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01外観 |
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第1部 企画展 「地味にスゴイ!? 伊那市最近・発掘情報」 普通の発掘報告展です |
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10旧石器時代 伊那市の旧石器時代 今からおよそ4万年前の旧石器時代、日本列島に初めて人類が住み始めました。伊那谷でもその頃から人が暮らしていて、 食料となる動物を求めて移動する生活を送っていました。 伊那市内では12か所に旧石器時代の遺跡があります。 代表的な遺跡① 菖蒲沢遺跡 (西春近諏訪形) 中央自動車道を作る時に発掘された遺跡です。黒曜石製のナイフ形石器と刃器が出土しました。 菖蒲沢遺跡 浜射場・菖蒲沢遺跡 伊勢並遺跡 (西町小黒原) 神子柴遺跡を発掘した林茂樹氏が指導し伊那中学校考古クラブが発掘。図(写真4)は「上伊那郡誌歴史編」掲載の表面採取石器です。 伊勢並遺跡 伊勢並・赤坂遺跡 小黒南原・伊勢並遺跡 伊勢並遺跡 代表的な遺跡② 神子柴遺跡 (南箕輪村神子柴) 伊那市の隣、南箕輪村の神子柴遺跡からは日本で最も美しいとされる国重要文化財「神子柴遺跡出土品」の石器が出土しました。 これらの石器は1958(S33)、伊那中学校教員の林茂樹の発掘調査によるものです。現在、当館常設展で全てを展示しています。 神子柴系石器群 神子柴遺跡の石器群 神子柴遺跡 御子柴遺跡の謎 伊那市内、最近の発掘例 2013年(H25) 年に御園区牧ヶ原遺跡、西箕輪養護学校北遺跡の調査を行いましたが、遺構や遺物は出土しませんでした。 |
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11伊那市の旧石器時代 |
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(第1部 企画展) 20縄文時代 |
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21panel 伊那市の縄文時代 今から1万5000年~2800年前が縄文時代です。縄文時代になると、人々は移動生活をやめ、ムラを作り定住するようになりました。 シカやイノシシを狩り、ドングリやクリなどの木の実、その他の植物を採集して暮らしていました。この頃、まだ米作りや金属器はありませんでした。 約1万2000年も続いた長い縄文時代ですが、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6つに分けられています。 特に縄文時代中期、自然豊かな伊那谷や八ヶ岳周辺など、今の長野県一帯や関東地方は、森の恵みで生活した縄文人が住みやすい場所で、 当時の日本の中でも人口が多い場所でした。そのため、複雑な模様が付く立派な土器が沢山作られる、縄文文化が花開いた場所となりました。 |
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発掘で縄文時代の食べ物がわかる 遺跡からは、縄文人の家の跡や土器のほかに、食べていたものが炭となって残っていることがあります。ドングリでクッキーやハンバーグを作り、 そこに模様が付けられていた例もあります。 伊那市でも、縄文時代の道具や住居跡などが沢山出土します。市内の縄文時代遺跡数は279か所と、他の時代に比較してかなり多くなっています。 代表的な遺跡 三ツ木遺跡 (富県南福地) 縄文早期 昭和41年、この遺跡でほぼ完全な形の押型文土器がみつかり、伊那谷で最も古い縄文早期の土器として注目を集めました。
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21b最近の発掘 東垣外遺跡
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22伊那市縄文時代 過去の出土品 |
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24東垣外遺跡 平成36年 出土品 |
