同じ)は出産時の妊婦を表したものと言われている。証拠がないと何も言えないが、縄文時代の山梨県にもあった形状が「北方のビーナス」とよく似た女性像。4万年前から連綿と続いてきた出産をモチーフとした女性像ではないのかと思っています。
初期オホーツク文化の利尻・礼文島から、彼らの信仰対象である女性像・クマ像が出て、それがオホーツク海側にだけ伝承している。
アザラシやオヒョウなどの海獣・巨大魚の彫刻もある中で、クマをモチーフにした彫像が如何に多いことか。現代のクマモンのようなアイドルと見まごうばかりだが、そうではなく、畏怖の念をもつ対象であり、崇拝する対象でもあった。クマ頭部の石像。クマ彫刻の食槽。なんにでも愛らしいクマを用いた。
それと同様に、婦人像も併せて伝承された。これは、これも呪術信仰の対象に他ならない。二つは不可分なもののように、像が伝承・製造されている。クマ像はいくらでもあり、一般的なのに対して、女性像の出土は数少ない。クマ像がオープンなものに対して、女性像は秘めたるものだったのかもしれない。しかも超硬質なクジラの牙で長い時間を掛けて精緻につくられ、いずれも7~10cm程と大きさが決まっている。クマ像の大きさはまちまちである。
私の祖父も牙製品を持っていた。次第に黄色が濃くなっていくのであるが、婦人像のように飴色になるまでと言うのどれほど製作から時間が経ったのか、どのような使われ方をしたのか、どのように出土したのかの情報も少ない。まるで煤竹色に染まっているのは、煙の立ち込める屋内に長くおかれたためか、抹香の立ち込める礼拝所にあったかのようだ。きっと安置されていた婦人像が、いざという出番を得たのは、やはり婦人に関わる内容だろう。そして、その婦人の外見は、おそらく婦人像とよく似た伝統的な姿だったに違いない。 アリューシャン列島のアレウト族 NHK |
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463クマ像と婦人像
土製クマ頭部像
オホーツク後期8-9c |
土製クマ頭部 |
クマ座像・立像
オホーツク後期8-9c
目梨泊遺跡 |
クマ立像・座像 |
上からでなく水平から見るべきでした。 |
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土製クマ頭部像
土製クマ座像
オホーツク中期7c
ホロベツ砂丘遺跡 |
クマ頭部 |
土製クマ座像7c
ホロベツ砂丘遺跡
クマ意匠土製品8-9c
目梨泊遺跡
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クマ座像 |
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465土器
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顔料付着土器
後期8-9c
目梨泊遺跡 |
小型土器
後期8-9c
目梨泊遺跡 |
小型土器
後期8-9c
目梨泊遺跡 |
棒状石8-9c目梨泊
携帯砥石(前6c)川尻北チャシ
携帯砥石(中7c)ホロベツ砂 |
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舟形土器
後期8-9c
目梨泊遺跡
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467オホーツク土器
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刻文土器
オホーツク中期7c
ホロベツ砂丘遺跡 |
沈線文土器
オホーツク後期8-9c
枝幸町内 |
沈線文土器
オホーツク後期8-9c
枝幸町内
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貼付文土器
オホーツク後期8-9c
目梨泊 |
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500オホーツク人の暮らし
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501オホーツク人の漁業
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オホーツク人の暮らしは、目の前に広がるオホーツク海の恵みに支えられていました。
海獣狩猟と沿岸での漁業が彼らの命の源です。
オホーツク人が漁の対象とする魚は様々で、遺跡ごとに特徴があります。
目梨泊遺跡では、ニシンが最も多く、次に大型のカジカ、カレイが目立ちます。魚類の骨を分析した、西本豊弘先生(国立歴史民俗博物館)によれば、こんなにカジカが出てくる遺跡は他にないとの事。目梨泊のオホーツク人はよっぽどカジカが好きだったのでしょう。
カレイはマガレイやオヒョウなど様々です。遺跡からは大きな釣り針や石のおもりも見つかるので、オヒョウなどの大きなカレイも、こうした道具を上手に使って釣り上げたのでしょう。
現代と同じように、サケはオホーツク人にとって大切な魚でした。
目梨泊遺跡から見つかるのは、シロザケがほとんどですが、小型のサケ(イワナ)や体長1mほどのイトウも見られます。
他にもサバやホウボウなど暖流系の魚も見つかっています。 |
石錘(目梨泊遺跡)
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安山岩製の石のおもり。大きさは200gから2kgまで様々だが、形はあまり変わらない。
小型のものは、カレイなどの底生魚を釣るときの釣り針のおもりではないかと言われている。 |
小さな貝殻(目梨泊遺跡)
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タマキビと思われる小さな貝。こんな貝までオホーツク人はしっかりと食用にしていた。 |
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オホーツク人の漁業 |
オホーツク人の漁業
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石錘 |
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小さな貝殻
タマキビと思われる小さな貝。こんな貝までオホーツク人はしっかりと食用にしていた。 |
ケモマナイ川の
三段の滝をのぼるサケ |
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502漁具
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大型石錘
オホーツク後期8-9c
目梨泊遺跡包含層
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刻文土器
オホーツク中期7c
ホロベツ砂丘遺跡
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大型石錘
後期8-9c
目梨泊遺跡
4号住居・3号住居 |
大型石錘
後期8-9c
目梨泊遺跡
4号住居・3号住居
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小型石錘8-9c
被熱石錘8-9c
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小型石錘
オホーツク後期8-9c
目梨泊遺跡
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被熱石錘
オホーツク後期8-9c
目梨泊遺跡
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505竪穴住居の暮らし
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地面を掘って平らな面を作り、そこに柱を立てて屋根をかけた家を「竪穴住居」といいます。日本列島では、縄文時代から平安時代にかけて、一万年以上使われてきました。
オホーツク人の竪穴住居を上から見ると、五角形、または六角形をしています。家の真ん中には、石組の「炉」があり、家族団欒のひとときを過ごしていたようです。
奥まった壁には「骨塚」が祀られ、家族は炉の外側のベンチで寝ていました。
柱はアカエゾマツが使われ、屋根は白樺の樹皮で覆っていました。
オホーツク人の竪穴住居は、日本列島に生まれた古代文化の中で、最も大きく、長さ10mを超えるものも少なくありません。複数の家族が同居していたと言われています。
オホーツク人の竪穴住居は、寒い土地で暮らす北方民族の住居によく似ています。
オホーツク海沿岸の北部では 20世紀の初めまで、こうした竪穴住居の暮らしが見られました。
竪穴住居は、雪に覆われることで、断熱効果が高くなると言われています。オホーツク人は、枝幸の長い冬を竪穴住居で乗り切ったのです。 |
北方民族の半地下式住居
はしごで出入り
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上はカムチャッカの先住民イテルメン、右はシベリアのコリャークの半地下式住居。天井に玄関があり、人々は「はしご」で゛出入りした。 |
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竪穴住居の暮らし |
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北方民族の半地下式住居
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カムチャッカの先住民の住居
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シベリアのコリャークの半地下式住居
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上から見ると五角形
目梨泊遺跡
第4号住居跡 |
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はしごで出入り
上はカムチャッカの先住民イテルメン、
右はシベリアのコリャークの半地下式住居。
天井に玄関があり、人々は「はしご」で出入りした。 |
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507石器 ※当然のように石器が登場するが、大陸や列島では鉄器の時代である。いかにオホーツク人には鉄が不足していたかがよくわかる。
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黒曜石製石鏃
オホーツク後期8-9c
目梨泊遺跡3号住居
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黒曜石製石鏃
オホーツク後期8c
目梨泊遺跡
22号土壙墓 |
石斧
オホーツク後期8-9c
目梨泊遺跡
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508石鏃
黒曜石製石鏃
オホーツク後期8-9c
目梨泊遺跡4号住居
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石鏃 |
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頁岩製石鏃×2
オホーツク後期8-9c
目梨泊遺跡4号住居 |
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509
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黒曜石製石鏃
オホーツク後期8-9c
目梨泊遺跡2号住居
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頁岩製石鏃×1
黒曜石製尖頭器×2 |
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520祈り |
521シャーマンの祈り
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オホーツク文化の遺跡から、鯨の牙で作った女性の像が見つかることがあります。
これを「牙製婦人像」と呼びます。
像は手のひらに載るほどの小さなものですが、中には「スカートのひだ」が彫刻で表現されているものもあり、当時の人々の服装を想像させてくれます。
人形の多くは両腕を交差させたり、手を合わせたりと様々なポーズをとっています。それはあたかも何かの儀式の所作を表現しているかのようです。
狩猟採集民の社会では、霊的な存在から人間へとメッセージを伝える「シャーマン」と言う存在がいました。
女性像の存在は、オホーツク人の社会にシャーマンがいたことを暗示しています。
人形の多くは頭を意図的に破壊されるか、顔を削られました。頭が残されている場合でも、無表情だったり、奇怪な印象を受ける表現で彫り込まれています。
これはこの像の女性が「仮面」をかぶって儀式を行ったことを示しているのではないでしょうか。
左の想像図は、この推理をもとに、オホーツク人のシャーマンの儀式を描いたものです。
※考察 牙製婦人像
近隣の博物館で2体の牙製婦人像が並べられていて、1体は頭部だけがない見事な像。もう1体は頭部はあるが前面の顔から胸・などがまだ未完成でした。
と思って、後ろに回ると、背中はきれいな、現代でも夏場に女性が着るようなワンピースが肩・腕・背中・首筋などを出した状態で精緻に彫られていました。つまり、像の前の面だけ削り落とされていたのです。
中国西域の巨大な仏像の顔が、のちに支配したイスラムによって顔を削り落とされたり、最近では像そのものを爆薬で破壊したり、
牙製婦人像も、最初は精緻に彫刻が施された人形であったものが、その後の宗教意識の変革によって破壊されたのかもしれません。
婦人像のシャーマンの顔は、もしかすると、全て仮面を被っていたのかもしれないですね。
※婦人像のモデルについて私なりの結論
※何度も再編集した最後2024.10.11朝にアウレト族・アウレト人の記述を見つけた。この館だけに1か月以上をかけており、今から訂正再編集するのはもう無理で、意欲が続きません。そこでアリューシャン列島に居住するアウレト人の事は、ご自身で調べてください。
NHKnews 初期モヨロ貝塚の発掘
「千数百年前の人骨とホコ モヨロ貝塚・北海道 放送年:1948年
網走市のモヨロ貝塚は、北海道大学児玉[作左衛門]博士らの手によって、10月4日から2度目の発掘が行われました。
食料にされたと思われるキツネの骨(狐の骨塚)、クマの骨。
鉄の矛を持った人の骨が出たのは日本で初めてでした。このホコと頭蓋骨から、これはアイヌ族ではなくアレウト人で、
こんな家に住んでいたと想像され、千数百年前、遠くシベリアから渡ってきたことがわかりました。」オホーツク人出なくアウレト人としている。
アウレト人(アリュート人)
・婦人の服装は大きなスカートだった。 写真から見ると西欧人との混血が進んでいるようだ。基本はモンゴロイドらしい。
・女性はあのような服装が便利なのかもしれない。だから素材が皮革にせよ、布にせよ、何千年も前から現代まで続いているようだ。
・牙婦人像お産の様子ではなかったようだ。何を表したかはわからない。
これを結論とします。
ただ、古代から続きおそらく長い間変化していないだろう最果ての地の民族衣装がわかった事は、とても重要なことだと思います。 |
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シャーマンの祈り
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牙で作った女性像 |
牙で作った女性像
マッコウクジラの歯(牙)を削り出した作った女性の像は、各地のオホーツク文化遺跡から見つかっている。その多くは頭がなかったり、顔が人間離れしている。 |
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礼文町浜中2遺跡 |
礼文町重兵衛沢遺跡 |
根室市オンネモト遺跡 |
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骨塚で祈るシャーマン想像図 |
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522牙を抜いた?
