新潟の縄文 №2 2020.09.25-1
長岡市立科学科学博物館 新潟県長岡市幸町2丁目1-1 0258-32-0546 月休撮影可
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交通 |
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長岡駅⑩バス停より、宮内本町・免許センタ・宮内環状線10分 |
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レンタカーは各店あり |
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備考 |
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長岡市の科学調査の中心的機関で、多くの考古施設を管理している。 |
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御免 |
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ヒューマントラブルで写真がほとんどうまく取れていないのです。
見づらいと思いますし、不足だと思いますが、、、御免 |
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御免
2 |
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文書表現が多数ありますが、老化による諸症状により、必要最小限の箇所のみの
文章化にさせていただきます。各所に未文章化があります。(o*。_。)oペコッ |
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目
次
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01外観
10概要
長岡市の概観
11山間部のようす
12平野と山間部の暮し
13山間部と平野部の自然
14平野部のようす
21海岸部の自然
22海岸部の暮し
23○○○の様子
30市指定重要文化財
32東日本の積雪期用具
33藁沓の分類と比較
縄文時代草創期
100室谷洞窟遺跡出土品
111石器類
113骨角貝製品
115石器類
130草創期の土器
140小瀬ヶ沢洞窟遺跡
143草創期の土器片
145石器類
200シダ・カタツムリ・南極の石
ユキヒョウ |
300地学
301海牛化石
310長岡の大地の生い立ち
319クジラ類の骨
320海牛のいた海
火山活動
323海牛化石
330海から陸へ
魚沼層
350塚野山の哺乳類足跡
360陸地になってから
370地震地盤災害と地殻構造 |
400考古
400長岡の歴史
401年表
402発掘された長岡
403土器
404石斧
405副葬品
420旧石器時代
421長岡の歴史がはじまる
422細石刃石器群
430縄文時代
431花開いた土器文化
432長岡最古の土器
433a晩期土器
440弥生時代
441狩から稲作へ
443a横山遺跡
450古墳時代
451古墳が表す支配体制
453a五千石遺跡 |
460古代
461律令制の成立と衰退
463土器
470中世
471もののふが治める
473中道遺跡・浦畑遺跡
479中世の井戸跡
480戦国時代
481歴史資料の魅力
482銭貨
490近世 江戸時代
510近現代
520上越線全通記念博覧会
530長岡の教育 |
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01外観
さいわいプラザ
長岡市の総合文化施設 |
長岡市立科学博物館 |
科学館は中規模の施設ですが、長岡市の文化・科学施設に大きな力を持っていて、
この館の組織が、他の施設を統括・管理運営しています。馬鹿にしてはいけません。
青森県でいえば、県立郷土館です。あそこも、県内各地の博物館・郷土館・資料館を
統括管理運営する中央官庁です。(名前は郷土館とつつましいが、大きな権力をもっています。) |
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10概要
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科学博物館のあゆみ |
地学研究室 |
植物研究室 |
昆虫研究室 |
動物研究室
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考古研究室 |
歴史研究室 |
民俗研究室 |
文化財研究室 |
信濃川と周辺のようす |
常設展示室 |
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長岡市の概観
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11山間部のようす
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12平野と山間部の暮し
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平野部のくらし |
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山間部のくらし
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長岡市の頭部から南部にかけて山地が連なり、山の斜面や谷間に田畑を造って、集落を形成した。
山間地で陽光のあたる東や南向きに田畑が造られることが多い。田畑は斜面にあるので、棚田、段々畑となる。
山は薪炭や材木、石材の供給地であり、山菜の宝庫でもあった。人非度は山の恵みに感謝し、山の神を祀った。 |
養蚕
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養蚕とは、生糸を取るために蚕を育てて繭を生産することである。長岡では、明治時代から昭和30年代にかけて盛んに行われた。
春蚕・夏蚕・秋蚕と年に3回の飼育ができたので、農家にとっては貴重な現金収入の機会であった。 (※年5回というのが多いと聞いてる)
