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目次
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500吉井町の宿場町
01外観
02切支丹灯籠
10入口展示
11槍・小柄・笄
12筑後川
15月岡古墳出土物展示室
撮影禁止
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100縄文時代
101縄文土器
105押形文土器
103轟式土器
113三万田式土器
115西平式土器
120石器
121掻器・石匙
123石斧
130塚堂古墳周辺出土石器
131石刀・石杵
133石斧・晩期土器片
140石器 縄文~弥生
141多頭石斧
143石鍬先
146石鏃
147石槍・石剣・石匙
148石錘
150道具 縄文・弥生
151縄文時代
153石器各種 |
200弥生時代
210縄文後晩期
221弥生中期
223弥生時代の墓制
225筒形器台
226コップ・鉢
227青銅器・石製品
230甕棺
231中期の甕棺
233後期の甕棺
古墳時代
240九州古墳文化の特徴
242甑・内行花文鏡
243土製品
245皿・坏
247提瓶
250須恵器
252ハソウ・瓶
253須恵器坩
254須恵器蓋付坩
255蓋付祝部式坩
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300埴輪
301人頭
303馬形埴輪
305衣笠(蓋)埴輪
307衣笠円筒埴輪
310古畑古墳
313古墳出土土製品
315金・銀環
317円筒埴輪
320前方後円墳
321塚堂古墳模型
330塚堂古墳
332頚甲
336第1号石室出土物
338第2号石室出土物
340短甲
350埴輪
351朝顔形埴輪
353円筒埴輪
355盾持埴輪
357人形埴輪 |
400発掘速報展
三春大碇遺跡発掘調査
速報展 縄文後期
403三春大碇遺跡とは
410後期土器
411深鉢
413鉢の口縁部の飾り
417浅鉢
420晩期土器
421甕
422浅鉢
423粗製土器
430弥生中期
431竪穴住居跡
433土器
440石器・土器
442石鏃・尖頭器
444石包丁
450石斧
456砥石
460装飾古墳
461吉井町の装飾古墳
463日岡古墳石室
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500吉井町の宿場町
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現在でも大変統一感のある街並みです。これだけのものを残せるなんて素晴らしい町民の意識ですね。未来への財産ですね。
ちなみに、私の生まれ在所も旧宿場町なのです。何百メートルかにわたって宿場町の雰囲気がありました。
最近帰ってみると、みんなてんでバラバラに改築し、わけのわからない妙な町になっていました。武家屋敷街も旧家老屋敷を除いては全てメチャクチャでした。
街並みなどというものは、みんなが残そうと意識を持たなければ、あっという間に伝統も、歴史も、美も消滅してしまうことが 分かりました。 |
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01外観
吉井歴史民俗資料館 |
切支丹灯籠 |
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02切支丹灯籠
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灯籠内部には、いわゆる“子安観音”の石像があります。
学芸員の方に見せて頂きましたが、撮影はご遠慮させていただきました。
日本全国に隠れキリシタンの遺物があり、幕末まで延々と信仰が続いていたことがわかります。決して長崎だけではありませんでした。
弾圧の厳しかった九州で、堂々と聖母子像が信仰されていたことには驚かされ、また、長い間の人々の言葉にならない祈りの思いが感ぜられるようでした。 |
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10入口展示 |
11槍・小柄kozuka・笄kougai
※大刀の鍔tubaの根本とに仕込まれている物で、目貫menuki・笄kougai・小柄kozukaが三点セットです。
ここで、目抜きが展示されていないのは、美術的価値が高く、別に売られてしまったのかもしれません。
小柄(こづか、小刀)
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笄(こうがい)と対になって刀の鞘に差す小刀。刀身と柄が一体のものと、刀身と柄が分かれるものがある。
柄は刀工とは別人が作成することも多く、様々な細工が見られる。小柄とは柄のみを指すことが多い。 |
笄(こうがい)
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小柄と対いになって刀の鞘に差すヘラ状の刀装具で耳掻きが付いている。武士は髪を結っていたので髪の元結いを解くなど、身だしなみのためなどに使用した。また、護身用の武器となることもあった。 |
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12筑後川
民具が寄付されていました。 |
筑後川河川事務所防災地図
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大河筑後川は、阿蘇山から流れる三隅川が、夜明けダムから筑後川となって(博物館付近)、
熊本、大分、福岡、佐賀県を流れて有明海に注ぐ超一級河川です。
河口付近では、分厚いシルト層が堆積しており、泥の海有明海の源のような川です。
巨大火山が多い中部九州では、深く火山灰で充填されており、流出するのは岩石ではなく
火山灰、ドロです。
って、ここではそれとは関係なく、地形図として掲示されています。旧浮羽町は山の中です。 |
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15月岡古墳出土物展示室 撮影禁止
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100縄文時代
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縄文式土器が使用されていた時代をいう。その当初から土器・石器、弓矢などを使って野山に出て獣や木の実をとり、海へ出て魚や貝や海藻を取って生活する狩猟漁撈の採集経済であった。
この時代は土器に対する型式的研究により、早・前・中・後・晩期の五つの時代に(※書かれた時代がとても古いことが わかります。)