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25代表的な遺跡 御殿場遺跡 (富県北福地) 1966年開田事業に伴う発掘調査が行われました。台地上から縄文中期中葉の住居祉5軒、中期後葉11軒、平安時代3軒みつかりました。 この時出土したのが、国重要文化財「顔面付釣手土器」です。 現在は長野県史跡に指定され、縄文時代の竪穴住居を復元、展示しています。 月見松遺跡 (伊那下小沢) 15万㎡以上の広さがある、縄文時代中期の大集落跡です。1968年やはり開田事業に伴う発掘で出土しました。 縄文時代住居址が104軒、平安時代の住居祉が8件が見つかっています。市有形文化財「顔面把手付大深鉢」が出土しました。 埋甕とは何か ―住居の床に埋められた土器― 埋甕は縄文中期から始まります。 土器にはススや焦げが見られ、煮炊きに使用していたものを使いまわしたことがわかります。 土器の底を打ち割ったり、孔を開けたりしたものが大半で、中には口を下にして埋められた伏甕や、大きく平らな石で蓋をしたものも見られます。 この埋甕が何かは諸説あり、死んだ赤ちゃんや幼児を埋めて再生を願った説、出産時の胎盤(胞衣)を埋め子供の成長を願ったという説があります。 実は、胞衣を埋める行為は、弥生時代以降の遺跡にもあり、そして、明治以前にも民間習俗としてあり、人が踏めば踏むほど、その子が丈夫になると 考えられていました。 |
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26月見松遺跡 縄文中期 井戸尻式 |
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(第1部 企画展) 29旧石器時代から縄文時代の文化が花開いた伊那 約4万年前の旧石器時代、日本列島に人類が住み始め、伊那谷でもその頃から人が暮らしていて、食料動物を求める移動生活をしていました。 縄文時代になると、人々はムラを作り定住生活するようになりました。伊那市でもそんな昔の人々の道具や家の跡などが沢山出土します。 その中には、国の重要文化財に指定された素晴らしい石器と土器があり、伊那市創造館に展示されています。 旧石器時代 日本で最も美しい石器 神子柴型石器 旧石器時代は、気温が今より5~10℃も低い氷河期にあたり、厳しい環境の中、人類は石器と、毛皮で衣服を作るなど工夫して生活していました。 旧石器時代終末期から次の縄文に移る頃、約1万5000年前に作られた石器が「神子柴遺跡出土品」です。南箕輪村神子柴から87点出土しました。 中でも、薄くて長い木の葉のような槍先(尖頭器)や、分厚く断面が三角形の大きな石斧は、神子柴型尖頭器、神子柴型石斧、と呼ばれています。 石器材料は、岐阜、新潟、長野県和田峠などで採れる、それぞれの形に適した石を使っています。 日本で最も美しい石器と言われ、考古学の教科書に必ず出てくる、世界的にも有名な石器です。
縄文時代 特別な祭りに使われた不思議な形の土器「顔面付釣手形土器」 今から1万5000年前から2800年前が縄文時代です。写真の「顔面付釣手型土器」は旧富県村の御殿場遺跡の、縄文中期(約4700年前)の 住居祉から出ました。煮炊きに使う土器よりも分厚く丈夫に作られていたため、壊れずに完全な状態で出てきました。 顔の付いた土器は、長野県の中南部を中心に、祭祀具として作られました。また、釣手土器は、紐を通して吊下げる鉢形土器のことです。 1つのムラから、まれにしか出土しない土器で、中で火を燃やした跡があるものや、炉の近くから出土することから、火の祭に使われた土器と 思われます。 御殿場遺跡の「顔面付釣手土器」は、「顔」と「釣手土器」の二つの要素が合体した、縄文時代の中でも特別な土器なのです。 この土器の表面には優しい女神の顔がついています。しかし、裏側は、大きな口を開けたヘビのような模様がついていたり、 そのヘビの模様を鼻として見るとドクロのように見えたりします。この不思議な形は、縄文時代の人々の世界観・信仰を表しているのです。 縄文中期、自然が豊かな伊那谷や八ヶ岳周辺など、今の長野県一帯は、森の恵みで生活した縄文人が住みやすい場所でした。 そのため、当時の日本の中でも人口が多く、複雑な模様が付く立派な土器がたくさん作られた、縄文文化が花開いた場所となったのです。