蚕の成長には多くの桑の葉が必要で、また、飼育環境を清潔に保つなど、その飼育には一家総出でかかりきりだったという。 |
平野部のくらし
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当地は越後平野の南側に位置し、信濃川が北流している。信濃川の両側に水田が広がり、稲作が盛んである。
平地で人の集まりやすいことや、物流に好都合なことから商業や工業も発達した。
耕作は信濃川河畔や川中の島にある畑でも行われた。また、稲作だけでなく、信濃川では漁や砂利取りも行われた。様々な生業に関連した信仰もある。 |
麻
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麻は、昭和初期頃から稲作の合間をぬって栽培された重要な生業の一つであった。
麻(カラムシ・苧む・苧麻ちょま)は主に信濃川川岸で栽培され、この繊維を多くの工程を経て「縮ちぢみ」という麻織物へと加工してゆく。
特に、糸づくりから布に織り上げるまでの繊細な作業は、女性によって支えられていた。
長岡市域では、麻織物が盛んな小千谷などへ納める糸づくりの作業が行われていた。 |
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13山間部と平野部の自然
山間部の自然 |
山間部の自然 |
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東山の昆虫
守門岳の昆虫 |
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平野部の自然 |
平野部の自然 |
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14平野部のようす
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21海岸部の自然
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陸地と海水が接する海岸線には、磯や砂浜などの自然地形と人工の堤防が見られる。
海岸線には寺泊丘陵・弥彦山がせまり、打ち寄せる波が陸地を削り、浸食するため、所々が断崖となっている。
しかし、大河津分水おおこうづぶんすいの火口周辺には土砂が堆積し、陸地が新たに形成されている。
海岸線近くは強風や海水の塩分が、人々の生活に少なからず影響を与えている。このような厳しい換環境にも独特の動植物が見られ、
海上には多くの海鳥の姿を見ることができる。 |
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22海岸部の暮し
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寺泊地域の海岸線は、北は新潟市西蒲区(旧岩室村)との境界にある男釜女釜から、南は三島郡出雲崎町との境界の落水川まで約16kmの長さがある。
現在は単調な砂浜海岸のように見えるが、かつては砂浜があり、岩場がありの変化に富んだ海岸線であった。
大正11年(1922)に信濃川大河津分水路が通水し、大量の砂と淡水が海へと流れ込むようになると、海岸線の地形は変化し、海藻や魚介類の生態も変わった。 |
様々な漁のかたち
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長い海岸線がある寺泊地域には、海を生活の基盤とする漁師が多く暮していた。
漁師は漁場により3つに分けられる。
近海で小舟を使って家族ぐるみでタコ・タイなどを獲る磯見漁師、
大舟で沖合に出てタラ・サバなどを獲る沖漁師、
分水路の河口に漁場をもってサケをとる川漁師である。
このほかに、「小泊漁師」「荒町漁師」のように、地名をあてた呼び名もある。 |
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海岸部のくらし |
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様々な漁のかたち |
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海岸部のくらし |
稲作 |
田植えから収穫までの野道具 |
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23○○○の様子
海岸部の様子 |
寺泊港 |
平野部のようす |
長生橋・大手橋 |
山間部の様子 |
山古志村 |
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30市指定重要文化財
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31市重要文化財
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ここでは、各部門が長年にわたって収集した多数の博物館資料のうち、国の重要文化財に指定されている資料や、研究機関や個人から寄贈された資料などを紹介する。 |
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32東日本の積雪期用具
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重要有形民俗文化財「東北日本の積雪期用具」243点、附改良形用具3点は、昭和24~34年頃にかけて、財団法人積雪研究会の付属機関である積雪科学館が収集した資料がもとになっている。その資料は昭和43年(1968)、積雪科学館の閉鎖により長岡市に寄贈された。
積雪期用具の収集はサハリン(樺太)、北海道、東北地方、北陸地方、新潟県、長野県、岐阜県の広範囲にわたり、用具の地域差を見ることができる。 |
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33藁沓の分類と比較
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ワラグツには、地域の地理的条件や人々の暮らしによって様々な形がある。
下図に示すのはワラグツの分類の一例であり、収蔵資料の内、類似するものを展示している。