大別されている。そのほとんどの磁器に貝塚を伴うことなどから新旧両大陸の新石器時代に比定される。
福岡県では大牟田市を中心とする有明海沿岸と、北九州の洞海湾など遠賀川流域に比較的多く分布する。
年代を決定するために、土器の型式編年の他に、放射性炭素C14の測定によって年代測定が試みられている。
いずれにしても、縄文時代は数千年に渡って継続し、西暦紀元前2・300年頃、まず、西日本地区において弥生時代に移っていった。
※縄文時代に草創期の設定が提唱されたのは1960年代である。設定以前に旧吉井町が全力を投じて建設した歴史資料館である。従って、
整備された時代がとても古く、その時代の日本考古学界の標準的な学問的成果がそのまま表現されています。是非大切にしたい展示です。
※縄文人が、裸に毛皮ではなく、植物繊維の衣服を着ていたとわかったのは、つい40年ほど前の1980年代のことです。
※1960年頃までは考古学者が必死で縄文土器の窯跡を探していました。やがて、放送番組が東南アジアでワラを積み上げて土器を焼いていることを報道し、やっと、野焼きされていたことに気づいた。現在は当然の理論のプレートテクトニクス、大陸移動説も、当時は空想の産物と考えられていた。
学問が未発達な時代だったんですね。 |
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101縄文土器
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105押形文土器 縄文早期 吉井町法華原遺跡
押形文土器 |
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103轟式土器 縄文前期 吉井町法華原遺跡
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113三万田式土器 縄文晩期 吉井町法華原遺跡
三万田式土器
晩期終末期
法華原遺跡
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石鏃
縄文後期
吉井町若宮
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115西平式土器 縄文後期 吉井町若宮
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西平式土器
縄文後期
吉井町若宮 |
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把手付コップ
縄文晩期
吉井町古畑
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把手付土器は大陸文化の影響を受けたものと思っていました。
いや、もうすでに大陸から持ち込まれたか、
半島人の
持ち物だったかも。 |
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120石器 |
121掻器・石匙
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打製石器(黒曜石)
吉井町法華原 |
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上2個は掻器
下は石匙のようです |
いかにも完成度が低い
原石が小さかったのか、未熟だったのか |
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打製石器 縄文早期
法華原上部より出土 |
法華原上層出土
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123石斧 縄文後期 吉井町各地より出土
磨製石斧 縄文後期
吉井町各地より出土
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縄文時代後期
吉井町各地 |
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脚注が裏返してある |
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130塚堂古墳周辺出土石器 縄文時代
※塚堂古墳は縄文時代の集落遺跡のそばに築造されたようです。 |
131石刀・石杵
塚堂古墳周辺遺跡 |
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石刀、黒曜石片
縄文時代
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石刃、石片 |
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石棒(搗(つ)き石棒)
弥生時代
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搗き石棒とは石杵のことです。
この時代には、まだ、先史時代の解明は進んでいませんでした。
形態から用途を説明しようとする言葉ですね |
石棒片
縄文時代
A地区表面採取 |
石棒片は男根を模した石棒(後晩期)ではなく、石杵(いしぎね) の破片かと思います。
均一な材質で簡単に半截できないことから、使用者の埋葬時に壊して副葬したのか、表面採集なので、落として割れたのかもしれません。
しかし、このように見事に半分に割れる例はよく見かけるもので、
磨製石斧の破損によく似ています。
伐採で斧柄を振るって打撃すると、粘りのある石でも、木と斧柄に挟まれて、力の逃げ場がなく、やがて真っ二つに破損するものです。
その時の、石斧刃部と反対側の、柄に挟む側ではないでしょうか。 |
鉄製刀子の先 (古墳時代)小刀
紡錘車(古墳時代)糸紡ぎ弾車
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石器石材(縄文時代)硅岩質
土製円板(弥生時代)用途不明
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※硅岩質は珪岩と書くようになりました。
硅は非鉄金属シリコンのこと。
用法:硅酸、硅素
珪石は石英のこと。
用法:珪素・珪砂・珪藻・珪化木
Oxford Languagesの定義
しかし、両方ともシリコンを表す言葉。
漢字の定義が変更されたようです。 |
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133石斧・晩期土器片
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石斧(晩期)A地区露表
磨石器片(縄文期)?
