この館では、脚注がなく、各コーナーに解説の綴りがありますが、しかし、それは不十分で、脚注には取って代わり得ないものでした。 従って、そのままページを作成すると、単に遺物が並んでいるだけの、全く意味の分からない展示となってしまいます。 ところが、ネット上に「展示解説」が公開されていて、この中では、展示されていない、旧石器~古代までの資料と解説があり、 より幅広く館内展示が理解でき、更に松本平の考古理解に繋がると思います。 来館の際には、、必ず、レシーバー借用をお願いします。。 展示解説は「右クリックで対象をファイルに保存する」ことができます。 |
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10外観・屋外展示 |
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はじめに 展示室に一歩足を踏み入れると、縄文時代のマツリの道具、土偶と石棒があなたを考古学の世界へといざないます。 市内の遺跡では、私たちの祖先が使った様々な道具が見つかります。 彼らはどんな生活を送ったのでしょう。 縄文時代から奈良・平安時代まで、各時代ごとにテーマを設けて、市内の歴史と人々の生活を紹介します。 転載「展示解説」書籍版 |
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20展示室案内 (転載展示解説) |
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松本市内の遺跡 転載展示解説 |
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旧石器時代 (~約12,000年前)
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30縄文時代 約12,000~2,300年前
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30土器の出現
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一軒の家の土器 転載展示解説 一軒の家の中から十数個の土器が出ることがある一方、稀には一つも出ない家もあります。 また何十個とあたかも土器捨場のように多量の土器が折り重なって出たこともあります。 (※廃屋が土器捨て場になっていることがあります。) 牛の川遺跡第6号住居址の場合は下図のようになっていました。 このように一軒の家で使う土器の数はまちまちですが、煮炊き用、貯蔵用などの他、ランプやお祭りに使う特別なものなどと、使いわけていたようです。
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石の道具 狩猟や採集に使われた道具は、石や木、動物の骨や角などでつくられました。松本では石で作った道具―石器がほとんどです。 特に弓矢の矢の先に使った石鏃や土掘りに使った打製石斧は大量に出土しています。その他に食べ物を加工する石皿や磨石などがあります。 こうした石器は、当時の人々の生活を知る貴重なものです。 転載展示解説
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縄文時代 縄文前期から中期にかけては気候が温暖で全国的にも遺跡の数が増大した時期で、松本市内でも縄文時代の遺跡232のうち、中期は121と52%を 占めています。この時代の人々は日当たりがよく、水の便のよい丘陵や台地に小さな集落をつくって暮らしていました。 家は地面を円形に掘りくぼめて、中央に石で囲った炉を作り、4本余りの柱を建て、カヤなどで屋根をふいた竪穴式住居で、 一軒の家で5人余りの人々が生活していたと考えられます。転載展示解説 |
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100縄文時代 (1,2000~2,300年前) は、 土器の発明により食料を加熱して食べられるようになり、弓矢の発明により動物を捕まえる能力が上がり、食生活が豊かになりました。 温暖な気候にも支えられて人口が増加し、中期 (約5,000~4,000年前) にピークを迎えます。人々は竪穴住居に暮らしムラを作りました。 しかし、後期 (約4000年前) になると気候の冷涼化によって次第に暮らしが行き詰まり、人口が減少します。 人々は生活の安定を願って盛んにマツリを行うようになりました。 縄文時代の松本平 縄文時代全6期のうち、前・中期の気候は今よりも温暖で、、東日本では中期に最も文化が栄えました。 松本平でも、鉢伏山をはじめとする東山山麓一帯に大きなムラが次々と作られました。 人々は森に近い、沢沿いの丘陵や台地を生活の場として好んだようです。 |
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101panel |
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102華やかな中期の縄文土器 この時代を代表するものは縄文土器です。中期の縄文土器は華やかで魅力的なものが多いのですが、、時期によって様子はかなり異なります。 展示コーナー前半は、中期前半と中頃の土器、後半は中期後半の土器に分かれています。 違いを見比べて見ましょう。 土器には形や文様に地域ごとの流行があり、人々の広い交流を知ることができます。
なんだろう 深鉢 縄文土器の中で、最も多い土器の形です。主に煮る、炊(た)く、蒸す、蓄(たくわ)えるなどに使われました。 浅鉢 前期に作り始められた形で、食べ物を盛り付けるためで、現在の皿や鉢に当たります。 有孔鍔付土器 展示されている土器は、直立した口にほぼ等間隔で穴が開けられ、その下に鍔がついています。太鼓説と酒作り容器説がある。 釣手土器 中期中頃から後半にだけ作られた極めて特殊な土器です。鉢に把手が付いた形をしています。 内側が煤けており、ランプとして使われたと考えられます。
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105縄文時代中期の土器 |
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縄文時代の松本平 今から12,000年前、長くて寒い氷河期が終わりに差し掛かった頃に、土器や弓矢の発明といった技術革新によって、それまでの旧石器時代とは 一線を画した、縄文文化が成立しました。長野県は縄文文化の栄えた地域で、温暖な気候に支えられて人口が増加し、中期にはピークを迎えます。 土器の出現によって、人々は食べ物を煮炊きし植物を食材に幅広く利用できるようになりました。 また、弓矢は動きの速いイノシシ・ニホンジカなどを捕らえるのに適していました。 人々の生活 食生活が安定し、人々は竪穴住居を建てて定住するようになりました。松本平では、鉢伏山を始めとする東山山麓一帯に大きなムラが作られます。 人々は森に近い、沢沿いの丘陵や台地を生活の場として好んだようです。沢では魚も捕ったのでしょう漁網の石錘が遺跡から出土します。 安曇野市明科北村遺跡の縄文人達は、ドングリやクルミ等の堅果類を主食にしていたことがわかっています。堅果類にはアクの強いものも多く、 縄文土器はアク抜きに重要な役割を果たしたと考えられます。松本市域でも北村人と同様の生活を送っていたのでしょう。 転載「展示案内」書籍版 |
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縄文土器の用途 縄文土器は、前期以降、盛り付け用の浅鉢も使われましたが、全期間を通じて主流だったのが深鉢です。深鉢は、煮炊き、蒸し、貯蔵などあらゆる 目的で使われました。縄文1万年の間に各地でさまざまに発達した土器装飾は、時代や地域を探る手がかりとなっています。 縄文時代中期の土器 縄文土器の特徴は器面を飾る文様です。装飾性を重視した文様は、共同体の仲間意識や祖先との繋がりを示す、精神的な役目があった思われます。 特に縄文文化が隆盛した中期には、土器は大型化し、豪華で複雑な文様が施されました。 中期前半と後半では、土器の様子は異なり、 中期前半には複雑な文様の焼町式土器、勝坂式土器が見られます。一方、 唐草文系土器の文化 中期後半には、松本平から諏訪湖周辺、上伊那地方で独特の土器文化が発達しました。唐草文系土器は樽型の器形をし、植物食料を大量に 煮炊きするのに適していました。遺跡からは根菜類などを掘る打製石斧、木の実をすり潰す石皿やすり石が多く見つかっています。 また、人々の間では、埋甕の風習や、土偶を使ったマツリなどの習慣もありました。埋甕は乳児の胎盤を納めた甕を家の入口などに埋め健康を 願ったとする説もあります。 縄文文化を彩る遺物 大珠(首飾り)や耳飾りなどのアクセサリーや、土偶、石棒、土鈴、ミニチュア土器などのマツリの道具が中期の縄文文化を彩っています。 土鈴は縄文の楽器と言われます。また、有孔鍔付土器は太鼓説、酒造具説があります。これら特殊な道具は縄文文化の成熟を示すものです。 転載「展示解説」書籍版 |