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目梨泊遺跡の一番海に近いところから、海の動物のきばが沢山出てきたんだ。その数なんと50本以上!おまじないでもしていたのかな? |
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沈線文土器
オホーツク文化中期7-8c
目梨泊遺跡41号住居 |
海獣類牙
オホーツク文化後期8-9c
目梨泊遺跡 獣骨堆積
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海獣類牙
道具や造形物を作る材料をデポしていたようだ。 |
牙を抜いた? |
※訂正 女性像
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女性像が前方に傾いていることを、お腹を気にしている姿。出産前の姿と捉えていましたが、間違いのようです。
牙を最大限に使おうとすると、内側に湾曲した部分を正面にする必要があり、牙の先が頭部になり、前傾姿勢になることがわかりました。
しかし、それにしても牙を余すところなく使っていることがわかりました。天才的な彫刻家ですね。 |
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525骨塚にクマを祀る
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狩猟民にとって動物は単なる食べ物ではありません。オホーツク人は、狩りによって捕まえた動物の骨を大切に祀りました。
家の中で最も奥まった壁際に祭壇を作り、解体した動物の骨を並べます。これを「骨塚」と呼んでいます。
骨塚の主役はヒグマ。ヒグマの頭骸骨は、骨塚の中心に祀られており、オホーツク人にとって特別な存在だったことがわかります。
アイヌ文化の「クマ祭り」の源流をオホーツク人に求める研究者もいます。
ヒグマを「特別な存在」として大切にする信仰は、オホーツク人の社会に共通していますが、それ以外の動物については、地域ごとに扱いに差がありました。
宗谷地方では、ヒグマに次ぐ動物として、トドが一緒に祀られますが、網走地方では見られません。
代わりに網走から根室にかけての地方ではエゾシカがヒグマに準ずる扱いを受けます。
キツネやタヌキなどの小動物を祀るのも、道東地方のオホーツク人の特徴です。 |
ヒグマの焼骨 (目梨泊遺跡)
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目梨泊遺跡では、3ヵ所で大量の焼骨が見つかっている。
焼骨は白く変色するほどの高い熱を受けている。大部分はヒグマと分析されており、何らかの儀式によって、わざと骨が焼かれた可能性が高い |
ヒグマの頭を並べた骨塚 (北見市 栄浦第二遺跡)
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ヒグマの頭骨が住居の内側に向かっておうぎ形に並べられていた。(東京大学文学部 1972 「常呂」 東京大学文学部より転載) |
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ヒグマの焼骨 |
ヒグマの頭を並べた骨塚
ヒグマの頭骨が住居の内側に向かって扇形に並べられていた。 |
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住居の間取り
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第4号住居の間取り (目梨泊遺跡)
P:居住空間(寝間)
C:共同使用の空間(6+作業場)
S:祭祀的空間(骨塚) |
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526ヒグマの骨
クマは神様
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北海道で一番強い動物と言えば「クマ」だよね。
オホーツク人はクマを自分たちの神様だと考えていたんだ。だから、クマの骨は大切に祀られていたんだね。
※アラスカエスキモーなどに見られる、自分たちの祖先はハイイログマだとかのトーテミズムとは違うようだ。 |
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ヒグマ焼骨
オホーツク文化後期8-9c
目梨泊遺跡
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ヒグマ肩甲骨
上腕骨 |
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527ヒグマの剥製
クマを飼っていた?
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オホーツク人に取って、クマは特別な存在だったんだ。
クマがいない礼文島からもクマの骨が出てきているんだよ。外から連れてきて飼っていたのかもしれないね。
※ということは、オホーツク文化初期から、既にクマ祭祀がおこなわれていたのかな。 |
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ヒグマ剥製標本
20世紀・枝幸地方 |
クマを飼っていた? |
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540オホーツク文化の変遷
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541オホーツク文化の展開
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オホーツク文化は、今から1500年以上前の西暦4世紀頃に、宗谷海峡を挟む地域で生まれました。
北海道の在地の文化である「続縄文文化」の人々が、サハリン北部からやってきた人々と出会うことで、生まれた新しい文化です。
オホーツク人は、その後、北海道の日本海、オホーツク海両方の沿岸に進出します。さらに
7世紀になると大陸の「靺鞨文化」の影響を受けて、その範囲は一気に拡大します。
8世紀に入ると、北海道の各地に土着化したオホーツク人は、それぞれの地域性を生み出すようになりました。
枝幸地方は、オホーツク文化、前期から後期まで、500年間にわたって栄えたのです。
※この時点では、続縄文人や擦文人との競争に打ち勝って勢力圏を拡大したということかな。 |
オホーツク文化の動き
オホーツク文化の動き
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時代とオホーツク人の居住地
前期(5~6世紀)
サハリン南部端~宗谷岬、石狩市幌、奥尻島、根室半島
中期(7世紀)
サハリン中部~利尻礼文~オホーツク沿岸~根室半島~国後・択捉
後期(8~9世紀)
サハリン南半部、利尻礼文~宗谷岬、枝幸~釧路~千島列島
(南貝塚式土器) (沈線文系土器)(貼付文系土器) |
枝幸地方のオホーツク文化の動き
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枝幸地方のオホーツク文化の動き |
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542土器はどんどん変わる
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遺跡から沢山出てくる土器。土器は時代によって、どんどん変わっていくんだ。だから土器を見れば、どの時代の土器かすぐにわかっちゃうんだ。 |
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543オホーツク土器の変遷
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オホーツク文化の土器は、時期によって大きく変化します。
中期(7世紀頃)に大陸の影響を受けた「刻文土器」が生まれ、広く普及しますが、
後期前半8世紀頃)には、地域分化が進み、サハリン、道北、道東で独自の土器が作られます。さらに、
後期後半(9世紀頃)になると、道東を中心に「ソーメン文」を身にまとった土器が生まれました。海の波を表現したかのような繊細な文様が特徴です。 |
目梨泊遺跡のオホーツク土器の変遷
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目梨泊遺跡が成立したのは、
中期後半(7世紀後半)と推定される。大陸の影響を受けた「刻文系土器」が見られる。
後期前半(8世紀頃)になると、道北の沈線文系土器と道東の貼付文系土器の両方が見られるようになる。
目梨泊遺跡は、道北・道東の「中間点」にあたり、2つの地方の人々を結ぶ「結節点」だった。 |
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オホーツク人の中間点
目梨泊遺跡
この時点で既に文化が三極分化している |
後期前半の勢力図
※サロマ湖以南で起こった
貼付文は次第に北上し、
9世紀に目梨泊まで広がる。
従って沈線文系は
宗谷岬まで後退した。 |
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目梨泊遺跡のオホーツク土器の変遷
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中期(7c) 刻文土器
大陸の影響 |
後期前半(8c)
道北:沈線文系土器
道東:貼付文系土器
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後期後半(9c)
貼付文系土器完成
(ソーメン文)
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関係ないけど、
北海道の人は
そうめんのことを
ソーメンというんだな |
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544刻文土器
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子供のお墓 |
刻文土器 中期7c
目梨泊1号土壙墓
子供の墓の被甕
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子供のお墓
薬も病院もない。オホーツク人の時代には、子供が亡くなることが時々があったんだ。この小さな土器は、子供のお墓にそっとお供えされていたものだよ。 |
刻文土器
中期7c
目梨泊1号土壙墓 |
刻文土器
中期7c
ホロベツ砂丘遺跡
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刻文土器
中期7c
目梨泊23土壙墓
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550 |
551歴史書とオホーツク人
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オホーツク文化の人々は文字を持っていません。そのため、自分たちのことを文字で記録すると言う事はありませんでした。
しかし、歴史時代の狩猟採集民」であるオホーツク人の周りには、すでに国家が誕生し、文字による記録=歴史書が作られていました。
菊池俊彦先生(北海道大学)は、中国唐の時代の歴史上「通典」に書かれた「流鬼りゅうき」がオホーツク人であるとしています。