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石斧(後晩期)
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円平石片(縄文期)
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磨円平石片(縄文) |
土器片(晩期)
土器片(晩期)三万田系
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土器片(晩期) |
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140石器
塚堂古墳周辺遺跡からの縄文~弥生の遺物はまだ続きます。相当大きな遺跡だったのでしょう。古墳築造によって攪乱されたのでしょう。 |
141多頭石斧 縄文時代 吉井町延寿寺屋形、法華原出土
穴掘りとか、ブーメラン武具とか、いろいろの説あり、
※今では、異形石器といわれているもの、のことでしょうね。
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143石鍬先 縄文時代 前・中・後期 吉井町延寿寺屋形、法華原出土
(田畑を)耕したり穴を掘りに使ったもの
※晩期ですが、北部九州には田があり、もしかすると、田畑や穴掘りに使ったかもしれません。打製石鍬、打製石斧のことでしょうか。
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145 |
146石鏃 縄文・弥生時代 吉井町各地
※無茎石鏃の装着法
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無茎石鏃の装着法は、 |
アスファルト接着剤を用いないところでは、 |
矢柄に挟んで縛り付ける方法です。 |
この矢で獲物に深く損傷を与えるには、 |
相当な剛腕の者か、かなりの至近距離から射掛るか、 |
確実に急所を射貫くかしなければ、 |
獲物に手傷を負わせただけで、取り逃がしてしまいます。 |
それは、石鏃の装着法が抵抗の大きい方法だからではないでしょうか。 |
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147石槍・石剣・石匙 縄文時代前・中期
石槍・石剣・石匙 |
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石匙(縦型) |
※北部九州で、縄文前期・中期に、東北地方の縦型石匙が出土しています。て、いうか、これって全部縦型石匙。
普通は、西日本式の横型に混じって少し縦型が出ると思ったが、全部縦。
大量の東北人が九州まで移動したのは、縄文後期のことです。
それ以前にも東北人の南下が普通にあった証拠ですね。
これらの移動によって、様々な文化が列島に拡散した。 |
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148石錘 縄文時代 吉井町法華原 魚を取るあみの石おもり
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150道具 縄文・弥生 |
151縄文時代 |
152石錘
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153石器各種
投弾形土製品
縄文時代
法華原遺跡 |
円平石
縄文時代
法華原遺跡
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分銅式石器
縄文時代 法華原
※垂飾でしょう。磨かざれば光なし。 |
変形石器
縄文 法華原
スクレーパーかも |
扁平角形石器
縄文時代 法華原
脂肪掻き取りに便利そうだが。 |
糸巻形石器
縄文石鍬片に似てます
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160弥生時代
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石斧
吉井町千代久屋形 |
石斧
吉井町千代久屋形 |
石のみ
縄文晩期・弥生 |
石包丁
吉井町各地 |
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200弥生時代
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紀元前300年前~紀元後300年頃まで。
明治17年東京市本郷弥生町で発見された土器が弥生式土器と呼ばれました。
その後この土器が全国に広がっていることがわかり、さらにそれらの土器と共存する各種遺物のたゆみない調査と研究から、
今日のような弥生時代を日本歴史の上に定立することができた。
弥生時代の文化が、縄文文化と異なる特色は三つある。
第一は稲作農業の開始である。従来の採集狩猟生活から、計画的に食物を生産する生活への変化で、、
第二は金属器の使用の開始である。当初の段階から、青銅器と鉄器が日本に輸入され、青銅器については日本での製造が確実である。
しかし、日常道具としては、この時代の中頃まで、なお石器の使用も盛んであった。
第三は中国・朝鮮・南方との交通の開始である。稲作農耕も金属文化も、大陸・朝鮮からの伝授であるが、それのみでなく中国王朝との交流である。
以上の諸点はその後の日本の文化の根幹をなすものである。
この時代は、また文化の特性から、前・中・後の三期に分けられるが、上記の特色は各期ごとに発展して、政治的な地域社会を作り出すと共に、
やがてその中から次の古墳時代における畿内勢力を中心とする広い統一国家を生む、まさに激動の時代であった。
※弥生早期の設定は、2003年(平成13)国立歴史博物館(千葉県)の放射性炭素年代測定により、弥生時代の開始が約600年遡るとされた。
弥生早期を紀元前1000年頃(紀元前10世紀)から、前期を紀元前800年頃から、中期を紀元前400年頃から、後期が紀元50年頃からとなった。
※この官の成立は1980年代ですので、当然、全く違った歴史観です。 |
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弥生時代
上に記述 |
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210弥生式土器 縄文後晩期
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滋賀の里式
縄文晩期
法華原遺跡
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九州に珍しい、
近畿様式の土器 |
御領式(黒色研磨土器)
縄文晩期
法華原遺跡 |
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鐘ヶ崎式
縄文後期
吉井町若宮 |