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106中期前半と中頃の土器 約5,000年前から4,000年前 このコーナーの前半では、縄文時代中期前半の土器、後半では中期後半の松本平を中心に栄えた唐草文系土器を主に展示しています。 |
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110縄文人の食糧 縄文人は狩猟採集により、生活していましたが、女鳥羽川遺跡からは鹿、熊、たぬきなどの骨や、ノモモ、クルミなどの木の実が出土しました。 このほか木の芽や草の実などをとって、ナマのままや、焼いたりあるいは粉にしてパン状に加工して食べていたようです。 そのほか、川魚や貝類などもとって食べていました。転載展示解説 |
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111文人は何を食べていた 北村遺跡 (縄文後期:東筑摩郡明科町) では、縄文時代の墓から人骨が見つかりました。 彼らは、栗、クルミ、ドングリなどの木の実を主食にしていました。おそらく松本の縄文人も同じでしょう。
中部山岳地帯の縄文中期の食糧事情は、これ程の惨状である。中期後半から後・晩期にはどれほど激しい食糧不足であったかと思う。 |
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縄文時代中期後半の土器 112唐草文土器 |
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116埋甕 埋甕は住居の入口近くの床面に土器を埋めたもので、胎盤やこどもの骨をその中に入れ、こどもの無事な成長や再生を願ったものであるとか、 家をたてるときの儀式につかわれたものと考えられています。転載展示解説 |
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117釣手土器 |
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118唐草文系土器の文化 縄文時代中期後半、松本平から諏訪湖周辺、上伊那地方で、唐草文系と呼ばれる土器文化が発達した。 唐草文 (つる草) に似た土器文様から名付けられた。 唐草文系土器は、樽に似た形が特徴で、植物質の食べ物などを大量に煮炊きするのに適していました。 更に、この文化は、埋甕や土偶を使ったマツリなどの習慣があったこともわかっています。 |
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119様々な道具 縄文時代には土器の他に様々な道具が作られました。当時の狩りや調理には石器が使われました。 中期の遺跡からは、土堀り具、伐採用斧、ナイフ、木の実を潰す石皿や磨り石が多く見つかっています。 石器の他にはアクセサリー(首飾りや耳飾りなど)や、土鈴、土偶、ミニチュア土器などマツリの道具もありました。 |
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120石の道具 狩猟や採集に使われた道具は、石や木、動物の骨や角などでつくられました。松本では石で作った道具―石器がほとんどです。 特に弓矢の矢の先に使った石鏃や土掘りに使った打製石斧は大量に出土しています。その他に食べ物を加工する石皿や磨石などがあります。 こうした石器は、当時の人々の生活を知る貴重なものです。転載展示解説 |
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130縄文の祭りと人々の願い 縄文時代人々は、自然の恵みに依存した生活の中で様々なマツリを行っていました。遺跡からはこの時代に特有な土偶と石棒が出土します。 土偶の多くは女性の姿をし、妊娠した様子のものもあります。ほとんどが壊れて見つかることから壊されて役目を終えたようです。女性的な土偶に対 して石棒は男性器を象徴しています。中期には大型のものが作られましたが、後・晩期になると小型化し、作りが精巧なものへと変化していきます。 土偶は植物の豊かな恵みを願う女性的なマツリに、石棒は動物など山の恵みを願う男性的なマツリに使われたと考えられています。 転載「展示解説」書籍版 |
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131土偶コレクション 土偶は縄文時代特有の土製の人形です。多くが女性の姿をしており、妊娠した様子のものもあります。 土偶が完全な形で見つかる例は少なく、ほとんどが壊されています。 使い方については、植物の豊かな恵みを願う「女性的なマツリ」の道具とする説が有力です。 |
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132精神生活 縄文時代の人々にとって、天災、病気、死などに対する恐れ、驚きはつよく、なにかにすがることが必要だったと思われます。 土偶は女の人を表わした土製の人形で、体の一部をもぎとって、病気やケガをした人の身代わりとされたり、豊かな実りを願ったものと 考えられています。転載展示解説 |
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134女鳥羽川遺跡 縄文時代後期・晩期 |
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140石棒 石棒は狩りの成功や食料の獲得のために祈るお祭りに使われたものと考えられています。転載展示解説 石棒は縄文時代特有の遺物です。女性的な土偶に対して、動物など山の恵みを願う「男性的なマツリ」の道具だった説が有力です。 中期の石棒は目の粗い石を使った大きなものが多いのに対して、 後期からは緻密な石で丁寧に作られた小さいものが多くなります。 |
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エリ穴遺跡 エリ穴遺跡は今から4500~2300年前の縄文時代中期から後期に栄えた集落遺跡です。東山山麓に端を発する塩沢川と舟沢川にはさまれた 狭い台地上にありました。1995年の発掘では住居やゴミ捨て場、祭祀の跡が見つかりました。 当時は寒冷化し、集落の規模は縮小し、数は減少の一途を辿りました。生活環境が悪化し人口が減っていく中エリ穴ムラは約2千年間存続した。 ゴミ捨て場からは大量の遺物が見つかりました。土器や石器の生活道具の他に、アクセサリー類、マツリや祈りに用いた土偶や石棒です。 ムラの生活 一時期にムラにあった家は2、3軒、住人はせいぜい10人程だったでしょう。彼らは磨製石斧で切り出した木材で建てた竪穴住居に居住。 大量の石鏃や打製石斧、すり石、石錘が見つかっており、生活秤に重点を置き、時には魚を捕りながらも、植物採集が重要でした。 さまざまなマツリ 厳しい環境ゆえ、自然の恵みを期待してマツリや祈りが行われ、石を配した祭祀遺構や土偶・土版・石棒・石剣・石刀が多く見つかっています。 中でも人面付土版は、護符で、女性の全身像を表した珍しい例です。遮光器土偶は、東北地方の亀ヶ岡文化に特有の土偶です。 東北や関東の土器も見つかっており、人々の活発な交流を窺うことができます。 大量に出土した耳飾り 土製耳飾りは、縄文後・晩期に東日本で流行した装身具です。文様や大きさは様々で、徐々に大きさを変える儀礼の道具だったと考えられます。 エリ穴では約2500点の土製耳飾りが見つかり、全国的にも屈指の出土量です。 エリ穴遺跡は、生活の場であると同時に、周辺のムラから人が集まってマツリを行った地域の拠点的なムラだったと考えられます。 転載「展示解説」書籍版 ※2~3軒10人程度の居住者で2000年間存続した。膨大な量の、耳飾りや土偶から、ここが居住する祭祀施設であったとしている。 しかし、あらゆる大きさ、様々な意匠の耳飾りは、様々な人々によって作られたことを意味する。 不用になったらお札(おふだ)を返却するみたいにここで捨てたのだろうか。 デザインは様々だが、大きさの揃った土偶は、複数の土偶製作者に見本が示され、用途が限定されていたことを示している。なんだ、これ。 展示解説書籍版 |
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エリ穴遺跡とは 松本平を代表する縄文時代後・晩期の遺跡です。生活道具の他に、女性の全身を表した人面付土版や、全国で屈指の出土量を誇る 土製耳飾りなど、マツリの道具が数多く見つかっています。これら儀礼やマツリの道具が数多く見つかっていることから、周辺のムラから人々が 集まってマツリをした特別なムラでもあったと考えられています。(引用) 松本平を代表する縄文後・晩期の遺跡です。気候の寒冷化によって人口が減っていく中、このムラは、1,200年もの間続きました。 当時の地域の中心となるムラだったと考えられています。 調査では、生活道具の他に、儀礼やマツリの道具が多く見つかっています。 エリ穴遺跡周辺のムラから人が集まって祭りをした特別なムラでもあったと考えられています。 |