採集地域が東北日本でも広範囲に及ぶこれらの資料からは、その形に技術の融合・発達が見られるものがある。 |
㋑「クツ」「ワラグツ」(秋田市仁井田)―タンスッペエ(新潟県北魚沼群湯之谷村)
底部分の外側は草履形、内側は三つ組型と二重に作られている。
㋺「ヘドロ」(秋田県仙北市角館町下延)―ヘドロ(秋田県横手市)
底部分は草履形の一重
㋩「フカグツ」(福島県会津若松市門田町黒岩青木)―ユキグツ(新潟県三島郡越路町岩塚)
つま先から被甲部に掛けて市松状の編み方が見られる。
㊁「ジダシベ」(秋田県横手市十文字)―フカグツ(新潟県長岡市栖吉)
脛巾ハバキ部分が前開きになっており、底は草履形である。
㋭「フカグツ」(富山県富山市百塚)―フカグツ(富山県東砺波郡)
底部分が10cm程と高く、ワラグツでは最も発達した形とされる。 |
ツマカケ、アクトガケ
長岡市栖吉町
アクト:かかとの意味
かかと掛け |
㋑タンスッペエ新潟県北魚沼群湯之谷村
㋺ヘドロ秋田県横手市
㋑タンスッペエ潟県北魚沼群湯之谷村
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㋩ユキグツ潟県三島郡越路町岩塚
㊁フカグツ新潟県長岡市栖吉)
㋭フカグツ富山県東砺波郡
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縄文時代草創期 市指定重要文化財
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100室谷洞窟遺跡出土品 縄文時代草創期 阿賀町室谷洞窟遺跡下層出土
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室谷洞窟は、福島県境に近い東蒲原郡阿賀町(旧川上村)に位置している。発掘調査は昭和35~37(1960~62)年の3か年に渡り、長岡市科学博物館と新潟大学医学部が共同で行った。
洞窟内に堆積した土層は3mにも及び、出土した土器・石器類、獣骨類は28,000点に上る。
このうち、縄文時代草創期から早・前期(約12,000~6,500年前)にかけての主要な遺物1,402点が重要文化財に指定されている。 |
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101
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室谷洞窟出土品 |
上に記述 |
室谷洞窟 |
発掘調査 |
室谷洞窟
下に記述 |
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110室谷洞窟出土物
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室谷洞窟の堆積は、上層(1~5層)と下層(6~15層)に区分された。特に下層には、草創期の土器がまとまって発見され「室谷下層式」と呼ばれる。 |
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111室谷洞窟石器類 縄文時代草創期 阿賀町室谷洞窟遺跡下層出土
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磨石類・石核・不定形石器 |
不定形石器・掻器 |
石鏃 |
石斧 |
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113骨角貝製品 縄文時代早期・前期 阿賀町室谷洞窟遺跡上層出土
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刺突具
加工痕のある骨片
貝器
骨針 |
刺突具
骨針・装飾品・刺突具 |
装飾品・刺突具 |
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115石器類 縄文時代早期・前期 阿賀町室谷洞窟遺跡上層出土
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117石器類 縄文時代早期・前期 阿賀町室谷洞窟遺跡上層出土
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磨製石斧 打製石斧
石錘
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打製石斧 箆状石器
石核 磨石類 |
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130草創期の土器 室谷洞窟遺跡
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深鉢 多縄文系土器
縄文草創期
阿賀町室谷洞窟遺跡下層出土 |
小形深鉢 多縄文系土器
縄文草創期
阿賀町室谷洞窟遺跡下層出土
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深鉢 多縄文系土器
縄文草創期
阿賀町室谷洞窟遺跡下層出土
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注口付深鉢 多縄文系土器
縄文草創期
阿賀町室谷洞窟遺跡下層出土 |
小形深鉢 多縄文系土器
縄文草創期
阿賀町室谷洞窟遺跡下層出土
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尖底深鉢 貝殻沈線文系土器
縄文早期
阿賀町室谷洞窟遺跡上層出土
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市指定重要文化財
140小瀬ヶ沢洞窟遺跡 新潟県東蒲原郡阿賀町神谷甲(楢山区)
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141小瀬ヶ沢洞窟遺跡出土品 縄文時代草創期 約15,000年前
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小瀬澤洞窟は、室谷洞窟と同じく。東蒲原郡阿賀町にある。1958・59(昭和33・34)年に長岡市立科学博物館が発掘調査をおこなった。