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西平式
縄文後期
法華原遺跡 |
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220 |
221弥生式土器 弥生中期
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弥生式土器 中期
田主丸町蔵八
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支脚
支脚はかまどに使用 |
支脚
作り付竈が使用されていた |
長胴甕(かまど用) |
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長胴甕は、かまどにかけ、支脚の上に置き、湯を沸かし、
上に甑を置いて、穀物を蒸す道具。
鑵子(かんす)である。 |
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223弥生時代の墓制
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縄文時代と異なり、弥生時代になると、死者を手厚く葬るようになった。
すなわち単に地中に穴を掘って埋めることのほか、木棺(木板を長方形にしつらえた棺)や、甕棺(大型の壺や甕)に、
あるいは箱式石棺(板石で囲った棺)に死体を埋葬した。
このような墓の発見は北部九州が最も著しく、また、上記の内部構造の上に大きな石を置いた支石墓は、南朝鮮の支石墓と共通し、九州北半に限られる。しかし古墳のような盛り土はまだ行われない。
人骨の発見は稀であるが、土地の条件もあって、時には極めて保存の良い例もある。弥生人の実際を考えるうえに重要な資料である。
また、副葬品の発見例も極めて少ない。しかし、少ない中で、玉類などの装身具の他に、棺の内外から青銅製利器や鏡など大陸・半島の
貴重な輸入品を多量に副葬する例がある。
すなわちこのような厚葬思想の萌芽と墓の様式は、大陸・半島の影響が大きく、また、次の古墳文化への胎動を示している。
※とても貴重な指摘です。これまで、誰も言いませんでしたが、その通りだと思います。。 |
合口式甕棺
弥生時代中期
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浮羽町大野原 |
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弥生時代の墓制
上に記述 |
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225筒形器台 墓地の外に置かれるもので、一対である。
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226コップ・鉢 (※コップなのか酒杯なのか、、、)
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円塗り磨研 高坏
吉井町船越 |
コップ型土器
弥生後期
吉井町千代久 |
コップ型土器
弥生後期
吉井町竹重
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壺
弥生中
吉井町千代久
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コップ型土器
弥生中期
吉井町竹重
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227青銅器・石製品
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鉄片
鉄製紡錘車
権(分銅)
吉井町清宗 |
石剣
吉井町清宗 |
石剣
法華原
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細形銅戈
吉井町清宗
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貨銭
浮羽町朝田
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箱式石棺より出土
弥生時代日本で考古学上最も早く出土報告したもの |
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230甕棺 |
231中期の甕棺(笠蓋付) 弥生時代中期(約2000年前) 吉井町橋本
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233後期の甕棺
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古墳時代
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240九州古墳文化の特徴
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九州の古墳文化もその主流は、畿内を中心とするわが国古墳文化の大勢の中にある。
しかし、その中にあっても、次の諸点は特色としてあげうる。
第一は、前方後円墳に代表される広大な墳丘と、その中に竪穴式石室をもち、鏡・剣・玉等を副葬する畿内型古墳が、
大首長の墓として、まず北部九州に古墳時代の当初から流入しているが、一般には、箱式石棺・土壙・木棺など
、この地の弥生時代後末期の墓制が、新しく墳丘をもった姿で、なお五世紀頃まで盛行していたこと。
第二は、五世紀の中頃から装飾古墳及び石人石馬を持つものが現れること。これは何より九州の特色である。
最初は家形石棺や石室内の石障などに直弧文などを彫刻したが、六世紀に入ると、彩色壁画、やや遅れて線刻壁画が多くなる。
石人石馬は埴輪を石に移したものである。
第三は、大陸・半島の影響を受けて、横穴式石室が我が国で最も早く採用され、普遍化していったこと。
第四は南九州では、畿内的古墳文化の受容が容易でなく、地下式横穴・地下式石積石室など異質の墓制が、遅くまで行われていたことである。 |
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241
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242甑・内行花文鏡
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内行花文鏡
漢鏡の代表的な物 |
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内行花文鏡 (漢鏡の代表的な銅鏡)
図面は、純然たる幾何学的文様で、これは、
長宣子孫繁栄を表している。
昭和26年
田主丸町竹野古墳(内山緑地横)出土
※60年前の記述ですから現状は変化した |
