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 北海道の縄文 №21   2022.06.09-3 

  羅臼町郷土資料館 北海道目梨郡羅臼町峯浜町307
   0153-88-3850 土日祝休(7/1~9月上旬無休、撮影可)

 館の特徴
知床半島の南半分の付け根知床観光地の反対側。
交通 ・レンタカー
・JR釧路駅からバスで180分(阿寒バス「峯浜入口」下車徒歩5分)きっと無理
近隣観光地 観光名所温泉宿
  近隣博物館   博物館地図
  宿泊情報  
 
 
 目次


02外観
100第1展示室
110縄文文化
111縄文早期の住居址
112沼尻式土器
 東釧路Ⅲ式土器
 北筒Ⅱ式土器
※考察
北筒式と東北円筒土器

114続縄文時代
115続縄文土器
116緑ヶ岡式土器
117興津式土器
120地図・年表

130続縄文文化
131続縄文土器
 宇津内Ⅱa式
 宇津内Ⅱb式
 下田ノ沢Ⅱ式
133後北C2式
※研究 後北式とは
※考察後北式の拡大

150国後島の遺物

170縄文土器
172東釧路Ⅴ式土器
※研究
東釧路Ⅱ式への変遷
※研究
北筒式土器の編年


171羅臼式土器
173北筒Ⅱ-Ⅴ式土器
175幣舞式土器
 緑ヶ岡式土器
180縄文土器
181東釧路Ⅲ式と
 有孔土製円盤
183北筒Ⅱ式
185興津式

200続縄文土器
213宇津内式
230下田ノ沢式
 後北式
250オタフク遺跡
※考察 石核・石刃について
252石器
263矢柄研磨器

270続縄文文化期
271日本最古の銀製品 
272植別川2号墓
274琥珀製品
275植別川1号墓出土
277ポン春刈古丹川北岸遺跡




300第2展示室
310知床の古代海洋文化
311知床半島の歴史と人々の生活
314オホーツク文化
315オホーツク文化の終焉
※資料 北の元寇

316古代の北海道・羅臼

320オホーツク・トビニタイ
321オホーツク文化期
323トビニタイ文化期
※研究 オホーツク文化

325擦文文化期
330オホーツク土器
400オタフク岩遺跡
401オタフク岩遺跡模型
410擦文式土器
 トビニタイ式土器
413トビニタイⅡ式
440住居形態
441各時期(各民族)の住居形態
443墓型式
450道具
451オホーツク文化の骨角器


460動物依存体
461各時期の動物利用

480儀礼
481トビニタイ遺跡
482動物儀礼

500重文展示室
501松法川北岸遺跡
513クマ容器
520動物意匠
523熊頭注口木製槽
524矢筒
525動物意匠骨角製品
527動物意匠土製品

530住居
531炭化木製品出土状況
535炭化木製品

540重文土器

580住居模型
※考察
 オホーツク人の舟

 
 02外観
この海霧の向こうに
国後島があるのだ
この先に見えるのは
知床半島の突端
羅臼町郷土資料館
旧植別小学校
 


 100第1展示室



 110縄文文化(約1万年~2千年)
 今から約1万年前に始まり、2千年前までの数千年間にわたって続いた、ヨーロッパやアジアでの新石器時代に対比される文化です。その継続期間が長いことから、便宜的に早期・前期・中期・後期・晩期の5期に分けられています。
 北は千島から南は沖縄まで日本全国に分布し、それ以前の旧石器文化には見られない土器を作り、弓矢を使用するようになりました。また、旧石器時代には洞窟や簡単なキャンプなどで獲物を追って移住生活をしていたものが、この頃からは竪穴住居を作って定住生活をするようになりました。

 生業活動としてはそれ以前と同じく狩猟や漁労が主だったようですが、これも弓矢の発明や離頭銛などの骨角器の発達により、より多くの獲物の捕獲が可能になり、人口が増大していきました。
 北海道での縄文文化の始まりは本州や九州などより若干遅れて、約8千年前の頃でした。
町内の縄文早期の遺跡としては峯浜町中谷遺跡、松法町オタフク岩遺跡第Ⅱ地点、、礼文町トビニウス川南岸遺跡道が、前期礼文町ソスケ遺跡中期は共栄町チトライ川北岸遺跡後・晩期は麻布町タッカリウス北岸遺跡、北浜町ルサ川遺跡などがあげられます。

 111縄文早期の住居址
オタフク岩遺跡第Ⅱ地点で確認された縄文時代早期(約7000年前)の住居址と土坑群(=穴)です。
奥の崖に1軒、手前に1軒の住居跡があります。円形、もしくは楕円形の住居で、柱穴が壁際に並んで確認されました。
土坑群は10ヵ所が6m×4mの楕円形に並んでおり、手前の住居が作られる以前に掘り込まれていたものです。大きな物見櫓でも建てていたのでしょうか。

縄文文化
縄文早期の住居跡
オタフクイワ遺跡第2地点
縄文早期
縄文早期の住居跡

 112沼尻式土器 沼尻遺跡(釧路市春採湖南岸) 縄文早期 貝殻文平底土器 (十勝縄文 Ia期=暁式 十勝縄文 Ib期=沼尻式)
縄文時代早期初頭(約8000年前)、道東で一番最初に作られた土器です。土器の表面は二枚貝の貝殻で擦って整えられており(貝殻条痕文)、また、口の部分にはギザギザとした貝殻の縁を押し付けた(貝殻腹縁)文様がつく付けられています。
 礼文町トビニウス南岸遺跡出土。
 
沼尻式土器
縄文早期
トビニウス川南岸遺跡
沼尻式土器


 東釧路Ⅲ式土器 縄文早期終末期に道内全域に分布  縄文早期終末期 約7000年前 絡条体圧痕文、羽状縄文が特徴

約7000年前の縄文時代早期の終わり頃の土器で、棒に縄を巻きつけて転がした文様(絡条体圧痕文)と『く』の文字状の、鳥の羽のような縄文(羽状縄文)が特徴です。この土器は分布の範囲が非常に広く、全道に見られます。
 松法町オタフク岩遺跡第Ⅱ地点6号住居跡出土。

東釧路Ⅲ式土器
縄文早期末7000年前
東釧路Ⅲ式土器
no caption

 北筒Ⅱ式土器  縄文中期 北筒式土器は4500から4000年前の土器
石狩低地帯以東に分布する、道東の縄文中期を代表する土器です。「北海道円筒式土器」の略ですが、その名の通り単純な筒型をした土器です。
分厚い器厚口縁部の隆起帯変形竹管文が大きな特徴です。
 チトライ川北岸遺跡出土

北筒式土器
縄文中期
チトライ川北岸遺跡
北筒Ⅱ式土器 北筒式土器
縄文中期
チトライ川北岸遺跡

北筒Ⅱ式はトコロ6類と5類がある。どちらも円形刺突文だが口縁部が
6類:三角形
5類:丸みを帯びた三角形
北筒式土器の変遷と展開
6類は5類より古い
以後は細岡式・羅臼式・丸松Ⅰ式・丸松Ⅱ式と新しくなる。

 113
 ※考察 北筒式土器と東北円筒土器
北筒式土器の年代と分布域
 北筒式土器は北海道式円筒土器の略称で、「胎土に繊維を含む」、「口縁部に厚い隆帯とその下に円形刺突文蛾取り巻く」、「口縁部に4・6・8・12程の三角突起」がつく特徴がある。
 一般的に北筒式土器は、4500年から4000年前、縄文中期末から後期初頭の道東を分布の中心にした土器です。函館市では、中期後半道東や道北に分布、羅臼町では石狩低地以東としていますが、その地域でほぼ一斉に流行した土器型式です。この地域は同一文化圏でした。
 北筒式土器は道南には分布しませんでした。しかし、道南には円筒下層上層式土器が青森から分布を広げました。

青森円筒土器の年代
 青森の円筒下層式土器の最古とされるもの、初期の円筒下層式は、前期中葉、約5900年前の十和田火山の火山灰の上から出土します。
函館市ではサイベ沢遺跡(縄文前期~中期の円筒土器遺跡と呼称される)の貝塚層の1-4層が円筒下層式、5-7層が円筒上層式土器が出土しました。
従って、道南~石狩低地は青森円筒土器文化圏でした。

石狩低地以西と以東の関係
 「北海道の縄文シリーズ」が始まって以来ずっと引っかかっていた、青森縄文人と北海道縄文人の対立です。
 1万4000年前の北海道草創期の土器も青森縄文人が持ち込んだか、作ったかしたものです。
 今度は、早期末から中期末まで、道南と石狩低地以東は別の文化圏でした。きっと道南には青森縄文人が多く移住し、北海道縄文人とは対立的で接触を拒む関係だったのでしょう。もしかすると、文化的にも西高東低だったのかもしれません。

円筒土器文化と北筒土器の関係
 北海道の円筒土器文化は東北円筒土器の影響を受けたのでしょうか。
 ・ここに青森県六ケ所村郷土館が誰もしなかった円筒土器の編年を巨大な写真で解説して頂いてます。
  引用「円筒土器文化圏の始まりの土器:細かな縄目の美しさ」青森県六ケ所村郷土館
 ・北見市の土器編年写真は素晴らしいものですが、copyrightがついているので引用できません。
 ・「縄文の風」素晴らしいブログですが、copyrightがかかってないので引用させていただきます。

 円筒土器と北筒式の比較
 早期(1万2000年~6000年前)・前期(6000~5000年前)・中期(5000~4000年前)・後期(4000~3000年前)・晩期(3000~2500年前)
 早期(1万1500年~7000年前)・前期(7000~5500年前)・中期(5500~4400年前)・後期(4400~3200年前)・晩期(3200~2400年前(東北・関東地方)
 円筒土器  
7000年前
(縄文早期)

芦野ⅠⅡ群
深郷田など
5600年前 5500年前 5300年前 5100年前 4900年前 4700年前 4500年前 4300年前 4100年前
 北筒式  
7000年前
東釧路式
無関係資料
北見市土器
早~前期
前期
前末~中期末
後~晩期
続縄文前半
続縄文後晩期
土器➀
口縁部刺突文
押型文
土器②
全体に円形竹菅文


北見市
波状口縁
押型文


北見市
口縁部に
厚い粘土帯


北見市
4500年前
刺突文が口縁部を一周する伝統的北筒式土器


北見市
4500年前
引用縄文の風
北筒式土器
4200年前
北筒Ⅱ式
4200年前
北筒Ⅱ式
北見市縄文後期


結論 円筒土器と北筒式土器 
 比較してみて、北筒式は東北円筒土器とは全く無関係。時代も形も全く違う土器でした。
北筒式が始まった頃には東北円筒土器は終末期で、大木式土器に移っていました。

 北筒式は、北見市の縄文前期末に現れる口縁部に円形刺突文が一周する文様が伝統として継承され、7000年前の東釧路式の円筒形土器と、口縁部に焼ひびが入ることを防ぐ分厚い粘土帯を作り、東北地方の流れを組む植物繊維を混ぜて成形中に崩れることを防いだ独特の土器として、東北円筒土器とは無関係に発達した土器だと言えます。
 ただ、写真写りを考慮されたか、東北円筒土器はえりすぐりの優品が上がっているので北筒式は見劣りが激しいのは仕方がない。

これでわかったこと 東北円筒土器の発生
 東北円筒土器は、十和田火山の噴火に伴って発達した土器だという説があり、そう思っていました。しかし、5900年前の十和田火山灰は真っ直ぐに太平洋に抜け、非常に限定的な地域にしか降灰しませんでした。にもかかわらず青森日本海側から南は仙台付近まで、北は道南までが噴火の影響で円筒土器を使うことを余儀なくされたということはあり得ません。
 それどころか、北海道はほぼ全道が何度も何度も、あちらでもこちらでも、激しい火山噴火と降灰、火砕流の襲来を受けており、もし、火山災害によってバケツ土器が必要なら、北海道が真っ先であり、しかも、ずっと長い間使い続けなければならなかったでしょう。
 したがって、円筒系土器と火山災害とは無関係に思えます。それよりも、東北円筒土器には大陸で流行していた円筒土器文化の方が関心があります。北海道の円筒土器文化と大陸の円筒土器文化は時間的に無関係のようです。これまで関係あると考え、そう書いてきましたが、ここで訂正いたします。無関係です。
 


 114続縄文時代 約2500~1400年前 弥生時代~古墳時代相当期

約千年間の続縄文時代は土器型式により
  続縄文時代の区分
続縄文時代 前半
(紀元前4世紀~
紀元後1世紀頃)
早期
 前期
 中期
続縄文時代 後半
(紀元2世紀~
紀元6世紀頃) 
後期 
 晩期
弥生時代
(紀元前10~
紀元後3世紀)
  早期 (紀元前10~紀元前5世紀)
   前期 (紀元前5~紀元前2世紀)
   中期 (紀元前2~紀元前1世紀)
   後期 (紀元前1~紀元後3世紀)
古墳時代 
(紀元3世紀~6世紀頃)
  前期 (3世紀~4世紀) 
  中期 (4世紀末~5世紀) 
   後期 (5世紀末~6世紀頃)