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(第1部 企画展) 40弥生時代 約2800年前から1700年前の弥生時代は、大陸からコメ作りが伝わり、農業が行われるようになった時代です。 弥生時代の終わり頃には、女王卑弥呼がいたと中国の歴史書にあり、日本各地で小国同志の戦争が起きていました。 伊那では弥生前期の遺跡がほぼ未発見で、西日本で弥生時代が始まった頃、まだ長野では縄文的な生活が続いていたと考えられています。 市内では弥生遺跡が95か所あります。大規模な発掘調査例はなく、弥生中期の遺跡が僅かにあるほかは、ほとんどが弥生後期の遺跡です 代表的な遺跡 中村遺跡 1977年の発掘で弥生後期の住居祉6件が検出され、どの家にも埋甕炉がありました。2号住居祉からはヒスイ製の勾玉が出土しました。 鳥井田遺跡 1982年の発掘で弥生後期の住居祉9件が検出されました。土器はほとんど甕でしたが、僅かに壺や高坏が出土しました。 |
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41伊那市の弥生時代 |
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(第1部 企画展) 50古墳時代 |
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51伊那市老松場古墳群 6世紀半~8世紀初頭 7基の古墳中6期が円墳1基が前方後円墳とみられる。
伊那の教育※ 「小学生が古墳測量」なんてと、あなどってはいけません。これが伊那の教育なのです。子どもたち自らが学ぶ力を育てるという、 大変独特で、先進的な、実験教育が、何十年も続けられています。 参照 オルケア日記: 衝撃の教育でした 伊那市立伊那小学校の総合学習教育 |
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(第1部 企画展) 52古墳時代 3世紀中頃から8世紀までの、およそ450年間が古墳時代です。弥生時代の小国が次第に大きなまとまりとなっていった時代で、 当時の指導者やその一族など、力を持った者の権威の象徴として、古墳と呼ばれる大きな墓がつくられました。 中でも前方後円墳は、畿内地方で全長500mに近い大きさのものが造られるなど、当時の中央政権の成長と支配の過程を示すものです。 南信地方にも27基の前方後円墳 (上伊那1基、諏訪1基、飯田・下伊那25基) が存在していますが、これらに葬られた人物は、 中央政権と何らかの関係を持っていた地域の有力者だったのではないでしょうか。 松島王墓古墳 リンク リンク リンク リンク |
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(第1部 企画展) 60古代 |
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61奈良時代・平安時代 奈良時代は、奈良 (平城京など) に都が置かれた710年からの約80年間を、 平安時代は京都 (平安京) に都が置かれた794年からの約400年間を言います。 長野県は「信濃国」と呼ばれ、10の郡が置かれました。当時、「伊那郡」は今の上伊那の南部と下伊那全域、「諏訪郡」は三峰川以北にあり、 伊那市には二つの郡の境界があったようです。 伊那市には奈良時代の遺跡が44か所、平安時代の遺跡が152か所あります。 平安時代までは、一般人はまだ、縄文時代と同じような竪穴住居に住んでいました。 宮の平遺跡 遺跡は伊那市北部中央に位置し、古くからの集落の中にあります。縄文・弥生の集落遺跡があるとされていました。 東側には砂場遺跡があり、弥生から平安の住居祉が出ています。 弥生時代と平安時代の住居址を発見 弥生住居址6軒、住居の中央に壊れた土器を転用した埋甕炉があり、平安住居址7軒、壁際にかまどがあった。 かまどは古墳時代に大陸から伝わった画期的な調理設備でした。 |
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第2部 100常設展 |
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110神子柴遺跡 |