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甑の使用法 |
甑
吉井町船越
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甑
浮羽高校庭
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243土製品
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245皿・坏
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土師器 盌(まり)
吉井町屋形、竹重
盌=ワンと発音する |
皿 |
坏身・蓋 |
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247提瓶(ていへい)
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提瓶は壺の一種である。体部は巻き上げ成形の後ろくろ上で仕上げられ、頂部の穴が塞がれる。
その後、体部を作ったろくろの主軸と直交する位置(体部側面)に穴をあけ、別に製作した口頸部を付ける。
体部は、底面であった面が扁平、頂部であった面はやや膨らむのが一般的である。
把手や粘土板を口頸部の両側に貼り付けるものが多く水筒のような形態となる。
やや膨らむ面にはカキ目を施す野が一般的であるが、ヘラ描きの文様で飾る例もある。
※提瓶は、粘土紐を巻き上げ成形し、それを更にロクロで成形して中空の太鼓にして密閉し、更に生乾きの時に横に穴を開けて口頸を付ける。
という。ろくろで密閉された中空土器が成形できるとは知らなかった。相当固い粘土を使うのでしょうね。
私は、以前陶芸家がやっていたので、更に、花火師が丸玉を作るときにもやっていた方法、二つの半球を合わせるのだと思っていました。
実に高度な技術です。 |
横瓶 |
須恵器 堤瓶(水筒)
吉井町屋形
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提瓶 |
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提瓶
上に記述 |
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250須恵器
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須恵器は、行基焼、曲玉壺などと呼ばれて、古墳時代後期以降、奈良・平安時代にも生産された。
出現の時期が比較的明らかで、器形・器種の変化も明瞭なものが多い。
また、生産地跡の把握も割合に容易であり、時代の明瞭な官衙・寺院などからの出土も多い。
更に土師器に比較して古墳から検出される例も多く、古墳時代後期以降の時間の物差しとなっている。
生産の開始を知る手懸りには、百済から新しい技術をもった人々が渡来したと伝える「日本書紀」雄略天皇七年の条に
「新漢陶部高貴(いまきの あやの すえつくりべ こうき)」の名が見え、五世紀中葉である。
須恵器は、朝鮮半島での新羅に見られる青灰色または、黝黒色土器や、洛東江流域の伽耶式土器にその源流が求められる。 |
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251須恵器 吉井町法華原
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須恵器
上に記述 |
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蓋付坩
(坏の身と蓋)
法華原遺跡
高坏
吉井町屋形
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坏の皿(身)
田主丸町平原 |
坏の皿(身)
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252ハソウ・瓶
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253須恵器坩 吉井町屋形
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254須恵器蓋付坩 吉井町屋形
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255蓋付祝部式坩 古墳時代高貴 ふたつき いわいべしき つぼ
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昭和49年
田川郡川崎町安真木地方の横穴式石室から出土した土器。古墳時代の朝鮮式土器とも言われ、固い焼です。
後期の物としての特徴を持ち、約1300年ほど前の、飲み物や、食べ物を入れた容器で、蓋付は大変珍しいものです。
蓋にはカマ印〇にメもついて降ります。
日本考古学会会員郷土史家 金子文夫氏鑑定 |
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このお墨付きは
上の蓋付坩の物です。
置いてある場所が違っていますね。 |
飾り台付高坏
(脚台付蓋付坏)
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扁壷へんこ
奈良時代瓦器
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扁:ひらたい
平たい壺・瓶を指す。
偏ったという意味ではなさそうです。
私はヘンコなジジイだと後ろ指さされますが、 |
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300埴輪
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古墳時代に作られた土製の焼き物。
埴輪は一般的に円筒埴輪と各種の武器・動物人物などを表現した形象埴輪に分類される。
元々古墳に継承された円筒埴輪は墳丘や重要な区画を囲い込むように並べられていることから、聖域の区画を示すためだといわれている。
人物埴輪や動物埴輪は葬送儀礼を表現したとする説、生前の祭政の様子を再現したとする説などが唱えられている。
※現在では葬送儀礼を再現したものと考えられています。 って、時代によって、首長の館を表現したものもありましたね。いろいろですね。 |
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301人頭
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303馬形埴輪 塚堂古墳
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鏡板付轡まで精緻に表現したのは初めて見た |
たてがみをチョンマゲにして、まるでユニコーン |