   
 115 続縄文時代の土器
  引用「続縄文時代とは」

 116緑ヶ岡式土器 縄文晩期-続縄文初頭  釧路市材木町
・多様な器形で有名な幣舞式土器(2700-2400年前晩期後半)の直上から出土する土器で、続縄文早期に分布を広げたと考えられる。
・亀ヶ岡式土器を伴わないが亀ヶ岡系の口縁部に工字文くずれの沈線文、縄線文などがあらわれる。

緑ヶ岡遺跡 釧路市 
 道東と渡島半島の交流を物語る土器の出土。 8体合葬の墓が出た縄文晩期の基地遺跡
 8体合葬の墓には、在地の幣舞式土器とともに、道南の日ノ浜式土器の壷などが出て注目されました。
他の墓からは、イノシシの下顎骨、コハク玉、貝玉などが出ました。別な墓では漆塗り櫛を頭部につけたままの状態のものもありました。
※イノシシの下顎骨は本州との交易。琥珀玉はサハリンとの交易。貝玉は利尻島との交易。赤漆塗りの櫛は、アムール川流域との交易を示している。

引用 緑ヶ岡遺跡 コトバンク
 縄文早期~擦文時代の遺跡が濃密に分布する地域である。そのうち、縄文晩期の出土土器が緑ヶ岡式とされた。

緑ケ岡式
縄文晩期
タッカリウス川北岸1遺跡

 117興津式土器 縄文早期  続縄文初頭の土器 約2200年前  興津遺跡:釧路市興津3-25
    緑ヶ岡式土器の系譜の土器
釧路、根室地方に多く見られる続縄文時代早期(約2200年前)の土器です。器面を一周するように、縄を押し付けて施文される「縄線文」が多様されています。
 タッカリウス北岸Ⅰ遺跡出土(羅臼町八木浜町)

興津式土器 興津式土器
続縄文早期
タッカリウス川北岸1遺跡
約2200年前
興津式土器
 
 120地図・年表
 121知床半島遺跡地図
知床半島羅臼町・斜里町 半島突端
番屋と瀬石温泉ぐらいしかない人跡果る辺り
知床横断道路
半島西側は観光地
瀬石温泉で正平さんが「混浴温泉風呂連続殺人事件」のロケをしています
密集する遺跡
先史時代人はこんな地の果てにも豊富な食糧を見つけて住み着いた
羅臼町南部の遺跡
羅臼の海岸は遺跡だらけ
。豊かな土地だったようです。
知床半島は、今も、
人をも喰うヒグマの天国。こんなところに縄文人はどうやって暮らしたのでしょう。
恐ろしくて近寄れない土地ですが。 
 123年表
羅臼町先史時代年表 旧石器~縄文晩期
弥生~トビニタイ トビニタイ~アイヌ文化


 130続縄文文化 (紀元前3世紀~紀元後6世紀) 1000年間続きました
本州ではそれまで数千年間にわたって永々として続いてきた縄文文化は紀元前3世紀頃、突如として終わりを告げました。稲作を生産基盤とする弥生文化の誕生です。
しかし、稲作の不可能であった当時の北海道には弥生文化は入ってくることが出来ませんでしたので、漁労、狩猟を生産基盤とする縄文文化は本州の弥生文化、古墳文化と並行して営まれました。これを「続縄文文化」と呼んでいます。

この時期に作られる土器は縄文を主とはしていますが、地方色に富んだもので、例えば知床半島では釧路地方に多い「下田ノ沢式土器」と網走、北見地方に多く見られる「宇津内式土器」とが混然と出土し、更には道央に拠点を置く江別式土器も出土します。この時期の遺跡としては春日町幾田遺跡、タッカリウス川南岸遺跡、ルサ川遺跡等があります。

続縄文時代

 131続縄文土器

 宇津内Ⅱa式(続縄文前期の土器)
 口縁部に見られる、内側から外側に向かって付けられた突瘤文が特徴です。器面は様々な隆起帯が貼り付けられます。約2100年前、続縄文時代の早い時期に作られていました。ショウジ川南岸遺跡出土
 宇津内式土器は、続縄文時代前期から中期の道東北部網走地域を中心に分布する土器である。Ⅱa式とⅡb式に細別されており、前期の型式であるⅡa式は口唇部直下にめぐる突瘤文を特徴とする。
宇津内Ⅱb式土器は、続縄文時代中期の網走地域を中心に分布する土器である。Ⅱa式にみられた口唇部直下の突瘤文は消失し、その位置には貼付文がめぐるようになる ...

宇津内Ⅱa式
ショウジ川南岸遺跡
宇津内Ⅱa式土器

  宇津内Ⅱb(続縄文中期
 Ⅱa式にみられた口唇部直下の突瘤文は消失し、その位置には貼付文がめぐるようになる。口縁部や胴部の貼付文もⅡa式からさらに発達する。
 引用「宇津内Ⅱb式土器
宇津内Ⅱb式
続縄文中葉
幾田遺跡



 下田ノ沢Ⅱ式土器(続縄文時代中期) 約1800年前
 続縄文時代中頃(約1800年前)の土器です。釧路地方に多く見られます。胴部上半が大きく膨らみ、斜行する縄文と口縁部の二つの大きな吊り耳、あるいは突起が特徴です ポン春刈古丹川北岸遺跡9号住居址出土。
 下田ノ沢Ⅰ式(下田ノ沢式)はこの地域では出土していません。

 厚岸町 下田ノ沢遺跡(釧路市東隣)
  続縄文・擦文・オホーツク式の各土器や金属器、住居跡、貝塚、、擦文人骨が出土。

下田ノ沢Ⅱ式

 133後北C2式土器 続縄文後半期 2世紀~4世紀頃
深鉢・浅鉢・注口土器がセットで、すべて平底となる。 円や弧を描く帯縄文を、断面形が三角形の微隆起線文や三角列点文で縁どって文様が構成される。 口唇は鋭い三角形に整形され、細かな刻み目がめぐらされる。

後北C2式
続縄文後葉
幾田遺跡
後北C2式
続縄文後葉
幾田遺跡

 135※研究 後北式土器とは
 後北式土器とは後期北海道薄手縄文土器の略である。
後北式は道央で起こったが、続縄文時代後期後半期後北C2・D式土器は、
北海道全域に広がり、サハリン南部・南千島、東北地方南部、越後平野にまで広範囲に拡散した。

 東北地方の続縄文土器・後北式土器  引用「03_青森県史資料編考古3」
(2)続縄文土器
 古墳時代の続縄文土器は,後北C2・D式→北大Ⅰ式→北大Ⅱ式→北大Ⅲ式の順に変遷する。後北C2・D式は現在,さらに数段階に分類されており,年代的には3~4世紀頃と考えられている。また,北大Ⅰ式から北大Ⅲ式はおおよそ4世紀末頃から7世紀前半頃に位置づけられている。
 後北C2・D式は深鉢・鉢・注口土器,北大式は深鉢・鉢・片口土器で構成され,文様は後北C2・D式が帯縄文と微隆起線文・三角刺突文などの組合せ,北大式は円形刺突文(突瘤文)が主な特徴となっている。
 青森県では後北C2・D式が約80遺跡から出土しており,北大式は八戸市市子林遺跡や田向冷水遺跡,天間林村森ヶ沢遺跡など10遺跡近くからの出土が知られている。なお,北大Ⅱ式は今のところ発見されておらず,北大Ⅲ式の出土はごくわずかみられるにすぎない。

3.東北地方北部における4つの系統の土器の時間的関係
 北海道および東北地方北部などの各遺跡で確認されたさまざまな共伴事例により,これまで述べてきた4つの系統の土器の時間的関係が具体的にわかってきた。これらの出土事例をもとに,4つの系統の土器の存続期間を大まかな時間幅でまとめると表2のようになる。
 つまり,3世紀代には続縄文土器(後北C2・D式)・赤穴系土器・土師器(塩釜式並行)の3つの系統の土器がみられ,4世紀代には赤穴系土器は消滅し,続縄文土器(後北C2・D式)と土師器(塩釜式)の2つの系統となる。5世紀代には続縄文土器(北大Ⅰ式)・土師器(南小泉式)・須恵器がみられ,そして6世紀代には続縄文土器が徐々に少なくなり,7世紀以降には土師器・須恵器のみとなるのである。

4.東北地方の続縄文土器のあり方
 北海道を起源とする続縄文土器である後北C2・D式土器は,東北地方全域と北はサハリンやエトロフ島,南は新潟県にまで分布範囲を拡大する。また,後北C2・D式に続く北大Ⅰ式は,東北地方の太平洋側に多く分布するようになる。
 東北地方の後北式と北大式の出土遺跡数を県別にみてみると,現在のところ青森県約90遺跡,秋田県12遺跡,岩手県約70遺跡,山形県5遺跡,宮城県約20遺跡,福島県3遺跡,新潟県11遺跡となっている。ただし,良好な出土状況を示した遺跡はわずかで,数点の破片が出土するだけの場合が多い。

 土器の分布状況をみると,青森県の下北地方と津軽地方および新潟県には弥生時代後期の後北C1式が認められる。これらの地域では後北C2・D式の分布以前から続縄文土器の分布が始まっていたことがうかがわれる。次の後北C2・D式の分布を時期別にみると,日本海側の秋田県や新潟県では古いタイプのものが目立ち,太平洋側の岩手県や宮城県では新しいタイプのものが多い。そして,これに続く北大Ⅰ式は後北C2・D式の新しいタイプのものと同じく岩手県・宮城県に多い。
 このように,東北地方の後北C2・D式から北大Ⅰ式までの分布を時期別にみると,後北C2・D式は,先に日本海側に主に分布し,その後太平洋側へと移り北大Ⅰ式まで継続した,という状況がうかがえる。
 なお,こうした続縄文土器の分布は,続縄文文化の人々が北海道から南下した結果と考えられているが,東北地方の粘土で製作したとみられる資料も増えてきたことから,赤穴系土器の担い手が徐々に続縄文土器を使用するようになったとも考えられている。

 サハリンの後北C1・D式土器 文献は見つからず。ただ、分布域を南部とする、中部とするものあり。
 千島列島の後北式土器 文献見つからず

 ※考察 後北式土器の拡大
 北海道の道央から始まった後北式土器文化が、短期間に北海道全土を覆い、巨大な文化圏と流通・交易・言語圏を獲得し、
南下して東北北部から新潟県中央部にまで多数の遺跡を形成する。また、広大な北海道の倍の広さを持つサハリンの中央部にまで圏域を広げ、
南地島(北方四島)にも拡大していた。

 これは、これまでの続縄文人に対する認識とは全く違う。このようなダイナミックな活動は、これまで取り上げられてこなかったのではないか。
 私は、オホーツク人の南下が始まった続縄文晩期の段階では、続縄文・擦文人は内陸の縄文人であり、狩猟採集生活の文化の遅れた人々と考えていた。だから、オホーツク人が宗谷岬を西に・東に南下して、北海道東西沿岸に拠点をおいて、海洋狩猟と交易のダイナミックな活動をしていた時も、内陸や沿岸の小規模な活動しかできない人々と考えてきた。そして、彼らがオホーツク文化を滅ぼすに到る力を持ったのは、時間をかけてオホーツク人との通婚が進み、彼らの海洋文化を擦文人が獲得したためだと考えていました。実際そうなのだろうと思いますが、しかし、続縄文後期末には続縄文人はオホーツク人ほどではないにせよ、実にダイナミックな活動を行なっている。その活動範囲は、のちのオホーツク人の活動範囲とほぼ重なっている。

 後北式土器圏の拡大は、後北式土器文化人、つまりは北海道続縄文人の各地への進出・移住が契機である。そして、あるいは移住先の在地住民が土器を模倣したりもして拡大したようだ。
 サハリン南部への進出は、この人々の末裔がやがてニブヒと混血してオホーツク人を生み出し、次の世代の海洋民族を形成したのではないだろうか。恐らくそうだと思います。
 

 150国後島の遺物
 国後島は根室海峡を隔てた羅臼の眼前に位置する島です。1500㎢の面積がありますが、これは知床半島の約1.5倍にもなります。アイヌ語ではクンネ・シリ「黒い島」を意味しますが、よく晴れ渡った日には長々と横たわる巨大な黒い島影を見ることができます。この島に先住民族の遺跡がある事は古くは明治時代より知られていましたが、昭和初期になってから組織的な、あるいは個人的な調査が始まりました。特に有名なのは昭和8年、当時北大の教授であった名取武光博士によるもので、このときの調査では4ヵ所の遺跡を調査、測量しています。

 村田吾一氏が遺物を集められたのは主に昭和3年から7年にかけての古釜布尋常高等小学校在職中の事ですが、その一部を昭和16年、羅臼へ赴任の際に持参しました。遺物は土器、石器、古銭等ですが総点数は440点に及び、
主に本州の弥生時代にあたる続縄文文化期からアジアのバイキングとも言われる北方狩猟民族の築いたオホーツク文化期(6~13世紀頃)
そして宝永5年(1708年)鋳造の寛永通宝に至るまで、幅広い年代の遺物が集中されています。
 指呼の間の国後島がロシアの管理下にある現在、村田吾一氏の収集された資料は南千島の古代史を探る上で欠かせない資料となっています。
 151
国後島の遺物 国後島の遺物 国後島の遺跡分布
 152石斧
石斧 石斧
 153砥石
砥石
 154尖頭器
石鏃・尖頭器 石鏃 尖頭器
 155土製品
土製品
 156骨器・玉類
骨角器 玉類
 