「流鬼」は西暦640年、当時の唐王朝の支配下に入り、貢物を差し出したと記録されています。(1度だけ朝貢)
オホーツク人の影は、日本の歴史書にも見え隠れします。『日本書紀』には、「粛慎(みしはせ)」と言う名でオホーツク人らしき存在が記録されています。
・斉明4年(658年)
阿倍臣が180艘の船軍(ふないくさ)で蝦夷を討った
阿倍比羅夫が粛慎を討って、ヒグマを持ち帰った。
・斉明5年(659)
阿倍比羅夫が粛慎と戦って捕虜を捕まえた、
・斉明6年(660年)
阿倍臣が200艘の船軍で粛慎を討った
粛慎と交渉※したが失敗し、粛慎は「弊賂弁嶋」に立てこもった。(※阿倍比羅夫は粛慎と沈黙交易をおこなったが成立せず、和平交渉も決裂した)
この戦いで副将の能登臣馬身龍が戦死した。(※能登臣馬身龍の墓に副葬された巨大なガラス製勾玉が戦場の奥尻島津波館に展示)
瀬川拓郎さん(旭川市博物館長)は、この事件を考古学の視点から読み解きました。
粛慎が独特の船の文化を持っており、ヒグマを飼っていること、コミュニケーションが成立しにくい「異文化集団」であったこと、などから考えて、粛慎をオホーツク人と推理しました。
日本書紀には、粛慎が「弊賂弁嶋」に立てこもったと記録しています。瀬川さんは、この島を「奥尻島」と解釈しました。
奥尻島にはオホーツク文化の集落が発見されており、さらに本州の古墳時代の素晴らしい勾玉も見つかっています。
瀬川さんは、北海道では例のないこの勾玉の持ち主を、粛慎との戦いで戦死した「能登臣馬身龍」ではないかと考えています。
※阿倍比羅夫は、オホーツク人を異民族・未開人と思い込み、沈黙交易を行なったが、彼らは交易の民。見下した態度に激怒したようだ。
この時の交易品は、絹織物などであったそうだ。 |
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歴史書とオホーツク人 |
ヒスイ製勾玉ほか玉類
(奥尻町山本台地) |
ヒスイ製勾玉ほか玉類(奥尻町山本台地)
奥尻島、山本台地で発見された墓の副葬品。
勾玉は「丁字頭勾玉ちょうじがしらまがたま」と言う最高級品。
ほかに水晶やガラスの玉類。身分の高い人物が身に着けていたもののようだ。
※写真の展示物は、奥尻島津波館66番目に出てきます。気長にお待ちください。 |
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552胸に土器を被せた墓
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目梨泊遺跡の中心部から外れた段丘で見つかったオホーツク人の墓の副葬品です。
頭に大型の土器、胸の上に小型の土器を載せています。
土器の文様から、道北の集団と関係の深い初期の移住者と判明しました。大陸製の刀子(ナイフ)を副葬しています。
※母子の埋葬だったのだろうか。 |
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胸に土器を被せた墓 |
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曲手刀子
オホーツク文化後期8c
目梨泊40号土壙墓
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(土器大)
沈線文土器
オホーツク文化後期8初頭
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(土器小)
刻文土器
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※母の死体の上に幼児の死体を載せ、被せた甕が丁度胸の上になり、
二つ甕を置いたようになったのかなぁ。
嬰児だったかも |
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553靺鞨文化の人々
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オホーツク文化に大きな影響を与えたのは、大陸の「靺鞨文化」の人々でした。
靺鞨とは、中国東北部を中心に活動した狩猟採集民族です。中国史では隋(581-618)から唐(618-907)の時代にかけて、歴史書にその姿が描かれています。
靺鞨の前身は「勿吉もっきつ」と呼ばれ、5世紀後半には歴史書に名前が出てきます。7世紀末には、「渤海」を建国し、当時誕生したばかりの「日本」と使節を交流しました。
ところが黒龍江(アムール川)流域に暮らす靺鞨の一部族だけは、渤海国に加わらず、独自の暮らしを続けていました。
この部族を「黒水靺鞨」といいます。
オホーツク人に大きな影響を与えたのは、この黒水靺鞨と言われています。
黒水靺鞨とは、その後、契丹族の建国した「遼」に支配され、名前も「女真じょしん」と変わります。
しかし12世紀には「金」を建国し、当時の中国の「宋」王朝と対決します。
さらに17世紀に入ると勢力を増し、「清」を建国すると、ついに中国全土を支配するようになりました。すなわち、中国の最後の王朝「清王朝」の誕生です。
清は巨大帝国として繁栄しましたが、1894年の日清戦争に破れて弱体化し、1911年の辛亥革命でその命運を閉じました。
図引用Wikipedia「靺鞨」 |
靺鞨文化の人々
靺鞨・女真文化の青銅製装飾品
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最下段中央の方形の装飾品は、目梨泊、関谷、モヨロ、貝塚の出土品に近い。 |
円形の青銅製帯飾 (中国吉林省永吉県査里巴遺跡)
靺鞨・女真文化の青銅製装飾品
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円形の青銅製帯飾 |
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貼付浮文土器
オホーツク文化後期8-9c
目梨泊20号土壙墓
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鬼がいた? |
鬼がいた?
昔の中国、唐の時代の歴史書によると、
オホーツク人は「流鬼りゅうき」と呼ばれていた、
中国の皇帝の元に訪れた事が書かれている。 |
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555オホーツク人の交易港 目梨泊
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オホーツク文化の遺跡からは、遠く大陸や本州で作られたものが見つかります。
オホーツク人は、日常生活に必要な鉄製品や装飾品、穀物、家畜、刀剣など、様々なものを交易によって手に入れていました。
こうした「外の世界」で作られた品々は船で運ばれ、外に向かって開かれた特定の集落に運び込まれたと考えられます。こうした遺跡を「交易港」と呼んでいます。
オホーツク文化前期(7世紀頃)は、網走のモヨロ貝塚、
後期(8~9世紀)は、枝幸の目梨泊遺跡がその代表になりました。
目梨泊のアイヌ語地名は「メナシュ・トマリ」。「東風を防ぐ船のかかり澗(谷)」と解釈されています。大きな湾になった目梨泊は、昔から船着場として優れた地形だったのです。
●オホーツク文化 中期(7世紀頃)
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交易センター |
: |
モヨロ貝塚 |
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主な交易相手 |
: |
大陸の靺鞨文化 |
↓
●オホーツク文化 後期(8~9世紀頃)
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交易センター |
: |
目梨泊・モヨロ貝塚 |
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主な交易相手 |
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本州の律令国家「日本」
石狩低地帯の擦文文化 |
目梨泊遺跡の北には、神威岬がそびえ立っています。オホーツク海の単調な海岸線を突き破るかのような神威岬の威容は、沖合からもよく見えました。
交易港が成立する条件に「ランドマーク」の存在が挙げられます。
きっと、古代の船乗りたちは、神威岬を目指して、この地にやってきたのでしょう。オホーツク文化の時代、目梨泊は、様々な言葉を話す人々で賑わう、国際的な港でした。
※
・後期の航路は北海道日本海側から 宗谷岬をまわって南下し、神威岬を目指し、その風裏が目梨泊だった。奥尻島拠点を失ったことは
航海するうえで重大な障害を引き起こしたことでしょう。
・中期までの、黒水靺鞨が唐に支配される以前は、自由にアムール川を下り、サハリン西岸を南下して、利尻・礼文に到達し、東に進んで
一気にモヨロまで風任せに南下することができた。 |
漁組の地下は古代遺跡
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毎日おいしい魚を食卓に届けてくれる。枝幸の漁業組合。
実は漁業組合の地下にはオホーツク人の遺跡が埋まっているんだよ。この遺跡を「枝幸港遺跡」と言うんだ。 |
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土師器坏
オホーツク文化中期7c
枝幸港遺跡
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被甕の土器
オホーツク文化後期8c
枝幸港遺跡 |
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560刀剣
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561目梨泊遺跡の刀剣類分布
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目梨泊遺跡では、50基を超えるお墓が見つかっていますが、当時の代表的な「宝」である「刀」を副葬されたお墓は多くありません。お墓の集まりを「墓域」と言いますが、刀を副葬された墓の主は、それぞれの墓域を代表する人物だけです。墓域は、近しい関係の人々と考えられることから、各家系の代表者だけが刀を所有していたようです。 |
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1 曲手刀/第1号墓壙
(擬縄貼付文)
2 曲手刀/第38号土壙墓
(刻文期に比定)
3 鉄鉾/第6号土壙墓
(土器なし)
4 蕨手刀/第7号土壙墓
(土器なし) |
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5 鉄製剣/第9号土壙墓
(ソーメン文)
6 直刀+鉄製鉾/第19号土壙墓
(擬縄貼付文)
7 直刀/第23号土壙墓
(刻文)
8 蕨手刀+直刀/第30号土壙墓
(ソーメン文) |
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9 蕨手刀/第34号土壙墓
(擬縄貼付文)
9 蕨手刀/第34号土壙墓
(擬縄貼付文)
10 蕨手刀/範囲確認調査第1号土壙墓 (擬縄貼付文)
11 直刀/第7号住居跡廃屋墓
(沈線文期に比定)
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562蕨手刀のきた道