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305衣笠(蓋)埴輪
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“きぬがさ”は長い柄をつけ上から覆う「かさ」で、特に位の高い人の行列の時に用いられた。
絹などの織物で造られているが、それを埴輪として形象化している。丸い笠形が基本で、笠のふちや、頂部に大きな鰭を飾り立てている。
この埴輪は、円筒埴輪などと異なり、古墳の埋葬部をめぐって樹てられる例がみられ、ここに貴人が葬られていることと、聖なる場所であることを示している。
九州において、蓋形埴輪の出土例は少なく、王塚古墳など、十例に満たない。 |
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307衣笠円筒埴輪 吉井町塚の同古墳
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310古畑古墳 古墳時代後期 吉井町屋形古畑
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311
古墳に建てられた埴輪 |
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313古墳出土土製品
出土土製品 |
祭器(副葬品)
古墳後期
吉井町屋形古畑 |
馬型土偶
古墳後期
吉井町千代久 |
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形象埴輪残片
人頭・家の千木・馬の耳 |
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ミニチュア土器
法華原
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315金・銀環
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317円筒埴輪 古畑古墳 古墳後期
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320前方後円墳
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321塚堂古墳模型
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※塚堂古墳には前方部と後円部の二か所に埋葬施設がある。
前方後円墳のくびれ部に張り出し部分はないが、それにあたる周堤や、埋葬施設入口には、形象埴輪などが並べたてられている。
これは、前方部での埋葬祭祀の時期よりも後で、古墳に張り出を作って祭祀を行う時期の前の、段階ではないかと思えます。 |
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古墳の概要
後円部と前方部にそれぞれ石室を持つ。
墳丘頂、後方部の頂、二段目の前方後円部、内濠と外濠の間の堤上にも
円筒埴輪と朝川方埴輪を立て並べ、、石室前方と、前方部全面には形象埴輪が立て並べられている。
張り出し部分はない。遺体を船に乗せて渡った内濠の堤上にも形象埴輪がたつ。 |
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322前方部埋葬施設
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323後円部埋葬施設
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324裏
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330塚堂古墳
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塚堂古墳は若宮古墳群の中では二番目に造られた前方後円墳で、全長91m、二重の濠を持っています。
墳丘には人頭大の河原石を貼り付けた葺石があり、墳丘裾や堀と濠との間には埴輪列が置かれていたことが推測されます。
後円部と前方部にそれぞれ古いタイプの横穴式石室があり、後円部の石室(1号石室)は昭和28年に、前方部の石室(2号石室)は
昭和9年以降3次にわたる調査が行われ、様々な貴重品が出土しました。
その中には東京国立博物館で展示されているヨロイもありますが、その多くは県立浮羽高校に保管されてきました。
口縁部は昭和28年大水害の復旧作業の土取りで大きく削られ、前方部も大きく形を変えています。
また、石室は前方部の2号石室だげが現存しています。
この古墳は今から1500年ほど前、5世紀末から6世紀初頭頃に造られたと思われます。 |
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331
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332頸甲
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2号石室出土
タガネ・鉄斧・鋤先
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頸甲あかべよろい |
東京国立博物館展示
ヨロイ
胴や胸を守る |
頸甲あかべよろい
首を守る |
挂甲小札けいこうこざね
札状の鉄板を繋ぎ合わせて「うちかけよろい」を作る |
鉄鉾 |
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334塚堂古墳測量図面
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胴塚古墳前方部
石室遺物出土状況実測図
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塚堂古墳
周濠復元図
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塚堂古墳後円部
1号石室実測図
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大刀
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塚堂古墳前方部
2号石室実測図 |
大刀
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盾及び盾金具推定復元(盾は埴輪から推定)
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大刀 |
大刀 |
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336塚堂古墳第1号石室出土物 (後円部石室)