 

 羅臼中学校校庭遺跡を中心として

 170縄文土器

 
 172東釧路Ⅴ式土器 約5000年前
東釧路式土器は縄文早期から前期の土器群です。東釧路貝塚貝層の下から東釧路1~4式が、貝層中から5式土器が出土した。
東釧路貝塚は、動物の遺骸をあの世に送る風習の降ったことがわかる画期的な遺跡とされている。

貝塚下の縄文早期の土器群、東釧路1~4は8000~7500年前から始まり、貝塚の形成は6000年前~5000年前とされ、Ⅴ式土器は5000年前とされている。


 ※研究 東釧路Ⅱ式に至る土器の変遷
  引用「釧路町 東陽1遺跡」
東釧路Ⅴ式
縄文前期
約5000年前
ソスケ遺跡
東釧路Ⅴ式
縄文前期
約5000年前
ソスケ遺跡
東釧路Ⅴ式
縄文前期
約5000年前
ソスケ遺跡
ソスケ遺跡
 縄文前期
 尖底土器

 ※研究 北筒式土器の編年 4500~4000年前  引用「北筒土器の変遷と展開」
 図は北筒式土器を古い順に並べたものである。 まづ「北筒Ⅰ式」という型式はない。最古式が北筒Ⅱ式である。
研究者それぞれが勝手に名前を付けたため、混乱している感がある。

 
 
 171羅臼式土器 (北筒Ⅲ式の新手) 4100年前
縄文時代中期末葉の土器です。昭和35(1960)年、羅臼中学校校庭整備(現在の羅小グランド)の際に出土した土器について東京大学による、命名されました。
全面を覆う腹縁の縄文と、繊維をほとんど含まない胎土が大きな特徴です。

羅臼式土器 縄文中期末~後期前葉 約4100~4000年前 に道東に分布する北筒式の内トロコ5類より新しい土器。
 特徴は口縁部から体部にかけて施文された縄文を、横に無文線をひいて磨り消している。

羅臼式土器
 

 173北筒Ⅱ~Ⅴ式土器 4000~3200年前 縄文中期末
北筒Ⅱ式土器は北筒式土器の最古型式。北筒Ⅰ式という型式はない。Ⅱ式はトコロ6類と5類に分けられる。

北筒Ⅱ式
縄文中期
約4000年前
植別川遺跡
北筒Ⅱ式
縄文中期
約4000年前
植別川遺跡
北筒Ⅱ式
縄文中期
約4000年前
植別川遺跡
北筒Ⅴ式
縄文中期末葉
約3200年前
相泊川南岸遺跡
 

 175幣舞式土器 縄文晩期 約2500年前
幣舞式土器は晩期後半2500年前の土器。多様な形状の土器がある

ヌサマイ式
縄文晩期
約2500年前
タッカリウス北岸Ⅰ遺跡
ヌサマイ式
縄文晩期
約2500年前
チトライ


 緑ヶ岡式土器 縄文晩期末 2400年前
道東の縄文晩期後半の土器編年は幣舞式土器(2500年前)の上から緑ヶ岡式(2400年前)が出土する。

緑ヶ丘式
縄文晩期末
約2400年前
幾田遺跡
興津式
続縄文初頭
約2200年前
ポン春刈古丹川北岸
興津式
続縄文初頭
約2200年前
植別川北岸遺跡
 
 

 180縄文土器

 181東釧路Ⅲ式有孔土製円盤 約7000年前
土器の破片の周囲を打ち欠いて円形に形を整え、中央に穴を開けたもので、穴の開いていないのは製作途中で壊れてしまった未製品と思われます。
はっきりとした使用方法は分かりませんが、糸を紡ぐ際のおもりとする「紡錘車」の可能性が強いと言われています。
ベースとなっているのは縄文時代早期末葉(約7000年前)の東釧路Ⅲ式土器です。
  オタフク岩遺跡第Ⅱ地点出土

東釧路Ⅲ式土器
オタフク岩遺跡第Ⅱ地点
有孔土製円盤
オタフク岩遺跡第Ⅱ地点
 183北筒Ⅱ式 約4000年前
北筒Ⅱ式
縄文中期
約4000年前
チトライ川北岸
北筒Ⅱ式
縄文中期
約4000年前
隧道丘陵地
北筒Ⅱ式
縄文中期
約4000年前
隧道丘陵地
北筒Ⅱ式
縄文中期
約4000年前
隧道丘陵地
 185興津式 約2200年前
興津式
続縄文初頭
約2200年前
植別川北岸
興津式
続縄文初頭
約2200年前
タッカリウス北岸Ⅰ
興津式
続縄文初頭
約2200年前
タッカリウス北岸Ⅰ
興津式
続縄文初頭
約2200年前
タッカリウス北岸Ⅰ
 

 200続縄文土器
 210左

 213 宇津内式土器
宇津内式
続縄文時代
幾田遺跡
宇津内遺跡
斜里町
         脚注無しですが、
鉢の両袖・紐通し孔として付けられた意匠です。
クマにも見えます。
熊の横顔
熊には首と胴の区別がある
 人にはこれがカエルに見えるのかも
蛙の横顔
蛙は頭と胴が一体である
宇津内式
続縄文時代
幾田遺跡 
         
 215中
 宇津内Ⅱa式
宇津内Ⅱa式
続縄文
約2100年前
漁協組合遺跡
宇津内Ⅱb式
続縄文
約1800年前
漁協組合遺跡
宇津内式
続縄文
幾田遺跡
 217下
宇津内Ⅱb式
続縄文
約1800年前
麻布遺跡
下田ノ沢Ⅱ式
続縄文
約2000年前
ポン春刈古丹川北岸遺跡
 
 220右
 222上
興津式
続縄文初頭
約2200年前
チトライ
宇津内Ⅱb式
続縄文
約1800年前
トビニタイ遺跡
宇津内Ⅱb式
続縄文
約1800年前
岬町遺跡
宇津内Ⅱb式
続縄文
約1800年前
岬町遺跡
脚注なし
 224中
宇津内Ⅱb式
続縄文
約1800年前
幾田遺跡
宇津内Ⅱb式
続縄文
約1800年前
幾田遺跡
宇津内Ⅱb式
続縄文
約1800年前
漁協組合遺跡
 226下
宇津内Ⅱb式
続縄文
約1800年前
幾田遺跡
宇津内Ⅱb式
続縄文
約1800年前
幾田遺跡
 
 230続縄文土器
 231右上
 232全
 233全上
下田ノ沢Ⅱ式
続縄文
約2000年前
ポン春刈古丹川北岸遺跡
下田ノ沢Ⅱ式
続縄文
約2000年前
ポン春刈古丹川北岸遺跡
下田ノ沢Ⅱ式
続縄文
約2000年前
幾田遺跡
下田ノ沢Ⅱ式
続縄文
約2000年前
幾田遺跡
下田ノ沢Ⅱ式
続縄文
約2000年前
相泊遺跡
下田ノ沢Ⅱb式
続縄文
約1800年前
漁協組合遺跡
後北式C2型
続縄文
約1600年前
漁協組合遺跡
後北式C2型
続縄文
約1600年前
岬町遺跡
後北式C2型
続縄文
約1800年前
タッカリウス北岸遺跡
北大Ⅱ式
続縄文末期
約1400年前
幾田遺跡
 235全下
宇津内式
続縄文時代
ショウジ川南岸遺跡
下田ノ沢Ⅱ式
続縄文
約2000年前
幾田遺跡
下田ノ沢Ⅱ式
続縄文
約2000年前
ポン春刈古丹川北岸
no caption
 
 

 250縄文オタフク岩(洞窟)遺跡  北海道目梨郡羅臼町栄町100-83
    続縄文期~トビニタイ文化期
     トビニタイ文化期の墓:土器・石器・骨角器・人骨・動物依存体
     擦文期:クマ送り儀礼が存在

     中高生用副読本 12世紀
     オタフク岩洞穴遺跡は続縄文文化期からアイヌ文化期の長期間にかけて、断続的に形成された遺跡だ。
     擦文文化期に、洞穴の奥に最大で13個体のヒグマの頭骨を集積した送り場跡が見つかっている。
     これらの頭骨の分析の結果、アイヌ文化のイオマンテ(クマの霊送り儀式)の祖型ではないかと考えられている。
 251オタフク岩遺跡
オタフク岩洞窟遺跡 オタフク岩洞窟におけるヒグマ儀礼の検討 アイヌ文化の成立を考える(オタフク岩洞窟の熊送り儀礼)

北筒式土器出土状況 北筒式土器の出土状態 4500年前
遺跡の発掘調査では、土器はほとんど壊れて、散らばった状態で出土しますが、まれに、このように置かれた時のままで出土することがあります。多くは住居跡の中や、墓の副葬品として確認されます。
隧道丘陵地遺跡
2号住居址
隧道丘陵地遺跡2号住居址 縄文中期
縄文時代中期の北筒式土器を伴出する、直径5mほどの住居址です。中央にはやや赤い部分がありますが、炉の跡です。
 縄文早期の石器
出土状況
 縄文早期の石器出土状態 7000年前
オタフク岩遺跡第Ⅱ地点から出土した約7000年前の石器です。2本の黒曜石で作られた石器が重なるように出土しました。
羅臼で発見される先史時代の石器はほとんどが、網走管内の遠軽町白滝村や置戸町周辺産であることがわかってきました。
石器の下の黄色い土約9000年ほど前の「ローム層」と言われる火山灰です。

※考察 石核・石刃について

次252の石核は、旧石器と縄文草創期の境界で流行した細石刃用ではなく、253のとても長い石刃を剥がすための石核のようです。
細石刃技術は4万年前のシベリアで生まれ、最終氷期の終末期に北海道に南下した。

しかし、もっと長~い石刃を剥がす技術は、縄文早期に北海道東部のオホーツク海沿岸を南下し、二次加工製品として石刃鏃が有名であるが、
 (石刃を更に加工した製品はナイフ・掻器・錐など様々ある。しかし、黒曜石節約技術である、細石刃などより)
黒曜石を潤沢に利用でき、より高品質な原石を選ぶことができる環境で、技術の熟成が起こり、
最長30mもの長さの石刃を剥がす技術にまで高まり、これによって大きくて規格性のある、美しい石刃製品が生産された。

ここで言いたいのは、北海道の縄文早期は約8000年前からとされるが、以下の説明では1万年以上前の製品ではないかとされている。
すると、北方民族ニブヒがオホーツク海に進出し、北海道沿岸で活動し、白滝・置戸の豊かな黒曜石鉱山と出会って、
高度な石刃技術を発達させたのは、縄文草創期に遡るのではないかと考えられる。
 ただ、この頃の遺跡のほとんどは今は100mもの海底に沈んで流されているので確かめることはできないでしょう。


 252石器
 石核
旧石器時代の石器製作技術を色濃く残した石器で、石刃を作り出すための原石となる石器です。上部には打撃を加えるための平坦な部分(プラットホーム)、側面には石刃を剥離した痕跡の縦の筋が何本も観察できます。オタフク岩遺跡第Ⅱ地点出土

 前浜海底より発見された旧石器
現在、羅臼町町内で旧石器の発見はありませんが、羅臼前浜では2個のマンモスの臼歯が刺し網にかかって引き上げられています。この石器も春日町沖で引き上げられたもので、1万年以上前の旧石器の可能性があるものです。
石核
石核
石核 前浜海底より発見された旧石器
旧石器
 253石刃
石刃  石刃
様々な石器を作り出すための原材となる石器です。一定の作業により同じ形のものを大量に作り出すことができます。
大きなものでは30cmを超えるものや、1~2cm程度のマイクロブレードなどもあります。

  オタフク岩遺跡第Ⅱ地点出土
石刃鏃
  石刃鏃
約7000年前、縄文時代早期に使われたは石器です。
バナナの皮のような石器の素材(=石刃)の縁だけを加工して「やじり」として利用しています。国内では道東だけで出土しますが、大陸ではシベリアやバイカル湖にまで広がっています。

  オタフク岩遺跡第Ⅱ地点出土
彫器 彫器   彫器
石刃の先端を斜めに打ち欠いて刃部を作り出した彫刻刀です。
木や骨などにすじを入れたり、裁割するための道具です。
縄文時代早期に作られた、旧石器時代の伝統を残す道具です。

   オタフク岩遺跡第Ⅱ地点・他出土
トコロ型ナイフ トコロ型ナイフ
  トコロ型ナイフ
石刃(ブレード)の一端に斜めに刃部を作り出した石器です。
獣の皮を剥ぐのに使われたものと思われます。刃部の方向を見ると「右利き用」と「左利き用」があったのかもしれません。縄文時代早期の遺跡から出土します。

   オタフク岩遺跡第Ⅱ地点出土
削器 削器
  削器
この石器はスクレイパーの仲間ですが、石刃の両側に刃をつけているものをこの名前で呼びます。
木や骨を削ったり、肉を切ったりするのに使われたものでしょう。