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153土製耳飾りは、 縄文時代後・晩期の東日本で流行しました。エリ穴遺跡では、全国でも屈指の量が見つかり、特別な遺跡だったことがわかります。 デザインは様々で、作りの細かいものや簡単なものがあります。大きさは直径7mm~10.5mmのものまであります。 耳たぶに穴をあけて付け、だんだん大きいものへと変えていったと考えられます。 |
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170エリ穴遺跡出土物 |
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171土器とジオラマ |
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172石器 |
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175アクセサリー エリ穴遺跡 (松本市内田) 縄文後期~晩期 約3,000~2,500年前 土製耳飾り 口径 約1cm~10cm 土製耳飾りは縄文時代後期末から晩期にかけて関東地方を中心とした東日本の各地で流行します。 子供の頃、耳たぶに穴を開け、小さなものからはめ込んで通過儀礼の折に、順次大きなものへと付け替えていったのでないかと考えられています。 エリ穴遺跡では臼形、リング形を主に、彫りが施されたものなど、精粗さまざまあり、朱で塗られたものも多く出土しました。 |
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176祭祀具 |
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177土偶 長野県内最多の360点出土 |
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178人面付土版 エリ穴遺跡
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179配石遺構と人面付土版 |
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200弥生時代 約2,300~1,700年前 |
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弥生時代の始まりと弥生文化の定着 弥生前期 弥生時代、米作りが大陸からもたらされ、全国各地に広がりました。松本市内からは水田跡は見つかっていませんが、 稲を刈る石包丁や炭化米が出土しており、米を作っていたことが明らかになっています。 弥生時代の始まり 市内で米作りが始まった頃、人々は米作りに適した湿地を求めて移住していました。針塚遺跡はその頃の遺跡です。 東日本に特有な再葬墓が発見されました。再葬墓は埋葬した死者の骨を土器に納めて再び埋葬した墓です。 墓近くの焚火跡に遠賀川式土器が置かれていました。 遠賀川式土器は、弥生時代前期に九州から東海地方まで分布した、弥生文化到達の目安となる土器です。 再葬墓に使用された土器には東海地方の土器の影響を受けたものが含まれ、弥生文化は東海地方を経由して松本にもたらされたことが わかります。 針塚遺跡の発掘によって長野県の弥生時代の始まりが弥生前期まで遡ることが判明しました。 弥生文化の開花 中期 中期の終わり頃になると、人々は、大きな湿地の広がる現市街地周辺に稲作の適地を見つけ、本格的な稲作文化が花開きました。 現在、市内では水田跡は確認されていませんが、モミ跡の付いた土器や稲穂を刈る石包丁など稲作を行っていた証拠が見つかっています。 この頃、ようやく長期間継続する大きなムラが形成されるようになります。 百瀬遺跡は中期から後期にかけての大きなムラの遺跡の一つです。昭和26年の発掘で初めて弥生時代の住居跡が発見されました。 住居跡からは中期の甕・壺・高坏など生活に必要な土器がまとまって見つかりました。弥生時代以降、器は種類が増え、煮炊き・貯蓄・盛り付けと 用途に応じて形を作り分けるようになりました。百瀬遺跡の土器は百瀬式土器と型式設定されました。 大陸から来た新しい文化 米作りの技術と共に、大陸から新しい磨製石器(石包丁・伐採用の太型蛤刃石斧など)や金属器(青銅器と鉄器)、織物の技術がもたらされました。 磨製石器は市内でも多く出土していますが、金属器は僅かしか見つかっていません。 青銅器は当初実用でしたが、次第に大型化して祭器へと変貌しました。宮渕本村遺跡では銅鐸の一部画家見つかっています。 銅鐸は青銅製の釣鐘で豊かに実りを願うマツリに使われたと考えられています。 境窪遺跡では布目痕のある土器や紡錘車が出土しています。糸を紡ぎ布を織る技術によって人々の衣服も大きく変化したことでしょう。 稲作のもたらした階層社会 一方で稲作は、ムラや人々の間に貧富の差を生じさせ、ムラには権力を持った指導者が現れて社会は階層化し、土地や水を巡るムラ同士の争い も起こるようになった。石剣・石戈は武器である銅剣・銅戈を真似た祭器で、出土点数は僅かです。支配者の権力を示すものだったのでしょう。 戦いの道具と言われる磨製石鏃が市内のムラでも製作されていました。ムラはやがてまとまりをもちクニへと発展しました。 転載「展示案内」書籍版 |
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弥生時代 紀元前3世紀以降、稲作、金属器の使用・製作、紡織技術などを伴った新しい文化が大陸から北九州へ伝えられました。 そして、この文化は急速に日本の各地に広がっていきました。 これ以後紀元3世紀後半頃までを弥生時代といい、その文化を弥生文化と呼んでいます。 弥生時代は前・中・後期に分けられていますが、松本平に弥生文化が達したのは、前期の終わり頃だと考えられています。 この時代の人々は、稲作に適した低地に水田を営み、近くの小高い場所に集落(ムラ)をつくるようになりました。 縄文時代からの狩猟・採集に加えて、米づくりをするようになったことで、人々の生活は安定し、ムラは次第に大きくなっていきました。 その一方で、貧富の差がうまれ、力のある者は指導者となり、弥生時代の終わり頃にはさらに大きな地域(クニ)をまとめていくようになりました。 転載展示解説 |
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弥生時代の家 あがた遺跡8号住居址 あがた遺跡 - 全国遺跡報告総覧 転載展示解説 モミ跡の付いた土器 弥生時代の土器は使いかた(用途)に応じ次のようなものが作られました。. 煮炊きをするための土器…………………甕 貯蔵するための土器・………・……………・壺 盛る、ささげるための土器………・鉢・讐環 文様は当初、縄文土器の伝統を強く残していましたが、新たに櫛状のもので描く櫛描文がさかんに用いられるようになりました。 弥生土器のなかにはモミあとのついているものもあり、当時米作りが行われていたことを知る手がかりとなっています。
以下転載展示解説 石器から鉄器ヘ 大陸からは稲作の技術とともに新しい道具―石器が伝えられました。弥生時代の人々は、大陸系の磨製石斧で木を伐採・加工し、 木製農耕具(クワ・スキなど)を製作し、田を耕しました。そして、秋には石庖丁で稲の収穫が行われました。 これらの石器も、弥生時代中ごろからの鉄器の普及によって、次第に姿を消していきました。 磨製石鏃 弥生時代の石鏃では、縄文時代からの打製石鏃に加えて磨製石鏃が新しく登場します。中部地方から出土する磨製石鏃には、 中央の下側に穴があけられているのが特徴です。 大陸系の磨製石斧 縄文時代の磨製石斧にかわって新しい磨製石斧が大陸から伝えられました。 太形蛤刃石斧……………・伐採用 柱状片刃石斧………・木材加工用 扁平片刃石斧…………木材加工用 これらの道具はセットで畔板や木製農具の製作に使用されたと考えられています。 石庖丁- 稲の収穫具 当時は稲の穂首を摘んで収穫しました。中央の孔は指かけの紐を通すためのもので、中部地方には一孔の石庖丁が多くみられます。 紡錘車 植物の繊維に撚りをかけて糸を紡ぐときのはずみ車として使われました。この他に、土器の底部に残された布の圧痕をとおして弥生時代の 紡織技術を問接的に知ることができます。 鉄鏃・骨鏃 弥生時代の道具は石だけでなく、骨・角・鉄・青銅などで様々なものが作られましたが、錆びたり、族iったりして、発見されるものはごく一部です。