縄文時代草創期(約15000年前)を主とする焼く13,000点の遺物が発見された。
土器や石器には多様な種類が見られ、石槍などに旧石器時代の伝統を残しながらも、土器や石鏃の登場は縄文時代の始まりの特色をよく表している。
主要な遺物は1,350点が重要文化財の指定を受けている。 |
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143草創期の土器片 阿賀町小瀬ヶ沢洞窟遺跡出土
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爪形文
押圧縄文
櫛目文 回転縄文 |
爪形文
押圧縄文 |
隆起線文
爪形文
押圧縄文 |
隆起線文
爪形文 |
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145石器類 縄文時代草創期 阿賀町小瀬ヶ沢洞窟遺跡出土
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植刃 |
石鏃 |
植刃 |
植刃 |
石鏃 |
有舌尖頭器 |
棒状尖頭器 |
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有舌尖頭器 |
有舌尖頭器 |
棒状尖頭器 |
尖頭器(石槍) |
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148石器類 縄文時代草創期 阿賀町小瀬ヶ沢洞窟遺跡出土
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石器類 縄文時代草創期 阿賀町小瀬ヶ沢洞窟遺跡出土 |
舟底形石器 |
石核 |
掻器 |
石錐 石匙 |
石斧 局部磨製石斧 |
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200
ユキヒョウ |
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ユキヒョウ
ネコ科ユキヒョウ属の肉食獣で、国際的な希少種である。
ネコ科の動物としてはヒマラヤ山脈など世界で最も標高の高い場所に生息し
、険しい岩場やハイマツの針葉樹林、ステップなどで、おもに中型の哺乳類を捕食する。
断崖を歩く際には、太くてしっかりした足の他に、長くて太い尾もバランスを取るのに適している。
眠るときには尾を口や鼻に被せて、息が凍り付かないように役立てる。 |
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300地学
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301海牛化石
ヒドロダマリス属の海牛 妙見標本の前身復元骨角
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これは長岡市妙見町の白岩層から産出した、ヒドロダマリス属海牛妙見標本の全身復元骨格(実物大)である。
妙見標本は産出部位が限られているので、前身復元骨角を製作するにあたっては、同じヒドロダマリス属の海牛で、年代が近く、産出部位も多い、
北海道滝川市産のタキカワカイギュウの骨格を基本に、妙見表本の特徴的な肩胛骨や全腕骨を加味した。
妙見標本の左前腕骨の手首側の端には関節面があり、その先に手根骨があったことが推測されているが、手根骨も、
さらにその先の中手骨や指骨も未発見のため、この復元では全腕骨までとしている。 |
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310長岡の大地の生い立ち
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今からおよそ2000万年前までは、現在の日本海にあたる海は存在せず、日本列島はユーラシア大陸の一部だった。
およそ2000万年前から、日本周辺の地殻を日本列島とほぼ直交する方向で水平に引き延ばす力が働くようになり、それはおよそ1500万年前(1200万年前の説あり)まで続いた。
地殻を引き延ばす力が働くと正断層が発生して地殻が薄くなり、地殻は次第に沈降して陸地は海に没し、およそ1600万年前には現在の日本にあたる地域は、所々に島のある浅い海が広がるような姿になっていた。
その後、フォッサマグナ付近から西側の西南日本は隆起して陸地となったが、現在の新潟県を含む東日本では地殻の引き伸ばし沈降が続き、
およそ1600万年前には深い海となった。この海は、その後の約1000万年の間に泥質の堆積物で徐々に埋め立てられ浅くなった。
およそ400万年前からは地殻を水平に圧縮する力が強く働くようになり、中越地域では300万年前頃から北北東―南南西方向に軸を持つ褶曲が発達して、丘陵と低地が交互に並ぶ陸地へと姿を変えてきた。
この「長岡の台地のおいたち」展示では、長岡市のほぼ全域が深い海だった頃からの大地の移り変わりを紹介する。 |
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312長岡の大地の生い立ち
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長岡の山地や丘陵に見られる地層は、その大半が海底に堆積してできた地層で、それらの内で最も古い地層は、およそ1400万年前に形成された。
それ以後、陸地からもたらされた泥や砂が次第に海を埋めて浅くなっていった。また、この間、デイサイト質~安山岩質の火山活動も幾度か起こった。確認されている最も古い火山活動は、およそ900万年前のものである。
海には多様な生物が生息・生育していて、それらのうちの一部が死後地層中に残存して化石となった。化石からは、それぞれの生物が生きてい他時代や、その頃の環境を知ることができる。 |
長岡の大地の生い立ち |
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長岡の大地の生い立ち |
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長岡の大地の生い立ち |
長岡地域に分布する地層の層序 |
長岡が海だった頃 |
恐竜の頭の骨と歯