  オタフク岩遺跡第Ⅱ地点出土・他出土

石錐   石錐
現代の「錐(きり)」の役目をする石器です。
木や骨、皮などに穴を開けるのに使用されました。縄文時代早期の遺跡から多く出土します。

 トビニウス川南岸遺跡・オタフク岩遺跡第Ⅱ地点出土
  石鏃
石で(主に黒曜石)作られた矢尻です。
縄文、続縄文、オホーツクなどの先史時代の各時期に様々な形の石鏃が作られました。
敵や獲物などから一定の距離をおいて狙うことのできる弓矢の発明は、革命的なことだったと思われます。

  オタフク岩遺跡第Ⅱ地点出土

 

 260石器

 261石匙
縄文時代前期に特徴的な石器です。スプーンのような形をしているのでこの名が作られています。
流紋岩やチャートが使われ、黒曜石はほとんど使われていません。
「つまみ」の部分に柄を装着し、ナイフとして使われたものと思われます。ソスケ遺跡出土

石匙

 262尖頭器
 石槍や石銛など、先端の尖った石器を総称してこの名が付けられています。縄文時代早期から中期にかけて、多くの尖頭器が作られました。
 トビニウス川南岸遺跡・オタフク岩遺跡第Ⅱ地点出土

尖頭器

 263矢柄研磨器
弓矢の柄をまっすぐに矯正するときに使います。中央に溝のつけられた軽石2個で矢柄を挟んでしごきます。縄文時代早期から中期、又、オホーツク文化期の遺跡からも出土します。オタフク岩遺跡第Ⅱ地点出土

矢柄研磨器
 264掻器
スクレイパーとも言います。縄文時代から続縄文、オホーツク文化期まで、様々な形のものが作られました。皮を剥いだり肉を切ったり、木や骨を削ったりするのに使われていました。展示しているのは縄文時代早期のものです。オタフク岩遺跡第Ⅱ地点出土

掻器
 265石斧
約8000年前の縄文時代早期から1000年前のオホーツク文化期まで、石斧が使われ続けます。蛇紋岩などの硬くて粘りのある石を研磨して作られます。刃の付け方によって斧の役目をするものと、ノミの役目はするものの2種類があります。オタフク岩遺跡第Ⅱ地点出土・他出土

石斧
 
 266石鋸
石鋸は縄文時代早期から前期にかけての遺跡で出土します。多くは砂岩製で薄い板状になっています。石鋸で磨製石斧の原材料を切断して、その後砥石で形を整えました。このようにして作られた石斧を「磨切磨製石斧」と呼びます。オタフク岩遺跡第Ⅱ地点出土

石鋸
 267砥石
砥石は砂岩や軽石など、表面が荒い石を使います。
石斧や飾り玉、骨や角で道具を作るのに使われました。
表面が皿状に凹んでいるものや溝状になったものなどがあります。

砥石
 268石錘 (縄文時代早期:約7000年前)
魚を獲るための網のおもりです。この時期には両端、もしくは四隅を打ち欠いた小型の石錘が使われました。右端の溝の彫られたものは、この時代の石錘としては非常に珍しいものです。(オタフク岩遺跡第Ⅱ地点出土

石錘
 

 270続縄文文化期

 271日本最古の銀製品 
   植別川2号墓出土の銀片   日本最古の銀製品 画像
 1980年(昭和55年)羅臼と標津の境界を流れるを植別川の北岸にある植別川遺跡が調査され、縄文時代中期(約5000年前)~近世のアイヌ文化期にまたがる遺物や墓、住居等が確認されました。
 この遺跡からは続縄文文化期(約2300~1400年前)の墓2基が確認されましたが、そのうちの2号墓と名付けられた墓からは人骨と共に続縄文時代の初め頃に使われた興津式土器、石斧、砥石、琥珀玉の副葬品とともに1本の小刀と、それに際して奇妙な板状の金属が3枚発見されました。

 この時期は北海道に初めて鉄が入ってきた時期ですので、小刀自体は数は少ないのですが全道各地で出土しています。しかし奇妙な三枚の金属片はその正体がわからないので分析を依頼しましたところそれは純度90%以上の銀であることが判明しました。もちろんこの時代の日本には銀の精錬技術はなく、また中国でもその精錬技術の難しさから、金よりも貴重なものとされていたそうです。

 この墓に埋葬されていたのは50代の女性で、当時の墓は地面を掘り込んで手足を折り曲げて埋める屈葬がほとんどであったのに対しこの女性は地面の上に安置し、その上に海岸の小砂利をかけて埋葬すると言う特異なものでした。このような事からこの
女性自体が銀を携えて大陸から渡ってきたか、あるいは漂流してきた可能性も否定できないとされています。その場合、海流の状況などから樺太の南端から対馬暖流に乗るルート、あるいはアムール川河口付近から東樺太に乗るルートが考えられます。

 国内では佐賀県の惣座遺跡から銀製指輪が出土していますが、弥生時代中期のものですのでこれより約200年ほど後の新しい遺物とされています。

※この女性は北方から来た貴人婦人として有名です。漂流という遭難者ではないようです。

日本最古の銀製品


  植別川遺跡2号墓 女性人骨の特殊な埋葬と日本最古の銀製品
続縄文文化期の墓
植別川遺跡で検出された2号墓と呼ばれる墓は特殊な形態を示すものでした。
続縄文時代の初頭(約2300年前)に作られたものですが、この時期の墓は地面に穴を掘り、遺体を折り曲げて埋葬するのが一般的です。

しかしこの墓は平地に真赤なベンガラ(酸化第二鉄)を敷き詰めた後に遺体を安置し、その上に海岸から運んできた玉砂利を含む砂をかけていました。興津式土器とともに砥石や石斧、石鏃などが副葬品として確認されました。

更に1本の鉄製の小刀とともに金属製の小さな板が3枚確認されました。後にこの金属板を分析したところ、純度90%以上の銀であることがわかりました。もちろん、当時の日本では銀を精錬する技術は皆無でしたのでアムール川周辺の民族からの伝播が推測されています。

銀板は小刀の装飾品ではなかったかと思われ、被葬者は40歳位の女性であろうと同定されています。

この女性は武力・政治力の権力者だったのか、交易の支配者、それともシャマンだったのか。
ベンガラを多量に入手していることから、交易を支配する指導者だったのではないかと推測。
続縄文文化期の石器出土状態 植別川遺跡では「石器工場」の跡と思われる遺構が確認されました。
直径1m程の浅い皿状の窪みに大きな黒曜石の原石、3本の石斧、16本の石鏃などが散布していました。
約2000年前のものです。

※石器集中区というのですね。危険な剥片が飛び散らないために、円錐形のテントを建て、下のほうだけに飛散防止の毛皮などを張り、上部は明り取りのために開けておいて作業をしたようです。
更に、移動する時には作業場跡を埋めるために皿状に地面を掘り込んだようです。
幾田遺跡3号住居址 春日町幾田遺跡で確認された続縄文文化期の竪穴住居です。
5mほどの楕円形の住居ですが、中央に石で囲った炉の跡がありました。
出土した土器から2~3世紀頃のもの推定されます。

 272植別川2号墓
 植別川遺跡2号墓出土石器 (続縄文文化期:約2300年前)
40歳前後の女性の屈葬墓から出土した石器類です。磨製石斧2本、軽石製の砥石1個、被葬者の肩のあたりから出土しました。 

※女性の墓には石皿、男性の墓には石斧や石鏃が一般的だが、石斧と石斧製作道具の砥石が出土したのは驚きです。
 女性が作っていたのでしょうか。
植別川遺跡2号墓
出土石器

 興津式土器
続縄文時代の初め頃(約2300年前)に使われた土器で、全面に細かな縄文が施文され、口縁部の周りに小さな穴があけられています。
植別川遺跡2号墓被葬者の胸のあたりから発見されました。

 興津式土器          

 小刀と銀製品
鉄製の小刀と、その鞘の飾りに使われていたと思われる日本最古の銀片で、植別川遺跡2号墓の副葬品です。
柄の部分の木質も少し残っています。被葬者(50歳前後の女性)の腰のあたりから出土しました。

※西域などで製作された、銀飾りの美しい懐刀を持った女性が、アジアの西の果てで暮らしていた。大変な驚きですね。
 この地域にそれほど重要人物が送り込まれるとは、よほど重要な交易品があったのでしょうか。
 この地は黒曜石産地からは離れ、知床半島の南側。辺境である。見るものはアザラシオットセイ、たまにラッコぐらいでしょ。

小刀と銀製品

 琥珀玉復元模型
 植別川遺跡2号墓より出土した首飾りの復元模型です。
1番下の目立つ部分には6個の大型棗玉が、両側前部には37個の中型平玉もしくは短い管玉が、
あまり目立たない両側後部には75個の小さな平玉が使われていました。
合計で118個となります。

※サハリン産の琥珀を使った豪華な装飾品。ふつうは臼玉を沢山繋いで、数珠のような物だが、これはデザインと加工技術が全く異なる。
 ブドウやナツメなどを表したかのような、現代にも通じるような、涙滴形の加工は初めて見た。
 原料産地とは別に、製作地は西域ではないか。西域の女神像にこのような装飾があったようなうろ覚え。なんでこんな辺境にあるんだ。

琥珀玉復元模型

 274琥珀製品
 植別川遺跡1号及び2号墓より発見されたもので首飾りとして使われていました。
続縄文時代には装飾品として多用されます。琥珀は松や杉などの樹脂の化石ですが、サハリン、シベリア。国内では岩手、石川、千葉、茨木県などで産出します。

琥珀玉
 275植別川1号墓出土
 276植別川2号墓出土
これらの微細な加工。
一体どのような技術でこれを作ったんだろうか。

 277ポン春刈古丹川北岸遺跡・2号墓出土遺物
    (続縄文文化期:約2000年前)
死者を埋葬した墓から出土した遺物です。碧玉(ジャスパー)製の管玉、石鏃、掻器、磨製石斧等が副葬品として埋葬されていました。

 黒曜石(原石)
昭和55年調査を実施した植別川遺跡からは、続縄文文化期の石器加工場と思われる遺構が確認されました。
直径3m、深さ20cmほどの浅い皿状の凹みから多数の石鏃、石斧、砥石などとともにこの原石が出土しました。
多分、掘立小屋のようなものを立てて、その中で作業していたのでしょう。

黒曜石原石
黒曜石(原石)
石斧など ポン春刈古丹川北岸遺跡・2号墓出土遺物
 
 


 300第2展示室

 


 310知床の古代海洋文化


 311知床半島の歴史と人々の生活
知床の原生自然の中にも、いにしえの昔から人々の生活は息づいていました。
つい130年ほど前、和人の本格的な移住と開墾が始まるまで、豊かな海と山の恵みを糧とする狩猟採集民族の時代が続いていました。
とりわけ知床半島を特徴付けるのは今から約1500~800年前の間に栄えた、氷海の狩人たち、
  「オホーツク文化の時代」です。

知床の古代海洋文化

 312知床半島の歴史と人々の生活
知床の原生自然の中にも、いにしえの昔から人々の生活は息づいていました。
つい130年ほど前、和人の本格的な移住と開墾が始まるまで、豊かな海と山の恵みを糧とする狩猟採集民族の時代が続いていました。
とりわけ知床半島を特徴付けるのは今から約1500~800年前の間に栄えた、氷海の狩人たち、
  「オホーツク文化の時代」です。

 半島部の主な遺跡
オホーツク文化の時代、知床周辺には北海道内の他の地域と大きく異なる民族の文化が栄えました。
今でこそ、地の果てと呼ばれる知床岬も、海獣猟や漁労をする人々には豊穣の地でした。
この岬の平坦部には、オホーツク文化期から、アイヌ期にかけての住居の跡が数百も見られます。
知床半島の歴史と人々の生活 北海道・本州の年表
半島部の主な遺跡

 314オホーツク文化 ~北海道道北で育まれた氷海の漁猟民族
二千数百年前、本州では稲作を基盤とする弥生文化が成立していた中、北海道では、
技術的に稲作ができず、また自然資源に恵まれていたため、狩猟採集の続縄文文化が独自の発展を遂げていました。

しかし、それとは全く異質の文化の渡来が道北にありました。それを「オホーツク文化」と呼び、文化の広がりは、オホーツク海沿岸の利尻、礼文、根室半島と流氷の分布とはほぼ一致しています。彼らは石や骨を加工した漁具を使用し、

海の恵に多く依存した漁猟中心の生活を営んでいました。彼らの文化の中でシャチやヒグマは神聖の意味を持ち、多くの道具類や装飾品に偶像としての出現率が高く、彼らの装飾品の特徴は大陸のアムール川中、下流域の装飾品文化と多くの類似点が見られます

オホーツク文化 ~北海道道北で育まれた氷海の漁猟民族
オホーツク文化人 オホーツク文化人は、
鯨類やトド、アザラシ等を対象とした狩猟や漁労採集を中心とした
特有の生活文化を持っていました。
オホーツク文化のクマ
オホーツク文化期の遺跡から出土したヒグマの頭部の彫刻。
彼らの芸術性や野生動物への畏敬を感じさせます。