以下転載展示解説 銅鐸とムラの祭り 弥生時代の人々は、大地の霊に豊かな実りを祈ったり、感謝をするために、共同で祭りを行ったと思われます。 宮淵本村遺跡で発見された銅鐸はこうした稲作にかかわる祭りで使われたものと考えられています。銅鐸は本来、祭りのときに鳴らす鐘でしたが、 後には大形化していくとともに、聞くものから見るものへと変化していきました。 武器形石製品 宮淵本村遺跡や付近の城山周辺では石剣・石戈などの武器形石製品が出土しています。これらの中には実際の武器としてではなく、 祭祀に使われるものもありました。
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以下転載展示解説 再葬墓 里山辺の針塚遺跡では、松本平に最初に弥生文化が達した頃の再葬墓が発見されました。 再葬墓とは、葬られた人が骨になってから、壺や甕に骨を納め穴に埋めなおしたものです。. 針塚遺跡では5基の再葬墓から12個の土器が出土しています。 前期の土器 針塚遺跡の再葬墓―土墳4の南からは遠賀川系と呼ばれる壺形土器が発見されました。 この上器は弥生時代前期に、九州から東海地方において多く分布しているものです。 胎土分析の結果、地元の土でつくられたものとわかりましたが、松本平への弥生文化の流入を考える上で貴重な資料になりました。 方形周溝墓 寿・赤木山の白神場遺跡からは、溝を方形にめぐらした中に埋葬施設をもつ墓―方形周溝墓が3基発見されました。 残念ながら、伴出遺物がなくこれらのつくられた時期は確定できませんでしたが、弥生時代から古墳時代にかけての松本平の墓制を考える 上で貴重な遺跡であるといえます。 |
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弥生時代は、大陸から伝わった新しい文化-コメ作りと金属器によって、採集から農耕中心の生活に変わりました。 人々は水田のある湿地の周辺にムラをつくり、モミを入れる壺や稲穂を刈る石包丁など新しい道具を使うようになります。 米作りは生活の安定をもたらしましたが、やがて米や土地、水をめぐって貧富の差やムラとムラの対立が生まれ、戦いが始まります。 力の強いものによるムラの支配は、やがてクニへと発展していきます。女王卑弥呼の率いる邪馬台国はそうしたクニの一つと考えられています。 |
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201針塚遺跡・百瀬遺跡 約2,300年前から1,700年前 弥生時代、人々は、米づくりに適した低湿地に生活の場を求めて暮らしていました。 松本市内で見つかっている里山辺の針塚遺跡は、弥生時代前期の遺跡で、弥生時代の始まりを示す遠賀川式土器が出土しています。 この他、弥生時代の生活や文化など、当時の暮らしの様子をうかがえる資料も展示しています。(引用常設展示案内) 松本市内で見つかっている里山辺の針塚遺跡は、弥生時代前期の遺跡で、弥生時代の始まりを示す遠賀川式土器が出土しています。 (引用施設案内) |
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210針塚遺跡 弥生時代前期 |
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211弥生時代の松本平 弥生時代、大陸からコメ作りがもたらされ、各地に広まりました。 市内では今のところ、コメ作りの水田跡は見つかっていませんが、稲穂を刈る石包丁や炭化米が出土しており、米作は明らかです。 市内で弥生時代が始まった頃の人々は、米作りに適した湿地を求めて移り住んでいました。 中期の終わり頃、大きな湿地の広がる現在の市街地に米作りの適地を見つけ、本格的な稲作文化が開花しました。 安定してコメを作れる場所を見つけて定住した後、米作りが定着したようです。 |
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212針塚遺跡とは 市内で弥生時代が始まった頃の遺跡です。 当時の墓 (再葬墓) が5ヶ所発見されました。骨壺として使われた土器には、東海地方の影響を受けたものや遠賀川式土器が含まれていました。 即ち、弥生文化は東海地方を通って松本にもたらされたことがわかります。土器の一部は山辺学校歴史民俗資料館にも展示されています。 遠賀川式土器 福岡県遠賀川川底の立屋敷遺跡出土の土器にちなんで名付けられました。 弥生時代前期に希有集から東海地方に広く分布し、弥生文化がその地域に伝わった目安となる土器です。 針塚遺跡の発掘によって、長野県の弥生時代の始まりは前期までさかのぼることが明らかとなりました。 |
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215再葬墓に使われた土器 |
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216土器2 |
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220百瀬遺跡は、 中期から後期にかけての大きなムラの跡です。ここでは、松本平で初めて弥生時代の家の跡が見つかりました。 家の中からは中期の甕・壺・高坏などが沢山出土し、「百瀬式土器」として型式設定されました。 |
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221解説
大陸の文化がやってきた 米作りの技術と共に、朝鮮半島から新しい磨製石器 (石包丁・木を削る斧等) や金属器 (青銅器・鉄器) がもたらされた。 磨製石器は市内でも多く出土しますが、金属器は僅かしか見つかりません。 宮渕本村遺跡では銅鐸の一部が見つかっています。 銅鐸は青銅の吊り鐘で、豊かな祈りを願うマツリで使われたと考えられています。はじめは音を鳴らすための小さな鐘でしたが、 次第に大きく作られるようになり、見るための鐘になりました。
弥生土器ってどんな土器? 稲作文化と共に発達した土器で、縄文土器と比べて形や文様がとても簡素です。 ■回転台を使って作られたことと、櫛で描いた文様が特徴です。 ■弥生土器は用途に応じて、はっきりと形が決まっていました。 1877年(明治10) 東京都文京区本郷弥生町で、初めて見つかったことにちなみ、地名を取って名付けられました。 |
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224道具 |
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以下、既出ではありますが転載します。 226石器から鉄器へ 転載展示解説 大陸からは稲作の技術とともに新しい道具―石器が伝えられました。 弥生時代の人々は、大陸系の磨製石斧で木を伐採・加工し、本製農耕具(クワ・スキなど)を製作し、田を耕しました。 そして、秋には石庖丁で稲の収穫が行われました。これらの石器も、弥生時代中ごろからの鉄器の普及によって、次第に姿を消していきました。 大陸系の磨製石斧 転載展示解説 縄文時代の磨製石斧にかわって新しい磨製石斧が大陸から伝えられました。 太形蛤刃石斧……………・伐採用 柱状片刃石斧………・木材加工用 扁平片刃石斧…………木材加工用 これらの道具はセットで畔板や木製農具の製作に使用されたと考えられています。 武器形石製品 転載展示解説 宮淵本村遺跡や付近の城山周辺では石剣・石戈などの武器形石製品が出土しています。 これらの中には実際の武器としてではなく、祭祀に使われるものもありました。 石庖丁 転載展示解説 稲の収穫具。当時は稲の穂首を摘んで収穫しました。中央の孔は指かけの紐を通すためのもので、中部地方には一孔の石庖丁が多くみられます。 |
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227 磨製石鏃 転載展示解説 弥生時代の石鏃では、縄文時代からの打製石鏃にカロえて磨製石鏃が新しく登場します。 中部地方から出土する磨製石鏃には、中央の下側に穴があけられているのが特徴です。 紡錘車 転載展示解説 植物の繊維に撚りをかけて糸を紡ぐときのはずみ車として使われました。 このほかに土器の底部に残された布の圧痕をとおして弥生時代の紡織技術を問接的に知ることができます。 鉄鏃・骨鏃 転載展示解説 弥生時代の道具は石の他、骨・角・鉄・青銅などで様々なもので作られたが、錆びたり、腐ったりしてしまい、発見されるものはごく一部です。
銅鐸とムラの祭り 転載展示解説 弥生時代の人々は、大地の霊に豊かな実りを祈ったり、感謝をするために、共同で祭りを行ったと思われます。 宮淵本村遺跡で発見された銅鐸はこうした稲作にかかわる祭りで使われたものと考えられています。 銅鐸は本来、祭りのときに鳴らす鐘でしたが、後には大形化していくとともに、聞くものから見るものへと変化していきました。
以上、反復して引用しました。 |
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300古墳時代 約1,700~1,300年前 |