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馬具の種類 |
杏葉 |
杏葉 |
杏葉
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鏡板
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鈴 推定復元 |
金銅製鈴片 |
青銅製鈴片 |
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337
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338第2号石室出土(前方部石室)
砥石 |
鉄鏃 |
鉄鏃 |
盾の縁金具 |
馬具金具
1号石室
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馬具鉸具(かこ) |
馬具金具 |
鞖しおで |
雲珠うす |
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340短甲 |
3412号短甲 ※1号短甲は東京国立博物館へ持って行かれちまったからなぁ、、
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350埴輪 |
351朝顔形埴輪
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円筒埴輪の上方が一度すぼまってから、円筒部上端が強く外反し、ラッパ状に開く形態が朝顔の開花時に似ているところから、昭和年代初期に
後藤守一氏によって命名された。「朝顔花形」と表記する研究者もいる。
この形状は器台と、その上に備えられた壺との組み合わせに由来するものであり、古墳の円筒列中に於いては数本ごと、あるいは十数本ごとに、
朝顔形円筒埴輪が立てられている場合が多い。
この場合、円筒埴輪群より器高さが高く、朝顔形の部分が突出する傾向があり、茨城県玉里舟塚古墳例では高さ1.2mを越えている例がある。 |
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353円筒埴輪
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埴輪の中で、最も普遍的なもの。粘土紐を巻き上げて上線が開く円筒形をつくり、器面調整の各種の刷毛目痕を内面外面に残す。
また、内面には指によるなでつけがあり、粘土紐の接合痕を消去している。
円筒埴輪の器面には数本の凸帯がめぐるが、円筒の大きさによってその数に差異がある。更に器面には通常二か所に円もしくは方形の透孔が2個ずつ直交してあけられている。 |
円筒埴輪
塚堂古墳
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円筒埴輪
塚堂古墳
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円筒埴輪
塚堂古墳 |
円筒埴輪 |
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355盾持埴輪
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357人形埴輪
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400発掘速報展 ~三春大碇遺跡発掘調査速報展~ 縄文後期
みてみらんの!古代のうきは
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401
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403三春大碇遺跡とは
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三春大碇遺跡位置図 |
発掘速報展というが、、、この地図、めっちゃ!古い。薄暗い館内で変色するほど時間が経ってる。
んっ! ツッコミを入れてどうする。 ここは博物館。冷静に、穏やかに、、
きっと、以前の、発掘速報展が残してあるんだろうよ。
初めて見る人には、速報だな。 |
三春大碇遺跡西方
筑後川下流を臨む |
三春大碇遺跡はうきは市浮羽町三春に所在します。
筑後平野が筑後川上流に向かって狭くなった位置にあり、遺跡のすぐ北側には筑後川が眼下に流れます。
この遺跡は、うきは市の工業団地造成工事に伴った発掘調査で明らかになりました。 |
三春大碇遺跡3区全景 |
遺跡からは縄文時代後期(約3500年前)の竪穴住居跡が9棟、弥生時代中・後期(約2100年前、約2000年前)の
竪穴住居跡が18棟、また古墳時代の円墳が43基確認されました。
そのほかにもこの遺跡からは土壙やピットなど沢山の遺構が発見されました。 |
検出した石室
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今回は縄文・弥生時代の遺物を中心に展示しました。
古墳時代の遺物について鉄器等を只今保存処理していますので、次回展示できるようにしたいと考えております。 |
縄文後期竪穴住居跡 |
この住居の中には石を組んで造られた炉(現代でいうコンロ)が三つあり、
調査の結果、向かって左から右へ炉の高さが高くなることから、順々につくられたことが 分かりました。
そして、石組炉に隣接して食事等の作業を行ったと考えられるやや大きめの石の作業台がありました。
この作業台の石は中央部が よく擦れており、使用した跡が見られました。 |
縄文後期土器出土 |
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北久根山式深鉢 |
粗製深鉢 |
〇縄文時代後期の土器には、左上写真のように文様を入れている土器と
、右上写真のような無文・粗製の二種類があります。
文様のある土器は木や竹を使って溝を掘り、その溝と溝の間に貝殻を使ったった疑似縄文を施したり、本物の縄文を施したりと、様々な方法を使っています。
他にも竹や木の小口を押して文様を作っている物や、象の鼻のような把手が口縁部に付いている土器も展示していますので確認してみてください。 |
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410後期土器 約3500年前
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411深鉢
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413鉢の口縁部の飾り 縄文後期 約3500年前
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415この土器の完成品
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417浅鉢 縄文後期 約3500年前