 315オホーツク文化の終焉 ~アイヌ文化へ
彼らの文化の終焉は、樺太に矛を向けたフビライ・ハーン率いる元軍と多量の鉄を保有した道南の「擦文文化」人によってもたらされます。
「オホーツク文化」と「擦文文化」は後に融合を果たし、それがアイヌ文化に大きな影響を与えました。

オホーツク文化の終焉
元(中国)の侵略(元寇)
アイヌ文化へ

※資料  北の元寇 元王朝と北海道
 元は1271~1368まで中国大陸から中東アジア、東ヨーロッパまでを支配した、モンゴル高原の遊牧民族国家である。wikipedia
僅かな数の遊牧民が広範な領土獲得ができたのは、イスラム教徒のように敗北した国家の軍隊を皆殺しにしたりせずに、
他国をに対する侵略攻撃にあたらせたことによる。もちろん逆らえば皆殺しである。
従って、列島に二度にわたって攻めてきたのは元軍ではなく、高麗軍であった。同様に、中国人はベトナムを攻撃し、大敗北している。
よく知られたことで、今更持ち出すのは、読者に対して失礼だが、

 アムール川流域民族であるニブヒはオホーツク海に進出し、オホーツク人と呼ばれていた。別名粛慎という。
陸の擦文人と海の粛慎との棲み分けがあったが、やがて擦文人と粛慎の融合が起こり、擦文人が海洋に進出するようになると
各地の産物の獲得競争や、生産物の奪い合い、果ては互いの集落の襲撃などが起こる。

 海洋擦文人は樺太やアムール川流域の村を襲撃し、生産物をうばったり、殺したり、粛慎も北海道西海岸を南下し、利尻礼文・奥尻・佐渡島まで南下して居住していた。
  (※アイヌの成立12~13世紀頃擦文時代7世紀~14世紀と言われ、擦文時代にアイヌが成立したらしい)

 このようなアイヌ(擦文人)と粛慎との小競り合いが度々起こり、粛慎は元軍に援助を求め、アイヌ(擦文人)は阿倍比羅夫に討伐を願った。
それによって、元・粛慎・アイヌ(擦文人)の間で朝貢関係が生まれたり、阿倍比羅夫にアイヌから毎年の貢物を(ある意味朝貢)求められたりした。
この、13世紀末から14世紀にかけての沿海州の元軍による、樺太に進出していた樺太アイヌに対する攻撃を、北の元寇と呼んでいる。

 しかし、これは、元々、元に朝貢を強制され、東千島の産物を獲っていた粛慎に対して攻撃した、擦文人を追い払い、元が求めるラッコの毛皮や
 鷲の尾羽、その他の海産物の入手をしやすくするための侵攻であったらしい。
 ただし、東千島やオホーツク海沿岸の粛慎は取り残され、海獣狩猟に必要な鉄製品が入手できなくなり、孤立したり、絶滅したり、融合したりした。

 
 

 316古代の北海道・羅臼 以下は羅臼郷土館の見解
続縄文時代以降北海道は、本州と異なる独自の歴史を刻むことになります。
また、北海道においても続縄文時代以降に、異なる2つの文化が展開されていきます。

1つは擦文文化で、本州の影響を強く受けて成立した南の文化です。

もう一つは、擦文文化よりもわずかに先行して広がったオホーツク文化です。
この文化は樺太から渡って来た北の文化で、その担い手も北方民族と考えられています。
この2つの文化は下の図のように分布を異にしていましたが、次第に接触、融合していき、成立した文化をトビニタイ文化と言います。
このトビニタイ文化も、次第に擦文文化に吸収されていくことになります。そして全道に広がった擦文文化は、次のアイヌ文化へと繋がっていきます。

古代の北海道・羅臼 古代文化の広がり 羅臼の文化年表

古代文化の遷移
5世紀 アムール川流域とサハリン全域に分布したオホーツク文化。
道内は続縄文文化。ただし続縄文文化はサハリン中部まで拡大。
鈴谷式土器はアムール川流域金属器文化の土器と続縄文土器との融合土器である。
7-9世紀 オホーツク文化は利尻・礼文・稚内~オホーツク海沿岸を経て千島列島~アリューシャン列島にまで至る。
道内は東北地方の古代人の移入により擦文時代となり一挙に本州化される。擦文土器は本州土師器。
10-12世紀 擦文化された道内土着人はオホーツク人を駆逐して拠点を奪い、孤立した網走と千島オホーツク人は網走~釧路の沿岸に引き上げてトビニタイ文化を形成する。
擦文人の進出以前にオホーツク人は最大基地網走と中間基地枝幸が対立戦争をしたために網走~千島が孤立し、枝幸以北は擦文人の進出に伴ってサハリンに引き上げ、跡を擦文人に占領されたために網走オホーツク人は退路を断たれ、孤立したと考えられる。枝幸オホーツク人の墓から骨鏃の刺さった人骨が出土し、鉄鏃全盛時代に骨鏃を使用していたのはオホーツク人だけでした。
 
 

 320オホーツク・トビニタイ

 321オホーツク文化期 5~12世紀

 オホーツク式土器の変化
オホーツク文化はサハリンから北海道のオホーツク海沿岸、更には南千島まで分布しており、5世紀から12世紀にかけて栄えたと言われていますが、
その数百年間には土器の文様や形も変化していきました。

十和田式期
 展示している中で1番古いものは十和田式と呼ばれるもので、口縁部に円形刺突文が施され、その下に円周する沈線文に挟まれた斜め方向の列点文が施されています。この土器はサハリンや稚内などの道北地方で多く出土します。
櫛目文期
 その後、土器の形も胴部が張り出すツボ型形に変化し、文様は列点文や櫛目文等になります。
貼付文期
 知床で最も栄華を極める8~11世紀頃の土器は、直線や波形の粘土紐貼り付けたソーメン文が主体となります。松法川北岸遺跡もこの時期のものです。
トビニタイ文化期
 12世紀になるとオホーツク文化は衰退の一方をたどり、全道に分布していくアイヌの祖先とも言われる擦文文化に吸収されていきます。
その当時の土器はトビニタイ式土器と言われ、擦文とオホーツクの両方の土器が融合・混血化したもので、羅臼町海岸町トビニタイ地区にちなんで名付けられたものです。
 この土器は器の形は擦文式土器と同様な口縁部が開いたカメ型ですが、文様はオホーツク文化に特徴的なソーメン文が施されています。
その後トビニタイ式土器は消え去り、若干の間擦文式土器が使われますが、14世紀以降は鉄鍋などが本州から多量に流入したため、鍋代わりに食物の煮炊きに使われた土器は作られなくなります。

オホーツク式土器の変化 オホーツク式土器
櫛目文
松法川北岸遺跡
オホーツク式土器
刻文
オタフク岩洞窟
オホーツク式土器
ソーメン文
松法川北岸遺跡12号住居

 323トビニタイ文化期

トビニタイⅡ式土器
(古いタイプ)
オタフク岩遺跡6号
トビニタイⅠ式土器
(新しいタイプ)
オタフク岩洞窟
 
 
 ※研究 オホーツク文化

 引用オホーツク文化wikipedia 
  北海道、樺太の時代による文化変遷の図
4世紀は北海道全域が続縄文文化、樺太はオホーツク文化の前段階とされる「鈴谷文化」 5世紀は北海道の大半が続縄文から擦文への転換期。オホーツク海沿岸に樺太、千島列島はオホーツク文化 10世紀から12世紀は北海道の大半が擦文文化でオホーツク文化人は樺太に撤退、根室、釧路地方にはトビニタイ文化が成立

オホーツク文化は土器の特徴に基づき、初期・前期・中期・後期・終末期の5期に区分される。オホーツク文化の発生地は樺太南西端と北海道北端で、
初期(3~4世紀)
 初期は3世紀から4世紀までで、土器の形式からは先行する鈴谷文化を継承している。そこから拡大して北海道ではオホーツク海沿岸を覆い、
 樺太の南半分を占めた。
前期(5~6世紀)
 この5世紀から6世紀を時期を十和田式土器に代表される前期とする。
中期(7~8世紀)
 活動領域はさらに広く、オホーツク文化の痕跡は東は国後島、南は奥尻島、北は樺太全域に及んでいる。
後期(9~10世紀)
 この時期には、土器の様相が各地で異なる。
終末期(11~13世紀)
 土器の地域的な差違がさらに明確化する。

 北海道北部では9世紀に擦文文化の影響が強まり、オホーツク文化は消滅した。
 同じ頃9世紀に北海道頭部で成立したトビニタイ文化は、オホーツク文化を継承しながら擦文文化の影響を受けた文化であった。
 樺太ではオホーツク文化がなお続き、アイヌ文化の進出によって消えたと考えられるが、その様相ははっきりしていない。


 ②オホーツク文化
  引用「十和田式土器・学位論文要旨詳細」
preオホーツク文化
鈴谷式土器(3~4世紀)続縄文時代後期の土器。
 鈴谷式土器はアムール河口部の古金属器文化と北海道の続縄文文化との2つの土器系統の融合によって成立した
 鈴谷式土器は、続縄文時代後期前後のサハリン中部から北海道北端部を中心に分布する土器である。
 櫛歯文土器縄線文土器の二つのタイプがあり

十和田式土器期(5~6世紀) オホーツク文化初頭の土器
 サハリン南西端から北海道北端にのみ分布。突瘤文土器と、刺突文土器の二系統がある。

刻文期 アムール川下流域の靺鞨系土器の影響を受けてオホーツク文化の全域で分布するようになる。
 これはサハリン以北から人の流入による土器型式の変化。この時期に宗谷岬で擦文土器と接触し型式変化を起こしている。
刻文期後半には、土器の地域化が進行し、アムール河口部/サハリン/北海道北部/北海道東部とそれ以東という型式圏に分かれるようになる。

沈線文期(7~8世紀)道北部で起こった変化。 列点 刺突文 刻目文 クマ足刺突文・押型文 
 道北に沈線文系土器が興る。沈線文期の前半に道北沈線文の影響が及んで貼付文が興り、それが道北へ広がった。

貼付文期(8~9世紀)ソーメン文。
 道東で起こった貼付文が全域で分布するようになる。

 


 325擦文文化期 (7世紀~15世紀)(飛鳥時代~室町時代)

 続縄文文化が終わりを告げ、本州では古墳時代が始まると、北海道においては擦文文化が生まれます。本州の鉄や土師器の流入により生まれた本州色の強い文化です。北海道全域、特にオホーツク文化が沿岸に限られるのに対し、擦文は内陸深くにまで入り込みます。

 土器は擦文式土器と言う本州の土師器によく似たものを用い、鉄器も多数入ってきたものと思われ、この時期を境に石器は非常に少なくなってきます。
住居は正方形もしくは長方形で、それまでの炉に代わって「かまど」が作られます。また標津町のポー川に見られるような大集落を作ることもあります。
最近の発掘調査によると簡単な鍛冶が行われ、ヒエやアワを栽培する農耕も行われていたことがわかってきました。

 7世紀に成立し終末は14~15世紀頃と言われています。この文化を担った人々、つまり擦文人がその後のアイヌ文化を作り上げたと言われています。
この擦文文化は本州の影響を受けて成立したにもかかわらず、北海道においては独自の発達を見せ、後半には津軽海峡を越えて東北地方にまで進出していきますが、知床半島(標津町より北の)にはオホーツク文化、後にはトビニタイ文化の一大拠点があったためか、ほとんど進出できず、わずかにオルマップ川北岸遺跡、オタフク岩洞窟等に遺跡が点在してるのみです。


擦文文化 擦文式土器
(擦文文化期)
オルマップ川北岸遺跡
擦文式土器
(擦文文化期)
オルマップ川北岸遺跡
 
 
 330オホーツク土器
 331土器
 332上
オホーツク式
オホーツク文化
刻文7~8世紀
船見町高台遺跡
オホーツク式
オホーツク文化
刻文7~8世紀
春松中学校遺跡
オホーツク式
オホーツク文化
刻文7~8世紀
隧道北口遺跡
no captionだが
刻文期
オホーツク式
オホーツク文化
貼付10世紀
羅臼町内
オホーツク式
オホーツク文化
貼付10世紀
知西別
オホーツク式
オホーツク文化
貼付10世紀
オタフク岩洞窟
オホーツク式
オホーツク文化
貼付9世紀
松法川北岸遺跡
 333中

only one caption
オホーツク式
オホーツク文化
刻文7~8世紀
船見町高台遺跡
 334下

オホーツク式
オホーツク文化
櫛目文7~8世紀
相泊川南岸遺跡
オホーツク式
オホーツク文化
貼付文7~8世紀
相泊川南岸遺跡
no caption
オホーツク式
オホーツク文化
貼付文10世紀
隧道北口遺跡
 


 400オタフク岩遺跡 (続縄文~アイヌ文化期)

 401オタフク岩遺跡模型
 オタフク岩遺跡は昭和44年(1969)、45年、平成2年(1990年)の3度にわたって発掘された遺跡で、標高45mの段丘上にはトビニタイ文化期の8軒の竪穴住居が確認されました。
また、段丘の南側下部の標高12m付近にはオタフク岩洞窟が開口していましたが、発掘調査後の国道の改修により既に消滅しています。