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古墳時代の幕開け ―弘法山古墳― 古墳時代前期 国史跡 弘法山古墳 三世紀後半から七世紀まで、大規模な墳丘を持つ豪族の墓・古墳が全国で造られました。 弘法山古墳は全長60mを超す松本市内最大の前方後円墳です。三世紀末、古墳時代の初めに造られた東日本最大級の古墳の一つです。 中山丘陵の尾根の先端に位置し、墳頂部からは松本市内を一望できます。遺体を納めた竪穴式の礫槨の内部には、鉄器(剣・鏃・工具)、 青銅器(鏡・鏃)、ガラス小玉が副葬され、被葬者の力の大きさが伺えます。 被葬者の人物像 礫槨の上に供えられた土器には、手焙形土器や東海地方西部に特有のパレス式土器が含まれ、被葬者は東海地方の勢力と関係が強い人物 だったと考えられます。 また、弘法山に対峙する棺護山の中山36号墳からは、4世紀前半の土器や弘法山古墳と同系統の銅鏡が出土しています。 土器の年代から見ても、弘法山の被葬者の後継者の墓と位置付けられています。 弘法山古墳の意義 当時、大王を中心としたヤマト政権は地方の豪族と手を結び、国造りを進めていました。彼らの関係を示すのが前方後円墳や三角縁神獣鏡を はじめとする鏡です。長野県内では、4世紀の前方後円墳は善光寺平に多く、北信濃がシナノ支配の中心だったのでしょう。 弥生時代後期に遡ると、南信濃の天竜川流域には東海系の土器が流入していました。 弘法山古墳の存在はヤマト政権によるシナノ支配以前に、いち早く東海の勢力が松本や天竜川流域へ勢力拡大を図っていた証拠でしょう。 転載「展示案内」書籍版 |
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古墳時代 紀元3世紀末~ 4世紀初頭以降、日本の各地で土を盛り上げてつくった墓―古墳がつくられるようになりました。
小規模な円墳です。この頃になると古墳の被葬者層は首長だけではなく、その下の有力者たちにも広がっていきました。 また、新村では一般に古墳がつくられなくなる8世紀以降にも古墳がつくられたり、追葬が行われていました。 古墳時代の大半の人々は、竪穴式住居からなる集落を営み、鉄製農耕具により田畑を開発していったと考えられていますが、 松本ではこの時代の集落の様相はまだよくわかっていません。 転載 展示解説 |
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古墳時代 古墳時代はヤマト政権が地方の豪族と手を結ぶことでクニをまとめ国家を作った時代です。 古墳は大王(おおきみ) や豪族が自分のためだけに作った大きな墓で、前方後円墳はその大表的なものです。 この時代の人々は竪穴住居に暮らしていましたが、5世紀には大陸から新しい文化が伝わり、カマドで炊事をしたり、 個人が使う食器が現れ、食生活が変化します。また、農具や土木技術の発達によって土地の開発も進みます。 |
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301市内の古墳 約1,700年前から1,300年前 松本市内では、出川南遺跡をはじめ古墳時代のムラ跡や、古墳も数多く残っています。展示室には、庶民の暮らしで使った生活道具、古墳に副葬 されていた土器や、武器、装飾品など展示しており、当時の暮らしや文化について考えます。(引用施設案内) 出川南遺跡 出川南遺跡 出川南遺跡 |
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310古墳時代の松本平 市内の古墳を時期別に見てみましょう。前期の古墳は非常に少なく弘法山古墳群の中山36号墳が知られているだけです。 中期には城山、浅間、里山辺、出川など開発が進んだ地域に古墳が作られました。 後期には、入山辺の南方古墳など大きな横穴式石室を持つ古墳が築かれ、中山には小さな古墳が盛んに造られ、墓地として利用されました。 新村の安塚、秋葉原古墳群は、奈良井川西岸地域の開発を進めた人々の墓と考えられます。 |
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312
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313古墳の形 古墳の形は主に前方後方墳・前方後円墳・円墳・方墳の4種類です。名前は墳丘の形を元にしました。 市内では、今のところ前方後円墳は見つかっていません。 古墳の中には、石室など死者を葬る部屋が作られました。 前期には、石室は一人のためだけに造られた竪穴式でしたが、後期以降、家族を後から葬ることができる横穴式石室へと変わりました。 |
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314古墳前期の土器 土師器 白神場遺跡 |
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古墳時代の松本市 古墳時代中期 市域における古墳の変遷1 古墳時代前期、弘法山古墳と中山36号墳に続く古墳は、現在確認されていません。 中期には城山、浅間、里山辺、出川など開発が進んだ地域に古墳が造られました。 桜ヶ丘古墳 浅間温泉にある桜ヶ丘古墳は松本市を代表する古墳の一つです。短甲・衝角付冑・鉄剣といった武器・武具に加え、金銅製天冠が副葬され、 中期(五世紀後半)の古墳と判明しました。短甲や衝角付冑は県内でも出土例は少なく、天冠は県内唯一の事例です。 天冠は一般的に、ヤマト政権から地方豪族へ与えられた品と言われ、古墳の被葬者がいかに有力だったかを考えさせます。 墓制の変化 古墳は主に、前方後円、前方後方、円墳、方墳の四種類です。前期には前方後円・前方後方墳が造られましたが、次第に前方後円が主流になり 大型化します。後期には王に限らず、有力者たちが小型の古墳を造り、古墳群が形成されました。 内部構造も、個人用の竪穴式石室が、後期以降、家族を追葬できる横穴式石室へと移行します。 王(被葬者)の人物像 副葬品の種類や組み合わせにも変化が見られます。 前期の鏡・玉などは、中期以降の武器・武具・工具・玉類・馬具へと変わり、王の性格が呪術的な人物から武人へと変わったことを示します。 市内における古墳の変遷2 古墳時代後期 後期には入山辺の南方古墳など大きな横穴式石室を持つ古墳が築かれ、中山には小さな古墳が盛んに作られます。 中山古墳群では多くの馬具が出土しており、奈良・平安時代の埴原の牧に繋がる馬飼い集団の存在が推測されています。 終末期(7,8世紀)、畿内では古墳築造は終焉をむかえます。しかし、松本市内では、新村の安塚、秋葉原古墳群(8世紀)が見られます。 これらは奈良井川西岸域の開発を進めた人々の墓と考えられます。 古墳時代のムラと人々の生活 前期に小さく散在していたムラは、中期になると水田に適した湿地の周りに大きく作られるようになりました。 中期に畿内の生活用具や習慣が東日本にも広がり、竪穴式住居にカマドが造られるようになります。 画一的な土師器が全国的に普及し、弥生時代に見られた地域性は次第に失われていきました。 後期には灌漑技術の進歩によって開発が進み、各地に大きなムラが次々と現れました。家や倉庫として使われた掘立柱建物も急に増え始めます。 新しい須恵器の登場 須恵器は中期(5世紀)に朝鮮半島から伝えられた新しい焼物です。専門の職人によって窯で焼かれ、硬質で灰色をしています。 古墳時代に於いては高級品で、多くは古墳の副葬品に使われました。 出川の平田里1号墳では、埋葬に伴って墳丘や周溝に供えられた高坏・坏・壺・ハソウのセットが見つかっています。 市内では珍しく埴輪が配された古墳として注目されます。 転載「展示解説」書籍版 以降、内容に重複が見られます |
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古墳時代中期の副葬品 315副葬品 |
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316装飾品 |
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317馬具 |
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318大刀 |
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320松本市内の古墳 古墳時代の人々 前期のムラは小さくあちこちに点在していましたが、水田に適した湿地の周りに大きなムラが作られます。 この頃から、竪穴住居にはカマドが作られ、食生活も変わりました。 後期には、水を引く技術の進歩によって、開発が進み、各地に大きなムラが次々と現れました。 家や倉庫として使われた、新しい建物(掘立建物)の数も急に増え始めます。
土師器と須恵器 古墳時代には、弥生土器の系統をひく土師器とよばれる素焼きの上器が使われました。また、 古墳時代の中頃には、大陸から伝えられた技術によって、堅くて丈夫な灰色をした焼き物―須恵器が作られるようになりました。 しかし、須恵器は当初は人々の手に入りにくく、日常生活に使われることは少なく、多くは古墳の副葬品として使われました。転載 展示解説 |