貝殻状痕のいろいろ
貝殻状痕のいろいろ |
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貝殻腹縁圧痕文
貝殻殻表圧痕文
貝殻殻頂圧痕文
貝殻腹縁連続波状圧痕文
貝殻腹縁連続波状圧痕文 |
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貝殻腹縁押引き文
貝殻条痕文
巻貝圧痕文、巻貝回転文
巻貝刺突文、巻貝沈線文 |
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420晩期土器 約3000年前 |
421甕
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422浅鉢 晩期 約3000年前
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423粗製土器
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430弥生中期
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431弥生中期の竪穴住居跡
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弥生時代中期の住居跡は、縄文時代後期の住居と違い、石組炉はありませんが床面の中央部に炉を設置していたようです。
その他の弥生時代中期の住居跡からは、床面に沢山の土破片が散布している状態のものも見られ、土器を置いたまま
次の住居に引っ越した可能性が考えられます。 |
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433弥生時代中期の土器 約2100年前
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壺は水を貯めるもので、甕が主に煮炊きに使用され、高坏は食べ物を盛る物として使われていたと考えられています。
それぞれ日常生活でも使用されましたが、特別に丹を塗ったものは祭祀の際に使用されたと考えられています。
その他に丹を塗ってなくても、祭祀用に土器の表面に故意に穴を開けたものもあります。(右上の甕は丹塗りのため祭祀用か?) |
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弥生時代中期の土器 |
弥生時代中期の
竪穴住居跡 |
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鉢 弥生中期
約2100年前 |
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壺を打ち欠いて鉢に転用したもの |
小型壺 弥生中期
約2100年前
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434
器台 弥生中期
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器台の使い方 |
弥生の暮らし |
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支脚 |
支脚の使い方 |
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435
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437甕
甕 |
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この甕のどこかに
レレレ
が施されています。
だ、そうです。 |
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440石器・土器 |
441
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442石鏃・尖頭器
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443石鏃
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444石包丁
石包丁を石剣に転用した
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北部九州では立岩遺跡で石包丁が生産され、広く流通していました。
切れ味がよく刃こぼれが少ない石材でしょう。
石材が良質であれば、石包丁は石刀に転用できます。
窒素肥料を輸入して、これを爆弾に使うのとよく似ています。 |
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445石器
石器
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石匙(横・縦形)
横型は北方系
横型は西日本系 |
スクレイパー |
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450石斧 |
451石斧出土
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上:横斧
下:縦斧
横斧はわかりにくい |
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木の柄に付けた石斧の出土 |
刃部を保護する編物
石斧部分の拡大
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石斧
久留米市正福寺遺跡 |
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454磨製石斧
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455打製石斧
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456砥石
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460装飾古墳
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461装飾古墳
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463日岡古墳石室 壁画実測図
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465日岡古墳石室 壁画実測図
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