 オタフク岩遺跡では8軒の竪穴と3基の墓坑、柱穴列などが確認されました。
8軒の住居は若干の時間差をおいて建設されたもので、一時期には2軒から3軒の住居が営まれていたものと推測されます。
古い順に、9・4号 →7・6号→ 2・1号・5号?です。

 オタフク岩洞窟では3mにも及ぶ30数枚の遺物包含層が確認され、アイヌ文化期から続縄文時代までの1000年間以上にわたる洞窟使用の痕跡が窺われました。特にこの洞窟ではトビニタイ文化期の2基の墓壙と、国内最古と思われる12~13世紀の「熊送り」の痕跡が発見されました。

 右の図表は洞窟内の遺物の出土層位を模式化したものですが、続縄文式土器からオホーツク文化へ、そして北海道最後の土器文化、擦文、トビニタイ式土器への変遷がよくわかります。

また離頭銛も最初は銛綱を固定するための溝が彫られ、単尾で銛先が装着されないものから、縦列する2個の孔が彫られ、双尾あるいは三尾で銛先が装着されるように変化するのが見て取れます。

オタフク岩遺跡模型
 403


 410擦文式土器 オタフク土器 
 411右上
擦文式
擦文文化期
13世紀
オタフク岩洞窟
no caption 擦文式
擦文文化期
13世紀
オタフク岩洞窟
擦文式
擦文文化期
13世紀
オタフク岩洞窟
 412左上

 擦文式土器 高坏 13世紀
擦文式土器によく見られる器形です。フルーツ皿のように食べ物を盛って飾り付けるのに使われたものです。そのため、皿の内側も松の煙でいぶした後に磨いて、きれいな黒色にされています。松法町オタフク岩洞窟出土

高坏
擦文式
擦文文化期
13世紀
オタフク岩洞窟


 トビニタイ式土器 11世紀

トビニタイ式
トビニタイ文化期
Ⅱ式・11世紀
オタフク岩遺跡
トビニタイ式
トビニタイ文化期
Ⅱ式・11世紀
オタフク岩遺跡
トビニタイ式
トビニタイ文化期
Ⅱ式・11世紀
オタフク岩遺跡
トビニタイ式
トビニタイ文化期
Ⅱ式・11世紀
船見町高台遺跡

 413右中
トビニタイ式
トビニタイ文化期
Ⅱ式・11世紀
サシルイ川北岸遺跡
トビニタイ式
トビニタイ文化期
Ⅱ式・11世紀
オタフク岩遺跡
トビニタイ式
トビニタイ文化期
Ⅱ式・11世紀
オタフク岩遺跡

 トビニタイⅡ式土器
トビニタイⅡ式土器  13世紀頃(約800年前)、
間宮海峡、宗谷海峡などサハリンや大陸との交易を遮断されてしまったオホーツク人たちが、擦文人たちとの交易に活路を求めた結果として作られた土器です。

 器形は擦文土器に似ていますが、文様はオホーツク式土器のそうめん文が付けられています。松法町オタフク岩遺跡1号住居出土。
 414左中
トビニタイ式
トビニタイ文化期
Ⅱ式・11世紀
オタフク岩遺跡
トビニタイ式
トビニタイ文化期
Ⅱ式・11世紀
オタフク岩遺跡
トビニタイ式Ⅱ式
(古いタイプ)
オタフク岩遺跡
トビニタイ式
トビニタイ文化期
Ⅱ式・11世紀
オタフク岩遺跡
トビニタイ式Ⅱ式
(古いタイプ)
オタフク岩遺跡
 415右下
トビニタイⅡ式土器
(古いタイプ)
オタフク岩遺跡4号
トビニタイ式
トビニタイ文化期
Ⅱ式・12世紀
船見町高台遺跡
トビニタイ式
トビニタイ文化期
Ⅱ式・11世紀
オタフク岩遺跡
ビニタイⅡ式土器
(古いタイプ)
オタフク岩遺跡4号
 416左下
トビニタイ式
トビニタイ文化期
Ⅱ式・11世紀
船見町高台遺跡
トビニタイ式
トビニタイ文化期
Ⅱ式・12世紀
船見町高台遺跡
 

 440住居形態


 441各時期(各民族)の住居形態
 オホーツク文化期の住居は、平面五~六角形の大型で、中央に石組炉を設け、この周囲に「コ」字状に粘土を貼ります。また、奥壁と呼ばれる場所に骨塚と呼ばれる祭壇を設けます。

 擦文文化期の住居は、隅丸方形の小型の住居址で、知友王には地床炉が設けられ、壁際に刃カマドがあるものがよく見られます。

 トビニタイ文化期の住居は、オホーツク文化、擦文文化の両者の特徴を兼ね備えたものが一般的ですが、規模については大型のものはありません。また、オホーツク文化に特徴的な貼り床は見られなくなります。
これはオホーツク文化期の住居は海岸線の砂丘上に作られていたため、貼り床が必要でしたが、トビニタイ文化期になると段丘上に作られるようになるため必要なかったためと思われます。そして骨塚は全く見られなくなってしまいます。

各時期の住居形態
オホーツク期・トビニタイ期・擦文期

オホーツク文化期の住居址
オホーツク文化期の住居址

 松法川北岸遺跡で確認されたオホーツク文化期の住居址です。
平面の形は五角形で、住居を造るのが常に砂丘状の地形であったためか、「コ」の字型
の粘土床が貼られています。
中央には石囲いの「炉」が作られています。壁際には太い柱穴が並び、壁は板張りとなっていました。屋根には防寒のための土がかぶせられていました。
トビニタイ文化期の住居址
トビニタイ文化期の住居址

 トビニタイ文化は擦文文化とオホーツク文化が混血・融合して生まれたものですが、
住居の形態にもそれが現れてきます。
 平面の形はオホーツクに似た五角形もしくは六角形ですが擦文と同じく粘土の貼り床はありません。

 また、擦文は炉ではなくかまどを構えるのに対し、トビニタイはオホーツクと同じく石で囲った炉を使っています。住居の大きさはオホーツクのような大型のものはなく、擦文と同様の小型のものを作っています。
擦文文化の住居跡 擦文文化の住居跡
 羅臼町では、これまで擦文文化の住居はは植別川遺跡で1軒が部分的に調査されただけです。
 擦文文化期の集落は標津町に隣接する峯浜でしか確認されていません。

 オルマっプ北岸遺跡はこの時期の大規模な集落跡です。住居跡は埋没しておらず、現地表面で方形の方の窪みとなって確認することができます。

 443墓型式
  各時期の墓
 羅臼では、
オホーツク文化期の墓が相泊遺跡で2基、
トビニタイ文化期の墓はオタフク岩洞窟で2基、オタフク岩洞窟遺跡第Ⅰ地点で3基が見つかっています。
擦文文化期のものは見つかっていません。
また、昭和40.41年のトビニタイ洞窟で5体分の人骨が調査されたようですが、1基の土坑が図示され、副葬品についても簡単な記載はありますが、時期ははよくわかりません。
この他に、昭和30~40年代の住宅建築の際、町内各地で発見されたようですが、詳細は分かりません。

 オホーツク文化期の墓は人骨の検出状態や墓の形態から屈葬と考えられます。
また、墓坑内は配石され、墓の上面に土器を倒立させていることから、被甕と考えられます。
 トビニタイ文化期のものは屈葬と伸展葬の両タイプが確認されています。

各時期の墓 各時期の墓 墓型式・埋葬形式の
違い
オホーツク文化期
被甕葬法
網走モヨロ貝塚15号

下に記述

オホーツク文化期の墓
 相泊遺跡では7号と9号の2基の墓が確認されています。共に壁面に沿って礫が配置されています。また、9号墓は人骨が残っており、その四肢骨の配置から屈葬と考えられます。また、墓坑中央の上面には土器が倒立した状態で見つかっていることから、被甕がされていたと考えられます。
トビニタイ文化期の墓
 オタフク岩洞窟で確認された人骨で、40歳前後の女性です。変形性関節症により、背骨が著しく前湾しています。そのためか、うつぶせの状態で埋葬されています。この人
骨はトビニタイ文化期のものですが、その後にやってきた擦文土器を使用する人々が多分、墓があるとは知らずに熊集骨遺構を作るために周囲を掘り返したため、頭蓋骨と右大腿骨がなくなってしまっています。

 444トビニタイ文化期の墓
 松法町オタフク岩遺跡で確認されたトビニタイ文化期の墓のお墓です。作られた順を追ってみましょう。
1.最初に深さ50cmほどの五角形の穴を掘り、遺体を折り曲げて(屈葬といいます)頭を西に置き、安置します。
  骨はほとんどが腐っていますが、頭蓋骨と大腿骨の1部だけが残っていました。
2.遺体の上に土をかけ、平たい石で覆った後に死者に持たせる土器を安置し、さらにその周りを丸石で囲みます。
3.丸石の周りを海岸から運んできた小さな玉石でドーナツ状に囲みます。

トビニタイ文化期の墓
 


 450道具

 451オホーツク文化の骨角器
 狩猟・漁労に生活の糧を求めたオホーツク文化の遺跡からは、クジラやトド、シカ、鳥類などの骨や歯、角で作った精巧な骨角器が多数出土します。
彼らは既に小刀や矢尻、銛先、縫い針などの鉄の道具も使っていましたが大陸、あるいは本州からの供給が充分ではなかったため、石器や骨角器も使用していました。
 多種多様な骨角器が作られましたが、特に動物意匠についてはクマ、シャチを筆頭としてクジラ、トド、アザラシ、オットセイ、ラッコ、キツネ、フクロウ、水禽、カエル、エイなど、まさに「北海の狩猟民」と言われるにふさわしい具象的なものを描き出していました。
また、実用的なものも多く、狩猟に関する骨角器もその精巧さに目を見張るものがあります。

《狩猟具》
 釣り針・離頭銛・中柄・固定銛・槍・鏃・ゆはず、など
《日常道具》
 斧・鍬・へら・匙・縫い針・針入れ・まな板、など
《装身具・祭具》
 貝製玉類・帯飾り・ボタン・女神像・熊偶像・指揮棒?、など

などがありますが、最も多様されるのはクジラの骨と鹿の角です。また、道具によっては動物種が限定されるものもあります。
 例えば針入れはアホウドリやウミウ、カモメなどの大型鳥類の上腕骨、これは骨髄が中空である必要からです。
スカートのような衣類を着用した女性の姿をかたどった女神像はマッコウクジラの歯が使われています。
また、クマの偶像はネズミザメの吻端(ふんたん)がよく利用されています。
まな板や鍬、斧などは素材自体が大きくて硬いものが必要なのでクジラの骨が多用応されます。


オホーツク文化の
骨角器
離頭銛の名称と使い方
 452
石錘
組合せ式釣針先 組合せ式釣針と軸 骨箆
銛頭
刺突具
 453
石銛・掻器 石鏃・削器 紡錘車 石斧・砥石
 454
帯飾り ゆはず 針と針入れ 針入れ ヤス 骨鏃 刺突具 骨箆
紡錘車
銛頭
石鏃
削器 掻器 石斧
砥石
 457
ヤス 骨鏃 ゆはず 針入れ 銛頭 中柄(銛の) 紡錘車
骨箆
 459
ヤス
骨鏃

針入れ
銛頭
中柄
 

 460オホーツク・擦文・トビニタイ


 460動物依存体

 461各時期の動物利用
各時期の動物利用の様子は、遺跡に残された動物の骨や角、貝殻等の動物依存体から伺えます。
これらの動物は主に食料として利用されますが、中には毛皮や尾羽根と共に交易品とされたものもあります。

一般に、オホーツク文化の生業の主体は海獣狩猟・漁労(海)で、
擦文文化は狩猟・漁労(川)・農耕と呼ばれていますが、
羅臼ではアザラシ類を主とした海獣狩猟がオホーツク文化期以降の各時期で重要な位置を占めていたようです。

植物質食料の利用についても調査を進めなければならないのですが、
羅臼に限って見た場合、各自期の狩猟・漁労活動の内容に大きな変化はなかったのかもしれません。

各時期の動物利用


 オホーツク文化の捕鯨
上の図は、根室市弁天島遺跡から出土した骨製の針入れに描かれていたものを拡大、図化したものです。
オホーツク文化期の遺跡からは多量の狩猟具が出土しますが、特に大型の海生哺乳類を捕獲するために使われた「回転離頭銛」は様々な大きさ、形態のものが見られます。

この絵には船に乗り込んだ6人の漕ぎ手が4本の櫂を操り、船の先端には銛を構えた射手が描かれています。
その足下には銛綱の塊とスペアの銛、船の後尾には追い波を避けるためと思われる構造物が見られます。
船の先端からは2本の銛綱がクジラに向かって延びており、クジラには2本の銛が刺さっています。