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蕨手刀は、奈良時代に広まった、日本独自の刀です。
蕨手刀の名は、柄の部分が「早蕨さわらび」の形に似ていることから、幕末の探検家、松浦武四郎が命名しました。
蕨手刀は全国に分布していますが、関東から東北にかけて広く出土しており、特に現在の宮城から岩手にかけての「陸奥」に集中しています。
北海道では、擦文文化初期の石狩低地帯と、オホーツク文化の遺跡で見つかっています。
全国で約300振、オホーツク文化にもたらされた、蕨手刀は15振が確認されています。
枝幸地方はこのうち7振りが見つかっており、オホーツク文化の蕨手刀の約半数を占めています。
蕨手刀は、東北の人々と北海道のオホーツク人とをつなぐ象徴的な宝だったのです。 |
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蕨手刀の来た道 |
蕨手刀の文化圏別分布と搬入経路 |
オホーツク文化
オホーツク沿岸15
北海道擦文文化
石狩低地帯32
陸奥北上川流域(主産地)
東北(蝦夷)168
東国68
畿内1
西国7 |
蕨手刀
千歳市ウサマイA出土
擦文文化初期の墓の副葬品 |
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※考察 蕨手刀
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・蕨手刀の初源は東海地方で作られた山刀であると、某国営放送で聞いた。
確かに山行き時に道を切り開いたり、藪を払ったりするナタは刃部が短く使いにくいが、アマゾンやニューギニア原住民が使う山刀=蛮刀
は長くて大鎌以上の使い勝手の良さがある。以前はまだ、日本の鍛冶屋で作っていたが何やら警察が絡んで作れなくなったとか、
新潟県でロープ用麻を栽培する農家は栽培にも、収穫用山刀にも許可をとって使っているとか聞いた。
ナタは山の中ですぐなくなるので、持ち手の先が丸まっていて、ここに赤い布を付けて目じるしにする。そして、持ち手の部分には
細い綱を巻いて持ちやすくし、手を保護する。
蕨手刀の名付け親、松浦武四郎はこのような事を知らなかったのか?これを早蕨だといった。
文学的表現なのか、実生活に密着した表現なのかもしれない。
・しかし、以前は、中東(トルコらしい)のアキナケス剣(半月剣というらしい)がモデルで、人類の大移動の逆コースを辿って来た人々が
捕囚され、彼らに作らせたとも聞いた。確かなことはきっと誰にもわからないが、私がこのHPを始めた頃には、それらに関する記事、
西洋人風の人が刀剣を作っている絵などがネット上にあったが、差別とか人権とかの関係でみんなきれいさっぱり削除されたのか
よくわからないが、よくわからなくなってしまった。
・「日本人の教養講座『日本刀』(其の20)「蕨手刀」」によると、
「蕨手刀の出土は圧倒的に東北地方が多く,この地で開花をしていた平泉の冶金集団とドッキングして北上川で取れる餅鉄を原料に後世に名を残す数多くの名刀を排出した」
とある。生産地は北上川周辺ということらしい。
・東北産の蕨手刀がどのようにオホーツク人に渡ったのだろ。
岩手県一関市大東町大原に砂鉄川たたら製鉄学習館があり、砂鉄を産出する川の上流部だそうだ。
ここで原料鉄が作られ、蕨手刀に加工され、運ばれる先は、
すぐそば太平洋側の交易港だろう。ここは擦文人と和人の交易所。
オホーツク人は日本海側、秋田城で交易を展開していたが、そこまで運ばれて交易に供したのだろうか。
それとも、オホーツク人が日本海周りでやってくる途中に立ち寄る石狩低地で、擦文人から入手したのだろうか。
上記562の図中には蕨手刀の移動経路として、
太平洋側を下北半島経由で石狩低地に持ち込まれ、ここから羽幌町経由で宗谷岬から目梨泊に搬入されたとある。
石狩川河口から舟で搬出するのではなく、羽幌から搬出されるのには、羽幌に交易拠点があったのかもしれない。
しかし、下北半島~恵山岬~苫小牧~石狩低地の交易路は、これまで、知らなかった交易路であり、おそらくそれ以外にもいろいろなルートがあったのでしょう。 |
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563蕨手刀の分布
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蕨手刀は、柄の部分が「早蕨さわらび」に似ていることから、幕末の探検家、松浦武四郎によって名付けられました。東北地方から多くを見つかることから「蝦夷の刀」とも呼ばれています。
全国から300本近くが見つかっており、このうち約50本が北海道の遺跡から出土しました。
枝幸町では、道内最多の7本が見つかっており、本州の蕨手刀と比べて、長大な刀が多いことが特徴です。
※オホーツク人向けの蕨手刀が最も長いものだったということは、オホーツク人用に特注していたか、特に選んで長刀を持ち帰ったかである。
出土したオホーツク沿岸の15本以外にも、一族一刀であるから、オホーツク人の沢山の家系に一振りずつあったのですから、きっとオホーツク人用の特注品が作られ、石狩低地で擦文人と高価な毛皮などと交換する際に、刀も特注品の高価なものだと、値を釣りあげたのかもしれない。 |
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オホーツク文化 |
オホーツク文化
➀目梨泊遺跡
②モヨロ貝塚 |
擦文文化 |
③納内6丁目遺跡
④西松島5遺跡
⑤ウサクマイA遺跡 |
東北蝦夷 |
⑥阿光坊遺跡
⑦丹後平古墳群
⑧岩の山古墳群
⑨太田蝦夷森古墳群 |
東北蝦夷 |
⑩上新山遺跡
⑪長根遺跡
⑫陸前高田小友町
岩井沢
⑬長沼古墳群
⑭箕輪古墳群
⑮多賀城
⑯佐賀瀬川峰山 |
東国・畿内 |
⑰下触牛伏遺跡
⑱熊谷工業高校敷地
⑲大野原萱沼
⑳英田畑古墳
㉑大塚狐塚
㉒正倉院 |
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564大陸から運ばれた宝
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大陸からの影響が強まった、7世紀頃、オホーツク文化の世界には、様々な大陸製品が入ってきます。
最も多いのは、日常生活に欠かせない鉄製品。鉄製の斧や小型の刀子(ナイフ)が、各地の遺跡から見つかっています。
ところが、金属製の装飾品や鉄製の武器類は、ごく限られた遺跡でしか見つかっていません。これは、大陸の靺鞨文化の人々が、特定の集落で交易を行っていたからではないでしょうか。こうした特別な集落を「交易港」と呼んでいます。
大陸の装飾品や武器類は、オホーツク人には、なかなか手に入らない貴重品です。こうした特別な品々は、持ち主の「権威の象徴」として大切に扱われました。
靺鞨文化との交易の窓口になったのは、目梨泊遺跡と常呂遺跡群、そしてモヨロ貝塚の3カ所だけです。
特にモヨロ貝塚は、たくさんの大陸製品が見つかっており、オホーツク文化前半を代表する交易港でした。
モヨロ貝塚は、大陸の靺鞨文化が力を失う8世紀頃まで、オホーツク文化の交流センターとして栄えたのです。
※しかし、モヨロ貝塚館にも網走市立博物館にもそれほどのものは展示されていない。 |
大陸から運ばれた宝 |
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大陸系の「宝」の分布 |
1オンコロマナイ遺跡
・鉄製鈴 |
【集中地域】
2目梨泊遺跡 |
2目梨泊遺跡
・青銅製帯飾
・青銅製鐸
・銀製耳環
・鉄製鉾 |
【集中地域】 |
3栄浦第二遺跡
・銀製耳館
・青銅帯飾
4常呂川河口遺跡
・不明青銅製鐸かも
5トコロチャシ跡遺跡
・鉄鉾 |
【集中地域】 |
6モヨロ貝塚
・青銅製帯飾
・青銅製鐸
・青銅製耳環
・円形帯飾
・鉄製鉾
7弁天島遺跡
・青銅製鐸
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565青銅製帯飾と靺鞨文化
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オホーツク文化を大陸の文化と結びつけるきっかけとなったのが「青銅製帯飾り」の発見です。青銅製帯飾りは、ベルトの表面に取り付ける飾りで、方形や円形のものがあります。
昭和50年、加藤晋平先生(筑波大学)は、アムール川中流域のナイフェルド遺跡やトロイツコエ遺跡から見つかった青銅製帯飾りが、オホーツク文化のものによく似ていることに気づきました。
さらに鉄の鉾や土器の形、豚の飼育など、この地域の先史文化とオホーツク文化との共通点が多数見つかり、
オホーツク文化の源流を探す研究が活発になりました。
オホーツク文化に強い影響を与え、その源流ではないかとされたのは、「靺鞨文化」の人々です。加藤先生は、靺鞨の一部族「黒水靺鞨」が北海道に渡来し、オホーツク人になったのではないかと言う説を発表しました。
その後、菊地俊彦先生(北海道大学)は、靺鞨文化とオホーツク文化の違いを指摘し、靺鞨人が北海道に渡来したのではなく、オホーツク人と交易を通じて影響を与えていたことがを明らかにしました。
青銅製帯飾りは、オホーツク人のルーツをめぐる議論を巻きを起こしたのです。 |
青銅製帯飾りと靺鞨文化
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青銅製帯飾の分布
オホーツク文化の遺跡でこれまで に見つかった方形の青銅製帯飾は、わずか7枚。 うち5枚が目梨泊遺跡で 発見されている。
オホーツク文化の青銅製帯飾に近 い資料はアムール川中流に限られて おり、 アムール川下流やサハリンで は見つかっていない。
どのようなル ートで運ばれてきたのか分からない。
※アムール川下流域やサハリンでは、青銅製帯飾りなどという、子供だましのようなものは欲しがらなかったのではないか。
腰飾りから一つずつ外してさも高そうに売る。山チョコを一つずつ分けるようなもので、相手を馬鹿にした行為だ。が、オホーツク人はなぜかこれを威信材として熱烈に気に入ったのだ。はめられたな。
きっと誰かがちらつかせて気を引いたので、つまらないものが大流行した。現代でもそんなことは毎度のことですね。 |
青銅製帯飾りの分布
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(Ⅱ式) 查里巴遺跡
(Ⅰ式) 查里巴遺跡
ナイフェルド
ドゥボーヴォエ遺跡
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楊屯大海遺跡
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シャインギノ城址
コルサコヴォエ遺跡
網走市モヨロ貝塚
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枝幸町目梨泊遺跡
常呂町栄浦第二遺跡
網走市モヨロ貝塚
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青銅製帯飾りの分布 |
青銅製帯飾の比較
左:査里巴遺跡 (中国吉林省)
右:目梨泊遺跡 (枝幸町) |
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566蕨手刀
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オホーツク文化後期8-9c
目梨泊34号土壙墓
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オホーツク文化後期8-9c
目梨泊34号土壙墓