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111日本で最も美しい石器 神子柴遺跡の石器群は、このように形容される。長大な尖頭器と重厚感溢れる石斧によって象徴される石器群が、我国で初めて発見されたのが 神子柴遺跡であり、今から1万5000年前の旧石器時代末から縄文時代初頭にかけての「神子柴文化」として一時代を画す。 現在、神子柴の石器全ては日本を代表する先史時代遺物として国重要文化財になっている。 神子柴遺跡 遺跡は、伊那谷を貫く天竜川から西に1kmほど離れた小高い丘にある。1958年、最初の発掘が行われると、尖頭器や石斧と共に、 掻器・削器・石核・敲石・砥石・石刃・剥片・削片など87点余りが現れた。しかもそのほとんどは、欠損することのない完成品ばかりであった。 石器類は、3mの円を描くように配置されたり、同種の物が集積されたりしていた。 遺跡発掘によって 発掘によって大きな謎が浮かび上がってきた。時間をかけて作られた完成品の石器ばかりが、なぜ遺跡に置き去りにされたのか。 極めて優美な石器類は、果たして実用品であったのか。 そして、円弧を描くような石器配置は、どのような意味を持つ場所であったのか。 発掘後半世紀以上を経た今日でも、美しい石器には謎のベールがかかったままです。 神子柴遺跡の石器配置 は、 極めて象徴的な配置状況を見せることで注目されている。A・B・C区では、約3mの円を描くように石器が配置され、 その中には尖頭器が集石されたスポットbや、石核がまとめられたスポットe、黒曜石の破片が散らばるスポットfなどがある。 やや離れたF区では、スポットcから尖頭器や掻器・削器などが折り重なるように出土した。 住居か祭祀場か、あるいはデポと呼ばれる道具類の埋納・隠匿場所か、星を散りばめたように石器が並ぶこの場所は、 15000年前の世界を凝縮したミクロコスモスといってもいいだろう。 |
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「伊那市創造館 常設展示資料案内」より転載 常設展示 神子柴遺跡出土品パンフレット(PDF:771KB) 予備 112長野県神子柴遺跡出土品 66点 南箕輪村 旧石器時代最終末から縄文時代草創期 昭和63年(1988年)6月6日 国重要文化財指定 神子柴遺跡みこしばいせきでは、約6メートル×3メートルの狭い範囲から、完成された石器ばかりがまとまって出土しました。 大型のものが多く、刃の部分を磨いた石斧せきふや、両面を加工した尖頭器せんとうきなど、非常に高い技術で作られています。 また、未使用の石器が多く、意図的に配置されたような出土状態や、石材の産地が広範囲にわたることなどから、遺跡の性格をめぐって、 「祭祀場さいしじょう説」「墳墓ふんぼ説」「デポ(埋納)説」「住居説」など多くの説が唱えられていています。 神子柴遺跡 神子柴遺跡は昭和33(1958)年から3回の調査の結果、局部磨製石斧9、打製石斧4、尖頭器18など全部で87点が出土しました。 神子柴遺跡の石器は大型のものが多く、刃の部分を磨いた石斧や、両面加工の尖頭器など、非常に高い技術で作られています。 その特徴的な石器の中で、分厚く断面が三角形の刃部を持つ石斧は「神子柴型石斧」、 大型で精緻な作りの木葉形尖頭器は「神子柴型尖頭器」と呼ばれるようになりました。 また、石器には伊那谷・和田峠の石材の他、遠く離れた岐阜県や新潟県以北の石材が用いられていたことも特徴の一つです。 神子柴遺跡3つの謎「神子柴論争」 ①神子柴遺跡は祭祀場跡?住居跡? 神子柴遺跡では6m×3mの狭い範囲から、別の場所から持ち込まれたと考えられる、完成された石器ばかりがまとまって出土しました。(下図❹参照) また、意図的に配置されたような出土状態が特徴的であったので、遺跡の性格を巡って「祭祀場説」「墳墓説」「デポ(埋納)説」「住居説」など 多くの説が唱えられています。 ②石器は実用品?非実用品? 石器表面を顕微鏡で観察した結果、尖頭器の一部の品は、ナイフのように使われていたことがわかりました。 しかし、石斧をはじめ、現状では使われていない石器も多く出土しています。 これら未使用の石器は、祭祀などに用いられたのではないか、という考えもあります。 ③神子柴遺跡は旧石器時代?縄文時代? 神子柴遺跡では、土器が出土しておらず、石器の一部に旧石器時代的な特徴を持つ石刃技法が見られることから、 その時代を旧石器時代と考える見方もあります。 一方で、神子柴型石斧や神子柴型尖頭器が出土する他の遺跡では、しばし最古の土器が伴うことから、 縄文時代の最初頭(草創期)とする見方もあります。なかなか決着のつかない議論ですが、 今から約1万5000年前の、旧石器時代の最終末から縄文時代の最初頭にかけての遺跡であることは確かなようです。 |