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恐竜の頭の骨と歯
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長岡市全図 |
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319クジラ類の頸椎・耳骨・肋骨 300~400万年前
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硬いノジュールになった砂岩の中に、鯨類の脛骨、耳骨、肋骨の化石が密集している。約300~400万年前に浅い海底に堆積した地層から産出した。 |
クジラ類の頸椎・耳骨・肋骨 |
クジラ類の頸椎・耳骨・肋骨 |
クジラ類の頸椎・耳骨・肋骨 |
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320海牛のいた海 |
321
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新潟地域は、1600万年以上前から海で、特に1500万年程前には深い海だった。
その後次第に堆積物で埋め立てられ、250万年ほど前には水深200mより浅い海となっていた。
そのような浅い海では、多様な生物が数多く生息・生育していた。それらのうちの一部は地層にうもれて化石となり、当時の様子を教えてくれる。
平成16年(2004)に発生した新潟県中越地震は、中越大震災という災禍を引き起こしたが、その一方で、数少ない“遺産”として、我々に海牛の化石をもたらした。この「海牛のいた海」展示では、長岡市妙見町で見つかった海牛の化石を中心に解説を進める。 |
白岩層産出化石
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浅海に堆積した白岩層は、海牛以外にも化石を多産する。これまでに、鯨類、魚類、軟体動物(ヒザラガイを含む)、浮遊性及び底生有孔虫、石灰質ナンノプランクトン、生痕などの化石の産出が報告されている。また、十脚類やウニ類、オニフジツボ、植物などの化石の産出も確認されている。
ここではこれらの化石の一部を紹介するとともに、妙見町の海牛化石産地付近で見られる化石の産出状況をご覧いただく。 |
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海牛のいた海 |
海牛のいた海
上に記述 |
海牛化石の発見と発掘 |
白岩層産出化石
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生態復元図 |
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白岩層と産出化石 |
白岩層 |
白岩層産出化石
上に記述 |
和南津層と
オジャトド化石
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和南津層 |
和南津層 |
オジャトドの化石 |
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火山活動
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守門火山(すもん)は長岡市の東部に位置する第四紀の火山である。
およそ240万年前から175万年前までの約65万年間に2回の休止期を挟んで活動を繰り返した。
噴出物の種類は溶岩、火砕流及び降下火砕物で、これらの堆積は合わせて約30㎦と見積もられている。噴出した岩石の種類は全て安山岩である。
守門火山は中型の成層火山で、火山活動終了後は開析が進み、現在は、北方に開いた馬蹄形の浸食カルデラ地形が見られる。 |
火山活動 |
守門火山
上に記述 |
守門火山 |
栖吉層
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栖吉層 |
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323
海牛化石
白岩層産出化石
オジャトド化石
守門火山噴出物
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330海から陸へ
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東北日本では
、およそ400万年前から地殻を水平に圧縮する力が強く働くようになった。
新潟県の中越地域では、300万年ほど前から北北東―南南西方向に軸を持つ褶曲が形成されて、地形的に高い所と低い所ができるとともに、全般的には隆起して陸地になってきた。この間、海水準が何度も上昇と低下を繰り返し、そのたびに、海水が侵入してきたり、退いて行ったりもした。このような複雑な環境に置かれた長岡の大地には、その記録が地層に残っている。
この「海から陸へ」展示では、浅い海から陸地へと変貌を遂げた長岡の大地を概観する。 |
魚沼層
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魚沼層は、(中略) 前期更新世から中期更新世に形成された。礫・砂・泥からなり、多くの火山砕屑岩層を挟む。
浅海や海岸平野に堆積した地層で、15回以上の海進・海退のサイクルを記録している。 |
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海から陸へ
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海から陸へ
上に記述 |
海と陸を繰り返した頃
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魚沼層
上に記述 |
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海水準変動を記録している魚沼層
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魚沼層が堆積した頃15回を超える海水準の大きな変動があった。
そのうちの一つを記録している地層が、かつて長岡ニュータウン地域の造成工事によって出現した。