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オホーツク文化後期8-9c
目梨泊遺跡
範囲確定調査第1号土壙墓
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オホーツク文化後期7-9c
目梨泊遺跡 遺物包含層
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オホーツク文化期7-9c
目梨泊第7号土壙墓
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オホーツク文化後期8-9c
目梨泊 第30号土壙墓
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567青銅製帯飾
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国指定重要文化財
北海道目梨泊遺跡出土品 Archaeological Artifacts at Menachidomari Site
オホーツク文化の交流 交易の様相を今に伝え る代表的な資料として、 平成12年に319点が国の 重要文化財に指定されました。 |
北海道目梨泊遺跡出土品
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北海道目梨泊遺跡出土品
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青銅製帶飾
オホーツク文化中期(7世紀)
目梨泊遺跡 遺物包含層
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・銀製耳飾
オホーツク後期8-9c
目梨泊 範囲確認調査
第2号土壙墓
・青銅製小鐸
・青銅製帯金具(丸鞆)
オホーツク後期7-9c
目梨泊 遺物包含層 |
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・青銅製足金具
・青銅製責金具
・蕨手刀座金
オホーツク7-9c目梨泊遺跡 遺物包含層 |
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568枝幸地方の蕨手刀
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枝幸地方の蕨手刀は、目梨泊遺跡から6振、現在の問牧北部(といまき)の海岸にあたる「落切オレタロ」採集品一振りの合計7振りが見つかっています。
蕨手刀は、現代の日本刀につながる古代の刀です。蕨手刀は刃がまっすぐな「直刀」ですが、次第に柄に角度がつくようになり、緩やかなカーブのついた刀へと変化するとされています。
蕨手刀は、この柄の角度や先端(鋒きっさき)の形によって時代ごとに分類されています。
目梨泊遺跡から見つかっ蕨手刀は、いずれも近い形をしており、8世紀後半の年代が推定されています。一緒に出てきた土器の年代とやや差がありますが、刀が作られた時期と埋められた時期に開きがあるようです。
一方、落切オレタロで発掘された1本はやや新しく、9世紀に近いようです。この刀は、戦前に伊藤信夫先生(東北大学)が、当時の落
切小学校で見つけたものですが、現在は行方不明。幻の7本目の蕨手刀となりました。(※荷物を盗まれたそうです) |
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1. 目梨泊遺跡包含層
2. 目梨泊遺跡・第7号土壙墓
3. 目梨泊遺跡・第30号土壙墓
4. 目梨泊遺跡・第34号土壙墓
5. 目梨泊遺跡・第34号土壙墓
6. 目梨泊遺跡・範囲確認第1号土壙墓
7. 落切オレタロ採集品
(石井昌国 1966 「蕨手刀」 より転載) |
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鉄鉾 7-9c 第6土壙墓
曲手刀 7-9c 第38土壙墓 |
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鉄剣 8-9c後期 第9土壙墓
直刀 7c中期 第23号土壙墓
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570 |
571宝物の移り変わり
宝物の移り変わり
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前期 5~6c
琥珀玉・ガラス玉
(礼文町香深井5遺跡) |
中期 7c
大陸製品
琥珀玉・ガラス玉(目梨泊)
青銅製帯飾(目梨泊)
曲手刀(目梨泊) |
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後期前半 8c
曲手刀(目梨泊)
青銅製帯飾
(北見市栄浦第二遺跡)
本州製品に変化
蕨手刀(目梨泊)
銀製耳環(目梨泊)
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後期後半 9c
銀製耳環(目梨泊)
蕨手刀×直刀(目梨泊)
蕨手刀(目梨泊)
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配石で飾られた墓
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目梨泊遺跡の南東側で見つかったお墓です。過去の鉄道工事によって大きく破壊されていましたが、被甕の土器が残されていました。
土器の下に見える大きな石は、墓の上を飾っていたもの。墓を石で飾る風習は道東のオホーツク文化に多く見られます。
土器の文様から、墓の主は、初期の移住者と推定されます。
※初期オホーツク文化では配石墓が行なわれていた。 |
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配石で飾られた墓
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配石で飾られた墓 |
黒曜石製石鏃
オホーツク文化後期8
21号土壙墓 |
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被甕
沈線文土器
オホーツク文化後期8-9
第21号土壙墓 |
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572律令国家と北の古墳
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オホーツク文化が北海道に大きく展開した7世紀。同じ頃、本州では、新たな政治体制が生まれようとしていました。
遣隋使、遣唐使よって、中国の制度を学び、国の決まりごと「律令」に基づいた国家が生まれようとしていたのです。すなわち、律令国家「日本」の誕生です。
畿内を中心とする律令国家の勢力は、7世紀後半から9世紀(※丁度オホーツク文化の初期から終末期)にかけて東北地方を北上します。
目的は、東北地方の「蝦夷」を支配下に置くことです。
時にはもてなし、時には、戦いを繰り返しながら、律令国家の勢力は少しずつ東北地方に広がっていきました。
律令国家の勢力が東北に及ぶと、各地に「末期古墳」と呼ばれる小型の円(まる)い古墳が作られるようになります。
末期古墳の流れを引く小型の古墳は、北海道にも分布しており、「北海道式古墳」と呼ばれています。
北海道式古墳は、江別市や恵庭市など石狩地方に限られていますが、蕨手刀など、オホーツク人と共通した「宝」を持っていました。
北海道式古墳の主は、本州から移住した人々とも、律令国家と強い関わりを持った地元の首長とも言われています。
北海道式古墳の主とオホーツク人がどんな関わりを持っていたのか、謎はつきません。 |
ソーメン文は波の模様
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オホーツク人の土器には細い粘土のひもで波の模様を作ったものがあるよ。
夏によく食べる素麺に似ているから「ソーメン文」っていうんだ。 |
貼付浮文土器
後期8-9c
目梨泊34号土壙墓
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被甕の土器 後期9c
目梨泊 |
ソーメン文は波の模様 |
魚骨ブロック
後期8-9c
目梨泊 獣骨堆積
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タマキビ貝殻
後期8-9c 目梨泊 獣骨堆積
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573分け合った帯飾の謎
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青銅製帯飾は、オホーツク文化と靺鞨文化をつなぐ象徴的な資料です。
青銅製帯飾りのうち方形のものは、目梨泊遺跡の5枚を含めても、国内では7枚しか見つかっていません。
目梨泊遺跡の帯飾りとモヨロ貝塚のものを比べると、大きさ、デザインとも非常に似ていることがわかります。また、重さを計るとどちらも23.7g。ぴったり一致します。
これは、2つの遺跡から見つかった帯飾りが同じ「鋳型」から作られたことを物語っています。
帯飾りは本来、一本のベルトの表面にたくさん取り付けて使うものでした。大陸からオホーツク文化の世界に運ばれた時に、目梨泊とモヨロのオホーツク人が、仲良く分けあったのでしょう。
数千kmを旅した、一本のベルトは2つの村を繋ぐ絆として分割されたのです。 |
※考察 帯飾りの使い方
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※学芸員さんによるこのようなおとぎ話(分け合った帯飾り)の創話は楽しいものです。
実際は、オホーツク人が帯金具をどのように使っていたかです。
青銅製のピカピカ光った複雑な文様を鋳込まれた小さな宝物は、鉢巻きに縫い付けても、かっこいいし、ペンダントにしてもかっこいい。
黒水靺鞨から運ばれた超高価な光物は、交易人がほくそ笑み、溜飲を下げる程の毛皮と交換されたのでしょう。
つまり、帯金具は一つ一つバラバラに使用され、本来とは別の目的で使用されました。
靺鞨人船団は、なるべく小さくて高価値に見えるものを数多く。金属のベルトは一つずつ外せば大変な高価値になったでしょう。
ただのずんべらぼぅのオホーツク海岸の目梨泊に特産品のお宝は産出しないようで、どこかとの交易で入手した、クロテンやラッコなどの高価な毛皮と交換したのでしょう。つまり、目梨泊には大陸からの交易品を目当てに各地から沢山の品物が集まり、それらもまた、各地へと交易して運ばれ、最も高価なものを目梨泊のバイヤーが買い上げ、靺鞨人と交易したのでしょう。だから、大陸交易人は命と引き換えに持ってきた品の一部をここに降ろしたのでしょう。
アムール川中流域から何千キロも小舟で航海し、アムール川下流域でも、長大なサハリン西岸を南下し、流れのはやい宗谷海峡を横断する。
途中、どこにも荷をおろさず、舟が流されたら礼文島で、うまくいけば宗谷岬で水や食料を補給し、僅かな交易品で往復分の対価を払い、更にオホーツク海を南下する。
宗谷岬を東に出ても西に出ても100kmも続く、砂丘海岸。不毛の台地である。これを網走まで南下する。その途中に停泊地があれば、誰しも寄港するだろう。
神威岬という巨大な目じるしがあり、海霧で危険なときでも、見つけることができるかもしれない。そこで休んで天候の回復を待ち、僅かな積み荷と交換に補給を行い、が、それを目当てに、次第に近隣各地から産物が集まるようになり、モヨロに行く時に特産品を買い付け、モヨロからの還り船で、補給と産物の受け取り積み込みをおこなって北行したのだろう。