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321土器 |
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325埴輪 平田里古墳出土品 古墳時代中期 平田里古墳群 平田里古墳群2 埴輪と、墓前に供えられた須恵器 |
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326古墳時代後期土器 出川南遺跡の土器 古墳時代後期 古墳時代後期の土師器・須恵器 |
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弘法山古墳は、4世紀半ば頃築造。全長63メートルの前方後方墳です。この規模の古墳では、東日本で最古級のものとして知られています。 埋葬施設は深さ1メートル、長さ5.5メートル、幅1.5メートルの竪穴式の礫槨です。松本市内を流れる梓川、奈良井川、田川、薄川の川原石が 使用されていることから、被葬者はこの周辺を治めた人物だったのかもしれません。 土師器の壺や高坏などの土器、剣や鏃、やりがんな、鉄斧などの鉄製品、鏡や鏃の青銅品、ガラス小玉などの出土資料を展示しています。 (引用常設展案内) 古墳時代の始め、ヤマト政権は地方の王と手を結び、国造りを進めました。彼らの関係を示すのが墓(前方後円墳)や鏡です。 長野県では前方後円墳の多く残る善光寺平 (長野盆地) が支配の中心だったようです。 弘法山古墳は、それよりも前に、東海地方の勢力が松本や天竜川の流域と結んでいたことを示しています。 副葬品 鏡1、ガラス小玉481、鉄剣3、鉄斧1、銅鏃1、鉄鏃21以上、土師器(壺・高杯・器台・手焙り形土器 副葬品 転載 展示解説 豪華な副葬品2 -土器以外の副葬品- 鉄器 剣、鏃などの武器と工具である斧・槍鉋が出土した。鏃や斧には木や布が僅かに付いていました。 もとは、布に包まれ、、木箱に入っていたのでしようか。 ガラス小玉 コバルトブルーと淡い緑色をしたガラス小玉は石室内の3ヶ所からまとまって出土しました。数や位置からガラス小玉は首飾りと腕飾りで、 主が身に着けていたと考えられます。 銅鏃は、主に4世紀の古墳から出土しています。先が丸く、実用的ではありません。呪術的な性格の強いものと考えられています。 ※武器信仰は、銅剣・銅鉾・銅戈は知っていましたが、銅鏃も信仰の対象とは知りませんでした。 銅鏡 半三角縁四獣文鏡です。「上方作竟自有□青□左城乕右」の文字が刻まれ、上方(中国の官営工房)製で日本渡来しました。 |
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331解説 |
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332副葬品 中山36号墳 中山36号墳は、弘法山古墳と和泉川の谷を隔てた棺護山に築かれた方墳です。古墳からは4世紀後半の畿内系の土器、東海地方の土器の 特徴を持つ土器、弘法山古墳の鏡と同系統の鏡が見つかりました。中山36号墳に葬られた人は弘法山古墳の後継者と考えられています。 円墳 直径15m高2.5m 粘土槨? 遺物 鏡 (「宣□□上方作党自有紀」銘)、 土師器 壺、鉄製品
中山36号墳
弘法山古墳 半三角縁四獣文鏡 「上方作党自有□青□左白斤居右」の銘をもつ舶載鏡。鏡面には赤色顔料が付着していました。直径11.65cm。(引用常設展案内) ガラス小玉※ コバルトブルーと淡緑色をしたガラス小玉は、石室内の3箇所からまとまって出土しました。 数や位置から考えて、これらのガラス小玉は首飾り・腕飾りとして使われたものと考えられています。 (引用常設展案内) |
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340副葬品 |
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341弘法山古墳副葬品 古墳時代前期 |
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350弘法山古墳 3世紀後半に造られた東日本でも最古級の古墳です。全長60mを超える前方後方墳で、頂上からは市内を一望できます。 古墳の主は鏡や剣など多くの副葬品と共に礫槨に葬られました。強い権力を持った人だったに違いありません。 長野県での古墳時代の始まりを調べるのに重要な遺跡として、1976年に国指定史跡になりました。 今では桜の木々が植えられ、桜の名所になっています。 礫槨 川原石などを使って、木製の棺を置く部屋を作ったもの。 |
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351弘法山古墳 副葬品-その1 古墳の主はどんな人物だったのでしよう。その答えは土器にあります。 礫槨の上には、東海地方西部の影響をうけた土器が供えられていました。主は東海地方の勢力と関係の強い人物と考えられます。 壺 弥生時代後期の東海地方西部に特有の、パレス・スタイル式と呼ばれる土器の影響を受けています。 赤い着色と、口の形、櫛状の道具でつけられた文様が特徴です。 手焙形土器 手を温める手焙に似た形をしています。東海から中国地方にかけての弥生時代後期の遺跡で多く見つかります。 何に使われたかはよくわかっていません。 |
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352副葬土器 弘法山古墳 古墳前期 壺※(土師器 壺形土器) 竪穴式石室の直上にあたる位置からは葬送儀礼で使われた土師器の壺・高不・器台・手焙り形土器が出土しました。 これらのなかには東海地方西部との関係の強い土器があり、古墳の性格を考える上で大きな問題をなげかけています。 (引用常設展案内) |
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360弘法山古墳の土器 |
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361古墳の特徴 弘法山古墳 形状 前方後方墳 (古い古墳の特徴で、広報部が前方より高くなっている。) 長さ66m 立地 尾根の先端にあり、松本平を一望できる。 |
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365中山36号古墳 古墳時代前期 4世紀後半築造 中山36号墳は、弘法山古墳と和泉川の谷を隔てた棺護山に築かれた方墳です。古墳からは4世紀後半の畿内系の土器、東海地方の土器の 特徴を持つ土器、弘法山古墳の鏡と同系統の鏡が見つかりました。中山36号墳の被葬者は弘法山古墳の後継者と考えられています。 円墳 直径15m高2.5m 粘土槨? 遺物 鏡 (「宣□□上方作党自有紀」銘)、 土師器 壺、鉄製品 転載 展示解説 |
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浅間温泉東南の丘陵端に位置する古墳で、昭和35(1960)年に発掘調査されました。 墳丘の中央の、副葬品を納めるための副室をともなった河原石積みの石室からは多くの装身具・武器・武具が発見されました。 特に、天冠は大陸文化の影響を受けている貴重なもので県宝の指定をうけています。5世紀末から6世紀前半の築造と考えられています。 円墳:径18m 高4m 竪穴式石室? 遺物 衝角付冑1、短甲1、頸鎧1、鉄刀1、鉄剣5、鉄鉾1、鉄鏃数個、天冠1、竹櫛1、勾玉1、丸玉9、小玉35、日玉5 (引用常設展案内) 桜ヶ丘古墳とは、 桜ヶ丘古墳の第一発見者は中学生でした。古墳上部は崩れており、アリの研究をしていた時に偶然、石室を掘り当てたのです。 その後の発掘調査によって大小の石室があったことがわかりました。 冑と短甲、鉄剣、玉類や天冠など多くの副葬品が見つかり、中期(5世紀後半)の古墳であることがわかりました。 桜ヶ丘古墳出土品は、長野県宝に指定されています。 |
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372解説
天冠 天冠はハチマキ状の帯に飾りをつけた冠です。近畿地方を中心に、全国的に見つかっています。 長野県では桜ヶ丘古墳でしか見つかっていません。桜ヶ丘古墳の天冠は金銅製です。 天冠は一般的にヤマト政権から地方豪族に与えられたといわれています。 金銅製の冠は朝鮮半島南部の伽耶地域とのつながりが強く、この時代の海を越えた交流を物語っています。 短甲 短甲は胴体を覆うよろいで、腰のくびれが目を引きます。おもに前期から中期に作られました。 桜ヶ丘古墳の短甲は、長方形板革綴短甲と言い、横長(長方形)の鉄板を革ひもで綴じたよろいを井もします。 古墳時代でも古い形のよろいです。完全な形ではなかったので、石川県羽咋市柴垣丸山古墳の出土品をモデルに復元されました。