現在、国営越後丘陵公園の北に隣接する道路のノリ面になっている所では、長さ約400mにわたって厚さ60m輪超える魚沼層上部の地層が見られ、
陸上で堆積した地層の上位に、海底で堆積した地層が重なり、更にその上位に、陸上で堆積した地層が重なっている様子が見られた。 |
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カタクチイワシ |
鯨類の椎体骨端 |
貝化石 |
密集状態のマガキ
サワグルミ 穿孔貝 |
ブナ属
生痕化石 サワグルミ |
長鼻類の足跡 |
偶蹄類の足跡 |
偶蹄類の足跡
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350塚野山の哺乳類足跡
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長岡市塚野山の |
足跡化石戸中村孝三郎 |
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中村孝三郎は |
蒼い足痕 |
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360陸地になってから
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魚沼層が形成された頃よりも、更に大地の隆起が進むと、やがて、海水準が上昇しても、海が侵入してくることはほとんどなくなった。
その頃、御山層が形成された。一時期、気候が現在よりも温暖になり、御山層の一部で、風化が著しく進んだ。
その後、海水準変動と地殻変動とが織りなす河岸段丘形成の時代を経て、最終氷期の最後の大きな海退(およそ2万年前)以後は、
海水準の上昇に伴って、低地に沖積層が形成されてきている。 |
陸地になってから |
陸地になってから |
陸地になってから |
陸地になってから |
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沖積平野と沖積層 |
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河岸段丘と段丘堆積物 |
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御山層 |
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樹木 |
樹木 |
沖積層の
ボーリングコア |
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370地震地盤災害と地殻構造
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地震地盤災害と地殻構造
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地震地盤災害 |
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盛り土地盤の被害
液状化・流動化被害
斜面崩壊
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断層と褶曲
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考古
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400長岡の歴史 |
401年表
長岡の歴史 |
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旧石器~奈良 |
奈良~鎌倉 |
室町(南北朝)~安土桃山
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安土桃山~江戸 |
江戸~明治 |
明治~昭和 |
大正~平成
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402発掘された長岡 |
403土器
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高坏
弥生時代 横山遺跡 |
火焔型土器
縄文中期 岩野原遺跡 |
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404石斧
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擂鉢すりばち
中世 杉之森遺跡 |
局部磨製石斧
縄文草創期
藤橋遺跡 |
局部磨製石斧
縄文草創期
藤橋蛇新田遺跡・山屋遺跡
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405副葬品
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漆紙文書 古代
門新遺跡
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副葬品 古墳時代
大萱場古墳 |
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420旧石器時代
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421長岡の歴史がはじまる
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今から約16,000年前、信濃川と魚野川の合流点近くに「細石刃」と呼ばれる道具を携えた人々が現れ、狩りや漁の拠点となるムラ、荒屋遺跡を営んだ。長岡に暮らした人々の物語は、ここから始まる。
カミソリの刃のような細石刃は、木や骨などの軸に埋め込まれ、主に槍として使用された。荒谷遺跡から出土する道具の組み合わせは、東日本から北海道、皿には遠くシベリアやアラスカに及ぶ地域で発見されており、人類の移動と拡散の歴史を伝えている。 |
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旧石器時代
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長岡の歴史が始まる