しかし、あくまでも大陸交易人が目指したのはモヨロ。
モヨロの交易港には、千島列島からの高価な毛皮が豊富にあがり、靺鞨人の求めるものは全てここにあったのでしょう。
後期になって、海上交通が発達すると、モヨロ方面からも千島の産物が運ばれるようになったのかもしれない。ただし交換レートは運搬賃を含めて少し高め。
それでも、目梨泊からモヨロまでの長い長いオホーツク海岸を往復するよりも楽だから、ここで交易して帰る船もあり、モヨロまで行く船もあり、大いににぎわったことでしょう。
先に、高校生が見つけた遺体のない墓の刀剣の持ち主(刀剣は一血統に一振りしか持てなかった)、被葬者は一統の首長であり、彼が水死・戦死したということは、彼らがモヨロまで買い付けに出かけて、特産品を持ち帰り、靺鞨人の危険な航海を短縮して手間賃を稼いでいたのではないか。その航海も危険であり、
ために遭難し、遺体の無い墓となったのではないか。だから、あのような高価な刀剣を入手できたのではないだろうか。
(^^♪ 私も創話してしまいました。(^.^)/~~~
シロウト考古学の楽しみは、事実を調べる中で、あれやこれやと思いめぐらし、想像すること、、これにつきますね。 |
分け合った帯飾りの謎
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青銅製帯飾
目梨泊遺跡 |
鉄道盛土より4枚出土。
同じ鋳型の製品(一本のベルトの品)
本来は副葬品
主さ23.7g |
モヨロ貝塚出土23.7g |
青銅製帯飾りの真の姿
青銅製帯飾りを取り付けたベルト
コルサコフ墓地 |
ベルトの表面に多数の青銅製帯飾りを取り付けた例。
方形と円形を組み合わせ、鐸や鈴を吊り下げている。
靺鞨商人はこのベルとから一枚ずつ外しては高価な毛皮と取り換えたのでしょう。アコギな商売をするもんだ。
長距離を交易する者は、わずかで軽い商品を、如何にも高価値に見せかけて貴重品を持ち帰ることが基本だろう。
客をだますのも商売。 |
貼付浮文土器
オホーツク文化後期8-9c
目梨泊30号土壙墓 |
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オホーツクの海に穏やかな波が打ち寄せ、
水鳥が何羽も浮かんでいる。 |
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574折り曲げられた刀の謎
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オホーツク人にとって、権威や力を表す「刀」は、戦いの道具ではありませんでした。遠く離れた、大陸や本州との絆を象徴する特別な道具だったのです。
刀剣類は持ち主がなくなると一緒に墓に収められました。こうした風習は日本だけでなく世界中にありますが、オホーツク人の場合は少し変わっています。
古墳時代の本州では、刀の持ち主がなくなると、体の横に添えて埋葬します。
ところがオホーツク人の場合は、刀の鞘を抜いて、「抜き身」状態でお供えしました。
刀から外した鞘は、分解して、墓の上に置きました。目梨泊遺跡では、刀装具(刀の部分部品)がバラバラになって見つかっています。
さらに驚かされるのが「曲げられた刀」 が見つかることです。すべての刀ではありませんが、オホーツク人は墓に備えるときに、刀をわざと折り曲げて使えない状態にしてから埋めていました。
刀を大切に受け継いだり、墓に備えたりする日本の伝統とはかけ離れた風習です。
「持ち主と一緒に刀も死なせる」と言うオホーツク人独特の考え方が表れています。 |
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折り曲げられた刀の出土
目梨泊遺跡7号住居跡
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段丘の先端の初期の住居跡の床面から出土。曲げられた刀と共に、土器が伏せられていた。
墓壙や遺体は見つからずが、この家に住んでいた人が埋葬された可能性が高い。廃棄された住居にそのまま葬られたのだろう。 |
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曲げられた形で出土 |
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曲げられた鉄刀
後期8-9c
目梨泊7号住居址
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曲げられた刀子
後期8-9c
目梨泊遺跡
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無文土器
後期8-9c
目梨泊7号住居址
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※死者に捧げる副葬品も、品物の死を意味するようにその機能を失わせて壊して奉納し、
死者には被甕をして埋葬したようです。 |
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575オホーツク人の素顔
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オホーツク文化の人々は、どんな顔立ちをしていたのでしょうか。
墓から見つかった人骨の細かな特徴を分析することで、その人が属していた集団の系譜や、生きていた当時の生活の様子を調べることができます。
オホーツク文化の人骨を研究している石田肇先生(琉球大学)によると、次のような特徴がわかってきました。
・全体に顔が大きく、頬骨が横に張り出す
・鼻が低く、顔が平べったい。
・足の膝から下の部分が短い。
・男性の平均身長は約160cm (※この特徴ってモンゴル人みたいだね)
こうした特徴は、シベリアや極東の寒い地方に暮らす人々と共通しています。
オホーツク人は寒冷地に適したモンゴロイドと言えるでしょう。
目梨泊遺跡では、50基を超えるオホーツク人の墓が見つかっていますが、人骨が残っていたのはわずか1体。
最初に見つかった「第1号墓壙」に葬られた人物が唯一の例となりました。
この人物は壮年から熟年前半の男性とみられています。
分析した飛田先生によると、「典型的なオホーツク文化系人骨ではない」との事でした。目梨泊遺跡を残した人々はどこから来たのか…謎は深まります。
(※オホーツク人の典型ではないとは、オホーツク人と擦文人の混血かなぁ) |
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580終焉
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581オホーツク文化の黄昏 オホーツク文化の遺跡分布 地図➀ 地図② 引用「北辺の海の民・モヨロ貝塚の発見」
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オホーツク文化後期の8世紀(奈良時代)。大陸の靺鞨文化の勢力が衰えると、オホーツク人の交易相手は本州に変わりました。
当時、誕生したばかりの律令国家「日本」は、石狩地方にまで影響を及ぼしていました。
目梨泊の人々が交易の相手としていたのは、本州の影響を強く受けた石狩地方の人々だったと考えられます。 9世紀頃までは活発な交易が続いていました。
その後、目梨泊は集落が放棄され、オホーツク人は姿を消します。
同じ頃、北海道のオホーツク海沿岸では、オホーツク文化の遺跡が消滅し、代わりに「擦文文化」の遺跡が増加します。
一説には、オホーツク人はサハリンへと撤退したのではないか、と言われています。
最近、大岬遺跡(稚内市)やモヨロ貝塚(網走市)などで、石や、骨の鏃を撃ち込まれた、オホーツク人の人骨があることがわかってきました。
当時、石や骨の矢尻を使うのは、オホーツク人だけ。と言う事は、何らかの理由で、オホーツク人同士が戦いを繰り返していたことを意味しています。
もしかしたら、蕨手刀などの「宝」の交易圏をめぐる争いが原因かもしれません。
目梨泊では戦いの痕跡は見つかっていませんが、オホーツク人がこの地を離れることになった理由があるはずです。 |
※考察 オホーツク文化の終焉
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オホーツク文化は始まりの時から北海道原住民との軋轢がありました。しかし、内陸擦文人よりも高い文化と航海技術・海獣狩猟技術に秀で
擦文人を圧倒していました。しかし、最初から最後まで対立は続き、やがて擦文人の勢力が上回ると、日本海航路における交易にも支障を来たし、
対立することによってヤマト政権の軍事介入を招き、交易拠点を失い、更に内陸からやってきた鉄器を持った擦文人との対立や戦闘も激しくなる。
更に、各地のオホーツク人が地方で独自化し、結束ではなく、対立し始める。
やがて交易が出来なくなると、同時に擦文人との対立によって敗退し、擦文人のいないサハリンへ逃れるしかなかったのではないだろうか。
しかし、部族間抗争で対立していた側の南オホーツク人は目梨泊を越えて北に進むことが出来ず、千島列島から網走・根室にかけてのオホーツク人はその地で擦文人と対峙し滅びていったのではないだろうか。
※オホーツク人は不幸な民族だった。靺鞨と続縄文人との混血という、本来の居住地を持たずに生まれた民族で、どこに行ってもよそ者で、異端者扱いされ、その誕生から終焉まで常に対立と排撃戦争という不幸に付きまとわれた人々だった。わずかなオホーツク人はサハリン南部に逃げ、内部戦争のため、オホーツク人に行く手を阻まれた南オホーツク人や千島オホーツク人は行き場を失い、擦文人との消耗戦を続けるしかなかった。あれほどオホーツク海沿岸で隆盛を極めたのに、土地を支配防衛することができず、何百年もくすぶっていた土着原住民の土地奪還願望が物質化し、消滅することになった。元は、同じ続縄文人であるのに、実に不幸な結末であった。 |
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目梨泊遺跡、最後の族長の土器
第30号土壙墓副葬品 |
貼付文(ソーメン文)の被甕。刀剣類を副葬された族長クラスの墓としては、目梨泊で最後の墓となる。墓には蕨手刀、直刀が納められていた。 |
神威岬 |
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583トビニタイ文化
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枝幸地方からオホーツク人が姿を消したあと、擦文文化の集団がオホーツク海沿岸に広がります。
一方、道東の斜里平野から釧路・根室にかけての地方では、オホーツク土器と擦文土器と合わせたような「トビニタイ式土器」が作られるようになります。
この独特な土器を使う文化を「トビニタイ文化」と呼びます。
トビニタイ文化の人々は、土器の文様や住居の特徴など、オホーツク文化の伝統を受け継いでいますが、オホーツク人のように「海への執着」は感じられません。
彼らは擦文人と同じように、川沿いに内陸へと生活の場を移して行きました。
枝幸地方のオホーツク人は、集落を放棄して、新たな土地へと旅立ちましたが、道東地方のオホーツク人は、擦文文化の人々と共に生きる道を選んだのです。 |
※考察 トビニタイ文化
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オホーツク人の部族間抗争と、擦文人との戦いによって孤立化したオホーツク集落。このようなオホーツク人の集落が各地にあったに違いない。全ての残留オホーツク人が殲滅殺戮されたわけではない。