衝角付冑(しようかくつきかぶと) 古墳時代中期から後期にかけて使われたかぶとです。卵を縦割にした形と額に付いた舟のへさきのような板が特徴です。 桜ヶ丘古墳のものは、三角板革綴衝角付冑と言います。 三角形の鉄板を革ひもで綴じ合わせてあります。冑には革ひもが部分的に残っています。 この形の冑は長野県では桜ヶ丘古墳でしか見つかっていません。
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374副葬品
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※以下は、「展示解説」に掲載されたその他の古墳の図・写真・文です。本文中に多数引用していますが、まとめて引用します。 | ||||||||||||||||||
385妙義山古墳群 転載 展示解説 浅間温泉の南、大村東方の丘陵端部に3基の古墳が築かれています。1号墳は、直径32~ 35mの円墳で、墳丘斜面には葺石がみられます。 内部構造や副葬品はわかっていませんが、墳丘規模の点からかなりの有力者だったのではないかと考えられます。また、 203号墳は、1号墳の陪塚的な性格が考えられます。特に2号墳の石室内からは3体の人骨とともに多くの装身具・武器・馬具が出土しています。 埴輪 古墳の墳頂部や段になっているところに埴 輪を巡らす古墳は各地でよくみられます。 埴輪には、筒形の胴部をもつ円筒埴輪、人・動物・器材を模した形象埴輪があります。 しかし、松本平では埴輪を伴う古墳についてはほとんど知られていません。 |
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386中山古墳群 転載 展示解説
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柏木古墳 (中山古墳群) 転載 展示解説 中山丘陵の東斜面に位置する古墳で、6世紀後半頃築造の、中山古墳群のなかでも古いものです。大正14年に発掘調査。 横穴式石室からは多くの副葬品が出土しました。 その出土状態は発掘した人たちによって詳細な図が残され、中山古墳群のなかでも構造・出土状態が判明している数少ない古墳のひとつです。 円墳:規模 直径17m 高さlm 構造 横穴式石室 遺物 勾玉12・管玉3・切子玉6・小玉・丸玉25・金環・銀環15・直刀4・鉄鏃53・轡4・辻金具3・ 須恵器(高杯4・提瓶1・皿1・壷1)、 土師器(高不2・皿1・魅1) 土師器と須恵器 古墳時代には、弥生土器の系統をひく土師器と呼ばれる素焼きの土器が使われました。 また、古墳時代の中頃には、大陸から伝えられた技術によって、かたくて丈夫な灰色をしたやきもの―須恵器が作られるようになりました。 しかし、須恵器は当初は人々の手に入りにくく、日常生活に使われることは少なく、多くは古墳の副葬品として使われました。 武器・武具・馬具 古墳の副葬品のなかには金銅技術や象嵌技術を用いてつくられた武具・馬具があります。 柏木古墳からは、金環・銀環のほか、鉄地金銅張りの辻金具、銀象嵌の刀装具・鍔が出土しています。 また、実用には適さない長刀(直刀)が出土しており、古墳の被葬者がかなりの有力者だったことをうかがわせます。 |
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389終末期の古墳 転載 展示解説
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400奈良・平安時代 約1,300年~800年前 7世紀の後半以降、中央集権化がすすむと地方は整備されて中央とのかかわりを強くしていきました。 現在の松本市は、信濃の国の筑摩郡の一部になりました。8世紀の終り頃には国府が上田から移り、松本は政治の中心になりました。 また、信濃の国には朝廷に納める馬を飼育する16の牧がおかれ、中山の埴原の牧にはこれらをまとめる牧監庁がありました。 奈良・平安時代には中国にならった都がつくられ、政治・文化の中心となりました。 都は碁盤の目のように整然と区画され、役所をはじめ貴族の屋敷や瓦ぶきの寺院が建ち並んでいました。 まちの中では定期的に市が開かれ、各地の産物が集まり、多くの人々が行きかって活気に満ちていました。 このような貴族のはなやかな生活に対して、多くの庶民達は厳しい税のとりたてや労働をしいられるなど、苦しい生活を送っていました。 奈良・平安時代の遺跡は現在の集落とほとんど重なっており、その数は168と多く、また最近の発掘調査によって更に増加の傾向にあります。 (引用展示解説) 奈良・平安時代は中国の政治制度にならって都を中心とした国づくりが進められました。政治の実権を握った天皇は律令によって地方をおさめ、 各地からの租税で財政をまかないました。 各地には信濃国のように国が置かれ、国司の指示で土地開発がすすめられますが、やがて貴族による私的な開発によって荘園が生まれます。 政治の実権も次第に貴族へと移り、手を結んだ地方の有力者は栄華を極めました。地方の庶民は竪穴住居にくらし、厳しい生活を送りました。 |
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401須恵器
窯跡出土の須恵器 焼けてゆがんだり、土器と土器期が焼け付いてしまった失敗品。 |
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410古代の開発 約1,300年前から800年前 奈良や京都に都が置かれた時代の松本平に暮らした人々の生活や、当時の中央との地方の関係などについて紹介します。 古代の鍵(海老錠)がかかったケースをあけると、中には、松本市で出土した実物の海老錠や緑釉陶器、硯などが展示されています。 その他、開発に使われた農耕具、個人用として使用され始めた食器なども展示しています。(引用施設案内) 仏教伝来と人々の願い (仏教公伝:日本書紀では552年 元興寺縁起では538年) 仏教は古墳時代後期に日本に伝えられ、都の貴族に受け入れられました。 その後、地方へも広まり、市内でも仏像や瓦塔、「卍」や「寺」と書かれた土器がムラの跡から見つかっています。 人々の間には、土器に文字を書いて、豊かな財産を願うまじないもあったようです。 |
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412解説 瓦がごろごろ 瓦が日本に伝わったのは6世紀。仏教が伝来し、都を中心に建てられ始めた寺院の屋根を飾るものでした。 瓦葺の屋根はとても重く、建物には太い梁と太い柱が必要です。その建築には高度な技術が求められ、寺院や役所などに限られていました。 大村遺跡では古くから瓦が見つかっており、寺があったと考えられました。今回の鴟尾(しび)と瓦の発見は、その可能性を高めました。 仏教の広まり 都を中心として広がった仏教は、やがて地方にも伝わり、多くの人々の間で信仰されるようになりました。 また仏教のほかにも神や民間信仰が信じられ、それらに関係する物が遺跡から発見されています。 松本では仏具として用いられた奈良三彩の小壺や銅の鋺(かなまり)、小形の仏像などのほか、骨を入れた大甕や壺などが出土しています。 くまのかわ遺跡 では鉄鐸が出土しましたが、これは塩尻市北小野の小野神社の宝物にあるように、神を招く時の儀式に使われたものと 考えられています。 (引用常設展案内) 奈良三彩の小壺 小壺は回径3.6、底径4.2、器高3.7cmで回縁から肩にかけて欠けていますが、緑、褐色、自の三色の釉(うわぐすり)が美しい薬壺です。 三彩は都で作られたもので、長野県下で三点しか出土しておらず、ごく限られた者しか所有出来なかったものと思われます。(引用常設展案内)
瓦の種類と使用法 ①鴟尾 奈良東大寺の屋根の両端に乗っているシャチホコに似たものがシビです。飛鳥~平安時代まで作られた屋根飾りです。 水に住む魚の形をしているとも言われ、建物を火災から守るために載せられました。 ②平瓦と丸瓦 平瓦は屋根全体を覆うように並べられた瓦です。平瓦のつなぎ目に置かれたのが丸瓦です。 ③軒丸瓦と軒平瓦 軒先を飾った瓦です。花の模様などが造り出されました。 生活を支えた道具 開発を支えた人々の生活はどうだったのでしょう。彼らは竪穴住居で暮らし、カマドで煮炊きをし、自分用の食器で食事をしていました。 また、稲刈り鎌や、鍬や鍬の先には鉄の刃が付けられました。 ムラ跡から見つかる使い込まれた砥石からも鉄器が日常的に使われていたことが伺えます。 陶器 古代には中国との国交が始まり、政治や文化、青磁などの品々が伝えられました。 青磁は貴族たちの間でもてはやされ、それを真似て国内では緑釉陶器や灰釉陶器がつくられました。 ・磁器の一つ。青緑色のガラス質の釉薬がかかった焼き物。 灰釉陶器 植物の灰で作った釉薬を掛けて焼かれたもの。はじめは高級品でしたが、大量生産されて次第に庶民へも広まっていきました。 緑釉陶器 鉛と銅を混ぜたうわ薬をかけて焼かれたもの。古代を通して焼き物として、もてはやされました。 |