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常設展示室 113神子柴型尖頭器 |
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115神子柴型尖頭器 |
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神子柴遺跡 遺跡の発見と発掘調査 遺跡は、上伊那郡南箕輪村7888番地、天竜川の西約1kmの標高714mの段丘上にある。 昭和24年の群馬県岩宿遺跡で、旧石器文化の発見は日本各地に影響を及ぼした。 昭和33年上伊那誌編纂会が南箕輪小学校にあった尖頭器に着目し、やがて同村神子柴大清水から出土し、15000年前の石器群が全貌を現した。 林 茂樹 上伊那誌編纂会原始古代班であった林は、神子柴遺跡の発掘と研究に功績があった。 石器の配置 遺跡からは約6m×3mの範囲で石器が発見された。その中には石斧が近接して置かれた場所、尖頭器(石槍)数本が重ねらた場所などがあり、 意図的に配置されたことは明らかである。 石器配置の西半分は、石器が3mほどの円を描くように並んでいるが、こうした配置の性格について、様々な説が出されている。 ①「住居」で道具が配置された状態だ説。 ②「デポ」道具を滞留して置いた場所説。 ③「祭祀」場説。 ④「墓」説。 120 |
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121尖頭器の使い方 |
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123神子柴型石器 石器が残された時代 神子柴遺跡は、今から1万5000年前、極めて寒冷な気候の氷河時代末期に残されたものである。 日本列島に最古の土器が出現するのがこの時代であり、神子柴ではたまたま土器がなかったが、 本来は土器を持つ縄文時代で最も古い遺跡として神子柴を位置づける考え方がある。 ただ、一方で、石器の特徴から、神子柴遺跡を旧石器時代の終わりとする見解もある。 磨いた石斧と長大な尖頭器を持つ神子柴文化は、これまでシベリアを起源として、北海道経由で本州にもたらされたと言われていたが、 実は北海道での存在が希薄で、北方起源という根拠にも疑問が出されている。 石器の用途 神子柴の石器がどのように使われたか、この点に関しても、石器配置と同様、いくつかの議論がある。 石斧は木の伐採や加工に、尖頭器は槍先に、掻器は皮なめしに、削器は切削に用いたとするのがこれまでの考えである。 一方で、神子柴の石器があまりに優美なので、実用品ではなく、財物として持たれていたものではないかとする見方もある。 石器の刃を顕微鏡観察した結果、使用痕があり、実用の黒曜石尖頭器であった。 使用痕からは、尖頭器が槍先ではなくナイフのように切開に用いられていたことがわかった。 黒曜石の掻器は皮などを切るのに使ったらしい。一方キュウリ型の砥石は、手に持って石斧を磨くのに使われたらしい。 石器の種類 神子柴型石器87点の種類
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125神子柴型石器 |
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127神子柴型石器 |
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129神子柴型石器 |