その中で、ある地域では、擦文人がオホーツク人の海洋航海術や造船技術を獲得し、あるところでは、文化や宗教を取り入れた。
海洋航海技術を獲得した擦文人はやがてサハリンにまで航海して集落を襲撃して強奪したり、大陸まで出かけていくようになる。
網走・根室地方で文化・宗教を学んだ集団は、その後の文化形成に向けて大きく発展することになり、アイヌ文化成立させることとなった。
のではないか。 |
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トビニタイ文化の分布
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トビニタイ文化の分布
サハリン
南貝塚式土器
(オホーツク式土器)
道東・千島
トビニタイ式土器
道央・道南
擦文文化 |
トビニタイ式土器の成り立ち
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トビニタイ式土器の成り立ち
トビニタイ式土器は、
器形を擦文土器から、
文様をオホーツク土器から受け継いだ。
土器の変化は、2つの文化に通婚関係があったことを示す。 |
南貝塚式土器 (サハリンの土器) オホーツク文化末期 10世紀 ウエンナイ竪穴群1号竪穴
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585最後のオホーツク人
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北海道本島からオホーツク文化が消滅した後も、サハリンではオホーツク文化の伝統を受け継ぐ人々が暮らしていました。
10世紀以降のサハリンで作られたオホーツク土器には、「南貝塚式土器」や「東多来加式土器」があります。
このうち、南貝塚式土器は北海道でも、点々と見つかっています。
特に枝幸のウエンナイ遺跡では、擦文文化の終末期(12世紀頃)の竪穴住居から、この南貝塚式土器が見つかりました。
サハリンに住むオホーツク人の末裔が、枝幸の擦文人の村を訪れたのでしょうか。
また彼らはこの土地に300年前まで先祖が暮らしていたことを知っていたのでしょうか。
歴史の謎はつきません。
※南貝塚。東多来加貝塚もサハリン南部の遺跡。
サハリンには沢山の貝塚が存在した。 |
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最後のオホーツク人
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南貝塚式土器
左:ウエンナイ遺跡出土
右:小樽市塩谷出土 |
北海道の
南貝塚式土器の分布 |
氷海 |
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北海道の
南貝塚式土器の分布 |
※9世紀に擦文人によって虐殺され、追い払われたオホーツク人が、12世紀にまた、北海道にやって来た。この300年間に擦文人は南サハリンの村を襲い、海賊行為を働いていたというのに、どうしたことだろう。
南貝塚式土器の出土地
礼文島・稚内・枝幸・網走川を遡って女満別 天塩川を遡って名寄
小樽 石狩川を支流に遡って恵庭・千歳
オホーツク沿岸の続縄文人がオホーツク人は他民族だと敵愾心を持っていたのと同様に
南サハリンのオホーツク人(ニブヒかな?)も、たびたび集落にやってくる海賊が的であることや
祖先が住んでいた暖かい土地のことは言い伝えられていたに違いない。知ったうえで北海道に来たのだろう。 |
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600アイヌ文化の時代 13世紀~
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アイヌ文化の人々は、自然を畏れ、敬い、そしてたくみに活用することで、日々の暮らしを送っていました。
枝幸町に残る地名の多くは、アイヌ語に由来しています。こうしたアイヌ語地名は、その土地の地形や特徴を伝える無形の文化遺産です。
またアイヌ文化の人々は、自然の地形を利用することで、各地に砦を築きました。アイヌ語で「チャシ」と呼ばれる砦は、見張り場や、儀式の場、防衛拠点として利用され、枝幸町内に4カ所が確認されています。 |
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610 |
611松浦武四郎の見た枝幸
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江戸時代も終わりに近い安政年間(1854-1860)、枝幸の海岸を歩く一人の旅行者がいました。
彼の名は松浦武四郎(1818年から1888年)。北海道の名付け親として知られる大探検家です。
武四郎は、当時「蝦夷地」と呼ばれていた、北海道の自然や、産物、アイヌの人々の暮らしなどを詳しく記録しました。
武四郎の見た150年前の枝幸には、通行屋や蔵、弁天社(現在の厳島神社)があり、北前船の停泊に適した港があることが書かれています。また、枝幸の産物として、サケ・マス、ニシン、カレイを記録しています。
武四郎は、アイヌの人々から様々な地名を聞き取り、書き残しました。枝幸地方の豊かなアイヌ語地名が伝わったのも、武四郎の功績の1つです。 |
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松浦武四郎の見た枝幸 |
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カムイトト神威岬 |
ホロナイ川
北見幌別川河口付近
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トイナイ
音標岬とゴメ島・問内
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エサシ
枝幸港付近 |
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612枝幸地方のアイヌ伝承
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枝幸地方には、アイヌの人々の伝承が思いのほか、たくさん残されています。
中でも繰り返し伝えられてきたのが、川尻のチャシと「砂鯨」にまつわる伝承です。
話し手によっては少しずつ違う点もありますが、あらすじはこんなお話です。
昔、北見幌別川の下流には、「北見アイヌ」が平和に暮らしており、豊かな恵みをもたらすこの川を大切にしていました。
湿原の小高い砦には「オロッコ人」(ウイルタ族)が住んでいました。ある時、この地に「天塩アイヌ」が攻め込んできて、オロッコ人を滅ぼしたのです。それを見た北見アイヌは天塩アイヌに戦いを挑みました。
両軍の戦いは激戦になりましたが、北見アイヌの古老が一計を案じます。幌別川の河口にできた砂山にいろいろな魚をまいたのです。次の日、砂山にカモメが集まるのを見た天塩アイヌは「寄り鯨」だと思って我先に駆けつけました。そこを待ち伏せした北見アイヌは、見事勝利し、記念すべき砂山は、アイヌ語で「砂(オタ)山(ヌプリ)」から「歌登」の語源になったのでした。
オロッコ人は、サハリンの先住民族のひとつ、ウイルタの古い呼び方。
もしかしたら、遥か昔にこの地に住んでいたオホーツク人の記憶が伝説になったのかもしれません。
この伝説は昭和4年に初めて採集され、その後も長く語られてきました。枝幸を代表するアイヌ伝承のひとつです。
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613幌別川尻北チャシ
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その昔、北見幌別川の下流は、見渡す限りの大湿原でした。この湿原のほぼ中央に大小2つの「島」があります。
アイヌの人々は、この2つの島をチャシとして利用したのです。
それぞれ「幌別川尻チャシ」「南チャシ」と名付けられ、北チャシの方は、昭和46年に枝幸町教育委員会と北海道大学による発掘調査が行われました。
その結果、オホーツク文化前期の竪穴住居とともに、敵を防ぐための「壕」が確認されました。
また、竪穴住居の窪地を利用した「送り場」が発見されました。送り場からは、ガラス玉や鉄の刀、鎧の一部 (小札)、古銭が見つかりました。宗谷地方の送り場としては、最も古い時期のものです。 |
出土した鉄製品
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川尻北チャシの送り場から出土したのは、鉄刀や刀子、鎧の小札、鉄製ヤス、古銭など。
古銭は崇寧通宝(北宋銭)、洪武通宝(明銭)など、中国大陸に由来するものが見つかっている。
当時の人々の交易の状況が偲ばれる。 |
出土した鉄製品
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鎧の小札 鉄製ヤス
鉄刀
刀子
古銭 |
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614アイヌ文物
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骨製歯ブラシ
明治時代
ホロベツ砂丘遺跡 |
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イナウ
現代
稚内地方
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捧酒箸
現代
稚内地方
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615
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内耳土器
中世アイヌ文化期
13~16c
風烈布川左岸遺跡
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鉄刀・小札
中世アイヌ文化期
15~16c
川尻北チャシ
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ガラス玉
中世アイヌ文化期
15~16c
川尻北チャシ |
崇寧通宝
中世アイヌ文化期
15~16c
川尻北チャシ
t |
洪武通宝
中世アイヌ文化期
15~16c
川尻北チャシ |
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616枝幸町のアイヌ語地名
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枝幸地方の地名のほとんどはアイヌ語に由来しています。アイヌ民族は、その土地の地形や特性を巧みに表現した地名を残しました。また、地形を人間の体になぞらえて表現した地名が多いことが特徴です。アイヌ語地名はアイヌ民族が現代に伝えた無形の文化遺産です。 |
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650 |
651枝幸地方のチャシ
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アイヌの人々の「砦「」とされる「チャシ」は全道で500カ所以上見つかっています。
伝説のみで未発見のものも多く、その数は700とも1000とも言われています。チャシはアイヌ文化にとって重要な施設でした。