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413須恵器の生産と灰釉陶器 土器は古墳時代に引き続いて、土師器と須恵器が使われていましたが、次第に須恵器の占める割合が多くなってきました。 9世紀に入ると松本の北東の山地でも須恵器が生産されるようになり、現在数十のカマ跡が残っています。 その頃、寺院や役所では須恵器の系統をひく釉薬をかけた灰釉陶器が使われ始めました。 農村では平安時代の中頃になってから使われるようになりました。(引用常設展案内)
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430北方遺跡出土の大甕 北方遺跡では、3基の大きな須恵器甕が、三角形の位置関係で見つかりました。 大甕の内部からは、大甕自体の破片や焼けた跡のある石、炭化物が見つかりました。そのうち1基の大甕は、上方の胴体部分が割れ、蓋状に 覆い被さって出土しました。 使用されていた当時は、甕の上部が地上に出た状態で埋め込まれていたと考えられます。しかし、用途については、明らかになっていません。 埋葬用の棺だとした場合、墓の盛り土が付近にあったと考えられますが、確認されていません。 貯蔵用だとした場合、骨臓器の外容器、染料や水等の液体貯蔵用器、人糞等の肥甕などが考えられますが、特定されていません。 |
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440大村遺跡 |
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441panel
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442奈良・平安時代の寺院の瓦 大村遺跡 平安時代 |
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443古代の食生活 | ||||||||||||||||||
444食生活 |
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460平安時代のカマド 高畑遺跡の住居跡から、平安時代のカマドの痕跡が発見されました。発掘されたカマドの石を使い、当時の様子を再現しています。 焚口に基礎となる石を立て、その上を粘土で固め、上部には煮炊き用の土器を置くための穴を開けます。 焚口から地面は、赤く焼けた焼土が出土しました。 生活の基本となる「食」。このカマドで、平安時代の人々はどんな料理を作っていたのでしょう。 |
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470川西開田遺跡 古代・中世 |
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471鍛冶遺跡 鉄の道具 鉄の道具は古墳時代の中頃に大陸の影響を受けて改良されて以来、奈良・平安時代にいたるまで大差ないものが使われました。 松本では鉄製のU字形の刃先をつけたクワやスキ、鎌などの農具のほか、刀子、紡錘車、火打ち金具などが出上しています。 このようにこの時代には多くの鉄製の道具がつくられて、広く生活のすみずみまで使われていました。(引用常設展案内) ふいご 鉄を作ったり加工するときには加熱して鉄を溶かします。この時、人工的に風を起こして火を強くする道具がふいごです。 ふいごの羽口は、炉の中に送風する部分に取り付けられたものです。 古代の生産の道具 |
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480地域中山の考古学 松本市立考古博物館が建つ中山では遺跡がたくさん見つかりました。 特に向畑遺跡は、縄文・古墳・奈良・平安・中世にわたる複合遺跡として、其々の生活の跡が残されていました。 |
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481古墳の副葬品
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482地域中山の考古学 考古館の建つ中山地域は遺跡の宝庫です。縄文時代に多くのムラが栄えますが、弥生時代にはほとんど生活の跡が見られません。 古墳時代には再びムラが作られますが、中期以降は墓地として利用されました。 奈良・平安時代は埴原の牧があったと考えられますが、その時期のムラは見つかっていません。 戦国時代には市内でも大きな埴原城が作られました。 向畑遺跡は、中山を代表する遺跡の一つです。4つの時代の遺構が重なる複合遺跡です。 ・第1段階 -縄文時代中期初め 8軒の住居跡が見つかり、小さなムラがあったことがわかりました。 ・第2段階 -古墳時代前期 弘法山古墳と同時期の大きなムラの跡で、この遺跡が最も栄えた時期です。 風当たりの強いこの土地になぜ大きなムラがあったのか謎です。 ・第3段階 -古墳時代中期 台地の西に、15基の古墳が相次いで造られます。1つの集団によって代々造り続けられようです。 ・第4段階 -鎌倉~室町時代 非常にたくさんの墓穴が密集して見つかりました。副葬品はほとんどなく、庶民の集団墓地だったと考えられます。
埴原の牧 平安時代に書かれた「延喜式」によれば、長野県には16ヶ所の牧 (天皇の馬を育てる牧場) が置かれていました。埴原もその1つです。 その場所は、「埴原」の地名が残り、牧場に適した場所であることなどから、中山の埴原(古屋敷、千石、乾田)と推定されます。 埴原の牧 平安時代朝廷専用の牧場 (勅旨牧てしまき) が設けられ、信濃には16の牧がつくられ、これを統括する牧監庁(もくげん)が埴原牧におかれました。 牧監は国司に準ずる権力を持ち、都から赴任しました。 牧監庁跡は考古博物館の北西に接し、昭和39年の発掘調査によって礎石群が発見され、間口9間(16.2m)奥行3間(5.4m)の建物址であることが 確認されました。 牧場は鉢伏山山麓西側と、中山丘陵の間にひろがっていたものと思われ、南の古屋敷と千石地籍には冬季間馬を追込む繋飼場跡があり、 6段のテラスが残っています。(引用常設展案内) 埴原城 戦国時代の山城で、その規模は林城(里山辺)と並ぶほどの大きさです。今も多くの郭や掘、飲用の湧水、石垣などが残っています。
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484信濃国府 国の東北地方を治める政策の一つとして信濃に国府がおかれ、8世紀の終わり頃上田から松本に移ってから、およそ400年間にわたって信濃国の 政治の中心として栄えました。 国府は中央の都を小さくしたもので、国庁を囲んで8町(872m)四方、あるいは6町(654m)四方の街で、松本では (1)大村説、(2)惣社説、(3)筑摩説、(4)深志説 があって、実際にはどこにあったのかまだわかっていません。 そのため、市教育委員会では昭和57(1982)年から5年間にわたって、惣社周辺を中心に発掘調査をしましたが、奈良・平安時代の住居址の発見は あったものの、国府の存在を証明するような遺構・遺物は何も出ませんでした。(引用常設展案内) 信濃国府推定地(引用常設展案内) |
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年表(引用常設展案内)
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490向畑遺跡 |
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491①縄文時代 |
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492②古墳時代 |
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493③古墳後期~中世 |
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500館内全景 | ||||||||||||||||||
511 |
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512 |
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530年表 |
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540松本文化財マップ | ||||||||||||||||||
541遺跡マップ |
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542松本市内の主な史跡
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