クジラは頭の部分が細くなっていることから、ヒゲクジラの仲間と想像されますが、7~8人が乗り込んだ船と同じ大きさに描かれているとすれば、
現在も羅臼の前浜でたくさん観察されるミンククジラではないかと思われます。
クジラの腹の部分には6本のヒゲのような模様が見られます。クジラの航跡、あるいは吹き出る血液をあらわしたものでしょうか。
オホーツク文化においては、このような大掛かりな集団で実施する鯨クジラ漁やトドやアザラシなどの海獣漁、網漁などが日常的に行われていたものと推測されます。

オホーツク文化の捕鯨 捕鯨の絵

 462貝類
岩礁性のものが主体です。オホーツク文化期~擦文文化期での各時期で種類の偏りはほとんど見られません。
オタフク岩洞窟では、イガイ類・オオバンヒザラガイ・チヂミボラ類・ホタテガイ・タマキビ類・エゾタマキガイが主体で、川真珠貝なども僅かに見つかっています。

貝殻 タマキビ類・イガイ類 チヂミボラ類・エゾタマキガイ
オオバンヒザラガイ・ウバガイ ホタテガイ
 463魚類
 オホーツク文化期~擦文文化期の各時期とも主体となるのは、サケ類・カレイ類・カジカ類です。大型の釣り針や石錘を使用していたオホーツク文化期ではカレイ類の大型種であるヲヒョウやネズミザメなどの大型のものが特徴的です。オタフク岩洞窟では、この他にマダラ・ソイ類等計16種見つかっています。

魚類 カジカ類 カレイ類
サケ類 ネズミザメ
 464鳥類
 オホーツク文化期~擦文文化期の各時期で種類による偏りはほとんど見られません。
ウ類・カモメ類・ウミガラス類が主体です。カモメ類は他の地域ではあまり出土しないことから、羅臼の特徴となっています。
 また、ワシ類が少量ながら各時期で見つかることも本地域の特徴です。

鳥類
ウミガラス類
カモメ類
ヒメウ
オオワシ
 465陸獣類
 オホーツク文化期の骨塚や擦文文化期の送り場跡等の儀礼場ではヒグマが非常に多いですが、それ以外では、ヒグマ・イヌ・シカが主体ですが海獣類と比較すると少量です。これらを含めオタフク岩洞窟では10種類見つかっており、道内では絶滅したカワウソやめったに見られないラッコが含まれています。

陸獣類 イヌ
ヒグマ
エゾシカ
 467海獣類
 アザラシ類・オットセイ・アシカ・トド・イルカ類・クジラ類が出土しています。アザラシ類は特に多く見つかっています。
 オホーツク文化期~擦文文化期の各時期で種類による偏りはこの地域では、ほとんど見られません。

海獣類 コククジラ
15才6~7m

アザラシ類
〔左:下顎骨(上からフイリアザラシ・ゴマフアザラシ・クラカケアザラシ・アゴヒゲアザラシ)〕
〔右:鼓骨(上からフィリアザラシ・アゴヒゲアザラシ)〕
アザラシ類 イルカ類

オットセイ
(上から雌の幼獣の下顎骨・雄の老獣の下顎骨)
オットセイ
トド
 
 
 470海洋動物
 コククジラ
 大きく湾曲したアーチ状の上顎が特徴的なクジラで、最大のメスで15mになります。体表にはフジツボやクジラジラミ等の寄生生物が多数付着しています。最も沿岸性の強いヒゲクジラ類で、浅い海底を右側の下顎で掘り起こし、舞い上がった泥を濾しとって海底生物を食べています。
 北太平洋の東西に分布していますが、日本列島周辺を回遊する西部系群は近代捕鯨により頭数が減り、現代120頭ほどと言われています。
コククジラ

 アザラシ類
オホーツク文化期~擦文文化期の各期において、アザラシの骨が多量に出土することから、アザラシ猟は海獣狩猟の主体であったようです。
 フイリ(ワモン)アザラシ、ゴマフアザラシ、クラカケアザラシ、アゴヒゲアザラシの骨が出土していますが、中でもフイリアザラシとゴマフアザラシが主体となっています。
フィリアザラシ、クラカケアザラシ、アゴヒゲアザラシは氷縁に生息し、寒冷な水域を好むことから、流氷が来る冬から春にかけて捕獲したものと考えられます。ゴマフアザラシも周年生息していた可能性はありますが、やはり冬に多く回遊してきたと思われるので、この時に捕獲したと考えられます。
アザラシ猟は全体として冬から春にかけて活発に行われたと考えられます。

 ゴマフアザラシ
 冬期間の根室海峡沿岸では普通に観察されるアザラシです。クラカケアザラシが沖合に分布するのに対し、このアザラシは沿岸近くで観察され、時として流氷上に数百頭が群れのように集まることがあります。
アザラシ類 ゴマフアザラシ

 オオバンヒザラガイ
ヒザラガイ類中の最大種で、体長は25cmを超えるものもいます。
通称はチョウチョウ貝と呼ばれる殻板は肉帯に覆われており、外からは見えません。
分布は北海道南部以北の北太平洋沿岸です。アイヌ語でムイと呼ばれています。肉は食用になります。
オオハンピザラガイ

 オジロワシの尾羽
オジロワシの尾羽はオオワシのものと併せて、鷲羽・粛慎羽と呼ばれ、10~12世紀の北海道から本州への主要な交易品であったと考えられています。
これは矢羽として利用されたもので、官位等によって使用が定められており、貴族社会での身分標識となっていたようです。
オジロワシの羽

 ハシブトウミガラス
ベーリング諸島、アリューシャン列島、千島列島などで繁殖、冬季に東北地方以北の海に飛来し小さな群れをなして海上で生活します。ウミガラス(オロロン鳥)よりは背中の色が濃く、嘴が太いと言うことが特徴です。
ハシブトウミガラス
 

 480儀礼

 481トビニタイ遺跡 目梨郡羅臼町海岸町 (羅臼町飛仁帯
 昭和35年(1960)9月、羅臼町海岸町でその後の北海道考古学会の指標となった1つの発掘調査が実施されました。
現在のハシコイ川右岸にあった『トビニタイ遺跡』の調査です。
この遺跡では1号と2号、二軒の時期の異なる住居址が確認され、その上下(新旧)関係が確認されました。
それまでは漠然とオホーツク文化の中にも古い土器、新しい土器があるのはわかっていたのですが、この調査によりオホーツク式土器とそれに続く擦文文化の影響を大きく開けた土器が明確に分類され、トビニタイ式土器と命名されました。
この調査は東京大学の実施したものですが、当時参加した学生たちは現在、日本の考古学会を先導する重鎮として活躍しています。

トビニタイ遺跡 トビニタイ遺跡

 482動物儀礼
 動物儀礼の様子は動物意匠や動物の骨の出土状態から知ることができます。
オホーツク文化期は動物意匠遺物の出土例が多く、その種類が豊富なことで知られています。
種類はクマが非常に多く、クジラやアザラシなどの海獣、水鳥などもあります。珍しいものでは、カエルがあります。
このような動物意匠遺物は次のトビニタイ文化や擦文文化期では、ほとんど見られなくなってしまいます。
 動物骨の出土状態から、オホーツク文化期の住居跡に見られる骨塚は祭壇で儀礼場と考えられます。
この骨塚の内容は、ヒグマの頭骨が主体となることで知られています。

 トビニタイ文化期の儀礼場跡についてはよくわかっていませんが、擦文文化期の終末頃には、オタフク岩洞窟でヒグマの頭骨を集積した、儀礼場跡が見つかっています。
 これは次のアイヌ文化期に見られる、送り場跡と同様のものだと思われます。

動物儀礼 骨角製品
アザラシ・チャチ・ラッコ
土製品
アザラシ・クマ・シャチ
木製品
クマ鎖

 クマ送りの跡 12世紀末~13世紀初頭に原形が完成
 オタフク岩洞窟の奥で、14個の熊の頭蓋骨が洞窟の入り口、つまり海の方を向いて確認されました。オホーツク文化期の住居の奥壁近くに熊の骨を固めて集積する事はこれまでにも知られていましたが、擦文式土器を使用する人々が熊送りをしていた事は初めて確認されました。この遺跡から出土した遺物を検討してみると、擦文土器は使っていますが限りなく擦文化したトビニタイの末裔達の遺跡ではないか、と思われる節があります。3歳以上の野生の熊を送っていますが、同定可能な頭蓋骨は全て冬もしくは春先に捕獲されており、メスが含まれているにもかかわらず、幼獣の骨が一片もありません。
 このことはこの時期にすでにアイヌの熊送りの、つまり野生ではなく、捕獲した幼獣を育ててその霊を天界に送り返す、飼育型熊送りの原型ができていたことを示唆するものと思われます。 12世紀末から13世紀初頭の遺構と思われます。

熊の頭骨
骨塚
クマ送りの跡
 483儀礼の対象とされたヒグマの頭骨 羅臼町オタフク岩洞窟遺跡 擦文時代
頭頂骨の側面には、雌雄で左右の位置を変え、楕円形の孔が1つ開けられています。同様のしきたりは、熊送りを行うアイヌの人々にも受け継がれています。


メス3才捕殺初春

オス4才捕殺初春

オス3才捕殺秋~初冬
頭骨に穴
儀礼の対象とされた
ヒグマの頭骨

頭骨に穴

頭骨に穴
 


 500重文展示室  この室内の展示物全てが重要文化財です。 510~565まで



 501松法川北岸遺跡


 510松法川北岸遺跡
 遺跡の概要
1982年(昭和57年)に松法漁港近くの国道335号線の改修工事に伴って、羅臼町教育委員会により発掘調査が実施されました。
調査ではオホーツク文化の遺物が多量に発見されました。また、115軒の住居跡も発見されており、大半はオホーツク文化のものと考えられています。

 火災に遭った住居跡
発見された15軒の住居跡の内4・12・13号住居跡は、床が焼けて赤色化しており、多量の炭化材が発見されたことから火災に遭ったと言うことがわかりました。
オホーツク文化の影響を受けて成立したと考えられるアイヌ文化には、家の焼却による家送りの儀式があったと幕末に記録されています。
3軒の住居跡は失火による偶発的なものであったのか、故意によるものだっったのかは、未だ謎に包まれています。

火災に遭った12・13号住居跡から多量の炭化した木製品が見つかりました。通常ですと、およそ1000年前のものなので、木製品は腐敗して残りませんが、火災に遭い炭化したために腐敗せずに残っていました。
また、これらの竪穴住居跡は土葺きの屋根だったため、竪穴内は炭焼き窯状態となり、非常に高温で熱せられたため、良好な状態で残っていたと考えられます。

 復元された木製品
多量の木製品が発見されましたが、当時保存科学に高い技術を有していた、国立奈良文化財研究所でも炭化木製品の保存については十分に研究会がなされていない状態でした。
そのような中で、同研究所の協力を得ながら、羅臼町郷土資料室で地道に保存、復元作業が長期間にわたって勧められ、その内容が明らかになりました。

遺跡の概要 火災に遭った住居跡
復元された木製品
新聞記事
 513クマ容器
松法川北岸遺跡
炭化木製品復元模型

熊頭注口木製槽

樺皮製容器

松法川北岸遺跡遠景
知床半島の東側中央部に位置し、 松法川北岸の砂丘上に 形成された集落です。 オホーツク文化期の竪穴住居 11軒、 トビニタイ文化期の住居跡1軒が見つかっています。

松法川北岸遺跡遠景

 520動物意匠


 521松法川北岸遺跡出土の木製品
1982年に発掘調査を実施した松法川北岸遺跡では13軒の竪穴住居が確認されましたが、その内の12・13号住居から多量の焼土とともに
炭化した木材(構造材)が確認されました。
更にその焼土や構造材を剥がしていくと住居の床面からは多数の木製品が確認済され出しました。
それまで、断片的に小さな木製品の破片は出土した事はあったのですが、これほど多数の、しかも精巧なものが作られ、使われていたと言うことが確認されたのは国内ではもちろんのこと、極東のオホーツク文化圏でもはじめてのことで、未曽有の発掘調査となりました。

出土した木製品は木炭と同じ状態で、しかも約千年を経過しているため粉砕化しており、また初めての出土だったためその形状の理解に苦しみ、
発掘調査終了後十数年の復元作業を経てやっとその全体像が見えてきました。

ここに展示してある木製品はその中のほんの一部ですが、遥か千数百年前にオホーツクの海原を渡り、知床に安住の地を見出した
『アジアのバイキング』とも言われる北方狩猟民族の生活や宗教観を示すものとも言えるでしょう。

  《出土木製品の特徴》
出土した木製品には数々の特徴が見られます。
白樺の皮で作られたバケツ状の容器は北方民族に特有なものですがここでは3個出土しています。
小さなクマの顔面を彫刻したものは、その出土状態から一本だけで作られた木鎖状のものだったと推定されます。
このような技術は、後の樺太アイヌに昔からの伝統技術として伝わっていました。

クマの顔面を彫刻した大きな木製品があります。
これはちょうど洗面器ほどの大きさの容器で、使わない時には伏せておくとクマの顔面が正像に、また、容器として使うときには熊の口の部分が注ぎ口となるように作られています。
この容器は竪穴住居の一番奥の部分から出土しました。
オホーツク文化期の竪穴のこの部分からはヒグマの頭蓋骨が並べられて出土することが多く、神聖なクマを祀るための場所だったと考えられています。