枝幸地方でチャシとして確認されているのは6箇所だけですが、消滅してしまったチャシや伝承に残るチャシなどを加えると、10カ所以上があったと考えられます。
その多くは、北見幌別川や頓別川、クッチャロ湖などの水辺に面したもので、当時のアイヌの人々が、川を中心に行動していたことを反映しています。
自然の地形を利用して作ったチャシは、次の5種類に分類されています。
A. |
丘先チャシ |
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突出した台地(たとえば丘や岬など)の先端を利用したもの。
(丘の根元に壕=「ほり」を切ったチャシ) |
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B. |
面崖式チャシ |
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崖地の上に半円形の壕を築き、その内部をチャシとするもの。
(崖の上に壕をめぐらしたチャシ) |
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C. |
丘頂式チャシ |
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山や尾根の頂の部分を利用したもの。
(丘の頂上に壕をめぐらしたチャシ) |
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D |
孤島式チャシ |
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平坦地あるいは湖の中に孤立した丘あるいは島を利用したもの。
(湖や湿原に浮かぶ島を利用したチャシ) |
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E. |
平地式チャシ |
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(低い台地の上に壕をめぐらしたチャシ) |
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枝幸地方のチャシでこれまでに発掘されたものは、わずかに2つ。今後の調査によってもっと多くのことがわかってくるかもしれません。 |
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枝幸地方の地方のチャシ
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枝幸地方のチャシ分布 |
【枝幸地方のチャシ分布】
・イケンルニチャシ(D)
・シオチャシ (E)
・ヤムワッカチャシ (A)
・ウバトマナイチャシ(A)
・ヘーチャンチャシ(A)
・幌別川尻北チャシ(D)
・幌別川尻南チャシ(D)
・パンケナイチャシ(B)
(現存するチャシ)
(消滅したチャシ)
()内はチャシの立地型式 |
枝幸に伝わるレタルペ
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北海道の伝統的なアイヌ民族の衣服としては、オヒョウニレの樹皮の内側にある繊維を材料とした「アトウシ」が知られていますが、樺太アイヌは、主にイラクサから取り出した繊維を衣服の材料としていました。
このイラクサを材料とした衣服を「レタルペ」と言います。レタルペは、アトウシと比べると、色が白く、風合いも異なります。
なぜ、枝幸地方に樺太アイヌが用いる「レタルペ」が伝えられたのか、記録は残っていません。道内でも数少ない貴重な資料です。 |
枝幸に伝わるレタルペ |
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レタルペ
・イラクサの靭皮衣。宗谷地方、下北地方に見られる上着 引用
・白いもの(衣)
・テタラペともいう。白い繊維を織ったもので、白いもの。
・ツルウメモドキまたはイラクサの繊維で作 られるもので,色がアツシの薄茶色に対して白いことが特徴
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川尻南チャシ |
・独立丘を利用した「孤島式」チャシの代表例
・南貝塚式そのものと考えられる土器が. 枝幸川尻チャシ, さらには端野広瀬遺跡から出土している |
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652チャシと送り場
送り場
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アイヌ文化の人々は、身の周りの自然や道具、動物たちに「霊的な存在」が宿っていると考えていました。日本の「八百万の神々」と考え方が似ています。
「霊的な存在」を、神様の国へと「送り返す」儀式を行った場所を「送り場」といいます。
送り場から、当時のアイヌ文化の人々の精神文化や価値観を知ることができます。 |
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送り場
ガラス玉の発見
中川町オフイチャシ跡 |
天塩川を臨むチャシの下の「送り場」で発見。
ほかにカワシンジュガイや漆器の破片などが出土した。 |
チャシ
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もう一つ、アイヌ文化の重要な遺跡が「チャシ」です。チャシは、自然の地形を巧みに利用して作った「砦」のことです。
チャシは、敵から身を守るためだけでなく、儀式や交渉の場、見張り場としても活用されました。
チャシは全道で500カ所以上が見つかっており、宗谷地方にも残されています。
チャシと送り場は、アイヌ文化の成り立ちとその後の展開を伝える貴重な遺跡です。 |
オフイチャシ跡
那賀川町 |
←天塩川と安平志内川(あべしないがわ)の合流点に建つ道北最大のチャシ |
シベチャリチャシ
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←シベチャリチャシ
シャクシャインの根拠地とされる道内最大のチャシ |
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北オホーツク水系のチャシ分布
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・オニシベツ
・サルコツ
・トンベツ
・ショナイ
・ヘラシウシ
・エサシ
・ヲンクロ
・ヲンマナイ
・トウシベツ
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・ベラエウシナイ
・ニウシドマリ
・フウレップ
・ヲチシベ
・ホロナイ
・ウキウシナイ
・ヲウム
・ヲタコボシベツ |
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・アトトマナイ
・オコツヘ
・モコツヘ
・ルロオツ
・リコツ
・モンベツ
・フンヘオマナイ
・コケムトウ
・シュユンノツ
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北オホーツク水系のチャシ分布
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現存・確認チャシ
1山軽チャシ
2イケンルニチャシ
3クッチャロ湖畔チャシ
4ショチャシ
5ペーチャンチャシ
6ヤムワッカチャシ 7ウバトマナイチャシ
8川尻南チャシ
9川尻北チャシ |
10高野チャシ
11トーベッチャシ
12オロカムイチャシ13リーチャシ
14音稲府チャシ
15札滑チャシ
16オムサロチャシ
17奥チャシ
18中立牛チャシ |
存在推定チャシ
19チャシコツ
20オタヌプリのチャシ
21フレチャシナイ
22チャシコツニ
23チウエンチャシ |
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653漆器
シントコ
近世アイヌ文化期
19-20c
枝幸町徳志別 |
湯桶
近世アイヌ文化期
19-20c
枝幸地方 |
棒酒箸
近世アイヌ文化期
19-20c
道北地方
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トゥキ
近世アイヌ文化期
19-20c
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シントコ
近世アイヌ文化期
19-20c
枝幸地方 |
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654東歌登遺跡
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北見幌別川とその支流、バンケナイ川との合流点に作られた、江戸時代から明治時代の遺跡です。
古い地図には、遺跡の周辺に「チャシ(砦)」や「メモ(湧水)」などの表記があり、この場所がアイヌ民族にとって大切な生活の拠点だったことが伺えます。令和元年の調査で見つかりました。 |
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東歌登遺跡
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寛永通宝のいろいろ |
寛永通宝
江戸~明治
東歌登遺跡 |
イトウ椎骨
江戸~明治
東歌登遺跡 |
ホタテ貝
江戸~明治
東歌登遺跡 |
ヒグマの尺骨
江戸-明治
東歌登遺跡 |
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670川真珠貝の貝塚
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枝幸町を東西に流れる北見幌別川は、歌登市街地のあたりでいくつかの支流と合流します。
この合流点に近い森の中に、カワシンジュガイ貝の殻空がたくさん捨てられているところが見つかりました。
カワシンジュガイは、カワシンジュガイ科の淡水性の二枚貝。貝殻の内側に美しい真珠層が発達することから、その名があります。アイヌ語では「ピパ」と呼ばれ、食用や道具の材料に利用されました。
近くから「寛永通宝」が見つかったので、江戸時代から明治時代にかけて捨てられたものと推定されます。
発掘調査の結果、寛永通宝のほかに、解体されたヒグマの腕の骨や、ホタテ、マキガイ、マガキガイなどの海の貝、サケや、メバルなどの海水魚の骨も見つかりました。
考古学では、古代の人々が貝殻を集めて、捨てた場所を「貝塚」と呼びますが、貝塚は単なるゴミ捨て場ではありません。人間が利用した生き物の霊を送るための「祈りの場」だった可能性もあります。
今の時点では、誰がこの貝塚を残したのかは分かりませんが、江戸時代から明治時代と言う、「黎明期の枝幸」の人々の暮らしを知ることができる貴重な発見です。「東歌登遺跡」として、新たに遺跡台帳に載せました。
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川真珠貝の貝塚 |
カワシンジュ貝の貝層
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貝塚の剥ぎ取り |
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考古資料終わり |
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