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131神子柴文化と暮らし 優美な石斧と尖頭器を持った神子柴文化の遺跡は、上田市唐沢B遺跡など、長野県内はもとより、国内でも広く確認されている。 神子柴文化を持った人々は、まだ、しっかりとした竪穴住居などを作らず、テント式※の住居で広範囲にわたる移動生活を繰り返していた。 氷河時代の当時は、今より数度も気温が低かったらしい。生業は狩りと植物採集だが、氷河時代を代表するナウマンゾウなどの 大型獣は絶滅し、シカやイノシシなどの中型獣を捕獲していたと考えられる。 まだ、弓矢などの飛び道具が発明されておらず※、出土した尖頭器の一部を槍に用いていたらしい。 特定の場所でしか産出しない黒曜石や下呂石などの石材資源が開発され、一定の物流ネットワークも存在していたことがわかる。 ※テント式とはいっても、テントを持ち歩いていたわけではないようです。冬は暖かい所へ、夏は食用植物の多い地域へと人も回遊していた。 ※大平山元遺跡からは、無文土器片と共に、石鏃も出土しているようです。 |
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133 |
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135神子柴型石器 製作技術 神子柴の尖頭器と石斧は、どのような道具で、どのような剥離動作で作られたのか。 遺跡には石屑がないので、ここでは作っていない。 だが、遺跡に来る前に行われた石器の仕上げの姿は、石器表面の剥離面観察と製作実験から浮かび上がる。 尖頭器の剥離面には、幅の広い割れの始まりと、平坦な割れの広がりが認められる。 つまり、尖頭器は、鹿角製ハンマーを石材に打ち当てる、直接打撃によって仕上げたと考えられる。 石斧の剥離面には、鹿角ハンマーで剥離した剥離面よりもくぼんだ割れの広がりが認められる。 つまり、石斧は、刃となる部分を研磨する前に、敲石51のような石製ハンマーの直接打撃によって形作られたと考えられる。 石器の石材 石器の種類に応じて石材を使い分けている。
石斧などの重量があって持ち運びが大変な石器は、遺跡付近の黒雲母粘板岩や砂岩、緑色岩で作られていた。 尖頭器の一部には遺跡から50km離れた和田峠の黒曜石や60km離れた岐阜県の下呂石が用いられた。 乳白色や黄色の尖頭器・掻器・削器は150km以上離れた新潟県以北の珪質頁岩や玉髄・碧玉で作られていた。 神子柴の石器石材 |
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136磨製・打製石斧 |
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150 顔面把手付大深鉢 月見松遺跡 縄文中期中葉井戸尻式最盛期 人面・土偶装飾付土器 人面装飾付の深鉢土器は、一般の深鉢土器と同様に、煮炊きの道具として使用された痕跡があります。 また、釣手土器と同様に、一つの遺跡からの出土数が少なく、一つの集落で一時期に一点ほどしか作らなかったと考えられます。 祭祀などの特別な時に、神に捧げる食物の調理に使ったのでしょうか。 神話学・民俗学からアプローチした研究では、人面把手付深鉢土器は、どれも胴部が膨らんでいて、人の顔が付くと土器全体が妊婦を表すように 見えること、人面把手付深鉢土器は土偶に表されたのと同じ母神の妊娠した姿をしており、煮炊きの用具であると同時に、 神聖な女性の像であるという解釈があります。 月見松遺跡出土の顔面把手付大深鉢 伊那市有形文化財に指定されている顔面把手付大深鉢は、1968年に月見松遺跡から出土しました。 土器の上部に環状の把手があり、その両側に半円形の浮文で乳房を表しています。 土器の中心部、円形の浮文は「ヘソを示す突起」または、「生まれ出る赤ちゃん」が表現されている、と、考えられています。 |
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151顔面把付大深鉢 |
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155御殿場遺跡と月見松遺跡 ―発掘調査に命をかけた人々― 「顔面付釣手形土器」御殿場遺跡は、1966(昭和41)年、「顔面把手付大深鉢」月見松遺跡は、1968(昭和43)年に発掘されました。 これらの場所は、木々が茂る緩やかな扇状地でした。開墾開田事業により沢山の遺跡が破壊の危機に瀕し、ブルドーザーの迫る中で 多くの地元研究者や教師、高校生たちが無償で調査を行いました。また市民からの声により、遺跡が保護されることとなりました。 月見松遺跡 縄文時代の住居跡が100基以上発見される。15万㎡以上に展開する縄文中期の大集落址です。 御殿場遺跡 縄文中期の大遺跡。 |