上に記述 |
荒屋遺跡 |
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422細石刃石器群 荒屋型石器群
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430縄文時代
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431花開いた土器文化
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土器の発明は、煮炊きという調理法によって食品リストを増大させるなど、人々の生活に変化をもたらす。
更に縄文人は、土器の造形や文様にもこだわり、力を注いだ。その精華(成果)の一つが火炎土器である。火炎土器が作られた時代になると、馬高遺跡や中道遺跡のような大きなムラが営まれた。
長岡最古の土器は、約13,000年前の西倉遺跡で 発見されている。この時期、土器の形は深鉢1種類だが、約3000年前、藤橋遺跡や朝日遺跡が営まれた頃には、深鉢・浅鉢・皿・壺など、様々な形の土器が使われるようになる。これは、土器づくりの文化の成熟、そして生活の多様化などを示している。 |
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432長岡最古の土器 縄文時代草創期 西倉遺跡
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433 |
433a煮炊具・貯蔵具など 縄文晩期 藤橋遺跡・朝日遺跡・中道遺跡
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煮炊具・貯蔵具など
縄文晩期 藤橋遺跡・朝日遺跡・中道遺跡 |
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435b
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437c
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439d
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440弥生時代
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441狩から稲作へ
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大陸から伝わった稲作は、縄文時代までの狩猟採集社会を農耕社会に変えていく。長岡でも、横山遺跡の様に集落の周りを溝で囲む「環濠集落」や屋舗塚遺跡で見られるような埋葬部分に盛り土をして溝で区画する「方形周溝墓」など、弥生時代特有の遺跡が出土する。
弥生時代には、縄文時代よりもシンプルな文様と多様な形の土器が使われていた。農耕という新たな生活様式を受け入れた弥生時代を基礎として、以後長岡の各地は発展していく。 |
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弥生時代 |
狩から稲作へ
上に記述 |
横山遺跡 |
屋舗塚遺跡 |
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443a煮炊具・貯蔵具など 弥生時代 横山遺跡
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445b
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447c
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450古墳時代
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451古墳が表す支配体制
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権力の象徴として、前方後円墳をはじめとする古墳が全国各地で次々に築造された時代、長岡でも大萱場古墳の様に、小規模であるが地域の有力者のものとみられる古墳が造られた。
土器には弥生時代からの系譜を受け継ぐ土師器と、5世紀以降に登場した灰色で硬質の須恵器がある。主に土師器は食器と煮炊き用に、須恵器は貯蔵用として使用された。また、弥生時代に引き続いて玉作が盛んに行われ、五千石遺跡では制作工房跡が見つかっている。 |
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453a食器類・煮炊具・貯蔵具など 古墳時代 五千石遺跡
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455b
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457c
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460古代
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461律令制の成立と衰退
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大和朝廷が天皇を中心とする律令国家への道を歩み始めた頃、古墳を築いてきた豪族たちは中央政府と結びつきながら周辺地域を支配し、その権力を誇った。横滝山廃寺は、こうして建立された寺院の一つである。
律令制が整うと、現在の都道府県や市町村に当たる国・郡・郷(里)とこれを管理する役所が置かれた。八幡林遺跡には国の出先機関や古志郡の長官「大領だいりょう」の館が、下ノ西遺跡には郡役所の関連施設があったと考えられる。
また、郡の主導のもと、様々な産業が営まれ、篠山窯跡などで須恵器を生産された。
しかし、律令制が崩れると、下ノ西遺跡の役所は衰退し、門新遺跡などに拠点を構えた開発領主が台頭する。 |
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律令制の成立と衰退