つまり、この容器は単なる入れ物ではなくクマ送り儀礼に関わる祭祀のための道具だったと考えられるのです。
またこの容器の口縁部をよく観察すると、二等辺三角形のような浅い彫り込みがなされています。
これはアイヌの社会で言う『レプンカムイ・イトクパ』と言う印と酷似しています。

レプンカムイとは海の神様、シャチのことで、この模様はシャチの背ビレを図案化したものなのです。
つまり、この容器のモチーフは山の神様であるヒグマ(キムンカムイ)と海の神様であるシャチ(レプンカムイ)が合体したものと言えるでしょう。
このような自然に対する宗教観は後のアイヌ文化に見られるものとよく似ており、アイヌ文化の精神的な基礎が形成される時期に、彼らが重要な役割を果たしたと言えるでしょう。


松法川北岸遺跡出土の木製品
アイヌ民族の神々
レプンカムイ(シャチ)
アイヌ民族の神々
キンカムイ(ヒグマ)
 522

熊頭注口木製槽に
みられるレプンカムイ・イトゥクパの文様
右側側縁部第一 右側側縁部第二 左側側縁部第一 白樺樹皮のバケツ

 出土炭化木製品の復元品
出土炭化物の復元品
523~524
525~527

 523熊頭注口木製槽
舟形の容器の一端にヒグマの頭部が彫刻されています。口の部分は貫通しており、注ぎ口となっています。また、容器の縁にはシャチの背ビレを図案化した模様が彫り込まれています。
樹種同定を行っており楓属と同定されています

熊頭注口木製槽
熊頭注口木製槽
 524矢筒
樹皮製の矢筒で、それぞれ桜皮と樺皮巻きです。矢筒の内部には矢柄も残されています。桜皮巻きの矢筒は28点の石鏃がセットで見つかっています。

矢筒 矢筒 白樺樹皮製バケツ

 樹皮製容器
高熱により、変形していますが、 平面が楕円形で筒状の容器です。 樺皮が重ねあわされており、口縁部には閉じ孔が並んでいます。
底には底板をはめ込むための補強材 (イチイ) も見られます。

樹皮製容器

 組紐・撚糸
組紐はニレ属の内樹皮の可能性があります。アイヌ文化では、ニレ属のオヒョウの樹皮で伝統的な着物のアッツシを織っていました。

組紐・撚糸
 525動物意匠骨角製品
鹿の角を素材にして、それぞれラッコ(全身、2頭以上)、アザラシ(頭部、1頭)、シャチ(全身、2頭)が彫刻されています

 526熊頭木鎖
小さな熊の頭が彫刻されており、それに鎖状の木製の環が連結されています。


 527動物意匠土製品
シャチ・クマ・アザラシカエル形の土製品です。カエル形のものは土器の取っ手部分の破片と思われます。シャチやクマ、アザラシの土製品の粘土は土器と異なる粘土が使われているようです。

動物意匠土製品 シャチ
カエル
アザラシ
クマ

 舟形木製品
ミニチュアの船と櫂でセットで発見されました形態から丸木舟などではなく、構造舟と考えられます。

舟形木製品
 
 530住居
 531炭化木製品出土状況
13号住居跡床面出土桜皮巻矢筒と
石鏃出土状況
・石鏃28点が長軸方向を揃えて出土
・矢筒の中に矢柄が並んでいる
焼失前の矢筒が倒れていた方向

松法川北岸遺跡13号住居木製品出土状態

 精巧に作られた取っ手付き容器の出土状態です。
その近くからは一対の軽石で作られた輩研磨器やクジラの骨で作られたヘラ状骨角器、左人には木製の皿などが見えています。
松法川北岸遺跡13号住居木製品出土状態

 この住居跡の床面からは真っ黒に炭化した住居の構造材の下から、重なり合った中型木製槽、その中には小さな熊の頭が付いた木鎖が確認されました。木製槽の上には樺皮で巻かれた矢筒も見えています。
 532

角材

 共に、床板として利用されていたものになります。住居跡の復元模型にあるように、コの字状の粘土の貼り床の周囲には板を敷き詰めて床としていました。板には彫刻が施されているものもあります。

スプーン
 2本とも先端が欠損していますが、精巧な作りのものと粗削りなものとがあります。精巧なものは現代のものと全く同じ形をしていたようです。


 刳りものの角皿で、薄く、内面は非常に丁寧に磨かれています。一つの皿は連結する溝と補修孔により、割れた破片を紐等で結び修理して使用していたようです。1点の樹種同定を行っておりカバノキ属と同定されています。

 刳り物の丸椀で、いずれも高台が付けられています。
厚みがありやや重量感のあるものです。2点の樹種同定の結果、ともに楓属と同定されています。
半載杭
 半載された杭です。竪穴住居の壁面に沿って、壁面に半載面を向けて立てられていることから、土留の杭と考えられています。高さは40~50cmほどであったと考えられております。

 現代の蓋と同じように、容器の口にピッタリと合うように工作されています。
楕円形をしていますので、樺皮容器の蓋と思われます。トネリコ属(アオダモ、ヤチダモ等)の木で作られています。
吊り手
 樺皮容器等の口縁部の上につけられる吊り手です。
持ち運びするのに便利なように取り付けられたものでしょう。
両端には孔があげられていますので、紐で縛っていたものと思われます。
杓子
 柄の部分が焼失していますが、大きな杓子の先端部です。
常呂町の同時期の住居跡の発掘調査により、杓子であることがわかりました。
北方民族のニブヒ族は酒をかまかすときに全く同じ道具を使っていました。

※北海道方言「かまかす」 かき混ぜるの意味らしいです。
擂り潰し具
 現代の擂粉木棒(すりこぎ棒)の働きをする道具です。北方民族のニブヒの人々は熊を送りの儀式の時に、「モス」と言う煮こごり料理を作りますが、サケ、マスの皮をすり潰すのに全く同じ道具を使っています。桜の木で作られています。

 横木取りの刳り物で、角形です。内面の一部に炭化物が多量に付着しており、何らかの有機物であったと思われます。樹種同定の結果、トネリコ属と同定されています。
 535炭化木製品
把手付容器
木製槽
 

 540重文土器

第六二八号
重要文化財指定書
北海道松法川北岸遺跡出土品
一、土器·土製品 64点
一、石器.石製品 120点
一、木製品   37点
一’樹皮製品  6点
一、铁刀子   5点
一、骨角製品  28点
法量、品質形状等別添目録の通り

右重要文化財に指定する
 平成二十七年 九月 四日
文部科学大臣下村博文。
 541
出土土器の状態
 542
 543
 544
 
 560道具
 561
組み合わせ式釣針 1号住居跡
オホーツク文化期
3号(トビニタイ文化期)
5号(オホーツク文化期)
13・15号
(オホーツク文化期)
11・12号
(オホーツク文化期)
 563石錘
 565道具
骨鏃
骨鏃
被熱により大きく変形してしまっています。
裏面は平坦に研磨されているので、 鏃身部の横断面形はカマボコ形になっています。




銛頭 銛頭
 回転式離頭銛の銛頭でクジラやトド、 アザラシ等を獲る道具です。
 獲物に銛頭が刺さると、90度回転して獲物から抜けなくなります。
帯飾り 帯飾り
 アイヌ語でクックルケシと呼ばれるもので、 帯に縫い付けて飾りにします。
骨匙
骨匙
 柄の部分に丹念な彫刻が施された骨製のスプーンです。
釣針 釣針
骨角製のつり針です。 単式と呼ばれる単体で使用するものと、
組合わせ式と呼ばれる軸と針を組み合わせて使うものがあります。
骨鍬    骨鍬
鯨骨製のもので、 1対の窓があります。 柄部は欠失しています。
土掘りもしくは雪かきに使用されたと考えられています。
骨斧
 
  骨斧
鯨骨製のものです。
1つは両頭の骨斧で、 上下両端に刃が付られています。 
骨箆
骨箆
鯨の骨を薄く削った後に、 研磨して作られた箆形の骨角器です。
石鏃・石銛 石鏃・石銛
石鏃は黒曜石 ジャスパー製のものがあり、
大型の石銛は安山岩製のものが多くあります。
   矢柄研磨器   矢柄研磨器
軽石製です。 二個一対で、矢柄を研磨します。
 
石斧  石斧
石製の斧もしくは鑿です
砥石
砥石
有孔砥石はオホーツク文化に特徴的なもので、 紐を下げて携帯用のものであったと考えられます。 つまみ付きのものも同様のものと考えられます。
  石製環飾  石製環飾
 様々な石材が利用されています。
 メノウは非常に硬いことから加工に高い技術が必要であったと考えられます。
 
円盤
 
円盤
土製・石製のものがあります。 また、 有孔のものと、 孔のないものもあります。 用途は不明です。
 
鉤状石製品(かぎ)
鉤状石製品
泥岩製のもので、 鉤状の石製品です。 用途は不明ですが、 二個の刺突孔 (被貫通) と、 これを連結する線刻があります。
土製環飾 土製環飾
土製の環飾です。 石製の環飾と同様に装飾品として使用された
と考えられます。
紡錘車  紡錘車
土製と石製のもの両方があります。 繊維に撚りをかける時に使
う、コマのような形の道具のおもりの部分です。 
浮子  浮子
軽石製の浮子です。 網漁や釣りに使う浮子の多くは木製であっ
たと思われますが、 軽石製のものもあります。
   
土玉
土玉
土製の玉で、大小様々な大きさがあり、 貫通孔のあるものと、
ないものが見られます。
土器片再利用研磨器
土器片再利用研磨器

土器の割れた破片を、砥石のように研磨器として再利用しています。
 
 580住居模型
 オホーツク文化の竪穴住居模型
6世紀から13世紀(1400~700年前)頃、オホーツク海沿岸地方で活躍した海洋漁猟民族(クジラやトド、魚などを獲って暮らした人々)、オホーツク人達は羅臼にもたくさんの遺跡を残しました。その中には竪穴が火事になって家の骨組みや生活の道具などが炭になって残されたものもありました。このような竪穴は彼らの家の作り方や生活の一部を見せてくれました。この復元模型は少しずつわかってきたそのような事実を表したものです。

竪穴住居と言うと原始的なものを想像しがちですが、彼らの家の中は板壁に囲まれ、床にも木材がたくさん使われており、また、屋根は白樺の皮で覆われています。見た目には現在のログハウスとそれほど異なるものではありません。この時期の竪穴は五角形に掘り込まれ、家の奥には熊の頭蓋骨を積み重ねた祭壇が作られています。天界から毛皮と肉というお土産を持って地上に降りてきたカムイ(熊)を丁寧に祀って天界へと送り返し、再び降りてきてもらうための儀式(クマ送り)を行っていたものと思われます。

入り口ははっきりとしたものは確認されていませんので、他の北方民族の例を参考にして二階の屋根に作ってみました。

内部、特に熊の祭壇付近にある木の道具や土器などは松法川北岸1遺跡より出土したものを参考にしました。皿、椀、白樺の容器、弓、矢筒などが出土しました。
家の外にある船はアイヌの丸木舟を真似てみましたが、流氷の海に漕ぎ出しトドやアザラシ、更にはクジラまで捕獲していた彼らはもっと大きな船を巧みに操っていたものと思われます。

船の先頭には銛を持った人がいます。これは回転離頭銛と呼ばれるものでトドやクジラ猟には欠かせないものでした。骨や鹿の角で作られています。
また、背後には漁網がありますが、オホーツク文化の遺跡からは穴を開けたり、溝を彫った大きなおもりがたくさん出土しますので、大きな漁網を使った大掛かりな漁が既に行われていたものと思われます。


※考察 オホーツク人の舟
 (普段は核家族で生活する)オホーツク人は(漁期になると)一軒の大きな家に多人数で暮らし、多人数で漕ぐ足の速い何艘もの船で海獣を追いかけ、それぞれの船のたった一人の射手が一番銛を競い、また、それぞれの舟で別の獲物に銛をうち、そのチームワークと腕前を競ったものでしょう。
 オホーツク人や靺鞨は、間宮海峡を渡り、オホーツク海に乗り出し、千島列島を越えてアリューシャン列島までで゛も出かける海人でした。
その命を預ける船はどのようなものであったか。誰にも想像できないし、遺物も残っていない。↑のジオラマの舟は、せいぜい川舟で、冬のオホーツク海に出ればひとたまりもなく沈没したであろう。

 同じ海洋民族で、海獣、この場合はクジラ漁だが、を専門にする、フィリピンからその昔台湾に渡って来た、タオ族の舟は丸木舟である
しかし、彼らはこの舟で波高き太平洋に漕ぎ出だす。その秘密は船の船首と船尾の高さにある。あの高さまでの波なら、乗り切れるのだ。

 従って外洋航海していたオホーツク人の舟も、船首と船尾を高くあげていたことでしょう。もしかすると、のちのアイヌの板綴舟のように、ロープを使って波切り板を固定していたのかもしれない。もし、フナクギ(舟釘)があれば、アイヌが模倣しただろう。ただ、元軍の船と似た技術であれば、鉄釘を使っていただろう。

 


 700二階展示室 二階にも沢山の展示物があります。ただ、別物なので、今回は端折りました。