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156土器 |
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158月見松遺跡の出土品 土偶 中期初頭の土偶は、上伊那では6店しか出土していない貴重な資料です。中期以降、土偶が多く作られるようになっていきます。 子の土偶は、お腹とお尻が大きく表現され、妊婦を表していることがよく分かります。 |
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159御殿場遺跡出土品 |
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参考資料「顔面付釣手形土器」の解説 顔面付釣手形土器 伊那市創造館 転載顔面付釣手形土器パンフレット(PDF:651KB) 予備 高さ39.5cm幅25cm、煮炊き用土器よりも厚手。土器背面の両側に5本指のような表現があり、大きな手が土器を抱えるように見える。 背中は紐状の粘土を張り付けた立体模様になっている。小さく蛇行する様子は女性の髪の毛の表現と考えられます。 顔の付いた土器は、長野県中南部から関東西南部までを中心とした狭い範囲で縄文中期の一時期流行した。 この時期には、土器に神の像や世界観が、とくには派手な装飾で表現されました。顔面付釣り手土器もその一つです。 御殿場遺跡のとひじ用によく似た土器が、諏訪郡富士見町の曽利遺跡から出土しています。 釣手土器の用途 釣り手土器とは、ヒモを通して吊るす釣手が付いた鉢形土器です。 一集落遺跡から稀にしか出ない祭祀用土器です。 釣手土器には内側に加熱と煤の付着があり、灯火具と考えられます。が、この釣手土器には使用痕がありません。 葦木啓夏Blogー創世記ー縄文のマツリ。香炉型土器、女神の顔、もろもろメモ。 から抜粋 記述内容 長野県長和町の人面付香炉型土器の写真。 土器の母体、子宮の中でいのちの火を灯し、再生と繁栄を願う」ためのものかなと。 「石棒」と「釣手形土器」との関係。 中に火を灯した痕があった土器は、女神の首は跳ねられ、、、 長野県富士見町・曽利遺跡 人面香炉形土器の写真。縄文のメドゥーサ.の写真。石棒に噛みつく小型香炉形土器。 「縄文の夜神楽」ポスター。釣手土器と石棒が同一祭祀で使われたのかも。 なぜ、女神像が壊されなかったか、、、等々 |
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190顔面付釣手形土器 中期中葉 曽利Ⅰ式期 [唐草文Ⅱ期] 御殿場遺跡12号住 本釣手土器は、伊那市富県の御殿場遺跡より昭和41(1966)年に発掘された。 出土したのは、神子柴遺跡よりはるか一万年の時を経た、今から約4700年前の縄文中期中葉の竪穴住居跡である。曾利Ⅰ式期の土器。 眠るような眼、小さく開けた口。 耳飾りのような表現が土器の顔面部になされ、 後頭部は結髪のような表現がみられる。 土器の中央部には3つの窓が開く。 背面には複雑な文様が貼り付けられて、 紐を通す小型のアーチが左右に5個ずつ渡り、吊るすことができる。 釣手土器は、縄文中期の八ヶ岳山麓に誕生したもので、信州を中心に、中部・関東地方にみられる。 内部で火をともした灯火具という説が有力であるが、いずれにせよ非日常の祭具であろう。(※稀にしか出土しない、祭祀用の特別な土器です。) 本土器は、その優れた造形美により、現在国重要文化財に指定されている。 釣手土器のかたち ―様々なバリエーション― 釣手土器は、その釣手の形から、二窓式、三窓式、把手式に大きく分けられます。 人面・ヘビ・イノシシなどの立体的な装飾も見られ、バリエーションがとても豊かな土器です。 |
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191顔面付釣手形土器 御殿場遺跡 縄文中期 5,000年前 |
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顔面付釣手形土器 (御殿場遺跡) は、長野県長和町の人面付香炉形土器、長野県富士見町曽利遺跡の人面香炉形土器と酷似している。 |