上に記述 |
横滝山廃寺跡 |
篠山窯跡 |
門新遺跡 |
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463食器類・煮炊具・貯蔵具など 古代 八幡林遺跡・下ノ西遺跡・門新遺跡遺跡
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食器類・煮炊具・貯蔵具
古代 八幡林遺跡・下ノ西遺跡・門新遺跡遺跡
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465
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467
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470中世
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471もののふが治める
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源平の争乱を経て、武家による政治がはじまる。地頭に任命された武士は自らの領地に住んでムラを支配し、人々は領主の館を中心に村を営んだ。
館の周りには戦いに備えて土塁や堀が巡らされた。中越の霊場・門前町として栄えた蔵王には、南北朝期蔵王堂城が築かれ、現在でも土塁と濠の一部が残っている。一方、ムラの背後の山には、戦闘や籠城に備えた空堀や曲輪が設けられる。栃尾城は険しい地形を利用した壮大な山城である。
戦乱や飢饉などが続き、救いを求める武士や農民たちの間に、座禅を行う禅宗や念仏を唱える浄土系の仏教が広まった。薬師如来や観音菩薩への信仰も盛んで、円融寺の薬師如来像など、多くの仏像が造られた。 |
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もののふが治める
上に記述 |
蔵王堂城跡 |
栃尾城跡 |
円融寺の薬師如来・
日光菩薩・月光菩薩 |
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473食器類・貯蔵具など 中世 中道遺跡・浦畑遺跡
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478
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479中世の井戸跡
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JR長岡駅前の大手通りの地下から出土した中世の井戸跡である。井戸の底には曲げ物を積み重ねた井筒があり、その周囲に柱・桟木・板で方形の井戸枠が組まれている。
井戸枠の上部は、長岡城二の丸を囲む堀が造られたことによって削られており、お城が築かれるよりも前に周辺に人が棲んていたことを示すものである。木製の枠をもつ井戸をつくることは経済的負担が大きかったと考えられ、経済的に力を持った町屋が存在したと推測される。 |
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480戦国時代
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481歴史資料の魅力
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陶磁器類などの生活資料に加えて、紙に書かれた文字が長岡の歴史を力強く語る。
戦国大名 上杉謙信(1530~78年)の時代、長岡では古志郡司長尾氏や河田氏、栃尾の本庄氏、与板の直江氏、寺泊夏戸の志駄氏、刈羽の斎藤氏などの武士が華やかに活躍した。遠く中国や朝鮮半島、東海や北陸、関東、東北地方など日本各地から運ばれたさまざまな品物や行きかう情報。ダイナミックな歴史の動きが中世の長岡を取り巻いていた。
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482銭貨
銭貨の集積 |
日本各地から |
栖吉城跡採集 |
中国・朝鮮半島から |
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河田長親書状
天正2年
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河田長親書状
天正2年(1574)3月24日 |
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490近世 江戸時代
多様な文化の創造
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城下町の長岡(藩主牧野家7万4千石)。与板(藩主井伊家2万石)、商業町の栃尾、港町の寺泊、宿場町の川口・越路塚野山、豊かな山の恵みと共に歩んだ山古志、米作りと文芸が盛んな中之島・小国、ものづくりや和算に秀でた三島、書家としても名高い良寛などユニークな人物が愛した和島。
江戸時代には個性的で多様な文化がそれぞれの地域で生まれた。街並みや暮らしぶりなど、今に引き継画れている長岡らしさが創造された。 |
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近世 江戸時代
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多様な文化の創造
上に記述 |
古志郡内川崎村当納割付事 |
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束帯天神像 |
束帯天神像 |
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510近現代
町の姿の変遷
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520上越線全通記念博覧会
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530長岡の教育
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